(承前)
3.昭和 23 年度野々市小学校・昭和 26 年度野々市中学校同窓生の会(子うし会)
この会のメンバーは、昭和 24 年 (1949) 3月に野々市小学校を卒業した同窓生と、昭和 27 年 (1952) 3月に野々市中学校を卒業した同窓生の合同の会である。1人だけ年長の方がいたが、その他の人達は昭和 11 年 (1936) 4月2日から昭和 12 年 (1937) 4月1日に生まれた方々である。会の名称は、昭和 11 年が子 (ね) 年、昭和 12 年が丑 (うし) 年なので「子うし会」とした。読みは「コウシカイ」である。中学校を卒業して 20 年を経て集まった折りに、以後は5年おきに同窓会を地元で開催しようということで集まってきたが、還暦を機に毎年温泉地で同窓会を持とうということになり、その後は地元の温泉地での1泊の開催と1〜2泊の旅行とを毎年交互に行なうことで今日に至っている。
野々市小学校と野々市中学校の卒業生を合わせた同窓生の数は、男子が 28 名、女子が 25 名の 計 53 名で、このうち他界した人が男で 10 名、女で 4 名、また全く連絡がつかない人が男で3名いる。したがって現在連絡が可能な人は、男で 15 名、女で 21 名の 計 36 名となっている。
男性の居住地を見ると、現在も地元の野々市市に居る人は6名、金沢市に2名、小松市に1名で、石川県在住者は9人である。県外では、東京都と大阪府に各2名、愛知県と兵庫県に各1名となっている。一方女性の居住地は、野々市市に9名、金沢市に7名、白山市に1名、小松市に1名、県外では東京都に3名が居住している。
子うし会の行事
(1)旧盆の墓参りと法要
昭和 52 年 (1977) に同窓生の N 君が交通事故で亡くなったのを機に、毎年旧盆前の日曜日に近在の有志が集まり、供養の墓参りをすることにした。今は他界した N 君と私がお経をあげる役目をし、その後で有志が軽く一杯飲むというのが流れだった。その後昭和 54 年 (1979) に S 君が、昭和 55 年 (1980) には I 君が、昭和 61 年 (1986) には T さんが、昭和 63 年 (1988) には Z 君が他界し、お墓参りは野々市ばかりではなく金沢市や松任市 ( 現白山市 ) にまでも出かけるようになった。そして平成元年 (1989) 5月に N 君が鬼籍に入ったのを機に、墓参りの後、地元野々市の名刹の照台寺で物故者の法要を営むことにし、この行事は毎年行なわれることになった。その後私と読経を共にしていた N 君が亡くなった後もこの行事は続けられてきたが、平成9年 (1997) に行なった還暦の祝いを境にして、この墓参と物故者法要は一応区切りとして止めることにした。
現在この会は私が主宰して世話をしているが、私の希望としては、子うし会が来年行なう傘寿の祝いに合わせて、同窓生 14 名と同級生1名の物故者法要をしたいと思っている。
(2)地元温泉地での同窓会
還暦の祝いを機に、1年おきに地元温泉地で同窓会を開こうということになり、世話人の Y 君と A さんが中心となって会が運営されてきた。中でも男性の Y 君は渉外能力に秀でていて、会場の設営や運営に手腕を発揮してくれた。同窓の皆さんへの案内などは私が担当し、それ以外は2人の世話人がその任に当たってくれた。これまでを振り返ってみると、温泉地では山代温泉が最も多く、次いで粟津温泉、そして片山津温泉の順だった。ただ昨年は富山県の雨晴温泉へ出かけた。
(3)1年おきの同窓旅行
世話人のY 君の斡旋もあって、この旅行は地元北陸交通の N さんが常に世話に当たってくれ、これまで九州への3回の旅行を除けば、全行程すべて北陸交通のバスを使っての旅行だった。還暦以降これまで 10 回の旅行、県内の能登への旅行を除けば、すべて2泊の旅行だった。気になる費用はこれまでは 12 万円が最高だったが、今年の五島列島への旅では、14〜15.5 万円と過去最高になった。振り返ってこれまでに訪れた観光地は、天竜・静岡、富士・伊豆、京都、伊勢・志摩、奈良・熊野、山陰、九州3回等々である。でも元気な方が年々少なくなっていくこともあって、この会としての旅行はこれで終わりにしようかと思っている。
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