2017年6月21日水曜日

東京からの客人を誘って「やまぎし」へ

 4月下旬に家内と信濃の中の湯温泉へ行った折、上高地を散策した後、昼食を宿に戻ってざるそばを食べることにしていた。ところでこれには予約が必要で、お願いしたところ OK だという。これを聴いていた東京から来たという女性が、私もお願いしますと頼まれていた。件の女性は見るからにキャリアウーマンという感じだった。でも前日の夕食でも、当日の朝食でも話す機会はなく、また翌日の上高地行きでも、全く話す機会はなかった。上高地から宿への帰りは、一旦路線バスで中の湯のバス停まで行き、一旦近くにある中の湯温泉の連絡事務所へ入り、ここから迎えの車の手配をお願いすることになっている。彼女とは上高地からの路線バスでも一緒、事務所でも一緒、それで事務所では彼女とはそれとなく家内が話をしたようだった。しばらく待って迎えのバスで宿に戻り、一緒に昼食のざるそばを食べた。3人のみとて、漸く話の糸口が見つかり、その後いろいろ会話した。
 訊ねると、彼女は世界各地へ旅行しているとのこと、そしていつも一緒な相棒は同級生だという。外国ばかりではなく、国内もあちこちに出かけられている様子、その上「そば」もお好きだとか。話が弾み、それで家内も一口乗って、「やまぎし」の極太の粗挽きそばの話を持ち出した。するとそれを一度食べてみたいとのこと、じゃその折は案内しましょうと。家内は携帯電話の番号を教えて、お出でる時は連絡して下さいと言って別れた。彼女は宿の車で、朝一緒に上高地へ行った外人夫妻を迎えに再び上高地へ行き、それから松本駅まで送ってもらうとかだった。私達も車で飛騨古川を経由して家に帰った。
 それから1ヵ月ばかり経った5月下旬、宿で会った件の女性から電話が入り、6月16〜17日の土日に友達3人と金沢へ行きますとのこと、それで17日の日曜日に件の「やまぎし」へお願いしたいとのこと、折よく行事もなく、御案内しますと家内は返事していた。その後お一人は子供さんが病気になったとかで、お二人を案内することになった。
 この方達はいつもグループで行動されているようで、金沢は初めてとのことだったが、私達が案内するまでのことはなく、事前にネットで十分に検索されていて、後でお聴きすると、私達よりはるかに上手なプランを立てておいでで、しかも格安で便利な方途を考えられていて、感心してしまった。もちろん「やまぎし」のことも、事前に調べられていたのは言うまでもない。
 6月17日の朝、9時半に宿舎の「兼六荘」へ迎えに行く。ここは私学共済の宿舎で、何度か東京の叔父を迎えに行った記憶がある。今は正式には「ホテル金沢兼六荘」と呼ぶとか、通りを挟んだ向かいには、金沢城公園への甚右衛門坂口がある。ここで信州で会った S さんと、彼女の友人の K さんを載せて、旧鳥越村左礫へと向かった。
 話を伺っていると、土曜の1日はかなり濃密なスケジュールだったようだ。メインは友禅の浴衣を着てのひがし茶屋街の散策、昼は玉泉園で昼食、その後兼六園や金沢城を巡られた由、中々旅慣れておいでだ。それで当日のスケジュールを訊くと、高崎在住の K さんは金沢発 14:50 発の「はくたか」で、S さんは 16:47 の「かがやき」で帰られる由、それで金沢駅へ午後2時と4時に寄られるように車を走らせることに。2人を乗せた後、いつものように山側環状道路から手取川を渡り、大日川を遡行する。そして左礫にある「やまぎし」に着いたのは 10 時 30 分、開店1時間前、待つことにして中へ入れてもらう。注文は「田舎粗挽き」「天ぷら」を各4、隣の渡津部落の蛍米の「おにぎり」を2個、そして小生
の焼酎「財宝〕2杯。待つ間、昨年夏に「男の隠れ家」別冊で紹介されていたのでお見せした。K さんの旦那さんは殊の外そば好きとかで、資料をスマホに収めておいでた。
 今日は予約で満員の由、それであってか、11 時にはもう粗挽きが出された。今日は5人体制 (山岸さん夫妻、弟さん夫妻、妹さん)、11 時までに私達のほかにも3組8人が席に着いていた。訊ねると、定刻の 11 時 30 分にはライダー一行 46 人が予約済みとか、凄い人気だ。粗挽きはヒマラヤの岩塩でも食べることを勧める。こんなのは初めてだと彼女たちは驚いておいでだった。天ぷらはもう粗挽きを食べ終わる頃に出てきた。おにぎりは彼女たちが食べたが、実に美味しそうだった。そして終わる頃に、自動二輪の大部隊が到着した。良いタイミングで席を譲れた。
 2時まで1時間半あるので、五十谷の大杉を見て帰ることにする。一旦本流の谷を下って神子清水から相滝へ、ここから支流の堂川を遡って五十谷の八幡神社境内にある石川県天然記念物の大杉を見に行く。弘法大師ゆかりの杉とか、横に張り出した太い力枝は実に圧巻だ。以前この神社の隣には、後藤さんという人が「登竜門才次郎」という蕎麦屋を開いていて、そばと岩魚が売りで、「男の隠れ家」にも紹介され、知る人ぞ知る評判の店であったが、今はなく、荒れ果てている。その後車でさらに奥へ進み、尾小屋と阿手とを結ぶ道路を左折した後、旧鳥越高原大日スキー場の脇を通り、大日川に沿って下流へ、そして再び左礫に出た後、朝来た道を金沢へ、途中我が家の前を通って、定刻に金沢駅へ着いた。そしてもう一人の S さんは少々時間があるので、その後国道8号線沿いにある「箔一」へ案内した。金箔の生産量の 95 %は金沢での生産とか、だからか特に県外からの人達の見学が多い。私達が寄った折にも、2台の県外の大型バスが駐車していた。その後金沢駅へ。彼女たちは今秋は中国奥地への探訪を計画しているとか、快活でとんでいる女性連だった。

2017年6月12日月曜日

微生物学教室に2年間在籍した想い出

 私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業し、石川県衛生研究所へ薬剤師として採用された。県では当時能登地区での河川水による簡易水道の普及に力を入れていて、その水質検査に追われていた。ところで当時の石川県は全国有数の結核と赤痢の王国とまで言われていて、折しも起きた大規模な集団赤痢が発生した折、私はその応援に駆り出された。化学検査から全く未知の細菌検査へ、当初苦労したが、1年もやっていると元へ戻れなくなっていた。そこで金沢大学医学部衛生学教室から赴任されていた三根先生の働きで、私が国立公衆衛生院の微生物コースを受講し、3ヵ月後に帰任した際、今後衛生研究所でもウイルス検査をしなければならなくなるということで、金沢大学微生物学教室へ三根先生と同道し、西田先生にお願いし、波田野先生の下で専修生として御指導頂くことになった。昭和37年4月のことである。当時の教室は重厚な木造2階建ての建物、1階が微生物学教室、2階が衛生学教室だったように記憶している。
 当時衛生研究所は (旧) 石川県庁の裏手にあり、半日勤務の後、午後2時頃から7時頃まで教室にいた。当初波田野先生からは空気のような存在であれと言われ、当時助手だった森田さんの手伝いに徹した。彼は金沢泉丘高校の1年後輩で理学部出身、特にウイルス検査に必須のガラス器具の洗浄には特に慎重でなければならず、これには大変気を遣った。そして間もなく、波田野先生は2年間の米国留学に出かけられた。この間私は森田さんから、ウイルス検査の基礎となる組織培養やふ化鶏卵でのインフルエンザウイルスの増殖の手技を教わった。これはそれまで国立予防衛生研究所がやっていた冬季のインフルエンザ流行時の検査を、地方の衛生研究所でやらねばならなくなった時に大いに役立った。
 ところで昭和39年4月、前年創設された癌研究施設にウイルス部門が追設されることになり、その部門の教授に留学から帰任された波田野先生が就任され、私も微生物学教室から癌研究施設に移ることになった。しかしまだ研究室はなく、以前の助教授研究室での研究は続いた。森田さんの指導のお陰である程度の技術はこなせるようになり、波田野先生からは帰任後に、先生が持ち帰られたインフルエンザ株の株間の差異を血清学的に解明するテーマを頂き、微生物学教室の一画で没頭した。しかし1年後にはプレハブの新しい施設が出来上がり、そこへ引っ越した。
 当時の微生物学教室には何故か耳鼻科の先生方が多く、野球好きだった西田先生の下、1チームが作られていたようで、雨の日など、廊下では西田投手と森田捕手のコンビでの投球練習が見られたものだ。そして教室には、薬学部の1年後輩の山岸さんが、もう学部在籍の頃から微生物学教室に所属されていて、そんな縁もあって所属されていた他の専修生の方々とも顔見知りになった。貴重な経験だった。
 その後癌研究施設の方は結核研究所と合併し、組織も新しく「がん研究所」となり、建物も医学部敷地に新設された。私も正式にテーマを与えられ、昭和49年には、波田野先生の主査、西田先生の副査で学位審査が行われ、翌昭和50年2月には学位が授与された。そして2年ばかりだったが微生物学教室に所属していたこともあり、西田先生の特別なお計らいで同門会の末席に名を連ねさせて頂くことになった。そしてその後2回ばかり同門会の幹事もさせていただいた。随分昔のことだ。

「注」上記の文章は、同門会誌の「楷樹2017〜金沢大学医学部微生物学教室同門会〜」への投稿原稿である。

2017年5月28日日曜日

初めての「いしかわ動物園」

 当初、長男との恐竜博物館と越前海岸へのドライブを5月8日に予定していたが、それを5日に実行してしまったので、8日に空きができた。どうも5日に私が地元にある「いしかわ動物園」に行ったことがないと話していたらしくて、この日動物園へ行かないかと打診があった。委託してあった田植えも終わっていたので、一緒に出かけることにした。

「いしかわ動物園」 石川県能美市徳山町 600
 長男が帰郷したのは5月3日、出入り1週間で9日に帰浜するという。8日の9時過ぎに家を出た。通称加賀産業開発道路の県道22号線を旧辰口町へ向かう。辰口温泉 への分岐を過ぎると、左手に大きく動物園入り口の案内板、この道路はよく利用していて、この看板はよく目にしてはいるが、この動物園前の交差点を今まで左折したことはない。
 交差点から動物園入り口まではかなりの距離があるようで、一般道から取付け道路へ入ってからもかなり距離があるように感じた。後で気付いたのだが、目的の駐車場へは動物園をぐるっと一周していたようだった。場所は小高い丘にあり、行き着いたのは9番目の P9 という最も奥まった所にある駐車場、数百台は駐車できようか、でも平日のこの日は車は十数台しか停まっていない。一角に階段があり、下の方には正面ゲートが見えている。チケットを求めて中に入る。
 入ると正面に「アシカ・アザラシたちのうみ」というプール付きのステージがあり、ここにはアシカ、ゴマフアザラシ、バイカルアザラシがいる。面積は広いが、ここには各1頭のみ、このスペースからすると、この2〜3倍の頭数がいないと、あまりに閑散としていて、歯が抜けているような感じだった。
 左手にあるスロープをぐるりと回って上ると、次は「サルたちの森」という大きなケージの前に出る。ここには、リスザル、ワオキツネザル、ブラッザモンキー、テナガザルの4種の猿たちが同居している。中には遊具がいろいろあり、気侭に楽しんでいる。はしゃいでブランコなどで戯れていたのはテナガザルで、よくぞ器用にと思って眺めていたが、しかしあの旭川市の旭山動物園の迫力からすれば、数も規模もこじんまりしている。
 道路を挟んだ向かい側には、「小動物プロムナード」というコンクリートの建物があり、ここには、レッサーパンダ、ケープハイラックス、マーラがいた。いずれの動物も愛嬌があり、心が和む。
 次いで「イヌワシの谷」というケージ、イヌワシはじっとしていた。イヌワシは飛翔していてこそ壮観なのだが。でもこのケージの中では飛ぶことはままならない。
 少し歩くと「ネコたちの谷」という一画がある。トラ、ライオン、ヒョウのほかにユキヒョウがいた。ユキヒョウは灰白色の地に黒班の体毛と太い尾、テレビでは何度かお目にかかっているが、実物を見たのは初めてだった。ヒマラヤに住むのだが、夏はオープンでの暑さには大丈夫なのだろうかと思ったりする。
 次いで「オーストラリアの平原」という一画、ここにはカンガルー、ワラビーとエミューが。エミューはダチョウの仲間の鳥、この鳥は私にとって初のお目見えだった。
「郷土の水辺」という一画には、こちらでは激減したトミヨやホクリクサンショウウオがいた。
「南米の森」のケージには、ワタボウシタマリン、ナマケモノ、そして嘴が巨大なオノオオハシがいた。この鳥は初見だった。ナマケモノもなかなか愉快な動物だ。
 次いで寄った「ふれあいひろば」では、丁度お昼時ということもあって、マゼランペンギンに餌の鰺を与えているところだった。30羽近くいる個体を給餌員は覚えていて、なるべく満遍なく与えるのだとか。でも時に餌を池に投げ入れると我先に取り合うが、その動きは水中では実に俊敏、くわえるとすぐに飲み込んでしまう。でないと横取りされてしまう。しばし見とれていたが、動きは陸の上と水中とでは全く別の様相、楽しめた給餌時間だった。
 私達もレストランで食事をした後は、「水鳥たちの池」へ、ここには番いのオシドリもいた。
「カメたちの広場」には、ゾウガメがいた。大きい。初めて見た。
「メダカたちの池」には、メダカのほかにイトヨもいた。絶滅が危惧されている種だ。
「バードストリート」には、インドクジャクの雄がいたが、羽はたたんでいた。別のケージには、オオタカやシロフクロウもいたが、もう少しケージが広ければよいのにと思った。
 休憩所を過ぎると、奥にトキの繁殖施設がある。現在は20羽近くいるとかだが、ここは立入禁止区域、一般の人は新たに作られた「トキ里山館」へと案内される。ここはフリースペースでかなり広く、この動物園の目玉として設えられた。上部は網で覆われていて、池の向こう側にはトキの巣が高みにあり、ここにペアがいるのが見えている。一羽がしゃがんでいて、一見卵を温めているように見える。ぐるりと回ると、巣の近くまで行くことができるが、できればトキが優雅に飛翔しているのを見たいものだ。今後に期待したい。
 その後は動物園の定番であるキリンやシマウマなどがいる「アフリカの草原」、インドゾウがいる「ゾウの丘」、老齢のカバのデカが死んでコビトカバが代わりに入った「カバの池」、さらに「チンパンジーの丘」と「オランウータンの森」などを巡った。
 そして最後は中央にある大きな池に周りの草原にある「ツルたちの水辺」、ここにはタンチョウ、マナズル、コウノトリがいるとか。私達が行った時、丁度給餌員が餌の魚を与えているところだった。私達が見たのは、ペアのタンチョウとコウノトリ、餌の捕り方を見ていると、優雅で大きなタンチョウが一番威張っているように見えた。   こうして一巡りを終えた。

閑話休題
 後日知ったことだが、私達が見たトキのペアは、公開されて初めて1個の卵を生み、抱いていたのは偽卵だが、本物のは人工孵化器で誕生させ、その後雛を巣に戻したという。今後が楽しみだ。 

2017年5月27日土曜日

5月連休の福井県立恐竜博物館

 横浜に居る長男が帰省した時には、大概私達夫婦と一緒に車でドライブするというのが常で、いつもは長男がコースを設定してくるのだが、今回はこちらで企画してほしいという。それで私が選定したのが、これまで一度は行きたいと思っていた福井県勝山市にある福井県立恐竜博物館である。その後は越前海岸でもドライブすればよいのではと思った。

「福井県立恐竜博物館」 福井県勝山市村岡町寺尾 51-11
 出かけたのは5連休真ん中の5月5日、朝8時半に家を出た。国道159号線を南下し、白峰から谷峠を越えて勝山へ、道中まだ残雪が見られ、山肌には山桜が咲いていた。峠を越えると、残雪の大日岳が眩しい。長い坂を下って勝山の町並みが見える辺りを右に折れる。ところがこの交差点、勝山方面からの車は数珠つなぎ、改めて人気の施設なのだと実感させられた。そして取り付け道路に入ると完全にのろのろ運転状態、時間は9時10分、開園は9時だろう (実はこの日は8時30分)と思われるが、さてここから駐車場入り口までどれ位距離があるのか見当がつかない。ともかく近くにある駐車場は既に満杯だ。そして30分ばかりして漸く駐車場入り口へ、あとでパンフレットを見ると、乗用車1500台、大型バス10台のスペースがあるという。とのかく休日の混雑は想像を絶する混雑ぶりだ。
 車から下りて本館へ向かう。途中化石を発掘体験できるコーナーの脇を通ったが、1日4回体験できるこの作業は全て満員とのこと、絶大な人気があるらしい。暫く歩いて、銀色のドームのある本館へ向かう。沢山の人がひしめいている。エントランスホールから中へ。
 石川県にも、手取層とか桑島層とかいう化石が出る先駆となった命名地層があり、その桑島地内には「白山恐竜パーク白峰」という施設がある。でも命名の発端となったこの地域は、国立公園内ということもあって発掘はできず、偶然に公園外の勝山地内の同じ地層から恐竜化石が出たこともあって、今ではこの地が本命となっている。
 先ずは本館1階の「恐竜の世界ゾーン」へ。館内には所狭しと並んだ恐竜の全身骨格、圧倒されてしまう。白峰の施設と比べると、学術的な分類がしてあり、しかも実際に発掘された化石が9割以上の骨格標本も9体、中にはアメリカで発掘され、この施設でクリーニングして組み立てられた標本も展示されていて、とにかく規模も学術的価値も数段高い。私が小さな時に恐竜に興味を持った時には、恐竜の分け方は草食竜、肉食竜、翼竜とか位だったが、ここでは恐竜は大きく竜盤目と鳥盤目に、前者はさらに竜脚形亜目と獣脚亜目に、後者はさらに鳥脚亜目、周飾頭亜目、装盾亜目に分けて展示され、しかも学名まで記されている。さらに驚いたことは、子供たちがそれを当然の如く口にしていたことだった。ジオラマ「中国四川省の恐竜たち」のコーナーは、動きのある恐竜に出会えるコーナーだった。
 次いで同じフロアの「地球の科学ゾーン」へ。ここでは「水と地球」「火と地球」をテーマに、陸や海の堆積物、年代別の化石、隕石、いろんな鉱物、岩石、地層の展示がされていた。また外周には福井県勝山市で発見された5種の化石標本6体、コシサウルス、フクイベナートル、フクイティタン、フクイサウルス、フクイラプトルが、またほかに「手取層群の恐竜」「日本の恐竜」「アジアの恐竜」のコーナーもあった。
 次いで1階の外周のスロープを1階のゾーンを俯瞰しながら上がり、2階の「生命の歴史ゾーン」へ向かう。ここでは生命の誕生から人類までの進化に触れることができる。まず古生代のコーナーでのテーマは、「生命の誕生」「脊椎動物の出現」「陸上への進出」「大森林が育んだ動物たち」、次いで中生代では、「中生代の海」「海と空の爬虫類」、そして古い順に、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の「恐竜時代の森」の再現、そして新生代のコーナーでは、「花咲く植物と哺乳類の繁栄」「哺乳類時代の海」「哺乳類時代の陸」、そして最後は「自然の中の人類」で締めくくられている。各コーナーには、展示などを説明するビデオライブラリーやコンピューターで情報を閲覧できるネットライブラリーがあり、多くの人が利用していた。でも見ていて真に熱心なのは子供たちだった。また3階には映画館やライブラリー、ミュージアムショップ、レストランなどがある。こうしてざっと2時間ばかり、一通り見て回ったが、今度来た時には、もっとゆっくり時間に余裕を持って、じっくり観察したいものだと思った。やはり休日は混むとかで、平日に訪れたい。
 ここの開館時間は午前9時〜午後5時、休館は第2・第4水曜日と12月29日〜1月2日、幼時と70歳以上は無料だそうだ。
「付記」 年間入場者数は、福井は100万人、白峰は2万人と大きな差がある。

「越前海岸」をドライブ
 恐竜博物館を出たのは正午少し前、帰りの駐車場から国道への交差点までもかなり混んでいた。しかも国道へ出てからも入る車は延々と続いていて、この人達は夕方までに入れるのだろうかと訝ったほどだ。私達は福井北 IC から 高速道に入り、武生 IC で下り、越前陶芸村の脇を通り、越前海岸へ出た。途中の山越えで、昼食に季節限定の「竹の子定食」を食した。その後、道の駅「越前」へ寄り道し、後はひたすら海岸線の国道305号線を北上し、越前岬の水仙の里公園を経て、東尋坊へ、休日ということもあって、ここも人でごった返していた。こうしてデューティーだった長男とのドライブは終わった。

2017年5月2日火曜日

春の「やまぎし」

 家内は中の湯温泉の宿で、妙齢の女性に「やまぎし」の田舎粗挽きを吹聴していたが、実は家内はこれまでまだ食したことはなく、それで一度ぜひ食べたいという。それで4月29日の祝日に出かけることにした。10時半には開いているので、1時間前の9時半に家を出た。良く晴れていて暖かい。道が空いていたせいもあって、40分ばかりで着いた。すると家の道路脇には数台の乗用車、もうお客がと訝って中へ入ると、それは山岸さんの関係の方のものだった。駐車場に車を停めて玄関に入ると、もう少しお待ち下さいとのこと、早くてまだ券売機も作動していなかった。中で休ませてもらうことにして家に入ると、中はすっかり模様替えされていた。訊くとここでコンサートを開くことになり改装したとかだった。畳敷きの二間は板張りに、新しく白木の2脚の座机、外のベランダにも1脚のテーブルと2脚の椅子、板張りも座机も山岸さんの自作、素晴らしく器用だ。これでざっと33人は入れよう。
 券売機が稼働し、「田舎粗挽き」「天ぷら」「礫焼き」を各2人前、飲み物は家内はノンアルコール、私はいつもの財宝(薩摩芋焼酎)を2杯頂くことに。今日はいつもの常任3人に妹さんの娘さんが助っ人。今日は天気が良いので外で食事されたらと言われ、簀の子のベランダ(もちろん手製)へ。辺りには山吹が咲き、キケマンが咲き乱れ、向かいに見える鷲走ヶ岳へと続く山並みの中腹には、ところどころ白い芽吹きのように見えているのはスダジイの花だろうか。この場所で食するのは初めてだ。まだ早くて「そば」は出来ないが、飲み物が先に届いた。山の清涼な空気を吸っての一服は実に清々しい。そしてややあって「田舎粗挽き」の登場、私は蕎麦汁をつけて食べることもさることながら、淡桃色をした岩塩をまぶしても食べ、家内にも推奨した。家内は一口食べて、ほかの「田舎」や「白」にはない独特の味わいに感動したという。それに野外にも似た場の雰囲気が、さらにより感動を高めたような気がする。天ぷらも美味しかった。地元の十種の野菜にタラの芽とコシアブラ、量は少しづつだったが、美味しく満喫した。
 食事が終わりに近くなって、一人の御仁が来られ、簀の子に直に座られ、お酒を飲みながら共に談笑した。山岸さんの友人とか。コシアブラは大木になると木の芽が採りにくくなるので、ある高さで伐った方がよく、それでこの時期山に来ているとか。いつか探蕎会で東北の白布温泉へ行った時に見たコシアブラの喬木を思い起こした。水と縁が深いとも話された。またここから見上げる山にも時々出かけるとか、昔植林に際して開いた山道があり、鷲走ヶ岳へと続く尾根に登ることができるとも。お陰で楽しい時間を過ごすことができた。
 今年の4月18日付けの北國新聞の「白山百人百様」という欄にそば職人「山岸 隆」さんの紹介があった。繁盛していた金沢駅近くで8年間開いていた店を閉めて、故郷の白山市左礫の生家で開業した経緯が書かれていた。これまで私は書かなかったが、山岸さんは元石川県警察本部刑事部長だったと記されていた。左礫での開業は2016年3月である。

2017年5月1日月曜日

春の中の湯温泉と上高地

 叔父の他界で延期になっていた中の湯温泉行きを、初七日の法要を終えた4月20日にすることにした。東海北陸自動車道を飛騨清見 IC で下り、中部縦貫自動車道を通り高山市へ、青空に真っ白な雪を纏った乗鞍岳が素敵だった。時間が早かったので、先ずは飛騨一ノ宮にある国指定天然記念物の臥龍桜を見に行くことに。ナビに従って行くが分かりにくく、後で分かったことだが、高山本線の飛騨一宮駅のすぐ側だった。見頃は25日とか、でも咲き始めていた。幹の形が龍が地を這っているような姿をしていることから名付けられたそうだが、台風で損傷し、現在は枝の一部は地中に潜っている。種類はエドヒガン、樹齢は千百年とか、満開だとさぞ壮観だろう。茶屋で手打ちという笊蕎麦を食べた。まずまずなのに安堵した。
 再び高山市内に戻り、国道158号線、次いで安房トンネルを通って中の湯へ、温泉宿は峠への8号カーブの手前左の台地に建っている。まだ雪は多い。チェックイン前だったがロビーで寛ぐ。秘湯温泉ビールが美味しい。窓の外には真っ白な明神岳と前穂高岳、それに近くには霞沢岳、近くの林にはカラが飛び回っている。重装備した登山者が宿の傍らを通りラッセル跡を辿り焼岳へ向かうのが見える。今冬は雪が多く、落雪で壊れた露天風呂を囲む塀を修繕していた。チェックインの際に、明朝上高地へ行かれますかと。開山祭前なのにと訝ると、OK だという。この日の宿泊者は私達2人と、ほかに外国の方2人と女性1人、昨晩は11組だったとか、私達も何度か泊まっているが、いつもほぼ満員だったので、こんなに少ないのは正直初めてだった。
 翌朝の出発は8時半、5人とも上高地へ、バスターミナルで下りた。外国の方はここで0時半に宿の車が迎えに来て、松本駅まで送ってもらうという。昼食は宿で蕎麦を出せますということで、予めお願いしておいた。上高地はバス道路以外はまだ一面の雪景色、でもターミナルには観光バスが何台も、そして何故かその多くが外国人、異郷の地へ来たような錯覚を覚える始末だ。風はまだ冷たい。この時期、まだこのバスターミナルと河童橋の間のみしか散策できない。橋の袂にある35 (トロワ・サーンク) という喫茶店に入り紅茶とコーヒーを飲み、外の風景を観て楽しむ。1時間ばかり居て、10時半発の定期バスで中の湯へ、そしてここから宿の迎えの車で宿へ、もう一人の女性も一緒だった。彼女も蕎麦好きとか、昼は一緒に宿で「ざるそば」を食し談笑した。彼女は世界のあちこちへ旅行しているというスーパーウーマン。金沢にも魅力があるとかで、家内はコンタクトできるように、メールアドレスの交換をしていた。その折に家内は「やまぎし」を吹聴していた。彼女はぜひ行きたいという。それで中でも家内はまだ一度も食べていない「田舎粗挽き」が特に素晴らしいと推奨していた。

2017年4月24日月曜日

ゼレン会への近況報告(木村)

1.ゼレン会
 これは昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した同期生の会の名称で、元素番号34のゼレンに因んで名付けられたと聞いている。というのは、私は卒業時には大量に吐血して入院していて、その経緯を後になって知らされたからである。
2.現在は十病息災
 人間80歳ともなれば、健康で五体満足という人は少ないのではなかろうか。私はかなり強度の不整脈があり、それでペースメーカーを装着してもう14年、そのチェックに年に2回、金沢医科大学病院心臓外科に受診している。また50歳の時に見つかった糖尿病で、現在は3ヵ月に一度の割合で、金沢赤十字病院を受診し、フォローしている。これまでも眼(黄斑変性)や膝(半月板損傷)の手術を受けたし、ひどい腰痛に悩まされ、随分とあちこち転院して治療や施術を受けた。でも今でも痛みは時々あり、週に1〜2回は鍼灸にも通っている始末である。耳鳴りにも悩まされているが、この処置はしていない。
3.うぐいす
 家の裏には孟宗竹の薮があり、ほかにケヤキとスギの高木が各2本とメタセコイア、ブナガシワ、タブノキも繁っている。私が小さい時にはケヤキやエノキの大木があったが今はなく、今あるのはこれらを伐採した後に生育したものである。そのほかに庭には、調べたところ、現在65種の灌木が繁っている。またこれまで40種の木々が無くなっているし、昨年もコブシとエンジュが枯れて伐採した。しかしまだ繁みは多く、多くの鳥が訪れる。その中にウグイスがいる。今年は2月半ばに飛来して、4月下旬の今も終日啼いている。このような繁みのあるのは、近くにあるもう1軒と神社の繁みのみで、この範囲が縄張りのようである。また椿の木にはキジバトが営巣していて、抱卵の最中である。またカラ類のシジュウカラやコガラもよく飛来するし、ヒヨドリやオナガも常連である。また裏庭には用水が流れていて、以前魚がいた頃にはカワセミも飛来していた。
4.一部ダンシャリ実施
 家内はとある医院に創設以来31年間勤務していたが、どうやら辞表を受け取ってもらえることになり、1月末で退職できた。家内は75歳、私も辞めたのは75歳だった。医院は総員38名、全員から寄せ書きが送られ、盛大な送別会をして頂いた。ところで半数の20名ばかりが、私の家でもう一度送別の宴を設けたいとのこと、それに応えるには十分なスペースの確保が先決、それで部屋とそれに続く蔵の前に山積みになっていた諸々の物を整理した。それで市役所のエコステーションへ3日に分けて運び込んだが、これには市役所の人達もあきれ顔だった。でもまだこれはほんの序の口、まだその十数倍もの物を整理しなければならず、往生するまでには何とかしたいと思っている。しかし断捨離とは言っても楽じゃないと思った次第。残したいものは前の倉に整理して収納したいと思っているが、さて先が思いやられる。
5.叔父・木村久吉の他界
 叔父は94歳だった。伴侶を亡くしての独り身、訪問看護を受けていたが、今冬は寒いからということで介護施設で過ごしていた。それで息子さん達は在京ということで、年に一度位しか来沢されないこともあって、私達は月に3度位の目安で叔父を訪問していた。それで3月27日に訪問したときはお元気で、いろんな話をし、時に施設では料理も手伝ったとか、楽しい会話で終始した。ところが翌々日の早朝家に電話があり、前日の晩に肺炎と心不全で救急車で国立病院機構金沢医療センターへ搬送され、CCU で治療中とか。早速駆けつけると、酸素吸入はしているものの、容態は概ね落ち着いているように
見えた。でも担当の先生では、いつ急変するかもしれないとのことだった。CCU では酸素マスクをしていて会話はできないが、寝ながらだけれどもボードにサインペンで筆記はでき、希望や心境をいろいろ書いてくれた。「サヨナラ」「オワカレ」とも。家内には「たかこさん ありがとう」と。また「お水ほしい」「お酒」とも。お酒はともかく、水を非常に欲しがったが、水は誤嚥を招く恐れがあるとのことで、絶対ダメとのことだった。CCU での面接は午後2時半から3時までと決められていて、私達夫婦は毎日この時間帯に訪問するのを常にしていた。容態が安定していることもあってか、入院8日目には一般病棟に移された。でも酸素マスクは外せないこともあって、口から食事は取れず、流動食を経鼻摂取する状況が続いた。この間息子さん達も見えられ、意思の疎通はあったようだ。でも一般病棟へ移って1週間後の早朝、容態が急変して亡くなったと病院から電話が入った。亡くなったのは4月12日午前7時42分とのことだった。2人の息子さんにも早速連絡した。主治医では息子さんの立ち会いの下で死亡を確認するとのこと、一人が立ち会えたのは9時15分、だから死亡診断書の死亡時刻はこの時間になっていた。死因は細菌性肺炎となっていた。老人での肺炎は時に致命的というが、正にそうだった。高齢者の細菌性肺炎の予防接種が叫ばれているが、叔父はしていたのだろうか。
 叔父は生前「しらゆり会」に登録していて、そのことは私も何度か聞いたことがあったし、息子さん達も承知していた。亡くなった後、息子さんから金沢大学医学部附属病院へ連絡したところ、いろんな条件があったもののクリアされ、遺体の引き取りは正午ということに。それで引き取りには火葬許可書が必要とのことで金沢市役所へ。そしてもう一人の息子さんも見えられ、正午に叔父を見送った。葬儀は4年か5年後に遺骨が届いた段階で行なうことにし、取り敢えずは、檀那寺である金沢市中央通町(旧宝船寺町)の法船寺で初七日法要を行った。合掌。