2012年12月6日木曜日

三人のピアニスト

 9月から11月にかけて、3人のピアニストの演奏を聴いた。3人とは、ハオチェン・チャン、クリスチャン・ツィメルマン、そして室井摩耶子である。本当はもう一人、辻井伸行の1都1府25県にわたる日本ツアーが、12月10日に金沢であるのだが、先行予約で大方無くなってしまっていて、9月15日午前10時の残りチケット発売では、アッという間に完売となってしまった。それも私の前の人まででお終い、とても残念だった。

1.ハオチェン・チャン Haochen  Zhang     2012. 10. 08
 名前からするとヴェトナム辺りの出身かと思っていたら、生まれは上海とかである。15歳までは中国で、以降はアメリカで研鑽を積んでいる。そして2009年6月、第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで史上最年少の19歳で金賞を受賞した。この時辻井伸行と同時優勝だったという。辻井の優勝は日本では大きく報じられたが、2人優勝だったとは知らなかった。彼は現在22歳、まだあどけなさが残っている。県立音楽堂での演奏曲目はラヴェルのピアノ協奏曲ト長調で、オーケストラは高関健指揮のオーケストラ・アンサンブル金沢であった。曲は通常の急ー緩ー急の3楽章形式、ところが第3楽章へ入ると途端にジャズの手法が入った激しい演奏、ピアノの演奏がオーケストラを牽引しリードしているような弾き方、度肝を抜かれた。辻井と同時優勝したというが、演奏スタイルは全く違っている。辻井の音楽には情緒を見て取れるが、チャンの演奏は緻密で激しい。双璧かも知れない。20分強の演奏だったが、拍手が鳴り止まなかった。凄い演奏だった.
2.クリスチャン・ツィメルマン Krystiann  Zimerman     2012. 11. 24
 スイス、ニューヨーク、東京を拠点に活躍していた彼は、アメリカの自宅を放火で失ってからは、ヨーロッパとアジアに活動を集中しているという。ポーランド生まれの彼は6歳ですでに頭角を現し、コンサートでは聴衆に熱狂的な感動を与えたという。7歳でパリに渡り、ヤシンスキーに師事し、15歳からはコンクールに出場するようになり、1975年にはショパン国際ピアノコンクールで史上最年少の18歳で優勝し、一躍世界に知られるようになった。彼は生まれ故郷であるポーランド生まれのショパンやシマノフスキー、若くして渡仏したこともあってドビュッシーにも傾倒していて、今回の日本公演では、ドビュッシー、シマノフスキー、ショパン、ブラームスのピアノ曲が選択されている。特にドビュッシー生誕150年、また前奏曲集第2巻の完成から100年、また彼は今月にはドビュッシーが亡くなった年齢に達するということで、一際思い入れがあったようだ。
 演奏会当日、私の席の隣に、高校後輩で現在(財)石川県音楽文化振興事業団の専務理事をしている山腰茂樹君がいて、いろんな話をしていた中で、ツィメルマンは自分所有のピアノを持ち歩いてコンサートに臨んでいるとか。今回は関東、関西、北陸の12箇所で1ヵ月にわたる演奏旅行、私はホロヴィッツが持ち歩くのは聞いたことがあるが、これには驚いた。日本にはピアノを3台保有しているとか。彼が言うにはほかにはワイゼンベルクもそうだそうで、現在世界ではこの3人のみとか。当日の演奏曲は、ドビュッシーの「版画」の3曲、前奏曲集第1集の12曲から6曲、シマノフスキーの9つの前奏曲から3曲、それにブラームスのピアノソナタ第2番嬰ヘ短調だった。横長の譜面を見ての演奏だったが、冷徹で緻密、だが磨き抜かれた技と音色は聴衆を魅了した。終わっても拍手が鳴り止まず、何度も挨拶に出られた。本当に去りがたい余韻が漂った演奏だった。あのピアノの音色はスタインウェイではなくベーゼンドルファーだったのだろうか。
3.室井摩耶子 Mayako  Muroi     2012.11.26
 大正10年(1921)生まれの91歳のピアニスト、現オーケストラ・アンサンブル金沢音楽監督の井上道義氏が幼少の頃(6〜9歳)のピアノの師でもあったとのこと。二人のトークで、彼女が急にベルリン音楽大学に留学することになり、替わりに師となった方の指導が気に入らなくて、ピアノが嫌いになったと氏は述懐していた。トークでは彼女は井上さんを「みちよし君」と呼んでいた。曲は始めにシューベルトのピアノ連弾曲の幻想曲ヘ短調作品103より第1楽章を二人の連弾で、再びトークの後、ハイドンのピアノ・ソナタ第49番変ホ長調作品66が演奏された。91歳でまだ現役、彼女の円熟した正確なタッチの演奏は、満席の聴衆に感銘を与えた。井上音楽監督もステージの袖でじっと聴いておられた。アンコールにはシューマンのトロイメライが演奏された。生涯現役を地で行く演奏、老いても元気、県立音楽堂のランチタイムコンサートでこんなに満席になったのは、これが初めてではと井上音楽監督が話していた。因みに彼女は1964年にドイツで出版の『世界150人のピアニスト』として紹介されたという。
   

2012年11月20日火曜日

白山麓の秘湯を巡る

 家内とは年に何回かは温泉へ出かける.親戚や子供たちと一緒のこともあるが、できれば夫婦でというのがベターである。一昨年11月14日に長野県の中の湯温泉旅館に立ち寄った折りに、宿の主人から、明日は上高地の閉山祭なので出かけませんかと誘われたほかに、温泉がお好きならこのスタンプ帳を上げますから利用して下さいと言われた。これは3年間のうちに「日本秘湯を守る会」の宿を10軒巡ると、そのうちの1軒に1泊招待されるというもので、勧進元は(株)朝日旅行である。押印を見ると、平成22年には2軒、23年には2軒、24年には6軒巡り、これで10軒クリアしたことになる。このうち近場の白山麓の秘湯では、今年の5月に中宮温泉、6月には白山温泉、10月には新岩間温泉へ寄った。

1.中宮温泉にしやま旅館(石川県白山市中宮温泉)
 もうかなり古くから湯治場として知られている。でも山奥にあるため、昔は歩くか駕篭でしか行けなかったが、今はスーパー林道も開通して、車で行くことができる。以前は旅館が4軒あったが、現在は2軒のみ、でも公営の施設が新たにできている。ここは標高 700m、白山中宮道の登山口でもあるが、主人の話では、ここから登るのは年に1組位とか。私も学生の頃に友達と二人でここから白山へ登ったことがあるが、随分難儀した。中宮温泉は古くから胃腸の名湯として親しまれてきたが、里からは遠く、私の大叔母がよく湯治に訪れたと聞いたことがあるが、どうして訪ねていたのだろうか。
 私たちが訪れたのは5月4日、冬季は閉じていて、営業の再開は4月27日、辺りは新緑が萌え始めた季節、まだ白山スーパー林道は開通していない。林道に入る手前の急な坂道を上がると、にしやま旅館の看板が見える。駐車場は狭く、着くと車のキーは宿の人に託す。玄関に日本秘湯を守る会と墨書した提灯が吊るされている。古い佇まいの宿で、山の湯治場という雰囲気である。入ると囲炉裏のあるロビー、熊とか羚羊などが置いてある。部屋へ案内される。昔ながらの湯宿という感じ、早速風呂へ。男湯は1階の御前の湯、女湯は2階の大汝の湯、男湯は古い木造りの湯槽、湯は飲用できる。夕食は部屋で、岩魚や山菜は地元だが、刺身は海のもの、もっとも金沢からは1時間半もあれば着くので、新鮮な海産物も手に入ろうというものだ。翌朝4階の露天風呂に入った.丸い総桧の湯槽、新緑の林を眺めて浸かっていると、心が洗われる。ここは立ち寄り入浴もできる。帰りにここの「胃腸の湯」を求めた。1年間は保存可能という。水割りに使おう。
● ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉、源泉65℃、35ℓ/分、加水加温なし、源泉かけ流し。
2.白山温泉永井旅館(石川県白山市白峰市ノ瀬)
 ずっと昔の白山温泉は湯の谷の方にあったが、あの百万貫の岩が流れてきた大洪水で温泉は埋没した。その後新しい源泉が見つかり、ここ標高830mの市ノ瀬に湯宿ができた。昭和10年のことである。別当出合までの林道が開通するまでは、市ノ瀬が正に白山登山の基地で、皆ここから歩き出したものだ。最近になって永井旅館に別館が造られ、湯槽も新しくなり、きれいになった。本館は襖で仕切られた部屋だったが、別館は個室になっている。私たちが寄ったのは6月23日、白山の開山祭は7月1日、電話した時には白山へ行くのですかと問われた。家からは車で約1時間、本館には何度か泊まったが、別館は初めてだった。湯へ入って寛ぐ。夕食は大広間で、5組ばかり、白山へ登る人も2組いた。岩魚や山菜のほかも山の物ばかりなのが嬉しい。翌朝は私たちが殿だった。
● ナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉、源泉47℃、24ℓ/分、加温あり、源泉かけ流し。
3.新岩間温泉山崎旅館(石川県白山市尾添岩間温泉)
 この新岩間温泉(標高790m)や、6km下にある一里野温泉(標高550m)の源泉は、さらに3km奥の岩間温泉元湯(標高1000m)で、ここから引かれている。尾添の土建業者山崎組の組長の信一さんが、その元湯に温泉宿を造ったのは昭和30年代、二度ばかり白山からの下山時に泊まったことがある。しかしその後雪崩で倒壊し、今は往時の浴槽が残っているのみである。その後下流の現在地に新しく新岩間温泉を造った。しかし当時ここへ来るには、中宮温泉へ行く途中にある三又第一発電所の導水管に沿ってつけられた急な坂を200mばかり上らないと行けなかった。その後信一さんは私費を投じて林道を建設、大部分は一車線ながら、現在は車で行くことができる。私たちが訪れたのは10月28日、この日はもみじウォークがあって、私は一里野からここまで往復した。宿泊予約の電話をすると、寒いですから温かい格好で来て下さいとのこと、面食らった。私たちは本館ではなく、新しい別館に案内され、暖房なしと覚悟していたが、ガスストーブは置いてあった。午前中は小雨だったが、午後は本降り、ここの露天風呂は実に素晴らしいのに、雨で入れなかったのは残念だった.夕食は広間で、6組ばかり、家族連れも団体もいる。結構信奉者もいるのだなあと感心する。食事は山一色、孫の太一朗さんがよく世話をしてくれた。
● ナトリウムー塩化物泉、源泉93℃、60ℓ/分、加水・加温なし、源泉かけ流し。

2012年11月12日月曜日

第8回白山・手取川もみじウォーク(平成24年)

 私はこの行事に第1回から参加してきた。ただ昨年の第7回はコースが大日川上流の大日湖を巡るコースが主であったので、参加しなかった。ところで今年は文字通りの紅葉の時期を狙ってのウォークとあって、10月28日は標高800m辺りを、11月11日は標高600m辺りを歩く計画が立てられた。これまでは2日続けての実施だったが、今年は2週も離れていることから、県外からの参加者は激減した。この運営の仕方がベターなのかどうかは意見の分かれるところだが、2日にわたってハードな歩きをするのはかなりきつく、私にとっては時期をずらしての開催はベターだと思う。

1.10月28日(日)Bコース(新岩間温泉コース)12km
 この日は午前9時までに一里野ふれあい交流センターに集合とのこと、出発が同じのCコースの手取渓谷(20km)と同じ時刻であった。大会本部の発表では、Bコース450人、Cコース400人の参加とか。偶然に私が在職していた石川県予防医学協会でよく市民マラソン等に参加するM嬢と出会った。女友達3人での参加だった。出発には最前列に来て、私と一緒に出発した。一里野から白山峠までは国道360号線、かなり勾配のあるある舗装路、彼女らも頑張って歩いている。峠からは林道に入る。この頃から小雨が降り出してきた。でも雨具をつける程でもなく、何とか午前中は持つらしいとのことで、そのまま歩き続ける。しばらく歩くと対岸の下方に中宮温泉への国道360号線が見え、山毛欅尾山(1365m)はきれいに紅黄葉している。私の前には2人歩いていたが、中程の小谷を過ぎる頃、M嬢は連れの2人は遅いので置いてきましたと私を抜き去っていった。必死に追うが差は増すばかり、そのうち男性4人にも越された。丸石谷を大きく迂回する時点では3分弱の差、さすが市民マラソン常連だけのことはある。彼女は中間点の新岩間温泉で待っていた。彼女は相棒を待つという。それで私は先に折り返した。私の前には5人、M嬢の相棒とは折り返して1kmの地点で会った。丸石谷の上流も綺麗に紅黄葉していた。この谷の奥には百四丈ノ滝がある。折り返して30分も歩いた頃、最後尾の役員の方に出会った。その後には歩く人はなく、何人かはシートを広げて景色を愛でながら食事をしていた。途中2人に追い越されて一里野へ戻った。所要時間は2時間10分。昼食は道の駅「瀬女」にある蕎麦屋「山猫」にする。久しぶりに山猫のそばを食べた。「白山天おろし」は実に美味かった。店を出る頃、雨は本降りになってきた。

2.11月11日(日)Eコース(獅子吼・犀鶴コース)17km
 第2日目の受付・ゴールは白山市鶴来支所、鶴来駅前なので電車で行くことに、この電車に乗るのは何十年振りだろう。以前は加賀一の宮まで行っていたが、現在は鶴来駅が終点である。出発は9時30分ということなので、1時間前に会場に着いた。私が参加するEコースは定員500人とか、これは獅子吼高原までゴンドラで上がるための制約だとか。他の2コースは当日受付もしていた。9時に主催者の挨拶があり、北國新聞社の事業部長が平生歩いていない私がEコースの2kmの山道に挑戦したところ、50分もかかりましたとの言、どうも本当の山道らしい。挨拶の後、25kmのGコース、8kmのFコース、そして17kmのEコースの順に出発する。出発の間隔は2分程度、各コースは先頭と殿がコースの目印の旗を持ってはいるが、信号待ちなどがあり、各コース入り混じって混乱する。FとEは白山比め神社の表参道を上がる。その後神社から一旦下り、パーク獅子吼へ向かう。ここまで3km、もう列はかなり長くなっている。ゴンドラに乗らねばならないので、私はトップ集団に、折よく2台目に乗れた。1台に4人乗車、1時間で500人運べるとかだった。凡そ600m上昇しスカイ獅子吼に着く。ここから南沢斜面を下り、山道へ入る。道には紅葉が散り積もっている。急な下りには神経を使う。月惜小屋は中間点、時々手取川を見下ろすスポットがある。山道に30分ばかり要したろうか、突然舗装された犀鶴林道に飛び出た。内川を挟んで犀奥の山々が見える。近くの山は今が紅黄葉の真っ盛り、曇ってはいるが満喫できる。ここから林道を標高差で600m下ることに。途中年寄りの爺さんがいて、あなたで8人目だと言われる。舗装された林道を淡々と下りる。中程と思われる頃から雨がパラついてきた。雨具はつけずに歩く。終点の白山町まで下りてきた頃には、雨足は本格的に、でもそのままゴールした。所要時間は3時間10分、熱いナメコ汁が美味かった。今日はこのコースに580人が参加したとか、このコース、ゴンドラ乗りが隘路だった。

2012年11月10日土曜日

中の湯温泉と上高地(その2)

 「蕎文」を出て向かいの「坊ちゃんとうふ」に寄り、豆乳を頂き、湯葉は冷蔵保存でないと無理とのことで、おからの焼き菓子を求めて高岡を後にする。時間は午後1時、小杉ICへの道を教わり、北陸道を富山ICで下りる。国道41号線をひたすら南下、八尾町への分岐まで来ると、漸く車の流れがよくなる。神岡から平湯へ、安房トンネルを抜け、安房峠へ上る道の7号カーブを曲がると中の湯温泉だ。雨は止んだが空には雲が去来していて、穂高は見えない。ここは標高1500m、木々の黄葉は盛りを過ぎ、散りつつある。山毛欅はもう葉が散って白い梢ばかり、地には雪がある。急な階段を上って宿へ入る。玄関には日本秘湯を守る会と墨書された提灯が掛かっている。着いたのは午後3時10分過ぎだった。
 この日は団体さんも入っていて、ほぼ満室のようだ。収容人員は120名とか。ロビーからは小鳥の餌台が間近に見え、入れ替わり立ち替わりカラ類(コガラ、ヒガラ、シジュウカラ、ヤマガラ、ゴジュウカラなど)の小鳥が出入りしているのが見える。またロビーの北側の一枚ガラスの向こうには真っ白な奥穂高岳から前穂高岳の山並みと明神岳が見え隠れしている。宿の主人では、夏だと雲が夕方には下がるのだが、寒くなると中々下がらないとか、でも時々垣間見ることができた。
 部屋へ入り、早速風呂へ。ここの湯は単純硫黄泉で掛け流し、下の川原の源泉から300mばかりポンプアップしている。穂高の峰々が眺められる露天風呂に入る.目の前に小鳥の餌台があり、小鳥は恐れずに順に次々とヒマワリの種子をついばみに来る。程よい湯温、30分も居たろうか。部屋へ戻り、持参した神の河で喉を潤す。夕食は午後6時からという。
 夕食は広い食堂で、びっしり。どうしてこんなに人気があるのか不思議である。霜月三日の献立を記そう。〔先付〕なめ茸白酢和え。〔焚き合せ〕南瓜葛寄せ、海老酒蒸し、いんげん、里芋、胡麻スープ。〔温物〕飛騨牛しゃぶしゃぶ鍋。〔刺身〕信州サーモン、大根サラダ。〔焼き物〕岩魚塩焼き、なつめ、茗荷。〔しのぎ〕ぶっかけ蕎麦。〔香の物〕野沢菜、赤蕪、胡瓜。〔汁物〕しじみ汁。〔蒸し物〕湯葉かに豆乳蒸し。〔八寸〕鯖押し寿司、茄子しぎ焼き、とろ鮭絹多巻き、小岩魚南蛮、岩魚筋子。〔水物〕ゼリーチーズ、キュウイ。この中では霜降り肉のシャブシャブは質も量も圧巻だった。全部を平らげて満腹、実に大満足だった。後でこの献立は特別感謝プランだと知った。隣の女性チームは羨ましそうだった。
 翌朝早く、男女チェンジした露天風呂に入った.空は冴え渡っていて、穂高がシルエットになって見えている。そして空には星が瞬き、月齢20日の月が中天にかかっている。今日は快晴だ。朝食は7時、ロビーで穂高の朝焼けを愛でる。皆さんカメラの砲列、昨晩は今日のこの天気を全く予想できなかった。宿へ着いた折、朝8時半に宿の車で上高地まで送って頂けるというので、予約しておいたが、これは正解だった。今日は実に素晴らしい一日になりそうだ。散り落ちる葉が陽を受けて輝き、幻想的なシーンを醸し出している。
 バスは満席、大方の人は大正池で下りた。上高地まで約1時間の散策とか、私たちは上高地のバスターミナルで下りた。帰りは12時20分に出て、松本駅まで客を送るとか、中の湯までお願いすることにする。空は抜けるような青、これ以上の天気はない。河童橋まで5分、梓川沿いの道を歩く。水は清冽、河童橋の向こうには岳沢を挟んで、左から雪を頂いた西穂高岳、間ノ岳、天狗ノ頭、天狗ノコル、畳岩ノ頭、ジャンダルム、ロバの耳、そして奥穂高岳、さらに右へ吊尾根を経て前穂高岳の峰々が、そして手前には明神岳、くっきりと見えている。雲一つない正真正銘の快晴である。飛行機が通ると、後に飛行機雲が尾を引く。もう黄葉は過ぎているが、まだ黄色の細い葉をつけた落葉松が残っている。河童橋は人でごった返していた。
 明神池まで梓川左岸を歩くことにする。ざっと50分ばかり。ここまで来るとさっきの雑踏は嘘のように静かだ。山歩きの格好をしている人もいるが、何処まで行くのだろうか。徳沢や横尾までならハイキングの装いで十分なのに、涸沢まで行くのだろうか。道は落葉松の林の中を辿る。途中開けた場所からは明神岳の鋭峰を仰ぎ見ることができる。正に圧巻である。明神館で小憩して明神池へ、ここは穂高神社奥宮の境内、拝観料を払って池へ。一之池、二之池と巡る。池に投影された明神岳が実に鮮やかだ。嘉門次小屋で岩魚の塩焼きを食べる。此処へ来るとこれが定番。帰りは右岸の道を辿る。木道には凍った雪が残っていて歩きづらい。右岸を上流へ向かう人もかなり、外国人もいる。猿にもよく出くわした。
 中の湯温泉旅館まで送ってもらい、往路を引き返す。家内から飲酒を勧められ、道の駅「上宝」で細麺の奥飛騨ラーメンと岩魚の刺身と生ビール、岩魚の生の筋子は生まれて初めてだった。帰路の神通の峡谷を囲む山々は紅黄葉で燃えていた。素晴らしい一日だった。

2012年11月7日水曜日

中の湯温泉と上高地(その1)

 日本秘湯を守る会というのがあって、1都1道29県の194軒がこの会に加盟している。加盟にどんな制約があるのかは知らないが、一昨年の11月に長野県の中の湯温泉旅館へ行ったとき、帰りにこの会のスタンプ帳を頂いた。これまでも秘湯と呼ばれる湯宿に何軒か投宿しているが、そんな恩典があるとの話は全く聞いたことがなかった。それによると、3年間の間に、会員の宿10軒に泊まってその証明を貰えば、朝日旅行の斡旋により、泊まった宿の中の希望する1軒に宿泊招待されるという仕組みである。ところで今年は中の湯温泉旅館から感謝サービスと称する割引案内が舞い込み、それではと勇んで家内と出かけることにした。11月3日と4日の連休にお願いしたところ、折よく空いていて、メンバーは家内が勤務する病院の薬剤師のH嬢との3人連れである。11月3日は旧明治節、今は文化の日、晴れの確率がかなり高いというのが例年の予想である。
 当日は朝9時に家を発つ。天候は曇り、予報では曇時々晴の予想、若干外れている。H嬢を小立野で乗せ、先ずは森本ICから北陸道へ。中の湯へは高速道を富山ICで下り、国道41号線を南下し、神岡で国道471号線(旧県道神岡上宝線)へ入り、平湯温泉で国道158号線に出て左折し、安房トンネルを抜け、すぐ左折して安房峠へ向かうと中の湯温泉に達する。このルートで、金沢からは3時間位だろうか。時間は十分あるので、私の発案で、高岡市にある瑞龍寺に参拝し、蕎文でそばを食べてから中の湯へ向かうことにする。彼女らもこの提案に興味を示した。ただ寺の方は以前に寄ったことがあるとのことだったが。という私も9月の探蕎会例会で来たばかりだが、あの気を落ち着かせる素晴らしい雰囲気は、何度でも味わいたくなる魔力を秘めている。

「高岡山瑞龍寺」
 高岡の町並みは高速道とは離れていて不便だ。勝手が分からないのでナビに頼ることにする。するとナビは能越自動車道へ入れという。指示に従い高岡北ICで下りる。後はナビの指示に従い、一カ所通行できない箇所に遭遇したものの、無事寺の駐車場に着けた。小雨が降ってきた。総門(重文)を通ると正面に二層の山門(国宝)、歩みと両側にある回廊との間の空間には白い玉砂利が敷き詰められていて、茫洋とした海原を彷彿とさせる、心に穏やかさをもたらす時空である。静けさが辺りを支配する。山門を潜ると、正面に仏殿(国宝)が見え、この内陣の平面は芝の緑で覆い尽くされている。雨に濡れた芝生は安らぎをもたらしてくれる。仏殿には、釈迦・文殊・普賢の三尊が御本尊として祀られている。仏殿を抜けると、回廊を擁する法堂(はっと)(国宝)、境内では最も大きな建物とか、中央奥の内陣には、前田利長公の特大の御位牌が安置されている。法堂から北回廊へ回る。この前来た時は南回廊を通った。大茶堂(重文)、鐘楼の脇を通り、大庫裏(重文)へ、調理配膳する場所、結露に配慮して、天井を漆喰で曲線にしてある。山門へ戻り、総門で辞する。
 少々時間があったので、利長公の墓所へ向かうことに。墓所へは寺から真東に八丁道を14分とある。1km強なのだろう。今は新しい道路が出来て、八丁道は所々で分断されているが、昔は寺から墓所まで一本道だったのだろう。墓所前には鳥居があり、辺りは小さな杜をなしていて、鳥が啼いている。そして高さ12mもの墓が奥に聳えている。歴代のどの武将よりも大きな墓だとか。ここへは車でも来られることが分かった。
「蕎 文」
 11時半近くになったので、佐野にある蕎文へ、方向音痴とあってナビの世話になる。とは言っても、入力した電話番号は大正13年創業の「坊ちゃんとうふ」、蕎文はその向かいだからだ。車がおとぎの国公園の横を通るに及び、もう間近だと実感する。蕎文の駐車場にはもう数台の車が、次々と車が入って来る。看板は全く出ていないのに、口コミなのだろうか。中へ入るとそれほど混んでなく、取材があったようだった。小上がりの唯一明かりを取り入れている座卓に陣取る。彼女らは「もり」とエビスビール、私は「辛味大根ぶっかけ」を所望する。そばは「もり」と「田舎」があり、この前の時は両方食べられる「あいもり」を頂いたが、お品書きにはこの相盛りは載っていない。結構蕎麦にはうるさい家内も、このそばには満足したようだった。私の辛味大根ぶっかけも上品で辛く、洗練された辛味が印象的だった。蕎麦湯は釜の湯、私にはこの方が向いている。入り口右手の展示即売している空間は小ギャラリーでアートワークススタディオ・アンといい、これがこの建物の名称ともなっている。案内文には「黒っぽい建物です」と紹介されていたが、「そば」もやっていますとは書いてなかった。まことに不思議な店だ。

2012年10月25日木曜日

白山周回(谷峠ー桧峠ー白山スーパー林道)

 8月に念願の美濃禅定道を石徹白へ下り、一夜の宿の「民宿おしたに」の鴛谷さんに、石徹白大杉の下の登山口へ車で迎えに来てもらった。歩けば在所まで2時間はかかろうという林道歩きは、10時間の歩きの後では負担である。そして翌朝帰るときに、秋になったらまた一緒においでませんか、秋には茸も出ますからと言われた。家内とは前の年に2回も美濃禅定道下りをすっぽかしたので、お詫びを兼ねて訪れたので、そう言われたのであろう。それで10月の13日の土曜日に、家内は午後休暇を貰い、一緒に石徹白へ出かけることにした。
 鴛谷さんは白山室堂に33年間勤めておいでたこともあって、金沢のことはかなりよくご存じである。金沢から石徹白までは2時間40分だと言われる。私は前夜、午後4時にお伺いしますと連絡したこともあって、家を午後1時には出ようと思っていた。家内は仕事で少し遅れるので、食事は車の中でと言うから、朝炊いた松茸ご飯を細巻きにして昼食弁当にした。家内が帰り、慌ただしく家を出た。
 天気は良く、それだけに車も多い。制限速度でゆっくりドライブを楽しんでいる御仁もあり、しかも追い越し禁止とあっては、こればかりは法に従うほかない。でも、道の駅「瀬女」近くの瀬戸野の交差点を過ぎると、車の数がうんと減ってきた。ここで目の前を名古屋ナンバーの車が左折していった。きっとスーパー林道を下りてきて、名古屋へ帰るに違いないと話し合う。案の定、谷峠(700m)を越え、暮見トンネルを越えるまでは一緒で、かの車はここで福井の方へ右折していった。勝山から大野へ、いつもの157号線と158号線の交差するところでもたもたする。しかしここでは越前富士といわれる荒島岳(1523m)が目印、158号線はその麓を通っているのでその方角へ。あとは一本道、九頭竜川沿いを道の駅
「九頭竜」へ、ここは車で溢れかえっていた。
 ここからは石徹白川に沿って上流へ、途中和泉スキー場までは二車線だが、過ぎると道は狭くなる。県境近くで道路工事があり、工事が済むまで30分ばかり通行禁止とか、待つしかない。開通後、数台の対向車と会うが、何とかしのいで石徹白へ。民宿に着くと既に1台、もう1台来るとか、聞けば銚子ヶ峰(1810m)へ登る方達だそうだ。山は紅黄葉が綺麗だという。この日は温かく、炬燵やストーブを用意してくれてたが、内も外もポカポカしていた。神の河でホロ酔いになる。川魚と茸がメインの夕食後、ストーブを囲んで同い年の親父さんと話し合う。先日の永井旅館での白山会以降はお酒を控えておいでるとかだったが、野々市の体協会長の直さんや急逝した山ちゃんの話で持ちきった。私達とも親しい間柄の人達だ。
 翌朝、2組が山へ向かった後、ゆっくり9時頃に宿を出た。天気は良く、今日は白山スーパー林道を経由して帰ることに。山中の県道を桧峠(960m)まで上る。ここは北にある大日ヶ岳(1709m)、南にある毘沙門岳(1386m)の鞍部にあたり、その登山口でもある。ここには天然温泉の「満天の湯」もあり、賑わっている。まだ紅黄葉には少し早い。冬は有数のスキー場となる。ここから曲がりくねった急な道を白鳥町前坂へと下り、国道156号線(白川街道)へ。街道を長良川に沿って北上し、庄川との分水嶺のひるがの高原に至る。ここではその分水を目の当たりにすることができる。小憩の後、街道を更に北へ、御母衣ダムを過ぎ、道の駅「飛騨白山」へ寄る。ここにはBMWの大型自動二輪のグループがいた。彼らは先に発ったが、あとで街道筋にある深山豆腐店でまた出会った。豆腐の好きな若い衆らしい。
 鳩ヶ谷から林道に入る。すると車数が急に多くなる。皆さん白山スーパー林道へ向かわれるようだ。でもまだ車間隔は開いている。しかしゲートが近くなると車は数珠つなぎに、時間は11時近く、今日は天気も良く混みそうだ。地元ナンバー以外の車の方が多い。ゲートでの対応は一人、ここでの対応時間の間合いのおかげで、ゲート通過後の林道はかなりスイスイと進める。しかし蓮如茶屋(1200m)まで来ると駐車場は満タン、目ざとく出る車の後を狙って停めなければならない始末。人でごった返している。少し高みへ上がると白川郷展望台があるが、ススキの穂が視界を遮っている。この辺りはブナ林、黄葉にはまだ間がある。ここからは三方岩岳(1736m)へ登山道がついている。林道へ戻り更に高みへ、標高も1300m辺りになると、山肌が紅黄葉で埋め尽くされていて、実に壮観だ。真上には黒々と飛騨・越中・加賀の三方岩、そして北西に笈ヶ岳(1841m)、大笠山(1622m)、奈良岳(1644m)、大門山(1572m)の山々、この辺りの路肩は車でびっしり、そして更に上がって三方岩駐車場(1450m)まで来ると混み様は極致、早々に下りることに。しかし石川県へ入ると上ってくる車は数珠つなぎ、でもこの辺りの山肌は燃えるような紅黄葉、正に今が見頃、今年は実に色づきが良いようだ。しかしこの車の列は実に凄い。この紅黄葉前線は今1200m辺りまで下がってきているが、これより下はまだ緑だ。でもその辺りをノロノロと動いている車、はたして上まで辿り着けるのだろうか。岐阜側から上り、石川側へ下りた私たちは正解だったようだ。それにしても平日にゆっくり錦繍を鑑賞したいものだ。
 
 4日後の10月25日に県庁職員退職者協議会の研修会が、かんぽの郷白山尾口であった。内容は地方公務員共済年金の今後で、深刻な内容であった。その晩に懇親会が持たれ、席上宿泊者には白山スーパー林道の片道無料券が発行されるとか、割引でなく無料ということで申しこんだ。証明書をもらい、中宮レストハウスで利用券と交換し、いざ林道へ。ゲートでは10台位のバスや自家用車がいるが、日曜日に比べれば空いている。でもどこの駐車場も一杯である。紅黄葉前線は日曜よりは100mは下がっている。停まらずに三方岩隧道を抜けて駐車場へ、もうここまで来ると葉はもう散っている。そのまま蓮如茶屋まで下りる。ここはまだ真っ盛りだ。ここで引き返す。ゆっくり車を走らせながら、林道の秋を満喫した。帰りに見えた白山は白く雪化粧をしていた。

2012年10月14日日曜日

川金と鮎

 「川金」とは何か。それは富山県の庄川河畔にある温泉郷の、古くは雄神温泉と言われた温泉の一軒宿の名前である。私は庄川温泉郷にはこれまで3回宿泊したことがあるが、そのうちの2回は川金での宿泊であった。
 私は金沢大学薬学部を卒業後、石川県衛生研究所に奉職した。研究所ではウイルスを扱うことになり、基礎的なことは国立公衆衛生院や国立予防衛生研究所で研鑽を積んだが、研究的な面は当時の三根所長の勧めもあって、まだ赴任されて間もない医学部細菌学教室の波田野助教授に師事することになった。こうして私は勤務が終わってからは細菌学教室へ通うことになる。しかし、2年後にはがん研究施設が開設され、2番目に設けられたウイルス部門の教授に波田野先生が就任されたので、私も籍を医学部からがん研へ移した。こうして細菌学教室にはほぼ2年間在籍した。
 ところで細菌学教室は初代の谷先生の後、私がお邪魔した時は二代目の西田先生が主宰されていて、主に耳鼻咽喉科や歯科の開業医の先生方が沢山在籍されていた。そして年に一回は同門会が開催されていた。当初私は波田野先生に師事していたこともあって、呼ばれたことはなかったが、学位をもらってからは、短い期間ながら在籍していたということで、西田先生のお許しも出て末席を汚すことになった。
 この同門会は年に一度は一泊して語り合うということで、富山、石川、福井に在住する同門の先生方が、持ち回りでお世話し開催することになっていて、ある年の開催は富山の先生が幹事で、その泊まり先が「川金」だった。ここでのメインは川魚で、その時は立派な天然の夫婦鮎の姿焼きが出た。西田先生は殊の外お喜びで、次の年は石川の担当で、私が幹事を仰せつかっていたが、西田先生は私に来年もここで同門会を開いてほしいと仰った。ほかならぬ教授先生の一言で、その会の〆の挨拶で、私は来年は石川の当番だけど、西田先生の希望で、富山のこの地で開催しますので宜しくと話した。
 翌年の秋、宿は前年と同じ川金だったが、三十数名の先生方が参加され、鮎をメインにした料理を楽しんでもらった。先生にも大変満足してもらい、面目を果たした。でもこの時も、ここは川魚をメインとした料理宿であることは分かったものの、ここで昼食する以外に、川金で経営している鮎小屋があり、そこでは部屋に上がらずに鮎を食べられるというのは、その時はまだ知らなかった。
 当時、石川県の知事は中西陽一さんで、この知事さんは鮎が大好きで、その鮎を食べにはるばる庄川河畔の川金へ遠征されるとかと聞いた。当然勤務が終わってからのお出かけなので、夕方の6時や7時なのだろうが、それを聞いて一度私も寄ってみたいと思ったものだ。あの庄川河畔には、鮎の塩焼きを食べさせる店は数軒あり、私はこの地区にある全ての店へ寄って食べ比べたが、鮎の塩焼きに限れば、焼きも雰囲気も川金の鮎小屋の「鮎の庄」が最高だった。故中西知事もこのことを知っておいでたに相違ない。当時は高速道路もなく、どんなルートを辿って行かれたのだろうか。ところでここで大量にさばかれる鮎は、姿造りの鮎の刺し身など大型の鮎以外は、すべて養殖の鮎である。
 家内も私もここ川金の鮎が大好きである。特に10月に入ると子持ちになり、これが何とも美味しい。養殖なのであまり大きくはならないが、しっかり真子を孕んでいる。以前は雄(白子)も混じっていたが、この前に出たのはすべて真子だった。家内は当初は頭を食べず、私がフォローしていたが、今は食べてくれている。しかし大型となるとそうはゆかない。でも、家内はもともと魚は嫌い、中でも川魚は大嫌いだったから仕様がない。先月も乞われて5人で来たが、まだ子持ちでなく、喜んではくれたが、やはり子持ちに優るものはない.私は塩焼きのほかに、鮎の造りと「うるか」の三種盛りと清流豆腐、それにすぐ近くに醸造元がある立山を頂いた。
 囲炉裏の方を見ると、真っ赤に熾きた炭火の周りにざっと百尾の竹串を打たれた鮎が円形に並べられ、強火の遠火で焼かれていて、凡そ50人いる客に次々と提供されている。こんな焼き場が2カ所あり、二人で焼いている。また竹串を打つ人は一人で、ピチピチ跳ねる鮎をあっという間に竹串に打っている。正に名人芸だ。この日は鮎を二人で15尾頂いた。この前は一人10尾だった。対価は1尾300〜450円、この日は400円、この前は350円だった。何と言っても此処での目玉は塩焼きで、ほかに唐揚げ、フライ、みぞれ合え等があるが、注文は少ない。ほかにはあゆ雑炊が人気がある。甘露煮、南蛮漬け、粕漬け等はお持ち帰り用である。
 こんな川金へ一度は行ってみられい、寄ってみられい。

2012年9月29日土曜日

三方の秘湯と小浜の古寺

 今私たちは日本秘湯を守る会に加盟する温泉を訪ねている。今回夕日が見られる宿ということで、福井県若狭町の宿を選んだ。朝に野々市を発ち、昼は武生辺りで「そば」を食い、三方五湖を巡り、湖畔の宿に泊まり、翌日は小浜の古寺を訪ね、帰りに敦賀の昆布館や小牧の蒲鉾にでも寄って帰ろうという段取りである。ところで宿から家内に確約の電話があった折、お勧めの場所はありますかと訊いたところ、鯖街道の熊川宿を勧められたとか。そこは私の手元の案内書にはなく、漸く国道303号線に道の駅「若狭熊川宿」を見つけた。家内と連れの女性は訊いた手前乗り気で、そうならば行かずばなるまい。
● 〔そば〕 当初は武生の「谷川」を予定していたが、調べると第3日曜と月曜は定休日、出かけたのが9月の第3日曜日、ならばとずっと以前に寄ったことがある「かめや」へ寄ることにした。以前は町中にあったが、今は郊外へ出たとか、パンフレットを見ると、総檜造りで高級料亭の雰囲気、しかも座席も80席とか、とにかく寄ってみることにする。場所はナビで簡単に見つかった。しかし早く着き過ぎたので、すぐ近くにある紫式部公園をブラつくことにする。陽射しが強い。池があり、東屋があり、太鼓橋があり、紫式部の像があり、でも東屋で寝転がっている人以外は誰もいない。公園を横切ったところには資料館を兼ねた売店があり、そこでヒマラヤの岩塩を求める。人気の商品とか。ステンのおろし金付き、重さ400グラム、死ぬまでには消費できまい。11時近くになり「かめや」へ戻る。駐車場は優に20台は止められる。玄関には龜の古字が三和土に、凝っている。案内された一階は小上がりとカウンター、30人は入られよう。彼女らは天ぷらとざるとビール、飲めない私は天おろしとノンアルコールビール、天ぷらはまずまずだが、二八の太めのそばは今一、そば好きが来る店ではない。でも客は多く満席、駐車場も満杯、でもそばを別にすれば雰囲気は最高だ。
● 〔ドライブと秘湯の宿〕 武生から南下して8号線に出た後、山越えせずに旧有料道路の海沿いの「しおかぜライン」に出、敦賀湾沿いに走る。再び8号線と合し、敦賀半島を対岸に見ながら海岸線を南下する。その後27号線に入り、小浜方面へ向かう。敦賀から美浜まで30分弱、美浜から久々子湖(くぐしこ)の北端を回り、三方五湖レインボウラインに入る。ラインは日向湖(ひるがこ)と久々子湖の背を南下し、日向湖と水月湖(すいげつこ)を結ぶ嵯峨隧道を越え、梅丈岳駐車場へと上がる。500台収容できるというが、ほぼ満車、大型バスも来ている。有料リフトで山頂へ、風は荒いが眺望はよい。若狭湾(日本海)や三方五湖を一望でき、今宵の宿も見えている。山頂公園から常神半島の根を水月湖の西岸へと下る。更に南下し三方湖(みかたこ)をぐるりと回り、菅湖(すがこ)を左に見て、水月湖の東岸にある湖畔の紅岳島(こがしま)温泉の紅岳島荘に入る。茅葺きの重厚な門が印象的だ。ロビーからは水月湖がすぐ間近、湖面をクルーザーがひっきりなしに往来する。対岸には梅丈岳が聳える。早速にラドン温泉へ行く。源泉は気温より低く、加温されている。小さいが源泉そのものの露天風呂もある。湯上がりの「神の河」が美味い。夕食は部屋で、足を下ろせる座卓で、若狭牛と若狭湾の海の幸を若狭の地酒で頂く。十品はあったろう。充分堪能した。
● 〔小浜の古寺〕 翌朝、宿を発つ時にこれから熊川宿へ行くと話すと、宿の姐さんはあまり推奨できないと言う。家内は宿の人から是非と勧められたのに変だと言う。でも車から降りてかなり歩く必要があるとのこと、でも乗りかかった船、とりあえずは道の駅「若狭熊川宿」まで行くことに。概略は国道27号線から国道303号線、通称鯖街道を南下すればよいのだが、ナビに従う。途中ひどい雨に遭う。宿から小一時間、9時近くに道の駅に着いた。広くて閑散としている。ここから宿場へはどうして行くのか、どうも歩かねばならない様子、しかも案内は10時からとか、なので宿場はパスして次へ急ぐ。
 一旦27号線へ出てナビに従って明通寺(みょうつうじ)へ、道は松永川を遡行する。やがて明通寺に、奥の駐車場に車を止める。かなり広い。川にかかる橋を渡り寺へ、右手に割烹旅館、左へ進み寺へ。境内は広く、老杉が鬱蒼と繁る。参道を進み山門を潜り、高みにある本堂へ、すると本堂から若い僧が声をかけてくれ、お上がり下さいと、本堂へ上がる。縁起を語られる。この寺は大同元年(806)に征夷大将軍・坂上田村麻呂によって創建されたという。本堂の一段高みには三重塔があり、共に国宝、他に木造の仏像4体が国指定の重要文化財になっている。心洗われる名刹である。宗派は真言宗御室派である。
 次に妙楽寺(みょうらくじ)へ向かう。これもナビに従う。一旦国道27号線へ戻るように北上し、途中から若狭西街道へ入る。トンネルを3つ抜けて国道162号線に出ると妙楽寺は近い。この寺は養老3年(719)に僧行基が開創し、延暦16年(797)に弘法大師により再興されたとある。本堂は若狭では最古の建造物とか、そしてここに安置されている檜一木刻みの二十四面千手観音菩薩立像は、本堂と共に国指定の重要文化財になっている。帰りに連れが梵鐘を撞いた。澄んだ心に染みる音だった。宗派は真言宗高野山派である。

2012年9月22日土曜日

高岡の蕎麦と豆腐と前田家縁の寺(その2)

● 「坊ちゃんとうふ」  高岡市下島町 287-6   電話;0766-24-0031
 そば「蕎文」の向かいというよりは、そば「蕎文」が「坊ちゃんとうふ」の向かいにあるとした方が分かりやすい。駐車場の広さにも驚いたが、店へ入ってケースに並べられていた0円の「おから」が真っ白なのにびっくりした。大概は少し大豆色というか若干黄ばがかっているものだが、晒されたように白かった。これはただものではない。
 店は大正13年(1924)の創業、江戸時代から伝わる製法で木綿豆腐を作り続けてきたという。「坊ちゃんとうふ」の名称が創業当時から使われてきたとすると、当時としてはかなりハイカラな名だ。この一帯は佐野地区というらしいが、ここには豆腐製造に必須の美味しい地下水に恵まれ、その水は店の前の岩間の樋からも流れ出ていた。実に冷たく美味しい。そして「おから」の白さのもう一つの秘密は、契約栽培されている地元産のオオツル大豆にあるという。そして店で頂いた豆乳は、滋養に満ちたほのかな甘味があって、これまでこれほど濃い味に出会ったことがない素晴らしいものだった。湯葉も「摘み湯葉」「絹巻湯葉」「平湯葉」とあり、中でも「摘み湯葉」は、この店独特の特許製法による刺し身用の生湯葉だとか。豆腐屋での豆腐は当然のことながら、湯葉を出している店は多くない。
 私は「坊ちゃんとうふ」「絹ごしとうふ」「寄せとうふ」2種、「あぶらあげ」「あつあげ」「ゆばどうふ」「絹巻湯葉」「豆乳」を頂いた。これで3日分のおいしい酒の友が手に入った。

● 「曹洞宗・高岡山瑞龍寺」  高岡市関本町 35  電話:0766-22-0176
 私が富山で行ったことがあるお寺さんと言えば、旧城端町の善徳寺(城端別院)と旧井波町の瑞泉寺のみで、この寺もほぼ同規模だろうとたかをくくっていた。ところで知識のなさとは恐ろしいもので、高岡で前田さん縁の祭があることは知ってはいたものの、前田さんとは加賀藩二代藩主だった利長公だとは目から鱗だった。拝観料五百円は安くはないが、手入れが行き届いた白砂と芝生、そして壮大な伽藍と回廊を目にしたとき、万感迫るものがあった。我の浅学菲才を嘆じた次第だ。少しおさらいをしよう。
〔不思議な位置関係〕:加賀藩二代藩主前田利長(1562-1614)は、慶長10年(1605)に44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594-1658)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったこともあって、まだ初々しい利常を養嗣子にした。隠居後の利長は金沢から富山へ移るが、富山城が焼けた後、二上山の守山城に移り、その後関野という地に新しい城を築き、街作りを進め、この地を「高岡」と命名した。そしてこの地で他界した。これより先、利長は織田信長・信忠親子の追善菩提のため、文禄3年(1594)金沢に宝円寺を創建した。この寺はその後法円寺と改称され、利長他界の前年の慶長18年(1613)に高岡の地に移された。他界後、三代藩主利常はこの寺を利長の菩提寺とし、法名の「瑞龍院殿聖山英賢大居士」に因んで、寺名を瑞龍院とした。そして三十三回忌までには墓所もできた。一方でこの頃から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手し、五十回忌には七堂伽藍を配する「高岡山瑞龍寺」が完成した。当時の寺域は3万6千坪ばかり、周囲には壕を巡らし、さながら城郭を偲ばせる感があったという。ところでこの寺の位置は守山城の真南にあり、その延長線上には、利家・利長親子の出身地である荒子郷(名古屋市)がある。また守山城と高岡城の延長線上には徳川家康の居城だった岡崎城があるという。そして墓所は守山城と高岡城の延長線と瑞龍寺が直角に交わる位置に建てられ、この間は八丁道で結ばれている。墓碑は豪壮な戸室石の基盤も含めて高さ12米もあり、説明によると、日本の武将の墓では最大とのことである。
〔伽 藍〕:建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々善右衛門を名乗る)が棟梁となって造られた。総門、山門、仏殿、法堂が一直線に並び、その延長線上には八丁道と墓所がある。そして山門と法堂は方形の回廊で巡らされ、諸堂が対照的に配置されている。この伽藍配置は、中国の径山万寿寺に倣ったものといわれる。善右衛門はこのほかに、能登の妙成寺、加賀の那谷寺、越中の大岩日石寺、能登一宮の気多大社なども手掛けている。 総門:重要文化財。正保年間に竣工。 山門:国宝。正保2年(1645)に竣工。その後焼失し、現存の門は文政3年(1820)に竣工。二重門。 仏殿:国宝。万治2年(1659)の建立。総欅造りの入母屋造。屋根は鉛瓦葺きで、この例は金沢城石川門に見られるのみ。 法堂:国宝。明暦元年(1655)の建立。総檜造りの入母屋造。銅板葺き。内部を土間床とする仏殿に対し、法堂は畳敷き。利長の位牌安置。 禅堂:重要文化財。延享3年(1746)に焼失したが直後に再建。 大庫裏:重要文化財。北回廊の一部。禅道と相対する位置にある。 大茶堂:重要文化財。土蔵造りの防火建築物。 回廊:重要文化財。 この他、北回廊に鐘楼があり、南西回廊の奥に、前田利長、前田利家、織田信長、同室正覚院、織田信忠を祀る5つの石廟がある。石廟は富山県指定史跡である。また創建当時は「七間浄頭(東司=便所)と浴室が左右にあり、七堂伽藍が揃っていた。

2012年9月15日土曜日

高岡の蕎麦と豆腐と前田家縁の寺(その1)

 探協会後期の行事を決める世話人会には、都合がつかず欠席した。ところでどんな計画になったのか気になっていた。その後連絡が入り、9月は12日に富山県高岡市の「蕎文」という蕎麦屋へ寄り、その後前田家縁の瑞龍寺を訪ねる、10月は15ー16日と群馬県の四万温泉で1泊しての探蕎、11月は例年の如く丸岡蕎麦道場の海道さん宅へ、でも訪ねる日は先方のご都合で12月2日である。

● そば「蕎文」 高岡市下島町 181-1     電話:0766ー25ー2570
 この日の参加者は10名、久保副会長は予め訪ねられていて、10名ならばOKとのこと、最終的な集合場所はJR森本駅前 9:30 とのこと、車2台に分乗して落ち合う。久保さんの先導で旧北國街道を高岡市へ、その後店は「おとぎの森公園」近くとかで、とにかくすんなりとではなかったが、どうやら目的の店に着けた。しかしこの店、道路と敷地の境に「蕎文」と彫られた小さな石碑があるばかりで、看板も幟もなく、一見板で囲った砦のよう、もしあの石碑に気付かなければ、この家が「そば屋」だとはとても思えない。入り口の板戸は閉まったまま、案内は一切なく、これでは何時開店なのか皆目分からない。でも開店には少々時間がありそうなので、道を隔てた向こう側にある「坊ちゃんとうふ」という店を覗く。この店はかなりお客の出入りがあり、有名な店なのだろうか、幟も出ている。店には前にも後にも駐車場があり、かなりの台数が停められる。お買い上げの品は、お寺さん拝観後までお預かりしますということで、皆さん買い物をされた。私は後に寄った時に買うことにした。
 そろそろ開店ということで蕎文へ、板戸が開けられ、内のガラス戸を抜け、中へ入る。右手には民芸品などが展示即売されている一画がある。手の込んだものが多く、値段もそれ相応だ。左手奥は小上がりになっていて、曲げ板の座机が2脚、4人と2人が座られる。左手前には厚い一枚板のテーブルがあり、10人は掛けることができる。外からの光は厨房のみで、店内では、小上がりの下方に長方形の採光窓があるのみ、特異な空間だ。「そば」は久保さんの方で予め注文されていて、皆さん「あいもり」である。飲み物は個々にお酒とビール、お酒の銘柄は地元の「勝駒」と「立山」、福井の「黒龍」、山形の「出羽桜」など、ビールはエビスのみ。始めに蕎麦茶が、上品な白磁の縦長の湯呑みに出される。
 そばは相盛りだが、主人では別々に出すとのこと。始めに「もりそば」を、後に「田舎そば」をと、もし足りなければ追加して下さいとのことだった。蕎麦猪口も白磁、盃も飲み口が絞られた少し大きめのもの、これも白磁、お酒はそれぞれに4銘柄すべてを頼まれた。私は「立山」を注文したが、何故か常温、黒釉の縦長の片口に入ってきた。冷酒はガラス製ほかの片口に、暑い時期には冷たい方が良いのだが。サービスに「板わさ」が出た。そして程なく「もり」が出る。丸い白磁の平皿にこんもりと、色は薄茶色、自然光でないせいなのか、何か変わった印象を受ける。端境期だが、しっかり蕎麦の香りがする。訊けば、玄蕎麦は北海道羊蹄山麓の産とか、そばは外一、程よくしこしことしている。明日からは新そばとか、運が良かったのか悪かったのか、でも出されたそばはひねにしては素晴らしい。やや間を置いて「田舎」、やはり白磁の中皿に盛られている。挽きぐるみだけあって色は濃いが、どちらかというと黒がかっていなくて、褐色が前者よりやや濃いという程度、舌の感触や喉越しには余り差がないように思えた。何人かはそばを追加して、「もり」や「田舎」を追加されていた。また「そばがき」も出た。量は多くはなかったが、一見もちっとした独特な雰囲気を醸し出していた。いつものように「そばぜんざい」を頼まれた人もいた。味や甘さはどうなのだろうか、これはどうも私には天敵である。最後に「そば湯」が出て、お開きになった。
 外へ出て、入り口近くで集合写真、シャッターはおカミさんに押してもらう。これから瑞龍寺へ行くというと、ぜひ高岡大仏も見て下さいと言われる。礼を言って、握手をして分かれた。この店、外観もさることながら、個性のある不思議な店というのが偽らざる印象だ。
〔お品書き〕
・そばまえ:たまご焼き、板わさ、そばみそ、セット。他にそばぜんざい。
・そば:田舎、もり(各950円、大1400円)、他に、冷たい辛味大根ぶっかけ(1200円)など。
・お酒:前記4種(550ー750円)、ビール(500円)、焼酎(600円)、ノンアルコール(400円)。
 開店したのは平成19年(2007)10月とか。営業時間は、昼は 11:00ー14:30 で、なくなり次第終い。夜は 18:00ー21:00 で、4名以上での予約のみ。定休日は、月曜と火曜。

2012年9月11日火曜日

岩城宏之生誕80年記念メモリアルコンサート

 頭書のコンサートが平成24年(2012)9月8日に、オーケストラ・アンサンブル金沢の第326回定期公演フィルハーモニーシリーズとして、石川県立音楽堂コンサートホールで開催された。岩城宏之さんは言わずと知れた日本を代表する世界的指揮者であり、日本最初のプロの室内オーケストラである「オーケストラ・アンサンブル金沢」の創設者(現在、永久名誉音楽監督)でもある。
 このメモリアルコンサートはオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督だった岩城宏之さんが亡くなった平成18年(2006)以降、夫人であるピアニストの木村かをりさんの提唱で「岩城宏之音楽賞」が創設され、その受賞者が演奏を行なうコンサートでもある。選考はOEK音楽監督の井上道義、石川県立音楽堂洋楽監督の池辺晋一郎、そして木村かをりの各氏で行なわれる。それで今年は氏が生誕の昭和7年(1932)9月6日から数えて80年にあたることから、特に生誕80年記念と銘打ってのコンサートとなった。そして命日の9月6日には、この日と同一の演奏曲目で、東京公演が東京オペラシティコンサートホールで行なわれた。今年度の受賞者は、金沢市出身の田島睦子さんである。
 この日の生誕80年記念岩城宏之メモリアルコンサートは実に多彩でユニークな構成、聴衆を引きつけてしまった。演奏に先立っては、この日の演奏曲目の作曲家でもある池辺晋一郎さんと西村 朗さん両名によるプレトークがあった。お二人ともOEKのコンポーザー・イン・レジデンス(現在はコンポーザー・オブ・ザ・イヤー)で、OEK創設時から岩城音楽監督が毎年作曲を委嘱されてきたもので、現在もその意思を継いで続けられている。生前岩城さんは「私は初演魔」と仰っていたが、初見で総譜を見る楽しみは格別で、見てると曲がすぐに頭に描かれてくると話されていた。だから初演が如何に多かったか、千曲というのは多過ぎるだろうが。それで西村 朗さんは平成5年度(1993)度、池辺晋一郎さんは平成10年(1998)度のコンポーザー・イン・レジデンスだった。因みに西村さんは岩城さんと誕生日が同じ9月6日生まれ、池辺さんはその1週後の9月13日とのことだった。
● 第1曲:池辺晋一郎作曲「悲しみの森」 指揮 天沼裕子
 この作品は、池辺晋一郎が平成10年(1998)にOEKから委嘱されて作曲したもので、尾高賞の受賞作品でもある。曲は悲しみを内に秘めている森の中をそぞろ歩く印象を描いたもので、草も葉も枝も、そして石までも微かに震え揺れているという印象の音楽。初演は岩城宏之さんの指揮で、OEKによって演奏されている。この日の指揮は、OEK初代常任指揮者だった天沼裕子さん、池辺さんの意を汲んだスマートで見事な指揮の演奏だった。
● 第2曲:プーランク作曲「ピアノ協奏曲」 指揮 井上道義  独奏 田島睦子
 前回の第325回OEK定期公演では、日本国内でのオーケストラの指揮は初めてというマルク・ミンコフスキーが、プーランクの「2台のピアノのための協奏曲」を指揮したが、フランス音楽会の若き天才ピアニストのギョーム・ヴァンサンの対手として、指揮者自らの指名による抜擢で、田島睦子が共演することになったという。このことは今回の岩城宏之音楽賞受賞の大きな誘因になったのではなかろうかと思う。今回も同じプーランクの作品、瑞々しいタッチ、でも常に指揮者を意識しての気遣いの演奏は、まだ初々しさと若さが感じられた。
● 第3曲:西村 朗作曲「ベートーベンの8つの交響曲による小交響曲」 指揮 山田和樹
 この作品は、大阪のいずみホールの委嘱によって平成19年(2007)秋に作曲されたもので、ベートーベンの第9交響曲演奏に先立つ序曲的性格をもつ10分程度で、かつ第1番から第8番までの交響曲の対応楽章をすべて引用してほしいという注文で作曲された4楽章の曲である。順不同なこともあって、聴いていて原曲に近い曲は分かったものの、大きく変形されたものは全く分からなかった。ただ5楽章ある第6交響曲は、第5楽章をこの曲のフィナーレのコーダに用いたとのことだった。でも聴いていて曲を繋いだという違和感は全くなく、今では世界に通用する名指揮者のヤマカズの流れるような優雅な指揮で、実に楽しい曲に仕上がっていた。彼は現在OEKのミュージック・パートナーで、横浜シンフォニエッタの音楽監督、スイス・ロマンド管弦楽団の首席客演指揮者も勤めている。
● 第4曲:ベートーベン作曲「交響曲第9番合唱付より第4楽章」 指揮 井上道義
 独唱者では、ソプラノでは人気実力ともに日本を代表するオペラ歌手の森 麻希さん、声も容姿も実に素晴らしかった。またバリトンの木村俊光さんは、平成8年(1996)に日本芸術院賞受賞、桐朋学園大学教授で新国立劇場オペラ研修所所長の重鎮である。また地元からは七尾市出身でメゾソプラノの鳥木弥生さん、福井県敦賀市出身でテノールの吉田浩之さんが出演した。そして合唱には、OEK合唱団を母体に、今回の岩城宏之生誕80年を記念して、過去に岩城宏之と共演したことのある人々によって特別に編成された合唱団員八十数名が出演した。中々の圧巻だった。指揮者も合唱団を絶賛していた。ソプラノの森 麻希さんは、次回の第327回定期公演ではオペラのアリアなどを独唱されることになっている。楽しみだ。

2012年8月31日金曜日

白山への登山路の軌跡

 白山への登山路の中で、石徹白からの美濃禅定道のみが残された未踏路だったが、この8月21日に踏破できた。振り返って、これまで歩いた登山路については、本来は記録に基づいて記載しなければならないのだが、今は取りあえず、ルートごとに、上ったのか、下ったのかと、もし特記すべきことがあれば記載するに止めた。いずれ記録を整理することが出来れば、その折には詳細な記載をしたい。以下、登山ルートごとに記す。
1.西側から:市ノ瀬口
1−1 アプローチ(市ノ瀬ー別当出合):いつ林道が開通したか覚えていないが、昭和30年当初は、まだこの径は歩くしかなかった。(上・下)
1−2 砂防新道(別当出合ー甚之助避難小屋ー南竜道分岐ー黒ボコ岩ー五葉坂下ー室堂):現在は別当覗上部に新設された径(古くは作業道)を通っているが、以前の径はもっと別当谷寄りにつけられていた。しかし山腹の地割れで、この径は現在は通れない。また甚之助小屋ができる前は、高飯場跡から径は直上していた。(上・下)
1−3 観光新道(別当出合ー別当坂分岐ー殿ヶ池避難小屋ー黒ボコ岩ー五葉坂下ー室堂):別当坂分岐までは、これまで地震とか水害で何回もルートが変更になっている。別当坂より上部は旧の越前禅定道である。ただ古くは五葉坂は通らず、径は水屋尻雪渓左岸に付けられていた。(上/下)
1−4 南竜道(南竜道分岐ーエコーライン分岐ー南竜山荘):新設された南竜山荘へのコース。(上・下)
1−5 エコーライン(南竜道分岐ーエコーライン分岐ー五葉坂下):南竜道の途中から弥陀ヶ原へ上る。(上・下)
1−6 トンビ岩コース(南竜山荘ートンビ岩ー室堂):このコースは旧美濃禅定道である。(上・下)
1−7 展望歩道(南竜山荘ーアルプス展望台ー平瀬道分岐ー室堂):新設のコース(上・下)
1−8 白山(越前)禅定道(市ノ瀬ー指尾ー別当坂分岐):以前は旧道と言われていて通ったことがあるが、その後荒廃していた。平成11年(1999)に復元された。(上・下)
1−9 釈迦新道(市ノ瀬ー湯の谷登山口ー釈迦岳前峰ー湯の谷乗越ー七倉山分岐):径は白山釈迦岳主峰を巻いている。主峰は眺望がきかない。(上・下)
1−10 別山・市ノ瀬道(市ノ瀬ーチブリ尾根避難小屋ー御舎利山ー南竜山荘):市ノ瀬からチブリ尾根を辿るコースである。(上・下)
2.白山山頂部
2−1 御前峰・大汝峰・剣ヶ峰:御前峰には白山比メ神社の奥宮、大汝峰には大汝神社がある。剣ヶ峰への登路は特にない。(上・下)
2−2 お池巡り:翠ヶ池、千蛇ヶ池、紺屋ヶ池、油ヶ池、血ノ池、五色池、百姓池などを巡る。室堂へは近道と周回するコースがある。(上・下)
3.北側から(一里野温泉、岩間温泉、中宮温泉、北縦走路)
3−1 加賀新道(一里野温泉ー檜宮ーしかり場分岐):ゴンドラを利用できる。(上・下)
3−2 檜新宮参道(一里野温泉ーハライ谷口ー檜新宮ーしかり場分岐):旧加賀禅定道である。(下)
3−3 加賀禅定道(しかり場分岐ー長倉山ー奥長倉避難小屋ー天池ー七倉山分岐ー大汝峰ー千蛇ヶ池ー室堂):七倉山分岐以降は、釈迦新道、岩間道と共通である。大汝峰は巻き道もある。(下)
3−4 楽々新道(新岩間温泉ー丸石谷林道登山口ー小桜平避難小屋ー樅ヶ丘分岐):樅ヶ丘分岐で岩間道と合する。(下)
3−5 岩間道(新岩間温泉ー岩間温泉元湯ーコエト小屋跡ー樅ヶ丘分岐ー七倉山分岐):岩間温泉は元は元湯の場所にあった。雪崩で倒壊した。元湯からは中ノ川にある岩間の噴泉塔群へ行ける。(下)
3−6 中宮道(中宮温泉ーシナノキ平避難小屋ーゴマ平避難小屋ー地獄覗ーお花松原ー千蛇ヶ池ー室堂):ずっと以前は避難小屋はなかった。室堂とお花松原の往復はある。(上)
3−7 北縦走路(野谷荘司山ー妙法山ーシンノ谷ーゴマ平避難小屋):野谷荘司山へは馬狩から鶴平新道を通って登れる。また三方岩駐車場からも行ける。残雪期には大門山まで(下)。無雪期は三方岩駐車場ー野谷荘司山ー妙法山間は往復。
4.東側から:平瀬口
4−1 平瀬道(大白川ダムー大倉山避難小屋ー室堂):以前は登山口の大白川温泉までは平瀬からは径しかなく、この間を歩いた。ダムができ、林道がついた。(上・下)
5.南側から:石徹白口
5−1 石徹白道(南縦走路)(石徹白登山口ー神鳩ノ宮避難小屋ー銚子ヶ峰ー三ノ峰避難小屋ー別山ー南竜山荘):今年念願の踏破ができた。(下)
 注:(上)は「上り」に、(下)は「下り」に利用したことを示す。

2012年8月30日木曜日

念願の白山美濃禅定道を下る〔二日目〕

 朝4時半に空が白み始めたが、夜半は満天の星で好天が期待されたものの、御舎利山はガスで包まれ出した。でもまだ油坂の頭はすっきり見えている。食事をして、南竜山荘(2080)を5時に発つ。柳谷を渡り、泥濘を避け、一旦キャンプ場へ上がり、キャビンから迂回して木道に出る。そして一気に赤谷へ下る。ここから油坂の頭(2256)まで230mの上り、ここ油坂はこのコース最大の登りである。凡そ半分ばかり上ると、南竜山荘の赤い屋根が見えてくると同時に、エコーラインと御前峰が全貌を現す。斜面は一面にチングルマの大群落、もう花期は終わって実になっている。頭まで40分、カライトソウが沢山咲いている。尾根をしばらく歩くと天池、辺りにはイブキトラノオが咲き誇っていた。7月だとここにはシナノキンバイの大きな黄色い花が見られる場所だ。行く手に大屏風(2278)が、左手東側が急な崖となって切れ込んでいる。進むにつれガスが濃くなってきた。もう御舎利山も別山も見えない。漸く見慣れた御舎利山の巻き道に入り、山の頂への分岐を過ぎると、別山(2399.4)は近い。しかしガスで頂きは見えない。ここまで3時間を要した。別山神社に参拝し、小休止する。時折ガスが切れると、一面の雲海だということが分かる。彼方に御岳や乗鞍岳が垣間見える。片や西側の石川県側は晴れていて眩い。
 さあここから南へは初めて通る径、ガスの中、やせ尾根を下る。200mばかり下ると御手洗池が見え、別山平に達する。時折ガスが切れ、振り返ると白山本峰や別山が見える。7月だと一面にニッコウキスゲが咲くという別天地、昔は此処に別山室があったという。実に素晴らしい環境の場所だ.ここから三ノ峰との鞍部まで下り、チシマザサの斜面をかき分けて登り返すと三ノ峰(2128)の頂上に出た。別山から1時間50分を要した。肩辺りまでの笹原、頂上から三ノ峰避難小屋(2128)は見えない。以前には見えたように思ったが、とにかく笹薮が凄い。笹薮を漕いで少し下ると小屋が見えてきた。驚いたことに、小屋の前の空き地にはオオバコがびっしりと生えている。どうしてここに生育しているのか、これはハクサンオオバコではない。ところで避難小屋はきれいに整理整頓されている。先月下旬、金大山岳会の3名(うち1名は私と同年輩)が石徹白から登り、2泊目はここで過ごしている。
 小屋の前で、西へ行く上小池へ下る鳩ヶ湯新道と分かれ、東の方へ行く。径は南へと向かい、緩く上って福井県最高峰の打波ノ頭(2095)を過ぎ、笹原の中を二ノ峰の鞍部へと下る。どこまでも笹原の中に一筋の径が続いている。二ノ峰との鞍部を少し過ぎた平地に水呑釈迦堂の跡との標識があり、水場の標識もある。径は二ノ峰(1962.3)へと上っていて、峰の頂きの西側を巻いている。頂を過ぎると二ノ峰の下り、一ノ峰への鞍部へはかなり急な下りだ。ここで石徹白から登ってきたという若者に出会う。今日は南竜まで、明日は御前峰へ行き、この径を石徹白まで引き返すとか、恐れ入った。鞍部からは一ノ峰(1839)へ登り返す。振り返ると二ノ峰が大きく立ちはだかる感じだ。この頃になると日射しが強くなり、汗だくとなる。一ノ峰から銚子ヶ峰の方を見ると、尾根上にピークが二つ見え、奥の方が銚子ヶ峰と聞いた。一旦鞍部へ下り、登り返すと手前のピーク(1784)、更に尾根を緩く上り、雲石ももすり岩を過ぎると銚子ヶ峰の頂(1810.4)に出た。方位盤が置かれている。時刻は12時半、三ノ峰避難小屋から2時間15分を要した。通常は2時間の行程だという。小休止し、宮川氏から今宵の宿の鴛谷さんに連絡してもらう。登山口(960m)には午後3時に迎えるとのこと、ここから850mの下りである。
 銚子ヶ峰から少し下ったところに母御石という大きな丸い石が積み重なっている場所がある。ここからの緩い下りは灌木混じりとなり、40分ほどで神鳩ノ宮避難小屋(1750)に着く。この小屋もきれいに整備されている。ここから石徹白の大杉までは700mの下り、途中おたけり坂という100mで80m下るという急坂がある。この坂を過ぎると径はブナ林に入り、暑さは和らいでくる。小屋から1時間20分弱で大杉に着いた。もう後は420段の石段を下れば、駐車場のある石徹白登山口である。鴛谷さんが待っておいでた。こうしてどうやら宮川氏の協力もあり、美濃禅定道(南縦走路)を踏破することができた。鴛谷さんとの再会を喜び合う。南竜山荘から休憩も含めて10時間の行程であった。累積高度差は、上り900m、下り1965mであった。
 民宿「おしたに」の夕食は川魚づくし、イワナ、アユ、アマゴ、ゴリ、ほかに海の魚の刺身も、充分堪能した。翌朝は日本の原風景という在所を二人で散策し、大師堂へも寄った。迎えの前田車は朝6時40分に着いた。

2012年8月28日火曜日

念願の白山美濃禅定道を下る[一日目]


後期高齢者とはよく言ったもので、登山にしろスキーにしろ、足の萎えをこの2年前から感じるようになった。このようなことには家内は敏感で、この計画は無理だと言い出す始末。しかし永年の念願なので、とにかく8月20日(月)に南竜山荘に入り、21日(火)に石徹白へ下ることを、サポートしてくれる前田・宮川両氏に伝えた。それで家内には、初日に別当出合から砂防新道を経て室堂に行き、御前峰に登拝して、トンビ岩コースを南竜山荘へ下るが、この時点で障害が出れば、翌日の石徹白への下山は断念する。また翌日に油坂峰までにトラブルがあれば南竜へ引き返す。それが別山であれば、千振尾根から下山する。それが三ノ峰であれば、避難小屋で泊まるか、鳩ヶ湯へエスケープする。銚子ヶ峰であれば、神鳩ノ宮避難小屋で泊まる。という話をした。彼女は私と千振ー別山ー南竜のコースは順も逆も何度か通っている。ということで漸くゴーのサインが出た。


8月20日(月)
 午前4時きっかりに前田車が到着した。この山旅をエスコートしてくれる宮川氏も同乗している。登山の最盛期には月曜の正午まで交通規制がかかるのだが、今日は別当出合まで入れるとかで、5時10分には別当出合手前のゲートに着いた。支度をした後に前田氏が写真を撮ってくれたが、私はどうも元気がないと言う。それかあらぬか、出立前に二度も握手をしてくれた。私は山は今年初めてである。宮川氏は上背もあり、私より一回り若く、元気である。ゲートから別当出合の休憩舎まで15分ばかり、いよいよ出立である。
 彼の「ゆっくり行きましょう」という声に甘えて、マイペースで歩く。もう以前のように抜かれることに対する抵抗は全くなくなっている。出足の2009年新設の坂の急登を経て中飯場、そして別当覗へ、この辺りにはまだセンジュガンピが咲いている。さらに2007年に付け替えられた径を辿り、程なく2010年に新築された甚之助小屋に着く。ここまで別当出合から丁度2時間、彼は標準タイムだと慰めてくれる。小休止後、尾根筋を南竜道分岐へ、この時期ハクサントリカブト、サラシナショウマ、ミヤマアキノキリンソウ、ヤマハハコが見られる。
 ここから二の坂、三の坂を経て、十二曲りへと径は斜上する。まだ花がk多い。ハクサンフウロ、シモツケソウ、」イブキトラノオ、マルバダケブキ、タカネナデシコ、モミジカラマツなど。砂防新道は水が豊富で、水を持参してなくても大丈夫だ。沢の冷たい水で喉を潤す。十二曲り手間の沢も水が豊富だ。そしていよいよ急登、まだニッコウキスゲも少しだが残っている。途中の延命水も飲まずには通り過ぎられない。やがて黒ボコ岩、そして弥陀ヶ原へ、観光新道にしろ砂防新道にしろ、御前峰はここへ来て初めて拝むことができる。まだ水屋尻雪渓も残っている。それにしても弥陀ヶ原はチシマザサの原に変わってしまった。わずかにウラジロナナカマドのみが点在している。あと100mの上り、五葉坂を上りきると室堂だ。別当出合を出てから4時間4分、3時間を切った頃が偲ばれる。
 室堂で小休止し、ザックを置いて御前峰へ、室堂平にはイワギキョウやハクサンフウロが乱れ咲いている。オンタデも多い。整備された石段道を頂上へ、青石は地上界と天上界の境とされ、ここで3分の1、そしてやがて高天ヶ原、ここで半分、眺望も良くなり、程なく白山比め神社奥宮へ着く。室堂から丁度40分、お参りの後頂上へ、ガスが湧いてきて大汝峰は霞んでいる。頂上に陣取って食事をしているアベックがいる。早々に室堂へと下りる。次々と登ってくる。下りに27分を要した。小憩の後トンビ岩コースから南竜山荘へ向かう。途中チングルマが咲き誇っている場所があったが、遅くまで雪渓が残っていたためだろう。でも大部分は稚児車になっている。室堂から1時間5分、12時40分に山荘に着いた。この日の累積標高差は、上り1435m、下り640m。この分なら明日は別山越えは出来そうな気がする。ビールと焼酎で喉を潤す。宿泊客は十数人とこの時期にしては少ない。中に岐阜の若者で上小池から登り、明日は御前峰へ行き、別山越えして登った径を下りるという人と同宿になる。三ノ峰と別山の間は草が繁っているとか、南竜の管理人では来週三ノ峰まで草刈りをするとか、もう少し早くにしてほしいものだ。
 夜は満天の星、月は四日月か、明日は好天なのだろう。

2012年8月25日土曜日

念願の白山美濃禅定道を下る〔まえおき〕

 白山へ登りはじめてから半世紀、正確に何回登ったかは整理しないと定かではないが、記憶の中では、年に17回というのが最も多いと思っている。大学に入るまではせいぜい年に一度程度、金沢大学に入ってからも、山岳部での活動の場のメインは北アルプスだったこともあって、白山に入れたのは年に数回程度だった。薬学部を卒業して石川県衛生研究所に就職して微生物検査に従事するようになってからは、山へはそんなに入れず、山へは年に数回、白山へは時折ストレス解消のため登っていたような状態だった。その後研究のため、当初は金沢大学細菌学教室(後の微生物学教室)、そしてその後新設されたがん研究所ウイルス研究部門へ移ってからは、昼間は衛生研究所の微生物部で業務をこなした後、夜間は大学で研究に没頭するようになり、山へは年に一度出かけられれば上等で、徹夜で仕事をすることも多かった。山のことは頭の片隅にはあったが、日常の検査業務と大学での研究テーマの遂行に懸命だった.しかし昭和50年には、一定の成果を上げることが出来、学位が授与された。
 ところで私がタッチしていた分野はウイルス関係、県ではインフルエンザ、日本脳炎、ウイルス性下痢症のほか、インフルエンザ以外の上気道炎起因性の呼吸器ウイルスに対するサーベイにも取り組んでいて、当時は総勢3名で検査に当たっていた。とりわけこれら対象とするウイルスの検出には、生きた細胞が必須で、その培養が隘路になっていた。すなわち生きた細胞を閉じた空間で培養しようとすると、常に栄養物を与えなければならない一方、代謝された老廃物を除去してやらねばならないという作業がどうしても必要で、それには少なくとも3日おきにメディウムチェンジが必要だった.ということは、一人で責任を持って細胞培養をしようとすると、4日以上細胞を放置することは細胞を死に追いやることになりかねず、もし山へ出かけるとしても、3日以上連続して入山することは控えざるを得なかった。もっとも非常手段がないわけではないのだが、ウイルス検査をスムースに遂行するには、健全な細胞を常に確保しておくことが最低限必要だった.
 学位取得後は、衛生研究所の業務のみに没頭できるようになり、ウイルス性の上気道疾患や下痢性疾患の原因究明がメインになった。しかしそれには細胞培養が必須の業務で、3名がそれぞれ分担して2〜3の培養細胞を持っていた。しかし細胞培養の合間を縫えば、山へは長期間は無理だが、3日間を限度としての入山は可能になった。病気の流行期や学会発表期での入山は困難だが、この時期、よく近場の山、とりわけ白山や白山山系の山々にはよく出かけたものだ。特に白山の多くある登山路には足繁く歩を運び足跡を残した。その結果は部屋に貼った5万分の1地形図10枚を繋ぎ合わせた図に克明に赤線でトレースした。因みに10枚というのは、北から「金沢・城端」「鶴来・下梨」「白峰・白川村」「越前勝山・白山」「荒島岳・白鳥」である。
 白山の登拝路は、泰澄大師の開山以降、美濃・越前・加賀の三馬場を起点とした禅定道が発達した。中でも美濃馬場と白山御前峰を結ぶ美濃禅定道は、「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われ、三登拝路の中では最も賑わった。かつての修験道は、美濃馬場の長滝白山神社の裏手の山から尾根伝いに、西山・毘沙門岳・桧峠・大日ヶ岳・芦倉山・丸山と辿り、神鳩社で一般登拝路と合流していた。この間10の宿坊があったという。一般の登拝路は、石徹白の上在所にある白山中居神社の裏手の尾根から初河谷、倉谷を渡り、大杉に至るもので、このルートは毎年7月下旬に石徹白の人たちの手で刈り分けされているという。でもこのルートは40年程前に石徹白川に沿って林道が造られ、かつ大杉まで420段の石段ができて以降は、石徹白道の起点はこちらに移ってしまった。しかし石徹白の大杉から白山に至る石徹白道(南縦走路とも言われる)は忠実に美濃禅定道そのものを辿っている。ただ赤谷から南竜ヶ馬場へ上がる径は古い径とは異なる。もっとも古い径は廃道となっている。南竜ヶ馬場からトンビ岩への径には、往時の石畳道が残存している。
 このように往時の禅定道が脚光を浴びて再開されたのが加賀禅定道で、道筋は尾添尾根を忠実に辿るもので、尾添(一里野温泉)が起点となっている。また越前禅定道は市ノ瀬からの旧道として一部が残存していたが、その後荒廃してしまったものの、十数年前に白山(越前)禅定道として市ノ瀬〜慶松平〜別当坂下間が復元された。それより上部は観光新道としてよく利用されている径だ。

2012年8月17日金曜日

退職記念夫婦旅行(3)広島・鞆の浦温泉

・3日目:8月5日(日)宿泊:鞆の浦温泉 汀亭(みぎわてい)ー遠音近音(をちこち)
 朝、ゆったりと掛け流しのお湯に浸り、車の迎えが9時とのことで、昨晩と同じ場所で豪華な朝食を頂く。充実した一夜だった。
 あの豪華な山門をくぐって外へ出ると、既に昨日の阿蘇タクシーの方がもうスタンバイされていた。今日は熊本市内へ直行と思いきや、国道不通でまた昨日通ったあの阿蘇外輪山経由で熊本へ向かう。昨日通ったのと同じかどうかは定かではないが、二度ばかり展望所で止まり、カルデラを俯瞰する。道はひたすら西へと進む。しかし里へ下りてくると、そろそろ渋滞の兆候が見えてきた。目指すは熊本城とか。どこで「まつり」が催されているのかは不明だが、運転手さんはできるだけ混雑を避けているとか、お任せするしかない。そして漸く二の丸駐車場へ。そして西大手櫓門、頬当御門、宇土櫓、天守閣を巡る。天守閣は昭和35年(1960)に復元されたという。城内には当時の衣装をした侍などがエキストラ出演をしていて賑わいを見せていた。小一時間を過ごし、熊本駅へ。そして14:26のさくら558号で福山駅へ、16:39に着いた。ここからタクシーで鞆の浦へ、約30分で今宵の宿に着く。街並の続く道路は極端に狭く、車の交差はままならない。架橋が検討されたが、景観を損ねるとかで、山側にトンネルが検討されているそうだが、どちらにせよ、町中の交通渋滞の解消には全く役に立たない感じだ。難しい問題だ。
 宿は平成22年(2010)にオープンしたばかりの宿、全室に温泉露天風呂がついていて、眼下に鞆の浦を見渡せる。記帳時に宿の名の由来となった短歌を紹介された。部屋は3階の和室。貸切り風呂は2室のみで予約制とか、早速申し込んだ。この時間まだ申込者はなく、すぐにOKとなった。時間は40分、広い窓からは鞆の浦を挟んで弁天島と仙酔島が見えている。舩が行き来している。また部屋にはウッドデッキが付いていて、そこにも大きな陶製の露天風呂が置かれている。ゆったりと寛ぐ。ツインの和風ベッドは中々優雅だ。
 案内があり1階のダイニング「立風(そう)」へ。メインは瀬戸内の旬の食材を使用した創作料理とか。献立は次のようだった。〔前菜〕干し貝柱餡かけ(冬瓜スープ煮、平貝焼霜、新生姜、くこの実、赤にし貝と夏野菜=姫人参、アスパラ、アボカド、蓮芋の杏ソース和え、福山産渡り蟹・糸瓜の土佐酢ジュレ掛け、水茄子白酢掛け、地穴子小袖寿司)。〔御造り〕青竹盛り露見立て(鱧落とし・梅肉山葵・蛙胡瓜、石鯛御造り/中とろ/加賀太胡瓜、なごや河豚・走り島ちりめん卸し・いくら・縒り南京・本山葵)。〔焼き物〕瀬戸内めばる炭火焼き(福山無花果・姫おくら・鱧の子餡・白髪葱)。〔冷鉢〕茄子二色素麺寄せ(焼き玉蜀黍・順菜・針ラデッシュ・美味出汁)。〔温鉢〕あこうのしゃぶしゃぶー白味噌仕立て(水菜・豆腐・神石産たもぎ茸・山葵麩巻白菜・黒七味)。〔肉料理〕黒毛和牛ステーキーバルサミコソ−ス(辛子蓮根豆んだ揚げ・南京籠・万願寺・しまなみレモンと海人のレモスコ・クレソン)。〔御食事〕鯛釜飯ー香の物(土瓶仕立て・干し椎茸・昆布)。〔水菓子〕完熟トマトジュレ(フルーツトマト・キュウイソース・ミント・白桃・因島産二色西瓜)。抹茶ムース最中(小倉餡・抹茶粉)。中でも蛙胡瓜は極めてユニークだった。

四日目:8月6日(月)
 朝食は海に面したテーブルで頂く。今日の観光タクシーは9時に待ち合わせとか、今日の予定は尾道の寺巡りと平山郁夫美術館だったが、初めに平山美術館へ。鞆の浦の狭い路地を抜けて、しまなみ海道へ向かう。平山美術館が何処にあるのかを知らなかったのは浅学菲才だったが、尾道大橋、新尾道大橋を渡り向島へ、さらに因島大橋を渡り因島へ、さらに生口橋を渡って生口島へ、そしてここに美術館があるのは、平山郁夫がこの地で生まれたからだと漸く認識した。私たちがよく接する「仏教伝来」の絵もあるが、むしろ幼いときからの成長の軌跡や大作のスケッチや下絵など、平生お目にかかれない作品が多く展示されていた。
 美術館を出て駐車場へ向かう。すると途中に極彩色のお寺が見えた。訊くと潮聲山耕三寺だという。見ますかと言われ、何か興味がひかれ、きっと南蛮由来の寺だと思って門を潜った。山門も中門も極彩色、受付でこの寺が浄土真宗本願寺派と聞いてびっくりした。開山は大阪で大きな製造会社を営んでいた社長が、母の死に接し僧籍に入り、三十有余年をかけて造営した「母の寺」だとか。伽藍配置は上・中・下段からなり、厳密な左右対称、模倣ではあるが、堂塔の内の15棟が「国登録有形文化財」の指定を受けているとか。驚いた。境内では丁度蓮の花が見頃、埋め尽くされていた。それはそうと、顰蹙をかっている越前大仏は大阪のタクシー会社の社長が自分のために建立したものだった。
 タクシーで尾道へ戻る。土産物を求めようとするが、目ぼしいものはない。少し回ってもらったが埒が開かず、予定の新尾道駅へ。ここは新幹線でも田舎の駅、「こだま」のみ停車、新大阪駅まで正に鈍行、駅ごとに3分〜5分の待ち合わせ、2時間を要した。

2012年8月14日火曜日

退職記念夫婦旅行(2)熊本・黒川温泉

・2日目:8月4日(土) 宿泊:奥黒川温泉 里の湯ー和らく
 隼人駅から特急で鹿児島中央駅へ、ここから9:30発のさくら550号で熊本駅へ、10:25に着いた。ここから高速バスの「九州横断バス」に乗る。当初このバスに乗って阿蘇駅前まで行き、ここで黒川温泉行きのバスに乗り換えて行く予定にしていたが、件の豪雨で国道57号線が寸断されているので、新しい案では、阿蘇猿まわし劇場でバスを降りて、ここから迎えのタクシーで宿へ向かう段取りになった。このバスは熊本から阿蘇を巡って黒川温泉、由布院温泉を経由して別府へ行くという。指示どおり私たちのみバスから降りると、そこに阿蘇エースタクシーが待っていた。時間は12時過ぎ、乗って話していると、今日は黒川温泉まで案内し、明日は阿蘇の火口付近と草千里、その後熊本市内観光をすることになっていて、今日の午後と明日の午前は貸切りでお客様専用になっているという。ところで、阿蘇は明日観光することになっているが、熊本市では「火の国まつり」が催されていて、市内は交通渋滞が予想されるので、今日阿蘇巡りをして、明日は直に熊本へ行くようにした方がよいと仰る。お任せすることにした。
 車はお椀を伏せたような米塚(954m)の裾から高度を上げて、烏帽子岳(1337m)の麓に広がる一面の草原の通称「草千里」に至る。この辺りまで上ると、山肌が数条にわたって焦げ茶色の地肌が剥き出しになっていて、一面の緑の中に痛々しい傷痕を晒している。あの豪雨が此処でも猛威を振るったことが歴然としている。阿蘇山ロープウェイを左に見て、有料の阿蘇山公園道路へ入り、中岳(1506m)火口へ向かう。凄く風が荒い。吹き飛ばされそうな風、火口からは白い煙が立ち上っている。しかし風で煙が吹き消されて、底に緑色の池が垣間見えた。神秘的な色だ。あれは水だという。火口壁は荒々しい断崖、これ程に活動している火山の火口を目の当たりに見るというのは、他に例がないのでは。活火山は大概が立入禁止になるのに、此処だけは例外らしい。しかし至る所にシェルターがあり、これが必要なこともあるのかなあと思ったりする。
 再び車上の人となり、パノラマラインを北へ向かい、所々に設けられている展望所で広大なカルデラや外輪山を眺める。また外輪山の上を走る道路からは、急峻な外輪山や阿蘇五岳が見え、十分に阿蘇を堪能した。この後どういう道程で、どこをどう通ったかは皆目検討がつかないまま、午後3時頃、今宵の宿の「里の湯ー和らく」に着いた。広い道路から狭い山道を回り込んでの最初の宿だった。パンフレットには奥黒川温泉とあったが、入り口なのか奥なのか、この山の中では判然とせず、また見回しても周りに宿は全く見えない。当初は湯巡りを楽しもうと思っていたが、とても歩いて巡るのは、この宿からは難しそうなので、断念した。入口は巨大な茅葺きの山門、タクシーが着くとすぐに宿の人が出迎えてくれた。バス停からだと徒歩で30分とか、タクシーで助かった.
 記帳を済ませ、11室あるというとある和室に案内される。入り口は6畳、テーブルが置かれ、奥には板張りの和室に和風ベッド、既に布団が敷いてある。どこかでも経験したが、お客が部屋に入ってから出るまで、宿の人は一切干渉しないということらしい。和室の奥は板張りの広いテラスになっていて、テーブルとチェアが置いてある。和室の向かいはドアで仕切られ、洗面所とトイレ、その奥にはテラスとは大きな透明なガラスで仕切られた大きな檜の湯船、大きさは縦3m横2m、深さ60cmばかり、お湯が掛け流しになっている。実に贅沢だ。テラスや湯船からは、火焼輪知川のせせらぎをはさんで、緑の野山が見渡せる。
 露天風呂へ行く。この時間帯、男性は洞窟風呂の穴湯、部屋の湯と同じく無色透明な湯。一方この時間帯は女性専用の露天風呂は、お湯が乳白色、泉質が違うようだ。穴湯は岩が円形にくり抜かれた空間に円形にくり抜かれた岩風呂、ふんだんな掛け流し、至福の一時である。部屋は自動ロック、キーは2個あり、それぞれに持っているので、好きなだけ浸かっておられるのが良い。泉質は乳白色の含硫黄泉とナトリウム塩化物・硫酸塩泉(弱酸性低張性高温泉)、泉温は90℃、流量は100ℓ/分。ここ黒川温泉では6種類もの温泉が楽しめるという。湯巡りが推奨されるわけである。
 しばらく寛いでから食事へ、食事処は母屋にある「むぎの香」、オープンキッチンになっている。祝酒のレーベンブロイで乾杯し、お酒は生ビールとモエ。料理は以下のようだった。
 〔和彩〕箒茸信田巻豚肉角煮、水前寺生海苔鳥貝旨酢掛け、焼茄子蛸梅肉漬け。〔味彩〕穴子チーズ焼、銀杏松葉串、馬肉たたき、プチトマトワイン煮、フォアグラのソテー、石川小芋雲丹焼、鰯梅煮。〔小向〕太刀魚昆布〆焼霜造理。〔向附け〕鰺姿造理、鮪平造理、鯒薄造理。〔合肴〕舌平目木の芽揚げ。〔お凌ぎ〕三味素麺。〔留肴〕和牛ステーキ野菜添え。〔食事〕梅茶漬け。〔新香〕いぶりがっこ、野沢菜昆布。〔水菓子〕デザート盛り合わせ。

2012年8月13日月曜日

退職記念夫婦旅行(1)鹿児島・日当山温泉

 私が退職したら何処かへ旅行しようというのは、かなり前から話し合っていた。家内の姉妹たちと京都へ行った際に、家内はこの会を主宰した姪の旦那に、私たちの計画を話したようで、私の退職後に打診があった。姪の旦那は県の教育委員会にいたこともあって、修学旅行の設定にも関わりがあり、ある旅行会社の学校関係の旅行担当の職員とはコンタクトがあり、その方に私たちの旅行も相談されたようだった。京都への旅行の設定も彼氏に負うところ大だったとか、お任せすることにした。
 退職したある日、担当の方から一度ご来店願いたいとのこと、家内と出かけた。家内はまだ勤務があるので、条件は3泊4日の旅程、私も家内も北の方を希望したが、この日程ではどうしても飛行機を利用しなければ窮屈になること、家内は飛行機はイヤということもあって、案として、新幹線で九州へ行って、鹿児島近辺の温泉に泊まり、家内は九州へ行くなら黒川温泉へとの希望も入れ、帰りは本土に戻って、鞆の浦辺りで泊まって帰沢するというのはどうですかとの案を出された.これに異存はなく、その線で進めていただくことにした。日程は8月3日(金)〜6日(月)である。
 この間九州の北部中部を中心に梅雨明け間近の集中豪雨があり、旅行が危ぶまれたが、担当では一部旅程を変更したものの、大筋では問題なく遂行できるとか、2週間前には最終旅程表も頂き、必要な交通機関の運賃、宿泊料金、観光タクシー料金等を支払った。その額は35万円、今まで経験しない額の旅行、まあ退職記念とあればそれも良しとするか。

初日:8月3日(金) 宿泊:日当山(ひなたやま)温泉 数奇の宿ー野鶴亭(やかくてい)
 金沢駅を7:02発のサンダーバード6号で新大阪駅へ、乗り換えて、さくら551号で新しく出来た九州新幹線で鹿児島中央駅へ、14:05に着いた。7時間の旅、当初は鹿児島市内で昼食をと思ったが、腹持ちもよく、そのまま日豊本線の特急に乗り、特急で1駅の隼人駅で下車する。この間電車は錦江湾に沿って、右に湾を隔てて桜島を眺めながら走る。この間30分ばかり、トンネルも多く、風光明媚な線だ。下りた駅は田舎の駅、今観光線として脚光を浴びている肥薩線の起点駅でもある。でも田舎の駅であることに間違いはない。今宵の宿の日当山温泉へはタクシーで約13分の距離、後で分かったことだが、宿へ連絡すれば迎えがあったとか、翌日は駅まで送ってもらった。鹿児島空港とも近い。
 日当山温泉は平地で、近くには天降川が流れ、源は霧島連峰、上流には霧島温泉郷があり、その最も下流というか入り口に位置する。宿は純和風数寄屋造り、ロビーで抹茶を頂き、チェックイン後、回廊のある離れへ案内される。離れの名は「閑閑庵」。玄関から部屋へ案内される。メインは10畳半と8畳の間、縁があり、手入れされた庭が付いていて、その一画には大きな石をくり抜いた露天風呂が鎮座していて、お湯が掛け流しになっている。訊けば湯量が大変多く、大浴場もそれに付属する大露天風呂も掛け流しとか、泉質は炭酸水素塩泉とかだった。何とも贅沢な宿だ。大浴場(50名)と大露天風呂(30名)は続いていて、男女入れ替えは朝4時にあるため、晩と朝に入ると、両方を味わえる。早速にかなり離れている大浴場へ入りに行く。まだ時間が早いからか誰もいない。ゆったりとお湯に浸かる。上がると冷えたビールが出た。
 夕食は懐石料理、部屋まで運ばれる。家内はビール、私は地元の生酒や焼酎を頂く。料理に魅せられてお酒がすすんだのは言うまでもない。以下にこの日の献立を記す。
 〔青葉の雫〕:ところてん吸酢(順菜、胡麻、花付胡瓜)、小鮎いぶし、穴子八幡巻、川海老、枇杷黄味鮨、鴨と胡瓜松葉串、紫陽花もどき梅、太刀魚南蛮漬け。〔吸物〕:鱚葛叩き冬瓜すり流し仕立て(あじさい独活、湯葉、木の芽)。〔造り〕:旬の盛り合わせ(海老、赤身魚、白身魚、初夏の妻色々)。〔煮物〕:冷しのっぺ(小芋、海老、南瓜、鮑、蓮根、オクラ、小茄子、百合根、振り柚子)。〔焼物〕:鰻白焼(針葱、山葵おろし、葉地神)。〔鍋替り〕:黒毛和牛石焼き。〔温物〕:甘鯛古代米山葵蒸し(東寺あん、生ウニ、くこの実)、〔強肴〕:鱧火取り生姜酢(胡瓜、蛸湯引き、梅肉)。〔食事〕:ちりめん釜焚き(木の芽)。〔留椀〕:赤出し汁。〔香の物〕:三点盛り、生節。〔果物〕:とうもろこしプリン、メロン、桜桃。〔甘味〕鶯あん、わらび餅。
 翌朝、今一度日替わりの湯に浸り、お食事処「餐饌(さんせん)」で、真ん前に中庭を見渡せる円形の帯テーブルで朝食を頂く。飯は「おかゆ」にしてもらった。お菜は全て旬の地の物、見ていて楽しくなる品々、最高のもてなしだった。料理も接客も素晴らしかった。そういえば、夕食時に女将さんが挨拶に見えられていた。
 またこの旅行が私の退職記念だと知って、夫婦箸と珍しい箸置き、それにお揃いの扇子を頂戴した。それに「野鶴」という化粧箱入の焼酎も。この好意には甘えることにした。


2012年7月31日火曜日

私の毎日の処し方(2)平成24年7月から

勤務がなくなって家内が真っ先に心配したことは、私がアルコール類が好きなので、昼間から酒類を口にするのではないかということであった。それでどこかカルチャーセンターへ出かけて何かするのがベターだと口酸っぱく言うので、じゃ英会話とフランス語をやろうということにした。家内は善は急げとばかり、早速パンフレットを取り寄せてくれた。当初は陶芸を勧めてくれていた。事実私の先輩や後輩で、凝りに凝って自宅に窯まで造り、素晴らしい作品を作っている御仁も知っているが、敢えて私は知的なことに興味を示した。英会話については、今もって全く対応できないというのが本音で、先ず相手が何を言っているのかが分からないので、それを何とか解決したかった、昔の英語教育の弊害で、読めても、聞き取れない、喋れないという始末、それで一から出直そうと思ったのである。またフランス語は、シャンソンを原語で歌いたくて、2年ばかりラジオのフランス語講座にかじりついたことがあり、今一度と思ったわけである。それで実際にセンターへ出向いて話を聞いてみた。英語は初級から難度の高い実務レベルまであり、どのレベルにするかは面接の際に決めるとかだった。フランス語は、地元では初級のみで、一度聴講に来てみて下さいとのことだった。それでその時の腹積もりでは、フランス語の方は地元野々市で、英会話は金沢でということにしていた。ただ危惧したのは、これらの講習は週1回のみなので、これで効果が出るのだろうかということだった。もっとも受講しないで危惧ばかりするのは愚の骨頂なのかも知れないが、でも当初は本気で受講しようと思っていた。しかし今は外回りの仕事や内の片付けなどで、受講を見合わせている。ちなみに受講料は1回1時間あたり2千円、3ヵ月分前納である。
 ところで、毎年家の庭には庭師が剪定に入るが、例年は大概1日4人で3日間入るのが常であった。しかし費用は馬鹿にならず、家内は夫は年金生活に入るので、剪定に入るのは延べで例年の半分の6人にしてくれませんかと頼んだという。私も剪定するのは庭木だけにしてもらおうと思っていたし、今年以降は剪定もこちらでお願いした庭木のみにしてもらおうという腹積もりもあって、来るのなら私が勤務を辞めて家に居る7月以降にして下さいとお願いした。しかし昨年の秋以降、庭掃除をしていないので、植木屋が来る前に、なんとか掃除くらいはしておかねばと思った。それで当面、この時期は暑いので、とにかく午前中のみ庭へ出ることにして、1日の処し方の計画を立てた。
 7月以降は出勤はないので、私の起床は午前4時とした。これまでと同じノルマをこなすとすると、5時10分には終えることができる。7月になって、家内は何を思ったのか、朝30分程散歩すると言い出した。ではと5時30分に家を出て、金沢工業大学(工大)を周回する3kmのコースを一緒に歩くことにした。6時過ぎに帰宅し、彼女はシャワーをし、その後朝食の用意と弁当を作ったりし、彼女のお勤めを終えると、約1時間が経過する。その後朝の連続テレビ小説2本を観ると7時45分、彼女は8時からのテレビ小説をもう一度観て出勤する。その後私は後片付けをして、朝の30分では歩き足りないので、あと4km歩く。8時20分に家を出たとして帰宅は9時過ぎ、それから約2時間程度庭の掃除をする。昼近くに上がって、シャワーをして、ビールを飲んで食事を済ますと1時半くらいになる。この後、家内が帰る6時半までの5時間が私の時間だが、今は家の中の整理整頓で時間が費やされてしまう。この間、植木屋さんが来ていた1日半と、竹薮の枯れた孟宗竹と矢竹の整理の2日間は、朝から晩までの外仕事だった。
 職を辞してから約1ヵ月、いろいろ試みてきたが、朝のスタイルは定着しつつある。というのは、陽が上がると、この時節じっとしていても汗をかくので、家内が出勤してから再び歩くのは苦痛だし、またその後庭へ出て外仕事をするのはもっと苦痛なので、歩くのは、先祖の命日は5時半に、その他の日は5時〜5時半の間に歩き出し、家内は4km、私は6km歩くことにした。これだと家から金沢赤十字病院(日赤)までは家内と一緒に歩き、家内はここから県道沿いに家へ帰る周回コース、私は山側環状道路(山環)までの往復コースとなる。この案は定着しそうである。すると家内が勤務に出た後は、私は全くのフリータイムとなるが、ここしばらくは家の整理に精を出そうと思っている。
 

2012年7月30日月曜日

子供たちによる私の退職慰労の会

私達の長男夫婦は現在横浜市に住んでいるが、正月と旧盆にはいわゆる里帰りで野々市と押水の実家に帰って来る。ところで今年の正月には帰ってきたが、旧盆には仕事の都合で帰られないと話していた。ところが都合がついて、7月の28日に来て、30日に帰るという伝言が家内からあった。ただ長男の娘たち二人は、それぞれ大学と高校の受験対応で来られなくて、本人のみの里帰りとのことだった。その後野々市に帰るのは27日と1日繰り上がったとのこと、私にとっては特段どうということはなく、聞き流していた。その後その理由というのが、私の退職慰労の会をするのを、次男夫婦が企画していて、それに参加するために長男が出て来ると聞いた。私としては全く念頭になかったこと、でも大変嬉しく、喜んで受けることにした。
 しかし何時、何処でするのか、誰が出席するのか、そんなことは一切知らされてなく、ミステリーだった。その後開催日は7月29日の日曜日ということ、長男の娘たち2人と母親は来られないけれど、二男夫婦と息子と娘、故三男の細君と二人の息子も一緒だと聞いた。ただ場所と時間は知らされず、その後、家まで送迎のバスが当日の午後6時頃に来るので、皆さん野々市の実家に集合して一緒に出かけることまで判明した。
 さて当日、日中は大変暑い日だった。テレビや新聞の報道では、日本はまだ金メダルは0個、当初の金確実の種目でも、日本は苦戦を強いられていると。そんな中、長男は娘たちのために、「片目あき達磨」を求めに福井まで遠征するとか、でも後での連絡では、金沢で求められたとかだった。ことがことだけに、あって良かった.また二男夫婦は、長男は少年野球、長女は内灘権現森海岸での地引き網漁、充実した1日だったらしい。それでその収穫を持参しての訪問となった。初めての地引き網漁が素晴らしかったことを話してくれた。そして収穫の小アジとキス十数尾、それに本人はワカメだという海草、取りあえず鱗をひき、鰓と腸をとって下拵えをした。6時近くで慌ただしかった。
 迎えのバスが来て乗り込む。迎えのマイクロバスの胴には菜香楼のネーム、今晩の会は中華料理だということが分かる。場所は西念というから駅西方面、次男の勤務先の守備範囲内なのだろう。程なく着いた。訊くと銀行ではよく利用しているようだ。
 入り口には招龍亭とある。なかなか瀟洒な建物、初めてである。雰囲気がよい。一行は大人6人、小人4人、13人入る大きな円形の卓がある間、これだと大きな盛りから取り分けることは不可能だ。どうするのだろう。飲み物は個々に、乾杯は生ビールなどを、子供らも個々に頼んでいるが、大人よりよく何でも知っている。というよりは、私がそんなことに疎いのだろう。知らない飲み物もある。
 次男が口上を述べ、初めに長男が挨拶する。私は神妙に聞く。私が石川県衛生研究所に就職したのが昭和35年(1960)、36年間在職して平成8年(1996)に退職、そして同年(財)石川県予防医学協会に再就職、16年勤務して平成24年(2012)6月末日に漸く退職した。この間52年3ヵ月、現在75歳、これまでの人生の3分の2を勤め上げたことになる。思えば長かった。飲み物が出てきて、次男の指名で故三男の長男がねぎらいの言葉をかけてくれて、乾杯の音頭をとってくれる。しばらくして音曲が聴こえてきた。子供たちが見に行く。すると誰でも聴けるとかで、私も興味があり中座して見に行く。でも丁度終わるところだった。訊くと揚子江の揚の字と琴と書く「揚琴」とか、初めて見る楽器、箱型で多数の琴線が張られていて、それを木琴やマリンバを叩くような、先に玉のついた棒で叩くと独特な音が出る。不思議な楽器だ。
 部屋へ戻る。紹興酒を1本貰い、ロックにして飲む。こんな飲み方は初めてだ。料理が順に出てくる。料理は大人3人に一皿、子供ら4人に一皿、それを取り分ける。子供らも上手に取り分けるのを見て驚く。飲みかつ話し、時間はあっという間に過ぎ、デザートも出て最終コーナー、私が指名され皆さんにお礼を述べ、私の来し方とこれからを話した。当面の予定なのは、8月3日から4日間の家内との九州と山陽の旅、そして旧盆過ぎの白山美濃禅定道の石徹白への下りで、これはぜひ成就したい。時間が来てお開きになった。これでお終いかと思ったら、UTSUROIという小さなアルバムを渡された。それには息子夫婦たちや孫たちからのメッセージが入ったいた。これは思い出に「子供たちからのメッセージ」として転載しよう。そして最後に大きな花束を贈呈された。感謝感激だった。楽しい思い出の一時をありがとう。

「子供たちからのメッセージ」
1.木村豊明(長男)の家族より 『お父さんへ  退職おめでとうございます  これからは いろいろな趣味にチャレンジしてください   豊明』 『長い間 お仕事お疲れ様でした  これからは趣味などで 楽しんでください  敏美』 『おじいちゃんへ  今までお疲れさまでした これからも ずっと 元気でいてね  汐里』 『おじいちゃんへ  お仕事お疲れ様でした これからは のんびりと過ごしてください  香奈』
2.木村朋伸(次男)の家族より 『お父さんへ  本当に長い間 お疲れ様でした これからは体に気をつけて お母さんと2人で楽しく過ごして下さいね 私もお酒を飲んだり 山へ登ったりすることを 心から楽しみにしています  朋伸』 『おとうさん  長い間 本当にお疲れ様でした 先日 おかあさんに お弁当に対する感謝の意を表されたことに とても感動しました 私たちもおとうさんたちのように 素晴らしい夫婦になれるよう 頑張ります  倫子』 『お仕事お疲れ様でした ぼくもこれから勉強と野球をがんばるので おじいちゃんも元気でいてください  太一』 『おじいちゃんへ  おしごとおつかれさま 今日からゆっくり休んでください  優希』
3.木村誠孝(三男)の家族より 『お父さんへ  長い間 お仕事おつかれ様でした これからは 楽しい時間をいっぱい過ごして いつまでも元気でいて下さい  千晶』 『じいちゃんへ  長い間 お仕事おつかれさまでした 健康に気をつけて 長生きしてください  将太より』 『じいちゃんへ  長い間 お仕事おつかれ様でした これからもしっかりと休んで 健康に気をつけて 長生きして下さい  勇貴』
  




2012年7月27日金曜日

私の毎日の処し方 (1)平成24年6月まで

平成16年4月から平成24年6月までの8年3ヵ月の間、私は (財)石川県予防医学協会の (臨床)検査部顧問として勤務していた。この間、朝は7時頃には協会に着き、大概午後6時頃まで協会にいた。正規の勤務時間は午前8時30分から午後5時10分までである。もっとも部長から顧問になってからは、学童健診の蟯虫検査がある時以外は、特に課せられた義務的な実務はなく、蟯虫の鏡検以外は、言ってみれば気ままな私的なことをこなしていたに過ぎず、随分と優雅な勤務だったと言える。依頼された調査にしたって、ブログの記載にしたって、すべて協会の勤務時間中にこなしてきた。
 ここ1年のこれまでの1日を振り返ってみると、家にいるのは朝6時50分頃まで、帰宅は夕方の6時10分頃、行事があれば別だが、何もなければ、家に居るのは1日の半分強のみということになる。家に帰ってからは、その日の朝刊と夕刊を見て、家内は6時半から7時頃には帰って来るから、後はもう「飲み」だけという毎日だった。テレビを見ながら、駄弁りながら飲む。それで翌朝は午前3時起床なので、午後9時になると就寝と決めていた。家内は私の就寝以降は我が世の春、テレビは彼女の独占で、サスペンスものがあればそれに浸りっきり、私はキッタ・ハッタというのは性に会わないのに対し、彼女は最も得てとする分野なので、時として熱中すると翌日になることも。私が途中で起きて、彼女が眠っていると思いテレビを消すと、見ているという。正確には聴いているというべきか。とにかく彼女の場合、午後11時前の就寝というのは考えられない。夜人間と言うべきか。
 さて、午後9時就寝の私は6時間後の午前3時頃に目を覚ますことになる。これは1年を通じて、春夏秋冬変わらない。この時間に起きてからすることは、昨晩の食事の後片付け、大概は洗ってあるが、それを片づける。これに約10分位、洗いも入ると20分はかかる。それから、リビングには私の両親と私達の三男の遺影、別部屋には家内の両親の遺影が置いてあるので、新しい水を汲んで供え、私達一同のご加護とご教導をお願いし、十念を唱える。これに10分位要しようか。次いで神棚の宝珠に新鮮な水を汲み供え、5日に一度は榊の水を取り替える。神棚の神々に家内安全のお参りをし、なかんずく昨年からは大白山大明神大権現妙理大菩薩には白山全登山路踏破成就の願掛けをする。その後朝の体操をし、鰐のポーズのヨガをする。これにざっと15分を要する。
 次いで仏壇の華瓶(けびょう)の柾の水を新しいのに替え、新しくご飯を炊いたときは、仏飯器におぼくさんを供える。次いで平日ならば、仏壇の阿弥陀如来立像と両脇の半金色の善導大師と墨染めの法然上人、私の祖父母の量光院と壽光院、父母の真如院と清光院、私達の三男の西往院に一家の庇護を念じてお参りし、摩訶般若波羅蜜大明咒経を読経する。また同じお経を観世音菩薩にも読経して供える.これに10分強を要する。また木村家の過去帳には十一仏が載っているが、そのそれぞれの命日には浄土三部経の仏説無量寿経四誓偈、仏説観無量寿経第九真身観文、仏説阿弥陀経を読経して供養する。これには約25分かかる。すると、起きてからここまで約70分程度かかり、4時10分がここまでの目安となる。
 この時間、秋の彼岸から春の彼岸までは、まだ暗いので、歩きには光に照らされると発光する襷をかけての出発となる。今はコースは決まっていて、街灯がある道を選んでのコース取りである。このコースの詳細は以前にこのブログで記したが、大まかには県道の窪ー野々市線を窪二丁目の山側環状道路の交差点で折り返すコースで、距離にして約6km、時間にして約1時間である。夏場はこの時間帯には日の出は過ぎていて明るい。このウォーキングには、片足600gの底が丸いMBTというウォーキングシューズを履いて歩く。この靴は底が丸くて、じっと動かないで立つのは難しいという代物、Mはマサイ族、Bは裸足を、Tは覚えていないがトレーニングだろうか。好日山荘で勧められた代物である。歩くときはポールかステッキがあった方が安定する。400万歩歩くと摩耗するとかだった。このコースを歩いてくると1時間強かかるので、帰宅すると5時15分位、それから風呂で汗を流し、上がって前日の新聞をもう一度見て、切り抜きが必要な記事や写真を切り取ってスクラップする。すると6時近くになる。6時過ぎには食事をする。朝食の用意と弁当は家内がやってくれる。ニュースを見ながらの食事、その日1日の薬の配分もこの時行なう。後片付けを終えると6時半過ぎになる。それから出かける用意をして、6時50分頃には家を出る。
 ざっとこれが私の勤務していたときの、勤務日のタイムスケジュールである。

2012年7月18日水曜日

退職の日 平成24年6月30日

1.引っ越し
 3月1日付けで、6月末日をもって退職する旨の願いを提出した。本来ならば年度末の3月末日での退職なのだが、丁度年度初めに実施される学童等健診の蟯虫卵検査の体制がまだ整っていないこともあって、その応援に3ヵ月を要することからの変則的な退職願の提出となった。鏡検枚数は春の方が秋より多く、小学校、幼稚園、保育園(所)の児童、園児を中心に、私が鏡検する枚数はざっと10万枚で、鏡検が集中するのは4月半ばから6月半ばにかけてである。
 6月下旬になって鏡検も一段落し、引越しの準備にかかった。大部分は学術参考図書と学術雑誌と参考資料である。本の類いは重たいので、家でも整理に使っている、B5判が横に2列に入る外寸法が「39×28×22cm」のNo.3というダンボール箱を使った。ところで近年はA4判の雑誌や書籍も多くなり、これだと上記寸法が内寸法だと問題はないのだが、外寸法なので他の書籍との混載となった。こうして退職前日の29日までには36個のダンボール箱に荷物は納まった。残りはワープロと倒立顕微鏡で、これは業者の方にお願いすることにした。
 委託する業者は家内に任せておいたが、取扱いが丁寧との評判でサカイに頼んだようだが、生憎30日の土曜は空きがなく、アート引越センターへの委託となった。費用の見積もりは31,500円とか、もっとかかるかと思ったが意外だった。箱には本がぎっしり入っていて重たいですと話すと、当日は屈強の者を寄越すのでご心配なくとのこと、お任せした。
 ところで当日、現れたのは若い美女3人、男とばかり思い込んでいたので大丈夫かなと心配した。車は協会の計らいで裏口に引越トラックをつけることができ、スムースに積み込みができた。ところで驚いたことに、彼女らは本の入った重たい箱を2個ずつ抱えて運ぶではないか、とても私にはできない相談だ。トータル38個の荷物はまたたく間に車に積み込まれてしまった。この程度の引越しなど朝飯前という印象だった。その後私が先導して、通い慣れた通勤路を家へ、シンダチという旧館のおえの間に運び込んでもらう。当初の予定では引越しは10時から11時、ぴったり1時間で引越しは終了した。
2。送別会
 辞める3日前から協会の幹部の方達へ退職の挨拶に回った。県の場合だと、退職前日に退職辞令が出るので、それを持って関係先へ回るのが通例であるが、協会ではそのような例はないようで、時間を見計らって回ったものの、特に外勤の方にはお目にかかれず終いになった方もあった。
 6月30日の送別会の会場は近江町会館2階の「市の蔵」という大衆割烹、時間は7時半からとのこと、7時に着くように出かけた。この日はどういう方が出席されるのかは全く知らされてなく、挨拶回りで会に出席しますと言われて、有難うございますとお礼を言ったものの、当然会えなかった人の消息は分からない。30分前だとまだ数人しか来ていないようだったが、予防医学協会の方だったらどうぞと言われて中へ入る。入って初めて今日の出席者が私も含めて46名だということが分かった。理事長以下役員の方々、医局の先生方、各部門のマネージャー、サブマネージャー、リーダーの諸氏、そして私が所属する臨床検査部の方達、部屋は計ったように丁度一杯だった。
 会は定時に始まった。冒頭、臨床検査部部門長の小松原MGから、私が溶血を指標とした腸管出血性/ベロ毒素産生性大腸菌の検出に関して、2000年1月の予防医学技術研究集会での研究発表に対して、予防医学事業中央会学術賞(児玉賞)が授与されたこと、また同年3月に日本臨床微生物学雑誌に登載された論文に対して、日本臨床微生物学会学術奨励賞が授与されたことが紹介された。あの頃は日本感染症学雑誌や国立感染症研究所のジャーナルにもよく投稿したものだ。次いで理事長からも過分なお褒めの言葉を頂戴した。
 さて宴会が始まり、当初は出席した皆さん方にお酌をして回ろうと目論んでいたのだが、初めは個人がオーダーする仕組みのせいもあって回れず終い、その後ビールが大きなピッチャーに入ってきたが、これも持って回るには大きすぎて敬遠、したがって私と同じテーブルの人達にしか注ぐことは出来なかった。松崎理事長、中村先生、小山先生、田畑先生、鰺坂先生、金地事務局長、佐々木さん、前野さん、竹中さんなどである。宴もたけなわとなって、お酒の小さな徳利が出回るようになって、私も少々酩酊してきた。たまたま私の真ん前に座っていた佐々木さんが中座されると、別のテーブルの方が酌に来られ、場所は彼らに占拠され、彼女は席へ戻れなくなってしまった。こんな事態になることは想定していなくて、これは痛恨の極み、しかも注ぎに来られて受けないのは本意でないことから、つい過ごしてしまった。相手変われど主変わらずの集中砲火、カミさんには口酸っぱく言われていて、気を付けなければと思いつつも、ついつい過ごしてしまった。後は記憶が定かでなく、タクシーでの帰宅時でも、旧北國街道の東野々市バス停の真ん前に自宅があるのだが、ルートが違っていて、しかも辺りが暗いのと酩酊とで、自力帰宅は困難、この期に及んでまたもカミさんの手を煩わせてしまった。皆さんにちゃんと挨拶できたのかとカミさんに問われても返事できない始末、お目玉をくっても仕方がない。
 翌朝、金地事務局長には早速お詫びの電話をしたが、かえって労いの言葉をかけて貰い恐縮した。彼と私とは協会へ入ったのが同期である。もっとも彼は大学出でフレッシュそのもの、旭日の勢いだったのに対し、私は県を辞しての再就職とあって、落日の様相、上りと下りの違いはあった。ところで、送別会で他のテーブルには何方がおいでたかも分からず、月曜に幹事をしてくれた小川リーダーから出席者のリストをFAXで頂き、後日、御礼の気持ちをしたためた下記の文章を皆さんにお送りした。
3.御礼文(縦書き・墨書)
 私こと(下段記載) この度 平成二十四年六月末日をもちまして 十六年三ヶ月に及ぶ (財)石川県予防医学協会の職を辞することになりました 最終日にあたります 六月三十日には 私のために心のこもった送別会を開いていただき 厚く御礼申し上げます 本来ならば 皆様方お一人ずつに御礼を申し述べねばなりませぬところ それがかなわず失礼してしまいました 今後も健診等でお世話になると思いますが 何卒宜しくお願いいたします これからも 協会が益々ご繁栄されご発展されんことを また皆様のご健勝とご多幸を 心からお祈りしております
 平成二十四年七月吉日
4.出席者リスト
 頂いた座席表の番号と出席者名を記す。
・第1テーブル(1〜14)14名
 1小松原 2浦島 3松崎理事長 4前野 5木村顧問 6田畑先生 7竹中 8百崎 9中村先生
 10伊川 11小山先生 12佐々木 13鰺坂先生 14金地事務局長
・第2テーブル(15〜30)16名
 15岡本 16西田 17南MG 18中西先生 19表本部長 20魚谷先生 21宮崎SMG    22坂野SMG 23松田 24谷井 25竹口 26三野 27廣川部長 28松原         29伊藤MG 30村本
・第3テーブル(31〜46)16名
 31松崎幹事 32山川 33渡辺 34坂下 35坂蓋 36福田SMG 37高安 38東
 39小川 40白江 41米田 42清水 43中山 44貝崎 45松永SMG 46金地


 


2012年6月26日火曜日

平成24年の「子うし会」

 子うし会というのは、昭和11年(子年)生まれと昭和12年(丑年)生まれで、昭和23年に野々市小学校、昭和26年に野々市中学校を卒業した同窓生の集まりである。男28人女26人が名簿に載っているが、既に他界した人が男7人女5人いる。また全く消息不明が男に2人いる。したがって現在の会員は男19人女21人である。全員75歳で後期高齢者だ。何時から毎年会おうということになったか定かではないが、今年は地元でということで案が練られた。何時もは地元在住の皆さんに集まってもらって決めるのだが、今年は男のYさんと女のAさんの両世話人にお願いし、決まった段階で私から皆さんに案内することに。昨年は遠出ということで、「明日香村史跡巡りと十津川温泉・熊野三山」を催行したが、あの時訪れた地は台風と豪雨とで甚大な被害が出て、何か因縁めいた巡り合わせを感じた旅となった。これらの企画に当たっては、もう15年以上も付き合いのある北陸交通のNさんが窓口となっていて、いつも野々市発着のバス旅行となる。きっかけは高校の同級生が北陸交通の社長をしていたことにもよる。
 催行日は6月7日(木)と8日(金)、宿泊は山代温泉の森の出で湯「かが楽」、この宿は元は「大寿苑」といい、この会では過去に2回ばかり利用している。これまでは翌朝解散というスケジュールだったが、今回は女性会員からの要望で、翌日は観光したいということで、「永平寺・東尋坊と三国街並み散策」を追加した。この案は昼食場所さえ変えなければコース選定はかなりフレキシブルで、中には改築された越前松島水族館を見たいという要望もあったが、会費では賄えず、提案どおりとなった。また宿などでの食事は、足腰が弱っている人も多く、食事はテーブル・椅子という条件にしてある。当日の参加者は男10人女9人で、県外からの参加は、東京から2人、大阪から3人であった。
 宿には午後4時に着いた。宿は山際にあり、木立に囲まれている。先ず湯へ入り、冷えたビールと差し入れの焼酎とで話に花が咲く。不参者の近況も皆さんに知らせたが、病気で参加できない人が多く、元気でも他の同窓会とかち合ったとか、急に親戚に不幸があったとか、親や配偶者が入院していて看病しなければならないとか、もう会員全員が揃うのは至難である。でも会員のほぼ半数の出席があったことは多とすべきだろう。それにしても宴会がテーブル・椅子というのは、昔の「さしつさされつ」の動作がしにくく、親近感が今一だ。宴会が終わっても幹事部屋に集まり、皆で飲みかつ駄弁った。
 翌朝は9時に宿を出て永平寺に向かう。平日だが沢山の観光客、青い目の人もいる。永平寺は約760年前の寛元2年(1244)に道元禅師によって開かれた曹洞宗の大本山、三方を山に囲まれ、老杉が立ち茂る境内には70余りの建物があるという。正門参道から寺に上がる。久方ぶりだ。改築された傘松閣で簡単な説明を聞き、順路に従って七堂伽藍を巡る。法堂(はっとう)は最も高い位置にあり、廊下の階段を上らねばならない。約1時間かけて堂内を巡り駐車場へ戻った。
 永平寺からは北上して、三国の東尋坊へ向かう。天気は良い。40分後には目的地に着いた。最も海に近い潮騒の宿「やし楼」が昼食場所、店の方が東尋坊へ案内するという。階段を下り、全体を見渡せる場所で記念写真を撮る。もう少し案内するというのを断り、食事場所に戻った。気温も上がって暑く、ビールが美味かった。ここは越前海岸、魚料理一色だ。済んで一服していると、ここ特産という緑色をした干した海草、1袋600円、2袋1000円、何故かまんまと口車に乗せられて皆2袋を買う。中には土産にと6袋も買う人も出た。そのままでも、汁の具にも最適だとか。
 次いで三国の町へ、何回か来ているが、この古い街並みは記憶にない。この頃になると陽射しが強く、日傘が入り用だ。散策したのは北本町と南本町、ガイドの方に説明を受けながらそぞろ歩く。初めに寄ったのは北本町の旧岸名家の江戸時代の建物、代々材木商を営み、蔵の裏は川(湊)だったとか、ここは九頭竜川の河口、北前船の拠点でもあった場所だ。次いで南本町にある登録有形文化財の旧森田銀行本店、大正9年(1920)に作られた鉄筋コンクリート2階建で、外壁はタイル張りのルネサンス形式の建物。内部は至る所に象嵌が施され、取っ手は七宝焼、壁には彫刻、カウンターは欅の一枚板、何とも豪華な装飾だ。設計した山田七五郎は長崎県庁の設計者でもある。
 こうして今年の「子うし会」は幕を下ろした。来年は喜寿の祝いをすることに。

2012年6月25日月曜日

平成24年「会員そば打ち湯涌みどりの里」

   会を始めるに当たって、寺田会長から、この行事は平成15年に初めて開催され、今年は10年の節目に当たるという話があった。この企画を初めて提唱されたのは塚野さんだったのではなかろうか。爾来10年にわたってお世話いただき、今では恒例になってしまった。今年も多くの方のご協力で会は成功裡に終わった。有難うございました。以下に雑感を記す。

1.つきだし
  「そばスティック」:石野さんの作。蕎麦粉は粗挽き粉と細かい粉の二種、粗挽き粉のスティックは折れやすく、取り扱い注意、石野さんは慎重に分けられていた。味は味噌味とか抹茶入りとか何種類かあるとか、香ばしい甘さ、,2本のみ頂戴し、後は家へ持ち帰った。ところが家で開けると折れ折れだったが、旨さは変わらず、家内にも私にもこれが格好のビールの摘まみとなった。
  「ちりめん山椒」:早川さんの作。小皿に盛られて出てきたとき、これは前田さん仕込みの「鄙願」にぴったりとの予感、待てずに美味しそうな縮緬雑魚を摘まみ、鄙願を口に含む。これは至福の瞬間といえる。山椒は先生の自宅の庭に植生されているもの、緑色の若い実を採取し湯掻いてあく抜き、自らのお手製だとか。しらすも上等な逸品、京都の錦小路に並べられていたとしても不思議じゃない。一皿自宅へ持って帰った。家内にも賞味させよう。
  「大根の浅漬け」:何方の作なのだろうか。これも箸休めには絶好の摘まみだ。
2.そば
  蕎麦粉は粗挽き粉も細かい粉も共に長野県産と塚野さんから紹介があった。前者はキロ当たり1,800円、後者は2,100円とか、これはかなり高い部類に入るらしい。打たれたそばは「二八」「九一」「生粉打ち」の三種」,昨年から始まったのがこの三種を当てる競技、私は昨年は見事全部外れた。源野さんがそばを打った感想を話していたが、とにかく打ちづらかったと言っていた。特に加水加減に意外と苦労したとか。あとの二種は道下さんの作とか、今日は福井へ行かれているとかで、打って届けられたとかだった。
  先ず初めに配られたのは、細打ちの端正な手打ちそば、香りも良く、口に含んで呑み込んで、これは「二八」じゃないかと直感した。でも確たる根拠があるわけではない。汁は全くつけずに食した。でも美味いそばだ。暫らく間があり、その間にうっかり縮緬山椒の山椒の実を数個口にした。香りが口中に広がる。ところがこの強い香りは鄙願でも流せない。ややあって次のそばが来たが、舌が麻痺していて、全く用をなさない。これは前が「二八」なら「九一」か、こんがらかって分からなくなった。 結果は逆転して記載したようだ。また鄙願を飲む。そして最後の一盛り、これは何となく「生粉打ち」のようだと納得した。この味見の件については、一度塚野さんに講師になってもらって、目利きのコツを教えてもらわねばなるまい。食べ歩いていても、せめてこれ位は喝破できるようにならねば、本当のそば好きとは言えないのではと思ったりする。それにしても打たれた方の技量は大したものだ。速さはともかく、もう一流の域に達している。
3.でざーと
  「そば掻きぜんざい」:ぜんざいは久保さんの作。久保さんのところへは毎年越前大野から当地産の「大納言」が収穫できたと案内があるそうで、久保さんが受取りに行かれるとか。その後ぜんざいにまで仕上げられるのは奥さんとか、久保さんはぜんざいには全く目がない方だ。そば掻きは竹吉さんが両方掻かれたとか、残念ながら食していないので、全く評価できないのが残念である。せめてそば掻きを所望すれば良かった。後の祭だ。
  「シフォンケーキ」:石野さんの作である。やはり粗挽き粉と細かい粉を使っての作成、素晴らしい出来映えである。皆に等分に切り分けられ、お持ち帰りに。私が持ち帰ったケーキは家内のビールの摘まみに、いつもながらその腕前に舌を巻く。

  こうして楽しみにしていたみどりの里での会員そば打ちも、無事に終わった。私は何のお手伝いもせず、もっぱら食べて飲んでの二時間半、お世話いただいた方々には心から感謝します。本当にお疲れさんでした。有難うございました。

2012年6月21日木曜日

木村先生を囲んで生薬を懐かしむ会

表記の会は、旧生薬学教室に在籍した人及び先生が関わった植物研究や漢方研究の同好会のメンバーを母体にしている。この企画を初めて提唱したのは、生薬学教室に在籍し昭和37年に卒業した松本武さんで、彼は1年かけて名簿を作成し、翌平成18年6月25日(日)に金沢市で初の会を開いた。参加者は40名で盛会であった。その折この会を1年おきに開催することを申し合わせた。第2回は熊野正さん(昭29)が世話人となり、平成20年9月23日(水・祝)に23人が集い、金沢市で開かれた。第3回は私(昭34)が代表世話人となって、大正12年(1923)生まれの先生は、平成22年には88歳になられることもあって、米寿の祝いも兼ねて、6月20日(日)に金沢市で開催した。29名の参加があった。そして今年は安田幸子さん(昭41)が世話人代表となって、6月17日(日)に金沢市で開催され、27名が参加した。
 これまで4回の開催で参加された方の総数は54人で、松本さん作成の名簿搭載者167名に2010年発行の薬学同窓会名簿から未搭載の生薬学教室在籍者23名を加えた190名に対する割合を見ると、出席した人は全体の28.4%になる。そこで、卒業年次を昭28~33、昭34~43、昭44~53、昭54~63に区切って、それぞれの年代での出席率を見ると、順に73%(19/43),51%(20/39)、21%(14/67)、2%(1/58)となる。これから伺えることは、還暦(昭49卒が該当)前で現役で勤務されている方が多い年代の方の参加が極端に少なくなっていることだ。また還暦を過ぎた方でも、現に勤務されている方の参加は少ないようだ。近況から伺うと、年配の方の場合は体調を崩されたりで参加できないとか、中には親御さんや配偶者の介護のために参加できないとかである。また遠方の方の参加も少ないようだ。でも今回も北は福島、南は奈良からも参加があり、北陸3県以外からの参加者も14名と半数を超えた。また特徴的だったのは、今回初めてこの会に参加された方が8人もいたということである。
 この日の会場は金沢市香林坊の金沢エクセルホテル東急5階のエクセレントルーム、午前11時に開会し、凡そ40分間木村先生の講話後、最年少の千木良さんからの花束贈呈を行ない、その後別室で記念の集合写真を撮り、正午から午後2時まで会食という段取りである。私は先生の講話や出席者のスピーチを若干メモしたものの、どうも悪筆なこともあって、手前の字なのに判読に困るという始末、困ったことである。すると誤った記述をするかも知れず、ご指摘いただければ訂正するにやぶさかではない。

1.木村先生の講話から
 [薬草園のこと]:昭和25年に昭和女子薬科大学から金沢大学に赴任した当時、戸田構想で薬学部は城内へ移転ということになり、真先に生薬学教室が旧旅団司令部跡の敷地に移転した。ところで教室には薬用植物園がつきもので、先生は候補地になった旧第九師団の馬場跡で植物園造りに精出した。場所は現在玉泉院復元工事が行なわれている場所である。馬場であったからして砂地で、終戦後はそこにサツマイモなどが植えられていた。水はけがよいこともあって、草や木を植えた後は水やりが大変で、旧四高のプールからの水運びが大変だった。  然し漸く目処がついた頃、ここに県の体育館が建つことになり、薬草園は甚兵衛門坂を上がった一画に移ることに、ここは元は何だったか知らないが、私達が手伝ったのはこの頃である。そのうち薬学部の移転計画は白紙となり、ふたたび小立野で薬草園を開くことになった。候補の一帯は当時ゴミ捨て場同然の場所、動物の死骸なども埋められていた。先生は園丁の方と鍬を取り開墾され、皆が散策できる立派な薬草園に仕上げられた。きちっと区画されたものではないが、それがよい落ち着きを醸し出していた。しかし一部の先生からはあれは薬草園なんてものではない、先ず生えている木は皆切ってしまえとの御託宣、でも先生は容認できないと無視された。すると彼は草しか知らないとか、また思想が悪く、赤だとまで言われた。当時は上意下達のみ、下から上へは通らなかった。また植物園は園丁に任せて、研究室で仕事をしろとも、でもその傍ら薬草園は先生にとっては宝であった。そして昭和63年に退官されるまではこうして薬草園は守られた。  先生の退官後は、薬学部の角間への移転、小立野トンネル開通に伴う掘割で、旧の薬草園は随分削られたはずである。今の現状を私は知らない。あのメタセコイアは健在だろうか。
 [心の根底にあるもの]:先生の心底にあるのは宮沢賢治のヒューマノズムであり、仏教思想が根源となっている。それは人類平等の思想でもある。これは自然保護、すなわち生き物をいとおしむことにも通ずる。このことでは岩手県出身の熊谷君(昭和34年卒、後に岩手の名士と言われた)とは共感したという。先生がまだ東大の学生の頃、甲府の軍医学校に配属されていた当時、青少年義勇軍とか満蒙開拓団の人達は戦況が逼迫していて大陸へ渡ることが出来ず、山梨の笛吹川の上流で食料不足を補うために開墾をすることのなった。これには地元の樵夫や炭焼きの人達には大変な世話になったが、これも貴重な体験だった。一帯にはキハダ、ハシリドコロ、ヒキオコシなどの薬草が自生しており、これは大学へ戻って、ハシリドコロの分布調査の研究をする端緒となった。  四高から東大物理学科へ進まれた新保さんにも影響を受けた。彼の部屋には宮沢賢治の郷里の五万分の一の地図が一面に貼ってあり、心酔していた。後にこの先輩の妹と結婚することになる。また四高では、チェロの師であるアーネスト・ブライスという先生から、バッハのマタイ伝の中のコラールを教わった。この先生は俳句も嗜まれ、オーボエでパーセルの曲も披露してくれた。後に皇太子(現天皇)の英語教師もされたという。あの有名な○○女史の前のことだとか。また日本が負けたら日本人になるとも。  
 [桜のこと]:先生は石川県文化財保護委員もしていて、桜や椿に興味を持っていた。能登に自生する菊桜が新しい品種であることを見つけ、ケタノシロキクザクラなどいくつかは先生の命名による。それらは「日本の桜」として出版され、その本はこの前のこの会で先生から出席の皆さんに配布されたが、誰からも感想文が届いていないと嘆いておいでた。これらの桜から取り木されて植えられた木を別の地方で出会うと実に嬉しい。私は桜に没頭するために国立能登青年の家に移ろうとまで思ったが、それは大学で却下された。いま菊桜のことを後2年くらいかけて纏めたいと思っている。一方で辰巳用水を守るために、ダム建設に反対して来たが、係争中なのにダム本体は出来上がってしまった。

2.スピーチから
 マイクを使って話すのだが、先生は聞きづらいと言われ、傍に立って話すことに。
 [清水さん:昭44]: 福島県喜多方市の出身。もとは北方と書いたそうだ。福島は日本有数の薬草の産地なのだが、それが今放射能汚染に苦しんでいる。原発から100km離れているが、採取されたドクダミの全草、キハダやホオノキの樹皮は放射能で汚染されていて、廃棄しなければならない現況にある。洗浄による徐染でも、1,000Bqを20Bq以下にすることはできない。朝鮮人参も会津は信濃と並ぶ産地だが、製品になるには4年かかることから、放射能汚染が懸念される。稲の汚染でも、雨ばかりではなく、根からも吸収されているというから、天然物も栽培品も危機にさらされている。シイタケ、コシアブラ、ワカサギもである。
 [奥田さん:昭33]:一昨年のこの会で、奥田さんは生まれ故郷である喜界島での皆既日食(2009/7/22)の連続写真を配布された。奄美一帯が雨で観測できなかったのにである。この日は「思い出二話」ということで話された。  その一:終戦後、郷里の喜界島は琉球軍政府に統合され、国籍は琉球人ということに、そして昭和26年には米国陸軍省立の琉球大学へ入学した。ところが昭和28年12月に奄美諸島が日本に復帰し、国籍は日本人となった。その後文部省の計らいで日本の大学への道が開け、昭和29年に金沢大学に入学できた。そのとき大学での入学手続きでの女子事務員の心遣い、町で道案内をしてくれたお年寄りの親切、気配りしてくれた電車の運転手など、そのときの親切で心優しい金沢の人達を忘れることは出来ない。  その二:大学へ入ったが、家からは全く送金がなかった。そこで横安江町にあったうどん屋「いしや」で焚き木割りをした。日給は500円で3食付きだった。 『腹白いタラをタラ腹食べ過ぎて ダラになりけり我輩は』 『好きな勉強 ビーコン、トゥリコン、ダラダラダッタ』。 また凍てつく冬の雪下ろしは一屋根500円2食付きで、4軒も回ると収入は2,000円にもなった。当時の授業料は6,000円だった。木村先生の講義では、許可を得て早引けし、一目散にアルバイトへ。感謝、有難うだった。
 その他8人からスピーチが、磯野さんからは宝生流の謡「養老」が披露された。

2012年6月19日火曜日

京都へ行くまいかい(その2)

 {第2日)
 翌朝、再び展望風呂でゆっくり寛ぎ、朝食を済ませ、9時には一夜の宿「緑風荘」を後にする。すぐ近くには世界文化遺産の西本願寺があり、早朝に出かけた人もいたようだ。車は宿を出て、一旦西本願寺にほんの暫らく立ち寄り、門前から阿弥陀堂(本堂)や御影堂(大師堂)を仰ぎ見る。その後車は西進、桂川を渡って川の右岸沿いに北へ向かう。どこをどう通ったかは皆目分からないが、京都市内なのに町中に畑があったり、水田があったり、こんな経験は初めてだ。だがややあって漸く見慣れた渡月橋の袂に出た。橋を渡って、世界文化遺産でもある天龍寺へ向かう。天龍寺の境内は広く、かつては嵐山も亀山も境内だったという。係員に誘導されて境内にバスを停める。
  『天龍寺』:臨済宗天龍寺派の大本山、正しくは「霊亀山天龍資聖禅寺」とか。足利尊氏が夢窓国師を開祖として創建したという寺である。夢窓国師は堂宇建立の資金調達のために、「天龍寺船」による貿易を行ない、康永2年(1343)にはほぼ七堂伽藍が整えられた。度々大火に見舞われ、現在ある堂宇の多くは明治になってからの再建であるという。この夢窓国師によって作られた曹源池を含む庭園は、国の史跡・特別名勝第1号に指定されている。また天龍寺は平成6年(1994)には世界文化遺産に登録された。
 バスを降りてそぞろ歩くと、正面に豪壮な庫裏と相対する。私達は左手の受付から庭園拝観に入る。大方丈をぐるりと回り、さらに書院の脇を通り、曹源池に沿って付けられた白い砂利道を歩む。北側から見ると、向こう側に嵐山が見え、借景になっている。庭には桜や楓が多く、春や秋はさぞや見事であろうと思われる。拝観コースをさらに奥へ進むと竹林の庭、綺麗に手入れされている。我が家の竹薮とは全く違う。雨が少し降ってきた。
 天龍寺を出て南へ下がり、大堰川(上流は保津川、下流は桂川)へ向かう。川の岸には遊覧の川舟が多く繋がれている。その一隻に乗る。操舟は竹竿一本、見るとアベックで二人しか乗っていない舟もある。それにしても2人と17人とでは、上流へ向かう労力には差があろうに。でも後で知ったことだが、原則相乗りはないとのこと、要は貸切ということらしい。それにしても、2人ならともかく17人も乗ると船頭もしんどかろうに。相乗りは繁忙期のみとかである。ゆっくり上流へ。すると川の中流に飲み物や食べ物を売っている舟がいて、船頭はその舟に横付けた。うまくできている。グルだ。私はビールを頂く。皆さんそれぞれに何某かを求める。商売が済むと、その舟は別の場所に移動していった。やがて川に瀬が見えてきて、舟はその手前で反転して下りになり、元の舟乗り場に戻った。凡そ30分ばかりの嵐峡の遊覧であった。7月になるとここでは鵜飼が行なわれるし、秋には紅葉、冬には雪景色、春には桜と、四季折々に堪能できる。
 次に向かうのは湯豆腐の「嵯峨野」、予約の時間にはまだ少し早いとかで、暫らく川の辺りでぶらぶらする。やがて声がかかり、天龍寺へ戻るようにして「嵯峨野」へ向かう。
 『嵯峨野』:平屋建ての新館の前を通り、鍵の手に曲がって本館へ、入って二階へ上がり座敷席へ。眼下には庭が見下ろせ、枝振りのいい赤松が素晴らしい。その奥は竹林、でも竹は中途から切られていて、一寸風情がない。今は若竹が伸びている。パンフレットには冬は湯豆腐のみ、夏はほかに辛子豆腐、冷しそうめんも選択できるとあるが、やはり初めてなら湯豆腐だろう。大きな土鍋に京都伝統の嵯峨豆腐が、お酒がすすむ。ここは昼時は混み合うが、その時間帯を外せば、フリでも入れると教えてくれた。京の有名な湯豆腐に出会えて満足だった。
 この後、土産物を仕入れるとて、洛北の北山通りのとある洋菓子店へ寄る。店内は押すな押すなの混雑ぶり、有名な店なのだろう。通りを挟んでの南側には京都府立植物園、何回か足を運んだことがある。また近くには「じん六」とか「もうやん」といううまい蕎麦屋があり、ここにも数回足を運んだことがある。懐かしい場所だ。家内も随分と買い込んだ様子、私には縁のない店だ。皆さんが買い終えるのにかなりの時間を要した。
 さて、この「京都へ行くまい会」もそろそろ大団円、残すは伏見・醍醐にある醍醐寺の参拝のみとなった。嵐山は京の西の端、その後北の端の上賀茂まで行き、そして醍醐はというと京の東南の隅、端から端へぐるりと回ったことになる。醍醐寺に着いたのは午後3時半だった。
 『醍醐寺』:真言宗醍醐派の総本山である。醍醐寺は弘法大師の孫弟子にあたる理源大師・聖宝によって、貞観16年(874)に創建されている。いわれによると、山岳信仰の霊山であった笠取山(醍醐山)に登った折、白髪の老翁の姿で現れた地主神・横尾明神の示現によって、こんこんと」湧き出る霊泉(醍醐水)を得て、この山を譲り受け、ここに小堂宇を建立して、准抵・如意輪の両観音を刻み山上に祀ったのが醍醐寺の始まりであるという。その後延喜7年(907)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立され、更には五大堂も落成するに至って、山上の上醍醐の伽藍が完成した。この醍醐天皇の願いは朱雀・村上両天皇に引き継がれ、山下(下醍醐)の地にも伽藍の建立が計画され、延長4年(926)には釈迦堂が、天暦3年(949)には法華三昧堂が建立され、天暦5年(951)には五重大塔が落成し、山上山下にまたがる大伽藍が完成した。その後も多くの堂宇が建立された。
 しかし長い歴史のなかで何度も火災にあい、文明・応仁の乱では五重塔を残して下醍醐は焼失、上醍醐も荒廃した。その後長い間復興されなかったが、慶長3年(1598)の春に豊臣秀吉が開いた「醍醐の花見」を契機に、秀吉や秀頼によって金堂や三宝院、また山上では開山堂や如意輪堂などが再建された。
 現在一山は国の史跡に指定され、長年護り続けられてきた10万点以上の寺宝類の多くは国宝(41点)、重要文化財(63,692点)に指定されている。(平成22年度末現在) また醍醐寺は世界文化遺産にも登録されている。
 私達は朱塗りの西大門(仁王門)から入り、国宝の五重塔へと進んだ。この塔は、醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が承平元年(931)に起工、村上天皇の天暦5年(951)に完成したもので、完成に20年を要した。京都では最古の木造建築物と言われている。高さは38m、そのうち相輪部が12.8mで、全体の3割以上を占める。塔内部の壁画は創建当時のもので、塔本体とは別に国宝に指定されている。見上げると、その重厚さに圧倒される。次いで真如三昧耶堂へ向かう。この堂は法華三昧堂として創建されたものだが、後に焼失し、平成9年(1997)に再建された。内陣には中央に伊藤真乗が謹刻した涅槃尊象が安置され、向かって右には伊藤真乗、左には伊藤友司のいずれも金色の胸像が安置されている。伊藤真乗は真言宗醍醐派の阿ジャ梨であり、昭和59年(1984)には、弘法大師御入定1150年遠忌では導師を務められている。尊象は真如苑の教主様と霊祖様である。
 次いで少し下って醍醐寺の本堂である金堂へ行く。この金堂は豊臣秀吉の発願により紀州から移築されたもので、移築は秀吉の没後の慶長5年(1600)に落慶している。正面7間側面5間の入母屋造り本瓦葺きの建物である。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作とされ、いずれも重要文化財に指定されている。
 今回は約1時間の参拝で、下醍醐にある伽藍のごく一部しか見ることが出来なかったが、またの機会には開山堂がある上醍醐にも行ってみたい。そこへは登山口にある女人堂から山道を約1時間かけて登らねばならないというが、ぜひ訪れてみたいものだ。また醍醐寺は「醍醐の花見」や力自慢の男女が大きな鏡餅を持ち上げる「餅上げ力奉納」でも有名である。
 
 こうして今回の「京都へ行くまいかい」は終わった。随分と盛り沢山であったが、これも車という機動力があったからで、それにも増して優れた企画の賜物である。少なくとも彼女はもう1年は在学するし、大学院へ進学すれば、少なくとも更に2年は続けられる皮算用になる。企画実行に当たったT先生夫妻に感謝したい。また当初の予算内に納まったと報告され、これには驚きを隠せなかった。正にオンブにダッコの楽しい旅だった。

2012年6月18日月曜日

京都へ行くまいかい(その1)

私の家内の兄弟姉妹は5人で、上から順に、長姉、長兄、次姉、本人、弟である。この中での総帥は長姉で、夫のほうも長男である旦那が総帥で宮田一家を仕切っている。一方で姉御の方も別に宮田組を形成している。それは血族と姻族の差であって、当然のことかも知れない。宮田の長姉と家内とは姉妹であるから繋がりは強く、家内はよく訪ねている。長姉には三人の娘がいて、それぞれ順に3人、3人、2人の孫がいる。そしてさらに長女の二人の娘には3人と1人の曾孫がいる。曾孫にとって長姉は曾祖母にあたるし、家内の姪に当たる長女は祖母ということになsる。家内よりずっと若いのにである。
 さて、家内は宮田組の一員であるからともかく、私までも声がかかって、家内の姪の子の結婚式、一泊旅行、進学祝、内輪の会などに、都合5回もお誘いを受けた。このうち平成21年(2009)の3月に、家内の姪にあたる三女の娘さんが、二水高校から京大に合格したとかで祝賀会が持たれ、素晴らしい快挙ということで私も参加した。宮田組の一族郎党が集まった楽しい会であった。後で聞いたことだが、その折に京都に娘が一人で行くのだから、皆で京都へ行くまいかということで「京都へ行くまい会」というのを発足させたとかであった。でもその年の秋には京都から娘さんが帰郷して、能登の輪島ねぶた温泉「能登の庄」へ旅行したし、平成22年(2010)には私達の三男坊が他界したこともあってか、旅行には出なかったし、平成23年(2011)には宮田家に面々が寄って、名目は忘れたが内輪の会が持たれた。
 そして今年、平成24年(2012)には晴れて「京都へ行くまい会」が現実に駆動することになった。日取りは6月2,3日の土日、この時期私は学童健診で忙しい時期なのだが、土日とあれば休日なので全く問題はない。二つ返事で参加することにした。そして東京の次姉夫婦も参加するという。そして程なく家内の姪に当たる三女の方から「京都へ行くまいかい!」というカラー刷りの冊子パンフレットが届いた。これまでも旅行の後にスナップ写真を編集した冊子を戴いていたが、今回のはこれまでになく実に素晴らしい内容になっていた。この夫妻は共に中学校の先生である。先生にこんな技術が必須なのかどうかはともかく、スケジュールから訪ねる場所まで、説明も写真とイラスト付きで実に分かりやすく解説されている。驚きである。先生は多忙だと聞いているが、ひょっとして睡眠時間を削っての制作じゃなかったろうか。冊子はA4で18ページ、とても誰もが簡単に真似できるものではない。
 今度の旅行には延べ17人の参加、アシにはマイクロバスを使用とか、運転は家内の姪にあたる三女の旦那先生、マイクロバス運転の免許をお持ちとか。国体でも県で責任ある立場にあることもあって、よくマイクロバスを運転して遠出することもあるという。彼の運転には以前にも接したことがあるが、正確な運転で乗っていて安心感があるのが嬉しい。嫁はんも運転上手だ。ところで家内からは、曾孫が4人同乗するが、中々活発な子達なのでバスでは騒ぐのは必定、気分を害することがあっても絶対怒らないでと釘をさされた。私は妙薬を飲んで乗るから大丈夫と言ったものの、どう対処すべきかはその場に当たってみないと分からないと思っていた。会費は男性5万円、女性3万円とのことだったが、それで足りるのかと心配だったが、足りなきゃ集めればよいとのことだった。
{第1日}
 宮田家からの出発は午前7時、東京の次姉夫婦は京都で合流とかである。上荒屋を出た後、すぐ近くに開設された白山ICから高速道へ、途中女形谷PAでトイレ休憩、南条SAで軽い朝食、多賀SAでトイレ休憩し、京都東ICで高速道を下りた。時間は11時少し前、京大生の娘さんの住まいが銀閣寺の近くとかで、娘さんと合流した後予定を変更して銀閣寺へ行くことに。娘さんは来週から教育実習とか、実習は郷里の出身母校でとのことで、選んだのは出身中学校、期間は3週間、このバスでいったん帰郷ということになった。
 『銀閣寺』:正しい寺名は「東山慈照寺」というそうだ。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、世界文化遺産になっている。訪れたのは大学の山岳会の総会が京都嵯峨の地であった時以来だ。総門から中門への参道の両脇に聳える背の高い生垣が印象的である。境内では径を辿り展望所へ上がった。ここからは境内を一望できる。観音菩薩を祀る銀閣(観音殿)の落ち着いた佇まいをを見ると心が休まる。踏襲したという金閣とは別の佇まいだ。
銀閣寺を出て、バスは西へ向かい、京都大学をぐるりと回って、昼食場所の「六盛」に向かう。
 『六 盛』:場所は平安神宮西横、疎水北側とある。名を聞いたことはあるが、訪れるのは初めてだ。創業は明治22年(1899)とか、京料理の老舗である。この六盛の名は、明治25年(1892)に学区制が敷かれた際、この学区内の6地区の繁栄を願って出来た組織「六盛会」に由来するという。二階へ上がる。部屋は明るくて開放的、本来は畳敷きなのだろうが、テーブルと椅子が設えてある。京料理そのものの、小奇麗な籠盛り弁当が出る。そして私たちは京の地酒の冷酒を当てに弁当を戴いた。
 六盛を出て、すぐ近くなのだがバスで移動して、京都市動物園と疎水を挟んで向い側にある「無リン庵へ行くグループに分かれる。子供らの親子は動物園へ行く。
 『無リン庵』:ここは元老・山県有朋が京都に造営した別荘であって、広い敷地の大半は彼自身の構想により、造園家の小川治兵衛が作庭したものだという。疎水から水を引き、滝、せせらぎ、池、芝生を配した池泉回遊式庭園である。この庭は明治時代の名園として国の「名勝」に指定されている。建物は母屋と茶室と洋館、中でも洋館は明治31年(1898)の建立で、二階には江戸初期の狩野派による金碧花鳥図障壁画で飾られた部屋があり、ここでは明治36年(1903)4月21日に、元老・山県有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎の4人による日露開戦直前の我が国の外交方針を決める無リン庵会議が開かれたという。
 その後シニアグループは、お茶屋「静閑院」に入り、抹茶の乗ったソフトクリームをゆっくり腰を下ろして堪能、だが私には天敵だ。
 再び合流してバスに乗り、長躯洛北の大徳寺へ向かう。でも時間はやがて午後4時、大方の塔頭は閉まっていたが、まだ拝観できる龍源院へ行く。
 『龍源院』:洛北にある臨済宗大徳寺の塔頭で、大徳寺では最も古い寺であるそうだ。方丈や表門などの建物は室町時代に作られた檜皮葺き、重厚だが素朴さが漂う。方丈前の石庭は「一枝坦」と言われ、左に大きな楕円形の「亀島」、そして右奥には石組の「蓬莱山」、右手前には石組の「鶴島」を配し、綺麗に掃かれた白い小石は大海原を模しているという。しばし縁に腰掛けて、不要なもののない庭と対峙する。また方丈の北側には「竜吟庭」がある。一面の杉苔の海原の中央奥には、須弥山を模した奇岩が聳えている。そして手前に遥拝石が配されている。そして方丈の東には、我が国最小という深く吸い込まれそうな感じの石庭「東滴壺」がある。また書院の間には、ショーケースの中に天正11年(1583)の銘のある種子島銃が飾ってあったが、かなり大きく重たそうだ。後年の銃よりはるかに大きい。また豊臣秀吉と徳川家康とが対局したという四方蒔絵の碁盤と碁筒も展示してあった。
 大徳寺を出て、今宵の宿の緑風荘へ向かう。
 『緑風荘』:小奇麗な西洞院通りに面した宿、西本願寺と東本願寺の中間の北側に位置している。よくある大団体用の宿ではなく、部屋も大部屋ではない。男性4人が一緒の部屋。先生もようやく運転手から解放された。本当にお疲れさんでした。6階にある展望風呂から上がり、先ずは持参の「菊水」で乾杯し、次いで次女の旦那が持参した「キス・オブ・ファイア」とかいうブルーの洒落た瓶に入った酒を頂く。欧米では人気の逸品とか、私は始めて接するサケだった。「常きげん」の蔵の作品とかである。夕食前にホロ酔いになってしまった。夕食は季節感のある京会席料理、充分に堪能した。はじめパンフレットを見たときは、町方のありふれた旅館と思っていたが、どうしてどうして、料理も応対もとても良くて、またぜひ訪れたいと思った宿である。

2012年6月13日水曜日

平成24年ゼレン会イン加賀

ゼレン会というのは、昭和34年(1959)に金沢大学薬学部を卒業した同窓生の会の名称である。卒業の34年に因み、元素番号34から元素名を頂戴し「ゼレン会」としたものだ。ところが私がこの経緯を聞いたのは随分後のことで、卒業生の総意で決めたことだから、知らないのは、卒業式に出席できなかった私のみということだった。私はというと、卒業時には、胃潰瘍と十二指腸潰瘍で洗面器一杯の吐血をして大学病院に入院していた。当時は大きな潰瘍は切除するのが通例、それは朝の連続テレビドラマを観ている方なら、当時の治療方針がそうだったということは理解してもらえよう。私も母親も切腹は覚悟していたのだが、丁度時は年度末、外科学会の総会があって、主治医の先生が10日ばかり大学を留守にされ、その間に快方に向かったことから、帰られた先生から手術はしなくてもよいかも知れないと言われ、切腹を免れたという経緯がある。
 さて、何時頃からか、ゼレン会は毎年の開催になった。それまでは2年置き、ただゴルフコンペは毎年やっていたようだ。それで現在は開催を地元とそれ以外の地とで交互に行なうことにしている。それで今年は石川の地での開催である。現在地元には同窓生が4人いるが、よく顔を会わせるのは3名で、通称トクさんのN君がゼレン会の会長をしていることもあって、すべて彼が中心となって行なわれる。O君も私も彼任せで、オンブにダッコだ。一夜の宿はダイヤモンドオーナーズホテル片山津温泉ソサエティという会員組織の宿、これは「東伸」という会社の現社長である同窓のFさんの世話である。彼女は岐阜の大垣に在住しているが、旦那他界の後は社長を継ぎ、年に数回は外国へも商談に行くというキャリアウーマン、この宿は旦那存命中から会社ぐるみでよく利用しているとか。それで彼女の提案もあって、実に割安の料金で利用できることになった。
 5月25日金曜日、私は午前中ぎょう虫の鏡検をし、午後会場へ向かった。前日にはゴルフ組が前泊していて、当日はゴルフ三昧、でもいつもは8人2組なのに、今年は4人1組、不参加なのは身体の調子が良くないからとか、参加人数はこれから年々減るようだ。現在ゼレン会の会員は29名、今回の参加者は15名、半数が集まったことになる。アシは車と電車、長駆仙台や四日市からも車での参加があり、後期高齢者と言えども、まだまだ元気だ。私が着いたのは午後3時、もう半数の人が着いていた。何にもお世話できなかったので、せめてもの罪滅ぼしに残りの人の到着を待つことに。駅への出迎えはホテルの方でやってくれ、当初は私たちがしなければと思っていただけに、これは助かった。
 入湯の後、全員浴衣に羽織掛け(浴衣のみでは廊下へは出られない)、これは彼女の希望だった。宴席はテーブルで椅子席、献立も「ゼレン会様」となっていて、彼女の采配が伺われる。品は一品ずつ出され、都合十二品、お酒も清酒、ビール、ワイン、焼酎など充分に堪能した。2時間半の宴席、済んでは幹事部屋でのお喋り、久しぶりに時を忘れて話し合った。宴会でも皆さん近況を話したが、かいつまんで少し紹介してみよう。
●世話人のO君:彼は飛騨高山の出身だが、卒後居座り、金沢の人になってしまった。四国八十八箇所巡りを三度も、それも徒歩で完遂したという剛の者、一方で今でも名の通った合唱団のメンバーの一員であり、また俳壇でもこの人ありと知られた存在、翌日の半日観光でも、常にメモをとるという熱心さ、頭が下がる。
●仙台在住のO君:東北大震災に遭遇、幸い住居は高台にあって、津波の被害はなかったものの、当時の生々しい状況を聞かされた。停電10日、断水20日、それにモノ不足が深刻だったという。今は生活は元に戻って、囲碁とゴルフが生活の中心だとのことだが、前日のゴルフコンペでは往年の影がなかったとは同行者の弁、どうしたのだろうか。
●富山在住のNさん:旦那さんは同級生で、あの金大トップで入学したN君、他界されてしまったが、彼女は今娘さん夫婦と一緒にお住まいとか。ガンで手術され、その近況を身辺句として披露され、彼女の日常と折々の感情を吐露してくれた。
●前橋在住のK君:会社経営は息子さんに任せ、県の学薬会長も後進に譲り、自由な時間を謳歌していると思いきや、腰痛からくる間欠跋行と下肢の痺れ・痛みなどで杖が必要な毎日、それで温泉治療をしながらのリハビリ、一見そんな風には見えないけれど、好きなゴルフが出来ないなど、本当なのだと思わざるを得ない。
●関西在住のK君:同窓では一番のゴルフのやり手じゃなかろうか。奥さんも中々の腕前だとか、夫婦揃っての同じ趣味とは羨ましい。ところで車の運転は片道100kmを超える運転は許可にならないとか。それで今回は電車での参加、夫を想う気持ちが伝わる。
●四日市在住のN君:まだ現役で週3日の管理薬剤師。ゼレン会には以前は自動二輪での参加だったが、今は四輪にしたとか。まだ勤務しているのは、趣味のゴルフと社交ダンスの費用捻出のためとか、目的があるということは素晴らしい。
●会長のN君:世話好きで、この人が居ないと会が立ち行かない。あの震災があった3月11日が誕生日だったとは。昨年は石川県薬の会長をされていた兄貴さんが急逝され大変だったが、それでも彼は会の開催に尽力してくれた。頭が下がる。
●所沢在住のT君:学生の頃はスポーツマン、今は肥満タイプだし、薬も9種類飲んでいるとかで、一見不養生なようだが、見せてくれた検査データを見る限りは、私よりずっと健康状態が良い。でも彼は今年はゴルフに参加しなかった。その理由の一つはゴルフ場でのカート利用が必須なのだとか。
●さいたま在住のTさん:もう薬局も閉められ、山などへもよく出かけられていたけど、今は代わりに観光地へ出かけているとか、これは「暇人の仕事」と嘯かれる。元気そうで、毎回参加される常連だ。
●富山在住のN君:学生の頃から「御大」で通っている。金大トップ入学のN君の相棒でもある頑張屋だ。彼は日医工の専務で辞めたが、現役中は訛りのある英語を駆使して世界中を飛び回った。役職に就いて間もなくゴルフをせざるを得なくなり、3週間の練習でグリーンに出たとかだが、その時のスコアが190だったとか。でもアメリカの名門コースでホールインワンを成し遂げ、証明書を頂いたことがあり、努力と運の持ち主でもある。その彼が一昨年大腸癌に。部位は上行結腸、手術のため常用していたアスピリンを一時中止したところ、心臓に生じた血栓が脳に飛んでの脳梗塞、もしもを予想して息子に遺書までしたためたとか。大腸癌の方はリンパ節転移もなく、小腸と結腸を吻合した後は、脳梗塞の影響は若干出ているものの、今はほぼ八割方近く回復したという。
●福井在住のN君:彼は心臓弁膜症で手術をしたという。彼とは学生時代に一緒に山へ行ったことはないのだが、いろいろ話を聞いていると、一念発起して階段上り下りのトレーニングで足腰を鍛え、以来私よりは遥かに広範囲の山々を踏破しているのには驚いた。今もまだ出かけているとかだが、とにかく恐れ入った。彼は金沢生まれなのだが、卒業後はずっと福井に住み、福井の人になってしまった。
●福井在住のKさん:旦那さんを亡くし、薬局も閉め、今は一人暮らしとか。以前は山へも出かけたそうだが、今は本を読み、音楽を聴き、趣味の書道をし、小旅行をし、充実した日々を送られているとか、羨ましい。今は家庭菜園も始め、これがとても楽しいとか。
●富山在住のM君:彼は製薬会社を辞めてからは郷里の福光で調剤薬局を経営している。彼は学生時代には山へはあまり行っていなかったように思うが、就職してからはよく行き、日本山岳会にも所属しているはずだ。今でも昔の仲間と春と秋には登山しているという。私よりはるかに元気だ。また彼の特技は絵を描くことで、今回も寄せ書きの挿絵も彼が描いたが、正に玄人はだしである。そして驚いたことに、彼の父は101歳とか、お元気で毎日一合の晩酌を楽しまれているとか、彼も長生き筋だ。

 翌日は半日観光、3人が帰り、残り12人が3台の車に分乗して那谷寺を拝観し、次いで加賀市橋立にある北前船の里資料館を見学した。私にとっては初めての入館、北前船が単に物資の輸送をしたのではなく、その商品を必要とする土地での商いをする商社の働きをも兼ね備えていたという。その利ざやで巨万の富を築いたのだそうだ。でも鉄道の敷設で、この海上輸送の役目は終わったという。
 昼食は宿から推奨されたという、資料館とは程近い小塩町の山本屋へ入った。何か歴史を感じさせる店で、橋立港に隣接しているので、新鮮な魚料理もさることながら、ずわい蟹の蒸し焼き2尾が3人に1盛り出たのにはたまげた。とても食べ尽くせなかった。しかも当てがノンアルコールでは・・。そして加賀温泉駅で解散。次回は再度O君の世話で、再び仙台で開催することになった。元気で再会したいものだ。

2012年6月6日水曜日

ラ・フォル・ジュルネ金沢 2012 サクル・リュス

ラ・フォル・ジュルネ(LFJ)は1995年にフランスの港町ナントで誕生したという。ナント市は金沢市とは姉妹都市でもある。このLFJを創出した仕掛け人は、この地で生まれたルネ・マルタンで、初めはナント市だけでのイベントだったが、それがフランス国内に広がり、さらに国外にも広がっていった。日本には東京に2005年に上陸、そして金沢では2008年に初めて開催された。以後、5月3日~5日のゴールデンウィークに開かれるLFJ金沢には、多くのアーティストが集まり、世界の一流の演奏家たちの演奏を、1公演約45-50分で、しかも低料金で聴くことができる。これまではモーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ショパンといった作曲家をメインテーマにしたものだったが、今年のテーマはフランス語でサクル・リュス、日本語では「ロシアの祭典」と銘打っている。この日本語訳はストラヴィンスキーのバレー音楽の名作「春の祭典」のフランス語題名に因んでいる。これまでのテーマとの違いは、作曲家個人ではなくロシア音楽としたことで、ロシア音楽の歴史の様々な切り口を知ることが出来ることである。公式パンフレットには、先頭にラフマニノフ、右手にチャイコフスキーとリムスキー・コルサコフ、左手にストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチが揃い踏みしている。LFJ金沢には上記6人のほかにも、ロシア音楽の父とも言われるグリンカ、ロシア五人組のバラキレフ、ボロディン、ムソルグスキー、ほかにも、グラズノフ、スクリャービン、カバレフスキー、シュニトケ、リャードフなど、普段なかなか聴けない作曲家の曲も演奏される。
 オーケストラ・アンサンブル金沢の定期会員の場合、5月3日ー5日の公演については、一般会員よりも早くに予約が可能で、私はコンサートホールの5公演を予約した。1公演あたりの料金は1,500~3,000円である。印象としては、年々聴衆の数が増えているようで、県外からもバスをチャーターして来る人たちや、金沢駅に近いこともあって電車で来る人も目立った。終了後に発表された観客動員数は延べ12万人とか、年々増えていて、このイベントが金沢に定着した印象を受ける。以下に私が聴いた公演の印象を述べる。
 5月3日(木・憲法記念日)石川県立音楽堂コンサートホール
・公演112(12:00-12:45)ウラル・フィルハーモニー管弦楽団.ドミトリー・リス指揮.庄司紗矢香(Vl). ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調 op.77.
 このオーケストラは現監督が就任してからというもの、田舎の楽団から脱皮して大きく飛躍したと言われる。毎年訪れているが、今年は庄司紗矢香との協演、しかも来日直前にこの曲をリリースしたと聞いていたので、ぜひ聴いてみたかった。曲は1948年に作曲され、ダヴィド・オイストラフに献呈されたが、前衛的な内容から作曲家批判が起き、初演は1955年になったという曰く付きの曲である。庄司紗矢香は1999年に16歳の若さでパガニーニ国際コンクールに優勝していて、今や世界で活躍する日本を代表するヴァイオリニストの一人である。ウラル・フィルは四管編成の大オーケストラ、特に今年はテーマ国の楽団でもあり、存在感が大きかった。この曲は難曲なうえに、オケとの間合いの取り方が難しいのに、弾ききったのには感激した。特に第3楽章の終わりのソロのカデンツァは特に技巧が必要で、その弾きぶりに皆が釘付けになった。だから終わった後、一瞬の静寂、そして万雷の拍手、拍手が鳴り止まず、感動で席を立つ人はなく、次の公演がありますのでとまでとまで言わせてしまった。ウラル・フィルはこの日、井上道義の指揮で「交響曲第12番」も演奏した。
・公演113(14:00-14:45)台北市立交響楽団.西本智実指揮. チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調 op.74「悲愴」.
 ロシアを中心に活躍してきた人気女性指揮者の彼女が、台湾を代表するオーケストラを指揮した。演奏する曲は彼女の得意とする人気の曲、でも先のウラル・フィルと規模は同じなものの、聴き比べると劣っているように思えた。私の興味は初めて聴く台北市立交響楽団の実力と西本智実のその後を見たかったのだが、この日は指揮棒なしでの指揮だったが、いつも左右対称の腕の振りと不自然なスコアのめくりが気になった。指揮棒を持っての方が良いのではと感じた。
 5月3日(土・みどりの日)石川県立音楽堂コンサートホ-ル<br /> ・公演212(12:00-12:45)オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK).山田和樹指揮.アンリ・ドマルケット(Vc). グリンカ:「カマリンスカヤ」ロシアの踊り歌の主題によるスケルツォ. リムスキー=コルサコフ:スペイン奇想曲 op.34. チャイコフスキー:ロココ風の主題による変奏曲イ長調 op.33.
 山田和樹は2009年の第51回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、日本やヨーロッパで活躍している。現在OEKのミュージックパートナーである。また今秋には、スイス・ロマンド管弦楽団客演指揮者、日本フィルハーモニー管弦楽団正指揮者に就任の予定である。チェリストのアンリ・ドマルケットは初めて聞く名前の人である。私がこの公演を聴いた目的はヤマカズで、その指揮ぶりに興味をもった。3曲ともよく演奏されるポピュラーな曲で、ヤマカズはもう何度もOEKを振っていて、よく息が合っていた。端正で若々しい指揮ぶりには好感が持てる。スコアはめくるものの、コバケンの指導よろしく、指揮に専念する様子が伺えて頼もしい。まだ33歳、これからの飛躍が期待される。また第3曲目のチャロとの協演もチェリストを慮っての指揮、見事だった。昨日は二つの大編成のオーケストラを聴き、今日はその半分にも満たない編成のOEKとを聴き比べて、音の響きの違いを実感した。演奏者の技量もさることながら、楽器にも一因があるような印象を受けた。第2曲目のヴァイオリン・ソロなどは特に光った。
 5月4日(土・こどもの日)石川県立音楽堂コンサートホール
・公演314(14:45-15:30)オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK).井上道義指揮.ロマン・ルルー(Trp)小曽根真(Pf). チャイコフスキー:弦楽セレナードハ長調 op.48. ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番ハ長調 op.35.
 OEKは1988年に岩城宏之を音楽監督として創設された日本初のプロ室内オーケストラであって、国内ばかりでなく海外でも活躍している。岩城宏之他界の後、2007年からは井上道義が音楽監督を務め、彼はこのLFJ金沢ではアーティスティック・プロデューサーとして音楽祭を牽引している。また小曽根真(おぞね・まこと)は世界で活躍する我が国を代表するミュージシャンである。テレビのインタビューでは、近頃は即興とは縁遠いクラシックにも1年に1本の割りで本格的に取り組むとしており、CDもリリースしている。演奏は熱狂的で、凄い迫力がある。ロマン・ルルーは初に聞く名前、フランス生まれの29歳、2009年にはフランス最大の音楽賞「ヴィクトワール」の新人賞を受賞しているという。
 第1曲の弦楽セレナードはOEKが初めてCDの録音をした際、県内に適した録音場所がなく、中でもましだった野々市町文化会館の「フォルテ」を利用したのでよく覚えている。この時はモーツアルトの交響曲第40番も録音された。利用されたのはこれ1回のみだ。この曲はモーツアルトへの愛情から作曲されたとされる。特に第2楽章のワルツが有名である。井上道義の指揮は指揮棒なしで、ジェスチュアが大げさであるが、的確で好感が持てる。第2曲のショスタコーヴィチのピアノ協奏曲はトランペットも入る変則的な曲だが、勿論メインはピアノ、小曽根のピアノは実に大胆な弾きぶり、聴衆を圧倒した。演奏が終わるや正に熱狂的な拍手の嵐、久々に興奮した。彼はクラシックを弾くと、ジャズでは使わない筋肉を使うと言い、それがまたジャズに新鮮味をもたらすとと言う。終了後のサイン会には長蛇の列、サインの後には一人一人と握手、彼の人柄が滲み出ていた。
・公演315(16:45-17:30)京都市交響楽団,井上道義指揮. グリンカ:歌劇「リュスランとリュドミラ」序曲. ムソルグスキー(ラヴェル編曲)組曲「展覧会の絵」.
 このオーケストラは1956年に日本で唯一の自治体直営の楽団として設立された。したがって団員は京都市の職員で、その地位は安定している。現在OEKの音楽監督をしている井上道義は、前任は京都市響の音楽監督であり、古巣のオーケストラを振ったことになる。京都市響も四管編成の大オーケストラで、2曲とも大編成に相応しい演奏を披露してくれた。ただ若い女性が多く、専属で専念できる環境でありながら、プロ意識が足りない印象を受けた。井上道義が古顔が少ないと言っていたが、そのことが気になった。
 こうして今年のラ・フォル・ジュルネ金沢「熱狂の日」音楽祭 2012 は終わった。今年は昨年に懲りてクロージング・コンサートは敬遠したが、来年のテーマはフランスだとか。

2012年5月7日月曜日

日本の大学合格者数でみた大学の広域性(続)

(承前)  全ブロックでの合格者が示された7旧帝大と3国立大では、筑波大、北海道大、東北大の3校は広域性が極めて高かった。次いで東京大、京都大、大阪大、一橋大も広域性が高かった。一方で九州大と名古屋大は広域性はあるものの、自ブロックからの合格者が多かった。その他の国立大で広域性が高かったのは、横浜国立大、首都大東京、信州大、東京外国語大、神戸大などであった。  なお、記載のなかった国立大が14校、公立大が61校あった。
  C.私立大学の広域性:
 週刊朝日に掲載された私立大学で、2ブロック以上に掲載された大学は49校、1ブロックのみが、北海道に2校、東北に2校、北関東に1校、北陸甲信越に1校、中京東海に6校、近畿に4校、九州に5校、計24校あった。49校のうち、全ブロック掲載校は在京の10校(前出)で、次いで7ブロック掲載がやはり在京の芝浦工業大、駒沢大、専修大、帝京大、東海大の5校、6ブロックが在京の東京都市大、東京電機大、日本大と在関西の関西大、関西学院大、同志社大、立命館大、近畿大の8校である。
 広域性が高かった私立大学は、指数9台が2校(立命館大,東海大)、7台が2校(東京理科大,中央大)、6台が2校(芝浦工業大,帝京大)、5台が3校(明治大,法政大,同志社大)あった。広域性が中程度にみられる指数3.0~4.9の私立大学は、高い順に、4.9が大東文化大,東京電機大、4.8が早稲田大、4.7が工学院大,慶応義塾大,青山学院大、4.6が近畿大、4.4が津田塾大、4.3が東洋大,専修大、3.7が関西学院大、3.6が立教大、3.4が日本大、3.2が京都産業大、3.1が東京都市大、3.0が神戸学院大の16校であった。広域性が低かったのは、2.8の立正大、2.6の駒沢大,東京女子大,関西大の3校、極めて低かったのは2.3の成城大,上智大、2.2の明治学院大、2.1の龍谷大、1.8の広島経済大,成蹊大、1.7の桃山学院大,大阪経済大、1.5の武蔵大、1.4の北里大,学習院大、1.3の日本女子大、1.2の甲南大,摂南大の14校である。また広域性がなかったのは、0.9の大阪工業大、0.8の広島国際大,広島工業大,中京大、0.2の広島修道大、0.1の南山大の6校である。
  D.大学のランキング:
 「大学ランキング」には、大学に対して行なったアンケートを基に、教育、校地・校舎面積、図書館について、学生/教員、校舎/学生、貸出冊数/学生の割合を基にランク付けを試みている。そして上位30%の大学をA、次の40%をB、それ以下をCとして評価・表記している。先に記した2ブロック以上に記載があった国公立大学37校について見ると、教育Aは25校、校舎Aは27校、貸出冊数Aは17校であった。そしてスリーAだったのは、広域性の高い順に、筑波大、北海道大、東北大、東京大、京都大、大阪大、神戸大、九州大、金沢大、名古屋大、広島大、大阪府立大、東京農工大、大阪市立大の14校である。旧帝大は全てこの範疇に入っている。ほかは国立大6校と公立大1校である。一方、私立大学49校について見ると、教育Aは1校のみ、校舎Aは2校、貸出冊数Aは17校あるが、スリーAはなかった。これは学生数が多いことに起因していると思われる。
 また「高校からの評価」というのがあり、全国727校の進路指導教諭から10件以上名前が上がった大学で、「生徒に勧めたい」「進学して伸びた」「広報活動が熱心」の項目で5段階評価(5:上位7%、4:次の24%、3:次の38%、2:次の24%、1:残りの7%)し、総合評価はランキング評価に準じた。その結果、国公立大学でランクAになったのは、広域性の高い順に、東京大,京都大,神戸大,新潟大,九州大,名古屋大,千葉大,広島大の8大学であった。でも広域性が高い筑波大,北海道大,東北大が入っていないのは奇異に感じられた。ちなみに金沢大はBランクであった。一方、私立大学では、広域性の高い順に、立命館大,東京理科大,中央大,明治大,法政大,同志社大,早稲田大,慶応義塾大,関西学院大,立教大,関西大の11大学であった。ここでは在東京、在関西の名門校が該当しているように感じられた。

 以上、週刊朝日が調査した全国3,232高校の主要大学合格者数から、大学のもつ広域性について、独自に解析を試み考察した。また、2011年度の大学ランキングから、大学のランクと高校からの評価を参考までに引用し評価した。

日本の大学合格者数でみた大学の広域性

朝日新聞出版では毎年「大学ランキング」なるガイドを出しているが、2011年版によると、日本には大学が746校あるとされ、これら大学について、多項目にわたる評価がされている。一方、週刊朝日では、毎年全国の高校の国内大学への合格者数を調査して、その結果を掲載している。今年は 4/20増大号に全国3,232校の国内の主要大学148校への合格者数を掲載した。高校は都道府県別に記載されていて、ブロックごとに国公立大学22校と私立大学30校を対象にして合格者数が掲載されている。このうち全ブロックに共通なのは、国公立大学では10校で、旧帝大7校(東京,京都,北海道,東北,名古屋,大阪,九州)と東京工業大、一橋大と筑波大(旧東京教育大)、一方私立大学は在京の10校で、早稲田大学、慶応義塾大、上智大、東京理科大、明治大、青山学院大、立教大、中央大、法政大と東洋大である。このほかに、ブロックごとに、地域に根ざした地方大学を国公立64校、私立72校を選択して記載している。
 週刊朝日では、全国を9ブロックに分けているが、私は中四国を中国と四国に分け、10ブロックにして集計した。でも後で分かったことだが、山陽の3県と四国の4県とは瀬戸内海を挟んではいるものの、極めて密接な関係があることが分かった。またブロック分けは、週刊朝日独自のものと思われるが、区分はともかく、ブロック名は特に断ってないので、普遍的に用いられている名称もあるが、独自に付けたものもある。以下にブロック名と所属する高校数(括弧書き)、包括される都府県と高校数(括弧書き)を記載する。   [1]北海道(159).[2]東北(197):青森(33),岩手(31),宮城(43),秋田(25),山形(26),福島(39).[3]北関東(164):茨城(74),栃木(45),群馬(45).[4}南関東(932):埼玉(164),千葉(146),東京(398),神奈川(218),海外(6).[5]北陸甲信越(222):新潟(53),富山(27),石川(40),福井(27),山梨(27),長野(48).{6]中京東海(371):岐阜(57),静岡(109),愛知(162),三重(45).{7]近畿(581):滋賀(39),京都(81),大阪(214),兵庫(172),奈良(41),和歌山(34).[8]中国(198).鳥取(18).島根(23),岡山(41),広島(77),山口(39).[9]四国(93):徳島(17),香川(23),愛媛(37),高知(16).[10]九州(315):福岡(105),佐賀(20),長崎(34),熊本(33),大分(32),宮崎(28),鹿児島(42),沖縄(21).
  A.広域性を示す指数の算出と評価:
 記載のあった3,232高校の各大学への合格者数をブロックごとに集計し、各大学が所属する自ブロックの合格者数と他のブロックの合格者数を比較し、他ブロックの合格者数が自ブロックの合格者数に対して占める割合を出した。そして他ブロックの合格者数を自ブロックの合格者数で除し、その数字を10倍した数を「広域性を示す指数」とした。もし他ブロックと自ブロックが同数ならば、その指数は10.0となる。また他ブロックの合格者数が自ブロックの半数ならば、指数は5.0となる。 このような作業を国公立大学と私立大学とに分けて算出した。指数が10.0以上(他が自と同数以上)を「広域性が極めて高い」①とし、①未満で指数が5.0(他が自の半数)以上を「広域性が高い」②とし、②未満で指数が3.0(他が自の3分の1)以上を「広域性がある=中程度」③とし、③未満で指数が2.5(他が自の4分の1)以上を「広域性が低い」④とし、④未満で指数が1.0(他が自の10分の1)以上を「広域性が極めて低い」⑤とし、⑤未満(他が自の10分の1より少ない)を「広域性がない」⑥とした。
  B.国公立大学の広域性:
 週刊朝日に収載された国公立大学74校のうち、自ブロックにのみ収載された地方大学は37校で、他ブロックからの合格者はあると思われるが、この集計に入ってはいない。一方1以上の他ブロックから合格者があったのは37校で、全10ブロックが10校、7ブロックが2校、6ブロックが2校、4ブロックが1校、3ブロックが6校、2ブロックが16校であった。
 このうち広域性が極めて高かったのは、筑波大(34.3),北海道大(13.2),東北大(12.1),香川大(10.2)の4校、次いで広域性が高かったのは、横浜国立大(9.6),岡山大(9.4),東京大(9.1).京都大(8.7),大阪大(8.3),愛媛大(7.4),首都大東京(7.4),高知大(6.8),山口大(6.6),信州大(6.5),東京外国語大(6.4),一橋大(6.1),神戸大(5.6)の13校、また広域性が中程度なのは、東京工業大(4.7),新潟大(4.6),電気通信大(4.5),九州大(4.2),金沢大(4.0),埼玉大(4.0),名古屋大(3.7),徳島大(3.3),千葉大(3.3)の9校、広域性が低かったのは、広島大(2.9)と静岡大(2.8)の2校、また広域性が極めて低かったのは、茨城大(2.1),福井大(2.0),お茶の水大(1.9),大阪府立大(1.3),横浜市立大(1.2),東京農工大(1.0)の6校、広域性がなかったのは、鳥取大(0.8),大阪市立大(0.8),鳥取大(0.5)の3校であった。
 この数字から見て、広域性が極めて高い香川大では、岡山県からの入学者が多い結果であって、週刊朝日での括りのように、中四国として扱えば地元ブロックのみとなり、広域性はなくなる。また同じように広域性が高い岡山大は香川・愛媛から、愛媛大や高知大は岡山・広島からの合格者が多く、同じように中四国として扱えば広域性はなくなる。ただ山口大は四国各県からの合格者は少なく、むしろ北九州からの合格者が多い。広域性が中程度の徳島大も岡山からの合格者が多く、同じように考えられる。また広島大は当初から広域性が低いし、鳥取大と島根大には広域性はない。すると、中国の山口大を除く4大学と四国の4大学は、ブロックを中四国として扱うと広域性はないと言える。

2012年4月4日水曜日

湯涌温泉と「きよみず」のそば

毎年一度は、家内が勤めているF病院の仲良し有志に私も混じって、近くの温泉へ一泊で出かけることにしている。近くとはいっても大概は何故か湯涌温泉になってしまう。ただ昨年は3月11日に東北太平洋沖地震が起き、何となくそういう雰囲気ではなく、行きそびれてしまった。だが今年は行こうと張り切っていた。メンバーは独身女性二人と子持ち女性とその娘さん、それに家内と私の総勢6名である。この温泉行きに私が口を挟む余地はなく、皆さんに混ぜてもらうという立場にある。ところで今年はたまたま病院に出入りしている男性の方が、私の実家の宿へ来てくれませんかということで、即決で決まったとのこと、宿は湯涌温泉の秀峰閣である。それで家内からこの宿はどうかと言われて、私は新地に出来て2年目に、県にいた前の職場で行ったことがあるのを思い出したが、印象としては良かったという感じが残っていると話した。
 予定日は3月31日と4月1日の土日、病院は土曜は午後3時に終わるので、3時半か4時頃に車2台で行こうということになった。ところが家内は食べ合わせなのか、木曜の午前0時頃に、身体全体に蕁麻疹のような痒みが出て、病院へ行って痒み止めの注射をしてもらったものの、一向に良くならず、朝方には不整脈も出て、早朝に病院へ入院する破目になった。点滴でもすれば簡単に本復すると思っていたが、夕方様子を訊くと、最高血圧が70~80とかで、とても退院できないとか。ここへ来て、ひょっとして温泉行きはボツになるのではと思った。でも家内は気を利かし、私は無理だが、後の皆さんは行ってきたらという算段をしてくれた。弱ったのは私で、家内が居てこそ付録の私は気遣いせずに居られるのに、居ないとどうなるのか極めて不安だった。家内では、彼女らは私が居ても一向に差し支えないとか、こうなればもう清水の舞台である。総勢5名なので、私の車でと思っていたが、若い女性が運転するとかで、甘えることにした。病院から2人、私は自宅で拾ってもらい、休みだった子連れ女性を自宅で乗せ、そして湯涌へ向かった。私は全くの手ぶら、家内はお金は主任の方に預けてあるとかで、あんたはただ皆さんと仲良くやっていけるように腐心してもらえばよいと。宿には午後5時少し前に着いた。
 部屋は4階の角部屋、大きい部屋と中部屋が二間、ゆったりとしている。食事はこの部屋でとのこと、今日は込み合っていると言われる。食べ物、飲み物、景品等々、沢山の持ち込み、女性の皆さんのお世話である。私は早々にお風呂へ、そして先に上って持参の神の河で早速一献、彼女らはやがて小一時間ばかりのごゆっくりだった。夕食は6時半、早々と部屋にセットされる。白一点、内心心配したが、少々酔って気が和み、何とか溶けこめそうだ。運ばれた料理を見ると、金額の割には中々豪華な感じ、量も食べ尽くせない程だ。家内も彼女らも、ここが実家という男性にちゃんとサービスするように言ったとか、そのせいなのか、品数も多いような気がする。ともあれ女将さんも挨拶に来られ、また料理の質も量も申し分なかった。ついこの前、この温泉の料理を売りにしている宿に泊まったが、料理は細工過剰で、素材が生かされず、高いばかりであれは戴けない。やはり料理は素材が生かされてこそ食欲も沸こうというものだ。その点では満足いくものだった。食後はビンゴやブロック遊びで時を過ごした。お酒も充分戴いて、実に楽しい一晩となった。
 翌朝、5時の一番風呂に入り、運転しなくてもよいのにつけ込み、朝酒を戴く。食事は8時、朝も清々しい料理、美味しくゆっくり戴く。10時半に宿を出る。雨が落ちてきた。宿の裏手にある湯涌江戸村へ廻る。懐かしい田舎家の間取り、また農機具等の展示の品々、もう今ではそのほとんどは目にすることは出来ない貴重な財産だ。全部見るのにやがて小一時間、まだ昼には時間があるが、「きよみず」でそばでも食べないかと提案する。もし一杯だったら、その斜め向かいにある「銭がめ」にでもしようか。賛同され、板ヶ谷へ向かう。
 「きよみず」は土日は予約しないと入れないことが多いが、この日は珍しく誰も居なかった。この家は清水さん自作の家、彼女らはびっくりしたことだろう。ここの鴨は美味しいのだが、冷凍してあるので、予約でないと無理だとか。そばなら出来るとかで5人前お願いする。それとお酒、青竹の筒に入った燗酒、一合と思ったがもう一合となった。ツマは朝山で採って来たセンナ、カンゾウ、フキノトウ、新鮮で香りが良い。容器はみな青竹、そばは田舎の二八の中太、美味しかったので、小学3年の娘さんも全部平らげてしまった。主人が言うには、もうこの店を閉めようかと思っているとか、ずっと此処に住んでいて、住民票も此処へ移したと言っていたのに。でも町にも家はあると言う。清水さんの信条は「人生万事塞翁が馬」だが、まさか今日が4月1日と知っての発言だったのだろうか。4月中にもう一度訪ねて真意をお聞きしたいものだ。

2012年3月22日木曜日

越前探蕎:「一福」と「森六」

平成24年の第1回の探蕎は、春分の日の3月20日に越前の「谷川」ということになっていた。ここには会では平成11年と平成15年の2回訪れている。店主は脱サラで始められたそうだが、中々こだわりの方で、自家製粉の十割そばを提供していた。それだけに久しぶりの訪問を楽しみにしていたのだが、直前になり団体さんお断りとのことで、行き先は急遽池田町の「一福」に変更になった。この日の参加者は10名、近場の探蕎なのに、参加者は少なめだった。

「一福」(福井県今立郡池田町稲荷)
 この日は上々の天気、白山市番匠町の「和泉」に集合し、車2台に分乗して9時に出発する。北陸高速道を福井ICで下り、旧美山町から足羽川を遡上して池田町に至る。ここは標高300mの高原、通称日本のチベットと言われている町、薪能でも有名な地である。またここは岐阜県との県境に聳える冠山(1257m)に登るにはどうしても通らねばならない町でもある。それはそうと、初めて新装なった「一福」へ寄ったときは、場所も分からずに随分町中をうろうろしたものだが、今回はあっけなくすんなり着いてしまった。この時期ここではまだ冬の名残の雪がそこここに、駐車場にもまだ沢山残っている。時に11時10分前、丁度二代の篤文・幸枝夫妻が駐車場においでて、どうぞ中へと招き入れられる。程なく暖簾も出された。中は明るくて広く、土間には厚くて大きな一枚板のテーブルが2脚、ゆっくり12人は座れる。小上がりには2人掛けと4人掛けの座机がそれぞれ3脚、都合30人は入られよう。旧店は10人も入られたろうか、ずいぶん狭かった。私たちが店へ入ると、先ほどの女将が「久保さんじゃないですか」と言われる。久保副会長は以前池田のお米を送ってもらっていたことがあるとか、これには驚いた。
 私たちは小上がりに上がる。予約席となっていた。席に着くと早速溶いた蕎麦湯が運ばれる。湯飲みは越前焼き、趣がある。これに蕎麦焼酎を割ると最高なのだが。蕎麦前は吟醸生原酒の「一福」、旧今立町の酒蔵の酒で、4合瓶のみ、皆さんで1本お願いする。瀟洒なグラスが運ばれ、運転手の前田・和泉のお二方には申し訳なかったが、寺田会長の発声で乾杯する。甘口で芳醇な感じのお酒、少々戴くには中々美味しい口当たりだ。つまみはメニューには「葉山葵」が載っていたが、聞くと品切れとかで、代わって片葉の薄味の煮しめが出てきた。
 ここの本命は何といっても「塩だし」、これは皆さんがご注文になる。もう一品は、前田さんのみ「醤油だし」、後の方は私も含めて、一度も食したことがない「生醤油」にする。「醤油だし」は越前そばでお馴染みの出汁だったこともあり、もの珍しさがあっての注文であって、皆さんもそんな意図があったようだ。始めに「塩だし」が届いた。そばは田舎そばの太打ち、先代の富治さんが打っておいでた頃は、九一で自然薯をつなぎとしたちょっと硬めのそばだったが、今出てきたのは喉越しもよいところをみると、二八なのかも知れない。越前焼きの中皿に載ったそばに塩だしが掛かっていて、その上に大根おろし、刻み葱、幅広の鰹の削り節が載っている。それにしてもこの塩味は中々奥行きが深い。先代が試行錯誤して工夫し、単なる塩味ではなくて、こくのある、でもさらっとした味わいに仕上げられたものだ。この味は一朝一夕に出来るものではない。天然山葵も一役かっているという。私の住む野々市市の「敬蔵」でも、店主が数年前から塩味に挑戦しているのだが、まだ発展途上、とても「一福」の塩だしの味には及ばない。
 次いで「生醤油」、皿に載った格好は一見前の「塩だし」に似ているが、大根おろしの上に下ろした天然山葵が一摘まみ乗っかっている。パンフでは、地元の甘口醤油をサッとかけて食べるとあったが、もうすでにかかっていた。そばは同じだが、味は生醤油味、比較するとやはり塩味の方が奥が深い。
 終わって、会長・副会長は 生原酒の「一福」を求められる。そこで女将を挟んでワンショット。そこで、先代がおいでのときに、3回ばかり寄せて頂きましたと話していて、てっきりもう亡くなられたのかと思っていたら、店には出ないけれどまだ健在とか、これは失礼しました。今じゃ三代目も修行中とかで、手伝っていた。玄関前での集合写真を女将にお願いした。お礼に握手をして、お暇した。

「森六」(福井県越前市粟田部町)
 まだ陽は高く、もう一軒ということで、旧今立町の越前和紙会館へ寄り、その近くにある「あみだそば」へ寄ることにする。「あみだそば」には平成12年に会の行事で、故波田野会長が元所長であった福井県衛生研究所の職員の案内で、今立町を巡った折に、「あみだそば」と「森六」へ寄ったことがある。久保副会長の案内で和紙会館に着き入ろうとすると休館とある。祝日が休館とはと訝りながら、三椏の生垣が植わった和紙の里通りを歩きながら「あみだそば」へ向かうと、どうも様子が変である。訊くと、数年前に閉店したとか、いたし方がない。あの大きな丸いテーブルが印象的だったのに。
 それではと「森六」へ向かう。旧今立町にはそば屋は4軒あり、森六、勘助、大福の3軒は同じ粟田部町にある。久保さんの先導で向かうが、この前は地元の人の案内だったのでまかせっきりだったが、今回は森六のある通りの印象は残ってはいるものの、そこへ辿り着くのが容易ではない。車で通りを巡ると、勘助と大福はすぐ目についたが、本命の森六が見当たらない。ガソリンスタンドでも訊くが、知らない人が多いのに驚く。でも漸く場所が特定できた。駐車場に車を止め、私が先に店へ入るともう一杯、奥の丸テーブルの相席には4人位入れそう。10人と言うと、中ででも外ででももう少しお待ち下さいとのこと、取り合えず4人が奥の丸テーブルに座る。後の方たちは店には入って来なくて、外でお待ちなのだろうか。部屋には色紙が所狭しと飾ってある。その中には、平成3年に今上両陛下が福井へ行幸の折に、当店のおろしそばを差し上げたとの新聞記事も掲げてあった。初代の森田六三郎がこの地で「森六」を始めたのは明治4年(1871)とか、福井県でも有数の老舗である。
 現在のご主人は四代目とか、店には20人位しか入れず、混み合っている。メニューは「越前おろしそば」と「せいろ」の二種類である。「おろしそば」は二八でやや太打ちながら幾分平たく打ってある。色は一福より淡い。色柄の皿にそばが入り、大根おろし、刻み葱、削り鰹節が載っていて、それで醤油味という典型的な越前おろしそばである。たぐると喉越しは良く、程よい味付けである。おろしは、辛味大根の信州地大根かねずみ大根の搾り汁を、水分が豊富で甘味のある青首大根と辛味もあり身も美味しいという練馬大根の二種の大根にブレンドして、甘味、辛味、旨味を出しているとかで、特に「おろし」にはこだわりを持っておいでとか。しかも大根はこだわりの自家生産とかである。
 また「せいろ」は十割で細打ちだとか、どんな味がするのだろうか。それはまたの機会のお楽しみでもある。中でも「スペシャルせいろ」というのは山海の珍味が絡んでいるとか、ぜひ味わってみたいものだ。またこの時節、冬期の12月~3月には、「かけそば」と「鴨南ばん」が加わるとか、こちらも十割だそうである。
 奥の丸テーブルが空いたが、皆さんは入って来られず、今回の越前探蕎はこれにて打ち止めとなった。一般道を鯖江まで北上し、鯖江ICから北陸道へ、美川ICで下り、出発した白山市番匠へ戻った。着いたのは午後三時半少し前だった。

2012年3月16日金曜日

ガモフのビッグバン仮説の提唱と実証

ジョージ・ガモフはロシア生まれのアメリカの理論物理学者である。私が知っているのは高校3年の時に、担任で数学の先生であった西野先生に勧められてガモフ全集(当時は全9巻)を読み、数学や物理学の面白味を味わったことで忘れられない人なのだが、私は彼をずっと難解な物理理論を一般向けに解説し啓蒙する物理学者とばかり思い込んでいた。ところが、今日でいう「ビッグバン仮説」は彼が提唱し、それも核物理学者らしく明晰な論理立てでもって組み立てた末に自信を持って構築し、かつ彼が予見したことが後に実証されたということで、宇宙の創造を解き明かした偉大な先人であることが分かった。ここではその経過を経時的に記してみたい。以前に読んだガモフ全集には、ビッグバンに関わる記述はなく、最初の提唱は全集発行後の1948年である。以下に科学雑誌「ニュートン」の2010年10月号の「無からはじまった宇宙誕生の1秒間」及び創刊30周年記念企画の2011年8月号の前編「大宇宙」及び9月号の後編「大宇宙137億年」から抜粋したものをまとめてみた。なお、彼は64歳で早逝している。

[宇宙定常説」
 宇宙は永遠の昔から変わらずに存在していて、星座の位置が僅かに変化することがあっても、宇宙全体が大きく変化することはないと考えられていた。この考え方は20世紀初頭までは圧倒的に支持されていて、かのアルバート・アインシュタインでさえも、「宇宙は永遠に不変である」と考えていたようである。もっとも太陽の周りを公転する惑星の存在は知られていたので、宇宙は完全に不変で固定されたものであると考えられていたわけではない。
[原始的原子説]
 1927年、ベルギーの司祭であり天文学者でもあったジョルジュ・ルメートルは、遠くにある銀河が地球に対して遠ざかっているという観測結果から、独自の方程式を導き出し、時間を逆に戻すと一点に集約されることから、宇宙は「原始的原子」の爆発から始まったのではないかというモデルを提唱した。しかしそれは単なる思いつきと一笑に付され、支持する科学者は皆無だったという。
[ハッブルの法則]
 1924年、エドウィン・ハッブルは天体観測で、天の川銀河以外にも似たような星の大集団、すなわち銀河があることを明らかにした。1929年、これらほとんどの銀河が、地球に対してあらゆる方向に遠ざかっていて、その速度は地球から各銀河までの距離に比例していることを発見した。いわゆる「ハッブルの法則」の発見である。この法則の発見は、ルメートルの「原始的原子」の爆発から宇宙は始まったという仮設に対して、基礎的な裏付けを与えるものであった。しかし、ハッブル自身定常説を信じていたし、彼自身は天体観測こそが使命と考えていて、「宇宙の成り立ち」とか「宇宙の膨張」とかに対しては興味を示さなかった。
[火の玉宇宙]
 ジョージ・ガモフは自然界には92の元素があるが、全体の92.4%が水素(原子番号1)、7.5%がヘリウム(原子番号2)で、二つの元素で99.9%を占めるが、彼はこの数字は多すぎると考えた。ヘリウムは太陽などの恒星では、水素から核融合反応によってつくられるが、太陽に含まれるヘリウムの量を説明するには核融合反応のみでは不十分で、太陽ができる以前から大量のヘリウムが存在していないと説明がつかないとした。1948年、これを説明するために、「大昔、宇宙全体に水素が満ちていて、超高温・超高密度の状態で起きた核融合反応で大量のヘリウムが合成された」とした。宇宙の温度が10億℃になると、核融合反応によって、最終的に陽子2個と中性子2個が結合したヘリウム原子核がつくられる。陽子に比べて数が少ない中性子は、すべてヘリウムの原子核に取り込まれ、残された陽子は1個でそのまま水素の原子核になる。この火の玉宇宙での元素合成の理論(αーβーγ理論)はガモフが提唱した後、日本の宇宙物理学者の林忠四郎により改良され、αーβーγー林理論と言われている。このガモフの考えはハッブルの観測結果で裏打ちされ、過去の宇宙は今の宇宙より遥かに小さくて、かつ超高温・超高密度だったという考えに到達した。
[ビッグバン宇宙]
 1948年、この宇宙に始まりがあるとする考え方に対して、宇宙恒常説を信奉していたフレッド・ホイルは、出演したラジオ番組で、嫌悪の気持ちをこめて、そのような考え方(モデル)を "this big bang idea" と罵った。これ以降「火の玉宇宙」は「ビッグバン宇宙」と称されるようになった。
[原子の誕生と宇宙の晴れ上がり]
 核融合反応によってヘリウム原子核がつくられた後も、あまりの高温のために原子核と電子はバラバラに空間を飛び交っていた(プラズマ状態)。しかし宇宙誕生から38万年後に宇宙がさらに膨張し、現在の1000分の1の大きさになり、宇宙の温度が3000℃程度に下がると、電子や原子核の飛び交う速度が遅くなり、電子は負に帯電し、原子核は正に帯電し、遅くなった電子は電気的な引力によって原子核に捕捉されるようになる。こうして水素やヘリウムの原子が誕生した。するとこれまで空間を自由に飛び回っていた電子がなくなり、不透明だった宇宙が透明になり(宇宙の晴れ上がり)、光は真っ直ぐに進めるようになった。
[宇宙背景放射の実証]
 1965年、宇宙背景放射はアーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンによって初めて観察された。彼等はマイクロ波の受信機の性能を試験していた時に偶然、このマイクロ波を測定を妨害するノイズとして捕らえていたのである。その後ロバート・ディッチとジェームズ・ピープルズは、ペンジアスとウィルソンが捕らえていたノイズが、ガモフが予言した宇宙背景放射であることを実証した。ペンジアスとウィルソンはこの功績により、1978年にノーベル物理学賞を受賞している。この宇宙背景放射の発見は、過去にビッグバン宇宙が存在したことを示す証拠でもある。この宇宙背景放射は観測可能な最古の光で、特定の天体からやって来る光ではなく、全天のあらゆる方向からやって来ている。

[無から始まった宇宙誕生:原子の誕生まで]
● 0秒後:
 生まれた瞬間の宇宙は、原子(約10のー10乗m)や、原子核(約10のー15乗m)の大きさよりも小さかったとされている。誕生直後の宇宙では、自然界における基本的な4つの力の「重力」「電磁気力」「強い力」「弱い力」は統一されていたと考えられている。強い力と弱い力は、素粒子の間や原子核の中で働く力である。
● 10のー44秒後:
 宇宙温度は10の32乗K(ケルビン:絶対温度)くらい。重力が最初に分離する。
● 10のー43秒後:プランク時代
 現在の物理学で扱うことのできる最小の長さは約10のー33乗cm(プランク長)で、この10のー43乗秒という数字は、プランク長の真空中を光が通過するのに要する時間である。光速は30万km/秒。
● 10のー36乗秒~-34乗秒後:インフレーション(加速的な膨張)
 この時の宇宙の大きさは100m程度。この概念は佐藤勝彦とアラン・グースが個別に提唱したモデルである。宇宙は生まれた直後に、凄まじい速度で巨大化(10の30乗~43乗)した。この巨大化は初期宇宙を満たしていたエネルギー(インフラトン)によって惹き起こされたと考えられている。理論的には、宇宙のエネルギーがおよそ10の25乗電子ボルトの時に急膨張が起きそうだと推定されている。そして10の25乗電子ボルトになったのは10のー36乗秒後のことである。この時に真空の相転移がおき、宇宙が急膨張する。この頃に強い力が分離する。宇宙温度は10の29乗Kくらい。このインフレーション(急激な加速膨張)があったことで、宇宙の一様性をある程度説明できるとされている。インフレーションの命名はグースによる。
● 10のー27乗秒後:ビッグバン(インフレーション後に起きた灼熱状態の宇宙の誕生)
 宇宙の大きさは1000kmくらい。この時期物質の基となる素粒子が生まれる。宇宙は灼熱状態で、宇宙温度は10の23乗Kくらいで、物質と光が生まれる火の玉宇宙(ビッグバン宇宙)である。
● 10のー11乗秒後:弱い力と電磁気力が分離
 宇宙温度は10の15乗Kくらい。
● 10のー10乗秒後:反粒子の消滅
 反粒子がなくなる。(4秒後にはすべての反粒子=陽電子がなくなる)。ポール・ディックは1927年、反粒子の存在を予言する論文を発表した。それによると、すべての素粒子には電荷の異なるパートナーが存在し、粒子と反粒子はペアで生まれ、衝突すればペアで消滅するとした。そして超高温の宇宙では、粒子と反粒子の生成と消滅は同じ割合で起きていたが、膨張して温度が下がってくると、生成は起きにくくなり、消滅ばかりが起きるようになる。実際の宇宙では、何らかの理由で粒子が反粒子より僅かに多かったので、粒子が残った。生き残った粒子によって、銀河や星や生物ができた。
● 10のー8乗秒後:素粒子の海
 宇宙の大きさは今の数兆分の1、宇宙温度は数兆℃。クオークと呼ばれる素粒子とそれらの反粒子が、バラバラの状態で飛び交っていた。
● 10のー5乗秒後:陽子と中性子の誕生
 宇宙の大きさは今の1兆分の1、宇宙温度は1兆℃。素粒子のうち、アップクオークとダウンクオークが互いに集まって、陽子と中性子ができる。陽子はアップクオーク2個とダウンクオーク1個が集まったもの、中性子はアップクオーク1個とダウンクオーク2個が集まったもので、アップクオークの電荷は+2/3、ダウンクオークの電荷はー1/3で、計算すると、陽子の電荷は+1、中性子の電荷は0になる。
● 1秒後:
 宇宙の大きさは今の100億分の1。陽子、中性子、電子、陽電子が飛び交う。
● 4秒後:陽電子消滅
● 3分後:ヘリウムの原子核の誕生
 宇宙の大きさは今の10億分の1、宇宙温度は10億℃。核融合反応によってヘリウムの原子核(陽子2個と中性子2個が結合)が誕生した。
● 38万年後:水素原子、ヘリウム原子の誕生と「宇宙の晴れ上がり」
 宇宙の大きさは今の1000分の1.宇宙温度は3000℃。光は電子や陽子などの電荷を持つ粒子にぶつかりやすいという性質があるため、これらがあると光は直進することができない。しかし温度が下がって電子が原子核に捕らえられると、電気的に中性な原子が生まれ、光はぶつかる相手がなくなり、直進するようになる。これが「宇宙の晴れ上がり」で、この時の光を現在の地球で観測することができる。直進するようになった光は、宇宙の膨張とともに引き延ばされて、波長が長くなる。この波長の長い光が「マイクロ波宇宙背景放射」である。

2012年3月13日火曜日

「シンリョウのジュッカイ」 (8)

● ペンギンとトムキンスとガモフ
 ペンギンというのは高校の数学の先生で、僕等の三年の学級担任でもあった西野哲也先生のニックネームである。先生自らも私はペンギンだと言われていたから、余程気に入っておいでだったのだろう。ひょうきんで気さくで、親しみやすく、卒業時にはいろいろとお世話になり、手木町のお宅へも何回かお邪魔した。その後先生は高校長にもなられ、最後は教育委員会で定年を迎えられたが、世渡りも大変お上手だったようで、辞められて間もなく生前叙勲で勲三等瑞宝章を授けられた。先生は昨年他界された。
 高校時代は私は数学が大好きで、西野先生の授業を心待ちにするくらいであった。数学の授業だったか、ホームルームの時だったか覚えはないが、こんな話をされた。大和百貨店はとても大きくて重くて、持てるなんて考えも及ばないが、それをつぶして5cm角位の大きさにしたら、一見持てそうに思えるが、しかしその本体は大和百貨店なのだから、べらぼうに重く持てるはずがない。しかし原子間距離を極端に小さくすれば、このようなことも起りうる。このような非現実的な夢のようなことは、いろんな物理法則を逆手にとれば可能なことで、もしこのようなことに興味があれば、先ずは「不思議の国のトムキンス」という本を読んで見なさいと勧められた。受験を控えていたが、面白そうなので買って読んでみた。発行は1940年、日本語版の発行は1950年で、私が買って呼んだのは昭和29年(1954)である。
 この物語は、物理学の最先端の相対性原理や量子論に関する通俗講演を聴いたトムキンス氏が奇妙な夢を見るが、その夢の中で遭遇した奇妙な出来事を記したもので、日本語訳を担当した訳者は、この本はまるで物理学の漫画であると言っている。著者はジョージ・ガモフ、ロシア(現ウクライナ)生まれの物理学者、文章のみならず挿絵も描いていて、多才な一面を見せている。当時の訳者は物理学者で大阪大学教授の伏見康治である。教授講演内容は、「空間及び時間の相対性」「空間の彎曲と引力」「作用量子」の三講である。トムキンス氏が見た夢をいくつか紹介してみよう。夢では講演のテーマがいくつかオーバーラップしている。
 [夢 1] おもちゃの宇宙:この世界では、光の速度は秒速30m、万有引力は私達の宇宙の百万倍も大きく、宇宙直径は10km、最も大きく膨張した時の宇宙半径は約200km、宇宙の脈動周期は約2時間、岩石の密度は地球上のものと同じという設定である。ここでは「我々の住むこの空間は彎曲し、それ自身において閉じ、加えて膨張しつつある」という言葉と関連している。トムキンス氏と教授は直径10mの岩に乗っているが、これは宇宙の岩であるので、朝はない。ところが隕石が飛んできて、教授の手帳を突き飛ばした。しかし教授は一向に慌てず、この空間は閉じているのでやがて手帳は帰ってくると言う。それは東へ行けと命令された人が、地球を一回りして西から帰ってくるのと似ていると。そして光も帰ってくる。またこの宇宙は今は膨張しているが、やがて収縮するとも。その時遠方の物体の色は赤から紫に変わる。やがて収縮してきて熱くなり、耐えられなくなって目が覚めた。
 [夢 2] のろい街:ここでは光の速度だけ20km/時になっている。街角にいたトムキンス氏が見た自転車の人は、信じられない位平たくなって見えた。また通りを走っているタクシーもちっとも速くなく、這っているようだ。自分も自転車に乗ったが、スピードが上らない。それは光の速度を超えることは不可能だからだとか。また光速では時間の経過も遅くて、いつも光速で旅行している人はゆっくりとしか歳をとらない。
 [夢 3] 量子の叢林:トムキンス氏は教授と狩りの名人リチャード卿と象に乗り、量子定数の極めて高い量子のジャングルへ虎狩りに出かける。森へ入ると物凄い唸り声がして虎の一群が象を襲ってきた。リチャード卿は一番近い虎の両眼の間を狙って引き金を引いたが、虎はちっとも傷を受けていない。教授はぐるりといる虎をずっと撃ちまくれ、虎はたった一頭なのだと言う。弾丸が当たると、虎は忽ち一頭になった。帰りにカモシカの大群が竹薮から現れた。リチャード卿は銃を構えたが、教授は押し止めた。撃っても無駄だよ。一頭のカモシカが廻折格子の中を通っている時は滅多に当たらないよと。
 ここにはほかに「量子の部屋」「休息の一日」「最後の冒険」の3編が載っている。

2012年3月7日水曜日

漸く石川県予防医学協会を退職できることに

もう随分以前から退職をお願いしてあったのだが、今年の2月11日の誕生日には75歳になることでもあり、これを機にぜひ退職をとお願いしてあったところ、2月上旬になって専務理事から、今年度末で退職ということでお許しが出た。ただその時点ではまだ他言しないでとのことで、このことは家内にのみ話した。その後事務的には誕生日を境に社会保険証を返上し、以降は後期高齢者の保険証に切り替わった。その後協会の人事担当から、毎年4月から6月にかけて集中して実施される石川県の春季学童健診に、これまで私が協力してきたぎょう虫検査に今年も協力していただきたいので、退職を6月末にしてもらえないか、これは理事長にも専務理事にも了解を得ているとのこと、この事業は協会創立以来の根幹事業でもあり、また後の体制を整備するには時間を要するとのことで、それじゃこれを最後のご奉公にしようと思い了承した。この事業、少子化で年々数は減っているとはいうものの、昨年同期には主に県下の小学生・幼稚園児・保育園児8万3千人を対象に、12万枚もの鏡検が行なわれ、そのうち私は10万枚強を鏡検した。
 それで退職願は退職1ヵ月前に提出することになっているが、今年度末の退職ということで、3月1日付けで退職願を提出、ただ退職日は6月末とした。
 当初、専務理事からは今年度末で退職ということで、私は幾つかの会合や私的な旅行をスケジュールに入れていたが、これは一旦は白紙にせざるを得なかった。この時節は年金の支給が65歳からということもあって、60歳を過ぎても沢山の方が働いておいでるが、自営業の方ならいざ知らず、小中学校・高校・大学の同窓生で、70歳を超えて常勤で勤務されている人はごく少数である。大部分の人はサンデー毎日であるが、でもそれぞれに有意義な人生を謳歌されておいでる。これは羨ましい。
 ある中堅の特殊染色メーカーの常務だった方、特殊な仕事でもあり、会社でも重宝され、定年後もかなり長く勤務されていた。この方はお酒は大好き、女の子も大好き、両手に花でないとご機嫌が悪いという大変な御仁だった。ところで念願がかなって退職されたので、その折小宅へお招きして小宴を催したことがある。その日もお酒は召し上がられたが、以前のような豪快さはなく、一見して随分お疲れという印象を受けた。本人はその異変に既にお気付きだったのかも知れない。そしてその方は私に、「木村さん、請われて定年後も勤務を続けられるのもよいけれど、元気なうちに辞めて、心も体も労わってやって下さい」と。「私はもう疲れてしまって、以前のように飲んだり楽しんだりする元気が失せてしまいました」とも。「体を壊してから辞めたのでは、もう遅いんです」とも言われた。その方の疲れというのはずいぶんと曲者であったらしい。その後その方は入院されたが、医者では対症療法でしか治療できないという難病だということで、好きだったお酒も飲めなくなり、1年余の療養で亡くなられてしまった。私にはいつもあの方が親身になって話された言葉が頭を過ぎる。
 今は家内と二人の生活、二人とも勤めに出ている。私はこの6月で悠々自適のサンデー毎日になる予定だが、500坪もの敷地の管理、100坪の居宅の管理、書画骨董蔵書ガラクタの整理等、私が生きている間にしておかねばならないことは山積している。長男はまだ46歳、60歳定年としてまだ14年、私がもし生きていたとすると89歳、多分定年以前には帰ってこないだろうから、それまでには何としても整理をしておかねばならないと思う。
 今年はスキーに行ったのは1回きり、昨年よりももっと脚力の衰えを感ずる。緩斜面ならいざ知らず、もうそろそろ出る幕ではないような気がする。ただ念願の白山禅定道の石徹白道の踏破だけはどうしても今年中にやりたいと思っているのだが、果たして実現できるだろうか。また家内とも旅行をしたいと思ってはいるが、これも家内が退職しないとままならないようだ。また共に楽しむには共に元気であることが必須な最低要件でもある。

2012年3月1日木曜日

石川県石川郡野々市町から石川県野々市市へ

野々市市の広報では、2011年11月11日に、石川県内で11番目の市になるという触れ込みで、11が重なるような日を選んで市に昇格させるとあった。またこの日行なった新市を祝う記念式典も午前11時に行なうという懲りようだった。そして石川県での合併によらない単独での新市誕生は、昭和45年(1970)の松任市誕生以来41年ぶりとのことである。とは言っても松任市も野々市町も、昭和の大合併では、旧松任町は1町に12村が編入して新松任町が出来ているし、野々市町も富奥村と昭和30年(1955)に合併して新野々市町が出来、その後昭和31年(1956)には郷村の9大字が、また昭和32年(1957)には旧押野村の4大字が金沢市から編入して、新野々市町が出来上がっている。このようにして、昭和の大合併では、多くの例では、全町村挙げて合併や編入が行なわれたが、新生野々市町の場合は、編入に際しては相当な紆余曲折があった。
 昭和の大合併の前には、野々市町は石川郡の中では四部という枠組みで、旧の額村、富奥村、野々市町、押野村の4町村が共同体のような形で、私が国民学校や小学校の頃はしょっちゅう行き来があったもので、特に野々市町は押野村と絆が強かった。したがって、昭和の大合併の時もこの1町3村が一緒になるものと思っていたら、いち早く昭和29年(1954)に額村が離脱して金沢市に編入してしまった。これは村の住民の意向というより、むしろ村役場や村議会の意向が優先したためだろうと推測している。
 額村が抜けた後、全町全村が一致して合併に前向きになったのは野々市町と富奥村のみで、そこでこの1町1村の合併で新野々市町が昭和30年(1955)4月1日に発足した。そしてもう一つの相棒であった押野村は、村議会の議決で昭和31年(1956)1月1日に金沢市に編入してしまった。この事態に押野、御経塚、野代、押越の4部落の住民は猛反対し、小中学生を野々市小中学校へ無理やり転校させ抵抗した。この時期部落へ入る道路の入り口では厳重な検問があり、関係者以外は村へは入れない事態になった。この事態を重く見た金沢市議会は、住民のほぼ全部が野々市町への編入を希望している押野町を除く3町を野々市町へ編入させる議決をした。ところが旧押野村の役場があった押野町は決着がつかず、住民投票の結果を待つことになった。このときの殺気立った様子はすごかった。結局旧押野村大字押野の南側3分の2は野々市町へ編入、北側3分の1は金沢市に残ることになり、昭和32年(1957)4月10日に野々市町への編入と金沢市への残置が決まった。現在その名残は地名に残っていて、野々市町には押野1~7丁目、金沢市にも押野1~3丁目がある。今バス停に押野2丁目とあっても野々市か金沢かの判別はできず、本押野とか押野6丁目とあれば野々市地内だと判別できる。これは交差点名でも同じことである。
 郷村の場合は、12ある大字のうち、予め松任町寄りの4大字は松任町へ、野々市町寄りの7大字は野々市町へ編入することに村内で同意が成立していたが、ここでも旧郷村の役場があった大字田中では大いにもめた。そして結果として、役場、学校、公民館のあった中央部が松任町へ編入、南と北の地内は郷町と名を変えて野々市町へ編入することになった。両町への編入は昭和31年(1956)9月30日であった。
 こうして新しい野々市町が誕生したが、当時の人口は1万人にも満たなかった。その後人口が1万人を超えたのは昭和39年(1964)、その10年後の昭和49年(1974)には2万人を突破、さらに7年後の昭和56年(1981)には3万人をクリア、その14年後の平成7年(1995)には4万人を超え、その14年後の平成21年(2009)には5万人を超えたと石川県統計情報部から発表があった。翌平成22年(2010)10月1日には国勢調査が行なわれ、翌年2月の速報値では5万人達成が報じられた。そして市制移行を希望する野々市町に対して、総務省は平成23年(2011)8月12日付けの官報で野々市町を野々市市とすることを告示した。国勢調査による確定値は51,885人である。但し野々市市の住民基本台帳に記載された人口は、平成23年(2011)12月末現在で48,025人である。ちなみに野々市市の面積は13.56平方kmで県内最小だが、1平方km当たりの人口密度は3,826.33人と県内では跳び抜けて高い。また年齢別人口構成を見ると、20代が特に多く、これは市内に石川県立大学と金沢工業大学があるので、その学生数が反映されているのではと言われている。なお平成24年(2012)1月1日現在の石川県統計情報室の数字では、野々市市の人口は53,246人である。
 町から市へ移行になって設置しなければならないのは福祉事務所だけである。それはそうとして、町が市になっても、その要件ではないにしろ、自前の消防、ゴミ処理、火葬の施設がないと言われる。これは市の面積が小さく、高低差が5m以内とほとんどまっ平らという地形とも関係している。しかしこれに対しては、旧石川郡の松任市、美川町、鶴来町、白山麓5村とも密接に連携していて、消防では旧松任市と、ゴミ処理は旧松任市、鶴来町と、火葬は旧鶴来町、白山麓5村と、総合医療は旧松任市、美川町と公立松任石川中央病院を運営していて、これらの連携は今も白山野々市広域事務組合の形で運用されている。

[附1]市への要件は人口50,000人
 町から市に移行するには、5年に一度実施される国勢調査での確定数が50,000人以上であることが要件である。もっとも平成の大合併では、合併した場合に限って30,000人以上ならば「市」を呼称してよかったが、今はこの特例はない。平成24年2月26日の朝日新聞に、「市昇格へ人口水増しか」「愛知・東浦町、国勢調査で」という見出しの記事が載った。東浦町は名古屋市の南、知多半島の根っこに位置する町で、産業としては、自動車関連や木材加工などの製造業が盛んで、かつ名古屋市のベッドタウンともなっている。ところで町は2010年10月1日の国勢調査では5万人を超えると予測し、2008年4月には市制準備室を設けて対応してきた。事実、総務省は2011年2月の速報値では「50,080人」と発表した。ところが調査票の点検で、同じ人が重複していたり、同居人が後で書き加えられたらしいと疑われる例があったり、一人暮らしの日本人世帯に複数の外国人が同居していたりと、ミスでは説明できない事例があり、町に調査を依頼したが、回答では「不正はなかった」「原因は不明」とのことだった。そこで国が調査したところ、少なくとも280人分の調査票については居住実態がないこと、そのうちの90人は住所が空き地であることが確かめられた。そして2011年10月、速報値から280人を引いた「49,800人」を国勢調査の確定値とした。この結果、町は市への昇格を断念したという。当初の目論見が外れた原因としては、2008年秋のリーマン・ショックを契機に外国人労働者の帰国が続き、人口が減り続けたことがあり、それを受けての苦肉の策としての水増しだったようだ。
 ふりかえって、野々市町に金沢工業大学が出来たとき、大学は野々市町に対して金沢市へ合併するよう強力に働きかけてきた。そして住所は石川県石川郡野々市町と書かず、石川県金沢南局区内野々市町と表示していたのを思い出す。という私も早く市にならないかと願望していた一人だ。「市」にはそれなりに「郡」や「町」にない魅力があるようだ。

[附2]石川郡の生い立ちから消滅までの変遷
 野々市町が野々市市になったことで、石川県から石川郡の名が消えてしまった。少しその沿革を追ってみたい。
 古く平安時代に加賀国が設置された後、手取川以北浅野川以南を石川郡と称した。 
 明治5年(1872)には加賀国が金沢県を経て石川県になり、明治11年(1978)には郡区町村法により金沢区が石川郡より分立した。そして明治22年(1989)には市制により金沢市が誕生した。その後この金沢市には石川郡から、大正14年(1925)には野村・弓取村の2村が、昭和10年(1935)には大野町・富樫村・米丸村・鞍月村・潟津村・粟崎村の1町5村、昭和11年(1936)には三馬村・崎浦村の2村、昭和18年(1943)には金石町・戸板村・二塚村・大野村の1町3村、昭和29年(1954)には額村・内川村・犀川村・湯涌谷村・安原村の5村、昭和31年(1956)には押野村の1村の、計2町18村が石川郡から金沢市に編入された。
 野々市町は、大正13年(1924)に野々市村が町になり、昭和30年(1955)に富奥村と合併、昭和31年(1956)には郷村、昭和32年(1957)には旧押野村が編入して新野々市町ができた。
 松任町には、昭和29年(1954)に柏野村・笠間村・宮保村・一木村・御手洗村・旭村・中奥村・林中村・石川村の9村が編入、昭和31年(1956)には郷村、昭和32年(1957)には山島村が編入し、新松任町ができ、その後昭和45年(1970)には松任市となった。
 美川町は、昭和29年(1954)に蝶屋村・能美郡湊村の2村が編入し、新美川町ができた。
 鶴来町は、昭和29年(1954)に館畑村・林村・蔵山村・一ノ宮村の4村が編入し、新鶴来町ができた。
 平成17年(2005)、松任市と石川郡の美川町、鶴来町、白山麓5村(河内村・吉野谷村・白峰村・尾口村・鳥越村)が合併して白山市となった。
 そして平成23年(2011)には、野々市町は野々市市となり、こうして石川郡は消滅した。

2012年2月24日金曜日

平成24年探蕎会総会講演から

平成24年2月19日の日曜日に探蕎会総会が開かれ、席上永坂鉃夫先生の講演があった。演題は総会パンフレットには「趣味の効用~疼痛・苦痛緩和剤~」とあり、私は後半がメインだと思い、息子がガンの痛みに苦しんだこともあり、疼痛の緩和に関するお話だろうと思っていた。ところが講演に先立って立派な資料が配布され、その表題を見ると、私の思っていたイメージとは異なるものだった。それには『趣味と健康』、副題は「趣味は心身の痛みの緩和剤」というものであった。資料はA5判、水色の表紙で、本文28ページ、カラー刷りの立派な冊子である。これには唸った。豊富に図や絵や挿絵が挿入されていて、理解を深めるのに大変役立っている。ところが先生はこの講演を30分と設定されてしまったために、当初私がメインではないかと想像していた痛みの伝達の経路とかその生理学とか鎮痛の機作とかは、説明はあったものの短時間だったのと、受入れ側に理解できる素地がなかったために、理解できるに至らなかった。だがしかし、表題にあったように、趣味に生きがいが感じられれば、心身に良好な快感効果をもたらし、ひいては自然治癒力を増し、またNK(ナチュラルキラー)細胞の活性を上昇させ、健康の維持に役立つのだということは理解でき、それが副題の「趣味は心身の痛みの緩和剤」ということだった。
 以下に先生の講演内容の一部を挿話的に話そう。
(1)演者の趣味
 ① 巷に溢れる横文字の誤字・アラ探し
 先ずは兼六園の無料案内を知らせる案内板の英単語の誤りで、内容は単純な単語のスペルミスであるが、しかしこれはいただけない所業である。天下の名園の案内にこのミス、看板にある9単語のうち3単語でミス、日本人にとっては実害はないかも知れないが、外国からのお客さんには失礼であるし、なんと無知なと取られよう。ミスは、Preiod / Informatin / Admisson で、先生は兼六園事務所に指摘されたようだが、県庁の担当課をたらい回しされた挙句、振り出しに戻り、訂正はされたが、4枚の案内板のうちの1枚のみの訂正だったとか。思うに案内板を出すとか英語を付記するとかというのは本庁(緑地公園課)で決めるが、執行は事務所でやっているはずで、原稿が悪いのか、看板屋のミスだがそれをチェックできなかったのかは知らないが、失態であることには間違いない。この場合、もっと上位の人、知事でなくても、その取り巻きとか、部長あたりに、これは県や市の恥ですと言えば、スムースに解決されたのではなかろうか。とかく役人は面倒なことは避けて、他人に任せたらい回しにする種族であるからして、こちらもそれを念頭において対処する必要がある。唯一の弱みは上に弱いことである。
 また長崎の原爆爆心地でも、記念碑にqをgとしたために、銘板が疫病になったという話も。
 極めつけは金沢市が作ったフランス語の案内書で、立派な表紙には Francais とあり、本来はフランス語という意味であろうが、とすればcに鬚のようなセディーユという記号がついていなければならず、表記の単語はフランス語にはない。また裏表紙には市役所の表記で市が vill となっていて、これも ville とすべきで、やはりこれもフランス語にはない。それよりもその案内書の内容がフランス人には全く意味が通じない噴飯ものであったとのこと、市役所へかけあったところ、フランス語を教えている偉い先生に依頼したもので、誤りがあるはずがないとか。フランスに長く滞在されてネイティブに近い方ならいざ知らず、直訳では無理だ。この不良案内書はまだ2千部もあるとか、なくなってから改めるとしても、まだ当分受難が続く。
 ② 手作り本の製作(世界に一冊しかない本)
 先生の著書には写真がよく挿入されているが、その著書の「ドンキホーテの誤解」には、手作り本の表紙の写真が4つ掲載されている。この本の別章に手作り本というのがあり、作られた経緯が記されているが、これは作り方を読んだからといって出来るものではない。会場に出品されていたのはA6判の手製本、いつか実物を見たいと思っていたが、とうとうご対面できた。まことに手がこんだ豪華本で、見ていて惚れ惚れとした。これには凡人には真似できない緻密さを感じる。表紙の外装にも特段の気を遣われ、正に貴重な私家本となっている。実に素晴らしい。
 ③ ワインの賞味・関連したものの収集・解説
 先生のワインに関する薀蓄は並みではなく、特にボルドーに関してはお詳しい。いつか何処かで解説して頂いたが、愛でることを知らない小生にとっては耳に痛いことである。ところが先生の著書「ドンキホーテの後悔」には、 WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE という章があり、10項、34ページにわたって、歴史、醸造、ラベル(エチケット)の読み方、栓の開け方、注ぎ方、味わい方、グラスの洗い方、ワインのマナー等が記載されていて、さながら気の利いた手引書となっている。この本は前田書店から発行されている。
 ④ ワインボトルのコルク栓やキャップシールを使った自称芸術作品の製作
 先に紹介した先生の著書の表紙・裏表紙とカバーには、先生が飲まれた夥しい数のワインのキャップがビッシリと並んだ絵?が載っているが、その基の作品が展示してあった。何とも圧巻である。またピンにキャップを被せた作品も展示されていて、並々ならぬ先生のワインへの情熱が伝わってくる。しかもキャップを読むと、安い千円ワインは入っていない。
(2)「健康」と「生きがい」の演者による定義
 演者である永坂先生によると、「健康」とは、信念と活気に満ち、人生に生きがいを感じておられる状態であり、また「生きがい」とは、趣味、奉仕、仕事なんでもよいが、それに没頭でき、やって良かったという満足感であると定義されている。こういう満足感があると、人間が生まれながらにして持っている自然治癒力を亢進させ、脳にオピオイド(モルヒネ様物質)を産生させ、NK細胞の活性を上昇させる原動力となる。
(3)自然治癒力
 私が学生の時、薬物学の講義にあたって、薬は補助的なものであって、病気が治るのは生体が持つ自然治癒力・ナトゥールヴィッセンシャフトによると故三浦教授が言われたことを思い出す。永坂先生のお話でも、現代医学がいかに発達しようとも限界があり、その限界を超えて治癒されるのは、生体が持つ自然治癒力によると。これは人間が生まれながらにして持っている病に打ち勝つ能力のことで、体の機能のバランスや秩序を保つ恒常性の維持であり、病原体などの進入や変質した自己細胞を殺傷して自己を守る自己防衛・生体防禦であり、傷ついたり古くなった細胞を修復したり新しいものに変換する自己再生・修復であったりする。また生体の免疫機能には、自然免疫に関係するNK細胞、体液性免疫に関係するB細胞、細胞性免疫に関係するT細胞がある。
(4)オピオイド(モルヒネ様物質)の産生
 美術、音楽、ジョギング、その他なんでもよいが、とにかくそういう趣味に没頭すると、頭が休まり、爽快な気分になる。何故か? ランニング等で長時間走り続けると、走行中に気分が高揚してくるが、これはランニング・ハイとかランナーズ・ハイとか云われている。これは脳内に産生されるオピオイド(オピエート様物質=モルヒネ様物質=βエンドルフィンやエンケファリン)によるもので、鎮痛作用のほか快感をもたらしてくれたりする。この働きは鍼の効用でもある。人体には植物由来のアヘンアルカロイドのモルヒネが有効なことから、先ず1973年にオピエート(モルヒネ・アヘンアルカロイド)受容体が発見され、次いで1975年には、ブタ脳からエンケファリンが、仔ウシ脳からエンドルフィンが見つかった。これらはモルヒネ様作用を有し、鎮痛・鎮静作用のほか多幸感をもたらす。その後1976年にはオピオイド受容体の存在も確認された。ランニング・ハイや鍼では、内在性オピオイドが脳下垂体や視床下部から分泌される。エンケファリンは5個のアミノ酸が連なったペプタイド、βエンドルフィンは31個のアミノ酸が連なったペプタイドであるが、βエンドルフィンのN末端の5残基はメチオニンエンケファリンと同じである。
(5)ナチュラルキラー(NK)細胞
 自然免疫の主要因子として働く細胞障害性リンパ球の一種で、特にウイルス感染細胞やガン細胞を殺す働きがあり、これはこの細胞の生まれつきの性質で、T細胞と異なり事前に抗原を感作させておく必要はない。また異常細胞のみ攻撃して正常な自己細胞を攻撃しないのは、細胞表面にある主要組織適合遺伝子複合体を認識しているからである。この細胞はインターフェロンにより活性化される。また趣味に没頭したり、運動したりした後の満足感や爽快感や楽しい笑いは前頭葉を興奮させ、すると間脳が活発に働き、産生された善玉ペプタイドがNK細胞の表面にくっつき、NK細胞を活性化させる。
(6)趣味は遊び
 遊ぶことのなかに発見があり、創造 creation がある。そこで人間らしさがうまれる
 これは原則として動物にはない
 笑いも人間にしかない動き 趣味がうまくいった時、思わず笑みがこぼれる
 ひそかな満足感、爽快感がある
 脳内でのオピオイドの増量とともに
 NK細胞の活性上昇 すなわち心身の苦痛の軽減と免疫力の上昇がある