(承前)
3.長滝白山神社と天台宗白山長瀧寺 岐阜県郡上市白鳥町長滝
午前 11 時頃に平泉寺を発つ。以前ここで名物のアイスクリームを皆が食していたのを思い出し、家内に言ったところ、ゲットしてきた。美味しいという。でも私は食べない。再び国道 157 号線に戻り南へ、ルートは九頭竜湖、油坂峠を経由して国道 156 号線を北上して長滝へ至る予定にしていた。ところで九頭竜川沿いの国道を 157 号線と思い込んでいたものだから、谷が狭まってきて初めてこの道は温見峠越えの道だと気付き、山に入る直前に迂回して 158 号線に戻った。大野から長滝へは 158 号線、次いで 156 号線が正解だ。道の駅九頭竜に着いたのは正午近く、でもここでの昼食はパスして先を急ぐ。石徹白への道をやり過ごし、九頭竜湖の右岸に付けられた道路を上流へと進み、やがて道路は湖岸を離れて油坂峠へ。峠の手前には白鳥西 IC へ向かう中部自動車縦貫道があるがここへは入らずに忠実に国道を辿る。トンネルを過ぎれば岐阜県、九十九折りの道を下ると、やがて国道 156 号線と合流する。ここから荘川までは国道 156 号線と国道 158 号線の併用区間である。合流してからは北へと進み、道路左手に長良川鉄道の白山長滝駅が見えて来ると、線路を挟んで目的地の長滝白山神社が見えて来る。
広い駐車場の北側には、巨大な石の碑が立っていて、上部には横書きに「白山文化の里」、そしてその下には大きく「霊峰 白山への道」と揮毫されている。ここに車を停め、ここから表参道を進んで長滝白山神社・白山長瀧寺へと向かう。途中参道の両脇には、現存の三坊院や今はなき古の坊院跡があったことを示す標柱があちこちに見られる。そして参道から境内へ上がる広い石段の両側には銀杏の大木が植わっていて、小さい粒の実が一面に落ちていた。
境内へ上がると、長滝白山神社の拝殿と白山長瀧寺の堂社が並ぶように建っていて、拝殿前には正安4年 (1302) に寄進されたという重要文化財の石燈籠がある。一角にある社務所に寄り、御朱印と牛王宝印を頂く。隣には龍宝殿があり、ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像 ( 中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩 )、その両脇にはやはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財である木造四天王立像 ( 多聞天、広目天、持国天、増長天の四像 ) が置かれている。
ここ美濃馬場の白山中宮長滝寺は、平安時代の天長9年 (832) に他の二つの馬場、加賀馬場の白山中宮や越前馬場の平泉寺と並んで開かれ、長滝から石徹白の白山中居神社を経て白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。そして白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、平安から室町時代にかけての最盛期には、「上り千人、下り千人、宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかしその後蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは薄れていった。そして明治維新の際に発せられた神仏分離令によって白山中宮長滝寺は解体され、長滝白山神社と白山長瀧寺に分離された。ところで明治 32 年 (1899) に近隣の家から出た火災によって、その大部分が焼失してしまった。現在ある神社本殿は大正8年 (1919) に、寺本堂は規模を小さくして昭和 11 年 (1936) に再建されたものである。
美濃禅定道は美濃馬場から桧峠を越えて石徹白に入り、白山中居神社を経て谷を二つ渡り、今清水社があった大杉平 (石徹白の大杉) を経て神鳩 (かんばと)社 (現在ここには神鳩ノ宮避難小屋がある)に出る。一方ここまでは美濃馬場の裏手から山に上り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て神鳩社で一般禅定道と合流する修験道があった。禅定道はここから銚子ヶ峰、一ノ峰、二ノ峰、三ノ峰を経て別山に至り、南竜ヶ馬場を経て室堂に至っていた。現在でも石徹白から別山を経て南竜ヶ馬場に至る道は石徹白道 (南縦走路) として、また南竜ヶ馬場から御前坂を登って室堂へ行くコースはトンビ岩コースとして現在も利用されていて、至る所に往年の禅定道の面影を見ることができる。
今私の手元にある資料では、美濃馬場の白山中宮長滝寺の神仏習合時の垂迹神と本地仏を記した資料がない。でも現在ある長滝白山神社の社殿が三社あるということは、越前馬場の平泉寺と同じような形態であったろうと思われる。今一度訪れて確かめてみたい。
こうして三馬場巡りは終わった。帰りに自宅への帰路をナビに入れたところ、最優先が高速自動車道路、白山スーパー林道 (現 白山白川郷ホワイトロード) 経由を希望しても白川郷 IC 経由でと、荘川 IC を過ぎるまで執拗に誘われた。健気としか言いようがない。帰宅したのは午後5時、走行キロ数は 300 km だった。
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