2017年4月24日月曜日

ゼレン会への近況報告(木村)

1.ゼレン会
 これは昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した同期生の会の名称で、元素番号34のゼレンに因んで名付けられたと聞いている。というのは、私は卒業時には大量に吐血して入院していて、その経緯を後になって知らされたからである。
2.現在は十病息災
 人間80歳ともなれば、健康で五体満足という人は少ないのではなかろうか。私はかなり強度の不整脈があり、それでペースメーカーを装着してもう14年、そのチェックに年に2回、金沢医科大学病院心臓外科に受診している。また50歳の時に見つかった糖尿病で、現在は3ヵ月に一度の割合で、金沢赤十字病院を受診し、フォローしている。これまでも眼(黄斑変性)や膝(半月板損傷)の手術を受けたし、ひどい腰痛に悩まされ、随分とあちこち転院して治療や施術を受けた。でも今でも痛みは時々あり、週に1〜2回は鍼灸にも通っている始末である。耳鳴りにも悩まされているが、この処置はしていない。
3.うぐいす
 家の裏には孟宗竹の薮があり、ほかにケヤキとスギの高木が各2本とメタセコイア、ブナガシワ、タブノキも繁っている。私が小さい時にはケヤキやエノキの大木があったが今はなく、今あるのはこれらを伐採した後に生育したものである。そのほかに庭には、調べたところ、現在65種の灌木が繁っている。またこれまで40種の木々が無くなっているし、昨年もコブシとエンジュが枯れて伐採した。しかしまだ繁みは多く、多くの鳥が訪れる。その中にウグイスがいる。今年は2月半ばに飛来して、4月下旬の今も終日啼いている。このような繁みのあるのは、近くにあるもう1軒と神社の繁みのみで、この範囲が縄張りのようである。また椿の木にはキジバトが営巣していて、抱卵の最中である。またカラ類のシジュウカラやコガラもよく飛来するし、ヒヨドリやオナガも常連である。また裏庭には用水が流れていて、以前魚がいた頃にはカワセミも飛来していた。
4.一部ダンシャリ実施
 家内はとある医院に創設以来31年間勤務していたが、どうやら辞表を受け取ってもらえることになり、1月末で退職できた。家内は75歳、私も辞めたのは75歳だった。医院は総員38名、全員から寄せ書きが送られ、盛大な送別会をして頂いた。ところで半数の20名ばかりが、私の家でもう一度送別の宴を設けたいとのこと、それに応えるには十分なスペースの確保が先決、それで部屋とそれに続く蔵の前に山積みになっていた諸々の物を整理した。それで市役所のエコステーションへ3日に分けて運び込んだが、これには市役所の人達もあきれ顔だった。でもまだこれはほんの序の口、まだその十数倍もの物を整理しなければならず、往生するまでには何とかしたいと思っている。しかし断捨離とは言っても楽じゃないと思った次第。残したいものは前の倉に整理して収納したいと思っているが、さて先が思いやられる。
5.叔父・木村久吉の他界
 叔父は94歳だった。伴侶を亡くしての独り身、訪問看護を受けていたが、今冬は寒いからということで介護施設で過ごしていた。それで息子さん達は在京ということで、年に一度位しか来沢されないこともあって、私達は月に3度位の目安で叔父を訪問していた。それで3月27日に訪問したときはお元気で、いろんな話をし、時に施設では料理も手伝ったとか、楽しい会話で終始した。ところが翌々日の早朝家に電話があり、前日の晩に肺炎と心不全で救急車で国立病院機構金沢医療センターへ搬送され、CCU で治療中とか。早速駆けつけると、酸素吸入はしているものの、容態は概ね落ち着いているように
見えた。でも担当の先生では、いつ急変するかもしれないとのことだった。CCU では酸素マスクをしていて会話はできないが、寝ながらだけれどもボードにサインペンで筆記はでき、希望や心境をいろいろ書いてくれた。「サヨナラ」「オワカレ」とも。家内には「たかこさん ありがとう」と。また「お水ほしい」「お酒」とも。お酒はともかく、水を非常に欲しがったが、水は誤嚥を招く恐れがあるとのことで、絶対ダメとのことだった。CCU での面接は午後2時半から3時までと決められていて、私達夫婦は毎日この時間帯に訪問するのを常にしていた。容態が安定していることもあってか、入院8日目には一般病棟に移された。でも酸素マスクは外せないこともあって、口から食事は取れず、流動食を経鼻摂取する状況が続いた。この間息子さん達も見えられ、意思の疎通はあったようだ。でも一般病棟へ移って1週間後の早朝、容態が急変して亡くなったと病院から電話が入った。亡くなったのは4月12日午前7時42分とのことだった。2人の息子さんにも早速連絡した。主治医では息子さんの立ち会いの下で死亡を確認するとのこと、一人が立ち会えたのは9時15分、だから死亡診断書の死亡時刻はこの時間になっていた。死因は細菌性肺炎となっていた。老人での肺炎は時に致命的というが、正にそうだった。高齢者の細菌性肺炎の予防接種が叫ばれているが、叔父はしていたのだろうか。
 叔父は生前「しらゆり会」に登録していて、そのことは私も何度か聞いたことがあったし、息子さん達も承知していた。亡くなった後、息子さんから金沢大学医学部附属病院へ連絡したところ、いろんな条件があったもののクリアされ、遺体の引き取りは正午ということに。それで引き取りには火葬許可書が必要とのことで金沢市役所へ。そしてもう一人の息子さんも見えられ、正午に叔父を見送った。葬儀は4年か5年後に遺骨が届いた段階で行なうことにし、取り敢えずは、檀那寺である金沢市中央通町(旧宝船寺町)の法船寺で初七日法要を行った。合掌。

2017年3月10日金曜日

久々に感動した OEK 演奏会

 4月7日の晩に OEK 第388回定期公演があった。近頃は指揮者にしても演奏者にしても、私が過去に聴いたことがあるとか、名前を知っているとかという方の演奏会は少なくなってきたような気がする。また昨年まで行われてきて人気があったゴールデンウイーク中に行われてきた音楽祭のラ・フォル・ジュルネ金沢も、今年からは「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2017」として、金沢独自の催しに変身することになった。昨年までの人気がどうなるかが気掛かりである。
 さて当日の開演は午後7時、指揮&チェンバロ演奏が鈴木優人さん、ヴァイオリンが木嶋真優さん、私にとってはお二方とも初めての人だった。プロフィールを見ると、鈴木さんはオランダ生まれの56歳、東京芸大大学院修了、オランダ・ハーグ王立音楽院修了という経歴で、現在は NHK FM の「古楽の楽しみ」のレギュラーだとか、鍵盤 (チェンバロ、オルガン、ピアノ) の奏者で指揮者、バロックから現代音楽までこなし、舞台演出から作曲までこなす寵児とか。一方の木嶋 (きしま) さんはまだ30歳そこそこの綺麗な方、ケルン音楽大学大学院を首席で卒業、昨年のアイザック・スターン国際ヴァイオリン・コンクールで優勝されたとある。そして使用している楽器は貸与されているストラディバリウス1700 製の Ex Petri とある。
 最初は大バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調、この第2曲目にはよく知られる「G 線上のアリア」の「エール」が入っている曲である。鈴木さんはチェンバロを弾きながらの指揮だったのと、オーケストラの音響が大きかったこともあって、聴いていてどちらつかずの演奏になったような気がした。だからこの演奏会もこの時点までは、予想通り今回は余り期待できないのではと思っていた。チェンバロの演奏が入るのなら、管弦楽の規模をもっと小さくすればよいのではと思った。ただフルメンバーの3分の2ではあったのだが。
 さて次いでは木嶋さんの独奏でモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」、よく知られている曲だ。モーツアルトには確実に彼自身の作とされるヴァイオリン協奏曲が5曲あるが、何故か5曲とも19歳の1775年に作曲されていて、それ以降には全く作曲されていないのも謎の一つになっている。そしてこの曲の通称名は、第3楽章に出てくるトルコ行進曲の特徴的なリズムによっていることもよく知られている。さて曲が始まった。颯爽とした力強さと細やかさ、それにストラディバリウスが醸し出す優雅なホール一杯に響き渡る素晴らしい音色に度肝を抜かれた。正直言って実に驚いた。こんなに素晴らしい演奏は久しぶりだった。それと若々しい清純なお色気、凡そ30分ばかりの演奏だったが、実に素晴らしく感動した。正に万雷の拍手、スタンディングオベーションをしている人も数十人、私は立ち上がらなかったが、それでも力一杯の拍手を続けた。そして何回かの挨拶の後、これに応えてアンコールをしますという。でも私独りではできないので、指揮者のピアノ伴奏で行いますという。前が広く空けられ、ピアノが運び込まれた。曲はグラズノフ作曲の瞑想曲、ピアノ伴奏のヴァイオリン曲、5分ばかりの優雅な曲、実に素晴らしく、再び万雷の拍手、本当に惜しみない拍手が会場一杯に鳴り響いた。素晴らしかった。
 20分間の休憩の後は、OEK フルメンバーによるベートーベンの交響曲第2番ニ長調、指揮者の鈴木さんはこの曲の指揮で正に真価を発揮されたような気がした。9曲ある交響曲の中では比較的演奏機会が少ないとはいえ、ベートーベンが難聴の進行に気付き「遺書」を書いた時期に作曲されたことで知られる。4楽章を通して、鈴木さんの素晴らしい迫力ある演奏は聴衆を完全に虜にしてしまったようだ。これが鈴木さんの真価なんだと聴衆が納得させられた演奏だった。演奏に酔いしれた後は素晴らしい拍手の嵐、またもスタンディングオベーションが起きた。鳴り止まない惜しみない拍手の嵐、35分ばかりの演奏の一瞬一瞬に、本当に心が揺さぶられる感動を味わった。ありがとう。本当に有り難う。
 鳴り止まない拍手に応えてのアンコール曲は、モーツアルト作曲の「フィガロの結婚序曲」、皆さん周知の優雅な流れるような楽しい曲、興奮を鎮める清涼剤とでも言える演奏に皆さん聴き入っていた。再び万雷の惜しみない拍手の嵐、指揮者の鈴木さんは何回も何回も挨拶に出て来られた。そして最後にスタッフ全員で挨拶され、素晴らしい演奏会は幕を閉じた。いつもは終わると皆さん出口へ殺到されるのに、この日はこの感動に酔いしれたのだろうか、席に座ったままの方が多く見受けられた。本当に素晴らしかった。
 追記:この日のコンサートマスターはゲストの水谷 晃さん、特にベートーベンの交響曲第2番では、指揮者の鈴木さんに呼応して、実にオーバーとも思える弾き振りが実に印象的だった。これぞコンサートマスターのお手本ともいうべきか。

これからの探蕎会の運営

 平成29年の探蕎会の総会が2月26日の日曜日に ANA ホリデイ・イン金沢スカイホテル10階の「白山」で開催された。よころで昨年暮れに開かれた世話人会で、前田事務局長からの報告では、年々会員数が少なくなる傾向にあり、何とか対応策を講じないといけないとの発言があった。振り返ってみて、総会の出席者数を見ても、多いときは80名を超えていたのに、昨今は30名前後で推移していたのに、今年はたったの18名と、これまでで最も少ない参加者数となった。
 この現状にどう対応するかが問題なのだが、一案としては、会をより緩い関係の同好会的な雰囲気の会にすればという案が出された。そこで現在ある会則を改めること、行事ごとに何方かにお願いしていた原稿執筆依頼を止めて、単に記録を残すに止めること、従ってこれまで最低年2回は発行していた会誌の発行を年1回とし、配付は総会時に行なうこととし、そうすれば年会費は1千円でよくなること等の案が事務局から出された。
 総会当日、寺田会長は奥様が亡くなられるというご不幸があり出席されなかったが、永坂副会長の挨拶の後、約1時間をかけて、これからの会の在り方について討論した。ただ総会では新しい会則の承認までは漕ぎ着けられなかったものの、大筋では事務局案に添ったものになるであろうと思われる結論に至った。主な改正点の案は次のようである。
 ・永世会長、顧問、副会長、会計監査等の役職をなくする。
 ・総会は年1回とし、総会での審議事項を明記する。
 ・会費は年額1千円とし、会計年度を4月1日から翌年3月31日とする。
 ・総会は4月に行う。
 また会の名称について、名称を変えてはという意見も出されたが、前田事務局長から、この会の設立に当たって、発起人の故波田野前会長が「探蕎会」という名を提唱された旨の発言があり、会名はその主旨を踏襲する意味からも「探蕎会」の名は継承するのが妥当との意見が圧倒的に多く、これはそれで良かったと思う。
 約1時間の議事と討論の後、記念撮影をし、大滝さんの乾杯で宴会となった。そして例年恒例となった大滝さんが描かれた秋刀魚と果物の絵2点の紹介があった。そして今年の特筆すべきは新入会員の加入であった。松川会員の紹介で入会された磯貝さんで、以前はそば打ちも自身でされたことがあるとか、42歳の好青年、内灘町の町会議員をされているとか、新風が吹き込まれたような清々しさを感じた。終わりに近く、斎藤千佳子さんのヴァイオリン伴奏で「ふるさと」や「荒城の月」を合唱、更に永坂副会長が外国の方がよく演奏を所望されるという「さくら」をというリクエストに応じて、アンコール独奏もされた。こうして総会は永坂副会長の挨拶があって閉幕した。

(閑話休題)
 2月下旬、そば処「敬蔵」から、開業15周年を期して、この3月から月替わりで、これまでの細打ち、太打ちのほかに「創作打ち」を供することにしたという案内があった。そしてその案内では、その「創作打ち」の第1弾として、3月は『極あらびき十割そば』を提供するとか。ただ但し書きには「前もって言っておきますが、粉が粗挽き過ぎて麺がつながりません。切れっぽいですが、それに替わる独特の食感・風味が楽しめるはずです。」とあった。そして続いて「勝手ながら『創作打ち』はその主旨から、もり (900円 )、合盛り (細打ちとの合もり 1000円 ) のみの提供となります。」とあった。そしてこれからも『焙煎そば』や『挽き割りそば』、新茶の季節の『敬蔵の茶そば』など…アイデアいっぱいため込んでありますので御期待下さい、お待ちしておりますとあった。
 それで3月7日 (火) のお昼に、久々に「敬蔵」へ寄った。半年ぶりだろうか、随分御無沙汰していた。注文したのは、家内が「創作打ち」の「もり」、私は「合盛り」を所望した。飲み物は焼酎の蕎麦湯割り、つまには定評ある鴨肉と蕗の薹味噌を頼んだ。敬蔵の鴨肉は定評があり、私は蕎麦屋では最も格が上だと思っている。とにかく旨い。ややあってまず家内にそばが、でも見た目にはとても粗挽きとは思えない程のなめらかさ。粗挽きと言えば、あの鳥越左礫の「蕎麦やまぎし」の「極太粗挽き」はこれこそ粗挽きという印象がすこぶる強いが、それに比べると、実に上品でなよなよした感じがして、とても「極粗挽き十割そば」には見えない。山岸のは13メッシュで篩っているが、敬蔵のはもっと細かいのでは、したがって私が頼んだ合い盛りも同じで、細打ちも粗挽きの細打ちではないのではなかろうか。敬蔵のそばは常々十割なのだが、案内の粗挽きには期待していただけに思惑外れだった。やはり「田舎粗挽き」は「蕎麦やまぎし」に限るようだ。


2017年2月10日金曜日

家内が舩木医院を退職(その3)

(承前)
「寄せ書きの続き」
★「木村さん♡ 本当に本当に お世話になりました。ありがとうございました。お身体に気を付けて!
 また会いましょう♡」 S  Y
★「木村さん〜 たいへんお世話になりました。いつも明るく・元気。木村さん、ありがとう。」 C  O
★「木村さん。大変 お世話になりました。心より感謝しています。これからの人生も、もっと謳歌して 下さい。お疲れ様でした。」 N  F
★『おつかれさまでした! 私のステキなお手本でした。有難う!」 Y  Y
★「お世話になりました。お元気で。」 M  O
★「感 謝」 T  M
★「お元気で!」 J  H
★「木村さん!! 私まだ嫁に行っていないんげんけどー!!! 娘のようにかわいがってもらって 本 当にありがとうございました。」 Y  K
★「おつかれさまでした。自家焙煎のコーヒー 飲みにお立ち寄り下さい。ありがとうございました。」
 T  Y
★「木村さん おつかれさまでした。顔がみられなくなると淋しいですけど また顔を見せにきて下さ  い。マッテマス。」 E  A
★「いつも 素敵な 笑顔で♡ 元気を いただいてました。」 H  H
★「”ありがとうございました。まだ実感がわかないケド。。その一言につきます!」 Y  N
★「♡出逢いに感謝♡ 泣いたり、笑ったり…… かけがえのない時間を ありがとうございました。   いつまでも元気でいて下さいネ!!!」K  D

閑話休題:舩木悦郎先生を想う
1.共に山へ出かけた想い出
 先生は山歩きがお好きだった。開業される以前はどうだったのかは知らないが、開業されてからは、病院の職員を誘ってよく山へ出かけられていて、時に私にもお声がかかり、何度かご一緒した。金沢大学医学部には古くから山岳会があり、一方で白山や立山に診療所を開設し、山好きの連中が属していて、私も金沢大学の山岳部に籍をおいていたので、彼らとも交流はあったが、先生はこれらには所属されてはいなかったようだ。でも山好きだったことには間違いはなく、遠くボルネオのキナバル山にも行かれたということを聞いたことがある。ここでは私が先生や舩木病院の職員の方達と一緒に出かけた山々を思い出してみたい。いずれの山行も日帰りだった。思い出すままに書き出してみたい。
★赤兎山 (1629 m)  石川県白山市と福井県大野市との境にあり、福井では最も人気の山。白山国立公園内
★小白木峰 (1437 m)  富山県富山市と岐阜県飛騨市の境にある。頂上一帯には池塘が散在している。
★夜叉ヶ池山 (1212 m)  福井県南越前町と岐阜県揖斐川町の境にある。伝説に出てくる夜叉ヶ池の上。
★袴腰山 (1150 m)  富山県南砺市にある。山の下には東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。
★大門山 (1572 m)  石川県金沢市と富山県南砺市の境にある。加賀富士ともいわれる秀麗な山。
★冠山 (1257 m)  福井県池田町と岐阜県揖斐川町の境にある。特異な山貌。残したい日本の自然百選。
 このような病院職員との山歩きが長じて、私は請われて数回にわたって白山などへ職員の方々を案内した。ある時、御来迎 (ブロッケン現象) に遭遇したことがあった。私は後立山連峰で何回か出くわしていたが、でも白山では初めて、連れの人達は大感激だった。
2.共に出かけたスキー行
 先生はスキーもお好きだった。とりわけお上手ではなかったが、堅実な滑りで楽しんでおいでた。スキー行では、病院の職員のほかに、プロパの方達も参加されるのが常で、賑やかだった。
★朴の木平スキー場:私は都合2回参加した。宿は新平湯温泉のとある先生馴染みの温泉宿で、古い感じの宿だが、よく気心が知れていて、随分居心地がよかった。まだ平湯トンネルが開通しておらず、スキー場へは雪の平湯峠を越えて行った。宿でのスッポン鍋は実に豪快で美味しく秀逸だった。
★野沢温泉スキー場:1年前に予約しておかないと泊まれないという温泉宿、先生は毎年行かれているようだったが、一度ご一緒したことがある。その折、素晴らしいダイアモンドダストに出くわしたが、実に感動的だったことを思い出す。
★ダイナランドスキー場:両白山地の南端に位置する大日ヶ岳の山麓にあり、日帰りで出かけた。
3.釣り
 先生はヘラブナ釣りに興味を持たれていて、よく出かけられていたようだ。でも私はご一緒したことはない。そんな折、いつか大きなスッポンを捕られ、拙宅へ持っておいでになったが、とても私には捌く能力などなく、それでどこかの料理屋に持って行かれたが、どうして捕まえられたのかは聞けず仕舞になった。無想の境地を愛される一面もあった先生だった。
4.写真
 カメラは数台持っておいでて、先生が亡くなられた折、奥さんから形見に大判のカメラを頂いたが、私にはとても使いこなせず、そのままになっている。

2017年2月9日木曜日

家内が舩木病院を退職(その2)

「退職に当たっての職員皆さん方からの寄せ書き」
 送別会の当日、職員皆さん方全員の寄せ書きの色紙を頂いた。了解を得て再掲する。

色紙中央の大きな丸枠に、家内の似顔絵と下に大きく「木村さんおつかれさまでした」の文字と当日の日付「2017.1.31」
「寄せ書き」左上から右下へ (順不同)
★「♡木村さんへ♡ おつかれ様でした。そして大変お世話になりました。木村さんの凛とした姿勢に  いつも憧れていました。また ”喝" を入れに来て下さい。待ってます。」 J M
★「感謝しかないです。本当にありがとうございました。」 A T (事務長)
★「木村さん♡ 本当にいろいろと ありがとうございました。お体に気をつけて 無理をしないで下さ いネ。」 M H (看護師長)
★「一番つらかった時 一番お世話になりました。本当にありがとうございました。幸せです。」 C K
★「(あ) さいーって (リ) ュックサックの私にいつも (が)みがみ怒らせてしまったけど (と)っても  木村さんの気持ちを感じて (う)れしかったよ」  N K
★「いつも気にかけてくれて 本当にありがとうございました !! 感謝です!」 Y K
★「長い間 お疲れ様でした。いつも暖かい言葉ありがとうございました。心の支えになりました。これ からの人生は、木村さんだけのもの。木村さんらしく 楽しく送って下さい。体に呉々も気を付け   て!!」 M H
★「いつもいる3F に木村さんがいないと淋しくて泣きそうです。温かい言葉をかけてもらい うれし
 かったです。ありがとうございました。」 M S ♡
★「木村さん♡ ほんとにお世話になりありがとうございました。感謝しきれない思いでいっぱいです!
 木村さん大好きです♡」 H T
★「長い間お疲れ様でした。いつも気にかけて下さり、本当にありがとうございました。いつまでもステ キな木村さんでいて下さいね。またマルエーで会えるといいな♡」 M I
★「木村さんへ♡ 長い間お疲れ様でした。大変お世話になりました。♫また会う日まで〜♪ ♪会える 時まで〜♫ ありがとうございます。」 Y A
★「♡木村さん♡ いままで本当にありがとうございました。いつも、はげましてくれたり、怒ってくれ たり……。そんな木村さん…感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう♡」 T I
★「木村さん。たくさん たくさん ありがとうございました。いつも木村さんの笑顔を見ると安心して いました。おつかれ様でした。」 K N
★「いろいろ仕事でお世話になり、ありがとうございました。いつまでもお元気で。」 K K
★「〜木村さん〜 長い間お疲れ様でした。言葉にできない程お世話になりました。(子供達も…)あり  がとうございました。」 S M
★「きむちゃん〜♡ よ〜頑張った!! エライ!! すごい!! よ〜世話になった!! ありがと  う!! 今後もどーぞよろしくお願いしますヨ♡♡」 H Y
★「本当にありがとうございました。お身体を大切に!」 K F (院長の母)
★「木村さん 淋しくなります!! いろんな事で アドバイスもらったり 背中を押してもらったり  ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。ずっと元気でいて下さいネ。」 E M
★「木村さんへ。短い間でしたが ありがとうございました。長い間ご苦労様です。最後に お世話をお かけして 申し訳ありません。」 M K
★「ありがとうございました。」 K F (院長)
★「ずっとずっと 大好きです。ずっとずっと 元気でいて下さい!!」 M M
★「木村さん!! 短い間でしたが 大変お世話になりました。ありがとうございました。車の運転には 気をつけて下さいネ。」 T F (院長夫人)
★「木村さんへ、私の話をいつも親身になって聞いてくれて、時には厳しく接してくれてありがたかった です。お世話になりました。ありがとうございました。」 M F
★「木村さん♡ 長い間お疲れ様でした。いつもいつも優しく温かい言葉に支えられました。感謝の気持 ちでいっぱいです。ありがとうございました。大好きです♡」 K Y                                      (続く)

家内が舩木医院を退職(その1)

「はじめに」
 家内が勤務していたのは、野々市市にある内科/外科を標榜する「舩木医院」である。家内はこの医療機関の創設時からのメンバーで、ほかにも数人いるが、年かさでは最年長である。家内は昨年11月には満75歳となり、以前から辞意をもらしていたが、先ずは後継者の育成を頼まれ、それに2年ばかりを要したようだ。職務は医療事務なのだが、その守備範囲は医療行為以外の諸々の分野にわたっていて、金銭・物品出納事務のほか、対税務署、対社会保険事務所、対保健所、対労働基準監督署への対応、加えて職員からの苦情相談などにも応ずるといった具合である。目処がたった以降も何度か辞意を表明したが、その度に慰留され続け、でも漸く院長先生から許可が下りて、退職できることになった。
「プロローグ」
 この病院の開設者は舩木悦郎先生で、金沢大学医学部を卒業され、開設直前には金沢赤十字病院内科医長をされていた。私の父がずっと背の痛みを訴えていて、あちこちで診察を受けたが痛みの原因が分からず、その後日赤病院へ診察に訪れた時の担当が舩木先生で、その後先生の診断で、痛みの原因は肝臓がんからきていることを知らされた。当時私は石川県衛生公害研究所に勤務していて、日赤病院と隣り合わせだったこともあり、先生から急に呼び出され、その結果を知らされたことを思い出す。その時にはもう末期で、そのまま入院したが、そのf後程なくして父は他界した。
 当時先生は野々市町に在住されていて、先生の奥さんはバドミントンの愛好者で、一方家内も好きだったこともあって気が合い、野々市町にママさんバドミントンクラブを創設させた。そんなこともあって、先生とは家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いた。だから先生が野々市町で開業を決意されて以降、諸々の準備に家内もいろいろ手伝うことになった。そして昭和60年7月に「舩木内科外科病院」が開設された。院長は長男の先生で内科、次男さんは事務長、三男の先生 (金沢大学医学部卒) は副院長で外科担当、病床数45の病院の誕生である。私も開院の祝賀会に招かれたが、大変盛大だった。
 その後病院は長男先生が他界されて、次男先生が院長になられた。その後次男先生も他界された後は、一時次男先生の奥さんの弟さん (金沢大学医学部卒) が院長をされたが、現在は次男先生の長男 (宮崎大学医学部卒) の方が院長をされている。この間名称は「舩木内科外科病院」から「舩木病院」、そして現在は病床数19の「舩木医院」として、爾来31年有余にわたって、地域医療に貢献してきた。そして家内は4代の院長先生の下で、病院事務に携わってきた。
「送別会は1月31日」
 送別会は偶然か勤務最後の日に設定された。でも最後のご奉公と言うべきか、その日の午後に保健所の監査が入った。正に最後のご奉公となった。送別会は金沢市内のとあるレストランで行なわれ、全職員の6割ばかりの方達が出席されたとか、送別会でこれ程多くの方が出席されたのは初めてとか、大変嬉しいことである。それに非番でなかった方々、家庭の都合で出られなかった方々、また既に退職された方々で、後日改めて送別会を企画されているとか、何とも大変嬉しいことである。また3月下旬には、有志の方々が我が家へ押し寄せる計画もあるとか、これだけ皆さんに愛され慕われたということは、家内にとっては望外の喜びだったろう。私としても大変誇りに思っている。有難いことだ。
 家内は退職に当たって、全従業員に心ばかりの品と、一人一人に想いを込めたメッセージを書いて渡したという。その内容は知らないが、多分心のこもった文だったのだろう。
 また沢山の餞別の品々や花々を頂いた。送別会では25本の深紅の薔薇の花束を頂いたし、ほかにも色とりどりのストック百本もの花束とか、青・赤・ピンクの薔薇や黄色のシンビジュウムなどを組み合わせた花束とかを頂戴した。心から感謝している。
「送別会での挨拶」
 家内は退職にあたって、盛大な送別会を催して頂いた折、会の最後に皆さんにお礼を述べた。家内からその原稿を見せてもらったので、ここに再掲する。
「退職に際しまして、一言ご挨拶申し上げます。今日この日を迎えるに当たって振り返って見ますと、悦郎先生、宏美先生、健一郎先生と三代にわたり31年もの長きにわたって勤務することが出来ましたのも、ひとえに本当に素晴らしいスタッフに恵まれたからと心から感謝いたしております。今日無事にこの日を迎えることが出来ましたのも、それは素晴らしくそして優しい皆さん方達と一緒に仕事が出来たからこそと思っております。そして今日は私のために、このように盛大な送別会を催して頂きまして、本当に有り難うございました」。 

2017年1月7日土曜日

平成28年の師走を振り返る

3日(土) OEK 第384回定期公演(マイスターシリーズ)
 この日の指揮者は OEK の名誉アーティスティック・アドヴァイサーのギュンター・ピヒラー、ピアノはモーツアルト国際コンクール優勝者の菊池洋子、モーツアルトとロッシーニの曲が各2曲演奏された。曲目は前半がロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲とモーツアルトのピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K. 537 、後半はロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲とモーツアルトの交響曲第36番ハ長調「リンツ」K. 425 、4曲とも比較的よく演奏される曲とあって、リラックスして聴くことができた。それにしても名指揮者のピヒラーさんの指揮ぶりは実に端正で丁寧、実に清々しかった。また日本を代表するピアニストの一人でもある菊池さんの演奏は華麗で躍動的だった。この日の4曲の演奏には実に感動した。
4日(日) 木村家御十夜
 浄土宗でいう御十夜とは浄土真宗でいう報恩講にあたる。いつも毎年暮れの12月に行なっている。今年も妹夫婦、次男家族、故三男家族がお参りしてくれた。導師は金沢市中央通町 (旧宝船寺町) にある佛海山法舩寺の住職、ほぼ1時間の法要だった。
5日(月) 耳順会忘年会
 耳順会は平成15年に、あるきっかけで生まれた金沢泉丘高校第7期卒業生有志の会のことで、当初は15名で発足したが、既に4名が他界してしまった。この会は3ヵ月毎に開くことにしていて、12月は温泉で1泊することにしている。今年の宿は山中温泉の「よしのや依緑園」、以前は大変格式の高い旅館だったが破産し、現在は湯快リゾート傘下のグループになっている。この宿、食事は申し分ないが、人件費を極力抑えているのが伺われ、ただその分大変廉価なのが驚きだ。この宿には能舞台もあり、格式は随分と高い。でも今は客層は老若男女と様々、随分と多彩な人が利用して賑わっているようだ。聴けば半年前の予約解禁時期に申し込まないと予約しづらいとかだった。今回は6名の参加だった。
15日(木) OEK ファンタスティックオーケストラコンサート
 今シーズンのこのシリーズは、県立音楽堂洋楽監督の池辺晋一郎の企画で、延べ5回に渡って行なうクラシック・ベスト100の第1回の演奏会。この日のテーマは「モーツアルト」、全部で8曲紹介するとあって、どうしても端折らざるを得ないこともあって、随分中途半端な企画だと感じた。指揮は新進気鋭の田中祐子、若さを売りにしたピチピチした指揮ぶりだったが、はしゃぎ過ぎな嫌いがあって頂けなかった。その外に歌曲とオペラのアリアが8曲、スクリーンに登場した名曲が4曲、それにお喋りも付いて凡そ2時間半、盛り沢山過ぎて、器からこぼれ落ちた感があった。
16日(金) 今冬初の積雪
 朝起きると何と初雪、5cm ばかりだったが、車に積もった雪は除かねばならなかった。でも日中は晴れて気温も上がり、午後は身障者の ETC 割引の手続きに市役所へ出向いた。
17日(土) 湧泉会例会
 毎月第3土曜日の11時半に、耳順会のメンバーの有志が、金沢ニューグランドホテルで昼食を共にして駄弁ることにしている。話題は実に多岐にわたり、しかも次から次へと、よくぞと思う程の話題の提供と談論、この日も切り上げたのが午後4時、正に老人の井戸端会議、こうも長いと少々食傷気味になってしまう。ホテルでは招かざる客なのでは?。6名参加。
18日(日) 新築マンションの内見と探蕎会世話人会
 次男が銀行マンで相続税対策もやっていることから、その節税対策の一環として、私にも借金をしてマンション経営をと勧められた。もっとも相続税を支払うのは当人であるからして、それに乗っかることにした。6月下旬に基礎工事に入り、8月27日に地鎮祭、そしてこの日敷地222坪に鉄骨3階建て、1階は駐車場や物置、2階3階に 1LDK 16 室のマンションが出来上がった。名称は「木村」のフランス語表記の「ボワ・ヴィラージュ」にした。ところでこの名前をインターネットで見てみると、全国で同じ表記が3件、似た「ボア・ヴィラージュ」が7件あったのには驚いた。来る4月には満室になって欲しいものだ。
 そしてこの日の夕方6時から探蕎会世話人会の忘年会が、この3月末で建て替えのため閉店になる金沢都ホテルの「杜若」で行なわれた。金沢駅には6時前に着いていたが、6時半とばかり思い込んでいたものだから、家内から連絡を受けて出向くと、既に皆さんお待ちで大変恐縮した。今後の探蕎会の在り方についても、いろいろ意見が交わされた。
20日(火) 日赤内科で糖尿病外来での定期検診
 3ヵ月に一度、指定された日に検診を受けている。このところは小康状態が続いている。
21日(水)〜  31日(土) 押し詰まった年末の繁忙期の11日間
 暮れが押し詰まっても、マンション関係の手続き事務や財務処理の事前相談、それに生産組合の事務引継や前々から頼んであった家の修繕の立ち会い等々、それに家の片付けや掃除、正月用品の買い物やお歳暮のお返し、それに楽しい会食が3件、入院している叔父への訪問が2回、そして30日からはお正月料理作り、そして大晦日。暮れから正月にかけては、長男家族4人、次男家族が4人、故三男家族が3人が一堂に会することに。慌ただしさと楽しさのひととき。