2012年8月31日金曜日

白山への登山路の軌跡

 白山への登山路の中で、石徹白からの美濃禅定道のみが残された未踏路だったが、この8月21日に踏破できた。振り返って、これまで歩いた登山路については、本来は記録に基づいて記載しなければならないのだが、今は取りあえず、ルートごとに、上ったのか、下ったのかと、もし特記すべきことがあれば記載するに止めた。いずれ記録を整理することが出来れば、その折には詳細な記載をしたい。以下、登山ルートごとに記す。
1.西側から:市ノ瀬口
1−1 アプローチ(市ノ瀬ー別当出合):いつ林道が開通したか覚えていないが、昭和30年当初は、まだこの径は歩くしかなかった。(上・下)
1−2 砂防新道(別当出合ー甚之助避難小屋ー南竜道分岐ー黒ボコ岩ー五葉坂下ー室堂):現在は別当覗上部に新設された径(古くは作業道)を通っているが、以前の径はもっと別当谷寄りにつけられていた。しかし山腹の地割れで、この径は現在は通れない。また甚之助小屋ができる前は、高飯場跡から径は直上していた。(上・下)
1−3 観光新道(別当出合ー別当坂分岐ー殿ヶ池避難小屋ー黒ボコ岩ー五葉坂下ー室堂):別当坂分岐までは、これまで地震とか水害で何回もルートが変更になっている。別当坂より上部は旧の越前禅定道である。ただ古くは五葉坂は通らず、径は水屋尻雪渓左岸に付けられていた。(上/下)
1−4 南竜道(南竜道分岐ーエコーライン分岐ー南竜山荘):新設された南竜山荘へのコース。(上・下)
1−5 エコーライン(南竜道分岐ーエコーライン分岐ー五葉坂下):南竜道の途中から弥陀ヶ原へ上る。(上・下)
1−6 トンビ岩コース(南竜山荘ートンビ岩ー室堂):このコースは旧美濃禅定道である。(上・下)
1−7 展望歩道(南竜山荘ーアルプス展望台ー平瀬道分岐ー室堂):新設のコース(上・下)
1−8 白山(越前)禅定道(市ノ瀬ー指尾ー別当坂分岐):以前は旧道と言われていて通ったことがあるが、その後荒廃していた。平成11年(1999)に復元された。(上・下)
1−9 釈迦新道(市ノ瀬ー湯の谷登山口ー釈迦岳前峰ー湯の谷乗越ー七倉山分岐):径は白山釈迦岳主峰を巻いている。主峰は眺望がきかない。(上・下)
1−10 別山・市ノ瀬道(市ノ瀬ーチブリ尾根避難小屋ー御舎利山ー南竜山荘):市ノ瀬からチブリ尾根を辿るコースである。(上・下)
2.白山山頂部
2−1 御前峰・大汝峰・剣ヶ峰:御前峰には白山比メ神社の奥宮、大汝峰には大汝神社がある。剣ヶ峰への登路は特にない。(上・下)
2−2 お池巡り:翠ヶ池、千蛇ヶ池、紺屋ヶ池、油ヶ池、血ノ池、五色池、百姓池などを巡る。室堂へは近道と周回するコースがある。(上・下)
3.北側から(一里野温泉、岩間温泉、中宮温泉、北縦走路)
3−1 加賀新道(一里野温泉ー檜宮ーしかり場分岐):ゴンドラを利用できる。(上・下)
3−2 檜新宮参道(一里野温泉ーハライ谷口ー檜新宮ーしかり場分岐):旧加賀禅定道である。(下)
3−3 加賀禅定道(しかり場分岐ー長倉山ー奥長倉避難小屋ー天池ー七倉山分岐ー大汝峰ー千蛇ヶ池ー室堂):七倉山分岐以降は、釈迦新道、岩間道と共通である。大汝峰は巻き道もある。(下)
3−4 楽々新道(新岩間温泉ー丸石谷林道登山口ー小桜平避難小屋ー樅ヶ丘分岐):樅ヶ丘分岐で岩間道と合する。(下)
3−5 岩間道(新岩間温泉ー岩間温泉元湯ーコエト小屋跡ー樅ヶ丘分岐ー七倉山分岐):岩間温泉は元は元湯の場所にあった。雪崩で倒壊した。元湯からは中ノ川にある岩間の噴泉塔群へ行ける。(下)
3−6 中宮道(中宮温泉ーシナノキ平避難小屋ーゴマ平避難小屋ー地獄覗ーお花松原ー千蛇ヶ池ー室堂):ずっと以前は避難小屋はなかった。室堂とお花松原の往復はある。(上)
3−7 北縦走路(野谷荘司山ー妙法山ーシンノ谷ーゴマ平避難小屋):野谷荘司山へは馬狩から鶴平新道を通って登れる。また三方岩駐車場からも行ける。残雪期には大門山まで(下)。無雪期は三方岩駐車場ー野谷荘司山ー妙法山間は往復。
4.東側から:平瀬口
4−1 平瀬道(大白川ダムー大倉山避難小屋ー室堂):以前は登山口の大白川温泉までは平瀬からは径しかなく、この間を歩いた。ダムができ、林道がついた。(上・下)
5.南側から:石徹白口
5−1 石徹白道(南縦走路)(石徹白登山口ー神鳩ノ宮避難小屋ー銚子ヶ峰ー三ノ峰避難小屋ー別山ー南竜山荘):今年念願の踏破ができた。(下)
 注:(上)は「上り」に、(下)は「下り」に利用したことを示す。

2012年8月30日木曜日

念願の白山美濃禅定道を下る〔二日目〕

 朝4時半に空が白み始めたが、夜半は満天の星で好天が期待されたものの、御舎利山はガスで包まれ出した。でもまだ油坂の頭はすっきり見えている。食事をして、南竜山荘(2080)を5時に発つ。柳谷を渡り、泥濘を避け、一旦キャンプ場へ上がり、キャビンから迂回して木道に出る。そして一気に赤谷へ下る。ここから油坂の頭(2256)まで230mの上り、ここ油坂はこのコース最大の登りである。凡そ半分ばかり上ると、南竜山荘の赤い屋根が見えてくると同時に、エコーラインと御前峰が全貌を現す。斜面は一面にチングルマの大群落、もう花期は終わって実になっている。頭まで40分、カライトソウが沢山咲いている。尾根をしばらく歩くと天池、辺りにはイブキトラノオが咲き誇っていた。7月だとここにはシナノキンバイの大きな黄色い花が見られる場所だ。行く手に大屏風(2278)が、左手東側が急な崖となって切れ込んでいる。進むにつれガスが濃くなってきた。もう御舎利山も別山も見えない。漸く見慣れた御舎利山の巻き道に入り、山の頂への分岐を過ぎると、別山(2399.4)は近い。しかしガスで頂きは見えない。ここまで3時間を要した。別山神社に参拝し、小休止する。時折ガスが切れると、一面の雲海だということが分かる。彼方に御岳や乗鞍岳が垣間見える。片や西側の石川県側は晴れていて眩い。
 さあここから南へは初めて通る径、ガスの中、やせ尾根を下る。200mばかり下ると御手洗池が見え、別山平に達する。時折ガスが切れ、振り返ると白山本峰や別山が見える。7月だと一面にニッコウキスゲが咲くという別天地、昔は此処に別山室があったという。実に素晴らしい環境の場所だ.ここから三ノ峰との鞍部まで下り、チシマザサの斜面をかき分けて登り返すと三ノ峰(2128)の頂上に出た。別山から1時間50分を要した。肩辺りまでの笹原、頂上から三ノ峰避難小屋(2128)は見えない。以前には見えたように思ったが、とにかく笹薮が凄い。笹薮を漕いで少し下ると小屋が見えてきた。驚いたことに、小屋の前の空き地にはオオバコがびっしりと生えている。どうしてここに生育しているのか、これはハクサンオオバコではない。ところで避難小屋はきれいに整理整頓されている。先月下旬、金大山岳会の3名(うち1名は私と同年輩)が石徹白から登り、2泊目はここで過ごしている。
 小屋の前で、西へ行く上小池へ下る鳩ヶ湯新道と分かれ、東の方へ行く。径は南へと向かい、緩く上って福井県最高峰の打波ノ頭(2095)を過ぎ、笹原の中を二ノ峰の鞍部へと下る。どこまでも笹原の中に一筋の径が続いている。二ノ峰との鞍部を少し過ぎた平地に水呑釈迦堂の跡との標識があり、水場の標識もある。径は二ノ峰(1962.3)へと上っていて、峰の頂きの西側を巻いている。頂を過ぎると二ノ峰の下り、一ノ峰への鞍部へはかなり急な下りだ。ここで石徹白から登ってきたという若者に出会う。今日は南竜まで、明日は御前峰へ行き、この径を石徹白まで引き返すとか、恐れ入った。鞍部からは一ノ峰(1839)へ登り返す。振り返ると二ノ峰が大きく立ちはだかる感じだ。この頃になると日射しが強くなり、汗だくとなる。一ノ峰から銚子ヶ峰の方を見ると、尾根上にピークが二つ見え、奥の方が銚子ヶ峰と聞いた。一旦鞍部へ下り、登り返すと手前のピーク(1784)、更に尾根を緩く上り、雲石ももすり岩を過ぎると銚子ヶ峰の頂(1810.4)に出た。方位盤が置かれている。時刻は12時半、三ノ峰避難小屋から2時間15分を要した。通常は2時間の行程だという。小休止し、宮川氏から今宵の宿の鴛谷さんに連絡してもらう。登山口(960m)には午後3時に迎えるとのこと、ここから850mの下りである。
 銚子ヶ峰から少し下ったところに母御石という大きな丸い石が積み重なっている場所がある。ここからの緩い下りは灌木混じりとなり、40分ほどで神鳩ノ宮避難小屋(1750)に着く。この小屋もきれいに整備されている。ここから石徹白の大杉までは700mの下り、途中おたけり坂という100mで80m下るという急坂がある。この坂を過ぎると径はブナ林に入り、暑さは和らいでくる。小屋から1時間20分弱で大杉に着いた。もう後は420段の石段を下れば、駐車場のある石徹白登山口である。鴛谷さんが待っておいでた。こうしてどうやら宮川氏の協力もあり、美濃禅定道(南縦走路)を踏破することができた。鴛谷さんとの再会を喜び合う。南竜山荘から休憩も含めて10時間の行程であった。累積高度差は、上り900m、下り1965mであった。
 民宿「おしたに」の夕食は川魚づくし、イワナ、アユ、アマゴ、ゴリ、ほかに海の魚の刺身も、充分堪能した。翌朝は日本の原風景という在所を二人で散策し、大師堂へも寄った。迎えの前田車は朝6時40分に着いた。

2012年8月28日火曜日

念願の白山美濃禅定道を下る[一日目]


後期高齢者とはよく言ったもので、登山にしろスキーにしろ、足の萎えをこの2年前から感じるようになった。このようなことには家内は敏感で、この計画は無理だと言い出す始末。しかし永年の念願なので、とにかく8月20日(月)に南竜山荘に入り、21日(火)に石徹白へ下ることを、サポートしてくれる前田・宮川両氏に伝えた。それで家内には、初日に別当出合から砂防新道を経て室堂に行き、御前峰に登拝して、トンビ岩コースを南竜山荘へ下るが、この時点で障害が出れば、翌日の石徹白への下山は断念する。また翌日に油坂峰までにトラブルがあれば南竜へ引き返す。それが別山であれば、千振尾根から下山する。それが三ノ峰であれば、避難小屋で泊まるか、鳩ヶ湯へエスケープする。銚子ヶ峰であれば、神鳩ノ宮避難小屋で泊まる。という話をした。彼女は私と千振ー別山ー南竜のコースは順も逆も何度か通っている。ということで漸くゴーのサインが出た。


8月20日(月)
 午前4時きっかりに前田車が到着した。この山旅をエスコートしてくれる宮川氏も同乗している。登山の最盛期には月曜の正午まで交通規制がかかるのだが、今日は別当出合まで入れるとかで、5時10分には別当出合手前のゲートに着いた。支度をした後に前田氏が写真を撮ってくれたが、私はどうも元気がないと言う。それかあらぬか、出立前に二度も握手をしてくれた。私は山は今年初めてである。宮川氏は上背もあり、私より一回り若く、元気である。ゲートから別当出合の休憩舎まで15分ばかり、いよいよ出立である。
 彼の「ゆっくり行きましょう」という声に甘えて、マイペースで歩く。もう以前のように抜かれることに対する抵抗は全くなくなっている。出足の2009年新設の坂の急登を経て中飯場、そして別当覗へ、この辺りにはまだセンジュガンピが咲いている。さらに2007年に付け替えられた径を辿り、程なく2010年に新築された甚之助小屋に着く。ここまで別当出合から丁度2時間、彼は標準タイムだと慰めてくれる。小休止後、尾根筋を南竜道分岐へ、この時期ハクサントリカブト、サラシナショウマ、ミヤマアキノキリンソウ、ヤマハハコが見られる。
 ここから二の坂、三の坂を経て、十二曲りへと径は斜上する。まだ花がk多い。ハクサンフウロ、シモツケソウ、」イブキトラノオ、マルバダケブキ、タカネナデシコ、モミジカラマツなど。砂防新道は水が豊富で、水を持参してなくても大丈夫だ。沢の冷たい水で喉を潤す。十二曲り手間の沢も水が豊富だ。そしていよいよ急登、まだニッコウキスゲも少しだが残っている。途中の延命水も飲まずには通り過ぎられない。やがて黒ボコ岩、そして弥陀ヶ原へ、観光新道にしろ砂防新道にしろ、御前峰はここへ来て初めて拝むことができる。まだ水屋尻雪渓も残っている。それにしても弥陀ヶ原はチシマザサの原に変わってしまった。わずかにウラジロナナカマドのみが点在している。あと100mの上り、五葉坂を上りきると室堂だ。別当出合を出てから4時間4分、3時間を切った頃が偲ばれる。
 室堂で小休止し、ザックを置いて御前峰へ、室堂平にはイワギキョウやハクサンフウロが乱れ咲いている。オンタデも多い。整備された石段道を頂上へ、青石は地上界と天上界の境とされ、ここで3分の1、そしてやがて高天ヶ原、ここで半分、眺望も良くなり、程なく白山比め神社奥宮へ着く。室堂から丁度40分、お参りの後頂上へ、ガスが湧いてきて大汝峰は霞んでいる。頂上に陣取って食事をしているアベックがいる。早々に室堂へと下りる。次々と登ってくる。下りに27分を要した。小憩の後トンビ岩コースから南竜山荘へ向かう。途中チングルマが咲き誇っている場所があったが、遅くまで雪渓が残っていたためだろう。でも大部分は稚児車になっている。室堂から1時間5分、12時40分に山荘に着いた。この日の累積標高差は、上り1435m、下り640m。この分なら明日は別山越えは出来そうな気がする。ビールと焼酎で喉を潤す。宿泊客は十数人とこの時期にしては少ない。中に岐阜の若者で上小池から登り、明日は御前峰へ行き、別山越えして登った径を下りるという人と同宿になる。三ノ峰と別山の間は草が繁っているとか、南竜の管理人では来週三ノ峰まで草刈りをするとか、もう少し早くにしてほしいものだ。
 夜は満天の星、月は四日月か、明日は好天なのだろう。

2012年8月25日土曜日

念願の白山美濃禅定道を下る〔まえおき〕

 白山へ登りはじめてから半世紀、正確に何回登ったかは整理しないと定かではないが、記憶の中では、年に17回というのが最も多いと思っている。大学に入るまではせいぜい年に一度程度、金沢大学に入ってからも、山岳部での活動の場のメインは北アルプスだったこともあって、白山に入れたのは年に数回程度だった。薬学部を卒業して石川県衛生研究所に就職して微生物検査に従事するようになってからは、山へはそんなに入れず、山へは年に数回、白山へは時折ストレス解消のため登っていたような状態だった。その後研究のため、当初は金沢大学細菌学教室(後の微生物学教室)、そしてその後新設されたがん研究所ウイルス研究部門へ移ってからは、昼間は衛生研究所の微生物部で業務をこなした後、夜間は大学で研究に没頭するようになり、山へは年に一度出かけられれば上等で、徹夜で仕事をすることも多かった。山のことは頭の片隅にはあったが、日常の検査業務と大学での研究テーマの遂行に懸命だった.しかし昭和50年には、一定の成果を上げることが出来、学位が授与された。
 ところで私がタッチしていた分野はウイルス関係、県ではインフルエンザ、日本脳炎、ウイルス性下痢症のほか、インフルエンザ以外の上気道炎起因性の呼吸器ウイルスに対するサーベイにも取り組んでいて、当時は総勢3名で検査に当たっていた。とりわけこれら対象とするウイルスの検出には、生きた細胞が必須で、その培養が隘路になっていた。すなわち生きた細胞を閉じた空間で培養しようとすると、常に栄養物を与えなければならない一方、代謝された老廃物を除去してやらねばならないという作業がどうしても必要で、それには少なくとも3日おきにメディウムチェンジが必要だった.ということは、一人で責任を持って細胞培養をしようとすると、4日以上細胞を放置することは細胞を死に追いやることになりかねず、もし山へ出かけるとしても、3日以上連続して入山することは控えざるを得なかった。もっとも非常手段がないわけではないのだが、ウイルス検査をスムースに遂行するには、健全な細胞を常に確保しておくことが最低限必要だった.
 学位取得後は、衛生研究所の業務のみに没頭できるようになり、ウイルス性の上気道疾患や下痢性疾患の原因究明がメインになった。しかしそれには細胞培養が必須の業務で、3名がそれぞれ分担して2〜3の培養細胞を持っていた。しかし細胞培養の合間を縫えば、山へは長期間は無理だが、3日間を限度としての入山は可能になった。病気の流行期や学会発表期での入山は困難だが、この時期、よく近場の山、とりわけ白山や白山山系の山々にはよく出かけたものだ。特に白山の多くある登山路には足繁く歩を運び足跡を残した。その結果は部屋に貼った5万分の1地形図10枚を繋ぎ合わせた図に克明に赤線でトレースした。因みに10枚というのは、北から「金沢・城端」「鶴来・下梨」「白峰・白川村」「越前勝山・白山」「荒島岳・白鳥」である。
 白山の登拝路は、泰澄大師の開山以降、美濃・越前・加賀の三馬場を起点とした禅定道が発達した。中でも美濃馬場と白山御前峰を結ぶ美濃禅定道は、「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われ、三登拝路の中では最も賑わった。かつての修験道は、美濃馬場の長滝白山神社の裏手の山から尾根伝いに、西山・毘沙門岳・桧峠・大日ヶ岳・芦倉山・丸山と辿り、神鳩社で一般登拝路と合流していた。この間10の宿坊があったという。一般の登拝路は、石徹白の上在所にある白山中居神社の裏手の尾根から初河谷、倉谷を渡り、大杉に至るもので、このルートは毎年7月下旬に石徹白の人たちの手で刈り分けされているという。でもこのルートは40年程前に石徹白川に沿って林道が造られ、かつ大杉まで420段の石段ができて以降は、石徹白道の起点はこちらに移ってしまった。しかし石徹白の大杉から白山に至る石徹白道(南縦走路とも言われる)は忠実に美濃禅定道そのものを辿っている。ただ赤谷から南竜ヶ馬場へ上がる径は古い径とは異なる。もっとも古い径は廃道となっている。南竜ヶ馬場からトンビ岩への径には、往時の石畳道が残存している。
 このように往時の禅定道が脚光を浴びて再開されたのが加賀禅定道で、道筋は尾添尾根を忠実に辿るもので、尾添(一里野温泉)が起点となっている。また越前禅定道は市ノ瀬からの旧道として一部が残存していたが、その後荒廃してしまったものの、十数年前に白山(越前)禅定道として市ノ瀬〜慶松平〜別当坂下間が復元された。それより上部は観光新道としてよく利用されている径だ。

2012年8月17日金曜日

退職記念夫婦旅行(3)広島・鞆の浦温泉

・3日目:8月5日(日)宿泊:鞆の浦温泉 汀亭(みぎわてい)ー遠音近音(をちこち)
 朝、ゆったりと掛け流しのお湯に浸り、車の迎えが9時とのことで、昨晩と同じ場所で豪華な朝食を頂く。充実した一夜だった。
 あの豪華な山門をくぐって外へ出ると、既に昨日の阿蘇タクシーの方がもうスタンバイされていた。今日は熊本市内へ直行と思いきや、国道不通でまた昨日通ったあの阿蘇外輪山経由で熊本へ向かう。昨日通ったのと同じかどうかは定かではないが、二度ばかり展望所で止まり、カルデラを俯瞰する。道はひたすら西へと進む。しかし里へ下りてくると、そろそろ渋滞の兆候が見えてきた。目指すは熊本城とか。どこで「まつり」が催されているのかは不明だが、運転手さんはできるだけ混雑を避けているとか、お任せするしかない。そして漸く二の丸駐車場へ。そして西大手櫓門、頬当御門、宇土櫓、天守閣を巡る。天守閣は昭和35年(1960)に復元されたという。城内には当時の衣装をした侍などがエキストラ出演をしていて賑わいを見せていた。小一時間を過ごし、熊本駅へ。そして14:26のさくら558号で福山駅へ、16:39に着いた。ここからタクシーで鞆の浦へ、約30分で今宵の宿に着く。街並の続く道路は極端に狭く、車の交差はままならない。架橋が検討されたが、景観を損ねるとかで、山側にトンネルが検討されているそうだが、どちらにせよ、町中の交通渋滞の解消には全く役に立たない感じだ。難しい問題だ。
 宿は平成22年(2010)にオープンしたばかりの宿、全室に温泉露天風呂がついていて、眼下に鞆の浦を見渡せる。記帳時に宿の名の由来となった短歌を紹介された。部屋は3階の和室。貸切り風呂は2室のみで予約制とか、早速申し込んだ。この時間まだ申込者はなく、すぐにOKとなった。時間は40分、広い窓からは鞆の浦を挟んで弁天島と仙酔島が見えている。舩が行き来している。また部屋にはウッドデッキが付いていて、そこにも大きな陶製の露天風呂が置かれている。ゆったりと寛ぐ。ツインの和風ベッドは中々優雅だ。
 案内があり1階のダイニング「立風(そう)」へ。メインは瀬戸内の旬の食材を使用した創作料理とか。献立は次のようだった。〔前菜〕干し貝柱餡かけ(冬瓜スープ煮、平貝焼霜、新生姜、くこの実、赤にし貝と夏野菜=姫人参、アスパラ、アボカド、蓮芋の杏ソース和え、福山産渡り蟹・糸瓜の土佐酢ジュレ掛け、水茄子白酢掛け、地穴子小袖寿司)。〔御造り〕青竹盛り露見立て(鱧落とし・梅肉山葵・蛙胡瓜、石鯛御造り/中とろ/加賀太胡瓜、なごや河豚・走り島ちりめん卸し・いくら・縒り南京・本山葵)。〔焼き物〕瀬戸内めばる炭火焼き(福山無花果・姫おくら・鱧の子餡・白髪葱)。〔冷鉢〕茄子二色素麺寄せ(焼き玉蜀黍・順菜・針ラデッシュ・美味出汁)。〔温鉢〕あこうのしゃぶしゃぶー白味噌仕立て(水菜・豆腐・神石産たもぎ茸・山葵麩巻白菜・黒七味)。〔肉料理〕黒毛和牛ステーキーバルサミコソ−ス(辛子蓮根豆んだ揚げ・南京籠・万願寺・しまなみレモンと海人のレモスコ・クレソン)。〔御食事〕鯛釜飯ー香の物(土瓶仕立て・干し椎茸・昆布)。〔水菓子〕完熟トマトジュレ(フルーツトマト・キュウイソース・ミント・白桃・因島産二色西瓜)。抹茶ムース最中(小倉餡・抹茶粉)。中でも蛙胡瓜は極めてユニークだった。

四日目:8月6日(月)
 朝食は海に面したテーブルで頂く。今日の観光タクシーは9時に待ち合わせとか、今日の予定は尾道の寺巡りと平山郁夫美術館だったが、初めに平山美術館へ。鞆の浦の狭い路地を抜けて、しまなみ海道へ向かう。平山美術館が何処にあるのかを知らなかったのは浅学菲才だったが、尾道大橋、新尾道大橋を渡り向島へ、さらに因島大橋を渡り因島へ、さらに生口橋を渡って生口島へ、そしてここに美術館があるのは、平山郁夫がこの地で生まれたからだと漸く認識した。私たちがよく接する「仏教伝来」の絵もあるが、むしろ幼いときからの成長の軌跡や大作のスケッチや下絵など、平生お目にかかれない作品が多く展示されていた。
 美術館を出て駐車場へ向かう。すると途中に極彩色のお寺が見えた。訊くと潮聲山耕三寺だという。見ますかと言われ、何か興味がひかれ、きっと南蛮由来の寺だと思って門を潜った。山門も中門も極彩色、受付でこの寺が浄土真宗本願寺派と聞いてびっくりした。開山は大阪で大きな製造会社を営んでいた社長が、母の死に接し僧籍に入り、三十有余年をかけて造営した「母の寺」だとか。伽藍配置は上・中・下段からなり、厳密な左右対称、模倣ではあるが、堂塔の内の15棟が「国登録有形文化財」の指定を受けているとか。驚いた。境内では丁度蓮の花が見頃、埋め尽くされていた。それはそうと、顰蹙をかっている越前大仏は大阪のタクシー会社の社長が自分のために建立したものだった。
 タクシーで尾道へ戻る。土産物を求めようとするが、目ぼしいものはない。少し回ってもらったが埒が開かず、予定の新尾道駅へ。ここは新幹線でも田舎の駅、「こだま」のみ停車、新大阪駅まで正に鈍行、駅ごとに3分〜5分の待ち合わせ、2時間を要した。

2012年8月14日火曜日

退職記念夫婦旅行(2)熊本・黒川温泉

・2日目:8月4日(土) 宿泊:奥黒川温泉 里の湯ー和らく
 隼人駅から特急で鹿児島中央駅へ、ここから9:30発のさくら550号で熊本駅へ、10:25に着いた。ここから高速バスの「九州横断バス」に乗る。当初このバスに乗って阿蘇駅前まで行き、ここで黒川温泉行きのバスに乗り換えて行く予定にしていたが、件の豪雨で国道57号線が寸断されているので、新しい案では、阿蘇猿まわし劇場でバスを降りて、ここから迎えのタクシーで宿へ向かう段取りになった。このバスは熊本から阿蘇を巡って黒川温泉、由布院温泉を経由して別府へ行くという。指示どおり私たちのみバスから降りると、そこに阿蘇エースタクシーが待っていた。時間は12時過ぎ、乗って話していると、今日は黒川温泉まで案内し、明日は阿蘇の火口付近と草千里、その後熊本市内観光をすることになっていて、今日の午後と明日の午前は貸切りでお客様専用になっているという。ところで、阿蘇は明日観光することになっているが、熊本市では「火の国まつり」が催されていて、市内は交通渋滞が予想されるので、今日阿蘇巡りをして、明日は直に熊本へ行くようにした方がよいと仰る。お任せすることにした。
 車はお椀を伏せたような米塚(954m)の裾から高度を上げて、烏帽子岳(1337m)の麓に広がる一面の草原の通称「草千里」に至る。この辺りまで上ると、山肌が数条にわたって焦げ茶色の地肌が剥き出しになっていて、一面の緑の中に痛々しい傷痕を晒している。あの豪雨が此処でも猛威を振るったことが歴然としている。阿蘇山ロープウェイを左に見て、有料の阿蘇山公園道路へ入り、中岳(1506m)火口へ向かう。凄く風が荒い。吹き飛ばされそうな風、火口からは白い煙が立ち上っている。しかし風で煙が吹き消されて、底に緑色の池が垣間見えた。神秘的な色だ。あれは水だという。火口壁は荒々しい断崖、これ程に活動している火山の火口を目の当たりに見るというのは、他に例がないのでは。活火山は大概が立入禁止になるのに、此処だけは例外らしい。しかし至る所にシェルターがあり、これが必要なこともあるのかなあと思ったりする。
 再び車上の人となり、パノラマラインを北へ向かい、所々に設けられている展望所で広大なカルデラや外輪山を眺める。また外輪山の上を走る道路からは、急峻な外輪山や阿蘇五岳が見え、十分に阿蘇を堪能した。この後どういう道程で、どこをどう通ったかは皆目検討がつかないまま、午後3時頃、今宵の宿の「里の湯ー和らく」に着いた。広い道路から狭い山道を回り込んでの最初の宿だった。パンフレットには奥黒川温泉とあったが、入り口なのか奥なのか、この山の中では判然とせず、また見回しても周りに宿は全く見えない。当初は湯巡りを楽しもうと思っていたが、とても歩いて巡るのは、この宿からは難しそうなので、断念した。入口は巨大な茅葺きの山門、タクシーが着くとすぐに宿の人が出迎えてくれた。バス停からだと徒歩で30分とか、タクシーで助かった.
 記帳を済ませ、11室あるというとある和室に案内される。入り口は6畳、テーブルが置かれ、奥には板張りの和室に和風ベッド、既に布団が敷いてある。どこかでも経験したが、お客が部屋に入ってから出るまで、宿の人は一切干渉しないということらしい。和室の奥は板張りの広いテラスになっていて、テーブルとチェアが置いてある。和室の向かいはドアで仕切られ、洗面所とトイレ、その奥にはテラスとは大きな透明なガラスで仕切られた大きな檜の湯船、大きさは縦3m横2m、深さ60cmばかり、お湯が掛け流しになっている。実に贅沢だ。テラスや湯船からは、火焼輪知川のせせらぎをはさんで、緑の野山が見渡せる。
 露天風呂へ行く。この時間帯、男性は洞窟風呂の穴湯、部屋の湯と同じく無色透明な湯。一方この時間帯は女性専用の露天風呂は、お湯が乳白色、泉質が違うようだ。穴湯は岩が円形にくり抜かれた空間に円形にくり抜かれた岩風呂、ふんだんな掛け流し、至福の一時である。部屋は自動ロック、キーは2個あり、それぞれに持っているので、好きなだけ浸かっておられるのが良い。泉質は乳白色の含硫黄泉とナトリウム塩化物・硫酸塩泉(弱酸性低張性高温泉)、泉温は90℃、流量は100ℓ/分。ここ黒川温泉では6種類もの温泉が楽しめるという。湯巡りが推奨されるわけである。
 しばらく寛いでから食事へ、食事処は母屋にある「むぎの香」、オープンキッチンになっている。祝酒のレーベンブロイで乾杯し、お酒は生ビールとモエ。料理は以下のようだった。
 〔和彩〕箒茸信田巻豚肉角煮、水前寺生海苔鳥貝旨酢掛け、焼茄子蛸梅肉漬け。〔味彩〕穴子チーズ焼、銀杏松葉串、馬肉たたき、プチトマトワイン煮、フォアグラのソテー、石川小芋雲丹焼、鰯梅煮。〔小向〕太刀魚昆布〆焼霜造理。〔向附け〕鰺姿造理、鮪平造理、鯒薄造理。〔合肴〕舌平目木の芽揚げ。〔お凌ぎ〕三味素麺。〔留肴〕和牛ステーキ野菜添え。〔食事〕梅茶漬け。〔新香〕いぶりがっこ、野沢菜昆布。〔水菓子〕デザート盛り合わせ。

2012年8月13日月曜日

退職記念夫婦旅行(1)鹿児島・日当山温泉

 私が退職したら何処かへ旅行しようというのは、かなり前から話し合っていた。家内の姉妹たちと京都へ行った際に、家内はこの会を主宰した姪の旦那に、私たちの計画を話したようで、私の退職後に打診があった。姪の旦那は県の教育委員会にいたこともあって、修学旅行の設定にも関わりがあり、ある旅行会社の学校関係の旅行担当の職員とはコンタクトがあり、その方に私たちの旅行も相談されたようだった。京都への旅行の設定も彼氏に負うところ大だったとか、お任せすることにした。
 退職したある日、担当の方から一度ご来店願いたいとのこと、家内と出かけた。家内はまだ勤務があるので、条件は3泊4日の旅程、私も家内も北の方を希望したが、この日程ではどうしても飛行機を利用しなければ窮屈になること、家内は飛行機はイヤということもあって、案として、新幹線で九州へ行って、鹿児島近辺の温泉に泊まり、家内は九州へ行くなら黒川温泉へとの希望も入れ、帰りは本土に戻って、鞆の浦辺りで泊まって帰沢するというのはどうですかとの案を出された.これに異存はなく、その線で進めていただくことにした。日程は8月3日(金)〜6日(月)である。
 この間九州の北部中部を中心に梅雨明け間近の集中豪雨があり、旅行が危ぶまれたが、担当では一部旅程を変更したものの、大筋では問題なく遂行できるとか、2週間前には最終旅程表も頂き、必要な交通機関の運賃、宿泊料金、観光タクシー料金等を支払った。その額は35万円、今まで経験しない額の旅行、まあ退職記念とあればそれも良しとするか。

初日:8月3日(金) 宿泊:日当山(ひなたやま)温泉 数奇の宿ー野鶴亭(やかくてい)
 金沢駅を7:02発のサンダーバード6号で新大阪駅へ、乗り換えて、さくら551号で新しく出来た九州新幹線で鹿児島中央駅へ、14:05に着いた。7時間の旅、当初は鹿児島市内で昼食をと思ったが、腹持ちもよく、そのまま日豊本線の特急に乗り、特急で1駅の隼人駅で下車する。この間電車は錦江湾に沿って、右に湾を隔てて桜島を眺めながら走る。この間30分ばかり、トンネルも多く、風光明媚な線だ。下りた駅は田舎の駅、今観光線として脚光を浴びている肥薩線の起点駅でもある。でも田舎の駅であることに間違いはない。今宵の宿の日当山温泉へはタクシーで約13分の距離、後で分かったことだが、宿へ連絡すれば迎えがあったとか、翌日は駅まで送ってもらった。鹿児島空港とも近い。
 日当山温泉は平地で、近くには天降川が流れ、源は霧島連峰、上流には霧島温泉郷があり、その最も下流というか入り口に位置する。宿は純和風数寄屋造り、ロビーで抹茶を頂き、チェックイン後、回廊のある離れへ案内される。離れの名は「閑閑庵」。玄関から部屋へ案内される。メインは10畳半と8畳の間、縁があり、手入れされた庭が付いていて、その一画には大きな石をくり抜いた露天風呂が鎮座していて、お湯が掛け流しになっている。訊けば湯量が大変多く、大浴場もそれに付属する大露天風呂も掛け流しとか、泉質は炭酸水素塩泉とかだった。何とも贅沢な宿だ。大浴場(50名)と大露天風呂(30名)は続いていて、男女入れ替えは朝4時にあるため、晩と朝に入ると、両方を味わえる。早速にかなり離れている大浴場へ入りに行く。まだ時間が早いからか誰もいない。ゆったりとお湯に浸かる。上がると冷えたビールが出た。
 夕食は懐石料理、部屋まで運ばれる。家内はビール、私は地元の生酒や焼酎を頂く。料理に魅せられてお酒がすすんだのは言うまでもない。以下にこの日の献立を記す。
 〔青葉の雫〕:ところてん吸酢(順菜、胡麻、花付胡瓜)、小鮎いぶし、穴子八幡巻、川海老、枇杷黄味鮨、鴨と胡瓜松葉串、紫陽花もどき梅、太刀魚南蛮漬け。〔吸物〕:鱚葛叩き冬瓜すり流し仕立て(あじさい独活、湯葉、木の芽)。〔造り〕:旬の盛り合わせ(海老、赤身魚、白身魚、初夏の妻色々)。〔煮物〕:冷しのっぺ(小芋、海老、南瓜、鮑、蓮根、オクラ、小茄子、百合根、振り柚子)。〔焼物〕:鰻白焼(針葱、山葵おろし、葉地神)。〔鍋替り〕:黒毛和牛石焼き。〔温物〕:甘鯛古代米山葵蒸し(東寺あん、生ウニ、くこの実)、〔強肴〕:鱧火取り生姜酢(胡瓜、蛸湯引き、梅肉)。〔食事〕:ちりめん釜焚き(木の芽)。〔留椀〕:赤出し汁。〔香の物〕:三点盛り、生節。〔果物〕:とうもろこしプリン、メロン、桜桃。〔甘味〕鶯あん、わらび餅。
 翌朝、今一度日替わりの湯に浸り、お食事処「餐饌(さんせん)」で、真ん前に中庭を見渡せる円形の帯テーブルで朝食を頂く。飯は「おかゆ」にしてもらった。お菜は全て旬の地の物、見ていて楽しくなる品々、最高のもてなしだった。料理も接客も素晴らしかった。そういえば、夕食時に女将さんが挨拶に見えられていた。
 またこの旅行が私の退職記念だと知って、夫婦箸と珍しい箸置き、それにお揃いの扇子を頂戴した。それに「野鶴」という化粧箱入の焼酎も。この好意には甘えることにした。