2015年12月15日火曜日

十年ぶり?の「草庵」

1.振り返って「草庵」
 探蕎会が発足したのが平成 10 年 (1998)、寺田現会長による「探蕎会の足取り」を見ると、探訪したそば屋に「草庵」の名が出てくるのが4回ある。初見は翌 11 年 (1999) 6月、参加人数は不明だが 20 名近くはいたろうか。その時の印象が良くて、平成 12 年 (2000) には、故波田野会長と太田世話人の計らいで、「蕎麦・月・琵琶を賞ずる夕」という粋な催しが草庵の協力で開催された。蕎麦を食べるだけではなくて、少々は文化の薫りも味わおうという趣旨だったように思う。それでその後このような会の催しは松田世話人が中心となって、「蕎麦花茶会」として探蕎会での恒例の行事となった。この内、草庵を会場として開かれたのは、平成 15 年 (2003) と、翌 16 年 (2004) に開かれた「蕎麦三彩茶会」のみで、以降に草庵でこの茶会が開かれたことはない。しかしこの間、北國文華の主催で、蕎麦にまつわる座談会が持たれたこともある。この店は鶴来町の山手にあって、車でないと行くには不便な立地であるにもかかわらず、会員の方々もよく利用されたようだ。その当時はまだそば屋の数も今ほど多くはなく、加えて人気のある店だったこともあり、特に休日には門前市をなす盛況ぶりで、食べるには記帳した後、玄関脇の待合所か外で待つのが半ば常習化していた。私は会の事務局長の前田さんともよく出かけたし、家内とも度々出かけたものだ。しかし、ある時を境にして、前田さんも私たち夫婦も、時期や動機はそれぞれ違うが、ぷっつり行かなくなってしまった。あれからもう十年近くになる。
 家内は「そば」は大好きだが、探蕎会の行事には頑に参加することを拒否する。唯一、総会に家内の1年後輩の横山さんを私に代わって総会の講師にお呼びしたときは、横山さんからのお誘いもあり出席してくれたが、それ以外は一切参加していない。「そば」より皆さんへの気配りに気が重いとのことだ。でも「そば」は好きで、時々は私とも、また家内の友達とならば食べ歩いたりする。それにしても彼女の「そば」に対する感覚は私より数倍鋭く、それは視覚、嗅覚、味覚で顕著である。であるからあして、彼女とは県内のかなりのそば屋を巡ったが、彼女のお眼鏡にかなって、またぜひ行きたいという店はそんなに多くはない。逆に二度と行きたくないという店の方が多いかも知れない。私がまあまあと思って次に行こうとしても、家内が「うん」と言わないと二人では行けず、お一人でお好きなようにとなってしまうのが落ちだ。そんな中の1軒に「草庵」が入ってしまったのである。

2.久方ぶりの「草庵」
 亡くなった叔父の相続のことで N さんに大変世話になった。この N さんの亡くなった父親は県会議員で薬剤師であったことから、私がまだ石川県に奉職していた頃は、県庁勤務薬剤師会の顧問として大変世話になったものだ。そんな縁もあって N さんとは親しい間柄でもある。以前にも何回かそば屋へお誘いしたこともあり、今度も御礼に何処かまだ一緒に行ったことがないそば屋へ誘おうと思った。この方は大変立派な体格をされているが、お酒を飲まれないので、一寸一献というわけには行かないのが難である。あまり遠出するのも気が重いので、近くで座敷にでも上がって、落ち着いて食べられるとすると、例の一件があって以降全く行っていない「草庵」を思いついた。N さんは行かれたことがあるとは言われるものの、お酒は口にされないので、大概は「そば」だけを食べられるとかで、では「つまみ」も賞味してもらおうと思った。家内が草庵を避けるきっかけとなったのは「そば」であって、「つまみ」はどちらかというと全てではないにしろ上の部類の評価であった。家内に相談したら、案の定「お好きなように」とのこと、それで実行することになった。
 10 月 25 日の水曜日に N さんに 10 時半に拙宅へ来てもらうようにお願いした。車はランクルの 4.5 L、草庵へは 11 時に着いた。まだ他には誰も来ていない。私が店を覗くと、おカミさんが薪ストーブに薪をくべておいでた。「あら、木村さん、お久しぶりね」と。もう十年近くも失礼しているのに、よくぞ覚えておいでたと感心した。11 時半からですとのことで、後ほど来ますと店を出た。往時は平日でも列ができたこともあったのにと思ったものだ。加賀一の宮がすぐ近くなので、白山さんにお参りがてら行き、時間を費やす。開店 5 分前に戻ったところ、程なくお入り下さいと娘さんから連絡があった。
 まだ他には客はなく、私たちは座敷に上がる。N さんは店内奥にある土蔵のテーブル席を見て、初めてだと言われていた。注文は二人とも「鴨せいろ」にする。その前に「つま」として、焼きみそ、天ぷら盛り合わせ、出し巻き玉子、にしん煮を注文した。この中では特に「にしん煮」は以前から定評ある逸品である。N さんはお茶、私は八海山の冷酒をもらう。N さん、驚いたことに「焼みそ」は初めてとか、お酒に縁がないと、これだけを食べるという機会はないかも知れない。にしん煮も好評だった。身体が冷えたので今度は萬歳楽の燗酒を貰う。つまみがなくなり、鴨ロースを追加する。話の中で、N さんの親友の息子さんのお嫁さんが鶴来のそば屋さんから来ているとのこと、来られたおカミさんにこのことを話すと、正にそうだった。この日も娘さん達が手伝っていたが、長女は嫁ぎ先の飲食店が忙しくて手伝いに来てもらえませんとのこと、縁は異なものと感じた次第だった。締めに「鴨せいろ」を頂く。鴨は少々硬めだが、国産とかならば上等の部類だろう。N さんも満足してくれた。1時間半は居たろうか。帰りにおカミさんから、「今度は奥さんとも来て下さい」と言われた。

2015年12月5日土曜日

「のとじ荘」と「そば」と「ジンベエザメ」(翌日)

11月23日 内浦海岸から能登島へ 水族館と「槐」
 翌朝は曇り空、淡く太陽が見えたが一時だけ、明るくなって風呂へ行く。今朝は入る湯は昨日と反転、私は大浴場へ、家内は露天風呂へ。この風呂の家内の印象はサインは V だった。さて私たちは毎朝NHK の連続テレビ小説を見ている。日曜を除く毎日、7時 15 分から NHK-BS で、既放映分と新放映分とを各 15 分ずつ放映している。ところで今放映している両方とも興味津々で、毎日かかさず観ている。もっともそれは現放映のドラマがたまたま興味あるからであって、いつもそうとは限らない。また現在放映の既放映のドラマは、私がまだ勤務していた頃のらしく、余り記憶にないこともあって、こちらも内心できるだけ観たいと思っている。しかしこの宿では BS 放送はなく、したがってこの日は8時から放送の現放映のドラマのみしか観られないことになる。そんなに執心するのなら録画すればよいのだが、でもそのレベルには達していない。それで食事は7時 30 分の予約、早々に済ませてテレビの前へ。何とも我ながら滑稽だ。
 チェックアウトは 10 時、9時半頃宿を出た。今日は時間もあり、曇り空だが雨は落ちていないので、久しぶりに内浦の海岸沿いに車を走らせることにする。能登半島周回の国道 249 号線を南下、恋路海岸を過ぎた辺りから海岸沿いの県道 35 号線へ、道路は狭いが、九十九 (つくも) 湾、小木港、真脇遺跡、遠島山公園を経て能登町宇出津へ、ここから再び国道に戻り、海岸桟敷の七見 (なごみ) から曽山峠を越えて中居湾へ、ここではボラ待ち櫓が見られる。穴水城跡がある小さな尾根を越えると、穴水の街に入る。ここ穴水湾は能登牡蠣の産地、至るところに牡蠣が食べられますという看板が乱立している。穴水から国道を七尾へと南下する。能登大仏、桜のトンネルで有名なのと鉄道の能登鹿島駅、能登小牧台を過ぎると、道の駅なかじまロマン峠に着く。ここから能登島へ渡る。
(1) のとじま水族館
 時間はそろそろ正午、能登中島と能登島を結ぶツインブリッジのとを渡り能登島へ、当初は向田でそばでも食べて水族館へと思っていたが、家内は腹がへっていなくて食べられないかも知れず、あんただけ食べればとの御託宣、せっかく紹介したいと思っていたのにこの口上、それでは先に水族館で腹ごな
 ししようということに変更した。前に来たのは随分昔のこと、あの頃は今は目玉にもなっているジンベエザメは居なかった。駐車場から随分歩いて入口へ。入ってすぐに「ジンベエザメ館 青の世界」、青い照明の巨大水槽、大きなのが2尾、成長すると 10m を超えるとか、一度大きくなり過ぎて海へ返したと
いう記事を読んだことがある。シュモクザメやエイ、ほかにもアジだろうか小魚の群れも見えている。初めは大水槽を上から、徐々にらせん状に通路を下へ下がりながら見られるようになっている。次の「回遊水槽」では、ブリ、シマアジ、ヒラマサ、カンパチ、それにマダイの遊泳が観られる。多くのいろんな環境での魚が観られる幾つもの水槽が並んでいて、実に楽しい。また以前にはなかった「クラゲのアート」には、沢山の変わったクラゲが飼育されていた。次いで「イルカたちの楽園」という光が射し込むトンネルがある大水槽、七尾湾にもいるというバンドウイルカやマゼランペンギンの遊泳をトンネルから見上げて観ることができる。さらにゴマフアザラシの水中遊泳、愛嬌のあるラッコ水槽やコツメカワウソの水槽、約1万尾のイワシの群泳など、以前にはなかった展示に感嘆した。
 午後1時から「イルカ・アシカショー」があるというので、ショーが観られる観覧席へ行く。初めにカリフォルニアアシカの素晴らしい演技、よくぞ仕込んだものだ。大喝采である。次いでバンドウイルカとカマイルカ3匹のショー、あの豪快なジャンプもさることながら、お客さんから投げられた輪を上手に受け取る仕草など、なかなかの頭脳だ。久しぶりに童心にかえって、海や川の生き物たちと向き合えた。
 (2)  生蕎麦 槐 (えんじゅ)
 午後2時近くになり、水族館を出て向田に向かう。ここは旧能登島町の役場があった場所、県の職員であった頃に何回か訪れた。目的のそば屋の「槐」はもう2度も訪れているので、難なく行けると思ったが、見当たらない。旧役場まで走り、これでは行き過ぎと、ここでナビを入れる。電話番号では駄目で、番地を入力すると、600 m 戻りなさいとの指示、今度は例の小さな表示を見つけて、どうにか着いた。すると玄関には「今日のそばは終了しました。またのお越しを」との張り紙、駄目もとで中へ入って尋ねると、更科と変わりそばが少しありますとのこと、それを頂こうと部屋へ上がった。先客が1組いた。奥さんでは更科が 1.5 人前 (1回分)とあと変わりそばが少々あるとのこと、今日は中島菜切りですと。それで更科と中島菜切りをもらうことに。変わりそばは更科を打つ店でないと出せない品、どうして打つのかと訊くと、ミキサーで粉砕して加えるとかだった。中島菜は地元の産である。暫くして、珠洲焼と思しき菊縁の丸い皿に簀の子を敷き、そこにてんこ盛りにした更科と中島菜切り、両方とも 1.5  人前のうず高く盛られたそば、更科は細くて白く、変わりそばは更科よりやや中細の濃い緑色、芸術品の風格がある。更科には蕎麦の香りはないにしろ、口にすると喉に滑り込んでゆく感じ、また中島菜切りは、菜の新鮮な香りが鼻を楽します。二人で半分半分ずつ食した。この変わりそばはお品書きには記されていない。家内はもう一つ頼もうという。異論はない。訊くと変わりそばならありますという。家内はつい2時間前にはお腹が減らず、食べられないかもとのことだったが大変身、結果として 4,5 人前を食べたことになった。満足して外に出た。
 (3) 道の駅/能登食祭市場
 槐を出たのが午後3時近く、向田から県道を南下し、島の南岸を西へ、そして能登島大橋を渡って和倉温泉へ、そして能登食祭市場へ向かう。県外ナンバーの乗用車やバスも見受けられる。市場は人でごった返していた。この時期ズワイガニや香箱が目立つ。私は酒のつまみに黒づくりと場違いな白山市美川のフグの身と真子の糠漬けを求めた。こうして能登への二人の旅は終わった。

2015年12月4日金曜日

「のとじ荘」と「そば」と「ジンベエザメ」(初日)

 11 月 25 日に珠洲へ橋本先生を訪ねて、宿舎の「のとじ荘」で懇談した。この宿舎、元はありきたりの国民宿舎だったが、3月に改築新装なって、見違えるようなスマートな施設になった。家内にこのことを話すと、ぜひ一度行きたいという。それじゃと家内が2日フリーになる 11 月 22・23 日にと、早速ダメもとで問い合わすと、丁度1室空いていますとのこと、ラッキーだった。

11月22日 一路珠洲へ 途中「あい物」へ
 宿舎のチェックインは午後3時、車で寄り道しても3時間ばかり、昼はどこかでそばを食べることにして、午前 11 時に家を出た。いつものように山側環状道路から のと里山海道へ、道の駅高松で小休止の後、家内の同意を得て今浜の「あい物」へ向かう。というのも家内のそばへのシビアさは私の比ではなく、一度お眼鏡に叶わないと、以後は絶対行かないという頑固さである。このそば屋は私が一度エスコートしていて、OK の店である。開店は 11 時だが、混んでいれば待てばいいとのことで、その覚悟で行く。入ると丁度カウンターが2席空いていて掛けられた。この後すぐに客で一杯になって待つ人も出たものの、天気も良く待つのは苦にならないようだ。「天ざる」を注文する。今日は休日とあって、カウンター越しの厨房には5人がてんてこ舞いしていた。程なく注文の品が届く。ここのそばは打ち立て、私たちが居る間にも次の客にそばを打っておいでた。だからここでは売り切れ終いということは到底ないということだ。飛び切りの上ではないにしろ、美味しく頂けるそばだ。この前の音楽会で、波田野教室で一緒だった、今は津幡町で小児科を開業している先生に会ったところ、、実家に近いこの店を大変贔屓にしていると話していた。 
 のと里山海道に戻り北上する。別所岳 SA で休憩し、展望台へ上がって七尾湾を見下ろそうかと話していたが、つい通過してしまい、「まれ」の曲が響いてきて、それと気付いたが、もう後の祭りだった。それではと、のと里山海道から高架橋を渡って珠洲道路 (のとスターライン) に入り、道の駅「能登空港」で時間を費やすことにする。着いたのは午後1時少し前だった。ここから珠洲までは 50 分位、それで空港内をブラつくことに。送迎の展望ロビーへ上がる。飛行場全体が見渡せ、そこには遠景のパノラマが描かれたパネルがあり、これを見て驚いた。もっとも遠くまで見渡せる日でないとダメだろうが、方角的には南南東に当たると思われる方向に、後立山連峰の白馬岳 (2937)、五竜岳 (2814)、鹿島槍ヶ岳 (2889)、その手前に立山連峰の剣岳 (2999)、立山 (3015)、薬師岳 (2926) が見えるという。今日は生憎の薄曇りで見えていない。また南の方角には、近くは能登島、和倉温泉、ツインブリッジのと、山では左から石動山 (465)、遠くに白山 (2702)、その右に宝達山 (637) が見えるとある。初めてのこととてこれには驚いた。いつかその景観を観たいものだ。
 午後2時過ぎに空港を出た。後は快適な珠洲道路を東へ、途中サルビアが道の両側に植えられたサルビアロードを通る。途中道の駅「桜峠」に立ち寄り、後は珠洲までノンストップ、快適に走って、珠洲市宝立町鵜飼にある珠洲温泉のとじ荘には3時少し前に着いた。駐車場に車を停め、時間前だったがチェックインできた。部屋は2階海側の 209 号室だった。部屋はベッドと畳の和洋室、すぐ近くに海が見える。ベランダに出ると、右に見附島、島は一見軍艦の船首にも見えることから、別名軍艦島の異名を持つ。沖の浅瀬には鳥が群がっている。その右には鳥居と小さな社、風があり、海がざわついている。鳥は白っぽいのはカモメだろうが、黒っぽいのは何という鳥だろうか。宿の人では今の寒い時期になるとやって来るとかだった。
 夕食は午後6時にする。十分時間があり、取り敢えずは風呂へ。この時間、絶景露天風呂の「弘法の湯」は男湯、大浴場の「見附の湯」は女湯、海と島と海鳥、そして港と航行する大型船などを見ながら湯を楽しんだ。上がって部屋でテレビを観ながら、持参のボジョレ・ヌーヴォで喉を癒す。つまみはブルーチーズ、家内からあまり飲まないようにと注意を受けたが、知らず知らず1本が空いてしまった。家内は缶ビール、小さい缶なので訝ったが、夕食にしっかり頂きますとのこと、それもそうだ。
 夕食は2階のレストラン漁火、室ごとに別テーブル、前回は個室だったが、こんな部屋は1室のみらしい。他に大広間もあるという。座って十一月二十二日のお品書きを見ると 12 品あり、ここ珠洲特産の品が数品、あと能登産の品々も多い。ただ品が盛られている器は珠洲焼きというわけではなく、洋食器だった。でも料理は良心的で上等だ。飲み物は家内は生ビールを2杯、私は少々酩酊していて、でも地元珠洲の酒の「宗玄」の燗酒を銚子1本頂いた。駄弁りながら美味しく全部の品を頂いた。食後夜の海と港の灯を見ながら寛ぐ。この前はロビーのラウンジでお酒を頂戴したが、この日はその元気は失せていた。家内は「飲むならどうぞ」、「酔いが残ったら私が運転します」というが、気持ちだけを頂いておくことにした。外を見ると、飯田港の入り口を示す航路灯の赤橙色の点滅が何とも幻想的だった。