2015年9月14日月曜日

シンリョウのジュッカイ(9)「山の唄」の思い出

 終戦になって、第九師団で主計をしていた父は、野村練兵場の土地を以前に提供した元の地主に返還する役目を仰せつかって、私たち一家は2年間金沢市寺町に住まいしていた。その後返還処理が終わって野々市の実家に戻ったが、父は公職追放になったこともあって、旧地主に認められた1町歩を旧小作の人達から戻してもらい、百姓をすることになった。全く経験がないこととあって、いずれは放棄するだろうと噂されていたという。でも協力してくれる人が現れて、どうにか稲の作付けから収穫までも出来るようになった。でも最も困ったのは肥料で、当時は屎尿を用いていたが、近隣は全て既に契約相手が決まっていて、我が家では遠く卯辰山の麓の御徒町まで貰いに行った。片道7kmはあろうか。しかも鉄輪の荷車に肥桶を積んで、香林坊の交差点を経由して行ったものだが、今では想像もできないことだった。そして帰りは味噌蔵町への長い上り坂、犀川大橋から広小路への急な上り坂は本当に大変だった。しかも南端国道は二万堂から先はずっと砂利道で、この区間も実に難儀だった。下肥は一旦槽に貯蔵して寝かして発酵させてから使うのだが、一度槽にひびが入って漏れたことがあり、大騒動になったことがあった。
 初めての田仕事も、田の荒起こしや代掻きは奇特にも請け負ってくれる人が現れ、本当に助かった。そして田植えはどうにか結いに入れて頂いて、共同で行なえるようになった。その後の草取り等は見よう見まねで行なったし、問題は個々で行なう稲刈りだった。10 枚もの田の処理をするのは、父母と私の3人のみ、とても無理なので、当初は羽咋の方に応援に来てもらって稲刈りをした。能登では、稲刈りが若干時期的に遅いこともあって、お願いすることができた。こうしてどうやら素人百姓ながら、父母の踏ん張りもあって、初年度をどうにか乗り切り、曲がりなりにも米の収穫をすることが出来た。
 話は変わって、昭和 24 年に新制大学が発足するのに合わせて、その前年に叔父が金沢大学薬学部の助教授に就任した。専門は生薬学と薬用植物学だった。第1回生の入学は昭和 24 年4月、叔父が学生の授業を持つことになるのはその1年後で、叔父はよく課外に学生と山へ出かけていた。植物採集を兼ねたこともあったようである。そして大学の方針で、薬学部は金沢城内へ移転することになり、その第1陣として生薬学教室が城内に移った。この頃一部の学生は生薬学教室へよく出入りしていて、この第一期生の学生たちが叔父の世話で稲刈りの応援に来てくれるようになった。私が高校へ入学した頃である。素人さんだが、数で勝負できた。そんな縁もあって、秋の収穫が終わったある1日、倉ヶ岳へ行くとかでご一緒させてもらったことがある。あまり天気が好くはなかったが、総勢 10 名位だったろうか、電車で日御子駅まで行き、月橋から登り、大池へ出て、岩場をよじ登って、頂上へ出た。皆さん何を履いていたか覚えはないが、中に一人、厚歯の下駄を履いてきた猛者がいた。旧制の高校生が履いていたあの厚歯である。
 帰りは岩場を通らない反対側の径から曽谷へ下りた。そして下りには雨になった。カッパや傘は持たず、濡れながら下った。しかし皆さん唄を歌いながら、自身を鼓舞するかのように元気に歩いた。唄は簡単な節だったので、私は直ぐに覚えた。それは風や雨をも吹き飛ばすような唄で、好きになった。当時メモった文句を見ると懐かしかった。しかしその後入った大学の山岳部でも、歌のサークルでも、この唄を歌ったことはなく、また山の歌の本にも収載されてはいないようだった。そして唄の文句は知ってはいたが、題名も知らず、それが9月2日の吉岡さんの夜行雨中白山登山を知って、思わず口ずさんだものだから、少し調べてみようと想った。

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