2018年8月8日水曜日

OEK の新芸術監督にマルク・ミンコフスキ氏就任(2)

(承前)
 彼が OEK のプリンシパル・ゲスト・コンダクターに就任してシューマンの交響曲全曲を聴かせてくれたが、その次に選んだプログラムは、ロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」の2幕もの、オペラ劇場での演出ならばさほど苦労することはないだろうが、限られた狭い空間での演出には苦労が伴う。しかも原語 (イタリー語 ) での進行、しかし両袖には日本語訳がテロップで流れるので、話してる意味は即十分に理解できた。この時の歌劇スタイルは演奏会形式というとか、演出はイヴァン・アレクサンダーによるもので、オーケストラの前後左右を有効に使っての進行だった。主役4人は来日したメンバー、脇役3人は留学経験のある日本の現役オペラ歌手、そしてこのコンサートのために結成された東京芸術大学卒業生を中心とした金沢ロッシーニ特別合唱団が脇を固めた。これまで何回かミニオペラが上演されたが、芝居形式で、何となくチャチな感じを受けたものだが、限られた空間を上手に使いこなすと、観客にも感動を与えるものだ。
 さてこの7月 30 日には、9月に OEK の芸術監督に就任するミンコフスキさんの指揮で、ボルドー国立歌劇場と県立音楽堂の共同制作になるドビュッシー作曲の唯一の歌劇である「ペレアスとメリザンド」が上演された。原作はモーリス・メーテルリンクである。5幕 15 場の構成、1月にフランス国立ボルドー歌劇場で上演されたばかり、そして金沢ではボルドーでの公演と同じステージ・オペラ形式での上演だという。これまで経験したことのない上演形式とて、特に照明や映像には工夫が見られ、舞台の前後に設けられた特大の紗の2枚のスクリーンには、波立つ海や薄暗い洞窟、眩い星空、そして星の光の流れなどが映し出され、このような新感覚の演出には度肝を抜かれた。この後東京公演が8月1日に東京オペラシティーコンサートホールで行われたが、東京でのスタイルはセミ・ステージ形式で行われたという。素晴らしい演出に感動した。
 舞台は OEK のメンバーを取り囲むように設置され、前後左右、そしてパイプオルガンが設置されている中二階も有効に使っての演出、そのほか衣装や照明、映像など、これらはすべてボルドー歌劇場から来日したスタッフによって設備調整が行われたという。この音楽堂でのこのような企画での演出には初めて遭遇した。そして舞台には、ペレアス役でテノールのスタニスラス・ドウ・バルベラックさん、メリザンド役でソプラノのキアラ・スケラートさんのほか、来日した5名の出演者が素晴らしい歌声を響かせた。また演出のほか、衣装、照明、映像、舞台を手がける 11 名も来日スタッフだった。あの紗のスクリーンに映し出された幻想的な映像は、全く新しい感覚での手法で、大道具を用いずとも、歌劇の上演は可能ということを示したもので、いやが上にも観客を虜にした。
 終幕、殺されたペレアスの死を悼んで床に伏しているメリザンドが息を引き取り、第5幕が終わると、暫くの沈黙の後、「ブラボー」の声とともに、会場からは沸き立つような拍手が鳴り響いた。カーテンコールでは、指揮者のミンコフスキさんや素晴らしい歌声を披露してくれた6人の出演者に万雷の拍手、何度もステージに出て来られてこれに応えられていた。また合唱・助演したドビュッシー特別合唱団の方々、そしてオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーにも惜しみない拍手が送られた。素晴らしかった。
 ミンコフスキさんの次の金沢での公演は、来年の7月6日の第 417 回定期公演までなく、プログラムは現在調整中だという。終わった後での挨拶を英語で述べられ、本来フランス人は頑にフランス語で話すのが常と思っていただけに驚いた。OEK の芸術監督に就任されたといっても、1年近くの空白、でも今後ボルドーと金沢の強力な架け橋になりたいとも述べられ、なるべく早い時期に OEK のボルドー公演を実現させたいとも語った。希望をもって OEK の更なる飛躍を期待したい。

OEKの新芸術監督にマルク・ミンコフスキ氏就任(1)

 2018 年7月 30 日の OEK (オーケストラ・アンサンブル金沢)の第 405 回定期公演に、9月から OEK の次期芸術監督に就任する世界的指揮者のマルク・ミンコフスキ氏が指揮して、クロード・ドビュッシー作曲の歌劇「ペレアスとメリザンド」が石川県立音楽堂コンサートホールで上演された。これまでもこの会場で数回オペラが上演されたが、今回は次期芸術監督に就任するとあってか、観ていても指揮者の素晴らしいまでの意欲が感じられ、期待以上の充実感と満足感で酔いしれた。私はこれまでミンコフスキ氏の指揮の演奏を過去4回聴いているが、今回の演奏ではこれまでにない新しい切り口での、またこれまで接したことのない新しい感覚での演奏や演出を見せてくれたような気がする。
 私がマルク・ミンコフスキ氏の名を知ったのは 2012 年の7月である。初来日は 2009 年 11 月で、この時は自ら創設した「ルーブル宮音楽隊」を率いて来日し、この時は音楽雑誌での来日海外オーケストラの第1位に輝き、日本音楽界の話題をさらったという。そして次に来日したのが 2012 年7月、この時日本国内のオーケストラとの初共演が OEK とだった。私が初に聴いたのはこの時で、第 325 回定期公演でだった。その時の演奏曲目は「20 世紀前半フランス・プログラム」と銘打たれ、曲目はヴァイルの交響曲第2番、プーランクの2台のピアノのための協奏曲ニ短調、ラヴェルのマ・メール・ロア ( バレー版 )の3曲、正にテーマ通りの本場の音楽に酔いしれたものだ。そして翌 2013 年2月には再びレ・ミュジシャン・デュ・ルーブル・グルノーブルを率いて来日し、金沢での第 332 回定期公演では、シューベルトの交響曲第7番 (旧8) 番ロ短調 D.759「未完成」とモーツアルトのミサ曲ハ短調 KV427 が演奏された。二人の天才のいずれも未完の作品、いろんな方がその経緯について述べられているが、それはともかく、今は現在あるがままを素直に聴き入れて下されば、それで十分ですとのことだった。
 2014 年9月 10 日の第 354 回定期公演、この時の演奏曲目は、フォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調 ( ピアノ 辻井伸行 )、同じく「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ビゼーの交響曲ハ長調、というフランスの作曲家の音楽だった。これはミンコフスキ氏がこの年の9月から OEK のプリンシパル・ゲスト・コンダクターに就任することもあっての定期公演だったが、残念なことに急病で来日できず、代わって指揮をしたのは、フランス国立ロワール管弦楽団音楽監督のパスカル・ロフェだった。この方は欧州の名だたる管弦楽団の客演指揮を定期的に数多くされており、NHK 交響楽団にも定期的に客演指揮されているとかで、この時は東京と高崎でもツアーが行われたという。
 次にミンコフスキ氏がタクトを振ったのは 2015 年 12 月 10 日 ( 第1夜 ) と翌 11 日 ( 第2夜 ) での第 370 回定期公演、シューマンの交響曲全4曲の演奏、この年の9月にミンコフスキ氏は国立ボルドー歌劇場総支配人兼芸術監督に就任している。演奏曲目は、初日が交響曲第1番変ロ長調「春」作品 38 と交響曲第2番ハ長調 作品61 、2日目は交響曲第3番変ホ長調「ライン」作品 97 と交響曲第4番ニ短調 作品 120 。第1番と第3番は比較的よく聴く曲だが、第2番と第4番は余り聴くことはない。この作品番号は出版順で、実際作曲された年を辿ると、1、4、2、3だという。そしてこれら交響曲を書くきっかけになったのは、シューベルトの交響曲第8番の楽譜を目にし、その演奏をメンデルスゾーンに依頼し、それを聴いて希望に燃えたからだったという。そして最初に第1番を完成させ、初演をメンデルスゾーン指揮のライプチッヒゲヴァントハウス管弦楽団にお願いしたという。春の喜びを表した素晴らしい曲だ。2夜連続での演奏、凄い意欲を感じずにはおられなかったのを覚えている。

2018年7月25日水曜日

沓掛温泉「満山荘」(その3)

 7月13日 朝6時に起き、もう一方の、昨晩は女湯の表示になっていた内湯と露天風呂の方に入る。湯温はもう一方のと同じく、内湯は40℃、露天風呂は36℃前後に設定されている。いずれも掛け流し、眼下に青木の田園風景を眺めながら、至福の時を過ごす。ほかに客がいたら、こうはゆくまい。実に僥倖だった。
 朝食は8時ー9時、いつもだとバイキング形式なのだが、今朝は私達のみなので、朝食はご飯とお汁、それにメインディッシュに6品と果物、ゆっくり食した。外のテラスには母猫と3匹の子猫、静かに朝食を頂く。終わって部屋で寛ぐ。チェックアウトは11時なので、私は同じフロアにあるラウンジへ行き、堀江文四郎さんが山田牧場から撮影した北アルプスのパノラマ写真1組2双2面を見に行き、山名の記録と地図での確認を行い記録した。それを文末に記載した。
 満山荘を10時に辞した。予定では国道 143 号線 (松本街道) を西に進み、松本から安曇野へ北進し、この前と同じく池田町にある「安曇野翁」へ行くことにする。ここは二八ながら妥協のない美味しさには定評があり、家内もここは OK だった。ところで前回は国道から折れて麻績 (おみ) IC へ出る予定だったが、分岐を見逃して直進し、青木峠を越えて松本に出た。この日はこのルートを通る予定だったが、この日は松本へは麻績村を経由して下さいとの表示、仕方なく県道 12 号線を北上して修那羅峠を越えることに。この道はこの前に通ろうとした道だ。山越えしてから国道 403 号線、国道 19 号線を経由して安曇野へ、更に県道 19 号線を北上し、標識を右折して小高い山を上がると程なく「安曇野翁」に着く。時間は11 時半、この時間に客は1組だけだった。窓側のテーブルに座る。この前に来た時には開店20年とのことだったから、今年は22年ということになる。晴れていると常念や後立山の山並みがきれいなのだが、生憎の曇り空、店内には晴れたときの写真が飾ってあるが、迫力が違う。私は鴨せいろ、家内はざるそば、二八だが絶品だ。程なく6組がご入来、店の雰囲気も明るくて気持ちがいい。親父さんに挨拶して辞した。
 国道 148 号線 (糸魚川街道) の道の駅「白馬」で小憩し、ここで運転を家内と交代、帰宅したのは午後3時、走行キロ数は585 km だった。

〔付〕堀江文四郎さん総合制作のパノラマ写真2面  (1面の大きさは 180cm × 40cm × 2双)
「山田牧場 (1550m) よりの日本アルプス連峰 (北ア) の全山の霊峰 80km」の山名の表記
 左(南)より右(北)へ、番号 (便宜上) と山名・地名と標高 (m)
(1) 前穂高岳 (3090)、 (2) 奥穂高岳 (3190)、 (3) 常念岳 (2857) 、(4) 涸沢岳 (3110)、(5) 北穂高岳 (3106)、
(6) 横通岳 (2767)、(7) 東天井岳 (2814)、(8) 槍ヶ岳 (3180)、(9) 有明山 (2286)、(10) 大天井岳 (2922)、
(11) 燕岳 (2763)、(12) 三俣蓮華岳 (2841)、(13) 鷲羽岳 (2974)、(14) 餓鬼岳 (2647)、(15) 野口五郎岳 (2927)、(16) 三ツ岳 (2845)、(17) 烏帽子岳 (2628)、(18) 南沢岳 (2625)、(19) 不動岳 (2601)、(20) 舩窪岳
(2459)、(21) 北葛岳 (2551)、(22) 蓮華岳 (2799)、(23) 針ノ木岳 (2821)、(24) 赤沢岳 (2678)、(25) 鳴沢岳
(2641)、(26) 岩小屋沢岳 (2630)、(27) 爺ヶ岳 (2670)、(28) 立山雄山 (3003)、(29) 立山大汝山 (3015)、
(30) 立山別山 (2880)、(31) 善光寺平 (長野市街)、(32) 鹿島槍ヶ岳 (2889)、(33) 劔岳 (2999)、(34) 五龍岳
(2814)、(35) 遠見尾根、(36) 唐松岳 (2696)、(37) 白馬八方尾根、(38) 不帰ノ險、(39) 天狗の大下り、
(40) 天狗ノ頭 (2812)、(41) 白馬鑓ヶ岳 (2903)、(42) 白馬杓子岳 (2812)、(43) 白馬大雪渓、(44) 白馬岳
(2932)、(45) 小蓮華山 (2769)、(46) 白馬乗鞍岳 (2469)、(47) 飯縄山 (1917)、(48) 戸隠山 (1904),
(49) 高妻山 (2353)、(50) 黒姫山 (2053)。
 

2018年7月24日火曜日

沓掛温泉「満山荘」(その2)

 上田の街を出て松本街道 (国道 143 号線) を西へ、青木村役場の交差点を左折し、県道 12 号線を南下すると、左に沓掛温泉が見えてくる。IC から約 30 分で着くとある。時間は午後3時近く、チェックインは午後3時と思い暫く待っていると、どうぞと主人が言う。2年ぶりだ。今日は私達1組のみとか、初めての経験だ。記帳して部屋に案内される。部屋は2階の 303 号室、愛称は大天井、トイレ付きのゆったりとした部屋だ。同じ並びには、トイレなしの 301 号室 (薬師) と 302 号室 (烏帽子) がある。愛称はすべて日本アルプスの山の名である。この宿には和室が 13 あり、トイレ付き6、トイレなし7で、定員は 30 名とのことだ。
 今日は私達1組だけなので、お風呂の入り口には男湯と女湯の標示がしてありますが、どちらでもお好きなようにお入り下さいとか。私達は初めに、新装なった男湯表示の内湯と野天風呂に入ることにした。内湯は 40 ℃前後に、外湯は 36 ℃前後に調整されていて、両方とも源泉かけ流しである。外の野天風呂は新しく設えたもので、明るく林の中の佇まい、森林浴を兼ねた快適な浴槽だった。外にはねむの木が数本あり、桃色の花が満開、眼下には青木の里が見えている。体温前後の湯加減とあって、正に案内状とおりだった。
 夕食は午後6時半、それまで大相撲の名古屋場所の取組みを見て時間を過ごす。長野県出身の御嶽海は全勝、大変な人気だ。石川県出身の遠藤は勝ち、輝は負けた。夕食の時間になり、地下1階の食事処の Food 風土へ行く。食事は私達だけ。テーブルには既に食前酒や前菜、スープや牛乳豆腐が置かれている。主人が注文してあった地元の赤ワインを開けてくれる。外はまだ明るい。外の庭に子猫が3匹と母猫、子猫ははしゃいで跳び回ったり、乳をねだったり、前の満山荘のテラスにはよく狸の番いが現れていたが、中々ユーモラスだったことを思い出す。ここの料理は正に独創的で和洋折衷、でもどちらかというと洋風で、その献立は毎日書いて客に示しておいでだ。料理は奥さんの明子さんが担当、献立表の筆書きは旦那の担当のようだ。食べる前には旦那から料理の説明がある。これは嬉しい。凡そ1時間ばかりかけて食事を済ます。昼の蕎麦がまだお腹に残っているような感じで、本当に満腹になった。献立は次のようだった。
 〔信州沓掛 夏の献立〕
「食前酒」 枸杞酒
「生湯葉」 クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」 塩糀 蕨ヤングリーフ シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」 ビーツとパプリカのソース オニオンバルサミユ酢醤油ジュレ
「牛乳豆富」 柚子味噌
「十六穀米スープ」 ドライベジタブル
「夏の天麩羅」 ステックブロッコリー 竹の子 まこも筍 万願寺甘唐 信州林檎 抹茶塩
「チーズの茶碗蒸し」 トマト ねぎ
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」 独活人参 ディル
「大岩魚春菊ジュノバ風」 長芋椎茸ミニキャロット ハチク・カシューナッツ味噌
            紫芋ソースパブリカパウダー
「野沢菜茶漬け」
「白桃ソルベ」 さくらんぼ マンゴーヨーグルトソース
  平成三十年七月十二日  料理 明子 印

沓掛温泉「満山荘」 信州青木村沓掛 その1

 長野県高山村奥山田の見晴らしの良い高台にあった「満山荘」をあるきっかけで知ったのは十年位前のこと、冬には訪れたことはないが、春から秋にかけてはほぼ毎年訪れた。話し好きでユニークな爺様の文四郎さんが居て、畳敷きのサロンでいつも随分楽しい話を聴かして貰った。爺様の名を堀江文四郎さんという。開業は昭和 39 年 (1964) とかで、当初はスキー宿として賑わったという。場所は志賀高原の笠ヶ岳の南麓で、標高は 1550 m、良質な雪質なこともあり、往時は 20 数軒のスキー宿があったという。その後文四郎さんは一念発起して組合を結成し、山麓を流れる松川、川沿いには、蕨、山田、五色、七味などの温泉があるが、そのさらに上流に泉源を掘り当て、500 m ポンプアップし、組合員の宿に給湯したという。その設備を見せてもらったことがあるが、その維持は大変だったという。
 文四郎さんは大変器用な方で、給湯の技術もさることながら、浴槽なんかも手作りで造られ、特に自製の露天風呂から見える日本アルプスのパノラマは実に素晴らしく、天気が良ければ北アルプスを南北80 km にわたって俯瞰でき、特に残雪期は素晴らしく、何度も満喫させて頂いた。正に「満山荘」の由縁ここにありである。また文四郎さんのカメラ技術は抜群で、超望遠で北アルプスの山々を撮影した写真もよく拝見させて頂いた。また雪形にも大変興味を持たれ、自らユニークな名も付けられていて、その数はかなり多く、毎日観察されていたからこそと感心したものだ。
 文四郎さんが亡くなられ、給湯が困難になり、現当主の方は奥山田を離れ、でも秘湯にはこだわり、たまたま廃業を予定されていた、長野県小県郡青木村沓掛にある「おもとや旅館」に移ることになった。この宿は元は「秘湯を守る会」の会員宿で、私が初に訪れたのは平成 28 年 (2016) のことである。「満山荘」の名はそのままに、夫神 (おがみ) 岳の西の麓の標高 600 m の山間にある沓掛温泉に移った。因みに東の麓には別所温泉がある。古くは平安の歌人も、この沓掛の地への思慕の念を詠っているという。パンフによれば、田山花袋はこの地を、「信州には著名な温泉が数多いが、沓掛温泉ほど四季とりどりの美しさに恵まれた処はほかに無い」と讃えているという。
 今年5月、満山荘から、新しく「野天の湯」を開湯しましたのでお寄り下さいとの案内の葉書が届いた。ここには2つの泉質 ( 34.7 ℃のアルカリ性単純温泉と、39.5 ℃のアルカリ性単純硫黄温泉)の温泉があり、前者は内湯と露天風呂、後者は内湯のみだったが、この度後者にも野天風呂を設えたとか、特に野天風呂は周囲の景色を眺めながらゆっくりとどれだけでも過ごして頂けますとあった。それで7月12 日 (木) に出かけることにした。
 7月 12 日の朝8時半に家を出る。白山 IC から北陸自動車道に入り、有磯海 SA で朝食、その後上越 JCT で上信越自動車道へ、妙香 SA で小憩後、上田菅平 IC で下りる。昼食はそば屋でということで、この前は「おお西」へ寄ったが家内の評判は今一、ではと刀屋へ寄ってみることに。8台駐車可能とか、まだ3台の余裕があり駐車する。ところで時間は午後1時過ぎだったが1階は満席、暫く外で待ち、案内があって中へ入る。この前に探蕎会で来た時は2階へ上がったが、今回は1階の空いた席に案内されて座る。ここのそばの量は、小・中・並・大盛の4段階、この前訪れた時に「大盛り」を注文された客がいて、その量を見たが、正にてんこ盛り、半端な量ではなかったのを思い出した。私は天ざる (並)、家内は「もり」の小を、喉が渇いていたのでノンアルコールで喉を潤した。1階には 48 席あるというがほぼ満席。そして漸く「そば」は来たが、汁が来ず何ともバタバタした気分、また天ぷらは実に大振り、そばは二八の中太、家内は全部を食べず、私が尻拭いすることに。家内は美味くないという。それにしても次から次へと客が絶えないのには驚いた。でも少なくとも家内とはもう此処へ立ち寄ることはないだろう。

2018年7月2日月曜日

「やまぎし」は来年からは週3日に

 白山市左礫町 (旧石川郡鳥越村) にある蕎麦店の「蕎麦やまぎし」は、20 年間も空き家になっていた田舎の民家 (築 75 年の店主の山岸さんの実家) を、山岸さんが自力で改装し、平成 28 年 (2016) にオープンした田舎のそば屋である。それまでは金沢駅近くのビルの一角で開業され、8年間営業されていた。山岸さんは蕎麦打ちは全くの独学、だからか初めっから十割に拘り、2年間試行錯誤され、そして開店にまでこぎつけられた。開店されるまでの間、よく試作品を頂戴し、感想を求められた。開店後は、特に野趣あふれる極太の十割そばの「田舎粗挽き」が予想外の人気を集め、店が金沢駅の近くにあったこともあって、新幹線を利用する観光客もかなり多かった。そして有名な蕎麦通の方の紹介もあり、十人程度しか入れない小さな店だったにもかかわらず大変繁盛していた。しかし突然に、弟さんの故郷創成  (村おこし) に共鳴され、実家でそば屋を再開することにしたと聞いた時には本当に驚いた。そしてその山奥での開店の時に招かれて訪れたが、果たしてこんな過疎の山奥にお客が来るのだろうかと訝ったものだが、その後それは杞憂に終わったことを知った。そして今は 40 人は優に入れるスペースに広げられたが、それが一杯になることがあるというから驚きだ。「蕎麦やまぎし」はいつもは山岸さん夫婦と山岸さんの実妹さんの3人での対応、水曜日と木曜日は定休日だが、山岸さん以外のお二人は、週5日は住まいから通っておいでだ。オーバーワークにならないか心配である。
 「蕎麦やまぎし」は山奥にあることもあって、1月と2月は冬季休業、3月から平常営業とのこと、でも今年は予想を超える大雪とて開業の延期かと思いきや、2日金曜日には再開されたという。心配で電話したところ、やっていますとのことで出かけたのが開店1週後の9日金曜日、昨日やっと窓から外が見えるようになりましたと話されていた。でも今冬は予想外の大雪、平地でも閉口したのに、山では想像を絶する積雪、除雪機では全く歯がたたず、参りましたと話されていた。それで 11 日には睡眠もままならなくなり、体重も異常に増加し、それで病院へ、以降3月一杯入院加療されたという。4月になり、3日はまだ休業していると思ったが、花見と洒落込んで左礫まで出かけたところ、予想に違い開業されていた。あの時ダウンしたのは過労からだったと話されていた。それもあってか、4月からは営業を3時締めから2時締めに繰り上げたと話されていた。
 私と家内は「蕎麦やまぎし」へは月に1回は出かけている。ところで4月 17 日に出かけたところ、電話でシタカさんという方からの予約の電話を受けられていた。家内はあの「敬蔵」さんではと訝っていたが、正に予感は的中した。開店時間になって、志鷹さんが奥さんと奥さんの母御さんと御入来になった。休みには時折他店へ出かけられると話されていたが、よもや此処でご対面するとは。奥さんと家内とは従姉妹同士で、以前は近くで親戚筋なこともあり、よく出かけたが、今では年に数回、今年はまだ二度しか出かけていない。敬蔵さんも十割だが、そばの質はまるで違うし、敬蔵さんはそばもさることながら、付き出しにもえらく凝っておいでで酒肴にはこと欠かないが、「蕎麦やまぎし」では天ぷらのみ、それも田舎の野菜天のみだ。その後まだ「敬蔵」さんからは「蕎麦やまぎし」の印象は聞いていない。その後5月は 11 日に、6月は末日に出かけたが、30 日に、店内に「営業日の縮小について」という張り紙とチラシを目にした。それで山岸さんに、これは今年からですかと訊くと、書いてある通り、来年の3月からですと言われた。文面は次の通りだった。
 「来年三月から、営業日を毎週金・土・日の三日とさせて頂きます。御迷惑をかけますが、どうかよろしくお願いいたします。店主 拝」。まあ今年の大雪でのご苦労で体調を崩され入院されたことを顧みると、やむを得ない処置なのかなあと思う。そして「料理お品書き」も新たになっていた。「そば」は全て十割、白(殻を取って挽く)、田舎(殻を取らずに挽く)、田舎粗挽(割箸風)のほかに、礫打ち  (幅広く切る)の白と田舎 が載っていた。これまであった「釜揚げ」はなくなっていた。その他の品の、天ぷら、礫焼き、そばがき、福礫 と、飲み物 (日本酒、ビール、焼酎、ノンアルコール、コーヒー、ジュース ) は従来と同じのようだ。 私たちが6月に寄ったのは土曜日、土曜は比較的ヒマと話されていた。

2018年6月27日水曜日

ルドヴィード・カンタさん

 標記のカンタさんの名前を知っている方は、石川県在住で音楽好きの方か、余程の音楽通の方だと思う。昭和 63 年 (1988) に世界的にも有名な岩城宏之さんが奔走されて、石川県と金沢市の協力により、多くの外国人を含むプロ室内オーケストラのオーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) が結成されたが、カンタさんはその室内オーケストラの首席チェロ奏者を平成2年 (1990) から平成 30 年 (2018) まで 28 年間勤められた。ところで OEK では創立時から定年制が敷かれていて、60 歳になった次年の3月末日で退団することが決められているという。過去にこの定年制を廃止してはということが論じられたこともあるが、新陳代謝を促すこともあってか、この制度は今も存続されている。そしてカンタさんの金沢での最後の公演は、平成 30 年3月 17 日に石川県立音楽堂コンサートホールで行われた第 401 回定期公演で、そして東京での公演は3月 19 日にサントリーホールで行われた第 34 回東京定期公演だった。
 私は 17 日の定期公演を聴いたが、この日の指揮は OEK の音楽監督の井上道義さん、くすしくもこの方もこの公演を最後に OEK を退団されることになっていた。公演が終わって井上さん自身の口からそのことを話された時は、一瞬会場が静寂になり、その後これまでの献身的な取組みに対しての感謝をこめた会場を揺るがす万雷の大拍手が起きた。岩城さんが亡くなられた後、乞われて京都市交響楽団音楽監督から OEK の音楽監督に就任された時の様子がまざまざと思い出された。大変ユニークな方だった。
 この日の公演が終わった後、音楽監督の井上道義さん、首席チェロ奏者のルドヴィード・カンタさん、首席コントラバス奏者のマルガリータ・カルチェヴァさんに、花束が贈呈された。今後のことは御三方とも何もお話にならなかったけれど、比較的在籍年数が浅かったカルチェヴァさんはともかく (子育てに専念とか)、永年にわたって OEK に献身的な役割をされてきた井上さんとカンタさんには何か称号でも上げられないものかと思ったものだ。これについては皆さんも同じ思いだったろう。これについては後日、2018 年5月1日発行の公益財団法人「石川県音楽文化振興事業団」からの案内では、井上さんは 0EK の「桂冠指揮者」に、ルドヴィード・カンタさんは OEK の「名誉楽団員」に推挙されたとあった。良かった。
 さてカンタさんが OEK に入団されたのは設立2年目の昭和 63 年 (1988) 、設立時のメンバーが、指揮者の岩城さんがプログラムの合間にポピュラーな曲を挟まれたことが発端となって、弦のメンバーの一部が脱会し、それで OEK の弦のメンバーが不足してしまい、補充するため団員の募集を世界に発信したことがある。この募集を知って、当時カンタさんはスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者だったににもかかわらず応募され、採用になったという経緯がある。当時 33 歳だったという。スロヴァキアフィルは2年間彼が帰るのを期待して席を空けて待っていてくれたというが、カンタさんは岩城さんに凄い魅力を感じ、爾来 28 年間 OEK で首席チェロ奏者を務め上げることになる。
 OEK での最後の演奏会で、カンタさんが OEK に来る前に8年間在籍していたスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団が来日すること、また金沢での公演ではソリストとしてカンタさんが共演されることを知り、早速チケットを求めた。公演日は6月 23 日、場所は石川県立音楽堂コンサートホール、パンフレットには、指揮は現代チェコを代表する指揮者のレオシュ・スワロフスキー氏、チェロはスロヴァキアを代表するチェリストのルドヴィード・カンタ氏がオーケストラと共演するとあった。そして新聞報道では、公演前日に駐日スロヴァキア特命全権大使のマリアン・トマーシク氏と大使夫人のアレクサンドラ・トマーシコヴァさんが、石川県庁で谷本正憲知事と、金沢市役所で山野之義市長と懇談し、これにはカンタさんも同行したと北國新聞の記事にあった。
 開演は午後5時、 1560 席はほぼ満席、初めにスメタナの連作交響詩「我が祖国」より「モルダウ」、この交響詩の中では最もよく演奏される馴染みの深い曲だ。言わば地元の十八番の曲、地元ボヘミアのヴルタヴァ川 (モルダウ川 ) が水源地から次第に大きな流れになっていくのを描写したこの曲は、さすが本場、美しいだけでなく、心が揺さぶられるような印象を受けた。次いでカンタさんがソリストを務めるドヴォルザークのチェロ協奏曲ロ短調 op. 104 、アメリカから帰っての正に絶頂期の一作、オーケストラと一体となっての素晴らしい演奏だった。終わって万雷の拍手、指揮者とカンタさんがしっかりと抱き合われていたのは実に印象的だった。28 年ぶりの出身楽団との息の合った共演、演奏後には感涙されていた。私の席は1階席の2列目の中央、実に感動的だった。カンタさんはアンコール曲にカザルス作曲のカタルーニャ民謡による「鳥の歌」を演奏された。20 分間の休憩の後、カンタさんもオーケストラの一員となり、これも飛び切り有名なドヴォルザークがアメリカ滞在中に作曲した交響曲第9番ホ短調 op. 95 「新世界より」、余りにも有名なこの曲、でもスロヴァキア人が演奏すると、何か特別な感情が移入されているようで、すごく印象的だった。これだけ感情の移入があったのは久しぶりだった。アンコールにはドヴォルザーク作曲のスラヴ舞曲第8番ト短調が演奏された。久しぶりに本当に充実した素晴らしい一時を過ごすことが出来た。