2015年1月30日金曜日

福岡勝助さんの突然の他界(その2)

(承前)
(3)父の家出
 金沢にいた伯母を頼り、手持ちの7万円で養鶏をしようと、斡旋してくれた犀川右岸の大豆田に畑地を買い、鶏小屋を建て養鶏をスタートした。トイレも水道もない、雨漏りがする鶏小屋で寝泊まりした。当時、卵は貴重品だったが、鶏の数を増やそうとしたところ、運転資金のやり繰りがつかなくなり、養鶏は1年で行き詰まった。しかし金沢に来て取得した運転免許が幸いし、運送会社に就職できた。父は平日勤務のほか、同僚の休日出勤も、当直勤務も率先して引き受け、それで模範社員として表彰されるほど頑張った。そして21歳の時、天神町に家を買った。勤務は真面目、そして遊興には目もくれず、生活は質素、だから縁談がいくつも舞い込んだ。でもすべて断った。そんな折、実家から山代に帰って来いとのこと、父親から財産を譲ると言われ、戻ることに。24歳の時だった。
(4)実家の相続と両親の扶養そして結婚
 病気がちな両親をかかえての縁談は中々纏まらなかったが、山代に帰った翌年に今の母と結婚した。母は両親を幼くして亡くし、親の顔も知らないという苦労人だった。しかも父の両親の面倒も見なければならないのに承諾して、見合いしたその月に式を挙げるという超スピード婚だったというから、母も偉かった。父は養鶏をする一方で養豚を始めた。そして誰よりも品質管理に気を配った飼育をする一方で、出荷するタイミングにも細心の注意を払い、高い収益を上げた。そんな折、脳腫瘍が見つかった。腫瘍の摘出には正常な左目をくり抜かねばならないとか、医師からは命と片目のどちらが大事かと言われ、手術に踏み切った。正常な左目の角膜は全盲の少年に移植されたという。しかし腫瘍は完全に取り除けず、コバルト照射をしたが、その副作用で顔の左半分が完全に麻痺し、左耳の聴力も失われた。まだ子供は小さく、癌で死ぬのは構わないが、ただもう十年だけ命を永らえてほしいと神仏に祈ったという。そして退院後は以前にも増して養豚業に精を出した。
(5)田圃購入による資産形成
 父は養豚で得た利益を田圃の購入に注ぎ込んだ。荒れた田圃や段差のある棚田は安かった。そして整地し、豚の糞尿を堆肥にして米作りに励んだ。こうして買った田圃は1万坪近く、故郷の荒谷の山林や棚田も頼まれて買い、その面積は1万4千坪にもなり、父親がいた時の百倍にもなった。この荒谷の山林や棚田の資産価値は低かったが、山代の土地は折からの「日本列島改造論」に端を発した土地ブームで高騰し、父の資産は見る見る膨れ上がった。でも田は売らず、米作に励んだ。土地は買うが売らないので、「ハブのような男」という異名まで付いた。でも全く売らなかった訳ではなく、山代温泉の土地区画事業には2千坪を提供した。父は「死に金」は使うな、「生き金」を使えが金銭哲学だと言っていた。この頃家を新築し、養豚は止め、米作と山林の世話に精を出した。
(6)仕事の鬼の晩年
 米作と山林の世話に精を出していたこともあって、3人の子供の子育ては母に委ねられていた。要は仕事で手一杯でかまっている余裕が全くなかったからである。したがって子供を連れて遊びに出かけることは皆無だった。だから両親と子供が一緒に写っている家族団欒の写真も皆無だ。父は私は亭主関白ではないとは言っていたものの、田や山林の購入は母には全く相談せず独断で行なった。だから田圃がどんどん増えた時は、母の仕事も増え大変だったが、母は父に付いていた。母の唯一の楽しみは地元民謡会での日舞の踊りだった。このような父だったから、私たちが独立して事業を始めようとしても、金を出すとか、保証人になるとかは一切なく、正に鋼の意思を感じた。だから「父に負けるものか」という意思がかき立てられた。父は脳腫瘍の手術に際して左目を摘出した後、30年ばかり眼帯をしていたが、それはその跡が大きな穴になっていたからで、顔を洗う時は人に見られないようにしていた。その父が義眼を入れようと決心し、眼科医から紹介され、金沢医科大学病院で手術を受けた。簡単に出来ると思っていたが、大変な大手術で、目を切り、肋骨を切り取り、足の肉を削り、鼠蹊部の皮を剥ぎ、1年半にわたり4回もの手術をした。義眼を入れても目が見えるようになる訳ではなかったが、でも眼帯は外れた。そんな父の晩年の楽しみは、美田や山で立派に育っている杉や檜を眺めることで、最高の贅沢だと言っていた。合掌

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