2009年11月30日月曜日

『ダブル・ファンタジー』がトリプル受賞

 村山由佳の小説『ダブル・ファンタジー』が、第4回中央公論文藝賞、第22回柴田錬三郎賞、第16回島清恋愛文学賞と三つの賞を貰ったとのこと、オメデトウと言いたい気もしないではないが、あの内容でという思いもある。週刊朝日で作家林真理子が聞き手となって対談する「マリコのゲストコレクション」は12月4日号で494回目、もう9年半も続いている人気の対談だが、それに村山由佳が登場したのは今年の4月17日号、林さんにしてこれほど見事に「化けた」女性作家を目の当たりにするのは初めてと言わしめている。私はこの作家を全く知らなかったし、大体そういう何とか賞受賞の文学作品を読むということとは全く縁がない部類の人種であるからして、この対談も特別な関心もなく読み始めた。ところで対談での彼女の紹介によると、1993年に「天使の卵 エンジェルス・エッグ」で第6回小説すばる新人賞を、10年後の2003年には「星々の舟」で第129回直木賞を受賞、そして最新刊の「ダブル・ファンタジー」は濃密な性愛描写で作家としての新境地を開いたとあった。林真理子は、「夫と一緒に農業をやっている脚本家の女性・奈津が、こんな生活でいいのかと日常に倦んでいたところ、ある男性の導きで官能の世界に引きずり込まれ、体の求めるままに男性遍歴を重ねる・・・・」という小説で、面白くて一気読みしちゃいましたと、また清純派からの大化けだとも。私自身こんなことを書いてあっても大概は歯牙にもかけないのに、林真理子の呪縛にかかって、この長編のポルノまがいの小説に魅せられて読む破目に。
 彼女は1964年生まれ、立教大学卒業、厳しい母親に躾けられ、自身の発言でも、性欲そのものを認めるのもよくないという環境で育ったこともあり、性的なことに関しては罪悪だという感覚の持ち主だったという。結婚した相手は千葉の鴨川で農業をしていた男性、その夫は彼女が文筆活動をするにあたっての有能なマネージャーでもあって、彼女が書いた作品は書きかけであっても読んで批評もし、方向づけまでもするという御仁、その支配に対して「いやだ」とか「ちがう」とかも言えずに隷従してきたという。でもそういう環境で書かれた作品が直木賞まで取ったのだから夫の影響も馬鹿にならないことは確かだ。これまでの彼女の作品には、おっとりとした、自然が好きな、うぶでおぼこい、夫一途な、しかも自身は性欲はタブーという性格も相まって、いわゆるさわやかで明るい清純派ともいうべき作風があったという。また彼女は、夫婦の性生活は夫からの一方通行で、性の喜びなどなかったと言っているし、とはいっても浮気することもなく過ごしてきたと述懐している。
 ところが、小説ではそこに年長の大物演出家が登場し、メールのやりとりから性に火を付けられ、性に目覚めるが、しかしその後飽きられて捨てられ、それから性の遍歴をすることに。それまでの彼女は文章に「乳首」って書くのも恥ずかしくて書けなかったそうだが、以後は変身して体のどの部位も、顔とか手とかを描写するのと全く同じように書こうと思うようになったと。そうなってからは夫との間に乖離が生じ、夫とは情として断ち切れないものはあったけれども、17年間の夫婦生活に別れを告げ、東京へ出ることにしたと。そしてこれまでの財産は元夫に残したとも。そして東京の現実の生活では10歳年下の若い男性と同棲し、したいときにすぐできる態勢を確保して好きな小説を書けるなんて最高の環境と嘯いているという。読むとあの小説は実生活そのものだと確信する。それを感じたのは性交の描写があるエロちっくな部分で、特に性交での受身側である女性の快楽の表現は、男性のポルノ作家にはない微妙で新鮮な驚きがあったことは確かで、これは女性にしか書けないものなのではと思った。性の快楽を初めて書いたということは、実体験なしの想像では書けない。彼女自身、発刊後の女性誌のインタビューで、私は生命力が強いので、性欲もものすごく強いんですと言いのけている。母と前夫の呪縛というか、抑圧という重しが一挙に外れてしまって出来上がったのがこの作品だ。あるパーティーで渡辺淳一と出会い本の感想を訊いたところ、「まだ読んでないけど今までにないものを書いたそうじゃないか」と言われ、「実は私一人になったので」と夫の束縛から離れたことを話し、彼に「その自由は君の財産だ」と言わしめている。
 渡辺淳一があのリアルで緻密な性交描写に感心して選考したと考えたくはないが、もしあの小説からあの性描写を外したら、恐らくは全くの駄作だとしか言いようがないと思う。だから私は、色白で、ぽっちゃりした、小太りで、色っぽく、可愛い直木賞作家が、実体験に基づいて描いた性交描写が実にリアルで素晴らしかったということで過大に評価されて受賞した小説にほかならないと思う。聞けば受けた三賞すべてに、渡辺淳一が選考委員にたずさわっていたということだが、それを気にしている方もいよう。

2009年11月26日木曜日

『剱岳 撮影の記』 を観て

 11月18日の前田さんのブログに「剱岳 撮影の記」が載っていた。富山市在住のS君からの情報とある。私もヤマケイ・ジャーナルで11月上旬に東京、大阪、富山の3カ所で限定公開予定という情報は得ていたが、先ず「点の記」の二番煎じと思っていたから、富山くんだりまで出かけるなど全く下らんと思っていた。ところで公開は11月14日。ところが前田さんのブログで、石川でも公開されていることを知った。上映場所はイーオンかほくに隣接するシネマサンシャインかほく、「点の記」ではそこここで上映されていたのに、マイナーな作品ともなればこうなるのか。でも近くで観られるとなれば観ないという手はあるまい。ブログの最後には、「『剱岳 点の記』を観た方には必見の作品だが、この来場者数(312席あるのに5人だけ)を考えたら、長く上映されることはないだろうから、早く行かれたほうがいいと思う」とあった。
 「剱岳 点の記」は公開後14週で観客動員数が230万人、興行収入も25億円を超える大ヒットとなった。でこのドキュメンタリー映画は、親映画のクランクイン前から監督木村大作にも密着取材し、かつ200日を超える山岳ロケにもメイキングとして同行して撮影したもので、題名は『剱岳 撮影の記ー標高3000メートル、激闘の873日ー』である。この映画のディレクターは、自身で撮影もし編集も担当した大澤嘉工氏である。「剱岳 撮影の記」の上映時間は1時間53分、ちなみに「点の記」は2時間19分だった。
 映画はキャストとスタッフが全員集まった会の場面から始まる。木村監督は「この映画は制作に2年、ロケでは山で200日を予定しているが、機材はすべて自分で持ち、自分の荷物は自分で持つように。また山小屋では原則として雑魚寝、テントに泊まることもある。この撮影はありきたりな撮影とは違い、お釈迦様の教えにある『苦行』と思え」とはっぱをかけて言った。そしてインタビューでは、「最後まで撮り切ることが出来れば、絶対に凄い映画になるが、撮り切ることが出来るかどうかは全く分からない」とも。また「もし事故が起きた場合には、その時点で制作を中止する」とも。大澤氏のインタビューは、木村監督のみならずキャストやスタッフにも及び、映画では随所に挿入しているが、映画としてはそれがその分やや冗長になった感がする。山へ向かうにあたって、スタッフ一同を対象としたテントの設営訓練の様子が映し出されていたが、テントは最新のものから昔々の重い防水テントまで、いろいろ出てきていて感慨深かった。またガイドからの最も大事な安全確保の指導シーンも出てきた。
 主な撮影の拠点は天狗平山荘と剱澤小屋。小屋での宿泊、休憩、食事、宴会、会話、娯楽、寛ぎのシーンも随所に出てきて、これらはロケ場面ではないが、撮影隊の日常を垣間見ることができて興味深かった。2007年6月下旬~7月上旬の実景ロケは天狗平から五色ヶ原へのロケで始まる。旧道経由での30kgもの荷物を担いでの行軍は私も昔を思い出した。そして最初の試練は、五色ヶ原への行軍、生憎の雨の中、初日は12時間かけて、二度目は3日後にまた同じコースを辿るが、この日も非情の雨、もくもくと歩いて天狗平山荘へ戻るスタッフ。でもスタッフは五色ヶ原への二度の往復で、歩くことに自信が持てたと。そして明日は帰郷という日になって皮肉にも天気は晴れ、監督は急遽雄山での撮影を思い立つ。午前は雄山谷での過酷なロケ、でも午後には雄山頂上で神主から長期撮影の無事を祈願し、お祓いをしてもらうという僥倖にもありつけた。くっきりとした富士山が印象的だった。監督とスタッフは一旦帰京後再び7月下旬に入山し、剱沢を拠点に長次郎谷から剱岳に登り、頂上からは別山尾根を経由して剱沢へ、この間もしっかりロケハンした。
 キャストが加わってのロケは9月と10月に。芦くら寺、弥陀ヶ原、天狗山、天狗平のテント場、室堂乗越、別山、剱沢でロケする。中でも圧巻なのは、監督の特別な思い入れでの池ノ平への片道9時間の往復、でも映画で使われたのはたったの1カットだけだったというから驚きだ。そして別山尾根の剱岳南壁、さすが此処は凄い迫力だ。撮影隊も命懸けだ。また剱沢では暴風雨になるのを待っての下山シーン、これも半端じゃない。そして雨は新雪になった。
 翌2008年、3月には明治村でのロケ、宮崎あおいの撮影で、NHKよりきれいに撮れとハッパをかける監督。そして6月には再び山へ、しかしここで事故が起きた。平蔵のコル上部の尾根で、落石はなく安全と思われたハイマツが密生する尾根で、スタッフの一人が落石を頭部に受け、ヘリで病院へ搬送された。事故があれば中止という方針だったが、全員の希望もさることながら、息子さんから「撮影は最後まで続けて下さい。父もそれを望んでいます」と言われ、一旦は帰京するが、10日後には全員が再び現場に戻った。長次郎のセリフに「山に危険はつきものです。無理をしても行きましょう」とあるのは、この事故に鑑みて木村監督が入れたものだという。
 7月になりいよいよ剱岳登頂と物語の登頂コースとなった長次郎谷の撮影に入る。機材・食料を長次郎谷の熊ノ岩にデポする。7月12日は深い霧、でも13日は晴れ、朝3時半に3班に分かれて剱沢を出発、5時間かけて頂上へ、着いた時には晴れていたのに、間もなくガスで真っ白、頂上直下で一般の登山者がさっきまでは晴れていましたがというシーンも、でも下は晴れていて、頂上のみが雲の中。この日は明治40年に測量隊が登頂した日から数えて丁度101年目の日、しかも木村監督の69歳の誕生日、頂上では期せずしてハッピーバースデイの祝福コール。でも4時間待っても晴れず、この日は無念の下山、フイルムは全く回らなかった。翌14日は雨、15日は曇り、でも16日は晴れの徴候が出て何シーンかを撮影し、件の付け加えられたセリフも長次郎が口にし、いよいよ明日は決戦と闘志を燃やす。
 翌7月17日、キャスト9人、スタッフ17人、ガイド10人からなる撮影隊が5班に分かれて順次剱沢を出発、時に朝3時。4日前に通った径をひたすら登る。どの班も3時間台での登頂、3時間を切って登った班も出る始末、気合が入っている。この日は正真正銘の快晴、二度とない好条件とて撮りまくる。お陰でフイルムが足りなくなり下から取り寄せるハプニングも。頂上でのシーンはもちろんのこと、長次郎のコルまで下りての剱岳初登頂直前のシーンも。これで剱岳頂上での撮影は感激のうちにすべて終った。この日も秀麗な富士が遠望できた。午後3時過ぎ、雷注意報が発令と聞き、別山尾根を避けて平蔵谷を下り、登り返して剱沢へ、長い1日が終った。
 あとは長次郎谷登行シーンの撮影、撮影隊は源次郎尾根と八ツ峰に撮影場所を確保しての困難な撮影、ガイドの協力なしではとても実行できなかったろう。また熊ノ岩周辺では雪渓の斜度が急で、これも滑落の危険が伴う撮影とて緊張の連続、とても素人集団では出来ない相談だった。そしてこの山での撮影行の集大成ともいうべき撮影は、映画のラストシーンにも出てきた別山での撮影。この日の撮影は一切テストなしの一発勝負と宣言していた監督、期待に応えて盛り上がった雰囲気ですべてOKの出来、これで山での撮影はすべて終った。そして監督はじめ何人かが胴上げされ宙に舞った。
 天候に翻弄されたロケも、山の人たちの協力で、7月末にはクランクアップした。「点の記」のエンドロールには、監督はじめ、この作品に携わった総ての人々の名前と関係団体・施設の名称が、「仲間たち」として同列に表示されていたが、これは監督の協力者に対する餞だったのだろう。
 [映画を観ての後日談]:映画のなかで木村監督が何か気まずい雰囲気をほぐそうとして、今まで決して喋らないでおこうと思ったことがあると。実は剱岳頂上から早月尾根を下っているとき(いつなのか、どこまで下ったのかわからない)、先の二人が目障りなので先へ進ませ、危ないところがあったらそこで待つように言って下っていたとき、何か根か枝につまずいて、転んだが、とっさに体を反転させて命拾いをしたと。、それをジェスチュアたっぷりにするものだから、その場の緊張は一編に吹き飛んでしまった。右は切れ落ちた谷、もし落ちていたら仏様になっていたろうと。カメラをまわしていた大澤氏にはこのシーンを撮るなと言い、もし撮ってもボツにするからと言っていたが、何故か残って我々は目にすることができた。

2009年11月13日金曜日

高齢運転者のための「高齢者講習」

 私の運転免許証の有効期間は誕生日より1ヵ月長い平成22年3月11日までである。誕生日は昭和12年2月11日、更新時の誕生日には70歳以上になるので、新しく平成21年6月から適用になった「高齢者講習」を受講して「講習終了証明書」を免許証更新時に持参しないと更新できなくなった。先ず県の公安委員会から親展で「高齢者講習通知書」が届く。これには「この講習は、運転免許センターでは実施していません」と朱書きしてあり、さらに「この講習を受講されていない方は、免許証の更新が出来ませんので、免許証の更新を予定されている方は、更新手続きの前に必ず受講して下さい」と続く。受講できる期間は、更新日の前5ヵ月からと後1ヵ月までの半年間で、通知書に明記してある。受講場所は自動車学校、県内にある14のどこかへ予約して受講するようにと。私には9月4日付けで届き、期間は平成21年9月11日から平成22年3月11日までとあった。
 そこで私は免許講習を受けた自動車学校に予約を申し込んだところ、10月までは予約で一杯で、今のところ11月なら予約可能ですとのこと、ならばと11月4日(水)にした。必要なものは、運転免許証、高齢者講習通知書、手数料と筆記用具とある。手数料は通常の高齢者講習ならば5,800円、ただし運転技術に自信がある方はチャレンジ講習を受けることが可能で、これだと2,650円で、合格すれば更に簡易特定任意高齢者講習を受講する。この手数料は1,500円、締めて4,150円で1,650円の割り得となる。しかしチャレンジしても基準点数に達しないと、もう一度チャレンジ講習を受けねばならず、1回でパスしないとうまみはない。
 講習の当日、私は通常の「高齢者講習」を受講した。1クラスの人数は12人、開始10分前までに集合、内容は講義と運転適性診断と技能講習である。講習時間は正味3時間、休憩もあるので、実際は3時間半程度である。講義の中で、高齢者の運転事故が多いことから、その対策として教育を兼ねた講習を義務付けるための法改正があり、これに対応するには運転免許センターでは物理的に受け入れ困難で、民間の自動車学校で対応することになったとのことだった。因みに石川県の場合、免許証保有者約76万人のうち、70歳以上は8.4%、6万4千人いる。また75歳以上になると予備検査が義務付けされ、①今の年月日・曜日・時刻を言わせる、②果物や動物の絵を記憶させ答えさせる、③言われた時刻の時計の絵を書かせる、検査をするという。私も次回から該当することになるが、講師では①を聞いただけでほぼ見当がつくとのことだった。
 講義の後、4人1組で視力検査(静止視力、夜間視力、動体視力、視野)、3人1組での運転適性検査、3人1組での実車運転がある。この自動車学校では、この講習での検査に必要な自動測定装置を購入して対応していると話していた。講習には講師1人にアシスタントが7人付いての対応である。
 視力検査で、静止視力は右・左とも0.3以上、両眼で0.7以上が必要だが、これは裸眼でクリア。夜間視力での視認時間は40秒、減衰していないという20秒(A)には及ばずBランクの21秒~60秒以内に該当し、減衰していると指摘された。なお61秒以上はCとなる。動体視力は3回の平均が0.3、静止視力から平均動体視力を引いた数値0.4が私の値で、これは0.4以下のAであった。なおBは0.5~0.6、Cは0.7以上である。視野検査は右目が右方71度左方56度の計127度、左目は右方53度左方75度の計128度で、Bの100~149度、視野の範囲が狭くなっているので、左右に顔を動かして周囲を広く見て下さいとの指摘を受けた。因みにAは150度以上、Cは100度以下である。この検査で私は眼鏡をかけて測定したが、眼鏡枠のところで一瞬白球が見えなくなるのでボタンを押したが、この検査では眼鏡をかけずに受検した方がよい。
 次に高齢者用の運転適性検査、先ず運転に必要な基本的反射動作能力(単純反応)検査をする。前面にモニターが出る模擬車に座り、レバーを発進にし、アクセルを踏むと画面が前へ進む。画面の上半分は暗く、そこに突然青、黄、赤のシグナルが現れる。青ではそのままアクセルを踏み続け、黄ではアクセルから足を離し、赤ではブレーキに踏みかえるという動作をするというもので、結果は自動記録される。私が始めよく間違ったのは、青が点くと一瞬黄の時のように足が離れてしまうことで、これは後半には慣れてきた。したがって反応のバラツキを指摘された。また平均反応時間は0.33秒で、30~50代の平均0.31秒より0.02秒の遅れだった。時間は3分間である。
 次に状況の変化に対する反応の速さと正確さ(選択反応)検査で、走行画面には右左に障害物が現れるが、運転は自動的にこれら障害物を避けて運転してくれる。前半はゆっくりと、後半はやや早めとなるが、運転者は信号の点滅にのみ対応すればよいというシステムである。反応の速さ、正確さ、むらが判定される。反応時間はアクセルを離すまでの時間(秒)とブレーキを踏むまでの時間(秒)とが記録される。赤の点灯は20回、青も黄も同数である。結果は、信号の見落としや誤反応はなく、アクセルを離すまでの時間は0.42(0.49)秒、ブレーキを踏むまでの時間は0.53(0.72)秒で、5段階評価では4(4)であった。ここでの( )内数字は30~50代の平均値である。なお反応の正確さは3(2)、反応のむらは4(3)だった。コメントは、①前方の障害物に気が付き、ブレーキを踏むまでの時間はほぼ安定しています。反応時間の遅れは前方をよく見ていても、脇見をしていなくとも発生します。②あなたの状況判断、操作は平均的(普通)と考えられます。ただし、急いでいると間違った操作になる恐れがありますので、注意して下さい。
 次に注意力とその持続性・ハンドル操作の巧みさ(ハンドル検査)と複数の作業を同時に行う能力(注意配分・複数作業)検査を行う。モニター画面は前の検査と似ているが、今度のは障害物を自らの運転で回避し、かつ信号に対応しなければならない。障害物は3分30秒の間にランダムに右左に現れ、左右同数で90個ばかりだろうか、ハンドル操作では、避けられなかった数がエラー数として右左別々に70秒ごとにカウントされ表示される。また信号の点滅は45回あり、アクセルを離すまでの時間(秒)とブレーキを踏むまでの時間(秒)が計測される。ハンドル操作でのミスは、前半70秒では左10回右5回の15回、中盤70秒では左11回右7回の18回、後半70秒では左5回右4回の9回で、左右の注意配分に差が出た。ただ後半では操作が上手くなり、練習効果率は40%上昇した。アクセルを離すまでの時間は0.57(0.57)秒、ブレーキを踏むまでの時間は0.72(0.80)だった。評価は、反応の正確さは3(3)、反応の速さは4(3)、反応のむらは4(3)、ハンドル操作は3(1)だった。コメントは、①運転中周辺に対する注意力は、さほど問題ありません。ただし、人間は急いだり考え事をしていると、周辺の危険物に気が付くのが遅れることがあります。②あなたの判断・操作は、運転を急ぐと確実性に欠ける場合が考えられます。いつどんな時も急がず、確実に一時停止や安全運転を励行して下さい。
 以上の運転適性検査の総合的な評価は4(3)クラス、総合コメントは次のようであった。「あなたの本検査による機能は、全般的にやや優れています。また非高齢者と比較しても、平均的(普通)です。しかし状況判断機能がやや低下しています。交差点では確実に安全運転をしてから運転操作に移る習慣をつけて下さい。また、交通状況に対応する運転操作が間に合わないことがあります。ひとつの事のみに集中せず、広く視野をとって確実な運転をして下さい」。
 最後にAT車による実車運転、車には3人ずつ分乗する。後部座席もシートベルトを着用する。始めに講師による模範運転、コースは暗記する必要はなく、実運転では指示をするとのことだった。内容は周回からの車線変更、指定車庫への入庫、止まれ標識での停車と左右確認後の発進、停車線で止まっても左右の安全確認ができない交差点での少しずつ前へ出ての確認後の発進、指定のS字カーブの通行、信号のある交差点の通行等で、クランク通行、縦列駐車、坂道発進、踏み切り一時停止等はなかった。講師は助手席で運転者のチェックをしていたが、その評価は知らされていない。でもペーパードライバーだとかなりハードルが高いかも知れない。これで講習はすべて終了した。
 修了後、教室で「講習終了証明書」が渡された。書面には、「上記の者は、平成21年11月4日、道路交通法第108条の2第1項第12号に掲げる講習(認知機能検査の結果に基づいて行う講習以外の講習)を終了した者であることを証明する。 平成21年11月4日 石川県公安委員会」とあった。
 この日は晴れていて、雪をまとった白山がきれいだった。   

2009年11月10日火曜日

第3回金沢大学ホームカミングデイ

 平成19年(2007)11月3日に第1回の金沢大学ホームカミングデイが開催され、金沢大学の第1回から第10回の卒業生を対象に、新しく整備された角間キャンパスの披露も兼ねての招きがあった。あの時は薬学部の卒業生も20数名見えていたし、同期生も4人ばかり顔を見せた。ただ翌年春に金沢で同窓会を企画していたこともあって、新しい薬学系の教棟の紹介はその時にと計画していたものだから、遠くの人の参加はなかった。
 この年、金沢大学は大きく変貌しようとしていた。というのは、従来の8学部25学科から3学域16学類に変容することになったからである。私達が卒業した薬学部という学部は消滅し、名称も医薬保健学域の薬学類と創薬科学類になることに。当時の林勇二郎学長はこれからの金沢大学のあり方について熱っぽく語られ、ハード面での整備は目処がついたので、これからはソフト面の充実が急務であると話されたのが印象的だった。その後は新しい選出方法で就任された中村信一学長がこれからの舵取りをすることになり、組織も独立行政法人ということもあって、随分斬新なものになった。中村学長は医学部微生物学教室の出身、私も当初は席を置いていたこともあり、同門会ではよく顔を合わす間柄である。また理事(病院担当)副学長には医学部耳鼻咽喉科の古川刃教授が就任されたが、彼は私も師事していたがん研究所ウイルス部門の波田野教授のもとで一緒に研鑽を積んでいた間柄である。また学長特別補佐に就任した辻彰前薬学部長も薬学同窓会会長をしておいでて旧知である。ただ皆さんは私より6~7年はお若い。
 今年は第3回目で、10月31日(土)の開催、卒後50年、45年、40年、30年、20年、10年の方と75歳以上の方達が対象で、該当者は7千8百名強とのこと、事務処理だけでも大変である。7月始めに卒後50年ということで案内があり、参加することにしたが、第1回の時もそうだったが、旧城内キャンパスに比べ角間キャンパスは何と不便で遠いことかとの感想が多かった。今年は正午開会の前の1時間を軽食交流会として歓談できるようにし、しかも家族同伴での参加も歓迎ということでの案内で、参加者の増が図られた。確かに親が学んだ大学を見せ、将来は子供らにも学ばせようとする意図の卒業生もおいでた。そういう方に配慮したのか、セレモニーは2時間で切り上げ、バスで角間、小立野(旧工学部)、宝町(医学部、病院、がん研、旧薬学部)キャンパスを回り、旧城内キャンパスの金沢城公園を散策し、資料館で「よみがえる城内キャンパス」という写真展を見ていただく趣向になっていた。
 交流会で古川副学長にお聞きすると、参加者は案内した該当者の3%弱、そして半数は70歳以上、そして7割は北陸在住、残りは在関東、在中京、在関西の方で、その比は面白いことに4:2:1だったとのことだった。彼にもう一つ聞いたのは「金沢大学基金」のこと、薬学の同窓会でも協力の話は余り出てこないからだ。東大では基金設立後あっという間に20億円とか50億円という金が集まったとのこと、それに比べ金大は過去60年に7万5千人強の卒業生を輩出しているにもかかわらず、まだ1億円程度だと、大学では5年間で10億円をもくろんでいるようだが、もっと加速しなければ。寄付金控除対象になることも浸透していないようだ。
 開会に先立って大学歌(校歌)の斉唱があったが、石川県民の歌もそうだが、知らない人の何と多いことか。中村学長の歓迎の挨拶の後、同窓会連絡協議会会長の挨拶、在学生の学長表彰、金沢大学創基150年記念事業シンボルマークの発表と続き、次に「すべてはお客様のために」と題しての記念講演、講師は工学部昭和49年卒の塚本外茂久氏、地元の加賀電子株式会社(東証1部上場)の社長である。本業は電子部品の製造・販売なのだが、面倒見がよく、お客からのどんな相談にも乗るという手法は下の従業員にまで浸透しており、例えば本業外のゴルフのクラブヘッドの扱いでは業界一だとか、これもお客様からの相談に手を差し伸べたということがきっかけだとか。まさにお助け親父である。洒脱でひょうきんな話は共感を呼んだ。原稿なしなので、時間きっかり、これも好感が持てた。締めは古川副学長の閉会の挨拶、彼はこのホームカミングデイを全学挙げての会にしたいとのこと、そして将来は外国、彼はフィラデルフィアを引き合いに出していたが、大学も金沢市とタイアップして、市の行事となるようにしたいと抱負を述べた。また学部が消滅してしまうので、学部ごとの同窓会を全学一本にして行うようにしたいとも語った。個々の同期の会もこの機会に便乗してもらいたいとも。彼の言は1期6年の間に実現するだろうか。
 来年は11月6日(土)の開催である。、

2009年11月7日土曜日

2009年秋の探蕎は山形・福島・新潟のそば処へ

 平成21年秋の探蕎は日にちと宿は決まったものの、立ち寄るそば処が何処なのかは全く知らされず、そば処通の久保副会長に一任ということで、言ってみれば全くのミステリアスな探蕎行ということになった。初日は山形の白鷹町と聞いたような気がするが、といって何という蕎麦屋へ入るのかは知らされていない。初日がそうだから、2日目も3日目も当然霧の中、でも久保さんのこと、一同は大船に乗ったような全部お任せのしかも興味津々の探蕎行となった。
 初日:「さんご」(山形県白鷹町浅立183−1)
 今回の秋の東北探蕎の一行は8名、久保車と和泉車に4名ずつ分乗し、当然久保車が先導することに。朝6時に北陸自動車道の不動寺PAで待ち合わせをしてから出発、天気は上々、北陸道から日本海東北自動車道へ、北上して終点で下り、小国街道を東へ、そして最上川の中流域を北上すると白鷹町に至る.何でもこの町にある簗場は常設では天下一とかで、この前に訪れた時は、尺はあろうかという落ち鮎を棒串に刺して焼いている様を見て、たまげたものだ。ときは丁度お昼時、久保さんが目指されたのは、白鷹町浅立にある酒・そば工房「さんご」というそば屋だった。屋敷の入口には関所にあるような門が、横から迂回するのかと思っていたら、車ごと堂々と門をくぐって屋敷内へ。「しらたかは隠れそば屋の里」という幟がはためいている。そば屋は二階建ての民家、中へ入る。玄関の上がり框には「そば工房 さんご」と彫られた衝立てが。
 縁を通り部屋へ。畳敷きの部屋に座テーブルが4脚、手前の2脚に8人が座る。皆さんの所望は期せずして「天そば」、ということは「もりそば」と「天ぷら」の組み合わせである。誰の采配か、運転の労をとられたお二方には「そば」と「天ぷら」一人前、その他の6人には「天ぷら」は二人で一皿ということに。ここのそばは石臼挽き自家製粉、生粉打ちとある。聞けばこの町一番の蕎麦打ち名人だった細野正五氏直伝の生粉打ちとか、楽しみである。蕎麦前は何にするかと相談していると、奥さんが4合瓶の冷酒を抱えて来られ、「これになされたら」と、早速に飛びついてしまった。見ると酒瓶のラベルには「笑酒招福」とあり、純米吟醸原酒生酒と記してある。このお酒は弁天酒造(後藤酒造)さんに依頼して造って頂いたマイタンクのオリジナル酒だと仰る。こんな小さな店で酒タンク1基とは、大冒険じゃなかろうかと心配になる。皆さんに注ぎ、香りと味を楽しんでもらう。馥郁とした芳しい香り、運転の方は香りだけ?に、そんなこともあって、半分くらいに減ったところで、残りは運転の方に飲んでもらうことにと、封をされてしまった。
 「もりそば」が出てきた。方形の竹の簾にそばはこんもりと盛られている。色は黒く、細打ち、量はやや多め、汁は4人分が縦長の陶器にまとめて、色は濃い。そばをよく見ると、小さいホシが見えている。手繰ると、なかなかコシが強い。でも細いので喉越しは良い。汁のほかに粗塩も付いている。天ぷらは海老、大葉、南瓜、獅子唐、鱚?など、天つゆは別に付いている。そばは実に美味しく、四方が追加された。
 主人の矢萩さんが顔を出される。「さんご」の由来について聞くと、珊瑚ではなく、先祖が三五郎なので頭二文字を仮名書きにしてつくったのだと仰る。私だったら「三五郎」にしたろうに。お酒のラベルのいわれを聞くと、この辺りは笑川原の荘という小字、それでその最初の一字をとったのだとか。現在白鷹町には5軒のそば屋があって、「しらたかの隠れそば屋」を名乗っているとのこと。また後で知ったのだが、この家は地元の富豪のゲストハウスだったとか、それでトイレは総漆塗りだとか、見参し損ねた。また竹の簾は屋敷内の薮の竹から手作りで作ったものだそうだ。敷地は2500坪もあるというが、表の方しか拝見しなかった。帰り際、玄関先に見慣れない小灌木が、聞くとミツマタとか、あの和紙の原料となるあれ、コウゾは見たことはあるが、これは知らなかった。久保さんのエスコートに感謝して、今宵の宿の新高湯温泉へと向かうことに。レシートを見ると、「おしょうしな」とあった。
 2日目:「ラ・ネージュ」(福島県猪苗代町城南140−1)
 初日の宿、新高湯温泉「吾妻屋旅館」を朝9時に発つ。白布温泉まで下り、ここから吾妻山越えをして山形から福島へ。途中最上川源流の地の碑が、辺りは紅黄葉の真っ盛り。さらに高度を上げて峠へ、今日はやや霞んでいるが、磐梯山も檜原湖も見えている。前に訪れたときには全く見えなかったのに、今日はハレオヤジやハレオナゴがいるからなのだろう。西吾妻スカイバレーを下って檜原湖の湖畔へ、ここでも紅黄葉が真っ盛り。でもこれから何処へ行くのだろうか。久保車はさらに南下して猪苗代町へ、そして行き着いたのが、町役場がすぐ近くのくいものや「ラ・ネージュ」。着いたのは11時少し前、建物は白いペンション風のレストラン、店で聞くと、開店は11時30分とか。駐車場はガラ空き、待つ客は我々のみ。誰かが近くに資料館があるから時間つぶしにというので車に乗って出かけることに。一通りざっと見て戻ったのは開店10分前くらいだったろうか。ところが驚く勿れ、長蛇の列ができているではないか。正に不覚の至りだ。数えると20人は下らない。さて我々8人の運命や如何に、全員が入れるには、席数が20人として28席、22人として30席はないと入れない勘定、ヤキモキする。ドアが開いて、呼び込みが始まった。ところが定員は35名とか、どうやらスンナリ入ることができた。それに僥倖だったのは、右手に8人掛けのテーブルが丸々空いていたこと、全員が一つテーブルに座ることができた。皆さん個々にお好きなものを注文することに。冷かけおろしたぬきそば3人、野菜天ざるそば3人、ざるそば・ミニヒレカツ丼セット1人、私は当店お勧めの地酒の冷酒に合わせて山菜きのこそばにした。地酒の銘柄は忘れてしまったが、口当たりはまずまず、諸氏は如何だったろうか。ここの蕎麦は地元産、地粉100%の完全手打ちと銘打ってある。くいものやとあるだけに、うどんはもとより、スパゲッティやピラフもある。そばの提供は11:30−14:15と17:30ー21:00のみで、中間の14:15−17:30はレストランとしての営業をするということだった。(因みにネージュは仏語で雪)。
 猪苗代町の蕎麦屋は全部で22店、うち手打ちそば処の15店が「猪苗代そば暖簾の会」に加盟しているという。「ラ・ネージュ」もその一員、後で聞いたのだが、この店は加盟店の中でも知る人ぞ知る店とのことであった。私が食べたのは「かけそば」だったが、コシもしっかりした細打ちで、温かい汁でも延びることもなく戴けた。行列ができるわけがよく理解できる。よくぞ選んで貰えた一店ではある。この日の宿は南会津の檜枝岐温泉、猪苗代湖畔からは4時間はかかろうかという地である。
 3日目:「わたや」平沢店(新潟県小千谷市平沢1丁目8−5)
 2日目の宿、檜枝岐温泉「旅館ひのえまた」を朝8時に発つ。今日の目的地は新潟県小千谷市、檜枝岐村からは一旦南下して山越えして奥只見湖(銀山湖)を経由して新潟県魚沼市へ出る方が距離的には近いが、道幅も狭くヘアピンも多いとかで、距離は長いが、一旦北上して只見町へ迂回し、田子倉湖から六十里越を越えて魚沼市に出ることに、この方が時間的には短いという。お任せである。途中車窓から越後駒ヶ岳(百名山)と八海山(二百名山)を見る。
 この日の昼は「へぎそば」、過去に一度食したことがあるが、なんとも変わった食感だったという記憶がある。目指すは「わたや」、それも本店ではなく平沢店だと仰る。平沢店の方が新しくて広いとのこと、本店は知らないが、確かに此処は駐車場も店舗もゆったりしている。案内されて席に着く。へぎそばのつなぎには、小千谷縮みに使われている海藻の「ふのり(布海苔)」が用いられていて、それがあの独特のツルツルシコシコした食感を醸し出しているとのこと。また「へぎ」とは「へぎおしき(折敷)」のことで、木を剥いで作った「へぎ板」を四方に折りまわして縁をつけた角盆のことで、この地では蕎麦折敷のことを指す。本来は白木なのだが、出てきたへぎは塗りが施された大変立派なものだった。我々には一口大に丸められたそばが1列に7個、4人前とて4列に、一つずつの形は独特で、なんでも湯から上げたそばを一口サイズに摘まみ、水の中で振りながら形を整えるそうで、「手振りそば」の別名もあるとか。一人前7個というのは標準で、5個を控えめ盛り、10個を大盛りと称するそうである。我々のテーブルには4人前が2枚、それに山海天ぷら盛り合わせが2個運ばれた。蕎麦前には蕎麦の酒「蕎」を戴いたが、特にこれが蕎麦酒といった印象はなかった。小千谷では10店が「小千谷そばの会」をつくっているが、汁や薬味は各店の秘伝らしいが、そばについては言及されていない。ということは、「へぎそば」はどの店でも同じなのではないかと思ったりする。
 〔付〕檜枝岐の「裁ちそば」:これは伸したそばを重ねて切る(裁つ)もので、小麦粉がつなぎに使われるようになってからも、山里では高価で使えず、折り畳むと折れて切れてしまうので、重ねて切る(裁つ)のだと何かで読んだ記憶がある。「旅館ひのえまた」では、料理の一品として出てきたので、十分吟味して味わうことが出来なかった。