2009年4月26日日曜日

2009年4月22日水曜日

大学卒業後50年の同窓会を京都で


 私は金沢大学薬学部に昭和30年4月に入学し、昭和34年3月に卒業した。入学したときには学友は41名(男30女11)いたが、一般教養課程1年半後の専門課程への進級に際して、教養の物理学の単位を落としたために進級できずに留年した級友が6人(男5女1)出た。実際には7人が60点未満で再試験を受けたが、再試をクリアできたのはたった1人(男)だけという厳しさ、薬学部40人学級で大量6人の留年生が出たのは我々の年次だけだった。ということでクラスは35名となり、上のクラスから病欠で留年していた人1人を加え、昭和31年10月に専門課程に進級できたのは36名(男26女10)であった。当時の薬学部では理科は生物と化学が必須だったこともあって、高校で物理を選択しなかった人もいたのに、教養の物理の担当教官は新進気鋭の若い先生なこともあって、のっけから数学が中心の授業だったため、ついてゆけない人が多かった。この先生は次年度には別の大学へ移られたようで、次年度のクラスは全員が教養の物理をクリアできた。
 さて、私たちが卒業したのは昭和34年、卒業時の同窓会に「ゼレン会」という名を誰が付けたか定かではないが、我々のクラス員の単数もしくは複数のメンバーが決めたのは間違いない。ところで私は卒業式には出たものの、その前の1ヵ月半は胃潰瘍・十二指腸潰瘍で吐血し、大学附属病院に入院していて、卒業前の卒論発表や卒業旅行等のセレモニーの数々には一切出られなかった。今でこそ潰瘍での切除手術は滅多にないが、当時は今日の胃がんのように、切除するのが当然だった。当時私の主治医は医学会総会か何かで半月ばかり病院を留守にされ、その間にかなり回復したものだから、腹切り猶予となり、命拾いした経緯がある。ということで昭和34年卒の同窓会の会名のいわれを全く知らずに今日まできた。ところでゼレンの名の元は元素記号だったということを、今回の同窓会に出席して初めて知った。元素番号34の酸素族の元素は、英語読みではセレンもしくはセレニウム、ゼレンはそのドイツ語読みである。元素記号はSeで、名前の由来はギリシャ語の月を意味するseleneに因るという。命名当時は今より50年も前のこと、今でこそ光電管や整流器に多用され、人体にとっても必須の元素だが、当時はそれほど利用価値が高いとはされていなかったのではなかろうか。
 これまでゼレン会は1年おきに開催されていて、昨年は金沢での開催、今年は開催の年ではないのだが、卒後50年の節目ということでの臨時開催ということになった。関西在住の連中の世話ということで、京都での開催となった。日は4月19日と20日の日曜と月曜、宿は京都市役所の南に位置する「三木半」という旅館。ゼレン子はこれまでに6名(男5女1)が他界しているので、現員は30名〔男21女9)で、年齢は72~75歳、そのうち出席したのは14名(男11女3)、会員夫人が2名あり、総員16名であった。ちなみに昨年金沢で開催したときの参加者は18名である。今年の欠席者は16名(男10女6)で、音信のない方が10名(男5女5)いたが、これまでの経緯も含めて想定すると、病気で参加できない方が11名〔男8女3)、自称多忙で参加できない方が5名〔男2女3)ということに。このうち病気で今後とも恐らく同窓会には出席困難と思われる方が7名(男5女2)いて、病気とは歩行困難、半身不随、がん転移、重度の肺疾患などで、このうちの2名は卒後50年間一度も参加していない。また多忙の理由としては、未だ現役でしかも経営者だからということで、会社経営1名〔女)、児童施設経営1名(女)、医院経営パートナー1名(女)、薬局経営1名(男)、調剤薬局責任者1名(男)となっている。現役ということでは、私も毎日勤務の雇われ現役である。
 病気については、この歳になれば大なり小なり持病があるのが当然だろうし、私なども10位の病名を背負っている。多いのは糖尿病、高血圧、白内障などの壮老年に多い病気、次いで道路や階段でのつまずきや転倒での骨折、それに椎間板ヘルニア、男性では前立腺肥大と前立腺がん、また少数ではあるが、心疾患、脳疾患、腎疾患の方もいる。ただ認知症の方は今のところおいでない。また逆にほとんど持病がなく、まことに元気で過ごしておいでる方が6人(男3女3)いるが、実に羨ましい限りだ。
  ゼレン子の方々の現在の住所分布をみると、東北では宮城に1名、関東では東京4名、埼玉3名、群馬と神奈川に各1名、中部では石川4名、富山3名、新潟と福井が各2名、長野と岐阜が各1名、近畿は大阪と兵庫が各2名、三重と和歌山が各1名、九州の佐賀に1名となっていて、ゼレン子は全国に散らばっている。北海道と中国・四国にはいない。
 私達は薬学部を卒業後に薬剤師免許を資格試験後に取得するが、果たして有効に活用されているかどうかをみてみた。これまでに薬剤師免許を有効に活用して、薬局経営や調剤等を行ってきた人は16人(男10人女6人)と半数で、現在もなお継続して携わっておいでる人がパートも含めて6人(男4女2)いる。また製薬会社(研究所、工場、営業)に勤務していた人が8人いるが、この人達はすべて男性である。また研究分野や教育分野に進まれて学位を取得した人が3人(男)いる。
 趣味の面をみてみると、ゴルフを時々する人は10人(男9女1)いて、同窓の仲間内では毎年コンペをやっているとのことだ。中には2桁台の人もいるらしい。彼らは単なる趣味ではなく、プロパで活躍し、営業の有力な武器として腕を上げた人達だ。また囲碁を本格的に楽しんでいる人が7人(男6女1)いて、皆さん初段前後の腕前だという。聞くとほぼ毎日、碁会所や老人ホームへ日参、中には有段者に教えを乞うている人もいるとか。この人達は当然勤務はしていなくてサンデー毎日、今は趣味として高度な囲碁を楽しんでいる。老いて益々盛んの感がある。ところで、将棋と向き合っている人は何故かいない。
 また今でも体力に応じた山歩きを楽しんでいる人も8人〔男5女3)いる。私もその一人だ。私が学生のとき、金沢大学山岳部に所属して活動していた以外に、薬専時代から細々と続いていた薬学部山岳部にも梃入れして同級の7人(全員男性)を引きずり込んで、春山、夏山、秋山とかなり大きな山行も手掛けた。私が在籍している間、1年下と2年下の連中も勧誘し活動した。夏山では、朝日岳から針ノ木岳までや立山から槍ヶ岳までの縦走、白山山系では残雪期に白山から大門山までの縦走、春・秋の中宮・大フクベ山経由での大笠山や笈ヶ岳、中宮道から白山へ登り、岩間道を下るなど、私は本部山岳部の活動以外にも薬学部にもかなりの力を割いた。ところで同級の旧部員のうち3人はもう山へは行けなくなっている。かえって在学中は山とは全く縁がなかった方で、卒業してから山に目覚めて山へ出かけるようになった方が何人かいる。女性に多く、例の山で出くわす中高年のおばさん連である。
 さて、現在30人いるゼレン子は全員結婚しているが、現時点で配偶者を病気や事故で亡くされた方が5人(男2女3)いる。病没が多いが、中には外国での交通事故で配偶者を亡くされた方もいる。このうち男性の方は2人とも再婚されているが、女性の方は再婚されてはいない。ところでその他の方々は仲睦まじいらしくお二人とも健在で、離婚された方はいない。
 以上のことは主催者の資料のほか、これまでの書簡からうかがい知ることができた資料及び昨年度まで私がクラスの連絡員をしていたことにより知り得た資料等を基に作成したものである。
 今年のゼレン会は、初日は午後4時に集合し、旅館「三木半」での宴会と駄弁り、翌日は貸切りバスでの京都周遊、年配のガイドさんの案内で、午前8時40分から午後4時40分まで、二条城、金閣寺、龍安寺、大徳寺、京都御所、清水寺を巡った。その後京都駅で解散となり、来年の再開を誓った。次回は来年、長野・松本在住のゼレン子の担当での開催となる。ゴルフをする面々はもう1泊して明日のコンペに臨む。

2009年4月14日火曜日

再び五十谷へ「登龍門才次郎」を訪ねる

 大日川の支流の堂川の奥にある五十谷に「登龍門才次郎」を訪ねたのは3月28日の土曜日、車で出かけたこともあって、お酒を口にすることはできなかった。付きだしに出される野菜の煮物や山菜の漬物、フキノトウの味噌などは、お茶で頂いてもよいが、できればお酒の菜として頂いた方が風情があるというもの、ぜひ次回は運転手付きで訪ねたいと念じていた。その機会は意外と早く訪れた。それが4月12日の日曜日、いろいろ行事のある4月、たまたまこの日だけが家内も私も行事なしの1日、ではと、同伴に蕎麦好きの女性を二人誘ったが、一人のみOKだった。
 家内の運転で明るい日差しの白山麓をのんびりドライブする。桜は山路ながら満開、菜の花もまだあちこちに咲いていて、黄蝶も舞っている長閑な春の鳥越の道を辿る。この前は道を間違えて遠回りしたが、この日はスムースに「登龍門才次郎」に着いた。家を出たのが午前10時、着いたのは11時10分前、例の春夏秋冬の臙脂色の暖簾の下辺りに主人の後藤秀憲さんが座っておいでた。挨拶をしていると2頭の犬が寄ってきた。今日は主人が居るのか吠えない。吠えなくても客が来たのを主人が知っているからと思っているからなのだろうか。犬の大きさは中位、静かでずんぐりした方が雄親の龍、精悍で前に来たときには吠えて来客の案内をしてくれたのが子の秀丸、親子でありながら性格がまるっきり違うと仰る。
 中へどうぞと言われて入る。入ってすぐに岩魚を3尾注文する。青森の馬刺しは今日はないとのことだ。土蔵の中では囲炉裏の縁に陣取る。付きだしに野菜の煮物、多種な山菜の塩漬け、それにシャク(やまにんじん)のしめものが出る。お酒の冷やをお願いする。ややあって、まん丸な萌黄色をした銚子に口切りにお酒が、ぐい飲みを2個、連れの彼女と私の分、家内は運転手だ。外は暖かいが、蔵の中はひんやりしている。何となく囲炉裏の側がよい。今日は外が暖かいので戸は二つとも開けっ放しにしてある。お酒は実に飲みやすいお酒、彼女もそうだと言う。やがて主人が岩魚を3尾串に刺したのを持ってきて、囲炉裏の炭火にかざして斜めに刺す。まだ生きていて鰓で呼吸をしている。家内も彼女も驚いている。奥さんがそばの注文を取りに来られ、私は「山菜そば」を貰ってみる。彼女たちは「ざるそば」にするという。連れの彼女は田舎暮らしでないのか、農作業や山作業に使う道具類が珍しいのだろう、しきりと家内に何に使うのかと尋ねている。家内の実家も昔は3町歩の自作農、昔を思い出すという。今では農家でも全く見られなくなったものが所狭しと並べられている。言われて気付いたのだが、蔵の柱にミツバツツジの大きな枝が孟宗竹の花生けに活けてある。薄桃色の花が今を盛りの満開、蔵の中に生気を吹き込んでいる感じだ。これでどれ位持ちますかと聞くと、優に1週間は持ちますとか。からくりは水だと仰る。水は山の湧き水、水道水では3日と持たないでしょうと。通常の生け花だと、此処では一月位持ちますよと、此処の水は何か特殊な成分でも入っているのだろうか。
 お酒の銘柄は何ですかと聞くと、主人は今のは白鶴だと、道理で飲みやすい。もう1本お願いする。すると奥さんではもう2合はなく、1合ちょっとありますが、全部で3合ということでと仰る。申し訳ない。20分ほどして、主人が岩魚の表裏を逆さにされる。目の色が白くなった時が返すタイミングらしい。そばが来た。「山菜そば」はぶっかけになっていて、上にはいろんな山菜と削り鰹節が載っている。今日は正午過ぎに10名の団体さんがおいでることになっているとか、どうりでそばを頼んでから出てくるまでの時間が、この前は30分以上はかかったのに、今日は半分くらいだったのは、団体さんを見越して多く打ってあったのではと思う。その後「ざる」が2枚来た。そばは生粉打ち、ただ今日のは一見素人切りと思われる不揃いなものが散見された。それも愛嬌か。
 11時半頃、二人連れが入ってきた。ここ五十谷の水が美味しくて汲みにきたのだと。どこにあるのかと聞くと、此処の下手200mばかりの処だと。この前も、今日も、道なりに通ってきたがついぞ見かけなかったが、どこなのだろう。とにかくこの水でご飯を炊くと素晴らしい味になるので、かかせなくて時々採りに来るとか、今日は20ℓのポリタンクを3個新調して、100ℓ汲んで帰るのだと。主人では、水は3箇所から出ていて、水は3つとも個性があって味が違うようだと。水の通り道が3つとも違うので、途中で溶かしてくる成分が異なるのだろうと。一度コーヒーを立てるのに3つの水を別々に用いてもらったところ、1番の水はコーヒーには向かないと言われたとか、2番と3番はOKだったという。面白いものだ。お二人を囲炉裏端に誘う。彼らは「おろしそば」を注文した。話を聞いていると、水を汲みにくる時々に此処へ寄られている様子、よく此処のことを知っておいでだ。「おろし」もそんなに時間をとらずに届いた。この前私はおろし汁にそばを潜らせていただいたが、彼らはぶっかけ、辛いのが得手でないのか、おろし汁を沢山残してしまった。
 岩魚をもう一度反しに来られる。お酒は無くなってしまった。囲炉裏の隅に網が置いてあって、上から吊るすようになっている。何に使うのかと尋ねると、お客さんがよく揚げを下の村で買ってきて、それをこの網に載せて焼くのだとか。飲み物でも食べ物でも持ち込んでいただいて結構ですと、なんとおおらかな。件の豆腐屋まで教えていただいた。正午近く、二人は帰っていった。漸く主人が横長の皿を持ってきて、焼き上がった岩魚を外す。飴色になっている。家内と彼女が岩魚を毟って食べようとすると、主人が頭から食べられますから、そのままかぶりついて下さいと。しぶしぶ言われたとおりにしているが、頭も骨も内臓も、何の抵抗もなく食べられる。家内と年に何回かは庄川へ鮎を食べに行くが、決まって頭は私が食べる破目になる。しぶしぶでも全部食べたのを見て、溜飲が下がった。主人に入ってもらって写真を撮る。それがきっかけかどうかは別として、次の団体さんが着くまでの30分ばかり、いろんな話を聞かせてもらった。
 主人がここ五十谷に来たのは15年前、あちこち廻っていて出合ったあの大杉のことが忘れられず、やっとこの地で再会したと。向かいの爺様に土蔵を譲って頂き、稲を作ろうと託された2町歩に無農薬無肥料でと挑戦した。ところがすき込んだしめかすが後で効いてきたため、他ではもう黄色くなっている稲が青々としていて、しかもイモチ病に罹り、無農薬どころではなくなった。農機具も新品のを揃えたが、1年で諦め、以後は蕎麦打ちに専念することに。今は下にある柳原町の農家が、この辺りの水田を一括経営管理しているとか。
 夏の海水浴の時期、ここの主人は越前海岸の鷹巣海水浴場で浜茶屋を経営しているという。以前は早起きしてその日の分のそばを打ち、3時間かけて浜茶屋に着き、済むとまた山へ帰ってきていたが、とても続けられず、主人が単身行くことにして、その間は才次郎は休みということにしたと。犬がいるので、二人とも空けるわけにはゆかないと。以前は二人とも居ないときは、1日分の餌を置いて出かけたが、犬の餌は烏が先に失敬してしまって、残りを犬が食べる破目になっていたとか。烏につつかれるのを嫌ってのことだったとか。烏はどこから来るのか、中々強かだ。
 ここの山中には、熊、カモシカ、猪、狐が出てくるという。雄親はおとなしくて家の近辺にしか居ないが、あの吠える子犬、といっても大きいが、この犬は熊にでも立ち向かっていって退散させるという。だから動物の心配は一切ないという。
 今は「生け」は岩魚だけだが、以前はスッポンも置いてあった。ある時大きなスッポンが大雨があったときに逃げ出した。丁度2年後、車を走らせていたところ、下の柳原町の鳥小屋のところにスッポンがいるのを見つけ、連れ戻した。この辺りは蛙など餌が多いので生き延びたのだろうと。2年間で3km強歩いたことになると。その後そのスッポンは鍋になり、その甲羅は蔵に陳列されてある。今はスッポン鍋(5人前)は2日前に予約してもらうことにして、金沢の業者に頼んで仕入れているという。以前は岐阜の宝川村から取り寄せていたというが、そこでは生きたスッポンの出荷は止めてしまったという。私も何回か寄ったことがある。
 そうこうするうちに12時半になり、予約の団体さんが着いたようだ。秀丸が元気に吠えている。
 帰り道、道筋の「相滝」と上吉野の「花川」へ。花川の箸置きのニリンソウが清楚だった。

2009年4月11日土曜日

手取川支流の大日川の山奥にそば店2軒を訪ねる(4.1)

 3月最後の土曜日、この日は私が所属している協会の総会が午後2時半から能美市で開催されることになっていることもあって、それではと、かねてから訪れたいと思っていた大日川の山奥にある「登龍門才次郎」へ行こうと思い立った。そして帰りには目指す店と同じ谷筋にある「相滝」にも寄ってみた。

「登龍門才次郎」
 白山麓(旧鶴来町以南の1町5村)にはやがて25軒近くの蕎麦屋があり、8割以上の店が「白山麓そばの会」に入っている。会長は「草庵」の主人である。ところで行こうとしている「登龍門才次郎」は、出来てもう15年も経つが、この会には参加しておらず、したがってこの店を知ったのは一昨年の春で、えらく辺鄙なところにと思ったのが初の印象である。その後昨年8月、「男の隠れ家」という雑誌の9月号に、「一度は行ってみたいそばの店」として紹介され、その片鱗を知ることになり、機会があれば一度行ってみたいと思うようになったが、どうしても今すぐにという心境にはなれなかった。ところが今春、越前・三国の「小六庵」へ出かけてその魅力にとりつかれ3回も足を運ぶと、同じ雑誌に紹介されている「登龍門才次郎」のことが気懸かりになり、これはどうしても一度は行かねばと思うようになった。
 3月28日の土曜日、開店は11時というので、野々市の家を10時過ぎに出た。鶴来山手バイパスから白山町南交差点で国道157号線を横切り県道44号線へ入り一路南へ向かう。道なりに進むと別宮北交差点に達する。ここは国道360号線との交差点で、右折すれば小松市へ、左折すれば釜清水を経て下吉野交差点で国道157号線に出る。したがって国道157号線からは下吉野交差点を右折するとこの交差点に出る。この交差点には今は営業していない鳥越大日スキー場への大きな看板がまだかかっている。矢印に従ってスキー場方向へ県道44号線を500mばかり進むとY字路があり、ここに右「五十谷の大杉」の道標があり、県道を外れ右の道に入る。真っ直ぐ南下すると、相滝町の外れに鳥越そば「相滝」がある。更に進むと柳原町、数軒の農家があり、柳原自然農場となっている。Y字路の分岐から凡そ5kmばかり、右手に五十谷八幡神社の鳥居と大杉が現れる。五十谷町は町名は残っているが、部落はない。更に100mばかり進むと、左手に「つなぎなしそば粉100%手打ちそば」と書かれた手作りの看板が見えてくる。右手を見ると軽トラックと乗用車が止めてあり、奥の杉林に納屋と土蔵が見える。その手前には「春夏秋冬」と染め抜かれた臙脂色の暖簾が、濡れてよれよれになって掛かっている。ここが目指す「登龍門才次郎」なのだろう。辺りには雪が積もっている。

 車を降りると茶色の犬がいる。柴との雑種か、物静かである。坂を進むと、右手からやはり茶色の同型の犬が吠えながら近づいて来る。でも噛み付きそうではない。すると、納屋の障子戸が開いて、奥さんらしき人から「どうぞ」と言われる。あの犬の吠えた声は、お客が来たという知らせだったのかと納得する。後で知ったのだが、2匹の犬は「龍」と「秀丸」という名前だそうだ。靴を脱いで中へ、右手が勝手場、土間である。左手に板戸、躊躇していると戸を開けて中へと、中にもう一つ土蔵の戸があり、それを開けて蔵に入る。前に車があったので先客があると思っていたが、誰もいない。「どうぞお好きな処に、で、お一人ですか」と言われる。土蔵の中はダルマストーブと石油ストーブとで暖かい。右奥に囲炉裏が切ってあり、炭火が赤々と熾っている。左手奥には丸テーブル、右手には座机が2脚、座布団を数えると17枚ある。閉じられた何とも不思議な空間である。見回すと、昔山作業に使ったと思われる道具や、スッポン鍋に使ったスッポンの甲羅、色紙、写真、絵が所狭しと並んでいる。お茶が運ばれる。当てには、蕗のとう味噌、野菜の煮物、茗荷の味噌漬けが。これは酒の肴に相応しいのにと思う。「品書きは奥に書いてあります」と。見ると、かけそば、おろしそば、とろろそば、山菜そば、めし、むぎとろ、ほうばみそ、酒、麦酒とある。そして別の短冊には、青森産馬刺しと岩魚塩焼。「おろしそば」をお願いする。ここで酒を飲まない手はないのだが、奥さんではこの山道で時々飲酒チェックがあるとのこと、「乗ルナラ飲ムナ」である。そばが来るまで少々間がある。これも後で分かったことだが、お客の顔を見てからそばを打つとか。待つ間、記帳されたものを見る。するとほとんどが常連かその連れ、一度来ると魅せられ、リピートしてしまうようだ。
 おろしそばが届く。そばは綺麗な灰緑色の細打ち、片口の付いた大きめの浅い鉢に、削り鰹と刻み葱が載っている。量は多いほうだ。おろし汁は中位の丸い鉢に、底に「龍」の字が書かれている。そばを手繰るとコシが立っていて、噛むと蕎麦の香りが口中に広がる。机に醤油注ぎが置いてあり、「なんでしたら、これで味を調えて下さい」と。でもおろし汁にそばを潜らせて食べるだけで、十分堪能できる。途中で女性の3人連れがご入来、2人はしょっちゅう、1人は初めてとか、金沢の方、ざると岩魚を所望された。馴れた仕草、岩魚の塩焼は囲炉裏でじっくり遠火で焼くので、小一時間はかかるから、それを知っていないと慌てることになる。残念だが時間の制約とお酒を飲めないこともあり、今日はおろしのみにし、再来することに。代金は800円だった。帰り際、外でご主人に会った。戦闘帽のような帽子を被っておいでたから、風貌も容姿もジャングルから帰還された小野田さんと印象が重なった。今様仙人である。彼女らからの注文の岩魚を太い串に刺して持っておいでたが、すごく立派な形だった。これはどうしても食べずばなるまい。またぜひ来ますと言って辞した。この店の営業は午前11時から午後4時頃まで、定休日は水曜日とある。

「五十谷の大杉」
 出て五十谷八幡神社にお参りし、とくと老大杉を眺めた。樹齢1200年という。石川県指定の天然記念物で昭和56年指定とある。樹高38.5m、胸高周囲7.27m、地上1mばかりの幹から力枝が大蛇のように何本もくねくねと出ており、何とも異様だ。枝張りは27.5平米に及ぶという。伝えでは1200年前、弘法大師がこの地に来て、杉の枝を挿したのがこの杉だという。検証では、この姿は実生としてブナ帯に野生したものが生き残ったものと解されている。ここ堂川筋出合の五十谷の地は南北に真っ直ぐに開けていて、谷沿いに太陽が昇り、谷沿いに沈むので、深い山中にありながら、日照時間が長く、不思議な土地だという。そしてこの地には獣を追っていた人々が落着き、巨大な大杉を神木と崇め定住したという。

「とりごえ蕎麦・相滝」
 総会開始にはまだ時間の余裕があるので、帰り道にある「相滝」へ寄った。車が3台止まっている。店は民家を利用したもの、重厚な感じがするが、そんなに古くはない。玄関を入ると広い土間、上がると吹き抜けの広い板の間、囲炉裏が切ってある。座机が4脚、客が2組4人いた。メニューを見ると、温も冷もあり、品数は実に豊富、なんでも有りだ。「おろしざるそば」を注文する。程なく出てくる。丸い洋皿に簾を敷きこんもりと、薬味は山葵と刻み青葱が少々と緑色の辛味大根のおろしが一掴みとそば汁、みな別々になっている。そばは二八か、喉越しはよいが、コシがなく少々物足りない。おろしを汁に入れ、そばを浸して食する。汁は辛くなく、大根の辛味も薄い。途中で主人が来て、ぜひそば茶プリンを賞味してほしいと言われる。チラシを持参され、此処で蕎麦打ち体験もできますし、出張蕎麦打ちや出張蕎麦打ち体験もできますと、中々精力的で手広い。そばの代金は900円、十割相当だ。営業は午前11時半から午後4時まで、定休日は火曜日。

 今日は大日川の支流の堂川沿いにある「登龍門才次郎」と「相滝」を訪ねたが、今日の両店を比較すると、雰囲気は好みはあろうが、そばの味は十割細打ちの味がはるかに優っていた。「相滝」はとりごえ蕎麦と銘打っているから、多分地元の玄蕎麦を使っていようし、「登龍門才次郎」は丸岡の玄蕎麦を使っているという。玄蕎麦自体、鳥越産のは丸岡産より劣るような気がする。とにかく「登龍門才次郎」はまた訪れたい気持ちが起きる店だ。

松原敏さんは三度目の臨死体験を語らずして逝く(3.5)

 松原敏さんは大正14年(乙丑)3月のお生まれ、私とは一回り上の丑、誕生日がくれば84歳になられる。病院には縁が深い方で、幼少の時から亡くなるまで入退院を繰り返してこられた。脳、心臓、肺と生命の存続に欠くことのできない臓器に不具合があったにも拘わらず、平均寿命を超えて死にはぐれられたのは、昔の中学時代の親友の「遺言」を煎じて飲んでいるからと嘯いておいでた。二人の親友は身体強健、成績優秀で海兵と陸士へ進み、終戦の前年には二人から、「せめてお前だけは長生きしてくれ」、「俺の分まで生きてくれよ」と、戦場へ赴く前に丁寧な字で手紙を書き送ってくれたという。この時松原さんは腸チフスに罹り九死に一生を得た後、胸部疾患でまた入退院を繰り返されていた頃だという。そして敗戦、二人とも戦死したらしいという話が伝わってきたと。そういうこともあってか、信州への探蕎行のときには鎮魂の「棺」ともいわれる無言館へよく寄られたという。私も二度ばかりご一緒させて頂いた。

・松原さんの臨死体験
 この亡くなった親友がまだ中学の同級の頃、松原さんは感染ルート不明のまま腸チフスに罹って入院、40℃を超える高熱が何日間も続き、脳症まで起こし絶望状態になり、両親は葬式を覚悟したという。まさに死に瀕していたといえる。その時の「臨死体験」を松原さんは次のように記している。
〔あたりは真っ暗、野原のような、茫漠とした闇の中に立っていた。闇は無限に続くように思われた。何の音もしない暗闇をとぼとぼと歩いて行った。真っ暗なはずなのに、ずっと向こうはぼんやり明るくて、何かが待ち受けているような気がして、引き寄せられるように足を運んで行った。遠くで手招きしている人は、前から知っている人のようでもあったが、誰とは思い出せなかった。かすかに、背後で声がしたようだった。誰かが後で私を呼んでいるようにも聞こえた。振り返ってみると、暗い闇の、誰の姿も見えない中で確かに私を呼んでいた。『こっちへ帰っておいでー』と親や妹弟が必死に呼ぶ声らしかった。しかし、向こう側には何か美しい、気分のよい場所が広がっているような、ぼんやりとした気配。目の前には、川のような、川原のような、低くて平べったい黒々としたものが横たわっている。何かけだるくて仕方がない。歩くのが厭になって、背後の声に引きずられるように、また後戻りしていた。〕
〔奇蹟的に近い形で回復した後、看護婦らから聞いたところによれば、その夜から症状が好転して死地を脱したという。当時は抗生物質もなく、絶食療法と解熱剤による手当てしかなかった。死の国へ進んで行くか、現世に戻るかは、本人の本能的な生命力に頼るほかはなかったのだ。闇の中で川を渡らずに、こっちの岸へ生還させた生命力、生への執着心を蘇らせたものは、肉親の声のお陰であろうか。必死の声とは、祈りにも似た肉親愛に違いない、と当時は信じたのだった。この時の体験からすれば、生と死の境界はやはり存在していて、闇の中に横たわる川のような何かを越えるか越えないかが生死の一線を画すると考えたくなる。〕
その後43歳の時、金沢へ単身赴任し、風邪をこじらせた上での激務で、高熱と眩暈で倒れて入院したものの、肺化膿症という仮病名で転院し、約2週間生死の間を彷徨したという。この折も臨死体験を経験している。でもこの時の体験では、身体がスーッと浮き上がって、そのまま高い所から下にいる本人自身を見下ろしていたという。
 カール・ベッカーは、臨死体験とは「死に瀕した人間、あるいは生物学上一度死んでから復活した人間が語るあの世での体験である」と定義している。そしてその体験にはいくつかの段階があり、第一は魂が身体から離れて上から見下ろすもので、体外離脱とか幽体離脱という体験、第二はトンネル体験とも呼ばれる暗闇の体験、第三はあの世といわれるような、見たこともない美しい花などが登場する場所へ出る体験、第四は先に亡くなった自分の先祖や親友に出会う体験、第五は最後の段階でバリアが出現するもので、日本では川が多く、海や絶壁のこともあり、これを越えると二度と戻ってこられないという。松原さんは第一と第二の体験に加えて、第四や第五も体験したのではと話される。

・私の臨死体験
 終戦後、父は第九師団の残務整理の後、慣れない百姓仕事をすることになった。稲の脱穀は足踏み式脱穀機で、ある時私は誰も居ない納屋で、動かした脱穀機を止めようと歯車に中指をかけたところ、左手が歯車に巻き込まれてしまった。左中指は完全に潰され、人差し指も皮だけで繋がっている状態だった。私は歯車から左手を外し、流しで水を汲み手を洗っていたという。薬剤師の叔父がまだその頃家にいて、マーキュロクロム液をかけて消毒してくれ、包帯をグルグル巻き、タクシーで大学病院へ連れて行ってくれた。手術で中指を切断し、人差し指は一応縫合した。ただ縫合部分に機械油とか稲藁が少し残っていたのか痛みがとれず、再度切開して洗浄したようだった。その後傷口は塞がって退院したものの、やはり痛みは残っていた。この頃は抗生物質はなく、もっぱら熱が出れば解熱剤、痛みがあれば鎮痛剤。医師は野々市町には2人いたうちの1人で、代々かかりきりの医師だった。専門は内科だったが、毎日往診してもらえた。 
 ある日、痛みが和んだような感触になった途端、縫合した場所から失血した。どう助けを求めたか覚えはないが、出血は多量で、その時点で死の危険にさらされた。その時私は暗いトンネルの中を歩いていた。ずっと先に微かな光が見え、それはトンネルの出口のような感じだった。私はただもくもくと歩いていた。出口の光の大きさは歩いても歩いても近づいて来るようには思えなかった。ところが急に周りが光に満たされ、トンネルから脱出できた。そこは一面の花畑、桃色や橙色、黄色の花が無数に咲き乱れていた。今思うとポピーのような可憐な花々だった。径はずっと先まで延びていて、その先は靄に霞んでいて分からない。当てもなく歩いていると、川幅は広いものの一面に浅いせせらぎとなっている川辺に着いた。するとその時向こう岸からだろうか、此処はお前が来る処ではないとのご託宣、追い返され素直に戻ることに。
 正気に返ってから聞いたところでは、とにかく輸血をということで、両親から採血したものの、手からは針が入らず、窮余の一策で足から漸く輸血できたとのこと、そして私の顔に生気が感じ取られるようになり、私はこの世に生還できた。もし輸血が成功していなければ、この世とは縁が切れていただろう。この時ほど親子の絆を強く感じたことはない。

・臨死体験の科学的裏付け
 松原さんや私の臨死体験には極めて似通った点がある。ただ松原さんは2回とも感染症による高熱によるもの、私のは失血によるもの、でも体験の現象は似ている。ところでこのような体験は、本当に死を体験した人、すなわち死んでしまった人からはその体験を聞き出すことは出来ないから、少なくともこの世に再び生き返ってきて貰わねばならないという大前提がある。言ってみれば「死に損ない体験」「死の入口体験」「擬似死体験」とでもいう類であろうか。もし科学的にこれを解明しようとすると、それに相応しい体験を試みる必要がある。私の場合は失血だったが、もしこの実験が認められるとすれば、私の場合のように、採血による血液量低減による方法が最善であると思う。しかしこの実験はあくまでも細密かつ安全、しかも確実に蘇生されるものでなくてはならない。世の中には物好きな御仁もおいでだろうから、いつかは実現されることになるかも知れない。これこそ正に正真正銘の臨死体験となる。そうすれば霊や魂の体外離脱も科学的に証明されることになるかも知れない。

・松原敏さんからの寒中見舞い
 松原さんは、この2月26日に他界された。ところで1月13日消印で、私にも寒中見舞いが届いた。亡くなる1か月前にしたためられた葉書の文面を次に掲げよう。
〔寒中お見舞い申し上げます。如何お過ごしでしょうか。さて、賀状を賜った方々に、近況報告および生存証明として、毎春「寒中見舞い」を差し上げてきましたが、かねてからの心不全、脊柱管狭窄などが進行、体調不良のため辛い闘病生活を続けており、主治医からも、そう余命も長くはないように示唆されております。潔く死にたいものですが、さて。このため、ことしの寒中見舞いをもって打ち切ることに致しました。勝手ながらご了承下さい。長い間何かとお世話になりました。寒さの続くとき、ご自愛を祈り上げます。 
                 平成二十一年 寒 松原 敏〕  

平成21年(己丑)は6度目の丑年(2.17)

 私の誕生日は2月11日、生年は昭和12年(己丑)である。戦前にはこの日は四大節の一つの紀元節であって、初代天皇の神武天皇が即位された日という設定だった。終戦の年に私は国民学校3年生だったが、戦時中はこの日は登校して、講堂で紀元節の歌を整列して歌ったものだ。この歌は3年生までしか歌っていないのに、今でも歌えるから不思議である。当然戦後は歌う機会が全く無かったのにである。終戦後は当然のことながら、この記念日は根拠が曖昧とかで廃止されたが、昭和41年には「建国記念の日」として復活されたが、争点のあるところである。でも制定の趣旨は「建国をしのび、国を愛するこころを養う」とのこと、でも何故この日にということはあろうが、日本国民としてはあっても差し支えのない記念日ではないかと思う。しかし誕生日が休日というのは実に愉快である。ところで長男の嫁(本来は差別語らしいが、あえて使用)の誕生日も、三男の嫁の父親の誕生日も、私と同じ2月11日であるのは奇遇である。
 今年は生まれて6度目の丑年で歳は72、次の丑年まで永らえたとすると誕生日には84歳となるはずだが、どうもその自信はない。蕎麦の会である探蕎会には80歳を超えても矍鑠としておいでる御仁もおいでるが、そうでない方もおいでる。私の父は享年72、母は91、母方の伯母は昨年亡くなったが101歳の大往生だった。私の師匠の波田野先生はもう3日で86歳だった。でも年取ってからの誕生日というのは、有り難くもあり有り難くもなし、正に冥土への一里塚である。でも寿命は甘受すべきものなのだろう。
 さて、私達二人は、私の誕生日と家内の誕生日、それに二人の結婚記念日には、どこかへ二人で出かけ、飲んで食べて過ごすことにしている。今年は探蕎会で前半の行事に入っている日帰り探蕎行予定の福井・三国の「小六庵」にでも行こうかと話していた。ところで会ではきっての蕎麦通である副会長の久保さんから、偵察も兼ねて小六庵へ出かけませんかとお誘いがかかった。聞くと久保さんの奥さんも行かれるとか、でも家内は咳が出ているし、緊張するともっと大変だからと尻込みしてしまった。どうもお世辞の一言も言わねばならないような雰囲気は好きでないらしい。私の大学の同窓会にも一度出たことがあるけれど、一度きりで後は御無沙汰、まあ無理はすまい。それぞれに勝手もあることだろうからということで、取りあえず家内に久保さん宅まで送ってもらい、私のみ便乗して「小六庵」へ向かうことに、家内とは昼の部は別々、夜の部は一緒にということにした。

1.昼の部 久保さん夫婦と「小六庵」へ
 この日の天気予報は晴後雨、朝には西の空に17夜の月が皓々と輝いていて快晴が約束されていたのにである。まことに高速道を走っている10時半にはもうポツリポツリと雨が落ちてきた。昼まではもつと思ったのに、今日は予報が的中したようだ。加賀ICで下りて、国道305号線で吉崎、北潟を経て三国町へ入る。開店の11時30分には少し余裕があるとのことで、この辺りではつとに有名な酒饅頭の店に寄る。久保さんはこれには目がないとか、美川にも美味しい店があるとか、どうもこの方面は私には全く縁がないが、家内へとお土産まで頂いてしまった。いよいよそば処へ向かう。字が同じになった地点で電話番号をナビに入力すると、右折した住宅地の先に目指す「小六庵」があるとのこと。この辺りは高台の住宅地、海が見えている。途中案内板など標識は一切なく、ナビの力を借りなければとても行き着けないこと必至だ。右手にホームページで見たことのある建物が見えた。狭い駐車場に車を停める。時間は開店5分前、亭主が玄関に掛けてあった「準備中」の札を返して「商い中」にした。どうぞと言われて縄暖簾をくぐる。小雨が降っている。

 中へ入ると、洒落た粋な空間が広がる。レトロな要素とモダンな要素が渾然一体となっている感じ。どこでもお好きな処にと、私達3人は囲炉裏を囲んで円座に座る。後で亭主が話されたことだが、6年前に三国へ来て、蕎麦屋をして5年目、三国町は小さい時に過ごした場所、丁度この場所が気に入り、あった納屋を今あるように古民家風に亭主がデザインし、古材はそういうものばかり扱っている業者から求め、内装も外装も自身で手掛けたという。空間は板の間と御上の間、板の間には囲炉裏が切ってある。囲炉裏は新しくモダンな創作だが、板の間の厚い杉?の板は、百年以上は経っておろうかという黒光りした逸物、その表の色が微妙に違っていたので、調和させるのに苦労したと。車箪笥も古いものだ。上には時節柄内裏雛が飾ってある。囲炉裏には火が熾っている。亭主がお茶を持ってきてくれて、海側の戸を開けてくれた。天気が好いと海の色が青く見えますと。また暖かい季節になれば、縁側で海を眺めながら召し上がれますとも、野趣に富んだ外席で飲み且つ食うのも一興だ。
 お品書きはゲーム機のコントローラー位の大きさの木型に入っている。私は取りあえず小六酒と板わさを、お酒は福井の吉田酒造誂えの吟醸酒「小六庵」、一升瓶のまま持って来られ、大きめのぐい呑みに注いで、瓶はそのまま囲炉裏の片隅に。実に爽やかな風味、重たくはなく軽やかな口当たり、美味い。蒲鉾も吟味された一品、たっぷりの本山葵、お友はほかに焼味噌、合鴨燻製、鴨汁がある。飲み物はあとビールとそば焼酎。そばは始めに「鴨汁蕎麦」を貰うことに。蕎麦の謳い文句には「当店のお蕎麦は福井県産の早刈りみどり蕎麦粉と自然の湧き水で打った十割手打ち蕎麦です」と。蕎麦は丸岡在来の小粒種、それをわざわざ早刈りして保存してもらい、この町の製粉業者に石臼で挽きぐるみにしてもらっているという。
 鴨汁蕎麦がきた。鴨汁は口広の大きめの片口の蕎麦猪口に、厚手に切った鴨肉4切れ、つくね3個、そして太い焼き葱が、幾分甘めの汁に浸っている。蕎麦は黒っぽい中打ち、浅い片口のついた鉄釉色の中皿に盛られている。量は若干多め、手繰ると中々コシがしっかり立っている。香りは判然としないが、味は十割の蕎麦の甘味がする。早刈りすることから、別名「みどりそば」というとのことだが、比較すれば分かるのかも知れないが、単品のままでは見た目には「みどり」は窺がえなかった。また亭主が言うには、此処で使っている器はすべて手びねりで私の作だと、驚いた。かなりの数になる。金津の「創作の森」で制作しているとか。この店は平日は金曜以外は休みにしているが、そのような目的があるからなのだろうか。鴨汁を友にもう一献頂く。鴨はフランスからの輸入だとか、敬蔵も山猫もそうだ。実に旨い。
 ここは開業当初は「おろし蕎麦」オンリーだったという。どうしてもこれを賞味しなくては。程なく届いた「おろし蕎麦」は 福井在来のものとは感じが違う印象を受ける。器はやはり片口が付いた少々深めの皿、おろしは辛味大根の絞り汁だが、寒さも峠を越えたので、これからは大根の種類を変えるとも、巷ではこんな気遣いをしている蕎麦屋は少ないのでは。そばはほかに「ざる蕎麦」「つけとろ蕎麦」があるが、そばの打ちは一種類のみとのことだった。おろしには相性の良い探し当てた特別な淡口醤油を用い、細切り白葱と少々厚めに削った鰹節が載っている。そばの味を殺さない気配りには感心する。
 丁度好い腹具合になって、辞することに。帰り際に、壁にポール・スミスのイラスト入りの直筆で、亭主の長沼さんへの色紙があるのに気付く。ポール・スミスといえば卿(サー)の称号を貰った英国の世界的デザイナー、そのファッションブランドを日本に展開するのに中心的な役割を担ったのがここの亭主、話していてヨーロッパには仕事でよく出かけましたという意味がやっと解けた。日本での最初の拠点が東京にオープンしたのは1994年だそうだ。今は楽隠居で悠々自適と仰る。亭主の出で立ちは足袋を履いての法被姿、濃紺の法被の襟元には、左に白抜きで三国町、右には長沼と、粋さが感じられる。今日は東京からお客が見えるとのこと。小六庵の奥には、隣り合ってイタリアンレストラン「サルバトーレ」がある。小六庵で蕎麦を、サルバトーレでお茶をという人もいるとか。
 小六庵の場所は、福井県坂井市米ヶ脇1丁目1−32、電話は0776−82−5056、営業時間は11:30から14:00まで、ただし無くなり次第終了。席数は御上の間の座机に6席、囲炉裏の周りに8席。定休日は月曜から木曜、営業日は金・土・日曜と祝日。金曜と祝日は亭主独り、土曜と日曜は女性が応援にとは亭主の言。
 小六のいわれは愛犬の名前からとか。また奥方は仕事で外国滞留とか。

2.夜の部 家内と夜の片町界隈へ
 夜に家内と金沢の街へ出歩く時は、昨年の秋頃から大体コースが決まってしまっている。始めの腹ごしらえは、以前は大衆割烹「五郎八」の姉妹店でもあった「ぼんぼり」へ、食べて飲んでからは、縁あって姻戚とでもいえるようになったスタンドバーの「ゴールドスター」へ、そして締めは件のそば屋「更科藤井」へ寄ってから帰宅するというパターンである。私は「とり」なども大好きなのだが、家内は全く取り合ってくれずダメで、今のところ最も無難なのがこのコース巡りである。
 このところ「五郎八」にも「ぼんぼり」にもとんと御無沙汰だった。五郎八のマスターの中田さんとは随分古くからの友達で、以前はOEKでドラムを叩いていたトムともしょっちゅう一緒だった。中田さんのユニークな発想で店は繁盛していたし、実に商売熱心だった。当初は夫婦でやっていたが、意見の相違から奥さんは別に店を持ち張り合う形に、それでも共に中々繁盛しているようだった。昨年の夏友人と「ぼんぼり」へ寄ったところ一杯、勧めで「五郎八」へ回ったがマスターは居なくて、聞けば子供が生まれてからは早帰りとか、お任せ稼業になったのだろうか。秋に家内と知人を案内して再び「ぼんぼり」へ寄った。予め予約をしておいたので、ゆっくり飲み食いできた。ここは北村さんが姉妹店の時から店を任されていたが、帰り際、この度この店を師匠でもある中田さんから譲り受け、私が経営することになりましたと挨拶されてびっくりした。あの店を建てる時にはよく話を聞かされていたし、建てている最中にもよく中へ誘われもした。それだけにあの店には愛着がある。そんなこともあって、家内とはこれからは応援してあげようということになった。店も何度か寄っていると、中田色から北村色に変わっていくのが読み取れる。東京からの客でも気取らない方ならば、この店は品数も豊富なので満足して貰える。この日も刺し身の盛合わせ(ブリ、カンパチ、マグロ、サバ、ヒラメ、アオリイカ、タコ、ガサエビ、シロエビ、越中バイ)、中でも鯖は秀逸だった。焼き物は鱈の白子の石焼とハタハタの一夜干し、酢の物は香箱と牡蛎、煮物は鰤大根、鍋物は白子鍋、お酒は手取川のあらばしり4合とビール生中2杯、程よい酔い心地になる。カウンターに磁力で浮遊している置物があって、酔っていると中々復元できないとのこと、でも私は出来たが、カミさんはとうとう出来ず終いだった。それと刺身のツマになっていた花、私は以前中田さんから食べられますとのことで食べていたが、ある時叔父があれは毒があるからと言われたこともあり北村さんに確かめたところ、花を詰めた容器を見せてくれた。それには食用可とあった。
 出てゴールドスターに寄る。ここは日曜が定休、この日は祝日だからか、客は私達が初だった。マスターは高本さんといって店は1956年からというから大変古い。私は家内から誘われるまでは全く知らなかった。実は高本さんの長男と家内の姪の長女とが結婚し、縁続きになったこと、また親と子は別居しているものの、どちらも野々市町の住人なので、何となく親しみを感じて寄るようになったという次第。店はそんなに大きくはなく、15人は入れないだろう。落着いた感じ、レコードはLPのみ、ジャンルはジャズ系が多いようだ。家内は甘味系のカクテルかハイネケン、私は大概はシングルモルト、ニッカやアイリッシュのことが多い。つまみは乾きものが少々出るのみである。この日宮崎から金沢観光に来たという母と姉妹が店に、家内とはえらく意気投合してしまって大変なことに、私までも巻き添えに、でも楽しい一夜だった。それにしてもよくぞこんな目立たない店にと感心した次第だ。宮崎へぜひとのこと、連絡先まで教えてくれた。
 ブラブラ歩いて「更科藤井」へ、混んでいたので暫く店の中で待つ。カウンターが空き、移動する。十割をお願いする。お酒は能登数馬酒造の特注酒「ふじい」、竹葉は飲みやすく淡麗な酒だ。お友には焼海苔、金沢では少ない。店は午前2時までだが、この時間帯は中々混んでいる。弟さんはと聞いたら、今は「太平寿し」にいるとか。十割も上等であった。満たされた一日だった。

2009年正月のスキー行(2.5)

1.くろゆりスキーツアー志賀高原行
 私の古巣の衛生研究所、今は石川県保健環境センターというが、そこでは20年位前からくろゆりスキークラブが中心となって、毎年正月にスキーツアーをやっている。私が現役の頃は細胞培養を手がけていたので1日ならともかく2日空けるのは困難で参加してなかったが、退職してからはほぼ毎年参加していてもう12年になる。案内は11月に来る。今年は1月9〜12日の予定、9日の晩に金沢を発ち、10、11の土・日の全日と12(祝)は現地午後3時発で金沢へ戻るスケジュール、順調なら丸2日半は滑られる予定である。
 出発は午後7時、大型バスに20人ばかり、採算が合うのかと訝る。志賀高原まで4時間ばかり、後部座席は宴会モード、日本酒、ビール、カンチューハイ等々、圧巻は自家製の焼きそば30人前、よくぞ勤務中に作成したと感心する。その費用は3千円とか、業務用というのは安いらしい。志賀高原はこの年末から年始にかけては雪が少なく、全面滑走は無理だったらしいが、ようやく正月寒波の到来で滑られるようになった。飲んで喋って4時間、雪の志賀高原に着いた。宿のある蓮池は志賀高原の中心、そのロータリーの近くに宿はある。五郎兵衛という。雪が降っている。
 翌朝は午前8時の出発、気温は低く-14℃とか、雪は粉雪だ。宿の前は道路から急な上り坂となっていて、坂を上がれない車が3台、立ち往生している。そのうちの1台が私達のグループに合流する東京からの連中だったとは、気付かなかった。朝食を済ませ外で待つが、全員揃うのにえらく時間がかかる。子連れの3組と夫婦1組、それに女性軍は別行動、東京組も悪戦苦闘の疲れと風邪で休養、残るは8人。当初は蓮池で小手調べとのことだったが、このメンバーならとジャイアント経由でブナ平へ行こうと。蓮池からジャイアントへ出るには狭い連絡ルートを通って行かねばならない。これまでも何回か通っているが、狭い上にアップダウンがあり、好きなルートではない。でも行くしかない。ところが滑り出した皆について行こうとするが、何故か私のスキーは全く滑らない。どうなってしまったのか全く見当がつかない。スキーが滑らないので、歩かねばならない始末、雪は降っているが、見通しは良い。新雪のせいかなと思ったりもするが、下りになっても滑らず、焦ってしまう。後から来る人に狭いながら道を譲って通ってもらう。こんなことは初めてだ。いつもならば滑って2分位で着くのに、それをすべて歩き、どれ位かかったろうか。20分は要したかも知れない。やっとジャイアントゲレンデの中腹に出た。
 この斜面は急で圧雪車は入らない。斜面には新雪が20cmばかり積もっている。斜めに斜面に入ろうとするが、滑らない。これは重症だ。最大斜度に向かうと落ちるように滑るものの、ターンをするとブレーキがかかったようにググッと止まってしまう。湿雪が単板のスキーに下駄を履いたようにダンゴ状にくっついて全く滑られなかった経験はあるが、今の合板のスキーで、しかも粉雪、スキーの裏に雪がくっついている様子もないのに、でも滑らない。ジャイアントの斜面をスキーを履いて歩いて下りねばならないとは、正に前代未聞の出来事、でも滑らないのは事実なのだ。やっとの思いでジャイアントのリフト乗り場に辿り着いた。スキーを脱いで滑走面を見る。すると、滑走面に金平糖のような氷が一杯くっついている。大きなものから小さなものまで、手で擦っても取れない位しっかりとくっついている。こんな経験は初めてだ。ドライバーを借りて、一つ一つこそげて取る。全部取るのに20分位要したろうか。どうやら済んで、よく踏まれたコースでスキーを履くと、何とか滑られそうだ。しかし滑りはよくない。やっとリフトでブナ平へ、随分と時間をロスした。リフトを降りたところでメンバーの何人かに出会う。休憩は「いこい」というロッジでという伝言、でも1本も滑っていないものだから、何本か滑ってから行くことに、雪は間断なく降っている。少し風も出てきたようだ。3本滑ってロッジに逃げ込む。まだ客が少ないからか、ストーブも点けていない。なんというサービス。食事もまだ準備中。リーダー持参の酒を飲む。
 11時近くになり、漸くご飯物が解禁、熱い麺類と思ったが、担当者がいないとかで、丼物で済ます。何ともサービスがよくない。正午近くになり、やっとフルコースに。外は吹雪の様相、お客が入り込んできて店は混んできた。お酒もなくなって腰を上げることに。取りあえず西館山から高天ヶ原へと。雪の中、ブナ平を一番下まで下る。下の方はかなり急だ。リフトを乗り継いで西館山へ上る。雪はかなり降っていて、視界もよくない。高天ヶ原側のゲレンデを滑り降りた時点で、私は雪の中を滑る気力がなくなり、バスに乗って蓮池に帰ることにする。我ながら軟弱だとは思うが、無理はすまい。それに吹雪のスキーは楽しくない。時刻表ではバスは1時間に1本、20分待ってバスが来た。正に雪まみれ、ほうほうの態で宿に帰る。まだ3時前だった。
 部屋に戻ると、東京組の一人は風邪でずっとお休みだったとか、もう一人は手持ちぶたさな様子、私は風呂へ、誰もいない、ゆっくり浸かる。部屋へ帰り、うがいを兼ねて、ビールとお酒を、彼氏にも勧める。テレビを見ながら四方山話、彼らは国の原子力保安関係の若手職員、このツアーの参加者にも、県から派遣されて、2年間彼らの薫陶を受けた者がいる。4時半過ぎに漸く皆が帰り着く。東館山や西館山からスキーで宿に帰るには、どうしてもジャイアントの上りリフトを利用しなければならず、終了は4時なので、それまでに乗らねばならないという制約がある。どうやら皆間に合ったらしい。それにしても雪中スキーとは皆さん元気で若い。見れば70代は私一人、60代が一人、50代が一人、後は40代以下ばかり、元気なわけだ。私のスキー板の裏に氷が着いたことを話したら、ワックス塗らないなんて非常識だと言われてしまった。中で抜群にスキーが上手い御仁が特別に小生の板にワックスをかけてくれた。感謝々々。明日は天気は曇、期待しよう。 
 3日目は8時始発のバスで、横手山に向かう。笠岳で下りて、このスキー場で2本ばかりダウンし、回り込んで熊の湯へ、1800m以上はガスがかかっている。でも天候は好転の兆し、寒いが滑りは快適。1時間位滞在してから、横手山への連絡ルートへとの伝言。聞いて第3クワッドの頂から連絡ルートへの入口に入り損ない、下り過ぎて急な斜面を上り返す破目に、これには体力を消耗した。やっと連絡ルート入口へ、本来なら勢いで滑られるのに再び歩き、スケーティングが出来ない悲しさ、どうも平らなルートは苦手で往生する。奮闘して漸く横手山のリフト乗り場に、そこであの抜群に上手い御仁と一緒になる。この第2スカイと次の第3スカイを乗り継ぐと横手山の頂上だ。ところが途中でストップ、10分も宙ぶらりんになった。気温が低いので周りの木々は樹氷で真っ白、時折陽が射すと、空気中にある雪の塵がキラキラと輝く。久しぶりに見たダイヤモンドダスト、幻想的だ。リフトが止まっていても余り苦にならなかった。強風で運転中止かもとのことだったが、何とか動いている。でも時々突風で大きく揺れる。やっと終点。件の御仁は滑らないでリフト終点の2階にあるラーメン屋へ直行、いつもの溜まり場だ。一部は向かい側にある、これまた有名な山頂ヒュッテの手作りパン屋に、いずれは此方に合流するはずだ。熱燗とおでんと野沢菜を所望、御仁はお酒を4L持参、熱燗は体が温まる。温まったところで、持参の「立山」、これがまた美味い。昨年の吹雪の脱出劇のことを思い出す。今日は風が強く寒いが、視界はよい。「立山」は口当たりが良く、瞬く間に無くなる。次は飛騨の「鬼ごろし」、これもみるみる減ってゆく。残り少なくなったところで、熱いチャーシューめんを腹に入れ、渋峠へと向かう。彼らは1時頃まで滞在とか、6本滑って1時近くに引き揚げる。そのまま横手山から下る。急な林道も快適、リフト中継点から下はもっと快適、あまりの気持ち良さにここを4本、枝のゲレンデも3本滑った。皆さんは前山でビデオ撮影のはず、2時頃までとかだったが、私が着いたときは15分過ぎ、後で聞いたところ、その刻はバスに乗る時間だったそうだ。前山の28度の壁と迂回路を滑ってから、バスで蓮池へ。今日はこれまでとする。宿には先着2組、板はビデオ鑑賞で賑わった。スキーの上手い御仁の的確なアドバイスが印象的だった。
 4日目は11時にプリンスホテル西館に集合、私は東館山の蕎麦屋と寺子屋山へ行きたく、皆と別れ、ジャイアントを下り、発哺温泉からゴンドラで東館山の蕎麦屋へ、そして寺子屋山へ。天気は好いが山の斜面はガリガリ、1本で止めて一の瀬へ、ファミリーゲレンデを下り、ダイヤモンドゲレンデから山の神を経て焼額山へ上がろうとゴンドラ乗り場へ。ところが凄い混み様、聞けばもう1本のゴンドラが強風で運休とか、乗れるまでに40分もかかった。こんな待ちは何年ぶりか。運転も風でノロノロ、仕方がない。焼額山の頂上からは一気にプリンス西館に滑り込んだ。食事をして正午に来た時と逆のコースで宿へ向かうことに。でもこの頃から雪が舞ってきた。そしてやがて天気は急変して雪は本降りに、帰りを急ごう。皆さん一の瀬から高天ヶ原へとのことだが、私は一の瀬からタンネの森を抜けて、高天ヶ原のバス停へ向かうことに。雪はバタバタと降っている。2日目と同じパターン、宿には1時過ぎに着いた。こうして今年のスキーツアーも終った。
 金沢へ帰ったら20cmの積雪、大型バスはセンターの構内に入れず、荷物を道路から雪の中をセンターまで運ぶ破目に。昔、スキーから帰ったら1mもの積雪で車を掘り出せず、仕方なく小立野まで歩いたことを想い出した。それに比べればやさしいもんだ。私が殿でセンターを後にした。

2.瀬女高原スキー行
 志賀高原行きの後、土日になると天気がよくなく、一度も地元のスキー場に足を運べなかった。月末になり28、29と天気が好いので、29の木曜日、休暇をとって瀬女へ出かけることにした。−2℃の朝、このシーズン初の地元ゲレンデ、天候は保証済みである。8時に家を出て、着いたのが9時、ガリガリだが、斜面は圧雪車で綺麗に均されている。駐車場に停まっている車は80台ばかり、平日はこの程度なのか。ゆっくり滑られそうだ。ゴンドラリフトで上へ。デジカメを前田さんの勧めで更新したものの、志賀高原ではついぞ撮る出番がなかった。ところで今日は1日晴れ、取りあえず高速ペアリフトの降り場へ行き、このスキー場の最高点の1110mから、白山、笈ヶ岳、大笠山を撮ることにしよう。
 まずドキドキコース(1200m、最大斜度31度)へ。でもこのコースはまだ陽光が当たらずガリガリのまんま、人影が見えないゲレンデなんて初めての体験、平日だとこんなこともあるのかと、感心しながら悠然と滑り降りる。高速ペアに乗り最高地点へと上ると、山々は朝日を浴びて輝いている。三村山へ登るのか、3人が輪かんじきを履いて準備している。斜面はかなり急だし、途中やせ尾根もある。でも1日天気が好さそうだから、楽しい山行になろう。ここからは二百名山の笈ヶ岳の登路になっている西尾根も、昔は大笠山への登路だった中宮山(1339)から大フクベ山への尾根も間近に望見できる。口三方岳、中三方岳、奥三方岳、奈良岳、見越山も見渡せる。
 最高地点からレストハウスに下り、ハウス横から陽の当たっているルンルンコース(1500m、最大斜度27度)へ滑り込む。滑る人はいるが疎ら、ボードとスキーは半々、コースは実に快適、下りて高速クワッドで上に上がり、ワクワクコース(1400m、最大斜度29度)へも。この3コースはいずれも高度差400mばかり、午前の最後はパノラマコース(最大斜度29度)へ、ここはゴンドラ乗り場まで3400m、700mダウンのコースだ。ここまではほとんど休みなしに滑った。そんなにガツガツすることはないのだが、気温が上昇してくると、どうしても雪質がザクザクしてきて、滑りが悪くなる。この日も最高の滑りは11時頃までだった。昼食を済ませて3コースを3本ずつと最後はパノラマコースを滑ってお終いにする。今日は午前2時間半、午後2時間の滑り、滑降本数22本、滑降高度差9290mだった。志賀高原ではよく滑った3日目でも、滑降高度差は3400m、この日の滑りは平常の3倍位に当たる。これはリフト待ちが全くなく、しかもリフトは高速リフト、ゲレンデも荒れてなくよく整備されていて、しかもスキーヤーやボーダーが少ないという好条件が重なったからと言えよう。
 勤務を辞めると、このような条件の良い日を選んでフラッと出かけられるのにと、ふと思ったりする。

若年性アルツハイマー病とともに生きる(1.26)

 表題は元東京大学大学院医学系研究科国際地域保健学教授(2006年3月退官)であり、脳神経外科医でもあった若井晋氏とノンフィクションライターの最相葉月氏との対談記録のタイトルで、出典は週刊医学界新聞第2814号(2009.1.19)である。この中で氏は自身が若年性アルツハイマー病であることを打ち明け、診断から病気を受け入れるまでの苦痛や、告白に至るまでの経緯を語られている。氏は医師と患者両方の立場から、奥さんの克子夫人も交え、現代のアルツハイマー病にどう対応すべきかを語られている。
 氏自身が「何かおかしい」という感覚を持たれたのは、現役で国際地域保健の関わりで中米ニカラグアに頻繁に行かれ、発展途上国の医療に積極的に携わられていた2003年のことである。でも本人はこれはニカラグア詣での疲れ位にしか感じとっていなかったという。ところがその後少しずつではあるが、身近ないろんなことが出来なくなってきたことに気付く。その中の一つに「漢字が書けない」ということがあったという。しかし情報の交換はメールやパソコンでのやりとりがメインであったため、仕事には全く支障がなかったし、しかも依頼された講演もすべて普段どおりにこなせたという。氏の長男も次男も医師なこともあって、二人とも「どうもおかしい」と感じ、ぜひ病院で視てもらうようにと母親に進言したものの、氏は一蹴して受け入れられなかったと。そこで奥さんは何とか受診させようと思い、以後氏がいつもと違うなと思ったような事柄があった際には、こと細かにそれを書き記すようにしたという。
 氏はとりわけ方向感覚が鋭く、車の運転も得意で、しかも何事もテキパキとこなす性格の人だったという。ところが2004年頃から、よく知っているはずの場所へ行き着くことができなかったり、車の運転が危なっかしくなったり、自動券売機でスムーズに切符を買えなかったり、銀行のATMでお金を下ろせなかったり、注意が散漫になったり、突然ハッと止まって「この次どうするんだっけ」とか、これまでなかったびっくりするようなことが次々に起きるようになったという。その後ある時、氏は奥さんに「僕はアルツハイマーではなかろうか」と突然言われたとか。奥さんはそうでないかと思ってはいたものの、とても口が裂けても相槌を打てなかったと、そして出た言葉は「加齢のせいではないの」と。そしたら氏は「きみはアルツハイマーがどんなものか知らないから、そんなに軽々しく言う」と怒られたという。氏は脳神経外科医でもあり、内々自分がアルツハイマー病であることを感じ取っていたのではないかと夫人は語られる。
 漸く説得に応じて受診されたのが2005年の12月、この年もニカラグアへ頻繁に出かけておいでで、体調不良なのはそのせいだと思っていたと。でもその病院の先生は診察はしてくれたものの、遠慮からか氏がアルツハイマー病かどうかは言ってくれず、別の病院を紹介してくれたという。氏は立腹され、氏の先輩でアルツハイマーの研究をしておいでる先生に相談したところ、自分は臨床医でないからと東京都老人総合研究所を紹介してくれ、当時の日本にはまだ3台しかなかったPETで検査したところ、間違いなくアルツハイマー病だと診断された。しかし氏は納得せず、画像を見て「なぜ僕がアルツハイマーなのだ」「海馬に異常が見られないのに、どうして」と何度も言われたとか。とにかく最初は「どうして自分がこんな病気になったのか」と、中々事実を受け入れられなかったという。そんなこんなの心痛で身体の衰弱がひどくなり、2006年2月には診断が確定したこともあり、氏は3月に東大を退官された。それから本人がこの事実を容認されるまで、さらに実に2年を要したと婦人が述懐されている。
 そこで先輩の勧めもあり、2年間は沖縄の病院で療養することにし、この間は院内での診療にも携わった。その後体調も回復し、帰京した年の4月には、日本キリスト教医科連盟JCMAの機関紙である「医学と福音」に、自身がアルツハイマー病であることをカミングアウトすることを決断された。この間、病気の進行のせいか、昔はガッツがあって働き過ぎだと言われる氏だったのに、病気が意欲を奪うのか、やる気がなくなったようになったとは奥さんの言である。ひょっとして「認識のかたち」が変わってしまったのではないかとも。それは例えば、洗濯物を取り込むのは大丈夫なのに、干すのはうまく出来ず、斜めになったり、ずれたり、とにかく真っ直ぐに干せないということがあり、これは空間認識に問題があるに違いないと思ったという。
 この時期、勧めもあって薬物治療を開始された。しかし病気の最初のサインがあってからもう5年を経過していたことになる。氏の言では、現在日本で唯一のアルツハイマー型認知症治療の保険適用薬である「アリセプト」と抗うつ薬と、海外の新しいアルツハイマー治療薬を内服しているとのこと、この保険適用外の新薬は日本ではまだ治験中なので個人輸入して服用しているとか。奥さんでは、薬物治療によって病気の進行に遅れが生じているような印象を受けるとも言われ、今のところ日常の生活に何ら支障はないとのことだ。
その後、氏と夫人は同じ若年性アルツハイマー病の家族会へ入り、同じ立場の方の話を聞くにつれ、皆さん同じような苦労をされているんだなあと、ホッとしたとも。とにかく氏も奥さんも初めての経験、もし同病の方々との接触がなく今まで通りだとしたら、きっと二人の間では波風が立っただろうと。しかし会に入っていろんなアドバイスを受けてからは、一緒に暮らすに当たって、「これは言っていけない」「これはしてはいけない」ことが分かってきたと奥さんが言われる。とかくこれまでは、「どうしてそんなことをするの」「ダメじゃない」「違うでしょ」と否定的な言葉が多かったけれど、考えてみれば夫は病気の身、今まで通りではいけないと思うようになったと。アルツハイマー病の家族会には、夫婦が一緒に暮らすのに「ダメ三原則」というのがあって、それは「怒らない」「ダメと言わない」「押し付けない」の三つ、これを実践することによって、主人も以前は短気ですぐに怒ったのに、本当に怒らなくなりましたとは奥さんの言である。
 公表の後、「読んで衝撃を受けました」という便りが沢山寄せられたとか。奥さんでは夫が脳神経外科医で、しかも本人がこのような病気になるということは極めて稀なことだと思われることから、今後ともクリスチャンとしての行き方を示したいとも。最後に氏は、とにかく「何かおかしい」というようなサインがあったら、躊躇せずきちんとした医師にかかって、本当にアルツハイマー病なのかどうか、そうならばそれをハッキリ受け止めて対応すべきだと。発見が早ければ早いほど早く対処できるとも。ああだこうだと悩んでいると、その間に日が経ってしまって、どうしようもなくなることもあるとも。そして医師には、専門とする医師の数は限られているので、一般医の方こそもっとアルツハイマー病のことを勉強されて、「何かおかしい」という最初の徴候をキチッと見極めてほしいとも。
 アルツハイマー病の原因は不明であるが、放置すれば病状が進行し、高度な認知症症状になる。ただ早期に治療に入れば、症状の進行を遅らせることは可能で、薬剤としてはアセチルコリン分解酵素阻害薬である「塩酸ドネペジル(商品名アリセプト)」が認可され使用されている。ただ、効くタイプと効かないタイプがあるという。ほかに日本ではまだ使用が許可されていないが治験中の「塩酸メマンチン(商品名エビクサ)」がある。これらはいずれも軽度及び中等度のアルツハイマー型痴呆における痴呆症状の進行を抑制するもので、病態そのものを改善するものではない。とはいっても、進行が止められれば、天寿を全うするまで病気との共存が可能である。
 表題の「ともに生きる」というのは、生物学でいう「共生」ではなく、むしろその実態は「寄生」もしくは「偏共生」である。例えばヘルペスグループに属するウイルスに人は就学前にほぼ全員が感染の洗礼を受けるが、感染後は死ぬまで体内のどこかに潜んでいる。これなど完全な「偏共生」である。しかし免疫能力が低下してくると「寄生」状態になり、発病することになる。したがって、「がん」にしろ「エイズ」にしろ、完全に駆逐できなくて残存していても、共に共存可能な方途があれば、それも治療の一つのあり方となろう。アルツハイマー病でも早期に発見でき、治療によって進行を食い止められれば、決して怖い存在ではなくなる。

平成21年丁丑の正月(1.21)

 旧盆と正月には、私と家内との間に生まれた3人の男の子の家族が、私達が今住んでいる野々市の実家に帰ってくる。私はさほどでもないが、家内の方はこの機会を心待ちにしているようだ。この正月も例外ではなく、暮れには3家族、正月には亡弟の次女の家族も集まってくる。何故か4家族とも構成は夫婦と子供2人の4人家族、4家族が集まると16人、平生が2人住まいだから、家の住人は一挙に9倍、やはり一大事であることに間違いはない。私はといえば、孫達と会うことよりは、むしろ息子達と飲み交わすことを楽しみにしているが、家内は孫達に会い、息子の嫁さん達と会話することを楽しみにしているようだ。通常は男親でも、孫ができると目に入れても痛くないと言ってメロメロになってしまうらしいが、どうも私は変わっているらしく、孫もある一名を一度きり抱いたことがあるだけで、あとは皆無という始末、どうも異質であるらしい。わが子でさえ、3人で川の字で寝ていた時に子供が泣き出したらうるさいと言ったと女房がいうから、子育て失格もいいところだ。私がスキーを教わった師匠は、孫ができた途端に、夏のゴルフにも冬のスキーにもほとんど出かけなくなって、孫にメロメロ、大変な孫好きに変身した。でもそれかあらぬか、彼は孫可愛がりの術を私には授けてくれなかった。
 さて、今年の正月料理は暮の30日と31日とでつくらねばならなくなった。私の母が存命中は、もっぱらこれまでのしきたりに従って、家内はお決まりにおせち料理を指示を受けながらつくっていたものだが、母が亡くなってからは家内流になって、むしろ孫達が喜びそうな料理をつくるように変わってきている。そこで中にはかなり独創的な料理も出てくることもある。孫に人気のある料理の一つに、ごぼうやセロリを幅広の薄切りの牛肉でくるくる巻いて熱い出し汁に浸した一品があるが、これなどは大きな皿に山盛りにして出しても、アッという間になくなってしまう。私といえば、野菜の煮しめや蕗の干瓢巻き、ぜんまいの薄揚げ巻き、鰊の昆布巻き、厚揚げや焼き豆腐の含め煮の方が好きだが、やはり年寄りと子供とでは趣向に大きな差があるのは歪めない。
 今年うまく出来上がったのは棒鱈と黒豆、この二つは仕上げるまでに数日を要する代物だが、黒豆は簡易法をテレビで見ていてその通りに実行したところ、日数は2日かけただけで、九割かた似かよったものが出来上がった。小生以前はこの甘い豆は全く口にしなかったが、近頃は酒のつまに美味しいと思うようになったから不思議である。棒鱈の方はとうとう最後まで手抜きができず、昔どおりの手法でつくらねばならない羽目になったが、でも素晴らしい出来になった。また野菜の煮物はこれまではすべてを個々に煮て仕上げていたが、今年は筑前煮風にして、程よく予め湯がいた人参、牛蒡、大根、こんにゃく、里芋、昆布、椎茸、鶏肉団子を大鍋に入れて八方出汁で程よく煮た。そして青みには鮮やかな緑色の絹さや豌豆をあしらった。
 お魚類は30日に浜から直接新しいのを持ってきてもらった。昆布締め用に冷凍のサワラとタラのさく、それに刺し身用のブリ、カンパチ、ヒラメ、クルマダイのほか、数の子、酢蛸、鱈の眞子と白子等を仕入れた。値は張るが新鮮で、正月三が日は冷蔵でも大丈夫とのこと。他には今年は大きなズワイガニを5杯仕入れた。そして次男からは取引の関係で鰤を買わねばならぬ破目になり、31日に送ると言ってきた。大きさは2尺強、大晦日に捌いて片身を皆さんに振舞ったが、とても食べきれずに余ってしまった。これだけ大きいのを捌いたのは久しぶりで、往生した。
 翌31日は全員集合となる。17畳相当のリビングは満員、年越し蕎麦は市販の半生のものを用意したが、近所から頂いた手挽きの十割蕎麦はなかなかの絶品だった。子供達にはこちらが良かろうと、この日はコロッケとエビフライとトンカツを用意した。これはいつも好評で、コロッケは1人5〜10個は平らげてしまうから、かなりの量を用意したとしてもすぐになくなってしまう有り様。鰤の刺し身はこの後に出したものだから、子供達は余り食べず、思ったよりははびけなかった遠因となってしまった。
 この年、近所にある白山神社では、私達の氏子の班がこの暮から正月にかけて宮番をしなければならないことになった。お宮の掃除や飾り付けが31日の午後2時から、そして大晦日の午後3時から元旦の午後3時まで、2人ずつ6時間交代で4組がお宮を預かることに、それで木村の家は元旦の午前3時から9時ということになった。この日は小雪が舞う一日、お宮の戸は開け放たれたまま、炬燵に足を突っ込んではいるものの、外気が容赦なく入り込んできて実に寒い。特に足の腿が冷たい。酒で暖をとることもはばかれ、実に寒い思いをした。相棒は2軒隣のお兄さん、テレビと世間話でどうやら6時間を乗り切ることができた。
 私自身は近所とは没交渉なため、この機会にいろんな情報を聞かせてもらい、退屈はしなかったし、随分と耳学問にもなった。この神社は白山比め神社の末社、正式な氏子は50名ばかり、宮番は正月と春秋の祭の3回あるから、2年に1回くらい巡ってくる勘定になる。お宮さんを辞して家へ帰ってから、家の神様、仏様、先祖のお墓、屋敷内にある石仏にもお参りして、漸く正月の膳となる。家内や孫達は白山さんへ初参りに出かけたそうだが、私はこの日は割愛した。お参りは二月正月にでもしようと思う。
 今年はNHKのテレビにヒントを得て、取り寄せたおせち料理は別として、料理を大盛りにして供するのではなく、一人ひとりにお重を一つあてがうことにして、料理をすべてのお重に盛り付けた。こうすると特定の料理だけがなくなることもなく、全体にはかなりの量になるのと、取り皿や取り箸を用意する必要もなく、若干残りは出るものの、テーブルの上もスッキリしていて、ほかにはお雑煮のお椀と酒盃のみ、これは大成功であった。そして会食の後は恒例の子供達へのお年玉配り、上は中学2年生から下は4歳児まで、中身は家内任せで知らないが、でも各家族からも貰うから、2万円くらいはゲットしたのではなかろうか。ほかに嫁さんのお里にも寄って頂くだろうから、これは子供達にとっては大きな魅力であるに相違ない。
 今年の里帰りでは、次男の上の男の子が風邪を引いてやってきたが、30日にはその母親に飛び火し、38℃の熱を出した。簡単に風邪薬で対処しようとしたが埒が明かず、結局病院へ行く破目に、でもインフルエンザでなかったから一安堵だったものの、暮れに2日も寝込まれてしまった。それで皆さんうがいと手洗いを励行することに。今年の正月は招かざる風邪に振り回されてしまった。しかし正月三が日も過ぎると、寄せてきた大群も潮が引くように去り、どうやらやっと元の静寂にもどった。
 その後皆が帰ってから、遅ればせながら家内が熱発した。熱が引かないのでインフルエンザでないのかと心配したが、この時はインフル陰性とのことで一安心だったが、熱がなかなか引かないのでもう一度検査したところ、インフルエンザA型とのこと、1回目陰性だったのはワクチンを接種していたので進行が遅延していたせいなのだろうか。でもタミフルを内服したところ、体温は1日後には平熱になった。家内がインフルであったという情報は、勤務している病院ではアッという間に広がり、出勤して2日ばかりは職員がそばに寄り付かなかったと話していた。私も桑原々々、防衛手段はうがいのみ、うつるのではないかと気が気でなかったが、どうやら難を免れたようだった。しかしその後家内が鼻かぜを貰ってきた。ライノによる鼻かぜくらいと、高をくくっていたところ、これが私に感染、4日間ばかりは花粉症もどきで、ちり紙を離せない始末、油断大敵、とんだ正月の風邪騒動であった。

2006年

突然のデビュー (2.21)

 今日昼過ぎ、前田書店に寄って、HP用に作成した「白山の花」のレイアウトを見せてもらった。CDに150枚収納したのを、前田さんの好意で、書店のHPのリンクを介して見られることになった。いずれは私も習ってHPを立ち上げたいが、それは先のこととして、取り敢えず、前田さんの肝いりで世に出ることとなった。まだ花の写真と花の名前だけだが。いずれは朝日新聞の一面に連載されている「花おりおり」のように、短い名文を添えられればと思う。どれだけの方々に供覧して頂けるかは全く未知数だが、突然の出発進行となった。前田秀典氏の物好きに感謝。彼曰く。副題は「山、花、酒にまつわる話になる予定」と。要望に応えることができるかは極めて疑問だが、発奮材料にはなりそうだ。本当は「乞う御期待」と言いたいところだが、声はかすかで小さい。

「氷壁」最終回(2.25)

 快晴の土曜日、瀬女で8時から滑ろうと家を6時半に出る。駐車場にはわずか10台ばかり、ゴンドラが動くまで待つ。気温は-5℃、きれいに圧雪されていて滑りは最高、1時間半ばかりは我が物顔、この日は午後2時半まで、昼の休み以外滑りっぱなし、足に疲れが出てきたのであがった。ビアがことのほかうまい。温泉で疲れをいやす。ログの記録では滑走下降高度は27本・11,560mであった。今冬最大。カミさんは今日は県体で白峰泊まり。飲みで、TV観戦とする。
 時間は22時。NHK総合の土曜ドラマの最終回。最初は期待していたが、小生の性に合わず、2〜4回はつまらんと見なかったが、最後ぐらいと、独りで観る。原作とは感動の度合いが違う。原作の遭難現場は滝谷、問題はナイロンザイル,当時は麻からナイロンへの切り替え時期、すべてに優れていただけにショックな出来事だった。ところでリメイクされたドラマは、舞台はK2、争点はカラビナ。カラビナが問題とは、今は材質もジョイントもずいぶん改良されているのにどうしてと思っていたら、結果はやはり故意だった。山のシーンをもっとと期待していたのに、この日も見慣れたK2の空撮シーンと、北沢の遺体収容場面(1000mもの落下にしては損傷が少なすぎるとの印象)、それに北沢が肌身離さず持っていた八代夫人美那子の写真を懐に、奥寺がK2直下70°もの氷壁をソロでダブルアックスで一歩一歩登っている近撮のラストシーンのみ。でも、アイスバイルを持ちアイゼンを蹴込んでの登りのラストシーンは実に様になっていた。このシーンで思い出したのは早川康浩氏の涸沢岳西尾根1日踏破、登りのナイフエッジと頂近くの氷壁登攀、そして帰途白出沢のダブルアックスでの下り、全く凄いの一言につきる。こんなテクニックも持ち合わせていたのかと脱帽した。小生には氷壁登攀の経験は全くない。
 主人公の奥寺役の玉木宏と北沢役の山本太郎は共に山は全くの素人。ところが、指導・監修のメンバーが凄い。日本ヒマラヤ協会理事の中川 裕氏、天才クライマーの山野井 泰史氏、フランス在住の国際山岳ガイドの篠原達郎氏。NHKならこその豪華メンバーの協力・指導。三ツ峠での特訓は雨でも強行されたとか、雪山シーンはニュージーランドで。クライミングジムでのトレーニングも功を奏したのだろうか。当人達はこれではまってしまい、山から抜けられなくなったとか。さもありなん。
 小生も、あるきっかけから、山にはまってしまったオトコ・オミナを知っている。

「白山の花」(3.1)

 ヒョンなきっかけから、前田さんの好意で、彼が主宰する書店のHPに「白山の花」という花のショットを載せて頂けることになった。何か一言をと所望され、イヤとも言えない弱い立場ともあって、駄考を記してみた。
 表題にある「白山」とのかかわりは、小学生のときに叔父貴の植物調査に同行したのがきっかけの最初で、以来山には特別な親しみを持つようになった。叔父からはいろんなことを教わったが、植物には特に興味を持つようになった。あの頃は夢中で里山からかなりの数の植物を採取し庭や鉢に移植したが、50年を経て元気で残っているのは、ホウチャクソウとウツボグサのみだ。山の方は、大学で山岳部に入り、ガムシャラに歩き回った。積雪期は白山北方稜線を中心に、夏場は北アを中心に主に縦走スタイルで、時に崖登りも。ただペイペイだったせいもあって、カメラなど高嶺の花、行動記録は筆記のみ、感動的な高山植物に出会っても脳裏にとめるしかなかった。少々懐に余裕ができ、一眼レフを手にしてからは一時憑かれたように撮りまくった。自信作を四ツ切に伸ばして、相手の迷惑も顧みずに結構バラまいたものだ。時には2台もブラ下げて、レンズもいろいろ集め、それがつい数年前まで続いた。山でデジカメを持っている人を見ても、全然羨ましくなかった。ところがである。
 ある日、前田さんの肝いりで、パソコン・プリンター・デジカメの3点セットを揃える羽目になってから、状況が一変した。デジカメなんて、初めは銀塩と同じ程度との認識だったが、写っているかいないかは一目瞭然、不要なら消去、撮影記録を一々手帳に記す必要もない、フイルム36枚撮り5本、交換の労もなく同数の200枚位なら安心して撮れる、しかも再生可能、撮影したものはパソコンに放り込んでおけばよい、トリミングや調整もOK、カメラ屋へ足繁く大枚の金を持って通う必要もない、何と便利な、そしてこの上もない代物に完全にハマってしまった。銀塩からデジカメへの世代交代は昨年の探蕎会総会の折、爾来今年の総会までの延べショット数は、4,583、うち花をモチーフにしたのは、1,266、山の累積は数えてないが、多い時には一行で350位になる。今じゃ山行には何を忘れてもなくてはならない必携の品となった。コンパクトなだけに花の撮影には難点はあるが、ここには昨年5月から9月にかけて撮りためた中から、前田さんの勧めもあって、150枚を抜き出し、更に前田さんによって加工され、登場することになった次第。
 内訳は、春の巻の1〜18は5月の大日山、19〜31は6月の白山、夏・秋の巻はすべて白山で、1〜43は7月、44〜78は8月、79〜94は9月に撮影。因みに、白山での高山植物開花の最盛期は7月下旬から8月中旬までの1ヶ月に集中する。供覧ショットの撮影日は述べ10日、供覧したのは116種である。    

「HIROMIのスパイラル」(3.9)

 3月10日号の週刊朝日の巻末グラビアに、「世界一耳の肥えたニューヨーカーを仰天させた上原ひろみのスパイラル」というタイトルが踊っているではないか。その描写:彼女が1月22日にニューヨークの名門ジャズクラブ・ブルーノートでの全米発売記念ショーで、終演後、歓声と拍手がいつまでも収まらず、彼女は汗も拭わず満面の笑みで何度も何度もお辞儀をくりかえしたと。これを読んで、反射的に聴きたいと思った。このニューアルバムは、日本では昨年10月に先行リリースされたという。そんなに人気のディスクはショップにはないのではと思いながら前田さんに電話した。前田さんはこの方面には造詣が深く、自他ともに認められるオーソリティー。忙しいのに申し訳ないと知りつつもお願いしてしまった。初めはレンタルでコピーと思われていたようだが、この新譜は買取とのこと、小生所有を志望した。
 出演は、ピアノが彼女、ほかにベースとドラムス、一応ショップではジャズにカテゴライズされているようだが、聴くと、クラシックとジャズとロックをミックスしたような感じの世界、評ではシンフォニーのような壮大な世界とあるが、むしろクラシックをポップスにアレンジしたような印象を受けた。でも聴いていて全く抵抗感がなく、心に安らぎを覚える、心が癒される感じだった。ボリュームを上げて聴かなかったからか、壮大とか、すごく素晴らしいとか、体にフィーバー感がみなぎったとかの感じはなかった。前田さんの評も、週刊誌にあるような熱狂的なものとは異なって、どちらかといえば小生に近いニュアンスだった。聴く年代によっても感触は違うのかも知れない。評には「友達同士抱き合い泣き崩れる観客が後を絶たなかった」とも。曲はすべて彼女自作の作品、彼女はまだ25歳、まだまだ進化するだろうな。楽しみだ。

「与那国の花酒」(3.13)

 先月のバレンタインデーに、とある妙齢の女性から、旅先で求めたといわれるお酒を頂いた。旅のお酒などと、失礼にも蔵の前に鎮座して貰っていた。今月になり、たまたま頂いたのはバレンタインデーだったかも知れないと思いつつも、やはりお返しはしなければと取りあえず包みを解いた。開けたのが3月9日。出てきたのは「与那国の花酒」だった。
 彼女は遠く日本国最西端之地の与那国島へ旅してきたのか。もっと早くに飲んで御礼を言うべきだったのに、何という不覚。
「ヨナグニノハナサキ」は60度、どんな味がするんだろう。
 まずは、ストレート。ウイスキーのダブルグラスに半分入れ眺める。色は透明、清々しい香り、おもむろに口に含む。口中に花酒が広がる。この度数でピリッとした感じがない。実にまろやか。ウオッカやアブサンのような刺すような感じが全くない。これは実に旨いとしか言いようがない。合いに冷たい水を飲む。水が美味しく甘い。どれ位飲んだのだろうか。心地よい酔いで、今宵はこれまで。明晩用に4倍割を用意する。
 翌晩、水割りを出すと,微かに乳糜している。美女の項のごとし。でも、味は生の方がはるかに優れる。水割りはアッというまに胃に収まってしまった。次はロック。ロックグラスに大きめのカチ割り氷1個を入れ、花酒を注ぐ。すると、微かに徐々に乳美してくるではないか。何という感激。こんな素晴らしい泡盛があったとは。ウマイ、ウマイで、ほとんどなくなってしまった。前田さんに残さなくてはいけなかったのではと反省。11日に完飲。
 「花酒」は、与那国島で米を原料として造った泡盛でも、直火式釜の蒸留の一番最初(はなさき)に流出する部分のみで造る贅沢な酒で、度数は60度、この度数は与那国島のみで製造販売が許可されているという。瓶はびろう樹の葉で包まれたクバ巻きという独特なスタイルをしている。「与那国」は、島に3軒ある蔵元では最も古く、昭和2年の創業。  

「垂直の記憶—山野井泰史の世界」(3.17)

 「山と渓谷」3月号に「山野井泰史の世界」という特集が組まれていた。心が惹きつけられるような感じで一気に読んだ。何か印象を書きつけようと思ったが、この特集は、彼の著書「垂直の記憶ー岩と雪の7章」によっているとも書き付けてあったので、先ずはそれを読んでからにしようと。とにかく、彼は凄い。生まれながらの天才クライマー・登攀者だ。
 中学3年の時に、自己流で登攀していたが、千葉の鋸山で墜落し大ケガをして家に帰ったところ、父親から「クライミングを止めろ」と怒鳴られたのに反抗し、「止めさせるならワシを殺せ」と親と取っ組み合いし、父の肋骨にヒビが入る程の喧嘩をしたという。この一件で、父は良き理解者になってくれ、高校へ入ると、我武者羅な自己流では駄目だと諭し、山岳会へ入って基本から教わることを条件に登ることを了承してくれたと。しかし高校1年生を受け入れてくれる山岳会はなく、少し脈があった日本登攀クラブに、父親は頭を擦りつけ土下座してお願いし、漸く責任者が直々に特別に面倒を見ましょうということで入会が叶ったという。
 彼はメキメキと力をつけ、高校卒業時には、単独でカリフォルニアのヨセミテで、Vクラスをもフリーでクライムするようになる。その後も、北極圏バフィン島トール西壁や南米パタゴニアのフィッツロイのビッグウォールをソロ登攀する。その後はヒマラヤやカラコルムに目を転ずることになる。著書では、初めてのヒマラヤからギャチュン・カン北壁からの奇跡的な生還までの9回の登攀行が記されている。特に第7章の「生還」では、氷壁にはついぞ69年間縁がなかった小生だが、読んでいて、岩壁で立ち往生した時のように、胸が締めつけられるような想いがした。
 彼の登攀行のスタイルは、単独(ソロ)か少人数でのアルパインスタイルである。彼は初めての8000メートル峰だったブロード・ピークでのポーラーシステムでの登行で、時間や物資の無駄さ加減にホトホト嫌気がさし、二度とこのシステムでのノーマルルートでの登頂やピークハントはやっていない。またコマーシャリズムにも縁がない。唯一、マカルー西壁では、本当のアルピニズムの姿を見せたい想いを秘めてテレビ撮影の申し出を受け、カメラを意識して登攀していたが、頭部に落石の直撃を受け、その想いを映像で伝えることはできなかった。彼はソロというスタイルを好む。ソロでは恐怖心が伴うとも。でもその方がより山を直に感じ、より安全で速く登れるルートが見えてくるし、危険も事前に判断できるという。パートナーがいると、ソロの時より恐怖心が薄れ、気が緩み、その上相手にも気をかけねばならず、時には守ってやらねばならないことも生ずる。ソロでは、山への集中力は格段に違うという。でも、「山行前には孤独を求め、山では孤独から逃れようとする」とも言っている。
 彼の唯一のこだわりは、「登ること」。常に自分の限界をみてみたいという欲求、それは肉体、精神両方への挑戦とも受け取れる。この気持ちを持ち合わせてないと、どうも落ち着かないとも。例えそれが「死」に向かっているとしても。極論とは思うが。しかし、山に向かっている時が本当に幸せだと。山との対峙は、自分と自然との調和であり、自分と山との関係の発見であり、従って、一つのラインを登ると、もう少し難しいラインへ挑戦したくなるのは自然の成り行きだとも。ただこれは賞賛されるためではないと。巷には、七大陸の最高峰をいくつ登ったとか、8000メートル峰をいくつ登ったとかを自慢する人もいるが、彼には全く無縁の世界だ。
 彼には「絶望」という語句はないという。確かにギャチュン・カン北壁からの生還は、死力を振り絞っての生きようとする力と沈着さからだったからと思う。でも70度もある氷壁で、何度も雪崩に遭い、装備も一部無くし、凍傷と極度の寒さによる弱視、着た切りでのビバーク、よくぞ彼女共々生還したものだ。その代り、彼は代償として、手指5本と足指5本を凍傷でなくした。彼が唯一死ぬかも知れないと述懐しているのは、その4年前にやはり彼女と共に目指したマナスル北西壁でのことである。動物的な勘で危険を察知していたにも拘わらず、新ルートへの野心が冷静な判断を鈍らせたという。壁に取り付いて4時間、危険を感じアンザイレンしたのが彼を死から守った。午前1時、標高6100メートルを登高中、上部でセラックが崩壊し、抗する術もなく空中を飛び、激流に揉まれ、体が止まった時はコンクリートに固められたように全く体を動かせなかったと。雪に埋もれ、だんだん酸欠状態になり、意識が薄れていく中で、「死」とはこんなことかと、あと数分もすれば死がくることは理解できたと。「助けてくれ」と声にならない声。しかし神仏は彼を見放さなかった。彼女は幸い雪に埋もれず、装備も失っておらず、しかも五体満足な状態。彼の名を呼んだが勿論応えはない。とっさにアンザイレンしてたことを思い出し、暗闇の中でザイルを手繰り、雪に埋まっている彼を見つけた。彼は雪下30センチに頭を上にして埋もれていた。5分かけて顔を掘り出し、彼は九死に一生を得た。雪からの脱出にどれくらいの時間が経過したか記載はないが、また雪崩がきたら本当にお陀仏だと、足を引きずり、闇の中を必死に下り続けたと。 
 彼は前々から最も天国に近い危険な男との異名をもらっていたが、そんな風に言った優秀なクライマー達が先に他界していると。指を10本も切断して一時「断念」をも覚悟した彼だが、不死鳥の如く蘇えった。彼の無酸素でシンプルなアルパインスタイルのクライムは、これからもより難度の高い壁を目指し、より厳しい環境を求めて登攀するであろう。

「聖山・梅里雪山(メイリーシュエシャン)」(3.23)

 聖なる山としては、カイラス山(カン・リンポチェ)はつとに有名で、この山を巡る巡礼路は信仰するチベットの人達で賑わう。過去にこの山へ初登頂を企てた人がいたかもしれないが、今はそんな不遜な人はいない。梅里雪山もチベットの人達、とりわけ地元の人々からは聖山として崇められていて、一回りを2週間前後かけて巡礼する。シャボテンが繁る灼熱の谷から、3つの4千米を超す氷雪の峠越えまで、その信仰には私達の想像を絶するものがある。この聖なる山に、日本と中国の合同チームが初登頂をも視野に入れた学術登山隊を派遣することになった。1988年のことである。梅里雪山は南北40キロにわたって連なる山並で、盟主は最高位の守護神のカワカブで標高は6740米、南にはカワカブの后のメツモ(6054)、北にはカワカブの伯父にあたるチョタマ(6509)、その間には10以上の神山が連なる。そしてこれらの山々をグルッと一周する全長300キロの巡礼路がある。位置は長江上流の金沙江とメコン川上流の蘭倉江、サルウィン川上流の怒江の三江が南北に併行して流れる地域にあり、近年この地域は世界遺産に登録されている。
 カワカブは東・北西・南面とも急峻で、合同登山隊が目指した東面は、正面の明永村へ大雪原から急な氷河、そしてアイスフォールとなって落ちている。1989年秋の第1次隊はこの明永谷の北側の谷から、1990年秋の第2次隊は南側の雨崩村の谷からルートを取っている。それぞれの到達高度は、5400米と6470米であった。事故が起きたのは第2次隊で、1991年1月3日に起きた。第1次隊に入山拒否はなかったが、第2次隊は明永村と雨崩村の村民から頑強な抵抗を受けた。「山へ入った者は生きて帰れない」とまで言われたという。このような抵抗を圧して入山したから起きたというのは非科学的であるが、未曾有の想像を絶する降雪で、雪原では最も安全な端の方にC3が設営されたのにもかかわらず、大雪崩で一瞬の内に埋没、17名全員が遭難死してしまった。その後1996年に第3次隊が結成され、第2次隊と同じルートで登頂が企てられたが、好天続きでのルートの危険性の増加と発達したサイクロンの接近で、前回遭難の轍を踏まないため、撤退することになった。この隊には、「梅里雪山ー十七人の友を探して」の著者、小林尚礼もいて、彼はルート工作の精鋭として、最後まで登頂を主張した。しかし、撤収直後、樹齢百年を超える木々が繁る、ということはここ百年雪崩とは全く縁がなかった広い緑の放牧地の直中の、第2次隊も使用したBCの小屋が、大雪崩で吹き飛ばされてしまった。もし強行していたとしたら、この百年に一度の大雪崩に遭遇して、全滅してたかも知れない。正に九死に一生を得た。彼は、この時こそ、自然の「見えない力」の存在を考えずにはいられなかったという。
 この辺りの森林限界は4千米以上だが、氷河の末端は森林限界より低い標高2千米の森の中に達している。ここでは、森の隣に氷河が流れているという世界でも珍しい見事な景観が見られる。明永村の人々は、このように氷河を見下ろす放牧地や氷河で牛を放牧しているが、そのときに氷上に横たわる遺体を発見したという。通常のヒマラヤの氷河は、年に数十米しか動かないのに、7年しか過ぎていないのに遺体が出たということは、この明永氷河の流速は1年に200〜500米に達していると予想された。これは降る雪の量が非常に多いことと地形が非常に急峻であることによっていよう。遺体の収容はおそらく50〜100年後にと予想されていたのにである。明永村民の協力で、1998年には5人、翌1999年には7人、2000年には2人、2002年と2003年に1人ずつ、2006年現在での未確認者は1人のみである。この間、小林さんは職を辞して、主に明永村に滞在し、村民と交流し溶け込むことによって、村民がカワカブに対する想いは「親」のようだと知る。3回ものカワカブ巡礼を終える頃には、彼の山への見方はすっかり変わってしまった。カワカブは、「登山対象の山」から「聖山」へと、そして、カワカブへの想いは、「登ろうと思わなくなった」を通り越して「登ってはいけない」と確信するに至ったと述懐する。カワカブに登ることは、親の頭を踏みにじることと同じだと村民は言う。「親」とは、人間を誕生させ、育み、再びそこへ還元させる命の源のような存在だとも。外から来る人間が、登山のために、自らの存在を賭けて信じているものを踏みにじること、それは決して許されるべきことではないと。
 聖山へ登っていけないとすれば、頂上の手前で引き返せばよいという都合のいい屁理屈で初登頂されたことがある。聖山と崇める村民にとっては、引き返しても登ったことに変わりはないと。当然なことである。聖山としてのカンチェンジュンガやマチャプチェレがそうであった。ただ、彼らは聖山でない高山への登頂には何のイチャモンも付けていない。聖なる山は、人里から見える美しい山とか珍しい形の山でなければならない。ということは、例え美しくても人里から見えなければ聖山とはならない。日本では、霊山には神佛が宿ると信じ、崇めると同時に修験の場となり、六根清浄の講の場となった。女人結界はあっても、信仰で登れない山はない。このような「結界」という概念がない民族には、理解できないことだったのだろうか。ここまで来ると、聖山「梅里雪山」へどうしても登らねばならない理由が何処にあるのかを、深く掘り下げてみなくてはならないだろう。
 17人を呑み込んだカワカブは、生命を殺戮した「魔の山」である。しかし、村民にとっては神が宿る「神聖な山」であり、心のより所となる生命を育む「豊穣の山」でもある。余人が魔の山というのは、結界を破った当然の帰結としての見せしめともとれる。
 村の朝は、梅里雪山への祈りから始まるという。家の長は、聖山の見える家の屋に上がって、「アッラソロー!」と祈りの言葉を発する。続けて、10以上ある神山の名を呼び、世界の平和と長寿を願うという。
 願わくば、冒した罪が恕され、最後の一人が解放されんことを。 

「停止した高速リフトからの救出劇」(3.27)

 石川県でこのシーズンのスキー場は3月26日が最終日、大方のスキー場が既に閉鎖している中にあって、北面の一里野とセイモアが雪も豊富で、毎年一番遅くまでスキーを楽しめる。ラス前の25日は快晴の土曜日、金沢セイモアスキー場へ出かける。営業開始8時からお昼まで滑ろうと、最後で混むのではと早めの出立。駐車場には次々と車。しかし、かなりの数は川釣り、岩魚だろうか。季節の移ろいを肌で感ずる。放射冷却で気温は-5℃、雪面はガリガリだろう。最後の2日とあって、地元最後のスキー選手権大会もある。いつも楽しめるコースも大会で閉鎖、止むを得まい。ただ20分前にリフトを動かしてくれたのは有難かった。アナウンスでは「アイスバーンなので滑走には充分ご注意を、怪我のないよう楽しんで下さい」を繰り返す。アイスバーンでなく、クラストしたと言うのが正解なのに。アイスバーンだったら、小生のスキーでは全く制御出来ないはずだが、思ったほどの混みもなく、11時まで存分に楽しんだ。そろそろ下の方ではザクザクになり始めてきたので、最後の一滑りをと一番下まで下り、高速トリプルリフトに乗った。このステーションには、夏は白山南竜山荘に常駐する白峰村のおニイさんが、白山市に合併されて転勤となり、冬はこのスキー場に勤務になったとか、顔なじみである。
 リフトに乗って間もなく、1分も経たないうちに、突然リフトが止まった。「安全装置が作動したため停止しました。点検中ですので暫くお待ち下さい」とのアナウンス。リフトに乗っていて、時々こんなことはある。通常は数分で回復するものだが、安全装置作動となると少々時間はかかるかも知れないが、30分は我慢しようと覚悟する。この間5分おきに「いま暫くお待ち下さい」の連呼。数回の連呼の後、「お待ち下さい」に「危険ですから絶対に飛び降りないで下さい」が加わった。気が短い人がいてはとの配慮だろうか。小生も重いスキー靴と板を履いているので、大腿部がしびれてくる。3人掛けだが、この時は小生1人、30分以上も掛けていて、そろそろ何とかしてくれと言いたくなるが、どうしようもない。何か手動で少しずつ動かせないのか。高さは私の位置で8米ばかり、イザとなってはブラ下がって飛び降りることは出来そうだが、下の斜面は急なので、ウマくゆくかどうかは分からない。スキージャンプの心得が必要な場面だ。
 かれこれ40分も経過したろうか、アナウンスは「只今から救援に向かいますから、いま暫くお待ちください」に変わった。このリフトの正確な高度差や運行距離は知らないが、高度差400米、距離2キロ位あるのではなかろうか。下のステーションに詰めている人は4〜5人、私がステーションに最も近かったので、先ず私が救出されることになった。男3人女1人のチームが馳せ参ずるのが見える。顔なじみの彼もいる。ステンの太いパイプを持ってきて、釣り竿よろしく順繰りに伸ばして、6米位のフックのついた棒が出来上がった。聞けば、フックをリフトの太いワイヤに引っ掛けるのだという。1人で持ち上げられるような代物ではない。先ず立てるのに苦労している。元を雪に固定して持ち上げればと助言するが、聞かずに崖を攀じ登って上から掛けようとするが、木の枝が邪魔をしたりして俄かに思うようにならない。掛かって操作しようとしたら、今度はロープが絡んで、またやり直し。高見の見物だったが、何とも平生の訓練がなっていない。道具はあっても、その取扱いに馴れていなければ、無用の長物ともなりかねない。
 やっと小生の所に、幅広の帯の輪が届いた。脇の下に通してとの指示、お安い御用だ。最も安直な救出具。尻をずらし、空中の人となる。ロープをずらし、急な斜面に着地、ストックは先に下へ投げたので、安定性はなかったが、どうやら無事救出された。私の先のシートにはペアが乗っているが、かれこれ20米以上も上、下は雪の付いていない崖、どうして救出するのだろう。またこのリフトは途中に30米もの所もある。上の一番近いリフト乗り場までは、足が速い人でも40分はかかると仰る。セイモアスキー場は、この一番下のリフトが動かないとスキー場としてはほとんど機能しない。中にはスキーを担いで歩いて登る人もいる。また中には諦めて帰る人も。とんだハプニングだったが、貴重な体験でもあった。大会に出る人はスノーモービルで上がって行った。このリフトは滑走禁止の急斜面の上を通っている個所もある。初心者だったらつぼ足で降りるのだろうか。新聞で話題になることもあるが、万一に備えて、何処でも救出できるような態勢を取っておいて頂きたいものだ。この夏には、彼氏にその辺りのことをジックリ聞きたい。

常愛飲酒「三楽」(3.31)

 「三楽」というお酒をご存知だろうか。恐らくご存知あるまい。よしんばご存知とすれば、その情報源は小生ではないかと訝るのである。それほど市中には出回っていない酒なのである。三楽の謂われを聞いたことはないが、何となく中国の古典から引用したような節がないでもない。何処のお酒ですかと問われても、灘や伏見という銘醸地の産でもなく、かといって地酒というわけでもなく、まことにもって出所不明の酒である。でも何処かで作られていることは確かで、現に私の手元には近所の酒屋から月々届くのである。
 実はこの酒、「合成酒」なのである。この名称は、その後「新清酒」となり、今はラベルには「合成清酒」となっている。終戦後、石川県でも珠洲の地で「藤娘」なる合成酒があったが、今はないのではないか。その頃合成酒というと安酒の代名詞のようなもので、恐らくうまいと言える代物ではなく、所謂「酒」や焼酎よりも安直に酔えるという程度のものだったにではないかと思う。でなければ消滅はしなかったろうと思う。我々が学生の頃に、試薬アルコールを活性炭で濾過して、これに琥珀酸や林檎酸、それに葡萄糖を加えて作った類のサケと大差なかったのではないかと思う。
 ところで、「三楽」の製造が何処でされているのかは、詮索したこともない。ずっと昔に、まだ飲み始めた頃、北海道と東京でと聞いたことがある。とにかく、この得体の知れない酒を、月に二十日以上、キチッと四合、これで四十五年間飲んできた。残りの十日は他酒で、ワインであったり、吟醸酒だあったり、焼酎であったり、ウィスキー・ブランデーであったり、中国酒であったりする。ビールは水代わりで、喉が渇いた時に飲するに止まる。余程体調がよくなくて酒が欲しくない時は休酒日となる。
 私と「三楽」との付合いは、もう四十五年前にもさかのぼる。大学四年の時、母方の伯父の老練な内科医を札幌に訪ねたことがある。その頃はまだ盛んだった炭鉱の病院の勤務医だったが、訪ねた頃は年金生活をしていて、悠悠自適だった。歌人でもあったその伯父が愛飲していたのが「三楽」で、北海道の何処かで作られていると聞いたような記憶がある。三楽酒造というのがあったのだろうか。石川でもあったくらいだから、その頃は方々にあったのかも知れない。とにかく医者の伯父が言うには、清酒なら二合位にしておけ、でも「三楽」なら四合でもよいぞとの御託宣。ならば、体によい「三楽」をと、以来この有難い申し渡しを頑なに守っているわけである。今でも、何となくエキス分の多い清酒、なかんずく純米酒や吟醸・大吟醸酒を、毎晩毎晩二合も飲むのは体に悪いような気がしてならない。でも「三楽」ならば赦せると思う。
 この「三楽」、以前は旧二級酒よりはるかに安かったが、今は肩を並べているのではないだろうか。はっきりしない。でも小生の感覚では、今もって最も安い酒という印象が強い。求めると時は、六本ラックを二ラック。一本の容量は一升、アルコール度数は十五度以上十六度未満、ラベルには合成清酒とある。うたい文句は芳醇無比、この一文を認めるに当たって、初めてラベルを凝視した。曰く、原材料名は、醸造アルコール、米、米麹、糖類、調味料(アミノ酸等)、酸味料とある。現在の販売元はメルシャン株式会社、以前は三楽オーシャン株式会社だった。オーシャンはウィスキーの銘柄だったが、今はないのではないか。ほかには一切の記事は書いてない。
 さてこの「三楽」、うまくはないし、うまいと言える代物でもない。特に燗をすると燗下がりして、飲むに耐えなくなる。常温でも感心しない。と言うことは、冷えた状態で飲むに限るということになる。こちらでは出回っていないと思うが、以前東京で飲んだランクが一つ上の上等三楽は、燗をしても燗に耐えたようだったが、それだけに値段も張った。何か仕掛けがしてあったに違いない。
 今、私がしている飲み方は、二合は優に入る厚手のグラスに、レモン汁を酸味が過剰にならない程度に入れ、氷のブロックを数個放り込み、そこに「三楽」を二合見当注ぎ、マドラーで混ぜて出来上がりである。そしてこの酒の摘みは、清酒に準じたものでよい。摘みのことを言えば、焼酎の方が遥かに幅があるような気がする。ならば焼酎の方がよいようだが、一時焼酎を晩酌にしたものの、どうも酒量が多くなる傾向があり、しかも量が一定しないのが不安で止めてしまった。
毎晩酒を飲む時は、当晩の献立に応じて酒を選ぶことにしているが、その点家内は心得たもので、大概は「三楽」に向くような品々を用意してくれる。有り難い。感謝感謝。 

玄奘三蔵訳の「般若心経」は今風に言えば盗作だ(4.6)

 三蔵法師というのは、経律論三蔵に精通した高僧に与えられる敬称であるが、世間一般には「西遊記」に出てくる主人公の玄奘三蔵とイコールな印象が強い。広辞苑にも、称号のほかに玄奘三蔵の俗称とチャンと書いてある。それほどに印象が強いということだ。
 玄奘(600-664)は唐の僧で、629年に都長安を出立、天山南路を経て天竺(インド)に赴き、彼の地で仏教の原典について学び、645年に帰国している。帰国後は勅命によって多くの仏典を当時の中国語に翻訳している。特に多くの旧訳経典を翻訳し直し、新訳と称した。日本からの遣唐使の中には玄奘の教えを直に受けた人もいるという。ともかく、今日日本で重用されている「大般若経」やここで話題にする「般若心経」は玄奘の訳である。そして般若心経は遣唐使の僧空海(弘法大師)によって唐から日本にもたらされた。
 私の家の宗教は浄土宗で、開祖は法然上人、総本山は知恩院、経典は浄土三部経といわれる「無量寿経」、「観無量寿経」と「阿弥陀経」である。浄土真宗のよりどころも同じである。このうち小経の阿弥陀経はそんなに長くはないこともあって、真宗の葬儀では必ず読経されるので、内容はともかく、聴かれたことは必ずあるはずである。我が家では、先祖の命日の日には浄土三部経を読経するが、全部をまともに読むと3時間はかかるので、大経といわれる無量寿経は四誓げを、観経といわれる観無量寿経は第九真身観文を、小経は全文を読むことにしている。このように阿弥陀経は浄土教系の宗派では、読み方に若干の差こそあれ、実に身近なお経なのである。このお経の訳者は鳩摩羅什という人である。
 鳩摩羅什(344〜413)はインド出身の父と亀慈国王の妹を母として亀慈国に生まれ、7歳で出家、天才の誉れ高く、母と共に天竺に留学し、亀慈に帰国後は大乗の学者としての名声高く、五胡十六国の前秦、次いで後涼、最後は後秦に国師として招かれ(体裁のよい拉致)、よう興王の庇護の下でインドの仏典の中国語訳に務めたという。その分量は35部297巻にも及び、現在も日本での仏教の各宗派の拠り所の基として重用されている「妙法蓮華経(法華経)」、「阿弥陀経」、「維摩経」、「金剛経」は鳩摩羅什の訳である。
 ところで、母は仏壇に向かっては般若心経をあげていた。実家が禅宗だったからかも知れない。もっとも浄土宗でも般若心経を読経する。ただ浄土真宗では用いない。私はある時岩波文庫の般若心経の注釈を見ていて、鳩摩羅什の訳もあることを知った。どうにかして手に入れたいと思ったが、今日本で流布しているのは玄奘の訳であって、鳩摩羅什訳の経など全くといってよい程見つからない。当然だが。でもとうとう神田の古本屋で訳本を見つけた。その名を摩可般若波羅密大明呪経という。403年の訳である。因みに般若心経の正式な経名は摩可般若波羅密多心経で、649年の訳である。鳩摩羅什の訳を旧訳とすれば、246年後に玄奘によって訳された経は新訳ということになる。しかし両者を比較すると、あまりにも似ていて、新訳が本当に新たに翻訳されたのではなく、模倣ではないかと思えてならない。それほど似かよっているのである。母の死後、私は般若心経は止めにして、普通の日のお勤めには、よう秦天竺三蔵法師鳩摩羅什奉詔訳の摩可般若波羅密大明呪経を読経することにした。
 唐三蔵法師玄奘訳の摩可般若波羅密多心経も鳩摩羅什訳の経も、前後の経題と五部からなる本文からなる。前者の本文は262字、経題を入れると276字、一方後者は本文300字、経題を入れて322字、心経が本文で38字、全体で36字少ない。次いで本文を比較する。一部は総論で心経25字、大明呪経23字で、後者から3字削除し5字追加。二部は各論で心経109字、大明呪経158字、後者から2文55字削除6字追加。三部は修証で心経63字、大明呪経60字、後者から2字削除5字追加。四部は結論で心経35字、大明呪経30字、後者韓2字削除7字追加。五部は真言で心経30字、大明呪経29字で、後者に1字追加。経題は前後合わせて心経14字、大明呪経22字で、後者から11字削除3字追加となっている。
 以上から心経各部における語のうち、大明呪経にある共通語数がどれだけあるかを調べてみたところ、前の経題では10字中8字(80.0%)、一部総論では25字中20字(80.0%)、二部各論では109字中103字(94.5%)、三部修証では63字中68字(92.1%)、四部結論では35字中27字(77.1%)、五部真言では30字中29字(96.7%)後の経題では4字中3字(75.0%)となり、 本文では262字中237字で90.5%、全体では276字中248字で89.9%となった。このように般若心経は新訳と言われながら、旧訳とは9割も共通していて、極めて相同性が高い。新たに訳したにしてはあまりにも類似し過ぎるきらいがある。敢えて「盗用」とした所以である。
 [ピッタリノ漢字ガナク、何箇所カハ当て字ヤひらがなヲ用イタ] 

「ガスの八方尾根で上村愛子と会う」(4.10)

 このところ週末は天気がよい。結構なことだが、それが2日と持たない。それほど高気圧や低気圧の動きが激しい。寒気も入ってくる。桜の季節に花冷えというのがあるが、丁度季節の変わり目なのだろう。今年は雪が沢山降った。お陰で、降雪多量で、リフトの運行が出来ず、閉鎖せざるを得なかったり、全層雪崩が起きてコースが一部閉鎖になったり、スキー場開設以来の珍事が続出した。石川県でも毎年師走半ばにスキー場開きをするが、大概は雪が少なく、雪乞いを兼ねての神事となるが、このシーズンに限っては、雪を降らせるのも程々にとお願いしたいのが本音ではなかったろうか。しかし、いつもなら開店休業が当たり前の七尾市のコロサスキー場が75日間も営業できたと新聞に書かれていたが、これは正しく大雪の恵みというべきだろう。
 雪のお陰で、石川県内のスキー場は、一里野が4月2日、セイモアが3月26日、他のスキー場も3月半ばまで営業できた。しかし訪れる人は往年に比べれば随分と少なく、駐車場の車の台数を見ても、リフト待ちの時間を比べても、4割は減っていよう。こんな現象は、まだスキーをしている私にとっては願ってもないことだが、財政的な収支を考えるとどうなのかなと心配になる。特に白山麓は、旧1村に1つあった村営のスキー場の来年以降の存続が心配だ。私が県内でこんなに多く滑ったことは以前になく、その点充実した年だった。
 前置きが長くなった。ということで、4月に入ってからは県外に出掛けることになる。手始めは4月1日土曜の八方尾根、天気予報は快晴、家を5時に出て、ゴンドラに乗ったのが8時半、街道からは白く輝く五竜岳から白馬三山までが見え、正にスキー日和。心が躍る。ゴンドラと高速リフトを乗り継いで1865米のスキー場最上部に至る。少々クラストしているが圧雪されていて、実に快適。少し黄砂のせいか靄っているものの、申し分ない。デジカメで五竜岳、白馬三山、乗鞍を写し収める。鹿島槍は霞んでいた。最上部から滑りだす。何度も滑ったお馴染みのコース、黒菱から兎平、リーゼントコースからゴンドラ乗り場まで、ノンストップで10分ばかりか。高度差は1千米、実に快適。2本こなす。10時を過ぎると気温の上昇と沢山の人が滑ることもあって、1500米より下は雪面はザクザクになりだす。別のコースで堪能する。この日は夕方に行事があり、午後1時に切り上げた。充実した5時間。
 次の週は4月9日の日曜、8時にゴンドラに乗ろうと家を4時半に出た。出る時少雨。天気予報は全国的に移動性高気圧に覆われ、晴れの行楽日和とか。インターネットでも、八方尾根は晴れとのこと。雨雲の動きも最後尾が石川辺り、スキー場に着く頃には晴れるだろう。しかし、富山へ入るとドシャ降り。いつか黒部辺りから引っ返したこともあったことを思い出す。新潟に入っても雨足は弱くならない。山越えして長野に入ると、雨こそ降ってないが、生憎の曇り空。1000米位まで雲が垂れている。駐車場は先週より混んでいる。ゴンドラには予定通り8時に乗車。何故か乗り場でJAL の抽選券、係員は今日は日差しが強くなりますよと、そうなることを願う。ゴンドラは間もなくガスの中、視界は20〜50米、上に上がるにつれ濃くなり、終点の兎平では風も強い。湿った新雪も5センチばかり、JAL のゼッケンを付けた人が沢山いる。何か選手権大会があるのだろうか。
 滑ろうと取りあえずリーゼントコースへ向かう。濃いガスと圧雪されていない湿った新雪とあってビビる。小回りで降りるが、気を遣うこと夥しい。しかしこんな状態の中、かなりのスピードでダウンして行く精鋭がいるのには驚いた。コースを熟知してるから出来るというものではない。私にゃ見えないが彼らは見えるのだろうか。いつか上手い人は足の裏で雪面を捉えると聞いたことがある。私も天気が良くて圧雪されていれば優に出せるスピードをこのガスの中で出せるということはどういう勘と技術なのだろうか。どうにか6本滑ったが疲れた。昼近く、ゲレンデでJAL の抽選会が始まった。白馬村出身の上村愛子さんもいる。小柄で可愛い。間近で見たのは始めて、清々しい。彼女サインのT シャツが20枚、隣の小父さんはゲット。この後、黒菱に設えられたモーグルコースで彼女が滑るとか、移動する。あのガスの中、大半の人はエアでの着地に失敗するが、彼女は蝶のように軽やかに、舞うようにこなした。大したものだ。この後サービスにジャンケンゲームをするとか、でもして貰える保証もなく、ガスの八方を後にした。帰路、白馬の頂上が見えた。

新型鳥インフルエンザは本当に大流行を起こすのだろうか?(4.17)
 このシーズンのインフルエンザの流行は、桜満開のこの季節にはもうない。しかし毎年流行するので、一度ならず罹っていようし、予防のためにワクチンを打っている人も多いだろう。お馴染みのインフルエンザといっても、高齢者や基礎疾患のある人にとっては大敵で、統計を取ると必ずこの時期に超過死亡がみられる。でも、リスクのない人ならば、ワクチンをしなくとも、特効薬がなくても、感染後には獲得免疫ができるので、1〜2週間後には自然治癒してしまう。
 ところで、このシーズンほど鳥インフルエンザのことが新聞やテレビ・ラジオで騒がれたことはない。これまでも鶏が罹患して何万羽も処理されたと報道されたが、鳥由来のインフルエンザウイルスは人には感染しないとのことで、そんなに深刻ではなかった。ところが、鳥だけでなく、人から人への感染は確認されてはいないものの、鳥から人への感染が確認されたことで、事態は急変した。しかもこれまでは中国南部と東南アジアに限定されていた発生が、この一角以外の国でも発生をみたこと、アジア以外、とりわけヨーロッパで野鳥や家禽に発生をみたこと、加えて世界保健機関(WHO)の李事務局長が「ヒトの間で新型インフルエンザが大流行する」と発言したことから、話が大きくなってしまった。この感染症の日本での正式な名称を「高病原性鳥インフルエンザ」という。
 インフルエンザウイルスには、A、B、Cの3型があり、世界的な大流行を惹き起こすのはA 型である。第一次大戦の終結は当時世界で猛威を振るっていたスペインかぜによったと言われていて,1918〜1919年の大流行で亡くなった人は2〜4千万人以上とも、日本でも例外ではなかった。その後もアジアかぜ(1957)、香港かぜ(1968)、ソ連かぜ(1977)と大流行したが、これらもすべてA型である。このA型ウイルスの表面には、H(ヘマグルチニン)といって感染の役割を担う突起と、N(ノイラミニダーゼ)といって細胞内で成熟後子ウイルスが飛び出るのを促す役割を担う突起とが出ている。今、日本というか世界で流行しているのは、Hが1型でNが1型のH1N1型と、Hが3型でNが2型のH3N2型で、前者はソ連かぜの流れ、後者は香港かぜの流れで、アジアかぜ由来のH2N2型は検出されていない。
 今流行しているインフルエンザウイルスのA1、A3、Bに対してはワクチンが製造され、供用されている。ところがこれまでもそうだったが、新しいH型が出現した時には、変わらなかった時に比べて数倍多い患者が発生する。それは未知の型であり、免疫応答の経験がないからである。今騒がれている鳥インフルエンザウイルスの型はHが5でNが1のH5N1型である。そしてこれまでは鳥から人への感染はあったものの、人から人への感染はなかったが、このように世界中に広がると、いつかどこかで人ー人感染をする変身ウイルスが出来上がる可能性があり、そうすると大流行するのは火を見るより明らかである。この変身ウイルスに対抗するには、ワクチンによる予防と薬による治療がある。ワクチンは人由来のウイルスでないと効果がないので、第二波以降の対応となる。治療薬については、2001年にNの阻害薬のオセルタミビル(商品名タミフル)が日本でも処方できるようになり、インフルエンザの特効薬として重用されている。WHOでは各国にタミフルを備蓄することを勧めているが、現在はロシュ社が八角というトウシキミの実から抽出した成分から合成しているので量産が難しいという隘路がある。ところで新聞に、東大グループが石油から生成する化学物質から合成することに成功したと報じていた。
 さて、人型と鳥型とでは感染の仕方が違うという。人型のA1〜3型は呼吸器上皮細胞と親和性が高く、そこで増殖してインフルエンザを起こす。一方鳥型のA5型ウイルスの感染様式をみると、濃厚感染した形跡が多い。このウイルスは人の呼吸器上皮細胞には親和性がなく、むしろ肺細胞と親和性が高いため、ウイルスが肺にまで到達して初めて発症することになる。肺に至るまでに気管の繊毛上皮細胞に捕獲され排除されたりするので、肺に到達するにはかなり多くのウイルス量を吸入する必要がある。しかし、肺に到達すれば、親和性のある細胞で増殖でき、その結果重篤な症状を呈することとなり、死亡率も高くなる。平均した死亡率は50%と、人型では高々2%であるのと比べると、非常に高い。今のところ人ー人感染は起きていないが、WHOはそれも時間の問題と脅し、日本政府は応じてH5N1型インフルエンザを指定伝染病にした。流行れば数千万人が死亡すると追い打ちをかけている。過去にはサーズ(SARS)の例がある。変身しないことを祈るばかりだ。  

瓢箪から駒 ー福井の田舎そば屋「一の谷」で出た「竹田の厚揚げ」が逸品ー(4.22)
 いつもお世話になる丸岡蕎麦愛好会で丸岡町議の小見山さんが、合併なった新坂井市の市議選に立候補されることになり、その選挙事務所開きが4月15日にあるという。その必勝祈願に探蕎会会長と事務局長が駆けつける予定の処、それに二長老と小生が加わった。天気が良ければ呼ばないとの局長言だったが、何となく天候に不安があったのと、先週の疲れが残っていたこともあって、こちらから参加を申し出た。
 局長運転の車で金沢を10時に発つ。昼は当初尾口の「山猫」でと聞いていたが、車に乗り込んだ時点で、恐らく会長の意向だろう朝倉の「利休庵」にしたとか。車は加賀産業道路を経て国道8号を丸岡に向けて走っている。もう11時近い。事務所開きは午後1時。この時点で朝倉への往復は困難と悟り、8号沿線で済ますことになった。さて、何処にするかと言っても、車は既に旧金津町に入っている。とするとあそこしかないか。頭には最悪のパターンが去来する。あの店でなければと祈るような気持ちになる。その店は8号線沿いにあり、福井へ行く時は必ず左手に目につく。だが一度として入りたいと思ったことが無い。ことほど左様に、外見からするとオンボロ様の感じ。その上隣にある赤錆の出たトタン葺きの傾きかけたバラックがそれを助長している。環境が良くないこと夥しい。
 竹田川を渡って程なく、その店に着く。「そば」と青地に白抜きにした旗竿が濡れて立っている。覚悟を決め、小雨の中「一の谷」へ入る。しかし、入って、中が思ってたよりスッキリしてたのには驚いた。外見や周りの環境に左右される先入予見は禁物だとフッと思った。濁水の◎◎とまではゆかなくても、それに近い類か。入口に近く4人掛けの机が1脚、左手通路を挟んで左右の小上がりに4人掛け座机が4卓。右手の小上がりに上がる。
 品書きはと見ると、冷は、おろし、とろろ、とろろおろし、ざる、山菜、温は、鴨鍋、かけ、牛すじ、とろろ、山菜。会長はとろろおろし、他の4人はおろしを頼む。待つこと暫し、先ず、おろしと出汁が一緒に入った大きな鉢が届く。程なくそば。そばは二八、幾分細め。越前そばというと、ごつごつした田舎そばを思い浮かべるが、それとは異なる印象だ。おろしの入った出汁をかけ、あっという間に胃の腑に納まる。まずまずの食感。少々不足か。時間はというと、まだ1時間半もある。少しアルコールを入れたらとの局長の言に甘え、富久駒1合と肴に「竹田の厚揚げ」を所望する。一時は福井の人だった会長も、蕎麦はともかく、この厚揚げ、話には聞き幟旗もご覧だが、食したことはないとのこと。どんな代物か。程なく,球形の透明ガラスの銚子に入った酒とグラス、清々しい感じ。厚揚げはというと、厚さは1寸近く、身は詰まってなくパンのような風情、出会ったことがない代物。それに葱とおろしと専用の醤油だれ。旨そうだ。厚揚げに程よく味が浸み、御満悦だ。でもアブテキ向きではない。会長も局長も満更でもない様子。二長老も所望されたが、これは掘り出し物だ。これでは酒がすすむこと必定。こうなると、他の肴も美味しそうに見えてくる。曰く、鴨塩焼き、牛すじ、山菜、だし巻玉子、冷や奴。この厚揚げは何処で買えるかと問うと、スーパーで買えますと。ややあって、親切にも、20分程待って頂ければ取り寄せますとも。でも20分は待てないのでとお断りする。会長はこの「竹田の厚揚げ」の幟を竹田の村で見たと仰る。時間が許せば、是非寄りたいものだ。
 丸岡の町はこの日から3日間、桜まつり。小見山さんの選挙事務所は何と真宗のお寺さんの本堂、驚いた。選挙は市長選が事実上2人の一騎打ち、市議選は42人から30人。当の小見山さんも中々厳しい選挙だと仰る。そして市長候補の林田さんも見えた。林田さんは会長とは昵懇で、丸岡を蕎麦生産福井一にした人だ。祈必勝の激が処狭しと並ぶ。御両名が挨拶。心から必勝あらんことを祈念して辞す。帰りに林田さんの事務所にも寄った。
 局長は用事があるとかで、帰沢は高速でとのことだったが、時間に余裕があり竹田・大内経由となる。昔の大内峠越えは九十九折りの難路だったが、今は新道になって、山中温泉と永平寺が直結の感じとなった。隧道を2つ抜けると程なく竹田。渓谷もあり、清冽という印象が強い。会長のいう幟が見えた。名物の油揚げを求めて、ここ谷口屋に来たのだろうか、とにかく駐車場はほぼ満車の状態。早速店に入る。内もほぼ満席。一画に陣取り、湯豆腐ほかを頼む。中々の出来。土産に「竹田のあげ」2枚と「竹田のとうふ」2丁を求める。見ると「あげ」には北陸の名物と銘打ってある。水は白山禅定の清水を使用,且つ昔乍らの製法に拘ったとも。皆さん待望の駒をゲットして快哉の面持ち。この肴に酒は必需。

私の今スキーシーズンはみどりの日で終了とする(5.4)

 白馬八方尾根スキー場や豪雪の誉れ高いARAI スキー場などは5月14日の日曜日まで営業を続けるとか。東北や北海道ならばもっと先までだろうし、また、月山などではこれからがシーズンである。私の最終スキー行となったARAI には4月29日に出かけた。ARAI は今シーズン初である。自宅からARAI の駐車場までは2時間半ばかり、気温は20度を超えることが予想されるので、朝一番に滑ろうと5時半少し前に自宅を出た。いつもは信越道の中郷IC で下りて国道18号をずっと北上してARAI に向かうのだが、今回はナビの助けを借り最短で着くことが出来た。既に200台を超す車が来ており、更に次々と来る。
 ゴンドラ乗り場も沢山の人、もう近辺の大部分のスキー場はクローズドのため、ここに集まるのだろう。駐車場で標高400M 位だが、積雪は1M 弱ある。リフト終点は標高1300M ばかりで、積雪は4M 、5月の連休でも十分スキーは可能だ。ゴンドラ降り場に立つと、辺りは雪一色、圧雪車が入っていて、快適な滑りが楽しめそうだ。リフトに乗り継ぎスタート地点に立つ。最大斜度30度のメインステージを滑る。快適そのもの。ただ雪質はザラメ状で、ターンすると10cm近い溝ができる。2本滑った後は、沢山の人が思い思いのコースで滑っても、アッという間にコースはザクザクの状態と化してしまう。それで3本目はゴンドラ乗り場までの900M のダウンコースをとった。未だ人が少なく、先ずは快適な滑り。中間地点で一旦ゴンドラ中間駅へとでも思ったが、初心通りゴンドラ乗り場へ向かう。ところが下り出すと、下部は圧雪してなく、荒れたまま。気温も上がり出して、汗だくの状態。まだこのコースに入っている人は少ないが、コブコブのザラメは未熟な私には難題だ。いつかこのコースで雪が溶けて水浸しのことがあったが、今回はまだ雪が多くその心配はないものの、足の負担は大変なものだった。
 再びゴンドラとリフトで最上部へ、別ルートやコース外で滑る。かえってコース外の方が荒れてなくて快適だ。40度の沢コースの壁にも挑戦する。でも下りるのみで快感とまでは行かない。上手な連中は小気味よいターンを繰り返し、休みなしに下まで下りてしまうが、私にその真似はできない。1回のみで止める。次に中間駅へと挑戦する。初めに下った時より荒れているが、まだゲレンデ程ではない。このコースには2ヵ所急な35度の狭い斜面がある。そこではボードの連中が躊躇してたむろしている。いつかこの斜面で、1月の粉雪が舞う寒の日、まだ出来て間もない頃だったと思うが、余興に「裸で赤褌を締めてこのダウンコースを滑ったら1日無料にします」とのチラシに応じた一行に出会ったことがある。6人の恐らくは大学生だったろう、果敢に挑戦し、カメラマンが順に滑るのをビデオ撮影しているのに出食わした。しかし滑っている時も風で身を切る寒さは大変だったろうに、滑った後に全員が滑り終えるまで待っている格好は、とても寒そうで可哀相で哀れであった。若気の至りとは言え、後悔してはいなかったろうか。せめて何か身体に纏えるものがあればいいののに、何にも無し。ビデオを何処で公開するのだろうか。悪ふざけな企画とそれに乗った学生、1日無料だけでなく応分の謝礼もあったかも知れないが、何とも後味の悪い忘れられないそのシーンを、滑っていてフッと想い出した。
 中間駅へ下る人は見たところ10人足らず、駅へはコブの急斜面を下りる。ゴンドラで上がり、ステーションで食事と地ビールを補給し、雪の状態も悪化したことだし、下りることにする。時間は12時半、リフトで上に上がり、ゴンドラ乗り場まで再度ダウンする。気温は20度近く、暑い。コースは前2回よりもっと荒れている。中間駅分岐まででも、下手なスキーで足に負担がかかる。ここからが難関。コースの荒れ方は尋常ではない。スピードが出ると怖いので、抑えて下りる。斜度はそんなにないようだが、真っ直ぐではかなりスピードが出る。このコースへ3人の若者、何と浅いターンで華麗にダイナミックに下るではないか。呆気にとられてしまう。コブもミゾもザクザクも何のその、平坦なバーンを滑るごとく、アッという間に視界から消えてしまった。あの狭い荒れた斜面を、あのスピードであっても確実に止められる技を身に付けてなくては、それは無謀になってしまう。この時点で私のスキーの限界が見えた。来ようと思えば、ゴールデンウイークも最終の14日の日曜日にも来れようが、とてもこなす自信はなくなってた。連休に孫達が来たらスキーに行こうと言ったらしいが、一寸無理だろう。怪我をしたくないと言う心理が働くせいか、腰が引けてしまって、かえって悪影響だ。それで踏ん張るものだから,尚更足に負担がかかる。このシーズンは充分楽しんだ。これで終いにしようと決心する。この年齢であの技の獲得は無理だろう。

「独り言」から「呟き」へ、そして沈黙(6.22)

 5月21日の日曜日に、探蕎会の会員そば打ちが湯涌みどりの里であり、前田局長の配慮で、寺田先生と小生は和泉さんの車に同乗させてもらうことになった。車での先生との会話で、先生曰く「木村さん、あの晋亮の独り言は呟きとしたほうがふさわしいよ」と。先生に読んでいただいていただけでも恐縮なのに、大変重大なサジェッションまでいただき、目からうろこだった。確かにあの類の思いつきの書付には、意思の表れが少ないことから、「独り言」よりは「呟き」がふさわしいと、はたと手を打ったしだいだ。この小文の欄は前田書店のHP に居候しているのだが、そこで早速前田さんにいきさつを話し、お願いして変更してもらうことにした。
 小生は今松川会員が専務理事をされている財団法人石川県予防医学協に検査部顧問という立場で勤めている。協会の主力は健診と検診で、そのうちの学校保健関連では、新学期が始まって間もない年度初めに学童検尿と寄生虫検査が実施されている。小生とかかわりがあるのは寄生虫、中でも蟯虫の検査である。      
 ここで小生何を言いたいのかと言うと、5月4日にアクセプトされたスキーを止めたの一文以来、特に寺田先生の肝いりで「晋亮の呟き」とコラム名を変えてからも、一度も投稿をしていない言い訳をしようとしているわけなのです。いくつかネタは温めてはいたのですが、結果的には時間的な余裕がなかったと言いたいのです。女々しいですね。YASUHIROの独り言を見習えと言われそうだ。でも聞いてください。
 ちなみに、忙しかった4月中旬から6月中旬までの月曜から金曜までの時間の割り振りを見ると、協会には7時半に出勤し、通常は6時に退勤、うち前後1時間ずつをプライベートな時間に使用、午前3時間と午後3時間を鏡検に当てるという日程。時間は作るものだとの御託宣があることは承知しているが、帰宅すると、雑用をこなし、風呂へ入り,酒食の用意をし、7時半になれば饗応となる。カミさんの帰宅は概ねこの頃である。時折不意の客が闖入する。大概4合は飲むから、これから仕事というのは酷である。客が居ても眠たくなると寝てしまうそうである。翌朝は大概4時半のお目覚め。四方拝、昨晩の片付け、田んぼの水回り、シャワー・洗顔、神棚・仏壇へのお参りと読経、新聞2紙をざっと一瞥、これで2時間が経過、食事をして7時過ぎには家を出る。この時間帯では協会までは約20分位、また1日が始まる。休日は天気が良ければ山かスキー、行事もいろいろ、カミさんの要望にも応えなければならない。多忙である。
 そんなこんなで原稿をしたためることができなかったが、どうやら蟯虫検査の目処もつき、言い訳の一文を書き送るしだい。半日はフリーな時間を持てそうなので、これからはいろいろ呟いてみたい。

蟯虫検査 ー今のままの駆虫方法では蟯虫は永遠に生き延びるー(6.23)

 石川県保健環境センターを退職して、現在の財団法人石川県予防医学協会に再就職して以来、学童検尿や寄生虫検査、とりわけ蟯虫検査に取り組まねばならなくなった。特に新学期が始まって、4月半ばから6月半ばまでの2ヶ月間にこれらの検査が集中する。検尿は運び込まれたその日のうちに検査を終えねばならないことから、1万人以上の検体が入った時は、検査用の機器がないこともあって、人海戦術でこなすしかない。一方の蟯虫検査は私を含めた少数の人で見ることもあって、終えるのに3ヶ月ばかりを要する。
 人と寄生虫との関わりが疎になってから久しい。私自身回虫を宿したこともあるし、鱒の生食により感染した真田虫と称した日本海裂頭条虫が中々駆虫できずに入院の羽目に陥ったこともあった。これほどに子供とぜん虫類の仲間の寄生虫とは仲が良かった。ところが屎尿を肥料として用いなくなり、上下水道が完備され、生活環境が良好になってからというもの、人の寄生虫症は急に少なくなってしまった。それを花粉症と関連付ける人もいる。その中にあって、中間宿主を持たない蟯虫だけが、今もって小児の1%に敷衍している。蟯虫症は我が国では最も頻度の高い寄生虫感染症なのである。
 蟯虫症は特に重篤な症状を呈することもなく、せいぜいお尻の掻痒感が主である。これは雌の成虫が夜に住処としている盲腸から肛門まで下降し、肛門周囲に産卵するためで、成書によれば6千〜1万個もの卵を産みつけるという。成虫は産卵後は死んでしまう。蟯虫以外の腸管寄生虫の検査には、糞便中の虫卵を顕微鏡下で確認する方法が採られるが、蟯虫の場合は虫卵が糞便中に現れることがないので、朝起床後すぐにセロファンテープを肛門に当てがって集卵する方法が採られる。通常は2日もしくは4日連続して行い、虫卵の有無を顕微鏡下で観察する。この方法はウスイ法といわれている。
 私が所属する協会の前身は寄生虫検査所だったので、今でもほぼ石川県全域の保育園、幼稚園、小学校の園児や児童について検査を実施している。春季には全施設で実施されるほか、秋季にも実施する施設もあり、年間延べ13万人に及ぶ。これらの検査が何らかの法的根拠に基づくものかどうかは知らないが、検査すること自体には意義はあると思う。検査の結果、対象者の1%弱に虫卵が見られ、年齢的には就学2年前の4歳児から小学3年生の8歳児までに多く、4歳未満の乳幼児や小学4年生以上の小児には比較的少ない。また蟯虫の保有率は、農村域では少なく、人口が密集している都会域では高い傾向にある。蟯虫は本来ヒトの寄生虫なので、他の動物から感染することはなく、虫卵が何らかのルートで経口摂取されることによって感染する。従って喫食前に手洗いを励行している施設では保有率は低い。保有者は感受性が高い小児に多いが、小児が感染源となって家族内感染も起き、時に大人も感染する。こうして家庭内で感染者が増え、個々の保有者が濃厚接触集団の中に入れば、更にその集団で感染拡大が起きる。免疫は成立せず、再感染も容易に起きる。
 蟯虫の駆虫にはパモ酸ピランテル(商品名コンバントリン)が最適で、以前は薬局で簡単に求められた。特に学校薬剤師の方々は家族内感染が起きることをご存知なため、良心的に家族全員が飲むように配慮した投薬指導をされていたと聞く。ところが昨年からこの薬が処方箋薬となってしまった。私たちが検査対象としているのは子供たちで、蟯虫陽性の子供が医療機関へ行って治療する場合、学校医であれば家族内感染を考慮して、特別に家族の分までも帆方されることがあるかも知れないが、通常は対象の子供のみの治療に止まる。このことは、家族全員の検査をしていない現状では、家族内感染があってもそれは放置することになる。この薬は成虫のみに有効なので、虫の発育期間を考慮すれば、少なくとも2〜3週間隔で2回投与すべきだが、実際には1回投与で2週後に後検査を行い、陰性ならば治療完了としているケースが多い。虫卵が経口感染して腸内で成虫になり産卵するまでには50日程度かかるので、感染してもこの期間は潜伏期にあたり、通常の簡易な検査では確認できない。このことは集団の一員として陽性者が出た時も同様で、保有者が見つかった時点で既に他の人に感染している危険性はかなり高い。ずっと以前には学校や保育所では集団駆虫という概念があったこともあったが、それが個々に薬局に行くようになり、更に個々人の治療になってしまった現在、蟯虫は人から人へと渡り歩いて消えることはない。本当に駆虫しようとするなら、国民全員に駆虫薬を投与するしかない。しかし、せめて陽性者が出た家族や所属集団全員に投与しないと、蟯虫は絶対にいなくならない。今のままでは賽の河原だ。

Dr. HAYAKAWA Yasuhiroのスキー行で想うことー2006スキーシーズンを終えてー(6.27)

 早川康浩氏の2005-2006スキーシーズンは6月7日の毛勝南峰の単独スキー行で終わりとの宣言が出たのに、相棒の深沢名人の誘いにぐらつき、ラストランを6月7日と同じ毛勝南峰の直登ルンゼの滑降を21日に行ったという。前回よりルンゼの状態は悪くなっていたろうに、十分楽しんでの最終行であったという。このシーズンのスキー行の詳細は、彼のホームページの YASUHIROのマウンテンワールドに記載されているが、初滑りは11月13日の白山で、最終行まで32週と4日、期間は228日に及んでいて、1年の65%に及ぶ。この間、46回に及ぶハードなスキー行、読んでいてその迫力に身の毛がよだつような一瞬もあった。
 私もスキーを楽しむが、ゲレンデスキーであり、山スキーとは比べようもないが、この歳(シックスナイン)ではこんなものだろうか。初滑りはこのシーズン12月29日、最終行は4月29日で、期間は17週と3日の122日にしか過ぎない。もっともゲレンデが開いている期間に限られるからであるが、先述したように、雪のコンディションが悪くなると、私の技術では全く楽しめなくなってしまう。ただ山スキーと違って、上りはリフトなので体力の消耗がなく、何度も滑走することが可能で、体調が良ければかなりの時間滑っていられる。このシーズン延べにして18回出かけたが、最も滑った日は7時間12分、滑降高度差14,105Mであった。スキー場は通常午前8時に開き、午後4時にリフトの運行を止めるので、この間8時間がフルタイムである。18回中地元が11回(セイモア6、瀬女5)、県外7回(志賀高原3、八方尾根2、妙高杉の原1、ARAI 1)。SUUNTOのログ履歴を見ると、スキー場にいた延べ時間は、99時間9分、滑降回数は316回、滑降高度差は 122,505Mであった。
 このようにスキーでの滑降は短時間で下降することが可能で、ずっと昔にポーラーシステムをやっていた冬山で、我々がつぼ足で下って荷揚げしてたのに、たまたま一緒だった北大の連中がいとも簡単に日常的に下りはスキーを履いて軽快に下っていくのを見てたまげたものだ。康浩氏とそのコンビの山スキーは、正に下りにスキーを最も有効に使っているからこその偉業だろう。
 彼の持論では、冬山・雪山ではスキーでの登行が最も効率的で早いという。すなわち、スキー歩行は摺り足で足で板を滑らせながら歩くことが出来るので、一歩当たりの歩幅が広い上、何よりも足を上げなくてよいので、疲労が少ないという。これに比べてつぼ足歩行は足を上げる動作が主で、しかも一歩当たりの歩幅がスキーに比べると狭く効率的でないとのこと。彼は白馬大雪渓や毛勝谷の登行では、高度差1,500Mを3時間でクリアしている。ということは1時間当たり500M 登ったことになる。これには休憩や撮影の時間も入っているという。彼の言では、名人は800M 稼ぐこともあるとか。しかし素人ではこうはゆくまい。彼の忠告では、スキーで歩く時は決してスキーを持ち上げてバタバタ歩いてはいけないと。基本は摺り足であり、そうすればかなりペースは上がると仰る。大雪渓でも、登るのにスキーを担いで登る人、傾斜が少し急になるとスキーを外す人等いろいろだったらしいが、彼らは一切外さずに登頂したとかであった。卓越した技術がないと無理なのではと思うが。
 下りは山スキーの真髄である。しかし雪山での雪の状態はゲレンデとは比べ物にならない位千差万別で、しかも時々刻々の変化にも十分対応できる能力を持つ必要がある。アイスバーン、パウダー、ザラメ、モナカ雪、スプーンカット等々、ゲレンデにはない雪の状態もあり、その滑走技術はゲレンデより遥かに難しい。しかもどのような斜面でも決して転ばないことが肝要で、急斜面では命にかかわるし、転ぶと復元するのにすごくエネルギーを消耗する。しかし、これがクリアされれば、誰もがその魅力に引き込まれ、山スキーの虜になり、上達すればするほどハマって抜けられなくなるものだと。冬には藪は雪で覆われ、無雪期には登れない山も登頂可能になり、彼はそれを「自然への回帰」と称する。不可能を可能にするのが山スキーであるとも断言している。
 先日東京で開催された日本登山医学会に特別講演を依頼され、{冬季北アルプスワンデイ滑降}という演題で、山スキーが如何に雪山において有用かつ楽しいスポーツであるかということを例示したという。例を挙げると、白馬岳、白馬旭岳、五竜岳、針ノ木岳,槍ヶ岳,涸沢岳、焼岳、薬師岳、立山、剣岳、大日岳、赤谷山、毛勝山、猫又山などだ。しかし常人には簡単に真似は出来ない。
 彼は現役の医師、大腸内視鏡検査では石川県一の取り扱い数を誇る。昼食も取れないほどの激務とか。そのストレスの発散には、山スキーが最適と仰る。天候が悪くてもトレーニングと称してお出かけになる。ホワイトアウトでも、GPSを有効活用しての登行をする。そして診療があるからワンデイ滑降にこだわるという。彼の山や医療に関する本音の思いや超人的なスキー行の様子は、毎日 YASUHIROの独り言で語られる。今日本で彼の凄さを知らない人はいない。それだからこそ、彼のホームページへのアクセスが1日1千件にも達するのだろう。

沖縄の食生活習慣の変化は、男性の平均寿命を全国平均より下にした(7.4)

 沖縄県はてっきり長寿県だと思い込んでいた。事実厚生労働省のHPで都道府県別の平均寿命をみると、確かに女性は昭和55年(1975)以降5年ごとのデータではずっと常に1位、最近の平成12年(2000)の平均寿命(0歳での平均余命)は86.01年、驚くべきことである。ところが男性はというと、昭和60年(1985)には1位だったものの、5年後の平成7年(1995)には4位、更に5年後の平成12年(2000)には26位に転落した。何が起きたのだろうか。ここで再び厚生労働省のHPで平成12年の沖縄県における年齢別の平均余命をみると、女性は20歳、40歳、65歳それぞれに1位で、66.51、47.04、24.10年なのに対し、男性は40歳で9位、65歳で1位(18.45年)と往年には長寿であったことが窺えるものの、若年層では全国平均よりも低く、長寿には赤信号が点っている。
 因みに平成12年における男性の平均寿命の1位は長野県、2位は福井県、女性の2位は福井県、3位は長野県だった。福井県も長野県も蕎麦と関係が深く、平均寿命と食生活習慣とは密接な関係があるとする説には説得力がありそうだ。
 私は去る5月に沖縄に旅し、沖縄の食がもたらす長寿について興味を持ち、聞きかじったことをまとめてみた。
 沖縄のいわゆる琉球料理は、その歴史的な背景から、淡白な日本料理よりは濃厚な中国料理に似ている。沖縄料理には豚肉、豆腐、昆布が必ずといってよいほど用いられてきた。これらは三大長寿食品と位置付けられていて、その消費量はそれぞれに日本一だった。ほかにも緑黄色野菜、芋類、果実類、海藻類、魚介類が用いられてきた。ところが平成12年(2000)の国民健康・栄養調査での都道府県別食品摂取量の調査によると、なんと沖縄県での緑黄色野菜の摂取量は全国36位、その他の野菜、芋類、果実類、魚介類にいたっては全国47位と最下位であった。どうしたのだろう。フルーツが栽培できる地で果物を食べない、海に囲まれながら魚を食べない、ところが肉類の摂取量は第1位だという。ところで沖縄は日本でも珍しく豚肉を食べる習慣があり、これは中国との交易からこのような食習慣が持ち込まれたとされている。沖縄は以前にも肉類消費は日本一だったが、その内容をみると、同じ豚でも、以前は1頭の豚を頭から尻尾まで、皮から内臓まで、全部丁寧に食べていたのに、今は肉ばかりという。それに牛肉も多くなった。ミミガーなどは内地では使用しないだろうに、沖縄では立派な食材である。
 沖縄での料理の調理法としては、炒めもの、揚げもの、汁ものが多く、焼きものは少ない。また香辛料もあまり使わないのも特徴である。沖縄料理の真骨頂はなんといってもアジクーター(コクのある深い味)とティーアンダー(手塩にかける)である。昆布や鰹節で出汁をとるにしても、日本料理とは全く異なり、十分に煮出して作り、これは豚骨だしを作るのと全く同じ手法なのである。現在でも中高年の人は、豚肉、豆腐、昆布、緑黄色野菜を一度に多く摂取できるチャンプルー(豆腐と野菜の炒め煮)やイリチー(炒め物)、ウブシー(煮物)、それに具が沢山の汁物などの「ごった煮」などを日常的調理法として好んでいる。それに土産土法(その土地で採れる物をその土地のやり方で調理する)という習慣がまだ根強く、また中国の「医食同源」の思想も定着している。ところが若い年代にはこのような習慣が継承されておらず、アメリカの統治が始まって入ってきた洋風の食生活が、従来の良き食習慣を一変させてしまった。肉にしても、手間暇かけて脂抜きしたソーキ(柔らかく煮込んだ豚の骨付きあばら肉)やラフテー(皮付き肉を泡盛を加えて煮込んだ豚の角煮)よりも、若者の趣向はステーキや焼肉、ハンバーグに移ってしまった。今沖縄では、人口10万当たりのハンバーガーショップ数と飲食点数は共に日本一だという。それにつれて食習慣も確実に変化しつつあり、その結果かあらぬか、沖縄の男性は体重でも肥満度でも日本一になってしまった。
さて、これまでの沖縄の料理の長寿食としての良さを今一度検証してみよう。豚肉の料理は沖縄独特で、十分に茹で、脂肪分を半分以下にしている。豆腐は沖縄では冷奴といった脇役ではなく、チャンプルーに代表されるように、野菜と一緒に食卓の主役として頻繁に食べることにより、豆腐に含まれる大豆蛋白による血清脂質の低下をきたし、結果として肥満の防止に寄与してきた。沖縄料理には十分に蛋白質を摂取しながら脂質の摂取を抑制するという特徴がある。豚骨だしには沢山の高分子核酸が溶出している。糸瓜や冬瓜をたっぷり用いると、食品中の水分だけで実だくさんの汁物ができる。緑黄色野菜にはカロチンが多く含まれている。野菜類や海藻類には食物繊維やマグネシウムが多く含まれている。また沖縄では、沖縄で採れない昆布が北海道からはるばる運んでこられ、沢山食べられてきた。昆布にはヨードがたっぷり含まれており、そのほかカルシウムやビタミンも豊富である。濃厚な出汁を用いるため、食塩による味付けは少しでよく、したがって沖縄での1日の食塩摂取量は10g 以下と日本では最も少ない。一般に沖縄産の食品には、亜鉛を始めとするミネラル類が多く含まれている。
 以上のように沖縄県が47都道府県のうちで最も長寿な自治体であったことの裏には、しっかりとした食生活習慣に裏打ちされた合理的な食の実体があったからにほかならない。その伝統とも言うべき食生活が若者層に継承されずに葬り去られようとしている。長生きすることだけが能ではないが、今一度沖縄料理の良さを見直し、実践することも必要なのではないか。

千の風になって・私(わたし)は風・私は千々の風(7.8)

 平成16年の蕎麦花茶会で、会員でもある砂川公子さんが主宰して「闇の演出」をされた。中々異質な趣向であったこともあって、出席された方々の中にはその異次空間の出現に戸惑われた方もあったでしょう。その折闇笛をバックに砂川さんが詩の朗読をされたのがつとに有名な作者不明とされる「 A THOUSAND WINDS」の芥川賞受賞作家である新井 満氏日本語訳の「千の風になって」でした。原詩は英語でたったの12行、欧米ではかなり有名な詩で、人が亡くなった折などにはよく朗読されるとか。風の便りにそうだとは聞いていたものの、現実に接したのは初めてでした。
 その後、探蕎会事務局長の前田秀典さんからその原詩を見せて貰いましたが、その時の御託宣があなた的訳をとの督促でした。興味を惹かれたので一応託としたものの、会員の中には英語に堪能な方が数多おいでるので、伺ったときは半ば公募に近い形でかなりの方に問いかけされたのだろうと思っていました。ところがターゲットになったのは、永坂先生と小生だけだったらしいと聞いて、こりゃ横綱と褌担ぎの差だと悔いたものです。
 年が明けて、前田さんから永坂先生のメールのコピーをいただきましたが。その中に、早川先生からはこの原詩の元はアメリカインディアンの詩のようであること、そしていろんなヴァージョンがあるらしいことを教示いただいたとのこと。永坂先生もこの詩に関するHPを見られたところ、前田さんから提供を受けた新井訳に添付の原詩自体にもいろいろ問題があるようだと指摘されています。ですが、しかしそれはそれとして、先生はそのまま名訳をされました。一方私はというと、そんな詮索をすることもなく、面倒なことを引き受けたものだと、ない知恵をしぼって訳出したものです。
 前田さんの確たる意図ははっきりしませんが、その後あるとき、「闇の演出」をされた砂川女史と前田局長と私が同席した折に、永坂先生と小生の訳詞を砂川女史に渡され、何かの折にと前田局長が話されたことがありました。でそのとき、砂川女史が「面白いわね」と一言お言葉を発せられたのが今でも耳に残っています。
 それからは砂川さんも大変お忙しいようで、探蕎会にお出ましになる機会がないこともあって、私が耳にした前田さんの伝言の真意もお聞きできないままになっています。ともかく、とある日曜日に書類を整理していると、永坂先生訳の「私(わたし)は風」を記した前田さんからのメールのコピーに遭遇し、これは記録として残すべきだと思い、取りあえずは「呟き」のコーナーに掲載しようと思ったわけです。永坂先生にお諮りしたところ先生から御了解を得ましたので、ここには、新井 満訳の「千の風になって」と添付の原詩、それに永坂先生訳の「私(わたし)は風」と小生の拙訳を載せました。御笑覧下さい。

千の風になって (新井 満 訳)

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

あの大きな空を 吹きわたっています

A THOUSAND WINDS
Anon.

Do not stand at my grave and weep,
I am not there,I do not sleep.

I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.

When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush.
Of quiet in circled flight,
I am the soft star that shines at night.

Do not stand at my grave and cry,
I am not there; I did not die.

私(わたし)は風 (永坂鉄夫 訳)

私(わたし)の墓前に佇(たたず)んで、
涙するなど無用です。
そのお墓に私(わたくし)は、
もう眠ってなぞおりません。

あちらこちらと吹く風や、
雪のダイヤと煌(きら)めく粒も、
熟麦(じゅくばく)に降る陽の輝きや、
優しく濡れる秋雨(あきさめ)も、
みんなみんな私(わたし)です。

あなたが朝の灌木の、
茂みで目覚めて聞く風も、
静かに空を舞う鳥の、
夜空の優しい星光(せいこう)も、
みんなみんな私(わたし)です。

私(わたし)の墓前に佇んで、
泣くことなどは無用です。
そのお墓に私(わたくし)は、
もう死んでなぞおりません。


私は千々の風 ( 木村晋亮 訳)

私の躯(むくろ)を葬(ほうぶ)った塚に立ち寄って
涙を流さないでおくれ
其処(そこ)になんか私は居ないし
其処に私は眠ってはいない

私は千々の風になって 空を吹き交(か)っている
時に 私は金剛砂と見紛う雪となって 煌(きら)めく
時に 私は日の光となって 五穀を稔(みの)らせる
時に 私は煙(けぶ)る秋の雨となって 優しく包む

朝には 褥(しとね)で微睡(まどろ)んでいる貴方を
私は曙(あけぼの)の精(せい)となって揺り動かす
夜には 静寂(しじま)の中 天空(あまぞら)を翔(かけ)て
私は慈しみ深い星となって輝く

どうか 私の躯を葬った塚に立ち寄って
泣かないでおくれ
其処になんか私は居ない
私は今も生きているんだから

再び西東京ひばりが丘に「たなか」を訪ねる(7.14)

 東京の叔父は齢90歳、頭はしっかりしてはいるものの、今では足が萎えてしまって、気はあって生家(小生の自宅)や旧制中学までを過ごした金沢の地に来たいと思ってももう来られまい。兄弟は男4人女1人、男女男男男で、私の父が長男、東京の叔父は次男、存命なのは東京の叔父と金沢の叔父(四男)だけだ。子供に恵まれず、添いもなくして人恋しいこともあって、出来るだけ会いに行くようにしてはいるものの、それでも年に3回位しか行けない。
 今月9日の日曜の午後、叔父の居る病院に家内ともども訪ねることにして、お昼を久しぶりに「たなか」でとることにした。前に寄ったのは3年前の5月、年に3回も訪ねているのに、3年ぶりとは解せないが、ともかく久しぶりだ。店は駅前と言えば駅前だが、道順を説明しろと言われても簡単ではない。駅からは直線距離にして2百米位だろうか、でも袋小路の奥とあって優に10分はかかる。地番はひばりが丘1丁目15番9号とはっきりしているが、初めてだったこの前は本当に手こずった。何せ住宅地、通行人はいても地元の人ではないので尋ねようもない。また地番を当てにしようにも、道なりでは地番が突然飛んでしまって連続しておらず混乱する。大概連続しているものなのに、袋小路となるといかがわしくなるようだ。とにかく着くまでに随分と時間がかかり、閉口した。しかし今回は何の憂いもなくすんなり「たなか」に行き着けた。11時の開店、30分前だったが、どうぞと言われ、中へ入った。この前はお昼近くだったので満員の盛況、でも今回は開店前ということもあって、私たちが最初だった。
 ご主人の田中國安さんは今年齢81歳、昭和41年に、当時まだそばが機械打ち全盛だった頃に、東京では初めて、練馬の地で、手打ち蕎麦での営業に切り替えられた方である。創業は昭和31年と聞く。いろんなエピソードがあるが、車は高嶺の花だった当時、環状7号道路沿いに、20台も駐車できて客席60、座敷つきの蕎麦屋をおっ立てたのである。大胆と言えばよいか、先見の明があったというべきか。ともかく今日のそばの隆盛を先取りされた方である。しかし奥さんが体を悪くされ、平成8年にやむなく明月庵田中屋を譲られた由。譲られた店は明月庵ねりま田中屋本店として、今も隆盛で、銀座や赤坂にも支店を出して繁盛している。田中さんは奥さんの転地療養で軽快されたこと、孫の希望もあって、平成10年にこの地で「たなか」を開業された。自家製粉で本当にそばとうどんを味わっていただく店にしたという。奥さんの健康にやさしい環境、閑静な住宅地、瀟洒なこじんまりとした洋館、素敵な店だ。
 靴を脱いで上がると、右手フローリングの一室に、2人掛けテーブル5脚、4人掛け1脚、8人掛け丸テーブル1脚、満席で22人入れる。先ずはこの間食べ損ねた玉子焼きを頼む。程なく出てきた玉子焼きは出汁巻き,地卵を使ってあるとかで鮮やかな橙黄色、正に絶品だった。この前は天ぷらでお腹がふくれ、ふと回りを見回すと皆さん玉子焼きを召し上がっておいでた。定番だったのだ。そして本命の御前そばと野菜天ぷら、最後に細切うどんを頼んだ。御前せいろは赤い塗りの丸せいろに載ってきた。色は淡い鶯色、乱れのない角の立った中細、端正なそばだ。今はお孫さんが打っているとお聞きした。外一とか。汁は若干辛め、色は濃い。青葱と辛味大根が付く。家内が美味しいと一言。野菜天は舞茸、甘藷、茄子にピーマン、そばのもり汁で頂く。そば湯は釜の湯、まだ初めとあって薄かった。次いで細打ちうどんが細長い角の飴色に塗ったせいろに3玉、こしがあってしこしこした歯触り。つけ汁は鰹だしのきいた澄んだ薄味のうどん汁、薬味は白胡麻と麻の実、柚子七味も合いそうだ。あっという間に胃の腑に収まる。家内はこの後メロンシャーベットでシメていた。
 ここの一番の難点は、蕎麦前がないことである。親爺さんに聞いたところ、お酒が出ると尻が長くなるからと。沢山の方々にそばを食べていただくには回転をよくしないととも。待っていただいているお客さんに悪いからと仰る。だからか種物はなく、せいろ、かけ、そばがきのほかには、玉子焼きと天ぷらしかない。お酒一杯のみという店に入ったことはあるが、無しという店は少ない。暑い季節にはビールか冷酒、寒ければ燗酒、一杯でいいから出ると最高なのだが。それ以外は実にイキな店だ。玉子焼きはお持ち帰り可能、そば、うどんの生麺はクール宅急便で地方発送できるとか。お値段は、「手仕事そば」はせいろ3枚分(330g)で1,400円、「手塩にかけたうどん」はうどん3杯分(390g)で1,400 円、自家手製石臼挽きそば粉・そばがき5人前(300g) が600円。取り寄せも可能である。
 帰り際、親爺さんが内緒の近道を教えてくれた。ただ日曜と祝日は通り抜け出来ないとのこと。利用できることがあるだろうか。でも今度はまだ食べていない「かけ」と「釜揚げ」にぜひ挑戦してみたい。かけ汁には飲み干せるものをと随分と苦労されたとか。しかし求めて行くにはちょっと遠過ぎる。

庭に突然直径2m、深さ2mの大陥没穴が出現した(7.25)

 7月23日の土曜日、梅雨の最中だが野々市地方は曇り、時々薄日も射す天気。南九州は梅雨前線が停滞して1月分の雨が1週間で降ってしまうような始末とか。いずれは北上してくるだろう。梅雨になって雨が降り続くと、田んぼの水回りはしなくてよいとして、この時期庭の草が随分とよく伸びる。所謂「雑草」というバイタリティーのある草々のことである。根絶やしにしたいのは山々だが、そうは行かないのが問題である。安直には除草剤に頼れば、大概の草の除去は可能だが、中に残したいものがあるとすると、この手段を用いられないだけに、事は大変面倒だ。除草剤にも色々あるが、撒くとすれば、少なくとも羊歯類や蘚苔類には影響しない薬剤でないといけない。それでも除草したいお目当てはイネ科の植物なので、イネ科のみに有効な除草剤はないと思われるので、残したい草があっても、薬剤がかかってしまえば、少なくとも地上部は枯れてしまう。根茎や球根があれば生き延びられるが、根が浅かったりすれば根こそぎ無くなってしまう。それがこれまで除草剤を使えなかった訳でもあったのだ。
 草むしりの対象は、敷地500坪から建坪120坪と竹薮30坪、舗装部分50坪を引いた残り300坪に及ぶ。旧盆までには何とかしなければと、気持ちはあせる。山にも行けず、とりあえず涼しい午前中にと、余の受け持ちの新宅前の10坪に挑戦した。4、5時間で出来ると思ったのに、意外と手強く、半分しか処理できなかった。残したいものが多かったせいもある。
 家内は土曜日は午後3時までの勤務。帰って4時から6時まで草むしりをすると言って出動した。小生はというと、陽に炙られて汗をかき、シャワーを浴びてビールとワインで出来上がってしまい、とても2時間とはいってもギブアップだ。5時間で5坪、信じられないと仰るが事実だ。お許しが出たので、相撲の実況など視て過ごす。今日は大目にみてもらい、明日は頑張ろう。
 やがて6時近く、家内が血相を変えてご入来。何事かと訊くと、庭に大穴が開いたと。何のことか見当がつかず、取りあえず現場へ。びっくりするほどの大穴。何時できたのだろうか。場所は旧宅(元新建ち、今でもそう呼んでいる)と土蔵とのあいだにあった古い井戸のあった箇所、そこが丸く直径1間、深さも1間ばかり陥没しているではないか。私が物心ついた頃には、とうの昔にコンクリートの蓋がされていた。無論中を覗いたことはないが、敷地にあった他の2つの古い井戸から類推すれば、井戸は玉石組みで、径は3尺ばかり、深さ4間位だったのではないだろうか。そんなに豪雨でもなかったのだけど、十分に雨を吸い込んだ果ての崩落だったのだろうか。それとも井戸の寿命だったのだろうか。ともかく家の土台の下が抉られなくてよかった。蓋になっていたコンクリートの分厚い板が斜めになって落ち込んでいるのが見える。うっかり落ちようものなら怪我しそうだし、それより袋状になっているので、落ちたら出られないのじゃないか。とにかく驚きだ。
 翌日も曇り、雨は明日以降とか。また草むしり。昨日の続きをと思ったが、奥方からのご託宣は、あの大穴の周囲をとの指定。昨日の半端が気になったが、こればかりは違えると後が面倒と二の句で従った。昨日も陽の当たる10坪、今日も陽に当たる20坪、草を選別する度合いは今日の方が低いから、昨日よりは捗りそうな気がする。とにかく面倒なのは苔の間に雑草が生えていること、一番良いのは苔を傷めないで草を抜けばよいのだが、それは理想論で、根が張っていたりすると、そうは行かない。この長雨で沢山しっかりびっしり成長したのがメヒシバ、種がこぼれて芽吹いたのはまだ扱いやすいが、ひねて根が張り、しかも匍匐茎を出して節々から根を出しているのは始末が悪い。こんなに沢山生えたのは初めてだ。春にはここはスズメノカタビラで一杯だったが、根張りしてない分始末がしやすく、現にきれいになっていたのに、季節が変わって手強いのが現れた。根を取りきれず残っているので、除草剤に頼ろう。残したいムラサキカタバミ、タチツボスミレ、ヒメスミレ、ツワブキの芽吹き、ジシバリの一部も、薬を撒けば消えてしまうだろうが、背に腹は替えられない。チドメグサは取りにくいが、これは除草剤で簡単に消せる。経験からすれば、イワヒバやシケチシダは大丈夫と思うが。
 ようやく20坪を平らげて、横の路地のほうへ回ると、驚いたことにヨウシュヤマゴボウの密林、丈の高さは2mを優に超えている。今が花盛り。秋には黒赤紫色の瑞々しい果を沢山つけるが、それが落ちて広がったものだろう。去年はこうもひどくなかった。本当に半端な量ではない。果をヤマゴボウ酒に出来ればいざ知らず、取るしかない。お誂え向きに、捨てる穴が、天の助けか。あの穴が開いてなかったら、竹薮へ運ぶか、ゴミに出すか、でもその労力は計り知れない。あの背の高い洋種山牛蒡もそのまま放り込めた。これで20坪プラス、他に背高のヒメムカシヨモギや木にまつわり付いていたヤマホロシなども取り除けた。昔は家の庭には、日本在来のヤマゴボウ(道の駅や土産物屋で売っている漬物としての「山ごぼう」は、これと違って、キク科のモリアザミの根である)しかなかったのに、交配したのか、追いやられたのか、今は全く見られなくなった。お昼にしましょう、と家内の声。といっても午後2時。続きはお昼が澄んでからにしましょうとも。わしはもう勘弁をと、千秋楽もあることだし。お沙汰が下り、やっと放免された。

「沖縄そば」と「月桃(げっとう)蕎麦」(8.3)
 「沖縄そば」というものがあることはうすうす知っていた。どんなものなのか、沖縄へのツアーに参加した時にはぜひ食べてみたいと、これはツアーの楽しみの一つでもあった。ところで、もう一つの当ては、沖縄ではつとに有名になった、那覇市の美濃作の「月桃蕎麦」である。ところがツアーの宿泊地は、初日石垣島、二日目宮古島、三日目沖縄本島読谷村とあって、那覇の街に繰り出すには極めて困難とあって諦めざるを得なかった。なぜこんなに拘ったのか。それは片山虎之助なる一寸蕎麦には煩いお人が、もう1年近くも前に週刊朝日にべた褒めな一文を書いていたのを読み、それが頭の隅に残っていたからだ。
 件の「沖縄そば」は、ツアーの夕食には必ず登場したし、物見遊山の間にも2店で食したが、もちろん店によって麺にも汁にも差はあるものの、「日本そば」とは「似て非」なんてものではなく、全く別の類のものであった。沖縄では「スバ」というらしいが、これは沖縄の家庭でつくられるものではなく、もっぱら店というか営業用に造られたものとか。内地の「そば」との最大の違いは蕎麦粉を全く使っていないということである。この小麦粉のみで造られた製品は、どちらかと言うと「うどん」よりはむしろ「ラーメン」に近いと言える。店によってはシコシコした感じの麺もあったものの、総じて水を吸って伸びてしまったやや縮れた短めのラーメンと表現できようか。ただ麺はラーメンのように黄色がかってはおらず、濁った白色をしていた。汁は「ソーキそば」ではソーキの煮汁が入っているが、聞くと、とんこつ風あり、あっさり肉味あり、日本風のかつおこぶだしあり、豚肉かつお一番だしありで、店によってそれぞれに特徴を出しているようだ。でも離島では、ホテルでも巷の店でも、概ね沖縄そばといえば「ソーキそば」だった。
 今は日本あげてのソバブーム、沖縄にも何か「日本そば」に似た類のものはないかとヤフーを覗くと、ジャパニーズソバと称して二八とか十割とかを提供している店はあるようだ。しかし土地柄、その土地に相応しいのかどうかも不明だが、また人気の方はどうなのだろうか。
 さて、件の美濃作を同じように検索すると、創業は1977年(昭和52年)とある。しかし「そば屋」(沖縄そばを供する店では「そば家」と書いてあることが多い)とはいっても、はじめのうちは手打ちとは称しても、蕎麦粉3割、小麦粉7割の日本農林規格ぎりぎりの「そば」だったらしい。内地の土産物屋で売っているそばの乾麺を茹でて出してるようなものか。主人は小山健さんといって福島県出身、当初は返還前の沖縄に日本料理普及のために来られたらしいが、返還後店がなくなり、一念発起して「そば屋」を始められたとかであった。今年63歳とあったから、開業された頃は30歳ばかりだったことになる。開業後繁盛してたかどうかは知る由もないが、一つの転機は沖縄での日本ホテル協会の総会の折に訪れた。その大役が小山さんに回ってきて、注文というのが「沖縄独特の蕎麦」の作成、そこで目をつけたのが月桃(げっとう)だったという。この植物、丁度ツアーの時には花期であちこちで見られたが、沖縄では日本の「ちまき」のようにして、沖縄の餅「ムーチー」を月桃の葉で包んで蒸すという。すると良い香りが「ムーチー」に移り美味しく食べられると。この植物はショウガ科の植物であることから、香りもあり、葉には防虫効果もあり、沖縄の人々にとってはすごく身近な植物らしい。この月桃の葉をなんとか蕎麦に取り込みたいということで、製粉会社の社長と二人三脚で、そしてやっと瞬間冷凍・瞬間製粉の技術で粉末化することに成功したという。ここに更科粉をベースとした「月桃蕎麦」が誕生した。まあ「変わりそば」と言えばそうなのだが、それが内地にない沖縄独特なのがユニークなところだ。山形「萬盛庵」の「紅花そば」の如きか。
 この前の遠州・美濃探蕎の旅で岐阜の「吉照庵」へ寄った折、たまたま季刊の「新そば」という冊子が置いてあったので貰ってきた。以前金沢に「砂場」があった頃は新そばの会員だったこともあって、店へ寄った折には頂戴していたが、廃業してからは石川県での会員はなくなってしまった。全国で百店丁度、因みに北陸三県では富山の「大黒や」のみである。話はそれたが、この冊子に「美濃作」が紹介されていた。それであの月桃の強い芳香に魅せられ、何とか手に入らないかと取り敢えず電話したところ、クール宅急便で送りますとのこと、早速取り寄せた。7月29日にFAXで注文、31日に着いた。賞味期限は8月2日。開けると草色の細麺が2袋、汁も2個、それに鮮やかな緑色の月桃の葉が1枚。まさか葉が付いてくるとは知らず、家内には熊笹をと言っておいたのだが。
 蕎麦前の後、やおら茹でにかかる。3〜4分とあるが少し短めにしておこう。茹で汁も若干緑がかってくる。冷水で締め、ざるに月桃の葉を敷き、月桃蕎麦を盛る。蕎麦は見事な明るい草色。絵に描いてあるのとそっくりだ。数筋手繰るが、香りはごく微か、苦味は無いに等しい。蕎麦は更科とあって蕎麦の香りはしない。麺はこしがあるとは言い難いが、喉越しはまずまず。汁は濃いが辛くはなく若干甘め。総じて85点の出来。もう少し月桃の香りを期待していたのだが、期待外れだった。でも取り寄せではこんなものか。望みなら直に店で食するしかない。緑色といえば、「かんだやぶ」のクロレラ入りそばを思い出す。
 ふっと、終戦直後、父が第九師団の主計をしていて、旧野村練兵場の土地を元の地主に返還する残務で2年間十一屋町に移り住んでいたが、その折学校の給食に熊笹の粉末が入ったすいとんのようなものが出たのを想い出した。イロハカエデの葉も粉末にしたとか。月桃の葉には防腐作用や香り付けの働きがあるが、考えてみると熊笹にも同じような働きがあって、内地では古来寿司や餅を包むのに用いられている。製品化されたものでは金沢の「芝寿し」などがあるが、あの類のものは昔はどこの家庭でもやられていたことだ。とすれば、若い熊笹の葉を同じように粉末にして同様な変わりそばが出来そうなものだが、如何だろう。昔食べた粉末は、当時は凍結乾燥の技術はなかったろうから、多分天日乾燥して粉末にしたことだろう。でも今なら素晴らしいものができそうな気がする。それとも既に試した人がいるのだろうか。

赤谷山の思い出 ーYASUHIROの独り言を見てー(8.3)
 前田書店リンクのYASUHIROのマウンテンワールドは、ほぼ毎日見ている。冬場の雪山スキー行は全く知らない世界だけに新鮮であり、わくわくする。夏には藪で動きがとれない山も、細い径しかなくてそれ以外は動きが取れない山も、冬には縦横無尽に徘徊できる世界となり、そんな自然に身を置くことができるということ、それは無上の素晴らしい喜びであるに違いない。ストレス解消にこれ以上のものはないと仰るのも頷ける。私ももう70歳。おそらく山スキーなどは逆さになっても真似できないだろう。でもそれに近い思い出としてならば、残雪期に白山山系を思う存分駆けずり回ったことがイメージ的には近いか。それでもそれにスキーという機動力ある武器があったとなると、その行動範囲も機動性も満足度も格段に広がったことでであろう。素晴らしいスキー行の記述や写真を見ていると、満足度は私よりも筆舌に尽くしがたい程大きいと思う。羨ましい限りだ。
 そしてスキーシーズンが終われば夏山シーズンである。今年もご子息剣君との山行が始まった。残雪多いチブリ尾根を皮切りに、経ヶ岳、白山、糠籾山、白山、赤谷山、白山釈迦ヶ岳と、6月7月の梅雨を挟んでの50日で7回もの山行き。それに感心するのは前夜に現地入りしての早立ち、暗いうちから行動を起こし、目的地へ達して、そしてまだ陽が高いうちに出発点へ戻るという余裕、正に理想的と言えよう。冬でも夏でも、仕事があってのことだが、全く同じワンデイスタイルだ。常人誰もが真似できる技ではないが、究極の理に適った動きだ。また山は心の癒し場所とも言われていて、静かな山の雰囲気を最も愛される。とすると雑踏とは縁が遠くなることは必定で、夏山では入る山域もルートも時間帯も限られてくるが、それは致し方のないことだろう。
 また時間の記録を見ると、47歳とは思えないスピード、10も20も歳が若いのではないかとその体力に感心する。その大昔、私もイダテンのキーさんとしての異名を轟かせたこともあったが、それは昔々の話、今ではもうその片鱗さえない。私の標準的な歩きの計算は、ずっと水平距離1kmを10分、高度100mを10分を目安としてきた。白山を砂防新道経由で登る場合、別当出合(1200m)から室堂(2400m)までは距離6km,高度差1200mとして、60分と120分とで計3時間、下りは登りの3分の2で計算する。登行スタイルとしては、短い止まりはあっても原則尻を下ろす休みは取らない。そうすると往復5時間ということになる。室堂から頂上へは距離1km、 高度差300mとすれば、登り40分、下り27分、計1時間7分となる。空身では登り30分、下り20分程度だ。
 さて、康浩先生と剣君との赤谷山への記事を読んで、10年前に三男坊と赤谷山へ出かけたことを思い出した。秋口だったのでブナクラ谷は水量は少なかったが、谷の遡行は谷筋なので確たる径はなく、道筋のマークが見えればそれに向かって進むという按配だった。谷筋を通っている間はさして急な勾配ではないが、谷筋を離れると途端に急な径となり、ブナクラ峠近くでは巨岩の堆積するガラ場となり、すると間もなく峠に着く。ここへ前から息子と来ようと思っていたのには訳があった。息子は勤めていた会社の部署のトップの部長には大変目をかけて頂き、息子もそれを励みに営業成績は常にトップクラスであった。この取締役部長は富山出身で山がお好きで、暇ができれば山へ出かけられるという方だった。ところが2年前に赤谷山に行かれ遭難された。秋口だった。捜索の結果、頂上近く、巻き道から黒部谷側からの谷筋を頂上へ抜ける細い径に入る曲がり角辺りで転倒されたのか、径から黒部谷側へ数m下がった場所で遺体で見つかった。実力もあり、かつ温厚篤実な方で信望も厚く。会社としても大きな損失だった。それにしても息子の悲嘆にくれた様子は痛々しかった。その時の慰めの言葉として、息子に来年でも赤谷山に弔いに行こうと約束したのである。次の年には行けなかったが、2年目の秋には約束を果たすことができた。歩き始めの取水口カラブナクラ峠までは標高差は900mばかり、峠から頂上までは600mの登りである。峠は狭く、4人ばかりが休んでいた。皆さん赤谷山へとのこと。左へは猫又山なのだが、その当時は踏跡程度の径が見えていただけだった。今では立派な道標が峠にあり、左猫又山・右赤谷山とある。最初は尾根筋を辿り高度を上げ、やがて黒部側を捲くようになり、件の涸れ谷を詰めると頂上に出る。頂上といってもピークがあるわけではなく、だだっぴろい感じだ。20名ばかりが屯していた。長閑な秋の一日。暖かな爽やかな一日。優しかった上司が愛した山に登って弔いできたことに、息子も満足したことだろう。感激も一入だったろう。暫しの滞在の後下りにかかる。件の場所では大きな岩が重なっていて、足元は滑りやすい感じ。あの方もひょっとして下りで足をとられ滑ってしまったのではないかと思ったりもする。もっとも場所は私の推測の域を出ないのだが、何となくそんな感じがした。
 峠に着く頃、後ろから高校生と思しき娘さんが一人おりてきた。峠で休みもとらずにさっさと谷へ下りていった。さながら蝶が舞うように。私も息子も呆気にとられてしまって後を追ったが、姿はどんどん小さくなって、やがて視界からは消えた。こちらは急ぐこともないので、息子のペースにあわせて、秋晴れのブナクラ谷をのんびり下りることにした。

立秋に白山の花を撮りに(第1日 千振尾根ー別山ー南竜山荘)(8,10)

 今年の梅雨明けは8月1日、例年より10日以上も遅かった。また今冬の降雪量は半端でなく、しかも全国的とあって、剣山荘が半壊同然で今期は営業中止、岳沢ヒュッテも完全壊滅、自然の威力をまざまざと見せつけられた年となった。白山も豪雪に加えての7月の豪雨、観光新道の巻き道から梯子坂に登る沢筋の最初の部分が土砂崩れで崩落、1ヶ月の通行禁止となった。白山の花を撮りたくてうずうずしていたが、天候の加減には致し方なく、7月にはとうとう山へは入れなかった。ただ山の雪の状況をみると、例年より1ヶ月程度雪解けが遅れているとのこと、とすれば開花も同じ位遅れるだろうと気を休めていた。これほどに白山の花に精を出すのは、昨年前田書店のHPに寄生して「白山の花」を載せたからで、不本意ながら画像がまずくて断念したり、未撮影で収載されていない花々を補充する意味もあってである。夏の花を沢山撮影しようとすれば、時期としては7月中旬から1ヶ月の間に限られてしまう。雪の多寡はあったとしても、今年は梅雨明けの8月上旬が適期だ。次となるとお盆で、先ず家はごった返しで、山行きなぞとても無理だ。お盆に体が空くようになるのは、孫たちが大きくなってお里には寄り付かなくなるまで望むべくもない。それに加えて庭と背戸の草むしり、これが又半端でなく、しかも盆前に仕上げねばならず、これを放っておいて山へ行くなんて気の小さい小生にはとても出来ないこと。ようやく5日6日の土・日にどうやら草むしりと草刈をあらかた終え、やっと山へ入れることとなった。実は4日5日の金・土に山へ入ろうと南竜山荘に申し込んだところ、8月に入ってからはずっと満員で、7日には若干余裕がありますとのこと、もうこの日を逃しては日がないと、月・火と休みを取って白山へ出かけることにした。
 天気はまずまず、市ノ瀬から歩き出す。この時期オロロが多く体にまつわり群がってくる。うるさいことこの上ない。しかし林道から外れ登山口から林に入った途端霧散してしまった。チブリ尾根は下部はトチ、次いでブナ、上に行くにつれてシラカバが混じるようになり、ダケカンバそしてアオモリトドマツ(オオシラビソ)となる。水飲場までの小沢には豊富な水が流れている。林間にはガクアジサイが多い。尾根筋に入るとブナ林が見事だ。ダケカンバの林を抜けると急に視野が開け、一面の笹原に出る。ここに来て御舎利山や別山が間近かに見える。ここには今はノアザミやオオバギボウシ、ハクサンシャジンが真っ盛り、秋にはオヤマリンドウやハクサントリカブトが紫色の花をつける。草原を登りきるとアオモリトドマツの林となり、林の向こうには白山の全容が望まれる。市ノ瀬から別山までは距離9.4km、高度差1600m、私流計算では所要時間は4時間14分となる。今日は市ノ瀬からチブリ避難小屋まで3時間半、今シーズン初めての山行とあって標準タイムとなった。あと別山までは距離3.9km、高度差600mで、時間は1時間39分である。小屋には人影はなかったが、やがて上から女性2人、下から男性2人、男性は南竜経由で別当出合まで戻るとのことで軽装だった。御舎利山までの登りには15組位の人達に出会った。昼近くガスが湧いて加賀側は見通しが利かなくなったが、こんなことはよくあることだ。別山から油坂ノ頭に至る3kmは花に恵まれたお目当ての場所、ここでの撮影に、一草当たり1分費やすとして、百草では1時間40分余計に時間がかかることになる。別山から南竜山荘までは2時間かかるので、4時間位かかろうか。ここの飛騨側の草原にはコバイケイソウが群生しているが、去年は総ての株が花をつけていたのに、今年は全く花をつけていない。しかし今年の圧巻はイブキトラノオ、ここだけではないのだが、今年はいつになく密度が濃いようだ。シモツケソウ、カライトソウ、コイワカガミの紅色も鮮やかだ。雪田跡にはハクサンコザクラが多い。ミヤマキンポウゲが径を覆っている。ハクサンイチゲも群落をなしている。タテヤマウツボグサは立山には少ないのに、なぜか白山には多いのは奇妙な取り合わせである。天池ではハクサンコザクラ、イワイチョウ、シナノキンバイの群落が見られる。ここでチップを交換する。242枚撮ったことになる。時間は既に午後4時、下りにかかる。油坂ではキバナノコマノツメが沢山見られる。赤谷に近づくにつれ、オタカラコウが多く見られる。赤谷にはまだ残雪があるのに、リウキンカの黄色が見られないのは淋しい。60mを登り返して南竜ヶ馬場へ、柳谷を渡る手前の草地にはアオノツガザクラやコイワカガミに混じってハクサンオオバコの群落が見られる。南竜山荘には午後4時にと思っていたのだが5時を少し回っていた。新のオバさんとは1年振りだ。今夏はハクサンシャクナゲの花が極端に少ないと仰る。そう言えばいつも立派な花が見られる御舎利山の頂近くや尾根筋でもたった1株しか花を見ていない。しかも花は小さくみすぼらしかった。明日のトンビ岩コースの群落がある場所ではどうであろうか。夕方には一面のガスとなった。台風が近づいているという。明日の天気が気になる。
 夜中の2時頃、部屋がやけに明るいので、この夜中に何事かと外を見ると、十三夜の月が皓皓と照っていた。

立秋に白山の花を撮りに(第2日 南竜山荘ー大汝ー御前ー観光新道)(8.11)

 朝、窓から西方に大長山と赤兎山の連なりの奥に経ヶ岳、独立して荒島岳がくっきりと見えている。雲一つない。今日一日も天気が良いと皆さん口々に言う。今日は大汝へ行くと言ったら、オバさんはコマクサのいい写真があったら送って下さいと。4日前にやはり大汝峰に行った人の話では、1株だけ咲いていたが、あとは枯れていたと。確かに植えたことに間違いはないが、枯れていたとなると誰か心ある人が除草剤でも撒いたのだろうか。自然繁殖で少しずつ増えていたのにと思う。6時半過ぎに山荘を後にする。御前坂を半分位登った頃には別山は雲に覆われ、天候が危うくなってきた。ここはミヤマキンバイの群落が多い。万歳谷を渡った辺りにも沢山の群落が見られる。ベニバナイチゴも多い。トンビ岩までの300mの登りには古い美濃禅定道の石畳のような跡も見られる。トンビ岩に着いた頃にはガスの只中。ここから室堂に至る径に沿ってハクサンシャクナゲの群落が沢山あるが、花付きが極端に悪い上花が小さく、しかも花期が過ぎている。まだ花が付いていたのが3株ばかりあった。これも雪の所為なのだろうか。室堂に着く頃、ガスは一段と濃くなり、ホワイトアウトの状態、視界は2mばかり、これでは花も撮れない。午後は崩れるかも知れないと思っていたが、こんなに早くとは。室堂の人に聞いてもこの先の天気は全く分からないという誠実な答え。思案してこれは帰れということか、コマクサは来年までお預けかと思って下山しようとしていたら、一陣の風とともにガスがさっと吹き払われたではないか。風が強くガスもかかるが、さっきのように濃くはない。
 ハイドレーションシステムと寿しのみ持って、お花畑コース経由で大汝峰に向かう。途中の室堂平にはミヤマクロユリが多い。千蛇ヶ池から大汝下までの礫地にもミヤマキンバイの群落が多い。システムをハイマツの陰に隠し、空身で大汝峰に登る。都合3名に出会う。尾根にはイワツメクサが多い。頂にある大汝宮にお参りする。辺りには誰もいない。件のコマクサは健在だった。枯れたと言ったのは花期が済んで花が枯れていたということだったのかと安心する。確かに花期は過ぎていた。もう1週間早ければ正解だったがと悔やまれる。沢山の群落がある場所なら遅咲きの株もあろうが、3ヶ所6株では仕様がない。でも種子からの実生が確実に育っているし、株も大きくなり、花の数も年々増えている。
 大汝を下りて血ノ池の畔で寿しを食い、お池巡りをして御前峰に登る。千蛇ヶ池には万年雪と称して初降雪時までも池面が見えないこともあったが、近年は暖冬からか雪が全部解けてしまったこともある。それにしても今年の紺屋ヶ池にはまだ大量の雪が残っていたが、こんなのは初見だ。爆裂火口跡から御前へ、頂近くの礫地にコマクサがないかと伺いながら登るが、それらしきものはない。宮さんが新聞で紹介した背景のある場所を特に丹念に探したが、やはり見当たらなかった。奥の宮に参拝して室堂に下りる。午後1時に室堂を出て、水屋尻雪渓経由で下る。例年なら山開き頃の積雪量だ。下まで雪渓を下ろうと思ったが、下がかなり急なので、夏径を辿る。ここではクロクモソウが見られ、ベニバナイチゴも多い。ミヤマガラシやミヤマタネツケバナもここではよく見かける。このルートは現在一般者の通行がないだけに植生は豊富だ。弥陀ヶ原を黒ボコ岩に至り、ルートを観光新道にとる。5日まで通行止めだったせいか、別当出合まで前後して下りたのは5パーティー12人だけだった。蛇塚から馬の鬣までは百花繚乱、ここでも径が一部決壊して注意の標識があった。紫色系ではタテヤマウツボグサ、タカネマツムシソウ、ミヤマクワガタ、赤色系ではカライトソウ、シモツケソウ、ハクサンフウロ、タカネナデシコ、黄・橙色系ではニッコウキスゲ、シナノオトギリ、ミヤマコウゾリナ、カンチコウゾリナ、緑色系ではハクサンタイゲキ、白色系ではミヤマシシウド、ヤマハハコ、イブキトラノオ、エゾシオガマ、ミヤマオトコヨモギ、イワオウギ(タテヤマオウギ)等々。時間の経つのを忘れるくらいだ。3時間半もあれば花を写していても十分余裕を持って楽勝だろうと思っていたが、以外と時間を費やした。先へと追い越して行ったパーティーの人達は殿ヶ池の避難小屋でゆっくり休んでいるのが見える。小屋まで数分の場所に近づいた時、彼等は一斉に下りにかかる。こちらは馬の鬣から下ではもう被写体もなく、休みなく下り続ける破目になり、暑さと足の疲れで意外とバテバテになった。今回ほどバス停のある別当出合に着いてホッとしたことはない。
 今回の山行で、写真は都合403枚撮った。接写で一部近接し過ぎでのボケがあった。 

[閑話休題]
その1.今回初めてハイドレーションシステムをザックに入れて持ち歩いた。大変便利で都合が良いが、問題は水を入れた後、蓋をしなければならないが、ゴムのパッキングが共に回ると完全に密閉されず、微量だが漏れを生ずる。取扱説明書には英独仏の3ヶ国語で記述してあるが、どう使用するかの記述はあるが、蓋をする時の注意は書いてない。試用で少し水漏れがあるような気がしていたが、締めが足りないのだと思い、本番ではそのままザックに入れ、他のものも一緒にパックし、車には横積みにして走った。しかしいざ本番で担ごうと思ったら、ザックがびっしょり、背中が冷たくて結構だったが、これには参った。帰って購入店で聞いたところ、ゴムのパッキングを共回りしないようにして蓋を閉めて下さいとのこと。その通りにやってみたところ、大丈夫のようだった。口は手が入る程の大きさなので、保温バックに入れておけば、冷たい水の供給も可能で重宝だ。
その2.今回山から帰って洗髪したらやけに頭皮が痛い。シャツも腕まくりして歩いていたので、出てた部分は赤褐色に日焼けした。頭も一緒で、私はこれまで山歩きに帽子を被ったことは一度もなく、例え何日陽に曝されて歩こうと頭に日焼けしたことなど一度もなかったが、私が見たわけではないが、家内が言うには、手の甲や腕と同じ位赤くなっているという。若干頭髪は天辺近くは薄くなっているらしいが、こんなにひどかったのは初めてだ。振り返って、もろに陽に曝されたのは、1日目ではチブリ小屋手前の草原から別山までの2時間半、2日目は室堂からの下りの4時間だけなのに、この焼けようは尋常ではない。特に頭皮に日焼けとは恐れ入った。紫外線が特に強力だったのだろうか。

ゆめ ーははのげんそうのやかたー(8.18)

 いつもはカミさんとふたりのせいかつ、どちらかといえば、しずかにときがながれ、うつろってゆく。それが、おぼんとしょうがつには、けんそうのるつぼとかしてしまう。これらのじき、3かぞく12にんがじょうちゅうすると、じんこうがいっきょに7ばいにふくれあがる。1かぞく4にんが3かぞく、まごはちょうなんにはむすめふたり、じなんにはむすことむすめ、さんなんにはむすこふたり、うえはしょうがっこう6ねんせいから、したはせいご2さいはんまで、みごとである。みながしずかなときは、ファミコンかなにかでゲームにきょうじているときだけ、あとはいえじゅうをぶたいにしてのとびはね、ゆっくりサケでものみたいわたしのいばしょがないくらい。げんきなことはよいことと、せいかんするようにしてはいるが、ときどきはどなることも。するといっときはしずかになるが、それもつかのま、だいたいおやがこにあまいからだ。それにしてもこどもらのいちばんのたのしみは、まご6にんがざこねしての「がっしゅく」らしく、むじょうのたのしみにしている。
 よくなつはゴルフふゆはスキーとあそびほうけていて、いつもカミさんからおこごとばかりちょうだいしていたダンナが、まごができたとたんにへんしんしてしまって、まごにメロメロになり、こんなにかわいいとはとおっしゃるごじんをたくさんしっている。ところが、わたしはきままなのか、きまじめなのか、まごができてもへんしんすることもなく、なんとなく、まごというものはうるさいそんざいいがいのなにものでもない、というへんけんをもちつづけている。このねん2かいのこうれいのまごたちのしゅうらいは、まさにおおがたのまごたいふうそのもの、というのがいつわらざるじっかんである。また、これほどおおがたでなくとも、ゴールデンウイークとか、ときたまある3れんきゅうに、こがたないしちゅうがたなのが、とつじょらいしゅうすることもある。しかし、しょうせいはくわばらくわばらでも、カミさんのほうはだいたいかんげいのようだから、まんざらでもないのだろう。
 そのたいふうのかくが、ようやく18にちにはよこはまやちばにさり、つめあとはそこここにのこってはいるものの、ようやくせいじゃくがおとずれ、これからふっこうがはじまる。それとこのゆめと、とくべつかんけいがあるとはおもえないが、ゆっくりとねられた17にちのあさ、ふしぎなゆめをみた。このゆめのなかで、わたしはははとはなにもはなししていないが、めざめたとき、はっと、ははのゆめだったとおもった。こまかいことはもうおぼえていないが、すごくてさきがきようだったははのさくひんが、もうとぶようにうれにうれて、にゅうわでやさしい、まっしろなかみのははが、わたしにむかってほおえんでいたことだけは、のうりにやきついている。
 わたしはかなざわしののまちのみなみにのびる、きゅうなんたんこくどうをあるいている。わたしはわたしをふかんしてみていることになる。なにかちょっかんで、ここがやよいちょうであることがわかる。とあるみちをやまてのほうにまがる。そして、アクリルせいのとうめいなかいだんをあがって、びじゅつかんとおぼしきたてものにはいる。びじゅつかんとしたのは、がいかんのいちぶが、かなざわしの21せいきびじゅつかんとにているいんしょうをうけたからだ。でもやねは、ピンクやスカイブルー、グリーン、イエローのふうせんのような、まるくてとうめいなやねのかさなりの、げんそうてきなやかたのかんじ。まさにえほんにかかれたおとぎのくにのたてものともいえる。なかへはいると、じんこうのひかりはなく、ぜんたいがとうめいで、ひかりかがやいている。そして、かげがまったくできないくうかんがげんしゅつしている。わたしはくつをはいているが、なかにいるひとにはあしはない。くうかんのいどうは、まるでふうせんがかぜにゆれるように、おともなくうごいてゆく。ようふくをきているひともいるが、おこめのつぶをおおきくしたようなふうせんのかたちをしたひとかたまりのむれもいて、やはりひだりのほうへといどうしている。いっぱいなので、わたしはてまえをひだりへまがって、とあるへやへはいる。とはいってもすべてとうめいなので、とあるくうかんとでもいうべきか。とうめいとはいっても、このくうかんからは、さきほどのひとのむれはみえない。テーブルがあって、そのうえに「百」とかいたカードがむすうに、きちんときそくただしく、いりぐちにむかってたっている。なにをいみするのかまったくわからないが、これもははのさくひんのひとつなのだろうか。てまえにズームレンズののぞきがあって、カードをみられるようになっている。めをあてると、「百」にじがまじかにみえる。ついで「百」のじは「白」にかわる。そしてさいごには「一」になった。これがなにをいみするのか、まったくわからない。きつねにつままれたようなかんじで、さきほどのひとのむれのあとにつく。ひとたちはひだりにおれ、だんを2、3だんあがったところで、なにかほそながいふうせんのようなものを、おんなのこからもらっている。ゆうしょうなのかむしょうなのかもわからない。
 そのときふいに、ちかくのおひゃくしょうさんのカミさんだろうか、くろいしょうぞくののらぎをつけたかたが、これをあなたのおかあさんにわたしてくださいと、なにかたべものでもはいっていそうなつつみをわたされた。ちゃいろっぽい、ふとうめいなつつみ。わたしはははのプライベートなへやともいうべきくうかんへ、それをもっていった。そこにははははいなかった。そこはとうめいなカプセルになっていて、おおきめのおしいれといったかんじのくうかん。どうしてそこにゆけたのか、きおくにはない。ただそのカプセルには、とうめいなさまざまなしきさいの、いろんなかたちをしたさくひんが、あしのふみばもないくらい、またかべにもてんじょうにもちらばっている。わたしがおいたつつみだけが、いくうかんをかもしだしている。このふしぎなたてものは、ははのしょゆうぶつなのだろうか。ほかにも、てんじぶつはあるのだろうか。
 かえろうとしたら、わたしのうしろのくうかんに、ははがあらわれた。スクリーンにうつしだされたようなおおきなかおがそこにあった。にゅうわでやさしい、ほほえんでいるかおがそこにあった。かみはふさふさしてまっしろだ。げんきそうだ。はははわたしにはなしかけることもなく、ただほほえみをうかべていた。そして、しずかにきえた。
 ひとのむれがあそこで、おんなのこからもらっていたもの、それはゆめのなかではあれだなとわかっていたのに、ゆめからさめてしまってからは、それがなにだったかをおもいだそうとしたが、おもいだすことはできなかった。

遥かなり諸々の百名山(8.24)

 愛読している前田秀典の日めくり日記の8月7日の記述に、山へ行き始めて2年経過して、百名山のうち、前田氏12座、宮川氏33座、増田氏9座とあった。それでは小生はどうなのだということで、検証してみた。大学へ入学した年を起点とすると、山へ入ったのは昭和30年から33年にかけての学生時代と昭和35年から43年の就職初期と延べ1年の東京研修時期、そして仕事一途から目覚めて山へ行きだした昭和52年以降現在までの43年ということになる・学生の頃は年60日位は山に入っていたが、去年の私の実績は20日ばかり、ゲレンデスキーを入れて33日だった。70を迎える齢69の時期にこれまでを振り返ってみるのも一興か。
 まず、かの有名な多くの病持ちを蔓延らせてしまった「深田久弥日本百名山」を見てみよう。3分の1位は出かけているかと思いきや、それに満たない31座、宮川氏にも及ばないのには恐れ入った。冥土の土産には、せめて5割としなければなるまい。順に頂を足下にした山々を記してみる。番号はほぼ北から順になっている出典の番号によった。
《12八幡平、18蔵王山、28燧ヶ岳、29至仏山、41草津白根山、45白馬岳、46五竜岳、47鹿島槍ヶ岳、48剣岳、49立山、50薬師岳、51黒部五郎岳、52水晶岳、53鷲羽岳、54槍ヶ岳、55奥穂高岳、56常念岳、57笠ヶ岳、59乗鞍岳、61美ヶ原、62霧ヶ峰、64赤岳、71丹沢山、72富士山、73天城山、79鳳凰山、87白山、88荒島岳、89伊吹山、90大台ヶ原山、91大峰山。 以上31座》
 50座にはあと19座足りないが、もし行けるとして行きたいのは、北海道の利尻、羅臼、大雪、トムラウシ、東北の早池峰、朝日、飯豊、奥秩父の甲武信、金峰、瑞牆、中アの木曽駒、空木、南アの甲斐駒、仙丈、北、屋久島の宮之浦の16座。まだ3座足りない。
 次いで、「深田クラブ日本二百名山」の百座について検証したところ、たったの9座だった。これも出典の番号順に記してみることにする。
《46三ツ峠山、52戸隠山、54雪倉岳、55針ノ木岳、59奥大日岳、62燕岳、63大天井岳、78笈ヶ岳、86武奈ヶ岳。以上9座》 二百名山には、近くでは富山の毛勝岳、金剛堂山、岐阜の大日ヶ岳、能郷白山がある。
 引き続き「日本山岳会編日本三百名山」ではどうだろうか。同じように出典番号順に見てみよう。 
《31横手山、35大山、48斑尾山、51朝日岳、52唐松岳、53爺ヶ岳、54蓮華岳、56三俣蓮華岳、62白木峰、63人形山、64医王山、65大門山、66大笠山、67三方岩岳、69経ヶ岳、73冠山、82比叡山、84六甲山、*山上ヶ岳。以上19座》
 以上を単純に合計すると、三百名山中登頂したのは58座、率にすると2割弱だ。
 次に国土地理院発行の「日本の山岳標高一覧」に準拠した「山名・標高データ集/山岳標高ベスト100」に該当させてみよう。( )内数字は1m未満の数値を四捨五入した標高である。 
《1富士山(3776)、3奥穂高岳(3190)、5槍ヶ岳(3180)、8涸沢岳(3110)、11前穂高岳(3090)、19乗鞍岳(3026)、20大汝山(3015)、22剣岳(2999)、23水晶岳(2986)、26白馬岳(2932)、27薬師岳(2926)、28鷲羽岳(2924)、30大天井岳(2922)、31西穂高岳(2909)、32白馬鑓ヶ岳(2903)、33赤岳(2899)、34笠ヶ岳(2897)、36鹿島槍ヶ岳(2889)、37立山別山(2880)、38龍王岳(2872)、39白馬旭岳(2867)、43立山真砂岳(2861)、44双六岳(2860)、45常念岳(2857)、48三俣蓮華岳(2841)、50観音岳(2840)、50黒部五郎岳(2840)、52横岳(2829)、53祖父岳(2825)、54針ノ木岳(2821)、57五竜岳(2814)、57東天井岳(2814)、59抜戸岳(2813)、60杓子岳(2812)、65蓮華岳(2799)、67鳳凰薬師岳(2780)、70剣御前(2777)、71小蓮華岳(2769)、71赤岩岳(2769)、73横通岳(2767)、75鳳凰地蔵岳(2764)、76燕岳(2763)、78西岳(2758)、79樅沢岳(2755)、80スバリ岳(2752)、90白山御前峰(2702)、92唐松岳(2696)、95赤沢岳(2678)、96蝶ヶ岳(2677)、99爺ヶ岳(2670)。 以上50座》これを見ると、日本の高山の半数を歩いたことになる。まだ主に残っているのは南アルプスで29座あり半数以上、南は鳳凰三山にしか入っていないせいである。あとは北アルプスに9座、槍穂高間と裏銀座、それに全く入っていない中央アルプスに8座、ほかに八ヶ岳の南半の3座と御嶽山で、残り50座となる。
 視点を変えて、田中澄江の「花の百名山」に出てくる山と取り上げられた花の名を記してみよう。山名の頭の番号は出典の番号による。花の名は必ずしも高山植物というわけではなく、といってすべてがその山を代表する花というわけでもなく、百山に振り分けたという印象が強い。  《17八幡平(イソツツジ)、28尾瀬沼(ギョウジャニンニク)、29至仏山(アズマギク)、33志賀高原(イブキジャコウソウ)、39戸隠山(クリンソウ)、57大山(ウラシマソウ)、61天城山(ヒメシャラ)、67霧ヶ峰(ヤナギラン)、68白馬岳(コマクサ)、69鹿島槍ヶ岳(タカネツメクサ)、70爺ヶ岳(カライトソウ)、71立山(イワイチョウ)、72五色ヶ原(クロユリ)、73薬師岳(キバナシャクナゲ)、74黒部五郎岳(チングルマ)、75双六岳(コバイケイソウ)、76弓折岳(ムシトリスミレ)、77槍ヶ岳(トウヤクリンドウ)、78西穂高岳(センジュガンピ)、81白山(ミネズオウ)、90大台ヶ原山(イナモリソウ)。 以上21カ所》
 最後に今、週刊朝日に連載されている「岩崎元郎の新日本百名山」に該当させてみる。この選考基準は、全都道府県から一山を選んであること、経験の少ない中高年の登山者でも登りやすい山であること、麓に温泉がある山であることなどで、楽しみながらゆったりと登山し、下山後も温泉などでくつろぐのを旨としている。視点を変えて選んだ新百名山だ。結果的には、所謂百名山から51座、二百名山から17座、三百名山から9座の計77座が含まれている。
 都道府県別の山座数は次のようになっている。長野県が最も多く12座、次いで北海道が7座、5座が山梨、静岡の2県、4座が青森、福島、新潟、富山の4県、3座が秋田、山形、岐阜の3県、2座が岩手、宮城、茨城、群馬、東京、神奈川、兵庫、大分、宮崎、鹿児島の1都9県、残り2府24県は1座であった。うち登山した山座は22座で、1道11県に分布していた。該当する山は次のようであった。 《5藻岩山(北海道)、15蔵王山(宮城県)、41朝日岳42剣岳43立山44人形山(以上富山県)、45白山(石川県)、46荒島岳(福井県)、49鳳凰山(山梨県)、54白馬岳55唐松岳56爺ヶ嶽57燕岳58槍ヶ岳59霧ヶ峰60赤岳(以上長野県)、64奥穂高岳65乗鞍岳(以上岐阜県)、67天城山69富士山(以上静岡県)、73大台ヶ原山(三重県)、74武奈ヶ岳(滋賀県)、77六甲山(兵庫県)。以上23座》
 このほかに岳人編集部が歴史などを考慮して、一部を除き標高500m以上を対象にして選んだ百霊峰候補というのがあって、立松和平が月に1峰ずつ巡礼し、その記録が掲載されている。これまでに33峰と3分の1を巡峰した。地区別には、九州・中国・四国からは17峰、近畿からは18峰、中部・北陸からは20峰、関東からは29峰、東北・北海道からは16峰となっている。私が巡礼した霊峰名と霊峰に因んだいわれを記す。
《18比叡山(根本中堂)、25大峰山(奥駆け行)、36立山(雄山神社)、37剣岳(不動明王)、38白山(白山神社)、43笠ヶ岳(播隆上人開山)、49槍ヶ岳(播隆上人阿弥陀)、50戸隠山(戸隠神社)、54穂高岳(穂高神社)、56富士山(富士講)、58大山(阿夫利神社)、82弥彦山(越後一ノ宮)、87蔵王山(蔵王権現)。以上13峰》 
 百名山に託けて、過去を振り返ってみたが、今でも行きたい山はあるものの、どうしてもという気持ちの昂ぶりがない。機会があればという成り行き任せである。歳のせいだろうか。しかし地元の山である白山は、登るのも眺めるのも好きで、眺め眺められることをいえば、富士山に匹敵する。やはりこの共通した魅力は、孤高の独立峰であることに由来するのではないか。それと今どうしても達成したいと思っているのが、まだ足を踏み込んだことがない石徹白道のニノ峰から石徹白までの踏破である。そうすると、白山の全登山道を歩いたことになる。

処暑の白山はまだ暑いが花は秋の気配(8.29)

 8月20日に前田さん達4人が、平瀬道から大汝峰往復の山行をした。あとで前田さんに聞くと、大倉尾根のお花畑はなかなか見事だったとのこと。聞いて1週間後に訪れてみようと思った。私にとって平瀬道は秋のコースと決めている節があって、ずっと昔に夏下りた時以外はすべて秋である。あの頃は大白川温泉へは平瀬より歩いてしか入れない正に秘境・秘湯であった。昔あった泉源は地震で湧出口は変わってしまい、旧温泉はダムが出来て白水湖にあえなく水没してしまった。今あるのはダム湖が出来たあとに泉源を確保し再開したものである。前は箱抜けの桟道などの危なっかしい箇所をいくつか通り抜けてやっと温泉場に着けたものだ。その頃は混浴オンリーの素朴な温泉場だったのである。
 はじめは8月26・27日の土日を予定していたが、日曜に別の用事ができ、25・26日の金土とした。泊まりは南竜山荘と決めている。予定では砂防新道経由で室堂へ、頂上往復の後、平瀬道を大倉尾根中程まで往復、前田さんではシモツケソウが大変綺麗だったとかで、それに応えるためである。そのあと展望歩道を巡り、南竜山荘へ。翌日は別山からチブリ尾根を下り、市ノ瀬へ。ただ金曜の朝は、白山公園線は交通規制がないため、別当の出合の駐車場まで車を乗り入れてしまうため、市ノ瀬へ下ると、別当まで車を取りに戻らねばならないという煩わしさが生ずるのが難である。南竜山荘で偶然出会った探蕎会の宮川さん達は、空身で別山に往復して砂防新道で別当へ下る方法を採るとのこと、そういう手もあったか。
 白山は暑かったが、やはり処暑を過ぎると秋の気配が漂っている。ススキの穂はこの前の立秋の頃にも見られていたが、一段と数が増えていた。砂防新道では、この前には咲いていなかったハクサンカメバヒキオコシやセンジュガンピの花が沢山見られたし、キバナツリフネもよく目立った。それに秋の花の女王でもあるハクサントリカブトも咲き出していた。何となく今年の花の紫はいつもより濃く感じた。甚之助小屋を過ぎるとオニシモツケの群落がある。以前にはサラシナショウマが沢山生えていたような気がしてたが、勘違いだったのだろうか。一ノ越、二ノ越、三ノ越を経て十二曲り、シモツケソウやハクサンフウロはもうお終いに近い。ミヤマアキノキリンソウは花期の長い花だ。室堂から奥宮に登拝し、食事をして平瀬道を大倉尾根へ。
 室堂を出る頃はまだ視界がきいていたが、大倉への下りにかかる頃にはガスで視界不良に、この日は大倉尾根で6組の登山者に出会ったが、彼らも登り始める時は天気が良かったろうに、室堂近くになってガスで視界がないとは気の毒だ。何時頃からガスがと皆さんに聞かれる。この日は10時半が境だった。あとで南竜山荘で聞いたことだが、ここ5日ばかりは、朝晩は雲海があり、空は晴れ渡っているが、9時半から11時頃にかけてガスが湧き出して視界不良になるとのこと、正に同じパターンだった。室堂泊まりなら、朝は御来光が確実に拝めるだろうが、日中はガスでどうしようもない。大倉尾根を展望歩道の分岐から標高差にして300mばかり、ダケカンバ林まで下りる。前田さんの言うシモツケソウはほぼ花期が終わり、尾根はハクサントリカブトが盛りである。これほどの量は、観光新道の馬の鬣と殿ヶ池の間の斜面の群落に匹敵するものだ。オタカラコウも花数が少なくなっている。引き返す地点で見たタカネナデシコが印象的だった。登り返し、分岐から展望歩道を下る。天気が良ければ正に展望がきく素晴らしいコースなのだが、ガスの中。ミヤマリンドウがそこここに見られる。イブキトラノオの花期ももう終わりに近い。しきりとダケガラスやイワヒバリが恐れずに近くに姿を見せる。ガスが濃いからだろうか。南竜山荘近くになり、雨になった。ニッコウキスゲが数株花を付けていた。今年は花数が少ないと思っていたが、あとで南竜山荘である客が今年はニッコウキスゲの当たり年だという人がいて聞くと、エコーラインの登り口辺りの斜面では沢山花をつけているとか。確かに山荘から見ると、点々と黄色の花が見えている。あそこは大きな群落がある場所だが、他の群落のある場所では花数が極端に少ない。場所により差があるのだろうか。だがコバイケイソウは去年が当たり年だっただけに、今年の白山は極めて少ない。
 翌朝6時半に山荘を出る。1時間程前に4人連れが別山方面へ出るのを見た。テント泊のようだった。径は一旦赤谷に下り、登り返して油坂ノ頭を経て大屏風、御舎利山、別山と約2時間半の行程、半月前は花盛りで写真に随分と時間を要したが、今回は花数が少ないこともあり、順調に時間を稼げた。大屏風でこれから石徹白まで下りるという件の先行パーティーに追いついた。男のリーダーに女3人、中々お強い。石徹白へは一度は下りたいコースなので、話し合いながら歩いた。私が別山に着いた時は誰もいなかった。別山神社にお参りし、食事を済ました頃、同宿の人達や石徹白への下山組が相次いで着いた。この頃からガスが巻き出した。今日は少し早い感じ、三ノ峰方向は全く見えない。やがて視界不良となる。9時半に頂を辞す。市ノ瀬まで標高差1600mの下り、約4時間だ。チブリ尾根の下りでは、15組の登る人達に出会った。最も早い人は、別山と御舎利山との間で出会ったヤッケの老人?、市ノ瀬から4時間とか、私が下りに予定している時間だ。当然、南竜経由で別当へ。御舎利山では前田さんそっくりのタイプの中年の御仁に、この人は登山口から4時間とか、いくら軽装でダブルストックにしても驚きである。若い御婦人の単独行あり、テント泊のアベックあり、結構賑やかだ。それにしてもテント泊は南竜まで行かねばならず、大変だ。この手は私にはもう過去のこと、今はもう真似はできないだろう。チブリ小屋を過ぎて2分ばかり、あれっということで、出会ったのが浅岡さんだった。暫らく立ち話をする。巨漢は82kgという。それにしてもよくチブリへ、ここへは初めてだろうに、よくぞと感心する。別山へはこのペースなら2時間で着くだろう。別れて次々思い出の地点をクリアしながら標高を下げる。途中のブナ林でソバナの群落に会った。淡々と下ると、何か登りより下りの方が時間がかかるような錯覚に陥る。埃っぽい林道にやっと辿り着き、暑さのなか市ノ瀬に至る。丁度3時間50分を要した。標準タイム。脚力も落ちたものだ。別当へはシャトルバスで、バス停から登山道を70m下り駐車場へ、やっと車に辿り着いた。下界の冷たいビールが実に美味かった。 

白山初登山の野口健さんとのツーショット(9.5)

 9月2・3日の土日には、前田・宮川組は当初の予定通り鳥海山と月山へ出かけた。2山とも深田百名山、天候も安定しており、気の置けない友人と語らいながら登るにはもってこいの山だ。さて、小生の方は、かねての最後のコースの石徹白から二ノ峰へ歩こうと算段していたが、突然あの野口健氏が9月3日に白山へ来られるということで、2日は身辺整理と前祝い、そして3日は朝一番の午前5時のバスで別当出合へ向かうことにした。この2日3日は、カミさんは長姉と連れ立ち次姉のいる東京東中野へ、手足がないということは大変不便なことだ。が、これは致し方のないこと。朝2時に起き、いつもの朝の執り行いと食事をして3時半に家を出る。市ノ瀬までは丁度1時間、着いて身繕いをして5時に出る別当出合へのバスに乗る。立つ人もいる混みよう、50人以上はいたろう。
 これだけ沢山の人が登りだすと、始めからグループの人達は別として、独りとか二人だと何となくよく似た歩調の人達があい前後するようになる。その中の一人は65歳の越前大野の自営業の男性、毎週山へ出かけているとか、先週は薬師岳、今週は今年初の白山詣で、来週は荒島岳とか、恐れ入る。姿格好は山伏風情。今一人は72歳の金沢の男性、70歳で広告代理店を辞めてからの山漁り、先週は北岳と間ノ岳、今週は白山、来週は鳳凰三山、かくしゃくとした立派な体躯の紳士風。もう一組は若いママの二人連れ、今日は別山へ、そしてチブリ尾根を市ノ瀬へ下ると。女性軍と紳士風とは水平道分岐で別れる。ここまで2時間ばかり、別山はこの頃からガスが巻き出した。天気が良ければ快適な尾根歩きだが、ガスの中だと初めての人には歩いたというだけでチョット可愛そうだ。だったらまた挑戦して下さいと言って別れた。
 白山は陽が射すと暑いが、やはり1週前よりは秋めいている。先週はまだ咲いていなかったシュウメイギクが沢山咲き出している。砂防新道ではハクサンカメバヒキオコシが満開だった。水平道分岐では、サラシナショウマ、ハクサントリカブト、シモツケソウ、ヤマハハコ、タテヤマアザミ、ミヤマシシウドが目立つ。巻き道でもハクサンフウロが名残の花、9月に入って更に秋の色が濃くなった。十二曲りでは延命水で喉を潤し、黒ボコ岩、弥陀ヶ原、五葉坂を経て室堂に到る。ここまで3時間10分、そんなに疲れずに登れた。ザックを置いて、御前峰を往復する。頂では夏シャツ1枚ではチョット涼しい。早々に室堂へ下りる。
 当初は野口さんを室堂で迎えようと思っていたので、室堂で空き缶お持ち帰りの一番絞りと実に不味いゴム紐を連想する代物が少しはましになったかと思って買ったラーメンとで昼食にした。ビールはともかく、ラーメンは古い建物の時と全く変わらない実に不味い伝統の味そのまま、不味くても食わせるという体質はずっと受け継いでいる。まだ時間はたっぷりある。そうだ、彼氏は白山さんのお守りをエベレスト登頂にも清掃登山にも肌身離さずに持っていったと聞いたことがある。私も彼氏にあやかって奥宮の社務所でお守りを授かった。時間はまだ11時半、室堂で野口さんの到着時刻を尋ねるが、別当出合10時半以外は分からないとのこと、室堂まで3時間なら1時半、遊山を兼ねるとなると2時半、私が今日帰るとしてバスに間に合わせるとすると、2時半には室堂を発たねばならない。そうならば、途中でお会いしようと、正午に室堂を後にした。登られるとすれば砂防新道からだろう。
 ここで少し野口健さんについて触れねばなるまい。彼は父の任地のボストン生まれで今年33歳。少年時代をアメリカ、イギリス、中近東で過ごしている。私の記憶に間違いがなければ、彼は1999年当時、世界最年少で7大陸の最高峰を踏破したはずだ。25歳だったろうか。今はこの記録は塗り替えられていると聞く。彼が真価を発揮するのはそれ以後だ。彼はこの7大陸最高峰の登頂の最後の仕上げを3度目のエベレストへの挑戦で成し遂げた後、富士山の世界遺産登録運動に傾注するようになる。ある記者会見で、外国人記者から「日本人はエベレストをマウント・フジにするつもりか」と質問され、日本の登山隊が平気でゴミを残してくることへの非難と富士山が外国では汚れた山の代名詞になっていることを思い知らされたという。その発言に義勇心を燃やし、エベレストと富士山で清掃活動を始めたのである。エベレストでは4年間かけ、ベースキャンプばかりでなく前進キャンプまでも出かけ、危険に身を曝し、7トン以上ものゴミを回収したという。これが終了した時はその過酷さからもう二度とこのような清掃活動はしないでおこうと肝に銘じたと述懐している。彼が持ち帰ったゴミの一部は日本でも展示され、私はそれをテレビで見たことがある。彼は今でも年間20トンものゴミが出るという富士山で、引き続き毎年清掃活動を行っている。3度目のエベレスト挑戦に際して、白山比め神社にいた大学の先輩が彼にお守りを渡したが、彼はそれを持って登頂に成功したという。その後も清掃活動にも持参、彼はお守りが「精神的な支え」になっていると話す。今年はマナスルでも彼は清掃活動を行った。そのきっかけになったのは、日本人が初登頂したマナスルを現地ネパールではジャパニーズ・マウンテンと言っていて、そこは大変汚れているとか、お前なら日本人としてどうすべきかと問われた時という。ここはヒマラヤでも名うての豪雪地帯、今年も1日に2メートルを超える積雪もあったとか。20人で2時間以上かけてチョコレートの包み紙1枚しか出なかったこともあったとか、ゴミ回収はさながらゴミ捜索のようだったと述懐している。それでも222キログラムのゴミを回収できたという。この活動に感激したのは山麓のサマ村の人達で、日本隊が初登頂する時には村あげて反対したあの人達である。以後村の人達は日本人が私達の山をきれいにしてくれたのだから、私達も清掃活動をと、それも毎月の行事として始めたそうである。このことはゴミ問題には無頓着なネパールにあっては青天の霹靂以外の何物でもなく、清掃活動に命を懸けてきた私達への何よりのプレゼントだったと仰る。
 下りの十二曲りで、私がハクサントリカブトやシモツケソウ、ハクサンフウロ、ミヤマシシウドなどの花の写真を撮っている時、一人の白髪の紳士が先を越して行った。ご老体だしすぐに追いつくと思っていたのに、以外と早い。もうそろそろ野口さん御一行と御対面と思っていた矢先、もうすぐに水平道との分岐という場所で6人パーティーに出会った。とっさに3人目の方を野口さんと思い込み、少々肥えられたなあと思いつつ写真を撮らせてもらった。一行のトップは40L一杯に荷を詰めたザックを背負った若者、当の本人(後で誤認と判明)はサブザック、一行に女性が一人いて、その人が翌日の新聞では大きく野口さんの傍に写されていたので、この一行もやはり関係団体だったのだが。そこから更に下って、分岐と甚之助小屋との中間辺りの下り道(相手からすれば登り道)で、今度は本物の野口さんの3人パーティーに出会った。また写真を撮らせて下さいと頼んだら、一人よりはあなたと二人の方が良いでしょうと、連れの人に私のデジカメを渡してのツーショットと相成った。その上、手を差し出されて私と握手、感激した。知っている人は知っているが、知らない人は知らないという経での出会い。この日は登山者が殊の外多く、所々で立ち往生。これでは先には進みづらい。翌日の新聞記事では、甚之助小屋でもトーキングがあったようだ。ここまで別当出合から2時間40分ばかり、室堂着は2時半だったという。
 甚之助小屋では休まずに下る。別当覗まで下ると件の老紳士がいた。何と元気な。金沢の人で、歳は聞けなかったが、山は情熱、歳とは無関係と仰る。正に山に嵌まったという感じ。人の余り行かない山は怖くて行けないが、そうでなければ何処へでもと言われる。凄い老紳士だ。一緒になって下りたもう一人の男性は54歳の若者、発泡スチロールの箱を右手に、ザックに大きなゴミ袋を二つもぶら下げた異様な風体、立山の麓の出身とか、先週は馬場島から剣岳へ日帰り往復したとか、薬師岳も折立から日帰りという。老紳士と若者の外にもう一人の老婆がいた。右手にこうもり傘、左手にスキーのストック、途中で追い抜いて前の二人に追いつき、一緒に下りる。そこでさっきのバアさんはと聞くと、54歳の若者は私のオフクロだと。何と84歳。すごい話だ。私の知っている福井の女の画家の方も同い年で足腰しっかりされていて、南竜が仕舞う数日間を山荘で過ごすのを恒例とされているが、こんな田舎のバアさんがと全く驚いてしまった。聞くと、若者が山へ1回出掛けると、その罪滅ぼしにオフクロを1回山へ連れて行くとか、先週は医王山の鳶ヶ岩へ連れて行ったという。イヤハヤである。彼らとは中飯場跡で別れ、私は先を急いだ。
 今日は何と沢山のユニークな人達に出会ったことか。楽しい1日だった。それにしても、ヒマラヤや富士山で清掃活動を実践されている野口健さんが白山に初めてお出でたことの意義は大きい。白山のゴミお持ち帰り運動は全国に先駆けて行われた先達でもある。今日も径にはゴミは見当たらなかった。今では各地の山や行楽地でもこの運動は波及しつつあるが、まだ緒についたばかりである。富士山には年に40万人もの登山者があるだけに、啓蒙しきれないでいる。野口健さんがマナスルで清掃登山をしているのと期間を同じくして、今年6年目の富士清掃登山を女優の若村麻由実さんを隊長に約2百人が参加して行われ、約3トンものゴミが回収されたとか。ゴミ問題が解決されない限り、富士山の世界遺産登録は覚束ない。

白露、敬蔵、長倉、山猫(9.11)

 二十四節気の一つの白露は、今年は9月8日、朝夕は涼しくなり、草木の葉に宿る露が白く光るからという。1週間前に、蕎麦処「敬蔵」から、かねて頼んでおいた信楽焼の小皿が届いたとの電話があって、寄ろうと思いながらも用事が重なり寄れず、この日やっと夜に家内と寄れた。それに先立ち、探蕎会では秋の行事の手始めに白山麓の蕎麦処を巡ることとし、その候補に挙がったのが「山猫」と「花川」だった。参加予定者は15名だが、どちらの店も20名も入ればほぼ満席になってしまう。そこで「山猫」さんへは前田局長からは私から「敬蔵」さんを通じ、何時頃に寄ればよいか、聞いてみてほしいとのこと、連絡していただいたところ、10時40分に来て下さいということになった。11時開店なので、少し前にという配慮、大変有難い。ただ、手挽きは日曜日にはしないので了承してほしいとのことだった。大挙して押しかけるのだから、それ位の辛抱はしなくては。
 「敬蔵」の後半の営業時間は5時半から8時まで、私は6時半に帰宅、でも家内が中々帰って来ない。常飲の三楽も定量の4合を飲んでしまった。漸く7時半になってのお帰り、遅くなったが行くと案内済みなので出向くことに。カミさん、アンタ家の前に出て待っていてくれたら、もっと早く敬蔵さんに着けたのにという無茶を仰る。もう今晩の定量は入ってしまっているので、ここは我慢のしどころ、とてもそこまでは気が回らなくてと、殊勝な応対で済ましておいた。敬蔵では、家内は「もり」、私は「鴨汁そば」、つまみに旬菜、飲み物は彼女はノンアルコールビール、小生は加賀鳶、そばは二人共細打ち、蕎麦も旬菜も酒も旨い。酒もついすすんで正2合、良い気分になる。頼んであった品を受け取り、時間も8時を回ったので帰ろうとしてたところへ「山猫」の主人の田口さんが入って来られた。何という偶然。明後日会でお世話になりますと挨拶。そんな同好の方々だったら、日曜だけど手挽きをしましょうかと仰ってくれたのには感激した。またお酒も飲まれるのでしたら、出汁巻き卵でも用意しましょうとも。大変有難いお気遣い。明日は私一里野の奥の長倉山に出掛けますので、帰りにまた寄りますと言って別れた。
 帰ってカミさんに付き合ってまたビールを0.5L空けた。明日の長倉行きは一里野のゴンドラの始発が9時半とのことなので、家は8時出、ゆっくりだ。天気は明日一日はもつとのこと、ゆっくり出かけよう。少々蒸し暑い日だ。何故長倉へ、それは石徹白から二ノ峰をトレースすれば白山の全登山路を踏破したことになると書いたものの、考えてみると、加賀禅定道は通ったものの、あの折はゴンドラ駅への新道を通ったことに気が付き、改めて檜新宮を通る本来の禅定道を通らねばと思ったからである。出来れば奥長倉山まで行ければと出かけた。
 自動車は一里野に停めてもよいが、旧参道を下りるので、中宮温泉への道と岩間温泉への道の分岐に停めることとする。車を停め、一里野ゴンドラ駅まで歩く。駅へは9時10分に、ゴンドラは動いているがまだ点検中とのこと、17分に乗れた。終点まで高度差500米ばかり、7分の乗車。ここから歩き出す。
 潅木の暗い林の中、もくもくと歩く。作業道を横切り、さらに潅木林を進む。秋のせいか茸がやたらと目につく。白、茶、赤。いつかの下りでは、駅に近く見晴らしのよい開けた場所があったのにと思いつつ登る。下の方で人の声がするので立ち止まると、さっき駅で会った中年の夫婦だった。私よりは遥かに元気だ。昨日の飲み過ぎが祟ったのか、足は重く、気は晴れず、息づかいも何となく荒い。いつか前夜にドンチャン騒ぎして観光新道を登ってシッペをこいたことを思い出した。年甲斐もなく飲みすぎて山へ登るとは、不届き至極、反省する。思っていた開けた場所に着いた。元気のある夫婦に道を譲ろうと思ったら、この人達の目的は此処だったらしく、ゆっくりと腰を下ろして、ザックも外した。此処なら気持ちのよい場所だ。これより上にはこんなに寛げる場所は奥長倉山まではない。もう少し風があるとよいのだが、とにかく暑い。汗が滴る。檜倉を過ぎ、雑木林は次第にブナ林に、それでも風は吹かない。ハライ谷を挟んだ檜新宮の参道の尾根が迫ってきて、山の高みが見えなくなった頃、シカリ場の分岐に着いた。予定の12時に20分早い。一旦鞍部に下り、さらに緩やかな登りを続け、長倉山まで歩く。頂らしき頂ではなく、ブナ林とあって見通しは利かない。ここに来てもう1時間歩いて奥長倉山まで行く元気が萎え、戻ることにする。時間は12時20分、シカリ場分岐に戻り、旧参道を下りる。此処から1000米の下り。始めは坦々とした下り、白山は檜新宮近くの右手が切れている場所から遠望できるが、あとはブナ林の中、下るにつれてスギ林が現れ、潅木林のジグザグな急坂を下ると、登山口のハライ谷口に出た。ここは岩間温泉へ行く道路の途中、道路脇に3台の乗用車が駐車、下りの途中に出会った中年の男性独りと2組の夫婦の車なのだろう。それにしても1000米登っても見通しの利かない尾根筋をよく登るものだと感心する。眺望が利く奥長倉山まで8キロ近く、6時間はかかろう。いつか前にこの加賀禅定道を下りた時、天池辺りの木道で、前夜奥長倉避難小屋で泊まったという自転車を肩にして登ってくる若者と出会ったことを思い出した。
 車道を歩く。大変暑い。丸々と太った小父さんに会う。やせるために岩間温泉まで歩くのだとか。道路の決壊もあって、山崎旅館は休業のはず、この先で温泉へ入るとすれば、元湯まで行かねばならない。そこまで行き着けるだろうか。歩くのさえしんどそうなのに。私の方もすぐに車に辿り着けると思ったら、駐車した場所まで20分もかかった。
 着替えて「山猫」へ寄る。何と滑り込んで私がラストオーダー、「おろしそば」も太打ちがなくなり細打ちでと、細打ちのおろしは初めてだったが、中々良かった。私が食べた蕎麦がこの日の最後、次に来た人からは無くなったので又にして下さいと奥さんが断っていた。何という僥倖。明日はまた探蕎会で此処に来ることに。平日しか打たない手挽きをこれから打ちますと、明日が楽しみだ。帰って飲んだビールは、正に甘露の水であった。

「ハクサン」という冠名の付く植物(9.12)

 白山の案内書を見ると、白山は高山植物の宝庫であると書かれている。確かに白山以西には2000米を超す山はないことから、白山が西限となっている植物は数多い。ところでその証というわけではないが、植物名に「ハクサン」と冠名を付けた植物も多く、大概は18種あると書かれている。しかし18の植物名をきちんと書いてある本は先ずない。そこで、頭に「ハクサン」と名の付く植物を私なりに収集してみた。しかし、これは単なる書き記しや覚え書の類であって、学術的価値のあるものではない。したがって出典とか引用文献など、学術論文では通常明らかにすべき根拠はここでは示していない。ただ、当然のことながら、私の私製語や私製名は一切ない。また本来は学名(標準和名でなく、ラテン名)を記さねばならないが、単なる覚え書程度のものなので、これも省略した。また漢字名も付記したが、これも正式なものではなく、当て字と考えてよいのではと思っている。以下は私なりのまとめである。ジャンル内の順序は50音順とした。
A. 植物名に「ハクサン」もしくはこれに類する冠名が付き、しかも白山で採取された標本が「基準標本」となっていて、かつ白山が基準標本の産地である植物:1.ハクサンイチゲ〔キンポウゲ科・イチリンソウ属〕白山一華、白山一花。2.ハクサンイチゴツナギ〔イネ科・イチゴツナギ属〕白山苺繋。3.ハクサンオオバコ〔オオバコ科・オオバコ属〕白山大葉子。4.ハクサンコザクラ〔サクラソウ科・サクラソウ属〕白山小桜。別名ナンキンコザクラ・南京小桜。5.ハクサンシャジン〔キキョウ科・ツリガネニンジン属〕白山沙参。別名タカネツリガネニンジン・高嶺釣鐘人参。 6.ハクサンボウフウ〔セリ科・カワラボウフウ属〕白山防風。以上6種のうち、学名にhakusanの名が入っているのは次の4種である。種名に記載があるのは、2.ハクサンイチゴツナギと3.ハクサンオオバコ。変種名に記載があるのは、4.ハクサンコザクラと5.ハクサンシャジン。7.リョウハクトリカブト〔キンポウゲ科・トリカブト属〕両白鳥兜。白山を盟主とする石川・富山・福井・岐阜に跨る山域を、国土地理院発行の地形図では「両白山地」と呼称しており、これに因む。亜種の学名にはryouhakuの記載がある。
B. 「ハクサン」と冠名がある植物で、それが標準和名となっている植物:1.ハクサンアザミ〔キク科・アザミ属〕白山薊。2.ハクサンオミナエシ〔オミナエシ科・オミナエシ属〕白山女郎花。別名コキンレイカ・小金鈴花。3.ハクサンカメバヒキオコシ〔シソ科・ヤマハッカ属〕白山亀葉引起。4.ハクサンサイコ〔セリ科・ミシマサイコ属〕白山柴胡。5.ハクサンシャクナゲ〔ツツジ科・ツツジ属〕白山石楠花。6.ハクサンスゲ〔カヤツリグサ科・スゲ属〕白山菅。7.ハクサンタイゲキ〔トウダイグサ科・トウダイグサ属〕白山大戟。別名ミヤマノウルシ・深山野漆。8.ハクサンチドリ〔ラン科・ハクサンチドリ属〕白山千鳥。9.ハクサントリカブト〔キンポウゲ科・トリカブト属〕白山鳥兜。10.ハクサンハタザオ〔アブラナ科・ハタザオ属〕白山旗竿。11.ハクサンフウロ〔フウロソウ科・フウロソウ属〕白山風露。以上11種のうち、学名にhakusanの名が入っているのは次の2種である。種名に記載があるのは、9.ハクサントリカブト。 変種名に記載があるのは、3.ハクサンカメバヒキオコシ。
C. その他の冠ハクサン植物名:1.ハクサンカニコウモリ〔キク科・コウモリソウ属〕白山蟹蝙蝠。2.ハクサンノアザミ〔キク科・アザミ属〕白山野薊。3.ハクサンミズゴケ。4.ハクサンナガダイゴケ。
D. 白山御前峰に由来する「ゴゼン」を冠した植物:1.ゴゼンタチバナ〔ミズキ科・ゴゼンタチバナ属〕御前橘。 
E. 加賀の白山を指す「オヤマ」を冠した植物:1.オヤマソバ〔タデ科・タデ属〕御山蕎麦。 オヤマリンドウ・御山竜胆は、白山山腹の木の多い処に生える竜胆の通称。
F. 薬草に白山を冠した植物:「白山黄耆」の名で古くから薬用にされた薬草は、岩黄耆、別名立山黄耆。 イワオウギ〔マメ科・イワオウギ属〕 別名タテヤマオウギ。
G. 白山で採取された標本が「基準標本」で、かつ白山が基準標本の産地である植物:1.ウラジロナナカマド〔バラ科・ナナカマド属〕裏白七竃。2.オオバキスミレ〔スミレ科・スミレ属〕大葉黄菫。3.カライトソウ〔バラ科。ワレモコウ属〕唐糸草。4.キヌガサソウ〔ユリ科・キヌガサソウ属〕衣笠草。5.クロトウヒレン〔キク科・トウヒレン属〕黒唐飛廉。6.タカネコウボウ〔イネ科・ハルガヤ属〕高嶺香茅。7.タテヤマウツボグサ〔シソ科・ウツボグサ属〕立山靫草。8.ヒメクワガタ〔ゴマノハグサ科・クワガタソウ属〕姫鍬形。9.ミヤマコゴメグサ〔ゴマノハグサ科・コゴメグサ属〕深山小米草。別名ヒナコゴメグサ・雛小米草。10.ミヤマゼンコ〔セリ科・エゾノシシウド属〕深山前胡。11.ミヤマタネツケバナ〔アブラナ科・タネツケバナ属〕深山種漬花。12.ヨツバシオガマ〔ゴマノハグサ科・シオガマギク属〕四葉塩竃。
 以上、冠ハクサン植物をまとめたが、学名のある有維管束植物では17種、これに類する冠リョウハクが1種、冠ゴゼンが1種、冠オヤマが1種であった。ただ、冠ハクサン植物や基準種は多いものの、白山特産の固有種は無いとされている。     

口能登の蕎麦処、茗荷庵と欅庵(9.20)

 9月17-18日は家内の勤める病院の看護師さんの希望で、昨年に引き続き加賀白山へ登る予定だったところ、生憎の雨模様と台風13号の襲来で、1週延ばしの23-24日になった。ところで、今月13日に、白山の別当谷上流部で7日に土石の崩落があり、砂防新道の一部に崩壊の危険性が増したとして、中飯場跡から水平道分岐までの間を通行止めにする処置が取られた。石川県からのお知らせでは、当分の間となっていて、白山登山は観光新道を利用して下さいとある。2年前の別当谷の大崩落では、別当谷に架かる旧吊り橋が土石流に流されてしまい、かつ砂防新道の登り口にも大量の土砂が堆積し、この時は新橋の架け替えと登山道整備のため通行止めが続いた。それにしても、石川県側からの登山道で最もポピュラーなのが砂防新道であって、ここが通れないとすると観光新道が主なルートとなるが、この道は急なところもあり、総じて狭いこともあって、シーズン中だと相当な混雑が予想される。夏の最盛期は終わったとはいえ、まだ登山者は多い。また降雨時には通行に支障を来たす個所もあり、砂防新道からみれば整備は遅れている。
 ところで、白山で宿泊するときは、南竜山荘が営業していれば、室堂には泊まらないことにしている。居心地は南竜山荘の方がずっと良いからである。室堂宿泊の唯一の利点は、御前峰での御来光を拝む便利さのみといってよい。したがって10月になれば、泊まるとすれば室堂しかないということになる。さて砂防新道を登り下りに使えないとすると、今度の白山行きも極めて不都合となる。登りは観光新道として、下りをどうするか。南竜山荘泊まりだから御舎利山からチブリ尾根を市ノ瀬に下るのが妥当なのだが、家内は一度下りてもうこりごりだという。とすると、とにかく黒ボコ岩まで登り返して観光新道を下るしかないということに。そこでその相談も兼ねて、山へ行く二人の孝子さんを口能登の蕎麦処、羽咋神子原の茗荷庵と七尾国分の欅庵へ誘った。ただし車の運転は家内の孝子、私はお酒、もう一人の孝子さんはお酒は召し上がらないとか。10時に出立する。
 天気は曇り、医王山の双耳峯が全く見えないから、雲高は800米ばかりだろうか。一路国道159号線を北上する。東往来の長男の嫁の里の旧押水町の上田出を過ぎ、旧志雄町も過ぎ、羽咋市に至り、氷見に通ずる国道415号線に入る。暫らく走ると標識に神子原の文字が、そして程なく国道沿いに「そば」の幟、茗荷庵である。車が1台止まっている。時間は11時10分ばかり、次々と3台来る。4台の車ナンバーは富山と石川とが半々、中々の繁盛だ。玄関の入って右手が打ち場となっていて、ガラス越しに中が見える。通路をはさんで左の上がり框が客室、10人も座れそうな大きないろりと8人座れる大きな座卓が2脚。通路の右手にはカウンターもあって、5人掛けられる。入った時は止まり木に1人、座卓に2人いた。
 品書きを見て、両孝子さんは「天ざる」、小生は酒と「鴨せいろ」はないので温かい「鴨南蛮」、酒は銘はなく、ただ酒とあるだけ、あとはビールとそば焼酎。酒は冷酒。すぐに持って参りますと。鴨南蛮は後にしますから、要るときにご案内下さいと、中々気が利いている。程なく、藍色の背の高い湯呑状の片口と対の盃、つまは蕎麦味噌、いい感じだ。酒はキリッと冷えている。二人の女性にも天ざるが届く。天ぷらは角盆に乗り切らない6種盛り、海老、蟹、南瓜、茄子、金時草、しめじ。蟹とは珍しい。添え塩は岩塩。そばは細打ち、敬蔵の細打ちよりもっと細い。そばは角の塗ったせいろに盛られている。家内は小さな声で敬蔵さんより盛りは少なめと。一筋摘まましてもらう。中々こしもあってしっかりしている。喉越しもよい。上等だ。酒がなくなり、お代わりの酒と鴨南蛮を所望する。ややあって鴨南蛮が届く。そばはやはり細打ち、そぎ切りした葱の合間にそばが見え隠れする。温いそばは、駅の立ち食いそばを除けば、思い出るのは竪町の砂場以来のような気がする。そばを手繰るが、温かいのにしっかりこしがある。これは余程しっかり打ってないとこうはゆくまい。早々にそばをすべて手繰り、あとは葱と鴨を肴に、残り1合を干す。汁の色は濃くない。鴨も葱も絶妙の火の通り、実に美味しかった。一寸文句の付けようがないくらいの出来。また来る価値は充分ある。書院に芳名録があり見ると、石川、富山以外の他県からもかなり客が来ている。此処へ移って4年目、そう宣伝しているとは思えないから、恐らくは口コミなのだろう。場所が静かな山間の田園の国道筋というのも、立地条件としては大変良いような気がする。この日は丁度秋祭りの日、神輿が出ていた。
 一旦東往来に戻り、旧鳥屋町へと左折し、七尾線を渡り、西往来を七尾市へ向かう。国分町へ入って気を付けて進むと、右手に欅庵の目印、右折して部落に入り、程なく右手に目指す欅庵が。古びた民家の風情。車が1台、入ると明るい窓際の座卓に女性2人がいた。この庵の主の岡崎さんとは、彼が脱サラする前の知己、この前3月に初めて寄った時に、いきなり木村さんと声をかけられてびっくりしたものだ。あれから半年ぶりである。ここではそばがメインのようだが、ほかに古い着物の再利用なども手がけ、奥さんが取り仕切っておいでのようで、件の女性もそちらがお目当てのようだった。奥さんは日曜祭日のお休みの日のみの出勤とか、主も生活の本拠は金沢近郊とのことだった。
 お酒は吉田蔵、福正宗、天狗舞、大雪渓の4種、大雪渓を所望する。両孝子さんは「辛味おろしそば」、小生は「鴨せいろ」、つまみに板わさ、出汁巻き卵とにしん棒煮を頼む。おろしそばは細切り、おろしと葱を皿に入ったそばの上に乗せ、出汁をかけぶっかけにする。辛味とあって大根はかなり辛いらしく、家内はおろしを横へ除ける始末、もう1人は辛いが美味しいと、少し貰うが私にとっては願ってもない辛味とみた。そばは先程の茗荷庵と比較すると、同じ細打ちだがやや柔らかく、こしが落ちる。辛味で引き締めればそこそこになるかも知れないが。酒をもう1杯所望し、鴨せいろも頼む。鴨汁は温かい。汁の色は極端に濃く、濃口醤油を使用しているのだろうか。味も若干くどめ、鴨の肉も熱を加え過ぎてて硬い。そばはせいろに載せられている。そばを手繰る。どんぶり汁に漬けると濃過ぎるので、半分漬けて喉へ。そばはかなり切れている。女性2人はさっきの方がずっと良かったわねと宣うた。私も追随した。家内の残したおろしを全部もらい平らげた。時間が経ったのか、辛いものの大したことはない。主が来て、辛味大根はどうでしたかと聞く。家内はギブアップだったと言うと、してやったりという表情。この大根の名前は「みのわ大根」といい、産地は信州でも伊那よりの地で栽培されているとかで、形は蕪のように丸い形をしていて、丸い形のもの程辛いとか。今まで扱った辛味大根の中では最も辛いと仰る。今は1年の3分の2はこれを使っているとのこと。土付きで購入するとか、帰りに土を落としたのを2個頂戴した。  
 帰りにもう1軒寄ろうと提案したが、拒否された。もう1人の孝子さんも娘共々蕎麦が大好きと仰る。敬蔵の話をしていたら、その日の晩に早速娘と出掛けたと聞いた。私がそんなに蕎麦が好きなのでしたら、蕎麦好きの会がありますからどうですかと言ったら、家内は偉い人ばっかりで大変よと牽制した。ところで気が付いてみたら、肝心の山の話をするのをすっかり忘れてしまった。天気も心配だが、道の修復の方はどうなのだろうか。山へ行く連休までには通れるようになるという情報もあるのだが、ぜひそうなってほしいものだ。  

秋の白山 (その1)ハプニング(9.26)

 9月17-18日に家内の勤める病院の看護師さんの希望で昨年に引き続き白山へ登る予定だったが、生憎の雨模様と台風13号の襲来で1週延ばしの23-24日になった。ところで、今月7日に白山の別当谷上流部で土石の崩落があり、砂防新道の一部に崩壊の危険性が増したとして、9月13日以降当分の間、中飯場跡から水平道分岐までの間を通行止めにする処置が取られた。面倒なことになったと思っていた矢先、突然21日に迂回路が出来、通行が可能になったとのこと。県のHPでは、山側の東よりに500米とある。思い浮かべてもどの部分が危険なのか実感が湧かないが、別当谷の崩落を映し出していた監視カメラが設置されている場所は、別当覗と甚之助小屋の間にある。家内も連れも山歩きは今年初めて、これで登りの観光新道を下りに使わなくてもすむのは大助かりだ。
 家内の連れの彼女にとって、昨年は白山は初めてということで、持ち物から食べ物まで事細かく指示したが、今年は去年を参考にしてもらえばよいと思い、特段の指示を出さなかった。持ってきたザックも割とコンパクトで、先ずは良し。家を4時30分に出る。市ノ瀬まで1時間、バスには3番出の5時50分発で別当出合に向かう。別当出合からは観光新道を辿る。出発は6時30分。
 今年初と聞いたので、私が先頭でゆっくり歩く。第一関門の急な沢筋の登りの土砂崩れのあった第一段、それに続く第二段まではぴったり付いて来てくれたが、第三段目になって遅れ気味になった。しかし狭い谷筋、止まるのも憚れ、とにかくここを抜け出して別当坂分岐まで頑張れと声をかけた。あと高度差では30米位か。5分経っても登って来ないので下りてみると、元室堂まで4Kの道標(今年の大雪で倒壊して行方不明)があった場所で、白い顔をして休んでいた。びっしょりの汗、厚着してたとのこと、そりゃこのきつい登りでは大変だったろう。家内に薄着になるよう指示して、とにかくもう10米登って分岐まで来るように言う。5分位して着く。蜜柑等を補給し、10分位休む。これから梯子坂、高度差は100米、彼女を先頭にして登る。かなりピッチが早い。もう少しゆっくりと言うが、遅くならない。坂を3分の2位登った所で止まった。立ち止まってもよいからゆっくり登ってきてと、狭い場所なので私は坂上まで登って待つことに。10分ほど待って、彼女は着いた。どっと崩れるように座り込む。聞くと、昨晩はそばのみ、今朝はパン2枚と蜂蜜のみ、これは完全にシャリバテだ。
 家内はとにかく二人で南竜山荘まで行くから、あなたは先に行ってと言う。まだ時間は8時半、とにかく、もう600米登って黒ボコ岩まで着ければ、後は南竜山荘へは下りばかりなので、夕方までに着いてくれればと、不本意ながら家内の案に同意した。二人分の昼食を渡し、家内に後を託して先行した。殿ヶ池避難小屋で一服し、次々と登ってくる人に女性二人組の消息を聞くと、梯子坂上にはもういなくて、尾根筋を歩いていたと。先ずは安心。とにかく歩いていれば、いずれは着けるわけだから、立ち止まって息を整えるために休息するのはよいけれど、腰を下ろしてゆっくり休むことはなるべくしないようにと話しておいたが、忠実に守ってくれているようだ。そういえば尾根上を二人連れが歩いているように見えるから不思議だ。そんなに早くないはずだが。
 小憩して発つ。馬の鬣の崩れた径は修復されていた。団体が下りてくる。登り優先とは言っても、団体相手となると、こちらが譲るしかない。中年女性の40人団体ともなると、圧倒されてしまう。せめて10人程度の小グループに分かれていてくれればよいのだが、大部隊の連続は本当に迷惑だ。砂防新道にも大部隊らしき数珠繋ぎの列が見えている。週間天気予報では、今日は曇り時々雨だったのに、快晴だ。黒ボコ岩も一杯の人。団体さんだ。逃げるようにして弥陀ヶ原へ。あわよくば水屋尻経由と思ったが、通行禁止の立て札のところに食事をしている人がいて、仕方なく五葉坂へ。どうもこの坂は余り好きではない。室堂も溢れかえる人、人、人。昼食をとって、御前峰へ。写真を撮りながらとはいえ、40分を要してしまった。衰えが身に染みる。この日は快晴。実に良い気分だと言いたいところだが、此処でも団体さんが闊歩している。
 頂上ではシャッター切り係になった感がするほど、次から次へと頼まれる始末、これも功徳か。岩の上でトカゲを決め込む者、コーヒーを飲んでる者、食事をしてる者、こんな賑わいは秋には少ないのでは。時間はまだ正午。大半は日帰りのような軽装。もう1ヶ月もすれば新雪、室堂も15日で閉鎖、また静かな山に戻る。暑くもなく寒くもなく、最高の日和となった。いつになくのんびりとする。頂からの下りでもまた団体さん、でも今度は若い方達も多く、待ち甲斐がある。
 室堂を1時半に出て、トンビ岩経由で南竜山荘へ下る。この時間帯、このコースを下るのは他に夫婦1組のみ、登りは単身の中年女性と夫婦1組、夫はバカデカイ荷を背負っている。室堂へ行くのにどうしてこんなに大きな荷が要るのだろうか、ボッカでもないのにと思う。大変ですねと声を掛けると、今度生まれる時は女に生まれて、荷を担ぎたくないと仰る。そう言えば、綺麗なカアちゃんは荷はお飾り程度、それにしてもエラいトーちゃんだ。トンビ岩まであと高度差200米はある地点だ。キヲツケテと言って別れる。南竜山荘には2時半に着いた。新のオバちゃんが迎えに出てくれて、奥方は1時間前にお着きと言ってくれた。先ずは安心。それにしても早いお着き。彼女も元気になっていた。
 坂上で別れる時に、歩き出す前に食事をとるように話したので、お寿司や蜜柑やバナナなどを食べたが、しばらく歩いてから胸が悪くなり、食べたものを全部吐いてしまい、でも少し体の調子も良くなり、殿ヶ池の避難小屋に着いたと。でも彼女は此処で泊まりたいと言ってきかなかったとか。そのうち休んでいて気持ちも落ち着いてきたので、食事をゆっくりとり、頃合を見計らって再び登り出したとのこと。黒ボコ岩へ着いて、よくぞ観光新道を登っておいでたねと何人からも褒められた由。それでも室堂へは登る気にはならず、十二曲りの急坂を下りることにしたとか。もうこの頃には体調は元に復したらしく、快調に南竜山荘に着いたようだ。再会して、ビールで乾杯する。家内は既に350mlを1缶、陽はまだ高く、食堂は暑い位、ビールが実に美味しい。500mlを6缶も飲んでしまった。食事は5時、4時に食堂を出て室に戻る。宿泊室で開いているのは2室、それも下のみ。泊まれるのは36人。今日は利用者は50人ばかりらしいが、半分はケビンとテント場とか。営業は30日までだが、2室以外は早々と片付けてしまったとか。もう冬支度、最後の日にもう一度来ることを約して、ビールの在庫をお願いした。 

秋の白山 (その2)久しぶりの御来光(9.27)

 明日は御来光を見にアルプス展望台へ行こうと、白山に登る前に予定していたが、体の調子が優れないのか、家内も彼女も行かずに寝ていたいとか。それじゃ私のみ出かけることに。夕食の後、まだ明るいが、もう1本ビールを飲んで寝ることにする。彼女達も御就寝。延々朝6時まで12時間のお休みとなる。恐れ入る。
 翌朝は4時15分に起床、30分に山荘を出る。日の出は5時30分過ぎ、展望台までは1時間ばかり、そんなに寒くはないが、それでも霜は降りている。玄関で同室の向かいの夫婦と会う。私のみと思っていたので、連れがあるとは心強い。私が先に、外はまだ真っ暗だ。展望歩道の木道は夜目にも霜で白い。山道に入って、元気のよい若い夫婦に先を越される。展望台には5時10分に着いた。先着は先の若夫婦のみ。東の空が茜色に染まっている。びっしりの雲海。雲は三方崩山の頂辺りをも包んでいる。雲高は2000米ばかりか。雲海の向こうには、左手白馬岳から右手御嶽までの素晴らしい大パノラマ展望が開けている。一点の雲もない。伊達に「アルプス展望台」とは言わないのだと感心する。御来光を此処で見るのは初めてだ。30分までに10人が集まる。東の空が明るくなり、5時43分に乗鞍岳の山塊の北寄りから日の出。山での御来光は何時見ても荘厳だ。御前峰のように万歳はなかったが、久しぶりの御来光には感激した。日の出から10分後、ここから上に向かう人、また下る人、私は南竜へ下りた。食事は6時半、6時20分に着いた。
 朝食をしていると、やおら家内がチブリ尾根を下りようかと言う。あんなに下りるのはこりごりだと言っていたのにと内心思う。もっとも今からでも下りられるが、別山まで2時間半、それから更に4時間、昨日のことを思うと、今度ばかりは別行動というわけにはいかないので、チブリは来年にしようと提案した。では、来年はチブリ尾根を登ることにと家内。今日は早めに下りて、温泉に入って疲れを癒し、久しぶりにどこぞの蕎麦屋にでも寄り、そして家で千秋楽でも見ようと私。衆議一決した。
 ゆっくり7時半に南竜山荘を発つ。エコーラインの入口までは、谷沿いの径が決壊していて山越えとなっていたが、前の決壊個所は修復されており、山越えは植生回復で通行止めに、大変歩きよくなった。すると此処で、名古屋からの夫婦と会う。昨晩は室堂で宿泊したけれど、何とひどい所なんでしょうと。夜便所へ行くにも真っ暗、北アルプスへ行ってて白山へ来た人の中には、灯を持たないで来る人もいるのにと。便所は汚く、しかも危険、食事も悪く、最悪な所ですねと。私は南竜に泊まりましたと言うと、南竜はどうなんですかとのお尋ね。そこで私はいつもの持論を展開、談論風発。便所は9時以降消灯で暗いが、階段部分には赤外線感知装置が設置されていて、人が通ると明るくなるし、通電時には便所はウオッシュレット水洗、食事は宿泊室と同じ屋内、一々靴を履いて食事や便所へ行く必要はない。食事内容は北アルプスまでとはゆかないけれど、ほぼ八分の出来、室堂とは雲泥の差。室堂も食堂・管理棟が新しくなってからは少しは良くなったものの、いまだに、泊まらせてやる、食わせてやる、といった生来の根性は何ら変わっていないと私。私も南竜山荘が営業している時は、室堂には泊まりませんと言うと、えらく納得されて、いろいろ有難うございましたとお礼を言われた。一度でも北アルプスの山小屋へ研修に出かけてほしいものですね、とも言われた。正にそうだ。石川県も苦情を聞いて、善処・改善してほしいものだ。この間白山へ来られた野口健さんの場合は別立てだったと思うが、現実を見てもらってアドバイスしてほしかったなあと思う。10分以上も話し込んでしまった。
 水平道分岐から砂防新道を下る。団体さんはいなかったが、相変わらずの沢山の登山者。甚之助小屋の前も一杯の人、暑さも夏の暑さではなく、凌ぎやすいからなのか、とにかく人が多い。それにしても迂回路を1週間で造り上げるとは驚いた。南竜山荘で、どこからどこまで迂回路をと聞いたが、分からないという。この砂防新道が通行禁止で、昨日今日と登山する人が観光新道経由だと、ワヤクでなく大変だったろう。何処に造られたのか興味津々で下る。高飯場跡を過ぎてさらに下って、これまでの砂防新道の径の通行止めは、下り3K・上り3Kの中間点の道標が見える地点からであった。ここから迂回路500米とある。迂回路の入口は新しく切り開かれた感じだったが、進むと以前に造られた作業道を利用していることが分かった。例え重機を入れても、新しい山道500米を1週間で造ることは至難の業だ。これで1週間で迂回路が出来た訳が分かった。でも迂回路は泥土の部分が多く、雨が降ると泥濘になるのは必定だ。迂回路は別当覗まで200米ばかりの所まで続き、別当谷と反対側というか東寄りに付けられている。途中2箇所ばかり間道のよな径があり、迷い込まないように処置がしてあった。今後この迂回路をどうするのだろうか。新しい径は狭くて歩きにくく、いつもの砂防新道に出た時はほっとした。別当覗から中飯場跡へ、彼女達はここまで少し遅れ気味ながら付いて来てくれた。
 中飯場跡から少し下った所で、5点ばかり花の撮影、彼女達に先に行ってもらう。すぐに追いつくからと。5分ばかり遅れたろうか。しかし追っても姿が見えない。通常なら下り30分程度、私も若干スピードを上げるが、昔のように走って下りる元気はなく、少々焦った。彼女達の姿がチラッと見えたのは別当の七曲りの最下部、私はもう一曲りしなければならない。この前の土石流の土砂が砂防新道へ乗り上げた所でやっと追いついた。すぐに追いつくなどといい加減なことを言うものではないと悟る。聞けば追いつかれまいと急いだとのこと。家内もそれを意識していたという。無事に別当出合へ帰還した。120米の吊り橋と新しい鳥居とで記念撮影をした。10時55分のバスで市ノ瀬へ。着替えて、後は温泉と蕎麦。温泉は白山里、蕎麦は草庵とする。

秋の白山 (その3)白山里と草庵(9.28)
 白山里は大笠山を源とする瀬波谷が手取川と合流する地点近くの瀬波部落の上手に新しく作られた温泉で、私は二度目、彼女達は初めて、鶴来のとある酒屋の経営だ。結構賑わっている。車も30台ばかり、600円もするかと思っていたが350円、浴槽は大きくはないが中々綺麗で感じがよい。此処では飲み食いもでき、なのでゆっくり一日お湯に浸かって飲食・飲酒ができる利便性がよい。私達も1時間ばかり滞在、帰りに即売の地元産の野菜を買う。瀬波の馬鈴薯、ほうずき、せんちゅう、すぐり菜など。圧巻は大きな冬瓜とかも瓜。
 12時半近く、草庵へ向かう。久しぶりだ。一昨年までは探蕎会の蕎麦花茶会を草庵でやっていたが、人数が30人を超えると、貸切でも一寸手狭で窮屈なことから、昨年は戸室山麓の喬屋で行った。だから2年振りだ。入ると2組待っていた。囲炉裏の席が空いて、2組どうぞと案内されたが、1組は囲炉裏を拒否、繰り上がった私達は囲炉裏の相席OKで席に着く。家内は早速「にしん煮」を頼むが、丁度前の人で無くなったとか、残念。私は久しぶりに「四季桜」を所望。このお酒はずっと昔、此処でそば屋を開業された頃に、私が推奨して置くことになったお酒だ。蕎麦屋の一品からは「板わさ」「特製の豆腐」「鴨ロース」を頼む。そばは、彼女らは「天せいろ」、私は1日10食の粗挽きをと聞くと、まだありますとのことで「粗挽きそば」を、少し後でと。酒は冷えてて美味しい。癖がなく、実に旨い。何杯でも飲めそうだ。一品は皆で味わう。特製の豆腐は大豆そのものの甘みの旨さ、恐らく丸大豆を使っているのだろう。きっと原材料を吟味していると思われ、竹田の豆腐にも匹敵する旨さだ。鴨ロースがまた抜群の焼き、幾分厚めでふっくらと柔らかく、申し分がない。以前からもそうだったが、鰊煮、出汁卵巻、鴨ロースはどれをとっても蕎麦屋でこれだけのレベルの品を出す処は他にない。
 彼女らが3品を一通り賞味した頃、天せいろが来た。そばは九一、長方形の塗った蒸篭に盛られている。天ぷらは野菜や茸の七種盛り。そばは細打ちだが、そんなに細くはない。手繰ると、しっかりこしもあって喉越しもよいが、昔のような肌理細やかさは薄れているように感じた。営業時間は11時から5時までだが、売り切れ次第閉店とある。でも、こなす数は開業した頃よりは遥かに多くなったと聞いている。以前は2時頃にはなくなってしまったものだ。12時台のピークが過ぎて、お手伝いの女の子が少なくなって、おカミさんも客席に。本当にお久しぶりだ。この前は野口健さんも見えられたと話される。おカミさんにお代わりの「十四代」をお願いする。このお酒はずっと以前に前田さんが推奨した山形のお酒だ。片口も盃も換えて出される。これも前者に劣らず旨い酒だ。現存しているのが嬉しい。更にもう1杯、今度は地元萬歳楽の「甚」を貰う。いずれも一合840円と同じ値段、だが前二者に比べて一寸味劣りがする。冷やではキツく、ぬる燗の方がよいのではと思う。一緒に粗挽きそばも頼む。粗挽きそばは角の竹編みの塗った蒸篭に盛られてきた。粗挽きというのが一目で分かる星の数々。見た目は大変立派。だが手繰るとえらく短い。今は一番の端境期、生粉打ちは難しいだろうけど、そこは出すからにはシャンとしたものを出してほしいものだ。天せいろの九一よりは太いが、太打ちではない。こしもあり、喉越しもまずまずだが、長くて三寸程度、もっと短いものもある。もう一枚位お腹に入りそうだが、帰ることに。足りない分は自宅で。時間はまだ2時。でも無事に元気で帰られたのは何よりだ。家内の連れは、また娘と此処へ来なくてはと言っていたが、親子共々心底そばが好きらしい。
 帰宅して大相撲千秋楽を見る。昨日は南竜山荘で大型液晶テレビを見ていて、朝青龍が優勝したことは知っていたが、その内閣総理大臣賞杯を安部晋三自民党新総裁が授与するのを放映していた。40kgを持ち上げる時にふらついたので、重かったでしょうとアナウンサー、前にも経験があるよと新総裁。思うに、前途はトロフィーより重いのでは。

平瀬道の秋(10.3)

 南竜山荘の営業は9月30日までである。ずっと昔は8月末までだったのが、9月15日になり、そして末日までになって久しい。出来立ての頃は泊まる人がいなくて、私にとっては大変素晴らしい穴場の山小屋だったが、泊まる人も増えて、必然的に営業期間を増やすようになった経緯がある。今では団体さんまで泊まるものだから、往々にして泊まれないことがある。そして何時からか予約制にしたから、一々登山口で今日は何処にお泊りですかなどと聞く必要もなくなった。それにしても南竜山荘が閉まる最後の日に泊まるようになったのは、福井の松本絹子画伯が白山の絵を描きにお出でて、それも余り人が来なくなる閉まる前の数日をこの山荘で過ごされることを知ってからである。百号の翠ヶ池の絵を描かれた時も、宿泊は室堂ではなく南竜山荘を宿にされ、あの池まで通われたとお聞きした。もう80歳は超えられているが矍鑠としてお出でだ。春にお会いした時は行きたいねと仰っていたが、今ではお1人での登山はいくらお元気とはいっても無理だろう。そんな謂われもあって、今年も出かけた。当初は家内も行くと言っていたが、残念なことに仕事の都合で私一人になってしまった。
 今年はまだ一度も平瀬道を歩いていないのと、紅葉には若干早いが、そのはしりでも味わおうと出かけた。大白川登山口までは家を出て丁度2時間、これも山側環状線と高速道路のお陰だ。駐車場には30台位の車、6時半に登り出す。天気がよく、秋の日差しでも暑い。空は澄んでいるが、北アルプスが見える地点まで登っても東の方はなぜか靄っていて見えない。紅葉はまだ1〜2週間早い。でも大倉山近くではそろそろウラジロナナカマドやタカネナナカマドが色づいてきている。青い空にダケカンバ越しに御前峰と剣ヶ峰が見えてくる。一幅の絵になる見処である。室堂までは4時間かかった。室堂前は外のテーブルが皆埋まる位の大勢の人、以前なら9月末ともなればガランとしていたのに。室堂平は草黄葉、中でハクサンフウロ、チングルマ、コイワカガミは紅色になっている。点在するウラジロナナカマドは緑色あり、黄色あり、赤色ありで、緑色はいずれ紅葉するのだろうけど、黄色と赤色の違いはどうして起きるのだろうと思う。アントチアンなのか。御前峰に登り、奥宮に参拝する。先週は小銭がなくお賽銭を上げられなかったので、今回は2回分上納した。
 室堂に着いた時、木村さんと呼ぶ声、何と昨年まで南竜山荘の管理を任されていた荒木さんだった。奇遇である。まさか此処で合えるとは。10月1日から閉まる15日まで室堂勤務になったとか。彼は金沢の住人だが、旧白峰村職員になったので、居は旧村に構えていて、夏は南竜山荘で、冬は村営スキー場勤務だった。それが合併で白山市になり、河内支所勤務となり、今では実家の金沢から通勤とか。それで支所管轄のセイモアスキー場で会ったわけだ。南竜にはと聞くと、登る時に寄ってきたとのこと。一年ぶりなことになる。私がいるので、一度は室堂にも泊まって下さいよと、むろん私が南竜信奉者だと知ってのことだ。こう言われると、一度は泊まらないと。本当は14日に泊まって15日の閉山祭に出ようと思っていたのだが、父の27回忌と重なり無理になってしまった。とすれば1週前の7〜9日しかない。再開を期して別れた。
 時間はまだ昼過ぎだが、南竜へ下りることにする。久しぶりに水屋尻を経由してエコーラインを下る。エコーでも結構登る人がいる。ゆっくり下ったが、それでも1時半前には山荘へ着いてしまった。贅沢な登山だ。新のオバチャンがいて、今年の紅葉は例年になく綺麗と仰る。専門家が言うのだから間違いじゃないと思うが、それは南龍ヶ馬場のみに適用されるようだ。夏のニッコウキスゲも此処だけが花一杯で、他は閑散としていた。エコーを下っている時は気づかなかったが、改めて見ると、緑のチシマザサに混じっての黄葉の点在が際立って美しい。上からだと見えないが、下からだと目立つ。あれは何の木ですかと聞くと、知らん木だと。後でスタッフにも聞いてもらったが分からなかった。ミネカエデだろうか。
 私が初めてだと思っていたら、先着がいた。静岡の人。東京から夜行で来て、金沢駅から別当出合まで直通のバスに乗り、9時頃に観光新道から登り、頂上往復、室堂は混んでいそうなので、エコー経由で南竜山荘に来たと。予約なし。有名な白山にしては余りにもあっけなく、時間を持て余しているとも。上背もあり、スラッとしていて、疲れを知らないような御仁。池巡りをするとか、大汝峰へ行くとか、ここへ下るにも展望歩道を通るとか、時間を費やすにはいろいろ方法があるのにと話す。明日はと聞くと、別当出合午後1時半発の金沢駅行きのバスに乗ってお帰りとか。それなら、貴方の体力では別山経由で市ノ瀬へ下りられたらと提案した。
 ひとしきり話して、私は下の食堂へ、冷えた缶ビールが待っている。彼はビールは飲まずにコーヒー、私は小さいのを予約通り6缶飲んだ。3時半近くにドヤドヤと15人の団体が着いた。今は2室32人しか泊まれないのにどうするのかと聞いたら、1室別に設えたという。毛布なども仕舞ってしまったのを引っ張り出しての対応とか。そして一行は食堂で酒盛り、4時には夕食の用意で出てもらいますと山荘の人。頭と思しき人にどちらからと聞くと、私はガイドだと。話を聞いていると、このグループは大部分が仲間内で、このガイドとツアーを組んであちこちの山へ出歩いているようだ。東京を朝一番のフライトで小松に着き、チャーター車で別当出合に、そして南竜泊、明日はトンビ岩経由で室堂へ、そして御前へ、また最終便で小松からお帰りとか。ガイドも白山は久しぶりとか、それにしてもガスが巻いてて油坂ノ頭しか見えないのに、別山はと聞かれて油坂を指すなんて、知らない者相手では楽なものだと感心する。話題は山と酒の話ばかり。聞き入るのみ。4時になると、小屋前の台と2階のベランダに分かれての小宴会、ガイドの下にまとめ役のボスが二人いるようだ。朝は食事前に出るとかで、夕食時に朝と昼の弁当を受け取っていた。このツアーに初参加の人は仲間外れのようで可哀相だった。
 翌朝、地図を持ち合わせていないので、別山は止めておきますと、それじゃ不安ですねと、無理に勧めなかった。結局もう一度白山を見て帰りますとのこと。白山へは百名山の関係ですかと聞くと、そうではなく三名山だとか。富士山と白山ともう一つは何処と言われて、それは立山ですと言ったら、もう一度出てこなくてはと言う。今日この足でと言ったら、勤務があるので出直しますと。好青年だった。
 今日の天気は曇り後雨、雲高は高いが風がある。7時にまた来年もよろしくと新のオバさんや皆さんに挨拶して山荘を発つ。平瀬道と展望歩道の分岐の賽の河原まで400米の登り、室堂で泊まればこんなアルバイトはしなくてすむのにと思う。でも尾根に出ると北アルプスが一望、近くに雲海はないが、峰々は頂だけを覗かせずらり並んでいる。雨の前兆か、くっきりと見える。よい眺めに足取りも軽い。5組の人達と会う。あの方達は砂防新道を下るのだろうが、大パノラマを見ての下りは収穫だったに違いない。賽の河原から大倉までは尾根の下り、ここでも正面に北アルプスのパノラマ、これに紅黄葉が華を添えると申し分がないのだが。小屋を過ぎて別山が見える開けた場所で、休みが済んで発つ一行に会う。ほとんど女性で20人ばかり。まだ写真を撮りたいので、ゆっくり後をつける。あと1回は休むだろうから、その時は超させてもらおう。大倉までも7,8組の人達に出会った。
 ナナカマドの潅木林からダケカンバの立つ笹原、そしてブナ林、下りに入って約6キロ、1200米下って、標高1200米の白水湖畔の登山口へ、雨が降ってきそうな空模様、駐車場には相模ナンバーのマイクロバスがいる。さっきの団体さんの迎えだろう。今回は白水の滝を見ていこう。誰もいない滝見台、水量は調節されているようだが、中々見応えがある端正な滝だ。落差60米とか。見終わった頃に雨が降り出した。平瀬までの国道451号線、2つのトンネルでの車の鉢合わせもなく、平瀬に出られた。今回は平瀬の共同湯でなく、新装の「しらみずの湯」で汗を流した。何と源泉は92度とか、14キロ引っ張ってもなお60度、もちろんかけ流しである。湯を出ると、あのマイクロバスが止まっていた。

白山初冠雪ー吹雪の翌日は大台ヶ原山までも見通せる大快晴(10.11)

 白山室堂の営業は10月15日までである。昨年まで夏は白峰村営南竜山荘勤務だった荒木さんが、平成の大合併で白山市になり、勤務も旧河内村役場となって1年ばかりだが、なぜか10月は白山室堂勤務となったとのこと、せめて一度は泊まらねばと思い、とするとその日は10月8日しかなかった。週間天気予報では8日曇り、9日晴れでまずまずの天気、これなら約束は果たせそうだと、しかも泊まりの翌日が晴れなら、御来光もバンバンだとほくそえんでいた。ところが、日本東近海に発生した何でもない普通の温帯低気圧が突然予想外に発達しだして、台風並みに発達したものだから、天気図では正に冬型、山も海も大荒れ、山では吹雪いて凍死者が、海でも船の難破で行方不明者が出た。でも石川県の前日の天気予報は8日は雨後曇りで快方に向かう様子、9日は晴れだった。それでは午後雨が止んでから登ろうか、どうせ室堂までなら3〜4時間みておけばよいとたかをくくっていた。それでも平地では時々時雨のような雨は降るものの、十七夜の月も雲間から覗くほど、天気が良くなりそうな予感がして、家を6時に出た。しかし山間に入るにつれて間断のない小雨、ガスで近くの山も見えない位、でも雨も昼頃までには上がるとの予報を信じて市ノ瀬に入る。こんな天気だから登山者も少ないと思いきや、第一、第二駐車場は満杯、第三駐車場に止める。7時に着いたが、その後も次々と車が着く。雨は小雨ながら途切れることなく降っている。私のように車の中で様子見の人もいるが極少数、大部分の人は雨具を着けて別当出合行きのバスに乗り込んでいる。感心して見入る私、小さな子もいるし、お年よりもいる。山での雨も嫌いではないが、何故か今日悪天候の中室堂まで登るだけなのならばどうも抵抗を感じる。では10時まで待って雨が止めば出かけることに、降っていれば明日にしようと決めた。雨は止まず、帰ることに、この頃でもやはり登る人はいる。雨は2000米より上では雪だろうに。
 帰宅して、懸案の野々市小中学校の同窓会「子うし会」の今秋の開催を、幹事の体調不良で来春に延期する旨の手紙を担任だった先生と早く開催をという二人に、経緯も記して出した。昼になり、家内に今日は戻った旨を携帯で連絡する。家内は私が室堂で泊まる予定なので、病院の綺麗どこと小布施参りとかで信濃泊まりだからだ。午後は室堂で飲む予定にしていた5合の酒を独酌、外はまだ曇り空、本当に明日は晴れるのだろうかと疑心暗鬼に、酔って早めのお休みに。真夜中に起きると、十八夜の月が皓皓と照っている。天気予報は当たっていた。3時起き、食事をして4時半に家を出る。市ノ瀬着5時半、車は昨日よりもっと増えていて、第三駐車場の最奥が我車の置き場所、信じられない混みようだ。6時のバスで別当出合へ、バスは立つ人も出る位の混みよう、秋口は静かなはずだったのにと思う。
 大部分の人は別当谷に架かる吊り橋を渡って砂防新道へ、一緒のバスで観光新道を登る人は私を入れて6人、私がシンガリ、昨日の酒のせいか体が重い、時間が早いから大丈夫だろうと飲んだビール1Lは余分だったと後悔する。しかしお天気は上々、向かいにまともに陽を拝むと実に眩しい。今日は雨の心配はないのを見越してか随分と軽装の人がいる。私は一応ノーマルな装備、殿ヶ池で暫時休憩。この頃から上から下りてくる人達に会う。今朝の御来光は素晴らしかったでしょうと聞くと、良かったとのこと、当然だ。ところで御前でと聞くと、頂上へは行かなかった由、半月前の日の出が乗鞍岳の左肩だったから、今朝の日の出は乗鞍と御嶽の間から、とすれば御前峰へ登らなくても室堂からでも見えるはず、労せずして拝めたわけだ。馬の鬣辺りから雪が見られる。黒ボコ岩では雪を踏む。弥陀ヶ原に立つと、新雪の御前峰が初々しい。皆さんシャッターを切っている。木道には雪はない。水屋尻雪渓もとうとう雪が消えない内に降雪をみてしまった。木道は五葉坂までの3分の2までが出来上がっていたが、今年は坂下まで延ばすようで、工事が進行中だ。玉石よりは木道の方がずっと歩きやすい。そう言えば南竜山荘近くの掘られた径も木道になった。五葉坂は雪、濡れた石や岩はツルツルに凍り付いていて、足を取られる人もいる。歩き辛い。坂の中程でお飾りザックを背負った綺麗な若いおネエちゃんに、失礼しますと言われて追い越されてしまった。こちらはマイペース、室堂まで丁度3時間半かかった。室堂前の陽だまりで食事し、空身で御前峰へ登る。室堂の話では、今朝の御来光を拝みに登った人はなかったとのこと、風が強かったうえ参道が凍結していて、アイゼンなしでの登高は無理だったようだ。でも9時頃には緩み出し、スリップはしても皆さん登れたようだ。
 室堂前で10センチ程の積雪、頂への径は、雪と乾いた岩少々と残りは凍りついた岩のミックス、なるべく雪の中に歩を進める。上に上がるにつれ、ベラグラ状になって氷が張り付いた岩が多くなる。頂から下りてくる人は、今日は最高、360度の展望ですと口々に、途中から見える眺望も今までになく透明度が高い。頂まで35分を要した。今11時だというのに、まだこれ程の透明度というのは経験したことがない。いつもなら10分ほどで失礼するのに、40分もいてしまった。誰となく同じことを言っている。北アルプスは2200米以上は真っ白に化粧している。東には、後立山は朝日岳から五竜岳まで、立山・剣岳北方稜線は僧ヶ岳から、南へ薬師岳、黒部五郎岳、笠ヶ岳、水晶岳、三俣蓮華岳、そして槍・穂高連峰、槍と剣は雪がくっ付かずに黒く目に映る。大きく乗鞍岳と御嶽、小さく中央アルプス、八ヶ岳連峰、遠く仙丈・甲斐駒・北岳から光岳までの南アルプス、そして恵那山の端正な姿、見ていて全く飽きない。南へ転ずると、近くに大日岳、別山、三ノ峰、赤兎山、大長山、経ヶ岳、荒島岳、能郷白山、冠岳、部子山、銀杏峯、遠く伊吹山、比良・比叡の山々、そして極めつけは大台・大峰の山々の連なり、始めは鈴鹿の山並みと思っていたが、こんなに300キロもの彼方まで見えたのは初めてのことだ。西には、福井、小松の町並み、大日山、富士写ヶ岳も見える。北には白山の北方稜線に連なる山々、スーパー林道も、彼方には医王山も、宝達山も見えていようか。とにかく極めつけの天気に遭遇したものだ。白山からは深田百名山のうち34座を望めるとか。素晴らしい展望台だ。
 下りは雪もあって室堂まで18分で下りられた。早々に下りる支度をして五葉坂を下ろうとした時に、不意に「あっ木村さん」との声と同時に女の人に抱きつかれた。一瞬何が起きたのかと気が動転してしまって頭がグルグル回った。離れて顔を合わすと、いつか親父さんが蕎麦が大好きという同業の娘さんだった。若い連れの二人は呆気にとられていた。大胆な。こんなに驚いたことは生まれてこの方やがて70年経つのに初めてだ。「木村さんも山へ登るの」とはきついお言葉。今から昼のお食事とか。やがて1時に近く、5時の終バスに合わせるとすると、頂上への往復は難しいかもしれない。元気でと別れる。五葉坂も雪があると下りやすい。エコーラインを経由して砂防新道へ。エコーラインの水平道からの登り口に設置されている登山者数計測器の撤収現場に出くわし聞いていると、登りも下りも4万人とのこと、白山の登山者数より多いのはどうしてと話し合っていた。このコースは何故人気があるのか、それはエコーラインを登りだすと程なく、御前峰が行く手右側に見えてくるからで、砂防や観光では弥陀ヶ原へ入って初めて見えるのとは大違いだ。
 砂防新道に入り、難関の迂回路に入る。昨日は雨の中のこの径の登り、ドロンコで大変だったと、今日は昨日よりはましとも。それにしても、いくら応急処置とはいえ、このドロンコは何とかならないものか。白山のメインルートがこれでは、風評で人が来なくなってしまう。旧来の径が良かっただけに、危険な個所があるのなら、その部分のみ山側に迂回すればよいのにと思う。500米はあるというほとんどが泥道、こんな劣悪な登山道は少ない。迂回路から解放されるとホッとする。それでも山靴は泥まみれだ。甚之助小屋からは少し早めに休みなく下りる。今日は室堂から2時間かからなかった。久しぶりだ。3時のバスに乗る。このバスも超満員。今年の交通規制も今日の正午まで、バスの乗り入れも今日が最後だ。室堂の営業は15日までだが、山へ入る人は自家用車での乗り入れとなる。閉山後は別当谷に架かる吊り橋も板が外され、砂防から登ろうとすれば、120米は人によっては決死行となる。しかし、山は静かな時を迎える。

信州探蕎行 ーせきざわ、すぎもと、みあさー(10.24)

 探蕎会の秋の探蕎行は、昨秋から信濃と決められていた。それは美ヶ原温泉の「すぎもと旅館」がえらく評判が良く、またぜひとの声が多かったことによる。尋ねるそば処の方はその時点では未定だったが、探蕎会の世話人の中には娑婆中のそば屋に薀蓄の深い蕎麦ナビ御仁がおいでて、その方の一声でお目当ては「せきざわ」と決まった。ここの主人は以前に修業された群馬でそば屋を開業されていたが、蕎麦の自家栽培を実家のある信州の栄村でされていたこともあって、数年前に信州小布施の地に居を移され、今は奥さんと二人でそば屋を営まれている。キャッチフレーズは、自家栽培、天日干し、手刈り、完全自家製粉、生粉打ちである。一度は行きたいと思っていただけに、この機会の到来を心待ちにしていた。また昨年は我々のこの会の会長のたっての願いだった美ヶ原高原行きも、天候が悪く断念せざるをえなかったが、もし天気が良ければ上がってみるのも一興か。
 今回の信州探蕎行は10月21日と22日の土日、週間天気予報ではまずまずの行楽日和とのことだったが、出かける前日は雨となった。それでも寒冷前線が通過した後は移動性高気圧に覆われて天気は回復するとのこと、それを信じての出発となった。出発は午前6時、とある公認無断無料駐車場にそれぞれ相乗りで集合する。定時に出発。運転手は会員でとある建設会社の社長御自身、奥さん同伴のオシドリ参加である。車はツバメ観光からのチャーター、参加の面々は男12名女5名の17名、左右共に2座席でゆったり座れる。金沢西ICからの北陸自動車道、有磯海、名立谷浜で休憩し、上信越自動車道の中野ICで下りる。行楽日和との御託宣だったが、一向に青空の見える気配はない。
 お目当ての「せきざわ」には10時半過ぎに着いた。営業は昼の部は11時半から14時半、1時間近い待合せがある。それにしてもマイクロバスを置けるスペースがあったのは幸運だった。名の馳せたそば屋では、待つのが当然の倣い、何処でもそうだ。期待が膨らむだけに、待つのは余り苦にならない。周りはリンゴ畑、柵も何もない無防備さ。この頃になって漸く日差しが射すようになってきた。
 定刻に開店、既に17名分がセットされていた。蕎麦前をお願いするが、一品は忙しいので今日はなしとのことだった。二人での切り盛り、さもあろう。お酒は滋賀の酒とか、1升が4個の大振りの丸っこい片口に入って出てきた。冷たく口当たりが良い。サラッとした感じで美味なお水という感じが良い。そばの注文は皆さんに「三昧そば」、生粉打ち、変りそば、粗挽きの順に、間を置いて出てくる。細打ちのそばはしっかりとした打ち、生粉打ちながら、繊細さを感じる。こしがあり、のどごしも抜群だ。さすが名にし負う「せきざわ」だと感嘆する。面々も声が出ないでいる。自家栽培・自家製粉のなせる結果が更に質を高めている感じがする。変りそばは今日は胡麻切り、胡麻は細かい粒子、点々と煙るように入っているのが見える。やはり細打ち、微かな香りがする。粗挽きのホシは黒っぽくなく、むしろ茶色っぽい感じ、丸抜きの荒挽きの細打ちとか。細打ちといっても、粗挽きだと大概若干太めに打つことが多いなかで、ここのは正真正銘の細打ち、恐れ入った。丁寧な打ちで、茹でも締めもしっかりしてて、見事というほかに言葉が見つからない。近頃では一番の感動だった。最後に「むらくも」。でも表に客が詰めかけていて、これはお持ち帰りとなった。17名も一緒に出ると汐が引くような感じ、亭主と奥さんに素晴らしいソバを有難うと礼を述べ、店を辞した。このあと同じ町の雁田にある葛飾北斎・福島正則・小林一茶ゆかりの古寺、曹洞宗・梅洞山・岩松院を拝観した。
 再び須坂東長野ICから上信越自動車道に上がり、長野自動車道を経由して松本ICで下りる。北上し、美ヶ原温泉に至る。見慣れた道や建物があり、程なく今日の宿の「すぎもと旅館」に着いた。うるさい6名の面々は、事務局長の配慮で2階の移動囲炉裏のある二間続きの幹事部屋兼二次会部屋、会長・副会長が一間、残り4名で一間、女性5名が一間となった。ここの温泉は癖のない単純アルカリ泉、湯あたりがない。ゆっくりと浸かり、疲れを癒す。湯上りのビールが美味い。ここの自慢のオーディオを聴きに出かける。特に低音が魅力だ。はじめギター曲、小さい音もしっかりと逃さない。次いでリクエストでバッハの無伴奏チェロ組曲となる。私はラヴェルのボレロの出だしの極小音を聴きたいと思ったが、あるかどうかは分からないとのこと、断念した。そうこうするうち、亭主の蕎麦打ちが始まるとのアナウンス、去年に懲りてこちらは割愛した。行った人の言では、昨年のダンマリが嘘のような饒舌だったとか、でも後で出されたもりそばは不味く、皆さん残されていた。私も三筋頂いたが、申し訳ないが残してしまった。
 食事は6時半から、旅館前の道路下の地下通路を通って、向かいの宴会場へ渡る。去年の部屋は気に入っていたが、人数が多く今年は大部屋になった。今日の席には、会長の娘さんの亭主の相澤病院病院長、同病院の研修センター長で元信州大学医学部教授で滞米8年の実績を持たれる先生、この先生は探蕎会世話人で金沢大学名誉教授・金城大学副学長の先生の盟友でもあるとか、もう一人、松本深志高校の英語の先生でリンカーンとあだ名され、相澤病院病院長やすぎもと旅館の主人が教え子という先生が出席される予定だった。病院長は昨日中国から帰国されたばかりでお疲れなのに出席頂いた。始めに挨拶、次いでビールで乾杯、次いで地元のお酒。次に会長持参の超吟の「梵」、これは素晴らしい名品、会長が皆さんにということで、私が4合を皆さんに振舞った。あとは持参した「久保田」「満寿泉」「酔鯨」を味わった。料理は種類が多く、献立表が欲しい位だ。説明はあったものの、上の空、特に茸が多かったが、聞いたことのないものが多かった。食べつくせない程の量、聞けばこれもこの旅館の売りだとか。満腹になり、私も残してしまった。一部は二次会用に皿に入れて部屋に運んだが、結局ほとんどが翌朝まで手付かずだった。
 翌朝は7時半の食事、8時出発。主人が見送ってくれる。バスはビーナスライン経由で美ヶ原高原へ。高原は2000米台、バスで1400米上がることになる。紅葉が綺麗だ。落葉松も少し黄味がかってきている。高原は既に秋だ。風があり、眼下には雲海が広がる。天気は晴れだが、靄っていて、遠望はきかない。早々に今上ってきた道を戻る。
 次の訪問そば屋は大町市美麻の新行(しんぎょう)にある「山品」、知らない店だ。やはり選定は蕎麦ナビ御仁の発案による。実に良く知っておいでだ。平成の大合併前は美麻村といって、大町市の北に位置していた。下道を新行高原へと向かう。ここではもう新そばが出ていて、10日から20日までは恒例の新そば祭りがあったそうで、県内外の方々でごった返したとか。聞けば35回、中々歴史と伝統のある由緒あるお祭り、またそば屋も数多いようだ。「山品」には1時半頃に着いた。沢山の人がまだ待っている。店はかなり大きく広いものの、とにかく大勢の人、ここでもしっかり待たされた。辺りは蕎麦畑、もちろん刈り取られてしまっている。付近をぶらつく。ようやく順番が巡ってきての御入場、しかも17名全員が揃って入れたのは良かった。ここでも全員がもり、先に蕎麦前を頂戴した。今日は日曜日とあって大盛況。この時期、地物の新そばを頂けるとは全く予想もしていなかっただけに嬉しい。今年の初物だ。ここでも選定して頂いた御仁に感謝々々である。そばは丸いせいろに盛られて出てきた。田舎そばだが、黒っぽくはない。しかし新そばにしては香りがないに等しく、しかもこしがない。またたく間に腹に納まってしまったものの、お代わりを所望したいとは思わなかった。まあ田舎の素朴な味がしたということにしようか。とにかくこの新行高原で採れた新そばを食べたことに意義が。このそばで、あれだけの人を惹きつける魅力とは何なのかと考えさせられる。でも何事も経験だ。
 朝からのお酒で大変気分が良く、バスが何処をどう走ったか全く知らない間に高速道を走っていた。持参のお酒は残り少々、久保田と満寿泉の吟醸ブレンドがペットボトルに7割かた、妙齢のお姐さん持参の酔鯨が3合ばかり、残しても悪いので、皆さんと腹へ納めた。楽しい探蕎の旅も終わりに近づき、小矢部SAで清算し、帰路についた。
 今回も長時間バスを運転して頂いた会員の方、そば屋の選定の労をとって頂いた世話人の方、それにこの旅行の世話をされた事務局の方々には心から御礼を申し上げたい。

烈風の白山に遊び、砂防新道迂回の謎を解く(11.2)

 10月最後の週末は土曜日が天気良好とのことで、冬枯れの白山に遊び、あわよくば砂防新道の不通個所をこの目で見るべく出かけた。朝5時、日の出1時間前、空は満天の星、南天には冬の星座オリオンが輝き、今日の天気を約束してくれる。家を出たのが遅れて5時半、市ノ瀬まで丁度1時間、更に10分程で別当の駐車場に着く。既に車は20台ばかり、県外車も半分ほど、ほとんどが出かけてしまっている。私を含めて4人が出立の用意。私が最も遅くて7時出、今日の金沢の最高気温は23℃とのことで下着なしの軽装、現気温は4℃で防寒具までまとった御仁も多いが、いずれ歩き出せば暑くなろうというもの、案の定途中で立ち止まって1枚ずつ脱いでござる。その点小生は快調そのもの、汗もかかず、晩秋のひんやりとした空気を浴びて心地よく歩く。3組を追い越した後は、前にも後にも人の気配はなく、これならひょっとして迂回路ではなく本道を歩けそうだとほくそ笑む。
 別当覗を過ぎて3分ばかり、迂回路の入口にさしかかる。人気はなく、これ幸いに本道へ入る。ものの2分程で危険立入禁止の囲い、私が当初予想していたのはもっと上部の旧中間点の上辺りだと思っていたので、更に進む。とその時、上から工事関係者と思われる人がロープを肩に長靴履きで下りておいでた。その方は人気のないはずの径で突然現れた私を見て大変驚かれた様子。まさか熊と思われたのではないと思うが、本当にびっくり仰天されてた。かくかくしかじか。でも、ルール違反をしてはいけません、と諭される。で、その通行禁止の元凶となった場所はと聞くと、先程の立入禁止の囲みの場所とのこと、そこは20糎ばかり陥没していて、更にそこから下方の径の別当谷側に長さ5米ばかり、幅20糎ばかりの亀裂が入っている。通行禁止になったのは此処だと。状況証拠に写真を撮った。寛大な処置に感謝。その後、私が迂回路に回ったことを見届けて、かの人も下りて行かれた。
 迂回路は二度下ったが、一度目は天気続きでそんなにぬかるんでいなかったが、二度目は初冠雪の翌日とあって大変な泥んこ径だった。この迂回路を上るのは初めて。この日は数ヶ所に泥濘が見られたものの、思ったよりはましな方だった。まだ径は急造の仮道で、段差があるところは木の枝を杭打ちして太めの枝で段を作ったものが多かったが、ここを仮の迂回路とするのか、正規のルートにするのかによって、対策は変ってこよう。今となれば、来春待ちだ。迂回路は500米とあったが、あっけなく中間点の本道に出てしまった。
 甚之助の避難小屋前には3組8人がいた。うちアベックの2人が早立ちした。後を付けるが、元気な2人には追い付けない。水平道の分岐でも2人は見えず、此処では休まずに砂防新道へ向かったのだろう。私はここからエコーラインへ回る。誰もいない世界。千島笹の緑と草黄葉、そして南竜山荘の赤い屋根、七竃も峰楓も葉をすべて落としてしまっていて、後は雪を待つばかり。ジグザグの径を登って行く。すると途中で青い空をバックに突如御前峰が現れてくる。どっしりとした山体を見ながらの登りは疲れが癒される。天気も良く、弥陀ヶ原の木道へ出たら食事にしようと思う。ところが、標高が2300米を超えた途端に、風が急に強くなり、太陽は照っているものの、風を避けないと、とても休んで食事できる環境ではなく、室堂まで急ぐことにする。五葉坂下から水屋尻へ回る。雪渓は跡形もなく無くなっていた。初冠雪の時にはまだしっかり残っていたのに。そういえば、槍・穂も乗鞍も御嶽も雪は見当たらずに、黒い山並みとなっていた。
 水屋尻の径は凹地になっているせいか、風の当たりは少ない。しかし室堂へ出た途端、北西からの強風のパンチを食う。風の通り道の室堂前の広場には誰もいない。室堂センターの南側の風下は格好の陽だまりとあって、先着者が陣取っていて付け入る余地がない。仕方なく冬季小屋の入口近くに風を避けて腰を下ろす。時間はまだ11時前。しかし気温は低いのだろう、手袋をしてないと手がかじかんでしまって、シャツのボタンを止めるのもままならない。太陽が出ているのにこの始末だ。ゴアの雨具を着て、漸く落ち着いた。食事をし、お湯を飲んで、体もあったまったので御前峰へ向かう。11時半。この頃になると、上へ向かう人よりは下りてくる人の方が多い。皆な完全防備だ。中に幼稚園児か小学校低学年と思しき子供を連れた親子が2組、親はよしとして子供も完全防備、子供用のヤッケやオーバーズボンがあるとは驚いた。早々と下りていった。上に上がるにつれて風速は増し、正面に風を受けると、とても頭を下げないと前へ歩けない。烈風と言おうか。逆に背後から風が当たると、後押しされる感じで前へどんどん進める。雨が来ないことを祈る。上空の雲は飛ぶようにして山越えして行く。独りだけだったら躊躇したろう。頂上には10人ばかりいたが、早々に下りて行く。私も上にいたのはわずか1分足らず、この前は40分も堪能したのとは大違いだ。下りも風の洗礼をしっかり受けた。室堂へ下りても休むことなく、五葉坂を下る。弥陀ヶ原の木道は五葉坂下まですべて完成していて、大変歩きよくなった。黒ボコ岩から観光新道へ向かう。蛇塚辺りまで下ると、先程の風が嘘のように凪いでしまった。ヤッケは殿ヶ池の避難小屋で脱ごう。淡々と下る。
 小屋の周りには5人ばかり、これから上る人も2人、室堂の冬季小屋泊りだとか。2人は小屋の中で食事をしようとしたが、小屋は異臭がして気持ち悪くて、とても中に居られないとか。改修されたチブリの非難小屋は便所も改修されて実に快適だが、この小屋は以前からどうも便所の臭いがして頂けない。以来、私は一度も入ったことがない。以前に体調不良で此処で泊まると言った人もいたが、緊急でなければとても泊まれる代物ではない。また登る時と同じ軽装の格好となって、尾根径を下る。標高が低くなるにつれて暑くなり、汗をかく。観光新道は砂防新道と違って岩径が多い上、アップダウンもあって時間を稼げない。砂防新道ではよく走って下りる人を見かけるが、観光新道や越前禅定道では走るにはとても無理な部分の方が多い。この歳、急いで躓いたりしては一大事、ゆっくり下る。時折、目の覚めるような紅葉・黄葉に会う。大半は葉を落としているが、中には今を盛りのものもある。
 今日の白山周回も終わった。駐車場への帰着は3時を少し回っていた。別当出合辺りに黄葉を見に来ている人達がいるが、ブナのほかは雑木が多く推奨する類のものではない。その点、白山だったら飛騨側・岐阜県側は紅葉する樹種が多いこともあって、実に素晴らしい。秋の陽は釣瓶落とし、山では5時には暗くなる。日が長ければゆっくりお湯に浸かって寛いで帰るところだが、今日は家へ直行、家で寛ぐ。風呂から上がって体重を量ったら、驚く勿れ、59.4kg、これまで山から帰って60kg台のことはあったが、60kgを切ったのは初めて。嬉しくて缶ビールを3リットル飲んだ。

閑話休題
 これまで山から下りてくると、とある中華専門店で、八宝菜を肴に、飛び切り冷えたアサヒスーパードライの大瓶をキューッと1本飲み、その後近くの温泉で汗を流して帰るのを常としていたが、昨今の事情で、自動車を運転する場合は、当の本人にアルコール飲料を提供することが御法度になってしまった。あの一杯は実に美味しく、甘露の水だったが、他に運転者が居ない時は致し方なく、法を遵守することとしよう。我慢ついでに、ビールを冷たい霊水に置き換えれば何の問題もないのだが、まだ試していない。

御十夜法要と法然上人(11.9)
 11月3日は文化の日、天気も良く、山に出かけるのに絶好の日だったが、少し風邪気味だったのと、来週の11日に白山・手取川もみじウオークで28キロを走破する予定なのと、次男一家が土日と来るのでその相手をとのカミさんからの御託宣もあって、山はオフとした。家内は、3日の午前中は町の文化の日の行事に来賓として列席するが、午後は予定なしとのことで、それならと、これまでは御布施を届けるだけで出席したことがなかった檀那寺の佛海山法船寺の御十夜法要に出ることにした。家内の姉など天気が急変しなければよいがと。夫婦でよいことをしようというのに、この発言。今日のはお寺さんの御十夜、私の家の御十夜は12月3日の午後である。
 浄土宗でいう御十夜は、浄土真宗での報恩講に当たる。由来はともかく、昔は十日十夜したそうだが、それが三日三夜とか一日一夜と縮めて行われるようになり、巷のお寺さんでは、昼だけとか夜だけとかに限って行われているという。始まるのは午後2時、法船寺の方丈さんが導師となり、ほかに8人の住職方、真宗とは異なって、導師のあの五体投地を思わせるような礼拝、読経しながら時計回りに展開する行道の法要、檀信徒の永代経と出席した信徒の先祖代々の供養。一番始めに仏様をお迎えし、一連の所作が終わった後にはお帰りいただくといった流れで、法要は終わった。ざっと1時間。
 この後にお説教があるとのことだったが、ほとんどの人は法要が終わると退散、家内も家に庭師が来ているのでと帰っていった。私の予定は、このあと午後6時から金沢観光会館で催される劇団四季によるミュージカル「ジョン万次郎の夢」を観るだけ、時間もあるので聴くことにした。残ったのは8人、男は私ひとり、それにお母さんらしき人ひとり、あとはお婆さんばかり。
 お説教は若いお坊さんが担当された。お説教というと、お通夜の時のお経が済んだ後でのお説教、中には素晴らしいものもあるが、概して高飛車で押し付けがましいのが多い印象のが多いが、この日のは浄土宗の開祖である法然上人の生きざまと浄土宗の根本教義についてであり、大変興味が持てた。
 法然上人は幼名を勢至丸といい、美作の国(現岡山県)の生まれ、8歳の時に父を亡くし、母の弟が住持する草深い山中にある菩提寺に預けられた。此処で5年間修学後、13歳の時に叔父が学んだ比叡山に送られることになる。叔父鑑覚からの添え手紙を宛先の持法房源光に差し出したところ、本文には「大聖文殊像一体を進上致す」とのみあり、源光はその意味するところを悟り、すぐに入室を許したという。勢至丸は師源光の伝える天台宗の概論を海綿が水を吸うように吸収したという。源光は2年を経た後、将来のことを考え、勢至丸を碩学の名僧、功徳院の阿じゃ梨皇円に託すことにする。15歳の時である。此処で出家得度し、また講義を受け、知を増し、天台宗をマスターするのに必要な三大部計60巻を読破した。3年間の修業での優れた能力の開花は、将来を嘱望されるようになったが、名利の学問に明け暮れする現状に飽き足らず、皇円の元を離れ、再出家する。皇円自身も同じ思いだったこともあり、独自の修業を行っている黒谷の慈眼房叡空につくように勧めた。18歳の青年の求道の志が父の死以来変らず持ち続けられていることを知った叡空は、勢至丸に法然房源空の名を与えた。室の名の法然は、自然のまま仏道を歩むこと、戒名の源空の源は師源光の源、空は叡空の空からの由来である。源空は天台宗の祖最澄以来の正系の円頓戒の伝承を受け継ぐ叡空から、その正系の伝承を受け、「知恵第一の法然房」として、その優れた学識とともに広く比叡山に知られるようになった。しかし成仏を求め続ける源空は、1日も休まぬ読書と修行によっても心の安らぎ、悟りは得られなかったと。5千余巻の仏教典籍を繰り返し5回も読破研究し、次第に広がる知恵と深まる実践は、やがて「広深の法然房」の名を与えられるようになる。法然24歳の時である。
 しかしいくら精進努力しても、成仏の道、悟りに至ることはできなかった。この間、中国に留学した学僧を南都奈良に訪ね教えを乞うたが、逆に知識の広さ深さを讃えられたという。そしてこの頃には法然上人と尊称されるようになった。比叡山へ来て25年が経過し、この間の研究と思索と修行の末に分かったことは、自分の知識を頼んで道を求めることに誤りがあったのではないかと、知識そのものに溺れていたのではないかと、そして自分ひとりが救われても自分以外の者が救われなければ、何の意味があるのだろうと考えるようになった。その解答のヒントは、母の危篤に駆けつける途中で出合った恵心僧都源信の著した「往生要集」にあった。源信は成仏の困難さに気付き、ひとまず浄土である極楽に往生して、しかる後成仏を期そうとしたが、それには頭の中で極楽を思い浮かべる精神統一(観念)が必要だった。これでは仏教知識に乏しい一般庶民には適しいとは言えず、ただこの書の中に、それが出来ない駄目な人は、中国の善導大師が著した「観無量寿経しょ」に指示を仰げと記してあった。これには、何時でも何処でも、一心に専ら阿弥陀さまのお名前を唱えること、これが最も正しく間違いのない往生の業であり、阿弥陀さまの衆生を救おうという本願に適ったものであるとあった。何にも増してその極楽往生が、阿弥陀さまのお名前を口で唱えさえすれば、必ず誰にでも許されるという安らかさ。法然上人43歳、この結論を得ると、たちどころに他の修行法を捨てて、専ら念仏の一行を選び取ることとなった。出家以来30年の勉学の結果は、「一心に専ら弥陀の名号を唱えれば、何人も必ず極楽浄土に往生することが出来る」、これが万人救済の道であるという結論だった。しかし、これを他人に勧めてもよいのだろうかと悩んでいた時、夢枕に弥陀の化身としての半金色の善導大師が立たれ、汝が説く念仏専修の法は、弥陀の直説に相違なく、必ず流布するであろうと保証して下さった。法然上人は確信と喜びに満ち溢れ、比叡山を下り、京へ向かった。法然上人43歳、そして浄土宗という新しい宗を開いた。
 既成の仏教では、難行なしに救いはないとされたのに対し、浄土宗では念仏を唱えるだけでよいという易行で極楽浄土に往生できるとあって、布教されるや、庶民ばかりでなく、公家や武士にも信奉者が出た。有名な「大原問答」で、既成の宗派から、念仏のみでよいという理由、口で称えるだけで往生できるという理由を聞かれ、法然上人は、私が巷で口称・専修の念仏を説いているのは、素質の劣った、精神統一などできない、私のような平凡人のためと説明されたと。一方で、浄土信仰の根本聖典である「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の講義を、既成の宗派へ出向いて行っている。浄土真宗の祖の親鸞も60歳を過ぎてからの入門者である。既成の諸宗派にとって侮れない勢力になった一方で、中には上人の教えにそぐわないいかがわしい輩も出てきたことが発端となって、浄土宗を止めさせる機運が満ちてきた。急先鋒は北嶺の比叡山と南都の興福寺、比叡山の方は七箇条の起請文の提出によって弾圧は収まったものの、興福寺の攻撃は執拗で、朝廷での浄土宗理解派が亡くなって弁護活動が頓挫するや、強行意見を通し、法然上人は還俗流罪、藤井元彦として土佐へ流されることになった。この時法然上人は、これまでは都でしか布教できなかったが、地方でも布教を勧めるまたとない機会を与えて下さったと感謝されたとか。75歳の春のことである。しかし、その年の内に、京へ入らないという条件で赦免された。そして入洛が許されたのは79歳の時、翌建暦2年(1212)正月23日には、愛弟子の勢観房源智が浄土宗の肝要を後々の形見にとの願いで出に、御遺訓「一枚起請文」を書かれ、2日後の正月25日に80歳の生涯を閉じられた。
 法然上人流罪の折、高弟親鸞も藤井善信と改名させられ、越後に流された。法然は生涯肉食妻帯されなかったが、親鸞は妻帯することで悩まれた折に、法然上人は、妻帯した方がよりお念仏をよく称えられると思うならそうしなさいと言われ、親鸞は恵信尼と結婚された。親鸞上人は90歳で入寂された。
 この日のお説教は、さながら講談を聞いているようだった。ここでは前段の法然上人による浄土宗の開宗についてのみ記した。後段の浄土宗の教義についてはまたの機会にする。

時雨に煙る錦秋の28キロウオークで吾身の衰えを知る(11.15)

 平成の大合併で、松任市、美川町と白山麓1町5村が白山市となり、面積は石川県一、人口は金沢市に次いで2番目に大きい自治体となった。それを記念して、昨年白山市が主催して第1回白山・手取川もみじウオークが開催された。新聞報道があったので、その概要はおおよそ分かっている。また今年の大会にはない40キロウオークもあったが、コースからみて、特に興味をそそられたわけではない。ただ私の勤務する協会の50代の白山市在住のスポーツウーマンの方の話だと、余り歩いていないせいか、22キロコースに挑戦したけれども、足の裏にまめが出来て、最後は歩くのもままならなかったと聞いた。しかし競技の競歩ならいざ知らず、たかがウオーキングで軟弱なと思ったものだ。
 そして今年は2回目、新聞を見るとスーパー林道を紅葉を観ながら歩こうとある。出発点は姥ヶ滝駐車場、ここが出発点とあるので、てっきり三方岩駐車場までの往復と思い込み、ぜひとも参加したいと思った。探蕎会の信州行きの際に前田さんに話したところ、二の句もなく賛成とのこと、山仲間を誘うとのことだったし、バスの中では、大学の西田さんや協会の松川さんも参加とのこと。しかしコースについては私の勘違いで、松川さんが入手されたパンフレットによると、姥ヶ滝駐車場が出発点なのは同じだが、そこから下って、受付会場の吉野工芸の里がゴールだと判明した。コースを思い起こすと、一部上りはあるものの、ほとんどが下り、28キロのアスファルト道路歩きは経験ないものの、何とかなると高を括っていた。時速5キロとすれば、5時間半強、8時半出発だから、午後2時過ぎにはゴールできるだろうとの皮算用。
 天気が良いに越したことはないが、とにかく雨が落ちなければと願っていたが、寒冷前線の南下が遅く、あろうことか当日の朝になって雨が降り出した。強くはないが雨には違いない。事前に伺ったのでは、皆さん雨なら参加しないとのこと、貰うものは頂いて帰ることにと。そうすると前田さん相手だと、こりゃ朝から飲む羽目にもと、まあそれも良いかと腹を括った。前々日の晩に前田さんから電話があり、朝6時に浅岡さんの車で迎えに行くと、それは有難い。足元は2人は新着のゴアのトレッキングシューズ、小生は以前次男が履いていたトレッキングシューズかウオーキングシューズと思っていたところ、新聞にミズノの新タイプのウオーキングシューズio とかがえらく人気とのことで、それを通販で買い求めて履くことにした。軽いが底が薄く、長距離にはどうかなと、若干不安が残った。
 雨の中、吉野工芸の里へ向かう。28キロコースの受付は6時半、他の2コースより2時間早い。それでも会場に近い駐車場はかなりの混雑、そんなに参加者は多くないだろうとふんでいたのに予想外、当日受付の人もかなりいる様子。雨は降っているが、暴風雨警報が出ない限り、注意報でも決行とのこと、大勢が出かける意気込みに圧倒され、こちらも雨天決行となる。スタート地点へと向かうバスが次々と出る。私たちも7時20分頃バスへ、出発は35分、姥ヶ滝駐車場まで40分を要した。この間、隣に福井の妙齢の美女がお座りになっていろいろお話、トーチャンはウオークには全く興味がなく、彼女のみで全国津々浦々へ出かけるとか。この大会がよく分かりましたねと聞くと、ウオーキングクラブ会員なので、そんな情報は手に取るように分かるとか。シャッポを脱いだ。昨年も28キロコースに挑戦して6時間を切ってゴールの由、今日は2時半のバスに間に合うように下りるとも。駐車場はもう一杯の人人人。出発式が始まる8時20分になってもまだ団体のバスが上がってくる始末。見ると愛知県○号車とある。プログラムにはないグループのようだ。こんなに多いのは、スーパー林道の紅葉が凄い魅力だったことに起因していよう。私もこのコースがなければ参加していない。因みに事前受付の1276人中586人がこのコースだ。
 予定では出発式が8時20分、スタートが30分だったが、式の始まりが30分にずれこんだ。此処だけでも参加者は千人とか、北海道や九州からも来ている。周囲の峡谷は紅葉・黄葉、天気が良ければもっと素晴らしかったろうにと思う。一時陽も射したが、雨はずっと降っている。峡谷の向こうに端麗な妙法山が見えている。旭川から来たという女性のエイエイオーの掛け声で式が終わり、スタートとなる。時に8時45分。私たちは比較的先頭に近い方だったが、蛇谷大橋で振り返ると正に長蛇の列、此処で後にカメラを向けたが、その間にもどんどん人が抜いていく。ここから料金所ゲートまで5ヵ所以上滝が見られるが、もうカメラを向ける余裕などなく、ゆっくり周りを愛でながら歩こうなど、もってのほか。以降は黙々と歩くことになる。ゲートまでは4キロとか、ここまでは1キロ10分のペースだ。自然保護センター、中宮レストハウス、三俣の堰堤を過ぎると、岩間温泉道への分岐までは上りとなる。もう先頭とは上りで500米以上開いている。後で分かったことだが、私はこのコースの先導者に付いていたが、途中での携帯電話の話を聞いていると、私をもう60名の人が追い越していったと連絡していた。分岐の白山峠からは少し急な下りで一里野スキー場に着く。ここからはスキー場の裾を回ってゴンドラ乗り場に、そして更に裾を縫うようにして花咲ゲレンデに至る。ここで先導者は直進すべき狭い径ではなく広いゲレンデへの道へ入った。道は山への上りとなり、コースアウトに気付く。小さな尾添の出村の部落の間を抜けてコースに復帰したものの、ここで3分位はロスしたろう。ここから急な杉の落葉の径を下り、県道を渡って尾添の本村に入る。尾添川を渡って中宮の部落への上り、ここまで3人は併歩してきたが、浅岡がペースを落とさず先に出てしまって差がついてしまった。中宮から更に右岸の径を辿り、再び川を渡り返し、県道へと上がる。この坂で今度は前田と差がついてしまった。県道が瀬戸にかかる頃にはカーブもあってか前田の姿は見えず、恐らく300米は差がついたろう。ようやく道の駅瀬女に着いた。時は11時47分、ここまで17キロなので、1キロ10分40秒となる。前の前田と3分、浅岡とは6分差があったとすると、彼らのペースはキロ当たり前田が10分30秒、浅岡が10分10秒となる。
 前田さん差し入れの柿の葉寿しで昼食を済ます。道の駅の玄関だったので、丁度出前で来た清華園の親仁と会った。酒飲み運転が厳しくなってからというもの、山の帰りに寄ったのは2回のみ、御無沙汰だ。さあ後2時間、発ったのは12時8分、雨は相変わらず降っている。この頃から少し雨足が強くなったようだ。瀬戸野で国道に出る。国道は車の行き来が多く、歩道を一列になって歩く。浅岡、前田、木村の順。浅岡は通常の紳士傘、前田は傘を差さずに黒のゴアの上下、私は花柄の女物の折畳み、雨の中を黙々と歩く。濁澄橋から木滑新への上りで浅岡が先行する。私は前田に合わせて歩く。木滑の交差点から旧道に入る。浅岡とは50米の差がついた。瀬波川の橋を渡り、花ゆうゆうと大門温泉の間を通り再び国道へ、佐良の部落を過ぎ、杉の子温泉手前の手取川にかかる佐良橋を渡って左岸へ。浅岡の姿は見えず、前田にくっついて歩く。10米以上の差はやばいと離れそうな時は小走りにして追い付くようにする。見ていてピッチは同じだが、どうも歩幅が若干広いのか、どうしても少しずつ差が出る。ようやく思い当たったのはマシンの効能、背は私より低いはずだし、股下が彼の方が長いとも考えられず、行き着いたのは精進の賜物の結果だとの結論。もうこうなると脱帽である。綿ヶ滝の第2のチェックポイントで一緒になり出発する。そば処「みたき」に近い手取川の不老橋を渡り、再び右岸へ。下吉野の部落を通る旧道へと、国道から変な間道を抜けて出る。「花川」の前を通り過ぎ上吉野へ、白山ろく県民体育館の屋根がやっと見えてきた。そこを過ぎればゴールまで1キロ半、安堵したのかこの辺りから私が遅れ出す。一度国道へ出て、体育館を過ぎてまた旧道へ、この辺りで100米の差がつく。私は追い付く努力をせずにマイペースとなる。すると更に差が出る。ようやくゴールのアーチをくぐってスタートの吉野工芸の里に着いた。疲労感は余りないが、ただ足の裏が痛い。着いたのは午後2時3分、前田さんは丁度2時に、浅岡さんはその10分前という。後半のペースは浅岡9分20秒、前田10分10秒、木村10分30秒だった。
 六甲山縦走は56キロ、朝5時に明石を出て、夜8時に宝塚着、完歩証には着順も記載され、ゴール後記念写真も撮ってくれる。しかし参加者が万単位なこともあって、狭い個所では追い越し禁止で大渋滞、それに比べれば歩きよかったといえる。ラリーではないから着順は必要ないかも知れないが、あっても良いのではと思う。どっちみち4時という制限があるのだから、楽しむ人はそれに合うように楽しみながら歩けばよい。ともかく無事にゴールできたことは何よりだ。終わって温泉へ、はじめ白山里を予定していたが、杉の子温泉が空いていたのでここにする。典型的な掛け流しの源泉、ゆったりしてから一寸一杯のビール、これもお酒無縁の浅岡さんあってのこと、感謝々々である。そういえば、バス同席の福井の彼女、温泉への途次にコースを歩いていないか見たが分からなかった。
 帰って拙宅でささやかな反省会。浅岡・前田両氏の長足の進歩と精進を称えた。

白馬岳での遭難に思うーガイドは登山の安全に最大の配慮をー(11.22)

 白山でも白馬岳でも、初冠雪の確認は天候が回復した10月9日だった。でも降雪は、下では雨だった7日と8日にあっただろう。天気予報は山での状況までは考慮していないが、7日は雨、8日は雨後曇り、9日は回復するとのこと、私は8日に白山へ行く予定だったが、市ノ瀬で待機していても雨は止まないので、9日の日帰りにした。天気図では6日には何の変哲もない低気圧だったのに、7日から急に発達して台風並みになって北上し、天気図上では西高東低の完全な冬型になっていた。おそらく予報での8日の天気の回復は、低気圧は東の海上に抜けると判断したためと思われる。そしてこの低気圧、動きがのろい上に急激な発達をしたものだから、下では大した風の影響はなかったものの、標高2000米以上ではその影響をもろに受けていたに違いない。
 白馬岳で遭難したパーティーは九州からで、祖母谷温泉から清水(しょうず)岳を経由して白馬岳へ、さらに朝日岳から犬ヶ岳を通る栂海新道を親不知まで、4泊5日の予定の縦走だった。6日に入山、7日朝早く祖母谷温泉を出発、この時は小雨だったという。このコースは標高差が2000米、私たちもこの尾根を夏に上ったが、清水岳の手前の樹林帯で幕営し、翌日朝日岳、さらにイブリ尾根を北又小屋へ、そして越道峠を越えて小川温泉へ抜けた経験があるが、荷が重いととても負担になるコースだ。一行は9時間半かけて清水岳に着いているが、ここまででも2時間ばかり余計に時間がかかっているということは、かなり体力を消耗してたのではないだろうか。標準タイムならば、ここから宿泊の白馬山荘までは2時間ばかり、ガイドが後もう2時間と言ったことに偽りはないが、ここまでの2時間のオーバーは、これからの2時間を約束するものではなかったのではないか。ガイドは本当にこれからの2時間に耐えられる体力と気力が、この中高年女性のそれぞれが持ち合わせていると確信したのだろうか。後でのインタビューでは、彼女たちは日本ばかりでなく海外の登山も経験した上級者だし、行けると思ったと言っている。しかしこの2600米辺りでは雨が霙に、そして雪に変わっていたろうし、風もかなり吹いていたと思われる。この気象条件と体調を勘案した時、同じ2時間なら不帰岳の避難小屋へ戻るべきではなかったか。
 ガイドは、この事故は想像を絶する気象変化、すなわち自分の気象判断のミスによるものだと言っている。でも気付くのがあまりにも遅かった。しかも気付いた地点が清水岳と白馬山荘との中間点、後1時間ばかり、しかしこの地点では、引き返すにはあまりにも進み過ぎていた。ここでは引き返す危険と進む危険とが拮抗していただろうし、とすれば進むしかなかっただろう。村営宿舎と山荘の両支配人とも、初冠雪でこれだけの厳冬期並みの猛吹雪と積雪は15年来初だと、それが丸2日続いた。平成元年のくしくも同じ時期、10月8日に立山の真砂岳の稜線で10人中8人が凍死したが、同じような気象条件、だがメンバーはリーダー不在の物見遊山の、山の恐ろしさも怖さも知らない素人の大阪のお父さん達だった。しかしこの度の遭難はれっきとしたガイドさん付きのツアーである。判断ミスだけで簡単に片付けられてはたまらない。危険を察知できないようではガイドではない。
 今度の遭難は、ガイドの中高年女性パーティーメンバー各位の体力と気力の過信妄想による現状把握の見誤りと、秋山でも起こり得る厳冬期並みの急激な気象変化を読めずに、引き返すを知らない猪突猛進から起きた人為ミスと言える。
 体力については、ガイドの話のみで、生還した2人の女性の談話は聞かされていないが、ターニングポイントとなった清水岳での体調は本当に良好だったのだろうか。これから2時間、霙や雪をついて、風の吹く中、本当に往く自信があったのだろうか。トレーニングとすれば、あまりにもむごいトレーニングだ。ここでは恐らく体は汗で濡れていたろうし、ここで保温対策が採られた様子もない。このような対策を採るには、少なくとも風が当たらない場所へ移動して行われねばならないし、濡れたままでは、特に吸湿速乾性のアンダーウエアを着ている場合は、外気温が低下すると、汗の気化熱で簡単に体温の低下を惹き起こす。保温着がなければ、標高を下げて、風と寒さに対する方策を講ずるべきだった。参加したメンバーの人達は山を楽しみに来たのではなかったのか。
 清水岳から山荘までは2時間の距離、出発して1時間後の中間点からは、これまでに経験したことがない猛吹雪、ブリザードともいえる想像を絶する局面に遭遇することになる。腕を組んで横一列になったが、腕が引きちぎられるような感じだったと述懐している。白馬岳の主稜線へあと200米の地点で2人が行動不能になる。4人は先行するが、山荘と村営宿舎の中間点でほとんど動けないような状態になる。いずれも吹きさらしの場所、止まっては体温の急激な低下を来たし、それは死を意味する。ガイドが救援を依頼し、3人が村営宿舎に収容されたものの、生還したのは2人だけだった。この時の風速は分からないが、優に20米は超えていたという。ブリザードとも表現しているのだから、確かに想像を絶するものだったに違いない。少なくとも稜線へ出た時点で今一度進退を判断すべきだった。
 今回の企画は引率したガイドが行い、そしてこのガイドが参加者を募って催行したものである。九州からの遠征ということもあって、このガイドはこのツアーの完全遂行を最優先したのではなかろうか。日程に余裕があったのならば、予備日などを設けておけば、強行する必要はなくなるというものだ。それより、このガイドは参加者全員の生命を預かっているという最も大切な自覚が欠けていたのではないか、無事下山させてこそなんぼである。何にも増して、参加者の安全を最優先させるべきなのが当然の責務であるのにである。よく年配者の山での行動の目安は5〜6時間に、しかも悪天候での行動は控え、装備は最上級のものをと言われる。確かにこのツアーに参加しているメンバーは、登山歴も長く、海外登山も経験あるベテラン組だったというが、それが過信につながり、無謀にも危険に身を曝し、気付いた時は退っぴきならない事態に遭遇することになってしまっていた。
 10月9日は年に何日という大快晴の日だった。もし予備日がなくても、不帰岳の避難小屋に2晩泊まったとしても、あと1晩は朝日小屋に泊まり、健脚ならば、長躯親不知までも抜けることも可能だったろうし、小川温泉や蓮華温泉への選択も出来、初冠雪の北方稜線を十分に満喫できたろうに。ガイドの判断ミスによる代償はあまりにも大き過ぎた。このツアーに参加したお客さん5人のうち4人が還らぬ人となり、1人は重い凍傷を負った。ご冥福をお祈りする。

閑話休題  
 村営宿舎へ収容された女性2人に対して、宿泊していた女性2人による肌-肌接触の体温伝達による蘇生が行われた。施術した女性はこんな蘇生法を知っていたのだろうか。しかも最初に行ったのは外国の方だったとか。このような蘇生の方法は雪深い山里では常識のようで、私が最初に知ったのは、四高生が冬の医王山で遭難した折に、越中の糸谷の女性の方達が、裸で遭難した学生を抱いて温めて蘇生させたという記事を読んだときだった。同じようなことは、浜の方にもあると聞く。

丸岡ー竹田は定番コースー初めての丸岡新そばまつりー(11.28)

 丸岡町長畝の海道さんの広大な畑で収穫された蕎麦、その新そばをお相伴しに、失礼だが恒例になってしまった行事に参加した。11月12日、日曜日のことである。蕎麦は萌葱色をしていて、正に色良し、香り好しで、しかも、おろしそば、水そば、釜上げと、新そばを十分堪能させていただいた。また、小見山さんの立派なバッテラも見事だった。波田野会長が〆の挨拶で、2週後の日曜日に恒例の丸岡新そばまつりがあることを出席の皆さんに案内されていたが、これも恒例とあって、そうなのかと、一度も参加したことがないこともあって、てっきり野外でやるのだろうから、お天気が良ければよいのだがと思っていた。この時もマイクロバスは帰りに竹田の谷口屋へ寄って、一行は厚揚げと絹ごし豆腐を求めた。もう丸岡の帰りにはお決まりのコースになってしまった感がある。この日は希望で大椙にも寄って鯖のへしこも求めた。
 ところで、丸岡の新そばまつりのことなどすっかり脳裏から消去されてしまっていた。ところが、マックに放り込んであるデジカメの写真が、7,600枚、15GBにもなり、開く度にバージョンアップの催促、勝手が分からないので前田さんに助けを求めたところ、快晴の25日の土曜に対処しましょうと。予定の午前10時きっかりに往診いただき、手当てをしていただいた。その折に、明日の丸岡新そばまつりに出かけませんかと誘いを受け、今まで行ったことがないので行ってみようかという好奇心が湧いてきた。今の所、波田野会長、寺田先生、新田女史、野村さん、運転は前田さんで、私の車は6名は乗れますからとのことで、お言葉に甘えて連れていっていただくことにした。
 翌26日の日曜は生憎の小雨、10時過ぎに小生宅に寄っていただき、一路加賀産業道路を経由して丸岡に向かう。車中で波田野先生宛の案内状を見せていただくと、それには丸岡の蕎麦同好協議会のアドバイサーという肩書宛での案内となっているではないか。3人ばかりこの肩書の方がおいでるとかで、中山道場師範もそうだとか。このことは初めてお聞きしたが、中々の大役だ。とすると、波田野先生は御招待ということに、そうすると、後の5人は先生の随員となるのだろうか。そうこうするうち、当の会場に着く。広い駐車場がほとんど埋まっていて中々の盛況。車は福井ナンバーが圧倒的に多い。
 会場は旧の保健所と福祉事務所が同居した社会福祉センター、多目的ホールが新そばまつりのメイン会場、入って海道さん達の出迎えを受ける。玄関から長蛇の列、熱気さえ感ずる。このまつりには波田野先生は毎年欠かさずご出席だが、他には新田さんが来られたことがあるだけ、あとの4人は全く勝手が分からない。案内される方がこちらへと招かれるままに、並んでいる方々の脇をすり抜けて会場に入る。空いている一角に6人が陣取ると、丸岡蕎麦道場の方達がおいでて、6人ですかと言われ、程なく朱色のプラ容器に入ったおろしそばを持ってきて下さる。今日は二八だと。有難くアッという間に胃の腑に納まる。また一膳ずつお盆に運ばれてきた。1膳目と2膳目とはよく似ていて平打ちだった。おろしは絞り汁、それに鰹と葱、汁の味はやや甘め、量は控えめである。もう一杯と云われて3杯目を頂く。このそばは中細で、こちらの方が田舎蕎麦らしい感じ、先の平打ちはコシもあり喉越しもよかったが、3杯目はややボソッとした感じだった。
 会場にはそば打ちコーナーがあり、海道さんも伸しておいでたが、その流れるような仕草は他の人を圧倒している。完璧な出来である。二八だとすいすいだとか、素晴らしい。先日は新しい打ちを伝授された京都の「甚六」へ行っておいでたとか。以前海道さんはそこで石臼の目立てまでもマスターされたとか、もう蕎麦に関しては、蕎麦栽培からそば打ちまで、すべからくオールマイティーなのと、その真摯な傾倒ぶりにびっくりした。会場には蕎麦料理の数々も展示されていたが、「これは展示品ですので、絶対に食べないで下さい」とあったのは微笑ましかった。展示品は8品、「そば米と白茎ごぼうの炊き込みご飯」「あんかけ揚げそば」「そばの実だんご」「そばのバウンドケーキ」「そば寿司」「そばせんべい」「そば粉のシフォンケーキ」「そば粉のお好み焼き」。
 丁度昼時とあって、私たちが出る頃もやはり長蛇の列、列を尻目に滑り込んで申し訳ないと思ったりもするが、ここは会長にオンブにダッコということにするか。会場前には丸岡産の野菜が即売されていて、求める。もう残り少なくなっていた。
 再び車中の人となり、竹田へ。谷口屋は日曜とあってか駐車場は車で一杯、相変わらずの繁盛、すごい人出だ。店へ入って、油あげ2枚と絹どうふ大2丁を求める。930円也。いつか求めて美味しかった「がんも」は売り切れ、油あげ用醤油ととうふのたれもなくなっていた。パンフレットを見ると、ギフトセットもあるようだ。レストランの方も空き席待ちの行列だ。皆さん買い込んで帰沢の途につく。
 また雨が降ってきた。時間はまだ2時を過ぎたばかり、家の前まで送ってもらう。運転の前田さんは帰って勤務とか、小生は時間は早いが飲みとするか。新田さんから西の花街で名の売れた豆腐を頂く。ぜひ竹田の豆腐と食べ比べてみて下さいと言われ、飲むにしてもよい名目が出来たとほくそえむ。私は車の最後尾に鎮座していたので、下りる時は隣の野村さんと出口の新田さんに一時車から降りてもらわねばならない羽目に、雨が降っていたこともあり、戦利品の白菜と揚げ・豆腐を両手に持って車を出た際、うっかり家の入口の鍵が入ったバックを置いたまま出てしまった。玄関に立って呆然、携帯も家の中、家の周りを回り、どこか開いているところはないかとチェックするが、カミさんの戸締りは完璧で、家に入れない。帰ってすぐに昼間から飲むなどと言ったことの諌めか。大変弱ったが、冷静になり知恵を絞り、泥棒紛いの忍術を使い、入屋に成功する。前田書店に電話し、出向いて鍵を頂いてきた。
 飲みは4時になった。大相撲は今日が千秋楽、新田さんに頂いた絹どうふと竹田の絹どうふとを食べ比べしながら、ぬる燗で賞味する。私の冷奴の食べ方は、シールを外して豆腐を器に出し、中心部をスプーンで掬い、そのまま食する。もし豆腐にたれが要るときには、その窪みに少々垂らして、そこをスプーンで掬って食べる。今日は二種あるので、交互に食べて比較した。
 始めに両者のシールに書いてある効能書きを記す。
1.新田さんからの豆腐:西茶屋の味自慢「きぬとうふ」北陸のエンレイ大豆に能登の天然にがりのみで造ったおとうふです。生ものですからお早めにお召し上がり下さい。遺伝子組み換え大豆は使用しておりません。消泡剤は使用しておりません。(要冷蔵)〔枠内表示〕名称:きぬとうふ/原材料名:国産大豆、塩化マグネシウム含有物(にがり)/内容量:300g/消費期限:枠外右部に記載(06.11.30)/保存方法:要冷蔵10℃以下/製造者:中谷とうふ/代表者:中谷 正/石川県金沢市野町2-19-13/(076)241-3938
2.「竹田のとうふ」厳選された素材と深山清冽白山の清水を使った豊かな風味。生ものですからなるべくお早めにお召し上がり下さい。要冷蔵5℃以下で保存してください。遺伝子組み換え大豆は使用しておりません。賞味期限 06.12.01 〔枠内表示〕品名:きぬごしとうふ/原材料名:丸大豆(国産大豆)、凝固剤:塩化マグネシウム(にがり)、消泡剤/内容量:450g/製造元:谷口 誠/福井県坂井郡丸岡町上竹田37-26-1/(0776)67-2202
 記載についてみると、原材料はいずれも国産大豆1のエンレイ大豆と、2の丸大豆の差は不明、にがりはいずれも天然のもの、ただ消泡剤は、1は不使用、2は使用している。水は大変大事な要素であるが、1には記載がないが、豆腐製造には大量を使うので、井戸水を使用しているのではなかろうか。2は清水とあるが、使用水は表流水ではなく、伏流水と思われる。入っていた容器は、1が茶色のPSに、2は白色のPPであった。
 器に移して眺めると、1は淡い薄い黄色がかっていた。2はやや濁った白色である。そのままでの味は、どちらも甘味があって美味しいが、1の方がやや味が深いように感じた。ところが、丸大豆醤油をほんの少し垂らして食すると、2がたれとしっくり馴染んだのに対し、1は馴染まない印象を受けた。総合すると、甲乙付けがたい結果となった。今回は一切薬味の使用は控えた。
 付言:翌日、家内用にと残してあった「竹田のとうふ」を家内が暖めて食べたいと言う。仕方なく白湯で温めて、温かい豆腐にたれを極少々垂らして食べたところ、これがまた冷奴に勝るとも劣らない一品となった。奴よりずっと肌理が細やかでしかも甘味も増す感じだ。スーパーで売っている豆腐ではこうはいかない。  

白山・御前峰から見える日本百・二百・三百名山2(12.6)
 今年の10月9日は、白山や北アルプス一帯では初冠雪が確認された日である。この降雪は前日と前々日にもたらされたもので、白馬岳での遭難の状況の記述では、ブリザードまがいの猛吹雪、風速は優に20米を超えていたという。白山では降雪はあったものの、北アルプスのような強風域はなかったようだ。でも9日朝には気温はかなり氷点下以下に下がったようで、室堂から御前峰への登拝道は完全に氷結していて、とてもアイゼンなしでは登高できなかったとか。私が観光新道経由で室堂に着いたのは10時半、1時間程前からは氷結も幾分緩んで、登拝できるようになり、沢山の人が快晴の白山を楽しんでいた。御前峰の頂上には11時に着いた。通常この時間帯になれば、霞んで遠望は無理なのだが、この日ばかりはこの時間でも空気の透明度は抜群で、今まで経験したことのない展望を楽しめた。圧巻は伊吹山の左手奥に山の連なりが見え、それが大台ヶ原山と大峰山脈だったということだ。うっかりしたことは、後で気が付いたことだが、伯耆大山も見えていたのではということなのだが、デジカメでもこの方角のパノラマは撮ってなく、確認できなかったことだ。このような天気は、望んで得られるものではなく、大山については見えるとする記述もあるので、後での記載では見えたことにして処理した。初冠雪とあって、東方一帯に展開する山々は、北は朝日岳から南は御嶽山まで、標高2300米以上は、剱岳、槍ヶ岳、北穂高岳の一部を除いては真っ白に化粧していた。
 ここでは、この日のデジカメ写真をマック上で拡大し、20万分1地勢図と白山御前峰からの展望図を参考に、とりあえず、今回は深田久弥百名山、深田クラブ日本二百名山及び日本山岳会編日本三百名山のうち、白山御前峰から展望できる山々をチョイスして、それらの山々を真北から順に時計回りに記載した。記載は順に、名山別〔百名山は(百),二百名山は(二),三百名山は(三)〕、山名もしくはピーク名、標高(メートル)、白山御前峰からの距離[キロメートル]、頂が属する県名、『2.5万分1地形図名』、「5万分1地形図名」、(20万分1地勢図名):方位(度)とした。
基 点
(百)白山・御前峰(2702)、石川・岐阜、『白山』・「白山」・(金沢4-3)
北(0°)〜北東(45°)
(三)奥医王山(939)、[40km]、石川・富山、『福光』・「城端」・-*(金沢1-4):(4°)
(三)大笠山(1822)、[19km]、石川・富山、『中宮温泉』・「白川村」・(金沢3-3):(5°)
(二)笈ヶ岳(1841)、[16km]、石川・富山・岐阜、『中宮温泉』・「白川村」・(金沢3-3):(6°)
(三)大門山(1572)、[24km]、石川・富山、『西赤尾』・「下梨」・(金沢2-4):(7°)(三)三方岩岳(1736)、[14km]、石川・岐阜、『中宮温泉』・「白川村」・(金沢3-3):(30°)
(三)人形山(1726)、[26km]、富山・岐阜、『上梨』・「下梨」・(金沢2-2):(35°)
北東(45°)〜東北東(67.5°)
(二)金剛堂山(西白木峰)(1650)、[36km]、富山、『白木峰』・「白木峰」・(高山14-4):(45°)
(三)白木峰(1596)、[43km]、富山・岐阜、『白木峰』・「白木峰」・(高山14-4):(47°)
(三)朝日岳(2418)、[114km]、富山・新潟、『黒薙温泉』・「黒部」・(富山8-1):(48°)
(二)毛勝山(2414)、[95km]、富山、『毛勝山』・「黒部」・(富山8-4):(50°)
(百)白馬岳(2932)、[111km],富山・長野、『白馬岳』・「白馬岳」・(富山4-3):(52°)
(百)剱岳(2999)、{92km}、富山、『剱岳』・「立山」・(高山5-3):(55°)
(二)奥大日岳(2611)、[88km]、富山、『剱岳』・「立山」・(高山5-3):(56°)
(百)五龍岳(2814)、[104km]、,富山、『神城』・「大町」・(高山1-3):(57°)
(百)立山・大汝山(3015)、[89km]、富山、『立山』・「立山」・(高山5-4):(58°)
(百)鹿島槍ヶ岳(2889)、[102km]、富山・長野、『神城』・「大町」・(高山1-3):(59°)
(二)針ノ木岳(2821)、[94km]、富山・長野、『黒部湖』・「立山」・(高山5-2):(62°)
(三)猿ヶ馬場山(1875)、[17km]、岐阜、『平瀬』・「白川村」・(金沢2-4):(63°)
(百)薬師岳(2926)、[78km]、富山、『薬師岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-3):(63°)
(二)赤牛岳(2864)、[83km]、富山、『薬師岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-3):(65°)
東北東(67.5°)〜東(90°)
(百)水晶岳(黒岳)(2986)、[80km]、富山、『薬師岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-3):(68°)
(百)黒部五郎岳(2840)、[74km]、富山・岐阜、『三俣蓮華岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-4):(69°)
(百)鷲羽岳(2924)、[80km]、富山・長野、『三俣蓮華岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-4):(70°)
(二)大天井岳(2922)、[87km]、長野、『槍ヶ岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-2):(74°)
(百)槍ヶ岳(3180)、[81km]、長野、『槍ヶ岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-2):(75°)
(百)笠ヶ岳(2897)、[72km]、長野、『槍ヶ岳』・「槍ヶ岳」・(高山6-2):(75°)
(百)常念岳(2857)、[88km]、長野、『穂高岳』・「上高地」・(高山7-1):(77°)
(百)奥穂高岳(3190)、[80km]、長野・岐阜、『穂高岳』・「上高地」・(高山7-1):(79°)
(百)焼岳(2455)、[74km]、長野・岐阜、『焼岳』・「上高地」・(高山7-4):(84°)
(二)霞沢岳(2646)、[79km]、長野、『上高地』・「上高地」・(高山7-2):(85°)
東(90°)〜東南東(112.5°)
(百)乗鞍岳・剣ヶ峰(3026)、[74km]、長野・岐阜、『乗鞍岳』・「乗鞍岳」・(高山8-3):(94°)
(百)八ヶ岳・赤岳(2899)、[145km]、山梨・長野、『八ヶ岳西部』・「八ヶ岳」・(甲府9-3):(98°)
(百)瑞籬山(2230)、[166km]、山梨、『瑞籬山』・「金峰山」・(甲府5-4):(100°)
(百)金峰山(2599)、[170km]、山梨・長野、『金峰山』・「金峰山」・(甲府5-2):(101°)
(百)甲斐駒ヶ岳(2967)、[139km]、山梨・長野、『甲斐駒ヶ岳』・「市野瀬」・(甲府14-1):(108°)
(二)位山(1529)、[40km]、岐阜、『位山』・「三日町」・(高山16-2):(109°)
(百)鳳凰山・観音岳(2840)、[147km]、山梨、『鳳凰山』・「韮崎」・(甲府10-4):(109°)
(百)仙丈ヶ岳(3033)、[136km]、山梨・長野、『仙丈ヶ岳』・「市野瀬」・(甲府14-2):(110°)
(百)北岳(3192)、[143km]、山梨、『仙丈ヶ岳』・「市野瀬」・(甲府14-2):(112°)
東南東(112.5°)〜南東(135°)
(百)御嶽山・剣ヶ峰(3067)、[70km]、長野、『御嶽山』・「御嶽山」・(飯田9-2):(114°)
(三)川上岳(かおれだけ)(1626)、[38km]、岐阜、『位山』・「三日町」・(高山16-2):(116°)
(百)塩見岳(3052)、[143km]、長野・静岡、『塩見岳』・「大河原」・(甲府15-2):(117°)
(百)空木岳(2864)、[106km]、長野、『空木岳』・「赤穂」・(飯田2-4):(118°)
(百)東岳(悪沢岳)(3141)、[147km]、静岡、『赤石岳』・「赤石岳」・(甲府16-1):(119°)
(百)赤石岳(3120)、[147km]、長野・静岡、『赤石岳』・「赤石岳」・(甲府16-1):(121°)
(百)聖岳(3013)、[148km]、長野・静岡、『赤石岳』・「赤石岳」・(甲府16-1):(123°)
(二)小秀山(1982)、[70km]、長野・岐阜、『滝越』・「加子母」・(飯田10-1):(126°)
(百)光岳(2591)、[149km]、長野・静岡、『光岳』・「赤石岳」・(甲府16-4):(127°)
(三)奥三界岳(1811)、[84km]、長野・岐阜、『奥三界岳』・「上松」・(飯田6-4):(128°)
南東(135°)〜南(180°)
(百)恵那山(2191)、[109km ]、長野・岐阜、『中津川』・「中津川」・(飯田8-3):(136°)
(三)鷲ヶ岳(1672)、[30km]、岐阜、『大鷲』・「白鳥」・(岐阜1-1):(143°)
(二)大日ヶ岳(1709)、[18km]、岐阜、『石徹白』・「白鳥」・岐阜1-3):(161°)
南(180°)〜南西(225°)
(三)野伏ヶ岳(1674)、[16km]、福井・岐阜、『願教寺山』・「越前勝山」・(金沢8-2):(193°)
(百)大台ヶ原山・日出ヶ岳(1695)、[227km]、三重・奈良、『大台ヶ原山』・「大台ヶ原山」・(伊勢15-4):(196°)
(百)大峰山・八経ヶ岳(1915)、[234km]、奈良、『弥山』・「山上ヶ岳」・(和歌山3-2):(200°)
(百)伊吹山(1377)、[88km]、滋賀、『関ヶ原』・「長浜」・(岐阜12-2):(202°)
(二)能郷白山(1617)、[49km]、岐阜、『能郷白山』・「能郷白山」・(岐阜6-3):(208°)
(百)荒島岳(1523)、[29km]、福井、『荒島岳』・「荒島岳」・(岐阜5-3):(212°)
(二)武奈ヶ岳(1214)、[127km]、滋賀、『北小松』・「北小松」・(京都及大阪1-1):(215°)
(三)冠山(1257)、[52km]、福井・岐阜、『冠山』・「冠山」・(岐阜10-1):(218°)
南西(180°)〜西(270°)
(三)経ヶ岳(1625)、[18km]、福井、『越前勝山』・「越前勝山」・(金沢8-4):(228°)
(二)氷ノ山(1510)、[222km]、兵庫・鳥取、『氷ノ山』・「村岡」・(鳥取8-4):(247°)
(百)大山(1729)、[304km]、鳥取、『伯耆大山』・「伯耆大山」・(松江8-4):(247°)

変身したノロウイルスは人→人感染を起こす(12.13)

 11月下旬から12月上旬にかけて、新聞上では「ノロウイルス猛威・感染性胃腸炎が流行」、「ノロウイルス感染拡大・過去10年で最悪ペース」の字句が踊る。感染性胃腸炎については、石川県感染症情報センターが県内29ヵ所の定点医療機関から受けた報告では、11月27日からの1週間では昨年同期の約4倍、加賀地区のみでみると約10倍にも達していて、正に猛威・最悪という言葉が相応しい。そういうこともあって、先日某テレビ局から、ノロウイルスについての電話取材を受けた。私は以前に生ガキ食中毒に携わったこともあるので、それらをも交えて少し記してみようと思う。
 このノロウイルスは、以前はノーウォークウイルスといわれていたもので、2002年に国際ウイルス命名委員会でこのように命名された。ノーウォークの由来は、アメリカオハイオ州のノーウォーク町からきていて、その町の小学校で1968年に集団発生した患児の下痢便から見つかったウイルス粒子に初めてノーウォーク因子の名が付けられた。このウイルスは現在でも細胞で培養することはできなくて、形態学的に確認するには電子顕微鏡に頼るしかない。その後日本でも特に生ガキを喫食して下痢した人の便からも、電子顕微鏡下で同じような形態のウイルス様粒子が見つかり、ノーウォーク様因子もしくはウイルスと呼ばれてきた。後にこの粒子は小型球形ウイルス(SRSV)と呼ばれるようになる。
 養殖生ガキによる食あたりはかなり前から知られていて、石川県では七尾西湾での養殖が盛んであるが、生で食すると時々下痢することがあることは、少なくともその土地の人達はよく知っていた。でも、外浦に産する3年ものの天然ガキでの食あたりはない。いつか和倉温泉で聞いたことだが、今はもう出さないだろうが、以前は土地の人で食あたり覚悟の人だけに1年ものの養殖ガキを生で出すと言っていた。以前は養殖ガキの筏は比較的汚れた海域に置かれていて、その方がカキが早く大きくなるとかで、時には人糞も撒かれていたようだった。しかし出荷が近づくと、きれいな海域に筏を移動させたとのことだった。もっとも今では衛生的な管理のもとに養殖も出荷もなされているだろうから、このようなことは、今のような規制がなかった頃の話である。
 ノーウォーク因子が発見されたのが昭和43年(1968)、丁度その頃日本でも国立予防衛生研究所(現感染症研究所)ではこの粒子の解明のため、材料となる下痢便を2リッター程度採取して送付してほしいとの要望が出されていた。折りよく、和倉温泉の有名旅館から、生ガキによる食あたりの原因物質の究明をお願いできないかとの話が舞い込み、一枚かむことにした。私が和倉温泉へ出向き、生ガキによる下痢の解明ということから、カキは比較的汚れた海域の筏のをということで、温泉に近い奥原の筏のものを選んだ。10月から翌年2月まで、月1回8kgを提供してもらうことにした。その旅館の女将さんの娘さんはフランス人と結婚されていて、里帰りで寄られた折、好物の生ガキをわざわざ比較的きれいな中島まで行って食されたのだが、1回で当たってしまって大変でしたと話されていた。何しろフランス辺りでは日本と違い、ダース単位で食べるとかだった。このようにしてこの実験は始まった。当然下痢が起きることが先決なだけに、生で食べることが大前提で、当時私が勤務していた石川県衛生公害研究所で男性の喫食協力者を募り、研究所では6kg、大学の研究室へは2kg分与し、生ガキが届いた日に方法はどうあれ、生で食することにしてもらった。またカキの一部については、中腸腺と体部に分け、乳児嘔吐下痢症の原因ウイルスであるロタウイルスについて、酵素抗体法による検索も行った。
 10月から翌年1月にかけて、計4回試食をしたが、何ら変化は起きなかった。1人が食べる量は1個から20個と、好みもありバラバラである。また、人数は月により、12〜15人だった。ところで、これまで何らこれといった症状もなく、これでお終いという2月になり、待望の下痢と腹痛に当たった。下痢はシャーシャーという感じで、1日に10回ばかり、その時食したのは12人だったが、10人が洗礼を受けた。私もその1人、下痢が激しくてとても勤務に出られる状態ではなかった。この状態が1日半続いた。ところが冷静さを欠いていたというか、動転していたというか、肝心要の下痢便を採取するのをすっかり忘れてしまい、何のための挑戦だったのか分からなくなってしまった。3日目に出勤して聞くと、2人が無症状、しかも1人は15個も食べていたのにである。有症の人の喫食個数は1個〜20個、食べたのが午後6時過ぎ、私の場合、初回の下痢は朝6時頃、潜伏期は36時間ばかり、皆さんも大体朝に症状が出たとのことだった。腹痛はあったが耐えられないものではなく、嘔吐はなかった。また近医に受診した人もなかった。総じて症状とか潜伏期とかは似通っていた。5回目の試食に先立って下痢便採取のお願いをしなかったこともあってか、他の人達も誰も便を溜めてくれた人はなかった。
 一方、大学の研究室でも、5回目に異変が起きた。詳しいことは聞けず仕舞いになってしまったが、女性2人が入院したとのことだった。翌々日の発病だったので、てっきり風邪のひどいのだと思っていたとのことだったが、後でどこから情報が漏れたのか、木村の仕業と分かり、主任教授先生からはお目玉をくらってしまった。カキを提供するに当たっては、仲介者にはかくかくしかじかと十分説明したはずなのに、見舞いの菓子箱を持参しなければならない羽目になってしまった。したがって何人が何個食べて、何人に症状が出たのか、その症状とか潜伏期等々、正に聞ける状態になく、不十分な結果となってしまった。再チャレンジについては、皆さんから拒否された。余程懲りたのだろう。なお、ロタウイルスについては、検査結果はすべて陰性だった。
 その当時は、カキによる食中毒は原因がほとんど不明なこと、ウイルス性(非細菌性)食中毒の統計項目がなかったこともあり、その数の把握はされていない。でも石川県では毎年冬季を中心に5件前後の生ガキ喫食による食中毒があり、ロタウイルスの検査だけは行っていた。統計がとられるようになったのは平成9年(1997)からで、この時は小型球形ウイルス食中毒としてである。この項目はノロウイルスと命名された翌年の平成15年(2003)からはノロウイルス食中毒となる。ところで平成16年(2004)からはこの件数が急増してきて、事件数ではカンピロバクター食中毒に次いで第2位に、患者数では第1位となり、現在もこの状況が続いている。一方で、輸入魚介類や国産カキからのノロウイルス検出も増加し、またノロウイルスの人→人感染の報告もとみに増えてきた。これは旧来のノロウイルスは遺伝子群(G)Iだったが、2004年以降は急に遺伝子群(G)IIが優勢になってきたことによるものと思われる。因みに現在の検出数はGIIがGIの10倍に達している。
 GIIは欧米では2002年に検出されている。このGIIは旧来のGIより細胞に吸着する効率が高く、したがって感染性が強く、GIが食中毒の範疇を超えられなかったのに対し、GIIは汚染された食品の喫食や感染者の飛沫の吸引による直接感染、汚染されたものを調理した器具や手指を介しての二次感染、患者の吐物や糞便を介しての感染、ウイルスに汚染された水の摂取による感染等々、急激な広がりを見せている。ただノロウイルス感染による死者はほとんど無く、高齢者にわずかに見られるに止まっているものの、2005年以降、高齢者介護施設でのノロウイルス感染集団発生の報告が急増しており、今後その対応が急がれる。
 ノロウイルスは唯一ヒトの空腸でのみ増殖できる。ウイルスは感染者の糞便や吐物の中に大量に排出され、下水道を介して汚水処理場でも不活化されず、河川を経由して海に至る。海ではカキなどの貝類の中腸腺の中で濃縮され、汚染された貝類の生食によって再びヒトに感染する。このウイルスは60℃程度の温度には抵抗性を示すため、汚染された食品の喫食には70℃以上、厚生労働省では85℃以上1分間以上の加熱を推奨している。この温度では、ウイルスが含まれる貝の内臓部も凝固し、ウイルスも不活化されるという。
 先述したように、ノロウイルスは細胞培養によるウイルス分離は現段階では成功していないため、ウイルス粒子の形態学的な確認は電子顕微鏡によるしかない。ただこの方法によれば、ノロウイルス以外の下痢原性ウイルスも検出できる利点がある。ただ形態で判別するので、ノロウイルスの遺伝子群の区別はできない。ウイルス学的な診断法としては、酵素抗体固相法(ELISA)がある。これは2種の遺伝子群を広範囲に認識する抗体を固相化したプレートを用いるもので、一度に多数の検体を処理でき、ノロウイルス感染の特徴である二次感染拡大の予防には迅速に対応できるが、感度は次の方法の6割程度と落ちる。最も感度・特異性が共に高いのは逆転写遺伝子増幅法(RT-PCR)という遺伝学的診断法で、多検体を同時に検査することが困難なこと、測定時間が長いこと、RNA抽出や転写の過程での汚染に細心の注意が必要とかの隘路はあるものの、確認には最も活用されている。 

上原ひろみ、再び「週刊朝日」に登場(12.21)

 彼女はまだ若いジャズアーティストであることには違いはない。2006年1月に、「スパイラル」のアメリカでのリリースを記念してニューヨークのブルーノートで開かれたショーでは、大拍手とスタンディングオベーションが何時までも治まらないほど熱狂的なライブとなったと報じた「週刊朝日」の記事を読んで、前田さんを煩わして買って貰った彼女のサードアルバム「スパイラル」を再び聴いてみた。というのは、12月22日号の「週刊朝日」に再び彼女が登場したからである。彼女は12月に入っては「アジアツアー2006」と銘打って、東京を皮切りに、名古屋、バンコク、シンガポール、浜松、西宮、ジャカルタと順に公演する予定とかである。取材した菊池陽子記者の会見した印象によると、東京公演でのステージ上で激しくピアノを弾いていたあの女性とはまるっきり別人のようだったと、そしてインタビューで間近に相対すると、とても美しく静けさを湛えているという印象を受けたと述べている。雑誌でのポートレートは白黒ながら、来年28歳を迎える彼女は、前よりふっくらとした、可愛くておっとりとした感じの印象を受ける。
 インタビューでの彼女の語りに次のようなフレーズがある。「12歳で台湾のステージに立ったとき、私がピアノを弾いたら、それまで言葉を交わしたこともなかった人が、パッと笑顔になったのです。まるで昔からの友達だったみたいに。そのとき、『ピアノで、こんなふうに、ニコニコを増やしていけたらなー』と思ったのです」と。この思いは1999年20歳のときに東京の大学を辞めて、ボストンのバークレイ音楽院に入学することで花開くこととなる。ある人は、彼女のとんとん拍子の出世を揶揄してシンデレラというが、本当は「努力と根性と気合」の学生だったとも。そして、在学中の2003年4月、24歳でファーストアルバム「アナザーマインド」を出し、2003年度ゴールドディスク大賞「ジャズ・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を受賞する。そして作編曲科を主席で卒業した。
 翌2004年4月にリリースしたセカンドアルバム「ブレイン」も、2004年度のサラウンド・ミュージック・アウォード最優秀新人賞を受賞している。そして「スパイラル」、2005年度のジャズディスク大賞に輝き、日本でも日本ジャズ大賞を受賞した。今までリリースされた彼女のCDは3枚だが、いずれも彼女の作曲編曲であって、それがすべて栄えある賞を受賞している。ピアノが好きで好きでたまらない彼女、「ピアノに触れると、怒りとか、哀しみとか、ネガティブな要素が消えていくんです」とも。そのときどきの感情をそのままピアノに託して「音」にするのが好きだと、正に天性である。インタビューでも、返事をピアノの「音」で答えたいと仰る。
 公演での演奏者は、キーとなるピアノは上原ひとみ、幻想的なベースはトニー・グレイ、素手で叩くプリミティブなドラムスはスロヴァキア出身のマーティン・ヴァリホラ、2005年からのコンビで正に世界を股にかけて飛び回っている。ホームページには、今日は世界の何処にいるかを示す世界地図が載っている。今年公演した国を拾うと、本拠地のアメリカを入れて16カ国に達する。公演した国と都市を挙げると、アメリカ(ニューヨークほか26都市)、カナダ(モントリオールほか2都市)、ヨーロッパでは、アイルランド(コーク)、イギリス(ロンドン)、イタリア(ミラノ)、スイス(ベルン)、スロバキア(ブラチスラバ)、ドイツ(ミュンヘンほか1都市)、フランス(パリ)、ポルトガル(リスボン)、アジアでは、イスラエル(テルアビブ)、インドネシア(ジャカルタ)、韓国(ソウル)、シンガポール、タイ(バンコク)、日本(東京ほか4都市)で、これも複数回訪れている都市もある上、滞在して数回公演している都市も、さらに1日2公演もあるから、延べの演奏回数はすごく多いと想像される。
 ある人は私に、彼女の音楽は、演奏会場でのように、できるだけ大音響で聴くと、彼女の真髄が伝わってくると御託宣される。そういえば、そのような聴き方をした経験はない。「スパイラル」の中に、ある題名もない絵画を見て、その絵の印象ではなくて、その絵そのものを「音」にしたという「古城、川のほとり、深い霧の中。」という曲がある。この曲を大音響で聴くのがベターだとは私は思わない。この曲にはフランス印象派のドビュッシーやラヴェルの片鱗をうかがわす印象があるし、他の抽象的な曲にはサティを思わせるフレーズもあるように感ずる。サンサーンスやフォーレのピアノ曲に似通ったところもある。しかし、これは静かに聴いたときのの印象であって、音量を上げれば当然印象も違ったものになると思う。もっとも即興的に曲を弾く人はかなり沢山いると思う。モーツアルトの頃は、協奏曲のコーダの前に、演奏者の技巧を披瀝する即興の無伴奏の部分カデンツァがあったし、シューベルトの夥しい歌曲は、ほとんどが即興的に作られたものだとも聞く。彼女は具象であれ抽象であれ、夢であれ現実であれ、どのようなものでもそれを「音」に置き換える類稀な能力を持ち合わせている。でも、その音、その響き、その流れは、おそらく歳を重ねることによって変わっていくだろう。彼女は「音楽は水」だという。水ほど必要不可欠で変幻自在なものはない。彼女のこれからが楽しみだ。