2010年6月29日火曜日

マチャ(三男誠孝)の法名は「西往院至誠孝順居士」

1.病院から住み慣れた家へ無言の帰還
 マチャは3月29日朝、救急車で県立中央病院に緊急入院し、42日目の5月9日の午前9時5分に息を引き取った。40年5月5日の生であった。遺体はすぐに病院職員の方によって清拭され、そして慌しく病室を空けることに。遺体をどうして自宅まで運ぶか、休日の場合、病院から自宅への搬送は葬儀社の当番制になっていて、まだ葬儀社の当てがないようであれば、こちらで計らいますとのこと。家が野々市町にあることもあり、病院に頼らないとすれば急を要した。家内では懇意にしている方が葬儀社に関係しているとのことで、その方に病院の公衆電話から連絡するが常に話し中のような感じで通じない。入院していた階は5階、そこで4階に下りてかけてもつながらない。とうとう1階まで下りてかけて漸く通じた。何のことはない、電話回線の故障だった。漸く連絡がついた後は、スムースにことが運んだ。部屋の荷物は持ち帰るものと不要なものとに選別して待機する。葬儀社は天祥閣、マチャは差し向けられたストレッチャーに乗せられ、霊安室口から霊柩車に移されて自宅へ。マチャには私が付き添い、車を自宅まで案内した。
 フリークスの福岡社長の機敏な対応で、自宅には数人の社員の方が待機しておられ、居間にマチャの遺体を安置した。頭を北に、本当に眠っているような寝顔だ。まだ身体も温かい。枕元に簡易な仮の仏壇が届けられ、順に皆が焼香する。程なく妙齢の女の方が見えられ、マチャに今一度軽い化粧をし、髪型も整え、死装束に着替えてくれた。さすがはプロ、マチャの顔、手先、足先以外の肌を全く衆目に曝すことなく着替えを済ませた。しかも一人で、これで旅装束に着替えたことになる。よく耳とか鼻に綿を詰めるのにしないので聞くと、この人は元気があって体内に不要な水分がないので、外に水分が出ないのでしなくてもよいとのことだった。入院中身体が浮いているような印象を受けたがと言うと、彼女はそれは浮腫とは違うと、またひょっとしてお腹の膨らみもがん性腹水のせいではと思っていたが、その方では、長年の経験からそうではないと言われた。もしそうだとすると、亡くなってから時間が経つと、体の下の方に水が下がって、穴という穴から水が出てくるとのことだった。髪型も生前好んでしていた髪形そっくりに仕上げてあって、なおのこと眠っているような印象が強かった。病であっても痩せてなくて、堂々とした立派な偉丈夫だ。
2.マチャの寝ている横で葬式の仕切りをする
 通夜や葬儀の段取りは、千晶や私達の話を聞き、フリークスの社長が判断されて万事が進行した。死亡広告は会社の方でされることに。これは恐らくは参会者のほとんどは会社関係の方達だろうという目論見があったことにもよる。葬儀式場の設営、開始時間、祭壇の規模、故人の写真の手配、各所への連絡、返礼の文面、香典の返し等などは社長に主導していただいた。受け付ける盛り花や菓子類も、金額とスタイルは統一した方がよいと指示されていた。また、葬儀の段取りとか通夜の振る舞いや中陰の人数や料理等々、細かいことまで葬儀社の担当の方や私達も交えて打ち合わせをした。また受付や来訪者の車の整理等も葬儀社任せではなく、必要最小限の雇いは別として、後必要な人数はこちらで動員し、必要なら指示して貰えばよいとのこと、百人くらいは動員できると言われた。現在フリークスには直営店が15店、FC加盟店が16店あるが、全店から通夜・葬儀に来ますとのこと、マチャに関わりのある方が多く見えるということは、マチャも嬉しいだろう。
 こうして通夜は5月10日(月)午後7時から、葬儀は5月11日(火)午前10時から、野々市町矢作にあるフューネラルホール天祥閣で執り行われることになった。喪主は妻の千晶だが、状況から見て、フリークスの社葬ともいえるスタイルになった。通夜と葬儀の親戚代表の挨拶は私だが、喪主の千晶にも簡単な挨拶をしてもらうことにした。また社長の希望では、通夜には参会者の方々に社長として挨拶したいと言われ、また葬儀には弔辞を述べたいと言われた。マチャは幸せ者だ。嬉しかった。
3.仮通夜にもマチャのもとには沢山の方が弔問に
 マチャが自宅に帰ったとのことで、沢山の方が弔問に訪れてくれた。以前いた会社で同僚だった、マチャが病院で皆勤賞を渡さねばとまで言っていたJ君は、ずっとマチャのそばにいてくれた。素晴らしい友を持ったものだ。マチャの長男は小学生のときには剣道、中学では野球を、次男は小学生で剣道をしているが、その関係の子供たちや先生や親御さんも弔問に見えた。通常仮通夜というと内輪だけのものだが、マチャの場合、会社の方はもちろん、前の会社の同僚や小中高の同窓の人も顔を出してくれたのには恐縮した。私にとっては前代未聞である。
 午後1時過ぎ、私の家の檀那寺である法船寺(浄土宗)の方丈さんが見えられた。この方は来年行われる法然上人八百年大遠忌の実行委員長をされていて、週5日は京都の知恩院に詰められていて、今日の日曜も夕方には京都に帰られ、明日の通夜に間に合うように来沢し、明後日の葬儀が済み次第京都に帰られるという過密なスケジュール、まことにお忙しい。
 翌日の葬儀の日も、納棺する午後3時頃までも弔問の客があった。寝顔は昨日とも全く変わっておらず、本当に安らかに眠っているようで、声をかければ「オー」と言って目を覚ますのではと思うほど自然な顔立ち、でも身体は脇と腹にドライアイスを抱かされていて冷たい。
4.マチャの写真の合成の妙
 天祥閣の係の人から葬儀の祭壇に飾る写真の元になる写真がありませんかと言われ、何葉かの写真を千晶が出してきた。そのうちから一応2枚を候補として上げたが、被写体が小さく、拡大するとボケそうな感じだ。そこへ社長が顔を出し、社には千枚以上ものマチャが被写体の映像がパソコンに入っているから、良いのを選ばせると言って社へ指示された。ほどなく選んだというA4のプリントが何枚か届いた。こちらは随分鮮明である。千晶と私達も入って選んだのが、どこかのスポーツジムでダンベルを持ち上げているポーズのマチャの写真、楽しんでいる様子で微かに笑みを浮かべている。社長曰く、顔はこれでいいとして、首から下はシャキッとしてないといけないので、フォーマルなスタイルの映像はないかと言うと、これにもすぐ呼応、胸元も決まって、これで行こうと社長。後はどうするのかと聞くと、九州に日本一写真を合成するのが上手いスタジオがあって、そこへ依頼するとか、画像を送信すればすぐに合成されて画面が送られてくるとか。元の2枚は色合いも向きも微妙に違っていて、そのままでは不自然なものになるのではと思っていたが、なんと出来上がった写真は全くの自然体、どこが継ぎ目なのか全く分からない。こんなことが出来るとすると、近頃問題になった件の女性の裸体も、首だけ挿げ替えると簡単に件の女性と見間違うことに、どんな合成写真も思いのままというのには実に驚いた。また当然だが、被写体やバックの色合いも自由自在である。葬儀用の写真はその画像を基にして葬儀社で作られるらしい。というのは葬儀がすんだ際、通常サイズの葬儀用写真が入ったポートレートを私に記念にとくれたが、それを目ざとく見つけた長男と次男が同じものをほしいというのでお願いしたら、簡単に引き受けてくれたことで分かった。
5.通夜には笑顔のマチャのスライドショー
 マチャが納棺されて、皆に担がれ、霊柩車に乗り、矢作の葬儀場へ。車には千晶と私が同乗、車は一旦生家である実家の前を通って行ってくれた。今度実家へ帰ってくるのは四十九日の満中陰の日だ。この法要は私と家内で仕切ろう。これが親としてできる最後の勤め、後は千晶に任そう。式場は既に整備されていた。受付もフリークスの方たちが監査役の方の指示でリハーサルしていた。そのほかにも沢山の方たちがいて、生前のマチャの楽しそうな表情をした過去を演出しようと懸命になっていた。あの励ましの色紙や千羽鶴も飾られることに、そのボードやパネルなんかもお手の物だという。なんとも社長の心配りには心から感謝しなければならない。スライドショーのリハーサルをしているところを少し拝見したが、生前の元気だったマチャが満面の笑みを浮かべて躍動していた。 
 ある女性の社員が私に、常務は会社では絶対私たちの前で笑顔を見せることはなく、緊張することが多かったけれど、慰安会などでは本当に楽しく別人のようだったと。だから好きなんだけれど、こと仕事では厳しく怖かったと。またある男性は、会社で注意されてしょげていると、後で必ず飲んだりしたときにフォローしてくれて、またしっかりやろうという元気が吹き込まれ、活力が湧いてきたと。気のいい優しい奴、しかもその人に合った矯正術を心得ているという印象を受けた。こんなだから自身で金を使うことはないものの、矯正して元気をつけるには「飲み」は必要だったようで、対手は個人のこともあり、少人数なことも、グループであることもあったようだ。だから貯金はせず、千晶が家内に嘆いたこともあったとかだったが、しかしその多くの人たちへの功徳がマチャの信望となり財産となって還元されてきているのだと思うと、決して無駄な投資ではなかったように思う。亡くなって千晶もようやく納得したようだった。私はとてもそこまでは出来ない。もって生まれた素晴らしい才能と性格のなせる結果だ。
 開式1時間前には喪主と父は席に着いて下さいとのこと、早いけれど、もう弔問客が見えているからだと。会場の正面左にはスクリーンが下げられ、あのマチャのスライドが映写されているようだが、遺族席からは真横で見えない。入り口のホールでも上映されているようだ。またバックに音楽が流れていたが、後日小立野の金大病院前にある前田書店の御主人が、私にその音楽は「色彩のブルース」という曲とかで、私にメールで届けて頂けた。聞くと、この曲はマチャの好きな曲で、携帯電話の着メロにも使っていたとは千晶の弁、だから彼女は聴くのは辛いと話していた。
 通夜の会場は1階のみの使用にして、1階は椅子席で200席ばかりだが、式が始まる20分前には席は全て埋まってしまった。通夜に訪れた人は620人ばかりと後で聞いた。
6.福岡社長の挨拶で分かったマチャの功績
 通夜の導師は実家木村家の檀那寺浄土宗法船寺の御住職、伴僧は大円寺と大連寺の御住職、浄土三部経の読経があった。頂いた誠孝の法名は「西往院至誠孝順居士」。
 読経が終わって社長の挨拶、初めはスクリーンを見ながら話しますとのことだったが、真横に位置するため画面を見ながらのトークは難しく、口頭での挨拶となった。内容は、誠孝との出会い、株式会社フリークスへの参画、緊密な下調べによる新店舗開拓への努力、社長の片腕となっての活躍、そしてフリークスグループの基盤確立への貢献、などである。
 社長が自立してマンガ喫茶を野々市町に持ったのは平成11年、この頃誠孝はペプシコーラの営業をしていて、よく訪ねてきていたという。2年後にはこの店を閉めて、フリークスの1号店を有松に出店したが、このとき誠孝の努力が実ってコカコーラからペプシに納入先が変わった。平成15年に有限会社フリークスを立ち上げ、請われてフリークスに入社した。私達は慰留したが、社長に惚れたのだろう。誠孝の決意は固かった。会社は2年後には株式会社に改組している。当時はまだマンガ喫茶にも発展の余地があり、専ら優良な居抜き物件を取得してマンガ喫茶にする方針で出店していたが、社長では誠孝が診断してGOとなった店はことごとく繁盛したとのことで、社長の片腕となりえたようだ。出店は地元石川ばかりでなく、福井、新潟、三重、岐阜、愛知にも及び、現在も健在で営業している。またフランチャイズ加盟店も石川ばかりでなく、福井、富山、青森、岩手、宮城にも出来、誠孝は開発関係の最高責任者として活躍するとともに、常務取締役として経営にも参画することになる。社長は挨拶でフリークス発展の要だったと言ってくれた。その後幹部の方たち10人ばかりが、今後10年を展望した誠孝の方針を引き合いに出し、それぞれが方針の実現に向かっての抱負を述べてくれた。
 これに対し私からは、昨年7月に入院してから今年5月に他界するまでの経過と、社長との出会い、そして誠孝は福岡社長の下でこそ「時」と「所」を得て活躍することができたことに対する感謝の気持ち、病院にいても仕事に対する情熱は衰えることなく、私は木口小平の「死んでもラッパを放しませんでした」という昔の修身の一節を思い出し、また「斃れて後止む」ということを実践してくれたように思えると述べた。またこの世との別離に当たっても、妻や私達両親にもただ「ありがとう」という感謝の気持ちのみしか述べなかったことも、常人では出来ないのではと話した。
 この後、誠孝を偲んで、近親者、会社関係の方々、その他友人達が寄って、お酒を飲みながらいろんな話をした。会社の方々の席へ挨拶に行くと、社長は誠孝が愛飲していた「鏡月」を飲まれていた。私も頂いて誠孝に「献杯」した。遺体は私達が泊まる部屋の安置場所に移されていたが、ここで誠孝と対面しながら、また飲みかつ話し合った。
7.小雨のなかの葬儀
 翌日の葬儀の日は生憎の小雨、でも三百人を超える方々がお参りに訪れて下さった。読経の後、福岡社長の弔辞、私と千晶の挨拶の後、出棺、最後のお別れには、多くの人にも声をかけて誠孝を花で埋めてもらった。やさしい寝顔だった。火葬は旧鳥越村にある共同斎場で。ここでの火葬は2時間を要するので、僧侶の方達からは敬遠されていると聞いている。私もここへ来たのは初めてだった。金沢市の斎場での待ち時間は1時間である。方丈さんも京都へ帰られるので、時間を気にしておいでだったが、長男の将太も修学旅行に二晩目の今晩合流参加しても良いかとの打診に、身内の方の同伴があれば宿で待ちますとの返事、これで父親が生前行ってこいと言ったことがやっと実現するが、これも時間との戦い、気が気でなかった。
 予定より30分も遅れて火葬が終わった。178cmの偉丈夫も今は白骨と化した。体育会系だけあって立派な大腿骨と股関節、職員の話では仙骨が脆くなっていたとか、腰や足の痛みは大変だったろうと思いやった。骨壷に皆で遺骨を拾い収めた。読経と初七日の法事を済ませ、慌しく方丈さんも将太も金沢駅から電車に、将太も無事甲子園の宿舎に皆と合流できたとか、よかった。時間が遅延したこともあって、中陰の席に着かずに帰られた人も何人か。七七日、四十九日の満中陰の法事は6月27日の日曜日に、誠孝が生まれた実家で執り行うことに。こうして慌しくも無事誠孝の葬儀を終えることができた。
 翌日は千晶と家内と私とで関係各所への挨拶回り、誠孝が亡くなってのこれからの生活設計も考えねばならないが、これで取り敢えずは一段落した。

〔追記〕
後日、株式会社フリークスコアからリーフ3葉が入った手紙を貰った。内容を以下に転記する。
1.御 礼
 先日は弊社常務取締役木村誠孝儀、葬儀に際しましてはご多忙中にも拘らずご会葬賜り且つご丁重なるご弔辞とご厚志まで頂戴し心より御礼申し上げます。
 思いおこしてみると、故人は熱く誠実で、そして優しい男でした。創業以来、いつも私の片腕として共に走り続けてきた第一人者でありました。どんな時も”感謝”を忘れないことを信条に、最後まで命を懸けて家族そして会社の為にそして私の為に頑固なまでに体を張り、フリークスグループの基盤を創ってくれました。
 これから私たちは常務の思いを胸に秘め、力を合わせて社業の発展に努めて参ります。生前にお世話になった皆様、今後とも今まで同様にご指導ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。
 最後になりますが、貴社の益々のご発展と末永いご健康を祈念いたしましてご挨拶とさせていただきます。
 平成二十二年五月
 フリークスグループ 代表  福岡 悟  印

2.サンクスカードを持った笑顔の誠孝 と 誠孝の上半身正面写真・枠内に式場正面 
 サンクスカード: FROMフリークス社員・スタッフ一同  TO木村常務
 『感謝をこめて・サンクスカード』 1人目  H22年5月9日
 「木村常務には、たくさん ご指導いただき 大変感謝しています 本当にありがとう」
 墨書 「人生感謝」 「ありがとうございました」 「お世話になりました」
 木村誠孝の墨書の自署 『感謝』 木村誠孝   平成22年5月9日永眠・・・

3.平成の漫画喫茶キムラ39珈琲オープンのご案内
 先日は、弊社 常務取締役 木村誠孝儀 葬儀にご参列ありがとうございました。故人が新しいプロジェクトの責任者として進めて参りました「平成の漫画喫茶キムラ39珈琲南新保バイパス店」がいよいよオープンする運びとなりました。故人の思いや取組みを店で感じていただき、故人同様の御厚情、ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。
 平成二十二年五月吉日
 フリークスグループ  株式会社 キムラ39
 代表取締役  福岡  悟     取締役  木村 千晶
 オープン日時:2010年6月2日(水) 午前7時
 営業時間:午前7時~深夜1時
 場   所:金沢市南新保ト23-1
 電話番号:076-239-0860



 

2010年6月23日水曜日

マチャ(三男誠孝)は彼岸へ旅立った

1.五度目の入院は救急車での緊急入院
 平成22年3月16日に退院して自宅で静養していたが、月末の29日朝、息苦しくなって救急車で県立中央病院に緊急入院したと、細君の千晶から連絡が入った。入院は数えて五回目になる。家内と私は直ぐに病院へ駆けつけた。主治医の先生も見えられ、救急処置がなされたようだ。容体についての詳しい説明はなかったが、間質性肺炎の悪化が考えられる。容体は落着いたが、先生ではこのまま入院した方が安心だとのこと、五度目の入院ということになった。丁度この日は次男家族の千葉松戸から金沢への引越しの日、家内は手伝いに行く予定にしていたらしいが、フルタイムはとても無理だったが、少しは手伝えたと言っていた。家内はマチャが入院したということで、この日からこれまでのように午後6時前にマチャの所へ行き、午後7時前には一旦家に帰り、午後8時までにはまた病院へ戻るという日課が再開された。前の入院時よりも息苦しさがあるようだが、病院という環境が安心感をもたらすのか落着いていた。また何故なのか食欲はある方で、私には実に不思議な現象に思えた。だから一見病人らしくない病人のようだった。こうして容体も落着き、4月が過ぎていった。私もこの間、年2回あるペースメーカーのチェックに金沢医科大学病院へ出かけられたし、勤務している予防医学協会に働くT君が団長を勤める百万石ウインドオーケストラの定期演奏会も聴いたり、ラ・フォル・ジュルネ金沢のオープニングコンサートにも出かけられた。 
 マチャが再々々々度入院したということで、フリークス傘下の店の従業員全員と思われる大勢の方達から「木村常務、早くよくなって下さい」という病気平癒の寄せ書きが沢山寄せられ、その数は夥しく、マチャがこれほど慕われていたことに驚きもし、感謝の念を禁じえなかった。半ば公けな一面はあるにせよ、それを読むと、その文章の端々には、早く癒されてまた一緒に仕事をしたいという、皆からの一途な熱い思いが伝わってきて、やるせないものがあった。福岡社長の快癒を願う大きな墨書の色紙は、マチャには大きな励みになったことだろう。またフリークス以外の方からも、病気に打ち勝ってとの激励の力強い書が届いた。嬉しい限りである。私は土曜ごとにしか訪ねていないのに、社長はとりわけ忙しいのに、足繁く訪ねられていた。また前にいた会社での同僚の中には、ほぼ毎日訪ねてくれた人もいた。
 そんな中で、社長の発案なのだろうか、あるいは誠孝も少しはかんでいたのかも知れないが、入院している病院に程近い国道8号線沿いの、丁度フリークスの駅西バイパス店の向かい側辺りに、以前はラーメン屋だったとかの居抜き物件を改装して「キムラ珈琲」という店をオープンするとか。誠孝は知っていたのかも知れないが、親としては社長の心遣いに涙が出るほど嬉しかった。内装も外装も、マチャがタッチしたのかどうかは知る由もないが、マチャからは設計図やイラストを見せてもらった。当初の開店は5月31日、マチャのカレンダーには『キムラ珈琲OPEN!』と書き込んであった。もっとも実際開店したのは、大安吉日の6月2日だった。でもマチャはその日を待たずに他界していた。
 5月に入って、1日には長男の豊明が帰ってきて4日までいた。この間、マチャとは何回も顔を合わせている。また次男の朋伸は駅西に銀行の支店があるので、病院とは近いこともあって、時々様子を見に出かけていたようだ。この5月のGWには、以前なら私達夫婦と子供達3家族とが何処かで集まる企画を立ててくれたものだが、もうそのような機会は来ないのだろうか。親子の情もさることながら、兄弟の情というのはまた親と違った絆を感ずるものらしい。長い最長7日というGWも過ぎ、8日の土曜日は終日庭の掃除をした。ツツジの花が終わったあと、その萎れた花を外すのにはかなりの手間がかかるが、きれいになると新緑が実に清々しい。終わっていつものごとく私は夕方病院へ出かけた。酸素の流量が多くなったとのこと、少し息遣いが荒いのが気になる。それに対処するためか安楽療法を始めるという。どういう治療なのか皆目見当がつかないが、身体が楽になるというのであれば、それも一つの選択だが、ただ食は細るとのことだった。食べたくなくなるのだろうか。そしていつもの如く、一度家内と自宅へ帰ることに。そして家内は再び病院へ。
2.マチャとの別れと彼岸への旅立ち
 翌日の9日は日曜日、少し遅れたが朝1時間のウォーキングに出かける。家に着いたときに家内から電話、誠孝の容体がおかしいので、直ぐに病院へ来るように、朋伸が迎えに行くからと。午前8時頃だったろうか。急いで身繕いして病院へ。マチャはベッドに半分くらい上体を起こして寄りかかっていた。見たところ、そんなに切羽詰ったような様子は見られないものの、息遣いは荒く苦しそうだ。細君の千晶と次男の勇貴も着いた。長男の将太は野球の対外試合があるとかで中学校へ出かけたとのこと、学校へ連絡して、次男の朋伸が迎えに行く。誠孝の次男の勇貴は永久の別れを察したのか、父の傍を離れないで泣いている。千晶が誠孝に「将太は明日から楽しみにしていた修学旅行」だと言うと、誠孝は「行ってもよい」と言う。微かな笑みを浮かべたやさしい顔をしている。千晶とは何度も抱き合って「ありがとう」「アリガトウ」を何度となく口にしていた。もう長くはないと感じていたのだろうか。でも声はしっかりしている。心から吐露された言葉には真心が感じられる。私もいつも別れるときのように手を握った。いつもは「また来るから元気でナ」と言うのだが、この日は大きなマチャの手で強く握り返されて「ありがとう」とマチャに言われてしまった。
 誠孝は職員には感謝の気持ちを忘れないようにと、平生からくどいほど口にしていたと聞いたことがあるが、正に付け足しではなく本当に心と体とが一体になっている感がする。酸素マスクが外れそうになって、目張りをする。長男の将太が着いた。将太の顔を見るなり、「修学旅行に行って来いヤ」という思いやり、涙が出る。将太や勇貴ら子供達には「スマンナア」と言い、妻や両親や兄弟には「アリガトウ、ありがとう、有難う」と、何の愚痴を言うこともなく、達観した悟りの境地とも受け取れる姿、私だったらこうは行くまい。既に仏になっているのだろうか。苦しいのだけれど苦しい表情も見せずに、我が子ながら実に見上げたものだ。
 午前9時頃、女の看護師が右腕に筋注を1本した。予め誠孝からお願いしてあったとか、麻酔薬なのか、睡眠薬なのか、暫くして誠孝は静かに目を閉じた。主治医の先生は学会に出張だとか。代わりに若い医師が、その医師に眠りは浅いのか深いのかと聞くと、浅いとのこと。その1,2分後だったろうか、福岡社長が見えられた。耳元で「ジョウム」と呼ばれて、誠孝は一瞬目を開けた。奇跡ともいえる2秒だった。でも口は結んだままだった。もし注射する前だったら、どんな会話が交わされたろうか。でも誠孝から発せられる言葉は、「有難う」と「お世話になりました」だったろう。「本当にお疲れさんでした」がみんなからのはなむけの言葉だ。
 心肺機能のモニターはナースセンターにあるが、やがて心肺停止の連絡が入った。肉体の苦しみは永遠の眠りにつくことで開放されたようだが、この注射は何となく死亡幇助のような気がしてならなかった。午前9時5分、医師は心肺停止と瞳孔散大を確認し、御臨終ですと。こうして誠孝は彼岸へ旅立った。死因は肺炎ですと。剖検しますかと言われたが、断った。40年と5月と5日の命であった。生前元気なときに、せめて還暦まで、かなわなくてもせめて50歳まで仕事をしたいと言っていたが、40年を駆け抜けて、親より先に他界してしまった。
 でもマチャは皆から可愛がられ、慕われ、頼りにされ、十分立派な悔いのない道を歩き、世を渡ってきたと思う。偉かったと心から褒めてやりたい。私達は誠孝と呼ぶよりは、小さい時から愛称の「マチャ」と呼んできた。これは家族だけではなく、同窓生も皆「マチャ」と呼んでいたし、親しい間柄の人だったらやはり「マチャ」だったようだ。何となく響きがよい。
 実家に来ても仕事の話は一切しなかった。時々国内国外へ出張した折に求めた土産の品を持って来てくれた。そんな折にマチャが飲むのは「鏡月」、実家にはしっかりキープしてある。マチャそれを私が愛用している大きな厚手のグラスに入れ、それにレモンの櫛切りを入れ水で割る。マチャはいつも私には同じグラスにレモン汁を加え、「山楽」を満たしてくれる。こんなことをしてくれるのはマチャだけだった。
 誠孝は新しく名刺ができても親にくれることはなかったが、私の両親の遺影と妻の両親の遺影の前には必ず名刺を置いていってあった。誠孝が亡くなって初めて何枚かの名刺を目にした。最後の一番上に置いてあった名刺には、株式会社フリークスコアの常務取締役・開発本部長という文字が刷り込まれてあった。
 木村誠孝、愛称「マチャ」は、安らかに眠っているような寝顔、声をかければ「オー」と言って起きてきそうな様子。何も言い残さず、ただ感謝、感謝のみを口にして、永久の旅に発ち、彼岸へ往った。合掌。享年40。

2010年6月18日金曜日

マチャ(三男誠孝)の不治の病との闘い

1.三度目の入院でモルヒネと遭遇
 平成21年11月のPET精密検査では、仙骨へのがんの転移が明確となり、原発巣は肺がんということになったが、腰や下腿の痛みは思ったほどではなく、酸素吸入をしながらも勤務していたようだった。でも12月の初めには痛みがひどくなったので、県立中央病院呼吸器内科へ三度目の入院をした。この入院当日の痛みはかなりひどかったようで、主治医は飲み薬のモルヒネ製剤を出しましょうとのことだったが、すぐにはもらえず、漸くもらえて飲んでも直ぐには効かず、本人はいらいらしていた。私はこれまで飲めばすぐ効くのが麻薬だと思っていたが、どうも即効性ではないらしい。詳しいことは知らないが、効きがよくないとのことで、かなり大量に投与されたようだ。家内と私は午後8時頃に帰宅したが、その晩マチャは副作用の発汗が凄かったうえに幻覚も出て、かなり参ったようだった。当直の看護師にコールしても顔の汗を拭いてくれる程度で、着てる衣類はもちろん、布団までも汗を吸って濡れたほどの発汗、このことは翌朝訪れたときに初めて分かった。マチャは弱気にもこんな状態を看護師には告げていない。さすが今度ばかりは辛かったようだった。発汗で一晩ずぶぬれだったので、翌朝は体温も血圧も異常に低下していて、家内の進言で病院も慌てたらしい。麻薬の扱いに慣れていなかったのだろう。幻覚は翌朝も続いていたという。こんな状態だったから、マチャは家内に晩居てほしいと頼んでいた。これまでの入院だと、門限近くになると、「家にトウが待っているから早く帰れヤ」と言っていたのにである。私は冗談めいて、マチャに「誰も経験したくてもできない経験をしたなあ」と言ってみたものの、何の慰めにもならなかった。もちろんモルヒネの経験はないが、終末医療に用いられるので、鎮痛性にも優れ、習慣性はあるにせよ、どんな痛みにも万能だと思っていたのに、とんだ酷い副作用もあることから、決してオールマイティーではないことが分かった。この大量発汗は次の日も続き、家内では一晩に8回も着替えしなければならなかったとのこと、夜中に洗濯して乾燥しての作業が必要だったという。
2.家内は病院で仮眠して付き添い・その褒美は病院食
 こうして家内は病院で夜間仮眠しながらマチャに付き添うことになった。家内は勤務する病院の特別な配慮もあって、午後5時に早退し、ストアでマチャ用の副食(白身魚の刺身や鶏肉の焼き鳥など)の買い物をして病院へ。病院の夕食は午後6時なので、それに合わせて病室へ寄り、マチャ用の食事を手伝い、通常の病院の夕食は家内が食べることに。その後一旦帰宅して私の夕食材料を持ち込み、翌朝のマチャの野菜サラダを作り、午後8時頃までに病院へとんぼ返りする。夜は1時間半もしくは2時間おきに全身の汗拭きをしなければならないので、確実に起きられるように、できるだけ夜は水分補給することにし、ペットボトル入りのお茶を毎日4本求めていた。マチャの言では、何故か日中は痛みがさほどではないので、オプソ(モルヒネ塩酸塩液)を飲む回数は少ないが、夜はどうしても痛みが出るので飲まざるを得ず、結果として夜は発汗が多くなるようだという。ただ痛みがあっても、次の投薬まで最低30分は空けねばならないのだそうだ。そして朝、マチャは洗顔後、合作の特別食を食べ、病院の薬や差し入れのサプリを飲む。病院食は家内が食べる。その後部屋を整理して、使用済みのタオルを抱えて、午前9時に病院を出て、1時間遅れで勤めの病院の勤務に入る。これが家内の日課となった。
 一方、細君の方は、朝は子供二人に食事をさせ、学校へ送り出し、昼と夜の特別食を作り、病院へは11時前に入る。病院では腰や大腿部のマッサージを1時間ばかり、昼食を付き合い、それで病院には午後4時頃まで居て、帰宅する。細君が作る特別食は、主食は玄米食、新鮮な野菜(通常のスーパーのではなく、無農薬で新鮮なものを売っている店で求める)のジュースとサラダ、それにレモンほかの新鮮な果物、肉は鶏肉、水はバナジウム入りの天然水など、菓子なども吟味していたようだ。また家内は夕食時の白身魚の刺身と翌朝の野菜サラダ、それに1日1個の烏骨鶏の卵の補給をする。ほかにマチャは、社長や友人やその他諸々の人からの差し入れと思われる、形状はいろいろ、液状や粒状や粉末など、数種類のサプリメントを飲んでいたが、中には抗がんサプリも入っていたかも知れない。マチャはわりと几帳面な性格、皆さんの行為を無にしないように気配っていた。私がマチャのところへ行けるのは、平日の夕方か休日、私の前ではあまり痛がったりする表情を見せていないが、我慢していたのだろうか。もっとも居ても30分程度だったが、でも食事をしている印象では、よく食べるなあと感心したことだった。ただ動かないのと大食なので、むしろ排便がスムースであればと心配だったが、麻薬の副作用も考慮しての下剤の投与はあるようだった。
3.骨転移した部位への放射線治療
 平成21年12月の入院での主治医のがん治療の方針では、肺炎が治ったら、放射線治療を10回行い、その後抗がん剤治療をするとのことだったが、2回照射した時点で肺の状態が悪くなり、ステロイド剤を用いての間質性肺炎の治療に入った。結果として肺機能の改善があり、再び放射線照射を再開し、その結果痛みはかなり遠のいたようだった。調子に乗ってもう少しお願いできないかと言ったらしいが、10回が限度だと言われたという。よくなったことから、病院にいながら仕事も一部再開できるほどになり、沢山の個人用の年賀状も自署していた。そして12月25日、クリスマスの日に退院できた。正月は家で迎えられる。また肝心の抗がん剤治療の方は、年が明けて肺の状態が良ければという条件付きでということになった。
4.がんの温熱療法
 年末になって、誠孝の勤務する会社の相談役から、温熱療法を勧められた。施術の本はあるのだが、中々効果が出ない。原理では、特殊な端子で体をさすると、がんのある部位が赤くなり、正常な部位とは異なることが分かり、その部位にさらに施術を続けると、がんが縮小し、終には無くなるということだった。しかし施術にはコツが要るらしく、それを問い合わせると、一度いらっしゃいということになった。マチャにしてみたら居ても立ってもいられなくなり、出かけることになった。酸素吸入をしていたので、その手配が大変であったが、業者間の連絡でそれも解決し、善は急げで正月元旦の朝4時に静岡県伊東市へ向かって出発した。マチャの一家4人に家内が同伴することに。運転は細君、難しければマチャか家内、でも長距離は初めてという細君だったが、中々運転はしっかりしていたとのことだった。夕方に着き、宿を探し、マチャと細君は施術所に泊まることに。聞けば山の中の一軒家、家内と子供らは山の麓の宿、辺鄙なところ、病気を治すのが大義名分とあれば致し方ないが、子供たちは大いに不満だったらしい。
 本来ならば技術の習得には2日間要るらしいが、細君はその道の心得もあって、1日で習得してしまったので、1月2日の夕方には伊東市から帰られることに。帰路、静岡の三島市のあたりで、雄大な雪を纏った富士山を見て感動し、マチャは私に電話をかけてきた。晴れ晴れとした声には、これでがんは克服できるという自信も伺えた。なんとも嬉しい瞬間だった。家には3日の午前2時頃に着いた。加賀一の宮の白山さんへも初参りに行くことを約束して別れたが、何かこの年、明るい兆しが見えてくるような新年となった。
5.がんのペプチド療法
 比較的元気になったことで、酸素吸入をしてはいるものの、病院での定期検診がない日は会社に勤務していたようだった。もっともフルタイムではなかったようだが。そんな折、マチャから出所は不明だが免疫療法というのがあるがどうかと、たまたま私はテレビでペプチド療法によるがん治療を目にした。素晴らしい画期的な方法だと感激した。原理はかなり前からあったものの、その実際となると中々ことが運ばないのが現実だが、それが現実に治療に用いられているというものだ。舞台はガンセンター東病院、懇意にしている元ガンセンターの先生に、テレビで実際に担当しておいでるN先生の話をしたところ、その先生は以前私の研究室で研究していた方とか、藁をも縋る思いで紹介された先生にお聞きしたところ、私がいま取り組んで行っているのは肝臓がんであって、肺となると五里霧中ですと言われた。マチャにはそのまま伝えた。また福岡社長からは、がんの最先端治療の重粒子線とか陽子線による治療や免疫療法を紹介したDVDも頂いたが、マチャは肺機能が肺気腫で落ちているうえ間質性肺炎であることを考慮すると、金銭は別として、何か二の足を踏まざるを得ない状況だった。
6.今の主治医に命を預けることにしたマチャ
 1月半ば、次男がH銀行の東京支店から金沢中央支店に転勤になって、実家に転がり込んできた。弟の病気には親身になって気をかけてくれ、食事療法を勧めたのも彼である。次男の細君の父親は元金大外科の先生で、次男はよく先生に相談に行っていたようだ。それで次男はマチャに一度大学病院で診察を浮けたらとしつこく言ったらしいが、首を縦に振ることはなかったので、私に説得を頼むと言ってきた。マチャが固執したのは、以前親しい代議士秘書からセカンドオピニオンに大学病院の先生を紹介され出かけたところ、言ってみれば子方の先生の患者だったために、親方の先生からすれば今の診療で十分だと、マチャにすればけんもほろろのおちょくられたという応対と映ったらしい。帰り際にあとどれ位かと聞いたところ「あと1年」と言われたとか。これにはショックだったとマチャは言っていた。先生が次男に紹介したのは正にその先生、今度は丁寧に対応するだろうが、マチャにすれば全く顔を合わせたくないというのが本音だった。私も折角だから一度出かけてみたらと言ったが、翻意させることはできなかった。「じゃ好きなようにしなさい」と言ったが、それが見放したというような印象としてとられ、そういう意図ではないという誤解を解くのには時間を要することに。一方で間に入って頂いた先生にも謝らねばならず、往生した。ただ謝りに訪れた折、中病の麻酔科には優秀なペインクリニックの認定医がいて、女の先生だが中々優秀だと言われた。後にマチャはその先生にお世話になることになる。
7.再び痛みが訪れ四度目の入院
 2月初旬、再び痛みが訪れ、入院することになった。マチャが中病にこだわった理由は、一つには主治医が結構マチャの仕事に対する熱意や気性というものを理解してくれていて、わがままも聞いてくれ、少し良くなって外出したいとか、土曜に外泊したいなどは、治療にあまり影響しなければ便宜を図ってくれたことにもよる。大学病院じゃこうはゆかないと思う。痛みに対しては飲み薬で対応していたが、量も多くなったことから、主治医は麻酔科に相談したようだ。以前の説明では、硬膜外ブロックをするようになると、ずっと寝たきりになり、外泊はおろか外出もできなくなるとの説明だったが、医術は日進月歩していて、硬膜外ブロックでも携帯できるタイプも開発されているとのこと、これは呼吸器内科ではなく麻酔科の先生から説明を受けた。それで結果的にはその手術をしてもらうことになった。経口投与で痛みをブロックするには、一旦消化管から吸収されて血管に入り、その後脳に到達するという時間と効率の悪さがあり、加えていろんな副作用をもたらすことになる。直接神経をブロックできれば、少量で迅速に痛みをブロックできるというわけである。こうして痛みもブロックされるようになり、3月半ばには退院できた。でも肝心の肺がんや痛みの元凶の仙骨の状況はどうなのだろうか。また間質性肺炎の方はステロイド療法を行っているというが、どうなのだろうか。家ではトイレへ立つのでも大仕事だと聞いたが。
(追記) マチャの闘病生活が終わって、主治医のN先生と麻酔科のT先生に挨拶に行った。臨終にはN先生は学会出張中で、立ち会ってもらえなかった。T先生は女性だが、痛みのブロックの腕前はすごいと評判の先生、先生にお会いしてお礼を述べようとして私は「あっ」と言った。先生も「あっ」と言われた。それ以上の会話はなかったが、どこかでご一緒だったような気がするが、思い出せない。先生にお聞きしたら分かったかも知れないが、謎だ。先生は県中の麻酔科では唯一人のペインクリニック認定医とのことだ。

2010年6月15日火曜日

ラ・フォル・ジュルネ金沢2010

 ラ・フォル・ジュルネ金沢(LFJ)なる「熱狂の日」音楽祭が金沢の地で開催されたのは3年前、特に気に止めることもなく、新しい催しができたのだなあという軽い感じで、この年は公演には出かけていない。中心となった作曲家はベートーベンだったと思う。そして昨年の2年目はモーツアルト、若干興味を見出して3公演を聴いた。そして今年は「ショパン、ジェネラシオン1810」がテーマ、1810年生まれのフレデリック・フランソワ・ショパン、同い年のロベルト・アレクサンダー・シューマン、1年前生まれのヤコブ・ルートヴィッヒ・フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ、1年後生まれのフランツ・リストらの偉大なロマン派の黄金期を築いた作曲家の曲を中心に約150公演をしようというものである。メインは生誕200年を迎えたショパンだが、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の音楽監督の井上道義の述懐では、LFJの仕掛け人であるアーティスティック・ディレクター(AD)のルネ・クレマンから、2010年のテーマはショパンと聞かされたときは「え?」と絶句して頭を抱え込んだという。何故ならOEKを抱えていてピアノ曲がメインのショパンじゃどう生かそうかと悩んだという。ところが憎たらしくもショパンとつながりの深い3作曲家を予め同世代の「ジェネラシオン1810」として組み入れる予定にしていたというから、井上の心配も杞憂に終わったものの、したたかなディレクターである。
 私は何故かショパンが大好きで、全曲を聴いているが、それもあって今回は特権を生かして早々と6公演を、次いでオープニングコンサートと山田和樹指揮の3公演、赤羽ホールでのジュール・ド・ショパンの5公演ほか1公演と後にクロージングコンサートもゲットした。こうして今年は計17公演を聴いた。1公演あたりの演奏時間は原則45分だが、アンコールなどがあり1時間を超える公演もあった。料金は500円~2500円、最も多いのは1500円の公演、もっとも無料の公演も多く、メインの5月3日~5日では札止めの会場も出る賑わいとなった。音楽祭事務局の発表では、4月29日の開幕から5月5日までの7日間の入場者数は昨年を約15000人上回る108150人だったという。盛況だった。
 クラシック音楽祭のLFJはADのルネ・クレマンが1995年に創出したもので、フランスの西部、ロワール川の河畔に位置するフランス第6位の都市ナント市で誕生した。彼はクラシック音楽の堅苦しさの殻を打ち破り、誰もが来て楽しめ喜べる音楽祭を目指して、低料金による年に一回の、でも中身は充実した豊富なプログラムと一流の演奏家に出会える場の具現にこだわった。彼はこれを「クラシックの民主化」と言い、「最も驚きに満ちたクラシックの宝石箱」とも評される所以となった。LFJはナント市では毎年恒例の年中行事として開催されているという。この勢いはフランス国外にも広がり、ポルトガルのリスボン、スペインのビルバオ、2005年には東京でも開催され、クラシック音楽界にセンセーションを巻き起こした。2008年、ブラジルのリオデジャネイロに続き世界で6番目の開催都市として金沢が選ばれた。3年目の今年、金沢オリジナルのプログラムにショパンと能のコラボレーションが企画されたが、彼をしてこの東西二つの文化の出会いは金沢でしかできず、3年前に東京に続く開催地として金沢を選んだのは素晴らしい選択だったと自画自賛している。そして音楽へのパッション(情熱)を金沢の皆さんと共有できることを嬉しく思っているとも。また彼は「私が情熱というときは、必ず友情の意味が含まれ、3年目の金沢プログラムは、まるで親しい友人のためのように、楽しみながら構成できた」とも述べている。なお、アーティスティック・ディレクターは井上道義が勤めた。
 今年のLFJ金沢では、7日間の日程中、国内外から1852人が出演し、184公演が行われたという。有料のコンサートが行われたホールは、石川県立音楽堂のコンサートホール(1560席)、同邦楽ホール(720席)と日航ビルの金沢市アートホール(308席)である。私が聴いた出演者ならびにグループはOEKを除くと次のようである。オーケストラで、はOEKのプロトタイプとなったというフランス屈指のパリ室内管弦楽団、吹奏楽では、外国へも演奏旅行しているという尚美ウインドオーケストラ。指揮者では、OEKの井上道義、神奈川フィル常任指揮者でOEKのアーティスティック・パートナーに就任した金聖響、期待の若手指揮者の山田和樹、昨年パリ室内管弦楽団首席客演指揮者に就任したジョセフ・スウェンセン。室内アンサンブルでは、世界屈指のライプツィヒ弦楽四重奏団と韓国人選抜メンバーによるIMA弦楽アンサンブル。ピアニストでは、アブデル・ラーマン・エル=バシャ(レバノン・フランス)、ジャン・=フレデリック・ヌーブルジェ(フランス)、ブリジット・エンゲラー(フランス)、ブルーノ・リグット(フランス)、ルイス・フェルナンド・ペレス(スペイン)など、邦人では、菊池洋子、鶴見彩、宮谷里香。器楽奏者では、西沢和江(ヴァイオリン)、伊藤圭(クラリネット)のほか、OEKからも、アビゲイル・ヤング(ヴァイオリン)、ルドヴィート・カンタ(チェロ)、遠藤文江(クラリネット)が独奏者として出演した。
 今回のLFJ金沢公演でお目当てにしていたのは、山田和樹が指揮する3公演とOEKのプロトタイプとされるパリ室内管弦楽団である。山田和樹は昨年のブザンソン国際指揮者コンクールで優勝した俊英、今年のオーケストラの日に初めて聴いて、これは本物と思った逸材である。また売れっ子でもあるので、こんなに早く再び聴けるとは思いも寄らなかった。前回はスコアなしでの指揮だったが、今回はどうだろう。コバケンこと小林研一郎に薫陶を受けただけあって、スコアに忠実というよりは自分の音楽を奏でることに終始するコバケンの言葉を借りれば、スコアに目を落とすと、その瞬間、音楽に空白が生ずるという信条が彼にも受け継がれている感じがした。しかし今回は3公演とも台の上にはスコアが置かれていた。
 オープニング・コンサートは4月29日の午後、オーケストラはOEK、曲目はグラズノフの組曲「ショピニアーナ」、ショパンの追悼の意を込めてピアノ曲5曲を編曲したもので、オープニングに相応しい曲、若さ溢れる清新な演奏だった。続くショパンのピアノ協奏曲第2番を弾くのは初めて聴くブルーノ・リグット、数少ないサンソン・フランソワの弟子とか、正統派である。「今ヤマカズ」(池辺晋一郎の言では、山田和雄が往時「ヤマカズ」と言われていたが、新しく山田和樹の登竜で、大先輩は「昔ヤマカズ」というとか)の指揮は随分ピアノ奏者に気配りしたものだった。指揮も作曲もするというリグット、でも演奏は素晴らしく、リグットも演奏終了後はしっかり抱き合って讃えあっていたのが印象的だった。
 二度目のお目見えは、本番初日の5月3日のコンサートホール、尚美ウインドオーケストラを指揮しての登場、高校時代に有志を募って、自らは吹奏楽団の指揮をしたというだけあって、実に水を得た魚の如く、溌剌とした演奏が聴けた。曲はメンデルスゾーンの「吹奏楽のための序曲」、クラシックをこなせる、木管が優美なオーケストラ、外国への演奏旅行もしているとか、高い音楽性に支えられた演奏が聴衆を魅了した。次いでこの尚美で教鞭をとる伊藤圭によるウエーバーの「クラリネット・コンチェルティーノ」、この曲に魅せられたバイエルン国王がもう2作を所望したという曰く付きの曲、演奏者は日本クラリネット・コンクールで優勝したこともある名手でもあり、クラリネットの名技性を満喫させてくれた。次のリストの交響詩「レ・プレリュード」は、今回のLFJ金沢では数回演奏されたが、これはそのウインド版、聴きなれた曲だが、新鮮味を感じた。そして最後はリードの「アルメニアン・ダンス・パートⅠ」、本物の吹奏楽、若くて大編成、それが今ヤマカズの指揮で水を得たような見事な演奏を展開したのは素晴らしかった。的確な指揮が一層の盛り上がりを見せたと言えよう。
 三度目は二日目の5月4日、OEKを指揮しての登場、メンデルスゾーンの劇音楽「真夏の夜の夢」からノクターンと序曲「美しいメルジーネの物語」、歌うような柔らかな優しさがこもった音色に包まれた演奏は、聴衆を物語の世界に誘った。3曲目はメンデルスゾーンのピアノ協奏曲第2番、あまりにも敷衍している有名な曲、演奏者は異色のスペインのピアノ奏者ルイス・フェルナンド・ペレス、エマールやラローチャに師事したという彼は、持ち前の情熱と躍動感で、これまでと違うショパンを表現してきたというが、このピアノ協奏曲でも何か異質な彼特有の魅力に溢れた演奏をした。山田和樹にとっても新しい刺激を受けた演奏であったのではと思っている。
 LFJで山田和樹を3回も聴けたのは幸運であった。まだ若くこれからの逸材、今後の進歩がじつに楽しみだ。かなりあちこちから声がかかっていると聞いている。第二の小林研一郎を目指し、さらには第二の小沢征爾を目指して精進されんことを願っている。
 もう一つのお目当ては、岩城宏之がオーケストラ・アンサンブル金沢を結成するに当たって、その原型というか手本としたのがパリ室内管弦楽団(EOP)である。この室内オーケストラは1978年にジャン=ピエール・ヴァレーズらによって設立され、現在はジョン・ネルソンが音楽監督を務めている。設立者の一人であるヴァレーズさんは岩城さん存命のときから何回も來沢されていてOEKを客演指揮している。人数も40人前後と編成は似かよっている。今回の指揮は昨年首席客演指揮者に就任したジョセフ・スウェンセン、LFJ金沢での演奏は5月5日に2回、前日と前々日は東京でのLFJ日本で演奏している。曲目はメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」、この曲は5月3日に金聖響指揮のOEKでも演奏され、端正な指揮でOEKとは相性が良く、その響きは好感が持てた。そしてEOPの演奏、磨きがかかった響きは聴衆を魅了した。次いでシューマンのピアノ協奏曲、ピアニストはパリ音楽院出身のジャン=フレデリック・ヌーブルジェという若手のホープ、初である。曲はシューマンの唯一完成したピアノ協奏曲、演奏の素晴らしさもあって、終わるとスタンディングコールとなった。最後を締めくくるに相応しい演奏だった。これに応えてのアンコールもあり、当初のプログラムには入っていなかったクロージングコンサートは10分以上も延長になった。感激の演奏だった。
 クロージングコンサートは県立音楽堂の地下1階にある交流ホールで開催されたが、椅子席は満席、後は立ち見と立ち聴き、最後の公演が長引いたこともあって、駆けつけたときはホールにも入れないような状況、スケジュールでは始めにジャズミュージシャンの小曽根真による「ショパンの主題による即興」があったらしいが、これは聴けなかった。次いで井上道義指揮のOEKをバックにしたフランスの女流ピアニスト、ブリジット・エンゲラーによるショパンの「ドンジョバンニのお手をどうぞによる変奏曲」が奏でられた。私が入場できたのはこの時で、音楽とキラキラした光が渦巻く空間のみが見えるという変な状態でのコンサートだった。そして最後はフランスとレバノンの国籍をもつというアブデル・ラーマン・エル=バシャのピアノと井上OEKによるショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」、華やかだったが、これほど押し合いへし合いのコンサートも初の体験だった。終了後演奏者と指揮者はぎっしりの聴衆に、丸いステージを回りながら、丁寧に感謝の意を伝えていた。私がいたのはオーケストラの背後だったため、この挨拶のときに初めて人の顔を見たという状況だった。
 挨拶も終わって、やおらLFJの提唱者ルネ・マルタンが登場した。そして来年の金沢では、シューベルトを中心にロッシーニ、サリエリ、ベートーベンら関連する作曲家を取り上げると発表し、当時のウイーンのコンサートを再現したいとも。そして最後に、「来年は金沢がウイーンになります」と言ったもんだから、会場は拍手と歓声の坩堝と化してしまった。こうして今年のラ・フォル・ジュルネ金沢は閉幕した。

2010年6月10日木曜日

今春のぎょう虫検査も漸く峠が見えてきた

 私の肩書は(財)石川県予防医学協会検査部顧問という閑職で、これといったノルマは全く無い。ただ春と秋の学童健診のうち、とりわけぎょう虫検査については全面的に協力することにしている。春の学童健診は新学期の4月~6月に実施され、検尿と寄生虫検査が柱である。検尿は石川県在住の乳幼児から高校生までの延べ14万人を対象に、尿糖と尿蛋白の検査をする。多い時は1日に1万人分の検体検査を行うが、この検査はその日のうちに実施しなければならないので、正直言って人海戦術で対応しないとこなせない。一方の寄生虫検査は、糞便による寄生虫卵の検査を2万人、ウスイ式粘着セロファンによるぎょう虫検査を7万5千人を対象に実施し、こちらの方は主として石川県内のほぼ全域の保育園、幼稚園、小学校が対象である。このうち寄生虫卵の検査での保卵率はほぼ0%で、人糞が肥料に使われることが皆無になった日本の農業事情からすると、検査の必要性は全く無くなったといってよいが、何となく惰性でやられているという感じである。ところがぎょう虫の方は、毎年1%弱の保卵率を維持していて、こちらの方は現行の保卵者への対処方法を続けている限り、ぎょう虫の撲滅はおろか、減少改善も無理、どちらかというと温存に相応しい対応と言える。何故か。それは、極端な言い方をすれば、虫卵が見つかった患者当人のみの除虫治療のみでは、糞口感染による潜伏感染者がいても野放しとなり、したがって改悪された現行の対応では、ぎょう虫の蔓延を防ぐことに寄与することにはなっていない。ということは感染者は決して無くなることはなく、結果的に次々に感染し常在することになる。感染の有無を確認するには、この検査は簡便で最適だが、その結果に対する現行の対策では、未来永劫まで存続する検査だと言える。正にモグラタタキである。
 寄生虫予防法が廃止され、学童における寄生虫検査はぎょう虫検査も含め、全く自主的な検査となった。でも何となく惰性で、とりわけぎょう虫検査は子供がいる県下の全施設で実施されているのが現況である。もしぎょう虫に感染しているとすると、通常成虫は盲腸に生棲しているとされている。時期が来て、雌虫の子宮内に虫卵が充満してくると、大腸内ではなく、必ず宿主であるヒトの就寝時に直腸を通り肛門外にまで出てきて、肛門周囲に産卵するとされている。その数は成書では6千~1万個と書かれていて、雌虫はその後死んでしまう。私も協会へ再就職してからかれこれ13年、来た当初の頃は検体のセロファンを鏡検していると、視野一杯に虫卵が見える検体もあったが、近頃は1視野に数個というのが大部分である。この原因は不明だが、以前に比べ虫あたりの産卵数が少なくなったのか、あるいは寄生している成体の個体数が少なくなったのか、とにかく虫卵の数は明らかに少なくなっている。
 さて、このぎょう虫検査は季節要因が大で、春は4~6月、秋は9~10月に実施される。また検尿と違ってその日にこなす必要もないことから、当日に検査する必要はなく、後日にまとめて検査することも可能である。検査は検査部の担当となっている。とは言っても、私以外の検査部の職員は日常ルーチン検査の定常業務を持っているので、流れとして、ヒマな私にこの仕事が回ってくるのは必至である。約1名旧職員が応援に来てくれてはいるものの、メインは検尿、ぎょう虫検査はサブであって、あくまでも応援の感じは拭えない。粘着セロファンは朝の排便前に肛門周囲に当てることによって虫卵を付着させ、そのセロファンをそのまま顕微鏡下で観察する。虫卵採取方法には、2日連続して当てる方法と4日連続する方法があり、2日法、4日法と呼ばれている。春季の検査では、前者が5万人、後者が3万5千人、鏡検する枚数は、前者が5万枚、後者が7万枚、計12万枚という勘定になる。このうち私の鏡検分は約10万枚、この作業が4月中旬から6月中旬にかけて集中することになる。
 1日にこなせる枚数は私では3千枚程度、午前3時間、午後3時間鏡検するとすると、単純に計算して、1枚7秒強、1分間に8枚強鏡検しなければならない勘定になる。このスピードで10万枚こなすに必要な日数は33.3日、週5日の稼動で7週弱を要する。今春は6月上旬まで検査し終わって残り約6千枚、漸く春季のぎょう虫検査も先が見えてきた。今年は三男が5月9日に他界して5日間休みをとったこともあって、検体が滞ってしまい、挽回するために、鏡検する時間を1日7時間にしたところ、目に疲労を感ずるようになった。たった1時間の差だが、歳をとると長時間の動体視力検査による眼性疲労がひどく、「目を酷使する人のつらい疲れ目の効くという眼科用薬」を注しながら奮闘する破目になった。でも「休みたくても休めない目に一滴」の効能書きは確かに効き目があったような気がする。
 というようなわけで、先月は書きたいことは沢山あったのだが、ぎょう虫検査への没頭と目の疲れからとで、とても時間的には切羽詰っていて、書くことができなかった。こなせばならない鏡検の数も先が見えてきたこともあり、これからは5月連休にあったラ・フォル・ジュルネ・イン金沢のこと、息子の他界のことなどを書き記したい。