2014年12月26日金曜日

朋友の古屋宏君逝く

 私は昭和12年2月生まれの77歳、昭和24年3月に野々市小学校を卒業し、昭和27年3月に野々市中学校を卒業した。そして成人式を挙げた頃だったろうか、それぞれの卒業生が合同の会を持つことになり、「子うし会」という会をつくった。これは小・中を通じて1学級だったから出来たのであって、今時のマンモス校であってはとても出来ることではない。したがって小学校にはいたが中学校は転校や進学で他校へ行ったり、またその逆だったりの場合もあるが、ともかく多数が小中一緒だったこともあって、すんなり会が出来た。会の雰囲気はとても和気あいあいで和やかだ。人数は延べにすると男28名、女26名だが、今は鬼籍に入った人もいて、昨年行なった喜寿の祝いの時点では、男19名、女21名になった。
 私たちの年頃になると,私のみではなく皆さん新聞のおくやみ欄に目を凝らすようになるという。もっとも逆にわざと見ない人もいないわけではない。今年3月に亡くなった同窓生だった源野君の場合、私はうっかり見逃してしまい、同窓の女性から連絡を受けて初めて知った始末だった。今度の古屋君の場合も、この欄は見たはずなのにまたも見逃していて、先に知った家内からの電話で初めて知った始末、実に注意力散漫になってしまった。古屋君が大腸がんで手術するとは聞いて知ってはいたが、彼が話す声には思いのほか張りがあり、明るさがあったことから、亡くなったと聞いた時には本当に信じられなかった。いつも明るくひょうきんで、皆を笑いに誘う特技を持ち合わせていた彼、何か急変するような事態が起きたのだろうか。遺族の方からは、病気の経緯については一切話がなかったし、私からもことさら訊ねもしなかったが、何となく気掛かりだった。
 通夜は平成26年12月22日、葬儀は翌日に、野々市紫雲閣で執り行われた。 合掌。
 葬儀の日、私の独断だったが、遺族の了承を得て、次のような弔辞を読ませて頂いた。

「弔 辞」
 子うし会の会員だった古屋宏君のご霊前に、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 この子うし会というのは、昭和十一年生まれの子年と昭和十二年生まれの丑年の集まりの会で、小学校と中学校での同窓生の会です。毎年一回皆が集まって旧交を温めて来ました。今年も春五月に富山の雨晴で会を持ちました。貴方はいつも率先して会のお世話をして下さっていましたが、今年は一寸身体の具合が悪いとかで欠席されました。お聞きしましたところ 悪性腫瘍の疑いがあるとかで、通院なさっているとか、でも電話でのお声を聞いていると、いつもと同じ明るく元気なお声、きっとそのうち本復されて、また会にも出て頂けると信じていました。貴方は会ではいつも座を取り持たれ、皆を笑いに誘う術を持ち合わせておいででした。貴方と話していると本当に心が和み、実に楽しい一時を過ごすことが出来たものです。この素晴らしい特技はきっと持って生まれた天性だったのでしょう。
 貴方の近況を会の世話人の薮内君から聞いたのは先月のことでした。電話でのコンタクトでは、大腸に腫瘍があって手術で取り除くのだとのこと、でも貴方の声は元気な頃と同じように明るくて、薮内君の言では全く心配はないようだとのことでした。ですから貴方が突然彼岸へ旅立たれたと聞いた時は、〔本当にまさか」との思い、とても信じられませんでした。そんなに病状が深刻だったのだとは思いもよりませんでした。
 今私の脳裏に去来し思い出されるのは、ただただ貴方の素晴らしい、どんな人をも和ませてしまう笑顔です。古屋君、こんなに早く貴方と永久の別れをしなければならなくなるとは、本当に思いもよりませんでした。どうか安らかにお休みになって下さい。
 「さようなら」。
 平成二十六年十二月二十三日
  子うし会代表 木村 晋亮

2014年12月4日木曜日

シンリョウのツブヤキ(12)11月の花 

 11月に家の庭 (露地) で花が咲いた木々と草花を記した。植物名は50音順に記した。
 植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
 植物名の後に(4〜)とあるのはその数字の月に初出したもので、科名属名は省略した。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
 また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種であることを示す。
 
1.木 本
 シキミ(5〜) ヒイラギ(モクセイ科 モクセイ属)
 ヤツデ・テングノハウチワ(ウコギ科 ヤツデ属) ヤブツバキ・ツバキ・ヤマツバキ(4〜)

 以上 4種 (4科 4属)

2.草 本
 アキチョウジ(10〜) イヌタデ(タデ科 タデ属) オニタビラコ(4〜)
 キチジョウソウ(10〜) コナスビ(5〜)
 セイタカアワダチソウ・セイタカアキノキリンソウ〔外・栽〕(10〜)
 セイヨウタンポポ〔外〕(4〜) ツワブキ(キク科 ツワブキ属) ハルタデ(5〜)
 ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外・栽〕(4〜) ミズヒキ(6〜)

 以上 11種 (5科 9属) 

2014年11月8日土曜日

小谷温泉の山田旅館と蕎麦屋の蛍(その2)

 翌朝早くに別館の露天風呂に行く。見ると下の道路には沢山の車が上がって来る。きっと雨飾山 (1936m) か大渚山 (1566m) へ登るのだろう。今日も良く晴れていて素晴らしい登山日和だ。食事は7時だったので、終わってもう一度露天風呂へ行く。するとこの時間になっても、次から次へと車が上がって来る。こんなに沢山の車を停められる駐車場が山奥にあるのだろうかと訝る。部屋へ戻って家内に露天風呂は私一人だったと言うと、一緒に入れば良かったとのこと、家内では、女性の露天風呂は眺めが悪くて趣きがなく、ある女性は大胆にも男性の露天風呂に挑戦したとか。簾で周りを囲まれていれば情緒がないというものだ。
 9時にチェックアウトする時に、女将さんにあんなに沢山の車は何処へ行くのかと訊くと、山もさることながら、4km ばかり先に鎌池という池があって、そこも人気のあるスポットとのこと、そこでその池に行ってみることに。この鎌池林道は舗装されていて実に快適、標高が上がると山々は錦繍に包まれていて、実に素晴らしい光景になった。本当に来た甲斐があったというものだ。さらに進んで鎌池へ、ここの標高は 1180m、ここには広い駐車場があって、沢山の人が来ていた。池の周りを巡る径があり、一周した。雨飾山が、ある場所では大渚山が、湖面にその姿を映していた。ただ池の周りの木々は大方落葉していて、径は落ち葉で埋もれていた。一周した後、湖畔にある鎌池ブナ林亭で小憩した。
 林道に戻り、途中から雨飾高原キャンプ場に向かう。ここは雨飾山の南側からの登山口になっているが、駐車場から溢れた車が途中の路肩に延々と駐車している。百名山になってからというもの、登山者が急増したとのことだが、好天と紅葉がこれに拍車をかけている。

蕎麦屋 蛍   長野県北安曇郡小谷村中土真木 16588
 蛍の開店時間は 11 時 30 分(後で知ったが、土日は 11 時頃)、それに間に合うように林道を取って返す。場所は前日に案内板があって確認しておいた。下手と上手から入る径があり、山下りだったので上手の方から入る。車1台しか通れない径を約 100m 行くと蛍はあった。場所は大渚山の南麓、数軒ある部落の中でも頑丈な総二階の建物、それが蛍だった。ここを知ったのは男の隠れ家という雑誌での紹介からで、それによると、主人の宇田川光平さんは、小学生の時に山村留学したこの地に惹かれて脱サラで移住したとか。折よく手にした築 130 年程の古民家を改修しての開業、でもこの地は冬は2m を超す豪雪地帯、だから営業は4月下旬から 11 月中旬である。
 着いたのは 11 時 10 分、空き地にはもう数台の車が停まっている。玄関に入ると、妙齢の女性が相席でもいいですかと言われ、構いませんと言うと、既に2人座っている座机に案内された。フロアは板敷き、囲炉裏が2つあり、自在鈎に鉄鍋が吊るされている。入って右手のガラス張りの向こうには、竈に焼べられた薪が赤々と燃え、鎌にはお湯がたぎり、手前には山からの清水が溢れ流れ出ていて、主人の姿が見える。店内はアルコールランプの明かりのみ、机にもランプが、こんな店は稀有だ。見渡すと 26 席ある席がすべて埋まっているではないか。第1陣のラストが私たち、間一髪での滑り込みだった。見ると外には沢山の人が待っている。
 注文はお品書きに大きく書かれていた「蛍の緑」と「深里 (ふるさと)」を注文する。訊くと、前者は丸抜きを細かく挽いたもの、後者は挽きぐるみで粗く挽いたものとかで、いずれも二八。十割もある。同席した糸魚川の女性は、よく此処へ来ると話していた。見てると十割を注文する人がかなり多い。それと囲炉裏に吊り下げられている鍋には、大きなこんにゃく玉が入っていて、これも人気の一品のようだ。私たちはほかに季節の天ぷらを頼んだ。全員に行き渡ってから最後に私たちにも配られた。二八の両方を食べ比べると、後者の方が香りも歯ごたえも良かった。そばつゆはさほど辛くはないが、だしが強い。天ぷらの材料は、つまじろ、紫蘇葉、葱、牛蒡、蓮根、茄子、甘藷、隼人瓜、南瓜、人参の十種、天つゆと塩で頂く。お酒は大町市の北安醸造の「小谷錦」がお勧めとか。
 12 時 20 分に蛍を辞した。外にはまだ大勢の人が待っていた。貰った名刺には、5月は残雪の新緑が綺麗です。蛍の見頃は7月の2〜3週目です。山の紅葉の見頃は 10 月2〜3週目位です。谷の紅葉はお店の前で 10 月4週目〜 11 月1週目です、とあった。また出かけたい蕎麦屋だ。この次には十割もこんにゃく玉も、そして小谷杜氏が醸した小谷錦で、山の残雪や新緑、蛍、紅葉を愛でて、山菜をあてに一献やりたいものだ。

小谷温泉の山田旅館と蕎麦屋の蛍(その1)

 国道 148 号線にある道の駅「白馬」では、春から秋にかけて、屋外で山野草の販売をする店が出る。2店あって、片や中年の男性が、もう一方は年配の女性が仕切っている。私たちはここに寄る度に顔を出し、特に小母さんの店からはよく山野草を買っている。もう5年位にもなるので、顔見知りになってしまった。9月半ばにここへ寄った折も、黄金シダなる羊歯を買い求めた。その時の話の中で、今年の秋は強い風も吹かず、小谷 (おたり) 温泉辺りの紅葉はきっと見事だろうから一度行かれたらとのこと、この方は秋も深まって店を閉めてからは、決まってこの小谷温泉の山田旅館に暫く滞在してのんびり過ごすとか。この言葉に啓発されて、帰って早速調べると、山田旅館は日本秘湯を守る会の会員で、百年を経た旧家のような宿とあった。早速旅館へ電話すると、土日と休日は空きがなく、金土も空いているのは2週のみ、それで家内が午後半日休める 24 日 (金) と 25 日 (土) に出かけることにした。天気は2日とも上々のようだ。
 10 月 24 日の午後1時半に家を出る。山側環状道路を経由し、森本 IC で高速道に入り、糸魚川 IC で下りる。ここまで2時間、次いで国道 148 号線を南下する。所々で工事があり、交互通行がある。道の駅「小谷」を過ぎ、長い外沢トンネル、次いで短い平倉トンネルを抜けると、小谷温泉口という見落とし易い交差点があり、ここを左折する。すぐにある山住トンネルを抜けると、後は中谷川に沿って上流へ、交差点から約 10km、20分で小谷温泉の山田旅館に着いた。時間は午後4時半、家から3時間を要した。ここ小谷温泉には4軒の宿があるが、ここが最も古く、かつ収容人員も 150 名と最も大きい。

小谷温泉 大湯元 山田旅館   長野県北安曇郡小谷村中土 18836
 この宿は、上信越高原国立公園の標高 850m の大渚山の山腹に建っていて、この温泉は弘治元年 (1555) に川中島合戦の折に、武田信玄の家臣により発見されたとか、以来 450 年以上にわたって湯治宿として親しまれてきたという。江戸期に建てられた本館を含む6棟は、国の登録有形文化財に指定されている。また新館は大正3年 (1914)、別館は平成元年 (1989) の建築だという。またここの元湯の源泉は「現夢 (うつつ) の湯」と呼ばれ、明治時代には、ドイツで開催された萬国霊泉博覧会に日本を代表する4大温泉の一つとして内務省特選で出泉されたとある。素晴らしい名泉である。なお泉質は自然湧出のナトリウム炭酸水素塩泉 (重曹泉) だそうである。 
 本館から入って靴を脱ぐと、すぐに番号札が、後で判ったがこれは部屋番号だった。すぐに部屋へ案内される。部屋は別館の4人部屋、ゆったりしている。夕食は5時半からとのことで、先ずは別館の展望・露天風呂へ行く。湯温は 43℃、ゆっくり入っておれる。風呂からは取り巻く山々と山腹を巻くように付けられた道路が見え、路線バスの走っているのが見える。ところで木々の葉はまだ残っているのに、紅葉はそんなに綺麗ではない。後で家内が女将さんに聞いた話では、今年は虫が大発生して紅葉の色が冴えないとかだった。少々残念である。
 5時半になり、案内があって大広間へ、宿泊客全員が入れるような畳敷きの部屋、沢山の机に人数分の会席料理、十品以上ある。この時期地物は少なく、僅かに養殖や栽培と思われる岩魚やコゴミや草餅や蕎麦が。あとの魚や野菜や茸や加工品はすべて仕入れた品らしい。でも見た目には大変豪華で、刺身にしても大変新鮮だった。でも考えてみれば、糸魚川まで1時間も要さないのだから、当然かも知れない。お酒は大町の北安醸造の「白馬紫雲」を頂いた。この酒は淡い紫色をしていて珍しかった。酒はほかに「小谷錦」と「雨飾山」があった。
 部屋へ戻って寛ぎ、寝る前に本館の元湯へ出かける。元湯は内湯のみだが、源泉かけ流しの打たせ湯がある。高さ2m 強の高さからお湯がどうどうと流れ落ちている。その湯が湯船に導かれ溢れている。水量も多く、両肩にずしりとした重みを感ずる。源泉の温度は 47℃、加水加温はなく、43℃の程よい湯温、加えてラドンを含有しているとかで、効能豊かな療養泉となっている。ちなみに先に入った別館 (健康館) の新湯の源泉は、泉質は同じながら、別の泉源だという。
 部屋へ戻って床に入り明かりを見上げると、カメムシが4匹戯れていた。明かりを消すと下へ落ちてくるのではと思い、明かりを点けたまま寝た。金沢奥の「銭がめ」を思い出した。

2014年11月6日木曜日

シンリョウのツブヤキ(11) 10月の花

10月に家の庭 (露地) で花が咲いた木々と草花を記した。植物名は50音順に記した。
植物名は、種名・別名 (科名 属名)の順に記した。
植物名の後に(4〜)とあるのは、その数字の月に初出したもので、科名属名は省略した。
植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種であることを示す。

1.木 本
 キンモクセイ(4〜)

 以上 1種 (1科 1属)

2.草 本
 アキチョウジ(シソ科 ヤマハッカ属) アキノキリンソウ(9〜) アキノノゲシ(9〜)
 アメリカセンダングサ・セイタカウコギ〔外〕(9〜) イトススキ(8〜)
 イヌコウジュ(9〜) イノコズチ・ヒカゲイノコズチ(8〜) ウリクサ(8〜)
 オオイヌタデ(タデ科 タデ属) オトコエシ(9〜) オヒシバ(7〜) カタバミ(4〜)
 カヤツリグサ・マスクサ(9〜) キチジョウソウ(ユリ科 キチジョウソウ属)
 クワクサ(9〜) ゲンノショウコ・ミコシグサ(8〜) コナスビ(5〜)
 コニシキソウ〔外〕(9〜) シソ(9〜) スカシタゴボウ(6〜) スミレ(4〜)
 セイタカアワダチソウ・セイタカアキノキリンソウ(キク科 アキノキリンソウ属)
 チヂミザサ(9〜) ツユクサ(9〜) ニシノホンモンジスゲ(8〜) ハルタデ(5〜)
 ヒガンバナ・マンジュシャゲ(9〜) ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(4〜)
 ボントクタデ(9〜) マルバルコウ(6〜) ミズヒキ(6〜) ヤブガラシ(6〜)
 ヤブミョウガ(7〜) ヨウシュヤマゴボウ〔外〕(6〜) ヨモギ(9〜)

 以上 35種 (20科 30属)

2014年10月26日日曜日

信州探蕎:「かたせ」と「常念」(その2)

(承前)
[付 記]
 この店は、いつか探蕎会で泊まった浅間温泉のホテル玉乃湯の山崎社長が主宰する「信州そば切りの店」の認定店で、このグループでは、蕎麦粉は長野県産のもののみしか使わないことになっている。その上この店でのキャッチフレーズでは、「そば粉は、上高地に近い標高 1000m の高原で収穫された、松本市奈川 (旧奈川村) 産のそば粉を 100% 使用しております」とある。またメニューでは、十割そばのことを「そばぜんぶ」と表記してあった。またせいろセットの頭には、「有明」「つばくろ」「常念」「槍」という山の名が冠されているのも楽しい。それにしても、有明山 (信濃富士)、燕 (ツバクロ) 岳、常念岳の三山はこの店から望めそうだけれど、槍ヶ岳は見えるのだろうか。

2.そば処 常念   長野県安曇野市穂高上原 7690
 「かたせ」を出たのが午後1時、前田さんのスマホでは「常念」までの所要時間は 22 分と出た。どんなルートで算定しているのだろうか。私としては、一旦山を下りて県道 51 号線に戻り、渋田見交差点を右折し、高瀬川を渡って国道 147 号線に出て南下し、大きな交差点である柏矢町の一つ手前の小さな白金交差点 (ここがポイント) を右折して西へ進み、大規模農道との田中西交差点を過ぎると、やがて左手に「常念」が見えるはずとの算段だった。ところでここまでに要した時間は丁度 22 分、スマホの読みと私のルートが一致していたかどうかは知らないが、とにかくスマホの威力には本当に驚いた。道路右側の駐車場に車を停める。駐車場は少々ぬかるんでいる。今日は2台が駐車しているのみ。裏手の庭を通り抜けて正面に回る。小雨が間断なく降っている。玄関から屋敷に上がって、表庭に面した部屋の一角に陣取る。そばにあるショーケースには数多くの南部鉄瓶が、どんな目的で蒐集されたものなのだろうか。また長押には、先祖の写真とか、また薙刀や小槍なども飾られている。沢山ある部屋はすべて開け放たれており、洋間もある。
 注文したそばは「もりそば」、これは2枚で1組になっていて、店の方では、女性は一人1枚でよいのではとのこと、言われたようにする。一品料理には岩魚の塩焼きを、焼くのに 30 分はかからないとのことで人数分お願いする。また天ぷらと山葵のおひたしを二人に1品頼んだ。お酒は辛口の地酒である「大雪渓」を注文した。付き出しはきゃらぶき。やがてお酒が届いたが、これが上々の熱燗、常温のままの方が良かったような気がしたが、後の祭りだった。おひたしやきゃらぶきは少々甘く、酒のツマにはイマイチだった。天ぷらは海老、南瓜、さつまいも、ピーマンとありふれた材料、しかもありきたりの揚げ方だった。そして本命の「もりそば」、朱塗りの丸い二段のせいろに二八のそばが、これにしても、見た目も味も極めてありきたりのそばだった。そして最後に岩魚の塩焼きが届いた。この岩魚は丸まるとしていて実に美味そうに見え、これが唯一酒のツマになった。出された品の中では、唯一褒められる一品だった。
 終わって一旦外へ出て、屋敷内にある土蔵の二階にある私設の飯沼美術館を見る。此処の三方に設えられたショーケースには、真田家の宝物と南部鉄瓶のコレクション、地元作家の征矢野久の水彩画、さらには与謝野晶子ら有名作家の色紙や短冊も置かれている。ここには誰でもフリーに入られることもあって、盗難などの心配はないのだろうかと案じたりした。
 ここでも前の「かたせ」と同じく、丁度1時間 10 分滞在して辞した。

 こうして今秋の信州探蕎は終わった。帰りは途中で「道の駅 白馬」にトイレ休憩と買い物を兼ねて寄っただけで、長駆往復 500km、運転を前田さん一人に託して、無事終えることができた。白山市の「和泉」に帰着したのは午後6時半だった。
 今回の会費は前田さんの申し出により一人6千円、おんぶにだっこだったのでは……。

信州探蕎:「かたせ」と「常念」(その1)

 探蕎会では、10月期の探蕎は信州で1泊2日の予定だったが、参加人数の不足もあって1日とし、行き先には、まだ会としては訪れたことがない安曇野市にある「そば処 常念」とした。探蕎日は10月22日の水曜日、事務局の前田さんが車の運転を申し出られ、便乗することにする。参加したのは、ほかに池端、石黒、和泉夫妻、木村の5名である。探蕎先はほかにもう1軒、池田町にある「手打ちそば かたせ」を追加した。ここは以前会でも訪れた同じ池田町の「安曇野 翁」に程近い場所にある。面々は白山市番匠にある「和泉」に集合し、午前8時に出発した。

1.手打ちそば かたせ  長野県北安曇郡池田町会染 3439
 当日の天候は生憎の小雨、白山 IC から高速道に入り、糸魚川 IC で下り、国道 148 号線、次いで国道 147 号線へ、途中で東へ折れ、高瀬川を渡って県道 71 号線へ、前田さんのスマホでは、「かたせ」は滝沢交差点を左折せよとの指示、実に便利な代物だ。店は平地にあると思いきや、スマホでは細い山道の先に目的地を表示している。山道を上がって行くと、道の際に小さな看板があり、左へ折れて細い径を辿ると、そこに「かたせ〕はあった。何と既に車が数台駐車していたのは驚きだった。雨がぱらついている中、急な木段を上って店へ。
 着いたのは正午少し前、小さな店の中には沢山の人、平日で雨なのに、全く信じられない光景だ。6人の席がセットしてあり、主人の片瀬登美男さんが予約の6人ですかと言われるので、そうではないと言うと、取りあえずはと座敷にある座机に案内された。見渡すと三和土に4人掛けの机が5つ、座敷には囲炉裏を挟んで4人座れる座机が2つ、勘定すると全部で28席になる。取り合えず注文は次の店もあるので、「手打ちそばせいろ」のみとする。その後予約の6人が余りに遅いので、我々はその予約席に誘導された。出されたお茶を飲みながら、今か今かとそばが来るのを待つが、中々来ない。主人の片瀬さんが言うには、今日は平日でしかも雨なので、余り打たなかったのにこの人出、全くの誤算でしたと言われる。奥では蕎麦を打っているような気配。ここの営業時間は 11:00 〜 14:00 のみ、よくある売り切れ次第終了とかではなく、追い打ちをするようだ。
 待つ間、狭い店内を見回す。目に付いたのはキリンビールからの英文のアワードと、帝国ホテルの名料理長の村上信夫さんと片瀬さんとのツーショットと色紙、色紙には「美味しいそばは研究と愛情と真心から生まれる」とあった。片瀬さんはサービスですと言って、自家製という大根と野沢菜の漬物を、そしてさらに間を置いて、季節の野菜の南瓜とピーマン、それにコスモスの細く裂けた葉とピンク色の花の天ぷらを2皿持っておいでた。漬物も天ぷらも味よく美味しかった。これは待ちの効能だったのではと思う。奥でトントントントンと音がするので見に行くと、若いお兄さん(後で知ったが、片瀬さんの次男さんとのこと)が丁度そばを切っているところだった。これをその後茹でて供するのらしい。正に打ちたて茹でたてである。注文から 50 分後、ようやく「そばせいろ」が届いた。蕎麦粉は奥さんの故郷で、信州屈指の蕎麦の名産地、信州奈川産に地粉とか、そばは黒塗りのせいろの真ん中にうずたかに盛られている。食べ方が指示されていて、先ずはそのままで、次いで塩を付けて、その後つゆに浸して食べるようにとの主人のご託宣。そばは二八の中細、蕎麦らしいまずまずの上の出来だ。でも出汁は薄味過ぎる感じだった。十割は今はなく、新蕎麦になってからとか。終わってから、さらにサービスだとしてデザートが出た。わらび餅だったのだろうか。私たちは金沢から来たというと、新幹線が開通したらぜひ金沢へ行ってみたいと言われた。私たちはここでかれこれ1時間10分滞在して辞した。入り口で主人にお願いして記念写真を撮ってもらった。天気が良いと、西に大きく有明山、その背後には北アルプス表銀座の山々が見えるはずだが、生憎の雨で今日は何も見えない。

2014年10月6日月曜日

新町壮年会の最後の旅行は大牧温泉へ

1.はじめに
 新町というのは、合併前の旧野々市町にあった町の名で、北國街道に沿った旧町には、西から東へ、西町、六日町、中町、一日市町、南へ折れて、新町、荒町の6町があった。しかしその境界は判然としたものではなく、分家などをすると、その分家は旧町を名乗ったからややこしかった。しかし地番は町全体が片仮名のイロハ順に区分けされていて、通称名は用いられていない。因みに私の自宅の旧の住所は、野々市町ラ201番地だった。
 さてこの新町に、昭和52年、新町青年会が発足し、毎年1回春に親睦会を催すことにしていた。当時の町の全世帯数は約 400、うち新町の世帯数は 40 ばかりで、町では最小だったこともあって、皆近所同士で気心が知れていて、纏まり易かったようだ。当時は核家族の家はなく、二世帯や三世帯の家が普通だった。ただ長男以外の男は分家した。会の設立に当たっては 20代の若者を中心に、主に農業、商業、工業に従事している人が中心で、所謂ホワイトカラーの人は入っていない傾向があった。
 発足してから 20 年、年齢も上がって青年会は壮年会に改称することに。そして私にも改めて勧誘があり、県庁を退職したこともあって参加することに。会員は初老から還暦位の方々、私は余り近所付き合いが少なかったこともあって、良い意味での潤滑油になった。以後私は毎年親睦会には率先して参加してきたが、多いときは 20 数名の参加があった。しかし延べにすると 40 数名いた会員諸氏も、他界されたり、体調を崩されたり、また会員の高齢化もあって、ここ数年は 5〜6 名の参加しかなく、それで今年限りとすることにして、35 周年親睦会と銘打って会を開催することになった。

2.大牧温泉へ1泊の旅行
 最後の会には6名が参加、会費は 35 千円、往復はジャンボタクシー利用という仕様。旧新町を午後1時に出て、北陸道経由で砺波 IC で下り、国道 156 号線を南下、庄川の小牧ダムへ、ここまで約1時間、30分待って乗船する。この庄川峡にある大牧温泉は、この小牧ダムから出る遊覧船に乗らないと行けない。何とも不便な秘境の温泉である。遡行距離は約8km、所要時間は 30 分である。この日は団体が入っていて、乗船は団体優先だったが、定員 120 名の最も大きな舩の就航、でもほぼ満席だった。久しぶりの乗船、途中の高くに架かる長崎大橋では、観光バスが止まって、我々の乗った遊覧船を観覧していた。天気も良く、紅葉にはまだ少し早いが、周囲の景色を眺めながらの楽しい船旅だった。そして左手に見えてきた大牧発電所を過ぎると、見覚えのある大牧温泉が見えてきた。小牧ダムの乗り場は砺波市庄川町小牧だが、ここ大牧温泉は南砺市利賀村大牧である。
 この大牧温泉、倶利伽羅の合戦に破れた平家の武将藤原賀房が、源氏の追手を逃れて此処に辿り着き、川原に湧き出る温泉を見つけたとか。さて桟橋に着いてからも、団体さんが下船するまでにかなりの時間がかかった。船着場から旅館までは坂道を上らねばならないこともあって、結構年寄りには大儀である。という私たちも喜寿前後なのだが。
 此処へ来たのは、最初は小学校6年の修学旅行の折、二度目は大学にいる時に、大門山に登った帰り、庄川の小牧ダムの上流にある祖山ダムから、右岸に付けられた小径を辿って来た時の2回で、あの時は女性の露天風呂の脇へ出たものだから、実に驚いた。訊くとこの径はもう通れないとのことだった。これまでに訪れてからかなり月日が流れていることもあって、昔の旅館のイメージとはかなり異なっていて、秘境とはいえ、旅館は随分モダンで豪華な感じになっていた。だから改築後は「秘湯を守る会」からは抜けたという。
 私たちが通された部屋は和洋室、川を眺めながら入れる風呂付き、上等の部屋だ。暫く持参した酒やビールを飲みながらの雑談、私ともう一人の御仁を除くと、皆さん古くからの旧町民、辿れば旧町の家は近かれ遠かれ皆縁者まついだから、その持ち合わせる情報たるや実に膨大、何でも良くご存じ、驚きだ。夕食は午後6時からということで、内風呂へ。ここの泉質は、ナトリウム・カルシウム・塩化物・硫化塩泉、源泉温度は 58.0 ℃、pH 8.14 とか。以前の源泉は小牧ダムの完成によって水没したが、源泉からパイプを引き、ダム湖畔に宿を作ったとか。夕食は舞台の付いた広い部屋で、御馳走も多く、お酒と食を堪能した。
 翌朝早く露天風呂へ向かう。標高にして 30m ばかり登った山腹にあり、自然の奇岩を巧みに利用した大きな天然の浴槽、自然の霊気が身に染みる。朝食は夕食と同じ部屋。団体さんは 9:10 の船便で出て行った。我々は次便の 11:05 にする。舩は双胴船、乗客は 20 人ばかり、福井から来たというアラフォーの女性3人と駄弁る。トーチャンは仕事、カーチャンは旅行、先週は西九州周遊とか、恐れ入る。小牧からはバスで高岡駅へとか、じゃ私たちと一緒に庄川河畔の「川金」で一緒に食事をして帰福したらと勧めると、二の返事で OK、じゃその後金沢駅まで送りましょうということになった。庄川河畔には十数軒の鮎料理を出す店があるが、私が回った数軒の中では、この川金の「鮎の庄」が最も秀逸で、これは皆さんも同意見だった。6人予約が9人になって、少し待たされたが、鮎会席は彼女らからも好評だった。チョロギも珍しかったようだ。私は鮎のウルカを頼み、彼女らにもお裾分けしたが、初めてとかだった。こうして楽しい新町壮年会は終わった。

2014年10月4日土曜日

シンリョウのツブヤキ(10)9月の花

 9月に家の庭 (露地) で咲いた木々と草花を記した。植物名は五十音順に記した。
 植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
 種名の後に(4〜)とあるのは、数字の月に初出したもので、科名属名は省略した。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物である。
 また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
 また〔薬〕は、外国原産で明治以降に薬用として日本に移入された栽培種である。

1.木 本
 キンモクセイ(モクセイ科 モクセイ属)
 
 以上 1種(1科 1属)

2.草 本
 アキノキリンソウ(キク科 アキノキリンソウ属) アキノノゲシ(キク科 アキノノゲシ属)
 アメリカセンダングサ・セイタカウコギ〔外〕(キク科 センダングサ属)
 イトススキ(8〜) イヌコウジュ(シソ科 イヌコウジュ属) イノコズチ(8〜)
 ウリクサ(8〜) エノコログサ(6〜) オトコエシ(オミナエシ科 オミナエシ属)
 オランダキジカクシ〔栽〕(5〜) カタバミ(4〜) 
 カヤツリグサ・マスクサ(カヤツリグサ科 カヤツリグサ属) クワクサ(クワ科 クワクサ属)
 ゲンノショウコ・ミコシグサ(8〜) コナスビ(5〜) 
 コニシキソウ〔外〕(トウダイグサ科 トウダイグサ属) コメヒシバ(7〜) 
 シソ(シソ科 シソ属) シャクチリソバ・シュッコンソバ(タデ科 ソバ属)
 チヂミザサ(イネ科 チヂミザサ属) ツユクサ(6〜) ニシノホンモンジスゲ(8〜)
 ハルタデ(5〜) ヒガンバナ・マンジュシャゲ(ヒガンバナ科 ヒガンバナ属)
 ヒメクグ(カヤツリグサ科 カヤツリグサ属) ヒメジョオン(6〜) 
 ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(4〜) ヒメムカシヨモギ(8〜) 
 ヒヨドリジョウゴ(ナス科 ナス属) ボントクタデ(タデ科 タデ属) ミズヒキ(6〜)
 ミョウガ(7〜) メヒシバ(7〜) ヤブガラシ(6〜) ヤブミョウガ(7〜)
 ヤブラン(8〜) ヤマノイモ・ジネンジョウ(ヤマノイモ科 ヤマノイモ属)
 ヨウシュヤマゴボウ〔外〕(6〜) ヨモギ(キク科 ヨモギ属)

 以上 39種 (19科 31属) 

2014年9月26日金曜日

そば工房「権兵衛」

 8月にあった探蕎会の世話人会で、9月期の探蕎は、山中温泉奥の石川県民の森近くにある「そば工房・権兵衛」に決まった。私も一度は行きたいと思っていたそば店である。この店は土・日と祝日のみの営業とかで、後日事務局では探蕎の日を9月 21日の日曜日に設定した。参加者は 12名だった。
 当日は天気も良く、10時に2台の車に分乗して出かける。国道8号線を加賀市の松山交差点で左折し、県道 39号線を南下する。塔尾町で山中温泉へ行く道をやり過ごして、県民の森への表示に従い直進する。道は山間に入り、動橋川に沿い荒谷 (あらたに) 町、今立 (いまだち) 町を過ぎると山道になる。さらに大土 (おおづち) 町への分岐を過ぎると更に高度が上がり、やがて分水嶺を越えて大聖寺川の上流に入る。そして県民の森、ここはこれから行くそば工房・権兵衛の杉水 (すぎのみず) 町と同じ地内にある。そしてこれらの4町は「加賀東谷」(山中温泉ひがしたに地区) として、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。このような地区は全国で 98 地区あるという。
 県民の森から更に下がると、やがて左手にそばの幟が見え、杉ノ水川の橋を渡り、そば工房「権兵衛」に着いた。ここまで出発してから1時間半、左手に本屋、向かいの高みに2棟、右手に即売の掛け小屋、母屋の前に車を停める。この地区はかつては炭焼きで栄えたという。でも今は過疎が進み、自然そのものの静かな山村、でも豊かな自然が一杯の郷である。このような集落を「超限界集落」というのだそうだ。
 築 60 年という古民家の店へ入る。私たち 12 人には、2区画3卓が用意されていた。床の間には軸が掛かり、山野草が活けられている。初めにそば茶、欅の木彫りの茶飲みに入っている。そして置かれている箸も山中塗り、聞けば販売もしているという。それで今回は個々に注文することに。私は「おろしそば」と「天ぷら」、それに酒のつまみに菜山葵の小鉢、お酒は地酒 (獅子の里) を頼んだ。かなり混んでいて暫し待たされる。初めに付出し (野沢菜?) と燗酒、暫しこれで喉を潤す。ややあっておろしそばが届く。先ずは寺田会長にお見せする。今回はカメラマン役を任じられていて、箸をつける前に写真を撮らせてほしいとの要望に応えたものだ。二八のやや細打ちのそばは、欅の生地に漆をかけた山中塗の鉢に盛られ、上に辛味大根のおろし、削り鰹、刻み葱が乗っかっている。汁は澄んでいてやや甘め、典型的なおろしそばだ。噛み応えもあり、かつ喉越しもよく、あっという間に胃の腑に納まった。その間にも次々とそばが運ばれてくる。そしてそれが終わって漸く天ぷらの出番になった。天ぷらは山菜オンリー、縁が赤く塗られた浅めの桶、これも山中塗なのだろうか、それに天ぷら敷紙を敷き、それに盛られている。この期に及んで天ぷらをむしゃむしゃ食べるわけにもゆかず、もう1本所望する。しかし前の1本ではお燗に時間がかかったこともあって、冷やで頂戴した。山菜は次のようであった。
 ドクダミ (じゅうやく) の葉、ユキノシタの葉、ミョウガの花序、みずぶきの茎、ヤマノイモの多肉根の紫蘇卷きと海苔巻き、まいたけ、ヨモギの葉 の七種。
 終わって外へ出る。主人の霜下照夫さんも出ておいでて、いろいろ説明を聞いた。その折に、百笑 (ひゃくしょう) の郷 (さと) のパンフレットを頂く。一般社団法人 (非営利法人) で会員も募集しているとか。パンフを開くと、そば打ち体験もできる「そば工房 権兵衛」、1日1組限定1棟丸ごと貸切りの「蔵やど 与平」「古民家の宿 忠平」、純地産地消の食を提供する「山カフェ でくのぼう」の紹介が、また杉水 (すぎのみず) 町と市谷 (いちのたに) 町の見どころの紹介もされている。この辺りの家は赤瓦や煙出しが特徴で、下屋の下り棟には、恵比寿様と大黒様が付いているという。そう言われて見上げると、大屋根の切り妻屋根の下屋の屋根の際に、向かって右に大黒様、左に恵比寿様が安置されていた。その後ご主人にも入ってもらって皆で写真を撮った。
 帰りは山中温泉へ下ることに。我谷ダムの上流に新たに九谷ダムが建設され、その流域の集落は一部立ち退きを余儀なくされたようだ。でも道路はきれいになった。枯淵町を過ぎて、我谷ダムの堰堤で国道 364 号線と合流する。山中温泉から四十九院トンネルを抜けて、塔尾町で往きに通った道に出て、出発点の「和泉」に戻った。お疲れさまでした。
 この日「和泉」の向かいにあるギャラリー「ノア」で、会員の大滝由希生さんの水彩画の個展が開かれていて、皆で鑑賞した。水彩画といっても不透明な絵具を用いたもので、油彩の感覚もある絵になっている。奥さんもおいでだった。でも号6万円はするとあって、そう簡単に手軽に買うわけには行かない。個展は 23日までとかだった。

〔そば工房 権兵衛の資料〕
 住所: 〒 922-0136 石川県加賀市山中温泉杉水町ハ33
 電話: 権兵衛 0761-78-1853      自宅 0761-77-1371 (開業してない時の申込み)
 営業: 土・日・祝祭日のみ営業  但し5名以上で予約すれば平日でも可。
 開業: 4月上旬から 11 月末まで (平成7年9月に開業)
 蕎麦; 地元での収穫量は極めて少ないので、他産地のものを用いている。

2014年9月24日水曜日

八方尾根とそば処「常念」(その2)

3.そば処「常念」
 朝起きると、高曇りながら山の稜線がくっきりと見渡せ、白馬三山や五竜岳が間近に見えている。朝風呂に入った後、近くを散歩する。小鳥が樅の木の梢のてっぺんに止まって囀っている。何という鳥だろう。宿へ戻って7時半に朝食をとる。このホテル、昨晩の夕食にしても、今朝の朝食にしても、なかなかセンスが良い。十分に満足できた。
 山の稜線が綺麗なので、松川を渡り、国道へ出て、村外れの山々が見渡せる場所へ移動する。ここからは小蓮華岳、白馬岳、杓子岳、白馬鑓ヶ岳、不帰ノ嶮、唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳を見渡すことができる。手前には岩岳、八方尾根、遠見尾根、バックが青空ならば最高なのだが、それでも満喫できた。ここでナビを入れ、安曇野にあるそば処「常念」へ。
 国道 148 号線を南下する。青木湖、中綱湖、木崎湖を過ぎ、木崎湖入口交差点を右折し、県道 306 有明大町線に入る。この道は安曇野アートラインの山麓線で、沿線には沢山の美術館や博物館がある。その後安曇野広域農道に入り、田中西交差点を東進すると、目指す「常念」に着けた。大きな駐車場が3カ所、車は 40 台、バスも5台駐車可能という。着いたのは 10時半少し前、開店は 11時だと思っていたが、案内ではもう開店の看板が上がっている。草原に車を停め、表示に従って庭へ入る。ここは裏になるようだ。丁度庭師が入り庭木の剪定がされている。表の方に回る。庭は千坪はあろうか。広大である。表に店の方がおいでて、どうか中で休んで下さいとのこと、この前の「みさと」とは雲泥の差である。礼を言って付属する美術館へ、入場は無料とのこと、早速中へ入る。
 ここは飯沼美術館といい、この店が所有する個人の美術館らしい。土蔵の2階がそうであって、誰でもフリーに入れ、しかも収蔵品は手で触れることもでき、盗難の心配はないのだろうか。入口左側には、真田六文銭の紋が付いた長持ち、刀剣入れ箱、御膳、小物入れ、長持ち、陣笠等が置かれている。同じ並びには、薩摩島津藩の丸に十の字の紋が入った簞笥と小簞笥、目を見張る。他には絵画や軸、多くの陶磁器や鉄瓶、地元画家の征矢野久の水彩画、中に与謝野晶子の真筆もあった。すべて個人の収蔵品のようだ。
 11時少し前、表から店に入る。店は江戸時代からの典型的な安曇野の農家の造りだとか、部屋の仕切りの戸は大方外されていて、中からは表と裏の庭を見渡すことが出来る。洋間もある。この時間になり客が次々集まるが、広いので苦にならない。部屋にも書画、骨董、扁額、屏風、掛け軸等々、これらを見てるだけでも楽しい。注文は天ざる、おろしそば、とろろそば、飲み物は、私はノンアルコールビール、彼女らはグラスビール、つまみに砂肝と馬もつ煮をもらう。そばは二八、蕎麦は自家栽培の地元産とか、この店は安曇野でも草分けだと聞いたことがある。それにしても客のあしらいが良いのが何よりだ。そばの方は中の上程度。それにしてもメニューが豊富、一品料理には、天ぷら、岩魚の塩焼き、刺身、たたき、蜂の子、かじか唐揚げ、馬刺し、茸、そばがき等々。松茸料理には、土瓶蒸し、吸い物、茶碗蒸し、焼き松茸等。飲み物も地酒、ビール、ワイン、ジュースのほかに、かじかや岩魚の骨酒も、とにかくバラエティーに富んでいる。また来たい店だ。

4.安曇野アートライン
 「常念」を出て「安曇野の里」へと向かう。ここには家内が前回行きそびれた「あづみ野ガラス工房」や「田淵行男記念館」がある。プラザ安曇野の駐車場に車を停める。かなり広く、敷地には名水が自噴していて、それでそばも打たれている。ところで家内が本当に行きたかったのはこのガラス工房ではなく、実は「安曇野アートヒルズミュージアム」というガラス製品を陳列・販売している場所だということが後で判明した。工房を出て、隣接する田淵行男記念館へ。この建物、周囲はワサビ田に囲まれた山小屋風の佇まいで、流れの所々で清らかな水が自噴している。この日は山岳写真家・高山蝶の生態研究家としての氏の作品や愛用の品々の展示のほか、この時期「燕岳と安曇野 四季の心象」というテーマでの赤沼淳夫の写真展が開かれていた。氏は燕山荘の2代目オーナーで現相談役の人、氏が描かれた油彩の「新雪の燕岳」は中々秀逸だった。帰りにここで信州の雪形なろマップを求めた。満山荘のオーナーも奥山田温泉から一望できる奥穂高岳から白馬岳の北に位置する小蓮華岳までの東面の雪形を観察しておいでだったが、氏が観察した新雪形も収載されているのだろうか。古から際立って有名なのは、白馬岳の「代掻き馬」や五竜岳の「武田菱」、爺ヶ岳の「種蒔き爺さん」等である。ニューフェイスも多い。
 ここを出て、再び東進し、山麓にある「安曇野アートヒルズミュージアム」へと取って返す。場所は安曇野アートライン山麓線の延長上にある。広大な敷地に大きな建物。そう言えば何かの折に来たことがあるのを思い出した。中へ入ると、フロアにはガラス作品やガラス製品が所狭しと並べられている。あのエミール・ガレの作品も陳列されている。どうしてガラスであのような作品ができるのか不思議だ。魔術師だ。いつか家内がここで求めてくれたワイングラスを洗っている時に割ってしまったが、家内の勧めでイタリアングラスの少し厚めのワイングラスを求めた。こうして満足して帰途についた。

2014年9月23日火曜日

八方尾根とそば処「常念」(その1)


1.はじめに
 家内が懇意にしている女の薬剤師の方とは、時々1泊2日の小旅行をする。そんな折には決まって奥さんの妹さんですかとかお子さんですかとか言われる。そんな彼女から9月の連休に何処かへ行こうと催促があった。9月2日と3日に中の湯温泉へ行ってきたばかりなのでどうしようかと思案していたが、彼女の情熱に負けてしまって出かけることに。でも日が迫っていて思案に余ったが、幸い天候は良いとのことで、私が提案したsのは、初日の9月14日は、八方尾根へ行き白馬村の何処かで泊まり、2日目の15日は安曇野のそば処「常念」に寄り、次にこの間は行きそびれた「あづみのガラス工房」へ寄ることにした。

2.八方尾根
 朝7時半に家を出た。天候は薄曇り、途中で彼女を乗せ、北陸自動車道を糸魚川 IC で下り、国道148号線を南下する。この道路かなり交通量が多い。山間を抜けて白馬村に出るが、肝心の白馬三山は雲に隠れて見えていない。八方尾根のゴンドラ乗り場に向かうが、乗り場近くの駐車場は満タンとかで、係員の指示で村の外れの草地に誘導された。冬のスキーシーズンでもこんな混み様を経験したことがない。その草地でさえ一杯なのだからすごい車の量だ。
 そこから歩いてかれこれ10分ばかり、ゴンドラの八方駅へ向かう。確かに駅近くのどの駐車場も皆満車である。乗り場で最上段の八方アルペンラインのリフト終点までの切符を買う。見ているとスキーシーズンと同じ間隔でゴンドラリフトがフル運転している。でも駅舎ではあの車の混み様なのに乗客は少なく、6人乗りゴンドラには私たち3人のみ、先ずは八方駅 (770m) から兎平駅 (1400m) へ。所要時間は8分、眼下には白馬村を一望に俯瞰できる。牛が放牧されている。こんな光景を見たのは初めてだ。駅で下りて少し歩いてアルペンクワッドリフトの乗り場へ。リフトは4人乗り、乗車時間は7分、このリフトからは、白馬三山や不帰ノ嶮が見えるのに、今日は見えていない。着いた所は標高 1680m の黒菱平、ここから鎌池の畔を歩いて、最終のグラートクワッドリフトの乗り場に向かう。5分の乗車で終点の八方山荘、標高 1830m に着いた。
 ここから上を見ると、沢山の人達が更に上へと歩いているのが見える。正に数珠つなぎの状態だ。この上の第2ケルン (2005m) まで行くのか、更に上がって八方池まで行くのか、八方池の標高は 2060m 、一般の人はここまでで、これから上へは唐松岳への登山路になる。八方池は天気が良いと白馬三山を眺望するには絶好のスポットなのだが、生憎今日は雲に隠れて山々は見えていない。ここまでは八方山荘から約1時間半ばかり、路は整備されているので、ハイキングシューズで十分だ。それにしても凄い数の人だ。
 私たちは上へは行かずに約 10m 下にある第1ケルンへ行く。ガイドによると、ここからは澄んだ空気の日には富士山が望めるとあるが、これまで何度もきているのに全く知らなかった。今この辺りはコウメバチソウの白い花が満開だ。こちらの方は人が少ない。スキーだと山荘前からゴンドラ乗り場まで一気に 1000m を下ることになるのだが、昔を思い出す。曇っているが下への視界は良い。展望台を経由して八方山荘前のリフト乗り場へ。するとここは下山者で大混雑、時刻は昼近く、一緒に並んだ登山装備をした若い女の子に、今日は何方までと聞いたら、唐松山荘からとか、昨日は視界が良好で素晴らしかったけれど、今日はガスっていたとか。私も学生の頃には唐松岳 (2696m) へは、後立山縦走で2回、またこの八方尾根からも一度登っている。若い頃のことだ。
 リフトを2つ乗り継いで、うさぎ平テラスへ、スキーシーズンだと全館開放されているのだが、今はテラスのあるフロアのみ。売店に付随した食堂で昼食をとる。この辺りではパラグライダーが離着陸している。熱気球もいる。そして放牧されている牛も。今まで知らなかった八方尾根の姿を垣間見た。
 車まで戻って、時間があるので白馬スキージャンプ台へ向かう。観覧料金を払って先ずはリフトに、スタートタワーで下り、タワー内のエレベーターで4階へ、更に下が見透かせる鉄組の階段を上り、ラージヒル・スタート地点上部にある観覧ステージへ、標高差は 138m とか、ここからスタートして着地までは8秒だそうだ。その後ノーマルヒルの観覧ステージへも寄った。ここから飛ぶ人が見えた。タワー内にはギャラリーもあり、メダルをはじめ、数々の資料が展示されている。下へ下りて、着地点近くにいると、ラージヒルから3人が飛んだ。凄い迫力。飛び終わった人と暫し談笑した。終わって宿へ。
 今宵の宿は白馬八方温泉の白馬アルパインホテル、経営者はあの北アルプスでの最大の山小屋である白馬山荘と同じ系列だという。当初はこれまで二度宿泊したことのある五龍館にと思ったのだが、生憎空きがなく、ここは白馬村観光局から紹介してもらった。通称オリンピック道路沿いにあり、本館と新館があり、私たちは新館に泊まった。冬は高級スキー宿になるのだろう。本館は旧民家を移築したような様相、食事はこちらで頂いた。和洋折衷の夕食は、赤ワインにも十分応えてくれた。部屋も簡素ながら快適だった。

2014年9月12日金曜日

四度目の中の湯温泉(その4)

6.安曇野三郷村の「みさと」なるそば屋
 9月3日の朝、上高地へ行く積もりで、7時に朝食、8時のバスで出発を予定していたが、宿への戻りは昼頃になるので、それなら宿でそばを食べようかと算段した。すると安曇野でのそばはパスしなければならないことに。家内に相談すると、今回は上高地を割愛して安曇野でのそばを優先しましょうということで、そうすることにした。するとそば屋の開店は11時だから、宿は9時半にチェックアウトすればよく、それで朝はゆっくりでき、ここで土産も仕込み、宿の主人に送られて宿を後にした。
 目指すそば屋は安曇野三郷にある庭園そば処「みさと」、電話番号を入力すると、すんなり場所を特定できた。地図を見ると複雑で迷いそうだったが、これで一安心。この店は雑誌「男の隠れ家」に推奨掲載されていたので選んだのだが、なんと築百年の旧家で営むそば屋とか。縁側の向こうには1200坪の日本庭園が広がり、その庭園を愛でながら、地元三郷産の透明感のある香りあるそばを食べられるという。また出汁にも工夫がなされているという。家族5人で切り盛りしているとも。この記事からはすごく家庭的で落ち着いた雰囲気、しかも存分に信州三郷の味を満喫できるように思えた。
 向かう途中に「サラダ街道」なる標識がよく目立つ。でもこの道路沿いにあると言われても、忠実に辿るのはかなり困難だ。とは言え、ナビのお陰で、無事到着できた。開店は11時、15分前に着けた。門があり、竹の移動できる車止めが置いてあるが、車が通れるスペースが開いていて、既に邸内には車が2台駐車していた。それでその隣に車を停めようとしたところ、妙齢の奥さんが出てきて、「まだ開店前なので入らないで下さい。外で待っていて下さい」と。すると先に停めていた方が、「じゃ、私たちも」と言うと、「あなた方は結構です」と。何故か知らないが、とにかく出された。すると車止めが真ん中に移動された。11時になったので車を門の前に移動する。でも車止めが外されたのは2分後だった。
 家内が先に母屋に入った。少し遅れて私も入り、部屋へ入ろうとすると、玄関で待てとのこと。先の1組2人は応接室にいる。家内はというと部屋へ入り縁側から庭を眺めている。「家内はもう中へ入っているのですが」と言うと、しぶしぶ入れてくれた。何とも高飛車だ。座敷には4人は座れる平机が4つ、その一つに座る。ややあってお品書きが届く。お勧めはと訊くと、「御膳そば」という2200円のそば、家内は「天ぷらそば」1580円。先に出された林檎ジュースを飲みながら待つ。やがて黒塗りのお盆に、黒塗りのせいろに盛ったそば。小さい笊には、茗荷、大葉、獅子唐、玉蜀黍、それに紅葉の天ぷら、それに塩。中位の鉢には、冷たい天つゆ、真ん中に茄子,胡瓜、刻み揚げ、白髪葱が入っている。そして胡瓜の漬物が六角の小鉢に。家内のはと見ると、天ぷらがないほかは私と同じ。薬味はないのかと訊くと、天つゆに細工がしてあり、薬味は要らないとの御託宣。他の2組は生山葵とおろし金が配られていて、これは見慣れた天ざるそばだ。家内のは天ぷらそばなのだろうか。何とも解せない。肝心のそばは二八の平打ち、ビチャッとしていて、家内は半分しか食べず、残りを私に、何とも締まりのないそばだった。「ふじおか」のそばが上の上なら、このそばは中の下だ。帰ろうとしたら、応接セットのある間で、御膳そばには抹茶が付いているので、飲んでいって下さいと出される。家内には本来付かないのだが、貴方もどうぞと半量で出された。それにしても実に何とも後味の悪い蕎麦探訪だった。

7.大町山岳博物館
 安曇野から大町へ向かう。時間はまだ午後0時台。大町市制60周年を期にリニューアルされたという大町山岳博物館を見たいと思った。私はこれまで旧館を数回、家内も1回訪れたことがある。ここへもナビの世話になる。建物は少し小高い所ににあり、場所は前と同じだが、規模は倍位、しかも3階建て、外観は煉瓦色、重厚な感じがする。受付では、先に3階へ上がってから順次下の階へ下りながら観て下さいとのこと。入ると左手に武井清による「春の穂高連峰」という100号の油彩、緻密さと大きさに圧倒される。エレベーターで上へ。3階は展望ラウンジ、生憎北アルプスは曇っていて見えないが、晴れていれば素晴らしいパノラマ景観だ。大型画面での「北アルプスの自然と人」の紹介もある。また足下には北信濃の航空写真があり、その自然の素晴らしさを満喫できる。2階の「山の成り立ち」のコーナーでは、素晴らしい大きな化石や岩石が陳列されていて、ぜひ手で触ってその感触を味わって、北アルプスの成り立ちに思いを馳せて下さいとも。また「山と生きもの」のコーナーでは、大町市の市街地から高山にいたるまでの多様な生物を展示してある。こちらの方は触らないで下さいとある。雷鳥の世界にいる仲間の紹介もユニークだった。フロア面積も旧の倍近い。1階は「山と人」のコーナー、先史時代から今日までの山麓での人の暮らしが伺える。また日本の近代登山の幕開けから、ヒマラヤまでの道のりを通史的に捉えてあるコーナーも。そして特別展示室では「山と美術」のコーナー、この日は日本山岳画協会の24人による「日本の山・世界の山」をテーマに、48点の絵画が展示されていた。またユニークなショップもあった。十分堪能して帰路についた。

2014年9月10日水曜日

四度目の中の湯温泉(その3)

5.中の湯温泉旅館
 この旅館は、以前は梓川の「中ノ湯」の畔に建っていた山間の湯だったが、安房トンネルの工事に際して閉鎖を余儀なくされ、平成10年に現在の地で開業したという。安房峠までは急な斜面が続いている中、唯一この地一帯のみ比較的傾斜が緩やかな部分が存在していたというわけである。温泉水は旧館の源泉をポンプアップしているそうだ。この宿は日本秘湯を守る会の会員になっていて、初めて訪れたのは、その関係からだった。
 着くと駐車場には車が約30台ばかり駐車していて、ウイークデイなのに今晩は満員なのではと訝る。時刻は3時半、すると宿の横の小径から、何組もの登山者が下りて来るのに出会った。焼岳からの帰りだという。後で主人に訊くと、ここの駐車場に車を停めて焼岳へ登山するのだという。車のナンバーを見ると、北は山形から、関東、中京、関西、西は鳥取まで、実に多彩だ。ここから焼岳までは、上り3時間、下り2時間だそうである。
 旅館へ入りチェックインする。主人は今朝は穂高が見えていたのに、今は見えないとのことだったが、明朝に期待しよう。ここのロビーは山の宿にしては実にモダンで素晴らしく、天気が良ければ、一枚ガラスを隔てて見られる奥穂・前穂・明神は実に圧巻である。また早春や晩秋には、給餌台に訪れる沢山の小鳥を見ることができる。部屋に案内される。部屋の造りはシンプル、高級山小屋といった感じだ。ドアはオートロック、外から開ける時はかなりの技術を要する代物、だから温泉に入る時は、家内とは交互に入った。
 ここの温泉の泉質は単純硫黄温泉、源泉温度は55℃、毎分122ℓの源泉かけ流しである。男女それぞれに内湯2槽と露天1槽からなる。昨今は午後と翌朝とで男女交互に浴場を換えているが、元男性専用だった露天風呂は環境が実に良く、穂高を見ながらの湯浴みは最高だった。旧の女性専用の露天風呂は竹簾で囲われていて、全く視界が利かず、趣きがない。お湯は温度管理されていて、実に快適だ。
 露天風呂にいた時に、初老の紳士がご入来、話を聞いていると、明日は家族で山へ行くのだと。焼岳ですかと言ったら、夫婦と娘3人で西穂へ行くのだと。上高地から西穂山荘へ上り一泊、翌日は独標まで行き下山する予定とか。私は家族での山行は全くなかっただけに、実に羨ましかった。もっとも今の体力では叶わないと思うが。
 部屋へ戻って、持参の神の河で喉を潤す。窓からは母屋越しに、雲がかかっている穂高が望める。岩燕が群舞している。山鳥が独活の実をついばんでいる。素朴で落ち着ける環境である。夕食は6時半、食堂へ行く。既に料理はテーブルにセットしてあった。この日長月二日の御品書は次のようだった。
 一「先付」こごみ胡桃和え。 二「焚合せ」南瓜葛豆腐、海老酒蒸し、里芋、いんげん、胡麻スープ。 三「温物」飛騨牛すき焼き鍋。 四「刺身」サーモン、大根サラダ。 五「焼き物」岩魚塩焼き、なつめ、茗荷。 六「しのぎ」ぶっかけ蕎麦。 七「香物」野沢菜、赤蕪、胡瓜。 八「汁物」浜吸。 九「蒸し物」生湯葉かに豆乳蒸し。 十「水物」ゼリーチーズ、キュウイ。
 この中で何といっても特に圧巻だったのは「飛騨牛のすき焼き鍋」で、他のお客さんは全員固形メタ火力の「卜伝鍋」だったが、私たちにはガスコンロが用意されていた。この私たちのメニューはテーブルにある特別料理メニューにも名が出ておらず、正に感謝プランにセットされた賜物だったようだ。肉の質も良く、しかも量も一人あて6枚ばかり、これだけでも満腹になりそうだった。いつかやはり感謝プランで来たことがあるが、その時は「しゃぶしゃぶ」だった。その時も十分に堪能したのを覚えている。でもほかの2回は特別なセットではなく、皆さんと同じメニューだった。飲み物は地元ワイナリーの赤のフルボトルを所望、ゆっくり時間をかけ、十分に堪能した。家内も、もしまた感謝プランの案内が来たら,ぜひまた来たいねと言った。

2014年9月9日火曜日

四度目の中の湯温泉(その2)

3.久しぶりの乗鞍岳
 ほおのき平駐車場から乗鞍岳へのバス便は1時間に1本、次は12時50分、その間食堂で高山ラーメンを食する。畳平の気温は4℃とか、上着を持つ。料金は往復2200円、でも私は身障者割引で半額、そして予期しないことに、障害1級だったせいか、家内は介護者とかでやはり半額、子供料金で乗ることが出来た。天候は曇り、時々薄日が射す。定時に発車、乗客は30人ばかり、ここは1300m、ここから畳平まで1400mを上がる。国道を外れ、旧道の県道を先ずは平湯峠へ、更に高度を上げ、森林限界を過ぎ高山帯へ、この道路、バス、タクシー、自転車のみ乗り入れ可とか、自転車で上がっている人がいた。そしてやがて終点の畳平へ。このターミナルには、神社や案内所、郵便局、宿泊施設、売店などの建物が沢山建ち並んでいる。そしてここの標高は2702mとか、丁度白山の標高と同じだ。下りを14時40分のバスにし、約1時間滞在することに。高山帯に来たのは2年ぶり、折角だから近くにある魔王岳2763mに行ってみることにする。
 魔王岳へは段差の大きな石の階段が続いている。天候は曇り、しょっちゅうガスが去来する。したがって視界は良くない。この階段一歩では上がれず、二歩を要する。20段も上がると息が切れ、10秒は息継ぎをしなければならず、家内に待ってもらわねばならない始末に、我ながら情けなくなる。頂までの標高差は61m、何度立ち止まったことか。途中には平らな園地があり、何人かが休んでいる。階段はここまでで、少し先に標識があるピークが見え、ここからはゴロゴロした径となる。そして魔王岳のピークに着いた。視界が良ければ、北に槍穂、それに続く北アルプスが見える屈指の展望台なのだが、あいにく残念ながらそれは叶わない。南に目を転ずると、東大宇宙線観測所が見えているが、それから上はガスで見えていない。でも沢山の人が頂上の剣ヶ峰3026mを目指し行き来しているのが見える。眼下には畳平と鶴ヶ池が広がっている。この頂は狭く、二人しか立てない。暫く居て、下から上がって来る人が見えて、ピークを辞することにする。ゴロゴロした岩場の下り、家内から次の足を置く場所を指定される始末、有り難いことだが、老いては妻に従えか、我ながら落ちぶれたものだ。正に恐れ入谷の鬼子母神である。参った参った。
 下りて乗鞍本宮にお参りし、御朱印を頂く。下りは午後の第3便、登山スタイルの人も多く見かける。まだ9月初旬ということもあって、辺りはまだ緑一色、もう半月もすれば紅葉シーズン、また賑わうだろう。下り便には乗客の長い列、早々に列につく。補助席も使わねばならないほどの満席。下りのバスからは山腹を縫うスカイラインを俯瞰でき、上りには味わえなかった山岳道路ならではの高揚感がある。そしてやがて樹林帯に入り、平湯峠を経て、ほおのき平駐車場に戻った。

4.一路中の湯温泉へ
 もう後は今宵の宿の中の湯温泉旅館へ行くのみ、ここからは私が運転して、安直に安房トンネルを通るのではなく、国道158号線の安房峠越えで行くことにした。トンネル口を過ぎ、平湯温泉手前から峠越えに向かう。トンネル開通前は、高山と松本の往来は、この峠道しかなく、数多くある急なカーブを1回で曲がり切れない大型トラックもここを通っていた。でも今はここを通るのは余程の物好きな御仁のみ、現に対向した車は10台に満たなかった。久しぶりの峠道、のんびり走る。ずっと上りが続き、そしてやがて安房峠へ。標高は1812m、以前は峠に建物があったように思ったが、今は何もない。下車しても仕様がないので、そのまま通過する。これからはずっと下り、家内に聞くと、温泉旅館は7号カーブがある場所とか、急な斜面に作られた道路、長野県側から、カーブ毎に1号かSら順に番号が付けられていて、7号はその7番目のカーブである。峠から順に番号が若くなり、そしてやがて7号カーブ、中の湯温泉旅館が見えた。標高は1500mとかである。

2014年9月8日月曜日

四度目の中の湯温泉(その1)

1. はじめに
 旧盆には、いつも子供たちの3家族、とは言っても全員で11人なのだが、今年は4人が参加できないという。しかも皆が寄れるのは13日のみという。何とも慌ただしい。しかし家内が休暇をとれるのは14日と15日のみという。寄る人数が少ないとはいえ、やはり相応のもてなしはかかせず、結構やりくりが大変だった。その後家内の旧盆休暇が短かったこともあってか、病院から9月の2日 (火) と3日 (水) に休暇がもらえるとのこと、家内から何処かへ出かけようと提案があった。それを聞いて私が出したプランは中の湯温泉行きだった。というのも、丁度中の湯温泉旅館から感謝プランの案内が来ていたからで、それを見せると家内から即 OK の返事があった。善は急げ、早速申し込みをした。さてそれはそうと、観光は何処にしようか、家内は私は忙しいのであんたが考えて下さいとのご託宣、ない知恵を絞らねばならない羽目になった。往き還りのルートはどうするか、ただ高山と松本の街をブラつくのは、何度も行っているので割愛しようと思った。それで思いついたのは、もし天気が良いようならば、乗鞍スカイラインのシャトルバスで乗鞍岳へ、そして翌日は午前中に上高地を散策し、午後は安曇野のどこかで蕎麦でも食べ、そして帰宅しようということにした。

2. 先ずは朴の木平へ
 家を8時半に出る。山側環状道路で森本 IC へ、北陸道から東海北陸道へ入り、飛騨河合 IC でトイレ休憩。初めは私の運転だったが、家内から「ずっと運転をしてると疲れるだろうから、半分は私が運転します」との提案が。家内は私よりずっと運転歴も長く、きっとこの車を運転したいのだろうと思い、飛騨河合 PA から先は家内に運転を譲ることにした。私の予定では、飛騨清見 JCT から中部自動車縦貫道路に入り、高山 IC で下り、以後国道41号線から国道158号線に入り、高山市内を抜けて朴の木平スキー場駐車場へ行くことに、途中で高山ラーメンでも食べて行こうという算段だった。それで家内に運転を託するにあたって、念のために、高山市丹生川町岩井谷にある乗鞍総合案内所の電話番号をナビに入力した。でもこれが曲者であったのは後になってやっと気付いた。
 家内は高速道路でのトンネルは得手でないと言う。とは言え、郡上八幡での私のトラブルに際しては、家まで一人で運転をしてくれた実績がある。飛騨河合 PA から飛騨清見 IC
の間にもかなりのトンネルがあるが、難なく通過、無事中部縦貫自動車道の高山 IC に着いた。その後国道41号線から国道158号線に入る予定のところ、ここでついうっかり手前の富山方向への車線に入ってしまった。これだと高山市内を大きく迂回する道路を通ることになる。それでも市街地を外れたところで再び国道158号線に合流した。あとは一本道、快適に車は走る。途中でめん処へ寄るつもりだったが、通りから入り込んでいたこともあって、見過ごしてしまった。飛騨大鍾乳洞の入り口も過ぎ、ならばスキー場へ直接行こうと、途中バス乗り場の標識があり曲がるが、ナビはそのまま進めとの指示なので、ナビに従った。しかし周囲の様子からは朴の木平はとっくに過ぎてしまっている。そして車は平湯トンネルを抜け、下って安房トンネルの入口へ、ナビは平湯のバスターミナルへ案内したいようだった。トンネル入口にある事務所で乗鞍へ行く手だてを訊くと、乗鞍へ行くのならここ平湯からでも行けるが、駐車場は駐車料が有料だし、しかも混んでいるので、時間があるのなら朴の木平まで戻った方が、駐車場も広く (1500台) 駐車料も無料、その上便数も多いとか、それではと朴の木平まで戻ることにする。平湯側からは案内の道路標識もしっかりしていて、分かりやすい。標識に従い、来る時に曲がった道路に入り、どうやら「ほおのき平駐車場」に着けた。

2014年9月1日月曜日

シンリョウのツブヤキ(9) 8月の花

8月に庭 (露地) で咲いた木々と草花
 植物名を五十音順に、種名・別名(科名 属名)を記した。
 種名の後に(4〜)とあるのは、数字の月に初出したもので、科名属名は省略した。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物。
 また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などでに日本に移入された園芸栽培種。

1.木 本
 アジサイ(6〜) ガクアジサイ(6〜) マメヅタ(6〜) ヤマフジ(4〜)

 以上 4種(3科 3属)

2.草 本
 イトススキ(イネ科 ススキ属) イノコズチ・ヒカゲノイノコズチ(ヒユ科 イノコズチ属)
 ウシノケグサ(5〜) ウリクサ(ゴマノハグサ科 ウリクサ属) エノコログサ(6〜)
 オオバギボウシ(7〜) オニタビラコ(4〜) オヒシバ(7〜) カタバミ(4〜)
 カワラナデシコ・ナデシコ(6〜) ゲンノショウコ・ミコシグサ(フウロソウ科 フウロソウ属)
 コナスビ(5〜) コヌカグサ〔外〕(5〜) コメヒシバ(7〜)
 チチコグサ(キク科 ハハコグサ属) ツユクサ(6〜) トウバナ(5〜)
 ナツズイセン(ヒガンバナ科 ヒガンバナ属) ニシノホンモンジスゲ(カヤツリグサ科 スゲ属)
 ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(4〜) ヒメヒオウギズイセン〔外・栽〕(7〜)
 ヒメムカシヨモギ(キク科 ムカシヨモギ属) ヘクソカズラ(7〜) ミズヒキ(6〜)
 ミョウガ(7〜) メヒシバ(7〜) ヤブガラシ(7〜) ヤブミョウガ(7〜) 
 ヤブラン(ユリ科 ヤブラン属) ヨウシュヤマゴボウ〔外〕(6〜)

 以上 30種(10科 28属)

2014年8月15日金曜日

ゼレン会 (薬学同窓会) への近況報告

1.山のこと
 75歳になった頃から、山へ行く気力が次第に萎えてきたのを実感するようになった。しかし白山で唯一まだ通ったことのない美濃禅定道はどうしても一度は歩きたかった。それでその対策として、毎早朝6kmを1時間で歩くことを心掛け、日課としてきた。美濃禅定道は白山の登攀路では最も長く、途中でのトラブルも考慮して助っ人を頼んだ。その御仁は私が初めて山へ誘った内の一人で、その後彼は山にはまってしまい、とうとう深田日本百名山をも踏破してしまった。その彼と三度目の挑戦でやっと踏破できたのが2年前の8月末日、それ以後登山らしい登山は全くしていない。足腰も弱くなり、バランス感覚も衰え、楽しんでいたスキーも、76歳を境に縁遠くなった。腰と左足と右肩に痛みがあり、近頃は続けて30分と歩けない情けなさ、縁あって紹介された整体師について現在治療を始めた。その人が言うには、月2回程度の整体で、半年もすれば山へも行けるようになりますとのこと、今は期待と不安が相半ばしている。腰の曲がったバアさんをシャンとさせたとか、歪みを正した後、保定が必要なのだそうだ。保定の方に時間を要するので、痛みがなくなってもぜひ通うように言われている。
2.蕎麦のこと
 私の大学での師匠の波田野先生が金沢大学を退官されて、福井県衛生研究所の所長に赴任された。福井県は言わずと知れた「おろしそば」の地元、赴任後は「そば」にはまってしまわれ、11年間の在職中に福井県内の蕎麦店164軒を回られたという。また原発立地県の衛生研究所のまとめ役をされていたことから、県外にもよく足を運ばれ、訪れた蕎麦屋は延べにして379軒、それを先生独自の科学的基準で評価され、無責任番付と称し、それは全国紙でも紹介された。退職後は金沢へ戻られ、同好の士と「探蕎会」を立ち上げ活躍された。私も随分とご一緒させてもらった。会では以前は1日5店は回ったものだが、先生が逝去されてからは多くて1日2店に、それでも全国各地の蕎麦屋を132軒も巡ったという。私は今も会の同志と全国巡りをしているほか、家内ともおいしい「そば」を求めて行脚している。ただ72歳の家内がまだ現役で、お役御免にならないのがネックだ。という私も75歳まで現役だったが。
 [ 閑話休題 ]
 私たちがまだ学生の頃は、石川県は「うどん」圏なこともあって、自家製の「そば」を提供するそば専門店は極めて少なく、金沢市では、竪町にあった「砂場」と武蔵ヶ辻にあった「更科」のみだった。それも今は巷に敷衍している「手打ち」ではなくて「機械打ち」だった(2店とも今はない)。しかし当時も「年越しそば」は食べたようで、家庭では当然のことながら市販の「そば」を利用していたし、大店の「加登長」や「お多福」でも、自家製ではなくて、依託された製麺所製のものを使用していた。今石川県で自家製の「そば」を提供する蕎麦屋は150店を超えているし、その中で半数近くの店は自家製粉を標榜している。「そば」は蕎麦粉が命であって、凝った店では、玄蕎麦の産地にこだわり、玄蕎麦を低温保存し、究極的には自家石臼製粉、それも手回し手挽きにこだわっている。そばの喉越しは「二八」が最も良いとされるが、「十割」でも実に二八以上に喉越しの良いそばを提供する店も、極めて少ないが存在する。それには極めて高度な究極の手打ちの技術が伴わないと実現できない。そんな蕎麦屋は,今のところ、石川や近隣の富山や福井では出くわしたことがない。 
 蕎麦屋店舗数(2011.11現在):石川183、富山46、福井292

2014年8月2日土曜日

シンリョウのツブヤキ(8)7月の花

7月に庭 (露地) で咲いた木々と草花
 植物名を五十音順に、種名・別名(科名 属名)を記した。
 種名の後に(4〜)とあるのは、数字の月に初出したもので、この場合、科名属名は省略した。
 植物名の後の [外] は、外国原産で、安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物。
 また [栽] は、外国原産で、明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種。

1.木 本
 アジサイ(6〜) ガクアジサイ・ガク・ガクバナ(6〜) キンシバイ(6〜)
 コムラサキ(クマツヅラ科 ムラサキシキブ属) サツキ(5〜) ナンテン(6〜)
 マサキ(6〜) マメヅタ(6〜) ヤマフジ(4〜)

 以上 9種 (8科 8属)

2.草 本
 オオバギボウシ(ユリ科 ギボウシ属) オオバコ(オオバコ科 オオバコ属)
 オヒシバ(イネ科 オヒシバ属) カタバミ(4〜) カワラナデシコ・ナデシコ(6〜)
 コケオトギリ(オトギリソウ科 オトギリソウ属) コナスビ(5〜)
 コヌカグサ [外] (5〜) コメヒシバ(イネ科 メヒシバ属) コヤブラン(ユリ科 ヤブラン属)
 ジュズスゲ(6〜) ツユクサ(6〜) トウギボウシ(ユリ科 ギボウシ属)
 ドクダミ・ジュウヤク(5〜) ニワゼキショウ [外] (5〜)
 ネジバナ・モジズリ(ラン科 ネジバナ属) ハナカタバミ [外・栽] (6〜) ハルタデ(5〜)
 ヒメジョオン [外] (6〜) ヒメツルソバ・カンイタドリ [外] (4〜)
 ヒメヒオウギズイセン・モントブレチア [外・栽] (アヤメ科 ヒメトウショウブ属)
 ヘクソカズラ(アカネ科 ヘクソカズラ属) ミズヒキ(6〜)
 ミョウガ(ショウガ科 ショウガ属) ムラサキカタバミ(5〜)
 メヒシバ(イネ科 メヒシバ属) ヤブガラシ(ブドウ科 ヤブガラシ属) ヤブタビラコ(6〜)
 ヤブミョウガ(ツユクサ科 ヤブミョウガ属) ヤマトウバナ(6〜) ユキノシタ(5〜)
 ヨウシュヤマゴボウ [外] (6〜)

 以上 32種 (19科 26種)

2014年7月31日木曜日

6度目の満山荘と3度目の「ふじおか」(その3)

第2日 「蕎麦ふじおか」 長野県長野市上ヶ屋 2471-2066  TEL. 026-396-2677
 8時半に出かけようと話していたが、食事を終えて出たのは9時だった。東京の蕎麦好きの夫婦は、今日場所確認のために「ふじおか」へ寄るかも知れないとのこと、ナビがあれば、頂いた地図を頼れば充分行けますとのこと、こちらは入店時間の 11時30分 に入れるかどうかと心配しているのに、随分と旅慣れておいでだ。外は雨が降っている。
 今日のルートは、先ず山を下りて小布施町に入り、千曲川に架かる小布施橋を渡って国道 18号線を飯綱町まで行き、これまで二度通ったことのある、信濃町 IC から南下している国道 18号線から飯綱東高原へ入る「飯綱東高原入口」交差点を目指した。この前の時も、近くにある長野 CC を標的にしたことから、今回もそれに倣った。今回の道順は、初めから長野 CC に照準を当てると長野市内を通るルートになりそうで、できるだけこれまで通ったことのある飯綱町を経由するルートを採った。
 初めのターゲットは飯綱町役場、ここから国道 18号線を北上し、飯綱東高原入口交差点に出る。ここで長野 CC に行き先を指定し、後はナビに従って運行する。地図にある消防署の近くでトイレ休憩する。もうそんなに遠くはない。程なく長野 CC の正門に着く。この道路は戸隠バードライン (県道 506 号線 )で、そのまま西進すると戸隠高原に行く。この正門前には、飯縄山登山道入口のバス停があり、屋根付きの停留所がある。ここから真北に延びている車道 (登山道) があり、この入口と登山道の2カ所に案内板があるので参考にして下さいとは「ふじおか」の奥さんの言だった。案内では、入口から右へ折れる5本目の枝道 (南東に折れる) を辿ると、左からの道路が交わる左手に目指す「ふじおか」がある。9時に満山荘を出て1時間半、11時30分に着けた。開店1時間前、雨は上がっていたので、周辺をブラつく。オカトラノオの群落が白い花を付けている。もう開花しようというウバユリも沢山見られる。開店間際になっても、他に客はいない。
 定時になって私たちは中へ入る。セットしてあるのは2組のみ、後で聞いたのだが、もう1組は場所が分からず、彷徨ったようだった。30分遅れだった。これまでの2回、一度もバックグラウンドミュージックがかけられていたことはないが、この日はヴィヴァルディーの曲がかかっていた。実に素晴らしい雰囲気だ。
 奥さんが「蕎麦茶」を持っておいでて、注文を聞かれる。「せいろそば」(季節の野菜料理、野菜の漬物、蕎麦粥 付き) 2、「そばがき」1、「そばぜんざい」1、ビール (サントリーモルツ) 1、を所望する。程なくして、角盆に、茄子を2つあしらった青い絵皿、それに塗った利休箸と彫り込んだ箸台が2組出された。今朝、朝食が終わったのが8時半、しかも沢山食べたので、まだ胃の中に朝食が残っているような感じだ。この前に来たことを覚えておいでて、暫し談笑する。会誌「探蕎」の御礼も言っておいでた。こんなにゆったりした雰囲気のこともあるのだ。以下に出された順に記そう。
1.「野菜の漬物」:藍色の釉薬を施した片口に、野沢菜、茄子の胡麻和え、甘漬けの沢庵、湯がいた妻白、人参・細葱・山芋の白和えの五種盛り。2人前。今日は蕎麦前の「鄙願」を貰わず、お茶を啜りながらの漬物。今度は体調を整えて来なければ。
2.「蕎麦粥」:中深の黒い釉薬を施した鉢に、蕎麦殻を外した抜きを粥にしたものが入れてあり、上に、ジュンサイ、豌豆、金時草 (金沢から取り寄せられたとのこと) が載っている。2人前。杓子で取り分けて食べる。お腹にやさしい粥、上等な一品だ。
3.「そばがき」:刷毛模様の中皿に、柔らかめに掻き上げた、乳白色の滑らかな表面をした蕎麦掻きが載っていて、頂に生山葵が載り、つけ醤油の小鉢が付いている。これは私が注文の一品なのだが、家内も一箸食べ、何とも満足げ。この前彼女が食べたのは下呂の「仲佐」での一品、すごく男性的だったのに比べ、、こちらは女性的、柔肌のような蕎麦肌、彼女は感激していた。
4.「せいろそば」:京都在住の人間国宝の中川清司さん手製のせいろ、きっちり組み込まれた枠には、透明な漆が掛けられている。正に芸術品である。そしてその器に負けない出来の極細の十割せいろそばが、細い竹を編んだ簾に丁寧に盛られている。藍色の蕎麦猪口は地元信濃町の作家の作品。最高の「そば」の競演だ。見た目の素晴らしさに加えて、手繰った時のさらっとした感触は、これが蕎麦なのかと思う。加えて十割を感じさせない素晴らしい喉越し、やはり日本一の「そば」だ。
5.「夏の野菜」:線刻を施した薄い青色の大きな角皿に、9種の野菜が彩りよく並べられている。片瓜、胡瓜、人参、茄子、ミニトマト、大根、白菜、黒豆、白瓜。2人前。夏野菜ですと言われて出されたが、その配色の素晴らしさに、食べるのが惜しかった。
6.「そばぜんざい」:塗ったお椀に、あの滑らかなそばがき、その上に爽やかな甘さの大納言が載っている。そして抹茶。かなりお腹がふくれていると言いながら、家内は瞬く間に平らげてしまった。私も「ぜんざい」なるものを初めて口にしたが、これはいける。

 こうして、念願の家内との「蕎麦ふじおか」への第1回の遠征は終わった。

2014年7月29日火曜日

6度目の満山荘と3度目に「ふじおか」(その2)

(承前)
 家内が務めている病院で、料理が上手な看護師に、今度出かけて泊まる満山荘という宿は、夕食に創作料理が出るので有名だと話したところ、ぜひその料理を写真に撮ってきてほしいと頼まれた。あそこの夕食には大概「献立表」が付くし、食事の時には簡単な説明もあるので、出来るだけ期待に沿いたいと言った。テーブルは個々の部屋毎になっているが、仕切りはあったりなかったりする。私たちは丸テーブルに並んで腰掛けた。飲み物は予め申し出てあって、私たちは地元小布施のワイナリーの赤 (メルロー) のフルボトルをお願いしておいた。テーブルで若主人が開栓してくれた。出されたグラスはブルゴーニュ風だった。以下に出された献立名を「  〕内に記し、解説を加えた。

「北信濃風 夏の献立」
● 白磁の大皿に4品が配置され、開いた空間に、赤・黄・オレンジのジュレが置かれる。
「食前酒」:透明な小さなグラスに、茶色の液体が入っている。クコ酒だろうか。大皿の左上部に置かれている。
「生湯葉 クコ 柚子胡椒」:厚手の角のグラスに生湯葉が入り、上に枸杞の赤い実と柚子胡椒が載っている。大皿の上部右手に配置され、その下に、ゼリーの小さなブロックが。
「信州サーモンのコンフィー 塩糀 アロエヤングリーフ シーサラダ」:サーモンを緑色のヤングリーフで囲むように包み、上にシーサラダが載せてあり、大皿の中央左側に置かれ、下側に塩糀が添えられている。
「地物野菜他とピクルスなど」:薄口切りにした野菜等を、ランダムに、中央右手に斜めに線状に引かれたオレンジ色のジュレの上の、下方3分の2に盛り散らされている。材料は、しめじ茸、赤ピーマン、胡瓜、豌豆、セルリ、白うど、人参、甘藷、コーンなど。そして上方の3分の1には、自家製のピクルスが盛られている。
「ビーツとパブリカのソース、バーニャカウダーしょう油ジュレ」:大皿の中央に赤いジュレが茄子型に、黄色のジュレが右下に逆茄子型に配されている。
● 陶器の高杯が、黒い木製の板皿にスプーンを添えて置かれる。
「牛乳豆腐 柚子味噌」:高杯に牛乳豆腐が茶巾絞りにして入れられ、真ん中頂きに柚子味噌が添えられている。
● 浅い片口の白磁の鉢が、黒い木製の板皿にスプーンを添えて置かれる。
「十六穀米スープ ドライベジタブル」:十六穀米の粥が入れられていて、上に乾燥野菜の砕片が散らされている。
註:五穀(米・麦・粟・黍もしくは稗・豆)は成句としてあるが、十六穀米はない。しかし商品としては販売されていて、あるメーカーでは次の表示がされていた。精白米・もち玄米・青玄米・胚芽押し麦・裸麦・もち黒米・もち麦・ハトムギ・もち赤米・たかきび・大豆・小豆・ひえ・もちあわ・青大豆・黒千石大豆・とうもろこし。 
● 藍鼠色の釉薬を施した浅鉢に、天ぷら敷紙が2枚敷かれていて、揚げたての天ぷらが順次運ばれて来る。熱いうちに味付け塩を振って食べる。
「夏の天麩羅 万願寺甘唐 スティックブロッコリー 白れい茸 (エリンギ?)   まこも筍 信州りんご」:以上の5種が一口大の大きさに切り分けられ、衣を付け、揚げられている。
● 白磁の大皿の中央に、4段に積み上げられた料理があり、頂に外見が人参風のものと香草が載せられている。皿の右手にはナス型の金属のボールが置かれ、クリームチーズと木苺ソースが入っている。
「大岩魚のジェノバ風ソース 長芋・椎茸・ミニキャロット」:ソースの上に、輪切りの長芋、椎茸、揚げた岩魚の身、その上に揚げた葉柄が付いたミニキャロット、そして頂に香草が置かれる。
「びわの生ハム卷き クリームチーズ 木苺ソース」:クリームチーズと木苺ソースが入った金属のボールに、枇杷の生ハム卷きが載っている。
● 漆塗りのお椀にお吸い物。
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物 独活 人参 ディル」:お椀の底に牛ヒレが沈んでいて、その上に極細に千切りにした独活と人参、それにディル (ヒメウイキョウ) が散らされ、透明な吸い地が張られている。
● 秘湯ビールを追加注文。信州の温泉ではよく出される。
● 浅い鉢に入った茶碗蒸し。蓋はない、蒸しとなっているが、オーブンかも。
「チーズの茶碗蒸し トマト ねぎ」:とろけたチーズの上に、乱切りのトマトとざく切りした青葱が散らされている。赤と緑のコントラストが良い。
● 緑色の釉薬を施した片口に、木杓子が付いている。
「野沢菜茶漬け」:野沢菜のお茶漬けが入っていて、煎り米が浮かべてある。
● 真ん中に凹みがある凸状になった円盤状の白磁の中皿。凹みに品が入っている。
「りんごあいす りんご赤ワイン煮 マンゴーヨーグルトソース」:凹みにマンゴーヨーグルトを敷き。その上に林檎の赤ワイン煮、それに緑色の香草と紫蘇粉を散らした林檎アイス、皿の部分にも上と下に線状に紫蘇粉が散らされている。
「平成二十六年七月十七日 料理 明子」 印   以上が墨書されている。

食事を終えて館主の文四郎さんに会い、件のことをお伝えし、部屋へ。程よい酔い加減とあって、これ以上飲みもせず食べもせず、しばし寛ぐ。曇り空だが、眼下には長野市街が明るく光って見えている。室温はエアコントロールで快適、風呂は明朝5時に入ることにして、就寝する。今回はベッドだった。
 翌朝5時に交換された桧風呂へ行く。まだ誰も居ない。天候は曇り時々雨、時に強く降ると一切周囲が白く閉ざされ、何も見えなくなる。風呂は昨日の岩風呂よりこちらの方がずっと居心地が良い。露天風呂の屋根の庇の下にイワツバメの巣があり、しょっちゅう燕が出入りしている。糞が落ちないように大きな受け台が設えてある。半時近く風呂に居て、部屋へ戻る。その途中の渡り廊下から、湯殿の下辺りの巣に出入りするキセキレイ?が数羽いるのが見えた。初めてのことだ。そういえば、昨晩は狸と遭遇しなかった。来なくても食事は取れるのかも知れない。交代で家内は岩風呂へ。
 今日は本命の「蕎麦ふじおか」へ、うまく辿り着けるだろうか、心配だ。朝食は8時から、すんなり行き着く自信がないので、朝食後すぐに出かけることにする。家内は風呂で夫婦共に蕎麦大好きの方に会ったとか、家内が今日これから「蕎麦ふじおか」へ行くと言ったら、ぜひ何時か行きたいとのこと。それで、朝食のときに「ふじおか」への案内の略図を上げると約束したとか、東京の方だったという。
 朝食はバイキング形式、もう皆さんお集りだ。取りあえず、6つに仕切られた陶器のトレイを持ち、順に取り分ける。品数は30種位。夕食と違い、自家製の品は少ない。バイキングの常として、どうしても余計に取ってしまう。私がチョイスしたのは、トレイに、卵巻き、焼いた鮭の切り身、岩魚の甘露煮、アスパラとベーコン、ウインナーソーセージ、きゃらぶきの6種、ほかに生ハム、ゆで卵、ヨーグルト、焼き海苔、それに白御飯と豆腐とナメコの味噌汁。家内のトレイには、梅干し、ひじき、ベーコン・アスパラ、生ハム、岩魚の甘露煮、鮭の切り身が載っている。それにヨーグルトと御飯と味噌汁。二人用に、野菜(トマト、胡瓜、紫キャベツ)の盛り合わせ、果物(西瓜とメロン瓜)、飲み物に、オレンジジュース、牛乳、コーヒー、実に盛り沢山になった。近頃は二人とも比較的少食になっているのにこの量、当然残すことは憚られ、最後には詰め込むような羽目になった。今後は心しなければならない。これから本番の「蕎麦ふじおか」を控えているのにである。何とも不用心だった。

2014年7月25日金曜日

6度目の満山荘と3度目の「ふじおか」(その1)

 今年4月の探蕎会の行事で飯綱高原にある「蕎麦ふじおか」へ行ったのが私にとっては2度目、昨年移転後初めて寄って食した時より、もっと「そば」が進歩したように感じた。その時、これほどに素晴らしい「そば」をぜひ一度家内に食べさせてやりたいと思った。家内の舌はかなり肥えていて、少なくとも私よりは繊細である。家内も乗り気で、では7月のしかるべき日に行くことにした。「ふじおか」の営業日は金・土・日・月の週4日間のみ、しかも現在は予約制で、2名以上での申込み、入店は午前11時30分の1回のみ、席数は原則相席なしで、4人掛け2席、5人掛け1席、6人掛け1席で、最大19名の枠しかない。
 家内は現在とある病院に開業以来事務職として勤務しているが、生年は戦前であるからして相当な年齢であるのだが、何故か重宝がられて辞められずにいる。したがって行ける日はかなり限定されてしまう。それで予定としては、7月のある日、とにかく「ふじおか」に予約できたら、その当日もしくは前日に、できれば奥山田温泉の満山荘に泊まろうという計画を立てた。6月半ばのことである。7月に家内が休めるのは、日・月では13・14と27・28のみ、早速「ふじおか」に申し込んだところ、14日の月曜なら OK となった。それで満山荘も13日の日曜なら宿泊できるとのことで、すんなりこの計画は実行できることになった。ところが6月下旬になり急に、県の社会保険事務所の病院への立入検査が7月15日 (火) に入ることになり、この計画は頓挫した。しかしその後彼女は病院に無理を言って、その週の木・金に急遽休暇をもらえることになった。でも「ふじおか」はどうなのか、心配したが 18日への変更は OK、また満山荘も前日の 17日 (木) は宿泊可能とのこと、これで手筈は整った。

初 日 「満山荘」 長野県上高井郡高山村奥山田 1−343  TEL  026-242-2527
 自宅を 8:30 に出る。山側環状道路から森本 IC へ、有磯海 SA で朝食を済ませ、北陸自動車道から上信越自動車道へ、信州中野 IC で下りる。私は久しぶりに小布施の「せきざわ」で昼食をと思ったが、家内は一度ずるずるのそばを出されたのに凝りてか頚を縦に振ってくれない。小布施にも蕎麦屋は数軒あり、何軒かは訪問している。そこでとらガイドの信州そば案内を見ると、行く途中の山田温泉に創業180年の老舗そば処があるとのこと、寄ってみることにする。「手打ちそば処 峯本」は道路沿いにあって、すんなり見つかった。ところがこの老舗そば処は何でも食べさせる店、ご飯ものから、うどん、ラーメン、そば、と何でも有りの店だった。家内はラーメン、私はざるそばを注文した。時刻は午後1時過ぎ、先客はざるそばを頼んではいるが、全く手を付けていない様子。この夫婦?、ビールを飲んだきりで、そばは食べずに出て行ってしまった。マズかったのだろうか。私たちがいる小上がりにラーメンと
ざるそばが来た。ラーメンもざるそばも思ったほど不味くなく、まあまあ。これまで一度箸をつけただけで、食べずに残したことがあるが、あれは手打ちながら実に不味かった。と、そこへ年配の男性と妙齢の女性、ざるそばを一枚所望、二人で食べるので猪口を二つと。店の姐さん、せめて大盛りにして下さいと言う。変わった御仁だ。丁度 NHK テレビはスタジオパークの時間、NHK 連続テレビ小説の女主人公の夫役の鈴木亮平がゲスト出演の番組を放映していて、東京外語大卒で英語が堪能なこと、高校生の時にドイツ語での弁論大会で優勝した時のビデオ録画とか、食い入って観る羽目に。今日の宿のチェックインは午後2時、丁度程よい時間になり店を出た。
 出るとそこは山田温泉、ここからは県道 66 号線を松川に沿って山に分け入る。途中には八滝の展望台や豪壮な雷滝を間近に見られる箇所もあり、平日ながら車が多く駐車していた。五色温泉を過ぎ、七味温泉への分岐を過ぎると山道になり、やがて奥山田温泉に。この道はさらに笠岳を撒いて志賀高原の熊の湯温泉に通じているが、今は通行できないとかだった。
 満山荘に着いたのは午後2時少し過ぎ、天候は曇りで遠方の視界は0である。駐車場には先着1台、福井からとか。間もなくもう1台。玄関の周りには白い花を付けた灌木があちこちに、でも家内に訊かれたが分からなかった。ロビーで寛いでいると、あの山田温泉で出会った彼女連れの御仁がタクシーで御入来、4組が揃ったところで若主人からまとめて説明があった。今日は8組とか、ここには部屋は10室ある。私たちの部屋は「燕」、ツバクロと呼ぶ。部屋の名前はすべて北アルプスの山名、天気が良いと、西に、北は白馬岳の北に位置する小蓮華岳から、南は奥穂高岳までの北アルプスを一望することができる。だが今日は生憎の天気で、山は全く見えない。私はこれまで5回訪れているが、快晴でその全容を見ることが出来たのは1回きりである。ここの館主の堀江文四郎さんは写真家でもあって、すぐ上にある山田牧場から撮った最大幅4m のパノラマ写真をお持ちだが、実に迫力があって素晴らしい。パノラマ絵葉書にして販売すればとも思うが、それはしないと仰る。
 まだ午後3時少し前、先ずは温泉へ。この時間帯、男性は岩風呂、女性は桧風呂、これは午後10時に反転し、翌朝8時に元に戻る仕掛けになっている。お湯は単純硫黄温泉、源泉かけ流し、加水加温なし、泉源は谷間の松川にあり、そこからここ 1550 m までポンプアップしている。源泉の温度は 97℃、揚水後の湯温は 72℃ とかである。若主人の説明では、両方の風呂は全く趣きが異なるので、ぜひ時間をずらして、両方の湯へ入ってほしい話される。以前にここの館主から聞いた話では、岩風呂の一万尺風呂は、ご自身で岩を積み上げて作られたとのことだったし、また桧風呂の翠嶺乃湯は4千万円かけて業者に作ってもらったとも聞いた。どちらの風呂も内風呂と露天風呂があり、後者の方が湯温は若干低いように感ずる。外には沢山のイワツバメが飛び交っている。本館の軒下や、露天風呂の屋根の梁の間に巣をかけている。この時期、子育ての時期のようだ。湯から上がって部屋で寛ぐ。眺望がないのが残念だが、持参の焼酎「神の河」を口にする。夕食は午後6時30分から、食事処「風土」で。

〔閑話休題〕
 夕食に向かおうとしていたら、館主の堀江文四郎さんに呼び止められた。一寸教えてほしいことがあるとか。何だろうと訝っていると、部屋から2枚の槍ヶ岳の写真を持って来られた。これは西穂から望遠で写したものとか。見ると中央の槍の穂には「大槍」、左の小槍には「小槍」、中央左手前のピークには「孫槍」、その右の小ピークには「会孫槍」、手前のコルの山小屋には「鎗ヶ岳山荘」と、「 」内の字が白抜きに黒字で書かれている。それで問題は「会孫槍」をどう読むか教えてほしいとのこと。単純にはマゴの次はヒマゴだろうが、私自身、孫槍というのを初めて知ったこともあって、会孫をそれはヒマゴと読みますとは言えなかった。家内は次男の嫁に携帯で聞き、ヒマゴのようだとのこと、食後取りあえず館主にはそう伝えた。ところで家へ帰ってから辞書で調べ、次のような結論を得た。
 先ず「会孫」という語句は存在しないということ。それで「会」という字は人部4画であって、音読みは「カイ・エ」、訓読みは「あう」である。そこで「会」の旧字体である「會」は日・曰部9画である。さて、ヒマゴは「曾孫」と書き、通常用いている「曽」の字は「曾」の簡略体で、音読みは「ソウ」、慣用的には「ソ」とも読む。なお「曾」の部首は日・曰部で8画である。以上から考えられることは、本来ヒマゴのヒは冠が「八」で「曾孫」と書かれるべきところ、「曾」と良く似た冠が「人」の「會」と混同し、誤って「會」とし、その新字体の「会」を当てたと想像できる。したがって「会孫」は「曾孫」もしくは「曽孫」と書くべきである。因みに曾孫は孫の子であるが、孫の孫は「玄孫」と書き、「やしゃご」という。この推理は堀江さんに伝えた。

2014年7月2日水曜日

シンリョウのツブヤキ(7) 6月の花

6月に家の庭 (露地) で花が咲いた木々と草を記した。植物名は五十音順に記した。
植物名の後に (4〜 ) とあるのは、その数字の月に前出したもので、科名属名は省略した。
植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種であることを示す。

1.木 本
 アカメガシワ(トウダイグサ科 アカメガシワ属) アジサイ(ユキノシタ科 アジサイ属)
 ガクアジサイ・ガク・ガクバナ(ユキノシタ科 アジサイ属) キンシバイ(5〜)
 ケンポナシ(クロウメモドキ科 ケンポナシ属) サツキ(5〜)
 サンゴジュ(スイカズラ科 ガマズミ属) シモツケ・キシモツケ(バラ科 シモツケ属)
 セイヨウバラ・ブッシュ〔栽〕(5〜) ツタ・ナツヅタ(ブドウ科 ツタ属)
 ナンテン(メギ科 ナンテン属) ネズミモチ・タマツバキ(モクセイ科 イボタノキ属)
 ノイバラ(5〜) ハクチョウゲ(5〜) ハゼノキ・ハゼ・ロウノキ(5〜)
 マサキ(ニシキギ科 ニシキギ属) マメヅタ(ウコギ科 キヅタ属)
 ヤマアジサイ・サワアジサイ(ユキノシタ科 アジサイ属) 種名不詳(ユキノシタ科)(5〜)
 以上 19種 (14科 16属)

2.草 本
 アゼナルコ(5〜) イチゴツナギ(5〜) エノコログサ(イネ科 エノコログサ属)
 オニタビラコ(4〜) オノマンネングサ(5〜) オランダキジカクシ(5〜)
 カタバミ(4〜) カワラナデシコ・ナデシコ(ナデシコ科 ナデシコ属)
 コナスビ(サクラソウ科 オカトラノオ属) コヌカグサ〔外〕(5〜)
 コメツブウマゴヤシ〔外〕(5〜) ジュズスゲ(カヤツリグサ科 スゲ属)
 スカシタゴボウ(アブラナ科 イヌガラシ属) スズメノカタビラ(4〜)
 タチチチコグサ〔外〕(キク科 ハハコグサ属) チガヤ(イネ科 チガヤ属)
 チチコグサモドキ〔外〕(キク科 ハハコグサ属) ツユクサ(ツユクサ科 ツユクサ属)
 トウバナ(5〜) ドクダミ・ジュウヤク(5〜)同八重咲き(6)
 ニワゼキショウ〔外〕(5〜) ノボロギク〔外〕(キク科 キオン属)
 ハナカタバミ〔栽〕(カタバミ科 カタバミ属) ハハコグサ(5〜)
 ハルジオン〔外〕(4〜) ハルノノゲシ・ノゲシ(5〜) 
 ヒメジョオン〔外〕(キク科 ムカシヨモギ属) ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(4〜)
 マルバルコウ〔外〕(ヒルガオ科 ルコウソウ属) ミズヒキ(タデ科 タデ属)
 ムラサキカタバミ〔外〕(5〜) ヤブガラシ(ブドウ科 ヤブガラシ属)
 ヤブタビラコ(キク科 ヤブタビラコ属) ヤマトウバナ(シソ科 トウバナ属)
 ユキノシタ(5〜) ヨウシュヤマゴボウ〔外〕(ヤマゴボウ科 ヤマゴボウ属) 
 以上 38種 (19科 29属)

2014年6月28日土曜日

京都へ行くまいかい:4世代連れの旅(その2)

 平成26年 (2014) 6月1日(日)
 朝食は朝8時、畳敷きの「ごてんの間」、關鳩楼というそうだ。周りの雨戸は総ガラス張り、由緒ある庭を存分に見渡せる。黒塗りの和机に向かい合わせに4人ずつ座る。朝食は和定食。この部屋にバイキングは向かない。素晴らしい雰囲気の中での朝食、何とも清々しい。
 今日は奈良へ観光、9時15分頃に宿を後にする。ここ京都市の北西にある嵯峨野の嵐山から奈良市までは、南東へ直線で約40km ばかりある。私は出立する前に、部屋に残っていた酒類を、勿体ないので胃の腑へ全部流し込んだものだから、少々酩酊してしまい、気が付いたらもう奈良へ着いていたという始末だった。
 先ずは華厳宗大本山の東大寺へ。大仏の造立と東大寺の建立が聖武天皇の偉業であることはよく知られている。その後平氏の南都焼き討ちによって灰燼に帰したが、僧重源によって再建された。しかし大仏殿は室町末期に再び兵火に遭い、現在の大仏と大仏殿は江戸期に再鋳、再建されたものだという。そして昭和55年 (1980) には、大仏殿の昭和大修理が完了した。また平成10年 (1998) には、「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。
 南大門を潜る。左右には、鎌倉時代の彫刻の傑作、運慶・快慶らの作になる金剛力士像が、大仏殿に向かって左には阿形の、右には吽形の二体が配置されている。そしてこの南大門は、重源により鎌倉時代に再建された貴重な建造物、これらはいずれも国宝に指定されている。また通称「お水取り」で知られる千二百年以上も続いている「修二会」の儀式が行なわれる二月堂もこの境内にある。
 皆さん大仏殿へ行かれたようだったが、私はまだ身体が本復せず大儀だったので、南大門近くの庭石に腰掛けて、皆さんの帰りを待った。
 バスへ戻り、春日大社の境内を車で巡る。そして隣接する興福寺へ。この寺は法相宗の大本山、藤原氏の氏寺として和銅3年 (710) の平城遷都とともに建立されたものだが、その後国家に保護される官寺となり、また藤原氏の氏神である春日社 (明治の神仏分離後は春日大社) も興福寺に包摂され一体化された。いわゆる神仏習合である。そしてこの組織は次第に肥大化し、平安末期以降、大和一国が興福寺の所領となるまでになる。しかし江戸時代になると、次第にその地位は失われることになる。そして明治初年に発せられた神仏分離令による廃仏毀釈によって堂宇伽藍は破壊され、辛うじて五重塔、東金堂、北円堂、南円堂、大湯屋が残ったのみ、しかも堂塔以外の寺地はことごとく没収された。往時の寺の敷地は大変広大で,現在寺の北側にある奈良県庁の一帯、猿沢池の南側一帯、奈良公園、春日大社を含む規模だったという。ただ往時の春日社はそのまま春日大社となった。
 興福寺はこれまで平氏による南都焼き討ちも含め四度の大火があり、その度に堂宇のほとんどが焼失しているが、その都度再建されてきた。しかし寺勢が衰えた江戸時代の享保2年 (1717) の大火の後は、中金堂の再建は仮堂が造られたのみで明治を迎えた。しかし平成になり、創建千三百年を機に再建の機運が高まり、平成10年 (1998) に世界遺産に登録されたこともあり、焼失してから三百年、漸く中金堂の再建が平成22年 (2010) にスタートした。現在は工事中で、何年後にか、天平期の姿形と大きさが同じの中金堂が再建されることになる。堂の大きさは、東西 36.83 m、南北 23.76 m だという。
 皆さん国宝館へ、ここは昭和34年 (1959) に開館され、平成22年 (2010) にリニューアルされ、国宝45点、重文19点が展示されている。何と言っても、あの天平彫刻の粋である阿修羅像は圧巻である。私は何度か訪れたこともあり、混雑もしていたので、入口近くのビデオコーナーで皆さんを待ち受けた。
 揃ってバスで昼食場所へ行く。時間は午後1時少し前、場所は興福寺の南に位置する中新屋町にある鶉屋倶楽部1Fにある「旬彩ひより」という食事処。洒落た感じの店、懐石料理を基本に、奈良の風土が育んだ伝統野菜をメインとしたランチがお勧めとか、旬の野菜は専属の農園で栽培しているという。16人が長いテーブルに相対して着席、それにしてもよくこんなハイカラな店が見つかったものだ。地図を見ると、隣り合った福智院町にある、奈良では最も老舗の蕎麦屋「玄」がすぐ近く。この店、春日大社に御神酒「春鹿」を奉納している今西清兵衛商店の離れでもあり、大変懐かしい。さて昼食、大和野菜が中心の品が7品ばかり出て、程よい満腹感。私は此処で初めて京大生のケイちゃんと会った。髪も金髪風にすると、俄然外人っぽくなり、綺麗さもあって目を瞠ってしまった。彼女は大相撲幕内力士の遠藤とは中学校同期である。彼女はどこで乗車したのだろうか、記憶にない。
 1時間ばかりいて、次に奈良・西ノ京にある唐招提寺へ行く。ここは律宗の総本山でもある。開祖は唐の僧の「鑑真和上」、苦難の末に来朝された物語は、井上靖の小説「天平の甍」で読んだことがある。奈良時代、仏教で正式な一人前の僧侶となるには、正式な資格を持つ十人の師(十師)が参加する授戒の儀式を経なければならなかったが、当時の日本にはそれに必要な「十師」が居なかった。そこで戒師招請の発議となり、天平5年 (733) に勅命を帯びて二人の僧が遣唐使に随行して唐に渡った。しかし10年を経ても念願を果たせず、そろそろ帰国を考え揚洲を訪れたその時に出会ったのが、長安・洛陽では並ぶ者がいない律匠と仰がれていた鑑真である。二人は足下に頂礼して、弟子の派遣を懇請した。しかしそれに応える弟子はなく、「不惜身命」(この句は貴乃花が横綱昇進を伝える使者に用いた)の一句をもって、鑑真自らが渡海の決意をされたという。しかし渡航は困難を極め、11年の間に5度の失敗を重ね、その上失明されたが、渡海の意思は堅く、天平勝宝5年 (753) 、6度目にして漸く来朝を果たされた。                                                                      
 翌年鑑真らは東大寺に招かれ、授戒伝律を任され、これを受け、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇はじめ多くの僧にわが国初の十師による授戒が行なわれた。そして天平勝宝7年 (755) には戒壇院という常設の授戒道場が完成し、以後鑑真和上はここで5年を過ごされる。この間その功績を讃えて大僧都にも任命され、辞されてからは大和上の称号を賜り、合わせて故新田部親王の旧宅地を下賜され、天平宝字3年 (759) に戒律の専修道場を創建した。これが唐招提寺である。その当時、多くの寺が国営の官寺であったが、唐招提寺は鑑真個人の理想を体現した私寺であった。大和上は天平宝字7年 (763) にこの地で76歳の生涯を終えられた。境内の北東の隅には鑑真和上御廟がある。また御影堂 (重文) には入滅直前に作られたという鑑真和上座像 (国宝) がある。
 私たちは南大門を潜り、拝観受付をして世界遺産になっている寺の境内をそぞろ歩く。この前来た時は、天平建築の金堂 (国宝) の平成大修理が終わった直後で、講堂 (国宝) 共々内陣が公開されていたが、今は通常は非公開とのこと、今回は外観するのみになった。ぐるっと境内を拝観して外へ。土産に春日大社の御神酒の「春鹿」を買った。
 こうしてこの楽しい旅は終わった。そしてここから長駆して金沢まで帰ることに。途中、京都駅で石田夫妻とケイちゃんが下りた。握手して別れた。マタネ!!!

2014年6月27日金曜日

京都へ行くまいかい:4世代連れの旅(その1)

 昨年はこの旅を企画立案してくれていた高島夫妻の長女がまだ京都大学に在学していたにもかかわらず、なぜか旅行は奥飛騨温泉郷と松本への旅となった。あの時期京都は紅葉で真っ赤に染まっていたろうにと想いながらの旅だった。そして今年、まだ娘のケイちゃんが大学に在学中ということもあってか、再び「京都へ行くまいかい」が催されることになった。そして一昨年と同じく、またも4世代同伴の旅となった。
 一行のメンバーを紹介しよう。第一世代は旧姓西野の三姉妹、上から順に、宮田キク子さん、石田レイ子さん、木村タカ子さん、それに石田と木村の旦那。これら計5人は皆さん70代である。第二世代は長姉宮田キク子さんの三姉妹、生まれた順に宮田マサヨさん、早川ミキ子さん、高島ヨシ子さん、それに早川と高島の旦那衆。このグループの年代は40〜50歳台である。第三世代は宮田マサヨさんの二姉妹のリセ子ちゃんとチオリちゃん、そして高島夫妻の長女のケイちゃん。この3人は皆さん20代である。そして第四世代は、姉のリセ子ちゃんの子供のタエ子ちゃんとメイ子ちゃん、妹のチオリちゃんの子供のリ子ちゃんの3人。この子達の歳は1桁台である。以上16名が今回のメンバーである。
 旅行は5月31日の土曜日と6月1日の日曜日の2日間、初日は京都での、2日目は奈良での周遊が予定に組まれていて、出発と終着は金沢市上荒屋の宮田家、東京在住の石田さん夫妻と京都在住のケイちゃんは京都で合流することになっている。
 
平成26年 (2014) 5月31日(土)
 朝8時にチャーターしたマイクロバスに乗り込み出発する。この旅行でのバスの運転は高島エイジさん、全行程を担当した。上荒屋から新設された北陸道の白山 IC までは指呼の距離、高速道に入り、バスは快適に南下する。手取川を過ぎた頃、私は持参した「財宝」をおもむろに取り出した。これは25%の「財宝」という焼酎を、これまた「財宝」という名水 (地下1000mから湧き出た天然ミネラルウォーター) で2:1に割ったものを、500 ml の財宝のミネラル水の容器に入れてあり、この水は家内が毎日愛飲している。そこで取り出した私の財宝を先ず家内に進呈した。すると嬉しそうにいつものように一気にガブッと一口、でもその中身は焼酎、でもすぐには吐き出せず、誰かがポリ袋を渡して漸く彼女は解放された。悪い悪戯をした。反省。しかし私はその後その財宝を快調に胃の腑へチビリチビリと送り込み続けた。
 最初の休憩は南条 SA 、その後敦賀 IC で高速道を下り、国道8号線へ。当初京都大原へは北から入ると聞いていたので、小浜からの若狭街道 (鯖街道) を通るのかと思っていたら、そうではなくて近江の方からとのことだった。敦賀の南で8号線から 161号線 (西近江路) に入り南下し、志賀バイパス、湖西道路 (いずれも 国道161線 ) と通り、和邇 IC で下りてトイレ休憩。ここまで3時間ばかり、和邇川の畔で小休止する。園地にはニワゼキショウが咲き誇っていた。ここからは北に連なる比良山地 (盟主は武奈ヶ岳、懐かしい山) と南の比叡山との鞍部を抜け、途中峠から若狭街道 (国道 367 号線) に入ると、そこはもう目指す京都大原である。
 さて予定では 12 時に大原三千院に入り、ここで石田さん達と合流の予定だったが、この時刻、石田さん達はまだ京都駅とのことで、迎えにバスは京都駅へと向かう。勝手知ったる京都の道、それと上手なハンドルさばき、無事石田さん達と合流できて、再び大原へと取って返す。車を停めたのは志ば漬の里にある土井志ば漬本舗、店には沢山の種類の志ば漬が所狭しと並んでいて、それは皆試食が可能、これには驚いた。店の周りには紫蘇畑が広がっている。時間は午後1時半、昼食はこの店の奥にある食事処の竈炊き立てごはんの「土井」で、奥の小上がりへ上がり込む。テーブルは2つ。片方は子供中心の女性ばかりで、第一世代1名、第二世代2名、第三世代2名、第四世代3名の8名。もう片方は男性4名と女性は第一世代2名と第二世代1名の7名。思い思いに飲み物を注文する。昼食にやがて小一時間をかけ、済んで志ば漬を土産に買い、バスで大原三千院へ向かう。
 駐車場にバスを停め、徒歩で三千院へ向かう。参道の径を辿ると、道筋には土産物屋や茶屋などが並ぶ。宮川沿いに10分ばかり歩き左へ折れると、三千院の御殿門に達する。門を潜り、受付を通り拝観する。ここは天台宗の開祖である最澄 (伝教大師) が比叡山に築いた草庵を起源とする門跡寺院で、明治維新後にこの地へ移り「三千院」と公称されるようになったという。寺に上がり、客殿、宸殿、往生極楽殿と巡る。往生極楽殿には国宝の阿弥陀三尊像が安置されている。外に出て池泉回遊式の有泉園を通り、わらべ地蔵、弁財天を経て、高みにある金色不動堂に向かう。真っ直ぐに伸びた杉木立が美しい。それに楓が沢山植わっている。秋の紅葉はさぞ綺麗だろう。また庭を覆う苔も素晴らしい。堂には金色不動明王が祀られている。ここで金色不動明王と弁財天の御朱印をもらう。帰りには紫陽花園を回って下り、円融蔵で薬師如来と阿弥陀三尊の御朱印を頂き、入った御殿門から外へ出る。ざっと30分ばかり、来た径を引き返す。皆さん途中の茶店でかき氷に魅せられて一服、鮮やかな緑色は抹茶なのだろうか。茶店の前庭に大原菊と名の付いた花が咲いていた。植物名はミヤマヨメナとある。註にミヤコワスレはこれの園芸種だとあった。食べ終えて駐車場に向かう。
 バスは国道 367 号線を南下し、京都市街へ、北山通の交差点を右折し西進すると、左手に森が見え、ここが今日最後の訪問の場所の京都府立植物園、正門から入る.時間はやがて午後5時、でもまだ陽は
高い。予定より約1時間の遅れである。この時期、丁度バラ、ハナショウブ、アジサイが見頃だという。初めにバラ園へ行く。夥しい種類のバラが咲き誇っている。壮観というしかない。赤・白・ピンク・深紅・黄・紫等々、実に見事だ。そぞろ歩いて花菖蒲園へ行く。まだ全部は咲き出してはいないが、随分多くの種類が植わっている。紫、黄、白の各色に縞筋が入ったり、ぼかしが入ったり、見頃ならば壮観だろう。
 小一時間ばかりいて、嵯峨野の渡月橋近くにある今宵の宿「花のいえ」へ向かう。ここは公立学校共済組合嵐山保養所とのことだが、着いてその静かで優雅な佇まいにびっくりした。聞けば、朱印船貿易や高瀬川、保津川、富士川の開削で知られている角倉了以の邸趾とか、小堀遠州作と伝わる枯山水の庭園もある実に風情のある宿だ。本当に素晴らしい宿を世話して頂いた。
 部屋は4室、男性は1室、着いた時間が遅かったこともあり、すぐに夕食とか。早速着替えて夕食の間へ。すると驚いたことに、「ふようの間」という畳の部屋に和室用のテーブル席が設えてあるではないか。何とも不思議な印象だった。テーブルには既に料理が置かれている。セットの会席料理なのだろう。お酒はそれぞれに注文、日本酒あり、ビールあり、焼酎あり、談笑しながらの宴会形式の夕食、ほぼ約2時間ばかり、8時半にお開きとなる。お風呂に浸かった後、男性の部屋にマサヨさんとその子達と孫達が登場、ビールを飲みながら暫し他愛のない会話を楽しむ。午後10時近くになり散会した。

2014年6月12日木曜日

平成26年の子うし会

 子うし会というのは、昭和24年3月に野々市小学校を卒業した同窓生と昭和27年3月に野々市中学校を卒業した同窓生の集まりである。合わせた数は、男28名、女25名である。そしていつ頃からか、毎年少なくとも1泊でこの会を開いている。近くの温泉などでの会の場合、大概20名前後が参加する。これまでの会の経過をみると、近くでするのと遠くへ出かけてするのとを交互に繰り返してきた。昨年は喜寿の祝いということもあって、地元粟津温泉「法師」での開催で、今年は遠出の予定だったものの、遠出するなら日の長い時期にという地元女性軍の希望もあって、今年は再び地元になった。私は世話人代表になってはいるものの、実務の方は、男性は Y 世話人が、女性は A 世話人が、皆の意見を集約して行き先などを決めてくれる。その後の皆さんへの案内や取りまとめは私がしている。
 案内を出す同窓生の数は、男性は28名中、物故者8名、消息不明者3名、障害や長期入院等で会に参加できない人6名と私を除く残り10名。また女性は25名中、物故者4名、過去10年間に一度も参加したことがない人7名を除いた残り14名である。この中には乗り物酔いや頻繁な車の乗り降りに支障がある人が女性に4人いて、この方達は長距離の移動や長い旅行は困難である。するとどうやら元気で旅行可能というのは20人ばかりということになる。その中で現在傍から見ても五体満足でピンピンしているのは、男で5人、女で7人ほどで、私自身は十病息災の身である。
 この子うし会の旅行には、もう15年位前から北陸交通の N さんが担当してくれていて、今回の企画にも彼が相談に乗ってくれた。それでまとまった今年の案が私に届けられたのが3月末、富山県の雨晴温泉への1泊バス旅行にしたという。地元野々市からの出発は5月28日の午後1時半、帰着は翌日の午後0時半、立寄先は、初日は高岡市にある重要文化財の雲龍山勝興寺 (浄土真宗本願寺派) 、そして翌日は氷見市にある氷見漁港場外市場の「ひみ番屋街」の2カ所のみ、規模としては小さく、東京在住の2人と関西にいる3人の同窓生には、たった1日の短いバス旅行にわざわざ出てくるのに不服が出ないかどうかが心配だった。でもとにかく過去にこの会に参加したことがある24名に通知を出した。出欠の返事の期限は出発の2週間前の5月14日にした。
 ところで期限までに返事があったのは22名、うち参加者は16名 ( 男6 女10) 、不参加者は体調不良でが5名 ( 男3 女2 )、多忙でが1名 ( 女 ) だった。返事のなかった男女各1名には後日電話で問い合わせたが、出発の2、3日前にならないと確答できないとのこと、これには本当に啞然となった。今回当初は20名の参加を見込んではいたものの、最終的な参加者は17名ということになった。
 当日は天気も良く、野々市で乗車する12名は出発時間前に揃った。残りは金沢駅西口での乗車だが、以前とは乗車場所が異なっていたこともあって、少々時間を費やした。車は北陸交通がチャーターしたマイクロバス、一路北陸道と能越道を経由して高岡市伏木にある勝興寺へ向かう。この寺の開基は本願寺八世の蓮如上人で、当時は土山御坊といったが、佐渡にあって廃絶していた順徳天皇勅願所の「殊勝誓願興行寺」を再興相続して「勝興寺」としたとある。敷地3 ha には重文12棟があり、平成10
年から20年計画で修復工事が進められている。現在は本堂のみ修復が完工していて、私たちは本堂で説明を聞いた。また境内には天平の昔に越中国庁があったことを示す碑があり、万葉の歌人の大伴家持が5年間国守としてこの地に赴任していたとか。この辺り一帯、当時は越の国 ( 越前、越中、越後 )と称されていて、まだ加賀や能登という名はなかったと聴いたことがある。
 寺を出て国道を北上して雨晴海岸を経て高台にある今宵の宿の「磯はなび」に入る。客室数50室もの温泉ホテル、空気が澄んでいれば、右手に立山連峰、左手には能登半島が見えるはずなのだが、生憎と黄砂で霞んでいて見えない。ゆっくりと露天風呂に浸りながら駄弁る。眺望がないのが残念だ。湯上がりに生ビール、大変旨い。暫時休んで宴会、ここ数年は宴会はテーブルと椅子の組み合わせ、今宵は何故か男性と女性が対面する構図、でも話に花が咲く。品は12品、食べ尽くせない。終わって幹事部屋に皆が集まり、飲みながらの雑談、それにしても以前と比べると随分酒量が落ちた。来年はこの時期に遠出して長崎の五島列島に行こうかと。就寝したのは翌日だった。
 翌朝の朝食はバイキング、平日なのにかなりの客がいたのは驚きだった。宿を定刻10時に出る。氷見市中心部を抜け、氷見漁港の北側に移設された「ひみ番屋街」へ。ここには30店舗もあり、海山の幸、郷土の土産、和洋食堂、回転寿司、そして隣には氷見温泉の総湯までもがある一大拠点だ。ここで小1時間過ごし、能越道・北陸道を経て、この旅を終えた。来年は五島へ行こう。

2014年6月5日木曜日

シンリョウのツブヤキ(6)5月の花

 5月に家の庭 (露地) で花が咲いた木々と草花を記した。植物名は50音順に記した。
 植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
 植物名の後に(4〜)とあるのは4月に前出したもので、科名属名は省略した。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物である。
 また〔栽〕は、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
 アケボノ(4〜) オオムラサキ(4〜) キンシバイ(オトギリソウ科 オトギリソウ属)
 クサイチゴ(4〜) ケヤキ(ニレ科 ケヤキ属) コマユミ(ニシキギ科 ニシキギ属)
 サツキ(ツツジ科 ツツジ属) サンザシ(バラ科 サンザシ属)
 シキミ・ハナノキ・ハナシバ(シキミ科 シキミ属) シュロ・ワジュロ(ヤシ科 シュロ属)
 シロリュウキュウ(ツツジ科 ツツジ属) セイヨウバラ・ブッシュ(バラ科 バラ属)
 タブノキ・イヌグス(クスノキ科 タブノキ属) ノイバラ(バラ科 バラ属)
 ハクチョウゲ(アカネ科 ハクチョウゲ属) ハゼノキ・ハゼ・ロウノキ(ウルシ科 ウルシ属)
 ヤブツバキ(4〜) ヤマフジ(4〜) ライラック・ムラサキハシドイ(4〜)
 種名不詳(ユキノシタ科)
 以上 20種(14科 16属)
2.草 本
 アオマムシグサ(4〜) アゼナルコ(カヤツリグサ科 スゲ属)
 アメリカスミレサイシン(4〜) イチゴツナギ(イネ科 イチゴツナギ属)
 ウシノケグサ(イネ科 ウシノケグサ属) ウワバミソウ(イラクサ科 ウワバミソウ属)
 オニタビラコ(4〜) オノマンネングサ(ベンケイソウ科 キリンソウ属)
 カタバミ(4〜) カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(4〜)
 コナスビ(サクラソウ科 オカトラノオ属) コヌカグサ〔外〕(イネ科 コヌカグサ属)
 コバンソウ・タワラムギ(イネ科 コバンソウ属)
 コメツブウマゴヤシ〔外〕(マメ科 ウマゴヤシ属)
 ジシバリ・イワニガナ・ハイジシバリ(キク科 ニガナ属) スズメノカタビラ(4〜)
 スズラン(4〜) スミレ(4〜) セイヨウタンポポ〔外〕(4〜) セントウソウ(4〜)
 セキショウ(サトイモ科 ショウブ属)
 タチイヌノフグリ〔外〕(ゴマノハグサ科 クワガタソウ属)
 タツナミソウ(シソ科 タツナミソウ属) ツボスミレ(4〜) トウバナ(シソ科 トウバナ属)
 トキワハゼ(4=) ドクダミ・ジュウヤク(ドクダミ科 ドクダミ属)
 ニワゼキショウ〔外〕(アヤメ科 ニワゼキショウ属) ノハナショウブ(アヤメ科 アヤメ属)
 ノミノツヅリ(ナデシコ科 ノミノツヅリ属) ハハコグサ(キク科 ハハコグサ属)
 ハルジオン(4〜) ハルタデ(タデ科 タデ属) ハルノノゲシ(キク科 ハチジョウナ属)
 ヒメオドリコソウ〔外〕(4〜) ヒメスミレ(4〜) ヒメツルソバ〔外〕(4〜)
 ヘビイチゴ(4〜) ホウチャクソウ(4〜) ホソイ(イグサ科 イグサ属)
 ミスミソウ・ユキワリソウ(4〜) ムラサキカタバミ〔外〕(カタバミ科 カタバミ属)
 ムラサキケマン(4〜) ヤエムグラ(アカネ科 ヤエムグラ属)
 ヤマネコノメソウ(ユキノシタ科 ネコノメソウ属) ユキノシタ(ユキノシタ科 ユキノシタ属)
 以上 47種(25科 42属)    

2014年5月16日金曜日

「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(3)

(承前)
3.「蕎麦ふじおか」を信州飯綱高原へ移転し開店 平成21年 (2009)
 住所:〒 380-0888 長野県長野市上ヶ屋 2471-2066 TEL : 026-239-2677
 平成21年(2009) 7月、信州黒姫高原で20年間営んできた蕎麦屋「ふじおか」を、同じ信州の飯綱高原へ移転した。南に信越五山の飯縄山を望むゆるやかな斜面に、洒落たロッジ風の建物を建てた。環境はというと、黒姫では高原の林の中、どちらかというと静かで暗い印象を受けたものだが、飯綱の方は同じ高原の林の中だが、明るく開放的な雰囲気、建物も窓を大きく採ってあり、したがって店内は明るく光に満ち溢れている。高い天井、窓からは四季折々の高原の景色を居ながらにして堪能することができる。何とも贅沢な環境である。そして部屋にはグランドピアノが鎮座し、CD が聴ける装置も置かれている。営業時に音楽が奏でられることはないが、休日には音楽好きな二人のこと、この空間で寛ぎ楽しむのだろうか。また5月に訪れた時は、外にはまだ雪が残っていて、室内では薪ストーブが赤々と燃えていた。このような素晴らしい環境にあるのだが、ただ唯一の難点は、すんなりこの店へ辿り着けないことである。上信越国立公園内ということもあって、やたら広告看板を出せないこともこれに拍車をかけている。
 黒姫から何故飯綱へ移転したのか、その真意はよく知らないが、一説には温暖化の影響もあって、黒姫ではいわゆる霧下蕎麦を期待出来なくなったのではとも聞いている。ところで飯綱へ来て、黒姫で使っていた白木のせいろが傷んできたこともあって作り直すことに。ところで、20年前に作ってくれた中川清司さんはその時人間国宝になられていた。しかしお願いして再び作って戴いた。そして出来上がったせいろは、以前のものに比して幾分小振りで、うすく透明な漆がかけられていたという。それを手にして彼は、このせいろに負けない立派なそばを打たねばと思ったという。それにはこれまでよりももっと細く打つようにしようと思ったという。そのためには、玄そばの風味をさらによく引き出すために、蕎麦を挽く際に粉の粒子を幾分粗くするようにしたという。しかし言うは易く行なうは難しで、目指すべき理想のそばは一朝一夕で簡単にかなうものではない。こうして彼は日々鋭い解析力と高い技術でもって格闘し、より高い進化した「ふじおか」のそばを目指しているという。宮下氏の言によれば、「ふじおか」の主の目下のテーマは「水をはじく、より強靭な麺体を持つそばを打つこと」であるとか、それにはより厳密な水回しが肝要とのことだ。彼は常に前へ進み、常に「これから」という先を見続けている62歳である。それにしても私がこの5月に飯綱でお会いした藤岡さんは、まだお若い好々爺という感じ、気品のある奥さんとは実に似合いの夫婦である。

「蕎麦ふじおか」の案内
● 名 刺:比較的詳しい?案内地図と案内内容が刷られている。
● 営業日:金・土・日・月曜日
● 営業時間:2名以上で予約の上、11時30分に入店して下さい。
● 入店制限:10歳以下の方の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろそば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席 数:18(原則として相席なし) 4人掛け3脚、6人掛け1脚。

4.品の価格の変遷(1991.12 〜 2014.4) 単位:円
● せいろそば:1000 ー 1200 ー 1300 ー 1400 ー 1500 ー 3000
● おかわり:800 ー 800
● そばがき:700 ー 800
● そばぜんざい:800 ー 1000
● お酒 (越後大吟醸酒 [鄙願]):1000 ー 1200 ー 1500
● ビール:500 ー 600
 最初の数字は黒姫 (1991.12) での価格、最後の数字は現在 (2014.4) の価格。

「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(2)

(承前)
3.「ふじおか」を信州黒姫高原へ移転 平成元年 (1989)
  住所:長野県上水内郡信濃町野尻字山桑 2090-28
 「ふじおか」について記している二人の著者がここを初めて訪れたのは、共に偶然にも開業2年後のことである。私たちが初めて訪れた時もそうだったが、道端に目につかない実に小さな標識があるのみで、林の中に建つ山荘風の蕎麦屋に辿り着くのは至難なことだった。それほど外観は蕎麦屋らしくなく、高床式の建物は一見その辺りに散見される別荘かペンションに見える。
 こうしてここでは地元黒姫の何軒かの農家と契約して蕎麦を栽培してもらい、収穫した蕎麦はその場で脱酸素剤を入れて真空パックにし、地下の大きな冷蔵貯蔵室で1年分保管する方式を採り、玄そばを毎日使う分だけ製粉する。それには先ず汚れやゴミを磨き落とし、玄そばをサイズによって5段階にふるい分け、黒い外皮を脱穀機や皮むき機で取り除く。すると甘皮が登場する。この「丸抜き」を石臼で挽き製粉するのだが、この気の遠くなる仕事を全部彼一人でこなした。でもこれだとどんなに頑張っても1日50人分、せいろ百枚が限度だという。そしてそばは製粉までが一番の大仕事で、本当に良い蕎麦粉が出来てしまえば、もうそばは出来たも同然と仰る。また地元の蕎麦を使うのは、蕎麦はあまり移動させない方が良いとの考え方による。こうすることによって、四季を通じて常に素晴らしい味と香りと色をたたえた蕎麦粉が出来る。彼がまだ小学生の時に、担任の先生が「幸福ってどんな色だと思いますか」との質問に、ある女の子が「それはうぐいす色のような気がします」と言ったのを聞いて、どんな色なのかを調べたという。彼はこの蕎麦粉の色を見て、もっと淡い緑色なのだが、この色こそ彼女が言った幸福色そのものに違いないと思ったと述懐している。
 彼は「そば」に関しては一家言を持っている。新そばは必ずしも一番美味しくはないと、暫く寝かせて2月頃が最も美味しいとも、もっともそれは彼の保存方法によっての条件なのだろうが。また、そばは打ちたてが一番とよく言われるが、これは必ずしも当たってはいなくて、多少寝かせた方が美味しいとも。打ちたてのそばは確かに芬香はあるが、その香りは粗野であり、味わいも角があるから、少し寝かせた方が、良質な味と香りがじんわりと出て、旨味のバランスがグッと良くなるとも。私が初めて寄ったのは平成15年 (2003) であるが、この時主に甘皮の付いた丸抜きを見せてもらったが、とても爽やかな浅緑色をしていた。
 彼にそばの師匠はいない。独自で試行錯誤を繰り返しながら「ふじおか」のそばは作られてきた。しなやかで弾力があり、爽やかな喉越しをもつ細身のそばは、香りがあり、それに気品が備わった清冽な味わい、そして自然で美しい彼の郷愁ともいえる幸福色。しかし彼はこれに満足せずに更に進歩したいともらす。
 彼はこの甘皮の優しい浅い緑色の清々しさを感じさせるそばを盛りつけるのに相応しい白木の「せいろ」を、京都の道具屋に特別に注文して作ってもらっている。この精巧な清々しいせいろを作ったのは中川清司氏、この方は後に重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝となられた方である。彼のこだわりをひしひしと感ずる。
 こうして彼は黒姫高原の店で20年間切り盛りしてしてきたが、この間いろんな新しい試みをした。
● そばがき:生来蕎麦屋で出されるそばがきは、整形したものをそば湯やお湯を張った器に入れて供していたが、彼はお湯と共に火にかけながら柔らかく練り上げて器に載せて供したが、そのふんわりとした食感は実に素晴らしい。皿に直接盛るスタイルは彼の考案とかで、ふじおかのそれは正に芸術品である。
● そば湯:これまでのそば湯には、そばを茹でた釜の湯を用いていたが、彼は蕎麦粉をお湯で溶いて、そばのポタージュスープのようにして供した。最近ではこのようなタイプのそば湯を別製で出す店も多いが、これはふじおかで彼が始めたことである。
● そば汁:もともとふじおかでは江戸前の辛口のつゆだったが、あるときを境に激変して薄いつゆになったという。これは辛口のつゆにどっぷりとそばを浸けて食べる客が圧倒的に多くて、これではせっかくのそばの風味が損なわれてしまうので、どっぷり浸けてもそばの味わいが失われないように、薄めのつゆに調整したのだという。
● 打ち粉:自家製粉を標榜している蕎麦屋は多いが、打ち粉だけは粉屋から仕入れるのが通常なのだが、彼は打ち粉も自家製粉したものを使用している。
● お酒:出されるのは越後大吟醸酒の「鄙願」のみ。私が初めて訪れた折、大吟醸酒にしては吟醸香がまるでしないので訊ねたところ、いろいろ試して、そばの微かな香りを妨げない大吟醸酒はこのお酒のみと言われ、恐縮してしまったことを思い出す。
 その他で特記すべき事柄は次のようである。
● 名刺:私は黒姫での店での名刺は知らないが、当初作られた名刺には主の藤岡優也と妻のみち子の両名の名前が並んで記され、それには「楚楚凛然」と刷り込まれていたという。
● 営業:休日は水曜と木曜日。予約は不可。入店は11時半からと13時の2回のみで、15時に閉店。しかし後には11時半1回のみの入店、13時の閉店となった。したがって、どうしても入店したかったら、開店2時間前位に着いて、順に就く必要があった。このことは、何とエラそうな蕎麦屋なんだというような風評が立つ因ともなった。
● 入店制限:10歳以下の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろさおば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席数:18席(原則として相席なし)。
● 現状:この黒姫の店は飯綱への移転後もまだあるものの、お聞きしたところでは、屋根が一部落ちたと話されていた。(2014.4.20)

2014年5月15日木曜日

「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(1)

 この一文を書くにあたり、直接藤岡氏に取材して記事を書いた宮下裕史と佐藤隆介の文章を参考にした。参考にした図書と項目は次の通りである。
 (1)佐藤隆介:うまいもの職人帖:平成9年 (1997) 文芸春秋:藤岡優也の蕎麦道
 (2)宮下裕史:そば読本:平成6年 (1994) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
 (3)宮下裕史:新そば読本:平成11年 (1999) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
 (4)宮下裕史:「そば」名人:平成22年 (2010) プレジデント社:「蕎麦ふじおか」藤岡優也

0.藤岡優也の読み
 佐藤隆介は「ふじおか・まさなり」、宮下裕史は「ふじおか・ゆうや」としている。

1.生い立ちから開業まで
 彼が生まれたのは昭和27年 (1952)、伊勢松阪 (三重県松阪市) である。小さな時から手先が器用で、それには自信があり、よく一人でプラモデルを作ったりするのが好きで、誰よりも上手に作れるという自負があった。そんなこともあって、学校生活はあまり好きでなかったし、団体行動が苦手で、いつも僕は落ちこぼれだと思っていたという。中学生になってからは音楽に傾倒するようになる。初めフォークソングに熱中していたが、やがてクラシック音楽に魅力を感ずるようになる。高校へ入ると、クラシックギターを習うようになり、夢中で練習に励むようになり、すごく腕を上げた。高校の教科では物理と化学が大好き、そして音楽好きで手先が器用、それで団体行動が苦手なこともあって、将来はエンジニアになろうと決心するに至る。
 大学は京都の同志社大学の工学部機械工学科を目指した。同志社大を選んだ大きな理由は、同校のマンドリン部が西の雄であったこと、東の雄の明治大学のマンドリン部も有名だったが、演奏曲目はポピュラー音楽をメインにしていたのに対し、同志社では伝統的にイタリアの古典音楽を演奏するのがしきたりだったことによる。彼は大学へはクラブ活動をするために行っていたようなものだったと述懐していたという。そしてこのマンドリン部で将来の伴侶となる信州下諏訪出身の「みち子」さんと知り合うことになる。そして定期演奏会のための合宿で初めて志賀高原へ行き、その時味わった信州の清澄な雰囲気に、とても魅せられたという。
 ところで彼は、将来エンジニアになることを夢見ていたから、可能性のあるいくつかの企業でアルバイトをした。ところが裏表のある人間関係にさらされて疲弊し、企業の一員として身を置くことは無理ではないかと思うようになる。そんな折、信州戸隠の宿坊でアルバイトをする機会が訪れる。宿坊では客に手打ちそばを振る舞うが、そのそばは農家の主婦が打っていて、彼はここで初めてそばと接触することになる。そういう農家の女達の蕎麦談義を聞きながら、また自らもそばを打ち、毎日そばを食べながら、次第にそばに取りつかれるようになったという。そして生来手先が器用なこともあって、いつの間にか、門前の小僧はいっぱしのそば打ちになっていたという。しかしそばに興味を抱いた彼はこれに満足することなく、もっと旨いそばを求めて、そばを食べ歩き始めるようになる。
 ところで、彼は特定の蕎麦屋での修業経験は全くない。1ヵ月ばかり東京でそば打ち教室に通った以外は、もっぱら本を読み漁って試行錯誤を繰り返したという。彼の信条は、「そばはつなぎを入れることなく打たねばそばとは言えない」であり、しかも「旨くなければならない」ということである。

2.故郷の松阪市でそば店「ふじおか」を開業 昭和55年 (1980)
 彼の故郷の松阪市は「うどん圏」である。そんな故郷で、彼は28歳の時に、同志社大のマンドリン部で知り合った信州出身の奥さん、みち子さんと2人で、そば店「ふじおか」を開店することになる。類まれな器用さは、エンジニアとしてではなく、そば職人としてその能力を発揮することになる。彼が開業した当時、松阪市にはそば屋はなかったのではないか。私の2011年の資料を見ると1軒のみ、三重県自体、そば屋は全国でも4本の指に入る位の少なさである。そういう雰囲気の中での開業は大変な苦労を伴っただろうことは想像に難くない。ましてや良い蕎麦粉を手に入れること自体、難しかったのではなかったか。
 そこで開業3年後の昭和58年 (1983)、旨いそばを打つべく、彼は自家製粉を始めた。未知の世界への突入である。そして打つのは蕎麦のみの「せいろそば」のみ、ただこれには何故かセットにして、今日も出されている「野菜料理」と「漬物」を付けるスタイルにこだわり、それは今日でも確立されたスタイルとして踏襲されている。また「十歳以下の子供の入店をお断りします」としたのも、この頃からだという。しかしこのような彼の孤高のスタイルは、地方の都市では受け入れられるはずもなく、うどん圏の人達の嗜好とは次第に乖離してゆくことになる。  

2014年5月9日金曜日

シンリョウのツブヤキ(5)4月の花

 4月に家の庭 (露地) で咲いた木々と草を記した。植物名は五十音順に記した。
 植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
 また〔栽〕とあるのは、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
 アオキ(ミズキ科 アオキ属) アケボノ(ツツジ科 ツツジ属) アンズ(バラ科 ウメ属)
 イロハモミジ・タカオカエデ・イロハカエデ(カエデ科 カエデ属)
 ウメ(バラ科 ウメ属) オオムラサキ(ツツジ科 ツツジ属)
 クサイチゴ・ワセイチゴ・ナベイチゴ(バラ科 キイチゴ属)
 コブシ・ヤマアララギ・コブシハジカミ(モクレン科 モクレン属)
 サンショウ・ハジカミ(ミカン科 サンショウ属) シナレンギョウ(モクセイ科 レンギョウ属)
 ドウダンツツジ(ツツジ科 ドウダンツツジ属) トサミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
 ナラガシワ(ブナ科 コナラ属) ヒイラギナンテン(メギ科 ヒイラギナンテン属)
 ヒサカキ(ツバキ科 ヒサカキ属) ヤブツバキ・ツバキ・ヤマツバキ(ツバキ科 ツバキ属)
 ヤマブキ(バラ科 ヤマブキ属) ヤマフジ・フジ(マメ科 フジ属)
 ユズリハ(ユズリハ科 ユズリハ属) ライラック・ムラサキハシドイ(モクセイ科 ハシドイ属)
 以上 20種(10科 14属)
 注:アンズやウメは中国原産で、古くに果実として日本に渡来し、栽培された。
2.草 本
 アオマムシグサ(サトイモ科 テンナンショウ属)
 アメリカスミレサイシン〔外〕(スミレ科 スミレ属) イカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
 オニタビラコ(キク科 オニタビラコ属) カタバミ(カタバミ科 カタバミ属)
 カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(マメ科 ソラマメ属)
 カンスゲ(カヤツリグサ科 スゲ属) コスミレ(スミレ科 スミレ属)
 スイセン(ヒガンバナ科 スイセン属) スズメノカタビラ(イネ科 イチゴツナギ属)
 スズラン(ユリ科 スズラン属) スミレ(スミレ科 スミレ属)
 セイヨウタンポポ(キク科 タンポポ属) セントウソウ(セリ科 セントウソウ属)
 タチツボスミレ(スミレ科 スミレ属) ダッチアイリス〔栽〕(アヤメ科 アヤメ属)
 タネツケバナ(アブラナ科 タネツケバナ属) ツボスミレ(スミレ科 スミレ属)
 ドイツスズラン〔栽〕(ユリ科 スズラン属) トキワイカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
 トキワハゼ(ゴマノハグサ科 サギゴケ属) ノミノフスマ(ナデシコ科 ハコベ属)
 ハコベ・コハコベ(ナデシコ科 ハコベ属) ハルジオン〔外〕(キク科 ムカシヨモギ属)
 ヒメオドリコソウ(シソ科 オドリコソウ属) ヒメスミレ(スミレ科 スミレ属)
 ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(タデ科 イヌタデ属)
 ヒメリュウキンカ(キンポウゲ科 キンポウゲ属) フキ(キク科 フキ属)
 フタバアオイ・カモアオイ(ウマノスズクサ科 カンアオイ属)
 ヘビイチゴ(バラ科 ヘビイチゴ属) ホウチャクソウ(ユリ科 チゴユリ属)
 ミスミソウ・ユキワリソウ(キンポウゲ科 ミスミソウ属)
 ミミナグサ(ナデシコ科 ミミナグサ属) ムラサキケマン(ケシ科 キケマン属)
 以上 35種(21科 27属) 

2014年4月26日土曜日

蕎麦「ふじおか」への再訪

 今年の探蕎会の5月の行事は長野の飯綱高原にある「ふじおか」を訪問するということだったが、事務局の前田さんから詳しい日時の案内があったのは3月18日、メールの発信時刻は12:09だった。内容は4月20日の日曜日に松井・前田両氏の運転で出かけること、定員は限定10名なので残りは先着8名とのことであった。私がそのメールを見て参加表明の返事をメールでしたのは翌19日の10:54、OK の返事があったのは同日の11:46、そして定員に達しましたとメールがあったのが13:01、私の参加は間一髪だった。事務局から発信があってやがて1日が経過していて、今回はてっきり駄目だと諦めていたのに、何とも僥倖だった。
 当日の天候は曇りで所により小雨ということだったが、何とか持ちそうな空模様。古巣の石川県予防医学協会の駐車場に集まり、予定の午前8時に出発する。先導は松井車、近くにある長野カントリークラブをナビに登録しての走行とのこと、途中2カ所でトイレ休憩し、目的地周辺に着いたのは11時少し前だった。ここからは前田車がスマホか何かで場所を確認して先導してくれて、無事「ふじおか」に着けた。私ではどうもすんなり着けないのが何とも不安だ。それはこの周辺一帯が国立公園内の別荘地であって、同じような建物が散在していて目印となるものがない上、通常のナビでは店の場所を特定出来ず、それで大変難儀することになる。場所は飯綱高原の西端に位置し、信越五山の飯縄山の南麓にあたる。ロッジ風の店の前からは北に飯縄山を仰ぐことが出来る。
 11:30きっかりに入り口のドアが開いて招じ入れられる。靴を脱いで中へ、床はきれいに磨かれた板張り、部屋には薪ストーブが燃えている。部屋は木の木目をそのまま生かした明るく開放的な空間、ベーゼンドルファーのグランドピアノが入口近くに、そして CD プレーヤーも、でも音楽はかけられていない。部屋には4人掛けのテーブルが3脚、6人掛けのテーブルが1脚、私たちは6人と4人に分かれて座る。今日は我々のほかに客は1組3人のみだった。今では完全予約制なので、ずっと以前のように予約不可ではないので、時間的には余裕がある。それでも11時30分には入って下さいとのこと、しかしうろうろして探す時間も考慮すると、多少の時間的余裕は欲しい。
 初めに「そば茶」が出た。以前は客の招じ入れは2巡のこともあったが、今は1回のみなので、ゆったりした気持ちで待てる。ややあって、奥さんが注文を聞きにおいでる。皆さん「せいろそば」と「お酒」を所望される。「せいろそば」には、ふじおか特製の「季節の野菜料理」と「蕎麦の実雑炊」、それに「野菜の漬物」が付いている。また「お酒」は越後大吟醸の「鄙願」のみ、これは店主推奨のそばに最も相応しいお酒である。車運転の二人は注文されず、当初は私も飲まないでおこうと思っていたが、同席の久保さんからは1合位ならいいでしょうと勧誘され、誘惑に負けて私も頂戴することにした。
 アルコール (エチルアルコール) は肝臓で解毒されるが、これにはアルコールをアセトアルデヒドに酸化する酵素と、さらに酢酸にまで酸化する酵素という2つの酵素の関与が必要で,一つが欠けていてもアルコールの分解解毒は完全に進行しない。そして私のうろ覚えでは、1時間に肝臓で解毒されるアルコールの量は7と記憶している。しかしその単位は g なのか ml なのか定かではないが、もし1合飲んだとすると、お酒のアルコール含量を15%とすると、アルコール量は27ml となるから、1合飲酒後、約4時間経過すればアルコールは分解解毒される計算になる。隣の久保さんは、私の肝臓は優秀で、この時間よりもっと速く分解されるようで、飲酒後でもある時間を経過すると、検問でもアルコールが検出されたことがないと仰る。
 暫し待って、初めに「季節の野菜料理」が出た。中鉢に4人分の山菜のお浸しと白和えが入っている。柔らかな旬の山菜の若芽、ノカンゾウ、カタクリ、コゴミ (クサソテツ) 、アマドコロなど、そして竹の子も入っている。緑が実に鮮やかだ。小皿に取り分けて食する。そして冷水に冷やされた「鄙願」が届く。前田・松井の両氏は達観されていて、黙々と山菜を口に運ばれているが、やはりお酒があってこそ野菜料理も引き立って来ようというものだ。次いで土鍋に「蕎麦の実の粥」が、これにはウドとコシアブラがあしらいに散らせれている。木酌で鉢に取り分けて食する。これもやはり上等な酒の当てとなる。
 次いで本命の「せいろそば」が届く。せいろは杉材で長方形の浅い枠型に作られていて、薄く漆が掛けられているという。以前の白木のせいろは京都の道具屋の中川清司氏に頼んで作ってもらったそうだが、当時の氏はまだ一介の職人だったという。でも前のが傷んで新調した時には、氏は既に重要無形文化財保持者 (人間国宝) になられていたとか。氏の手になるせいろは素朴だが気品のある実に素晴らしい器だ。竹簀が敷かれた上に細打ちの十割蕎麦がこんもりと載っている。せいろもさることながら、そばも実に美しい佇まいだ。そして鮫皮で下ろされた鮮やかな薄緑色の生山葵が猪口にたっぷりと盛られて付いて来た。そばには微かな鶯色があるようにも見え、手繰ると仄かな蕎麦の香りがする。そば猪口は地元信濃町の陶芸家の山中恵介氏の作とか、白地に藍色の文様が描かれていて、これにも主人のこだわりの良さが現れている。汁は濃くなく、むしろ薄めだ。私は癖でそばは3分の1位しか浸けないが、薄くてもこれで十分満足出来る。人間国宝の作のせいろで、それに相応しいそばを食べられるなんて、こんな冥加なことはない。喉越しは二八が最も良いというが、この十割の細打ちの何と喉越しの良いことか。そばにはうるさい家内だが、ぜひ賞味させてやりたいものだ。
 細打ちのそばがせいろからなくなる頃、蕎麦湯が届いた。ここの蕎麦湯は、蕎麦粉をお湯で溶いてポタージュスープのようにしたもので、近頃ではあちこちでこのようなタイプの蕎麦湯が出されるが、これはここ「ふじおか」で考案され、ここで初めて出されたと聞いている。本当にクリーミーで滑らか、濃くもなく薄くもなく、抜群の濃さ加減、初めはそのままで頂き、次いで少々の蕎麦汁を加えて飲んだ。幸せさが身体に漲る。
 そばを食した後に「野菜の漬物」が出た。胡瓜、菊芋、人参、赤大根、セロリ、豆などの浅漬け、野沢菜、そしてミニトマト、大鉢に彩りよく盛られていて、眺めているだけで随分と楽しくなる.本当はこれをつまにして一献やりたいところだが、ここは我慢のしどころだ。しかしもう1合所望の人が現れた。そこで厨房にお願いに行ったところ、実はもう手元にお酒はありませんとのこと、私にとっては救済だった。近頃はあまりお酒を飲む人は少なく、この日も1升しかストックがなかったのではないか、これから探蕎会の方がおいでる時には、不自由しないように用意しておきますとは奥さんの言だった。隣のグループはビールも頼んでおいでだったが,蕎麦前や漬物の当てにビールというのは経験がないだけに何とも言えないが、あまり合いそうな気がしない。
 終わって、「そばがき」を頼むことに。中には「そばぜんざい」を所望する人も、また両方をお願いする人もいた。暫く待って「そばがき」が届いた。すり鉢を模した鉢に、赤子の肌を連想する肌理の細かな滑らかな小判状の形をした饅頭を思わせる品が、頂点には下ろした生山葵の一摑みがちょこんと鎮座している。別の猪口には濃口醤油が添えられているが、でもそのまま食した方が本当の蕎麦の味を堪能出来て美味いようだ。それにしても何ときれいに仕上げてあるのだろう。実にほれぼれする。仲佐の「そばがき」の味も姿も素晴らしいと思ったが、こちらは正に芸術品だ。食べるのが惜しい。
 さて、私は「そばぜんざい」なるものを一度も食したことはないが、おそらく「ふじおか」の品はやはり逸品なのだろうと想像する。聞けば、ぜんざいは丹波大納言と和三盆で作られる自家製餡がベースとか、おそらく上品な薄味の程よい甘味が口中に広がる一品なのでは。甘党にとっては絶対見逃せない代物なのではなかろうかと思う。
 終わって精算の時に、家内を同道したいのですが、どうしたらと訊いたが、どうも確たる手だてはないようだった。ここは国立公園内なので、やたら看板の設置はご法度なのだとか。ただ全体の看板は2カ所にありますとも。ただ目印らしきものとしては、飯縄山登山口の看板の横を北上し、数個目の交差点で右後に曲がる道があるので、それを直進すると着くとのことだった。外へ出て、店に上がる階段のところで、奥さんにも入ってもらって写真を撮った。その後主人も出ておいでて、暫くの間、奥さんともども談笑した。2年前もそうだったが、こんな気さくな方だったとは。前の黒姫の店では到底及びもつかないことだった。別れ際に、奥さんと両手で握手した。柔らかく温かな手だった。
〔付記〕松井さんの言では、インターネットでの日本全国人気蕎麦店投票での第1位は「ふじおか」、第2位は丹波篠山の「ろあん松田」とのこと、彼は2店とも出かけている。私は5回と2回出かけた。

2014年4月3日木曜日

シンリョウのツブヤキ(4)

 4月に入って、日に日に温かさが増し、陽が照っている所にいると、暑いと感じたりする昨今、桜の開花が聞かれるようになった。家には,以前は大きな桜の木が2本あったが、枯れてしまって今はなく、家で花見はできない。4月1日、何となく陽気に誘われ、庭を回り、この時期どんな花が咲いているかをメモってみた。ランダムである。木本では、ツバキ、ヒサカキ、アオキ、アンズ、ウメ、シナレンギョウ、ヒイラギナンテン、トサミズキが咲いていて、杏、梅、支那連翹、土佐水木は満開、椿は次々と咲いている。その他の木も満開なのだが、花は余り目立たない。ただヒサカキだけは腐敗臭がするので、すぐに咲いていると分かる。 
 次に露地に咲いている草本についても記載した。このうち、いわゆる帰化植物には、植物名の後に    (外) を付した。ここでいう帰化植物とは、清水健美編の「日本の帰化植物」に収載されている植物で、その定義としては、(1) 人間の活動によって、(2) 外国から日本に持ち込まれ、(3) 日本で野生化した植物で、この本では、安土桃山時代以降に渡来した植物を対象にしている。また園芸栽培植物で露地に繁茂している草本には (栽) を付した。以下ランダムに記載する。ヒメリュウキンカ (外) 、ダッチアイリス (栽) 、フキ、アメリカスミレサイシン (外) 、ヒメオドリコソウ (外) 、ミスミソウ・ユキワリソウ、スイセン、タネツケバナ、カンスゲ。この内、ヒメリュウキンカの鮮やかな黄色とダッチアイリスの薄紫色はよく目立つ。後者は3月中頃から咲き始めていて、花期はもう終わりである。
● トサミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
 40年以上も前に、植木市で買ってきて植えたもので、花が愛らしい。高知県に自生するのでこの名前なのだが、家の裏庭では株立ちして繁っている。植木屋さんには雑木と目に映るのか、黙っていると刈り込んでしまう。すると翌年は花が咲かない。3月中頃、まだ葉が出る前に、淡黄色の花苞ができ、やがて穂状の花序を垂らし、淡黄色の花を7〜8個付ける。昨年は難にあって花が見られなかったが、今年はかなり花が付いた。これと近縁のヒュウガミズキが庭に植わっているのを時折見かけるが、こちらは日本海側の石川・福井にも分布している。黄色の穂状花序に花は1〜3個しか付かないので、前者との違いは明瞭である。
● ヒメリュウキンカ(キンポウゲ科 キンポウゲ属)
 在来種のリュウキンカ (リュウキンカ属) とは外観が極めて似ているが、別属である。原産地は北アメリカで、野生化したものは、日本では1997年に初めて山形県で発見された。第二次大戦後に観賞用に鉢植え栽培されたものが野生化したものだが、その繁殖力には目を見張るものがある。夏から冬にかけては地上部は枯れ、雪解けとともに芽吹き、中型の黄色い花を咲かせる。少し乾燥した土地でも繁茂している。他方、リュウキンカは山地の沼地や湿地に自生していて、よく山ではミズバショウと混生している。白山では南竜ヶ馬場から別山へ行く途中、一旦赤谷に下りるが、そこにはリュウキンカが群生している。また白峰から鳴谷山や砂御前山へ登る途中、この2峰を繋ぐ尾根へ上がる手前の鎧壁との間の湿地には、ミズバショウとリュウキンカが一面に群生している。
● ミスミソウ/ユキワリソウ(キンポウゲ科 ミスモソウ属)
 石川県では輪島市門前町の猿山岬近くの山林での群生地が有名である。和名の由来は、葉の形の三角 (みすみ) に由来する。この別品種に、スハマソウやオオミスミソウがある。雪が残っている頃に咲き出すので、雪割草ともいう。花弁のように見えるのは蕚片で、花の色は白色や淡紫色である。5年位前に、能登の時国家で求めたももので、毎年花を付ける。

2014年3月26日水曜日

平山郁夫の「尾長鳥」

 小学館イマージュという小学館の関連会社から、月に4〜5回、高額な美術作品等を載せた豪華本とか、邦人作家の絵画や江戸時代の風景や美人の版画の復刻作品、ほかには近代に制作された仏像などの原型からのオリジナルレプリカブロンズ像など、様々な商品の案内がある。今月にあったその一つが「平山郁夫名品選」である。この中には仏教伝来の道に関わる画伯の画業の出発点ともなった、玄奘三蔵が印度へ求法の命がけの旅に出た姿を描いた「仏教伝来」、東西文化の道のシルクロードを題材にした、西域の砂漠を行く駱駝のキャラバン隊を描いた院展出品の「絲稠之路天空」のほか、「流砂の道」「流砂浄土変」「月光流砂駱駝行」や「ブルーモスクの夜」、そしてわが心の風景として描いた「慈光」(中尊寺内陣)、「薬師寺東塔」「法隆寺の春」「寧楽 (なら) の幾望」「大徳寺境内」、そして筆致は平山画伯だが、凡そらしくない題材の「尾長鳥」の計12点が紹介されていた。これらの作品は、日本画の巨匠・横山大観が自身の作品をより多くの人に身近に感じて欲しいとの気持ちから立ち上げた大塚巧藝社 (現・大塚巧藝新社) で復刻されたもので、ここでは国宝や重要文化財の保存や修復も行なっていて、平山画伯もまた、自身の作品復刻にはこの社の精細な美術印刷とシルクスクリーン印刷を採用していたという。今回紹介された作品は、最後の一点以外は、尾道市にある平山郁夫美術館やほかの美術館などの展示で幾度かお目にかかったことがある。
 さて、私に鳥のうちで最も好きな鳥はと問われると、沢山好きな鳥がいる中で、オナガが随一である。調べると、留鳥としての棲息域は、福井・岐阜・静岡を結ぶ中部地方以北から東北地方南部までとある。低地から山地の村落付近の雑木林などにいて、市街地の公園や庭にも飛来するとか。私の家の庭にも、昼は個々に、夕方から朝方にかけては、時折数十羽が群れて、孟宗竹の薮をねぐらにしている。ギューイとかグェーイとか、短くギュイとかグェイとか、特徴的な鳴き声を発するので、すぐに飛来しているのが分かる。特に夕方に群れているときは、かなりかしましい。以前私がこの鳥をよく目にしたのは、秋に棕櫚の実が熟した頃に、よくその実をついばみに来ていたからで、初めは渡りかと思っていたが、留鳥だった。今はよく現れている。ヒヨドリもよく群れで来るが、そんな時はオナガは遠巻きにしている。ひょうきんな鳥だ。
 オナガの体長は37㎝、尾が長く体長の半分位ある。成鳥は雌雄同色である。頭部は真黒で、黒いベレー帽を冠ったようだ。喉から頚は白い。背、肩羽、腰は灰色 (薄い鼠色:うすねず) 、胸から腹はやや淡い灰色 (薄い鈍色:うすにび) 、翼は大部分は薄い紫色を帯びた青色 (相思鼠:そうしねず) で、初列風切羽の羽先の外縁は白い。長い尾は翼と同じく相思鼠で、中央尾羽の羽先は白い。嘴と足は黒い。これがオナガの外観である。この翼と尾の青い色は、私の車のハイラックスサーフの外装の色と極めて類似している。
 翻って、平山画伯の「尾長鳥」を観てみよう。背景の空間は濃い藍色、すなわち深みのある紺色である。その中に、青みがかった緑色 (青緑) の木の葉 (複葉) が沢山描かれている。そして画面の中央右側に比較的太い枝があり、ここに番いの尾長鳥が止まっていて、何故か同じ方向を向いている。尾長鳥の頭は黒色、喉から頚は薄茶がかった白色 (鳥の子色) 、背、肩羽、腰はシルクロードの砂漠を思わせる黄土を焼いたような薄茶色 (砥の粉色) 、そして翼と尾は淡い瑠璃色 (秘色:ひしょく) で、風切羽の外縁と尾羽の先端は薄茶がかった白色 (鳥の子色) になっている。そして番いの鳥は、尾羽以外の全体に、鳥の子色の産毛のようなもので覆われていて、それで一見鳥が浮き上がって見えている。ただクッキリとした目はオナガではなくカケスのようだ。
 解説では、同じ方向を見ているのは、好物の無花果か柿でも見つけたようだと書いているが、庭ではこれらの木にオナガが群れているのを見たことはない。また番いとのことだが、繁殖の時期なら別だが、通常は群れているので、これは画伯の想像によるものかも知れない。番いというと鴛鴦がよく引き合いに出されるが、この鳥も番いとなるのは繁殖期だけで、次回は別だという。終生番いなのは雉鳩で、あのデデーポーポーと鳴くあの鳥である。
 しかし現実には稀でも、番いという画想は微笑ましい。もっと欲を言えば、尾長鳥が本当のオナガの色に仕上げられていたら、もっと引き立ったと思うのだが、欲張りだろうか。

2014年3月19日水曜日

平成26年探蕎会総会を振り返って(その2)

● 会費について
 総会議事のなかで、会費を年額5千円から3千円にすることが提案され、承認された。理由は会報の発行が年2回になっていることと、それに伴って次年度への繰越金が10万円を超えていることへの対応である。これは多分に会誌の発行頻度が少なくなったことによる。年別の会報の発行状況とページ数を見てみよう。
 平成10年(1998) 0ページ                    0回   0ページ
   11年(1999) 8                       1回   8ページ
   12年(2000) 4・6・4・12・10・4・8・8・4     9回  60ページ
   13年(2001) 6・6・10・4・8              5回  34ページ
   14年(2002) 8・8・8・12                4回  36ページ
   15年(2003) 8・14・12・10・12           5回  56ページ
   16年(2004) 8・8・12・8                4回  36ページ
   17年(2005) 8・16・12・8               4回  44ページ
   18年(2006) 8・16・16                 3回  40ページ
   19年(2007) 12・12・8                 3回  32ページ
   20年(2008) 12・8・8・20               4回  48ページ
   21年(2009) 8・8・12                  3回  28ページ
   22年(2010) 16・8・8・8                4回  40ページ
   23年(2011) 8・12・12                 3回  32ページ
   24年(2012) 8・8                     2回  16ページ
   25年(2013) 8・8                     2回  16ページ
   26年(2014) 8 (3月現在)                1回   8ページ
 年会費は発会当初から平成16年までは3千円だった。この7年間に発行された会報は述べ28回、230ページ、平均すると1年あたり4.0回、32.9ページで、この状況から平成17年には年会費が2千円増しの5千円に値上げとなった。それで次の平成17年から平成23年までの7年間についてみると、発行は24回、ページ数は264で、年平均3.4回、37.7ページである。しかし平成24年と25年には、年2回、各年16ページと極端に減少している。このこともあって、会費は再び3千円に減額された。因みに1回当たりのページ数は、平成10〜16年は8.2ページ、平成17〜23年は11.0ページ、平成24年以降は8ページである。
● 行事について
 探蕎会で参加者が多い行事というと、毎年6月に塚野さんのお世話で行われる湯涌みどりの里での「会員そば打ち」と、やはり毎年秋に行っている海道さんにお世話になる丸岡蕎麦道場での「新そば試食」であろう。どちらも30名を超す会員の参加がある行事である。足の方は、前者は三々五々集まるのに対し、後者は事務局の配慮でマイクロバスに乗って出かけることが多くなっている。それに対し、前半の春の探蕎と後半の秋の探蕎は、近隣はともかく、会則にあるように各地の銘店を訪ねつつ蕎麦道を探求するとなると、これまでは久保副会長におんぶに抱っこの感があったが、本年は3月に野々市の「敬蔵」での会が決まっているのみで、後は未定になっている。遠くへ行く場合には、これまでは会員の中で大型やマイクロバスの運転免許を持っている方が運転していただいて便乗したり、少数の場合には車に分乗して出かけたものだが、如何せん高年齢となって運転を辞退されると、少なくとも遠出は困難となる。また出かける曜日も問題で、これは会の今後の運営とも密接にかかわってくる。皆で考えたいものだ。
● 総会でのアトラクション
 総会では会食中に「会員紹介」と称して、会員が自由に話せる場が設けてある。でもマイクが回って来ても、半数の方は話すのを遠慮されるし、となると無闇に無理強いするのは司会者としても本意ではない。もっとも気楽に応じられて話される方があるのも事実である。今年は画家の大滝由季生さんが、今年初筆の4号の絵画2点、「祝い魚」と「実り」を持参頂いたので、その説明をお願いした。すると解説の後に、例年のごとく「猩猩」の一節を謡われた。その後事務局の前田さんから、斎藤千佳子さんがバイオリンを持参されているとのこと、これは渡りに船とお願いした。この方は書家でもあり、以前喬屋での会の時には、大判の紙に「探蕎」の文字を揮毫されたし、またバイオリンの演奏もされ、あの時は皆で合唱した。今回も終わりに近く、斎藤さんの伴奏で「故郷」を出席者全員で斉唱した。帰り際に次回も何か考えましょうとのこと、素晴らしい助っ人である。これまでも、お点前、琵琶演奏、詩の朗読と幽玄の世界とのコラボ等々、予め決められた趣向の演出があったが、このような企画が総会行事に添えられると、会も濃い内容になるのではなかろうか。皆さんからアイディアを募るのも一興かも知れない。

平成26年探蕎会総会を振り返って(その1)

 今年の探蕎会総会は2月16日の日曜日、金沢市武蔵ヶ辻にある金沢スカイホテル 10F の「白山」であった。例年と同じく、会長挨拶、総会議事、記念講演、乾杯、会食、閉会挨拶、記念撮影と、3時間にわたって行なわれた。いつもと違っていたのは、講演に初めて会員以外の方をお願いしたことだろう。本来なら私にお鉢が回っていたのだが、それよりも私が意中の人として選んだ横山さんに講演をお願いしたのだが、これは予想外に好評だった。終わって皆さんから来年もお願いできませんかと言われたあたり、それを如実に物語っている。演題は「前田家と宮家の婚姻」で、藩政時代初期の天皇家・宮家・公家・徳川家・前田家の詳細な略系図を資料とされて、「前田家の女たち」(1) 公家と前田家の婚姻、続いて(2) 宮家・五摂家と前田家の婚姻 について話された。初めて耳にすることも多く、非常に興味が持てた。中でも前田家は、今年の東京都知事選挙に立候補した元内閣総理大臣の細川護熈氏の細川家とは、近衛家を通じて縁続きなことも示された。アンコールの声が出ても不思議ではない内容の話だった。
 以下に総会で感じ取ったことを記してみたい。
● 会員の構成(寺田会長の開会挨拶から)
 会長は「探蕎」会報第1号から、発起人でもある波田野前会長と松原前副会長の言を引用された。前会長は、「探蕎会とは、蕎麦無限の極みー究極の味を究めんとする同好多士済々の集いといえよう」と。また前副会長も、「目下、会員は四十九人。むやみに会員の増加をのぞむ必要はない。元、現の職業や立場はさまざま。意外な人もいて、それぞれが専門的能力をもつ異色有能集団であるところも面白い」と。会員の皆さんが、前副会長のいう「専門的能力をもつ異色有能集団」であるかどうかは別として、前会長のいう「同好多士済々の集まり」とは言えそうだ。しかし会員がどういう方達から構成されているのかは知らないが、同好の士である以上の詮索は全く無用なのかも知れない。
● 会員数のこと
 ところで会報第1号には、末尾に50名の会員が入会順に記されている。平成11年12月現在とあり、この時点で松原さんは、むやみに会員の増加をのぞむ必要はないと言われている。ところで現在この中でどれくらいの人が現会員なのだろうか。事務局では把握されているのだろうが、私が見たところ、残留しているのは半数にも満たないように思う。一時は80名を超える会員数のこともあったが、昨年の会費を支払った人は36名とか、40名前後が望ましいとすればベターなのだろうが。一時は会の行事には参加しないが、会報が入用なので会費を納めているという人がいたが、今はインターネットで無償で見ることだできるようになっているから、そんな人は居なくなったと思う。因みに、創刊以降、平成23年4月発行の第50号までは、新会員の紹介があった。一体どれくらいの人が入会したのかカウントしてみると、ざっと80名ばかり、単純に累計すると130名となる。現会員を40名とすると、90名ばかりが退会していることになる。この中には物故者もいるが、大多数の人は「そば」が好きで会に入ったものの、会そのものには魅力を感じなくなったから退会したということになろうか。私の知っているそば好きの友人は、変に束縛されるよりは、気楽に家内とそば屋巡りをする方に魅力を感じたので退会すると言っていた。
● 会員の年齢構成のこと(前田事務局長の発言から)
 前田さんの発言では、男性では初老の前田さんクラスが会では最も若い年齢層とか。これではまるで老人会そのものである。一時会報にも、若い方の新規加入を呼びかけようとの記事も載ったが、実効があったとは聞いていない。今後探蕎会の魅力をアピールするのか、それともこのまま仲良し会で終始するのか、一度皆さんの意見を聞きたいものだ。
● 会報執筆のこと(寺田会長の開会挨拶から)
 会長は会員の方々に会報への原稿執筆協力の依頼をされた。執筆者に偏りが見られるので、こちらからお願いした節には、ぜひ引き受けてもらいたいとも。詳しく調べたわけではないが、恐らく半数以上の会員は執筆経験がないのではと思っている。いつか前会長がある方に執筆を依頼された折、書けないと言われると、話す言葉を字にすればよいと言われたことを思い出す。その方はどちらかというと饒舌だったのでそんな風に話されたのだったと思うが、結局彼は書かなかった。話されたものを別の方が記述するのならば別だが、本人があまり書かれたことがない場合には抵抗があって難しいように思う。いつか世話人までされていた方の原稿が真っ赤になったという話を聞いたことがあるが、あまり無理強いすると、それじゃ退会しますということになるのではと危惧する。そんなときは程よいサポートが必要なのではなかろうか。私が県にいたときに、一見精力的に仕事をし、また何にでも頭に立ちたがる御仁がいた。ごく短い文章を書かすと意味は通ずるのだが、長くなると何を言いたいのか全く分からず往生したことがあった。そのままでは当然投稿しても不採用になる。この人の文章の訂正には実に手を焼いた。このことがそのまま探蕎会に当てはまるとは思えないが、文を書くのが得手でない人に執筆を強要するのには問題があるように思う。感想を聞くのだったらインタビューするのも一策かも知れない。何と言っても、話すのは残らないかも知れないが、活字は末代まで残るからコワイ。
 

2014年3月18日火曜日

佐渡裕:ベルリンフィルへの挑戦

 2014年3月14日、いつも金曜日の午前8時からは、渡辺真理が司会する歴史館が NHK の BS103 で放映されるが、この日は瀬戸内海で勇猛を誇った村上水軍の栄枯盛衰を、その末裔の方のインタビューも交えて放送され、興味を持って見ていた。いつもはこれでテレビのスイッチを切るのだが、9時からこの日はプレミアム・アーカイブズとして、以前に放映されたことがある番組の中で、特に好評なものを再放映するとのこと、表題は「情熱のタクト〜指揮者・佐渡裕 ベルリンフィルへの挑戦〜」とあった。いつか彼の指揮する曲を聴いたことがあるが、オーラで身体が震えてしまったことを思い出した。それで途端に番組に釘付けになっていまい、凡そ2時間、終わってみれば立ったままで最後まで見ていた。何か臨場感もあって、久しぶりに緊張と祈りの混じったオーラが身体全体に漲った。
 前半は指揮者になるまでの生い立ち、本来はフルート奏者だったのが、ひょんなことで女子校の吹奏楽を指導することになり、その後独学で指揮法を学び、指揮者として歩み始め、関西を中心に指揮活動をすることに。その後世界に羽ばたくようになり、1987年タングルウッドでバーンシュタインに師事し、2年後にはブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、指揮者としての地位を確立することになる。そして 2011年、ベルリンフィルから客演指揮の依頼が舞い込んだ。日本人での客演指揮者依頼は、恩師の小沢征爾以来とのことで、その時彼は 50歳だった。
 ベルリンフィルといえば世界トップの楽団、常任指揮者として、戦後はセルジュ・チェリビダッケ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、クラウディオ・アバド、現在はサイモン・ラトルが務めている。また現在のコンサートマスターは日本人の樫本大進、また前任は安永徹だった。ベルリンフィルでは定期公演に年間6〜8人程の指揮者を客演に迎えるという。これは常任指揮者が選ぶのではなく、楽団員が推挙して来てもらうシステムになっているという。ということは、個々の楽団員のレベルが極めて高く、しかもその声が重みを持って大きく反映されるということなんだそうだ。佐渡裕を推挙したのはコントラバス奏者の方、それで楽団員総意で実現の運びになったという。
 佐渡裕がベルリンフィルの定期公演で客演指揮したのは 2011年5月、この年の3月11日には、あの未曾有の東日本大震災があった。この客演指揮に当たっては、NHK は特別に許可をもらって、リハーサルと本番の取材及び楽団員のインタビューをした。演奏する曲は楽団員の希望で、ショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調作品 47、これは 1936 年の革命記念日のために作曲された第4番が共産党から辛辣な批判を受け、その名誉挽回のため翌年に作曲されたもので、これは大変な称賛を受けたという。現在この作曲者の作品の中では最もよく演奏される曲でもある。さてリハーサルは演奏会の前日と前々日にそれぞれ2時間ずつのみ、佐渡裕はこのリハーサルのための構想を練るのに1週間を充てたという。そして最初のリハーサル (ファースト・コンタクト) の日、コンサートマスターの樫本さんから、最初の10分間が極めて大事で、この印象で楽団員の指揮者への評価が定まってしまうと言われたという。他の楽団員へのインタビューでも同じ返事が返ってきていた。楽団には日本人は樫本さんのほかに女性が3人いるがs、彼女らも同じ意見だった。
 リハーサルの会場は本番と同じホール、彼は開口一番ドイツ語で、東北大震災への協力に対して、心からの御礼を述べた。後での楽団員の評価では、これで少し緊張が和らいだと話していた。とは言え、始めの 10分間のリハーサルでのドイツ語での指示、始めはギクシャクしていたが、彼の自分の考え方に対する理解への丁寧な説明は、次第に指揮者への理解と協力を勝ち得ていくという過程が画面から汲み取れた。2日目には、4種ある金管の音の強弱で首席奏者からクレームが出たが、これに対しても丁寧に対応し、彼に納得しましたと言わしめた。これだけのオーケストラになると、指揮者に不信を抱いてしまうと、指揮者を無視し、自分たちで演奏してしまうという。しかし彼は楽団員の絶大な信頼を受け、彼らの協力を得て、佐渡裕の解釈した第5番を渾身の力を振り絞って本番を終えた。満席の聴衆からの拍手は鳴り止まなかった。実に素晴らしかった。終演後、楽団員が彼に握手を求めに集まった映像が流れたが、本当に感動した。ベルリンフィルでは、楽団員の中に一人でも指揮者に不満があると、次に客演指揮者に呼ばれることはないという。でも彼はこれをクリアした。将来彼は世界に冠たる名指揮者になることだろう。そんな予感をはっきり感じさせる番組だった。

2014年3月13日木曜日

源野外志男君への弔いと思い出

 平成26年3月7日の朝、小学中学高校と同期の女性の方から電話があった。「源野さんが亡くなったわよ」と。私は地元紙のお悔やみの欄には毎朝必ず目を通しているのに、この日の朝は何故か見逃していた。早速確認すると、その通りだった。7日午後7時通夜、8日午前11時葬儀とある。同級生の何人かと連絡をとった。すると彼と親戚筋にあたる女性から、子うし会で弔辞を読んで下さいませんかとのこと、全く予期していなかったことだけに、そのようなことは全く考えていないと答えておいた。でも何となく気になり、家内に相談すると、読んで上げるのは当然とのこと、腹を括った。これまでやはり親しくしていた小学中学高校と同期だった中川君の時には私が読んだことはあるが、随分昔のことだ。
 そこで急いで原稿を書き、奉書紙を求めてそれに清書し、通夜に持参した。というのは葬儀のある8日には予てからの用事があり出席できないので、誰かに代読してもらう必要があった。子うし会の男性の世話人にと思ったが、彼も公の用事で葬儀には出席できないとか、急遽親戚筋にあたる関西に住む同級生にお願いし、どうやら承諾していただいた。
 私が書き記した文章は次のようである。文中の子うし会は「コウシカイ」と読む。
「弔 辞」
 子うし会会員だった源野外志男君のご霊前に謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 この子うし会というのは、昭和十一年遅生まれのネズミ年と昭和十二年早生まれのウシ年の小学校と中学校の同級生の集まりの会です。毎年一回皆が集まって旧交を温めて来ましたが、貴兄 (あなた) はいつも率先して会の世話をしてくれました。しかし昨年の初夏に皆で粟津温泉「法師」で喜寿の宴を企画した際には、貴兄からは胃ガンの治療に専念したいので欠席しますとの連絡を頂きました。しかし私たち一同は貴兄がきっと本復されて、再び元気な顔をした貴兄に会えると信じていました。しかしあれからやがて十ヵ月、私たちは貴兄が帰らぬ人となられたという訃報に接しました。私たちは七十年来の親しい友人を亡くしてしまいました。元気で几帳面で世話好きだった君とはもう会えないのかと思うと無性に淋しく悲しくなります。
 さて、貴兄は本当に心から「そば」を愛されていましたね。おしどり夫婦の奥さんと「そば」を食べに全国を巡っているとも話されてくれましたね。そして貴兄は「そば」を食べるだけではなくて、「そば」を打つ卓越した技術も持っておいででした。私も「そば」を食べるのが好きで、あちこちに出掛けたりはしますが、とても貴兄の足元には及びませんでした。貴兄も所属されていたそば好きが集まる同好の会では、年に一度は貴兄が打った「そば」を皆で賞味したものですが、今はそれも叶わなくなりました。凛々しい白の装束に身を包まれて「そば」を打たれていた姿が目に浮かびます。
 源野君、貴兄とは永久の別れをしなければならないことになりました。どうか安らかにお休み下さい。ここに心から「さようなら」の言葉を捧げます。
   平成二十六年三月八日
    子うし会 代表  木村 晋亮 (のぶあき)
         代読  木戸 三雄

 通夜に挨拶に立った一級建築士でもある長男の方の話では、3月5日に眠るように亡くなったとかだった。彼は大変器用で精力的、春や秋には山へ分け入って山菜や茸を採りに行っていて、よくそのお裾分けを頂いた。そしてそばにも格別の興味を持ち、そばを打つ道具も一式揃え、同好会に入って本格的にそばを打っていた。年末には年越しのそばを毎年届けてくれた。しかし一昨年の暮れに、体調不良で今年の暮れのそばは届けられないと言ってきた。胃ガンが見つかったとか。でも早期なのできっと本復すると信じていた。彼はまた篆刻にも素晴らしい作品を残した。探蕎会の会報の題字を書かれた書家であり篆刻家でもある北室南苑さんに師事していて、中国までも出かけていたし、賞も何度か頂いたと聞いた。とにかく凝り性だった。長男さんの言では、彼は生前、もう死んでも思い残すことは何もないと語ったという。この言は、どんなに達観していたとしても、中々言えることではない。
 心から彼の冥福を祈る。

2014年2月26日水曜日

探蕎会での講演を横山さんに依頼(その2)

(承前)
 波田野先生は東京のお生まれ、千葉大学医学部を卒業され、川喜多先生の下でジフテリア毒素の研究をされていた。一方金沢大学ではボツリヌス毒素を研究されていた西田先生が新しく細菌学教室(後の微生物学教室)の教授になられ、先生が海路で英国へ留学される折、途中のアデンから波田野先生に招請の電報を打たれ、それに応じて金沢へおいでになり助教授になられた。昭和35年 (1960) のことである。その後先生はインフルエンザの研究のためアメリカへ2年間留学された。その頃から私が所属していた衛生研究所でもインフルエンザウイルスの検査をしなければならなくなり、その教えを波田野先生に乞うべく研究生となった。その後しばらくして、大学にがん研究施設が付設されることになり、そこのウイルス部門の教授に波田野先生が就任され、私も移籍することになった。施設はその後発展して金沢大学がん研究所となる。この頃になると、大学院生や研究生が10数人在籍していて、教室は活気づいていた。その頃に何人かの女子短大出身の教務助手の方が教室に居られ、教務以外にも細胞の培養や実験の補助などをされていた。ウイルス実験に入るまでの下準備の手間は馬鹿にならず、随分と彼女らにはおんぶに抱っこの状況が続き、本当にお世話になった。その中の一人に横山さんがいた。
 彼女の住まいは小立野二丁目、波田野先生とは同じ町内、何かの折に先生と会われた際に、大学へ来ないかと誘われたとのことだった。彼女の家柄は前田家の家老の横山家の分家に当たる名門である。私はがん研ウイルス部に在籍中の昭和40年 (1965) に結婚したが、その後に午年生まれの家内と申年生まれの横山さんとは、高校時代に同じ陸上競技部に所属していたことを知った。一緒に過ごせたのは1年だけだったのだが、そんなこともあってか、私自身彼女に大変親近感があった。その後私は昭和50年 (1975) には教室を離れてしまうので、横山さんがいつまでがん研ウイルス部に在籍されたかは知らないが、もし波田野先生が退官されるまでおいでたとしたら、昭和63年 (1988) までおられたことになる。
 その後いつだったかは覚えていないが、彼女の妹さんが卒論か何かで松尾芭蕉の「幻住庵記」をテーマに選ばれたとかで、どうして探されたかは知る由もないが、私の家の仏間に掛かっている芭蕉直筆の書を見せてほしいと頼まれた。こちらには別に異存はなくお見せしたが、そのときは書かれた和紙は下地の和紙に貼られた状態にあり、しかるべく保存をしたほうがよいともいわれた(これについては後日アクリルで封じて永久保存できるようにした)。私はこの筆で書かれた草書体の文字は全く読めなかったが、後日彼女からは読み下し文と解説を送っていただいた。その後このことがきっかけだったかどうかは知らないが、彼女が古文書を読み下すことに精を出されているということを風の便りに聞いた。そして図書館へ行き、何か目的があって、昔の古い資料を読みあさっておいでるとも聞いた。
 そうこうするうちに、彼女が加賀百万石の前田家のこととか、自分の家の横山家のこととか、金沢の町並みのこととかについて、講演されているということが、テレビや新聞で報道されているのを知ることになった。彼女は大変な努力家だったが、それだけではこれほど素晴らしい郷土史家になれるはずはなく、加えて横山家の血筋を引いた天賦の才があったからだと思う。さらに古文書に対する緻密な調査と、持って生まれた几帳面な性格とが今日の彼女の地位を不動のものにしたのだと信ずる。彼女は現在石川県郷土史学会幹事であり、金沢市の埋蔵文化財、町並み保存、伝統的構造物保存、用水保全等の委員の職にあって活躍されており、著書や論文も出されている。
 こんな彼女から話を聞きたいと思ったのは単なる思いつきからではなく、これこそ巡ってきた願ってもない千載一遇のチャンスだと思った.ただ忙しくて月の半分は予定で埋まっているとのことで心配したが、幸いにも探蕎会総会の日は運よく空いていたのは正に僥倖だった。

探蕎会での講演を横山さんに依頼(その1)

 探蕎会の総会は初回と第2回は年末に、次いで第3回と第4回は1月に、そして第5回以降は2月に開かれている。一時は参加者が80人を超えたこともあったが、このところはせいぜい30人止まりのことが多い。総会次第はおおよそ毎年同じで、始めに会長の挨拶があり、続いて前年の行事報告と決算報告が事務局から、それにその年前半の行事の予定の概略が副会長から話され、議事は淡々と進められる。ただ今年は会報の発行部数が減って、繰越金が多いこともあって、会費が5千円から3千円に減額されることが議決された。
 以前の会報を見ると、第1回の末野倉での設立総会、第2回の金沢ニューグランドホテルでの総会では特にアトラクションはなかったが、第3回には会員になられたオーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の指揮者の榊原栄さんのお世話で、OEK の第2バイオリンの首席奏者だった江原千絵さんのバイオリン演奏が、若杉由香さんのピアノ伴奏で「たんきょう新春コンサート」と銘打って開催された。これはこのホテルの総支配人が探蕎会に入会されていたこともあっての便宜だったようだ。とにかくこの新春コンサートはなかなか好評で、以後7年にわたって継続されることになる。以下に列記してみよう。
 第3回 (2001)  江原千絵 (バイオリン)  若杉由香 (ピアノ)  金沢ニューグランドホテル
 第4回 (2002)  中川ゆみ (シャンソン)                  同 上
 第5回 (2003)  細川 文 (チェロ)    赤尾明紀 (フルート)     同 上
 第6回 (2004)  江原千絵 (バイオリン)  福野桂子 (チェロ)      同 上
 第7回 (2005)  江原千絵 (バイオリン) 上島淳子 (バイオリン)  ホテルイン金沢
 第8回 (2006)  藤井ひろみ (フルート) 福野桂子 (チェロ)      同 上
 第9回 (2007)  江原千絵 (バイオリン) 福野桂子 (チェロ)              KKR ホテル金沢

 その後ある転機が訪れた。当時私は石川県予防医学協会に勤務していたが、ある時に小山先生が内科医として所属されることになった。小山先生は在学時には金沢大学医学部山岳部に所属されていた山男で、当時の山岳部長だった永坂先生の推薦で昭和56年に第23次南極越冬隊に医師として参加され、帰国後病院勤務されていたが、後に協会においでたのだった。協会では先生の講演が前後二度にわたって2回行われた。その後先生が探蕎会にも興味を持たれ入会されたので、この南極での体験をぜひ会の皆さんにも共有してもらいたく、この年はコンサートは止めて、講演を聴くということになった。スライド作成には事務局の前田さんが随分と骨を折られた。この講演は大変好評で、次回からはコンサートに代えて、会員のしかるべき人が講演することになって、これが数年続くことになる。以降にその状況を記す。
 第10回 (2008) 小山文誉:「南極に何を求めて」             テルメ金沢
 第11回 (2009) 大滝由季生:「出会いと感謝と心」            ホテル日航金沢
 第12回 (2010) 寺田喜久雄:「みず・・・三題」            エクセルホテル東急
 第13回 (2011) 岩 喬:「不整脈について」                 同 上
 第14回 (2012) 永坂鉄夫:「趣味と健康〜趣味は心身の痛みの緩和剤」   金沢スカイホテル
 第15回 (2013) 早川純一郎:「幕末金沢のそば屋を梅田日記に探る」      同 上

 さて次回の第16回であるが、会報55号によると、「来年の総会での講演は木村さんにお願いすることになった」とある。確かに寺田会長からは来年はあなたの番だとは聞いたものの、公の発言とは思わずにいた。ところが会報にまで載っているとは不覚にも知らず、今回の総会でも、何人もから今回の講演は貴方ではなかったのというお小言をいただいた。とすると、ここでどうしても一言釈明をしておかねばなるまい。一時はやってやれないことはないかなあとも思ったこともある。人と微生物の関わり、インフルエンザウイルスやノロウイルスのこと、腸管出血性大腸菌のことなど、私が長年携わってきたテーマであるが、これらを皆さんに平易に話そうとすると、新たに説明の資料となる図を書かねばならないというノルマが生ずる。その負担から逃れたく、会員の皆さんに喜んでいただけるような方に、私からしかるべくお願いするとすれば、私の責務を全うすることができるのではと考えた。そのときに真っ先に私の脳裏に浮かんだのは彼女、横山方子 (まさこ) さんだったのである。私が彼女と最初に出会ったのは、探蕎会の創設者でもある波田野先生が主宰されていた金沢大学がん研究所ウイルス部であった。

2014年2月14日金曜日

ノロウイルスにまつわる失敗談

 昭和40年代始めの頃だったと思うが、生ガキ喫食による下痢症が時々報道されるようになった。それによると、養殖の生ガキを食べると、時にあたって下痢をするのだという。国でもその病原体を追求するべく、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)が中心となって、全国の地方衛生研究所(地研)に、生ガキによる下痢症が起きた時には,出来るだけ多くの下痢便検体を送ってほしいとの連絡を出した。折しも和倉温泉のとある旅館から、生ガキをどうしても食べたいと仰るお客さんには、下痢のリスクを承知で生ガキを提供するのですが、気をつけてはいても,時に本当に当たって下痢をされるお客さんがいるので、何が原因なのかを調べてほしいと連絡があった。早速私が行ってその旅館の女将さんに話を聞くと、先日フランス人の許へ嫁いだ娘が帰ってきた折に、婿さんが生ガキを食べたいというので、七尾湾でも最も水がきれいと言われている所へ案内したのですが、生憎と当たってしまって大変でしたとのこと。聞くと、とにかくその婿様の食べた生ガキの量が半端でないことが先ず判明した。そのせいかどうかは分からないが、当たったのはその婿様だけだったそうだ。また一方で、養殖カキの筏を置く場所は,川の河口に近い方が栄養分が多くてカキの成長が早いこと、それで時には育成のために糞尿を撒くこともあることを教わった。現在は下水道も整備され、そうでなくとも浄化槽が備わっているからして、河川の汚れは昔から見れば格段に良くなっているが、当時はまだ一部は垂れ流しの状態だった。
 そこで提案された条件は、10月から翌年3月まで、毎月生ガキを4kgずつお送りしますので、そちらでは生で食べていただいて、もし下痢が起きたら、その原因を究明して下さいというものだった。生ガキは七尾湾では比較的汚れがあるといわれる和倉温泉沖の筏のものを提供しますとのこと、当時は私もまだ若く、胸を張って受け入れた。ここで肝心なのは、生食でという条件であった。
 早速に私が勤務していた石川県衛生研究所(衛研)で、生ガキを生食する有志を募り、調査が始まった。人により、多い人は10個、少ない人は1個、くれぐれも生で喫食するようお願いした。また衛研で一度に4kgは多いので、当時私が研究生として所属していた、波田野先生が主宰されていたガン研究所ウイルス部の方々にも協力を頂き、半分をお送りし、同様なお願いをした。新鮮な生ガキは教室の皆さんにも喜ばれ、時に催促まである程だった。協力していただいてから5ヵ月は特に何事もなく過ぎた。ところが最後の回となる3月に異変が起きてしまった。衛研では喫食した半数の十数人に異変があった。主症状は下痢で、生ガキを食べた個数の多寡には関係がないようだった。また男女差もなかった。かくいう私も下痢症状が起きた。一時的にパニックになり、きちんと疫学調査をしなければならないのに、サンプル採取もままならず、結果として何ら成果を出せず、うやむやのうちにこのプロジェクト?は終了した。今だったら始末書ものだったろうが、特にお咎めはなかった。
 ところで衛研での一件が終息した頃、大学ではどうだったろうかと聞いてみた。するとやはり半数近くの人が下痢し、女性2人は症状がひどくて入院したとか、これまで5回は何ともなく、美味しく頂いたので、まさか生ガキのせいとは誰も疑っていなかったのに、私が糾したことで生ガキのせいと分かってしまい、波田野先生からは大目玉をくった。そんな状況だったので、とても様子を伺うことさえ憚られ、こちらも調査できる状況ではなく、やはりうやむやになってしまった。
 当時の日本では、あちこちで生ガキ喫食による下痢症の報告があり、電子顕微鏡によるウイルス像観察では、小型球形ウイルス(SRSV) が見られ、これが病原体であろうと推測されていた。折しもアメリカの Norwalk で集団下痢症の発生があり、やはり SRSV が観察され、これに Norwalk agent という名が冠された。日本で観察されたウイルス粒子との相同は当時明確ではなかったが、症状は比較的軽く、死亡に至る経過がないことなどはよく似ていた。現在はウイルスの遺伝子型まで読まれているが、当時はまだ分かっていなかった。しかしいずれにせよこのウイルスはヒト由来で、日本での場合、川に放出されたウイルスが海にいるカキの体内で濃縮され、これが生ガキを食べることによって起こされる下痢症の病原体とされた。ところでその後ウイルスの命名法が確立され、Norwalk agennt を含む SRSV はノロウイルス (Norovirus) と呼称されることになった。その後、いつ頃か記憶が曖昧だが、これまで日本にあった在来のノロウイルスの系統のほかに、バルト海辺りを起源とする別系統の病原性の強いノロウイルスが日本に入ってきた。これが現在日本で猛威を振るっているノロウイルスである。現在養殖生ガキは原則として生食禁止だが、新しいノロウイルスは従来あったカキ由来のウイルスとは遺伝子型が異なるので、これによって発生を食い止めることはできない。この新しいノロウイルスは感染性が抜群に強く、経口感染はもちろん、飛沫感染もあり、実に厄介だ。

2014年2月11日火曜日

突然カアチャンが急性の下痢症に

 全国でノロウイルスが大暴れしている。静岡県浜松市では、広域にわたり、十数校の学校で食中毒が発生した。どうしてこんなに広域でしかも同時に発生したのか、これは通常の食中毒とは明らかに様相が異なっていた。疫学調査の結果、同時に起きたということ、学校給食に出された給食パンが唯一共通食だということが大きなキーだった。その後の調査で、給食パンを製造していた会社の従業員の中に、下痢をしている人がいることが分かり、この人が汚染源となって起きた大規模なノロウイルスによる食中毒であったことが判明した。それにしても十数校もの学校で、患者がほぼ同時に多発したのには驚いた。ノロウイルスは 80 数℃の温度で不活化するのに、何時どんな風に付着して運ばれたのだろうか。
 ところで介護施設などでノロウイルスによる下痢症患者が発生した時には、下痢便や吐物の中には夥しい数のノロウイルスがいるので、不完全な処理をすると、途端に施設全体にウイルス汚染が拡大し、大発生となることが往々にして起きている。今は保健所などが躍起となって注意を喚起しているので、前程大きな発生は少なくなってはいるものの、それでも冬季には大なり小なり、毎年発生が繰り返されている。今のところ、ノロウイルスに対する特効薬はまだなく、予防が第一であり、とどのつまり、先ずは口からノロウイルスを入れないことが肝要で、一つには手洗いの勤行、そして食べ物はなるべく熱を通すこと、また生食の場合には特に気を配ることが必要となってくる。
 とは言っても、我が家では、私も家内も、食に特別気を配っているかというと、無関心ではないにしろ、決して傍から見て決して徳に注意しているとは思えない。時に、私の家内は市内のとある病院に勤務している。病院なので、この時期、インフルエンザの患者や冬季急性下痢症の患者が多数治療に訪れる。それで中には勤務している看護職員が、注意はされているのだろうが、時に感染して発症することがあるという。私も家内からそのことを聞き及んでいた。しかし、家内は病院事務を主務としているので、患者と直接接することは極めて少なく、そのような心配はほとんどないと思っていた。
 ところがある日、家内が突然病院から早退してきた。どうしたのかと訊くと、下痢が頻繁に起きるので帰ってきたという。家へ帰ってきて10分に一度はトイレへ行く始末。私はこれまでこんなにひっきりなしに、ずっとトイレに居た方がいいというような状態の下痢には遭遇したことはなく、暗にこれが今流行の冬季急性下痢症の症状なのかと納得した。痛みはないようだが、とにかく排便の回数がすごく多い。横になって寝てもすぐに起きねばならない始末、半日ばかりは大変なようだった。脱水症状を起こしかねないこともあって、当然体液組成成分の入った緩衝液を補充しないといけない。
 さて、家内は後日の検査でノロウイルス感染症は否定されたが、この時期、あの下痢の頻繁さからは当然ノロウイルス感染症が疑われた。咄嗟に困ったのは、着衣や使用したタオル等をどう処理するかということで、単純には熱湯消毒するとか、次亜塩素酸ナトリウム液で消毒するとかだが、これは言うに易く、行なうに難しで、これには往生した。それで思案の末、自動洗濯機に希釈したハイターと洗剤を加えて洗濯することにした。この程度の次亜塩素酸の濃度では気休めとも思えたが、洗濯ではかなりの水での濯ぎがあるので、洗濯物にウイルスが残ることは先ずなかろうと判断した。ただほかには特にドアのノブとか便器などの消毒はしなかった。家内は初日こそ 38℃を超える発熱もあったものの、3日後には下痢も発熱も治まった。発症して2日間ばかりはうどんを食べても吐いてしまい心配したが、それも本復した。ノロウイルスによる感染性下痢症の場合には、高齢者では往々にして死に至ることもあるやに聞いている。

2014年1月23日木曜日

湧泉会での駄弁りのことども(2)

(承前)
1. 台湾のことば
 台湾村田製作所での重要な会議はすべて日本語、したがって社員、とりわけ幹部社員は日本語を習得することが必須だった。このような状態だったので、社長である彼は台湾語(広義)をマスターする必要は全くなく、したがって彼は日常会話程度なら台湾語(広義)を話せるものの、長時間にわたる台湾語(広義)での講演などは全く無理だと言っていた。台湾が日本統治の頃は日本語での教育だったので,その頃に教育を受けた年配の人達は日本語を話せたようだが、今は特別な人でない限り話せないという。ところで台湾語(広義)の標記は漢字であるが、漢字の簡略化は全くされてなくて、日本でも古くは用いられていた旧漢字体がそのまま用いられているという。現在の日本では、常用漢字が2千字ばかり、JIS 漢字でも1万2千字ばかり、これに仮名を交えれば読み書きに全く支障を来さないが、台湾では仮名も漢字の簡略化も全くないことから、新聞を読むにしても少なくとも4万6千字位を覚えなければならず、学校での学童の識字の負担はとても日本の比ではないとか。これには恐れ入った。
〔注1〕上記の台湾語(広義)というのは台湾で話されている語という意味で、1949年に中国本土から蒋介石率いる北方方言を話す軍隊が入ってきて、それまでは台湾語(狭義)が主だったが、現在では北方方言(主に北京語)と台湾語(狭義)の話者の割合は3:1だそうである。
〔注2〕言語学的には台湾語(狭義)はミン語(ビン語とも)と言われ、古い中国語から2千年以前に分岐したとされ、現在は台湾のほか、中国では福建省沿岸、広東北東沿岸、海南島東部で使われている。また東南アジアに移住した上記地域の出身者も使用している。この言語は古い中国語の面影を残していると言われる。中国(中華人民共和国)には現在2百を超える言語があるなかで、中国語の北方方言であった北京語が現在の標準語であり、約7割の人々が使用している。一方揚子江以南には多数の方言が存在していて、中で代表的なのが広東語である。数詞の読み方を比較すると、広東語と北京語とでは全く共通点がないが、かえってミン語(狭義の台湾語)と似ているのには興味がある。
2. 中国での漢字の簡略化
 中国では、中華人民共和国の成立と文化大革命を機にして、漢字の簡略化が進んだ。その方法は日本のそれとは全く異なる方式であって、簡略化された後の文字は、我々日本人が推測できる文字もあるが、大部分の略字は元の字が何か全く分からないものが多い。でもこの簡略化は中国本土以外には及んでいないという。ところで現在の中国での教育は、これら新しい文字を使っての教育であるため、新しい教育を受けた若者は古い旧字体を読めない。一方で、古い悠久の歴史を持つ中国についての知識は持っていなくて、歴史といえば、共産党一党独裁になって以降のことしか教育を受けていないと言ってよく、したがって極めて視野が狭い。日本に対する考え方も、中国侵攻をしたという悪者といった認識しか持っていないのも、中国の現行の教育の賜物としか言いようがない。
〔漢字表記に対する疑問〕中国語の表記は一部数字を除けば全て漢字表記である。ところで、夥しい数の地名や人名のほか、外国語の横文字表記を漢字表記に直すには何かルールがあるのだろうか。日本語には便利なカナ表記があるので、真に正確ではないにしろ表記することが可能な訳だが、漢字にも表音文字なるものがあれば問題はないが、どうなのだろう。中国語に翻訳する部署のようなものが存在するのだろうか。
3. 韓国でのハングル文字の功罪
 韓国(大韓民国)や北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で使われている言葉は、言語学的には朝鮮語であって、少なくとも 1446 年までは朝鮮語は漢字で書かれていた。ところがその後国王であった世宗がハングルを考案した。この文字は便利であって、中国からの借用語である漢字もハングル文字で表記することが可能である。日韓併合の 1910〜1945 年には用いられていなかったようだが、独立後は漢字表記はなくなり、ハングル文字表記になった。当然のことながら教育の現場での教科書はハングル文字表記であり、爾来 70 年余り経過した今日、この教育の成果として、今の韓国の大部分の人は漢字で書かれた文章を読めなくなってしまった。また学校の現場では、日韓併合時の弊害と独立後の躍進を重点的に教育していて、古い朝鮮半島の国の盛衰などには言及しないという。韓国もまた中国と同じく、現政権に都合のよい歴史観を教えているという。だから韓国で本当に自分の国の歴史を学びたいとすると、その時は日本へ来てしか叶えられないという。
 現在日本の新聞には、韓国や北朝鮮の地名や人名を表記するには、漢字もしくはカナ表記か、漢字にカナをふる場合には朝鮮語発音のカナ表記が義務付けられている。ところで中国語での漢字表記の地名や人名の呼称は日本語読みでも OK なのだが、朝鮮語の場合はそうは行かない。以前は中国語(漢字のことを朝鮮語ではハンチャと呼ぶ)からの借用語をそのまま使用することが多かったが、今はすべて朝鮮語読みのハングル文字表記である。そして現在は英語からの借用語のハングル文字表記が氾濫しているという。いつか韓国の研究者から聞いたことであるが、韓国の官庁で役付きの人達は皆さん英語が堪能だという。日本では英語の有用性が叫ばれてはいるものの、こと英語で話すことに関しては、韓国に脱帽である。

 会でのほんの一部の会話を紹介したが、よくぞ毎回延々とという感じである。テレビで大相撲の地元出身力士遠藤の取組みを見たいという人がいて、ようやく幕になった。

湧泉会での駄弁りのことども(1)

 標記の湧泉会の母体は耳順会で、メンバーは同じである。そしてこの両会を主宰する幹事は、昨年から常時村田君がすることになった。こういう会の運営には、マメな御仁が当たることが大切で、その点彼はまことに適任である。メンバーはすべて泉丘高校7期の同期生である。
 この村田君は台湾村田製作所の社長を長くしていて、台湾日本人会の会長もしていたこともある名士、平成14年 (2002) 秋に辞して金沢へ帰って来た。そこで彼を労おうと諸 (もろ) 君が音頭をとって集まったのが11名、彼を入れて12名で発足し、論語の「六十而耳順」から名を借り、「耳順会」とした。爾来昨年末まで、ほぼ3ヵ月に1回、幹事持ち回りで44回にわたって会を催してきた。現在の会員数は、その後2名の入会と3名の他界があり、11名である。
 ところで村田君の提案で、昨年正月から、毎月第3木曜日の午前 11:30 にニューグランドホテルで会うことにしませんかという提案があった。月代わりに、日本・中華・イタリア料理の昼食をとりながら駄弁りませんかという。部屋は予め確保するが、特に出欠は取らずに、出席する人は 11:00 までにホテルのロビーへ集合してくれればよいとのこと。会の名称は「湧泉会」としたので、もし遅れてもホテルの案内板に部屋名が載っているとのこと。湧泉会の語源は、思うに校歌の一節の「この丘に涌き出づる泉」から採ったものだろう。
 この湧泉会は月に1回開催されてきたが、私は都合もあって4回しか出席できなかったが、昼食をはさんで4時間は駄弁っているから驚きである。一方の耳順会は年に4回、これは夕方6時からの宴席で、こちらはお酒が入ることもあって、概ね3時間位。それに比して昼の湧泉会は実に延々としていて、女性の井戸端会議を優に凌いでいる。お替わり可能なコーヒーや紅茶を飲みながらの長談義、ホテルにとっては迷惑なのではと思うが、それは単に私がそう思っているだけなのかも知れない。
 昨年暮れの耳順会は山代温泉であり、私は入院していて出席できなかったが、その会の席上、湧泉会は勿論、耳順会も持ち回りを止めて、村田君が全てを仕切ることになったと後で連絡を受けた。湧泉会は今年からは毎月第3土曜日に金沢ニューグランドホテルで、耳順会は3,6,9月は第1月曜日の午後6時から「魚半」で、12月は第1月曜日の午後3時から山代温泉の「ゆのくに天祥」でということになり、今後は12月の1泊の会以外は特に出欠は取らないことのしたとのことだった。
 さて、今年第1回の湧泉会は1月18日、2F友禅での加賀料理、予約は和室で6名だったが参加は4名、会費は土日割引の 1,200 円ポッキリ、ここで食事を入れて2時間ばかり駄弁った後、頂いた喫茶券を持って M2F のテーブルに陣取って更に延々と2時間半、コーヒー,紅茶をお替わりしながらの駄弁り、周りを気にせず一向に動じないところが凄い。どんな話題があったのか、少し紹介してみようと思う。次にほんの一部だが、村田君の語った話題の一部を紹介してみようと思う。(続く)