2015年9月23日水曜日

手打蕎麦「だんくら」にまつわる資料

資料1.「だんくら」について
 主人の岡本さんに訊いたところ、東谷の方言で、「だんくら坊主」というと、「やんちゃ坊主〕のことだと話された。そこで「やんちゃ」という語を辞書で当たってみた。
1)広辞苑(岩波書店):子供のわがまま、勝手なこと。だだをこねること。またその子供。      用例「やんちゃ盛り」
2)辞林(三省堂);子供がいたずらやわがままをすること。                    用例「やんちゃ坊主」
3)大辞泉(小学館):子供がだだをこねたりいたずらしたりすること。また、そのさまやそのような  子供  用例「やんちゃをする」「やんちゃな年頃」「やんちゃ盛り」

資料2.「だんくら」のお品書き:単位は 10 円
 ・冷たい蕎麦:つけとろろざる (85)、おろしとろろそば、おろしなめこそば (10~11月) (80)、
  とろろそば、ざるそば (75)、おろしそば、かけそば (65)。 200 円増しで大盛りに。
 ・暖かい蕎麦:にしんそば (90)、おやきそば (80)、なめこそば (10~11月)、とろろそば (75)、
  おろしそば、かけそば (65)。 200 円増しで大盛りに。
 ・食べてみて〜:炊き込み御飯のおにぎり (15)、半熟卵の味噌漬け (25)、だんくらそば豆腐 (30)。
 ・ほんのりほろ酔い:ビール (アサヒ中瓶) (50)、日本酒 (宗玄一合) (40)、ノンアルコール (35)。

資料3.「加賀ひがしたに」について
 手打蕎麦「だんくら」の建物の隣に、大きな建物があり、その前に赤いポストがあった。目敏く見つけた会長が、「この山奥にしてはえらく立派な郵便局だね」と話された。それでそのモダンな建物の玄関に立つと、そこは郵便局ではなくて「東谷地区公民会館」だった。中へ入ろうと思ったが、何故か総ガラス張りの自動扉は開かなかった。東谷で思い出したのは、昨年9月と今年5月に寄った杉水町の「権兵衛」のこと。その時初めて、この一帯の「加賀ひがしたに」が国の重要伝統的建造物群保存地区であることを知った。それでその「東谷」について少々調べてみた。出典は角川日本地名大辞典 (角川書店) による。  
 東谷というのは、江戸期〜昭和 33 年頃の地域通称だという。古くは大聖寺 (だいしょうじ) 川を西川、動橋 (いぶりはし) 川を東川といい、それぞれの川の上流を西谷、東谷と呼んだ。東谷に属する村々は、動橋川の上流の山間部にある、荒谷 (あらたに)、今立 (いまだち)、大土 (おおづち)、菅生谷 (すごうだに)、四十九院 (しじゅうくいん)、中津原 (なかつはら)、滝 (たき)、杉水 (すぎのみず)、西住 (さいじゅう)、市谷 (いちのたに)、上新保 (かみしんぼ) の 11 村と、中流域の 二ツ屋 (ふたつや)、小坂 (おさか)、横北 (よこぎた)、水田丸 (みずたまる)、柏野 (かしわの)、須谷 (すだに)、塔尾 (とのお) の7村である。明治 22 年に、上流域の 11 村は東谷奥村と称したのに対し、中流域の7村は東谷の入口という意味で東谷口村となった。そして昭和 30 年に、東谷奥村は山中町に合併し、東谷口村は山代町に合併した。
その後両町は、昭和 33 年に加賀市に合併し、東谷という地名は消滅した。
 一方、大聖寺川の最上流域には、西谷村が明治 22 年に 13 か村が合併して成立した。村々は、怕(百)野 (かやの)、菅谷 (すがたに)、下谷 (しもたに)、風谷 (かざたに)、大内 (おおうち)、我谷 (わがたに)、枯淵 (かれぶち)、片谷 (へぎだに)、坂下 (さかのしも)、小杉 (こすぎ)、生水 (しょうず)、九谷 (くたに)、真砂 (まなご) で、昭和 30 年に西谷村は山中町に合併、その後 昭和 33 年には加賀市に合併している。
 昭和 33 年に山中町が加賀市に合併した時に、旧山中町の各町は頭に山中温泉を冠している。ところで平成 20 年に出された電話番号簿をみると、過疎化で、旧東谷奥村の 西住、市谷、上新保 の各町と、旧西谷村の 大内、小杉、生水 の各町には郵便番号が付されておらず、住民は居なくて地籍だけが存在しているようだ。 

2015年9月22日火曜日

手打蕎麦「だんくら」

 平成 27 年度後半の探蕎会の行事のうち、9月は 16 日の木曜日に、山中温泉中津原町にある「だんくら」という蕎麦屋へという提案が副会長の久保さんからあった。私にとっては初めて聴く蕎麦屋、時々県内の蕎麦屋が雑誌などで紹介されるが、でもこの店が紹介されて出ていたという記憶はない。そんな点はすごく興味が持てる。事前に事務局長の前田さんから、参加者は6名なので、局長自らアッシー君を務めるとかで、お言葉に甘えることにした。一行の面々は、寺田会長、久保副会長、松田・竹内両女史と私である。予定では松田さんの所へ 9 時 45 分、殿の私が乗車したのは1時間後だった。
 町道から国道8号線に出てから、松田さんが探蕎会で集まる際、駐車スペースに適当ではないかという国道 157 号線沿いの、白山市橋爪町にある松任除雪センター駐車場を見に寄った。トイレも完備されていて、松田さんでは2〜3日の駐車も可という。スペースもあり有望だが、これまでの白山市番匠町にある和泉さんの所に比べると公共交通の便は悪い。
 再び国道8号線に戻り、南下する。松山交差点を左折し、一路山中温泉中津原町を目指す。四十九院トンネル手前に、「そば」と青地に白く染め抜かれた幟が風にはためいていて、そこを左折すると、目指す蕎麦屋はあった。着いた時刻は 11 時 20 分、この店は民家が 20 軒近くある中の1軒、敷地の入り口右手には「手打蕎麦 だんくら 午前11時〜午後4時 定休日火曜日」と書かれた看板が立ててあり、隣には福井県産蕎麦を扱っていることを示す幟も立っていた。店は切り妻の2階建て、見上げると、正面上部に大きな一枚板に金文字で「伝統木竹工芸 寿輪挽 福田工房」の文字、後でご主人に訊くと、この工房を買い受けた時、この板額を下ろそうかと思ったが、余りにも大きくて重く、そのまま掲げておくことにしたとのことだった。店内に入る。4人掛けのテーブルが2脚、2人掛けのテーブルが2脚のこじんまりとした、清潔感のある店だ。右手手前が調理場、右手奥に打ち場がある。奥さんと二人で営業しておいでるとかである。
 店に入ると、右手に、板の額が掛かっていて、それには「越前そば手打そば 池田流」「岡本道場 岡本康雄」の墨書、そしてその下には、それを証する認定証があり、次のように書かれていた。「認定証 岡本康雄 殿 あなたは池田ふるさと道場の認定する池田流蕎麦打ち技術指導課程を優秀な成績で修了されましたので 支部道場を開く事を証します 平成 24 年8月 27 日 池田ふるさと道場 師範 中丁昭夫」とあった。私たちが入った時点では、客は私たちのみだった。4人掛けのテーブル2脚に案内され、3人ずつ座った。程なくしてお品書きが届く。注文したのは、「ざるそば」と「おろしそば」、皆さんどちらかだが、前田さんは両方。お酒は「宗玄」のみ、久保さんと私が注文した。摘みには、短冊にも書かれていた「だんくらのそば豆腐」と「半熟卵の味噌漬け」を貰うことに。
 初めにお酒、杉の柾目の一合枡の中にガラスのコップ、コップには常温の宗玄が1合、コップから溢れたお酒が枡の中に、こんな風情は、記憶ではもう随分昔のおでん屋でのことだ。銚子とお猪口を期待したが、これでは皆さんには振る舞えない。次いで「だんくらのそば豆腐」が出た。細長の角皿に6切れに切ったそば豆腐、生山葵が付いている。皆さんと賞味する。もう1品の半熟卵は、彩色した手捻りの皿に、黄身が鮮やかな4つ割りの卵に、緑鮮やかな刻み葱が散らされていて、色彩のコントラストも良く、食欲をそそる一品だった。ところでお酒は何故か能登珠洲の「宗玄」のみ、奥さんに何故と訊くと、主人の好みで、主人ではこれが最も旨いとか。でも常温では今一インパクトがなく、冷やならまだしも、冷やはないとかで、むしろお燗の方が良かったのかも。
 「そば」が出た。そばは二八の中細、いわゆる越前そばである。私はおろしそば、円い中深の皿にそばが盛られ、上に削り鰹と刻み葱が、もう一つの器には、出し汁に大根おろしが、そばにぶっかけて食べて下さいとの指示、全く越前おろしそばの流儀である。小皿には細切りの煮付昆布がつまに付いていた。そばの味は、そこそこの味、正に「越前おろしそば」だった。石川県加賀の国にあって、さすが福井県知事推奨の店だけのことはある。1時間ばかり居たろうか。帰りに玄関でご主人にも入ってもらい記念写真を撮った。
 帰りには四十九院トンネルを抜けて山中温泉に出て、山代温泉経由で戻った。

2015年9月14日月曜日

シンリョウのジュッカイ(9)「山の唄」の思い出(続)

(承前)
 この唄は、北原白秋作詞、中山晋平作曲と覚えていたので、この線でインターネットで検索したところ、見つけることが出来た。それによると、大正4年に設立された慶応山岳会の三周年記念に、会の歌を作ることになり、会に中山晋平が小学校で唱歌を教えていた時の教え子がいて、彼を通じて頼んだようで、曲が先にできて、その作詞を中山晋平が北原白秋に依頼して出来上がったとかであった。歌の題名は「山の唄」で、作詞者の註では、慶応山岳会の委嘱を受けて、登山歌として作ったと記されているという。出来上がったのは依頼された翌年である。しかしその後、慶応山岳会では、歌の題名を「山の唄」から「守れ権現」に変えて使用していたとある。それで今日では、正式な歌の名称は「山の唄」、そして括弧書きで(守れ権現)となっているようである。以下に、作曲した中山晋平が大正8年に刊行した楽譜付きの本「新作小唄」に載っている北原白秋の歌の詩句を紹介する。

「山の唄」  北原白秋 作歌  中山晋平 作曲

  守れ、権現、夜明けよ、霧よ、 山は命の禊場所。
     行けよ、荒れくれ、どんどと登れ、 夏は男の度胸だめし。

  何を奥山、道こそなけれ、 水も流るる、鳥も啼く。
     馬子は追分、山樵は木遣、 朝は裾野の放し駒。

  風よ、吹け吹け、笠吹きとばせ、 笠は紅緒の荒むすび。
     雨よ降れ降れ、ざんざとかかれ、 肩の着筵も伊達じゃない。

  山は百萬石、木萱の波よ、 木萱越ゆれば、お花畑。
     雪の御殿に、氷の岩窟、 瀧は千丈の逆おとし。

  さあさ、火を焚け、ごろりとままよ、 木の根枕に嶺の月。
     夢にゃ鈴蘭、谷間の小百合、酒の肴にゃ山鯨。

  守れ、権現、鎮まれ山よ、 山は男の禊場所。
     雲か空かと眺めた峰も、今じゃわしらが眠り床。

 私が習った曲の節は、各行とも同じで、どちらかというと民謡調である。
 そして私が聴いて覚えた歌では、二行一節の終わりに「六根清浄 六根清浄」と付け加えて歌われていたが、元歌にはそれがない。でもあった方が格調が高いように想われるが、誰がそのようにしたのかは不明である。
 また中山晋平作曲の楽譜を読むと、私が習った節は、一節目はほぼ似ているが、二節目は異なっている。

シンリョウのジュッカイ(9)「山の唄」の思い出

 終戦になって、第九師団で主計をしていた父は、野村練兵場の土地を以前に提供した元の地主に返還する役目を仰せつかって、私たち一家は2年間金沢市寺町に住まいしていた。その後返還処理が終わって野々市の実家に戻ったが、父は公職追放になったこともあって、旧地主に認められた1町歩を旧小作の人達から戻してもらい、百姓をすることになった。全く経験がないこととあって、いずれは放棄するだろうと噂されていたという。でも協力してくれる人が現れて、どうにか稲の作付けから収穫までも出来るようになった。でも最も困ったのは肥料で、当時は屎尿を用いていたが、近隣は全て既に契約相手が決まっていて、我が家では遠く卯辰山の麓の御徒町まで貰いに行った。片道7kmはあろうか。しかも鉄輪の荷車に肥桶を積んで、香林坊の交差点を経由して行ったものだが、今では想像もできないことだった。そして帰りは味噌蔵町への長い上り坂、犀川大橋から広小路への急な上り坂は本当に大変だった。しかも南端国道は二万堂から先はずっと砂利道で、この区間も実に難儀だった。下肥は一旦槽に貯蔵して寝かして発酵させてから使うのだが、一度槽にひびが入って漏れたことがあり、大騒動になったことがあった。
 初めての田仕事も、田の荒起こしや代掻きは奇特にも請け負ってくれる人が現れ、本当に助かった。そして田植えはどうにか結いに入れて頂いて、共同で行なえるようになった。その後の草取り等は見よう見まねで行なったし、問題は個々で行なう稲刈りだった。10 枚もの田の処理をするのは、父母と私の3人のみ、とても無理なので、当初は羽咋の方に応援に来てもらって稲刈りをした。能登では、稲刈りが若干時期的に遅いこともあって、お願いすることができた。こうしてどうやら素人百姓ながら、父母の踏ん張りもあって、初年度をどうにか乗り切り、曲がりなりにも米の収穫をすることが出来た。
 話は変わって、昭和 24 年に新制大学が発足するのに合わせて、その前年に叔父が金沢大学薬学部の助教授に就任した。専門は生薬学と薬用植物学だった。第1回生の入学は昭和 24 年4月、叔父が学生の授業を持つことになるのはその1年後で、叔父はよく課外に学生と山へ出かけていた。植物採集を兼ねたこともあったようである。そして大学の方針で、薬学部は金沢城内へ移転することになり、その第1陣として生薬学教室が城内に移った。この頃一部の学生は生薬学教室へよく出入りしていて、この第一期生の学生たちが叔父の世話で稲刈りの応援に来てくれるようになった。私が高校へ入学した頃である。素人さんだが、数で勝負できた。そんな縁もあって、秋の収穫が終わったある1日、倉ヶ岳へ行くとかでご一緒させてもらったことがある。あまり天気が好くはなかったが、総勢 10 名位だったろうか、電車で日御子駅まで行き、月橋から登り、大池へ出て、岩場をよじ登って、頂上へ出た。皆さん何を履いていたか覚えはないが、中に一人、厚歯の下駄を履いてきた猛者がいた。旧制の高校生が履いていたあの厚歯である。
 帰りは岩場を通らない反対側の径から曽谷へ下りた。そして下りには雨になった。カッパや傘は持たず、濡れながら下った。しかし皆さん唄を歌いながら、自身を鼓舞するかのように元気に歩いた。唄は簡単な節だったので、私は直ぐに覚えた。それは風や雨をも吹き飛ばすような唄で、好きになった。当時メモった文句を見ると懐かしかった。しかしその後入った大学の山岳部でも、歌のサークルでも、この唄を歌ったことはなく、また山の歌の本にも収載されてはいないようだった。そして唄の文句は知ってはいたが、題名も知らず、それが9月2日の吉岡さんの夜行雨中白山登山を知って、思わず口ずさんだものだから、少し調べてみようと想った。

2015年9月10日木曜日

Yさんの雨の日の白山行き

 はやかわクリニックの院長の早川康浩さんは、山と医療の本音トークという副題で、「YASUHIRO の独り言」というブログで、毎日の出来事を書き綴っておいでる。私はそれを毎日拝見している。はやかわクリニックは、胃腸科、内科、肛門科を標榜していて、私は年に一度はここで胃と大腸の内視鏡検査を受けている。多くの医院や病院では、これらの検査は予約して受診することになっているが、このクリニックでは一切の予約は受付しないで、その日に受診した人は、余程の事情がない限りは、その日のうちに検査を済ませている。また予約がある機関でも、通常扱う人数は1日 10 人位なのではと思うが、はやかわクリニックではその数が 50 〜 60 人が通常というから、半端な人数ではない。補助の方がいるにしても、内視鏡を扱うのは院長一人だから、その忙しさは想像を絶する。しかしそれをこなすというのが信条であるからして、もう凄いというほかない。これは内視鏡の卓越した技術もさることながら、強靭な体力と精神力が備わっていないと出来るものではない。正に超人的である。このことはブログの人気とも相まって、全国に知れ渡っている。アクセス数は 728 万に達している。
 はやかわクリニックの休日は日曜日と水曜日である。この日はワンデーと称して、積雪期にはスキーを駆使しての山行、それも常人では思いも付かないようなルートをファインディングして挑戦されている。山スキーは自身で会得されたというが、その技術たるや正に超人の域である。その踏破範囲は、地元の白山山域は勿論、北アルプス全域、頸城山塊にも及んでいる。また無雪期には、白山、立山・剣岳、朝日岳周辺を巡るほか、沢にも興味を持って挑んでおいでる。これらの山行・スキー行は単独のこともあるが、技術も体力も相似た仲間と一緒なことも多い。しかも1日の診療を終えてからの出発で、しかも次の日にはまた診療があるわけだから、深夜から行動を起こすことが多く、こんな行動は常人には思いもつかず、正にスーパーマンそのものである。このほか車を使用できない所へのアプローチにはチャリ (自転車) を有力な武器として愛用している。行動範囲の拡大と時間の短縮には、スキーもチャリも大いに役立つという。特に下山時にはその差は歴然としている。したがって無雪期にはチャリでの登坂や長距離ロードもかかさない。一方長期の休暇は、正月、ゴールデンウイーク、お盆、シルバーウイークで、積雪期にはよく北海道へ遠征されているし、無雪期には長距離ロードで温泉巡りなどで楽しんでおいでる。それにしてもブログを読むと、とても私たちが真似できる行動ではない。
 さてこの9月、梅雨前線が停滞して天気が芳しくない。早川さんはこの夏から白山の谷筋に入っておいでて、恐らくまだ誰も足跡を残していない沢にも挑戦されていることが予想される。でも沢筋に入っていて最も怖いのは急激な増水で、雨が降っている時に沢に入るのは厳禁である。ところで休日の日・水は雨が多いこともあってか、雨の白山への体力トレーニングを思い付かれたようだ。白山は夏山シーズンは終わったものの、秋山にはまだかなりの登山者がいる。でも秋雨の中、求めて白山へ登る酔狂な人は少ないというよりないはずだ。そこで9月2日の水曜日、日の出時に白山頂上に立つ計画で、酔狂にもクリニックの婦長の Y さんにどうですかと話をかけたと言う。ジムでのトレーニングもいいが、こんな実践トレーニングも良いからどうかとのこと、話かけた院長も院長だが、受けた婦長も婦長で、雨中の白山登山を実行することになった。
 Yさんは、はやかわクリニックが開院した時からのメンバーで、それ以前は私の家内が務めている野々市の舩木病院 (現舩木医院) に勤務していた。家内では、大変優秀な看護婦さんで、気丈で責任感が強く、真面目で几帳面な方とのこと。舩木病院の院長も登山やスキーが大好きで、よく病院で休日には職員と山に出かけたり、スキーに行ったりしていて、私もよく参加させてもらっていた。でも彼女と一緒になったことはなく、彼女はその頃はそんなことに余り興味を持っていなかったのかも知れない。ところが今では厳冬期の白山は別として、残雪期や無雪期の白山ならば、単独でも行動できる能力を彼女は持ち合わせている。舩木病院の院長の山行やスキー行は、どちらかと言えば娯楽的な要素があったのに対し、はやかわクリニックの院長の行動は物凄く先鋭的で、彼女の負けん気がそれに触発されて、今の山好きになったのだろうか。
 院長が婦長を誘ったといっても、同行するのではなく、トレーニングにどうですかということだった。院長の予定では、降雨だが頂上の御前峰で日の出の時間に到着するように別当出合を出発するとのこと、院長は午前3時に歩き出している。彼女は降雨での夜間登山の経験の有無について私は知らないが、後から出発した院長が中飯場辺りで追いついた時に、彼女はご主人と一緒だったと書いていた。院長の予定は登り2時間、下り1時間半だという。院長は室堂で少し時間待ちをして、日の出時刻の9時 15 分には頂上にいたと書いている。そして下山時には、婦長とは弥陀ヶ原で会ったとも書いていた。院長はブログには快適な体力トレーニングだったと述懐していたが、果たして彼女はどうだったのだろうか。

 このブログの記述を読んでいて、彼女を思い、ある唄を想い出し、口ずさんだ。
「雨よ、降れ振れ、ざんざとかかれ、肩の着莚も伊達じゃない。六根清浄、六根清浄」。