2010年9月29日水曜日

荘川の里にある手打ちそば処「蕎麦正」

 過日、探蕎会で荘川町一色にある三嶋家の「式部の庵」へ寄ったが、標榜する「十割手打ちそばの店」は立派だが、出された「そば」は今一の感があった。このことを久保さんに話していると、一度「蕎麦正」へ行ってみたらとのこと、機会あって出かけることにした。荘川そば街道には6店が加盟しているが、そのうちでは最も北に位置している店である。場所は荘川町牧戸にある。庄川の源流はひるがの高原であるが、この荘川町も庄川の最上流に位置している。2005年には高山市に合併したが、それまでは旧大野郡荘川村、合併時の人口は1,400人弱だった。村役場(現荘川支所)のある新渕は標高800m、冬には積雪が2mという豪雪地帯である。
 手打ちそば処「蕎麦正」(そばしょう)の案内を見ると、蕎麦は昔から地元で採れた蕎麦を使っているという。栽培の場所は荘川町黒谷の標高1,200mのダナ高原、通称荘川高原、東海北陸自動車道の南側、あの「式部の庵」のある荘川町一色の東側に広がる高原である。ここは朝晩の温度差が大きく、蕎麦ばかりでなく、夏期には冷涼野菜の栽培にも適した土地、加えて白山連峰や北アルプスを望める岐阜県の美濃飛騨新百景にも選ばれている場所である。そして此処で採れた蕎麦は自然乾燥され、「荘川そば」として提供されているという。正に地産地消である。
 寄ったのはお昼近く、お客さんが多く、名前を書いて予約する。繁盛している。場所は国道156号線と158号線の交点の牧戸交差点から、国道158号線を少し南へ下がった道路沿いにある。駐車場は広く、20台は止められる。蕎麦正の席数は全部で50席、席数が多いこともあって回転が早く、10分程して店へ入れた。四人席のテーブルに3人で座る。50人も入るというのだから、別の部屋もあるのだろう。私達の入った部屋は大きくなく、椅子席で16人しか座れない。何か畳敷きの部屋もあるそうだ。
 おしながきを見て、十割そば1枚、源流そば2枚、岩魚の姿煮1、季節の天ぷら2を注文する。やがて薬味が届く。刻み葱、大根おろし、それに中ぶりの生山葵と陶製のおろし金、そして青い猪口には赤穂の天日塩、この塩はそばの初めの一口に、そば汁でなくて、この塩を一振りして、蕎麦そのものの味と香りを楽しんで下さいとあって、すると蕎麦の甘味が伝わってくるという。テーブルには、「本山葵と箸は持ち帰らないで下さい」と書いたメモが置いてある。出た箸は竹製、太めで先は細くなっていて、一見単なる竹の箸だが、注意書きを読むと、この箸は「やまご箸」といって、成竹を湯ダキして天日干しにして自然乾燥させた後に加工したもので、すべて手作業とのこと、希望の方には500円でお分けしますとある。ほかにも生そばセット(3人前、つゆ付)を販売している。
 初めに「源流そば」が来た。丸い皿に丸い簾の子を敷き、その上に細打ちのそばが載っている。蕎麦正のうたい文句は「石臼による自家製粉」と「挽きたて・打ちたて・茹でたての三たて」だという。とにかく出されたそばは端正できれいだ。十割は別にあるので、二八だろうか。少しお相伴すると、コシもあり、喉越しも良い。次いで天ぷら、季節の畑の野菜、中でもトマトの一品は初めてお目にかかった。擂りおろした本山葵は、直接そばに絡ませてから蕎麦つゆにつけてお召し上がり下さい、すると旨みがお口いっぱいに広がりますとある。実践する。やや間を置いて「十割そば」と岩魚の姿煮(甘露煮)が来た。こちらもきれいな細打ちだ。何故か十割そばには小鉢に刻み海苔が付いている。源流そばよりシコシコ感がある。これは店内のお品書きには載っているが、パンフレットには載っていない。ということは余り打たないような印象を受ける。この店のお客の数は半端でないから、さもあろう。一応建前では仕込みは朝のみ、したがって無くなれば閉店ということになる。
 小生には此処で出された荘川の地で採れた蕎麦の滋味の特徴というものはついぞ実感できなかった。でも出されたそばは美味しく上等だった。この荘川産の蕎麦は、飛騨荘川手打ちそば街道の6店のほか、蕎麦正の姉妹店の飛騨そば街道の4店でも味わえる。

〔おしながき〕単位(円)
・十割そば1300 源流そば1000 おろしそば1000 大根サラダそば1200 そばがき600
・季節の天ぷら500 きのこ汁300 岩魚の姿煮700 そばぜんざい300
・お持ち帰り用(3人前つゆ付)1600 ご贈答用(3人前本山葵蕎麦粉つゆ付)2500
〔蕎麦正の住所ほか〕
・岐阜県高山市荘川町牧戸160-1  電話05769-2-2234
・営業:午前11時~売り切れ閉店  定休日:木曜日

2010年9月28日火曜日

砺波の里にある「蕎麦福助」

 9月21日、前田さんから「今久保さんがいらっしゃって砺波市の『福助』がいいので是非行ってくださいとのことでした。住所:砺波市林 947-1、時間 11:30-2:30 5:30-8:30、電話:0763-33-2770 」というメールが届いた。実はこのメールを見て、9月初めの日曜日に久しぶりに家内とその友人の三人で鶴来の「草庵」へ行った折、満員だったが、おカミさんと話す機会があり、その時「富山の福助さんへ行って来ました」と言われたことを思い出した。
 早速前田さんに電話して、場所は何処かとお伺いしたところ、ナビに電話番号を入力すればOKという。それもそうだと25日の土曜日に挑戦することにした。家内は都合がつかず私独りで出かける。11時半開店なので、家を10時に出る。地図では、砺波市林は市の中心部から北へ3kmばかり、そんなに離れてはいない。とりあえず高速道を砺波ICで下り、ここで電話番号を入力する。ところが該当する施設はないという返事。ではと「ふくすけ」で探索すると、全国では560ばかり、富山でも数ヵ所、もっとも飲食店の名称で索引するから蕎麦屋とは限らない。砺波市にもあるが、林ではない。それではと砺波市林で入力し、ナビに従って行くと、田圃の真ん中で「目的地周辺です 音声案内を終了します」となった。時間はまだ11時と早いが、この道、車は通るが人影は見えない。とりあえず国道156号線まで出る。車を退避できる場所に止め、もう一度砺波市林と入力する。今度は逆方向からの進入、すると目的地周辺の電柱に「福助」左折のマーク、これで助かった。
 着くと屋敷はかなり広い。田圃の真ん中、水田を造成したものだろう。入り口に大きな「福助」の看板、車が4台止まっていた。駐車場は優に20台は止められ、未舗装の駐車場もある。建物は大きな瓦葺き切妻屋根の棟屋、建物の入口は1間半はあろうか、大きな白の暖簾には、右上に「手打ち石臼挽き」、中央に大きく「蕎麦」、左下には「福助」と墨書してある。暖簾をくぐり、板戸を開け、中へ入る。靴を脱ぎ、上がり框へ上がり、大きな障子戸を開けて中へ入る。中は板の間。「お好きなところへどうぞ」と言われたが、独りなので、窓際の「えん」の座机に座る。既に4組16人が入っている。
 注文は先ず「新そばの細挽きせいろ」と、やや間を置いて出すようにお願いした「粗挽き田舎の鴨汁せいろ」。でも結果として、鴨汁のつけ汁は温かいので、後で出てきたのは新蕎麦でないひねこの細挽きせいろだった。これは注文ミス、「粗挽き田舎」を食べ損ねた。
 建物は総欅造り、黒部の山間部の庄屋の築百年以上の古い民家、豪雪で全壊したものを、とある建設会社の古民家事業部が規模を3分の1にしてこの地に移築したとのこと、内部の「おえのま」には吹き抜けと見紛う高い天井に太い磨かれた欅の梁、すごく印象的である。欅の帯戸も見応えがある。「おえのま」には四人掛けテーブルが3脚、六人掛けテーブルが2脚置いてあり、「おくのま」は向かって左に四人掛けテーブル、右の間には衣桁に展示の友禅の着物が掛けてある。「えん」には、二人が向かい合わせに座れる座机と四人座れる座机が置いてある。
 初めに蕎麦茶、次いでセットで「つけ汁」と蕎麦猪口、それに刻み葱少々と生山葵(1㎝弱の輪切り)とおろし金とおろし金から摩り下ろした山葵を外すスプーン状の竹の櫛(これを初めて目にしたが、中々便利な代物だ)がお盆に。暫くして丸い笊に入った「細挽きせいろ」が角盆に載って出てきた。通常の細挽きよりも細い切り、きれいな仕上がりである。新蕎麦は北海道滝川産とかで、新そばは「細挽きせいろ」のみ、ただ新そばとはいっても萌黄色は伺えない。ただ香りは好い。手繰ると新そばらしい味、でも強烈さはない。猪口に汁を少し入れて味わうと濃いめ、少し浸して食べる。極細打ちにしてはコシがある。山葵は下ろしたものをそばにまぶして、それを汁に浸してお召し上がり下さいとある。
 次いで「鴨汁せいろ」、粗挽きは出ず、細挽き、岩手産だとか、笊に盛られた細挽きは少々くっついている。色は新そばよりも若干茶色が濃い。鴨汁は中位の深鉢に並々と、それに生の三つ葉がふんだんに盛られている。汁は濃いめ、鉢には焦げ目のついた鴨の切り身と焼き葱が、鴨は程よい加減、一杯欲しいところだ。薬味には、柚子胡椒と黒七味が付いている。そばは先ほどの新そばより落ちるのは致し方ない。汁が濃いので全部浸せない。汁をよそう小さな木の杓子も付いているが、啜るには濃くて抵抗を感じる。終わって蕎麦湯を貰う。蕎麦湯は蕎麦粉を湯で溶いたもの。新そばのせいろの汁も、鴨汁のつけ汁も沢山余った。濃ければ量を少なく、鴨汁はもっと薄めにしてほしいものだ。一工夫ほしい。
 店主は西村忠剛さん、32歳、まだ童顔の好青年、蕎麦粉は自家製粉の石臼挽き、打つそばは九一そばである。出身は地元福光町、神戸の蕎麦店「土山人」で4年間修業して開店、今年で4年目、細君のほか、男性1人、女性2人での営業である。それにしてもこの古い民家の移築には多額の資金が必要だったろう。それにしても「おえのま」の空間は実に見事だ。本当に気持ちが休まる。周りの庭も手入れが行き届いていて清々しい。貰った小さな栞には、「やわらかな緑と古民家のたたずまいで、五感に潤う豊かなひとときをお楽しみください」とある。

〔おしながき〕単位:円
・冷たい蕎麦:細挽きせいろ850、粗挽き田舎850、辛味大根おろし蕎麦1100、とろろ蕎麦1200、海老天せいろ1800、国産天然穴子天せいろ2000。
・温かい蕎麦(細挽きのみ):かけ蕎麦850、とろろ蕎麦1200、にしん蕎麦1400、海老の天麩羅蕎麦1800、国産天然穴子の天麩羅蕎麦2000。 (以上大盛り300円増)
・そばがき850。  (以上新そば100円増)
・酒の肴:焼き味噌300、出し巻き卵800、酒の肴三種盛り1200。
・天麩羅:海老と野菜の盛合わせ1500、国産天然穴子と野菜の盛合わせ1500、野菜の盛合わせ500、野菜単品400。
・酒類:日本酒(富山の地酒)550-1100、蕎麦焼酎550-650、芋焼酎550-650、麦焼酎550-600、泡盛600-650、梅酒550-650、ビール400-650、ノンアルコールビール550、ソフトドリンク550。
〔食材産地〕
・蕎麦(北海道,長野,富山,福井,宮崎)、山葵(静岡)、大和芋(群馬)、辛味大根(北海道,福井,富山)、穴子(淡路,博多,長崎,徳島,江戸前)。
・冷たい蕎麦の出汁:本節(枕崎)、鯖節(鹿児島,福岡)、宗田節(高知)。何れも厚削り。
・温かい蕎麦の出汁:うるめ(熊本)、目近(熊本,高知)、鯖(鹿児島,福岡)、鰯(熊本)。
〔アクセス〕
 北陸自動車道を砺波ICで下り、国道359号線の砺波IC前交差点を右折、次の国道156号線の太郎丸交差点を左折、国道159号線を2kmばかり北上する。JR城端線を渡り、市役所前交差点を左折、杉木南交差点を右折、初めの田圃中の舗装農道を左折して直進すると、左に見えてくる。この区間に案内があるかどうかは分からない。国道156号線を市役所前の次の十年明交差点を左折した場合には、杉木交差点を左折し、初めの田圃中の舗装農道を右折して直進すると、左に見えてくる。このルートには案内が出ている。

2010年9月24日金曜日

三島家ゆかりの義民上木甚兵衛と孝子三島勘左衛門

 先に平成22年秋の探蕎で、荘川町一色のそば処「式部の庵」へお邪魔した。この店は代々この地の庄屋や名主だった三嶋家の豪壮な住宅の中にある。ただ建物は新しく、では代々あった建物はどうなったのかという素朴な疑問が起きた。ならばあの折に主人に聞けばよかったのだろうけれど、聞かず終いで何となく心に引っ掛かりが残った。ところでその1週間後に飛騨の温泉へ出かける機会があり、それではと再び荘川の里を訪れた。今回の目的は高山市の民俗文化施設「荘川の里」(高山市荘川町新渕)にある「旧三島家住宅」の建物が、先に寄った現三嶋家の旧家屋だったのかどうかの確認のためである。
 訪れたのは9月19日の午後、庄川が流れる「荘川の里」には、岐阜県重要文化財の「旧三島家住宅」のほか、高山市文化財の「旧山下家、旧木下家、旧渡辺家住宅」三棟のほか、「旧宝蔵寺庫裏」や民俗資料館がある。パンフレットを見ると、「旧三島家住宅」は旧白川郷一色村の豪農三島家の住宅で、昭和47年に岐阜県重要文化財に指定され、昭和60年には荘川村が買い受け、現在地に移築したとある。ということは、現在荘川町一色にある探蕎会で訪れた現三嶋家の旧居に間違いないと思われる。
 旧住宅は間口16間、奥行き9間の建物、現在は瓦葺き切妻屋根になっている。正面やや左の「げんかん」を入ると、すぐ正面に「げんかんのま」があり、その左に「ふくべのま(次のま)」、次に進むと「なかのま」と左に「とこのま」、さらに進むと一番奥に「ぶつま」があり、浄土真宗の大きな仏壇が安置されている。「ぶつま」の左手には「女中座敷」という間がある。これらの間はすべて畳敷きで、部屋の大きさはすべて十畳である。「げんかん」の両脇には「えんげ」という上がり框があり、向かって右正面にある「えんげ」はやや大きく奥の広い「おえ」に、また左の「えんげ」は「ふくべのま」に通じている。「おえ」の奥には広い「ものおき」と、右手奥には広く大きな「だいどこ」があり、それを取り巻いて「みんじゃ(水屋)」がある。建物の前面最右には「まや」がある。通常の出入り口は正面のやや右寄り正面にある「えんげ」と「まや」の間にある「どじ」だと思われる。「ふろ」は正面最左の角と「みんじゃ」の左奥の二か所、「せっちん」は建物の左手に続く「えん」の最奥にある。
 現三嶋家と比較すると、外観は一見似ている。しかし旧宅は大きいが質素、現住宅は大きさは小振りだが、重厚さで優っている。もっとも当然間取りなどは全く違っている。

 以下に旧三島家住宅に関連して、三島家に纏わることを、いくつかの資料から抜粋して紹介する。手元にある資料では、「みしま」の表記はすべて「三島」となっているが、「式部の庵」の玄関の表札は「三嶋」となっていた。しかしここでは資料にしたがって「三島」と表記する。
 三島家の祖は、浄土真宗の開祖親鸞聖人の弟子で、鎌倉時代の初めに白川郷へ入った嘉念坊善俊から数えて八世の明誓の長男教信が還俗して武士となり、その子正顕が一色村に帰農して三島家を興したとある。「荘川の里」にある「旧三島家」が建てられたのは、三島家十一代勘左衛門正英の時である。この勘左衛門という人は、当時の三島家の跡継ぎとして上木(うわぎ)家から赤子の時に迎え入れられた人で、上木甚兵衛自賢(よりかた)の次男重松である。ところで上木甚兵衛という人は、実は三島家の次男で上木家へ養子に入った人なのだが、三島家の長男の実兄は若死にし、また迎えた養子も病弱で子供ができず、この里帰り養子の仕儀となったようだ。この住宅が建てられたのは宝暦13年(1733)で、勘左衛門13歳の時、したがって建築は実父の上木甚兵衛がすべてを取り仕切り、高山町の棟梁今井忠次郎によって建てられた。甚兵衛は若い頃には幕府御用木の元伐・流送の元締めをしていて、家はその時に払い下げを受けた檜で建てられたという。当初は寄棟式入母屋合掌造りの茅葺き屋根であったが、明治11年(1878)にくれ板葺き切妻屋根に改造され、その後屋根は瓦葺きにされている。
 ところで飛騨は徳川幕府の天領(直轄地)で、すでに元禄3年(1692)には検地(元禄検地)が行われていたが、安永2年(1773)に代官として赴任した大原が強引に再検地を強行したために、大原騒動という飛騨一円に大きな百姓一揆が起きた。この折に、上木甚兵衛は終始百姓の味方をし、代官との交渉では百姓の言い分を代弁したため、62歳という高齢で伊豆七島の新島に遠島となった。勘左衛門は実兄の上木与作と父の赦免に奔走したが、埒が開かなかった。
 一方遠島になった甚兵衛は、島の子供たちに読み書きを教え、島の人たちと交遊し、島民からは「飛騨ン爺」と呼ばれ慕われたという。在島15年の寛永2年(1790)、甚兵衛は中風の発作を起こし、後遺症が残る不自由な身体となる。
 このことを知らせる便りが島から届いた夏、勘左衛門は一族の代表として、父を介抱するため新島へ行くことを決意する。三島家の家督を息子の甚助に譲り、渡島する。翌寛永3年(1791)4月に勘左衛門は18年振りに父甚兵衛と対面する。長い年月のことを互いに語り合い、父の看病をし、自給自足の生活、一方で医術を会得して島人の治療をして生計を立てた。その献身的な振舞いは島の人々の心を打ち、またその評判は幕府にも届き、甚兵衛親子には米や金子や薬が度々下賜されたという。
 勘左衛門が渡島して7年4ヵ月後の寛政10年(1798)8月19日、甚兵衛は2ヵ月ほど臥した後、波瀾に満ちた生涯を終えた。在島23年、享年85だった。
 甚兵衛の辞世の句 「くもの巣に かかりて二度の 落ち葉かな」
 勘左衛門は父の死後なお1年ばかり島に留まり、我が手で父の墓を刻み、さらに今度は合掌する自分の姿を彫り、その胎内に法華経を収め父の墓の傍らに据え、父への回向を託した。寛政11年(1799)、父の一周忌を済ませた勘左衛門は島を離れることになるが、最後に父の墓に詣でたとき、離別の悲しみを詠んだ句がある。
 「こればかり 残る涙や 石の露」
 この甚兵衛の墓と勘左衛門の自刻像は、東京都新島村本村の長栄寺の墓地にあり、東京都の指定史跡となっていて、献花の絶えることがないという。
 勘左衛門が一色村の自宅に帰ったのは寛政12年(1800)の2月、父の葬儀を執り行い、父との島での暮らしを「新島追慕編」という絵巻に残し、また「伊豆七島風土細覧」という民俗資料も著している。そして天保3年(1832)に84歳で他界した。
 勘左衛門の歌集「深山世婦子鳥」には、辞世の句が書かれている。しかしこの絵入りの歌集は、江戸から新島へ渡るに先立って自らの法号とともに、一首の歌を「辞世」と題して書きつけたもので、再び生きて故郷の土を踏めないかも知れないという深い覚悟を込めて詠んだ歌である。
 「さくら花 つらなる枝も ちりぢりに 風にいずこの 土と消ゆらん」

 旧三島家住宅はこうして大切に保存されているが、この住宅には親と子の深い絆で結ばれた温かい物語があった。 

2010年9月21日火曜日

2年ぶりの南竜山荘

 8月31日の白山閉山祭で、列席した南竜山荘の主任の方に一度は来て下さいと言われ、9月には訪れますと言った手前、行かざるを得ないと考えていた。そこで2年前に乞われて白山登山をした姉妹に家内から打診してもらったところ、9月14日15日なら休暇が取れるとか、それではと14日に南竜山荘に宿泊予約をした。曜日は火曜と水曜。ルートは砂防新道から登って南竜山荘に寄り、ザックを置いて御前峰に登り、南竜まで下り、翌朝は展望コースのアルプス展望台で御来光を見て、朝食後下山するというものである。家内とは二人で山歩きしようと話していたが、登山すると浮腫みが出るということもあって、一緒に山へ出かけることは難しい状況にある。私も73歳、何処へでも独りで出かけるには抵抗を感じる年齢になった。
 週間天気予報では、予定の日は天気が安定しているような雰囲気、彼女たちも楽しみにしているという。ところで彼女たちは2年前より体力が衰えて心配だと話すが、こちらの方はもっと衰えが著しい。午前4時半に小生宅出発、1時間20分ばかりで駐車場に着く。別当出合の駐車場は舗装線引きが終わってきれいになっているが、今朝はまだ進入禁止、係員が来て、今日は平生は駐車禁止の道路脇に止めてほしいと、指示に従う。駐車場から別当出合の登山口までは60mの高度差、この分がなく助かる。食事を済ませ出発する。
 大柄な姉と小柄な妹、どちらも足は達者、マラソンや自転車レースをやっているという。出で立ちはスポーツタイツに半ズボンの流行スタイル、本格的だ。そこで彼女らを先行させ、待機場所を指示する。とても彼女たちの歩に合わすことは無理で、マイペースで進む。曇り空から雨が落ちてくるようになり、中飯場で彼女たちには雨具を着用させる。とはいってもビニール製のポンチョである。私はザックカバーのみ被せ、少雨なので雨具は着けなかった。甚之助小屋まで来ると、新小屋建設の現場監督をしている清水建築(本社野々市町)の清水さんに会った。ガスが濃くて視界が悪く、ヘリが飛ばないので仕事にならないとボヤく。此処で泊り込みですかと聞くと、何と野々市町の自宅からの通勤とか、これには驚いた。もっとも中飯場まで車で入り、甚之助の現場まで登るのだが、でも超人的だ。若い者は長靴履きで20分で上がって来るが、私は35分かかりますと。まるで庭のようなものだ。この間は気が付かなかったが、工事に永井建設の名が載っている。この標識は登山路の工事箇所には名が出ているが、甚之助では初めて、聞くと小屋周辺の整備をしてもらっているとか。この会社は白峰だが、社長は野々市町の住人で町の体協の会長、家内も長く副をしていて親しい仲、開山祭にはどんな天候であろうと毎年必ず出席の御仁、よく現場見回りに直々おいでるとは清水さんの言。
 この間10分ばかりだったが、この時下から二人の若者が、やはりビニール製のポンチョを着用、ザックも登山用のものではなく、重心が下になっている代物。今日はお休みですかと聞くと、火水が定休だという。変わった会社もあるものだ。今晩は南竜山荘泊まりだというから、じゃまた後で会いましょうと別れる。私たちは水平道を通って南竜山荘へ向かう。山荘に着いたが彼らの姿はなく、どうも直接室堂へ行ったようだ。久しぶりの山荘、主任さんもいるし、オバちゃんも元気だった。天気のせいでキャンセルの電話が入っている。室堂では宿泊の受付は午後1時以降なのだが、ここではこの時期午前でも受付してくれた。食事をし、指定の部屋に荷を置き、室堂へ向かう。ルートはトンビ岩コース、古くは美濃禅定道、昨年登山路の補修工事をしているとかだったが、きれいになっている。彼女たちに先行させても間違うことはない。ガスの中だが、トンビ岩では立ってもらっての記念写真を撮る。彼女たちの西側から間近に見た印象では怪獣だと言う。
 トンビ岩から室堂へは緩い登り、万歳谷を渡ってからは礫が多く歩き辛い。途中彼女たちは御前峰への登拝路を見上げて、件の若者二人が下りてくると言う。大変な視力だ。事実彼らとは室堂で再会した。食事をしてからトンビ岩コースを下るのだと。私たちは頂上へ向かう。頂上にはガスの切れ間に十数人の人が見える。ガスは時間とともに薄くなる感じ、時折青空も覗く。登りの途中、中年の小父さんたちが下りてきて、彼女たちのスタイルに共感し、来週奥穂高へ行くときはぜひそのスタイルで行きたいと言う。彼女たちに遅れること3分、奥宮に着いた。お参りして御前峰に上がる。頂上から大汝峰は見えないが、剣ヶ峰は時折見える。方位盤にも寄り、暫し滞在する。寒くはない。
 室堂からはエコーラインを下る。五葉坂は登りも下りも好きになれない坂だ。今は通行禁止になっている水屋尻の坂の方がずっと歩きやすい。弥陀ヶ原の木道を通り、エコーのジグザグを下り、南竜山荘へ。丁度着いた際に、例の若者二人が展望台まで行くと出たところ、明日は別山までを往復するという。彼女たちの脚力では十分伍していけると思い、彼らに同伴をお願いする。明日は私はアルプス展望台で日の出、彼女らは油坂峰で日の出を拝むことに、彼らが出たあと、彼女らも展望台へ出かけた。私はビールと神の河で一杯、今晩の泊まりは9名とか、秋の平日はこんなもんですと言われる。
 山荘も昨年外装を施し、随分きれいになった。ベランダへも出られ、快適だ。ガスも引いて、チブリ尾根もくっきり見える。先ず彼らが帰着、程なくして彼女らも帰ってきた。明日は別山ということで、朝食を弁当に、出発は朝4時とする。私は4時半に出て、帰って山荘で朝食をとることに。アルコールも入って賑やかになる。私は酔って何時に寝たのだろうか、夜半に起きて外へ出ると満天の星、今日は天気が良さそうだ。
 朝3時半に目覚めたが、皆はまだ寝たまま。心配になったが、ちゃんと4時前には目を覚まし、4時には山荘を出て行った。そんなに寒くはない。山荘から見送る。柳谷を渡ってテント場の方へ上がって行くライトの列、別山道は橋を渡って直ぐ右だと言っておいたが見にくかったようだ。でも怪我の功名で、下道は帰りに通ったが、雨でぬかるんで大変だったとか、朝の暗がりではもっと大変だったろう。私も4時半に出た。行く先にライトが2つ、先行者がいる。今朝の日の出は5時27分、稜線に出ると油坂峰の頂に灯りが見えている。1時間もかからずに着いたようだ。アルプス展望台に着くと先行の2名がいた。テン泊の2人で、今日は御前峰を巡り、今晩もテン泊とか。ほぼ10分待っての日の出、東の空が赤くなってからが長い。太陽が昇るのは焼岳と乗鞍岳の中間辺り、方角は真東にあたる。やがて日の出、光は徐々に光度を増す。下は雲海、でも上にも高層雲が、それで太陽は真ん丸にならずに、下の雲と上の雲との間でのみ顔を覗かせることに。そしてやがて上の雲に隠れてしまった。でも視界はよく、北アルプスは北は朝日岳、白馬岳から、南は焼岳、霞沢岳まで、そして乗鞍岳、御嶽山、その間に遠く八ヶ岳連峰と南アルプスが見えている。先着のテン泊の2人は上に登って行った。そして私も山荘へ戻った。
 朝食を済ませ、帰り支度をして、4人の帰りを待つ。出たのは4時なので、往復5時間とすると9時、6時間とすると10時ということになる。食堂から油坂峰からの下り径をオバちゃんと凝視する。見えた地点からでも山荘までは20分以上かかろう。遅くてもよいが無事帰って来てくれることを祈る。もし泊まりの客がきたら、部屋の荷物を下へ下ろしてほしいと言われる。彼らは毛布も片付けずに出て行ったが、10時には掃除をされたようだった。ガスが湧いてきて遠方の山々も見えなくなり、やがて油坂峰も見えなくなった。アッという間の変化、でもまだ雨は降っていない。10時半、下の径に」4人の姿が見えた。安堵した。迎えに出る。よかった。男だちは女だちの足の強いのに感心したと言っていた。私が行っていたらもっとかかったかも知れない。
 帰り支度をして山荘を出たのが11時、見送って頂く。山荘を離れると、山荘の窓を開けて手を振ってくれる。こちらも応ずる。姿が小さくなったら「また来てね」との声が届く。こちらも「また来ます」と応える。嬉しかった。10月にはまた来ようと思う。雨が降ってきた。山荘からは山の鼻を曲がるまで見通せるが、もう声は届かない。彼らのうち足に疲れが出たという大将を先頭に私がシンガリ、時々休みをとりながら下る。お陰で私も助かった。車へ辿り着いたのは午後1時半、彼女たちにとっては別山行きというオマケがついた山行きは終わった。

〔付〕登りは彼女ら2人に、下りでは4人に、聞かれて教えた植物を次に掲げる。せめて3つくらいは覚えておいてほしいと言ったのだが。 〔食べられる実〕:(赤)ベニバナイチゴ、(紫)クロウスゴ。 〔食べられない実〕(赤)ウラジロナナカマド、(白)シラタマノキ、(稚児車様)チングルマ。 〔赤い花〕フジアザミ、タテヤマアザミ、ハクサンアザミ、カライトソウ。 〔紫色の花〕ハクサンカメバヒキオコシ、ノコンギク、オヤマリンドウ、タテヤマリンドウ、ハクサントリカブト。 〔黄色い花〕アキノキリンソウ、ミヤマアキノキリンソウ、キツリフネ。 〔白い花〕サラシナショウマ、ミヤマコゴメグサ。 〔枯れた茎が立っている〕 コバイケイソウ。

2010年9月16日木曜日

平成22年秋の日帰り探蕎は荘川町の「式部の庵」

 平成22年秋の第1回探蕎は9月12日(日)に、久保副会長の世話で岐阜県高山市荘川町の「式部の庵」ということになった。出発は朝8時30分、面々16名は石川県予防医学協会の駐車場に集合した。寺田会長の挨拶と久保副会長の説明を聞いて、3台に分乗しての出発となる。予定では白川郷ICを過ぎ飛騨トンネルを出たところにある飛騨河合PAで一旦トイレ休憩をして荘川ICに行く予定が、私の乗った前田車は一気に荘川ICまで来てしまった。約2時間弱、後の2車は予定通り、ICの駐車場で暫し待ち合わせて合流後、時間があるので道の駅「桜の郷荘川」で時間をやり過ごす。目的とするそば処の開店は11時の由、道の駅からはほんの2,3分の至近距離だった。
 着いた「式部の庵」は豪壮な入母屋造りの民家、まだ新しい築造、入口には本日臨時休業の張り紙、久保さんでは飛騨河合PAから連絡するとのことだったが、もし本当に休業だとすると、その時に分かる筈。とすると我々一行が訪れるので、他はお断りの意味なのだろうか、でもお入り下さいということで謎は氷解した。真新しい豪邸に歩を入れる。柱や梁は檜、床は寄木だが、中々重厚である。玄関には三嶋喜之助の表札、古い家柄とのことだったが、それとこの豪邸との結びつきが今一つしっくり来ない。あるいは古い家屋はどこかへ移築したのか、その辺りのことは当たらず終いになってしまった。
 部屋へ通される。絨毯にシックな机、それに両肘掛けの椅子、豪華な感じ、16名分がセットされてある。メニューは「三種もり」と3人に1皿の「山野草天ぷら」と聞いている。長押の上には、手槍、薙刀、槍が飾られている。また壁には、天ぷらになる山野草の名と効能が書かれているが、大部分はそこらにある野草の類、恐らく春ならば、毒草でない限り何でも天ぷら材料になるような気がする。かなりあり、これには興味が持てた。知らないものも二三あるが、調べてみよう。後で聞いたことだが、出てくる山野草は皆此処の敷地で採れたものとかである。敷地は広い。
 玄関に御神酒が置いてあるのを思い出し、そばが出るまで暫く時間がかかるようだったら蕎麦前をと思い、お年寄りに「おみきを下さい」と言ったら、「おみずですか」と言われ慌ててしまった。なんか若い姉さんは体調不調で店に不参とか、手伝いの方もいるが、どうも話が通じにくい。賄い処へ出向いて、お酒を所望すると、コップでいいですかと言われたから、それで結構ですと言うと、後で持って上がりますと。暫時の後にコップ七分目位のお酒、銘柄は「久寿玉」という地酒、会長に一献、飲みやすい美味しいお酒だ。前田事務局長があと何杯かほしいと言うと、あと2杯くらいしかないと、これはしたり、予め予約する必要があるらしいが、そば屋に酒はつきもの、何と間の抜けた。本当に銚子2本と盃が出て、これで終いとか、面白い店だ。また、どぶろくが解禁になりましたとあるのを見た前田さんが、「どぶろくありますか」と聞くと、「あります」とのこと、「じゃそれを下さい」と言うと、ややあって片口に入ったどぶろくが登場した。匂いが立つ。「もう少しありませんか」と言うと、「これで最後です」と言ってもう一杯の片口を持って来られた。私も貴重な一滴を頂戴した。蕎麦前を出さない店はあるにはあるが、でも本当に珍しい蕎麦屋に出会った。
 先に天ぷらが。説明では「くわ」と「よもぎ」と「はっか」とか、蓬と薄荷は何となくそれらしき香りがする。中々上手に揚げてある。天ぷらは揚げたてでないといけない。お酒もどぶろくも天ぷらもなくなって、最後に「三種もり」が登場した。量は多め、平打ちの田舎、粗挽きの細打ちに更科の細打ち、この中では更科の出来が比較的よいように見える。特に粗挽きの十割の細打ちは切れ切れ、これだけ多くを一気に仕上げるというのは無理のような気がする。少しずつ順に出してもらえば良かったのに。今は端境期で、打つには最も難しい時期、考慮してほしかった。臨時休業と張り紙してあったのに、2組が入って来たが、そばにはありつけたようだった。二組のそばはどうだったろうか。
 辞して白川村平瀬にある「しらみずの湯」に向かう。国道156号線を北上すると、車窓からは「そばの里 荘川」の日本一大きいという五連水車が、御母衣湖畔には荘川桜も見えた。新道脇にできた「しらみずの湯」は、今は湖底の元の大白川温泉の源泉から14kmも導湯して開かれている含硫黄ーナトリウムー塩化物泉、かけ流し、白山から平瀬へ下りた時にはよく利用する温泉だ。源泉の温度は92.5℃、到達温度は約60℃、若干加水されている。肌に優しく、古くから「子宝の湯」として親しまれているとか。
 湯から上がり、久保さんがいつも訪れるという白川村保木脇にある「深山豆富」に寄る。私は何回も通っているのに、全く気付かなかった。堅豆富「石」、深山「雪」豆富(笊入りそぼろ豆腐)、深山こも豆富(味付け)を求めた。保冷剤には冷凍した「おから」、後で味付けすると食べられるとか、考えたものだ。出て白川郷ICから高速道へ、こうして最初の探蕎は無事終わった。恒例で小矢部SAで総括、解散した。

付表
「式部の庵」に記載されていた植物の名称の科名と属名と効能〔庵での記載には誤りもあったので訂正して記載〕。植物名は50音順。

・アマナ(ユリ科アマナ属)〔咳、滋養強壮〕
・イタドリ/スイバ/スカンポ(タデ科タデ属)〔便秘、蕁麻疹〕
・イヌガラシ/アゼダイコン(アブラナ科イヌガラシ属)〔利尿、消炎〕
・ウド(ウコギ科タラノキ属)〔風邪、頭痛、歯痛、リウマチ、神経痛〕
・カキドオシ(シソ科カキドオシ属)〔糖尿病、黄疸、膀胱結石、尿路結石〕
・カタバミ(カタバミ科カタバミ属)〔皮膚病、虫刺され〕
・カラスノエンドウ/ヤハズエンドウ(マメ科ソラマメ属)〔胃炎〕
・カワラボウフウ/ヤマニンジン(セリ科カワラボウフウ属)〔消化促進、強壮、頻尿〕
・ギシギシ(タデ科ギシギシ属)〔動脈硬化、便秘〕
・同上おかじゅんさい(冬のギシギシの包葉)〔耳痛、便秘〕
・キランソウ/ジゴクノカマノフタ(シソ科キランソウ属)〔咳、痰、下痢、腫れ物〕
・クサソテツ/こごみ(若芽)(イワデンダ科クサソテツ属)〔滋養〕
・クワ(クワ科クワ属)〔滋養強壮、糖尿病、関節炎、咳、痰、頭痛、神経痛、リウマチ〕
・ゲンノショウコ(フウロソウ科フウロソウ属)〔高血圧、下痢、便秘、更年期障害〕
・コウゾリナ(キク科コウゾリナ属)〔利尿〕
・コシアブラ(ウコギ科ウコギ属)〔強壮〕
・ゴマナ(キク科シオン属)〔健胃、整腸〕
・スギナ(トクサ科トクサ属)〔糖尿病、肝炎、胆石、膀胱結石、尿路結石、湿疹〕
・セリ(セリ科セリ属)〔神経痛、食欲不振〕
・ソバ(タデ科ソバ属)〔動脈硬化、高血圧予防〕
・タマガワホトトギス(ユリ科ホトトギス属)〔滋養〕
・タラノキ/たらの芽(ウコギ科タラノキ属)〔滋養強壮、糖尿病、高血圧症、疲労回復〕
・タンポポ(キク科タンポポ属)〔滋養強壮、催乳〕
・ツユクサ(ツユクサ科ツユクサ属)〔下痢、風邪、心臓病、浮腫、利尿〕
・ドクダミ(ドクダミ科ドクダミ属)〔便秘、利尿、腫れ物、水虫、蓄膿症〕
・ハコベ(ナデシコ科ハコベ属)〔歯茎の炎症、歯痛、打撲傷、腫れ物、催乳〕
・ハッカ/ニホンハッカ(シソ科ハッカ属)〔消化不良、歯痛、目まい、眼の充血〕
・ハルジオン(キク科ムカシヨモギ属)〔糖尿病〕
・ヒメジョオン(キク科ムカシヨモギ属)〔糖尿病〕
・ヒメムカシヨモギ(キク科ムカシヨモギ属)〔滋養強壮〕
・フキ/ふきのとう(キク科フキ属)〔咳、痰、喉の炎症〕
・マンテンハギ/あずきな(マメ科ソラマメ属〕〔滋養〕
・ユキザサ/あずきな(ユリ科ユキザサ属)〔頭痛、リウマチの疼痛、打撲傷〕
・ユキノシタ(ユキノシタ科ユキノシタ属)〔利尿、浮腫、ひきつけ、腫れ物〕
・ヨメナ(キク科ヨメナ属)〔解熱、利尿〕
・ヨモギ/モチグサ(キク科ヨモギ属)〔健胃、整腸、滋養強壮、気管支喘息、腰痛〕

2010年9月7日火曜日

これがもりそばの正しい食べ方?

 金沢駅前にある蕎麦「やまぎし」は、開店当初は水曜日が定休日だったが、しばらくしてからは日曜日になった。客の入りの関係でそうしたのだと思う。営業時間は午前11時から午後3時までだが、近頃では大概2時頃には打ったそばがなくなって、店を閉めてしまう。そうだからまだ勤務に出ている小生にとっては、もし「やまぎし」へそばを食べに行こうとすると、土曜日しかないことになる。駐車料まで払って食べに行くのもしゃくなので、県立音楽堂で演奏会があるときには、昼過ぎに出かけて寄ることにしている。9月4日の土曜日は、オーケストラ・アンサンブル金沢の第286回定期演奏会、午後3時の開演なので、「やまぎし」には午後1時頃に出かけた。詰めて9人しか入れない店には、もう5人がいた。ここのそばは「粗挽き」「黒」「白」の三種の「並もり」と「大もり」のみで、すべて十割、量は並が180gで750円、大が230gで900円、食べおきがある。開店当初は、客は当主の友人ばかりだったが、近頃はわざわざ食べに来る人も増えたとか。私が7月3日の土曜日に寄ったときは、2日発行のあの太野棋郎さんの著書「蕎麦手帳」が置いてあり、それを見ると、「やまぎし」の名が明記されていた。ただし店名のみだった。しかし9月4日に寄ったときには、その本を持って訪れたと思われる人がいた。
 7月に寄ったときに、鹿児島の芋焼酎「財宝」が置いてあるので聞くと、希望があったので置くことにしたと。値段は100cc200円とのこと、どうしてこの銘柄を選んだのかは聞いていない。ただ当主は断酒したので今は全く飲んでいない。でも私は今回は初にこれを飲みながら、注文の「白の大もり」が来るのを待つことにする。いつも蕎麦茶にそば棒の揚げたのが付きだしに出るので、これで焼酎を楽しむ。
 先客二人は「黒の大もり」、一人は地元だったが、もう一人は一見の客、手には一眼レフのカメラを持っての入店、蕎麦手帳を見て来たとのこと、「黒の大もり」が来た。私の隣の地元の人は、そば汁を全部蕎麦猪口に入れ、沢山の辛味大根の下ろし、程よい量の生山葵、薄切りの葱の薬味全部をそば汁に入れ、その後そばを手繰ってそば汁にどっぷり浸けてのお上がり、豪快な様だが、一寸野暮な感じがする。いつか塚野さんが、そばを食べるときは、先ずはそのまま食し、次はそば汁の塩梅の加減を見て、その次にそばを手繰り少しそば汁に浸けて食し、もし大根下ろしがあればそば汁に少し加え、その汁にそばを浸けて食べる。そば汁には匂いの強い葱や山葵は入れないで、入れるのはそばが終わって蕎麦湯で割るときに入れると聞いたことがある。
 さて、カメラマン氏は、まずカメラで接写し、次にそばを少し摘んでそのまま口に運び、次いでそば汁を少し猪口に注いで、そば汁の味見、その後三種の薬味(辛味大根の下ろし、薄切りの葱、生山葵の下ろし)の先ず大根下ろしをそばの上に置いて、やおら箸で摘んで一寸そば汁に浸けて口元へ運ぶ。次いで葱、次いで山葵、という風に、それぞれの薬味でそばを味わう趣向だ。これを終えてから、次に大根下ろしに葱の組み合わせ、山葵に葱の組み合わせで同様に頂く。ただ大根と山葵の取り合わせはないようだった。ほかには大根などの漬物が付いてくる。そばがなくなった頃合を見計らって蕎麦湯と蕎麦餅が出てくる。、彼氏のそば汁はたっぷり残っているので、蕎麦湯をお代わりしていた。こんな食べ方をしているのを見たのは初めてだった。こうすればそば汁は全く濁らなくて、出されたときと同じ状態、これが正規かどうかは別として、合理的なような気がして、私も真似てみた。
 このように薬味を汁に溶かずに主体に載せたり付けたりして食べるやり方は、刺身を食するときに目にしたり行ったりすることはあるが、そばでは初めてお目にかかった。どうせ胃に入るのだからこだわることはないのかも知れないが、そばの食べ方としては上品で、理にかない、堂に入っているように感じたが、どうであろうか。でも、食べ方とすれば面白い趣向である。
 私が店に入ったときは粗挽きは品切れですと言っていたが、後で入ってきたカップルは予約してあったのだろう、粗挽きを注文した。粗挽きの十割だと、どうしても太くならざるを得ず、湯がくと短く切れてしまうことになる。これは予め当主が断っていることでもある。そこで思うに、こう短くてごついと、先ほどのようにそばの上に薬味を載せて頂く手法を採ろうとしても、一寸技巧上難しいような気がする。そうならば、そばを食べるのに特にあの方法にこだわって食べることはないか。
 

2010年9月6日月曜日

煌めく才能が響き合う! IMA日本海交流コンサート

 IMAとは、いしかわミュージックアカデミーの略称で、1998年(平成10年)に開設された「世界レベルの若手音楽家の育成と地域音楽文化の振興」を目指した組織で、以降毎年開催されている。特にマスタークラスはプロの演奏家を目指す若手を養成するコースで、一流の著名な指導陣が講師として招聘されていて、現在では質の高い国際音楽セミナーとしての地位を確立している。講師陣は、ヴァイオリン6人〔IMA音楽監督の原田幸一郎(桐朋学園大学教授・国際コンクール審査員)、クンシトフ・ヴェグレン(ハノーバー音楽大学教授・国際コンクール審査員)、キム・ナムユン(韓国国立芸術大学教授・国際コンクール審査員)、レジス・パスキエ(パリ国立高等音楽院教授)、堀正文(NHK交響楽団コンサートマスター・桐朋学園大学教授・国際コンクール審査員)、神尾真由子(ヴァイオリニスト)〕、チェロ2人〔毛利伯郎(桐朋学園大学教授)、パク・サンミン(韓国国立芸術大学教授)〕、ピアノ3人〔カン・チュンモ(韓国国立芸術大学教授)、ピオトル・パレチニ(ショパン音楽アカデミー教授・国際コンクール審査員)、江口文子(昭和音楽大学教授・国際コンクール審査員)〕である。
 かつての受講者には、庄司紗矢香(1999年第46回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール史上最年少・日本人初の優勝者)や、神尾真由子(2007年第43回チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門優勝・日本人2人目)、また今回のコンサートに招聘された申賢守(シン・ヒョンス)(2004年第50回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール第3位/2008年ロン・ティボー国際コンクール優勝:韓国)、クララ=ジュミ・カン(2009年ソウル国際ヴァイオリンコンクール優勝/2010年第4回仙台国際音楽コンクールヴァイオリン部門優勝:ドイツ・韓国)がいる。このアカデミーでのレッスンは5回のみだが、その内容はハイレベルで、受講生にとっては大変濃い内容となっていて、大きな糧になるという。レッスンはすべて公開で、後に公開の演奏会も開かれる。私にとっては地方のIMA受講者から国際的なアーティストが誕生していることは驚きで、これら受講者の演奏を聴くことは、巣立ちする前の若鳥の若々しい音に接しられるという幸運に接しているということにもなる。
 このアカデミーの受講者は日本人より韓国籍の人の方が多い。このコンサートが始まる冒頭の挨拶で、来年からは韓国の方達も聴けるようなツアーを組みたいと話していたが、実現するかも知れない。講師陣にも、ヴァイオリン、チェロ、ピアノに韓国ではトップの教授陣が名を連ねている。韓国の若手ヴァイオリニストのほとんどが、韓国では、IMAの講師に名を連ねるキム・ナムユン氏に師事しているのを見ても頷ける。
 この日のコンサートは、IMA with 井上道義(指揮)&OEK と銘打ってあり、始めにバルトークの弦楽のためのディベルティメントより第1楽章が、IMA受講生選抜メンバーとOEKとで合同演奏された。主体性を受講生に持たせた弦楽合奏、21人中韓国の方が15人、バルトークが亡命前にスイスの山中で作曲した曲、緊迫した雰囲気のある曲を、見事にこなした演奏に拍手が送られた。次いで正戸里佳(2005年第51回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール第3位、現在留学生としてパリ国立高等音楽院修士課程に在学中)がラヴェルのツィガーヌを演奏した。冒頭から独奏部分が多く、まことに力強い演奏で情熱的だった。次いでクララ=ジュミ・カンの登場、サラサーテに献呈されたサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソとサラサーテのツィゴイネルワイゼンを、共に技巧を要する名曲なのに、飄々と難なくこなした実力は凄く、聴衆の拍手が止まなかった。
 休憩を挟んで、マウラーの4本のヴァイオリンのための協奏交響曲イ短調、ヴァイオリンは最先端の新人4人。鈴木愛理(2006年第13回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール第2位)、青木尚佳(2004年若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールで最年少ディプロマを受賞)、インモ・ヤン(2009年若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール第4位、2009年IMA音楽賞受賞、男子中学生)、松本紘佳(2006年第10回リピンスキ・ヴィエニヤフスキ国際コンクールジュニア部門第2位・最年少入賞、2009年IMA音楽賞受賞、女子中学生)。大学生と中学生の合同演奏だったが、違和感なくレベルは高い。
 最後はシン・ヒョンスのモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調「軍隊」、3楽章ともにあるカデンツァを見事に弾きこなし、聴衆からは絶大な拍手があった。使用楽器は日本音楽財団より貸与されている1710年製のストラディヴァリウス「カンポセリ-チェ」だという。スタンディングコールする人も出て、アンコールに応えてパガニーニの24の奇想曲の1曲を弾いたが、先日の神尾真由子にも匹敵するような技巧、驚いてしまった。歳は彼女より1つ下の23歳、現在は韓国国立芸術大学大学院に在学し、やはりキム・ナムユン氏に師事している。
 IMAの受講生の中にはこんな金の卵が沢山いることに驚嘆し、石川の誇りであることを身に滲みて強く感じた。

2010年9月2日木曜日

白山の(夏山)閉山祭

 白山の閉山祭というものに一度は立ち会ってみたくなった。閉山祭は7月1日の開山祭(山開き)に対するもので、例年8月31日に挙行される。また開山後の7月15日過ぎの日曜日には、奥宮大祭が行われるが、今年は18日だった。これまで開山祭に出たことも、奥宮大祭に出くわしたこともあるが、閉山祭にだけは30年来出たことがない。この祭事、私はてっきり頂上の奥宮でするものとばかり思っていたが、実は室堂平にある奥宮祈祷殿でするのだということが直前になって分かった。この日は富士山でも閉山祭が催され、富士山では事実上山は閉められる。また立山は1ヵ月遅れの9月30日に雄山頂上の神社で閉山の神事が執り行われる。
 今年の8月31日は火曜日、月・火と休みを取っての山行となった。ここ暫くはお天気続きなのだが、天気予報では火曜日には生憎天気が崩れる予報となっていた。朝4時過ぎに自宅を出て登山口の別当出合へ、夏の繁忙期だと月曜日は正午までは市ノ瀬までしか自家用車は入れないが、この日は規制が外れていた。平日とあって、車は20台ばかり、シーズンも後半ということで多くはない。用意して歩き出したのが6時、当初は上りを観光新道にしようと思っていたが、天気が良いのと、観光新道は途中で水が全くないので、この前と同じく砂防新道にした。登り出して暫くすると、砂防新道の上をしょっちゅうヘリが飛ぶ。真上を通る時は正に轟音で、落ちてくるような錯覚に陥る。1台で市ノ瀬とを往復しているようだが、上がってくるのは10分おき位、何かあの轟音が間近になると、コワイという感じがする。高飯場(正確には高飯場跡)まで来ると、ヘリが来るので登山者は暫くここで止まってほしいと係の方が皆を止めている。暫くしてヘリが、見るとバケットにセメントを入れて運んでいるようだ。この場所には元飯場があっただけに平で、工事関係者の宿舎が建てられている。聞くと全員ではないが、一部は泊まるとかだった。
 ヘリが下りていって通れるようになり、甚之助小屋へ。ヘリは新しい甚之助小屋の新築工事のためのもので、請負しているのは清水建築、甚之助小屋のすぐ下の台地が新しい甚之助小屋の現場、ヘリが上がってきて、着き、ホバーリングしてミキサーに流し込んで下りるまでの約3分間は登山者の上り下りが制限されるが、それを指示している若者がいた。私が「清水建築というのは野々市に本社がある清水さんですか」と言うと「そうです」と言う。「じゃ、南竜のケビンもお宅でされましたね」と言うと、「あれは10年前のこと、一昨年は改修をしました」と。また昨年は南竜山荘の外壁外壁補修も手掛けたと聞いている。「私の家の新築も清水さんのお世話になりました。私は新町の木村です」と言うと、「私は清水です」と。両親を亡くし、今は西村さんという方が社長をされているが、ゆくゆくは跡を継がれることになる若者だ。へりのホバーリングの時間は30秒位、正確で早いのに感心する。こんな近くで見たのは初めて、登山者の何人もがその状況を撮っていた。
 別当出合から、山は初めてという坊やを連れた親子連れと、75歳という山岳会関係者と中年の女性とカメラマンの連れの2組とずっと相前後する。このことは砂防新道と南竜水平道の分岐での会話で分かった。75歳の方は、今日が白山登山199回目とか、来週は200回目登山をしますとか、私の歳は言い出せなくなってしまった。別山の方は雲で見えないが、こちらはカンカン照りで暑い。昔の二ノ坂、三ノ坂を経て十三曲りの急登へ、延命水は沢山の人がいたのでパス、黒ボコ岩、弥陀ヶ原、五葉坂を経て室堂に着いた。時間は10時過ぎ、4時間少々を要した。昔の3時間が信じられない歳になってしまった。食事をしてから、約束に従って家内に電話した。以前の携帯ならOKだったが、機種を換えたら圏外とのことで公衆電話での連絡ということに。空身になって御前峰頂上へ、少しガスがかかってきた。でも天気は良く暑い位だ。今日は室堂泊まりなので、時間はゆっくりある。上り45分、下り23分とは、衰えも甚だしい。どうも朝のウォーキングはメタボ解消には役立っても、筋トレには全く役立ってはいないことが判明した。
 室堂宿舎の受付は午後1時から、早々に済ませる。済ませて前の広場で、神の河と室堂の水とで一杯やる。すると1時半から2時半にかけて、100名位の団体と40名位の団体が二つ、相前後してセンター前の広場に到着、一気に賑わしくなった。100名と40名は高校生、40名のもう1つはツアー団体。ほかに30名位の大学生の団体も、彼らは着くなり早速ワイン20本位空けて乾杯してクライマックス、実に楽しそうだ。団体さんは皆さん頂上へは明朝ご来光を見に登るのだそうだ。夕食は私は5時から5時20分の入場、早々に済ませて、一緒になった福島の夫婦と駄弁る。今回は1週間の旅行、月に一度は遠出するとか、カミさんの方がよく山へ行っていて、目的は百名山ではないと言うが、実にあちこち出かけている。実に羨ましい。
 夕方からガスが立ち込め、明日もこうだったらご来光はパスしようと決める。7時半に就寝、温かい夜、11時半に一度目が覚め、外へ出る。するとガスは消え、月齢20.5の月が煌々と輝いている。正しく快晴、この分だと明朝はご来光が拝めそうだ。日の出は5時23分、ご来光が拝めそうなら、1時間前に太鼓が鳴らされる。しかし0時を過ぎ、日が31日に変わったその時、頂上に現れた白いガスの帽子が瞬く間に下に駆け下り、月の光を遮り、辺りは白い闇に包まれた。そしてガスはその濃さを増し、視界は30米ばかりに、寒くはないが、何も見えず、宿舎の小桜荘へ戻る。朝4時、ガスはやはり濃く、太鼓も鳴らされなかった。でも高校生達は予定の行動なのだろう、頂上へ向かって行った。しかし驚いたことに電灯は5人に1個、でも闇の中元気に出かけていった。私は気が萎え、また寝てしまった。食事は6時から8時の間、6時には高校生達は戻ってきた。やはり頂上はガスで何も見えなかったが、日の出とともにガスが金色に輝いて素晴らしかったと話してくれた。高校生は石川と静岡、皆若くて元気だ。
 食事を済ませて、あと8時まで1時間半、前の広場で待つことに。室堂センターの前にある奥宮祈祷殿の戸が開いた。30分前に室堂のアナウンスがあり、夏山閉山祭を8時30分からしますので、登山者の方もお参り下さいと。この間にも宿泊者は次々と室堂を後にして下山していく。下から長靴を履いた方が、私なりに工事の関係者で閉山祭に来られたとの印象を受けた。でも登山者で閉山祭に参加されそうな人は居ないような雰囲気だ。時間が来て祈祷殿に入ると男性二人に女性が一人のみ、ずいぶん少ないのに驚く。修祓、降神の儀、献餞、祝詞奏上、玉串奉奠、巫女舞奉納、撤餞、昇神の儀、直会の順で式が運んだ。途中で女性数人が入って来たが、閉山祭には興味がなかったようだ。式は約30分かかった。祝詞では夏山が安全に閉じられること、続く秋山も安全であるようにと、また宿泊施設の白山室堂と南竜山荘の繁栄、そして白山観光協会と金沢大学白山診療班の尽力への感謝等が祝詞で奏上された。男の方二人は室堂と南竜山荘の主任の方だった。女の方も南竜に関係する方だったらしい。彼女も私も玉串を捧げさせて頂き、さらにお神酒まで頂戴し、式は終了した。写真を撮っても宜しいですかと彼女が言うと、どうぞと言われ、神主さん二人と巫女さん二人が座られて写真を撮らせて頂いた。霊峰白山と揮毫された扇子があり、私はてっきり飾りだと思っていたが、彼女はお分け頂けますかと尋ねると、1,800円でお分けするとのこと、私も頂戴した。辞そうとして去ろうとすると、あの長靴の御仁に、もしや貴方は木村さんではと言われ驚いた。昨年は南竜には泊まっていないのに。帰りに寄っていかれませんかと言われたが、観光を下ることにしていますのでとお断りした。また9月にでもお寄りしますと言って別れた。多い年には3回も4回も泊まったものだ。でも近頃は人気があって、土日はいつも一杯らしい。トイレも食堂も同じフロアなのがいい。肝っ玉カアさんは元気だという。団体さんも全部出払ってしまって、もうこの時間、下から登山者が上がってくる時間になってしまった。勤務している家内に、これから観光新道を下ると電話して、室堂をあとにした。
 天気はよく暑い。越前禅定道(観光新道)の尾根には、下る登山者が点々と見えている。100名の石川の組は砂防新道を下りたようだ。40名の静岡の組は観光新道、かなり列がバラけている。ザックを2個持った若者がいる。尾根筋とて陰が少なく、暑い下り、私も別当坂の下り口(林檎の樹のテラス)で食事をした。これから急な大きな下りが4カ所、それに備えての腹ごしらえというわけである。暑い中やっとの思いで駐車場に辿り着いた。駐車場には静岡ナンバーの大型観光バスが、予定の時間を過ぎているがまだ来ないと言っていたが、もう少しかかりそうだ。かくいう私も4時間5分を要した。