2015年12月15日火曜日

十年ぶり?の「草庵」

1.振り返って「草庵」
 探蕎会が発足したのが平成 10 年 (1998)、寺田現会長による「探蕎会の足取り」を見ると、探訪したそば屋に「草庵」の名が出てくるのが4回ある。初見は翌 11 年 (1999) 6月、参加人数は不明だが 20 名近くはいたろうか。その時の印象が良くて、平成 12 年 (2000) には、故波田野会長と太田世話人の計らいで、「蕎麦・月・琵琶を賞ずる夕」という粋な催しが草庵の協力で開催された。蕎麦を食べるだけではなくて、少々は文化の薫りも味わおうという趣旨だったように思う。それでその後このような会の催しは松田世話人が中心となって、「蕎麦花茶会」として探蕎会での恒例の行事となった。この内、草庵を会場として開かれたのは、平成 15 年 (2003) と、翌 16 年 (2004) に開かれた「蕎麦三彩茶会」のみで、以降に草庵でこの茶会が開かれたことはない。しかしこの間、北國文華の主催で、蕎麦にまつわる座談会が持たれたこともある。この店は鶴来町の山手にあって、車でないと行くには不便な立地であるにもかかわらず、会員の方々もよく利用されたようだ。その当時はまだそば屋の数も今ほど多くはなく、加えて人気のある店だったこともあり、特に休日には門前市をなす盛況ぶりで、食べるには記帳した後、玄関脇の待合所か外で待つのが半ば常習化していた。私は会の事務局長の前田さんともよく出かけたし、家内とも度々出かけたものだ。しかし、ある時を境にして、前田さんも私たち夫婦も、時期や動機はそれぞれ違うが、ぷっつり行かなくなってしまった。あれからもう十年近くになる。
 家内は「そば」は大好きだが、探蕎会の行事には頑に参加することを拒否する。唯一、総会に家内の1年後輩の横山さんを私に代わって総会の講師にお呼びしたときは、横山さんからのお誘いもあり出席してくれたが、それ以外は一切参加していない。「そば」より皆さんへの気配りに気が重いとのことだ。でも「そば」は好きで、時々は私とも、また家内の友達とならば食べ歩いたりする。それにしても彼女の「そば」に対する感覚は私より数倍鋭く、それは視覚、嗅覚、味覚で顕著である。であるからあして、彼女とは県内のかなりのそば屋を巡ったが、彼女のお眼鏡にかなって、またぜひ行きたいという店はそんなに多くはない。逆に二度と行きたくないという店の方が多いかも知れない。私がまあまあと思って次に行こうとしても、家内が「うん」と言わないと二人では行けず、お一人でお好きなようにとなってしまうのが落ちだ。そんな中の1軒に「草庵」が入ってしまったのである。

2.久方ぶりの「草庵」
 亡くなった叔父の相続のことで N さんに大変世話になった。この N さんの亡くなった父親は県会議員で薬剤師であったことから、私がまだ石川県に奉職していた頃は、県庁勤務薬剤師会の顧問として大変世話になったものだ。そんな縁もあって N さんとは親しい間柄でもある。以前にも何回かそば屋へお誘いしたこともあり、今度も御礼に何処かまだ一緒に行ったことがないそば屋へ誘おうと思った。この方は大変立派な体格をされているが、お酒を飲まれないので、一寸一献というわけには行かないのが難である。あまり遠出するのも気が重いので、近くで座敷にでも上がって、落ち着いて食べられるとすると、例の一件があって以降全く行っていない「草庵」を思いついた。N さんは行かれたことがあるとは言われるものの、お酒は口にされないので、大概は「そば」だけを食べられるとかで、では「つまみ」も賞味してもらおうと思った。家内が草庵を避けるきっかけとなったのは「そば」であって、「つまみ」はどちらかというと全てではないにしろ上の部類の評価であった。家内に相談したら、案の定「お好きなように」とのこと、それで実行することになった。
 10 月 25 日の水曜日に N さんに 10 時半に拙宅へ来てもらうようにお願いした。車はランクルの 4.5 L、草庵へは 11 時に着いた。まだ他には誰も来ていない。私が店を覗くと、おカミさんが薪ストーブに薪をくべておいでた。「あら、木村さん、お久しぶりね」と。もう十年近くも失礼しているのに、よくぞ覚えておいでたと感心した。11 時半からですとのことで、後ほど来ますと店を出た。往時は平日でも列ができたこともあったのにと思ったものだ。加賀一の宮がすぐ近くなので、白山さんにお参りがてら行き、時間を費やす。開店 5 分前に戻ったところ、程なくお入り下さいと娘さんから連絡があった。
 まだ他には客はなく、私たちは座敷に上がる。N さんは店内奥にある土蔵のテーブル席を見て、初めてだと言われていた。注文は二人とも「鴨せいろ」にする。その前に「つま」として、焼きみそ、天ぷら盛り合わせ、出し巻き玉子、にしん煮を注文した。この中では特に「にしん煮」は以前から定評ある逸品である。N さんはお茶、私は八海山の冷酒をもらう。N さん、驚いたことに「焼みそ」は初めてとか、お酒に縁がないと、これだけを食べるという機会はないかも知れない。にしん煮も好評だった。身体が冷えたので今度は萬歳楽の燗酒を貰う。つまみがなくなり、鴨ロースを追加する。話の中で、N さんの親友の息子さんのお嫁さんが鶴来のそば屋さんから来ているとのこと、来られたおカミさんにこのことを話すと、正にそうだった。この日も娘さん達が手伝っていたが、長女は嫁ぎ先の飲食店が忙しくて手伝いに来てもらえませんとのこと、縁は異なものと感じた次第だった。締めに「鴨せいろ」を頂く。鴨は少々硬めだが、国産とかならば上等の部類だろう。N さんも満足してくれた。1時間半は居たろうか。帰りにおカミさんから、「今度は奥さんとも来て下さい」と言われた。

2015年12月5日土曜日

「のとじ荘」と「そば」と「ジンベエザメ」(翌日)

11月23日 内浦海岸から能登島へ 水族館と「槐」
 翌朝は曇り空、淡く太陽が見えたが一時だけ、明るくなって風呂へ行く。今朝は入る湯は昨日と反転、私は大浴場へ、家内は露天風呂へ。この風呂の家内の印象はサインは V だった。さて私たちは毎朝NHK の連続テレビ小説を見ている。日曜を除く毎日、7時 15 分から NHK-BS で、既放映分と新放映分とを各 15 分ずつ放映している。ところで今放映している両方とも興味津々で、毎日かかさず観ている。もっともそれは現放映のドラマがたまたま興味あるからであって、いつもそうとは限らない。また現在放映の既放映のドラマは、私がまだ勤務していた頃のらしく、余り記憶にないこともあって、こちらも内心できるだけ観たいと思っている。しかしこの宿では BS 放送はなく、したがってこの日は8時から放送の現放映のドラマのみしか観られないことになる。そんなに執心するのなら録画すればよいのだが、でもそのレベルには達していない。それで食事は7時 30 分の予約、早々に済ませてテレビの前へ。何とも我ながら滑稽だ。
 チェックアウトは 10 時、9時半頃宿を出た。今日は時間もあり、曇り空だが雨は落ちていないので、久しぶりに内浦の海岸沿いに車を走らせることにする。能登半島周回の国道 249 号線を南下、恋路海岸を過ぎた辺りから海岸沿いの県道 35 号線へ、道路は狭いが、九十九 (つくも) 湾、小木港、真脇遺跡、遠島山公園を経て能登町宇出津へ、ここから再び国道に戻り、海岸桟敷の七見 (なごみ) から曽山峠を越えて中居湾へ、ここではボラ待ち櫓が見られる。穴水城跡がある小さな尾根を越えると、穴水の街に入る。ここ穴水湾は能登牡蠣の産地、至るところに牡蠣が食べられますという看板が乱立している。穴水から国道を七尾へと南下する。能登大仏、桜のトンネルで有名なのと鉄道の能登鹿島駅、能登小牧台を過ぎると、道の駅なかじまロマン峠に着く。ここから能登島へ渡る。
(1) のとじま水族館
 時間はそろそろ正午、能登中島と能登島を結ぶツインブリッジのとを渡り能登島へ、当初は向田でそばでも食べて水族館へと思っていたが、家内は腹がへっていなくて食べられないかも知れず、あんただけ食べればとの御託宣、せっかく紹介したいと思っていたのにこの口上、それでは先に水族館で腹ごな
 ししようということに変更した。前に来たのは随分昔のこと、あの頃は今は目玉にもなっているジンベエザメは居なかった。駐車場から随分歩いて入口へ。入ってすぐに「ジンベエザメ館 青の世界」、青い照明の巨大水槽、大きなのが2尾、成長すると 10m を超えるとか、一度大きくなり過ぎて海へ返したと
いう記事を読んだことがある。シュモクザメやエイ、ほかにもアジだろうか小魚の群れも見えている。初めは大水槽を上から、徐々にらせん状に通路を下へ下がりながら見られるようになっている。次の「回遊水槽」では、ブリ、シマアジ、ヒラマサ、カンパチ、それにマダイの遊泳が観られる。多くのいろんな環境での魚が観られる幾つもの水槽が並んでいて、実に楽しい。また以前にはなかった「クラゲのアート」には、沢山の変わったクラゲが飼育されていた。次いで「イルカたちの楽園」という光が射し込むトンネルがある大水槽、七尾湾にもいるというバンドウイルカやマゼランペンギンの遊泳をトンネルから見上げて観ることができる。さらにゴマフアザラシの水中遊泳、愛嬌のあるラッコ水槽やコツメカワウソの水槽、約1万尾のイワシの群泳など、以前にはなかった展示に感嘆した。
 午後1時から「イルカ・アシカショー」があるというので、ショーが観られる観覧席へ行く。初めにカリフォルニアアシカの素晴らしい演技、よくぞ仕込んだものだ。大喝采である。次いでバンドウイルカとカマイルカ3匹のショー、あの豪快なジャンプもさることながら、お客さんから投げられた輪を上手に受け取る仕草など、なかなかの頭脳だ。久しぶりに童心にかえって、海や川の生き物たちと向き合えた。
 (2)  生蕎麦 槐 (えんじゅ)
 午後2時近くになり、水族館を出て向田に向かう。ここは旧能登島町の役場があった場所、県の職員であった頃に何回か訪れた。目的のそば屋の「槐」はもう2度も訪れているので、難なく行けると思ったが、見当たらない。旧役場まで走り、これでは行き過ぎと、ここでナビを入れる。電話番号では駄目で、番地を入力すると、600 m 戻りなさいとの指示、今度は例の小さな表示を見つけて、どうにか着いた。すると玄関には「今日のそばは終了しました。またのお越しを」との張り紙、駄目もとで中へ入って尋ねると、更科と変わりそばが少しありますとのこと、それを頂こうと部屋へ上がった。先客が1組いた。奥さんでは更科が 1.5 人前 (1回分)とあと変わりそばが少々あるとのこと、今日は中島菜切りですと。それで更科と中島菜切りをもらうことに。変わりそばは更科を打つ店でないと出せない品、どうして打つのかと訊くと、ミキサーで粉砕して加えるとかだった。中島菜は地元の産である。暫くして、珠洲焼と思しき菊縁の丸い皿に簀の子を敷き、そこにてんこ盛りにした更科と中島菜切り、両方とも 1.5  人前のうず高く盛られたそば、更科は細くて白く、変わりそばは更科よりやや中細の濃い緑色、芸術品の風格がある。更科には蕎麦の香りはないにしろ、口にすると喉に滑り込んでゆく感じ、また中島菜切りは、菜の新鮮な香りが鼻を楽します。二人で半分半分ずつ食した。この変わりそばはお品書きには記されていない。家内はもう一つ頼もうという。異論はない。訊くと変わりそばならありますという。家内はつい2時間前にはお腹が減らず、食べられないかもとのことだったが大変身、結果として 4,5 人前を食べたことになった。満足して外に出た。
 (3) 道の駅/能登食祭市場
 槐を出たのが午後3時近く、向田から県道を南下し、島の南岸を西へ、そして能登島大橋を渡って和倉温泉へ、そして能登食祭市場へ向かう。県外ナンバーの乗用車やバスも見受けられる。市場は人でごった返していた。この時期ズワイガニや香箱が目立つ。私は酒のつまみに黒づくりと場違いな白山市美川のフグの身と真子の糠漬けを求めた。こうして能登への二人の旅は終わった。

2015年12月4日金曜日

「のとじ荘」と「そば」と「ジンベエザメ」(初日)

 11 月 25 日に珠洲へ橋本先生を訪ねて、宿舎の「のとじ荘」で懇談した。この宿舎、元はありきたりの国民宿舎だったが、3月に改築新装なって、見違えるようなスマートな施設になった。家内にこのことを話すと、ぜひ一度行きたいという。それじゃと家内が2日フリーになる 11 月 22・23 日にと、早速ダメもとで問い合わすと、丁度1室空いていますとのこと、ラッキーだった。

11月22日 一路珠洲へ 途中「あい物」へ
 宿舎のチェックインは午後3時、車で寄り道しても3時間ばかり、昼はどこかでそばを食べることにして、午前 11 時に家を出た。いつものように山側環状道路から のと里山海道へ、道の駅高松で小休止の後、家内の同意を得て今浜の「あい物」へ向かう。というのも家内のそばへのシビアさは私の比ではなく、一度お眼鏡に叶わないと、以後は絶対行かないという頑固さである。このそば屋は私が一度エスコートしていて、OK の店である。開店は 11 時だが、混んでいれば待てばいいとのことで、その覚悟で行く。入ると丁度カウンターが2席空いていて掛けられた。この後すぐに客で一杯になって待つ人も出たものの、天気も良く待つのは苦にならないようだ。「天ざる」を注文する。今日は休日とあって、カウンター越しの厨房には5人がてんてこ舞いしていた。程なく注文の品が届く。ここのそばは打ち立て、私たちが居る間にも次の客にそばを打っておいでた。だからここでは売り切れ終いということは到底ないということだ。飛び切りの上ではないにしろ、美味しく頂けるそばだ。この前の音楽会で、波田野教室で一緒だった、今は津幡町で小児科を開業している先生に会ったところ、、実家に近いこの店を大変贔屓にしていると話していた。 
 のと里山海道に戻り北上する。別所岳 SA で休憩し、展望台へ上がって七尾湾を見下ろそうかと話していたが、つい通過してしまい、「まれ」の曲が響いてきて、それと気付いたが、もう後の祭りだった。それではと、のと里山海道から高架橋を渡って珠洲道路 (のとスターライン) に入り、道の駅「能登空港」で時間を費やすことにする。着いたのは午後1時少し前だった。ここから珠洲までは 50 分位、それで空港内をブラつくことに。送迎の展望ロビーへ上がる。飛行場全体が見渡せ、そこには遠景のパノラマが描かれたパネルがあり、これを見て驚いた。もっとも遠くまで見渡せる日でないとダメだろうが、方角的には南南東に当たると思われる方向に、後立山連峰の白馬岳 (2937)、五竜岳 (2814)、鹿島槍ヶ岳 (2889)、その手前に立山連峰の剣岳 (2999)、立山 (3015)、薬師岳 (2926) が見えるという。今日は生憎の薄曇りで見えていない。また南の方角には、近くは能登島、和倉温泉、ツインブリッジのと、山では左から石動山 (465)、遠くに白山 (2702)、その右に宝達山 (637) が見えるとある。初めてのこととてこれには驚いた。いつかその景観を観たいものだ。
 午後2時過ぎに空港を出た。後は快適な珠洲道路を東へ、途中サルビアが道の両側に植えられたサルビアロードを通る。途中道の駅「桜峠」に立ち寄り、後は珠洲までノンストップ、快適に走って、珠洲市宝立町鵜飼にある珠洲温泉のとじ荘には3時少し前に着いた。駐車場に車を停め、時間前だったがチェックインできた。部屋は2階海側の 209 号室だった。部屋はベッドと畳の和洋室、すぐ近くに海が見える。ベランダに出ると、右に見附島、島は一見軍艦の船首にも見えることから、別名軍艦島の異名を持つ。沖の浅瀬には鳥が群がっている。その右には鳥居と小さな社、風があり、海がざわついている。鳥は白っぽいのはカモメだろうが、黒っぽいのは何という鳥だろうか。宿の人では今の寒い時期になるとやって来るとかだった。
 夕食は午後6時にする。十分時間があり、取り敢えずは風呂へ。この時間、絶景露天風呂の「弘法の湯」は男湯、大浴場の「見附の湯」は女湯、海と島と海鳥、そして港と航行する大型船などを見ながら湯を楽しんだ。上がって部屋でテレビを観ながら、持参のボジョレ・ヌーヴォで喉を癒す。つまみはブルーチーズ、家内からあまり飲まないようにと注意を受けたが、知らず知らず1本が空いてしまった。家内は缶ビール、小さい缶なので訝ったが、夕食にしっかり頂きますとのこと、それもそうだ。
 夕食は2階のレストラン漁火、室ごとに別テーブル、前回は個室だったが、こんな部屋は1室のみらしい。他に大広間もあるという。座って十一月二十二日のお品書きを見ると 12 品あり、ここ珠洲特産の品が数品、あと能登産の品々も多い。ただ品が盛られている器は珠洲焼きというわけではなく、洋食器だった。でも料理は良心的で上等だ。飲み物は家内は生ビールを2杯、私は少々酩酊していて、でも地元珠洲の酒の「宗玄」の燗酒を銚子1本頂いた。駄弁りながら美味しく全部の品を頂いた。食後夜の海と港の灯を見ながら寛ぐ。この前はロビーのラウンジでお酒を頂戴したが、この日はその元気は失せていた。家内は「飲むならどうぞ」、「酔いが残ったら私が運転します」というが、気持ちだけを頂いておくことにした。外を見ると、飯田港の入り口を示す航路灯の赤橙色の点滅が何とも幻想的だった。

2015年11月27日金曜日

久々に感動した OEK の演奏(続き)

承前( 20 分間の休憩)
3.ストラヴィンスキー 弦楽のための協奏曲 ニ調 (1946)
 初めて聴く曲だった。作曲家のストラヴィンスキーは、ロシア・バレエ団のために書いた「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」の一連の前衛的なバレエ曲を発表して、一大センセーションを巻き起こしたのだが、その後に革命を逃れてアメリカに移住してからは、バロックに回帰した作風に変わってしまったという。そんな折に、バーゼル室内管弦楽団の創立 20 周年を記念して、主宰者のパウル・ザッハーから委嘱を受けて作曲したのがこの曲であるという。古典的な骨格と雰囲気を持った、3楽章の聴きやすい十数分であった。協奏曲とあるが、弦4部のみの弦楽合奏曲である。
 
4.ベートーヴェン 交響曲 第8番 ヘ長調 op.93
 交響曲 第7番が作曲されたと同じ年に、比較的短期間で作曲された第8番は、演奏時間が 30 分未満と短く、短さの点では初めて作られた交響曲 第1番と似ている。交響曲の中で、何が一番好きかと問われると、私が挙げたいのは、このベートーヴェンの第8番とモーツアルトの第 40 番である。前者はヘ長調の曲、後者はト短調の曲で、曲想は全く異なるが、何となく愛着があっていとおしい感じがする。
 第1楽章 Allegro vivace e con brio 明るい主題と「タタタ・タン」が何度も出るソナタ形式。
 第2楽章 Allegretto scherzando メトロノームを思わせる音の刻みが快い洒落た楽章。
 第3楽章 Tempo di Menuetto 3拍子の舞曲風旋律の中で奏でられるラッパの音が実に印象的。
 第4楽章 Allegro vivace 快速のロンドとティンパニーの鮮烈な効果が心地よい。
 この曲が作曲されている最中、ベートーヴェンは恋をしていたとある。そしてその感情がこの曲を一気に書き上げてしまう原動力になったとか、とにかく明るくて、洒落ていて微笑ましく、そして彼の心の内を音符に綴ったような曲である。あのトランペットが奏でるラッパの音は、恋しい人の許へ手紙を届ける郵便馬車の模倣だという。他の交響曲には見られない随筆のような書きぶりの交響曲である。
 演奏が終わって、瞬時の静寂の後、あちこちから上がるブラボーの声と万雷の拍手、立っている人もかなり見受けられた。私も何度か演奏会でこの曲を耳にしたが、この曲でこれほどの熱狂は経験したことがない。この演奏は皆さんに計り知れない感動を与えたからだろう。とにかく素晴らしい指揮とそれに応えた素晴らしい演奏、名前を全く知らなかった若い指揮者だったが、これ程に聴衆を熱狂させるオファーを持ち合わせていたとは驚きだった。

 どよめきの聴衆に応えて演奏された曲は、シューベルト作曲の劇音楽「キプロスの女王ロザムンデ」op.26.  D.797 から間奏曲 第3番 変ロ長調。よく知られている緩やかに流れる愁いを含んだ旋律は心を和ませてくれ 、心に染みた。最後まで席を立つ人もなく、惜しみない拍手が続くなか、演奏者も順々に去って、演奏会は終わった.当初はそれ程期待していなかっただけに、その感激は一入だった。

久々に感動したオーケストラアンサンブル金沢 (OEK) の演奏

第369回 OEK 定期公演「アンダルシアの誘惑」
 県立音楽堂に着いたのは午後1時、開演1時間前だった。でももう2階ロビーには人が溢れていた。いつものように生ビールを手にしてプレコンサートを聴く。ヴァイオリン、ビオラ、チェロの三重奏でのモーツアルトの作品の演奏だった。開場になって、定位置の 10 列 10 番に着席する。今日の指揮者は台湾国家交響楽団音楽監督のリュウ・シャオチャさん、プロフィールには過去にブザンソン国際指揮者コンクールに優勝、その後ヨーロッパの主要オーケストラや歌劇場で指揮をしたとある。でも私には初めて耳にする方、いつもの公演のように静かに聴こうと思っていた。

1.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟 (ヘブリディース)」op.26
 メンデルスゾーンがイギリスのヘブリディース諸島にある伝説の王フィンガルの名が付いた洞窟を観て作ったという描写音楽、私の大好きな曲の一つである。曲が始まって、指揮者の曲の引き出し方に何かピッとした感覚が走った。指揮ぶりを見て、瞬時に OEK のミュージックパートナーである山田和樹を連想した。見ていると、右手の指揮棒の動きと左手の動き、時に同じなこともあるが、大方は異なっている。リズムと曲想とを実に巧みにコントロールしているところが実に何とも素晴らしい。そして北の荒海の光景と荒波が打ち寄せる洞窟の情景を彷彿とさせてくれる描写を、実にリアルに表現してくれていた。 OEK のこんなに溌剌とした演奏を久しぶりに聴いた。演奏の後の拍手が凄かった。

2.ファリア バレエ音楽「恋は魔術師」
 バレエ音楽とは言っても歌がとても多く、スペインのオペレッタとも言われるサルスエラに近い曲である。歌う方は、二期会所属のメゾソプラノ歌手の谷口睦美さん。よく聴く曲だが、生で聴くのは初めてだ。日本語訳の詩が両袖に出るが、内容はともかく、素晴らしい声量と艶やかな声質に圧倒された。しかも容姿端麗、それかあらぬか、指揮者の歌い手に対する心遣いも素晴らしく、それもあってオーケストラとの一体感が実に素晴らしかった。終わった後も聴衆のどよめきは凄く、ブラボーの声が数カ所から、そして中には立って拍手する人も、私は立たなかったが、でも精一杯の拍手をした。こんなに素晴らしい興奮は久しぶりだった。終わって、何度も何度もステージへ挨拶に見えられたが、聴衆の皆さんは本当に魅了されたようだった。 (続く)

「蕎麦やまぎし」は大晦日まで

 石川県立音楽堂でオーケストラアンサンブル金沢 (OEK) の演奏会が土・日にある時は、開演時間は大概午後2時である。このような時は私は決まって「やまぎし」でそばを食べる。11 月 21 日の第 369 回定期公演も土曜日で、開演時間は午後2時である。ところで「やまぎし」の開店は午前 11 時半、席は 11 席しかないので、タイミングを外すとすぐに満席になってしまうので、少なくとも開店 15 分前には店に到着する必要がある。予約は可能だが 、席の予約はできない。店の張り紙には「開店は 11 時 30 分」と書いてあるが、半だともう満席になっていることが多い。この日も 15 分前に出かけたが、もう2組4人が座っていた。私の定番は、田舎粗挽きと財宝 (薩摩焼酎) 2杯、先月は知らず、先々月までは締めて 1100 円だったが、新そばのせいか 1200 円に値上がりしていた。この粗挽きは店主の山岸 隆さんの考案によるもので、噛み締めないと喉を通らない代物、私は何時もこれに能登の塩をまぶして、噛み締めながら食べ、かつ焼酎を飲む。私は店主を開店前から存じ上げているが、とにかく独創的で器用である。前職が県警本部の強面の部長さんだったとはとても思えない。
 ところでこの店の客層を観察していると、圧倒的に観光客の方が多い。金沢駅近辺では、駅に最も近く、しかも独特の風合いのそばを提供するとあれば、誰だって一度は寄ってみたいと思うのは必然である。開店当初は店の場所が分かりにくくて往生したが、今店に初めて来る人でも、皆さんスマホなどを持っておいでて、簡単に来てしまう。この店では、予め券売機で目的の品を求めることになっているが、初めての人はそれに気付かないので、すぐに初見と分かる。ところでこの店は今年一杯で閉めて、生まれ故郷である旧石川郡鳥越村の左礫 (ひだりつぶて) に店を移して営業するとか。そうすると金沢へ訪れる観光客はとても行ける場所ではない。その場所は手取川の支流の大日川の上流の右岸、今はなくなってしまった大日スキー場の手前である。それにしても大胆な発想をしたものだ。私は移転の話を初めて耳にした時は、今住んでおいでる金沢近郊の旧石川郡額村に移転されるとばかり思っていたが、思いもよらない僻地での開店に驚いた。今年は今の店で 12 月 31 日まで営業されるとかだ。

2015年11月20日金曜日

石川とその周辺の「猿」の名が付く山々

 来年の平成 28 年は丙申 (ひのえさる) の年である。そこで、「申」に因んで「猿」の字が付く山々を思い浮かべてみた。すぐに思い付いたのは、金沢の市街地からもよく見える「猿ヶ山」、白山の北方稜線の山々からは庄川を隔てて指呼の間に見える「猿ヶ馬場山」、それに能登での雪割草の大群落地として知られる「猿山」である。その外にも何かないかと日本山名事典 (三省堂) と日本山名総覧 (白山書房)をあたってみた。すると、富山県に「猿倉山」、福井県に「猿塚」、石川県に「猿矢山」というのが見つかった。両書によると、国土地理院発行の地形図に記されている山名で、日本で「猿〕が付いている山が 60 山、「申」が付いているのが7山あるという。以下に以上の6山について紹介しようと思う。
〔1〕猿ヶ山(1448m) 越中の山
 石川県金沢市にある日本三名園の一つの「兼六園」の小立野口を出ると、小立野通りの向こう正面になだらかな山容の山が見えるが、この山が猿ヶ山である。加賀平野から見ると、双耳峰の医王山 (939m) と加賀富士と称されている大門山 (1572m) の間に見える。一見石川と富山の県境の山と思われがちだが、富山の山である。大門山の登山口でもあるブナオ峠 (980m) を逆方向の北へ辿ると、大獅子山 (1127m) を経て尾根伝いに猿ヶ山へ行くことができる。途中まではネマガリダケが繁茂していて、小径が分かりにくい箇所もある。春にはこの辺りへは煤筍を採りに人が訪れる。なだらかな尾根筋で、頂上付近にはツバメオモトの群落が見られる。尾根をさらに北へ辿ると、三方山 (1142m) から袴腰山 (1163m) に至る。この袴腰山の下には、東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。 
〔2〕猿ヶ馬場山 (18875m)  飛騨の山
 庄川右岸の岐阜県白川郷にある飛騨高地の最高峰で、日本三百名山である。なだらかで広大な山頂をもち、両白山地の格好の展望台となっている。だから逆に、岐阜と石川の県境となっている白山 (2702m) から大門山 (1572m) に至る北方稜線のどの山からも、この山を庄川を挟んだ東方に見ることができる。中で最も至近なのは妙法山 (1776m) である。この山へ直接登る道はないが、近年切り開かれたとの情報もあるが不明である。残雪期には、北東方向にある籾糠(もみぬか)山 (1744m) や、南東にある一等三角点がある白山の遥拝所でもある御前岳 (1816m)) から、尾根伝いに容易に行ける。そしてこの山の下には、東海北陸自動車道の日本では2番目に長い、難工事でもあった隧道の飛騨トンネルが通っている。さてこの山の西には前衛峰である帰雲(かえりくも)山 (1622m) がある。この山は天正 13 年 (1585) の白山大地震の折に山崩れを起こし、山麓にあった内ヶ島氏の帰雲城を一夜にして埋めつくし、一千戸もあった城下町と数千の人馬が地底に葬られたことで知られている。国道 156 号線の白川街道を通ると、庄川沿いの道路に帰雲城跡の標識が立っている。
〔3〕猿山 (381m)  能登の山
 能登半島の奥能登丘陵の北西端、日本海に面する 200m の断崖の上にある。一帯はスハマソウ (雪割草) の群生地として大変よく知られている。西には海に面して猿山岬灯台がある。登路は北からは門前皆月から娑婆捨峠を経て、南からは門前深見から欣求(ごんぐう)峠を経て辿ることができる。雪割草の開花期の頃には大勢の人で賑わう。
〔4〕猿倉山 (345)  越中の山
 富山市大沢野にあり、飛騨山地の北端にある小佐波(おざなみ)御前山 (754m) から北西に延びる尾根の
末端にあり、西麓には神通川が流れていて、すぐ下流には神通川第二ダムがある。神通川沿いの左岸には国道 41 号線が通っているので、ダム近くからは対岸の右岸にこの山を望むことができる。山には風力発電の施設があり、北麓には猿倉山スキー場がある。
〔5〕猿塚 (1221m)  越前の山
 両白山地の南端に広がる越美山地、その福井と岐阜の県境近くに平家岳 (1442m) がある。この山は九頭竜川上流のダム堰止湖の九頭竜湖の南に位置していて、福井側から登路がある。この山は北へ2本の尾根が延びているが、その西側の尾根の中程に猿塚がある。登路はない。
〔6〕猿矢山 (381m)  能登の山
 輪島市街の東にある山で、南に尾根を辿ると、奥能登丘陵の最高峰で、航空自衛隊のレーダー基地がある高州山 (570m) に達する。輪島港に立って東に高州山を望むと、左へ連なる尾根の稜線上に見える。登路はない。

2015年11月13日金曜日

シンリョウのツブヤキ( 14 )ふだんのおつとめ

 父が昭和 55 年 (1980) に他界 (享年 73 ) してから、母が唱えていたお経に興味を持ち、父の一周忌に母と浄土宗の総本山知恩院にお骨を納めに行った折に、私が用いる日常信徒が勤行に行なう折に唱える「浄土日用勤行式 全」を求めた。その母も平成 15 年 (2003) に他界し、それ以降は私が普段のお勤めをし、先祖の命日には供養のお経を唱えている。
 毎年師走になると、私の家では十夜法要 (浄土真宗でいう報恩講 ) を行なう。旧野々市町では浄土宗の門徒は私の家と、今は絶えた分家のみで、他の家は皆さん浄土真宗の門徒である。それも圧倒的に大谷派 (お東) が多く、本願寺派 (お西) は少ない。私の家の檀那寺は金沢市中央通町 (宝舩寺町) にある浄土宗の佛海山法舩寺である。家のお十夜にはお寺のお住職にお出でを願って法要を行ってもらう。
 それとは別に、月経というのがあって、母が存命中は、野々市町の真宗大谷派のお寺の方にそれをお願いしていたが、母が他界してからは、法舩寺さんにお願いしている。と言って本来ならば来宅してお経をあげて頂くのが筋なのだろうが、私も家内も勤務していたこともあり、代わってお寺さんでお経をあげて頂いている。またこれとは別に、門徒全体の御十夜法要が檀那寺で執り行われ、その時は大概出席するのが常だが、今年はどうしても外せない用事で出席できなかった。
 ところで私は家では先祖の命日には必ずお経をあげ、勤行を行なっている。現在私は木村家の5代目、それで、初代の曾祖父の父母、曾祖父母、祖父母、父母のほか、夭折した祖父の弟、子がいなくて家が絶えた叔父、そして私の三男の計 11 人の命日には、次の順序で勤行を行なっている。これは正式に坊さんがあげるお経を若干端折って短くしているが、それでもかれこれ 25 分位はかかる。読経をする前には、燭台にお灯明を上げ、香炉に線香とお香を焼べ、経本の指示にしたがって、おりんと木魚とかねを打ち分けて読経する。次にその順序を記す。
 ( 1 ) 「三宝礼」、 ( 2 ) 「懺悔偈」、 (3)「十念」十遍唱える、(4)「開経偈」、(5)「仏説無量寿経四誓偈」、(6)「仏説観無量寿経第九身心観文」、(7)「仏説阿弥陀経」、(8)「発願文」、(9)「回向文」本誓偈と聞名得益偈、(3)「十念」、( 10 )「摂益文」、( 11 )「念仏一会」百八遍唱える、( 12 )「総回向文と十念」、( 13 )「別回向文と十念」命日や祥月命日の先祖の回向、( 14 )「別回向文と十念」木村家先祖代々の回向。
 また月々の1日と 15 日には、次のような順序で読経を行なう。(1) 〜 ( 5 )、( 15 ) 元祖大師御法語「一紙小消息」、( 16 ) 元祖大師御遺訓「一枚起請文」、( 10 ) 〜 ( 12 ) 。そしてこの日には、庭に置かれている 阿弥陀座像 と 観音様立像 にもお参りする。
 そのほかの普通の日には、次のように行なう。(1) 〜 (4) 、( 17 )「摩訶般若波羅密大明咒経」、次いで ( 10 ) 〜 ( 12 ) 。この 摩訶般若波羅密大明咒経 は、西暦 403 年に 鳩摩羅汁 が訳したもので旧訳と呼ばれていて、これに対して 玄奘 が西暦 649 年に訳したものは 摩訶般若波羅密多心経 ( 般若心経 ) で新訳と言われている。このお経を日本に持ち帰ったのは僧空海であるが、その当時のシナでは新訳がよく読誦されていたという。したがって現在日本で読誦されているのは新訳の般若心経である。本文の字数は、旧訳が300字、新訳が262字で、類似性は90%で、今風に言えば、新訳は旧訳のコピペであると思う。私は旧訳の鳩摩羅汁訳を知ってからは、新訳の般若心経ではなく、天の邪鬼にも旧訳の 摩訶般若波羅密大明咒経 を唱えている。
 また私が求めた 観世音菩薩坐像を仏間に安置してあるが、この前でも毎朝読している。その順序は、(2) 〜 (4)、( 17 )、( 10 )、(3)、( 14 ) である。
 なお、昨年 11 月に金沢市野町にある浄土宗大連寺で五重相伝を受けて以降は、その折に授かった「新版 浄土日用勤行式 完」に則って、命日の勤行を行なっている。
 そして本来ならば、これらを朝と夕に勤行すべきなのだが、こちらの方は怠けて、夕は十念だけで済ませているのが現状である。ただ五重相伝を済ませた折に、導師から1日に南無阿弥陀仏の念仏を3百
回以上唱えなさいとのことで、これは在宅の折には実行している。ところで旅行などで家にいない時など、声を出さずに念ずるだけでは駄目ですかと訊いたら、それは駄目で、必ず声を出して唱えなさいとのこと、でないと阿弥陀様には声が届かないからとの答えだった。私にはまだそこまで出来ないということは、修行がたりないということか。

2015年11月7日土曜日

珠洲に恩師を訪ねる(続き)

(承前)
3.翌日は暫し恩師と能登を周遊
 翌朝は男女入れ替えで、大浴場「見附の湯」へ行った。丁度海から朝日が上がってきた。風はあるが晴れている。暫し日の出を湯に浸りながら拝んだ。朝食は午前8時に予約しておいた。今日の行程は先生に一任することに。朝食後、ロビーで寛いでいると、先生からお返しの品といわれて、珠洲焼のビアカップを頂いた。近頃珠洲焼はなかなかの人気である。あの黒い渋い色が特徴で、近年復活した焼物、遠慮せずに頂くことにした。それで先生では、私たちが持参した土産を一旦家に置いてから、外浦を回って輪島に出て、その後能登空港まで送って欲しいとか。空港からは金沢からの珠洲行き特急バスが 12:20 に出るので、それに間に合うようにお願いしたいとかだった。先生は珠洲の方なので、途中の案内役をお願いした。
 宿から一旦珠洲道路まで戻り、飯田にある珠洲市役所近くにある先生宅へ。以前は入り組んで分かりにくい場所だったそうだが、今は前に広い道ができて、すこぶる分かりやすい場所だ。さて正午まで2時間ばかり、珠洲の突端へ行くのは止めて、国道 249 号線を通り、大谷峠 (トンネル) を越えて大谷へ出ることにする。途中山の稜線には、風力発電のタワーが林立していた。トンネルを抜け、ループ橋を渡る手前に、平時忠卿とその一族の墳 (県指定史跡) がある。大谷へ下りて国道を海岸線に沿って走ると、程なく道の駅「すず塩田村」に着く。ここは連続テレビドラマ「まれ」での塩田のロケ地である。今は時節は秋で揚げ浜塩田は休止しているが、それでも観光客は次から次へと訪れている。この辺り一帯には塩田が多いが、でも最盛期よりは少ないようだ。塩は 50g単位で販売されていて、品薄からお一人様1個に限ると書かれていた。塩田の周りには観覧席が設けられていて、観光目当ての商魂が伺われた。
 更に西へ向かう。曽々木を過ぎて少し行くと、右の浜手に「奥能登揚げ浜塩田輪島塩」の看板が、ロケは珠洲で行なったものの、ドラマでの場所は輪島、それで急遽輪島にも揚げ浜塩田を設えたもののようだ。ここにも観光客が立ち寄っていた。御陣乗太鼓発祥の地の名舟を過ぎると、白米の千枚田は近い。道の駅「千枚田」の駐車場には大型バスが数台、それもひっきりなしに次から次へと発着している。バスが着く度に記念写真の撮影、天気も良く、千枚田をバックにした写真は絵になる。県外の乗用車も多い。早々に引き揚げる。
 輪島の町に入り、希望で朝市に寄ることに。ブラブラと朝市の通りを歩く。もう 11 時近くとあって、終う店も、先生ではこの時間帯が最も値切ることができて安く買えるという。村田君がいないので先生に訊くと、彼は骨董に興味を持っているから、多分その店に行っているはずと言われる。案の定彼は其処にいた。彼の言では、この前寄ったときと値段がどうなっているかを見たかったとかだった。少々買い物をした。次に新しく出来たキリコ会館へ行く。すごく立派な出来だ。今日は時間がないので、中へは入らなかった。この場所は海を埋め立てて造成したとか。海との際にある岸壁に、次々と高い波がぶつかって、飛沫が高く舞い上がる。その時そこに陽が射すと、一瞬虹がかかり、この虹は次から次へと押し寄せる波が岸壁に当たって砕け散る度に具現する。飽かず眺める。この岸壁には1万トン級の舩も接岸できるとかである。
 朝市と港でずいぶん時間を費やした。急いで県道を南下し空港へ向かう。輪島市内でもたもたしたのと、途中で穴水へとあった交差点を反対に曲がったものだから枝道に入り込み若干時間をロスしたのと、空港手前の交差点での渋滞があったりで、空港のバス停に着いた時には目の前でバスは出て行ってしまった。時間の遅れはほんの 30 秒ばかりだった。先生ではこの後珠洲への特急バスは夕方までなく、それで穴水駅から出ている路線バスで帰ると仰る。その発時間は 12:50、それではとのと鉄道の穴水駅へと向かった。お陰で先生と駄弁る時間が増えたというものだ。空港から駅までは 10 分ばかり、今度は十分間に合った。先生とは又の再会を願って、固い握手をして別れた。一度金沢での耳順会に参加したいと申されていた。乞うご期待である。
 先生と別れて、穴水駅から一旦県道を北上し、穴水 IC からのと里山海道に入り、白尾 IC から津幡バイパス、次いで山側環状道路を通り、金沢まで一気に戻った。天候にも恵まれた、思い出深い2日間だった。

珠洲に恩師を訪ねる

1.はじめに
 平成 14 年 (2002) に村田君が台湾から 30 年ぶりに帰沢したのを機に、12 名が集まって「耳順会」が発足した。その後2名の入会と3名の他界があり、現在の会員は 11 名である。それで3月、6月、9月の第1月曜日には、金沢市内の割烹屋で懇親の会を開き、また 12 月にはやはり第1月曜日に加賀温泉で忘年会を行っている。一方これとは別に、毎月第3土曜日には、金沢市内のホテルで「湧泉会」と称して昼食会を催している。これまで耳順会は、会員の持ち回りで会を運営してきたが、平成 25 年 (2013) 正月に湧泉会が発足してからは、両会とも村田君が仕切っている。ところでお酒が入る耳順会はともかく、湧泉会は昼食会なのでお酒なしなのだが、午前 11 時半に始まって、いつも終了が午後4時という長談義になってしまう。女の井戸端会議ならいざ知らずと言いたいのだが、話題は身近なことから世界情勢まで延々と話が続くのだから、もう閉めますと言われて漸く終わりになるのが常だ。
 さて彼は日本に帰ってきてから、泉丘高校1年の時の担任だった珠洲市在住の橋本秀一郎先生とはよく会っていて、彼は先生とよく能登の社寺や遺跡を巡ったという。先生は社会の先生で、その方のことは大変お詳しく、彼も興味を持っていたようで、意気投合したというのが本当のところだろう。このことは彼も会でよく話していた。ところで先生を一度耳順会にお誘いしようということになった。それで先生に打診したところ、金沢へ出て来られるとか、珠洲からは特急バスで3時間ばかりとか、それで9月にお誘いした。ところが生憎体調をこわされて、実現しなかった。先生は私たちが高校へ入学した時には、京都大学を出られたばかり、だとすると私たちより7〜8歳上、現在 84 歳である。
 私たちが高校に在籍していた時においでた先生方のうち、現在も存命なのは5名のみとか。私が授業を受けた先生の中では唯一の先生である。それで村田君から珠洲へ先生に会いに行こうと提案があった時には、即賛同した。彼と先生との交渉で、日は 10 月 25 日の日曜日ということになった。当初は5名参加の予定だったが、ご不幸や他の同窓会との鉢合わせもあって、行くのは村田君と村上君と私の3名、車の運転は私がすることに。3人とも1年の時は同じ組で、橋本先生が担任だった。また村上君は母校でも教鞭をとっていたこともあり、また先生も彼も退職時には高校の校長先生であったこともあり、昵懇の間柄でもある。

2.珠洲で60年ぶりに恩師と再会
 金沢からの出発は午後1時、村田君宅の近くにある大きな書店の駐車場で待ち合わせた。山側環状道路から津幡バイパスへ、さらにのと里山海道、珠洲道路 (のとスターライン) を経由して珠洲市へ、村田君の予想では午後3時半には宿泊場所の珠洲市宝立町鵜飼にある「のとじ荘」に着けるという。この予想は見事に的中して、途中一度別所岳 SA でトイレ休憩したものの、予想通りの時間に着けた。途中で村田君は道路を車で走ると朝ドラ「まれ」のテーマ曲が流れるというので、それをぜひ聴きたいとのことだったが、別所岳 SA を過ぎた辺りで、約2分間ばかり聴くことができた。
 珠洲温泉「のとじ荘」に着いてチェックインする。部屋は4室とも海側に面した個室、この宿は今年3月に金沢までの新幹線開業に合わせてのリニューアルオープン、以前に泊まったことがあるが、雰囲気は全く違い、近代的な佇まいになっている。個室志望は村田君の意向によるものだが、複数で泊まってそれぞれ個室というのは、何となく居心地がよくない。でも彼は何時でも個室に拘るようだ。時間もあるので見附海岸を散歩する。
 先生はバスで来られるとか、すると到着は午後5時半頃、先に風呂に入ることに。この時間帯、男性は展望風呂がある「弘法の湯」、新しく設えられた露天風呂は実に快適、すぐ近くに絶景見附島を望める好位置にあり、海を眺めながら時の経つのも忘れる。そして夕闇が迫る頃に、先生が着かれた。村田君や村上君はともかく、私と先生とは 60 年ぶりの対面、村田君からキムラシンリョウが同行すると告げられていたこともあってか、先生の記憶の中に私が残っていたのには感動した。初めての担任だったこともあるのだろうか。先生の湯浴みが終わるのを待って、夕食となる。
 夕食は2階にある「レストラン漁火」の個室、お酒は先生の希望で熱燗にする。会食の折、村田君が持参した高校1年の時に、構内やハイキングで写した白黒写真のコピーを見ながら話に花が咲いた。私たちはともかく、先生が生徒の名前を覚えておいでたのには驚いた。40 年近く教職にあったのに、最初の担任であったにせよ、正に驚異だった。すごく懐かしがっておいでたのには本当に感動した。時間になってレストランを出て、1階ラウンジにあるカウンター席へ移った。先生はここではスコッチウイスキーのストレート、私も追随したが、旺盛な元気には感服した。先生は奥さんを亡くされていて、現在独り身だが、夕食は近くに住んでおいでる長男夫婦の所で召し上がるとかだった。それにしてもタフだ。午後9時過ぎ、海の方を見ると、十三夜の月が海上を照らしていた。幻想的でもあった。

2015年11月3日火曜日

シンリョウのジュッカイ ( 10 ) 「野々市の祭」

 今年の野々市本町の秋祭には、久しぶりに神輿 (二丁目 )と獅子舞が3町 (一丁目、三丁目、四丁目)から出た。旧野々市町の頃は、春祭はともかく、秋祭りには必ずそろい踏みしたものだが、このところ4つが揃って出ることはなかった。それだけに今年は賑わいを見せた。とはいっても地味な祭であって、この祭を見にわざわざ訪ねる人は稀で、むしろお盆の「野々市じょんから」の方が皆さんに知られている。ところで旧野々市町には6町あったが、何故か当時神輿や獅子舞を出すのは4町のみだった。神輿でも獅子舞でも、法被には旧町名が染め抜きされていた。神輿は一日市町、獅子舞は荒町、中町、西町の3町である。
 野々市は古くは野市 (読みはノノイチ)、野の市、布市 (神社にこの名が残る) と称したようだが、近年は野々市の表記になっている。旧町は北國街道に沿っていて、金沢 (尾山) から来ると、街道は町の真ん中辺りで直角に折れて、松任に向かっている。古くは金沢寄りから、荒横通、北横通、一日市 (ひといち) 通、中通、六日 (むいか) 通、西通と称していたが、大正 13 年に野々市村から野々市町になって、荒町、新町、一日市町、中町、六日町、西町となった。でもこれは通称であって、公称ではない。これら旧の呼称は現在石碑に刻まれ、保存されている。旧野々市町は戸数四百戸、人口二千人ばかりで、ほとんど増減がなかったが、昭和 32 年に町村合併があり、さらに平成 11 年に野々市市になって以降は人口が増加し、現在は5万2千人程になっている。
 旧6町はその後、荒町は一丁目、新町と一日市町は二丁目、中町は三丁目、六日町は四丁目、西町は五丁目となった。なので、神輿は二丁目、獅子舞は一、三、五丁目からということになる。そして四基とも氏神の布市神社の秋季例大祭に合わせて奉納する。これは旧通にはそれぞれに八幡様やお稲荷様があったのだが、これらの神様は通から町になった折、一日市町にある村社の布市神社に合祀されたからである。ところで私の住む新町には白山神社と辻の宮 (北横宮) があったが、白山神社も村社格であったため合祀されずに今も残っている。ただ祭祀は布市神社の宮司が仕切っている。また北横宮はその後白山神社に合祀された。 
  3町から出された獅子舞は、数年ぶりだった町もあったのに、棒振りの子供達は皆さん随分はつらつと上手に振る舞っていた。以前に振ったことがある方達が指導したのだと思われるが、中々見事だった。通りの家々の前では悪魔除けの棒振りをしてくれるが、それには祝儀をはずむのがしきたりである。私の家は旧街道に面しているので、3基とも寄ってくれた。ところで獅子の胴は大きな幌で覆われていて、その幌の足は若衆が持ち、昔はその胴の中に、三味線、笛、太鼓の衆が入っていて、特に三味線は芸者衆が受け持っていたものだ。でも世は世知辛くなり、昨今はテープを流して凌いでいる。また幌も車付きになって簡単に移動できる。それでも幌の修理はままならないようで、色は落ち、薄破れも目立ち、今一見栄えがしない。またそれかあらぬか、舞が終わって凱旋する時には、以前なら、オッピキダイサンノーエ、オッピキダイサンノーエで始まる勇壮な歌を高らかに歌って引き揚げたものだが、昨今いま少し威勢がない。やるなら幌も新調して威勢よくやって欲しいものだ。
 一方神輿の方は、近隣では今じゃ名物になっている「豊年野菜神輿」で、起源は明治時代に凶作に見舞われた折に、農家が五穀豊穣を願って農作物で神輿を作ったのが始まりとされている。戦後は一時途絶えていたが、その後一日市町若衆が復活させ、町制施行後は本町二丁目に野菜神輿保存会が発足し、今日に至っている。この神輿は土台以外はすべて野菜や穀物や秋の草木を使って製作するもので、製作には2ヵ月を要するという。重量は約 500 kg、出来上がりは中々壮観である。神輿の屋根は稲穂で葺き上げてあり、黄金色で重厚で美しい。欄干には玉葱、鳥居には蓮根、御紋には茄子、柿、栗、唐辛子、生姜、果物等を用いて飾り付けされる。また特に壮観なのは神輿の頂上に乗っかる羽を広げた大きな鳳凰で、秋の草木や人参を用いての重厚な造りになっている。全てが生ものなので重たく、特に繰り出す日が雨だと、雨で重量が増し、担ぎ手の負担は相当なものになる。幸い今年は比較的天気が良くて、雨は落ちたものの、短時間で上がり、一安心だった。
 今年は3町全てから獅子舞が出て、久方ぶりに神輿と競演する「4町合わせ」が旧野々市町役場前の広場で行なわれ、賑わった。それにしても、神輿や獅子舞の母体となっている旧町は、町全体の人口が増加している割には、むしろ減少の傾向にある。というのは、私の家でもそうだが、子供達は皆外へ出てしまっているとか、同じ野々市にいても、実家の町内ではなく、別の町内に所帯を持っていたりしている。そういうこともあって、旧町内にいたことがある人ならば、積極的に参加することが出来るようにした方が如何かと思う。そうしないと、存続が段々難しくなるのではと思ったりする。毎年出すようにするには、人数をある程度確保する一工夫が必要な気がしている。

2015年10月29日木曜日

道東への金婚記念旅行(その4)

5.4日目 10月4日
 阿寒湖畔温泉 ー オンネトー ー 足寄 ー 富良野 (新富良野プリンスホテルで昼食) ー 後藤純男美術館 ー   新千歳空港 ー 羽田空港 ー 小松空港
 朝5時に起きて、ホテル8階にある展望風呂、そのさらに屋上にある露天風呂に行く。気温は 5.8℃ と寒い。屋上には大きな浴槽が4つばかりあり、全ての浴槽をはしごしたが、お気に入りは最も大きな浴槽。まだ夜明け前とて星が見えている。阿寒湖を挟んでの対岸には、三角錐の雄阿寒岳 (1371m) が聳え、眼下には湖畔のホテルの灯が見える。正に幻想的だ。5時半過ぎ、雄阿寒岳の右裾から朝日が射し出た。日の出/御来光である。空が漆黒から徐々に明るくなって行く。温泉に浸かりながらの贅沢な感激だった。今朝の出発は 7:40 、早いので荷物を先にロビーに出してから食事をするようにとの指示、今日は帰宅の日である。
 阿寒湖を真ん中に、東に雄阿寒岳、西に活火山の雌阿寒岳 (1499m) と阿寒富士 (1476m) が位置している。オンネトーは雌阿寒岳の西麓にある小さな湖で、北海道の三大秘湖とか。天候や風向き、見る場所や位置によって湖水の色が様々に変化することから、五色沼とも呼ばれているという。トーとはアイヌ語で湖のことだという。対岸には左に噴煙を上げる雌阿寒岳、その右には端正な阿寒富士が望める。
 オンネトーから足寄国道を西へ、そして足寄からは 15km 以上もの直線道路の日勝国道を更に西へ。この頃から空模様が怪しくなり、行く手に見えるはずの十勝連峰は雲に閉ざされて見えていない。その連峰南端の狩勝峠 (644m) を越えて富良野へ、西に見えるはずの夕張の山々も厚い雲に閉ざされている。車は富良野盆地へと下り、富良野スキー場近くにある高台の新富良野プリンスホテルへと向かう。スキーのメッカともいうべき富良野スキー場の一角にある。食事の場所はホテル 11 階の展望レストラン、東側は総ガラス張り、天気が良ければ十勝の山々がドーンと見えるはずだが、生憎雲の中だ。ただ眼下には富良野盆地を俯瞰することができた。ここで洋食のランチを頂く。お供には赤ワインを貰った。
 山から富良野盆地へと下り、JR 富良野線に沿った道を北上する。ここ一帯にはファーム富田とか彩香の里・佐々木ファームなどの観光農園がある。以前に訪れた時には、正にラベンダーの花盛り、広大な園内に、芳しい匂いをしたいろんな色のラベンダーが帯状に植えられていて、一大壮観絵巻を醸し出していたが、今は刈られてしまっていて、わずかに一部に赤と黄の縞模様が道路から見えているに過ぎない。シーズンには観光農園近くには、観光客の便を図るために、JR 富良野線には「ラベンダー畑」という駅が開設されるとか、バスはその脇を通った。更に北上を続け、富良野市から上富良野町に入り、このツアー最後のスポットの後藤純男美術館へと向かった。
 後藤純男さんは昭和3年 (1930) 生まれの日本画家、現在は美術館に併設されているアトリエで制作に励んでおられるという。画を近くで鑑賞すると、その細やかな筆致に驚かされる。そしてその筆致で描かれた幅6m 強にも及ぶ「十勝岳連峰」と題された大作の画には、本当に圧倒された。この美術館の2階には十勝岳展望テラスがあって、連峰を一望できるらしいが、画はここからの眺めなのだろうか。また京都の三千院の初夏、秋、冬を描いた「三千院三題」という連作にも目を見張った。ほかにも、北海道の海、流氷、山間、田園、森など、地元を題材とした画も多い。展示室は6室あり、数十点の絵画が展示されている。展示館を出る頃、強い俄雨があった。
 こうして4日間にわたった道東への旅は終わった。真っ直ぐに延びる富良野国道を南下し、占冠から道東自動車道を通り千歳に戻った。4日間とも車窓には北海道の広大な山地、そして広々とした平野、そこには内地にない規模の農地や牧草地を見た。この時期は、イネ、タマネギ、アズキ、シロハナマメの収穫の真っ盛り、また青々とした緑色の畑はビート (サトウダイコン) だとか。あれだけ広いと、とても人力だけでは追いつかない。それにしても、この広大な原野を開拓した先人の偉大さをひしひしと身近に感じた旅でもあった。

〔閑話休題〕
 帰りのバスの中で、北海道の難読地名に挑戦して下さいと言われて、1枚の紙切れが渡された。北海道は蝦夷地、アイヌの地名が圧倒的に多いが、開拓に入った大和民族が、音読を漢字に置き換えたのが今の北海道の地名となっているようだ。でも山や川など、生活に直接関係しない地名は、今でもカナ書きになっていることもある。これは中国で、中国以外の、特に横文字を中国語に翻訳して表記しているが、何方がするのか、何か法則があるのか、興味深い。以下にその地名を書いたが、誰も答えられなかった。当て字とは分かっているが、でも読み方は今通用している読み方のようだ。次に揚げてみる。
(1)忍路 (2)花畔 (3)濃昼 (4)晩生内 (5)比布 (6)安足間 (7)咲来
(8)興部 (9)止別 (10)音調津 (11)旅来 (12)分遣瀬 (13)火散布 (14)穂香 
(15)一已 

2015年10月28日水曜日

道東への金婚記念旅行(その3)

4.3日目 10月3日
 知床ウトロ温泉 ー 知床五湖散策 (一湖展望台) ー 知床自然センター ー オシンコシンの滝 ー 硫黄山 ー    摩周湖 ー 車内昼食 (摩周のぽっぽの豚丼) ー 釧網本線 塘路駅〜釧路駅 (ノロッコ号) ー 釧路市内車窓観光 ー 阿寒湖畔温泉 (泊)
 朝起きて海に面した窓から外を見ると、大変視界が良く、遠くオホーツクの海の彼方に宗谷岬と思しき岬が見えていた。海は一見穏やかで、今日は知床岬クルーズが可能なように思えた。しかし添乗員からのメッセージでは、うねりが4m と凄くて欠航とのことだった。今回のツアーの方達は初めての方が多く期待されていたようだったが、私たちは以前に経験していたこともあり、それ程のダメージは感じなかった。その代わりとして知床自然センターへ寄ることにしたという。今朝の出発は午前8時、でもバスが来て乗ったのは2組のみ、他の割り増し組は近くの知床第一ホテルが宿だった。
 宿から一旦ウトロの町に下り、昨日と同じようにホロベツ川を渡って国立公園内に、そして知床横断道路を知床自然センターまで往き、そこから知床五湖へと向かう。分岐地点から9km という。センターから 15 分で知床五湖の駐車場に着いた。羅臼の山並みが美しい。ここでの今日の散策時間は 40 分、そして今日の散策は一湖までの往復のみ、片道約 800m で、高架木道の上を歩く。木道の高さは2〜5m、ヒグマが侵入しないように電気柵が設けられている。これじゃ木道から落ちたらとても上がれないのでは。木道の終点には湖畔展望台があり、羅臼連山が湖に影を落としている。連山は右から主峰の羅臼岳 (1661m)、左へ三ツ峰 (1509m)、サシルイ岳 (1564m)、オッカバケ岳 (1462m)、そして硫黄山 (1562m)、遠く知床岳 (1254m) も見渡せた。正に絶景ポイントである。沢山の人が来ている。木道の帰りに途中にあったオコツク展望台と連山展望台へ寄った。展望台ごとに記念写真を撮った。本来ならば五湖全てを巡りたいのだが、現在はレクチャーを受けてからでないと巡ることは出来ないとかである。でももう訪れることはなかろう。
 バスで知床自然センターへ戻る。ここは斜里町と羅臼町が設立した公益財団法人が管理運営していて、常駐しているスタッフが知床についていろいろと教えてくれる施設となっている。私たちは幅が 20m、高さが 12m の大きなスクリーンに映し出される知床の四季の自然と上空からの空撮俯瞰映像を観た。凡そ 30 分ばかり、でもこれは有料で事前に申し込まねばならないとかだった。ここでは資料の展示はむしろ少なく、もっぱら調査や情報提供やレクチャーが主だとのことだった。
 ウトロの町に戻り、オシンコシンの滝へ向かう。滝は駐車場からも見える。日本の滝百選に入っていて、滝は岩肌を二手に分かれて流れ落ちていて、双美の滝とも呼ばれているとか。沢山の観光客が来ている。滝の近くまで階段があり、豪快に流れ落ちる滝を正面から眺められる。さぞや雪解けの頃は水量も多く、圧倒されるのではなかろうか。辺りには大きな太い茎の蕗が群生していた。
 バスは海岸を離れ、端正な三角錐の斜里岳 (1547m) の山裾を北から西へと回り、川湯温泉を経て硫黄山に向かう。この国道からは、釧路湿原を潤す釧路川の源となる屈斜路湖を眼下に観ることができる。硫黄山は標高 512m の活火山で、駐車場から見ると、あちこちの噴気孔から硫黄臭の強い白煙がもうもうと立ち上っている。殺伐とした荒涼たる風景が広がる。
 国道を南下すると、硫黄山の裏側にある爆裂火口が見えた。この道路は屈斜路湖と摩周湖の間の背を南北に通っている。途中で左に折れて摩周湖に向かう。この湖は流れ込む川がないカルデラ湖で、周りは外輪山の険しい崖に囲まれていて深く、また霧の摩周湖といわれるように、晴れて全貌が見られることは少ないという。でもこの日は強風のせいもあって、第一展望台に着くと、青い空に青い湖面、中央に神になった老婆という意味のカムイシュ島、右手に神の山という摩周岳=カムイヌプリ (857m) が見え、遠くには斜里岳も見えている。ここで初めて集合写真を撮った。30 分ばかり滞在し、遅い昼食はバスの中で摂った。
 国道へ戻る。この国道は釧網本線と並行していて、屈斜路湖から流れ出る釧路川に沿っている。バスは南下を続け、午後3時近くに塘路駅に着いた。ここからノロッコ号という緑色のジーゼル機関車牽引の5両連結の列車に乗り込む。乗車時間は 50 分、進行方向右手には常に釧路湿原や釧路川を望むことができ、本格的なカメラマンと思しき人も乗り合わせていた。湿原には野生のタンチョウヅルも見えた。列車には売店があり、地ビールを飲みながら、のんびりとした一時を過ごした。私も家内も釧路の街は初見参である。道東の中核都市だ。
 釧路駅で下車し、再びバスへ。釧路の市街を抜け、まりも国道を北上し、一路阿寒湖温泉へ向かう。摩周から阿寒湖まではコップの口の距離 (36km)、それを摩周からはるばるコップの底の釧路まで 67km南下し、底を 18km 横断し、再びコップの口の阿寒湖まで 58km、延々とぐるりと廻った感じだ。宿のあかん悠久の里「鶴雅」に着いたのは午後5時近く、温泉に入ってから夕食をと思ったが、5時半から食事とのことで、入浴は後にした。お目当ての8階の展望風呂は男女相互入替えのため、明朝のお楽しみということに。


道東への金婚記念旅行(その2)

3.2日目 10月2日
 層雲峡温泉 ー 銀河・流星の滝 ー 道の駅おんねゆ温泉・北の大地の山の水族館 ー 網走かに本陣友愛荘 (三大がに料理昼食) ー オホーツクバザール ー 道の駅うとろ・知床世界遺産センター ー 知床峠 ー 知床ウトロ温泉 (泊)
 泊まったホテル大雪は高台にあり、石狩川に沿った温泉街を見下ろす位置にある。昨晩はホテル7階にある露天風呂 (大雪乃湯) に入ったが、周囲の景観を眺めながらゆったりと過ごした。朝起きて外を見ると、木々が少し揺れてはいるいるものの、空は晴れていて台風なみの低気圧はどうなっているのかなあと思わせた。ただ雲の流れは早くて、上空は風が強いように思えた。天気が良ければ大雪山系の一峰の黒岳へ行く予定だったが、強風のため中止になった。それで大雪山荘の露天風呂 (天華の湯) へ行ったが、風は次第に強くなるようで、雲行きも怪しげになってきた。朝食はバイキング、広くて川や対岸の崖を見渡せる総ガラス張りのレストランだが、食事中にとうとう雨が降り出した。今日の行程が心配だ。
 出発は 8:20、その頃には土砂降りで横殴りの風、バスを玄関に横付けにしてくれた。バスは宿から大雪国道を石狩川上流に向かって走る。猛烈な雨だ。左岸に聳える崖から、日本の滝百選に選定されている豪快な落差 90m の流星の滝 (雄滝) と優雅な落差 120m の銀河の滝 (女滝) が望める。雨の所為で水量は多く、実に豪快。以前に滝の対岸の双瀑台から両方の滝を同時に眺めたが、下からは個々にしか観ることが出来ない。天候が良ければ、男滝で下りて女滝まで歩く予定だったが、土砂降りではどうにもならない。でも一旦バスは女滝の駐車場で停まった。雨風の中、完全武装でバスを降りて観に行った方がいた。
 バスは更に上流へ、大函という名勝があるが、説明だけで通り過ぎた。右手に大雪ダムが見え、やがて源流の石北峠 (1040m) へ、この頃になると雨は小康状態、日が射し、反対側には大きな虹がかかった。この辺りは落葉樹のダケカンバもあるが、それより針葉樹のエゾマツやトドマツが多い。ガイドさんから両方の樹形の違いを教わった。峠を過ぎると道路の名称は北見国道に、山を下りて温根湯にある道の駅おんねゆ温泉へ、ここには山の水族館がある。この時間、晴れてはいるが、風が物凄い。
 バスから 50m ばかり離れている山の水族館に辿り着くのには、風で四苦八苦だった。着いた水族館は小さいながら実に素晴らしかった。此処では温根湯の地下水と温泉水で、北の川にいる魚と熱帯淡水魚とが飼育されている。圧巻は幻の淡水魚といわれるイトウ、体長1mを越えるのが約 40 匹、初めて目のあたりにした。また滝壺を模した水槽を見上げられる水槽では、ヤマメだろうか、滝壺の中で群がっている生態を観ることが出来た。ほかにも北海道の川や湖に棲息する多くの生き物を観ることができた。また、アフリカの湖、東南アジアの川、アマゾンに棲息している魚の展示もあった。また手の角質を食べてくれるドクターフィッシュも人気があった。
 バスは北見の街を抜けて網走へ、そして博物館網走監獄の近くの高台にある昼食所へ。この間ガイドさんからは囚人がどれだけ北海道開拓、とりわけ原野の開拓や道路の建設に寄与したかを話してくれた。昼食での蟹料理、タラバ、ズワイ、ケガニと一見豪華だが、食べるのに随分苦労した。身離れが悪く、茹でてから随分時間が経っている代物とみた。次いでオホーツクバザール、生け簀に大きなタラバガニやケガニ、ズワイガニなら見たことはあるが、これは圧巻だった。北海道の海産物なら何でも揃うといった大きな施設、台湾からの観光客の一団がまとめ買いをするのを目のあたりにした。生きたタラバガニを買っていたが、どうするのだろう。
 バスは原生花園の脇を走る。今は花は見られない。正面左手には、白波の立つ大荒れのオホーツクの海を挟んで、羅臼岳 (1660m) を盟主とする知床の山々が望め、右手には端正な三角錐の斜里岳 (1545m)が見えている。10km にも及ぶ直線道路を通り知床へ向かう。午後3時近く、バスはウトロの街へ入る。当初の予定ならば、知床クルーズ (硫黄山コース) が予定されていたが、海は大荒れで出航できないとか、それで明日行く予定になっていた知床峠へ今日向かうことになった。バスは明日見学することになっているオシンコシンの滝を通り過ぎ、トイレ休憩も兼ねて道の駅うとろ・シリエトクへ、ガイドさんでは、道の駅もさることながら、ぜひ隣接する知床世界遺産センターへ寄って下さいという。でも道の駅は大勢の観光客で賑わっているけれど、センターへの入場者は少ない。道の駅も大きいが、センターもかなり広く、知床の自然に関する豊富な資料が沢山展示されていて、これが無料で入館できるのだから素晴らしい。近くにオロンコ岩が立っている。
 道の駅から山手に入り、ホロベツ川を渡って国立公園内へ、そして峠へと向かう。この知床横断道路は、西海岸のウトロから知床峠 (740m) へ上り、東海岸の羅臼へと下っている。高度が上がるにつれ、ウトロ港や奇岩が続く海岸、さらには高台にあるホテル群を俯瞰できるようになる。眼下には鮭が遡上するというイワウベツ川が見え、この奥には「ホテル地の涯」という秘湯があるという。急カーブが連続し、高度が上がると、やがて眼前に羅臼岳 (1660m) がドーンと見え、間もなくして峠に着いた。風は凄く強くて、飛ばされそうだ。でも風の所為か、空は晴れ、空気は澄んで遠望がきき、国後島が実に間近に、ガイドさんもこんなにはっきり見えることは少ないという。遠く国後島の最高峰の爺爺 (チャチャ) 岳 (1822m) もはっきり見えた。日本の領土とはいえ、ロシアに実効支配されているのは残念だ。知床はアイヌ語では「地の果て」を意味するという。
 帰りのバスで、ガイドさんから「しれとこ100平方メートル運動」の話を聞いた。知床の開発の危機を救おうと、取得した土地で森づくりが行なわれているという。バスは一旦ウトロの町へ下った後、ホテル群がある高台へ。この高台でボーリングしたところ、温泉が湧き出たとか。宿泊費に割り増しのないグループの宿は、「知床プリンスホテル 風なみ季」だった。

道東への金婚記念旅行(その1)

1.まえがき
 私たちが結婚したのは昭和 40 年5月、今年は昭和に換算すると 90 年、結婚後 50 年にあたる。それで何処かへ出かけようということになったが、家内は私に任せるという。これまで私たち独自で案を出し企画したのは、私が退職したときに、九州と瀬戸内を巡った1回きりで、何とも心もとない。それで家内が勤務する医院に、よく国内にも海外にも旅行する白山市在住の女の方がいて、その方がよく利用するエージェントを家内が紹介してもらった。私は何となく北海道へ行きたくて、その方面のパンフレットを所望した。ポイントは旭山動物園と知床五湖、北海道には十数回行っているが、この2カ所はまだ行ったことがない。家内が持ってきてくれたのは近畿日本ツーリスト個人旅行のパンフレット、その中で「道東パノラマ周遊4日間」というのが比較的希望に合致していた。それで最小催行人員2名で、40 日以前申込みが条件となるツアーは、10 月1日〜4日ということになった。
 もっと早くに申し込めば、出発日を調整できたのだが、遅きに失した。家内はこの時期は寒さが心配だという。平均気温は 15℃とかだ。私はそれよりも集合が新千歳空港の近畿日本ツーリストのブース、小松から羽田乗り継ぎで新千歳に向かうのだが、乗り継ぎがスムースに行くかどうかが心配だった。また、それにも増して、台風 21 号は中国大陸で熱帯低気圧になったものの、北方の寒気の影響で 10 月2〜3日には急速に発達して爆弾低気圧となり、北海道では大荒れの天気になるとのこと。旅行会社に訊くと、10 月1日はとにかく航空機は平常通り運行しますという。もう行くしかないという覚悟だった。
2.初日 10月1日
 小松ー羽田ー新千歳 (空港) ー 旭山動物園 ー 層雲峡温泉 (泊)
 家を午前6時に出る。フライトは7: 50 発の日航機、手荷物を新千歳まで預け、機上の人となる。天気は高曇り。上昇の途中、白山の南を通る時に、南竜ヶ馬場の赤い山小屋の屋根が見えた。でも下界が見えたのはここまで、後は雲の中か雲の上、羽田に着く寸前に相模灘と東京湾が見えたっきり。次の新千歳への乗り継ぎに要する時間は 35 分、初めてで緊張したが、難なく乗り継ぎできた。しかし座席は中央、何故か東北の空は晴れていたが、下界を望むことは叶わなかった。新千歳には定刻の 11:00 に着いた。手荷物を受け取り、近畿日本ツーリストのブースに行く。ここで添乗員の方と対面した。先週は金沢にいたとか、全国を飛び回っているという感じ、今日から4日間お世話になる。誰も居ないので訊くと、もう1組いて、ここからバスに乗るのは2組4人とか、これから行く旭山動物園で5組 10 人が乗車し、このツアーは7組 14 人とか、何ともゆったりした旅だ。天候は晴れ、風が少しある。嵐の前の静けさなのだろうか。天気予報では低気圧は猛烈に発達して、中心気圧は 942 hP とか。猛烈だ。
 やがて着いた大型バスに乗り込む。ガイドさんは年配のベテランガイド、さすがキャリアがあり、澱みない案内に感心させられる。帰りの別れ際に訊いたら、ガイド歴 40 年とかだった。バスは一路道央自動車道を旭川へと向かう。道路の両側には薄紫の花が咲き乱れている。ガイドさんではエゾノコンギクとユウガギクだという。そしてナナカマド、今は真っ赤な実をたわわに付けている。母の姉妹が住んでいる札幌、母の故郷の奈井江を過ぎると、右手遠くに真っ白な大雪山系が見えてくる。右端の最も高い三角に尖った山が旭岳 (2291m) とか、乗車3時間で旭川に着いた。お目当ての旭山動物園は市の東郊外の山手にある。何故旭川にあって旭山なのかと訊くと、旭山という土地に開設したからとかだった。
 正門、次いで西門を過ごして、高台にある東門へ、団体専用とかだった。添乗員の方の説明では、先ず山を下って西門へ行き、順に見ながら山を上るように見て歩くのがベターだとか。ここでの鑑賞時間は 90 分、全部を観るのは困難だ。初めに「ペンギン館」。キング、フンボルト、ジェンツー、イワトビの4種のペンギン、水中を泳ぐ様をアクリルトンネル内から観察、颯爽とした泳ぎに目を見張った。皇帝ペンギンは悠揚としていた。ペンギンと家内とツーショット。次いで「あざらし館」、透明な水槽の中を優雅に泳いでいた。次に「ほっきょくぐま館」、さすがに大きくて悠揚として歩く。ペアで一匹が巨大なプールにダイブ、迫力がある。そして「もうじゅう館」、アムールトラ、ライオン、クロヒョウがそれぞれのケージに鎮座していた。エゾヒグマはうろうろと徘徊、アムールヒョウやユキヒョウは頭の上に迫り出した金網に居るのを見上げた。「オオカミの森」では、岩山や小川のある囲いの中を群れをなして徘徊しているのを観ることができた。「エゾシカの森」の脇を抜け、「タンチョウ舍」へ、初めて丹頂鶴二羽を間近に観た。「両生類・爬虫類舍」を抜けて、「北海道産動物舎」へ。哺乳類では、キタキツネ、エゾタヌキ、アライグマほか4種、鳥類では、エゾフクロウ、ワシミミズク、オオワシ、オジロワシなどは初めて観察できた。ほかにも本州でも観られる鳥も十種以上、大きな高いケージに放たれていた。次いで「チンパンジーの森」と「ちんぱんじー館」、幼獣だろうか、ロープや鉄柱を使ってアクロバットに遊び回っている。飽きず眺める。よくぞ落下しないものだと感心する。この後にも数舍を巡り東門へ戻った。アイデア一杯の展示は実に楽しかった。念願が叶った。
 再びバスの人となり、後は今宵の宿の層雲峡温泉へ行くのみ。今宵の宿は「ホテル大雪」とか。道が石狩川沿いに進むようになると、やがて両岸には柱状節理の岸壁が続くようになり、ガイドさんがその一つ一つの名前と謂われを話してくれた。その博識さに舌を巻いた。天候が心配されたが、上々の天気。宿ではゆっくり湯に浸り寛いだ。夜になり少し風が出てきた。

2015年9月23日水曜日

手打蕎麦「だんくら」にまつわる資料

資料1.「だんくら」について
 主人の岡本さんに訊いたところ、東谷の方言で、「だんくら坊主」というと、「やんちゃ坊主〕のことだと話された。そこで「やんちゃ」という語を辞書で当たってみた。
1)広辞苑(岩波書店):子供のわがまま、勝手なこと。だだをこねること。またその子供。      用例「やんちゃ盛り」
2)辞林(三省堂);子供がいたずらやわがままをすること。                    用例「やんちゃ坊主」
3)大辞泉(小学館):子供がだだをこねたりいたずらしたりすること。また、そのさまやそのような  子供  用例「やんちゃをする」「やんちゃな年頃」「やんちゃ盛り」

資料2.「だんくら」のお品書き:単位は 10 円
 ・冷たい蕎麦:つけとろろざる (85)、おろしとろろそば、おろしなめこそば (10~11月) (80)、
  とろろそば、ざるそば (75)、おろしそば、かけそば (65)。 200 円増しで大盛りに。
 ・暖かい蕎麦:にしんそば (90)、おやきそば (80)、なめこそば (10~11月)、とろろそば (75)、
  おろしそば、かけそば (65)。 200 円増しで大盛りに。
 ・食べてみて〜:炊き込み御飯のおにぎり (15)、半熟卵の味噌漬け (25)、だんくらそば豆腐 (30)。
 ・ほんのりほろ酔い:ビール (アサヒ中瓶) (50)、日本酒 (宗玄一合) (40)、ノンアルコール (35)。

資料3.「加賀ひがしたに」について
 手打蕎麦「だんくら」の建物の隣に、大きな建物があり、その前に赤いポストがあった。目敏く見つけた会長が、「この山奥にしてはえらく立派な郵便局だね」と話された。それでそのモダンな建物の玄関に立つと、そこは郵便局ではなくて「東谷地区公民会館」だった。中へ入ろうと思ったが、何故か総ガラス張りの自動扉は開かなかった。東谷で思い出したのは、昨年9月と今年5月に寄った杉水町の「権兵衛」のこと。その時初めて、この一帯の「加賀ひがしたに」が国の重要伝統的建造物群保存地区であることを知った。それでその「東谷」について少々調べてみた。出典は角川日本地名大辞典 (角川書店) による。  
 東谷というのは、江戸期〜昭和 33 年頃の地域通称だという。古くは大聖寺 (だいしょうじ) 川を西川、動橋 (いぶりはし) 川を東川といい、それぞれの川の上流を西谷、東谷と呼んだ。東谷に属する村々は、動橋川の上流の山間部にある、荒谷 (あらたに)、今立 (いまだち)、大土 (おおづち)、菅生谷 (すごうだに)、四十九院 (しじゅうくいん)、中津原 (なかつはら)、滝 (たき)、杉水 (すぎのみず)、西住 (さいじゅう)、市谷 (いちのたに)、上新保 (かみしんぼ) の 11 村と、中流域の 二ツ屋 (ふたつや)、小坂 (おさか)、横北 (よこぎた)、水田丸 (みずたまる)、柏野 (かしわの)、須谷 (すだに)、塔尾 (とのお) の7村である。明治 22 年に、上流域の 11 村は東谷奥村と称したのに対し、中流域の7村は東谷の入口という意味で東谷口村となった。そして昭和 30 年に、東谷奥村は山中町に合併し、東谷口村は山代町に合併した。
その後両町は、昭和 33 年に加賀市に合併し、東谷という地名は消滅した。
 一方、大聖寺川の最上流域には、西谷村が明治 22 年に 13 か村が合併して成立した。村々は、怕(百)野 (かやの)、菅谷 (すがたに)、下谷 (しもたに)、風谷 (かざたに)、大内 (おおうち)、我谷 (わがたに)、枯淵 (かれぶち)、片谷 (へぎだに)、坂下 (さかのしも)、小杉 (こすぎ)、生水 (しょうず)、九谷 (くたに)、真砂 (まなご) で、昭和 30 年に西谷村は山中町に合併、その後 昭和 33 年には加賀市に合併している。
 昭和 33 年に山中町が加賀市に合併した時に、旧山中町の各町は頭に山中温泉を冠している。ところで平成 20 年に出された電話番号簿をみると、過疎化で、旧東谷奥村の 西住、市谷、上新保 の各町と、旧西谷村の 大内、小杉、生水 の各町には郵便番号が付されておらず、住民は居なくて地籍だけが存在しているようだ。 

2015年9月22日火曜日

手打蕎麦「だんくら」

 平成 27 年度後半の探蕎会の行事のうち、9月は 16 日の木曜日に、山中温泉中津原町にある「だんくら」という蕎麦屋へという提案が副会長の久保さんからあった。私にとっては初めて聴く蕎麦屋、時々県内の蕎麦屋が雑誌などで紹介されるが、でもこの店が紹介されて出ていたという記憶はない。そんな点はすごく興味が持てる。事前に事務局長の前田さんから、参加者は6名なので、局長自らアッシー君を務めるとかで、お言葉に甘えることにした。一行の面々は、寺田会長、久保副会長、松田・竹内両女史と私である。予定では松田さんの所へ 9 時 45 分、殿の私が乗車したのは1時間後だった。
 町道から国道8号線に出てから、松田さんが探蕎会で集まる際、駐車スペースに適当ではないかという国道 157 号線沿いの、白山市橋爪町にある松任除雪センター駐車場を見に寄った。トイレも完備されていて、松田さんでは2〜3日の駐車も可という。スペースもあり有望だが、これまでの白山市番匠町にある和泉さんの所に比べると公共交通の便は悪い。
 再び国道8号線に戻り、南下する。松山交差点を左折し、一路山中温泉中津原町を目指す。四十九院トンネル手前に、「そば」と青地に白く染め抜かれた幟が風にはためいていて、そこを左折すると、目指す蕎麦屋はあった。着いた時刻は 11 時 20 分、この店は民家が 20 軒近くある中の1軒、敷地の入り口右手には「手打蕎麦 だんくら 午前11時〜午後4時 定休日火曜日」と書かれた看板が立ててあり、隣には福井県産蕎麦を扱っていることを示す幟も立っていた。店は切り妻の2階建て、見上げると、正面上部に大きな一枚板に金文字で「伝統木竹工芸 寿輪挽 福田工房」の文字、後でご主人に訊くと、この工房を買い受けた時、この板額を下ろそうかと思ったが、余りにも大きくて重く、そのまま掲げておくことにしたとのことだった。店内に入る。4人掛けのテーブルが2脚、2人掛けのテーブルが2脚のこじんまりとした、清潔感のある店だ。右手手前が調理場、右手奥に打ち場がある。奥さんと二人で営業しておいでるとかである。
 店に入ると、右手に、板の額が掛かっていて、それには「越前そば手打そば 池田流」「岡本道場 岡本康雄」の墨書、そしてその下には、それを証する認定証があり、次のように書かれていた。「認定証 岡本康雄 殿 あなたは池田ふるさと道場の認定する池田流蕎麦打ち技術指導課程を優秀な成績で修了されましたので 支部道場を開く事を証します 平成 24 年8月 27 日 池田ふるさと道場 師範 中丁昭夫」とあった。私たちが入った時点では、客は私たちのみだった。4人掛けのテーブル2脚に案内され、3人ずつ座った。程なくしてお品書きが届く。注文したのは、「ざるそば」と「おろしそば」、皆さんどちらかだが、前田さんは両方。お酒は「宗玄」のみ、久保さんと私が注文した。摘みには、短冊にも書かれていた「だんくらのそば豆腐」と「半熟卵の味噌漬け」を貰うことに。
 初めにお酒、杉の柾目の一合枡の中にガラスのコップ、コップには常温の宗玄が1合、コップから溢れたお酒が枡の中に、こんな風情は、記憶ではもう随分昔のおでん屋でのことだ。銚子とお猪口を期待したが、これでは皆さんには振る舞えない。次いで「だんくらのそば豆腐」が出た。細長の角皿に6切れに切ったそば豆腐、生山葵が付いている。皆さんと賞味する。もう1品の半熟卵は、彩色した手捻りの皿に、黄身が鮮やかな4つ割りの卵に、緑鮮やかな刻み葱が散らされていて、色彩のコントラストも良く、食欲をそそる一品だった。ところでお酒は何故か能登珠洲の「宗玄」のみ、奥さんに何故と訊くと、主人の好みで、主人ではこれが最も旨いとか。でも常温では今一インパクトがなく、冷やならまだしも、冷やはないとかで、むしろお燗の方が良かったのかも。
 「そば」が出た。そばは二八の中細、いわゆる越前そばである。私はおろしそば、円い中深の皿にそばが盛られ、上に削り鰹と刻み葱が、もう一つの器には、出し汁に大根おろしが、そばにぶっかけて食べて下さいとの指示、全く越前おろしそばの流儀である。小皿には細切りの煮付昆布がつまに付いていた。そばの味は、そこそこの味、正に「越前おろしそば」だった。石川県加賀の国にあって、さすが福井県知事推奨の店だけのことはある。1時間ばかり居たろうか。帰りに玄関でご主人にも入ってもらい記念写真を撮った。
 帰りには四十九院トンネルを抜けて山中温泉に出て、山代温泉経由で戻った。

2015年9月14日月曜日

シンリョウのジュッカイ(9)「山の唄」の思い出(続)

(承前)
 この唄は、北原白秋作詞、中山晋平作曲と覚えていたので、この線でインターネットで検索したところ、見つけることが出来た。それによると、大正4年に設立された慶応山岳会の三周年記念に、会の歌を作ることになり、会に中山晋平が小学校で唱歌を教えていた時の教え子がいて、彼を通じて頼んだようで、曲が先にできて、その作詞を中山晋平が北原白秋に依頼して出来上がったとかであった。歌の題名は「山の唄」で、作詞者の註では、慶応山岳会の委嘱を受けて、登山歌として作ったと記されているという。出来上がったのは依頼された翌年である。しかしその後、慶応山岳会では、歌の題名を「山の唄」から「守れ権現」に変えて使用していたとある。それで今日では、正式な歌の名称は「山の唄」、そして括弧書きで(守れ権現)となっているようである。以下に、作曲した中山晋平が大正8年に刊行した楽譜付きの本「新作小唄」に載っている北原白秋の歌の詩句を紹介する。

「山の唄」  北原白秋 作歌  中山晋平 作曲

  守れ、権現、夜明けよ、霧よ、 山は命の禊場所。
     行けよ、荒れくれ、どんどと登れ、 夏は男の度胸だめし。

  何を奥山、道こそなけれ、 水も流るる、鳥も啼く。
     馬子は追分、山樵は木遣、 朝は裾野の放し駒。

  風よ、吹け吹け、笠吹きとばせ、 笠は紅緒の荒むすび。
     雨よ降れ降れ、ざんざとかかれ、 肩の着筵も伊達じゃない。

  山は百萬石、木萱の波よ、 木萱越ゆれば、お花畑。
     雪の御殿に、氷の岩窟、 瀧は千丈の逆おとし。

  さあさ、火を焚け、ごろりとままよ、 木の根枕に嶺の月。
     夢にゃ鈴蘭、谷間の小百合、酒の肴にゃ山鯨。

  守れ、権現、鎮まれ山よ、 山は男の禊場所。
     雲か空かと眺めた峰も、今じゃわしらが眠り床。

 私が習った曲の節は、各行とも同じで、どちらかというと民謡調である。
 そして私が聴いて覚えた歌では、二行一節の終わりに「六根清浄 六根清浄」と付け加えて歌われていたが、元歌にはそれがない。でもあった方が格調が高いように想われるが、誰がそのようにしたのかは不明である。
 また中山晋平作曲の楽譜を読むと、私が習った節は、一節目はほぼ似ているが、二節目は異なっている。

シンリョウのジュッカイ(9)「山の唄」の思い出

 終戦になって、第九師団で主計をしていた父は、野村練兵場の土地を以前に提供した元の地主に返還する役目を仰せつかって、私たち一家は2年間金沢市寺町に住まいしていた。その後返還処理が終わって野々市の実家に戻ったが、父は公職追放になったこともあって、旧地主に認められた1町歩を旧小作の人達から戻してもらい、百姓をすることになった。全く経験がないこととあって、いずれは放棄するだろうと噂されていたという。でも協力してくれる人が現れて、どうにか稲の作付けから収穫までも出来るようになった。でも最も困ったのは肥料で、当時は屎尿を用いていたが、近隣は全て既に契約相手が決まっていて、我が家では遠く卯辰山の麓の御徒町まで貰いに行った。片道7kmはあろうか。しかも鉄輪の荷車に肥桶を積んで、香林坊の交差点を経由して行ったものだが、今では想像もできないことだった。そして帰りは味噌蔵町への長い上り坂、犀川大橋から広小路への急な上り坂は本当に大変だった。しかも南端国道は二万堂から先はずっと砂利道で、この区間も実に難儀だった。下肥は一旦槽に貯蔵して寝かして発酵させてから使うのだが、一度槽にひびが入って漏れたことがあり、大騒動になったことがあった。
 初めての田仕事も、田の荒起こしや代掻きは奇特にも請け負ってくれる人が現れ、本当に助かった。そして田植えはどうにか結いに入れて頂いて、共同で行なえるようになった。その後の草取り等は見よう見まねで行なったし、問題は個々で行なう稲刈りだった。10 枚もの田の処理をするのは、父母と私の3人のみ、とても無理なので、当初は羽咋の方に応援に来てもらって稲刈りをした。能登では、稲刈りが若干時期的に遅いこともあって、お願いすることができた。こうしてどうやら素人百姓ながら、父母の踏ん張りもあって、初年度をどうにか乗り切り、曲がりなりにも米の収穫をすることが出来た。
 話は変わって、昭和 24 年に新制大学が発足するのに合わせて、その前年に叔父が金沢大学薬学部の助教授に就任した。専門は生薬学と薬用植物学だった。第1回生の入学は昭和 24 年4月、叔父が学生の授業を持つことになるのはその1年後で、叔父はよく課外に学生と山へ出かけていた。植物採集を兼ねたこともあったようである。そして大学の方針で、薬学部は金沢城内へ移転することになり、その第1陣として生薬学教室が城内に移った。この頃一部の学生は生薬学教室へよく出入りしていて、この第一期生の学生たちが叔父の世話で稲刈りの応援に来てくれるようになった。私が高校へ入学した頃である。素人さんだが、数で勝負できた。そんな縁もあって、秋の収穫が終わったある1日、倉ヶ岳へ行くとかでご一緒させてもらったことがある。あまり天気が好くはなかったが、総勢 10 名位だったろうか、電車で日御子駅まで行き、月橋から登り、大池へ出て、岩場をよじ登って、頂上へ出た。皆さん何を履いていたか覚えはないが、中に一人、厚歯の下駄を履いてきた猛者がいた。旧制の高校生が履いていたあの厚歯である。
 帰りは岩場を通らない反対側の径から曽谷へ下りた。そして下りには雨になった。カッパや傘は持たず、濡れながら下った。しかし皆さん唄を歌いながら、自身を鼓舞するかのように元気に歩いた。唄は簡単な節だったので、私は直ぐに覚えた。それは風や雨をも吹き飛ばすような唄で、好きになった。当時メモった文句を見ると懐かしかった。しかしその後入った大学の山岳部でも、歌のサークルでも、この唄を歌ったことはなく、また山の歌の本にも収載されてはいないようだった。そして唄の文句は知ってはいたが、題名も知らず、それが9月2日の吉岡さんの夜行雨中白山登山を知って、思わず口ずさんだものだから、少し調べてみようと想った。

2015年9月10日木曜日

Yさんの雨の日の白山行き

 はやかわクリニックの院長の早川康浩さんは、山と医療の本音トークという副題で、「YASUHIRO の独り言」というブログで、毎日の出来事を書き綴っておいでる。私はそれを毎日拝見している。はやかわクリニックは、胃腸科、内科、肛門科を標榜していて、私は年に一度はここで胃と大腸の内視鏡検査を受けている。多くの医院や病院では、これらの検査は予約して受診することになっているが、このクリニックでは一切の予約は受付しないで、その日に受診した人は、余程の事情がない限りは、その日のうちに検査を済ませている。また予約がある機関でも、通常扱う人数は1日 10 人位なのではと思うが、はやかわクリニックではその数が 50 〜 60 人が通常というから、半端な人数ではない。補助の方がいるにしても、内視鏡を扱うのは院長一人だから、その忙しさは想像を絶する。しかしそれをこなすというのが信条であるからして、もう凄いというほかない。これは内視鏡の卓越した技術もさることながら、強靭な体力と精神力が備わっていないと出来るものではない。正に超人的である。このことはブログの人気とも相まって、全国に知れ渡っている。アクセス数は 728 万に達している。
 はやかわクリニックの休日は日曜日と水曜日である。この日はワンデーと称して、積雪期にはスキーを駆使しての山行、それも常人では思いも付かないようなルートをファインディングして挑戦されている。山スキーは自身で会得されたというが、その技術たるや正に超人の域である。その踏破範囲は、地元の白山山域は勿論、北アルプス全域、頸城山塊にも及んでいる。また無雪期には、白山、立山・剣岳、朝日岳周辺を巡るほか、沢にも興味を持って挑んでおいでる。これらの山行・スキー行は単独のこともあるが、技術も体力も相似た仲間と一緒なことも多い。しかも1日の診療を終えてからの出発で、しかも次の日にはまた診療があるわけだから、深夜から行動を起こすことが多く、こんな行動は常人には思いもつかず、正にスーパーマンそのものである。このほか車を使用できない所へのアプローチにはチャリ (自転車) を有力な武器として愛用している。行動範囲の拡大と時間の短縮には、スキーもチャリも大いに役立つという。特に下山時にはその差は歴然としている。したがって無雪期にはチャリでの登坂や長距離ロードもかかさない。一方長期の休暇は、正月、ゴールデンウイーク、お盆、シルバーウイークで、積雪期にはよく北海道へ遠征されているし、無雪期には長距離ロードで温泉巡りなどで楽しんでおいでる。それにしてもブログを読むと、とても私たちが真似できる行動ではない。
 さてこの9月、梅雨前線が停滞して天気が芳しくない。早川さんはこの夏から白山の谷筋に入っておいでて、恐らくまだ誰も足跡を残していない沢にも挑戦されていることが予想される。でも沢筋に入っていて最も怖いのは急激な増水で、雨が降っている時に沢に入るのは厳禁である。ところで休日の日・水は雨が多いこともあってか、雨の白山への体力トレーニングを思い付かれたようだ。白山は夏山シーズンは終わったものの、秋山にはまだかなりの登山者がいる。でも秋雨の中、求めて白山へ登る酔狂な人は少ないというよりないはずだ。そこで9月2日の水曜日、日の出時に白山頂上に立つ計画で、酔狂にもクリニックの婦長の Y さんにどうですかと話をかけたと言う。ジムでのトレーニングもいいが、こんな実践トレーニングも良いからどうかとのこと、話かけた院長も院長だが、受けた婦長も婦長で、雨中の白山登山を実行することになった。
 Yさんは、はやかわクリニックが開院した時からのメンバーで、それ以前は私の家内が務めている野々市の舩木病院 (現舩木医院) に勤務していた。家内では、大変優秀な看護婦さんで、気丈で責任感が強く、真面目で几帳面な方とのこと。舩木病院の院長も登山やスキーが大好きで、よく病院で休日には職員と山に出かけたり、スキーに行ったりしていて、私もよく参加させてもらっていた。でも彼女と一緒になったことはなく、彼女はその頃はそんなことに余り興味を持っていなかったのかも知れない。ところが今では厳冬期の白山は別として、残雪期や無雪期の白山ならば、単独でも行動できる能力を彼女は持ち合わせている。舩木病院の院長の山行やスキー行は、どちらかと言えば娯楽的な要素があったのに対し、はやかわクリニックの院長の行動は物凄く先鋭的で、彼女の負けん気がそれに触発されて、今の山好きになったのだろうか。
 院長が婦長を誘ったといっても、同行するのではなく、トレーニングにどうですかということだった。院長の予定では、降雨だが頂上の御前峰で日の出の時間に到着するように別当出合を出発するとのこと、院長は午前3時に歩き出している。彼女は降雨での夜間登山の経験の有無について私は知らないが、後から出発した院長が中飯場辺りで追いついた時に、彼女はご主人と一緒だったと書いていた。院長の予定は登り2時間、下り1時間半だという。院長は室堂で少し時間待ちをして、日の出時刻の9時 15 分には頂上にいたと書いている。そして下山時には、婦長とは弥陀ヶ原で会ったとも書いていた。院長はブログには快適な体力トレーニングだったと述懐していたが、果たして彼女はどうだったのだろうか。

 このブログの記述を読んでいて、彼女を思い、ある唄を想い出し、口ずさんだ。
「雨よ、降れ振れ、ざんざとかかれ、肩の着莚も伊達じゃない。六根清浄、六根清浄」。

2015年8月24日月曜日

残暑の能登へドライブ(その2)

(承前)
(2)能登半島突端の禄剛崎 (ろっこうざき) へ
 昼近くになり、間垣の里を辞して輪島の市街地に戻る。昼食は市中の喧騒を避けて、道の駅「千枚田」でもと国道 249 号線を東進する。沖には七ツ島が見えている。ねぶた温泉を過ぎ、さらに 10km ばかり走ると白米 (しろよね) の千枚田が見えて来る。稲穂はまだ緑だ。ところで道の駅は以前に比べ随分と整備が進み広くはなっているが、平日なのに観光客が実に多いのに驚く。そこへ観光バスも到着したものだから大変な混雑、とても昼食をとれる環境ではない。それではと曽々木を目指す。
 曽々木は白米からはさらに 10km ばかり先、ところで少し走って名舟 (なぶね) の「御陣乗太鼓発祥の地」の碑を過ぎた辺りに、地内は輪島市なのに、テレビドラマ「まれ」に出て来る「奥能登揚げ浜塩田輪島塩」の看板が出ていたのには驚いた。本来は珠洲の塩のはずなのに、ここではあのドラマの輪島の塩と銘打っていた。しかも観光客に海水を撒くのを体験させたり、海水を運ぶ桶を担ぐ仕草をさせたり、中々商売上手である。ところで売っている塩や海産物は実に高く、消費税ばかりか観光税も上乗せしているのではと感じた。素晴らしい魂胆だ。窓岩が見え、曽々木に着いた。時間は午後1時半近く、天然活魚と看板のある食事処へ入る。昼時とあってかなり混み合ってはいるが、空いた席もある。板敷きの広間の一卓に陣取る。窓からは海が見え、窓岩も見えている。注文は海鮮丼と刺身定食、私は冷酒を1合貰う。折しも高校野球は今日が決勝戦、まだ序盤戦、テレビ放送の音だけが聞こえて来るが、どうも神奈川代表が勝っているらしい。漸く順番が回ってきて、注文の品が届いた。魚介類は全てが地の物ではないにしろ、まずまずの品、鮮度も良かった。
 午後2時に曽々木を発ち、能登半島珠洲岬突端の禄剛崎へと向かう。程なく真浦海岸の千畳敷が見えてくる。続く仁江海岸の一帯は、日本で唯一受け継がれてきた揚げ浜式製塩の塩田があるところ、この辺り一帯には塩田が多い。一時は廃れていたが、連続テレビドラマ「まれ」のせいもあって、珠洲塩は人気沸騰で品薄とか、塩田も息を吹き返したようだ。またこの仁江海岸一帯は「日本の夕陽・百選」にも選ばれている景勝地でもある。
 珠洲市大谷町からは国道は外浦から大谷峠を越えて内浦の珠洲市役所のある飯田町に至っているが、頭上のループ橋に魅力を感じて国道を進む。よくぞこんなに立派な道路を造ったものだ。ループ橋の通り心地を満喫し、トンネル手前でUターンし、大谷から狼煙への県道、別名「奥能登絶景海道」を進む。高台から木ノ浦海岸と日本海を眺めながらのドライブは実に快適だ。道の駅「狼煙」には午後2時40分に着いた。
 道の駅から禄剛崎灯台へは坂道を登ること5分とか、家内はしんどいので道の駅で待っているというが、5分ばかりの上りだから行こうと促す。以前は道は山道だったが、今はきれいにアスファルト舗装されている。家内が先に歩き出し、私が後を追う。坂は短いが、かなり急である。遅く歩き出した長男に抜かれるのは覚悟だが、家内に追いつけないばかりか、観光バスの団体さんにもどんどん抜かれる始末、息は上がらないものの、足が重い。これではとても山へ登るなど出来ない相談だ。漸く灯台のある広場に着いた。広場には「ここが日本の真ん中」という碑もある。ここは能登半島の最北端、ここでは海から昇る朝日と海に沈む夕陽が共に見られるとか、天気が良ければ立山や佐渡も見渡せるという。灯台へは以前は入られたが、今は無人で入れない。かれこれ 30 分ばかり居て道の駅へ戻った。
 道の駅から南下して 1.5km ばかり、下によしが浦温泉の「ランプの宿」を見下ろせるパーキングへ寄った。ここ一帯は能登双見という景勝地、突端は金剛崎という岬だが、この岬一帯を「聖域の岬」として開発し、陸からも海からもこの景勝の地を巡ることができるようにしてある。もちろん有料である。10 分ばかりいて、見附海岸へ向かう。
 県道大谷狼煙飯田線をさらに南下し、日本海側一帯の守護神とされる須須 (すず) 神社 (第十代崇神天皇の時代に創建されたとされる由緒ある神社) の前を通り、半島内浦の海岸線に沿って付けられた道路を走り、珠洲市中心の飯田町を通り抜け、見附島へ向かう。駐車場に車を停め、松林を抜けて海岸へ。見附島は珠洲のシンボルとも言える、一名軍艦島の異名のある高さ 30m ばかりの島、今はこの一帯は「えんむすびーち」と呼ばれるカップルに人気のスポットとか。少し南には恋路海岸という場所もある。観光客も沢山来ていた。ここへは弘法大師も訪れたという言われ書きがあり、近くには露天風呂「弘法の湯」もあるそうだ。しばらく散策して帰宅の途につく。飯田の町まで戻り、珠洲道路 (のとスターライン)を経て穴水へ、途中道の駅「能登空港」へ寄り道した。帰宅したのは午後7時少し前、走行キロ数は 350km だった。

残暑の能登へドライブ(その1)

 私の長男は昭和 41 年生まれの 49 歳、現在横浜に住んでいるが、今ではこちら石川県に住んでいた期間よりはあちらに住んでいる期間の方が長くなった。長男一家は娘2人がいる4人家族、長女は大学生、二女は高校生、子供が小さい頃は家族で帰郷していたが、長ずるにつれて、受験や部活動などで来られないことも度々である。今年も二女が受験とかで、長男のみの帰郷、彼は車を駆って帰って来る。それで家族を伴わないで帰郷した時には、近隣の地へ1日ドライブするのが常で、当初私は乗り気でなくて家内が付き合っていたが、昨年からは私も一緒に出掛けるようになった。これまで三方五湖や九頭竜湖などへ出掛けたようだが、昨年は私も一緒で氷見へ出掛けた。長男の今年の休暇は8月 19 〜 23 日、今年は 20 日に輪島・珠洲方面へ出掛けるようだと家内から伝言があった。このドライブはあくまでも長男の意向に沿ったものであって、それに私たちが付き合うという趣向だ。

(1)間垣の里大沢 (おおざわ) へ
 出発は朝8時、ところで車を動かすと画面に大きくバッテリー不良の警告表示、動いて暫くして警告表示は消えたが、長丁場なので念のためディーラーへ。前日横浜から長駆帰郷したのだから心配ないとは思ったものの、確たる根拠があるわけではない。でも点検の結果では特に異常はないとのことで、9時前には一路輪島へと出立した。道路は平日にもかかわらずかなりの渋滞、長男は金沢西 IC から森本 IC までは高速道を利用、こんな使い方もあるのだと感心する。IC を下りて津幡バイパスを通って「のと里山海道」の白尾 IC へ、天候は曇り、途中道の駅「高松」でトイレ休憩をして、その後は終点の穴水 IC までノンストップで走る。途中別所岳 SE 近くの下り線に設置されている、車が時速 70km で走ると奏でられるという連続テレビ小説「まれ」の主題歌のメロディーが聞こえてきたが、車のタイヤの音と相まって、斬新な思いつきには違いないが、今ひとつすっきりした感じではなかった。メロディーは1分間ばかり続いたろうか。
 穴水 IC で下りて県道を輪島へと北上する。以前は金沢と輪島間には七尾線が敷設されていたが、穴水ー輪島間は廃線になってしまった。でもこの「まれ」の人気がもう少し前だったならば存続されたろうにと思う。あの当時、沿線の住民は鉄道より自家用車やバスが便利との声が多かったものだから、致し方なかったろう。でも今のと鉄道では観光目的でお座敷列車を七尾ー穴水間で運行していて人気があるそうだが、七尾ー輪島間だったらもっと効果は大だったろうにと思う。旧輪島駅前を過ぎて中心部の河井町から河原田川に架かるテレビでお馴染みの新橋を渡り、間垣の里の大沢へ向かう。距離は 12km、山から外浦の海へ一気に落ちる山肌を縫うようにして道が付けられている。でもこの県道輪島浦上線、西保海岸に近づくと道路は1車線の箇所が多くなり、対向車があると交差が大変だ。幸い私たちは1車線の箇所での対向車との出会いはなく、無事大沢に着けた。町の入り口には 20 台近く停められる臨時の駐車場が設えてあって、平日ながら車が 10 台ばかり停まっていた。
 車から降りて県道に沿って歩く。右に西保海岸と漁港、左には間垣に囲まれた家々が道路に沿って続いている。テレビでお馴染みの風景だ。でも以前に来た時は、間垣の竹は古く色あせたものが多かったが、今見て新しく整備されているのは、この度のテレビロケの所為だと思う。間垣は距離にして 200m  ばかり続いている。民宿「おけさく」は一番手前にある一般民家で、中へは入られない。そして少し先には田中屋旅館という立派な宿があるが、ロケでは拠点になったろうが、普段はどんな人が投宿するのだろうか。そして案内の方からぜひ寄るようにと言われた大沢では最も高い建物という外浦 (そとら) 村役場を外から眺めた。またすぐ近くには大変立派な静浦神社が鎮座しているし、少し山手には真宗大谷派の霊高寺という寺もある。
 またここには西保公民館、西保郵便局、大沢駐在所があり、以前には西保小・中学校もあった。ここ大沢は昭和 29 年に輪島市と合併するまでは、近隣7村が合併してできた西保村の役場所在地でもあった。町の中央には谷坂川 (別名桶滝川) が流れ、上流1km には石川県の天然記念物・名勝の桶滝がある。背後には動坂山と烏ヶ山があり、西保海岸には大沢漁港がある。それにしても訪れて思うことは「素朴で静かな海の里」という感じ、一時の喧騒の時が過ぎれば、また元の静かな半農半漁の間垣の里に戻るのではなかろうか。聞けば、多い日には7百人を超える人が押し寄せたとか、さぞかし道路の渋滞は相当なものだったろう。

2015年8月10日月曜日

白山の三馬場めぐり(その3)

(承前)
3.長滝白山神社と天台宗白山長瀧寺  岐阜県郡上市白鳥町長滝
 午前 11 時頃に平泉寺を発つ。以前ここで名物のアイスクリームを皆が食していたのを思い出し、家内に言ったところ、ゲットしてきた。美味しいという。でも私は食べない。再び国道 157 号線に戻り南へ、ルートは九頭竜湖、油坂峠を経由して国道 156 号線を北上して長滝へ至る予定にしていた。ところで九頭竜川沿いの国道を 157 号線と思い込んでいたものだから、谷が狭まってきて初めてこの道は温見峠越えの道だと気付き、山に入る直前に迂回して 158 号線に戻った。大野から長滝へは 158 号線、次いで 156 号線が正解だ。道の駅九頭竜に着いたのは正午近く、でもここでの昼食はパスして先を急ぐ。石徹白への道をやり過ごし、九頭竜湖の右岸に付けられた道路を上流へと進み、やがて道路は湖岸を離れて油坂峠へ。峠の手前には白鳥西 IC へ向かう中部自動車縦貫道があるがここへは入らずに忠実に国道を辿る。トンネルを過ぎれば岐阜県、九十九折りの道を下ると、やがて国道 156 号線と合流する。ここから荘川までは国道 156 号線と国道 158 号線の併用区間である。合流してからは北へと進み、道路左手に長良川鉄道の白山長滝駅が見えて来ると、線路を挟んで目的地の長滝白山神社が見えて来る。
 広い駐車場の北側には、巨大な石の碑が立っていて、上部には横書きに「白山文化の里」、そしてその下には大きく「霊峰 白山への道」と揮毫されている。ここに車を停め、ここから表参道を進んで長滝白山神社・白山長瀧寺へと向かう。途中参道の両脇には、現存の三坊院や今はなき古の坊院跡があったことを示す標柱があちこちに見られる。そして参道から境内へ上がる広い石段の両側には銀杏の大木が植わっていて、小さい粒の実が一面に落ちていた。
 境内へ上がると、長滝白山神社の拝殿と白山長瀧寺の堂社が並ぶように建っていて、拝殿前には正安4年 (1302) に寄進されたという重要文化財の石燈籠がある。一角にある社務所に寄り、御朱印と牛王宝印を頂く。隣には龍宝殿があり、ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像 ( 中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩 )、その両脇にはやはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財である木造四天王立像 ( 多聞天、広目天、持国天、増長天の四像 ) が置かれている。
 ここ美濃馬場の白山中宮長滝寺は、平安時代の天長9年 (832) に他の二つの馬場、加賀馬場の白山中宮や越前馬場の平泉寺と並んで開かれ、長滝から石徹白の白山中居神社を経て白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。そして白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、平安から室町時代にかけての最盛期には、「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかしその後蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは薄れていった。そして明治維新の際に発せられた神仏分離令によって白山中宮長滝寺は解体され、長滝白山神社と白山長瀧寺に分離された。ところで明治 32 年 (1899) に近隣の家から出た火災によって、その大部分が焼失してしまった。現在ある神社本殿は大正8年 (1919) に、寺本堂は規模を小さくして昭和 11 年 (1936) に再建されたものである。
 美濃禅定道は美濃馬場から桧峠を越えて石徹白に入り、白山中居神社を経て谷を二つ渡り、今清水社があった大杉平 (石徹白の大杉) を経て神鳩 (かんばと)社 (現在ここには神鳩ノ宮避難小屋がある)に出る。一方ここまでは美濃馬場の裏手から山に上り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て神鳩社で一般禅定道と合流する修験道があった。禅定道はここから銚子ヶ峰、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰を経て別山に至り、南竜ヶ馬場を経て室堂に至っていた。現在でも石徹白から別山を経て南竜ヶ馬場に至る道は石徹白道 (南縦走路) として、また南竜ヶ馬場から御前坂を登って室堂へ行くコースはトンビ岩コースとして現在も利用されていて、至る所に往年の禅定道の面影を見ることができる。
 今私の手元にある資料では、美濃馬場の白山中宮長滝寺の神仏習合時の垂迹神と本地仏を記した資料がない。でも現在ある長滝白山神社の社殿が三社あるということは、越前馬場の平泉寺と同じような形態であったろうと思われる。今一度訪れて確かめてみたい。
 こうして三馬場巡りは終わった。帰りに自宅への帰路をナビに入れたところ、最優先が高速自動車道路、白山スーパー林道 (現 白山白川郷ホワイトロード) 経由を希望しても白川郷 IC 経由でと、荘川 IC を過ぎるまで執拗に誘われた。健気としか言いようがない。帰宅したのは午後5時、走行キロ数は 300 km だった。


白山の三馬場めぐり(その2)

(承前)
2.平泉寺白山神社と天台宗霊王山平泉寺  福井県勝山市平泉寺町平泉寺
 白山比口羊神社を出て、鶴来山手バイパスから国道 157 号線に出て南下する。途中で道の駅「瀬女」へ寄ってから再び国道に戻り南下する。手取ダム堰堤近く、東二口第一隧道の一時通行止めになっていた崖崩れ現場は、現在は片側交互通行になっているが、一時は白山登山の基地市ノ瀬に入るのに、福井県勝山市を経由しなければならなかった。車は手取湖左岸のトンネル群を抜けて白峰へ、更に谷峠を越えて勝山市に入る。更に国道を進み、左に越前大仏が見えると程なく道路に標識があり、左折すると平泉寺白山神社に着いた。
 駐車場には大型観光バスが停まっていた。今日は日射しが強く、家内は日傘を持ってきたが、それでもアスファルト道路の照り返しは半端ではない。以前に波田野先生と訪れたのはもう随分昔なので、当時とは辺りの雰囲気は随分と変わっている。元あった広い駐車場の半分には、新しく白山平泉寺歴史探遊館「まほろば」が出来ていて、ここは国史跡である平泉寺旧境内の総合案内施設とのこと。勝山市が運営していて、入館は無料とのことだった。暑さを逃れて「まほろば」に入る。
 館内はエアコンが効いていて実に快適、映像やパネルで平泉寺の歴史や越前禅定道のこと、また平成元年 (1989) から始まった発掘調査で出土した品々の展示など、資料は実に豊富だ。開山は養老元年 (717) 、弟子と共に白山へ向かう泰澄は、この地の美しい泉 (境内にある御手洗池 ) の辺りで白山女神 (イザナミノミコト) から白山の頂上に来るよう告げられたという。その後登拝に成功した泰澄が、下山後にこの泉の辺りに構えた庵が後に平泉寺になったとかで、ここより白山室堂への道が越前禅定道である。
 白山平泉寺は白山御前峰を本社、白山大汝峰を越南知 (おおなんじ) 社、白山別山を別山社とし、これを白山三社といい、ここでは神仏習合が見られた。すなわち本社の垂迹神は伊◯◯尊 (イザナミノミコト)、本地仏は十一面観音菩薩、越南知社の垂迹神は大己貴尊 (オオナムチノミコト)、本地仏は阿弥陀如来、別山社の垂迹神は天忍穂耳尊 (アメノオシホミミノミコト)、本地仏は聖観音菩薩である。〔註〕ここでいう本地垂迹とは、仏・菩薩が衆生を救うためにその本身を仮に種々の姿に変えて現れることで、日本の神々も印度の仏・菩薩が仮に姿を表したものとして説かれる ( 維摩経序 )。こうして白山平泉寺は最盛期には 48 社、36 堂 6千坊、僧兵 約8千人の巨大な宗教都市であったという。しかし天正2年    (1574) には一向一揆の焼き討ちにより全山焼亡してしまった。後に一部再建されたものの、明治の神仏分離令によって、名称は平泉寺白山神社となり、祭神は垂迹神のみとなった。また廃寺となった天台宗霊応山平泉寺はその後村民らによって境内に復活されたとのことだ。
 バスツアーの方々は約1時間かけて境内を巡るという。どこからどこまでが境内なのかが分からない位、とにかく広大である。現在は南谷三千六百坊跡、北谷二千四百坊跡の発掘が進められているという。そして一部復元された門や土塀、それに中世の石畳道、大門や堂宇や道場の跡、平泉寺焼亡の折にも焼けずに残ったという大杉などが見られるという。しかしこれらをまだ私は目にしたことはない。でも今日は牛王印巡りということで、またの機会にゆっくり訪れようと思う。ところで牛王印は社務所で頂くのだが、その場所が分からず、改めて探遊館で教えてもらった。奥にある拝殿への参道を辿り、精進坂の石段を上り、一の鳥居をくぐると左手にあるとか。進むと標柱があり、門をくぐって少し歩むと古ぼけた社務所があった。人が居るような気配はなく、牛王印とスタンプ台が式台に置いているのみ。裏の旧玄成院庭園を拝観したい人は拝観料を納めて鑑賞して下さいとある。北陸最古の庭園であると。
 以前に来た時は参道を更に奥まで進み、二の鳥居をくぐり拝殿に参拝し、さらに奥にある三の宮まで上がった。これより上は越前禅定道になっていて、禅定道は平泉寺の背後にある三頭山、法恩寺山、経ヶ岳を経て、小原峠から三ツ谷へ下り、一ノ瀬に達し、ここから旧道尾根 (現白山禅定道 )に上って、更に現在の観光新道を経て室堂に達していた。ただ法恩寺山から小原峠までの道筋は未だもって確定されていない。でもこのように現在の市ノ瀬から先の旧道は白山禅定道として復活し、真砂坂分岐より上は観光新道として利用されている。翻って現在白山への登山には、旧越前禅定道が最もよく利用されていると言っても過言ではない。ただ平泉寺から市ノ瀬に至るまでの道は特定されていないこともあって、この区間は一部がハイカーの対象となっているに過ぎない。ただ福井県では最もよく登られるという赤兎山の登山で、最もよく利用されるのがこの小原峠である。

白山の三馬場めぐり(その1)

 6月の下旬、日は定かではないが、地元紙の北國新聞の社会面に、平成 29 年に白山開山 1300 年を迎えるに当たって、白山・泰澄大師ゆかりの地をめぐる旅として「白山の三馬場めぐり」が企画され、加賀の白山比口羊神社、越前の平泉寺白山神社、美濃の長滝白山神社を回り、三カ所で牛王宝印を集めると、記念品を贈呈するとのことだった。地元の白山さんにはしょっちゅう、越前の平泉寺へは十回近く、美濃の長滝白山神社にも過去2回訪れたことがある。この三馬場は泰澄大師による白山開山後、白山登拝の禅定道の起点ともなった場所であり、これら三禅定道は今でもその一部や全部が白山への登山道として現存している。
 それで早速6月 28 日の日曜日に白山さんに出向き、社務所で新聞でこの企画を見たが、そのスタンプラリーのパンフレットを頂けないかと頼んだところ、この企画は7月からなので、7月になってからでないと渡せないとのことだった。そしてこのパンフレットは7月になれば道の駅でも貰えますとのこと。7月1日になり早速道の駅「しらやまさん」へ出向き、スタンプラリーのパンフレットを貰った。でも置いてある場所はすぐには分からず、案内の人に聞いて初めてその場所が分かったような目立たない所に置いてあった。このパンフレットは立派な出来で、A5版 12 頁のカラー刷り、しかも A3版の折りたたみ案内地図まで付いている優れものだった。
 このラリーの有効期間は、7月と8月の2ヵ月間のみ、この間家内と一緒にと思ってはみたものの、家内はまだ市内の医院に勤務の身、日曜日しか空きがなく、彼女がフリーでも私に用事があったりで、ようやく都合がついたのが8月2日の日曜日、でも私は2,3日前から原因不明の左手手首の痛みと腫れ、車の運転が危ぶまれたが、いざとなったら家内が運転するとのことで出掛けることにした。三馬場巡りへの出発である。

1.白山比口羊神社(旧国弊中社) 石川県白山市三宮町
 家を午前8時に出る。旧鶴来町の山側バイパス ( 県道 103 号線 ) を通って神社の駐車場へ。昨日は別の用事で来ていたが、1日とあって駐車場はほぼ埋まっていた。これは毎月1日には早朝4時半から「おついたちまつり」の特別祈祷があるからで、月の初めにお祓いを受ける方々が参集する。それにしてもこんなにいるのだなあと感心した。でも今日は駐車している車はまばらである。この大きな駐車場ができてからは、車で参拝する人はもっぱらこちらからの利用が通常で、表参道から参拝する人はごく一部でしかない。表参道にも駐車場はあるがずっと狭い。ずっと以前にまだ北陸鉄道の加賀一宮駅があった頃は、ここから表参道を上がって参拝したものだ。
 駐車場から北の鳥居をくぐって北参道から境内へ、手水舍から一旦表参道へ回り、神門から再び境内へ、お参りしてから社務所で牛王宝印を頂く。また御朱印も頂いた。牛王宝印とは、神仏を勧請した守り札として社寺から出されたもので、古くは延命長寿や家内安全の御守とされていたとある。印は「白山権現牛王寳印」と読める。
 パンフレットを見ると、創建は紀元前 91 年 (崇神天皇7年 )。白山を神体山とし、白山比口羊大神 ( 菊理媛尊=ククリヒメノミコト)、伊◯諾尊 (イザナギノミコト)、伊◯◯尊 (イザナミノミコト ) を御祭神とするとある。また全国にある白山神を祀る三千社以上ある白山神社の総本宮であり、神社信仰の神社数としては全国では第8位である。因みに最も多いのは八幡信仰、次いで伊勢信仰、天神信仰、稲荷信仰と続く。
 ここで疑問なのは、白山を開山した泰澄大師は当時の加賀の国には足を踏み入れてはいないのではないかとのこと、従って神仏習合の時代にあっても寺は存在しなかったようだし、明治になって廃仏毀釈になった際にも、白山本宮のあった加賀馬場は何の影響も受けず、却ってこれを機に白山は白山比口羊神社の所領となった。そしてこの折白山に安置されていた多くの仏像が壊されたりしたが、それを危惧した村人達が山から下ろした仏像が白峰の林西寺の白山本地堂に安置されているが、これは加賀馬場とか、白山信仰が全国に広まった後に栄えた加賀禅定道とかとは縁がない。加賀禅定道とは、加賀馬場を起点として、中宮から尾添尾根を経て白山室堂に至る道で、現在は白山一里野温泉と白山室堂との間で復元されている。
 ここに小一時間程いて、次の越前平泉寺へと向かった。

2015年7月26日日曜日

同窓会 あ・れ・こ・れ(その3)

(承前)
3.昭和 23 年度野々市小学校・昭和 26 年度野々市中学校同窓生の会(子うし会)
 この会のメンバーは、昭和 24 年 (1949) 3月に野々市小学校を卒業した同窓生と、昭和 27 年 (1952) 3月に野々市中学校を卒業した同窓生の合同の会である。1人だけ年長の方がいたが、その他の人達は昭和 11 年 (1936) 4月2日から昭和 12 年 (1937) 4月1日に生まれた方々である。会の名称は、昭和 11 年が子 (ね) 年、昭和 12 年が丑 (うし) 年なので「子うし会」とした。読みは「コウシカイ」である。中学校を卒業して 20 年を経て集まった折りに、以後は5年おきに同窓会を地元で開催しようということで集まってきたが、還暦を機に毎年温泉地で同窓会を持とうということになり、その後は地元の温泉地での1泊の開催と1〜2泊の旅行とを毎年交互に行なうことで今日に至っている。
 野々市小学校と野々市中学校の卒業生を合わせた同窓生の数は、男子が 28 名、女子が 25 名の 計 53 名で、このうち他界した人が男で 10 名、女で 4 名、また全く連絡がつかない人が男で3名いる。したがって現在連絡が可能な人は、男で 15 名、女で 21 名の 計 36 名となっている。
 男性の居住地を見ると、現在も地元の野々市市に居る人は6名、金沢市に2名、小松市に1名で、石川県在住者は9人である。県外では、東京都と大阪府に各2名、愛知県と兵庫県に各1名となっている。一方女性の居住地は、野々市市に9名、金沢市に7名、白山市に1名、小松市に1名、県外では東京都に3名が居住している。

子うし会の行事
(1)旧盆の墓参りと法要
 昭和 52 年 (1977) に同窓生の N 君が交通事故で亡くなったのを機に、毎年旧盆前の日曜日に近在の有志が集まり、供養の墓参りをすることにした。今は他界した N 君と私がお経をあげる役目をし、その後で有志が軽く一杯飲むというのが流れだった。その後昭和 54 年 (1979) に S 君が、昭和 55 年 (1980) には I 君が、昭和 61 年 (1986) には T さんが、昭和 63 年 (1988) には Z 君が他界し、お墓参りは野々市ばかりではなく金沢市や松任市 ( 現白山市 ) にまでも出かけるようになった。そして平成元年 (1989) 5月に N 君が鬼籍に入ったのを機に、墓参りの後、地元野々市の名刹の照台寺で物故者の法要を営むことにし、この行事は毎年行なわれることになった。その後私と読経を共にしていた N 君が亡くなった後もこの行事は続けられてきたが、平成9年 (1997) に行なった還暦の祝いを境にして、この墓参と物故者法要は一応区切りとして止めることにした。
 現在この会は私が主宰して世話をしているが、私の希望としては、子うし会が来年行なう傘寿の祝いに合わせて、同窓生 14 名と同級生1名の物故者法要をしたいと思っている。
(2)地元温泉地での同窓会
 還暦の祝いを機に、1年おきに地元温泉地で同窓会を開こうということになり、世話人の Y 君と A さんが中心となって会が運営されてきた。中でも男性の Y 君は渉外能力に秀でていて、会場の設営や運営に手腕を発揮してくれた。同窓の皆さんへの案内などは私が担当し、それ以外は2人の世話人がその任に当たってくれた。これまでを振り返ってみると、温泉地では山代温泉が最も多く、次いで粟津温泉、そして片山津温泉の順だった。ただ昨年は富山県の雨晴温泉へ出かけた。
(3)1年おきの同窓旅行
 世話人のY 君の斡旋もあって、この旅行は地元北陸交通の N さんが常に世話に当たってくれ、これまで九州への3回の旅行を除けば、全行程すべて北陸交通のバスを使っての旅行だった。還暦以降これまで 10 回の旅行、県内の能登への旅行を除けば、すべて2泊の旅行だった。気になる費用はこれまでは 12 万円が最高だったが、今年の五島列島への旅では、14〜15.5 万円と過去最高になった。振り返ってこれまでに訪れた観光地は、天竜・静岡、富士・伊豆、京都、伊勢・志摩、奈良・熊野、山陰、九州3回等々である。でも元気な方が年々少なくなっていくこともあって、この会としての旅行はこれで終わりにしようかと思っている。

同窓会 あ・れ・こ・れ(その2)

(承前)
2.金沢泉丘高等学校第7期同窓会(泉丘七期同窓会)
 この同窓会はかなり以前からずっと2年おきに開催されてきた。七期同窓会の開催が決まってからずっと主宰してくれていたのは K 君で、このような会は熱心な世話人がいないとなかなか会を盛り上げるのは難しい。さて、これとは別に、毎年決まって 10 月 15 日に、(今年は 16 日から 18 日まで全国規模の学会が金沢市内の主なホテルを会場に開かれる予定なので、前日の 15 日はその準備で市内のホテルの使用ができないため、今年のみ例外的に 10 月 11 日に変更になった)前身の母体でもある旧制の金沢第一中学校と新制の金沢泉丘高等学校との合同の同窓会 (一泉同窓会) が開かれることになっており、毎年 1000 人を超える同窓生が参集してくる。因みに昨年 (2014) は創立 120 周年記念とあって、1200 人を超える同窓生が参集した。ところでこれまでの卒業生はというと、金沢一中で 58 期、金沢泉丘で 67 期、金沢泉丘通信制で 57 期の同窓生が巣立っているが、この同窓会は毎年卒業後 33 年目の同窓生が会の運営に当たることになっている。それで昨年は昭和 56 年卒業の泉丘 33 期の同窓生が当番で運営に当たった。それで同窓会では当然当番期の同窓生の人数が最も多いわけだが、当番期を除けば何故かいつも第 7 期同窓生の出席者数が最も多く、これは K 君の熱心な勧誘が功を奏しているということに帰する。今年の当番は泉丘 34 期なのだが、はたして今年はどうなるのだろうか。
 さて今年の第 7 期の同窓会は傘寿記念と銘打って 6 月 7 日 (日) に粟津温泉「のとや」で開催された。昭和 30 年卒業の同窓生の総数は 448 名、そしてこの日までに 108 名が鬼籍に入っていて、残りは 340 名、4人の内1人が他界している勘定になる。これまで会の運営は K 君をトップに、在学当時 11 あったクラスからそれぞれ2〜3人が世話人となり、3百名余の人達への同窓会への案内や出欠の確認、会費の徴収、一泉同窓会機関誌の送付等々の世話をしてきた。それで同窓会の会場は何故かいつも粟津温泉の「のとや」、会費は例年 23,000 円と決まっていた。ところで長年 K 君が一人で主宰していること、会場が「のとや」オンリーなこと、また同窓生の A 君が支配人をしている山代温泉の老舗温泉旅館の会場設定が一度もないことに何故なのだという声も出て、K 君ではこの傘寿記念の同窓会を最後に七期同窓会を散会することにしたという連絡を受けた。それで今回は最後となるのでぜひ多くの方々の参加をと呼びかけてきた。会費はこれまでの余金も若干あるということもあって清算するとのことで、今年の会費はお土産付きの 17,000 円になった。そして今回は最後の同窓会という触れ込みもあり、平生は参加がなく卒業後初めてという方々の参加もあり、総勢で 70 名が出席した。でも出席者の顔ぶれを見ると,新顔がいる反面、いつも顔を見せている常連が何人も欠席だったのは何とも寂しかった。この同窓会は当夜の宴会のみで、翌日の朝食後は流れ解散という形式をとってきた。今後については、彼からの案内では有志による同窓会の継続を図るとのことだが、まだその案内は来ていない。ただ地域の一泉同窓会が全国のあちこちにあり、関東や関西の一泉同窓会には毎年相当数の人数が参集しているようである。因みに私の住む野々市市でも野々市一泉同窓会があり、2年に一度開催している。
(付)約 10 年前、同窓の M 君が台湾から 30 年ぶりに帰って来るのを機に、同窓の 13 名ばかりが集まって、後日「耳順会」なる名称の会を創った。3ヵ月に一度会うことにし、年末には温泉で1泊の会をもってきた。この会はお酒も入っての会、幹事は持ち回りで続けてきた。ところでその後 M 君の提案で、従来の耳順会はそのまま継続することとし、ほかに毎月第3土曜日に昼食を兼ねて、お酒なしで会わないかとの提案、そのとき私は肺炎で入院していたので詳しい経緯は知らないが、主宰する M 君では、従来の耳順会は3月,6月、9月は金沢市内の割烹 G で、年末は山代温泉の同期生 A 君が支配人をしている温泉旅館で、それで新規の毎月の会は「湧泉会」という名称で集まることにし、金沢 NG ホテルで第3土曜日に昼食を兼ねて3時間ばかり駄弁る会とし、今日に至っている。男性の井戸端会議ともいうべき楽しく面白い会である。

2015年7月25日土曜日

同窓会 あ・れ・こ・れ(その1)

 今年・平成 27 年 (2015) は、5月 18 日から6月8日までの3週間ばかリの間に、なんと大学、高校、小・中学校の同窓会が集中して開催された。なんとも慌ただしかった3週間を振り返ってみた。同窓生のうち、大学では現役で入学した人以外にも、年齢では7歳年長の方も同期だったこともあって、年齢にはかなりのバラツキが見られたが、高校や小・中学校の場合は、ほぼ昭和 11 年4月2日〜昭和 12 年4月1日に生まれた人がほとんどを占めていた。そうして年齢で言えば、数え年では 79 歳と 80 歳、満年齢では 78 歳と 79 歳、今年もしくは来年には傘寿を迎える年齢の集団になる。

1.金沢大学薬学部第7期同窓会(ゼレン会)
 私たちが大学を卒業したのは昭和 34 年 (1959) 3月、会の名称は卒業年に因み、元素番号 34 の元素セレンのドイツ語読みのゼレンを会名とした経緯がある。当時私たちが在学していた頃は、医学や薬学ではまだ英語よりはドイツ語が幅を利かせていたからによる。もう卒業して 56 年ばかり、私たちのこの同窓会は 卒業して20 年ばかりは開かれなかったものの、以降は5年おき、更に時を経ては2年おきとなり、ここ 20 年ばかりは毎年開催している。入学したのは昭和 30 年 (1955) で、記憶が定かではないが、定員 40 名のところ 41 名入学したように思う。教養課程から専門課程へ進学する際に、基礎科目の物理学で7名が不合格となり、全員留年となるところ、交渉で1回のみビーダーコンメン=ビーコン (再試験) が認められた。しかし、クリアしジッヘルできたのは1名のみで6名が留年する羽目に、また1名が病気で留年した。そして専門課程に入ると、前年留年した2名が加わってクラスは全部で 36 名になったが、在学中に1名が病死し、最終的には 35 名 (男25名、女10名) が卒業した。今年の同窓会当日までにクラスで物故したのは、男6名女1名の計7名、現在の会員数は 28 名である。
 さて今年の同窓会は5月 18 日 (月) と 19 日 (火) の両日金沢市で開催した。会の申し合わせで、1年おきに金沢で、そうでない年は金沢以外の場所で開催することになっている。ここ数年のスケジュールでは、金沢・仙台・金沢・福井・金沢という運びだったが、仙台開催の折に東北大震災が起き中止、でも希望で翌年に振り替えて仙台で行なった。同窓会は原則1泊2日、ただそれに付随してゴルフコンペがあり、ゴルフに出席の人はもう1泊、前泊か後泊するスタイルを採っている。そしてこれまでの経過を見ると、宿泊当日に早めに着くようにして半日観光、さらに翌日にも希望で半日観光のスケジュールが組まれることが多く、どちらも自由参加ではあるものの、大概大部分の人が参加するのが常だった。でもこれらオプショナルツアーは主催する側にとってはかなりの負担になる。ところで仙台での秋の同窓会では、2日目午前の観光を終わって散会しようとしたところ、強烈な台風の襲来で新幹線のほか在来線も運休してしまって、もう1泊仙台で逗留した人も出た。そして翌年の福井での同窓会もやはり秋の開催、ところが前年と同じく台風の襲来の予想があり、1週間前になり急遽主催者側の判断で同窓会は中止ということになった。宿やオプショナルツアーの手配と中止、またそれに伴う会員への案内等々、開催のみと比較して2倍も3倍もの労苦があったろうと思う。でも当初の計画だった全員の近況報告の作成などは実行して頂けた。それで今年もう一度開催をどうですかと打診したが、これは引き受けては貰えなかった。
 それで今年は順で地元金沢での開催、一昨年、昨年と、2回もの台風との出会いでの中止もあって、今回は春にしようということになった。地元の会員は男性3人のみ、昨年 10 月には今年春の開催日を決めようということになり、私が金沢市のコンベンションホールへ出向いて、平成 27 年4〜6月に金沢で開催される学会・集会・催しの予定と集客数を把握し、その合間を縫って、同窓会は5月 18・19 日に開催することにした。そしてこれまで金沢での宿はもっぱら湯涌温泉を利用してきたが、金沢市商工会議所の担当の方から犀川温泉でもと勧められたこともあり、そこを利用することにした。でもここは湯涌温泉と異なり、近くまではバスの便は多いものの、宿へはバス停から徒歩 10 分とあり、金沢駅でバスに乗る前に宿に案内をくれれば最寄りのバス停まで宿の車を迎えに出しますというが、これは言うは易く行なうは難しの類いだった。
 ところで宿の方は別の方が担当し、昨年秋に JTB を通じて1泊1万7千円としたが、翌年3月 14 日の北陸新幹線の開業が近づくと2万円にするとのこと、担当は約束が違うと頑張ったこともあって料金は据え置かれたものの、宿泊当日のサービスの低下は歴然だった。開催までお互いのメールのやり取りは 20 回ばかり、会合も5回ばかり、もっとすっきり単純にできないものかと案じたものである。また観光はもう一人の方が担当してくれた。私なりに観光と昼食は腹案もあったが、総枠2万3千円のくくりとしたこともあって、昼食は KKR 、観光は金沢城公園のみという寂しい企画に落ち着いた。それでも今回の参加者は 17 名だった。会員もやがて 80 歳台、もう少しゆとりのあるゆったりとした会になればと思う。ところで来年の会の開催先を募ったけれども挙手はなく、それで世話する方は宿の世話のみ、観光は各自でということで募ったところ、来年は関西在住の A 君の世話で神戸市での開催となった。
 これまでの会を振り返ってみると、配偶者同伴も数組あったりして、25 名もの参加があったこともある。ところで今年の顔ぶれをみると、体調不良や配偶者や親の世話で出席できない人はともかく、元気でありながら常に欠席、中には一度も参加したことがない御仁も数名いるのはどうも解せない。現会員は 28 名、会はいつまで存続できるだろうか。

2015年6月16日火曜日

子うし会で五島列島を巡る(その3)

3.5月28日(木)
3−1 頭ヶ島 (かしらがしま) 天主堂(有川地区)
 ホテルからの出立は8時、表に出ると上五島観光交通の超大型のバスが玄関先に、訊くとマイクロバスが出払ってしまってこのバスしか都合できなかったとか、こんな経験は初めてだ。そして車腹には大きく「上五島から世界遺産を」と赤いトッピング、同じ意味の英語はコバルトブルーで。現在頭ヶ島天主堂が世界遺産暫定リストに登録されているとかである。
 今日初めに訪れる頭ヶ島は以前は離島だったが、この島に上五島空港を造るため、中通島と頭ヶ島との間に頭ヶ島大橋が架橋され、この島へは車で来られるようになった。でも肝心の空港は一昨年廃港になり、現在は滑走路が残っているのみである。大橋を渡った後、山道を教会まで下りるのだが、車の交差はかなり厳しい。でもどうやら着くことができた。
 天主堂への参道は綺麗に掃き清められていて、ガイドの説明では、毎日信者さんが掃除されているとか。この天主堂は、迫害が終わって再びこの島に戻り住んだ信者たちが、自ら切り出した砂岩を積み上げて造ったという全国でも珍しい石造りの教会で、この地で生まれた教会建築の先駆者である鉄川与助の設計・施工によって、明治 43 年 (1910) に着工し、大正6年 (1917) に完成している。現在国指定重要文化財に指定されている。内部に入ると、花柄模様のついた折り上げ天井が素晴らしい特徴、そして朝日夕陽がステンドグラスを通して教会内部に射すように設計されている。教会内のステンドグラスの意味合いを初めて知ることになった。
3−2 坂本龍馬ゆかりの広場(有川地区)
 中通島へ戻り、東海岸を南下すると程なくこの広場に着く。この地は坂本龍馬が組織した貿易商社の洋式木造帆船ワイル・ウエフ号が嵐で難破した潮合崎 (しおやざき) を望む地にあり、当時龍馬は体調不良で乗船していなかったが、後にこの地を訪れ、遭難現場に近い江ノ浜に若き志士たち 12 人の慰霊碑を建てたという。後年地元の人達により、龍馬が訪れたこの地に、「龍馬ゆかりの地」と記された碑、ワイル・ウエフ号の舵取り棒のレプリカ、そして彼らの冥福を祈る龍馬の大きなブロンズ像が遭難現場を向いて建てられた。
3−3 矢堅目 (やがため) 公園と青砂ヶ浦 (あおさがうら) 天主堂(上五島地区)
 この日の出発点だったホテルの前を通り、北上して矢堅目公園へ行く。途中あの鉄川与助が初めて設計・施工したという冷水教会の前を通った。矢堅目公園の海岸には実に特徴的な巨大な円錐形の奇岩が聳えていて、複雑な海岸線が実に美しい。一方公園からは奈摩湾を挟んでこれから訪れる青砂ヶ浦天主堂を望むことができる。車は急な道を海岸近くまで下って製塩所へ。ここでは海水を直接巨大な釜で煮詰めて製塩している。私はここで矢堅目名産の「つばき茶塩」を求めた。上五島では今資生堂と提携して大々的に椿油の生産をしているとか。
 湾の口まで戻り、対岸の青砂ヶ浦天主堂へ。この建物も鉄川与助の手になるもので、煉瓦造りの教会堂で、平成 22 年 (2010) には献堂 100 周年を迎えたという。ここも国指定重要文化財になっている。天主堂の高みにはステンドグラスが嵌め込まれた丸窓があり、朝日と夕陽が教会内に射し込むように設計されている。現在上五島には 29 の教会があるという。
 再び戻って奈摩湾の口にあるダイニング厨房「万里波」で昼食をとる。どっさりの海の幸ばかり、全部を食べ尽くせなかった。なかでも大きな鮑の刺身は圧巻だった。
3−4 若松大橋から若松港へ(若松地区)
 若松港からの出港が午後1時とかで、早々にバスで中通島西岸を南下する。小1時間ばかりを要する。当初は若松大橋を車から降りて歩く予定だったが、時間に余裕がなく割愛した。この若松大橋は中通島と若松島の間の若松瀬戸に架かる橋で、平成3年 (1991) に開通している。高みにある大橋からはこれから行く若松港が眼下に見えている。そして程なく若松港に着いた。既にチャーター舩は待っていた。
3−5 キリシタン洞窟「キリシタンワンド」(若松地区)
 ここは若松島の西南にある断崖絶壁の地にある洞窟で、奥行き 50 m 幅7m もの空間があり、明治のキリシタン迫害の際に信者らが隠れ住んだが、沖を通った舩に朝食を炊く煙を見つけられて捕らえられたという。明治 42 年 (1967) 、入口の崖上に高さ4mの十字架とキリスト像が建てられた。今でも舩でしか行けないこの地を目にして手を合わせた。そして舩は1時間後に福江港に着いた。こうして3日間の充実した五島列島探訪の旅は終わった。
 福岡空港から伊丹へ小松へ、来年の傘寿の会での再会を期して別れた。

子うし会で五島列島を巡る(その2)

2.5月27日(水)
2−1 大寳寺(玉之浦地区)
 今日のガイドさんは五島市ふるさとガイドの会の前会長の男性、通年だと年に十数回のお呼びだが、今年はもうそれを越えているとか。ホテルを9時に出て西進し、玉之浦地区に入る。大寳寺は島の西南にあり、ホテルからここまで 45 分を要した。僧空海が元和元年 (806) に唐から帰国した際に、この地の沖に漂着したと言われ、ここで初めて布教したことから、この寺は西の高野山とも称され、寺は国指定重要文化財になっている。境内には空海の書とされる「いろはにほへと…」の書の石碑が建っている。本堂にも上がってお参りし、御朱印を頂いた。 
2−2 井持浦 (いもちうら ) 教会ルルドと大瀬崎灯台(玉之浦地区)
 大寳寺から半島の狭い山道を 20 分ばかり西へ進むと井持浦教会ルルドがある。この教会の左手にある崖にはマリア像が安置されており、聖母マリアが 18 回も現れたと言われる南フランスのルルドの町にあるマッサビルの洞穴を模して造られた洞穴があり、そこからは霊泉が湧き出ている。この教会は明治 32 年 (1899) に創建されたという。この日も多くの人達が訪れていた。私もこの有難い泉の水を飲ましていただいた。志を納める。  
 その後半島を少し北の方へ進み、途中から折れて南下すると、東シナ海に突き出た断崖の突端に建つ白亜の大瀬崎灯台を見下ろせる場所に出る。高台から見下ろすと実に素晴らしい景観だ。この灯台は日本の灯台 50 選にも入っており、ここから見る東シナ海の水平線に沈む夕日は格別とか、日本の夕陽 100 選の場所でもある。素晴らしい自然を堪能した後、玉之浦町にある大瀬崎ルルド観光レストラン「NEWパンドラ」で昼食をとった。
2−3 魚藍観音展望台(三井楽地区)
 昼食後、島の西端につけられた国道 384 号線を北上する。荒川温泉を過ぎ更に北へ進むと、五島の代表的な砂浜がある風光明媚な海水浴場が隣接して2つ現れる。初めに眼下に見えたのは玉之浦地区北端にある頓泊 (とんとまり) ビーチ、次いで見えたのは三井楽地区の南端に位置する高浜ビーチで、広い入江に広がった白砂の浜は実に美しい。特に後者は日本一美しいと言われる砂浜で、日本の渚 100 選、日本の海水浴場 100 選に選ばれている。そしてバスはこの2つの海水浴場を眼下に見下ろせる魚藍観音展望台へ。青い海、白い浜、背後の山々の緑、晴れた空の色、白い雲、これは正に一幅の絵になる構図である。
2−4 辞本涯の碑と、「道の駅」遣唐使ふるさと館(三井楽地区)
 東シナ海を見ながら更に北上し、島の北西端に達すると、そこには「辞本涯」と書かれた大きな記念の石碑が建っている。ここは空海が延暦 23 年 (804) に唐へ舩で渡る際の日本見納めの地とされていて、この字句は空海の書から引用されたもので、「日本の最果ての地を去る」という意味だそうだ。碑は突端にある柏崎灯台と沖に浮かぶ姫島を背に、空海の遺徳を顕彰するために、地元有志により建立されたという。
 柏崎から東海岸沿いに 30 分ばかり南下すると、長崎県では離島初という道の駅に着く。もうここには何でも有りの店。また遣唐使ふるさと館と称しているだけあって、遣唐使についてのかなり詳細な説明があるコーナーも設けられている。ここには高い展望台もあり、立ち寄った。
2−5 水之浦教会と魚津ヶ崎 (ぎょうがさき) 公園(岐宿 (きしく) 地区)
 国道を東進すると進行方向右手に水之浦教会が見えてくる。この教会は明治 13 年 (1880) に創建され、昭和 13 年 (1938) に改築されたという教会で、木造教会としては最大規模と言われ、車窓から見たのだが、白い天主堂と尖塔が実に印象深かった。車はここから左折して魚津ヶ崎 公園に向かう。ここは遣唐使舩の日本最後の寄港地として、古くは肥前風土記にも記載されていて、その説明板が置かれていた。広い草地となっていて、キャンプもできるという。
 これで福江島の観光が終わり、上五島へ向かうため福江港へ。ここで長崎港と福江港を結ぶジェット舩に乗り、上五島の中通島にある奈良尾港へ向かう。
2−6 ホテルマリンピア(中通島 有川地区)
 海路 30 分で奈良尾港に着き、ホテル差し回しの車でホテルへ向かう。この中通島は新上五島町では最大の島で、その西岸を南北に通る国道 384 号線を通って約1時間、この町最大というホテルマリンピアに着いた。早速展望風呂で汗を流し、着替えてレストランで夕食。魚などの刺身はともかく、一人に1尾の立派な伊勢海老の姿造りが出されたのには本当に度肝を抜かれた。五島名産の牛、豚、それに地の焼酎、十分に堪能できた。

子うし会で五島列島を巡る(その1)

 昨年の子うし会 (昭和 11 年子年4月〜昭和 12 年丑年3月に生まれた野々市小・中学校同窓生の会)で、今年は五島列島を巡ろうということになった。昨年の 10 月に案内を出したところ、男5名、女5名、計 10 名の参加が見込まれた。しかし会員の年齢が 80 歳に近いこともあって体調不良の方が出て、最終的には男4名、女3名の旅行になった。催行日程は、平成 27 年5月 26 日 (火) 〜 28 日 (木) の2泊3日である。
 五島列島は長崎県の西の洋上にあり、全島が西海国立公園になっている。行政区画では、下五島は五島市、上五島は大部分が南松浦郡新上五島町であるほか、一部の島は西海市と佐世保市に属している。

1.5月26日(火)
 石川在住の5名と北陸交通の添乗員の方は小松空港から、大阪在住の2名は伊丹空港から、共に福岡空港で合流し、乗り継いだプロペラ機で福江空港 (愛称は五島つばき空港) に降り立った。福江島は五島列島では最大の島で、空港は島の南東、鬼岳の麓にある。
1−1 鬼岳(福江地区)
 空港には五島バスのマイクロバスが来ていた。25 人乗りとあって、ゆったりの観光となった。この日案内してくれたのは、五島市ふるさとガイドの会の女性、島のことについては実に詳しく、しかも退屈させない案内、本当に恵まれた旅行になった。 
 初めに訪れたのは鬼岳、標高は 317m 、全山芝生に覆われたボタモチ状の火山。駐車場に車を停め、あとは徒歩で山の中腹へ。山頂への中程にはなだらかな場所があり、そこには展望台や休憩所がある。東側には海が広がり、西側には島中央部にある山々が連なって見え、眼下には空港も見えている。広い芝生の広場には、あちこちにニワゼキショウが咲いていた。
1−2 鐙瀬 (あぶんぜ) 熔岩海岸(福江地区)
 鬼岳の南に位置するこの海岸は、鬼岳噴火での熔岩が海に流れ込んで出来た地形で、黒い荒々しい岩礁が十数 km にわたって続いていて、その景観を高台にある展望所から眺めることができる。ソテツが沢山自生していて、何故か古い葉を切り落とすのだが、するとその箇所にいろんな植物が寄生し、変わった独特な景観を醸し出している。
1−3 武家屋敷と福江城 (石田城) 跡(福江地区)
 車は福江の市街地に戻る。ゆっくり武家屋敷通りをバスで通りながら、説明を受ける。屋敷はすべて石垣塀で囲まれていて、塀の上には丸い小石が積み重ねられている。この小石の効能は、賊が塀を乗り越えようとすると崩れて乗り越せないことのほかに、この小石を武器代わりにしたとか、通りにある石垣はみな同じような構築だった。そして今宵の宿の近くにある福江城跡、我が国唯一の海城で、外国船の襲来に備えて江戸時代に築城されたとか。城の周りには堀が巡らされている。
1−4 堂崎天主堂(福江地区)
 市内を通り抜け、島の東北端にある、五島では最も古いという堂崎教会へ行く。この教会は明治 13 年 (1880) にマルマン神父によって初めて建立された堂崎小聖堂が原型とか。その後明治 21 年 (1888) に着任したペルー神父は、資材の一部を遠くイタリアから取り寄せ、明治 37 年 (1904) に着工し、明治 41 年 (1908) に現在の赤煉瓦造りのゴシック様式の建物が完成し、殉教した日本 26 聖人に捧げられた。平成 20 年 (2008) には、堂崎天主堂献堂 100 周年祭が行なわれた。資料館には、聖ヨハネ五島 (日本 26 聖人) 関係の資料、弾圧され表向きには仏教徒を装った隠れキリシタン (元帳) の資料、五島で生まれ、その後ブラジルで宣教した中村長八神父関連の資料等々が展示されている。また教会前の庭には、聖ヨハネ五島 ( 26 聖人の一人)の殉教像、アルメイダ (ザビエルの鹿児島上陸の後、五島でキリスト教を布教した宣教師 ) の碑、マルマン神父とペルー神父と子供たちの碑が置かれている。県指定有形文化財。
 現在下五島には、福江島に 14 、久賀島に2、奈留島には3、計 19 の教会がある。
1−5 カンパーナホテル(福江地区)
 現在五島列島では最も大きいホテルで、福江港に近い東浜町にある。ホテルの展望風呂からは、福江の町並みや福江城跡を眺めることができる。夕食は地魚の造り、煮付け、蒸し物、酢の物、ソテー、五島牛の陶板焼き、御飯は五島米、留椀は五島うどんと、すべて五島の産物のオンパレードだった。

2015年6月9日火曜日

軽井沢へ行こまいかい(その3)

(承前)
3−2 軽井沢レイクガーデン(南軽井沢地区)
 朝食後に歩いたグループは、コテージから再びホテルまで徒歩で行く。午前11時過ぎ、ホテル前に回送された車に乗り、車はホテルより南下する。行き先はレイクニュータウンにあるレイクガーデンとか、そこには何があるのだろう。目的地にある広い駐車場に車を停めて入口へ.エントランスには石造りの門と噴水、子供たちがはしゃぐ。パンフレットを見ると、大きな池の中にはウッドランドと称する島があり、対岸とは架け橋やめがね橋で結ばれている。池を巡る小径のほか、ウッドランドにも多くの小径が巡らせれている。私たちは入って右方向へ。すると初めにフレンチローズガーデンに出くわす。でもまだ花は咲いていない。ローズシーズンは6月19日〜7月20日とか、今はクレマチスが咲いていた。めがね橋を渡って睡蓮の池へ。小さな池だが、睡蓮の植わっている水面にはカルガモの親子が、子ガモが親ガモの後についていく微笑ましい光景に見とれる。
 小径を辿ってウッドランドへ。ここは起伏に富んだ地形になっていて、小川もあり小山もあり、この場所には内外の山に自生している沢山の宿根草や灌木が植わっている。羊歯も多い。ベニシダだろうか。山手ではタニウツギの赤い花が満開だった。高みから振り返ると、樹間から浅間山が見えている。そして樹下にはヤグルマソウが白い花を付けていた。ウッドランドを一通り周回して架け橋を渡って池を周回する径のレイクサイドパスへ出る。この辺りには水辺の植物が群生しているのだが、まだ花は咲いていない。
 池を周回していると、オオデマリが沢山咲いている場所があった。これだけ咲いているとなかなか壮観である。マロニエ(セイヨウトチノキ)も淡い紅色の花を付けていた。フレグランスパスを抜け、ウッドランドの湖岸を通って、めがね橋を渡りイングリッシュローズガーデンへ、薔薇が咲く季節ならばさぞ壮観だろう。これでレイクガーデンを一巡したことに。時間は正午過ぎ、土産を求め、車へ戻る。
3−3 旧軽井沢商店街
 旧市街に戻り、町営駐車場に車を停め、三叉路になった場所で午後3時に集合することにして、それぞれが街へ繰り出す。私たち第1世代は昼食場所を求めてうろうろ、それでとあるカレー屋に入り昼食をしたが、余り美味くなかった。その後土産を求めてそぞろ歩く。前に欅の木がある店では、オーソドックスな軽井沢名産の菓子を、そして次に訪ねた腸詰屋、この店は高島夫妻が昼食に入った店とか、ユニークな腸詰めもさることながら、食事も提供するとか、彼らは旅慣れている。腸詰めの試供品をいろいろ食べ、ワインのお供にと4点ばかり求めた。豊富な品の数々、高山の田舎にあるキュルノンチュエを思い浮かべた。でもあそこでは試食は出来ない。皆が揃ったところで車に戻り、お茶を飲みに。
3−4 ホテルマロウド軽井沢(新軽井沢地区)
 このホテルは旧軽井沢と軽井沢駅の中間に位置している。ここのロビーでお茶を飲もうという趣向である。テーブルと椅子がセットされ、皆さん思い思いの飲み物を注文する。私は紅茶、やはりコーヒー嗜好の方が多い。子供らはかくれんぼをして遊ぶ。帰りの新幹線「はくたか」の乗車時間は 16:56、午後4時にホテルを後にする。
3−5 新幹線の車窓から見えた山々
 2日間の軽井沢での周遊もあっという間に終わってしまった。東京へ帰る石田夫妻を見送って、我々も下りのホームへ。今度も 10 号車、しかも進行方向左側の窓側、車窓から山を眺めるには絶好の席だ。見えた山々を順に列挙してみよう。
 軽井沢駅を出て佐久平駅 (通過 ) 付近からは八ヶ岳 (百名山)、上田駅付近からはなだらかな美ヶ原(百名山)が見える。上田駅から長野駅にかけては、遠く後立山連峰の蓮華岳(三百名山)、針ノ木岳(二百名山)、爺ヶ岳(三百名山)、鹿島槍ヶ岳(百名山)、五竜岳(百名山)、唐松岳(三百名山)が、近くには高妻山(百名山)の先鋒が白く輝いて見える。長野駅を過ぎると飯縄山(二百名山)が、飯山駅を過ぎ上越妙高駅付近に来ると、黒姫山(二百名山)、妙高山(百名山)、火打山(百名山)が、糸魚川駅付近からは雨飾山(百名山)や焼山(三百名山)、黒部宇奈月温泉駅付近からは白馬岳(百名山)や僧ヶ岳、富山駅から高岡駅の間からは、北から順に毛勝山(二百名山)、劔岳(百名山)、奥大日岳(二百名山)、立山(百名山)、鍬崎山(三百名山)、薬師岳(百名山)が連なって見える。そして終点の金沢駅近くからは医王山(三百名山)の双子峰が見え、こうして軽井沢への旅は終わった。

軽井沢へ行こまいかい(その2)

(承前)
2−3 ハルニレテラス(星野エリア)と白糸の滝(北軽井沢地区)
 昼食は塩沢地区とは中軽井沢駅を挟んで北に位置する星野エリアへ、ここには清流湯川と自生するハルニレに囲まれた小さな街並があり、個性豊かな15もの店舗が並び、いろんな色の透明なビニール傘が吊るされていて、木漏れ日が路を彩っている。高島夫妻からの伝言で、昼食は個々でとの指示、私たち第1世代の5人は中国家庭料理店の希須林へ、軽井沢ビールも飲みながら、それぞれ好みの中華麺を食し寛ぐ。昼食を終え、三々五々林の中の渓流沿いの遊歩道を歩き、駐車場へと戻る。
 再び車上の人となり、車は国道 146 号線を北上して峠の茶屋へ、ここが白糸の滝の入口になっていて、ここからハイランドウェイを東進すると、白糸の滝の駐車場があり、ここから約 150m 歩くと滝に達する。土曜日とあってか、かなり沢山の観光客が来ている。滝の規模は、高さ3m、幅 70 mとかで、湾曲した岸壁に数百条の地下水が白糸の様に落ち、涼しげだ。白糸の滝という滝は、全国 12 県に 14 滝あるそうだ。中でも有名なのは、富士山の南西麓の富士宮市にある滝で、こちらは高さ 20 m、幅 200 m、水量毎秒 1.5 t とかである。しかし規模はともかく、滝の近辺や水が流れ下る渓谷は気分を晴々とする効果があるようだ。午後3時近く、来た時とは別のルートで宿舎の軽井沢プリンスホテルへ向かう。
2−4 宿泊は軽井沢プリンスホテルのコテージ
 ホテルに着いてチェックインしてやれやれ、午後4時頃だったろうか、大浴場にでも入ってリラックスしようと思っていたら、それには千数百円を追銭しないといけないとか、それだと断念せざるを得ない。こういう宿泊のスタイルは初めてとあって一寸戸惑う。暫く待って敷地内を運行する電動カーに乗って所定のコテージへ。この敷地内には夥しい数のコテージがあり、これだと暗くなってからでは行き着けないのではと思ったりする。成人女性6人は 969 号棟、そして2家族と男性は 952 号棟、私は後者である。
 さてこれから皆さんはショッピングプラザで買い物とか、私と石田の旦那は飲み物とつまみを買ってコテージで皆さんの帰りを待とうということに。それでその軍資金を貰いに家内のいるより山手にあるコテージへ、とかく家内と離れていると少々不便である。その後電動カーを呼び寄せホテルへ、私たち二人はホテルの売店で蕎麦焼酎と氷とつまみを仕入れ、我々のコテージへ戻った。2時間半ばかりの間、テレビを観ながら、他愛もない話をしながら、飲みながら、つまみながら、皆さんの帰りを待った。
 皆さんが帰棟し、午後7時過ぎにはホテルのレストランへ、全員がほぼ一緒のグループになってテーブルに座る。2人で焼酎を1本空けたこともあって、少々酩酊していた。料理はステーキがメインディッシュのディナーコース料理、初めに白ワインで乾杯したのは記憶にあるが、後はあまり定かではない。でも和気あいあいの雰囲気の中でお開き。午後9時過ぎだったろうか、コテージへ帰り、朝まで爆睡だった。

3.第2日 5月31日(日)
3−1 ホテルの朝
 朝目が覚めてコテージ内にある風呂に入る。旅館やホテルでは、部屋付きの風呂には滅多に入ったことはないが、汗もかいていたのでお湯を張って浸った。ゆっくり入って気分も爽快になり、外へ。芝の緑と木々の新緑、空気までもが爽やかで、暫くの間逍遙する。今日も天気は上々だ。
 朝食の時間になりホテルへ。レストランはかなり混み合っている。暫く待った後案内され、テーブルに着く。朝はバイキング形式。皆思い思いの食材をチョイス。でも私の場合、どうしても欲張り根性が出て、余計にものを取り過ぎてしまう。でもあの朝粥は美味しかった。
 食事の後、コテージまで歩こうということになり、下のコテージのグループは三々五々歩き出す。子供達は元気でどんどん先へ進む。凡そコテージの方角は見当ついていたこともあって、程なくコテージに着くことができた。電動カー利用の女性軍とほぼ到着が同じだったので、驚かれたのが印象的だった。さて、今日は何処へ行くのだろう。

2015年6月8日月曜日

軽井沢へ行こまいかい(その1)

1.はじめに
 私の家内の姉が嫁いでいる宮田家の一族郎党の会で京都へ行くことになり、二人共々中学校の先生である高島さん夫妻が主宰して、その当時娘さんが京都大学に在学していたこともあって、2012 年の初夏に「京都に行くまい会」を立ち上げ、私たちにも一緒にどうですかと誘われて参加したのが最初で、これまで都合3回ご一緒させていただいた。そして今年もどうですかと声がかかり、同道することになった。ただ今年の行く先は京都ではなく軽井沢とのことであった。しかもこれまでは全行程マイクロバス使用だったが、今回は3月 14 日に開通した北陸新幹線を利用するとか、これは私にとっては初の乗車機会である。日程は平成 27 年5月 30 日 (土) と 31 日 (日) の2日である。参加者は、第1世代 (旧姓西野の3姉妹とその配偶者) の5名、第2世代 (旧姓宮田の3姉妹とその配偶者) の5名、第3世代 (第2世代の子とその配偶者) の4名、第4世代 (第3世代の子) の3名の、計大人 14 名、幼児3名である。これまでも4世代混合の旅行がこの会の特徴だったとも言える。

2.第1日 5月30日(土)
2−1 軽井沢へ
 集合は5月 30 日の午前8時に金沢駅改札口、案内では 8:20 発の「はくたか 556 号」に乗車、軽井沢へは 10:25 着とのことである。家を午前7時に出た。途中道路が混んでいるのを心配してのことだが、割とスムースに着くことが出来た。家内は在来線の改札口で待とうとしたが、新幹線の改札口は別、初めてだとどうも戸惑う。それと開業以来、客から苦情が多かったのは、女子トイレとコインロッカーの少なさ、家内も時間があるのでトイレに出かけたが、余りにも遅いので訊くと、やはり長蛇の列だったとか。私は駅地下にあるコンコースにあるトイレに行ったが、こちらはガラガラ、案内にも問題がありそうだ。
 8時近くになり皆さんお揃い、高島さんから乗車券と特急券が渡される。旦那さんはラフな格好だが、この4月からは金沢市内のとある中学校の校長先生、でも二人とも大変フランクで親しみが持てる。ただ惜しいことに、旦那の方は少なくともこの1年間はお酒と縁を切らねばならないとか、気の毒至極である。
 ホームへ上がると列車は既に入っていて、我々が乗る 10 号車の後に続く 11 号車のグリーン車、最後尾 12 号車のグランクラスの内部を外から見ながら列車のノーズを見に。車体先端から上部にかけての鮮やかなブルーと側面のアイボリーホワイトのコンビネーションがとても良く、皆さんこの先頭車両をバックに記念写真を、我々も御多分にもれずである。
 列車に乗って出発を待つ。出発のベルが鳴るわけでもなく、あの出発のメロディーもドアが閉まった車内では聞こえず、外を見ると列車は動いていた。これは評判通りだと感心した。少なくとも発車の振動は全く感じられない。ただ停車のために減速する時には、これから停まるのだなあとの感じがした。「はくたか」は各駅停車で軽井沢まで 10 回の停車、ほとんどノンストップの「かがやき」とは東京までだと 30 分の差がある。しかしこの静かさと振動の少なさは、従来線では全く思いもよらないことだ。
 車窓の景色も楽しみにしていたが、この日は靄っていて、近景はともかく遠景の山々は見えなかった。定刻に軽井沢駅に着いた。何回か訪れているが、列車に乗って降り立ったのは初めてだ。天候は晴れ。高島夫妻と共にトヨタレンタリースへ。ワゴン車2台を借り受ける。運転は高島夫妻、二人とも運転は抜群の腕前、感心する。
2−2 塩沢湖・軽井沢タリアセン(塩沢エリア)
 車に分乗して初めて訪れたのが塩沢湖、何処へ行くのか全く知らされず、実にミステリーな旅だ。広い駐車場に車を停め、その名も泥川という一級河川を渡り、ゲートへ。パンフレットを貰い入場する。林を抜けると、右手に塩沢湖、でもあの泥川から水を引いているのか、水は濁っている。でも見ると沢山の鯉、それに鴨。この鴨は軽鴨ではなく、羽切りをした真鴨のようだ。鯉が餌をねだって群がってくる。歩いてボート乗り場へ。子供連れの2組がスワンタイプの足こぎボートに、ぐるっと 30 分の周遊である。私たちは手元にある入園券で入られるというペイネ美術館へ向かう。ところが入館には追加料金が必要とか、私も入園の折に、件の美術館のみ入れますと聞いていたのに意外な対応、交渉したが埒が開かず、パスすることに。後でこれは入園時に入館券を渡すのを忘れたとのこと、料金は精算してもらったようだった。湖に浮かぶ中の島では結婚式も、パンフレットによると、タリアセンとは、ウェールズ語で「輝ける額」を意味し、同名の吟遊詩人もいたとか。

2015年5月24日日曜日

7度目の満山荘は家内抜きで(その3)

(承前)  
3.5月14日(水曜日)
 朝5時に起きて風呂へ行く。昨夜10時から今朝の8時までは男性が桧風呂、岩風呂よりは高みにある。業者に施行してもらっただけに、明るく洗練された感じがする。またの名を「翠嶺乃湯」というとか。内風呂の桧風呂と露天の石風呂とがあり、無加水無加温の単純硫黄温泉が源泉かけ流しで溢れ流れている。淡い乳白色の湯、実にいい気分だ。露天風呂の屋根の庇には、イワツバメの巣があちこちに散見され、しょっちゅう燕が出入りする。でも湯槽の上も飛び交うが、糞が落とされる心配はない。今朝も空は霞んでいて、あの屏風のように連なる雪を頂く北アルプスは霞んで見える。湯から上がって、彼女達にも岩風呂にも入ってきたらと促す。食事は何時からなのだろうか。彼女達が風呂へ行っている間、テレビを観て過ごす。
 彼女達が戻ってきて、私が朝食は何時からと訊くと、食事処には6時半とあるとのこと、びっくりして出かけたが、それは夕食の案内だった。実は朝食は8時からとか、ゆっくり寛ぎ、時間になって食事処「風土」の暖簾をくぐる。朝食はバイキング方式。白磁のトレイに、30種類以上はあろうというふんだんな惣菜からチョイスする。御飯と味噌汁のほかに、野菜類、魚介類、乳製品、肉製品、発酵食品、果物類、玉子、ジュースや嗜好飲料等々、どうしても余計に取り過ぎてしまう。
 食事を終え、精算を済ませて宿を出たのは10時近く、山を下って一路須坂の市街へ、かなり下る。須坂の街へ入って、最初の目的地の田中本家博物館をナビに入力する。
● 豪商の館 信州須坂 田中本家博物館
 前にも一度訪れたことがあるが、今の時期はこの館に江戸時代から明治、大正、昭和と受け継がれてきた雛人形がメインに展示されているという。現在までに 250 点ばかりが残されていて、これらは雛土蔵と呼ばれる専用の土蔵に収納されているとか。展示に10日、収納に20日お要するとか。人形の保存状態は極めて良好で、その時代々々の雛人形の容貌や容姿や飾りは一見の価値があろうというものだ。屋敷は約百米四方あり、周りは二十の土蔵で囲まれていて、この土蔵内に展示の品々が飾られている。展示館を出ると、沙羅の木 (夏椿 ) が植わっている中庭の「夏の庭」 へ、そして「殿様お忍びの門」に通ずる細い蔵の小路を抜けると、池泉回遊式庭園の「秋の庭」へ、ここは大庭と言われ、築山には沢山の紅葉が植わっており、池には悠然と鯉が泳ぐ。大きな枝垂れ桜がアクセントになっている。順路はミュージアムショップへと導かれるようになっており、此処からは紅梅白梅が植わっている表庭の「春の庭」を見渡せる。帰りはこの表庭を横切り、入り口から外へ。それにしても手入れが大変だ。
● 世界の民族美術館と須坂版画美術館
 ナビに誘導されて百々川を渡ったところにある両館共通の駐車場に車を停める。茂みの中の道を通って行くと、瀟洒な建物の民族人形博物館に着く。それにしてもこの時期、木々からは沢山の毛虫がぶら下がっていて、歩くのに難儀する。入り口近くには,新感覚のハートのモニュメントがあり、なかなかユニークである。ここを「恋人の聖地」というのだそうだ。実に面白い試み、顔を出し、何回かシャッターを押した。博物館に入る。今このホールでは、日本最大級と言われる高さ6mもの 15 段に、武者人形 250 体を飾りつけた「五月人形・菖蒲の節句」が展示されている。業者からの出品もあり、実に圧巻である。またほかには小池千枝のコレクションである世界各国の民族人形も常設展示されていた。
 次に再び毛虫がぶら下がっている林の小道を辿り版画美術館へ。この時期入館券は両館共通である。この館でのこの時期の目玉は「三十段飾り千体の雛祭り」で、ホールには、高さ6m、30 段に、豪華絢爛たる 1,000 体もの雛人形が飾られている。私はこれまでこんなに大規模な雛飾りにはお目にかかったことがなく、素晴らしいの一言に尽きる。正に圧倒される凄さである。その後、常設展示されている平塚運一らの版画を観て廻る。ここを出て、同じ敷地内に点在する歴史的建物の脇を抜け、アートパーク駐車場に戻った。
 
 昼近くになり、近くで「そば」でも食べようということになった。手元の地図には松葉屋というそば屋があるが、生憎の定休日。H 嬢に検索してもらうと、松屋というそば屋が。ナビに導かれて着いた店はそこそこの大店、名刺を見ると創業は大正元年とある。店内はかなり広く、昼時とあってかなりの混みよう、私は天そば、彼女らはとろろそば、出来はまずまずの類だった。でも明るく開放的、接客もよく、感じの良い店だった。こうして波瀾に満ちた温泉行きも、喜んでもらって終えることができた。  この日に家内は退院と聞いた。

7度目の満山荘は家内抜きで(その2)

(承前)
2.5月13日(火曜日)
 自宅を7時20分に出ることに。K 嬢は定時に車で来宅した。私の車はハイラックス・サーフ、この車はもう製造中止になっているが、トヨタで整備してもらいながら使用している。排気量は 2600 cc。K 嬢は今軽自動車に乗っているのだが、家内は私が風邪気味なこともあって、もしかして運転を代わらねばならないこともあるかも知れないので宜しくと言われたとかで、私が運転しましょうかとの申し出。これには私も驚いた。それと家内からは、私が運転をしている時は、貴方は後部座席に座って下さいと言われたとも。これはもう一人の H 嬢が私の車に乗る時は何時も助手席に座ることにしていることに起因している。家内の気配りも相当なものだ。
 金沢市の小立野で H 嬢を乗せ、山側環状道路を森本 IC へ。ところで、車の中ではえらく会話が弾み、私はつい森本 IC への導入路を通り過ぎてしまった。私も彼女らも全く気付かず、津幡バイパスへ入る高架橋を通っている時、初めて私は一体何処へ行くのかと疑った。そしてやっと北陸自動車道に戻らねばと気付き、一旦田舎道に下り、再びバイパスに戻り、漸く森本 IC に着けた。その後はひたすら高速道を走り、有磯海 SA で休憩する。昼に近く、ここで昼食をとることにした。暫時休憩の後、彼女のたっての希望もあり、それではと妙高 SA まで運転を任せることにする。運転するに当たって、ギアミッションは、P・B・N・D のラインのみを使うこと、速度は 120 km 以上は出さないようにお願いした。ここからは上越 JCT までに 26 のトンネルがあるが、彼女はトンネルには抵抗がないという。以前に一般車を運転していたせいもあってか、まずまずの運転、時にハンドルがぶれることもあったが、合格点だった。妙高 SA では、間近に仏典での須弥山を思わせる雪を纏った妙高山が端正な姿を見せて聳えていた。
 時間は午後1時半、ここからは私が運転する。小布施に寄ることにし、これまで経験はないが、小布施 PA に入り、スマート IC を抜けて市内に入ることに。市内は平日ながらかなりの混み様、ツアー客が多い印象を受ける。漸く北斎館裏に空き駐車場を見つけ、店で彼女らがお目当ての栗菓子を買い、私も家内からオーダーのあった小布施ワイナリーのワインを求めた。暫時買い物を楽しみ車に戻る。ここで今宵の宿の満山荘をナビに入力し出発する。初めは松川沿いに山田温泉へ、次いで七味温泉口から九十九折れの山道を上り、奥山田温泉へ。今日は空が霞んでいて、晴れた日には望める北アルプスも霞んで見える。
 日本秘湯を守る会の宿「満山荘」に着いたのは午後3時過ぎ、ここは標高 1500 m、今は緑が綺麗だ。いかにも古ぼけた田舎然とした門?を潜り、階段を上がると玄関に達する。入った所は板張りのロビーになっている。案内を告げると、若主人が囲炉裏で沸かした湯でお茶を入れてくれ、先ず一服。チェックイン後は、息子さんに案内されて部屋へ。この部屋はこの前来た時と同じ部屋、早速着替えて風呂へ。この時間帯、男性は岩風呂、女性は桧風呂、前者は館主の老主人の手作り、後者は業者にお願いしたもの、前者は男性的、後者は女性的、泉源は松川渓谷にあり、そこからここまでポンプアップしている。当時20軒で8億円を出資して出来上がったと老主人の堀江文四郎さんが話しておいでた。湯から上がって、部屋で山を眺めながら、持参の神の河で喉を潤す。彼女らも上がってきて、暫し駄弁り寛ぐ。
 午後6時半になり、食事処の「風土」へ。ここの料理は地の野菜や川魚などの旬の食材をふんだんに使った若女将の創作料理が売り物だ。今宵の飲み物にはビールとワインを所望した。この日、平成二十七年五月十三日の「北信濃風春の献立」は次のようだった。
「食前酒」またたび酒。「生湯葉」クコ 柏子 胡椒。「信州サーモンのコンフィー」塩糀 アロエヤングリーワシーサラダ。「地物野菜他とピクルスなど」ビーツとパブリカのソース 蕗味噌マヨネーズ 醤油ジュレ。「牛乳豆富」柚子味噌。「十六穀米スープとドライベジタブル」。「春の天麩羅」蕗の薹 こごみ 山ぶどうの芽 タラの芽 信州りんご 抹茶塩。「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活 人参 ディル (注:ヒメウイキョウ )。「チーズの茶碗蒸し」トマト ねぎ。「大岩魚のジェノバ風ソース」長芋 椎茸 ミニキャロット キウイ生ハム卷クリームチーズ りんごソース。「野沢菜茶漬け」。「りんごあいす りんご赤ワイン煮 マンゴーヨーグルトソース。 (料理 明子)印
 部屋に戻ってロビーで寛ぐ。ベランダへ出ると空気がひんやりとしていい気持ちだ。眼下には長野の市街の明かりが見えている。ハンモック様の吊るされた籠があり、座るとゆらゆら揺れて何とも妙な気分になる。明日は須坂市へ下りて、豪商田中本家の雛飾りと版画美術館の豪華な30段千体の雛祭りと人形博物館の15段の五月人形を観ることに。

7度目の満山荘は家内抜きで(その1)

1.はじめに
 私の家内は昭和 17 年 (1942) 生まれ、もうとっくにリタイアしてよい年齢なのだが、まだ野々市市内の F 医院に事務職員として勤務している。この医院はついこの間までは病院としての位置付けだったが、事情があって有床の医院となった。家内は今この医院で家内の後継者の養成に心血を注いでいる。
 さて、病院だったときには薬局があって、患者には院内で調剤をして渡していたが、今の時代の流れとして、院外処方に踏み切ることになった。そうなると、これまで初代院長の時から勤務していた女性の薬剤師の方は病院を去らねばならないことになった。家内は病院創設時からの就労で特に勤務が長いが、薬剤師の H 嬢もかなり長い。これまで家内と H 嬢とは昵懇なこともあって、私も加わって何度か一緒に旅行をしたことがある。そんなこともあって、彼女が辞めるにあたって、もうきっと最後になるだろうから1泊泊まりで3人で温泉にでも行かないかと提案したところ、すんなりと同意が得られた。日はやりくりして5月 13 日 (水) と 14 日 (木) にした。
 宿は私に任すと言う。私はよく家内と秘湯と称する宿へよく出かける。秘湯の宿と言ってもピンキリで、1泊料金が8千円もあれば4万数千円台もあったり、また果たしてこれが秘湯?といったものまであったりで様々である。当初新穂高温泉のとある広大な露天風呂がある旅館を予約したが、何となく彼女と家内からはクレームがつき、それで彼女も訪れたことがあり受けも良かった満山荘に予約したところ、ようやく GO のサインが出た。
 今年の5月はことのほか沢山の行事があり、私もこの旅行のほかに、小中学校の同窓会や大学の同窓会、親戚の親睦旅行など1〜2泊の旅行が集中していたり、また連休には子供の家族らが家に集まったりで、5月は日程がかなり窮屈だ。ところで家内は4月末から風邪気味で健康が優れなかったが、連休中は子供らがいたこともあって、微熱が続いていたものの、風邪だろうから薬を飲んでいれば何とか納まるだろうと高をくくっていた。6日に長男も横浜へ戻り、家内は7日から勤務に出たが、診察を受けたところ、左肺上葉に肺炎の影があり、即入院となった。37℃ 台の微熱が 10 日以上も続いていて、何となく不安だったが、その不安は的中した。今はとにかく本復することが先決であって、H 嬢の退職慰安の温泉行きに暗雲が立ちこめることに。でも本人は旅行までには本復するだろうとのことで、私もキャンセルはしなかった。しかし家内は酸素吸入の必要もあるとのこと、とても7日の入院での本復は無理とあって、対応をどうするかが問題となった。そこで満山荘に問い合わせたところ、人数の変更は前日でもいいですとのこと、家内にこのことを伝えると、私は行けない代わりに、医院の受付に居る K 嬢にお願いしたとのこと、、それで彼女の費用は全部こちら持ちということにしてあるので、そのようにして下さいと念を押された。こうして H 嬢の退職慰安温泉行きは家内抜きの道中に。年齢は、私は 70代、H 嬢は 50 代、K 嬢は 30 代で、一見父親、娘、孫娘という風に見えなくもない。
〔閑話休題〕
 金沢赤十字病院の内科部長をされていた F 先生が、住まわれていた野々市町に F 内科外科病院を開設されることになった。先生の奥さんはバドミントンを趣味とされていて、家内も大好きだったことから、町でのクラブの創設にも互いに深く関与していた。病院の創設に当たって、何かと開設を手伝うことになり、創設後も事務担当職員として勤務することになった。創設時は長男の先生が院長で内科担当、次男の方が事務長、三男の方が外科担当と、身内でしっかり固めた布陣での開設だった。家内が院長先生や院長夫人と親しかったこともあって、私も親しく付き合わせて頂いていた。ところで院長先生は登山やスキーが大好きで、休日にはよくナースたちを集ってよく山へ出かけられていた。私も誘われてよく便乗させて頂き出かけたものだ。私はスキーはあまり得手ではなかったものの、登山は金沢大学山岳部に籍を置いていたこともあり、先生の意向を受けて常に皆さんのリード役をしていた。私は韋駄天のキーさんと言われていたこともあり、足は随分と達者だった。そしていつの頃だったろうか、薬局に H 嬢が入局し、この山行きにも加わってきた。彼女は華奢な身体ながら、上りも下りも大変達者で、私の後にくっついて歩くほど、これは他の病院のスタッフ達とは雲泥の差だった。聞けば秋田の出身とか、彼女とはそれ以来の長い付き合いである。因みに私の家内はこの病院の山行きやスキー行には全く参加したことがない。バドミントン一途といったところだった。

2015年4月26日日曜日

能登島のそば屋「生そば 槐」(その2)

(承前)
3.「生そば 槐」への探蕎行
 4月 20 日の月曜日、参加会員 11 名で能登島の「生そば 槐」へ向かう。車は前田さんと和泉さんが運転され、前田さんの指示に従う。私は9時に和泉さんに迎えに来てもらい、金沢市広小路近くのコンビニ「ローソン野町」で寺田会長や新田さんと合流する。ここから寺町、小立野を経て山側環状道路に入り、次いで白尾 IC で「のと里山海道」に入る。ここで前田さんから連絡があり、丁度タイミングよく高松 PA でトイレ休憩も兼ねて合流することに。ここで石黒さんがこちらに乗車され、和泉車は6人乗車、そして前田車には、池端、松田、川渕、早川の5名が乗車。
 和泉車の先導で「のと里山海道」を北上し、上棚矢駄 IC で下り、東進して七尾市田鶴浜に出、能越自動車道に入り、和倉 IC で下り、和倉温泉を左に見て、能登島大橋を渡り、県道 47 号線を能登島向田に向かう。向田の交差点を過ぎ、和泉さんにもう近いのでスピードを落とすようにお願いしたけれど、思ったよりスピードが落ちず、左への小道を3本通り過ぎ、それで4本めに入ってもらった。ところが様子がどうも変だ。この前来た時には山手にお寺があり、それが目印になると思っていたが、目の前にある福勝寺なる寺はこの前見た寺ではない。そこで確認のため私が車を下りて右へ進むと、県道に出た。これは明らかに行き過ぎている。それで県道を向田の交差点に向かい戻って車を走らせると、斜めに入る道の脇に小さく「そば」と書かれた標識が。それで此処から入って、前に来たあの立て札標識のある駐車場に辿り着けた。今回もすんなりという訳には行かなかった。
 着いたのは 11 時過ぎ、座敷に上がると、何とそこには輪島塗の朱の御膳が 11 並んでいた。テーブルで良かったのにと思ったところ、前田さんが所望したとの発言があった。大仰なことになったものだ。予約してあったのは3千円のコース料理である。皆が席に着いた頃、初めに奥さんがやはり輪島塗の朱のお椀二つに,前菜の「厚焼き玉子」と「鴨のサラダ」を持っておいでた。後者には山野草や洋野菜が沢山盛られている。お酒やビールも注文したが、前菜が御膳に載っているのにまだ届かない。お酒を飲まない方は箸を取られて食べておいでるが、私は飲み物が来るまで待つことに。待つこと暫し、奥さんがビール4本、お酒のお銚子6本を運んでおいでた。ここで出されるお酒は珠洲の宗玄のはずだが、奥さんの言うには、絵柄の描かれた銚子2本は大吟醸ですとのこと、すると一人1本ではなく、6本を6人で分けることに。随分と勝手が悪い。でもお酌に回られる奇特な御仁もおいでたこともあって、万遍よく行き渡った。
 次いで山野草も入った天ぷらの盛り合わせ、ウドやコゴミのほか、キクイモやエリンギやシシウドなど、輪島塗のお盆に中折を敷いて出される。藻塩?で頂く。
 そして本命の「三色盛りそば」。更科、挽きぐるみ、田舎。お品書きを見ると、これらはすべて生粉打ちで、中能登町瀬戸の「十劫坊の霊水」での水捏ねとある。通常更科は湯捏ねなのだが、ここでは水捏ねに拘っているようで素晴らしい。孟宗竹の半割に盛られて出てきた。別の輪島塗の朱のお椀にはそば汁、浅い朱の小皿には刻み葱と生山葵。そばの量は通常は 1.5 人前とあったが、今日のは若干少なめのようだった。それにしても三色それぞれの味が十分味わえ、それぞれにとても素晴らしく堪能できた。
 終わってご主人が話されるには、信州上田市の「おお西」で3年半、次いで和倉温泉の「加賀屋」で3年半修業され、平成 25 年5月に開業されたとか。ご本人は昭和 46 年亥年生まれの 43 歳、1年生と3年生のお子さんがおいでとか。中々男前の素晴らしい御仁である。近くならばちょくちょく訪ねたくなる店だ。

〔資 料〕
 店主:田中哲也さん  創業:平成 25 年5月
 住所:〒 926-0211 七尾市能登島向田町 118-25 ☎:0767-84-0655
 営業: 11:00 〜 20:00(売り切れ終い) 16:00 以降は要予約  定休日:水曜日
 主なメニュー (単位 100 円)
  〔盛りそば〕更科(15) 挽きぐるみ・田舎 (10) 二色 (15) 三色 (18) 鴨せいろ (24)
     〔かけそば〕かけそば (10) 天ぷらそば (18) 鴨南蛮 (24)
  〔冷やかけそば〕冷やかけそば (10) 冷やかけ天ぷらそば (18)
  〔一 品〕野菜天 (10) 鴨のサラダ (10)  〔コース料理〕3,000 円〜
  〔飲み物〕ビール (6) 日本酒 (4) ノンアルコール (5) ウーロン茶 (3) 

能登島のそば屋「生そば 槐」(その1)

1.はじめに
 昨年暮れに行なわれた世話人会で、平成 27 年前半の行事予定を決めるに当たって、4月は 23 日月曜日に、能登島にある「生そば 槐」へ行こうということになった。発議されたのは寺田会長で、テレビ朝日でこの店が紹介されたのを観られたとか。誰も行ったことがないこともあって、すんなりそこへ行こうということになった。店名の槐は「えんじゅ」と呼ぶとか、何となく興味が持てた。3月の「あい物」の時もそうだったが、取り敢えず一度は行ってみようということに。それで事務局長の前田さんからは4月6日の月曜日に出かけましょうという連絡が入った。メンバーは寺田会長と私も入って3人、前田さんの車で出かける。
2.「生そば 槐」へ初見参
 予定の 9:40 に前田さんの車に同乗し、一路 山側環状道路を経て「のと里山海道」へ。和倉温泉経由ということで、徳田大津 IC まで行き、標識に従って和倉温泉へ。ここから能登島大橋を渡り、能登島向田町へ。ここは合併前は能登島町の役場があったところで、何度か訪れたことがある。目指すそば屋はこの向田にあるのだが、どうも県道沿いではなく、向田の町並みに向かって県道を左へと入らねばならないらしい。前田さんのスマホでは、そば屋の近辺に来ているらしいということは分かるのだが、指示される近辺の小路に入ってもそれらしき店は見当たらず、何回かスマホに表示される場所の辺りをぐるぐる回る羽目に。ところで何度目かの折、看板らしきものがあり、私が見に行くと、そこには「生そば 槐」の看板が。道を左回りに走らせていたので、この字が見えなかったのだった。これは結構分かりづらい。砂利を敷きつめた駐車場に車を停め、指示に従って納屋を通り抜け、店の前へ。着いたのは 11 時過ぎ、ところが今日は 12 時からとある。小雨が間断なく降っている。でも時間があるので近辺をブラつくことに。
 今日は小学校の入学式とかで、両親はそれに出るので時間送りになったとか。入口には白地に朱で槐と書かれた暖簾も出され、時間前だったが中へ招じ入れられる。座敷のテーブルに席を取る。メニューを見て「三色盛り」をもらうことに。この店のそばはすべて生粉打ち、十割蕎麦。玄関には信州上田の「手打百藝 大西」で修業し、大西流蕎麦道を伝承していることを証する表札板が掲げられている。暫くして「三色盛り」が出てきた。器は孟宗竹を半分に割った内側を黒く漆塗りしたもの。それに、更科、挽きぐるみ、田舎の三種盛りが、細打ち、しっかりとした打ちでこしがあり、思わず「これは美味い」と唸った。薬味は葱と山葵、これは会の皆さんにも満足して頂けると確信が持てた。座敷からは手入れの行き届いた小さな庭が見える。食べ終わる頃、珠洲焼の鉢に蕎麦湯が、変わった風情のある趣向だ。
 私たちがいる間に2組の客が。よくぞ辿り着かれたと思う。主人では、ナビで来られる時は、電話番号ではなく、地番を入力した方が着きやすいと仰る。終わって主人の田中さんからお話を伺う。蕎麦は信州産、挽きぐるみと田舎は玄蕎麦を少し小さめの石臼で自家製粉しているが、更科は自家製粉できないので、更科粉を仕入れているとかだった。帰りに2週間後に十名ばかりで来ると予約する。一人3千円位にして、三色盛りを入れて欲しいというと、3千円では二色盛りになるとか、そこを無理に三色にとお願いしたところ、私たちの熱意も汲まれて、じゃ量を調整して要望に応じましょうということになった。感謝々々。
 帰りに、七尾市府中にある能登食祭市場へ。寺田会長と前田局長のお目当ては「はちめの味醂干し?」とか、でもこの日私はパスした。ところで後日、会長からは大変美味かったと吹聴され、それではと買うことに。ところが家内がこれは大変美味いとのご託宣、今度寄ったらぜひ買うようにと約束させられる羽目に。
 金沢へ帰る途中、七尾市国分にある欅庵に立ち寄った。主人の岡崎さんとは古い付き合いだが、開業して 10 年、遠いこともあって、私は年に1回か2回しか寄っていないが、ここの「辛味おろし蕎麦」は、吟味された辛味大根を使っていて、私は大好きだ。もっともあまりにも辛くて敬遠される方もおいでるが。ここも自家製粉、生粉打ち、十割蕎麦に拘っている。注文は「辛味おろし蕎麦」と「天ぷらもり蕎麦」、器は羽咋の気多大社近くで焼かれる大社焼とか、素朴な白を基調とした器である。そばは丸抜きの挽きぐるみ、細打ちで量は多め、古民家の一角で暫し寛いだ。さすが満腹となった。またの再訪を約して辞した。

2015年4月1日水曜日

シンリョウのツブヤキ (14)12〜3月の花

12月〜3月に庭 (露地) で咲いた木々と草花
 植物名は50音順とし、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
 種名の後の( )内数字は、その月に開花が確認できたことを示す。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代 (1570年) 以降に日本に渡来した帰化植物。
 また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種。

1.木 本
 アオキ(3〜4) アンズ・カラモモ(3〜4) ウメ(3〜4) シナレンギョウ(3〜4)
 トサミズキ(3〜4) ヒイラギナンテン(3〜4) ヒサカキ(3〜4) ヤブツバキ(12〜4)

 以上  12月  1種(1科 1属)
      1月  1種(1科 1属)
      2月  1種(1科 1属)
      3月  8種(6科 7属)

2.草 本
 カンアオイ(3) カンスゲ(3〜4) キバナクロッカス〔栽〕(アヤメ科 サフラン属)
 クリスマスローズ〔栽〕(キンポウゲ科 クリスマスローズ属) スイセン(1〜4)
 スズメノカタビラ(3〜6) ダッチアイリス〔栽〕(1〜4) タネツケバナ(3〜4)
 ハコベ(3〜4) ヒメツルソバ・カンイタドリ〔栽〕(4〜12)
 ヒメリュウキンカ〔外〕(3〜4) ミスミソウ・ユキワリソウ(3〜5)
 ミミナグサ(3〜4) ラッパズイセン(ヒガンバナ科 スイセン属)


 以上  12月  1種(1科  1属)
      1月  3種(3科  3属)
      2月  3種(3科  3属)
      3月 14種(8科 13属)

2015年3月28日土曜日

金沢駅を彩る伝統工芸品の短冊プレート

 平成27年3月14日に北陸新幹線が開通し、金沢と東京が2時間半で結ばれることになった。3月20日に探蕎会の行事で押水今浜のそば屋へ行った帰り、午後7時からのアンサンブル金沢の定期演奏会まで空き時間があるので、新装なった金沢駅と新幹線を眺めることにした。開通前は金沢駅のコンコースにある大きな門型柱には覆いがしてあって、何か柱に地元作家の伝統的工芸品プレートが嵌め込まれるとの報道がされていたが、どんな作品が展示されるのか興味が持てた。開業された後、当然除幕されたのだろうが、あまり話題になっていないようで、訪れた時もこれらの柱に見入っている人はほとんどなく、私が回っていて一緒に見て話し合ったのは東京から来られたという御婦人一人だけだった。
 2列12対24本の柱は、1辺が1m ばかりあり、柱の上部に縦長の短冊形のプレートが嵌め込まれていて、その下部には秀作工芸の種類と作家、そして日本語、英語、中国語、台湾語、朝鮮 (韓国) 語で解説がなされている。以下に兼六園口 (旧東口) から入って左側 (南寄り) の12本の柱 (奇数番号) と、右側 (北寄り) の12本の柱 (偶数番号) について、順に工芸の種類と地元作家の氏名を紹介する。ただし短冊プレートには作品の名称は付けられていない。ただ駅の中心を飾る陶壁にはテーマが付いている。 

1.九谷焼 ( Kutani  Porcelain ) 日本芸術院会員 武腰 敏昭
2.木工芸 ( Wood  Work ) 重要無形文化財「木工芸」保持者 (人間国宝)灰外 達夫
3.輪島塗 ( Wajima  Urushi  Lacquer  Ware ) 重要無形文化財「沈金」保持者 (人間国宝)前 史雄
4.輪島塗 ( Wajima  Urushi  Lacquer  Ware ) 重要無形文化財「休漆」保持者 (人間国宝)小森 邦衛
5.九谷焼 ( Kutani  Porcelain ) 重要無形文化財「釉裏金彩」保持者 (人間国宝) 吉田 美統
6.金沢漆器 ( Kanazawa  Urushi  Laquer  Ware )「加賀蒔絵」
    重要無形文化財「蒔絵」保持者 (人間国宝)中野 孝一 
7.山中漆器 ( Yamanaka  Urushi  Lacquer  Ware )
    重要無形文化財「木工芸」保持者 (人間国宝)川北 良造
8.輪島塗 ( Wajima  Urushi  Lacquer  Ware )日本芸術院会員 三谷 吾一
9.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )日展会員 山岸 大成
10.山中漆器 (Yamanaka  Urushi  Lacquer  Ware )日本工芸会正会員 中嶋 虎男
11.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )日展会員 武腰 一憲
12.   珠洲焼 ( Suzu  Pottery )陶芸家 中山 達麿
13.輪島塗 (Wajima  Urushi  Lacquer  Ware )蒔絵作家 田崎 昭一郎
14.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )「九谷赤絵細密画」 日本工芸会正会員 福島 武山
15.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )「釉裏銀彩」日本工芸会正会員 中田 一於
16.金沢漆器 ( Kanazawa  Urushi  Lacquer  Ware )加賀蒔絵作家 清瀬 一光
17.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )「彩磁彩」日展会員 三代  浅蔵 五十吉
18.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )日本工芸会正会員 武腰 潤
19.山中漆器 ( Yamanaka  Urushi  Lacquer  Ware )日本工芸会正会員 水上 隆志
20.九谷焼 ( Kutani  Porcelain )日本工芸会正会員 四代 徳田 八十吉
21.茶の湯釜 ( Kanazawa  Tea  Ceremony  Kettle )茶の湯釜鋳物師 十四代 宮崎 寒雉
22.加賀象嵌 ( Kaga  Inlay )白銀師 加澤 美照
23.加賀象嵌 ( Kaga  Inlay )「平象嵌」 重要無形文化財「彫金」保持者 (人間国宝)中川 衛
24.銅鑼  ( Kanazawa  Bronze  Gong )重要無形文化財「銅鑼」保持者 (人間国宝)三代 魚住 為楽

 陶壁 「日月の煌き」( Glow  of  the  Sun  and  the  Moon )
    文化勲章受章者・文化功労者・日本芸術院会員 十代 大樋 長左衛門 (年朗)

2015年3月26日木曜日

平成27年3月の探蕎は「あい物」(その2)

(承前)
3.「あい物」探蕎本番
 3月16日の事務局からのメールでは、3月20日の「あい物」への参加者は13名で、次の方々 (敬称略) だった。池端、石黒、和泉 (2)、太田 (2)、奥平、木村、寺田、新田 (当日欠)、松川、松田、前田。会費は2500円 + お酒代。集合は午前11時現地集合との指示。ただ事務局からは3月19日にメールがあり、申込みは探蕎会ではなく、前田で予約してある旨の連絡があった。これからは会での予約はしない方が良いのではと思わされた連絡だった。
 探蕎の当日、私は和泉さんの車に便乗させていただくことにし、9時50分に家を出た。野々市から山側環状道路、次いで「のと里山海道」に入る。今浜インター近くまで来ると、自動車道からも「そば」と書かれた幟が何本も見え、これだと見落とさないが、この前はこれが見えなかったものだから、つい行き過ぎてしまった。時間は丁度1時間を要した。今日は天気も良く、蕎麦日和という言葉はないにしても、実に温かく過ごしよい日だ。
 11時近くになり店へ入る。私たちは奥の畳の間へ通される。2連の座卓に10人座れるようにセットしてあった。今日の参加者は12人、少々窮屈だが、全員入られるようにセットし直してもらう。今回はおまかせで2500円のコース、どんな品が出て来るのかの楽しみがある。飲物のお酒は久保田の千寿を冷やで頂くことに。
 テーブルには「そばのかりんとう」が出ていて、お茶が運ばれてきた。そして暫くして付き出しの胡瓜と人参の浅漬けが小皿に、そして1合が入る珠洲焼の黒い湯呑み型の片口に冷えた千寿と黒釉の盃が。このお酒は実に癖がなく飲みやすい酒だ。そして程なく珠洲焼の小鉢に山葵和えが、紐状の本体は一見イカと思いきや、これはホタテだとか、私には初めての見参だった。次いで角皿に大葉を敷き、その上に小分け包装の絹豆腐、包丁で斜に十字に切り、おろし生姜と葱のあしらい、この豆腐にはうま味が感じられた。そして焼き味噌、これはそば屋の定番、小振りなしゃもじにそば味噌、程よい味加減でお酒との相性は好い。そして脇役の天ぷら、南瓜の輪切り、海老、甘藷と大葉、州浜をかたどった皿に盛られ、抹茶塩が添えられている。先に訪れた時には蕗の薹が盛られていたが、今回はなかった。
 そして本命の「高遠そば」、角盆に珠洲焼と思しき黒縁の中皿に簀の子が敷かれ、その上にそばがやや多めに盛られている。そしてコップには辛味大根のおろし汁、それにそば汁とそば猪口と薬味。辛味大根のおろし汁はかなり辛いようで、中には残された方もおいでた。でもこの辛さが高遠そばの真骨頂なのだが。私はせっかくなので残りを頂戴した。そばも程よく美味しかった。
 一段落したところで、州浜をかたどった別の皿に「そば団子」が、1串3連の平たい団子に酢みそが付いていて、そばがきとは一風変わった趣きがある。このとき何故か女性限定としてピスタチオが出された。その意図は不明だ。終わりに近く、おカミさんから、宝達葛の「くず切り」はどうですかとの下問、2人で1つ頂くことにする。あちらでは気配りされ、朱の塗り鉢に半人前ずつ入ったのを供された。これが本物の宝達葛か、何とも淡く曇った透明感がなかなか上品で、見ていてもほれぼれする。微かな甘味が感じられる。
 こうして「あい物」への探蕎は幕を閉じた。帰りに玄関で集合写真を撮った。

〔閑話休題〕
1.参加した12人のうち、太田さん夫妻と奥平さんの3人が北陸新幹線に乗車されていた。その印象を伺うと、とにかく静かで、停まる時以外は全く振動を身体に感じないとのこと。したがって、発車の時もいつ動き出したかは分からず、これは走行中も同じだったという。それでコーヒーカップをテーブルに置いても、列車の振動やなにかで動くことは全くなくて、実に快適とのことだった。またトイレでも、横揺れが全く無いので、安心して用を足せたという。従来線では全く考えられないことだ。
2.会話のなかで、蕎麦「やまぎし」の話題が出て、津幡在住の太田さんから、山岸さん夫婦は実は恋愛結婚でしたとのこと、旦那さんが津幡に赴任された折に下宿した家の娘さんが奥さんとのこと。帰りに和泉さんを誘って「やまぎし」に寄ってお話を伺ったところ、正にそうであった。そして奥さんが言うには、実家と四十物さんとは親戚筋とのこと、正に赤い糸のつながりを感じた1日であった。

〔資 料〕
 店主:四十物 (あいもの) 一雄さん  創業:平成17年7月
 住所:〒 929ー1344 羽咋郡宝達志水町今浜北 15  ☎:0767ー28ー3653
 営業:平日 11:00〜16:00 頃  土・日・祝 11:00〜20:00  定休日:木曜日
 おしながき(抜粋) 単位:円
  冷たいそば:ざる(800)  高遠おろし(900)  天ざる(1000)  天ざるおろし(1500)  大盛 (400)
  ごはん・甘味:そばごはん(200)  くず切り(700)  そばがき(700)  そばだんご(250)
  酒肴:焼みそ(450)  天ぷら(600)  たこわさ(300)  にしんの甘露煮 (450)
  お酒:千寿 (800)  百寿 (500)  そば焼酎 (500)  ビール中 (600)
  ほかに、温かいそば、冷たいうどん、温かいうどん がある。そば・うどんは自家製。   

2015年3月25日水曜日

平成27年3月の探蕎は「あい物」(その1)

1.はじめに
 昨年暮れに行なわれた世話人会での行事予定では、3月は20日金曜日に能登押水にあるそば屋へということになっていた。ところで、1週間後に平成27年の探蕎会総会を控えた2月16日の事務局からのメールでのプログラムの案内原稿では、場所はまだ「未定」とあって少々心配だった。するとその日、事務局長の前田さんから電話があり、件のそば屋について世話人の塚野さんに尋ねたところ、のと里山海道の今浜インター近くにある「あい物」というそば屋とのこと、そこで予め訪れてみたいがどうかとの打診があった。訪ねるのは2月17日の火曜日、私はこの日午前10時以降ならフリーなので OK した。他の方にも打診されたらしいが、結果としては前田さんと私の二人だけで訪ねることになった。前田さんの車で出かける。

2.「あい物」偵察行
 場所は今浜インターのすぐ近くとのこと、しかも幟が出ているのですぐ分かるとのことであったが、あまりにもインターに近くて見落としたものだから、着くまでに随分あちこちうろつく羽目になり、「上杉」の前も通ったりした。でも昼近くにはどうやら着くことができた。
 店は大きな自宅の1階を改装した小綺麗な瀟酒な佇まいの構え、店に入る。中の三和土には、4人掛けの机が2脚、カウンターに椅子が5脚、都合13人が入れる。私たちが着いた後にも次々と客が訪れる。この店を知っている人は知っているのだなあと感心する。厨房には3人が、前田さんはご主人を見て、以前金沢市末町にあった「末野倉」においでた方ではないかと、訊ねたところ正にその通りだった。そこには10年おいでたとか。私が店名の「あい物」の由来を訊くと、前田さんは苗字だと、「四十物」と書いて「あいもの」と読むとか、そう言えばそのような苗字を聞いたことがある。ここで開店して10年になるという。
 注文は、前田さんは「高遠おろし」、私も追随する。お酒の欄を見ると、久保田の千寿と百寿が、千寿を注文、摘みには「天ぷら」と「そばみそ」を注文する。程なくお酒が、久しぶりの千寿、付き出しには胡瓜と人参の浅漬け。前田さんには申し訳なかった。天ぷらは海老と蕗の薹が各2、あと南瓜、甘藷と大葉。蕗の薹は近くで摘んできたものとか、菊の花弁状に開いて揚げてあったのは新鮮だった。抹茶塩で頂いた。そして「高遠おろし」、お盆に縁が黒っぽい中皿にやや多めに盛られた中細の二八のそば、コップには辛味大根のおろし汁、それにそば汁とそば猪口と薬味 (刻み葱と生山葵) 。そばは丸抜き、コシもあって、喉越しも上々、これだと皆さんにも十分喜んでもらえそうだ。前田さんの言だと器はみな珠洲焼なのではとのこと、なかなかシックでよくマッチしている。そうこうするうちにまた客が、するとご主人、「少し待って下さい、今すぐそばを打ちますから」と。そしてそばを打ち出したではないか。数人分なら15分もあれば、打って、切って、茹でて、冷水で締めて供せるのではと思う。正にそば職人の自負が伺える姿を見た。その後も客が、すると奥の部屋へどうぞとのこと。奥さんに訊くと、奥には10人入れる畳敷きの部屋があるとか、探蕎会でもし10人入ったら貸切りになるのではと危惧していたが、これだと安心だ。

2015年3月19日木曜日

1945年以降に庭から消えた植物のリスト

1.木 本
アオダモ・コバノトネリコ・アオタゴ(モクセイ科 トネリコ属)、イチジク・トウガキ(クワ科 イチジク属)、イブキジャコウソウ・イワジャコウソウ(シソ科 イブキジャコウソウ属)、ウンリュウヤナギ(ヤナギ科 ヤナギ属)、エノキ(ニレ科 エノキ属)、オニグルミ(クルミ科 クルミ属)、カキ(カキノキ科 カキノキ属)、カラスザンショウ(ミカン科 サンショウ属)、カンツバキ・シシガシラ〔園芸品種 コジシ〕(ツバキ科 ツバキ属)、キリ(ゴマノハグサ科 キリ属)、クリ(ブナ科 クリ属)、クロモジ(クスノキ科 クロモジ属)、サツキ・サツキツツジ〔八重の古木〕(ツツジ科 ツツジ属)、サワラ(ヒノキ科 ヒノキ属)、スモモ(バラ科 スモモ属)、セイヨウミザクラ〔外〕(バラ科 サクラ属)、タラノキ(ウコギ科 タラノキ属)、テッセン〔外〕(キンポウゲ科 センニンソウ属)、ナギイカダ〔外〕(ユリ科 ナギイカダ属)、ナツグミ(グミ科 グミ属)、ニワウメ・コウメ・リンショウバイ(バラ科 サクラ属)、ニワトコ・セッコクボク(スイカズラ科 ニワトコ属)、ニワフジ(マメ科 コマツナギ属)、ハウチワカエデ・メイゲツカエデ(カエデ科 カエデ属)、ハクモクレン・ハクレン(モクレン科 モクレン属)、ハナカイドウ・カイドウ(バラ科 リンゴ属)、ハナズオウ〔外〕(マメ科 ハナズオウ属)、ハンノキ(カバノキ科 ハンノキ属)、ヒノキ(ヒノキ科 ヒノキ属)、ビワ(バラ科 ビワ属)、ブドウ(ブドウ科 ブドウ属)、ポポー・ポポーノキ・アケビガキ〔外〕(バンレイシ科 ポポー属)、マダケ・ニガタケ(イネ科 マダケ属)、ムラサキシキブ・ミムラサキ・コメゴメ(クマツヅラ科 ムラサキシキブ属)、モクレン・シモクレン・モクレンゲ(モクレン科 モクレン属)、モチツツジ(ツツジ科 ツツジ属)、モモ(バラ科 モモ属)、ヤエヤマブキ(バラ科 ヤマブキ属)、ヤマトレンギョウ(モクセイ科 レンギョウ属)、レンゲツツジ(ツツジ科 ツツジ属)
以上  41種(28科 35属)

2.草 本
アカザ(アカザ科 アカザ属)、ウシハコベ(ナデシコ科 ハコベ属)、エゴマ〔外〕(シソ科 シソ属)、エビネ(ラン科 エビネ属)、エンレイソウ(ユリ科 エンレイソウ属)、オオケタデ〔外〕(タデ科 タデ属)、オオマツヨイグサ〔外〕(アカバナ科 マツヨイグサ属)、カタクリ(ユリ科 カタクリ属)、カラスウリ(ウリ科 カラスウリ属)、キキョウ(キキョウ科 キキョウ属)、キクイモ(キク科 ヒマワリ属)、キクバオウレン(キンポウゲ科 オウレン属)、キランソウ・ジゴクノカマノフタ(シソ科 キランソウ属)、ジュウニヒトエ(シソ科 キランソウ属)、シャガ(アヤメ科 アヤメ属)、シャクチリソバ・シュッコンソバ・ヒマラヤソバ〔外〕(タデ科 ソバ属)、シュウカイドウ〔外〕(シュウカイドウ科 シュウカイドウ属)、シュンラン・ホクロ(ラン科 シュンラン属)、ショウジョウバカマ(ユリ科 ショウジョウバカマ属)、シライトソウ(ユリ科 シライトソウ属)、スベリヒユ(スベリヒユ科 スベリヒユ属)、ツルボ(ユリ科 ツルボ属)、テッポウユリ(ユリ科 ユリ属)、トキンソウ(キク科 トキンソウ属)、フジバカマ(キク科 フジバカマ属)、ホオズキ(ナス科 ホオズキ属)、ミゾソバ・ウシノヒタイ(タデ科 タデ属)、ミヤコワスレ・ノシュンギク(キク科 ミヤマヨメナ属)、ムラサキサギゴケ(ゴマノハグサ科 サギゴケ属)、ヤエムグラ(アカネ科 ヤエムグラ属)、ヤマゴボウ(ヤマゴボウ科 ヤマゴボウ属)、ヨウシュチョウセンアサガオ(ナス科 チョウセンアサガオ属)、ヨメナ(キク科 ヨメナ属)
以上  33種(18科 31属)

3.羊 歯
イノモトソウ(イノモトソウ科 イノモトソウ属)、イワガネゼンマイ(ホウライシダ科 イワガネソウ属)、クサソテツ(イワデンダ科 クサソテツ属)、クジャクシダ(ホウライシダ科 ホウライシダ属)、コンテリクラマゴケ(イワヒバ科 クラマゴケ属)、シシガシラ(シシガシラ科 シシガシラ属)、ヤブソテツ(オシダ科 ヤブソテツ属)
以上  7種(6科 7属)

シンリョウのツブヤキ(13)庭から消えた植物

 私の家の敷地は南北に長い長方形で、母屋が真ん中にあり、その東側には南北に用水が流れている。この裏庭の南端は竹林、北端は築山になっていて、用水はここでは曲水になっている。そして他の裏庭には大木が鬱蒼と繁っていた。母屋の西側にある前庭は、一部は庭らしく造られてはいるものの、その他の部分にはいろんな木々が生えていた。終戦になって農地解放が行なわれ、400町歩あった田は1町歩になり、沢山の国債は紙切れになり、財産税を払わねばならないため、裏庭の大木を10本ばかり伐ってそれの足しにした。大木が無くなったことで、陽当たりが随分と良くなり、植生が大きく変わった。中でも築山に沢山植わっていた楓が、鉄砲虫の被害にあってほとんど枯死したし、数本あった梅の古木も枯れてなくなった。代わりに陽樹のタブノ木が元気が出て、築山全体を覆うほどになり、後年大きな枝を切り落とさねばならなくなった。また竹林は以前は真竹と孟宗竹が混在していて、程よく東南の一画に納まっていたものの、真竹に花が咲いて真竹が絶えてしまってからは、孟宗竹が勢いを増し、用水の東側一帯に広くはびこるようになり、出て来る筍を除去するのに苦慮しなければならなくなった。本当に予想もつかないとんでもない所にまで筍が顔を出すのには驚くほかない。
 大木を伐った後には陽当たりが良くなっていた庭も、幼樹が大きくなるにつれ、陽当たりがまた悪くなり、それでまた植生が変わっていった。また陽当たりが良かった頃、久吉叔父が植えた木々があったが、今日では大木に成長したメタセコイアが残っているに過ぎない。一方で庭には以前は昆虫も沢山棲息していて、オハグロトンボもいたし、ウマオイやクツワムシ、スズムシといった秋の虫も沢山いたが、今はコオロギや蝉が残っているのみである。代わって今は蚊の天国、樹木の剪定にあたっては、事前に蚊の駆除をするのに殺虫剤を庭師が撒くので、なおさら生態系が悪くなっている。また用水には、ずっと以前には小魚も沢山いて、カワセミなども飛来していたが、その後はどぶ川になり、ヘドロが溜まり、臭いもするようになった。でも下水道が普及するようになって、どうやら流れも幾分きれいになってきた。今でも庭には2カ所、用水沿いに野菜などを洗う場所が設えてあるが、勿論以前のように、そこを利用するような清流は望むべきもない。こうして幾多の変遷があり、庭の様相は造られて百年を経て、環境は随分と変貌した。したがってその間に植生も変わり、以前あった木々や草々でなくなったものも多い。そこで私は終戦以降の記憶を辿り、以前にはあったが、今は無くなってしまった植物、種子植物と羊歯植物について記すことにした。
 以下に記した植物は、種子植物は木本と草本に分けて、植物名は五十音順とし、種名・別名(科名 属名)の順に記した。また植物名の後に〔外〕と記した植物は、外国原産で、安土桃山時代 (1570年) 以降に日本に渡来したいわゆる帰化植物である。ただバラ科の中国原産の果実、例えば梅や桃や杏などは、もっと古い時代に渡来していることもあって、帰化植物としては扱っていない。(リスト別添)

2015年2月25日水曜日

金茶寮での歳時記「早春の宴」(その2)

(承前)
食 談:「対談:世界から見た金沢」
 食談では金沢21世紀美術館長の秋元さんが司会役となり、国内外で活躍している渡邊さんと大樋さんの両ゲストから、世界視点で見た金沢の魅力を語ってもらうというスタイルがとられた。司会の秋元さんは 1955 年東京生まれの60歳、東京芸術大学絵画科卒で、前任はいろんな話題を蒔いたベネッセアート直島の地中美術館の館長だった。
 初めに、能楽宝生流シテ方として重要無形文化財指定の渡邊さんから話題が提供された。渡邊さんは 1949 年生まれの 66 歳、先代の次男で、宝生流第18世の宝生英雄さんに師事され、ここ数年はアメリカやブラジルで能の普及に尽力され、一昨年金沢へ戻って来られたとか。日本では新幹線の開通にあやかり、新潟、長野でも拠点を設けて活動してこられたという。海外でも日本でも、本当の能の真髄を堪能してもらうことに腐心されたとか。そして下手に迎合することなく、良さを理解して頂くことが肝心だという。しかし東京でも金沢でも、もし同じレベルのものが見られるとすると、金沢まで来なくても東京で済んでしまうことになる。そうでなくて、金沢でないと見られないものがあるとすれば、金沢へ来てもらえることに。宝生なら本場金沢という位置付けが大事である。
 次いで大樋さん。大樋さんは文化勲章受章者の 10 代大樋長左衛門さんの長男、1958 年生まれの 57 歳、玉川大学卒業後、ボストン大学大学院を修了されている。大樋焼は京都の楽焼をルーツに持ち、ここ 340 年間、日本の茶の湯の文化の中で、日本を代表する焼き物として伝統を受け継いできた。しかし大樋さんが在住していたボストンでは、小さな窯で焼く茶道の陶芸ではなく、外国人にも共鳴を与えられるように、前衛的な陶芸にも取り組み、それが現地の外国の方にも共感を呼び感銘を与えられたという。そして陶板画などにも挑戦し、新しいジャンルにも意欲的に取り組んできたという。私は大樋焼を核にして、外国では、そこの居る人達に共感を与える作品を制作することが肝要と思う。温故知新。そのルーツが金沢だということで、金沢を世界に発信できると思う。
 これに対し渡邊さんは、前衛的ということでは、能ではそのような要素を取り入れることは極めて困難だが、現在、例えばオーケストラアンサンブル金沢の井上監督とも時々コラボして、新しい試みに挑戦している。ただこの場合でも、能の基本を崩すことは絶対なく、そこが陶芸との違いでもあると。しかし、金沢21世紀美術館で能をやるなどというのは新機軸かも知れない。金沢へ来れば見られる魅力を、金沢まで新幹線が開通した今、また 2020 年のオリンピックも見据えて、金沢の魅力としてアピールできればと思う。

 食談を終え、金沢市副市長の方の音頭で乾杯し宴会に入る。
 宴会になって、今宵の酒を提供された、明治3年 (1870) 創業の吉田酒造店の現社長の隆一さん (5代目) の長男泰之さん (6代目) から酒蔵の紹介があった。彼は東京農業大学を卒業後、大手酒造会社に勤務した後にロンドンに留学したことのある 29 歳。ニューヨークでの日本酒キャンペーンの折、エリック・シライ氏から、アメリカ人から見た日本酒造り:THE BITTH OF SAKE「酒の誕生」というドキュメンタリー映画を作りたいとのことで協力を求められ、一昨年 11 月から昨年 4 月にわたって撮影に協力し、その映画は今秋に公開予定とか。会場ではその予告編が上映された。外国人の目で見た新しい視点での酒造りの情景が見られそうで、乞うご期待である。

2月14日の献立「桜ほのか」は次のようだった。
「口取り」 笹小鯛の辛子味噌あえ、烏賊の花寿し、堅豆腐と蒸し雲丹、春鱒の黄身焼き、
      金時草のレモン煮、うなぎ玉子巻、かぶら寿し、鰯の胡麻まぶし、花びら百合根。
「造 り」 寒ぶり、鯛、甘海老。
「炊合せ」 鯛のうま煮、結びぜんまい、車海老、蕗色煮。
「焼き物」 のど黒南天焼、里芋うに焼、菜の花辛子和え。
「合 肴」 ぐじのかぶら蒸し、蛤・岩のりあん。
「止 肴」 早堀り若筍と蕗の薹、わかさぎ南蛮漬。
      春ちらし蒸し寿し。  鴨のつみれ汁。  フルーツ。

 宴会も終わりに近く、琵琶と横笛のコラボで、「今を輝いて」と銘打って、筑前琵琶の藤本旭舟さんと横笛の藤舎秀代さんとで、平家物語の平実盛の死を扱った「篠原の段」の演奏があった。琵琶の演奏を聴いたのは久しぶりだった。

 午後9時過ぎ、宴が終わって席を立った折、同じ卓の方が名刺を下さった。私はリタイアして名刺を持ち合わせていないが、話をすると、私と同じ金大薬学部出身の方がいたり、北陸大学や太陽グループの方がいたり、もっと早くだったら話も弾んだろうにと思った。
 帰りは私たちが殿になったが、玄関へ着くと迎えのタクシーはすべて出払ったとか。何方かが予約しないで乗られたらしい。女将さんが恐縮されて、貴賓室で暫くお待ち下さいとのこと、とんだハプニングで、茶菓の接待まで受け、お話もいろいろお伺いし、お陰で素晴らしい予期しない時間を過ごすことが出来た。このような催しは年に4回、季節ごとに開かれるとのことだったが、次回出る機会があるだろうか。ケセラセラである。 

2015年2月24日火曜日

金茶寮での歳時記「早春の宴」(その1)

 私の誕生日の前日の2月10日の火曜日に、家内の姪から、2月14日の土曜日に、金茶寮で宴があり、そのチケットが2枚あるので出かけませんかと電話があった。家内は尻込みをしていたが、私は何となく興味が持てたのと、金茶寮の本店には一度も行ったことがなかったこともあって、家内を口説いて、ともかく出てみることにした。後日頂いたチケットを見ると、お一人様 15,000 円 (飲料サービス料・税込み) とあった。この時期金沢ではフードピアが開催されているので、その一環かとも思ったが、チケットに書かれた内容を見ると、どうも関係がなさそうで、金茶寮と北國新聞社が季節ごとに定期的に開催しているような雰囲気だった.
 チケットには、次のような記述があった。

金茶寮歳時記「早春の宴」 平成27年2月14日 (土)
 18時より開演(受付 17時30分)
食 談:「対談:世界から見た金沢」
 講師:渡邊荀之助/宝生流能楽師 加賀能楽座
    秋元 雄史/金沢21世紀美術館 館長
    大樋 年雄/大樋焼第11代後継
お料理:寒ブリ、鯛、ワカサギなど
お飲物:手取川大吟醸生酒あらばしり、吉田蔵純米大吟醸 〔吉田酒造店/白山市〕
邦 楽:琵琶と笛 〜今を輝いて〜
 奏者:筑前琵琶/藤本 旭舟(筑前琵琶日本旭会 師範)
    横  笛/藤舎 秀代(綾の音の会 主宰)
         主  催:金 茶 寮
         特別協力:北國新聞社

 当日午後5時15分に家を出て、タクシーに乗る。金沢エクセルホテル東急3階にある香林坊店には
数回行ったことがあるが、本店へはなく、寺町にあることは知ってはいたものの、どうして行けるのかは知らない。運転手さんに行き先を告げると、行けますとのことでお任せする。タクシーは寺町通りで何回か小路の入り口で停まりながら奥を確かめ、そして漸く着くことができた。門から玄関まで、雨が落ちていたので、仲居さんが差す傘に入り玄関へ。受付で何方様と言われて「木村」と言ったが、該当する名前はなく、それで高木さんから頂いたと告げた。それで取りあえずは「禄1」という席を頂いた。部屋は和室2間通しで9名1卓が5卓、計45席だった。定刻前には満席になった。
 定刻になり、金茶寮の吉川さんの司会で宴が始まる。今回で76回になるという。メンバーは老若男女、多士済々だが、何となく何かの事業に携わっている方が多いような印象を受ける。私たちが知っている人は皆無、何となく場違いという感じがしないわけでもない。司会者からは、今宵のこの早春の宴は、同じ企画で2月27日 (金) に東京で開く金沢迎賓館フェア「金沢の日」の前座的な催しであること、そして世界視点から見て、何を金沢の魅力として発信すべきかを食談で語ってもらうとのこと。その後今宵の次第が述べられ、食談に登壇される3人が紹介された。また吉田酒造店の吉田泰之さんの紹介もあった。 (続く)

2015年2月18日水曜日

拘りのそば・うどん「あい物」を訪ねて

はじめに
 1週間後に平成27年の探蕎会総会を控えたある日、事務局長の前田さんから電話があり、今年前半の行事のうち3月の予定が未定になっていて、このことについて世話人の塚野さんに相談したところ、のと里山海道の今浜インター近くにある「あい物」という蕎麦屋さんが評判なのでどうかと提案されたとかで、何人かで予め訪れてみたいがどうですかと打診があった。訪ねるのは2月17日の火曜日、私はこの日午前10時以降ならフリーなので OK した。当日は当初4人くらいで出かける予定だったらしいが、結果としては前田さんと私の二人だけで訪ねることになった。前田さんの車で行くことに。

蕎麦屋情報一筆:拘りのそば・うどん「あい物」
 金沢から山側環状道路、次いで「のと里山海道」に入り、今浜インターで下りる。インターを下りてすぐの所にあり、幟が出ているからすぐに分かるとのことだったが、出てすぐの道を見逃したものだから、国道 249 号線近くの千里浜 CC まで来て間違いに気付いた。今浜インターまで戻り、「うどん・そば」と書かれた小さな標識のある狭い道に入ると、すぐに幟が見えた。今浜インターのごく近くだった。着いたのは昼時、草むらの駐車場には車が2台停まっていた。自宅の1階を改築してオープンした蕎麦店である。大きな家だ。
 小綺麗な瀟酒な構えの店に入る。1組の客がいた。4人掛けの机が2脚、カウンターに椅子が5脚、都合13人が入れる。私たちが着いた後にも2組が、この店を知ってる人は知っているのだなあと感心する。厨房には3人が、前田さんはご主人を見て、以前に探蕎会で総会を開いたことのある金沢市末町にあった「末野倉」においでた方だと、訊ねたところ正にその通りだった。丸十年おいでたとか。店名の「あい物」の由来を訊くと、前田さんは苗字だと、「四十物」と書いて「あいもの」と読むとか。そう言えば聞いたことがある。
 注文は、前田さんは「高遠おろし」、私も追随する。お酒の欄を見ると、久保田の千寿と百寿が、千寿を注文、摘みには「天ぷら」と「そばみそ」を注文する。程なくお酒が、久しぶりの千寿、付き出しには胡瓜と人参の浅漬け、前田さんには申しわけなかった。天ぷらは海老と蕗の薹が各2、あと南瓜、甘藷と大葉。蕗の薹は近くで摘んできたものとか、菊の花状に広げて揚げてあったのは新鮮だった。抹茶塩で頂く。そして「高遠おろし」、お盆に縁が黒っぽい中皿にやや多めに盛られた中細の二八のそば、コップには辛味大根のおろし汁、そしてそば汁とそば猪口と薬味 (刻み葱と生山葵) 。そばは丸抜き、コシもあって、喉越しも上々、ランクは上の中、これだと皆さんにも十分喜んでもらえるだろう。前田さんの言だと,器は皆珠洲焼きなのではとのこと、なかなかシックでよくマッチしている。
 また客が、するとご主人、少し待って下さい、今すぐそばを打ちますからと。そしてそばを打ち出したではないか。数人分なら15分もあれば、打って、切って、茹でて、冷水で締めて供されるのではと思う。正に職人の自負が伺える姿を目のあたりにした。その後も客が、すると奥の部屋へどうぞとのこと、奥さんに訊くと、奥には10人は入れる畳敷きの部屋もあるとか。探蕎会でもし10人入ったら貸切りになるのではと危惧していたが、これだと安心だ。
 帰りにもう1軒、かほく市白尾にある龜屋に寄って帰った。

メモ
 店主:四十物 (あいもの) 一雄さん  創業:平成17年7月
 住所:〒 929ー1344 羽咋郡宝達志水町今浜北 15  電話:0767−28−3653
 営業:平日 11:00ー16:00頃     土・日・祝日 11:00ー20:00   定休日:木曜日
〔主なメニュー〕 単位は円
 冷:ざる 800、高遠おろし 900、ごまだれ・つけとろろ 950、ざるにしん 1000、天ざる 1400
 温:かけそば 800、とろろそば 950、にしんそば 1000、天ぷらそば 1400
 他:ざるうどん 700、釜あげうどん 900、そばがき 700、そばだんご 250、くずきり 700

 そば切りもよいが、そばがき・そばだんごもいい。自家製うどんもなかなかとか。   

2015年1月30日金曜日

福岡勝助さんの突然の他界(その2)

(承前)
(3)父の家出
 金沢にいた伯母を頼り、手持ちの7万円で養鶏をしようと、斡旋してくれた犀川右岸の大豆田に畑地を買い、鶏小屋を建て養鶏をスタートした。トイレも水道もない、雨漏りがする鶏小屋で寝泊まりした。当時、卵は貴重品だったが、鶏の数を増やそうとしたところ、運転資金のやり繰りがつかなくなり、養鶏は1年で行き詰まった。しかし金沢に来て取得した運転免許が幸いし、運送会社に就職できた。父は平日勤務のほか、同僚の休日出勤も、当直勤務も率先して引き受け、それで模範社員として表彰されるほど頑張った。そして21歳の時、天神町に家を買った。勤務は真面目、そして遊興には目もくれず、生活は質素、だから縁談がいくつも舞い込んだ。でもすべて断った。そんな折、実家から山代に帰って来いとのこと、父親から財産を譲ると言われ、戻ることに。24歳の時だった。
(4)実家の相続と両親の扶養そして結婚
 病気がちな両親をかかえての縁談は中々纏まらなかったが、山代に帰った翌年に今の母と結婚した。母は両親を幼くして亡くし、親の顔も知らないという苦労人だった。しかも父の両親の面倒も見なければならないのに承諾して、見合いしたその月に式を挙げるという超スピード婚だったというから、母も偉かった。父は養鶏をする一方で養豚を始めた。そして誰よりも品質管理に気を配った飼育をする一方で、出荷するタイミングにも細心の注意を払い、高い収益を上げた。そんな折、脳腫瘍が見つかった。腫瘍の摘出には正常な左目をくり抜かねばならないとか、医師からは命と片目のどちらが大事かと言われ、手術に踏み切った。正常な左目の角膜は全盲の少年に移植されたという。しかし腫瘍は完全に取り除けず、コバルト照射をしたが、その副作用で顔の左半分が完全に麻痺し、左耳の聴力も失われた。まだ子供は小さく、癌で死ぬのは構わないが、ただもう十年だけ命を永らえてほしいと神仏に祈ったという。そして退院後は以前にも増して養豚業に精を出した。
(5)田圃購入による資産形成
 父は養豚で得た利益を田圃の購入に注ぎ込んだ。荒れた田圃や段差のある棚田は安かった。そして整地し、豚の糞尿を堆肥にして米作りに励んだ。こうして買った田圃は1万坪近く、故郷の荒谷の山林や棚田も頼まれて買い、その面積は1万4千坪にもなり、父親がいた時の百倍にもなった。この荒谷の山林や棚田の資産価値は低かったが、山代の土地は折からの「日本列島改造論」に端を発した土地ブームで高騰し、父の資産は見る見る膨れ上がった。でも田は売らず、米作に励んだ。土地は買うが売らないので、「ハブのような男」という異名まで付いた。でも全く売らなかった訳ではなく、山代温泉の土地区画事業には2千坪を提供した。父は「死に金」は使うな、「生き金」を使えが金銭哲学だと言っていた。この頃家を新築し、養豚は止め、米作と山林の世話に精を出した。
(6)仕事の鬼の晩年
 米作と山林の世話に精を出していたこともあって、3人の子供の子育ては母に委ねられていた。要は仕事で手一杯でかまっている余裕が全くなかったからである。したがって子供を連れて遊びに出かけることは皆無だった。だから両親と子供が一緒に写っている家族団欒の写真も皆無だ。父は私は亭主関白ではないとは言っていたものの、田や山林の購入は母には全く相談せず独断で行なった。だから田圃がどんどん増えた時は、母の仕事も増え大変だったが、母は父に付いていた。母の唯一の楽しみは地元民謡会での日舞の踊りだった。このような父だったから、私たちが独立して事業を始めようとしても、金を出すとか、保証人になるとかは一切なく、正に鋼の意思を感じた。だから「父に負けるものか」という意思がかき立てられた。父は脳腫瘍の手術に際して左目を摘出した後、30年ばかり眼帯をしていたが、それはその跡が大きな穴になっていたからで、顔を洗う時は人に見られないようにしていた。その父が義眼を入れようと決心し、眼科医から紹介され、金沢医科大学病院で手術を受けた。簡単に出来ると思っていたが、大変な大手術で、目を切り、肋骨を切り取り、足の肉を削り、鼠蹊部の皮を剥ぎ、1年半にわたり4回もの手術をした。義眼を入れても目が見えるようになる訳ではなかったが、でも眼帯は外れた。そんな父の晩年の楽しみは、美田や山で立派に育っている杉や檜を眺めることで、最高の贅沢だと言っていた。合掌

2015年1月29日木曜日

福岡勝助さんの突然の他界(その1)

 福岡勝助さんは、私の三男の故木村誠孝が当時常務取締役だった㈱フリークスコアで代表取締役社長をしていた福岡悟氏の父上である。現在この会社は㈱レガシーホールディングスといい、主にインターネット・漫画喫茶「サイバーカフェ フリークス」をコアとしていて、主に北陸3県、東北、中京を中心に30店舗程を展開している。この店舗展開に当たっては、息子は社長の右腕となって、一時は米国や中国にも店舗を展開する計画もあったやに聞いていた。そんなこともあってか、平成22年に息子が肺癌で他界した後も、息子の細君を社外重役として遇してくれていて、親としては一方ならぬ厚情に心から感謝している。
 1月23日に、会社から社長のお父さんが亡くなったと息子の細君に電話があり、すぐその報は家内にも届き、私は家内から連絡を受けた。いろいろ過分な気遣いをしていただいていることもあり、お通夜と葬儀に出ることにした。24日の新聞のお悔やみ欄には案内がなかったが、25日には案内があり、通夜は25日午後7時、葬儀は26日午前10時とのことだった。25日は日曜日だったので、故三男の息子二人も参列してくれた。場所は加賀市作見町の JA やすらぎ会館、JR 加賀温泉駅に程近い所に位置している。
 喪主は二男の聡 (さとし) とあったので一瞬訝ったが、それは福岡家の事情によることであり、こちらが気に病むことではない。返礼の挨拶状には、喪主の二男、母親 (故人の妻)、長男、長女の名が順に書かれていた。葬儀場で耳に挟んだ話では、2歳上の長男さんは山代温泉でブティックを経営しているとか、3歳下の長女の方は兄の二男さんの会社で取締役として仕事をサポートしているとかだった。喪主の二男さんの手広い商売の関係もあって、生花や供物も多く、また弔問に訪れた人も多く、お通夜には6百人を超える人のお参りがあった。式は檀那寺の真宗大谷派 (お西) の僧侶によって行なわれた。通夜と葬儀の式後、喪主から参列者に挨拶があった。内容は急に亡くなった経緯と、故人の生きざまを語ったもので、かなりの時間が割かれた。興味があったので、その一端を記そうと思う。
(1)父の急逝
 父は昭和7年2月12日生まれの82歳、夫婦二人での生活、共に元気だった。父はことのほかお餅が大好きでよく食べていたが、1月12日に突然餅を喉に詰まらせ、おそらく誤嚥だったと思われるが、それで呼吸が困難になり、更に心臓も停止してしまったという。救急車で病院に運ばれ、蘇生の甲斐があって心臓は鼓動を回復したが、およそ30分も心停止があったこともあって、脳の機能は回復せ
ず、記憶は戻らなかった。その間付きっきりで家族皆で看病したが、10日後の1月22日に息を引き取り、永い眠りについた。看病の間、一途な信念を貫いてきた父の背に、残された家族皆で手を取り合い励んでゆくと約束した。
(2)父の生い立ち
 父が生まれたのは、石川県江沼郡東谷奥村字荒谷 (その後江沼郡山中町荒谷町)、現在の加賀市山中温泉荒谷町である。(注:動橋川の上流にある集落で、現在はこの一帯の加賀東谷地区は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている)。父が生まれた頃はまだ百世帯ほどが暮らしていて、福岡家は代々林業と炭焼きが生業で、それに少しの棚田があった。父は四男四女の6番目の三男だった。父親は厳格だったが、母親は優しかったという。父親は大勢の家族を養うために、自前で炭を焼けなくなってからは、越前 (福井県) へ炭焼きの出稼ぎに出向いたという。稲は作ってはいたが、狭い棚田で収量は少なく、炭の行商もして虎口を凌いだ。それで戦時中に祖父を荒谷に残して一家は山代へ移った。そして戦後、父は国民学校を卒業してからは、父親の炭売りや田圃の仕事を手伝いながら、子供心に「何が一番お金になるか」を必死で考え、まだ配給制だった電球や米を仕入れ、自分でも商いを始め、少しずつお金を貯めていった。15歳の頃である。その後兎や鶏を飼い、さらに豚を飼育するまでになる。こうして家に生活費を入れながら、父親に内緒でお金を貯めていった。そうして山代温泉の東口の民家から離れた土地を買い求め、養豚の畜舎を建てる計画をした。ところが未成年なので親の印鑑が必要なので父親に相談したところ、大反対され、計画はご破産になった。それで家を出ることに、父18歳の時である。