2017年7月10日月曜日

石川県人名事典現代編での吾が母の記述

 表記の本は平成3年 (1991) に発刊され、以後平成28年 (2016) 発行の最終卷 (十二) まで、ざっと2千3百名もの方々の追悼文が載せられている本である。対象となった人は、石川県に在住・出身・縁のある方が主で、執筆する方は、身内であったり、師弟や友人であったりと様々で、とにかく故人への想いが自由に語られている。大体一巻あたり2百人弱の人が対象になっていて、これまで2年ばかりで一巻が完成されている勘定になる。編者は片桐慶子さん、発行所は石川出版社 (石川県白山市白山町) である。
 私の母は平成15年 (2003) 2月8日に90歳で亡くなった。ところである日、この本の編者である片桐さんから執筆の依頼があった。何方から耳にされたかは知らず、大それたこととお断りしたのだが、何度かの要請があって後、執筆を承諾することにした。そして私が書いた文は、2005年3月に発行された九巻に掲載された。先日久しぶりにこの本に遭遇した折に、「晋亮の呟き」に再掲したくなり、書き写した。

「木村 好子」(きむら よしこ)
・「誕 生」 明治45年 (1912) 3月17日
 父 細野生二 と母 しづ の四女として 北海道空知郡奈井江町に生まれる。
・「生い立ち」
 母の父 生二は 金沢の旧家 細野家の次男として生まれた。上の兄 申三は後に燕台と号し、書画骨董に造詣が深く、北大路魯山人の後援者でもあった。下の妹の玉は、後に野々市の木村家へ嫁いだ。申三は漢学者だった父 當徹から厳しく教育されたが、生二は奔放で、自ら高嶋嘉右衛門の門を叩いた。兄弟子は師匠を次いだ高嶋呑象である。その後生二は北海道空知郡砂川と奈井江に跨がる四百町もの高嶋農場の管理を委ねられ、特に灌漑には心血を注ぎ、その完遂の借金のため何度も差し押さえにあったと母は述懐していた。それだけに人望は高かった。母の兄弟は9人、上に姉3人、下に弟1人と妹4人、父親は大変厳しく、一方母親はすごく優しかったという。子供らは皆高等教育を受け、母も札幌高女を卒業した。その後暫く教職に就いたが、素晴らしい先生だったらしく、亡くなるまで毎年賀状が何通も教え子から届いていた。その後母は叔母の木村 玉からの縁談の申し入れに、他の姉妹が断るなか、父親の故郷に嫁いでくれと懇願され、身の回り品のみ持ち、野々市の木村家へ嫁いだ。だから私の父 仁吉と母 好子は従兄妹の間柄である。
・「その後と想い出」
 結婚当時、父は第九師団の主計少尉であった。父は大変優しく、沢山の姉弟妹から離れ、ましてや風俗・習慣の違う地で、まるで姐やのようだと話す母を労り支えてくれた。そして間もなく長男の私が誕生した。しかし父は支那事変勃発で出征、母は私を頼りに、父には毎日私の大きくなる様を一部始終手紙で送り続けた。その手紙は今も私の手元にある。父はその後徐州作戦で迫撃砲弾を肩に受け大怪我をしたが、父らしく気丈にも傷痍軍人になるのを拒んだ。母は終戦後の苦しい時期、父の軍人恩給が三月足りなくて支給されないのをボヤいていたが、私は父、父たりと思う。父の戦場での終始は、日野葦平の「麦と兵隊」に詳しい。そして終戦、父は公職追放、家は大地主だったが農地解放でたったの一町、それに財産税の追い打ち、父や祖父が嘆いてばかりだったのに、母は気丈に家を支えた。器用で頑張り屋、木村家にはなくてはならない人になった。慣れない初めての田圃仕事も、昔の小作人達が意地悪し、今に音を上げるぞと言うのを聞き、何糞と踏ん張ったという。見よう見まねで、藁で蓑、筵、俵、草履何でも作った。そして現金収入を得るために織物工場に就職、真面目で器用で利発で頑張り屋で世話好きの母は、程なく女子工員の頭になった。定年後も請われて舎監として、沢山いた東北・北海道出身の若い女子工員達の面倒を見た。退職後は友達と日本津々浦々を旅行して楽しんだ。記録はアルバムに残されている。振り返って、私は弟妹の誰よりも母に心配をかけた。大病もし、指を落とし大出血で死ぬ体験もし、山から7日も帰還が遅れもした。でもその折々、母の愛に救われた。私が学位と厚生大臣賞を貰った時に見せてくれた母の素晴らしい笑顔と額縁は、私の大事な宝である。母との八十年余の悲喜交々の思い出が走馬燈のように過ぎる。
・「死 去」 平成15年 (2003) 2月8日  逝年 90歳
・「葬 儀」 平成15年 (2003) 2月10日  金沢市松島町 シティホール玉泉院
・「法 名」 清光院順譽浄教妙好大姉
・「菩提寺」 浄土宗知恩院派 法船寺(金沢市中央通町 旧宝船町)
・「喪 主」 木村 晋亮(のぶあき)(長男)  当時(財)石川県予防医学協会 勤務

(閑話休題)
 この石川県人名事典現代編には、他界された石川県に関係する多くの方々が登場する。
 私の恩師である波田野基一先生は平成20年 (2008) 8月21日に彼岸に発たれた。先生への追悼文は、畏敬する永坂鉄夫先生が石川県人名事典現代編十一に書いておられる。

2017年7月4日火曜日

久方ぶりの信州への探蕎行(その2)

(承前)
3.「七草の湯」 上田市別所温泉 1621   TEL 0268-38-2323
 「おお西」を出た後、上田城跡公園へと車を進め、上田城跡を散策し、真田神社に参拝した。以前は公園内に駐車場があったが、今は車は入れなくなっている。
 その後は一路別所温泉へ、程なく今宵の宿に着いた。会での別所温泉泊まりはこれで4度目、この宿は3度目だ。時間が早かったので、先ずはすぐ近くにある北向観音堂へ行く。ここの本堂は珍しく真北に向いていて、その先に善光寺があり、ここは現世の、善光寺は来世の利益をもたらすとか、両寺合わせてお参りするのが習わしという。また境内には「愛染かつら」のモデルにもなった桂の巨木もある。手水が温泉なのも珍しい。
 この宿は全館が畳敷き、従ってスリッパはなく、素足である。部屋はゆったりとした和室、男性の部屋にお茶やお菓子が置かれていて、皆でビールを飲み暫し寛ぐ。磯貝さんも漸く心置きなく飲めることに。夕食は午後6時、その間に最上階にある展望風呂へ行く。眼下には塩田平が広がり、露天風呂も付随している。泉質は単純硫黄泉で、美肌効果のある温泉とか、飲泉も楽しめる。案内があって食事処へ。お品書きを見ると、食前酒から留めの水菓子まで十二品、また1ヵ月前の予約の特典の4合瓶が2本、そのほか岩魚の骨酒4合、追加にお酒を4合、美食とお酒を存分に味わった。この間お喋りも談論風発、実に楽しい一時を過ごすことができた。これまでとは違った雰囲気とは何方かの言だった。

4.「安曇野 翁」 北安曇郡池田町中鵜 3056-5 TEL 0261-62-1017
 宿を出たのは9時半、ここから安曇野へはいくつかルートがあるが、宿の方の言では、南に位置する鹿教湯温泉を通る国道 254号線を通るルートが良いとかでそれに従う。トンネルと山道から開放されて安曇野に出ると、正面に常念岳が、いつ見てもさすが安曇野のシンボルだと思う。先ずは故久保さんに教わって以来、信州探蕎の折りには必ず寄っていた就一郎漬物本舗へ、でも火曜は定休日だった。それで翁に直行することにする。
 目指す翁は安曇野アートライン (県道 51 号線) を北上し、右折して上がった高台にある。時間は丁度
11 時、招かれて中へ入る。明るい清楚な佇まい、窓の外には大滝山から鹿島槍ヶ岳までのパノラマが展開する。この日は生憎少々雲がかかっているが、でも展望は素晴らしい。注文は前田さんが「田舎」のほかは皆さん「鴨せいろ」、ささは冷えた大雪渓、生き返るような気持ちだ。ここの主人の若月茂さんは、二八そば打ちの名人で翁を主宰していた高橋邦宏さんの一番弟子だった人、名人ゆずりのそばには定評がある。出てきたざるに盛られたそばは細打ち、コシが立っていて喉越しがよく、少し辛めのつゆに実にマッチしていて美味しい。申し分ない逸品だ。満足して翁を後にした。

5.大雪渓蔵元と道の駅池田
 どうして大雪渓の蔵元へ寄ることになったのかの経緯は不明だが、山から下りて県道 51 号線を北上すると、ほどなく蔵元直営店に着いた。このお酒私は長野では何度か口にしているが、翁でもそうだったように、冷やでの端麗な味が印象に残る酒だ。しかも大雪渓は白馬の大雪渓に因んでいるという先入観があったものだから、長野でも白馬村辺りに蔵元があるのだろうと思っていただけに、安曇野だったのは意外だった。試飲コーナーがあり、純米大吟醸酒や特別純米酒を頂いた。でも失礼だが大雪渓には辛口本醸造の冷やが最も似合っていると思った。皆さん思い思いにお酒を買い求められた。
 次いで更に北上して道の駅池田へ、私は帰路の国道 148 号線の道の駅白馬を推奨しておいたが、連絡がつかないとかで、ここで買い物を済ます。農産物から加工品まで数多くの品が並ぶ。暫し買い物に時間を費やし帰路へ。大町から国道を北上、天気が良ければ左手に白馬三山が勇姿を見せるのだが、生憎の曇り空。道はその後姫川の源流から河口の糸魚川へ、ここから北陸自動車道へ。ところで運転する磯貝さんには委員会開催の報、小矢部川 SA での清算は返上し、一路出発点の金沢駅西口へ向かう。前田さんの機転で、取り敢えず各自に2千円を還付することにし、残りは磯貝さんに渡す。

 帰途、磯貝さんでは遠距離でも運転しますという有り難いお言葉、前田さんとは再び村山市の「あらきそば」や丹波篠山の「ろあん松田」などにも挑戦できるかもと話し合った。乞うご期待。

2017年7月3日月曜日

久方ぶりの信州への探蕎行(その1)

1.出かけるまでの紆余曲折
 6月の探蕎行は信州へとなっていた。ところで会員が高齢化し、他人様を乗せて車で遠出するような場合、多くの場合、家族が反対する。これまで運転していた方でも、ある年齢になると、本人はその気になっていても、家族の了解が得られないことが多い。かくいう私も探蕎会での遠出での運転は憚られる。年齢が80歳ということもある。
 ところで5月22日に事務局の前田さんからの案内で、新しく松川さんの紹介で会員になられた磯貝さんの運転で、6月22、23の両日に信州へ行く予定とか。この募集に応じた会員は男5名、女1名、その後推移があって、24日には男4名、女2名となった。それで宿はこれまで2回利用している別所温泉の「七草の湯」を推薦し、それで訪ねる蕎麦屋に、22日は上田市別所温泉口にある「美田村」を、23日は上田市内にある「おお西」を推薦しておいた。それで事務局からは詳細なスケジュールが参加者各位にメールされ、出発は6月22日の朝7時半に金沢駅西口に集合ということになった。
 ところが6月7日のメールで、運転される磯貝さんは内灘町の町議さんなのだが、職務で22、23日を26、27日に変更したいとのこと、それで日程の変更から、参加者は女1名増の計7名となった。車はワンボックスカーということで、8名まで乗れるという。ところで費用は私の試算で概算3万3千円、それで会費は3万5千円とし、いつもの如く帰路に小矢部 SA で清算することにして、参加者には事務局から12日に案内して頂いた。ところで私は13日の朝、ひどい腰痛で寝返りもままならず、それで前田さんに事情を話し、参加できない旨連絡した。でも前田さんではまだ2週間あるから、3日前にもそんな状態だったら再度連絡して下さいと諭された。私は鍼灸に通い、5日目には多少よくなった。ところが19日に前田さんからの連絡で、今度は和泉さんが体調不良で参加できなくなったとのこと、私からも確かめたが参加できないという。すると和泉夫妻不参加で参加者は5名になったことから、前田さんからは他に参加できそうな何人かに連絡されたようだが埒が明かず、それで参加者にも今一度念を入れて可否を問われたそうだが、皆さん行きたいとのこと、この時点で前田さん自身が参加することに。これで最終的には男4名(磯貝、木村、前田、松川)、女2名(池端、松田)で出かけることになった。
 それで前田さんの意見も入れて、訪ねる蕎麦屋は初日は上田の「おお西」とし、二日目は安曇野へよって、池田の「翁」へ寄ることにした。ここには過去に一度訪れたことがある。こうして6人での信州への探蕎が実現することになった。

2.「手打百藝 おお西」 上田市中央4−9−8 TEL 0268-24-5381
 7時半に金沢駅西に集合し、金沢東 IC から北陸自動車道、上信越自動車道を通り、上田菅平 IC で下り、目指す「おお西」へ。店舗は旧柳町参道と旧北國街道が交わる地点にある。街道沿いの店の脇には延命水が湧き出ていて、店は参道に面していて、旧は商家だったという平屋建ての大きな店、表には一枚板に店名が記されている。この店は有名店なのだが、「ふじおか」と同じく、業界情報誌の取材を頑に受けないことで知られている。ただ上田市には、ほかに支店と系列店がある。ここの主人は大西利光 (かがみ) さんといい、「発芽そば切り」の発案者として知られていて、私は小布施の系列店には2回ばかり訪れたことがある。そばを発芽させるとは、えらく手の込んだ作業だが、発芽させることで栄養価が増し、甘味が増し、独特のぬめりと餅のような食感が出るという。もちろん十割にこだわっている。あまり追随されていないのは、面倒なのかそれとも特許が絡んでいるのかは分からない。でもとにかく一度本家本元で食べてみたかったのが本音だった。
 奥の古い木のテーブルに6人が陣取る。そばは「御前二色そば」、つきもののお酒は、この参道に蔵元があるという地のお酒、付きだしは山菜の漬物5種、私は焼酎の蕎麦湯割りも頂戴した。そばは大きな朱塗りのお椀に入ってきた。訊けばそばが乾燥しないようにとのこと、手繰ると細打ちのそばは、しゃきっとしていて、特に発芽そばはもちもち感が強く、この手のそばには余りお目にかかったことがない。量は多め、でも運転される偉太夫である磯貝さんは、ささの代わりに真っ白な更科を追加して召し上がっていた。私は念願のおお西での元祖発芽そば切りを賞味でき、満足だった。

2017年6月21日水曜日

東京からの客人を誘って「やまぎし」へ

 4月下旬に家内と信濃の中の湯温泉へ行った折、上高地を散策した後、昼食を宿に戻ってざるそばを食べることにしていた。ところでこれには予約が必要で、お願いしたところ OK だという。これを聴いていた東京から来たという女性が、私もお願いしますと頼まれていた。件の女性は見るからにキャリアウーマンという感じだった。でも前日の夕食でも、当日の朝食でも話す機会はなく、また翌日の上高地行きでも、全く話す機会はなかった。上高地から宿への帰りは、一旦路線バスで中の湯のバス停まで行き、一旦近くにある中の湯温泉の連絡事務所へ入り、ここから迎えの車の手配をお願いすることになっている。彼女とは上高地からの路線バスでも一緒、事務所でも一緒、それで事務所では彼女とはそれとなく家内が話をしたようだった。しばらく待って迎えのバスで宿に戻り、一緒に昼食のざるそばを食べた。3人のみとて、漸く話の糸口が見つかり、その後いろいろ会話した。
 訊ねると、彼女は世界各地へ旅行しているとのこと、そしていつも一緒な相棒は同級生だという。外国ばかりではなく、国内もあちこちに出かけられている様子、その上「そば」もお好きだとか。話が弾み、それで家内も一口乗って、「やまぎし」の極太の粗挽きそばの話を持ち出した。するとそれを一度食べてみたいとのこと、じゃその折は案内しましょうと。家内は携帯電話の番号を教えて、お出でる時は連絡して下さいと言って別れた。彼女は宿の車で、朝一緒に上高地へ行った外人夫妻を迎えに再び上高地へ行き、それから松本駅まで送ってもらうとかだった。私達も車で飛騨古川を経由して家に帰った。
 それから1ヵ月ばかり経った5月下旬、宿で会った件の女性から電話が入り、6月16〜17日の土日に友達3人と金沢へ行きますとのこと、それで17日の日曜日に件の「やまぎし」へお願いしたいとのこと、折よく行事もなく、御案内しますと家内は返事していた。その後お一人は子供さんが病気になったとかで、お二人を案内することになった。
 この方達はいつもグループで行動されているようで、金沢は初めてとのことだったが、私達が案内するまでのことはなく、事前にネットで十分に検索されていて、後でお聴きすると、私達よりはるかに上手なプランを立てておいでで、しかも格安で便利な方途を考えられていて、感心してしまった。もちろん「やまぎし」のことも、事前に調べられていたのは言うまでもない。
 6月17日の朝、9時半に宿舎の「兼六荘」へ迎えに行く。ここは私学共済の宿舎で、何度か東京の叔父を迎えに行った記憶がある。今は正式には「ホテル金沢兼六荘」と呼ぶとか、通りを挟んだ向かいには、金沢城公園への甚右衛門坂口がある。ここで信州で会った S さんと、彼女の友人の K さんを載せて、旧鳥越村左礫へと向かった。
 話を伺っていると、土曜の1日はかなり濃密なスケジュールだったようだ。メインは友禅の浴衣を着てのひがし茶屋街の散策、昼は玉泉園で昼食、その後兼六園や金沢城を巡られた由、中々旅慣れておいでだ。それで当日のスケジュールを訊くと、高崎在住の K さんは金沢発 14:50 発の「はくたか」で、S さんは 16:47 の「かがやき」で帰られる由、それで金沢駅へ午後2時と4時に寄られるように車を走らせることに。2人を乗せた後、いつものように山側環状道路から手取川を渡り、大日川を遡行する。そして左礫にある「やまぎし」に着いたのは 10 時 30 分、開店1時間前、待つことにして中へ入れてもらう。注文は「田舎粗挽き」「天ぷら」を各4、隣の渡津部落の蛍米の「おにぎり」を2個、そして小生
の焼酎「財宝〕2杯。待つ間、昨年夏に「男の隠れ家」別冊で紹介されていたのでお見せした。K さんの旦那さんは殊の外そば好きとかで、資料をスマホに収めておいでた。
 今日は予約で満員の由、それであってか、11 時にはもう粗挽きが出された。今日は5人体制 (山岸さん夫妻、弟さん夫妻、妹さん)、11 時までに私達のほかにも3組8人が席に着いていた。訊ねると、定刻の 11 時 30 分にはライダー一行 46 人が予約済みとか、凄い人気だ。粗挽きはヒマラヤの岩塩でも食べることを勧める。こんなのは初めてだと彼女たちは驚いておいでだった。天ぷらはもう粗挽きを食べ終わる頃に出てきた。おにぎりは彼女たちが食べたが、実に美味しそうだった。そして終わる頃に、自動二輪の大部隊が到着した。良いタイミングで席を譲れた。
 2時まで1時間半あるので、五十谷の大杉を見て帰ることにする。一旦本流の谷を下って神子清水から相滝へ、ここから支流の堂川を遡って五十谷の八幡神社境内にある石川県天然記念物の大杉を見に行く。弘法大師ゆかりの杉とか、横に張り出した太い力枝は実に圧巻だ。以前この神社の隣には、後藤さんという人が「登竜門才次郎」という蕎麦屋を開いていて、そばと岩魚が売りで、「男の隠れ家」にも紹介され、知る人ぞ知る評判の店であったが、今はなく、荒れ果てている。その後車でさらに奥へ進み、尾小屋と阿手とを結ぶ道路を左折した後、旧鳥越高原大日スキー場の脇を通り、大日川に沿って下流へ、そして再び左礫に出た後、朝来た道を金沢へ、途中我が家の前を通って、定刻に金沢駅へ着いた。そしてもう一人の S さんは少々時間があるので、その後国道8号線沿いにある「箔一」へ案内した。金箔の生産量の 95 %は金沢での生産とか、だからか特に県外からの人達の見学が多い。私達が寄った折にも、2台の県外の大型バスが駐車していた。その後金沢駅へ。彼女たちは今秋は中国奥地への探訪を計画しているとか、快活でとんでいる女性連だった。

2017年6月12日月曜日

微生物学教室に2年間在籍した想い出

 私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業し、石川県衛生研究所へ薬剤師として採用された。県では当時能登地区での河川水による簡易水道の普及に力を入れていて、その水質検査に追われていた。ところで当時の石川県は全国有数の結核と赤痢の王国とまで言われていて、折しも起きた大規模な集団赤痢が発生した折、私はその応援に駆り出された。化学検査から全く未知の細菌検査へ、当初苦労したが、1年もやっていると元へ戻れなくなっていた。そこで金沢大学医学部衛生学教室から赴任されていた三根先生の働きで、私が国立公衆衛生院の微生物コースを受講し、3ヵ月後に帰任した際、今後衛生研究所でもウイルス検査をしなければならなくなるということで、金沢大学微生物学教室へ三根先生と同道し、西田先生にお願いし、波田野先生の下で専修生として御指導頂くことになった。昭和37年4月のことである。当時の教室は重厚な木造2階建ての建物、1階が微生物学教室、2階が衛生学教室だったように記憶している。
 当時衛生研究所は (旧) 石川県庁の裏手にあり、半日勤務の後、午後2時頃から7時頃まで教室にいた。当初波田野先生からは空気のような存在であれと言われ、当時助手だった森田さんの手伝いに徹した。彼は金沢泉丘高校の1年後輩で理学部出身、特にウイルス検査に必須のガラス器具の洗浄には特に慎重でなければならず、これには大変気を遣った。そして間もなく、波田野先生は2年間の米国留学に出かけられた。この間私は森田さんから、ウイルス検査の基礎となる組織培養やふ化鶏卵でのインフルエンザウイルスの増殖の手技を教わった。これはそれまで国立予防衛生研究所がやっていた冬季のインフルエンザ流行時の検査を、地方の衛生研究所でやらねばならなくなった時に大いに役立った。
 ところで昭和39年4月、前年創設された癌研究施設にウイルス部門が追設されることになり、その部門の教授に留学から帰任された波田野先生が就任され、私も微生物学教室から癌研究施設に移ることになった。しかしまだ研究室はなく、以前の助教授研究室での研究は続いた。森田さんの指導のお陰である程度の技術はこなせるようになり、波田野先生からは帰任後に、先生が持ち帰られたインフルエンザ株の株間の差異を血清学的に解明するテーマを頂き、微生物学教室の一画で没頭した。しかし1年後にはプレハブの新しい施設が出来上がり、そこへ引っ越した。
 当時の微生物学教室には何故か耳鼻科の先生方が多く、野球好きだった西田先生の下、1チームが作られていたようで、雨の日など、廊下では西田投手と森田捕手のコンビでの投球練習が見られたものだ。そして教室には、薬学部の1年後輩の山岸さんが、もう学部在籍の頃から微生物学教室に所属されていて、そんな縁もあって所属されていた他の専修生の方々とも顔見知りになった。貴重な経験だった。
 その後癌研究施設の方は結核研究所と合併し、組織も新しく「がん研究所」となり、建物も医学部敷地に新設された。私も正式にテーマを与えられ、昭和49年には、波田野先生の主査、西田先生の副査で学位審査が行われ、翌昭和50年2月には学位が授与された。そして2年ばかりだったが微生物学教室に所属していたこともあり、西田先生の特別なお計らいで同門会の末席に名を連ねさせて頂くことになった。そしてその後2回ばかり同門会の幹事もさせていただいた。随分昔のことだ。

「注」上記の文章は、同門会誌の「楷樹2017〜金沢大学医学部微生物学教室同門会〜」への投稿原稿である。

2017年5月28日日曜日

初めての「いしかわ動物園」

 当初、長男との恐竜博物館と越前海岸へのドライブを5月8日に予定していたが、それを5日に実行してしまったので、8日に空きができた。どうも5日に私が地元にある「いしかわ動物園」に行ったことがないと話していたらしくて、この日動物園へ行かないかと打診があった。委託してあった田植えも終わっていたので、一緒に出かけることにした。

「いしかわ動物園」 石川県能美市徳山町 600
 長男が帰郷したのは5月3日、出入り1週間で9日に帰浜するという。8日の9時過ぎに家を出た。通称加賀産業開発道路の県道22号線を旧辰口町へ向かう。辰口温泉 への分岐を過ぎると、左手に大きく動物園入り口の案内板、この道路はよく利用していて、この看板はよく目にしてはいるが、この動物園前の交差点を今まで左折したことはない。
 交差点から動物園入り口まではかなりの距離があるようで、一般道から取付け道路へ入ってからもかなり距離があるように感じた。後で気付いたのだが、目的の駐車場へは動物園をぐるっと一周していたようだった。場所は小高い丘にあり、行き着いたのは9番目の P9 という最も奥まった所にある駐車場、数百台は駐車できようか、でも平日のこの日は車は十数台しか停まっていない。一角に階段があり、下の方には正面ゲートが見えている。チケットを求めて中に入る。
 入ると正面に「アシカ・アザラシたちのうみ」というプール付きのステージがあり、ここにはアシカ、ゴマフアザラシ、バイカルアザラシがいる。面積は広いが、ここには各1頭のみ、このスペースからすると、この2〜3倍の頭数がいないと、あまりに閑散としていて、歯が抜けているような感じだった。
 左手にあるスロープをぐるりと回って上ると、次は「サルたちの森」という大きなケージの前に出る。ここには、リスザル、ワオキツネザル、ブラッザモンキー、テナガザルの4種の猿たちが同居している。中には遊具がいろいろあり、気侭に楽しんでいる。はしゃいでブランコなどで戯れていたのはテナガザルで、よくぞ器用にと思って眺めていたが、しかしあの旭川市の旭山動物園の迫力からすれば、数も規模もこじんまりしている。
 道路を挟んだ向かい側には、「小動物プロムナード」というコンクリートの建物があり、ここには、レッサーパンダ、ケープハイラックス、マーラがいた。いずれの動物も愛嬌があり、心が和む。
 次いで「イヌワシの谷」というケージ、イヌワシはじっとしていた。イヌワシは飛翔していてこそ壮観なのだが。でもこのケージの中では飛ぶことはままならない。
 少し歩くと「ネコたちの谷」という一画がある。トラ、ライオン、ヒョウのほかにユキヒョウがいた。ユキヒョウは灰白色の地に黒班の体毛と太い尾、テレビでは何度かお目にかかっているが、実物を見たのは初めてだった。ヒマラヤに住むのだが、夏はオープンでの暑さには大丈夫なのだろうかと思ったりする。
 次いで「オーストラリアの平原」という一画、ここにはカンガルー、ワラビーとエミューが。エミューはダチョウの仲間の鳥、この鳥は私にとって初のお目見えだった。
「郷土の水辺」という一画には、こちらでは激減したトミヨやホクリクサンショウウオがいた。
「南米の森」のケージには、ワタボウシタマリン、ナマケモノ、そして嘴が巨大なオノオオハシがいた。この鳥は初見だった。ナマケモノもなかなか愉快な動物だ。
 次いで寄った「ふれあいひろば」では、丁度お昼時ということもあって、マゼランペンギンに餌の鰺を与えているところだった。30羽近くいる個体を給餌員は覚えていて、なるべく満遍なく与えるのだとか。でも時に餌を池に投げ入れると我先に取り合うが、その動きは水中では実に俊敏、くわえるとすぐに飲み込んでしまう。でないと横取りされてしまう。しばし見とれていたが、動きは陸の上と水中とでは全く別の様相、楽しめた給餌時間だった。
 私達もレストランで食事をした後は、「水鳥たちの池」へ、ここには番いのオシドリもいた。
「カメたちの広場」には、ゾウガメがいた。大きい。初めて見た。
「メダカたちの池」には、メダカのほかにイトヨもいた。絶滅が危惧されている種だ。
「バードストリート」には、インドクジャクの雄がいたが、羽はたたんでいた。別のケージには、オオタカやシロフクロウもいたが、もう少しケージが広ければよいのにと思った。
 休憩所を過ぎると、奥にトキの繁殖施設がある。現在は20羽近くいるとかだが、ここは立入禁止区域、一般の人は新たに作られた「トキ里山館」へと案内される。ここはフリースペースでかなり広く、この動物園の目玉として設えられた。上部は網で覆われていて、池の向こう側にはトキの巣が高みにあり、ここにペアがいるのが見えている。一羽がしゃがんでいて、一見卵を温めているように見える。ぐるりと回ると、巣の近くまで行くことができるが、できればトキが優雅に飛翔しているのを見たいものだ。今後に期待したい。
 その後は動物園の定番であるキリンやシマウマなどがいる「アフリカの草原」、インドゾウがいる「ゾウの丘」、老齢のカバのデカが死んでコビトカバが代わりに入った「カバの池」、さらに「チンパンジーの丘」と「オランウータンの森」などを巡った。
 そして最後は中央にある大きな池に周りの草原にある「ツルたちの水辺」、ここにはタンチョウ、マナズル、コウノトリがいるとか。私達が行った時、丁度給餌員が餌の魚を与えているところだった。私達が見たのは、ペアのタンチョウとコウノトリ、餌の捕り方を見ていると、優雅で大きなタンチョウが一番威張っているように見えた。   こうして一巡りを終えた。

閑話休題
 後日知ったことだが、私達が見たトキのペアは、公開されて初めて1個の卵を生み、抱いていたのは偽卵だが、本物のは人工孵化器で誕生させ、その後雛を巣に戻したという。今後が楽しみだ。 

2017年5月27日土曜日

5月連休の福井県立恐竜博物館

 横浜に居る長男が帰省した時には、大概私達夫婦と一緒に車でドライブするというのが常で、いつもは長男がコースを設定してくるのだが、今回はこちらで企画してほしいという。それで私が選定したのが、これまで一度は行きたいと思っていた福井県勝山市にある福井県立恐竜博物館である。その後は越前海岸でもドライブすればよいのではと思った。

「福井県立恐竜博物館」 福井県勝山市村岡町寺尾 51-11
 出かけたのは5連休真ん中の5月5日、朝8時半に家を出た。国道159号線を南下し、白峰から谷峠を越えて勝山へ、道中まだ残雪が見られ、山肌には山桜が咲いていた。峠を越えると、残雪の大日岳が眩しい。長い坂を下って勝山の町並みが見える辺りを右に折れる。ところがこの交差点、勝山方面からの車は数珠つなぎ、改めて人気の施設なのだと実感させられた。そして取り付け道路に入ると完全にのろのろ運転状態、時間は9時10分、開園は9時だろう (実はこの日は8時30分)と思われるが、さてここから駐車場入り口までどれ位距離があるのか見当がつかない。ともかく近くにある駐車場は既に満杯だ。そして30分ばかりして漸く駐車場入り口へ、あとでパンフレットを見ると、乗用車1500台、大型バス10台のスペースがあるという。とのかく休日の混雑は想像を絶する混雑ぶりだ。
 車から下りて本館へ向かう。途中化石を発掘体験できるコーナーの脇を通ったが、1日4回体験できるこの作業は全て満員とのこと、絶大な人気があるらしい。暫く歩いて、銀色のドームのある本館へ向かう。沢山の人がひしめいている。エントランスホールから中へ。
 石川県にも、手取層とか桑島層とかいう化石が出る先駆となった命名地層があり、その桑島地内には「白山恐竜パーク白峰」という施設がある。でも命名の発端となったこの地域は、国立公園内ということもあって発掘はできず、偶然に公園外の勝山地内の同じ地層から恐竜化石が出たこともあって、今ではこの地が本命となっている。
 先ずは本館1階の「恐竜の世界ゾーン」へ。館内には所狭しと並んだ恐竜の全身骨格、圧倒されてしまう。白峰の施設と比べると、学術的な分類がしてあり、しかも実際に発掘された化石が9割以上の骨格標本も9体、中にはアメリカで発掘され、この施設でクリーニングして組み立てられた標本も展示されていて、とにかく規模も学術的価値も数段高い。私が小さな時に恐竜に興味を持った時には、恐竜の分け方は草食竜、肉食竜、翼竜とか位だったが、ここでは恐竜は大きく竜盤目と鳥盤目に、前者はさらに竜脚形亜目と獣脚亜目に、後者はさらに鳥脚亜目、周飾頭亜目、装盾亜目に分けて展示され、しかも学名まで記されている。さらに驚いたことは、子供たちがそれを当然の如く口にしていたことだった。ジオラマ「中国四川省の恐竜たち」のコーナーは、動きのある恐竜に出会えるコーナーだった。
 次いで同じフロアの「地球の科学ゾーン」へ。ここでは「水と地球」「火と地球」をテーマに、陸や海の堆積物、年代別の化石、隕石、いろんな鉱物、岩石、地層の展示がされていた。また外周には福井県勝山市で発見された5種の化石標本6体、コシサウルス、フクイベナートル、フクイティタン、フクイサウルス、フクイラプトルが、またほかに「手取層群の恐竜」「日本の恐竜」「アジアの恐竜」のコーナーもあった。
 次いで1階の外周のスロープを1階のゾーンを俯瞰しながら上がり、2階の「生命の歴史ゾーン」へ向かう。ここでは生命の誕生から人類までの進化に触れることができる。まず古生代のコーナーでのテーマは、「生命の誕生」「脊椎動物の出現」「陸上への進出」「大森林が育んだ動物たち」、次いで中生代では、「中生代の海」「海と空の爬虫類」、そして古い順に、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の「恐竜時代の森」の再現、そして新生代のコーナーでは、「花咲く植物と哺乳類の繁栄」「哺乳類時代の海」「哺乳類時代の陸」、そして最後は「自然の中の人類」で締めくくられている。各コーナーには、展示などを説明するビデオライブラリーやコンピューターで情報を閲覧できるネットライブラリーがあり、多くの人が利用していた。でも見ていて真に熱心なのは子供たちだった。また3階には映画館やライブラリー、ミュージアムショップ、レストランなどがある。こうしてざっと2時間ばかり、一通り見て回ったが、今度来た時には、もっとゆっくり時間に余裕を持って、じっくり観察したいものだと思った。やはり休日は混むとかで、平日に訪れたい。
 ここの開館時間は午前9時〜午後5時、休館は第2・第4水曜日と12月29日〜1月2日、幼時と70歳以上は無料だそうだ。
「付記」 年間入場者数は、福井は100万人、白峰は2万人と大きな差がある。

「越前海岸」をドライブ
 恐竜博物館を出たのは正午少し前、帰りの駐車場から国道への交差点までもかなり混んでいた。しかも国道へ出てからも入る車は延々と続いていて、この人達は夕方までに入れるのだろうかと訝ったほどだ。私達は福井北 IC から 高速道に入り、武生 IC で下り、越前陶芸村の脇を通り、越前海岸へ出た。途中の山越えで、昼食に季節限定の「竹の子定食」を食した。その後、道の駅「越前」へ寄り道し、後はひたすら海岸線の国道305号線を北上し、越前岬の水仙の里公園を経て、東尋坊へ、休日ということもあって、ここも人でごった返していた。こうしてデューティーだった長男とのドライブは終わった。