2012年2月24日金曜日

平成24年探蕎会総会講演から

平成24年2月19日の日曜日に探蕎会総会が開かれ、席上永坂鉃夫先生の講演があった。演題は総会パンフレットには「趣味の効用~疼痛・苦痛緩和剤~」とあり、私は後半がメインだと思い、息子がガンの痛みに苦しんだこともあり、疼痛の緩和に関するお話だろうと思っていた。ところが講演に先立って立派な資料が配布され、その表題を見ると、私の思っていたイメージとは異なるものだった。それには『趣味と健康』、副題は「趣味は心身の痛みの緩和剤」というものであった。資料はA5判、水色の表紙で、本文28ページ、カラー刷りの立派な冊子である。これには唸った。豊富に図や絵や挿絵が挿入されていて、理解を深めるのに大変役立っている。ところが先生はこの講演を30分と設定されてしまったために、当初私がメインではないかと想像していた痛みの伝達の経路とかその生理学とか鎮痛の機作とかは、説明はあったものの短時間だったのと、受入れ側に理解できる素地がなかったために、理解できるに至らなかった。だがしかし、表題にあったように、趣味に生きがいが感じられれば、心身に良好な快感効果をもたらし、ひいては自然治癒力を増し、またNK(ナチュラルキラー)細胞の活性を上昇させ、健康の維持に役立つのだということは理解でき、それが副題の「趣味は心身の痛みの緩和剤」ということだった。
 以下に先生の講演内容の一部を挿話的に話そう。
(1)演者の趣味
 ① 巷に溢れる横文字の誤字・アラ探し
 先ずは兼六園の無料案内を知らせる案内板の英単語の誤りで、内容は単純な単語のスペルミスであるが、しかしこれはいただけない所業である。天下の名園の案内にこのミス、看板にある9単語のうち3単語でミス、日本人にとっては実害はないかも知れないが、外国からのお客さんには失礼であるし、なんと無知なと取られよう。ミスは、Preiod / Informatin / Admisson で、先生は兼六園事務所に指摘されたようだが、県庁の担当課をたらい回しされた挙句、振り出しに戻り、訂正はされたが、4枚の案内板のうちの1枚のみの訂正だったとか。思うに案内板を出すとか英語を付記するとかというのは本庁(緑地公園課)で決めるが、執行は事務所でやっているはずで、原稿が悪いのか、看板屋のミスだがそれをチェックできなかったのかは知らないが、失態であることには間違いない。この場合、もっと上位の人、知事でなくても、その取り巻きとか、部長あたりに、これは県や市の恥ですと言えば、スムースに解決されたのではなかろうか。とかく役人は面倒なことは避けて、他人に任せたらい回しにする種族であるからして、こちらもそれを念頭において対処する必要がある。唯一の弱みは上に弱いことである。
 また長崎の原爆爆心地でも、記念碑にqをgとしたために、銘板が疫病になったという話も。
 極めつけは金沢市が作ったフランス語の案内書で、立派な表紙には Francais とあり、本来はフランス語という意味であろうが、とすればcに鬚のようなセディーユという記号がついていなければならず、表記の単語はフランス語にはない。また裏表紙には市役所の表記で市が vill となっていて、これも ville とすべきで、やはりこれもフランス語にはない。それよりもその案内書の内容がフランス人には全く意味が通じない噴飯ものであったとのこと、市役所へかけあったところ、フランス語を教えている偉い先生に依頼したもので、誤りがあるはずがないとか。フランスに長く滞在されてネイティブに近い方ならいざ知らず、直訳では無理だ。この不良案内書はまだ2千部もあるとか、なくなってから改めるとしても、まだ当分受難が続く。
 ② 手作り本の製作(世界に一冊しかない本)
 先生の著書には写真がよく挿入されているが、その著書の「ドンキホーテの誤解」には、手作り本の表紙の写真が4つ掲載されている。この本の別章に手作り本というのがあり、作られた経緯が記されているが、これは作り方を読んだからといって出来るものではない。会場に出品されていたのはA6判の手製本、いつか実物を見たいと思っていたが、とうとうご対面できた。まことに手がこんだ豪華本で、見ていて惚れ惚れとした。これには凡人には真似できない緻密さを感じる。表紙の外装にも特段の気を遣われ、正に貴重な私家本となっている。実に素晴らしい。
 ③ ワインの賞味・関連したものの収集・解説
 先生のワインに関する薀蓄は並みではなく、特にボルドーに関してはお詳しい。いつか何処かで解説して頂いたが、愛でることを知らない小生にとっては耳に痛いことである。ところが先生の著書「ドンキホーテの後悔」には、 WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE という章があり、10項、34ページにわたって、歴史、醸造、ラベル(エチケット)の読み方、栓の開け方、注ぎ方、味わい方、グラスの洗い方、ワインのマナー等が記載されていて、さながら気の利いた手引書となっている。この本は前田書店から発行されている。
 ④ ワインボトルのコルク栓やキャップシールを使った自称芸術作品の製作
 先に紹介した先生の著書の表紙・裏表紙とカバーには、先生が飲まれた夥しい数のワインのキャップがビッシリと並んだ絵?が載っているが、その基の作品が展示してあった。何とも圧巻である。またピンにキャップを被せた作品も展示されていて、並々ならぬ先生のワインへの情熱が伝わってくる。しかもキャップを読むと、安い千円ワインは入っていない。
(2)「健康」と「生きがい」の演者による定義
 演者である永坂先生によると、「健康」とは、信念と活気に満ち、人生に生きがいを感じておられる状態であり、また「生きがい」とは、趣味、奉仕、仕事なんでもよいが、それに没頭でき、やって良かったという満足感であると定義されている。こういう満足感があると、人間が生まれながらにして持っている自然治癒力を亢進させ、脳にオピオイド(モルヒネ様物質)を産生させ、NK細胞の活性を上昇させる原動力となる。
(3)自然治癒力
 私が学生の時、薬物学の講義にあたって、薬は補助的なものであって、病気が治るのは生体が持つ自然治癒力・ナトゥールヴィッセンシャフトによると故三浦教授が言われたことを思い出す。永坂先生のお話でも、現代医学がいかに発達しようとも限界があり、その限界を超えて治癒されるのは、生体が持つ自然治癒力によると。これは人間が生まれながらにして持っている病に打ち勝つ能力のことで、体の機能のバランスや秩序を保つ恒常性の維持であり、病原体などの進入や変質した自己細胞を殺傷して自己を守る自己防衛・生体防禦であり、傷ついたり古くなった細胞を修復したり新しいものに変換する自己再生・修復であったりする。また生体の免疫機能には、自然免疫に関係するNK細胞、体液性免疫に関係するB細胞、細胞性免疫に関係するT細胞がある。
(4)オピオイド(モルヒネ様物質)の産生
 美術、音楽、ジョギング、その他なんでもよいが、とにかくそういう趣味に没頭すると、頭が休まり、爽快な気分になる。何故か? ランニング等で長時間走り続けると、走行中に気分が高揚してくるが、これはランニング・ハイとかランナーズ・ハイとか云われている。これは脳内に産生されるオピオイド(オピエート様物質=モルヒネ様物質=βエンドルフィンやエンケファリン)によるもので、鎮痛作用のほか快感をもたらしてくれたりする。この働きは鍼の効用でもある。人体には植物由来のアヘンアルカロイドのモルヒネが有効なことから、先ず1973年にオピエート(モルヒネ・アヘンアルカロイド)受容体が発見され、次いで1975年には、ブタ脳からエンケファリンが、仔ウシ脳からエンドルフィンが見つかった。これらはモルヒネ様作用を有し、鎮痛・鎮静作用のほか多幸感をもたらす。その後1976年にはオピオイド受容体の存在も確認された。ランニング・ハイや鍼では、内在性オピオイドが脳下垂体や視床下部から分泌される。エンケファリンは5個のアミノ酸が連なったペプタイド、βエンドルフィンは31個のアミノ酸が連なったペプタイドであるが、βエンドルフィンのN末端の5残基はメチオニンエンケファリンと同じである。
(5)ナチュラルキラー(NK)細胞
 自然免疫の主要因子として働く細胞障害性リンパ球の一種で、特にウイルス感染細胞やガン細胞を殺す働きがあり、これはこの細胞の生まれつきの性質で、T細胞と異なり事前に抗原を感作させておく必要はない。また異常細胞のみ攻撃して正常な自己細胞を攻撃しないのは、細胞表面にある主要組織適合遺伝子複合体を認識しているからである。この細胞はインターフェロンにより活性化される。また趣味に没頭したり、運動したりした後の満足感や爽快感や楽しい笑いは前頭葉を興奮させ、すると間脳が活発に働き、産生された善玉ペプタイドがNK細胞の表面にくっつき、NK細胞を活性化させる。
(6)趣味は遊び
 遊ぶことのなかに発見があり、創造 creation がある。そこで人間らしさがうまれる
 これは原則として動物にはない
 笑いも人間にしかない動き 趣味がうまくいった時、思わず笑みがこぼれる
 ひそかな満足感、爽快感がある
 脳内でのオピオイドの増量とともに
 NK細胞の活性上昇 すなわち心身の苦痛の軽減と免疫力の上昇がある

2012年2月20日月曜日

作文 山を想う (その2)

(承前)
 頂上では二三十人の人がいて、寒い秋風に身をさらしている。わずか千米足らずの山だが、ここからの眺めは実によい。立山の峰々、富山平野、能登半島、加賀平野、日本海が見えるが、雲が低くなってきたので、かすんできている。じっとしていると寒いので、辺りをかけめぐった。その後ここで残りの弁当を食べ、下へ下りることにした。目ざすは鳶ヶ峰、そこまで競争することにした。私も急な坂を一生懸命に走った。途中で休む人もいたが、かまわず前の人を見失わないようにと追いかけた。でもこの間はかなり長いので、皆ちりちりばらばらになってしまい、一体どの辺りにいるのか見当がつかなくなってしまった。私達は心配や淋しさで心細くなってきた。また見通しはきかないし、いくら声の限り呼んでも全然無駄であった。それで私達二人は待っていれば来るだろうと、倒れた木に腰をかけて待つことにした。でも待っても待っても彼等は来なかった。不安になり、逆もどりすることにした。すると立ち上って二三十米位歩いたろうか、向こうから息をはずませて走って来る皆なに出会うことができた。その時の喜びは大変なものであった。
 皆な揃った私達は細々とした道を進んだ。二十分程歩き続けた頃、突然明るみに出た。そこは見るも恐ろしい断崖絶壁で、万丈の山、千ジンの谷という言葉が思い浮かんだ。ここを称して鳶ヶ峰と云うそうだ。祖母は峰の上には朱を頂き、岩には苔が生えていて、人は近よれぬ所だと話していたが、来て見るとそんなものはなかった。岩は板状で、それがきちんとはめこまれているようになっていた。私達は早速素足になって登ってみた。登って驚いた。まるで片足しか乗らない頂が百八十米とかいう高さで池の上につき出ている。絶壁の下には大沼が小さく見え、浮島も見えている。下の人は豆粒のようだ。
 この峰の周りには知らない山々がごろごろに見え、その間には盆地とも云えるものがあり、密林のふところに抱かれているようだ。実に壮大、ここは槍ヶ岳の模型のようにも思える。そんな事を思いながら、秋の日の下で一緒に記念写真を撮って貰った。別に私は登高記念として、岩の一片をポケットに忍ばせた。然し楽しみも束の間、もう日は大分西に傾いて、天候もくずれてきそうなので帰ることにした。鳶ヶ峰の下は断崖絶壁で、上から見ると恐ろしい形相をしている。私が真先に下りだしたが、昨日からの雨でつるつる、傾斜は六十度や七十度はあろうか。辺りには小さな灌木が生えていて、その灌木にしっかりつかまりながら一歩一歩ふみしめて下へ下へと下りた。およそ二十分前後で下りることができた。
 下りて瀧が落ちている所へ出た。この瀧は「三蛇ヶ瀧」と呼ばれ、二段になって流れ落ちている。そして瀧の裏側には大きな洞穴があり入って見たが、五米位で行きづまりになっていた。又此処はキャンプをする場所としても適当なので、沢山の天幕が辺りをうめて並び、夕飯の煙がどこからも出ていた。小さな盆地のようになっているこの場所の渓流にはサンショウウオが住んでいると云う。私達と一緒に行った大学の研究生の人が、ここでそのサンショウウオを貴重な研究資料にするとかで、持って来たビンに入れていた。私はこの時初めて天然記念物のサンショウウオを見た。色はこげ茶色で、山間部のきれいな水が豊富にある所にしか生息しないと云う。
 その後、大沼え立ちより、浮島の上えも乗ってみたが、どうも安定感がなくふわふわしていた。大沼の直ぐ上に見える鳶ヶ峰は空に向かって立つ魔の塔のようで、物すごい奇観だ。写真機を持っている人達は一斉にレンズを鳶ヶ峰に向けてシャッターを切っていた。
 大沼を過ぎると道もよくなり、松や杉の林の中の道になる。時々林の下に生えている珍しい草花を採集しながら帰りを急いだ。然し空もようはこの頃になってくずれ出し、やがて雨になった。そしてもやが立ちこめてきた。そんな時、私達は山から下りて来た村の人に出会った。早速道程を聞いてみたら「まだ下の村までは一里位はあるね」という返事、私達はがっかりしてしまった。お互いに見失わないよう連絡しながら道を急いだ。やがて畑地も見えて来て、小屋もあったので、一まず中へ入って休むことにした。
 小屋の中で休んでいる間に雨も小降りになり、発つことにした。道は広いが雨でぬかるんでいる。そして時々材木を満載した自動車が通る。そしてやっと私達は二俣の部落に着いた。でも運悪くバスは出発してしまった後だった。誰かが「今日は失敗ばかりですね」と云った。私もその通りだと思った。
 次のバスが来るまでまだ一時間余りあるということなので、近くの製紙工場を見学することにした。ここは山から伐り出したミツマタ等のすじを採って、和紙を作る所で、私には大変参考になった。小規模ではあるが、なかなかととのった工場だと誰もが感心していた。ここで一時間ばかり世話になり、一日の思い出を胸におさめて、バスで一路金沢へ向かった。もう外は暗く、時々電灯の明かりがぼうーっとかすんで見えた。
 今日は大変疲れた。電車に乗っていても、目を開けていられない位ねむたかった。家に帰るとすぐに寝床に入ってしまい、あとは朝がいつ来たのかも知らず、又夢さえも見なかった。

 四季を通じて、東に見える端正な医王山を見ていると、何か尊いものに見えてくる。夏の一日、弟と妹を連れて一緒に倉ヶ岳に登った時、登る途中で一緒になった人が、頂上へ着いた時に「山は面白いね」と私に話しかけてきた。その時は別に私は何も話さなかったが、私も山は面白いし、又大変楽しいものと考えている。
 然し山では吹雪や濃霧といった厳しい姿も見せ、時には人の命をもうばってしまうことだってある。然しながらその反対に楽しいことも多い。春の「ぜんまい」や「わらび」採り、秋の茸狩りや紅葉狩り、ハイキングやスキー等々、数えることが出来ない位沢山ある。そんな時は大変楽しい楽園ともなり得る。
 私達は雄大な山のように大きな心を持ち、自然にとけこんで楽しめる健康な体格、そして雨にも風にも負けない強い意志を持って、社会の荒波を押し切って進んでいける強じんな力を養って行くよう努力しようと思う。

[附] 「前車の轍を踏んだもう一つの医王山行」
 私が金沢大学薬学部2年の初夏、クラスで医王山へ花を訪ねる企画が持ち上がり、私が引率することになった。コースは湯涌手前の芝原でバスを降り、栃尾部落から奥医王山へ登り、白ハゲ山へ縦走し、時間に余裕があれば鳶ヶ峰、三蛇ヶ滝、大沼を回り二俣へ下るという計画で、全コースを踏破するには健脚が必要である。ところが花を愛でるという企画が前面に出たこともあって、応募13名の中には、歩くのは得手でないと思われるやや肥満気味の仲良し二人組の女性がいた。この奥医王コース自体かなりハードで、このメンバー構成だと、当然この二人の女性に合わせた行動を取らねばならないこともあって、この8時間コースの後半はカットしなければならなくなるだろうと予想した。
 歩き出したのは午前7時、この中の男性の何名かは一緒に山へ行ったことがあり、歩くことについては心配なかった。案の定、奥医王山までに1時間超の5時間を要した。稜線へ出ると眺望が開けて、天候が良いこともあり、しかもイワウチワやイワカガミなどの花を愛でながらの、正にテーマに相応しいハイキングとなった。でもここでも花を観賞するのに時間が取られ、それに昼食もあって、白ハゲ山へ着いたのは午後2時を過ぎていた。
 ここから二俣までは4時間余り、私としては日没が7時過ぎなこともあり、後半は割愛して見上峠へ下ろうと提案した。しかし、女性の二人組はどうしても鳶ヶ峰と三蛇ヶ滝と大沼へは行きたいとの希望、二人は大変な自信家でもあったので、私は折れて当初の計画通り二俣へ下ることにした。
 先ずのつまづきは鳶ヶ峰の下りである。女性二人は下りに足が出なくて、男性がサポートしなければ下りられず、通常は20分の下りなのに1時間を要した。時間は午後4時、その後さらに三蛇ヶ滝と大沼を回り、二俣へ向かったのは午後5時少し前、まだ2時間半は要しようから、ぎりぎり日没までは着けるかなあと思いながら帰りを急いだ。
 ところが森の中の道は思ったより暗く、ここで異変が起きた。女性の一人が暗くて歩けないというのである。鳥目だという。仕方なく手を引いて歩かざるを得なくなった。まだ先は長い。そして午後7時近くなって、私は目が見えないと言うではないか。それで彼女を背負って歩くことになった。重い人なので、交代しておんぶしての下山となった。そして漸く二俣へ着いたのは午後8時半近く、暗い中山から下りてきたので村の人達は驚き、事情を話すと、農協婦人部では炊き出しをしてくれた。幸い天気が良くて事故にはつながらなかったが、初めての医王山行の時のように雨に降られていたら、悲惨なことになっていたかも知れない。そしてその後金沢まで農協の車で送って戴いた。山の人達に助けて戴いたほろ苦い思い出である。

2012年2月16日木曜日

作文 山を想う (その1)

家で整理をしていたら、原稿用紙に書かれた標記の文章とその下書きが出てきた。私の字であるからして私が書いたものなのだが、話の中心になっている医王山へ行った記憶がどうしてか脱落している。初の白山行のことはよく覚えているのにである。でもこれは高校1年の時に叔父と薬学部の学生と採集行した時の記録らしい。しかし前半の記述は、今の私にはどうも理解しづらい。というのは現在のノーマルなルートとは全く異なっているからである。私も大学入学以降は最も親しみのある山として、主に残雪期から新雪期まで医王山は何十回となく歩いた。だから富山県側の径以外は大概の径は知っているはずなのだが、それなのによく分からない。昭和20年代の医王山は山に施設はなく、また径もそれ程多くなく、今はメインである見上峠からの径もあったかどうか定かではない。どなたかご教示いただければ幸いである。ということで、昔の拙い作文を採録する。当然誤りはあるが、なるべく原文のまま書き写すことにする。所々で注記を入れるがお許し願いたい。

 私が朝に夕に眺めている後の山々(注1)は、四季を通じて色々な変化を持って私の目を楽しませてくれる。春の新緑、夏の濃い緑、秋の紅葉、冬の白い雪等は最も私の目の的となり、又格別に美しいものとして見られるのである。私はその景色を眺める度毎に山々の尊さが身にしみ、山へのあこがれを持つのである。然しながらいつもの尊い山も時には一面の雲におおわれたり、雨や雪の中に隠されてしまったりするが、そのような景色も又私にとっては格別な趣があるように思われる。後の山々も冬になってからは真白にお化粧して、雪の白の純潔さと山の雄大さとが一段と増して、冬のけはいが濃くなってきた。
 [注1]:私の家は旧野々市町新町、西面は旧北國街道に面し、したがって東に見える山をここでは「後の山」と表現している。家のある場所と医王山とは丁度対峙していて、最も前には大乗寺山、その奥左には戸室山、右にはキゴ山、そして県境には白ハゲ山と奥医王山が菱池乗越(現夕霧峠、菱広峠)を挟んで、均整のとれた双耳峰を形成している。この山は加賀平野のどこからでも見えるけれども、遠くだと小さく見え、近いと里山の陰に隠れて見辛く、その点私の住む地点からの医王山が最もバランスの取れた端正な姿を見せてくれていると自負している。したがって旧松任市あたりからよく見える白山を盟主とした県境の山々は私のいる処からは見えない。また医王山を富山県側から見ると、前医王山が邪魔して単なる医王山塊としてしか見ることができず、端正な姿は西の方からでしか見ることはできない。 

 そんな冬のある日、冷たい秋の一日に叔父と一緒に医王山(後に見える山)へ登ったことを思い出した。その日の朝は家を早めに出て、小立野で叔父さん達と一緒になり、バスに乗り湯涌で下りたのは十時近くであった。話を聞いていると、この計画は計画としてはあったのだが、この医王山え登った経験を持っている人達は少ないとかで、私には少々心細く感ぜられた。小高い丘に登ると、湯涌の温泉が眼下にくっきりと見えており、それをとりまく山々は、今では緑の世界からはほぼ遠ざかっていると考えられた。
 昨日からの雨で道が非常に悪くなっていたが、雨が降った後の気持ちというものは、何ともいえない新鮮な気持ちであった。今日のたどりつくまでの道程は二里乃至二里半の山道で、それを歩き越えていかねばならない遠さである。登ったことのある人達でもここ数年間は登ったことがない人が大部分とあって、その上ただでさえ迷いやすい道なのであるから、大きい道から小さな径へ入った途端に迷ってしまった。「さあ、大変なことになったぞ」と、誰からの口からも飛び出た。
 前方には谷川の激しい流れが急がしく音を立てて走り、左右には急な崖が、がんとして動かない。来た道を引き返そうとすれば、又一キロの山道が後にひかえている。谷川の流れの向こうには遠く山村の一部落が見えている。私達はとうとう行きづまってしまったが、皆の考えによって二三人の人達が向こうの部落にまで行ってはっきりした確実な道程を聞いてくることになった。そこで時間はまだ早かったがその間に私達は弁当を食べて腹ごしらえをしてしまうことにして、二三人の人達に早く行って聞いて来て貰うことにした。私達が弁当も済んで休んでいる時、彼等は息をはずませてはあはあ云いながら帰って来て、村の人に聞いた話を報告してくれた。
 その話によると、この崖を登り切ってしまうと上に部落があって、そこで聞けばよいということだった。早速皆で協力しながら登り切って見ると、そこには広い広場が目の前に見られ、そこには大きな家が二三軒行儀よく並んでいた。秋の獲り入れも終わってしまったのか、広い広場には脱穀機で稲をこいている山村の娘さんがいたが、山の平和の最も代表的なシンボルとでも云えそうである。又そこには秋の冷たい日の光の下で洗濯をしているバアヤの姿も目に止った。その横では子供達が小さい女の子も交えて一緒に棒を持って遊んでいる幼い子の姿も見られた。私達は、しばらくそこに立ち止って色々な変化の伴っている広場をじっと見つめていたが、ふとわれに帰って尋ねたい事を先の洗濯をしているバアヤに聞いてみた。バアヤは初めは私達をじっと見て手を休めて不思議そうな顔をしていたが、やがて口をきいて親切に教えてくれた。が、遠い耳をしているので、少しピントがはずれている。仕方なく部落を出てみたが、径が四方に分かれていて、てんで見当がつかなかった。今度は一人の若々しい青年に聞いてやっと了解が得られた。
 教えて貰った青年に御礼を云って私達は部落を後に細々とした山道へさしかかった。人跡が稀だと云われるこの山道には時々蛇や兎等が飛び出るのを見かけながら一歩一歩ふみしめながら進んだ。坂を登り切ってしまうと、急に眼前が明るくなり、そこには大きいとは云えないような池が青々とした水を満々とたたえていて、まるで「ガマ」の口のような大きな口をあけている。青々とした池の面にはジュンサイとか云われる中位の水草が、冷たい秋の太陽を受けて、枯れがかった緑の葉を水の面に浮かべている。池の回りは青い芝生でおおわれていて、こんもりと茂っている上はまるでもうせんのような柔らかさだ。私は芝生の上に座って、ゆっくりと池を見渡した。大きくないとは云えかなり大きく、私達の運動場の半分位はあろうと思われる。青い空と緑の森を写している池は、時々ジュンサイの葉の間から顔をのぞかせる小さな魚が、水面に波紋を作ることもあった。
 池の端で休んでいると、時計はすでに十二時をまわっていた。一部の人達からは、ここで断念しよう、そして引き返そうという意見も出て来たが、元気を出してもう一里余りの道程を進むことにした。私達は浅野川の上流の谷間の田んぼ道を進んだ。田んぼと云っても、この辺りのはと云うと、私達が住んでいる加賀平野の水田とは大変違う。第一に、ここは耕地整理が全然といっていい位出来てないことが一番目につく。田んぼの大きさは皆ちりちりばらばらで、形も多種多様である。またこの辺は非常に水が冷たく、その上田は皆湿田というか、いつも水が田一面に入っていて、一寸でも入るとまるで沼のように柔らかい。このような谷間で米作をするということは、並大抵なことではないだろう。又いかに米が日本人にとって必要であるかがよく分かる。こんなことを思いながら、一本道をなおも行くと、目の前に木立の間から小高い丘が秋の日を受けながら、そそり立って構えていた。そこには灌木が茂り、下には丈の低い草が敷きつめたようにおおっている。そしてそこには一本の棒が立っていて、道はそこで途切れていた。
 そこには先に着いた人達が道が分からなくて、寝そべって休んでいた。棒に何か書いてないかと調べたが、半分以上土に埋もれている一方、上に出ている部分は風雨にさらされて剥げていて、用をなさない状態だった。ある人は根掘りで棒を掘っている。しかし手分けして先へ偵察に出かけた人が、とうとう道を見つけ出して帰って来てくれた。皆大変喜んだ。さっきからの二度の失敗で、大変時間を食ってしまったために、予定の時間より大分遅れていた。
 丘を過ぎてしまうと、木は丈が低くなり、間からは時々加賀の平野や、金沢の市街等が手に取るように見えた。景色に見とれて歩を運んでいると、私には歩くのがさほど苦しく感じられなくなった。楽しい気持ちを持って登って行くと、次第に標高が高くなり、視界も段々広くなってきた。そのうちに草木が全然生えていないとも云える小石ばかりのガレへ出た。もうここからは加賀平野は一望にして眺められ、河北潟や日本海もぼうっとかすんで見えていた。この辺りは白ハゲ山とも云って、野々市辺りから見ると茶色にガレて見える所であろう。しかし私が頂上と思い込んでいた所は間違っていたのである。頂上はまだまだ上とのことだったので、皆はどんどん上え登って行く。もっとも頂上まではすぐ着いたが、ガレのところからは大体二百米位歩いたようだった。医王山の頂上と思っていたが、医王山というのは、白ハゲ山とか奥医王山、黒瀑山、鳶ヶ峰等の総称であることも初めてわかった。雲は空の七割位まで占めて、日の光は到底仰ぐことは出来なかった。

2012年2月14日火曜日

「白山登山記 自8月15日ー至8月17日」(3)

中学1年生のとき(昭和24年)、私は叔父に誘われて初めて白山へ登った。そのときの印象を綴った標記の作文が出てきたので、ここに採録する。この作文には誤字脱字のミスがあるが、敢えてなるべくそのまま記した。原文は縦書き、数字は漢数字。表示できない漢字はカナで表記した。

「八月十七日」
 今日はいよいよ家え帰る日である。今朝もやはり御来光を拝みに頂上まで行かなければならない。上衣や毛糸のシャツ等三四枚着て頂上へ向い進んだ。進んでいく間頂上の方を見ると下の方から上の頂上附近まであかりの行列だった。ぼくらも一生県命登り数十人の人達をおいこして二十分後には頂上についた。今朝の頂上は昨日にもまして一ぱいだったので先にいった僕はちょうどよい所に座った。やがて日の出時刻である。
 雲は京都方面に少しあったがあとは全然雲がないといった位だ。午前五時三十四分太陽は薬師岳の右肩からのぼり始め一緒に来ていた室堂の人達も「こんな雲のない日は一ヶ月に一、二回のもんだよ」と云われたので僕はちょうどこんなよい日に会えたのがうれしくてたまらない。やがて太陽は全部顔を出し僕等は朝の太陽を体一ぱいにあびたのである。
 それから白山比メ神社奥ノ院で朝のおまいりがあるので僕もそれに参加した。おまいりもすんで僕も一休みしている頃一人の登山者が此頂上から見える山の説明をしますといってから説明をし始めた。もちろん説明しなくとも頂上には方位ばんと云うものがある。北アルプス連峰では左から剣岳(2998)立山(3010)そして薬師岳(2926)双六岳(2860)槍が岳(3180)穂高岳(3190)焼岳(2458)乗鞍岳(3026)それから一番大きく見えた木曽の御岳山(3068)等がある。それから白馬岳(2933)が立山の左肩位に見えていた。中央アルプスではあまり高い山がなく木曽駒ヶ岳(2956)が見えるにすぎなかった。赤石山脈(南アルプス)では富士山に次ぐ白峯の北岳(3192)その次の赤石岳(3120)それからカイ駒ヶ岳(2966)八ヶ岳(2899)が見えた。
 近景としては三方崩れ山(2059)白山別山(2380)等がある。西の方には日本海が見え東じん坊の岬のつきでているのや松任あたりまでははっきりと見え汽車などはマッチ箱よりも小さく見えるのである。北の方には大汝と剣ヶ峰がはっきりと見える。
 頂上での朝は大変気持ちがよかった。加賀平野は朝もやに包まれぼんやりと見える。
 僕等は御前峰の裏側へおりようというので早速おりた。そこには珍しい植物が岩の間にはさまって生えていたり雪渓の側まで一ぱいに咲きみだれていたりした。
 やがて帰る時間もせまって来た。それで僕等は室堂え帰る事にした。室堂に帰り朝食をとってから帰る準備をし十一時のバスに間に合うように室堂を出たのである。市ノ瀬まで下るにようする時間は約四時間(観光新道)旧道から下りたとして約六時間かかるのである。
 旧道から行けばまだ珍しい植物があるが時間がかかるので新道から行く事にした。室堂を出てから一時間あまりして五色ヶ浜のある途中で「ツリガネニンジン」それから「バイケイソウ」を採集した。砂防新道から行った皆からは声が聞えて来る。おじさんは大学で薬学部助教授をしていられる。その前は東京にいられ東京の昭和女子薬科大学教授であり東京にいられたため高山植物の採集許可証を持っているのである。それから二時間あまり下り別当の出合すなわち観光新道と砂防新道と一緒になる所まで来た。皆はそこで待っていた。それから一緒に歩いたが途中「オシダ」を採った。やがて市ノ瀬についたがちょうどバスが来ていて大変つごうがよかった。それから三時間程で自分の家についた。面白かった事が次から次へとゆめの様に描きだされる。

2012年2月13日月曜日

「白山登山記 自8月15日ー至8月17日」(2)

中学1年生のとき(昭和24年)、私は叔父に誘われて初めて白山へ登った。そのときの印象を綴った標記の作文が出てきたので、ここに採録する。この作文には誤字脱字のミスがあるが、敢えてなるべくそのまま記した。原文は縦書き、数字は漢数字。

「八月十六日」
 朝五時に室堂の人達が僕達を起しに来てくれた。それは御来光を眺むためである。頂上えは二十分程でついたが先にもう二百人前後の人達がいるし又下の方からは三百人前後の人達が頂上に向かって登っている。
 頂上は大変寒かった。雲は沢山あって御来光をおがめそうもなかったが日の出の時間頃になると雲はきれぎれになって日の出時刻になると雲の間から少しおがめた。
 頂上から下りて室堂に帰り朝食をとった。
 今日僕達は別山の方え後の人達は大汝峰と剣ヶ峰え登ろうと云うのである。
 七時頃には一枚の地図を買ってそれを便りにして行こうと云うのであるがうまく行けるかどうかは疑問だった。
 しかし天気は大変よく晴れていて気持ちがよく皆んな室堂から出て深呼吸をしていた。僕達も深呼吸をしてから室堂を出る準備をした。
 何もかも全部そろえてから僕達三人は別山え後の人達は大汝峰と剣ヶ峰え登ろうと決めた。それから数分とたたぬうちに僕達三人は出発したが道はなかなかはっきりしておらず最初からつまずいたのである。道はなぜはっきりしていないかと云うとこの道は福井県の石徹白村大字石徹白からの登山口であまり此道からの登山者は少なくしたがって此石徹白道をなおそうとしないからである。
 しかし今から大汝の方え行こうといったって行けるはづもない。なぜなら僕達三人は植物採集が目的だった為である。仕方なく僕達は雪渓の上を元気に歌を歌いながら歩き進んだ。雪渓はだんだんと下り坂になっていたので此が道だろうと思って進んでいったのがまちがえだった。あとでわかったがそれは万才谷の最上流に位する所だったのである。
 途中大変よい景色もあったがそこに長くいられなかった。僕は「此が僕の家のろうじだったらいいなあ」と一人言を云った。それだけにそこはよい景色であった。川幅は一米半大きな石が川にごろごろとあったのでその上をぴょんぴょんととびながら進んだ。別山えの道は此万才谷を下り柳谷川の上流山端谷との合流点まで行きそこから山端谷を上え行くとそこに別山えの道があると云う地図での推測である。少しばかり行くとそこは瀧になっていて通行はなかなか困難である。仕方なく上の崖の方え登った。なかなか始めはすべって登れなかったがとうとう登る事に成功した。しかし此からが又大変である。
 崖のどてっぱら(中復)を横ばいになって少しずつゆっくり進んだが大変気持ちが悪く一歩ふみはづせば岩の上に頭をかちあててどうなるかわからない程なのである。
 しかしこんな所にこんなものはあると思っていなかった「トーキー」が沢山崖の中復にあった。おじさんはその「トーキー」を根堀でとられ「どうらん」の中え入れられた。その他沢山色々な植物が見つかった。どれもこれも珍しいものばかりで捨てようにも捨てられないものばかりだった。それからは又川えもどらなければならない。それでかつ葉樹の小さい木につかまりブランコして川えとび下りた。
 又川で進行をつづけた。川は山の間をぬって山の陰になっていて合流しているかと思うと何でもない事が何回かあった。少しつかれたので川の中程で腰をおろしおむすびを食べた。僕は合流している時が早く見たいため一番先に立って行ったがやはり同じ事がくりかえされた。しかし僕はぜったいに気をおとさなかったのである。それから数十分たった後山端谷と万才谷の合流地点についた。もう此あたりになると川幅も五米程度になり川の流れも大分早く二つの川の合う所ではうずまいている所もあった。岩の間を流れる此水はすごく大きな音をたてながら流れ去って行く。普通僕等が郷土の野々市で大きいと云っている火止川(住吉川)とは大きさもちがうし又ぜんぜん感じもちがう位谷川は美しい。
 しかしこんな所ではあまり長くはいられない。それでそこを今度は上流え向かって前進したが今度は上え登るがため岩から岩えとびうつる時にはとび上がらなければならないのだった。青いこけが沢山くっついていてズックをはいている僕には途中何回か川の中え足をすべらした。ひどい時になると深い淵の中え体の半分程まではいってずぶぬれになった事もあったが自然と歩いている間にかわいてしまった。
 しかしそんな事が起っている間に川は草原の間を流れていた。そこで僕達三人は夏の草原を歩いた。あの室堂附近ではとりつくしてしまってちょっと見られない「クロユリ」や「コバイケイ」「マンネンスギ」など色々な高山植物の群落が目につくとともに「こんな所でキャンプしたら気持ちがよいだろうなあ」と僕は思った。
 人のあまり歩かない石徹白道の途中にある此草原は高山植物の天下であると云ってもよい位だった。こんな事を云いながら歩いていると別山への道が見つかった。そこにはどこかの高校生がうっていったくいがありそれには別山えと書いてあったからである。この草原は「南龍ヶババ」と云われる所である。此では白山のどこにもないと云われる「ハクサンオオバコ」が沢山見つかった。おじさんは大変うれしそうだった。大変気持ちのよい草原なのでここで昼寝をしたが僕はねられなかった。そのあたりには兎のふんが沢山あちにもこちにも転がっていたからである。
 あたりは山に囲まれ「別山え」という立札が立っているにもかかわらず道はわからず尾根えの道はささでおおわれぜんぜんわからなかった。昼寝からさめて尾根へ登るため腹ごしらえをし休んでからそこをたった。
 道がわからないので仕方なく尾根え向かって川ぞいに進んだ。川を登っていくと雪渓にさしかかったが僕等は雪渓の上を歩き進んだ。すると木の沢山密集した小高い丘の様な所に出た。
 そこで少し休んだが又歩き出した。今度は川はぜっぺきの下の方を流れているので川のそばを歩く事は出きない。そこで木の密集した所を歩かねばならない。僕達三人は木の密集地帯を歩いている時僕は休んでいた所で忘れ物をしたのです。早速三人は一緒に取りにいったが忘れ物はすぐに見つかった。
 又三人一緒に進んだが小さい「モミジ」や「ブナ」そしてその他の沢山のかつ葉樹が一面に茂っていて通行ははなはだ困難をきわめた。
 しかしようやくその茂みを出たが今度は又第二の雪渓にさしかかった。その雪渓はずい分大きい様に思われ僕等は雪渓を前進したがその時雪渓の上一面に「モミ」やその他の常緑針葉樹の枝や幹が雪渓の上一面にちらばっている、ふしぎだなあ。まさか熊がそういうものをおっていくはづがないし雪崩でもあってその時へしおられたのかどちらにしてもふしぎだった。そう云う事を思いながらも又前進した。
 僕達三人は尾根え尾根えと進んだ。ある時はがけを登りある時は大きい岩から岩えととび又ある時は五六回も雪渓を渡りながら尾根え近い所えついたのである。尾根の近くでは沢山の大きな石がありそのあたりには高山植物が小さな花をつけていた。休み終って立ち上りがけを登り終った所は横に長くなった雪渓であった。その向こう側ははひまつのブッシュだ。いよいよ高山での難所「ハヒマツ」のブッシュに入った。
 始めは「モミ」や「トドマツ」の茂みだったが磁石がないばかりに方向がわからずただめちゃくちゃに進んだ。「モミ」の木の下の方をはらばいになって進んだが時々上衣が枝にひっかかったりした。かなり進んだがブッシュから出ないので「モミ」の木の上に登って見るとすぐ出られる可能性があるのでそこえ向かって進んだ。出た所は小さい広場の様だった。そこには石がつんであったのでだれか此に来た事があるなとすぐに思った。
 これからが本当の「ハヒマツ」のブッシュである。始めはひざ程であったが間もなく背丈以上もある様なのが大部分になったが「ハヒマツ」ははっていて下の方からでも枝が沢山出ており進んでいくにしたがってなほさら困難をきわめた。途中ブッシュの中で「ハクサンシャクナゲ」の花が咲いているのを僕等は見たのだった。僕はいく分なぐさめてくれている様な気がしてならなかった。その間も一生懸命御前峰に向かって進み歩いた。
 その進み歩んでいる最中誰かがヤーホーと云っている様な気がしてならなかったがそう云う事ばかり気にしてはいられない。しかしやがて「ハヒマツ」のブッシュから出られる時が来た。
 ブッシュから出た所は広い草原だった。その時もヤーホーが聞えている様な気がしてならなかった。しかし僕だけが気がついているのではなかった。やはりおじさん達もわかっていたようである。それで僕達三人は歩きながらヤーホーと元気一ぱい叫んでみた。するとあちらからもヤーホーと答えてきたのでその方向を見ると大汝や剣ヶ峰え登った人達であったのである。地図を見ると此あたりにはカンクラの雪渓というのがあるはづだがぜんぜん見あたらなかった。そのあたりには沢山の岩石にまじって「ハクサンコザクラ」の大群落があった。僕は思った。「僕は花のすきな妹にとってはこんな沢山花のさいているを見せたらここから動かないだろうなあ」と思われてならないのだった。
 やがて皆と一緒になる時が来た。一緒になってからはいろいろ朝わかれた時からの出来事を話し合った。僕達のあった事も話した。先にブッシュの中で方角を失った時に別に行った人が御前の中復でヤーホーと声をかけたのは「ハヒマツ」のブッシュの一部分が動いたのをみとめたから叫んだのだと云われた。僕は歩きながら見た事、面白かった事、又色々な事を話した。大汝や剣ヶ峰え登った時に剣ヶ峰でただでさえあぶない山頂附近での帰り下りようとした時に二十米も落下したと云う。大汝峰では雪渓の上から下まですべったと云うし御前と大汝の中間の小草原で昼寝をしていた時に寝ている人に石を積み上げていたづらをし十一も大きい石をのせても平気の平座で知らん顔をして昼寝をしていて起きた時にはびっくりしていたと云う面白い話など色々な話を聞かされた。
 そう云って歩いている間に平瀬道(飛騨からの登山路)の最後の名所カンクラの雪渓についた。そこで一緒に一休みをした。カンクラの雪渓は白山の名所であるだけにすごく大きいものだった。谷間一ぱいにうずめた此雪渓は長さ五百米もある様に思われ僕の見た最大のものだった。
 休み終りそこをたってから十分乃至十五分とたたぬ内に室堂についた。室堂についてからは体をゆっくりと休めそして夕食を食堂で食べた。食堂と云ってもひんじゃくな小屋、石室にすぎないが食料は普通程度位であった。室堂は石室や木で作った小屋等七-八つはあったがそれらには全部名があって小屋の中と云う小屋の中はほり物、すなはち自分の名前をほって傷だらけになっていた。僕は見た時に野々市から行った者もほってあったので僕もほろうかと思ったけれども室堂をこんなにいためてはと思ってほられなかった。
 その晩は大変寒くしかももうふ一枚に二人三人とねなければならなかったので大変きゅうくつである。しかしそんな事を云っていてねられなかったら大そうどうである。僕はそう思っていくらねようと思ったって寒くひえるので大便に一晩四五回行ったのである。その度に困った事は便所が一通りの便所でなくしかも電池もなくろうそくもなくあぶないのである。でもその一晩もやがて明ける頃となったのである。

2012年2月10日金曜日

「白山登山記 自8月15日ー至8月17日」(1)

中学1年生のとき(昭和24年)、私は叔父に誘われて初めて白山へ登った。そのときの印象を綴った標記の作文が出てきたので、ここに採録する。この作文には誤字脱字のミスがあるが、敢えてなるべくそのまま記した。原文は縦書き、数字は漢数字。

「出かけるまで」
 僕に白山え一緒に登らないか、とおじさんが云われたのは八月十二日の晩の事だった。僕はすぐに「行く」と云う返事をしたが、「学校にさしつかえがなければいいが。」と思った。父も母も僕の意見にすぐに賛成してくれた。
 それですぐに学校へ行ったが、先生は帰られておいでないので明日学校へ行ったら云おうと思ったが会う機会が無かった。残るは後一日である。それで十四日の朝僕は先生にその事を話すとすぐに承知して下さった。何故なら明日は一学期の終業式ででも学校を休まなければならなかったからだ。
 明日の朝早く出かけると云うのでその晩は持物の用意をしたり地図を拡げて道程を測ったりした。その日は早く寝床についた。

「八月十五日」
 待ちに待った日が来たので朝早く起床した。僕は「どうらん」やリュックサックに物をつめ出かける準備をして出かけるのを待った。用意が出来たので僕は元気に「いって来ます」と云って家を出た。
 五時だというのに外は大変明るかった。駅につき電車に乗ると電車の中は満員で魚を釣る人と登山者とで身動きも出来ない程だったが鶴来まで来るとだいぶん楽になり金名線に乗りかえる時は登山者が大部分であるのだった。
 白山下から今度は白峰までのバスに乗ったがその時初めて僕達と一緒に行く金沢大学薬学部の先生方と会った。
 バスは動き出したが道幅一間半の山道を行くのだから大変時間がかかった。白峰えつくと今度は市ノ瀬までのバスに又乗りかえなければならないがバスが小型なのでいちいち燃料を入れているのでその時間でさえも一回するのに五十分程づつはかかった。その間僕達はそのあたりを見ていたが一番笑ったのはフラスきん入りと云うのがはっきり知っているのかそれはどうなのかわからないがそれをフランスきん入れと書いて店の前にぶらさげてあった。フランスきんもあるのならドイツきんやアメリカきんもあるのかと大笑いした。
 バスは動き出し美しい緑の山々を見ながら一時間半後には市ノ瀬えついた。朝五時に出てから四時間半経過した今、僕等は今から登ろうというので腹ごしらえをして市ノ瀬から徒歩についた。あやしいふらふらの釣橋を渡り急な坂を登った所に「室堂まで九〇〇〇米」と云う立札が立ててあった。平地の二里とちがって山道の二里だからつらいぞと家で云われたが僕は平気だと云って家を出た事を思い出した。急な坂を登ってからは、いたって楽なけいしゃのゆるい道に出たので僕は一人の先生に「白山登山はこんな楽なのですか」と知らないので聞くと「此は一番楽な所でこれからは大変急な所ばかりだよ」と云われた。
 途中猿壁と云う断崖もあってそこからははるかに不動瀧が見えて大変景色もよかった。
 道はいよいよぶなの森林の中え入って行った。すごく大きな樹木である。僕は色々木の名を聞いたが、一番目についたのは「ぶな」と「だけかんば」だった。直径六〇糎から一米近くもあるのが非常に沢山生えていて木の幹には自分の名前を記念にほったのかも知れないが、これも又非常に沢山ほってあった。
 しばらく行くと営林署小屋があって沢山の人達が休んでいた。が僕達はその前にある植物見本林と云う自然のままの樹木が沢山色々の種類に分類されているところへ行き大変僕は参考になった。僕達はただ此森林をただ一時間も一時間半も歩いて行った。行っても行っても樹木であり落ち葉であるのだ。じめじめとしたうす暗い日陰をくぐって行く所もあった。たまたまからりと晴れた所があると思うと、そこはすぐ足もとから下が何百米もの山くずれとなった断崖の上を歩いているのだった。道は小石ばかりで出来ていて何度も足をふみ滑らしてその度に胸がどきっどきっとしたがそこも通りすぎたので落ち葉をかき集めて一休みをした。僕は大変沢山物をかついでいたので休んだ時は本当に背がかるくなった様に思われた。
 そこをたってしばらく行くと観光新道と砂防新道との分かれる所に来た。僕等は左の観光新道の方におれた。そこから三十分程行くと「き市郎坂」という坂の入口に来たので此で一休みした。ちょうど下の方に手取川の上流柳谷川が流れ川むこうにには砂防新道があり少し遠い所には不動瀧が三段になって流れていた。休んでいる所に上の方から水が流れおちていて大変つごうがよかった。きれいにかわいた落ち葉が散りしいてきわめて静かな所であった。
 「さあこれから坂だ」そう思って登り初めるとそこには「室堂まで四〇〇〇米」と云う立札があって私の心はだんだん近ずいていく事を大変うれしく思った。坂を登っている途中山の木の幹や小枝には「ハルゼミ」がやかましい程鳴いていて僕達の心を楽しませて来れた。少し行くと十町程先に休む小屋があるというので急ぎ足で歩いたがなかなかその小屋へつきそうもなくとほうにくれた。あたりは「だけかんば」の森林で木の根が道に沢山出ていて歩きにくく早く小屋へ行かないかと思って急ぐと木の根につまずいたりした。
 市兵衛小屋につき一休みをしあたりを見まわすと今登ってきた山々がずっと遠くまで続いていて今登ろうとする山のほうは青空にくっきりとしていた。それから少し行くと山一面まっ白にくずれ落ちているところに出会った。ここを通るのはとても危険であった。上下何百米かに渡るざらざらとした崖を横切ってひもの様な道がついているが両足をそろえては立ち止る事も出来ない程のせまさである。僕はぴったりと体を崖にくっつけて片足づつ運ばせたが一足動くごとに足もとからは白色の土くれが落ちて行くのだ。ばらばらとくずれ落ちるはるか下の方には柳谷川がせまく深く流れている。
 そこを通り過ぎると今度は樹木の一本も生えていない大きな岩石がぐわらぐわらにある石原え来た。そこで始めての写真を採って貰った。石原がつきる頃になるとかつ葉樹はあまり見あたらなかったが常緑樹の「つが」や「もみ」が見られた。やがて最も急な坂を登り切って又少し行くと市ノ瀬旧道と観光新道と出合う所え出た。そこには殿が池という池があり又道は二つにわかれているのだった。右の方に折れて坂を登ると真砂坂と云う坂があってそれを登ると残雪のある蛇塚に来た。手に雪を取って食べて見るとつかれている僕達には大変おいしく思われた。
 小さい森を過ぎて高山植物もまばらに生えている五色ヶ浜を僕達は歩いた。歩いていると山の陰からは大きな石が二つあるのが見えた。するとどこからか「あ!!ミダガ原の入口が見えるぞっ」と云う様な声があちらからもこちらからも聞こえて来る。その時「ヤーホー」と砂防新道の方から声が聞えた。僕はその時すぐにあれはおじさんの声だという事がわかった。こちらからも「ヤーホー」と云った。山にこだまして山びこが聞えている。
 とうとう「ミダガ原」についた。一面草原で高山植物の「クロユリ」や「ハクサンコザクラ」の群落が沢山見られた。又所々に石を沢山つんであり、そのかたわらには「海抜二五〇〇米」「室堂まで九〇〇米」と書かれた立札が二つ立っていた。
 草原は大変気持ちがよくてまだまだ此にいたい様な気持がしたがそうはいかない。次に最後の坂五葉坂があった。坂の途中は雪渓のために道はうち消されていて歩く事は出来ないので仕方なく雪渓の上を歩き初めたが底がゴムのためなかなか通行は容易にできるものではなかった。此雪渓はすごく大きく又大変長いので土の上を歩き初めたが此も石が沢山あってどちらにしたらいいかわからなかった。しかし僕は「もう室堂だ」と思わず云った。その坂を横にまがる時二むね三むねの屋根の低い家が見えた。それが今夜僕達を休ませ眠らせてくれる白山室堂であったのだ。
 やれやれと安心してふり返ると今通って来た雪渓の上にはものすごくこいガスがかかっているのが見えた。室堂についたのは五時頃だったと思う。僕はあちこちとそこあたりを見廻ったがその時には必ずスケッチブックを持って行くのは忘れなかった。御前峰の方はすごいガスで頂上はぜんぜん見えない位だ。
 「明日の朝早く御前峰え登ろう」と云われたのでその日は暖かい火のある部屋え入って眠った。三時頃頂上の方を見るとはっきり見え三角のやぐらも見えた。

2012年2月7日火曜日

白山の開祖・泰澄大師と湯宿「法師」

平成24年(2012)1月24日(日)、金沢泉丘高校第7期同窓生有志の会の耳順会が粟津温泉の「法師」で開催された。法師は粟津温泉では最も古い旅館と聞いていたが、今回第46代当主の法師善五郎さん(有限会社「善吾楼」社長)からお話があり、「法師」の開湯は白山の開祖・泰澄大師によること、さらには高野山真言宗別格本山・那谷寺とも密接な関係があることを知った。以下にその内容を記す。

(1)泰澄大師と白山開山と湯宿「法師」
 泰澄大師は天武天皇11年(682)に越前国麻生津(現福井市三十八社町泰澄寺)に豪族の三神安角(やすずみ)の次男として生まれた。神童と言われ、11歳(14歳とも)の時、夢のお告げから出家し、天台宗越知山大谷寺(おおたんじ)(現福井県丹生郡越前町大谷寺)に登り、法澄と号した。難行苦行の後に仏の教えを悟り、その名声は都まで届いたという。20歳の大宝2年(702)には文武天皇より鎮護国家法師に任じられた。地元では修験者の「越の大徳(たいとこ)」と呼ばれていた。35歳になった養老元年(717)には、雅亮法師(樵夫・笹切善五郎の次男)の案内で、弟子の臥(ふせ)の行者、浄定(きよさだ)行者とともに、加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登り、瞑想していた時、緑碧池から十一面観音の垂迹であるとされる九頭竜王が出現して、自らはイザナミノミコトの化身で白山明神・妙理大菩薩であると名乗って顕現したのが霊峰白山開山の由来と伝えられ、白山信仰の基となった。
 養老2年(718)、泰澄大師の夢枕に白山大権現が立たれ、「この白山の麓から山川を越えて五、六里行ったところに粟津村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉があるが、地中深く隠れていて、まだ誰一人としてその霊泉のことを知らない。お前はご苦労だが山を下りて粟津村に行き、村人と力を合わせて温泉を掘り出し、末永く人々のために役立てるがよい」と。お告げにしたがって粟津村へ赴いた大師は、すぐさま村人の強力によって霊泉を掘り当て、試しに病人を入浴させたところ、忽ち病が治った。そこで大師はそれまで身近に使えていた雅亮法師に命じて、万人の病気治療のために一軒の湯治宿を建てさせ、その湯守を雅亮法師に任せた。そして粟津開湯に際しては大師より「法師」の名を頂いた。そして主は法師善五郎と名乗った。法師初代の誕生である。

(2)泰澄大師のその後
 養老3年(719)からは越前国を離れ、各地で仏教の布教を行なう。養老6年(722)、元正天皇のご病気を平癒したことにより、神融禅師の号を賜る。神亀2年(725)、僧行基が白山を訪ね、泰澄に本地垂迹の由来を問うたとされており、これにより泰澄は神仏習合説の祖とされている。行基(668-749)は諸国を巡り、寺院建立、道路開拓、橋梁架設、池堤設置などを行なっていて、後に聖武天皇の帰依を受けて大仏造営に与かり、大僧正の位を授けられている。天平2年(730)、一切経を写経し法隆寺に納めた(現存)。天平9年(737)、全国に痘瘡が流行し、勅命により祈願を行ない、疾病を終息させた。このことにより、聖武天皇から大和尚を授けられ、「泰澄」の尊称を賜った。
 神護景雲3年(769)、大師は故郷越前国の越知山大谷寺に戻り、釈迦堂の山窟に座禅を組まれたまま86歳で遷化された。寺の境内に祀られる国指定文化財の九重の石塔が大師の墓と言われている。

(3)泰澄大師と那谷寺
 白山を開山した養老元年(717)、泰澄は霊夢に現れた千手観音のお姿を彫って、現那谷寺の岩窟内に安置し、ここを自生山岩屋寺と名付けた。寺は大師を慕う人々と白山修験者によって栄えたという。その後平安中期の寛和2年(986)に花山法皇(第65代天皇、17歳で即位されたが2年で退位、その後出家され、全国各地を巡礼された)が参詣された折、岩窟内に光り輝く観音三十三身を感じ取られ、この山には観音霊場33箇所が宿るとされ、西国三十三箇所の第1番那智山の「那」と、第33番谷汲山の「谷」をとって「那谷寺」と改め、中興の祖となられた。そしてその後も度々参詣され、その折には粟津温泉の法師にてご入浴なされたという。
 しかし南北朝時代には、足利尊氏の軍勢が寺を城砦として新田義貞と戦ったが破れ、寺は灰燼に帰した。江戸時代になり、境内の荒廃を嘆いた第3代加賀藩主前田利常が、寛永17年(1640)に後水尾院の命を受け、名工山上善右衛門らに岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院などを造らせ、庭園は小堀遠州に指導に当たらせたという。これらは現在、国指定重要文化財及び国指定名勝となっている。高野山真言宗別格本山でもある。

(4)歴代法師善五郎の心覚え
・初代:雅亮法師として大師に仕え、養老2年(718)大師による粟津開湯に際し、湯治宿「法師」を開く。
    法師善五郎(初代)を名乗る。
・10代:寛和2年(986)、花山法皇が岩屋寺に参詣され、寺名を「那谷寺」と改名される。法師へ来訪。
・17代:源平の合戦が始まる。文治3年(1187)、源義経と武蔵坊弁慶が安宅関を通る。
・27代:一向一揆が鎮められ、蓮如上人は探索の目を逃れ、法師で飯炊きをなされる。
    天正11年(1583)、前田利家が金沢城に入場、本格的な城造り始まる。
・33代:小堀遠州、法師を訪れ、庭園造りを指導。この時那谷寺にも。古九谷誕生。
    寛永17年(1640)、黄門・前田利常が来訪を記念し、門前に黄門杉を植える(現存)。
・35代:元禄2年(1689)、松尾芭蕉が北陸各地を行脚、那谷寺を訪れ、一句を残す。
・39代:寛政11年(1799)、村役人による湯元心得21ヵ条ができ、法師での入浴にも適用。
・41代:安政3年(1856)、粟津八景(越前の絵師・小川治郎右衛門による)を定める。
・43代:桂太郎、法師に宿し、延命閣にて「善吾楼」を揮毫。法師の社名となっている。
・46代:昭和62年(1987)、世界で200年以上の由緒ある企業のみで構成するエノキアン協会に加盟。
    加盟企業の中では最古の歴史を有している。
    「世界で最も歴史あるホテル」としてギネスに認定される。
・注1:エノキアン協会は1981年にフランスで設立された経済団体で、家業暦200年以上の企業のみ加盟が許される老舗企業の国際組織。40社が加盟。日本では、法師(718)、虎屋(1530)、月桂冠(1637)、岡谷鋼機(1669)、赤福(1707)が加盟。協会では法師が最も古い。
・注2:法師と同時期に創業した旅館として、慶雲館(山梨県西山温泉、705年)や千年の湯・古まん(兵庫県城崎温泉、717年)が知られている。法師は「ギネス・ワールド・レコーズ」に世界で最も歴史のある旅館として登録されたが、平成23年(2011)2月に、その座を慶雲2年(705)開湯の慶雲館に奪われた。
・注3:「法師」の泉質は、ナトリウム・硫酸塩・塩化物泉、泉温は42.5℃、温泉使用量は毎分5.8ℓ。
・注4:粟津温泉の入り口には、泰澄大師の像が立っている。

2012年2月2日木曜日

藤助の湯 ふじや (岐阜・平瀬)

毎年恒例になっている石川県庁のくろゆりスキーくらぶ主催の正月の志賀高原スキー行に、今年は体力の衰えを感じて参加しないことにした。それで代わりといっては何だが、家内とどこか温泉へ行こうかということになった。ところで私は土日は休みなのだが、彼女はかなり日程が混んでいて、やりくりが付かなかったが、日、月となるが、1月29日と30日ならどうやら工面できて出かけられることになった。ところでここ暫らくは日本の秘湯の宿巡りをしていることもあって、近在の湯宿を当たると、石川に4軒、福井に1軒、岐阜に1軒あったが、この時期は積雪があり、営業しているのは、石川の1軒と岐阜の1軒のみだった。石川の方は1月中は満室とかで、岐阜へ出かけることにする。
 湯宿は岐阜県大野郡白川村平瀬にある「藤助の湯 ふじや」である。平瀬というと白山の東の登山口であって、私は50年来通った道でもある。以前はアプローチはもっぱら金沢と名古屋間を往復していたバスを利用して行ったものだが、今この便はない。当時は今のように五箇山トンネルは開通していなくて、1000m近くある細尾峠を越えて五箇山へ入っていた。当時聞いた話では、村人は月に一度はこの峠を越えて富山へ出る必要があり、冬は難儀して歩いて越えたという。この道には人喰谷という難所もある。
 さて当日は二日ばかり雪が降り続いた後の中休みのような天気、宿の方へ雪の状況を聞くと、車でのお出でには何ら差し支えはありませんとのこと、10時過ぎに出かける。山側環状道路を経由して北陸道へ、小矢部SAで早めの昼食を済ませ、東海北陸道を白川郷ICで下りる。でもここからは15分ばかりのはず、ちと早過ぎた。宿のチェックインは14:30、仕方なく一般道の平瀬バイパス(国道156号線)の道の駅:飛騨白川で時間を稼ごうと思って立ち寄ったが、12月から3月は冬季閉鎖、でも駐車場はきれいに除雪されていた。時間は午後1時、宿へ電話すると、じゃもう30分位したら用意できますから来てくださいとのこと、1時半に道の駅を出る。近くにある「しらみずの湯」の前を通って、街中を通っている旧道の白川街道を北へ向かって辿る。以前はこの道しかなかったので懐かしい。宿はすぐに見つかった。
 宿の隣に駐車場があり、除雪されていて、そこに数台の車が停めてある。今日は気温が若干上っていて、途中の道路にも雪がほとんどなく、心配した雪道の走行はなかった。お天気は今日明日は比較的穏やかであるらしい。積雪140cmとかで心配したが杞憂に終わった。記帳をして、大きな薪ストーブの側でお茶を頂く。おえの広間には繭玉をつけた柳の木が飾られている。この別館は、旧宮川村にあった飛騨造りの築後百余年の古民家を平成14年(2002)に移築したものだという。
 部屋への案内は若い女性、荷物三つを全部担いでくれての案内、恐れ入る。同じ棟の左手の障子の間が食事の間とか、参の間とあった。上り気味の通路を行くと左手に浴室棟があり、入り口に下足箱が置いてあり、11室の部屋名が付けてある。私たちは「野葡萄」。さらに進むと右手に貸切の露天風呂が二つあり、下足がなければ入って頂けますとのことだった。ここからは緩やかな段差のある吹きさらしの通路、突き当りが宿泊棟、戸を開けて中に入る。左に折れ、二つ目の和室が「野葡萄の間」だった。
 部屋は大きく、初めてお目にかかる鹿の子編みの畳敷きの部屋、炬燵が設えてある。続く広い板張りの縁には、炭火を熾せる囲炉裏風の大きな火鉢が置いてある。そしてお風呂グッズは小さな背負い籠の中に入れられている。お茶を飲んで、浴衣に着替える。中と小を用意してありますという。着ると浴衣は丁度だったが、その上は羽織でなく丹前、二枚重ねると少し重い。こんな経験は初めてだ。ところで家内の丹前は丈がすこぶる短く、そのまま着るとチンドンだ。でもフロントには言わず、いざというときは羽織ることに。
 まだ時間も早く客も居ないので、貸切り露天風呂へ入る。岩風呂で外へも通じているが、脱衣場と岩風呂、岩風呂と外との間には厚手のビニール製のカーテンが掛かっている。外には屋根から落ちた雪のブロックが間近にまで転がっている。お湯はまずまずだが、雪塊がすぐ傍にあるので寒々しい。早々に此処を出ることに。そして婦人風呂と殿方風呂へ。こちらの方は広くて内湯は檜風呂、ゆっくり6人は入れよう。外湯の露天風呂は石組みで、10人は優に入れる大きさ、所々に半身浴ができるように石が配され、また寄りかかれるような身置き場所も設えてある。屋根には1mばかりの雪が積もっているが、下ろさなくても大丈夫なのだろうか、心配になる。お湯の温度は何度に調節されているのだろうか。どれだけでも浸かっておれる温度、湯口から落ちている湯の温度はやや熱いが、絶妙で実に気持ちが良い。近くに菅笠が置いてあり、雪や雨が降ったら被るのだろう。小雪が舞っている。
 そこへ若者が、明日は流葉でスキーとか、冬の白川郷の里を見たくて寄った後、平瀬の湯でも「しらみずの湯」でなくて、鄙びた湯へ入りたくて探していたら此処が見つかったとか、すごく気に入ったと喜んでいた。もし聞き間違えでなければ、流葉スキー場は岐阜県北部の飛騨市、ここからはかなりの距離だ。
 部屋へ戻るが食事までにまだかなり時間がある。テレビを見、酒を飲み、駄弁りながら時を過ごす。見るともなく宿の案内を見る。こちらの別館は和室8室和洋室2室で、それぞれに草や木の名前が付されていて興味がある。曰く、風車、笹百合、蕗のとう、花梨、金鳳花、山法師、野紺菊、南天萩、山葵、野葡萄。またこの温泉のお湯は、大白川の源泉(96℃)から15km引いて65℃になったものを平瀬温泉として分配しており、ここへは毎分60ℓ引き込んでいるとか。その後井戸水で熱交換して平均50℃にした後、温水タンクに貯えてから各浴槽に供給されている由。従って加水、加温、循環はなく、源泉かけ流しである。泉質は含硫黄・ナトリウム・塩化物泉で、pHは8.5の弱アルカリ性低張性高温泉である。
 6時になり食事処へ行く。床の間付きの部屋、中央に炭火を2ヵ所で熾せる囲炉裏風の横長の大きな台が置かれていて、これがテーブル代わりとなる。そしてざっくり竹で編んだ笊には大きな朴葉が敷かれ、その上に山のいろいろな産物が所狭しと並んでいる。蕗、胡桃、銀杏、蓮根、山葵の葉、占地、芋、薇、こも豆腐など。ほかにも、山の草木の煮物、和え物、酢の物、漬物、天ぷら、茶碗蒸し、雑煮、それに鰊の大根寿しなどが。魚は天魚の塩焼き、そして逸品はきれいな霜降りの飛騨牛の陶板焼き、多彩である。食前酒はぶなの木の酵母で作ったとかいう濁り酒、爽やかで飲みやすい。食事には、野葡萄のワイン、生ビール、地酒を貰う。素朴な山の里の品々は心を癒す。粟ご飯を頂き、冷菓で終える。これほど徹底した地産地消は珍しい。都会の匂いが一切しない野趣溢れる山里料理だった。
 翌朝早く露天風呂へ行く。雪が舞っている。菅笠を被って風呂に入る。時々風が吹いて木の枝に積もった雪が落ちて来る。何とも風情ある素晴らしい湯だ。そこへ大阪の方で毎年訪れるという方がご入来、雪下ろしをしなくてもよいのは、飛騨造りという屋根の構造にあるのだと教わる。また私がここの積雪が140cmと聞いて来るのが心配だったと話すと、その心配は全くないと。それは大型トラックは高速道の東海北陸道の飛騨トンネル(11km)を通ることができないので、荘川ICと白川郷ICとを結ぶ国道156号線は完璧に除雪されるとか。私は心配で二度も宿へ電話したが、大丈夫ですと太鼓判を押されたのはそんな背景があったのだと納得した。
 昨夜と同じ場所での朝食、朴葉味噌が出た。ご飯は真っ白な小粒、飛騨のコシヒカリとのことだったが、実に美味しく驚きだった。焼き魚は虹鱒、温泉卵も地卵、朝食には定番の焼海苔も出ず、根っからの素朴な徹底した山の里のもてなしだった。こんな宿があったとは。
 辞して、世界文化遺産の白川郷の里、荻町合掌造り集落へ向かう。今朝は冷え込んだのか道路は白く凍結している。でもカーブの部分が凍結していないのは、消雪剤を散布してあるからだろう。車には雪や水が飛び跳ねた跡が白くなって残る。集落中央にある駐車場に車を停める。冬の白川郷はテレビや写真で見たことはあるが、実物を見たのは初めて、夜にはライトアップされるのだろうか。メインロードの土産物店にも入ってみる。外国人の団体ツアーも来ている。雪は珍しいだろう。
 町外れ近くから西通りに入る。すると合掌造りのあの急な屋根の雪を下ろしているのに出くわした。急な勾配で雪は自然に落ちるのかと思っていたが、そうでもないらしい。聞くと下ろさねばならないと言われる。それにしてもあの勾配での雪下ろしは、何ともアクロバティックである。しかし屋根に雪が載っていてこそ風情があるのに、いくら保全とはいえ何とか調和できないものか。秋葉神社の鳥居をくぐり、であい橋へ、こうして庄川を渡ると、対岸に荻町集落をほぼ一望できる。
 昼近く白川郷を後にする。道の駅白川郷へ寄った後、高速へ入ろうとICへ行くと、事故があったとかで金沢方面へは下道を利用して下さいとのこと、国道へ回る。途中道の駅五箇山にも寄った。事故は白川郷ICと五箇山ICの間であったらしく、五箇山ICからは順調に帰ることができた。車はまるで消雪剤まみれ、洗車を余儀なくされた。