2014年2月26日水曜日

探蕎会での講演を横山さんに依頼(その2)

(承前)
 波田野先生は東京のお生まれ、千葉大学医学部を卒業され、川喜多先生の下でジフテリア毒素の研究をされていた。一方金沢大学ではボツリヌス毒素を研究されていた西田先生が新しく細菌学教室(後の微生物学教室)の教授になられ、先生が海路で英国へ留学される折、途中のアデンから波田野先生に招請の電報を打たれ、それに応じて金沢へおいでになり助教授になられた。昭和35年 (1960) のことである。その後先生はインフルエンザの研究のためアメリカへ2年間留学された。その頃から私が所属していた衛生研究所でもインフルエンザウイルスの検査をしなければならなくなり、その教えを波田野先生に乞うべく研究生となった。その後しばらくして、大学にがん研究施設が付設されることになり、そこのウイルス部門の教授に波田野先生が就任され、私も移籍することになった。施設はその後発展して金沢大学がん研究所となる。この頃になると、大学院生や研究生が10数人在籍していて、教室は活気づいていた。その頃に何人かの女子短大出身の教務助手の方が教室に居られ、教務以外にも細胞の培養や実験の補助などをされていた。ウイルス実験に入るまでの下準備の手間は馬鹿にならず、随分と彼女らにはおんぶに抱っこの状況が続き、本当にお世話になった。その中の一人に横山さんがいた。
 彼女の住まいは小立野二丁目、波田野先生とは同じ町内、何かの折に先生と会われた際に、大学へ来ないかと誘われたとのことだった。彼女の家柄は前田家の家老の横山家の分家に当たる名門である。私はがん研ウイルス部に在籍中の昭和40年 (1965) に結婚したが、その後に午年生まれの家内と申年生まれの横山さんとは、高校時代に同じ陸上競技部に所属していたことを知った。一緒に過ごせたのは1年だけだったのだが、そんなこともあってか、私自身彼女に大変親近感があった。その後私は昭和50年 (1975) には教室を離れてしまうので、横山さんがいつまでがん研ウイルス部に在籍されたかは知らないが、もし波田野先生が退官されるまでおいでたとしたら、昭和63年 (1988) までおられたことになる。
 その後いつだったかは覚えていないが、彼女の妹さんが卒論か何かで松尾芭蕉の「幻住庵記」をテーマに選ばれたとかで、どうして探されたかは知る由もないが、私の家の仏間に掛かっている芭蕉直筆の書を見せてほしいと頼まれた。こちらには別に異存はなくお見せしたが、そのときは書かれた和紙は下地の和紙に貼られた状態にあり、しかるべく保存をしたほうがよいともいわれた(これについては後日アクリルで封じて永久保存できるようにした)。私はこの筆で書かれた草書体の文字は全く読めなかったが、後日彼女からは読み下し文と解説を送っていただいた。その後このことがきっかけだったかどうかは知らないが、彼女が古文書を読み下すことに精を出されているということを風の便りに聞いた。そして図書館へ行き、何か目的があって、昔の古い資料を読みあさっておいでるとも聞いた。
 そうこうするうちに、彼女が加賀百万石の前田家のこととか、自分の家の横山家のこととか、金沢の町並みのこととかについて、講演されているということが、テレビや新聞で報道されているのを知ることになった。彼女は大変な努力家だったが、それだけではこれほど素晴らしい郷土史家になれるはずはなく、加えて横山家の血筋を引いた天賦の才があったからだと思う。さらに古文書に対する緻密な調査と、持って生まれた几帳面な性格とが今日の彼女の地位を不動のものにしたのだと信ずる。彼女は現在石川県郷土史学会幹事であり、金沢市の埋蔵文化財、町並み保存、伝統的構造物保存、用水保全等の委員の職にあって活躍されており、著書や論文も出されている。
 こんな彼女から話を聞きたいと思ったのは単なる思いつきからではなく、これこそ巡ってきた願ってもない千載一遇のチャンスだと思った.ただ忙しくて月の半分は予定で埋まっているとのことで心配したが、幸いにも探蕎会総会の日は運よく空いていたのは正に僥倖だった。

探蕎会での講演を横山さんに依頼(その1)

 探蕎会の総会は初回と第2回は年末に、次いで第3回と第4回は1月に、そして第5回以降は2月に開かれている。一時は参加者が80人を超えたこともあったが、このところはせいぜい30人止まりのことが多い。総会次第はおおよそ毎年同じで、始めに会長の挨拶があり、続いて前年の行事報告と決算報告が事務局から、それにその年前半の行事の予定の概略が副会長から話され、議事は淡々と進められる。ただ今年は会報の発行部数が減って、繰越金が多いこともあって、会費が5千円から3千円に減額されることが議決された。
 以前の会報を見ると、第1回の末野倉での設立総会、第2回の金沢ニューグランドホテルでの総会では特にアトラクションはなかったが、第3回には会員になられたオーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の指揮者の榊原栄さんのお世話で、OEK の第2バイオリンの首席奏者だった江原千絵さんのバイオリン演奏が、若杉由香さんのピアノ伴奏で「たんきょう新春コンサート」と銘打って開催された。これはこのホテルの総支配人が探蕎会に入会されていたこともあっての便宜だったようだ。とにかくこの新春コンサートはなかなか好評で、以後7年にわたって継続されることになる。以下に列記してみよう。
 第3回 (2001)  江原千絵 (バイオリン)  若杉由香 (ピアノ)  金沢ニューグランドホテル
 第4回 (2002)  中川ゆみ (シャンソン)                  同 上
 第5回 (2003)  細川 文 (チェロ)    赤尾明紀 (フルート)     同 上
 第6回 (2004)  江原千絵 (バイオリン)  福野桂子 (チェロ)      同 上
 第7回 (2005)  江原千絵 (バイオリン) 上島淳子 (バイオリン)  ホテルイン金沢
 第8回 (2006)  藤井ひろみ (フルート) 福野桂子 (チェロ)      同 上
 第9回 (2007)  江原千絵 (バイオリン) 福野桂子 (チェロ)              KKR ホテル金沢

 その後ある転機が訪れた。当時私は石川県予防医学協会に勤務していたが、ある時に小山先生が内科医として所属されることになった。小山先生は在学時には金沢大学医学部山岳部に所属されていた山男で、当時の山岳部長だった永坂先生の推薦で昭和56年に第23次南極越冬隊に医師として参加され、帰国後病院勤務されていたが、後に協会においでたのだった。協会では先生の講演が前後二度にわたって2回行われた。その後先生が探蕎会にも興味を持たれ入会されたので、この南極での体験をぜひ会の皆さんにも共有してもらいたく、この年はコンサートは止めて、講演を聴くということになった。スライド作成には事務局の前田さんが随分と骨を折られた。この講演は大変好評で、次回からはコンサートに代えて、会員のしかるべき人が講演することになって、これが数年続くことになる。以降にその状況を記す。
 第10回 (2008) 小山文誉:「南極に何を求めて」             テルメ金沢
 第11回 (2009) 大滝由季生:「出会いと感謝と心」            ホテル日航金沢
 第12回 (2010) 寺田喜久雄:「みず・・・三題」            エクセルホテル東急
 第13回 (2011) 岩 喬:「不整脈について」                 同 上
 第14回 (2012) 永坂鉄夫:「趣味と健康〜趣味は心身の痛みの緩和剤」   金沢スカイホテル
 第15回 (2013) 早川純一郎:「幕末金沢のそば屋を梅田日記に探る」      同 上

 さて次回の第16回であるが、会報55号によると、「来年の総会での講演は木村さんにお願いすることになった」とある。確かに寺田会長からは来年はあなたの番だとは聞いたものの、公の発言とは思わずにいた。ところが会報にまで載っているとは不覚にも知らず、今回の総会でも、何人もから今回の講演は貴方ではなかったのというお小言をいただいた。とすると、ここでどうしても一言釈明をしておかねばなるまい。一時はやってやれないことはないかなあとも思ったこともある。人と微生物の関わり、インフルエンザウイルスやノロウイルスのこと、腸管出血性大腸菌のことなど、私が長年携わってきたテーマであるが、これらを皆さんに平易に話そうとすると、新たに説明の資料となる図を書かねばならないというノルマが生ずる。その負担から逃れたく、会員の皆さんに喜んでいただけるような方に、私からしかるべくお願いするとすれば、私の責務を全うすることができるのではと考えた。そのときに真っ先に私の脳裏に浮かんだのは彼女、横山方子 (まさこ) さんだったのである。私が彼女と最初に出会ったのは、探蕎会の創設者でもある波田野先生が主宰されていた金沢大学がん研究所ウイルス部であった。

2014年2月14日金曜日

ノロウイルスにまつわる失敗談

 昭和40年代始めの頃だったと思うが、生ガキ喫食による下痢症が時々報道されるようになった。それによると、養殖の生ガキを食べると、時にあたって下痢をするのだという。国でもその病原体を追求するべく、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)が中心となって、全国の地方衛生研究所(地研)に、生ガキによる下痢症が起きた時には,出来るだけ多くの下痢便検体を送ってほしいとの連絡を出した。折しも和倉温泉のとある旅館から、生ガキをどうしても食べたいと仰るお客さんには、下痢のリスクを承知で生ガキを提供するのですが、気をつけてはいても,時に本当に当たって下痢をされるお客さんがいるので、何が原因なのかを調べてほしいと連絡があった。早速私が行ってその旅館の女将さんに話を聞くと、先日フランス人の許へ嫁いだ娘が帰ってきた折に、婿さんが生ガキを食べたいというので、七尾湾でも最も水がきれいと言われている所へ案内したのですが、生憎と当たってしまって大変でしたとのこと。聞くと、とにかくその婿様の食べた生ガキの量が半端でないことが先ず判明した。そのせいかどうかは分からないが、当たったのはその婿様だけだったそうだ。また一方で、養殖カキの筏を置く場所は,川の河口に近い方が栄養分が多くてカキの成長が早いこと、それで時には育成のために糞尿を撒くこともあることを教わった。現在は下水道も整備され、そうでなくとも浄化槽が備わっているからして、河川の汚れは昔から見れば格段に良くなっているが、当時はまだ一部は垂れ流しの状態だった。
 そこで提案された条件は、10月から翌年3月まで、毎月生ガキを4kgずつお送りしますので、そちらでは生で食べていただいて、もし下痢が起きたら、その原因を究明して下さいというものだった。生ガキは七尾湾では比較的汚れがあるといわれる和倉温泉沖の筏のものを提供しますとのこと、当時は私もまだ若く、胸を張って受け入れた。ここで肝心なのは、生食でという条件であった。
 早速に私が勤務していた石川県衛生研究所(衛研)で、生ガキを生食する有志を募り、調査が始まった。人により、多い人は10個、少ない人は1個、くれぐれも生で喫食するようお願いした。また衛研で一度に4kgは多いので、当時私が研究生として所属していた、波田野先生が主宰されていたガン研究所ウイルス部の方々にも協力を頂き、半分をお送りし、同様なお願いをした。新鮮な生ガキは教室の皆さんにも喜ばれ、時に催促まである程だった。協力していただいてから5ヵ月は特に何事もなく過ぎた。ところが最後の回となる3月に異変が起きてしまった。衛研では喫食した半数の十数人に異変があった。主症状は下痢で、生ガキを食べた個数の多寡には関係がないようだった。また男女差もなかった。かくいう私も下痢症状が起きた。一時的にパニックになり、きちんと疫学調査をしなければならないのに、サンプル採取もままならず、結果として何ら成果を出せず、うやむやのうちにこのプロジェクト?は終了した。今だったら始末書ものだったろうが、特にお咎めはなかった。
 ところで衛研での一件が終息した頃、大学ではどうだったろうかと聞いてみた。するとやはり半数近くの人が下痢し、女性2人は症状がひどくて入院したとか、これまで5回は何ともなく、美味しく頂いたので、まさか生ガキのせいとは誰も疑っていなかったのに、私が糾したことで生ガキのせいと分かってしまい、波田野先生からは大目玉をくった。そんな状況だったので、とても様子を伺うことさえ憚られ、こちらも調査できる状況ではなく、やはりうやむやになってしまった。
 当時の日本では、あちこちで生ガキ喫食による下痢症の報告があり、電子顕微鏡によるウイルス像観察では、小型球形ウイルス(SRSV) が見られ、これが病原体であろうと推測されていた。折しもアメリカの Norwalk で集団下痢症の発生があり、やはり SRSV が観察され、これに Norwalk agent という名が冠された。日本で観察されたウイルス粒子との相同は当時明確ではなかったが、症状は比較的軽く、死亡に至る経過がないことなどはよく似ていた。現在はウイルスの遺伝子型まで読まれているが、当時はまだ分かっていなかった。しかしいずれにせよこのウイルスはヒト由来で、日本での場合、川に放出されたウイルスが海にいるカキの体内で濃縮され、これが生ガキを食べることによって起こされる下痢症の病原体とされた。ところでその後ウイルスの命名法が確立され、Norwalk agennt を含む SRSV はノロウイルス (Norovirus) と呼称されることになった。その後、いつ頃か記憶が曖昧だが、これまで日本にあった在来のノロウイルスの系統のほかに、バルト海辺りを起源とする別系統の病原性の強いノロウイルスが日本に入ってきた。これが現在日本で猛威を振るっているノロウイルスである。現在養殖生ガキは原則として生食禁止だが、新しいノロウイルスは従来あったカキ由来のウイルスとは遺伝子型が異なるので、これによって発生を食い止めることはできない。この新しいノロウイルスは感染性が抜群に強く、経口感染はもちろん、飛沫感染もあり、実に厄介だ。

2014年2月11日火曜日

突然カアチャンが急性の下痢症に

 全国でノロウイルスが大暴れしている。静岡県浜松市では、広域にわたり、十数校の学校で食中毒が発生した。どうしてこんなに広域でしかも同時に発生したのか、これは通常の食中毒とは明らかに様相が異なっていた。疫学調査の結果、同時に起きたということ、学校給食に出された給食パンが唯一共通食だということが大きなキーだった。その後の調査で、給食パンを製造していた会社の従業員の中に、下痢をしている人がいることが分かり、この人が汚染源となって起きた大規模なノロウイルスによる食中毒であったことが判明した。それにしても十数校もの学校で、患者がほぼ同時に多発したのには驚いた。ノロウイルスは 80 数℃の温度で不活化するのに、何時どんな風に付着して運ばれたのだろうか。
 ところで介護施設などでノロウイルスによる下痢症患者が発生した時には、下痢便や吐物の中には夥しい数のノロウイルスがいるので、不完全な処理をすると、途端に施設全体にウイルス汚染が拡大し、大発生となることが往々にして起きている。今は保健所などが躍起となって注意を喚起しているので、前程大きな発生は少なくなってはいるものの、それでも冬季には大なり小なり、毎年発生が繰り返されている。今のところ、ノロウイルスに対する特効薬はまだなく、予防が第一であり、とどのつまり、先ずは口からノロウイルスを入れないことが肝要で、一つには手洗いの勤行、そして食べ物はなるべく熱を通すこと、また生食の場合には特に気を配ることが必要となってくる。
 とは言っても、我が家では、私も家内も、食に特別気を配っているかというと、無関心ではないにしろ、決して傍から見て決して徳に注意しているとは思えない。時に、私の家内は市内のとある病院に勤務している。病院なので、この時期、インフルエンザの患者や冬季急性下痢症の患者が多数治療に訪れる。それで中には勤務している看護職員が、注意はされているのだろうが、時に感染して発症することがあるという。私も家内からそのことを聞き及んでいた。しかし、家内は病院事務を主務としているので、患者と直接接することは極めて少なく、そのような心配はほとんどないと思っていた。
 ところがある日、家内が突然病院から早退してきた。どうしたのかと訊くと、下痢が頻繁に起きるので帰ってきたという。家へ帰ってきて10分に一度はトイレへ行く始末。私はこれまでこんなにひっきりなしに、ずっとトイレに居た方がいいというような状態の下痢には遭遇したことはなく、暗にこれが今流行の冬季急性下痢症の症状なのかと納得した。痛みはないようだが、とにかく排便の回数がすごく多い。横になって寝てもすぐに起きねばならない始末、半日ばかりは大変なようだった。脱水症状を起こしかねないこともあって、当然体液組成成分の入った緩衝液を補充しないといけない。
 さて、家内は後日の検査でノロウイルス感染症は否定されたが、この時期、あの下痢の頻繁さからは当然ノロウイルス感染症が疑われた。咄嗟に困ったのは、着衣や使用したタオル等をどう処理するかということで、単純には熱湯消毒するとか、次亜塩素酸ナトリウム液で消毒するとかだが、これは言うに易く、行なうに難しで、これには往生した。それで思案の末、自動洗濯機に希釈したハイターと洗剤を加えて洗濯することにした。この程度の次亜塩素酸の濃度では気休めとも思えたが、洗濯ではかなりの水での濯ぎがあるので、洗濯物にウイルスが残ることは先ずなかろうと判断した。ただほかには特にドアのノブとか便器などの消毒はしなかった。家内は初日こそ 38℃を超える発熱もあったものの、3日後には下痢も発熱も治まった。発症して2日間ばかりはうどんを食べても吐いてしまい心配したが、それも本復した。ノロウイルスによる感染性下痢症の場合には、高齢者では往々にして死に至ることもあるやに聞いている。