2018年12月13日木曜日

今年の同窓会・同門会・同好会(4)

(4)退職後の会
「一般社団法人 石川県職員退職者会」
 私は昭和35年に石川県に奉職し、平成8年に退職した。退職後は大部分の人は表記の退職者会に入会する。同時に県内に6つある支部に所属することになる。私は白山総支部に所属する。支部では毎年春に総会が懇親会を兼ねて催されるし、また全体の定期社員総会も支部総会の後の5月30日に金沢市の石川県文教会館で開催される。また全体の会員研修会・懇親会が秋に和倉温泉「加賀屋」で開催される。私も時々出席しているが、何故か女性の参加が多い。また例年秋には3泊4日の国内旅行、春には7泊9日の海外旅行を行っているが、本来は退職者がメインなのだが、知人の同伴も可ということで、参加者は国内で2千人、海外で1千人の規模、従来は農協さんが有名だったが、今ではこちらが国内最大の規模と聞く。私も家内と北は北海道の利尻や知床から、南は沖縄・石垣までツアーに参加してきた。外国旅行にも家内が友人と参加したことがある。現在会員は2千名を超える。年会費は3千円である。年3回機関誌が発行される。
「椎の実クラブ」
石川県職員で、退職時の職位が担当課長職以上の職にあった者が入会できる。毎年春と秋に知事も出席され、会員の叙勲受賞者と米寿の方々のお祝いを兼ねて、毎年金沢ニューグランドホテルで開催される。現在の会員数は6百名強である。年会費は2千円。

(5)同好会
「探蕎会」
 この会は我が師の波田野先生が公職を辞された時に立ち上げられ、5人のサポートで発足した。平成10年のことである。そして波田野会長と松原副会長が会を牽引された。また発起人の塚野さんは会員そば打ちに貢献され、同じく前田さんは事務局として連絡・調整・会誌の発行に尽力された。また全国各地へのそばツアーの立案・遂行には、後任副会長の久保さんの尽力が大きかった。一方で会の行事の目玉だった越前丸岡蕎麦道場への春秋の訪問も、海道さんの体調不良で中止になり、また湯涌みどりの里での会員そば打ちも終いとなり、また久保副会長が急逝されてからは、県外への探蕎ツアーの立案もままならず、会の行事は低迷した。そして平成29年12月に開かれた世話人会で、前田事務局長から、会員の高齢化もあり行事の遂行がこんなんになったので会を解散してはという動議が出され、総会に諮ることになった。明けて平成30年3月の総会では、寺田会長も90歳を超えられていることもあり、事務局の案は承認された。そして会報も第64号( 2018.4.30 ) が最終号となった。20年の歩みだった。
「石川県巨樹の会」
 この会は平成元年 ( 1989 ) に里見信生先生によって創設された。先生は波田野先生とは旧制中学校では同期だったとか。また私の叔父の木村久吉とも親交があった。金沢大学が戸田学長の時の構想で、薬学部が城内に移ることになり、まず生薬学教室が旧旅団司令部跡に引っ越したことがあったが、その折に先生とよくお会いした。石川県の文化財保護委員が叔父から里見先生に代わった後、旧県庁横の通りにあるアメリカ楓の並木を提案されたのも先生である。先生がこの会を創設された折に勧誘され入会したが、年1回の総会と年2回の巨樹探訪会がメインの行事なのだが、サボリ勝ちで真面目な会員とは言いがたかった。今年創立30周年を迎え、その記念式典と講演会に参加した。開催されたのは平成30年11月25日(日)、会場は ANA ホリデイ・イン金沢スカイ、全国巨樹・巨木林の会の高橋進会長の記念講演もあり、久しぶりに旧知の人達にも出会った。しかし会場に参集した御仁はみな高齢、という私も傘寿を過ぎている。この会の今後の舵取りをどうするのか、それが差し迫った重大な問題である。

今年の同窓会・同門会・同好会(3)

(承前)
「金沢大学ホームカミングデイ」
 他大学でも行っているというホームカミングデイのシステムを金沢大学でも導入したのは、平成10年のことである。今年で12回目、案内の対象になるのは、卒業後10年、20年、30年、40年、45年、50年を経た卒業生と、76歳以上の卒業生が対象になっている。私は卒後50年に初めて案内があり、76歳になってからは毎年案内があり参加している。期日は毎年金大祭に合わせて行われ、今年は10月27日 (土 )に開催された。行事としては、宝町キャンパスの医学コース、角間キャンパスの人間社会学域コースと理工学域コースの1コースを選択しての見学が午前中にあり、午後から歓迎式典が行われる。はじめに室生犀星作詞・信時潔作曲の金沢大学校歌の斉唱があり、学長と学友会会長の挨拶、幹部役員の紹介、大学の近況報告がある。そして毎年特別講演が1時間あり、今年は今では通信に欠かせない光ファイバーの開発に携わった金沢大学工学部出身で、現在東北大学の中沢正隆教授の講演があった。解説には難解な数式もあって、理論的なことは理解できなかったが、要は研究や技術開発には、理論をどう実際に生かすか、それには強い好奇心と情熱と意志が必要だと結ばれた。今年の講演は実に素晴らしかった。
「金沢大学山岳会」(KUAC)
 金沢大学山岳部は平成18年以降、現役の学生がいなくなり、廃部になった。以前は山岳部 OB 会と称していたが、現在は山岳会と称している。隆盛時には部員も20名を超えていたし、技術力も高く、ヒマラヤのハッチンダール・キッシュ峰に初登頂したこともある。またヒマラヤやアンデスにも何度か遠征しているが、ヒマラヤで1名、アンデスのチャクララフでは2名を失った。こうした3 K の山岳部よりは女性も入部できるワンダーフォーゲル部に人気が集まり、山岳部は次第に衰退した。現在の会員は102名、会は毎年開かれ、関東、関西、東海、北陸の4支部持ち回りで開催している。今年の第47回総会は東海支部の担当で、11月10、11日の両日、長野県で開かれ、15名が参加した。2日目には全員で近くの陣場形山 (1445m) に親善登山した。
「東京大学医科学研究所同窓会」
 私が石川県衛生研究所に勤務していた折、新しく蛍光抗体法の検査技術を習得するために、昭和43年に東京大学医科学研究所免疫学部門に6ヵ月研究生として在籍した。丁度その頃は東大紛争の折で、在籍する大学院生は、昼は東大安田講堂に立てこもり、夜に研究を続けるという変則的な状態に終始していた。私も技術的なテーマを貰い、何とか期間内に宿題を完成させた。退所後、同窓会への入会を勧誘され、以後一般会員として入会している。毎年創立記念日の11月30日に同窓会が開催され、医科研講堂でシンポジウムや講演会が行われ、昨年は東京大学医科学研究所創立125周年・改組50周年記念事業が行われた。因みに創立時の名称は東京大学伝染病研究所で、ロックフェラー財団によって設立された。そのこともあってか、第2次世界大戦中にも爆撃の対象から外されていたと聞く。現在の会員数は6百名強である。年会費1千円。

(3)小・中学校の同窓会
「こうし会」
 昭和24年に町立野々市小学校を卒業した者と、昭和27年に野々市中学校を卒業した者の計54名で、同窓会「こうし会」を結成し、私を含め男2名女1名で会の世話をしてきた。これまで還暦を機に、毎年近場の温泉での1泊での同窓会と、3泊4日程度の国内旅行を交互に行ってきた。しかし皆さん80歳になったことから、17名の物故者法要と温泉での傘寿の宴を最後に、今年の3月末をもって同窓会を解散することにした。

2018年12月12日水曜日

今年の同窓会・同門会・同好会(2)

(2)大学の同窓会と同門会
「ゼレン会」
 私は新制金沢大学薬学部の第7期で、昭和34年3月に卒業した。会名のゼレンは元素番号 Se のドイツ語読みに由来している。同期の卒業生は36名で、内7名が他界している。同窓会は以前は5年おきに開催していたが、還暦以降は毎年開催していて、地元では隔年開催、他は関東、関西、東北でという決まりになっていて、今年は関西在住の K 君の世話で、5月21,22日の両日、大津市の琵琶湖湖畔のホテルで開催された。当初は10名の参加が見込まれていたとかだったが、体調が不良とかで、参加したのは男5名、女3名だった。1年ぶりということもあって旧交を温めた。翌日は晴れの琵琶湖を周航した。
「金沢大学薬学同窓会」
 旧金沢医科大学薬学専門部 ( 薬専 ) と金沢大学薬学部、それに現在の金沢大学薬学類、創薬科学類の現・旧職員及び学生・卒業生で構成される。毎年5月の第3土曜日に金沢で総会が開催され、昨年は創立150周年を兼ねた第54回総会が、今年は第55回総会が5月19日に角間キャンパスで開催された。また年1回同窓会誌「薬友会誌」が発行されていて、昨年の 2017 年号は通巻64号だった。会の運営は新入会員の終身会費で賄われているが、これは今後検討すべき点だ。
 これまで北陸3県の薬学卒業生は、個々の支部で同窓会を開いてきていて、時に合同で行なうこともあったが、昨年のこの会で、これからは3県合同で行なうことになり、今年はその第1回金沢大学薬学北陸同窓会が10月28日に KKR 金沢で開催された。今後はこのような傾向は進むようで、既に関東、関西、東海では実施されている。
「金沢大学医学部十全同窓会」
 私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業後、石川県衛生研究所に就職した。その後金沢大学医学部から赴任された三根晴雄所長の勧めで、西田尚紀先生が主宰する微生物学教室に専修生として、波田野基一先生の下で指導を受けた。その後波田野先生が新設された癌研究施設(後にがん研究所)へ移られた後はそこで研鑽を積み、昭和50年2月に学位を授与された。以降十全同窓会の通常会員(Ⅱ)になっている。同窓会総会は今年は7月7日に医学部記念館(旧十全講堂)で開催された。また年3回十全同窓会会報が発行され、最新号は170号で、平成30年 ( 2018 ) 9月に発行された。年会費4千円。会員番号は920080である。
「金沢大学医学部微生物学教室同門会」
 学位取得前に微生物学教室に席を置いたこともあって、2代目教授の西田先生の時に同門会に加えて頂いた。この同門会は初代教授の谷先生の時から、3代目教授の中村先生(後に金沢大学学長)の時までは毎年実施されてきたが、4代目教授の清水先生の時は一時中断された。でも5代目藤永先生が就任されてからは再び毎年開かれている。今年は10月27日に金沢の石亭で開催された。また昨年には同門会誌「楷樹」が創刊された。年会費3千円。
「金沢大学学友会」
 この会員は、大学の卒業生や教職員等の個人会員と大学の同窓会の団体会員とからなり、サークル等の登録同窓会も準団体会員として加入している。金沢大学のホームカミングデイに合わせて開催され、キャンパス見学会、歓迎式典、特別講演の後に一般会員も参加して、学友会役員総会と称して開催される。今年は第8回にあたり、会では一般会員への役員の紹介と議案の審議が行われる。現会長は前金沢市長だった山出保氏である。

今年の同窓会・同門会・同好会(1)

(1)高校の同窓会
「泉丘第7期 仲良し会」
 私は昭和30年 (1955) 3月に石川県立金沢泉丘高等学校を卒業した。第7期になる。この同窓会は卒業後いつ頃から始まったのかは定かではないが、おそらくは40歳 (不惑)か50歳(知命)とかの区切りの年に始まったのではなかったろうかと思っている。特に同窓会の異名はなく、単に「泉丘第7期同窓会」と称し、当初から加茂君が旗ふりをして代表世話人として世話をし、毎年開催してきた。しかしこの会は、会員の総意により、80歳になったのを機に、一昨年に行った「傘寿の宴」を最後にして、全員を対象にした同窓会はなくそうということになった。この会は多い時には百名前後の参加があったが、全員が70歳台になってからは半数程度になった。そして参加するのは、地元よりはむしろ金沢を離れている同窓生が多い傾向にあった。それかあらぬか、最後の同窓会で、元気なうちは有志で同窓会を続けようとの案が出て、世話人は引き続き加茂君が、場所もこれまでと同じく地元石川の粟津温泉の能登屋で、時期は5月下旬か6月上旬に設定し、その名も「泉丘第7期仲良し会」として続けることになった。今年は6月1日 ( 金 ) 2日 ( 土 ) の開催、30名ばかりが集まった。そして会は遠来勢が半数を占めていた。女性も10名ばかり、遠来勢はこれを機に故郷金沢を楽しんでいる風情だった。新しい会は今年で2度目で、また来年もやりましょうということになった。
「湧泉会」
 平成14年 (2002) に、同期の村田君が「台湾村田」の社長を辞して日本 ( 金沢 ) に帰ってくるのを機に、諸 ( もろ ) 君の提唱で「耳順会」が発足した。同調したのは14名、幹事は持ち回りが原則だったが、北陸交通の社長だった山田君の世話で、随分と格安で料亭や温泉旅館を世話して貰えた。会は四季に合わせて年に4回、15年間続いた。一方で年に4回は少な過ぎるとの意見もあり、金沢信用金庫の理事長だった廣部君が叙勲されたのを機に、晩の耳順会に加えて、村田君の肝いりで、毎月1回、昼に金沢ニューグランドホテルで月替わりに和食・中華・洋食を食べながら談笑する会「湧泉会」を発足させた。平成24年 (2012) のことである。そして平成29年 (2017) 、耳順会60回、湧泉会60回を迎えたのを機に会名を「湧泉会」に統合し、月1回の会のほか、年に1回温泉へ出かけることにした。人数は発足当時は12名、その後2名入会したが、現在まで3名が他界、3名が病気療養中、2名は多忙とかで不参加、現在ほぼ毎回参加できるのは6名である。それでも会では談論風発、実に楽しい実りのある会だ。いつも「もう時間です」と言われて散会する始末だ。
「一泉同窓会」
 旧制金沢一中と新制泉丘高との合同の同窓会で、毎年創立記念日の10月15日の夕に金沢駅前のホテルで開催される。今年はホテル金沢日航で開催された。毎年参加者は1200人前後、今年は創立125年、泉丘70周年にあたり、テーマは「一泉の絆を未来へ」だった。一昨年までは7期の同窓生は3卓を占めていたが、昨年からは2卓、今年の参加者は17名だった。しかし年に一度だが、久しく会っていない先輩後輩に会うのは楽しい限りだ。
 また例年創立記念日の前日祭として、旧一中校舎のあった金沢歌劇座から泉丘高校までの4 km ばかりを歩く一泉行列が毎年行われていて、今年は8月29日に行われることになっていたが、生憎の悪天候で、今年は残念ながら中止になった。

2018年11月18日日曜日

新シーズン第3回目の OEK 定期公演は圧巻だった(2)

(承前)
2.モーツアルト 交響曲 第 40 番  ト短調 K.550
 モーツアルト最晩年の 1788 年に作曲された交響曲の第 39 番、第 40 番、第 41 番「ジュピター」の3曲は、モーツアルトの三大交響曲と言われている。でもこの3曲がどんな目的で書かれたのか、果たして依頼者があったのか、また初演の日時や場所も不明、また果たして生前に演奏されたのかどうかも不明という、実にミステリアスな最晩年の交響曲である。
 さてこの40番は、41 曲ある交響曲の中で、25番と共に唯2曲のみ短調であることでも知られている。比較的演奏回数も多く、私は OEK での演奏も数回聴いている。そして私が最も親しみを持てたのは、OEK が岩城宏之さんの指揮で初めて CD を録音した時の曲が、この曲とチャイコフスキー作曲の「弦楽のためのセレナード  ハ長調」で、しかもその録音が私が現在住んでいる野々市市 (当時野々市町)の文化会館「フォルテ」で行われたことである。このこともあって、この CD を購入してからは、就寝時に家内と共に聴くことを常にしていた。それだけに愛着が深く、家内はクラシックは余り得手ではないが、このモーツアルトの交響曲第 40 番はお気に入りで、この曲が演奏曲目に入っていれば聴きたいというまでになった。私も暗譜できる程になってしまった。演奏時間は 30 分ばかり、CD は両方合わせて1時間ばかりだ。
 第1楽章 モルト・アレグロ V n による流れるような 序奏 の第1主題で始まり、そして高揚し、その後柔和な第2主題が。でも曲の流れというか印象は、これまで聴いてきた第 40 番とは全く違った印象のものだった。短調の曲なのだが、鈴木さんの実に激しい全身を使った身振り手振りの指揮に度肝を抜かれてしまった。何という激しさ、これを情熱が漲った指揮というのだろうか。OEK の前音楽監督、現桂冠指揮者の井上道義も時にこのような激しい指揮をされたことがあるが、とてもその比ではない動き、クラシックでのこのような激しい指揮ぶりは全くもって初めての経験だった。
 第2楽章 アンダンテ ひっそりとした緩徐楽章のはずなのだが、指揮はやや収まりが見えるものの、相変わらず激しい。
 第3楽章 メヌエット 本来は優美な踊りの曲なのだが、後半には激しさが増した。
 第4楽章 アレグロ・アッサイ 急速に上り詰めるような、駆け上がるような高揚感。もう最後はこれでもかこれでもかというような熱狂的な演奏で終末になった。本当に驚いた。こんな40番もあるんだ。終わってスタンディングオベーションもあり、聴衆はこの情熱的な破天荒な演奏に惜しみない大拍手で応じた。何とも激しい40番だった。もうこんな40番は聴けまい。

 休憩後の後半は、メンデルスゾーンの未完のオラトリオ「キリスト」と宗教音楽の詩篇42番「鹿が谷の水を慕い喘ぐように」の2曲。合唱は RIAS 室内合唱団 ( ドイツ ) 。この合唱団は「世界の10の合唱団のひとつ」に選ばれているという名門。ジャスティン・ドイルが首席指揮者・藝術監督をしているとあるが、今回は金沢には来ていない。来沢したメンバーは、ソプラノ 11 名、アルト 8 名、テナー 9   名、バス 8 名の総勢 34 名である。この後半の2曲にはパイプオルガンの伴奏が付いた。
3.メンデルスゾーン:オラトリオ「キリスト」作品 97   (Sop/Ten/2Bas/Cho/Orch)
 第1部「キリストの降誕」、第2部「キリストの受難」からなり、本来であれば第3部「復活と聖天」と続く予定だったらしいが、早世して完成には至らなかったという。全体を通じて、ソプラノ独唱が1、テノール独唱が6、三重唱が1、合唱が6、コラールが2から成っている。歌詞はドイツ語である。指揮は相変わらずダイナミックだった。
4.メンデルスゾーン:詩篇42番 作品 42 (Sop/2Ten/2Bas/Cho/Orch)
 第1曲「合唱」 第2曲「アリア」ソプラノ 第3曲「レチタティーヴォとアリア」ソプラノ 第4曲「合唱」 第5曲「レチタティーヴォ」ソプラノ 第6曲「五重唱」ソプラノ・テノール・バス 第7曲「最終合唱」 世界に名立たる合唱団、ソロも合唱も実に素晴らしかった。指揮も凄かった。
 

2018年11月15日木曜日

新シーズン第3回目の OEK 定期公演は圧巻だった(1)

 2018 年9月に始まった OEK (オーケストラ・アンサンブル金沢 ) の新シーズンの演奏会も、11 月に入ってシーズン第3回目の第 408 回定期公演フィルハーモニー  シリーズが 11 月1日に石川県立音楽堂コンサートホールで開かれた。OEK が本拠地の金沢で定期公演するのは、年間でフィルハーモニー・シリーズが8回、マイスター・シリーズが5回の計13回で、ほかにファンタスティック・オーケストラコンサート (以前は定期公演にカウントされていたが、現在はカウントされていない)が3回ある。さて、今回の OEK 設立30年のこのシーズン第3回目の定期公演のキャッチフレーズは、「 OEK と日本が誇る世界の マサアキ・スズキと OEK の至福の化学反応」とある。しかし私は不覚にもこの著名な指揮者の名は知らず、ましてや聴いたこともない。でもこの驚くべきキャッチフレーズを見て、これまで接したことのない新しい感覚での演奏や演出が見られるのではないかと心待ちにし、期待もした。
 第 408 回定期公演の概略は、指揮:鈴木雅明、ソプラノ:リディア・トイシャー、テノール:櫻田 亮、合唱:RIAS 室内合唱団、コンサートマスター:アビゲイル・ヤング ( OEK 第1コンサートマスター)という触れ込み。演奏曲目は、クラウス/教会のためのシンフォニア、モーツアルト/交響曲第40番ト短調、メンデルスゾーン/キリスト、同/詩編42番「鹿が谷の水を慕いあえぐように」の4曲。これらの曲目では、モーツアルトの交響曲第40番以外は聴いたことがあるかも知れないが記憶にはなく、しかも声楽曲とあっては尚更だ。また指揮者の鈴木雅明という方も私には未知の方であり、どんな演奏が聴けるのか、実は聴くまでは楽しみと不安が入り交じった感情だった。
 指揮者の鈴木さんのプロフィールはというと、現在東京藝術大学の名誉教授であり、イェール大学やシンガポール大学でも客員教授をされているという。そしてバッハ・コレギウム・ジャパンの創設者であり、バッハ演奏の第一人者としても名声を博されているとのこと、また近年はバロック・アンサンブルとの共演も多いという。だからかその功績もあって、ドイツ連邦共和国からは功労勲章を授与されているし、ドイツ・ライプツイッヒ市より「バッハ・メダル」、ロンドン王立音楽院からもバッハ賞を受賞されているという。また日本でも紫綬褒章を受賞されている。そして母校の東京藝術大学に古楽科を新設されたとも。でも私にとっては初めて接する方だった。
 プログラム
1.クラウス:教会のためのシンフォニア ニ長調 VB 146
 クラウスはドイツで生まれ、スウェーデンで活躍した宮廷作曲家とある。生年はモーツアルトと同じ1756 年、没年はモーツアルトの1年後の 1792 年、モーツアルトと同じく早世だったという。作風も当時の作風もあってか、聴くと聴いたことがあるような旋律があるのに気付く。「スウェーデンのモーツアルト〕と言われる所以に納得できる。生前にイタリア、フランス、オーストリアを巡る旅に出た折に、ウイーンでモーツアルトの知遇を得たという。この曲は 1789 年の作曲で、ストックホルムの聖ニコライ教会で行われたスウェーデン議会の開会式で初演されたという。曲は2部構成で、モーツアルトの交響曲を思わせるような穏やかで心が和む曲だった。鈴木さんの指揮はというと、穏やかながら、両手上半身をフルに使われての指揮、静かな曲だが、それにしても驚きの指揮だった。

2018年9月27日木曜日

OEK (2018 - 2019) 定期公演始まる (2)

「新年度初めての定期公演」
 設立 30 周年を迎えたシーズンの皮切りの第 406 回定期公演が石川県立音楽堂コンサートホールで 2018 年9月 20 日に開催された。指揮は新しく常任客演指揮者になった川瀬賢太郎、ピアノは小山美稚恵、コンサートマスターはアビゲイル・ヤングだった。川瀬賢太郎は弱冠 34 歳ながら、神奈川フィルの常任指揮者、名古屋フィルの指揮者、八王子ユースオーケストラの音楽監督をしている。これまでも何回か OEK を指揮していて、その端正な指揮ぶりには定評がある。小山美稚恵は日本を代表するピアニスト、チャイコフスキー国際コンクールやショパン国際コンクールに入賞された実績を持つ重鎮、久しぶりにお目にかかったが、オバサンになられた。昨年度はこれまでの功績で紫綬褒章を授与されている。アビゲイル・ヤングはもう随分前から OEK の第一コンサートマスターをされていて、定期公演の半分以上はコンサートマスターを務めておられ、ソロ奏者としても素晴らしい技巧をお持ちで、これまで何回も超技巧の難曲を聴かせて頂いた。
 さて今年度初回の定期公演は、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンの3曲、どなたの選曲かは知らないが、共通しているのは、この3人の天才が同時期に生存していたということである。ハイドンは 1732 - 1809 、モーツアルトは 1756 - 1791 、ベートーベンは 1770 - 1827 、そうすると、ベートーベンが生まれた 1770 年からモーツアルトが没した 1791 年の 21 年間は、3人が共存していたことになる。演奏されたハイドンの交響曲第90番は 1778 年の作品、モーツアルトのピアノ協奏曲第20番は 1785 年の作品、ただベートーベンの交響曲第5番はモーツアルトの没後の 1808 年に出来上がった作品である。
1.ハイドン:交響曲第90番ハ長調  Hob. 1− 90
 ハイドンの「パリ交響曲」群の続編の2曲中の1曲、初めて聴く曲だった。ところでこの曲の第4楽章、弦・管・打が大音響であたかも曲が終わったかのような印象、当然大きな拍手、ところが指揮者は暫くしてやんわり拍手を制して再び演奏を続行、そして再び全曲が終わったような演奏、今度こそ終いと当然大きな拍手が、ところが再び指揮者が間をおいて拍手を制して再度演奏を続行、そして三度目の大団円が本当の終いだった。この曲も一度でも聴いていればこんな失態をやらかす羽目にはならなかったと思うが、何ともハイドンらしい茶目っ気のある曲だった。よく引き合いに出されるのは、ウェーバーのピアノ曲の「舞踏への勧誘」である。
2.モーツアルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 K. 466
 モーツアルトには短調の曲は少なく、41番まである交響曲ではト短調の第 25 番と第 40 番の2曲のみ、また27番まであるピアノ協奏曲でも、このニ短調の第 20 番と ハ短調の第 24 番のみと少ない。さて演奏は、ベテランのピアニストと新進気鋭のコンダクターの取り合わせ、カデンツァの部分もかなりあり、指揮には随分気を遣っている様子が伺えた。しかし終わってみれば、実に晴々とした二人の表情が実に印象的だった。ひょっとして初めてのコラボだったのでは。鳴り止まぬ拍手に応えて弾かれたアンコール曲は、バッハ作曲平均律クラヴィア曲集第1部「 24 の前奏曲とフーガ」から第1番ハ長調、4分弱の曲、丁寧な弾き方だった。
3.ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調 作品67「運命」
 言わずと知れたあの冒頭のタタタ・ターンというリズムのある曲、作曲者のベートーベンが「運命が扉を叩く音」と語った音は、曲は知らなくても誰もが知っていよう。熱演だった。アンコール曲はシューベルト作曲「ロザムンデ」から間奏曲第3番変ロ長調、この曲もよく知られている曲だ。
 終わって指揮者の川瀬さんから挨拶があった。このシーズン何度か棒を振られるだろうが、新進気鋭の俊英の川瀬賢太郎さんに今後も期待したい。

OEK (2018-2019) 定期公演始まる (1)

「これまでの30年とこれから」
 本年9月から、新しく OEK (オーケストラ・アンサンブル金沢 ) の芸術監督に就任したマルク・ミンコフスキの下での 2018-2019 定期公演が始まった。ところで、振り返って OEK が設立されたのは昭和63
年 (1988)、日本での著名な指揮者の岩城宏之さんが、彼が少年の頃、金沢第一中学校で学んだ縁もあって、当時石川県知事だった中西陽一さんに掛け合ってこの構想を持ちかけ、そして外国人も入れた40人からなる日本最初のプロの室内オーケストラが設立された。その後演奏の拠点となる石川県音楽堂もでき、内外での演奏活動も盛んになった。また設立時からコンポーザー・イン・レジデンス制度を取り入れ、主に国内の作曲家に作曲を委嘱し、その作品を初演してきた。岩城さんは私は初演魔だと言われていたことを思い出す。そしてこれら委嘱作品を CD 化し、一方で邦楽とのコラボを試みるなど、斬新な試みもなされてきた。しかし病魔には勝てず、他界された。現在は OEK の永久名誉音楽監督としてその名を残しておいでる。ほぼ20年の在任だった。
 岩城さんの没後、次期音楽監督に招聘されたのは、当時京都市交響楽団の指揮者をされていた井上道義さんで、着任されたのは平成 19 年 (2007) 、以後 10 年にわたって音楽監督を務められた。聴き慣れた曲よりはむしろそうでない曲を選ばれ、時に取っ付きにくい感じもしたものだ。斬新な企画として5月の連休にテーマを選んで、内外の音楽家や音楽集団を呼び寄せ、「ラ・フォル・ジュルネ」という企画を始めたのも井上さんだった。しかしその後平成 29 年 (2017) には5月の連休での企画が井上音楽監督の意に沿わない「風と緑の楽都音楽祭」となったこともあって、平成 30 年 (2018) 年3月には OEK を去られた。最後の定期演奏会でのお別れのメッセージが印象的だった。
 そして同年9月にこれまでの音楽監督ではなく、新しく芸術監督に就任されたのが、それまで OEK のプリンシパル・ゲスト・コンダクターだったマルク・ミンコフスキ氏で、現在はフランス国立ボルドー歌劇場総監督兼音楽監督に就任されており、OEK 初の外国人芸術監督を兼務される。これまで私は彼の指揮を2回聴いていて、最初は今年 (2018) 2月 26 日に県立音楽堂で開催された マルク・ミンコフスキ指揮のレ・ミュジシャン・デュ・ルーブル金沢公演、よく知られたメンデルスゾーンの名曲、序曲「フィンガルの洞窟」、交響曲第3番イ短調「スコットランド」と同第4番「イタリア」イ長調、この3曲を繊細で優美な響きで会場を魅了した。二度目は OEK の第 405 回定期公演でのドビュッシーの歌劇「ペリアスとメリザンド」、スクリーン映像を駆使した斬新な演出のオペラ公演、観ていて聴いていて度肝を抜かれた。ところで平成 30 年に就任され、次に定期公演で指揮をされるのは来年 (2019) 7月の第 417 定期公演、少し間が空き過ぎて寂しい気がする。
 本年9月に新体制が発足し、OEK のスタッフの変更があった。芸術監督:マルク・ミンコフスキ   (新)、首席客演指揮者:ユベール・スダーン(新)、常任客演指揮者:川瀬賢太郎(新)、指揮者:
田中祐子(新)、専任指揮者:鈴木織衛、コンポーザー・オブ・ザ・イヤー:池辺晋一郎 (2017-18)、狭間美帆 (2018-19) 、顧問:木村かをり、池辺晋一郎、永久名誉音楽監督:岩城宏之、名誉アドヴァイザー:前田利祐、桂冠指揮者:井上道義(新)、名誉アーティスティック・アドヴァイザー:ギュンター・ピヒラー、第1コンサートマスター:サイモン・ブレンディス、アビゲイル・ヤング、客員コンサートマスター:水谷 晃(新)、コンサートマスター:松井 直、名誉楽団員:ルドヴィード・カンタ
(新)。

2018年8月8日水曜日

OEK の新芸術監督にマルク・ミンコフスキ氏就任(2)

(承前)
 彼が OEK のプリンシパル・ゲスト・コンダクターに就任してシューマンの交響曲全曲を聴かせてくれたが、その次に選んだプログラムは、ロッシーニの歌劇「セビリアの理髪師」の2幕もの、オペラ劇場での演出ならばさほど苦労することはないだろうが、限られた狭い空間での演出には苦労が伴う。しかも原語 (イタリー語 ) での進行、しかし両袖には日本語訳がテロップで流れるので、話してる意味は即十分に理解できた。この時の歌劇スタイルは演奏会形式というとか、演出はイヴァン・アレクサンダーによるもので、オーケストラの前後左右を有効に使っての進行だった。主役4人は来日したメンバー、脇役3人は留学経験のある日本の現役オペラ歌手、そしてこのコンサートのために結成された東京芸術大学卒業生を中心とした金沢ロッシーニ特別合唱団が脇を固めた。これまで何回かミニオペラが上演されたが、芝居形式で、何となくチャチな感じを受けたものだが、限られた空間を上手に使いこなすと、観客にも感動を与えるものだ。
 さてこの7月 30 日には、9月に OEK の芸術監督に就任するミンコフスキさんの指揮で、ボルドー国立歌劇場と県立音楽堂の共同制作になるドビュッシー作曲の唯一の歌劇である「ペレアスとメリザンド」が上演された。原作はモーリス・メーテルリンクである。5幕 15 場の構成、1月にフランス国立ボルドー歌劇場で上演されたばかり、そして金沢ではボルドーでの公演と同じステージ・オペラ形式での上演だという。これまで経験したことのない上演形式とて、特に照明や映像には工夫が見られ、舞台の前後に設けられた特大の紗の2枚のスクリーンには、波立つ海や薄暗い洞窟、眩い星空、そして星の光の流れなどが映し出され、このような新感覚の演出には度肝を抜かれた。この後東京公演が8月1日に東京オペラシティーコンサートホールで行われたが、東京でのスタイルはセミ・ステージ形式で行われたという。素晴らしい演出に感動した。
 舞台は OEK のメンバーを取り囲むように設置され、前後左右、そしてパイプオルガンが設置されている中二階も有効に使っての演出、そのほか衣装や照明、映像など、これらはすべてボルドー歌劇場から来日したスタッフによって設備調整が行われたという。この音楽堂でのこのような企画での演出には初めて遭遇した。そして舞台には、ペレアス役でテノールのスタニスラス・ドウ・バルベラックさん、メリザンド役でソプラノのキアラ・スケラートさんのほか、来日した5名の出演者が素晴らしい歌声を響かせた。また演出のほか、衣装、照明、映像、舞台を手がける 11 名も来日スタッフだった。あの紗のスクリーンに映し出された幻想的な映像は、全く新しい感覚での手法で、大道具を用いずとも、歌劇の上演は可能ということを示したもので、いやが上にも観客を虜にした。
 終幕、殺されたペレアスの死を悼んで床に伏しているメリザンドが息を引き取り、第5幕が終わると、暫くの沈黙の後、「ブラボー」の声とともに、会場からは沸き立つような拍手が鳴り響いた。カーテンコールでは、指揮者のミンコフスキさんや素晴らしい歌声を披露してくれた6人の出演者に万雷の拍手、何度もステージに出て来られてこれに応えられていた。また合唱・助演したドビュッシー特別合唱団の方々、そしてオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーにも惜しみない拍手が送られた。素晴らしかった。
 ミンコフスキさんの次の金沢での公演は、来年の7月6日の第 417 回定期公演までなく、プログラムは現在調整中だという。終わった後での挨拶を英語で述べられ、本来フランス人は頑にフランス語で話すのが常と思っていただけに驚いた。OEK の芸術監督に就任されたといっても、1年近くの空白、でも今後ボルドーと金沢の強力な架け橋になりたいとも述べられ、なるべく早い時期に OEK のボルドー公演を実現させたいとも語った。希望をもって OEK の更なる飛躍を期待したい。

OEKの新芸術監督にマルク・ミンコフスキ氏就任(1)

 2018 年7月 30 日の OEK (オーケストラ・アンサンブル金沢)の第 405 回定期公演に、9月から OEK の次期芸術監督に就任する世界的指揮者のマルク・ミンコフスキ氏が指揮して、クロード・ドビュッシー作曲の歌劇「ペレアスとメリザンド」が石川県立音楽堂コンサートホールで上演された。これまでもこの会場で数回オペラが上演されたが、今回は次期芸術監督に就任するとあってか、観ていても指揮者の素晴らしいまでの意欲が感じられ、期待以上の充実感と満足感で酔いしれた。私はこれまでミンコフスキ氏の指揮の演奏を過去4回聴いているが、今回の演奏ではこれまでにない新しい切り口での、またこれまで接したことのない新しい感覚での演奏や演出を見せてくれたような気がする。
 私がマルク・ミンコフスキ氏の名を知ったのは 2012 年の7月である。初来日は 2009 年 11 月で、この時は自ら創設した「ルーブル宮音楽隊」を率いて来日し、この時は音楽雑誌での来日海外オーケストラの第1位に輝き、日本音楽界の話題をさらったという。そして次に来日したのが 2012 年7月、この時日本国内のオーケストラとの初共演が OEK とだった。私が初に聴いたのはこの時で、第 325 回定期公演でだった。その時の演奏曲目は「20 世紀前半フランス・プログラム」と銘打たれ、曲目はヴァイルの交響曲第2番、プーランクの2台のピアノのための協奏曲ニ短調、ラヴェルのマ・メール・ロア ( バレー版 )の3曲、正にテーマ通りの本場の音楽に酔いしれたものだ。そして翌 2013 年2月には再びレ・ミュジシャン・デュ・ルーブル・グルノーブルを率いて来日し、金沢での第 332 回定期公演では、シューベルトの交響曲第7番 (旧8) 番ロ短調 D.759「未完成」とモーツアルトのミサ曲ハ短調 KV427 が演奏された。二人の天才のいずれも未完の作品、いろんな方がその経緯について述べられているが、それはともかく、今は現在あるがままを素直に聴き入れて下されば、それで十分ですとのことだった。
 2014 年9月 10 日の第 354 回定期公演、この時の演奏曲目は、フォーレの「ペレアスとメリザンド」組曲、ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調 ( ピアノ 辻井伸行 )、同じく「亡き王女のためのパヴァーヌ」、ビゼーの交響曲ハ長調、というフランスの作曲家の音楽だった。これはミンコフスキ氏がこの年の9月から OEK のプリンシパル・ゲスト・コンダクターに就任することもあっての定期公演だったが、残念なことに急病で来日できず、代わって指揮をしたのは、フランス国立ロワール管弦楽団音楽監督のパスカル・ロフェだった。この方は欧州の名だたる管弦楽団の客演指揮を定期的に数多くされており、NHK 交響楽団にも定期的に客演指揮されているとかで、この時は東京と高崎でもツアーが行われたという。
 次にミンコフスキ氏がタクトを振ったのは 2015 年 12 月 10 日 ( 第1夜 ) と翌 11 日 ( 第2夜 ) での第 370 回定期公演、シューマンの交響曲全4曲の演奏、この年の9月にミンコフスキ氏は国立ボルドー歌劇場総支配人兼芸術監督に就任している。演奏曲目は、初日が交響曲第1番変ロ長調「春」作品 38 と交響曲第2番ハ長調 作品61 、2日目は交響曲第3番変ホ長調「ライン」作品 97 と交響曲第4番ニ短調 作品 120 。第1番と第3番は比較的よく聴く曲だが、第2番と第4番は余り聴くことはない。この作品番号は出版順で、実際作曲された年を辿ると、1、4、2、3だという。そしてこれら交響曲を書くきっかけになったのは、シューベルトの交響曲第8番の楽譜を目にし、その演奏をメンデルスゾーンに依頼し、それを聴いて希望に燃えたからだったという。そして最初に第1番を完成させ、初演をメンデルスゾーン指揮のライプチッヒゲヴァントハウス管弦楽団にお願いしたという。春の喜びを表した素晴らしい曲だ。2夜連続での演奏、凄い意欲を感じずにはおられなかったのを覚えている。

2018年7月25日水曜日

沓掛温泉「満山荘」(その3)

 7月13日 朝6時に起き、もう一方の、昨晩は女湯の表示になっていた内湯と露天風呂の方に入る。湯温はもう一方のと同じく、内湯は40℃、露天風呂は36℃前後に設定されている。いずれも掛け流し、眼下に青木の田園風景を眺めながら、至福の時を過ごす。ほかに客がいたら、こうはゆくまい。実に僥倖だった。
 朝食は8時ー9時、いつもだとバイキング形式なのだが、今朝は私達のみなので、朝食はご飯とお汁、それにメインディッシュに6品と果物、ゆっくり食した。外のテラスには母猫と3匹の子猫、静かに朝食を頂く。終わって部屋で寛ぐ。チェックアウトは11時なので、私は同じフロアにあるラウンジへ行き、堀江文四郎さんが山田牧場から撮影した北アルプスのパノラマ写真1組2双2面を見に行き、山名の記録と地図での確認を行い記録した。それを文末に記載した。
 満山荘を10時に辞した。予定では国道 143 号線 (松本街道) を西に進み、松本から安曇野へ北進し、この前と同じく池田町にある「安曇野翁」へ行くことにする。ここは二八ながら妥協のない美味しさには定評があり、家内もここは OK だった。ところで前回は国道から折れて麻績 (おみ) IC へ出る予定だったが、分岐を見逃して直進し、青木峠を越えて松本に出た。この日はこのルートを通る予定だったが、この日は松本へは麻績村を経由して下さいとの表示、仕方なく県道 12 号線を北上して修那羅峠を越えることに。この道はこの前に通ろうとした道だ。山越えしてから国道 403 号線、国道 19 号線を経由して安曇野へ、更に県道 19 号線を北上し、標識を右折して小高い山を上がると程なく「安曇野翁」に着く。時間は11 時半、この時間に客は1組だけだった。窓側のテーブルに座る。この前に来た時には開店20年とのことだったから、今年は22年ということになる。晴れていると常念や後立山の山並みがきれいなのだが、生憎の曇り空、店内には晴れたときの写真が飾ってあるが、迫力が違う。私は鴨せいろ、家内はざるそば、二八だが絶品だ。程なく6組がご入来、店の雰囲気も明るくて気持ちがいい。親父さんに挨拶して辞した。
 国道 148 号線 (糸魚川街道) の道の駅「白馬」で小憩し、ここで運転を家内と交代、帰宅したのは午後3時、走行キロ数は585 km だった。

〔付〕堀江文四郎さん総合制作のパノラマ写真2面  (1面の大きさは 180cm × 40cm × 2双)
「山田牧場 (1550m) よりの日本アルプス連峰 (北ア) の全山の霊峰 80km」の山名の表記
 左(南)より右(北)へ、番号 (便宜上) と山名・地名と標高 (m)
(1) 前穂高岳 (3090)、 (2) 奥穂高岳 (3190)、 (3) 常念岳 (2857) 、(4) 涸沢岳 (3110)、(5) 北穂高岳 (3106)、
(6) 横通岳 (2767)、(7) 東天井岳 (2814)、(8) 槍ヶ岳 (3180)、(9) 有明山 (2286)、(10) 大天井岳 (2922)、
(11) 燕岳 (2763)、(12) 三俣蓮華岳 (2841)、(13) 鷲羽岳 (2974)、(14) 餓鬼岳 (2647)、(15) 野口五郎岳 (2927)、(16) 三ツ岳 (2845)、(17) 烏帽子岳 (2628)、(18) 南沢岳 (2625)、(19) 不動岳 (2601)、(20) 舩窪岳
(2459)、(21) 北葛岳 (2551)、(22) 蓮華岳 (2799)、(23) 針ノ木岳 (2821)、(24) 赤沢岳 (2678)、(25) 鳴沢岳
(2641)、(26) 岩小屋沢岳 (2630)、(27) 爺ヶ岳 (2670)、(28) 立山雄山 (3003)、(29) 立山大汝山 (3015)、
(30) 立山別山 (2880)、(31) 善光寺平 (長野市街)、(32) 鹿島槍ヶ岳 (2889)、(33) 劔岳 (2999)、(34) 五龍岳
(2814)、(35) 遠見尾根、(36) 唐松岳 (2696)、(37) 白馬八方尾根、(38) 不帰ノ險、(39) 天狗の大下り、
(40) 天狗ノ頭 (2812)、(41) 白馬鑓ヶ岳 (2903)、(42) 白馬杓子岳 (2812)、(43) 白馬大雪渓、(44) 白馬岳
(2932)、(45) 小蓮華山 (2769)、(46) 白馬乗鞍岳 (2469)、(47) 飯縄山 (1917)、(48) 戸隠山 (1904),
(49) 高妻山 (2353)、(50) 黒姫山 (2053)。
 

2018年7月24日火曜日

沓掛温泉「満山荘」(その2)

 上田の街を出て松本街道 (国道 143 号線) を西へ、青木村役場の交差点を左折し、県道 12 号線を南下すると、左に沓掛温泉が見えてくる。IC から約 30 分で着くとある。時間は午後3時近く、チェックインは午後3時と思い暫く待っていると、どうぞと主人が言う。2年ぶりだ。今日は私達1組のみとか、初めての経験だ。記帳して部屋に案内される。部屋は2階の 303 号室、愛称は大天井、トイレ付きのゆったりとした部屋だ。同じ並びには、トイレなしの 301 号室 (薬師) と 302 号室 (烏帽子) がある。愛称はすべて日本アルプスの山の名である。この宿には和室が 13 あり、トイレ付き6、トイレなし7で、定員は 30 名とのことだ。
 今日は私達1組だけなので、お風呂の入り口には男湯と女湯の標示がしてありますが、どちらでもお好きなようにお入り下さいとか。私達は初めに、新装なった男湯表示の内湯と野天風呂に入ることにした。内湯は 40 ℃前後に、外湯は 36 ℃前後に調整されていて、両方とも源泉かけ流しである。外の野天風呂は新しく設えたもので、明るく林の中の佇まい、森林浴を兼ねた快適な浴槽だった。外にはねむの木が数本あり、桃色の花が満開、眼下には青木の里が見えている。体温前後の湯加減とあって、正に案内状とおりだった。
 夕食は午後6時半、それまで大相撲の名古屋場所の取組みを見て時間を過ごす。長野県出身の御嶽海は全勝、大変な人気だ。石川県出身の遠藤は勝ち、輝は負けた。夕食の時間になり、地下1階の食事処の Food 風土へ行く。食事は私達だけ。テーブルには既に食前酒や前菜、スープや牛乳豆腐が置かれている。主人が注文してあった地元の赤ワインを開けてくれる。外はまだ明るい。外の庭に子猫が3匹と母猫、子猫ははしゃいで跳び回ったり、乳をねだったり、前の満山荘のテラスにはよく狸の番いが現れていたが、中々ユーモラスだったことを思い出す。ここの料理は正に独創的で和洋折衷、でもどちらかというと洋風で、その献立は毎日書いて客に示しておいでだ。料理は奥さんの明子さんが担当、献立表の筆書きは旦那の担当のようだ。食べる前には旦那から料理の説明がある。これは嬉しい。凡そ1時間ばかりかけて食事を済ます。昼の蕎麦がまだお腹に残っているような感じで、本当に満腹になった。献立は次のようだった。
 〔信州沓掛 夏の献立〕
「食前酒」 枸杞酒
「生湯葉」 クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」 塩糀 蕨ヤングリーフ シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」 ビーツとパプリカのソース オニオンバルサミユ酢醤油ジュレ
「牛乳豆富」 柚子味噌
「十六穀米スープ」 ドライベジタブル
「夏の天麩羅」 ステックブロッコリー 竹の子 まこも筍 万願寺甘唐 信州林檎 抹茶塩
「チーズの茶碗蒸し」 トマト ねぎ
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」 独活人参 ディル
「大岩魚春菊ジュノバ風」 長芋椎茸ミニキャロット ハチク・カシューナッツ味噌
            紫芋ソースパブリカパウダー
「野沢菜茶漬け」
「白桃ソルベ」 さくらんぼ マンゴーヨーグルトソース
  平成三十年七月十二日  料理 明子 印

沓掛温泉「満山荘」 信州青木村沓掛 その1

 長野県高山村奥山田の見晴らしの良い高台にあった「満山荘」をあるきっかけで知ったのは十年位前のこと、冬には訪れたことはないが、春から秋にかけてはほぼ毎年訪れた。話し好きでユニークな爺様の文四郎さんが居て、畳敷きのサロンでいつも随分楽しい話を聴かして貰った。爺様の名を堀江文四郎さんという。開業は昭和 39 年 (1964) とかで、当初はスキー宿として賑わったという。場所は志賀高原の笠ヶ岳の南麓で、標高は 1550 m、良質な雪質なこともあり、往時は 20 数軒のスキー宿があったという。その後文四郎さんは一念発起して組合を結成し、山麓を流れる松川、川沿いには、蕨、山田、五色、七味などの温泉があるが、そのさらに上流に泉源を掘り当て、500 m ポンプアップし、組合員の宿に給湯したという。その設備を見せてもらったことがあるが、その維持は大変だったという。
 文四郎さんは大変器用な方で、給湯の技術もさることながら、浴槽なんかも手作りで造られ、特に自製の露天風呂から見える日本アルプスのパノラマは実に素晴らしく、天気が良ければ北アルプスを南北80 km にわたって俯瞰でき、特に残雪期は素晴らしく、何度も満喫させて頂いた。正に「満山荘」の由縁ここにありである。また文四郎さんのカメラ技術は抜群で、超望遠で北アルプスの山々を撮影した写真もよく拝見させて頂いた。また雪形にも大変興味を持たれ、自らユニークな名も付けられていて、その数はかなり多く、毎日観察されていたからこそと感心したものだ。
 文四郎さんが亡くなられ、給湯が困難になり、現当主の方は奥山田を離れ、でも秘湯にはこだわり、たまたま廃業を予定されていた、長野県小県郡青木村沓掛にある「おもとや旅館」に移ることになった。この宿は元は「秘湯を守る会」の会員宿で、私が初に訪れたのは平成 28 年 (2016) のことである。「満山荘」の名はそのままに、夫神 (おがみ) 岳の西の麓の標高 600 m の山間にある沓掛温泉に移った。因みに東の麓には別所温泉がある。古くは平安の歌人も、この沓掛の地への思慕の念を詠っているという。パンフによれば、田山花袋はこの地を、「信州には著名な温泉が数多いが、沓掛温泉ほど四季とりどりの美しさに恵まれた処はほかに無い」と讃えているという。
 今年5月、満山荘から、新しく「野天の湯」を開湯しましたのでお寄り下さいとの案内の葉書が届いた。ここには2つの泉質 ( 34.7 ℃のアルカリ性単純温泉と、39.5 ℃のアルカリ性単純硫黄温泉)の温泉があり、前者は内湯と露天風呂、後者は内湯のみだったが、この度後者にも野天風呂を設えたとか、特に野天風呂は周囲の景色を眺めながらゆっくりとどれだけでも過ごして頂けますとあった。それで7月12 日 (木) に出かけることにした。
 7月 12 日の朝8時半に家を出る。白山 IC から北陸自動車道に入り、有磯海 SA で朝食、その後上越 JCT で上信越自動車道へ、妙香 SA で小憩後、上田菅平 IC で下りる。昼食はそば屋でということで、この前は「おお西」へ寄ったが家内の評判は今一、ではと刀屋へ寄ってみることに。8台駐車可能とか、まだ3台の余裕があり駐車する。ところで時間は午後1時過ぎだったが1階は満席、暫く外で待ち、案内があって中へ入る。この前に探蕎会で来た時は2階へ上がったが、今回は1階の空いた席に案内されて座る。ここのそばの量は、小・中・並・大盛の4段階、この前訪れた時に「大盛り」を注文された客がいて、その量を見たが、正にてんこ盛り、半端な量ではなかったのを思い出した。私は天ざる (並)、家内は「もり」の小を、喉が渇いていたのでノンアルコールで喉を潤した。1階には 48 席あるというがほぼ満席。そして漸く「そば」は来たが、汁が来ず何ともバタバタした気分、また天ぷらは実に大振り、そばは二八の中太、家内は全部を食べず、私が尻拭いすることに。家内は美味くないという。それにしても次から次へと客が絶えないのには驚いた。でも少なくとも家内とはもう此処へ立ち寄ることはないだろう。

2018年7月2日月曜日

「やまぎし」は来年からは週3日に

 白山市左礫町 (旧石川郡鳥越村) にある蕎麦店の「蕎麦やまぎし」は、20 年間も空き家になっていた田舎の民家 (築 75 年の店主の山岸さんの実家) を、山岸さんが自力で改装し、平成 28 年 (2016) にオープンした田舎のそば屋である。それまでは金沢駅近くのビルの一角で開業され、8年間営業されていた。山岸さんは蕎麦打ちは全くの独学、だからか初めっから十割に拘り、2年間試行錯誤され、そして開店にまでこぎつけられた。開店されるまでの間、よく試作品を頂戴し、感想を求められた。開店後は、特に野趣あふれる極太の十割そばの「田舎粗挽き」が予想外の人気を集め、店が金沢駅の近くにあったこともあって、新幹線を利用する観光客もかなり多かった。そして有名な蕎麦通の方の紹介もあり、十人程度しか入れない小さな店だったにもかかわらず大変繁盛していた。しかし突然に、弟さんの故郷創成  (村おこし) に共鳴され、実家でそば屋を再開することにしたと聞いた時には本当に驚いた。そしてその山奥での開店の時に招かれて訪れたが、果たしてこんな過疎の山奥にお客が来るのだろうかと訝ったものだが、その後それは杞憂に終わったことを知った。そして今は 40 人は優に入れるスペースに広げられたが、それが一杯になることがあるというから驚きだ。「蕎麦やまぎし」はいつもは山岸さん夫婦と山岸さんの実妹さんの3人での対応、水曜日と木曜日は定休日だが、山岸さん以外のお二人は、週5日は住まいから通っておいでだ。オーバーワークにならないか心配である。
 「蕎麦やまぎし」は山奥にあることもあって、1月と2月は冬季休業、3月から平常営業とのこと、でも今年は予想を超える大雪とて開業の延期かと思いきや、2日金曜日には再開されたという。心配で電話したところ、やっていますとのことで出かけたのが開店1週後の9日金曜日、昨日やっと窓から外が見えるようになりましたと話されていた。でも今冬は予想外の大雪、平地でも閉口したのに、山では想像を絶する積雪、除雪機では全く歯がたたず、参りましたと話されていた。それで 11 日には睡眠もままならなくなり、体重も異常に増加し、それで病院へ、以降3月一杯入院加療されたという。4月になり、3日はまだ休業していると思ったが、花見と洒落込んで左礫まで出かけたところ、予想に違い開業されていた。あの時ダウンしたのは過労からだったと話されていた。それもあってか、4月からは営業を3時締めから2時締めに繰り上げたと話されていた。
 私と家内は「蕎麦やまぎし」へは月に1回は出かけている。ところで4月 17 日に出かけたところ、電話でシタカさんという方からの予約の電話を受けられていた。家内はあの「敬蔵」さんではと訝っていたが、正に予感は的中した。開店時間になって、志鷹さんが奥さんと奥さんの母御さんと御入来になった。休みには時折他店へ出かけられると話されていたが、よもや此処でご対面するとは。奥さんと家内とは従姉妹同士で、以前は近くで親戚筋なこともあり、よく出かけたが、今では年に数回、今年はまだ二度しか出かけていない。敬蔵さんも十割だが、そばの質はまるで違うし、敬蔵さんはそばもさることながら、付き出しにもえらく凝っておいでで酒肴にはこと欠かないが、「蕎麦やまぎし」では天ぷらのみ、それも田舎の野菜天のみだ。その後まだ「敬蔵」さんからは「蕎麦やまぎし」の印象は聞いていない。その後5月は 11 日に、6月は末日に出かけたが、30 日に、店内に「営業日の縮小について」という張り紙とチラシを目にした。それで山岸さんに、これは今年からですかと訊くと、書いてある通り、来年の3月からですと言われた。文面は次の通りだった。
 「来年三月から、営業日を毎週金・土・日の三日とさせて頂きます。御迷惑をかけますが、どうかよろしくお願いいたします。店主 拝」。まあ今年の大雪でのご苦労で体調を崩され入院されたことを顧みると、やむを得ない処置なのかなあと思う。そして「料理お品書き」も新たになっていた。「そば」は全て十割、白(殻を取って挽く)、田舎(殻を取らずに挽く)、田舎粗挽(割箸風)のほかに、礫打ち  (幅広く切る)の白と田舎 が載っていた。これまであった「釜揚げ」はなくなっていた。その他の品の、天ぷら、礫焼き、そばがき、福礫 と、飲み物 (日本酒、ビール、焼酎、ノンアルコール、コーヒー、ジュース ) は従来と同じのようだ。 私たちが6月に寄ったのは土曜日、土曜は比較的ヒマと話されていた。

2018年6月27日水曜日

ルドヴィード・カンタさん

 標記のカンタさんの名前を知っている方は、石川県在住で音楽好きの方か、余程の音楽通の方だと思う。昭和 63 年 (1988) に世界的にも有名な岩城宏之さんが奔走されて、石川県と金沢市の協力により、多くの外国人を含むプロ室内オーケストラのオーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) が結成されたが、カンタさんはその室内オーケストラの首席チェロ奏者を平成2年 (1990) から平成 30 年 (2018) まで 28 年間勤められた。ところで OEK では創立時から定年制が敷かれていて、60 歳になった次年の3月末日で退団することが決められているという。過去にこの定年制を廃止してはということが論じられたこともあるが、新陳代謝を促すこともあってか、この制度は今も存続されている。そしてカンタさんの金沢での最後の公演は、平成 30 年3月 17 日に石川県立音楽堂コンサートホールで行われた第 401 回定期公演で、そして東京での公演は3月 19 日にサントリーホールで行われた第 34 回東京定期公演だった。
 私は 17 日の定期公演を聴いたが、この日の指揮は OEK の音楽監督の井上道義さん、くすしくもこの方もこの公演を最後に OEK を退団されることになっていた。公演が終わって井上さん自身の口からそのことを話された時は、一瞬会場が静寂になり、その後これまでの献身的な取組みに対しての感謝をこめた会場を揺るがす万雷の大拍手が起きた。岩城さんが亡くなられた後、乞われて京都市交響楽団音楽監督から OEK の音楽監督に就任された時の様子がまざまざと思い出された。大変ユニークな方だった。
 この日の公演が終わった後、音楽監督の井上道義さん、首席チェロ奏者のルドヴィード・カンタさん、首席コントラバス奏者のマルガリータ・カルチェヴァさんに、花束が贈呈された。今後のことは御三方とも何もお話にならなかったけれど、比較的在籍年数が浅かったカルチェヴァさんはともかく (子育てに専念とか)、永年にわたって OEK に献身的な役割をされてきた井上さんとカンタさんには何か称号でも上げられないものかと思ったものだ。これについては皆さんも同じ思いだったろう。これについては後日、2018 年5月1日発行の公益財団法人「石川県音楽文化振興事業団」からの案内では、井上さんは 0EK の「桂冠指揮者」に、ルドヴィード・カンタさんは OEK の「名誉楽団員」に推挙されたとあった。良かった。
 さてカンタさんが OEK に入団されたのは設立2年目の昭和 63 年 (1988) 、設立時のメンバーが、指揮者の岩城さんがプログラムの合間にポピュラーな曲を挟まれたことが発端となって、弦のメンバーの一部が脱会し、それで OEK の弦のメンバーが不足してしまい、補充するため団員の募集を世界に発信したことがある。この募集を知って、当時カンタさんはスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団の首席チェロ奏者だったににもかかわらず応募され、採用になったという経緯がある。当時 33 歳だったという。スロヴァキアフィルは2年間彼が帰るのを期待して席を空けて待っていてくれたというが、カンタさんは岩城さんに凄い魅力を感じ、爾来 28 年間 OEK で首席チェロ奏者を務め上げることになる。
 OEK での最後の演奏会で、カンタさんが OEK に来る前に8年間在籍していたスロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団が来日すること、また金沢での公演ではソリストとしてカンタさんが共演されることを知り、早速チケットを求めた。公演日は6月 23 日、場所は石川県立音楽堂コンサートホール、パンフレットには、指揮は現代チェコを代表する指揮者のレオシュ・スワロフスキー氏、チェロはスロヴァキアを代表するチェリストのルドヴィード・カンタ氏がオーケストラと共演するとあった。そして新聞報道では、公演前日に駐日スロヴァキア特命全権大使のマリアン・トマーシク氏と大使夫人のアレクサンドラ・トマーシコヴァさんが、石川県庁で谷本正憲知事と、金沢市役所で山野之義市長と懇談し、これにはカンタさんも同行したと北國新聞の記事にあった。
 開演は午後5時、 1560 席はほぼ満席、初めにスメタナの連作交響詩「我が祖国」より「モルダウ」、この交響詩の中では最もよく演奏される馴染みの深い曲だ。言わば地元の十八番の曲、地元ボヘミアのヴルタヴァ川 (モルダウ川 ) が水源地から次第に大きな流れになっていくのを描写したこの曲は、さすが本場、美しいだけでなく、心が揺さぶられるような印象を受けた。次いでカンタさんがソリストを務めるドヴォルザークのチェロ協奏曲ロ短調 op. 104 、アメリカから帰っての正に絶頂期の一作、オーケストラと一体となっての素晴らしい演奏だった。終わって万雷の拍手、指揮者とカンタさんがしっかりと抱き合われていたのは実に印象的だった。28 年ぶりの出身楽団との息の合った共演、演奏後には感涙されていた。私の席は1階席の2列目の中央、実に感動的だった。カンタさんはアンコール曲にカザルス作曲のカタルーニャ民謡による「鳥の歌」を演奏された。20 分間の休憩の後、カンタさんもオーケストラの一員となり、これも飛び切り有名なドヴォルザークがアメリカ滞在中に作曲した交響曲第9番ホ短調 op. 95 「新世界より」、余りにも有名なこの曲、でもスロヴァキア人が演奏すると、何か特別な感情が移入されているようで、すごく印象的だった。これだけ感情の移入があったのは久しぶりだった。アンコールにはドヴォルザーク作曲のスラヴ舞曲第8番ト短調が演奏された。久しぶりに本当に充実した素晴らしい一時を過ごすことが出来た。

2018年6月12日火曜日

「決定版 石川県の名字」 森岡 浩著

 4月の下旬から5月の上旬にかけて、北國新聞の広告欄に、同社刊の表記図書の広告が頻繁に掲載された。興味があったので、早速いつも定期購読している本を配達してもらっている「うつのみや野々市上林店」に申し込んだ。通常新刊の図書ならば2, 3日で届くのに、この時は十日経っても届かず再注文しようかと思っていたところ、その翌日に届いた。広告を見て私が興味を持ったのは、著者の森岡さんは日本でも名だたる姓氏・名字の研究家であって、しかも石川県の名字の決定版とあったから、尚更読みたいと思った。ところで手に入るまでに日数を要したこともあり、ひょっとして新刊でないのではと思い奥付を見ると、平成 22 年 11 月 30 日 第1版第1刷 とあった。ならば先に購入している筈と、積んである本をかきわけると案の定出てきた。先に購入していたのに失念していたのは本当に迂闊だったが、ほぼ2日おきに広告が出たのに幻惑されて購入したのも不覚だった。でも奥付を見たのは、私の知人や向こう三軒両隣の家の名字が載っていないのに気付いてからだ。
 私はこの本は決定版と銘打っている以上、石川県の姓のほぼ全部を網羅しているのだと思ったものだ。それで索引の一覧を見て、私が住んでいる野々市市の市長の粟の名を探したが見当たらず、思いつくままに押田、黒保、黒山を見ても出ていなかった。また私の家の向こう三軒両隣では、木村、瀬戸、長谷川はあったが、高尾、茅納、馬道はなかった。すると単純にこの本に掲載されている姓のヒット数は3割、するとこの本に出ている数の3倍もの名字が石川県にあることになる。因みにこの本の索引に掲載されている名字数は 1,240 であった。
 これら名字を調査するのに最も手っ取り早いのは NTT から出されている 50 音別個人名の電話番号簿で、このデータベースを基にすれば、一部搭載していない世帯を除けば全体を把握できると思われる。そこでこの野々市市の電話番号簿の一部を調べて、この本に掲載されているのは実際ある名字の何割なのかを推測しようと試みた。
 ところで決定版と銘打ってはいるものの、序文では県内の名字をすべて網羅しようとしたわけでなく、ただ県内にある珍しい名字は極力蒐集したとあった。そしてこの作業は単に電話帳から拾ったのではなく、北國新聞出版局で裏付けされたものを記載したとあった。この本では、石川県の名字ランキングでは、ベスト 300 の名字、100 位までは全国でのランキング順位も付し、県内市町での件数と密度のトップ3を付してある。また 50 位まではそれに加えて、その名字のルーツと県に縁のある著名人、それに全国での件数と密度のトップ3の都道府県名が記されている。さらに県内 19 市町での分布率が石川県地図に5段階の濃淡で記されている。また石川県の珍しい名字の項には 583 の名字が記載されていて、その読み方とどの地区にあるのかが記されている。そして名字小事典の項では、由来等も含めた解説が
492 の名字について書かれている。
 先ずそこで取りあえず電話番号簿の野々市市のア行の名字の数との相同性について比較した。すると「本あり野々市あり」が 73 、「本あり野々市なし」が 156 、うち珍名を除くと 71 、「本なし野々市あり」が 261 となった。この結果からは、野々市市でのア行での名字数は本に記載された数の 2.3 倍はあることになる。
 次いで名字数の多いベストテンを本 (平成 22 年 11 月 30 日発行) から引用すると、
全国では、佐藤・鈴木・高橋・田中・渡辺・伊藤・山本・中村・小林・加藤 の順。
石川県では、山本・中村・田中・吉田・山田・林・中川・松本・山下・山崎 の順。
野々市町では、中村・山本・松本・吉田・田中・中川・山口・山田・林・山下 の順。
 ところで野々市町は人口が5万人を超えたこともあって、2011 年 11 月 11 日をもって野々市市となった。そこで現在 ( 2017.6.5 現在 ) の名字数を電話番号簿から抽出してみた。多い順に順位と名字と数を記してみた。 1位 中村 64、2位 山本 53、3位 吉田 44、4位 中川 38、5位 田中 37、6位 林、山田 35、8位 清水 34、9位 松本 31、10位 南 30、11位 北村、清水  29、13位 山下 28、14位 高橋、西村 27、16位 小林 26、17位 村田 25、18位 北川、中野、藤田  24、21位 加藤 23、22位 池田、中島、西川、山崎  22、26位 中田 20、27位 岡田、木村、村上 19、30位 井上、北、東、山口  18。  この順は概ね石川県と類似している。
 以上だが、何か取り留めないものになってしまった感がある。

2018年5月24日木曜日

雪解け時の豪壮な称名滝を訪ねる

 5月 15 日付けの朝日新聞の北陸見聞録という企画欄に、「落差日本一  迫力に圧倒」という見出しで称名滝 (富山・立山町) が紹介されていた。この滝は国の名勝・天然記念物に指定されていて、落差約 350 m は日本一を誇っているとある。しかも今は雪解け時で水量も多く、この時期と大雨の翌日にしか見られないという、落差では称名滝を上回るハンノキ滝も見られると記事にあった。そして一文の中に、「かつて浄土宗の開祖・法然上人が訪れられた際、滝の轟音が南無阿弥陀仏と聞こえたことが、名前の由来という」とも。この北陸の地に法然上人が来られたとは初めて知ったが、真偽の程はともかく、私の家が浄土宗なこともあり、大変興味がそそられ、ふと滝を見たくなった。私は大日岳への往き帰りにはこの滝のすぐ傍を通るので、何回か春にも夏にも秋にも訪れているが、ここ暫くは行っていない。そんなこともあって家内を誘ったところ、じゃ行こうかということになった。
 もう午前 10 時を過ぎていたが、早速身支度をして出かける。天候は晴れ、申し分ない。白山 IC から北陸自動車道を立山 IC まで往き、下りて立山道路を南下する。横江辺りで常願寺川の右岸に出て、川沿いに東進する。右手の対岸に立山山麓スキー場が見え、程なく富山地方鉄道立山駅と広い駐車場、そして立山黒部アルペンルートの入口の立山ケーブルの駅も見えてくる。道路はここから支流の称名川の右岸に付けられた称名道路を進む。立山有料道路との分岐を過ぎ、さらに上流へと向かうとゲートがあり、やがて称名平駐車場に達する。ゲートには駐車料 200 円とあったが、この日はフリーだった。ただ開門時間は午後7時〜午後6時とあった。
 車を下りて右岸を滝の傍まで続く舗装された遊歩道を歩く。滝見台まで約 1.2 km、高低差は約 100 mばかり。少し汗ばむ位の暑さ、対岸の称名川左岸には、美女平まで突き上げる高さ約 500 m もの黒っぽい断崖の「悪城の壁」が連なっている。道端にはニリンソウが咲き乱れている。ここは標高 1000 m ばかり、ほかにはキケマンも咲いていた。舗装路の坂道は歩き辛い。行く手にはまだ称名滝は見えないが、その右手にある落差は 500 m と称名滝よりも落差のあるハンノキ滝とその右手に五月雨のようなソーメン滝が見えている。この二つの滝は雪解けのこの時期と大雨の翌日などにしか見られず、かたや称名滝は年中見られ、水量も多い。道端にはまだ雪が残っている箇所もある。
 30分近く歩き、展望台 (観瀑台) へと称名川を渡ると、左手に称名滝の全貌が見えてくる。この時季の水量はべらぼうに多く、水は轟音を発して滝壺に落ち込んでいる。表示板の説明に拠ると、第1段は 40 m、第2段は 58 m、第3段は 96 m、第4段は 126 m、これが連続して一条の滝となり、最上部の渓流落差 30 m を含め、全落差は 350 m だという。また滝壺は直径約 60 m、水深 6 m とかである。流れ落ちる水量は毎秒 0.5 t 〜 2 t だが、融雪期や豪雨時には毎秒 100 t にも達するとある。水音は凄い。この融雪の時期、水量はかなり多く圧倒される。展望台から滝まで約 100 m 、飛沫がミストとなって飛び散っている。歩いていると暑かったのに、ここでは谷にまだ残雪があり、肌寒ささえ感じた。とにかく滝は豪壮で迫力がある。昭和 48 年に「国指定名勝天然記念物」に、平成2年には「日本の滝 100 選」に選定されたとあった。今の時期は、左側の称名滝と右側のハンノキ滝とは V 字形になって見え、流れ落ちる水は同じ滝壺に落ち込んでいる。30 分ばかりいて展望台から離れた。谷を渡る手前の左岸に「八郎坂」という石碑があった。古くは立山登山するには、この坂を登って弥陀ヶ原へ出て弘法平から室堂平へと歩を進めたものだが、私は通ったことはない。でもこの時期はまだ残雪も多くて通行禁止になっていた。谷を渡り、称名平駐車場に戻る。帰り道でも多くの人達とすれ違った。
 午後1時近くになり、「レストハウス称名」で昼食をとった。店内は 120 席ばかりあるというが、入っている人は少なく、車で来た大部分の人は昼食持参なのだろうか。滝の付近でもそんな人達を見かけたが、これでは商売になるのだろうかと心配になった。私達はラーメンを注文した。モニターでは立山の紹介をしていて、それを見ているだけでも勉強になるし、楽しい。ラーメンはイカ墨が入っているのか、汁は黒かった。味はまずまず。その後何組か入って来たが、氷水やソフトクリームを注文する人が多かった。それにしてももう少し利用してあげねばと思った。辞して帰路についた。
〔閑話休題〕 帰路の高速道路の不動寺 PA 近くで追い越しをした際に、富山県警の覆面パトカーから速度違反の通告を受けた。この石川と富山の県境区間は最高速度 80 km なのだが、私の車は 104 km 出ていた。この先 200 m 過ぎると制限速度は解除になりますから、そこからは 100 km 走行して下さいと言われた。

2018年5月13日日曜日

続・いしかわ・金沢「風と緑の楽都音楽祭」

(承前)
2.ウラディミール・アシュケナージ指揮/辻井伸行ピアノ/アンサンブル金沢
 アシュケナージと OEK のコンビの演奏はこれまでもかなりあり、私も何回か聴いている。今度も3公演あり、うち2公演は辻井伸行との共演が組まれていて、1日目と2日目にあり、私が聴いたのは2日目の公演である。このコンビは国内ばかりでなく、海外でも組まれていて、二人はその仕草を観ていると、親子のような雰囲気がある。今回このコンビでの2公演は最も人気があり、最も早くに完売になったと報道され、人気の凄さが感じられた。今回は初日にモーツアルトのピアノ協奏曲第 21 番ハ長調、2日目に同 26 番ニ長調「戴冠式」が演奏された。私が聴いたのは後者である。この日の私の席は3列 11 番、ピアニストの運指がしっかり見られる好位置だった。これまでこんな席に座って聴いたことはなく、実にラッキーだった。演奏時間は 30 分前後、私の素朴な疑問は、彼は全盲であるからして、最初の鍵盤へのタッチはどうするのかだった。一旦演奏が始まれば手と音の感覚で続けられるだろうけれど、最初はどう対処するのだろうか。するとピアノの演奏が始まる少し前に、彼はピアノの右端から大きく広げた右手で2度ばかり距離を測り、その後細かい修正で最初の1音を叩いていた。当てずっぽうではない緻密さを感じた。演奏が終わった後は正に万雷の拍手が続いたことは言うまでもない。そしてこの各公演は1時間きっかりで、次の公演までの時間が 30 分ということもあって、例えスタンディング・オベーションが起きてもアンコール演奏はしないのだが、応えて彼は私が聴いたことがないピアノソロを弾いた。翌日係員の方に訊ねると、カプースチンの練習曲とのことだった。
 一方アシュケナージ指揮による OEK の演奏は3回あり、初日に2回、私が聴いたのは3回目となった辻井伸行との協演に先立って演奏された交響曲第 36 番ハ長調「リンツ」である。4日で書かれたというこの曲、息の合った演奏は優雅さに満ちていた。
3.アグニエシュカ・ドウチマル指揮/アマデウス室内オーケストラ
 名前はよく聞くが、直接聴いたには初めてである。創設者で音楽監督のこの指揮者は女性で、小柄だが精力的、独特なオーラを発する人だ。少人数ながら、その演奏は世界中で公演されているだけあって、洗練されている。曲は初めにモーツアルトが 1772 年、16 歳で作曲したザルツブルグ・シンフォニーといわれるディヴェルティメント3曲の2番目の作品、今回の公演では3曲とも演奏された。10 分ばかりの短い曲だが、演奏は簡潔でリズム感があり感動した。次いで 19 歳の時に書いたヴァイオリン協奏曲第3番ト長調、ソリストは韓国生まれのシン・ヒョンス、美貌の持ち主、彼女の演奏には初めて接したが、素晴らしい演奏だった。そして最後はポーランド出身のキラールが作曲した「オラヴァ」という弦楽オーケストラのための作品、楽器を違えての簡潔なリズムの反復、ラヴェルのボレロを彷彿とさせる作品だが、優雅さより力強さと素朴さを、そして野趣みのある反復はアフリカの音楽を彷彿とさせた。そしてアンコールでは同じような曲名不詳の曲が終始ピチカートで演奏され、これも度肝を抜くアフリカを思わせる曲、凄い反響だった。
4.リッカルド・ミナーシ指揮/ザルツブルグ・モーツアルテウム管弦楽団
 管弦楽団は 1841 年創設とか、海外公演も多く、ザルツブルグ音楽祭の主役でもある。指揮者のリッカルド・ミナーシはこの楽団の首席指揮者であり、直に演奏を聴いたのは今回が初めてで、今回の音楽祭の最大の目玉だった。6公演あり、私は3回聴いた。ピアニストとしての共演者は、モーツアルト作曲のピアノ協奏曲第 20 番ニ短調をモナ・飛鳥と、同じく第 22 番変ホ長調を菊池洋子と、そして第 24 番ハ短調を田島睦子が行った。共演者の田島は地元だが、後の二人は国内外で活躍していて、モナ・飛鳥さんの演奏は初聴であった。オーケストラ演奏は、セレナード第 13 番ト長調「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」と交響曲第 38 番ニ長調「プラハ」、本場の味を味わえた。
5.ヘンリク・シェーファー指揮/オーケストラ・アンサンブル金沢
 OEKには現在正指揮者は不在で、この音楽祭では、アシュケナージ、天沼裕子、シェーファーが振った。曲目はシューベルトの交響曲第7番ロ短調「未完成」、この曲は2楽章のみなのに、終わって拍手したのは私のみ、暫くして指揮者が客席に向き直って初めて万雷の拍手となった。交響曲は4楽章と暗に認識されていたからだろうと思う。

いしかわ・金沢「風と緑の楽都音楽祭」

 オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の前音楽監督の井上道義氏が、10年前に、5月の3〜5日をメインに、通常の定期演奏会のほかに、金沢をメイン会場とする「ラ・フォル・ジュルネ金沢」なる音楽祭を、フランスでの金沢市の姉妹都市のナンシー市と提携して発足させた。毎年テーマを設定して、内外の多くのアーティストを呼び、田舎の都市としてはかなり反響を呼んだ催しとなった。しかしエージェントとの契約が一昨年終わったこともあって、独自の企画で音楽祭を継続しようという機運が高まり、昨年に表題の新生音楽祭が誕生した。一昨年まで9回続いた「ラ・フォル・ジュルネ金沢」は主に井上前音楽監督がリーダーとなって牽引してきたが、これからは独自で新生音楽祭を企画しようということになり、昨年から発足した。このような意見の相違もあってか、昨年の音楽祭には井上音楽監督は一切棒を振らなかったし、これが誘因だったかどうかは分からないが、彼は今年3月には OEK を去った。
 さて昨年はベートーベンを特集して、交響曲全9曲を演奏するなど、全 178 公演が挙行されたが、第2回となる今年は、モーツアルトをメインテーマに 177 公演が企画された。発表によると、来場者数は 112,960 人で、昨年の 111,840 人を上回ったとのことだった。会場は石川県立音楽堂のコンサートホール (1560 席)、邦楽ホール (720 席)、交流ホール、金沢市アートホール (304 席)、北國新聞赤羽ホール (504 席)をメインに開催され、オーケストラ8団体、指揮者9人、演奏者 50 人、その他8人が招聘された。
 この音楽祭の各有料公演には入場券を求める必要があるが、0EK の会員には予め公演の2ヵ月前に先行予約の特権があり、予約できるシステムになっている。しかしこの予約では座席を指定することは出来ず、自動抽選となる。だからもし席を選ぶのであれば、先行予約後の残り席の中から、一般発売後に指定して購入する必要がある。私は1日3公演、3日で9公演を先行予約した。
 私が聴いた公演は次のようであった。オーケストラと指揮者は、ザルツブルグ・モーツアルテウム管弦楽団 (リッカルド・ミナーシ指揮 ) の3公演、アマデウス室内オーケストラ (創設者のアグニエシュカ・ドウチマル指揮) 1公演、紀尾井ホール室内管弦楽団 (広上淳一指揮)2公演、オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK)(ウラディミール・アシュケナージ、ヘンリク・シェーファー、ライナー・キュッヒルが指揮)が3公演の計9公演。演奏者は、ヴァイオリンは、ライナー・キュッヒル2公演、シン・ヒョンス1公演、坂口晶優 (地元金沢辰巳丘高校講師)1公演、ハープ (吉野直子) とフルート (高木優子) のデュオ1公演、ピアノはペーター・レーゼル1公演、モナ・飛鳥 1公演、辻井伸行 1公演、菊池洋子 1公演、田島睦子 (石川出身) 1公演、声楽は山口安紀子、鳥木弥生 (石川出身)と高橋洋介とでの1公演である。
 以下に私が聴いた公演で印象深かったものを記してみる。
1.ライナー・キュッヒル弾き振りの2公演
 この人はウィーン・フィルのコンサートマスターを 45 年も勤めた大御所、OEK とも何回か共演しており、私も聴いたことがある。とにかくヴァイオリンでのリードもさることながら、その音の色調や力強さと繊細さは抜きん出ていて、モーツアルト作曲のヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」では、OEK がバックアップして素晴らしい雰囲気を醸し出していた。正に乾坤一擲の演奏だった。またOEK の弦楽アンサンブルとの共演では、モーツアルトの弦楽四重奏ともいえる3曲のディベルティメントの中では最も有名なニ長調が演奏されたが、その音色は実に際立って光っていた。次いで弦楽四重奏用に編曲された「アダージョとフーガ  ハ短調」が演奏された。次にモーツアルトを離れて、レハールの「メリー・ウィドウ」より「行こうマキシムへ」と有名な「ヴィリアの唄」、そしてシュトラウス2世の「南国のバラ」と「美しく青きドナウ」が演奏されたが、よく敷衍されて誰でも知っている曲だが、キュッヒルのリードで、管弦楽での演奏とは一味違った新鮮味が感じられ、聴衆を魅了した。

2018年5月7日月曜日

トロッコ電車での新緑の黒部峡谷

 横浜に住む長男が4月28日に帰郷して5月5日まで滞在した。帰郷した折の常として、1日は何処かへ出かけるのが常態化している。それで今年は「のとじま水族館」が大水槽をリニューアルしたとかで出かけようかと算段していたが、本人は黒部峡谷へ行きたいということで出かけることにした。行けるのは5月1日のみとか、私も万障繰り合わせて同行することにした。天気は上々、翌2日からは天気は下り坂という。
 家を朝7時に出た。白山 IC で北陸自動車道に入り、有磯海 SA で食事し、その後黒部 IC で下り、県道を宇奈月温泉へ向かう。天気は晴れ、暖かい日射しが注ぐ絶好の行楽日和だ。街に入り、富山地方鉄道の宇奈月温泉駅を過ぎると、黒部峡谷鉄道の宇奈月駅が見えてくる。係員の指示に従い、駅前近くの有料駐車場に車を停める。乗用車の利用料金は 900 円、約 350 台停められるという。駅で切符を求めると、今日は鐘釣までしか行かないとか、料金は 1,410 円、終点の欅平までは5月5日に開業の予定とか、やむを得まい。それにしても駅構内にはマスコットキャラクターの2体はともかく、正装した面々が大勢いて、聞けば今日は開通を祝ってのセレモニーが駅ホームで行われるとか。来賓の中には、富山出身の女優の室生滋さんも居て出席されるという。鉄道は4月20日に宇奈月〜笹平間が開通してはいたが、晴れのセレモニーとしては5月1日が相応しいのだろう。
 10時10分頃にセレモニー出席者が会場の駅ホームへと移動、その後暫くして改札が始まった。黒部峡谷鉄道会社の社長と宇奈月駅の駅長、続いて地元宇奈月温泉観光協会の会長、来賓の黒部市の市長らが挨拶、最後に室井滋さんの挨拶があり、セレモニーは終了した。沢山の観光客もこの珍しくも出くわしたセレモニーに聴き入っていた。
 出発は 10:44 、私達が乗った客車は有蓋でオープン型の普通客車、1〜7号車があり、私達が乗ったのは7号車、ほかに通常の客車タイプのリラックス客車 (窓付き) が6輛連結されている。天気が良くて
峡谷を満喫するにはトロッコタイプの通常客車が相応しいと思う。後での説明で分かったことだが、牽引する電気機関車は ED 型2輛、1台で客車7輛を引くことができるとかで、機関車2輛での重連だった。今日の終点の鐘釣までは約1時間、私にとっては久しぶりの乗車だった。
 駅を出発して間もなく、この鉄道のシンボルにもなっている深紅の鉄橋の新山彦橋を渡る。乗っている客からよりも、旧鉄橋の山彦橋からの眺めが秀逸だ。山々は新緑一色、電車は橋を渡って黒部川右岸を進む。左手には平行して冬季歩道が見え隠れしている。そして眼下には黒部の流れ、電車は徐々に標高を上げ、柳橋、森石を通過して黒薙に至る。ここまで25分。この駅から20分歩いたところにある黒薙温泉はこの峡谷最古の温泉で、下流にある宇奈月温泉の源泉ともなっている。
 黒薙川に架かる後曵橋を渡り、再び本流右岸を進む。出し平ダムはコバルト色に染まって見え、対岸には新緑の出し六峯が見える。笹平、出平、猫又を過ぎ、本流に架かる鐘釣橋を渡ると鐘釣駅だ。ここまで約1時間の乗車、復路の電車出発まで45分間あり、駅周辺をブラつく。駅の山手には黒部川の氾濫を防ぎ、洪水から守るために安置されたという鐘釣三尊像が祀られている (片道1分)。またホームの上流側の階段を川に向かって下りると、黒部万年雪展望台があり、ここからは対岸の百貫山に積もった雪が百貫谷の谷筋に落ちて堆積し、夏でも溶けずに残る黒部万年雪を本流対岸に見ることができる展望台 (片道3分) がある。またここからは下流にある鐘釣美山荘と上流にある鐘釣温泉旅館を見渡せる。また更に上流には片道15分で本流の露天風呂のある河原に降り立つこともできる。時間が来て、私達はここから宇奈月に引き返した。往きにも帰りにも随所で案内があったが、アナウンスしていたのは室井さんとのことだった。5日には終点欅平まで全線開通するという。資料を見ると、標高は宇奈月 224m、鐘釣 443m、欅平 599m 、距離は宇奈月から鐘釣までが 14.3 km、欅平まで 20.1 km 、所要時間は終点までは約 80 分とある。
 振り返って、私がこのトロッコ電車を多用したのは約60年前、まだ大学生の頃、欅平から祖母谷温泉を経由しての白馬岳への登下行や、欅平から業務用エレベーターで 400 m 上り、更に高熱隧道を抜けて阿曽原温泉に至り、ここを拠点にして黒部川本流の下廊下を探訪したり、裏劔の遊んだことを思い出す。現在は阿曽原温泉へは山道を歩いてしか行けず、片道6時間を要する1日コースとなっている。当時はまだ黒部ダムはなく、上廊下入り口の平の渡しまで川筋を遡行することができた。また私達が便乗していたトロッコは関西電力の専用鉄道、無蓋で正にトロッコそのもの、安全保障のない営業形態だった。今は正に至れり尽くせり、隔世の感がある。現在は正に観光スポットそのものだ。

2018年4月5日木曜日

「やまぎし」営業時間短縮で再開

 「やまぎし」は1月と2月は冬季休業しますと年賀状にあったが、予定どおり3月には2日 (金) から再開していた。電話でやっていますと聞いて伺ったのが9日の金曜日、この日は主人の山岸さんとも談笑でき、美味しいそばを頂き満足した。ところでその一週後に出かけた家内の従姉妹からは、当分休業という張り紙が玄関に出してあったと言うではないか。それでその2日後に私も訪れそれを確認した。そこには当分の間とあった。
 4月3日、私の車のハイラックスサーフの定期点検でトヨタ野々市店を訪れた。勤務していた頃は最低1日12㌔は走っていたものだが、辞めてからは乗る頻度は少なくなり、それで前回の点検ではバッテリーを交換する羽目になり、担当の方からは、少なくとも1日8㌔は走って下さいと言われたが、なかなか実行できていない。今回も一応良好ですが、走っていないので容量が下がっていますので、これは走らないとカバーできませんから、ぜひ走って下さいと言われた。頃は丁度お花見時、今夕は見頃の兼六園へ花見にでもと家内と話していたが、車を少し走らせなさいと言われた手前、これも見頃の鶴来の樹木公園にでも行ってみようかと家内に話したところ、じゃ「やまぎし」のある左礫までドライブしようかと提案され行くことに。野々市からは片道30㌔、往復60㌔だ。
 出かけたのは10時過ぎ、はじめに古い御札を納めに白山さんへ寄る。ここまでの沿線にある桜は今が盛りの満開、山の中腹にも桜が、でもあれは自生の山桜ではなく、植栽されたソメイヨシノなのだろう。お参りした後、樹木公園の桜を左手に見ながら、鳥越大橋を渡って上流へ。谷間に広がる田圃では粗起こしも始まっている。旧鳥越村の役場があった別宮を過ぎて山間に入ると、道端や田圃にはまだ残雪が、この辺りではまだ早春の装いだ。そして左礫の「やまぎし」に着いた。すると車が3台、てっきりまだ休業中だとばかり思っていたのに、玄関の戸が開いているではないか。これには驚いてしまった。駐車場に車を停め、中へ入ると、元気な様子の山岸さんと奥さん、中には末の妹さんも、いつものフルメンバーだ。山岸さんはいつもの飄々とした感じ、奥さんもお元気な様子、あの当分の休業は何だったのだろうと訝った。ただ玄関の張り紙には、これまでは午前11時から午後3時までだったのに、営業時間は都合で午後2時までにしますとあった。
 問わず語りに話されたのは、あの想像を絶する大雪に孤軍奮闘され、その過労からきた心不全で私が入院する羽目になりましたと話された。私達平地でもあの大雪にはしっぺこいて往生したのに、あの山奥では想像に絶するものだったろう。それも山岸さん独りで、始めは除雪機が有効だったが、雪の量が多くなり、終いには人力のみ、これには本当に参ったと話されていた。私達が再開後にお寄りしたのは3月9日、あの日お会いした様子では何時もと変わらず飄々としておいでた感じだったが、でもその2日後には体重がいつもは59㌔なのに65㌔にまでになり、その上浮腫と不眠もあり、これは入院しなければと思い、当分の間休業しますという張り紙を出し、その後夜道を自分で運転されて白山市の松任石川中央病院へ行かれたという。誰しも救急車対応と考えられるのに、あの時間、あの山奥まで来て貰うには遠慮があったという。全く常人の仕業ではない。そして3週間入院され、3月末日に退院されたという。それで早速4月1日の日曜日から再開されたが、当分の間は体調のことも考え、営業時間を1
時間短縮したとのことだった。でも退院後初日の4月1日には40人を超す客があり、追い打ちをしなければならなかったと話されていたが、今後とも身体には十分気を配ってほしいと思わずにはいられなかった。
 山岸さんは、「木村さんが見えた2日後に入院し、退院して2日後に店に見えたのは、何か因縁めいていますね」と話された。無理なさらずに、健康に留意され、これからも美味しい蕎麦を提供していただきたいと心から願わずにはいられなかった。午後1時近くになって「やまぎし」を辞したが、店を出て間もなく、昼食は午後1時にこの「やまぎし」でと語っておいでる、当世マタギの H さんの車とすれ違った。

2018年3月28日水曜日

探蕎会の存続を巡っての会の結論

 昨年 (2017) 12月に行われた世話人会 ( 会長、事務局長、世話人8人中7人出席)で、前田事務局長から、会員の高齢化で行事の遂行が難しくなったので、会を解散してはどうかとの提案があった。振り返って、会の行事としての大きな柱は、丸岡の海道さんの好意に甘えて、春と秋に丸岡蕎麦道場にお邪魔したことであった。春は山菜、秋は新そばを堪能させて頂いたが、やがて秋のみとなり、それも海道さんの体調のこともあり、一昨年からは中止になった。またもう一つの柱だった塚野世話人が主宰されてきた湯涌みどりの里での会員そば打ちも、諸般の事情で平成30年からは実施されないことになった。また年2回、春と秋に実施してきた県外への蕎麦探蕎行も、以前はマイクロバスをチャーターして会員の方が運転して出かけていたが、運転する方の高齢化とも相まって、自家用車で出かけるようになり、すると人数も制限され、また回数も1回のことが多くなった。また会員に OEK (オーケストラアンサンブル金沢 ) の第2ヴァイオリン首席奏者の江原さんがおいでたこともあり毎年新春コンサートを開催してきたし、その後に企画された会員の方々による講話も大きな目玉だった。でもこれらの催しも平成30年の総会では行わないこととし、総会では世話人会で了承を得た「会の解散」を主たる議題として、会員の皆さんのご理解を得るべく努力することになった。私もこれら諸般の事情と、事務局にはこれまで行事の企画・立案・交渉・会員への案内・事業の遂行のほか、会報「探蕎」の原稿募集・レイアウト・印刷・校正・発行・発送など、すべておんぶにだっこで、随分と過重な負担をおかけしてきたこともあり、前田さんからの提案に異を唱えることは憚れた。
 さて、平成30年の探蕎会総会は、3月25日の日曜日、午前 11 時〜午後2時に、ANA ホリデイ・イン・金沢スカイ 10 階の「白山」で開催された。冒頭寺田会長から、会の大きな柱だった丸岡蕎麦道場への訪問と湯涌みどりの里での会員そば打ちが廃止になったこと、会員の高齢化に伴い県外への探蕎行も低調になったこと等もあって、世話人会では会を解散してはどうかと提案があったこと、それで今後の探蕎会の存続について、会員の皆さんから忌憚のない意見を出して頂きたいと挨拶があった。また続いて行われた前田事務局長からの平成29年の行事報告と決算報告の際にも、重ねてこの会を解散したい旨の発言があった。しかしここですぐその賛否を問うことは憚られ、会食が始まった後で、先ずは出席の方全員から「探蕎会の存続について」のご意見を伺いましょうということになった。この日の出席者は21名、うち世話人は9人だった。
 それで松川さんと私とで、会食の合間に出席者全員からご意見をお伺いした。世話人の方は経緯をよくご存じなこともあって、解散もやむを得ないとのことだったが、それ以外の方々は、この会には愛着があること、行事がなくなっても1年に一度は同窓会的な雰囲気でよいから集まったらどうかとの意見が多く、とてもここで採決をとることは憚れた。一方で多くの会員の方々からは、行事の折に「探蕎」への原稿書きを指名で依頼されるのが苦痛でトラウマだったとの声も聞かれた。それもあって寺田会長の閉会の挨拶では、探蕎会の存続については、年に一度は皆さんとお会いし、お酒でも酌み交わし、旧交を温めましょうという集まりの会にしませんかということになった。
 また今回の総会のパンフレットの中開きに、寺田会長が纏められた「探蕎会の足取り」が掲載されていた。平成10年から29年までの会の行事を俯瞰することができる素晴らしい資料で、これは出席した会員の皆さんにはすこぶる好評だった。以前に参加したことのある行事が何時だったのかが一目で分かるという代物で、出席した行事に思いを馳せ、思い出しては話題に花が咲いた。
 振り返って、我が師の波田野先生 (初代探蕎会会長、故人) から「蕎麦の会をつくりたいがどうかね」と電話を受けた時、それは素晴らしいことですねと返事したことを思い出す。先生は金沢大学を辞されて福井県衛生研究所へ赴任されて「蕎麦」に目覚められ、職務上出張で行かれた全国各地で蕎麦を食され、「無責任番付」なるものを作成されていた。そして辞されて間もなく5人の発起人と相まって「探蕎会」を発足させた。その後先生から入会のお誘いがあり入会した。振り返ってこの20年、発起人でもあった前田さんと塚野さんには大変ご尽力頂いた。心から感謝したい。それで会の機関誌「探蕎」も64号で最後となるようだ。

2018年3月22日木曜日

「やまぎし」は当分の間休業との知らせ

 「やまぎし」は1月と2月は冬季休業しますとあったが、今冬は大雪だったこともあって、3月に果たして開業できるかと訝っていたが、3月9日 (金) に電話したところ、3月2日からやっていますという山岸さんからの返事で早速出かけた。道路は完全に除雪されていますと言われたとおり、左礫までの道路は道端には半端でない雪の壁はあるものの、すいすいと店まで着けた。この日は山岸さんと末の妹さん (金沢市田上在住) の二人のみ、いつもは奥さん (金沢市大額在住) もお出でて3人体制なのだが、まだ始まったばかりでそんなに急がしくないからおいでないのだと思ったりしていた。そんな思い入れもあって、私は特段山岸さんには「今日は奥さんはおいでにならないのですか」とは訊かなかった。でも私がいつも御入来の H さんのお話を聞いていた間、家内は妹さんと談笑していたが、その会話の中で、奥さんは一寸身体の具合が良くないので今日はお休みと伺ったと家内から聞いた。それで私も家内もいつもお元気な奥さんのこと、今はインフルエンザも流行していることだし、それで大事をとっておいでるのだろうと思っていた。
 私達が「やまぎし」へ訪れた1週間後、家内の従姉妹から「やまぎし」へ行きたいと連絡が入った。行くルートや電話番号などのほか、食べるなら「黒」を頼みなさいとか、一つ手前の部落の渡津の「蛍の里」でとれた蛍米のおにぎりを賞味しなさいとか、天ぷらも美味しいとか、いろいろアドバイスをしていたようだ。行くのは翌土曜日の3月17日とかだった。当日従姉妹達はカーナビで左礫を目指したが、一つ手前の渡津でナビに不具合が起き、ここを左礫と思い違いし探したが見当たらず、家内の携帯に電話があったという。家内は一つ手前の部落ではないかと思い指示したらしいが、その後ナビが復旧して無事「やまぎし」に着けたようだった。ところが「やまぎし」の玄関に「当分の間休業します」という貼り紙がしてあったと連絡が入った。
 大きな紙に書いてあったというから、私はその文面に何か手掛かりになる理由でも書いてあるのではと思い、直接目で確かめたくなり、3日後の20日の火曜日に「やまぎし」へ向かった。前に行った時はまだ1m もの雪があったが、10日ばかりの間に随分と少なくなっていた。着いたのは正午過ぎ、玄関には次のような文言の紙が貼られていた。
「御案内/大変ご迷惑をお掛けしますが 当分の間 休業させて 頂きます/どうぞよろしくお願い致します/店主」
 これを見て、私も家内も、9日に寄った時に奥さんがおいでにならなかったこと、当分の間ということは、奥さんの看病をしなければならなくなったのではと思いを馳せた。お聞きする手だてはあるけれども、家内では当分はしない方が良いのではということで、それはしないことにした。
 午後1時近くになり、従姉妹達はこの前ここ「やまぎし」で蕎麦を食べられなかったので、出会 (旧鳥越村) にある道の駅「一向一揆の里」の食彩館「せせらぎ」で鳥越そばを食べたというのを思い出し、まだ一度も食べていないので寄ろうかと提案した。すると家内は道の駅「瀬女」にある「山猫」へ行こうという。昨年は4度ばかり訪れたが、いつも時間がお昼時ということもあって、1〜2時間待ちという盛況ぶり、今日なら平日でもあり何とかありつけるのではとの期待を込めて向かった。別宮から釜清水、木滑を経由して瀬戸へ、でも平日なのに道の駅には車が多い。「山猫」の前に車を停め、いざ店へ、でも閉まっていた。よく見ると、小さく火曜日と水曜日は定休日ですと書いてあった。
 家へ向かう道すがら、途中の吉野の「花川」は家内はパスをするというし、また鶴来の「草庵」は女将さんがいるかどうか分からないからとパス、とどのつまり新神田の「亀平」に落ち着いた。午後2時近かった。店は私達を入れて5組、繁盛している。私達はいつものように立山の冷酒に、つまみに「そばみそ」「てんぷら」「だしまきたまご」を、そして〆には「十割そば」を頂いた。営業時間の午後3時前に店を辞した。今日は大相撲春場所10日目、いつものようにお酒を飲みながら、テレビで鑑賞することに。「遠藤」や「輝」らの郷土力士の活躍に力が入る。
 どうか早く本復されて元気になられ、再び「やまぎし」でお会いしたいものだ。 

2018年3月14日水曜日

冬眠明けの「やまぎし」を訪ねる

 今年の山岸さんからの年賀状には、「1月と2月は冬眠休業します」とあった。奥深い山奥のこと、さもありなんと思ったものだ。しかし山岸さんの家がある左礫のさらに奥5km の阿手にあった鳥越大日スキー場には以前よく通ったものだが、雪道だったものの車で十分行けたものだ。とすれば、今はスキー場こそないものの、左礫の上流には阿手を含め3部落あることから、積雪期とは言え、少なくとも道路の除雪はされているのではと思う。でも冬眠というからには、1月2月は交通の便はやはり悪いのだろうと思ったりした。
 ところで今年は半世紀ぶりともいえる大雪に見舞われ、立春寒波の折には、金沢でも一時積雪は87 cm にもなり、街中の融雪装置がない道路では除雪もままならず大変だったようだ。そして幹線道路も大渋滞、鉄道も在来線は運休で大混乱、ここ数年は暖冬で気が緩んでいただけに本当に往生した。それにしても北陸新幹線は平常通り運転していたのは驚きだった。我が家でも除雪というか、車2台のスペースの確保に連日汗を流したものだ。庭にはその時の雪の名残がまだ残っているものの、その残雪も3月半ばには無くなるだろう。
 こんな大雪だったものだから、山はもっと大変だったろうし、「やまぎし」も休業は1月と2月だけと言われていたが、ひょっとしてまだ開業は無理なのではなかろうかと勝手に憶測したりしていた。定休日は水曜と木曜なので、3月の第2週の9日に、やっているとすれば営業しているはずの 11 時に、念のため電話してみた。すると3月2日からやっていますととのこと。道路には雪もなく、来られるのには全く心配はありませんとのこと、それではと早々に家内と訪れることにした。
 道路に雪はないとのことだったが、念のため私の四駆のハイラックスサーフで出かけることに。私が住む野々市周辺には全く雪はなく、でも鶴来辺りまで来ると、路肩には雪が残ったりしている。道が大日川に沿って上流へ向かうと、道路には雪がないものの、周辺にはまだ雪が残っていて、別宮を過ぎると残雪の量も次第に多くなり、左礫辺りでは道路にこそ雪はないが、道端の雪の壁は優に1m は超えて
いる。後で聞いたところでは、降雪時には午前1回、午後1回除雪車が入ったので、車の運転には支障がなかったとのことだった。でも枝道は除雪されていなくて、山岸さんのところも玄関先は除雪されていたものの、奥まった駐車場は1m余の雪で埋まったいた。家から1時間ばかり、12時半には「やまぎし」に着いた。車が2台停まっていた。
 この日は山岸さんと末の妹さんの二人、お客は3人、今日は焼酎 (財宝) がないのでお酒にして下さい
とのこと、手取川を2杯貰うことに。そばは家内は「黒」の普通盛り、私は「田舎粗挽き」の普通盛り、そして「天ぷら」を2人前、酒以外はいつものコースだ。この時期天ぷらの具材は少なく、ありきたりのかきあげだったが、これはこの時期致し方のないことだ。ところで今日の蕎麦は加賀市宮地の産とか、「やまぎし」では北海道産も扱うが、宮地の方が味も香りも良いとか、家内は久々に美味しいそばを味わったと感激していた。私はいつものように岩塩をまぶし、酒を飲んだ。至福の時間だ。先客が帰り、久々に山岸さんと談笑した。窓が雪で埋まっていたが、つい3日前にやっと窓から空が見えるようになったとか。でもまだ雪は深い。
 午後1時過ぎになり、これまでも何度かこの時間帯に出会ったことのある N さんが御入来になった。マタギまがいの彼氏は大概ここ「やまぎし」で昼食をとるのが常らしい。まだこの辺りは一面雪だが、1カ所だけ雪が早くなくなる場所があり、今日はそこでフキノトウを採ってきたという。そこのフキノトウは他所と違って苦みが少なくて上品な味がするとか。そして彼が注文したのは「黒」の大盛りに特大の「蛍米のおにぎり」と「天ぷら」、すごい健啖家だ。昨年母親を亡くしてからはフリーで、今は四季を通じて山に入り、山菜採りばかりでなく、時に猪も捌くという。山には送電線の巡視路や植林の作業路を利用しているという。また山歩きは鞍掛山をホームグランドにしているようだし、スキーも大変上手だとか。また左礫の裏手の大日川と手取川の分水嶺である白抜山から鷲走ヶ岳にかけての山はホームグランドのようなもので、よく入るという。さらに驚いたことに、クロダイがある時期ある時刻にある気水域に上がることを知っていて、獲りに行くとか。活き絞めの技術も持っているとか。いろいろ面白い話を伺った。この間、家内は末の妹さんと談笑していた。
 午後2時に「やまぎし」を辞して、初めて別宮から軽海を経由して家に帰った。

2018年2月27日火曜日

平成30年 (2018) 2月17日 (土)

 2月9日から17日間の予定で平昌冬季オリンピック大会が始まった。小生今はサンデー毎日の身、振返って17日間毎日テレビにかじりつき、オリンピックを楽しんだことになった。でもこの間50年ぶりともいう強烈な立春寒波に見舞われ、延べ8日間は老骨にむち打ち除雪に精を出さざるを得なかったりもした。家内もよく協力してくれた。これは一つには足としての車を動かせるようにするためで、家の前の奥行ある敷地内を除雪すれば、前の道路は融雪装置が完備しているので、その点は細い路地に面している家とは違って、格段に雪の恐怖は少なかった。それにしても久方ぶりの大雪にはシッペコイタ。
 ところで2月17日 (土) は、オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の第2ヴァイオリン首席奏者の江原千絵さんのヴァイオリン・リサイタルの日、お正月の年賀の挨拶にもお知らせがあり、ぜひ出かけねばと思っていた。彼女が金沢へ来られたのは OEK の設立間もない時、もう25年が経過している。そしてまだ来沢されて間もなくだったろうか、永坂先生の事務所で米田さんや前田さんらと団欒したこともあり、OEK の定期演奏会では4列23番という彼女とは指呼の間の席 (現在は10列10番) に陣取って演奏を聴いたものだ。というのも彼女の言では、ステージから聴衆を認識できるのはせいぜい8列までと聞いていたからだ。彼女は大学卒業後はハンガリーに留学し、コヴァーチ・デーネシュに師事した。一度師が金沢へ来られた折には、師とデュオでヴァイオリン・リサイタルを開かれたこともあった。バルトークやコダーイの曲だったろうか。そして今年のお正月の年賀を兼ねた案内には、師が最も得意としていた曲の一つのバルトークの無伴奏ヴァイオリンソナタと「44のソナタ」を弾きますとあった。そして最後の添え書きに、「オーケストラの室内楽のコンサートでは、誰でも知っている簡単な曲をとよくリクエストされますが、敢えて自主企画では『弾きたい曲だけ弾く』選曲にこだわった」とあった。
 さて私のスケジュール表には、金沢アートホール (304 席) でのリサイタルは午後2時半と記されていた。またこの日は泉丘高校同期有志の会の「湧泉会」が金沢ニューグランドホテルで開催されることになっていた。この例会は午前 11 時半から昼食を兼ねて午後3時半頃までダベルのが常なので、2時少し前に退出してリサイタルに向かう予定にしていた。ところでこの日は丁度オリンピック開催 10 日目で、羽生結弦の金メダルがかかったフィギュア男子のフリーの決勝の日、最も期待がかかっているだけに、私は先ずこれを最優先にすることにした。滑走順の予定時刻は午後1時43分、それで今一度入場券を確かめた。するとリサイタルの開演は午後3時、それで結果を確かめてから駆けつけることにした。結果は第1位、前回オリンピックに続いての2連覇、こんな快挙は66年ぶりという。見届けてから会場へと車を走らせた。開場の2時半前にはホールに着けた。会場へのエレベーターでは寺田先生に、ホール前では永坂先生、早川先生、前田さん、米田さん、松田さんほか探蕎会の方々とお会いした。私はその結果を皆さんに報告したものだ。ところで早川先生から片岡さんという青年を紹介された。という彼は私とは1日早い生まれの従姉の長男さんだとか、初めてお目にかかった。奇遇だった。彼は早川先生が施設長をされていた医学部の動物実験施設に勤務されているとか、びっくりした。聴けば野々市に
ある私の家にも寄られたことがあるとか、正に驚きだった。会場でも隣どうしに座りいろいろ懇談できた。
 定時に開演、先ずエルガー作曲/藤家渓子編曲の「愛の挨拶」、よく知られたポピュラーな曲だが、ソロヴァイオリン用に編曲されると元の雰囲気とは全く異なる曲になる。次いでシュニトケのフーガに続いてデュオでの Moz-Art、一度 OEK で聴いた記憶があるが、モーツアルトの旋律に則っているとはいえ全く別の代物、これは弾いている人が快感を味わっているのではと思わせる曲だった。そして江原さんが作曲を権代淳彦さん ( OEK の 2004 年のコンポーザー・イン・レジデンス 及び 2014 年のコンポーザー・オブ・ザ・イアー) に委嘱して作曲してもらったという「今も死の時も」という世界初演のヴァイオリンのソロ曲、前衛的だ。そして藤家渓子さん ( OEK の 1998 年のコンポーザー・イン・レジデンス)が編曲したトスティのアヴェマリア、これも前衛的だ。休憩を挟んでバルトークの「44の二重奏曲」から12曲、面白いが、これはむしろ演奏者がその演奏を楽しんでいるように思えた。そして最後は名演奏家メニューインからの委嘱でバルトークが亡くなる前年に作曲されたという「無伴奏ヴァイオリンソナタ」、演奏時間は25分ばかり、私は初めて聴く曲だった。この日の演奏はすべて譜面を見られての演奏、難曲ともなれば正確を期すには必要かも知れないが、難曲であってもソロで弾くのなら見ないで弾く方がずっとスマートだ。アンコールはなかった。でも難曲ついでに、こちらはポピュラーなサラサーテのツィゴイネルワイゼンでもアンコールに応えて演奏して頂けたら満足だったのだが。演奏後に彼女に会えるかと思っていたが叶わず、何か消化不良になったような気分になり、26日の OEK
次期芸術監督に就任するマルク・ミンコフスキーのコンサートを聴きたくなりチケットを求めた。
 帰りに迎えの車の中で、家内からこの日行われた第 11 回朝日杯将棋オープン戦で、初参加の15歳の藤井聡太五段が準決勝で羽生善治竜王、決勝で広瀬章人八段を破り優勝、六段に昇格したと告げられた。居並ぶ棋士たちが脱帽する華麗な決め手だったという。