3.5月28日(木)
3−1 頭ヶ島 (かしらがしま) 天主堂(有川地区)
ホテルからの出立は8時、表に出ると上五島観光交通の超大型のバスが玄関先に、訊くとマイクロバスが出払ってしまってこのバスしか都合できなかったとか、こんな経験は初めてだ。そして車腹には大きく「上五島から世界遺産を」と赤いトッピング、同じ意味の英語はコバルトブルーで。現在頭ヶ島天主堂が世界遺産暫定リストに登録されているとかである。
今日初めに訪れる頭ヶ島は以前は離島だったが、この島に上五島空港を造るため、中通島と頭ヶ島との間に頭ヶ島大橋が架橋され、この島へは車で来られるようになった。でも肝心の空港は一昨年廃港になり、現在は滑走路が残っているのみである。大橋を渡った後、山道を教会まで下りるのだが、車の交差はかなり厳しい。でもどうやら着くことができた。
天主堂への参道は綺麗に掃き清められていて、ガイドの説明では、毎日信者さんが掃除されているとか。この天主堂は、迫害が終わって再びこの島に戻り住んだ信者たちが、自ら切り出した砂岩を積み上げて造ったという全国でも珍しい石造りの教会で、この地で生まれた教会建築の先駆者である鉄川与助の設計・施工によって、明治 43 年 (1910) に着工し、大正6年 (1917) に完成している。現在国指定重要文化財に指定されている。内部に入ると、花柄模様のついた折り上げ天井が素晴らしい特徴、そして朝日夕陽がステンドグラスを通して教会内部に射すように設計されている。教会内のステンドグラスの意味合いを初めて知ることになった。
3−2 坂本龍馬ゆかりの広場(有川地区)
中通島へ戻り、東海岸を南下すると程なくこの広場に着く。この地は坂本龍馬が組織した貿易商社の洋式木造帆船ワイル・ウエフ号が嵐で難破した潮合崎 (しおやざき) を望む地にあり、当時龍馬は体調不良で乗船していなかったが、後にこの地を訪れ、遭難現場に近い江ノ浜に若き志士たち 12 人の慰霊碑を建てたという。後年地元の人達により、龍馬が訪れたこの地に、「龍馬ゆかりの地」と記された碑、ワイル・ウエフ号の舵取り棒のレプリカ、そして彼らの冥福を祈る龍馬の大きなブロンズ像が遭難現場を向いて建てられた。
3−3 矢堅目 (やがため) 公園と青砂ヶ浦 (あおさがうら) 天主堂(上五島地区)
この日の出発点だったホテルの前を通り、北上して矢堅目公園へ行く。途中あの鉄川与助が初めて設計・施工したという冷水教会の前を通った。矢堅目公園の海岸には実に特徴的な巨大な円錐形の奇岩が聳えていて、複雑な海岸線が実に美しい。一方公園からは奈摩湾を挟んでこれから訪れる青砂ヶ浦天主堂を望むことができる。車は急な道を海岸近くまで下って製塩所へ。ここでは海水を直接巨大な釜で煮詰めて製塩している。私はここで矢堅目名産の「つばき茶塩」を求めた。上五島では今資生堂と提携して大々的に椿油の生産をしているとか。
湾の口まで戻り、対岸の青砂ヶ浦天主堂へ。この建物も鉄川与助の手になるもので、煉瓦造りの教会堂で、平成 22 年 (2010) には献堂 100 周年を迎えたという。ここも国指定重要文化財になっている。天主堂の高みにはステンドグラスが嵌め込まれた丸窓があり、朝日と夕陽が教会内に射し込むように設計されている。現在上五島には 29 の教会があるという。
再び戻って奈摩湾の口にあるダイニング厨房「万里波」で昼食をとる。どっさりの海の幸ばかり、全部を食べ尽くせなかった。なかでも大きな鮑の刺身は圧巻だった。
3−4 若松大橋から若松港へ(若松地区)
若松港からの出港が午後1時とかで、早々にバスで中通島西岸を南下する。小1時間ばかりを要する。当初は若松大橋を車から降りて歩く予定だったが、時間に余裕がなく割愛した。この若松大橋は中通島と若松島の間の若松瀬戸に架かる橋で、平成3年 (1991) に開通している。高みにある大橋からはこれから行く若松港が眼下に見えている。そして程なく若松港に着いた。既にチャーター舩は待っていた。
3−5 キリシタン洞窟「キリシタンワンド」(若松地区)
ここは若松島の西南にある断崖絶壁の地にある洞窟で、奥行き 50 m 幅7m もの空間があり、明治のキリシタン迫害の際に信者らが隠れ住んだが、沖を通った舩に朝食を炊く煙を見つけられて捕らえられたという。明治 42 年 (1967) 、入口の崖上に高さ4mの十字架とキリスト像が建てられた。今でも舩でしか行けないこの地を目にして手を合わせた。そして舩は1時間後に福江港に着いた。こうして3日間の充実した五島列島探訪の旅は終わった。
福岡空港から伊丹へ小松へ、来年の傘寿の会での再会を期して別れた。
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