2014年3月26日水曜日

平山郁夫の「尾長鳥」

 小学館イマージュという小学館の関連会社から、月に4〜5回、高額な美術作品等を載せた豪華本とか、邦人作家の絵画や江戸時代の風景や美人の版画の復刻作品、ほかには近代に制作された仏像などの原型からのオリジナルレプリカブロンズ像など、様々な商品の案内がある。今月にあったその一つが「平山郁夫名品選」である。この中には仏教伝来の道に関わる画伯の画業の出発点ともなった、玄奘三蔵が印度へ求法の命がけの旅に出た姿を描いた「仏教伝来」、東西文化の道のシルクロードを題材にした、西域の砂漠を行く駱駝のキャラバン隊を描いた院展出品の「絲稠之路天空」のほか、「流砂の道」「流砂浄土変」「月光流砂駱駝行」や「ブルーモスクの夜」、そしてわが心の風景として描いた「慈光」(中尊寺内陣)、「薬師寺東塔」「法隆寺の春」「寧楽 (なら) の幾望」「大徳寺境内」、そして筆致は平山画伯だが、凡そらしくない題材の「尾長鳥」の計12点が紹介されていた。これらの作品は、日本画の巨匠・横山大観が自身の作品をより多くの人に身近に感じて欲しいとの気持ちから立ち上げた大塚巧藝社 (現・大塚巧藝新社) で復刻されたもので、ここでは国宝や重要文化財の保存や修復も行なっていて、平山画伯もまた、自身の作品復刻にはこの社の精細な美術印刷とシルクスクリーン印刷を採用していたという。今回紹介された作品は、最後の一点以外は、尾道市にある平山郁夫美術館やほかの美術館などの展示で幾度かお目にかかったことがある。
 さて、私に鳥のうちで最も好きな鳥はと問われると、沢山好きな鳥がいる中で、オナガが随一である。調べると、留鳥としての棲息域は、福井・岐阜・静岡を結ぶ中部地方以北から東北地方南部までとある。低地から山地の村落付近の雑木林などにいて、市街地の公園や庭にも飛来するとか。私の家の庭にも、昼は個々に、夕方から朝方にかけては、時折数十羽が群れて、孟宗竹の薮をねぐらにしている。ギューイとかグェーイとか、短くギュイとかグェイとか、特徴的な鳴き声を発するので、すぐに飛来しているのが分かる。特に夕方に群れているときは、かなりかしましい。以前私がこの鳥をよく目にしたのは、秋に棕櫚の実が熟した頃に、よくその実をついばみに来ていたからで、初めは渡りかと思っていたが、留鳥だった。今はよく現れている。ヒヨドリもよく群れで来るが、そんな時はオナガは遠巻きにしている。ひょうきんな鳥だ。
 オナガの体長は37㎝、尾が長く体長の半分位ある。成鳥は雌雄同色である。頭部は真黒で、黒いベレー帽を冠ったようだ。喉から頚は白い。背、肩羽、腰は灰色 (薄い鼠色:うすねず) 、胸から腹はやや淡い灰色 (薄い鈍色:うすにび) 、翼は大部分は薄い紫色を帯びた青色 (相思鼠:そうしねず) で、初列風切羽の羽先の外縁は白い。長い尾は翼と同じく相思鼠で、中央尾羽の羽先は白い。嘴と足は黒い。これがオナガの外観である。この翼と尾の青い色は、私の車のハイラックスサーフの外装の色と極めて類似している。
 翻って、平山画伯の「尾長鳥」を観てみよう。背景の空間は濃い藍色、すなわち深みのある紺色である。その中に、青みがかった緑色 (青緑) の木の葉 (複葉) が沢山描かれている。そして画面の中央右側に比較的太い枝があり、ここに番いの尾長鳥が止まっていて、何故か同じ方向を向いている。尾長鳥の頭は黒色、喉から頚は薄茶がかった白色 (鳥の子色) 、背、肩羽、腰はシルクロードの砂漠を思わせる黄土を焼いたような薄茶色 (砥の粉色) 、そして翼と尾は淡い瑠璃色 (秘色:ひしょく) で、風切羽の外縁と尾羽の先端は薄茶がかった白色 (鳥の子色) になっている。そして番いの鳥は、尾羽以外の全体に、鳥の子色の産毛のようなもので覆われていて、それで一見鳥が浮き上がって見えている。ただクッキリとした目はオナガではなくカケスのようだ。
 解説では、同じ方向を見ているのは、好物の無花果か柿でも見つけたようだと書いているが、庭ではこれらの木にオナガが群れているのを見たことはない。また番いとのことだが、繁殖の時期なら別だが、通常は群れているので、これは画伯の想像によるものかも知れない。番いというと鴛鴦がよく引き合いに出されるが、この鳥も番いとなるのは繁殖期だけで、次回は別だという。終生番いなのは雉鳩で、あのデデーポーポーと鳴くあの鳥である。
 しかし現実には稀でも、番いという画想は微笑ましい。もっと欲を言えば、尾長鳥が本当のオナガの色に仕上げられていたら、もっと引き立ったと思うのだが、欲張りだろうか。

2014年3月19日水曜日

平成26年探蕎会総会を振り返って(その2)

● 会費について
 総会議事のなかで、会費を年額5千円から3千円にすることが提案され、承認された。理由は会報の発行が年2回になっていることと、それに伴って次年度への繰越金が10万円を超えていることへの対応である。これは多分に会誌の発行頻度が少なくなったことによる。年別の会報の発行状況とページ数を見てみよう。
 平成10年(1998) 0ページ                    0回   0ページ
   11年(1999) 8                       1回   8ページ
   12年(2000) 4・6・4・12・10・4・8・8・4     9回  60ページ
   13年(2001) 6・6・10・4・8              5回  34ページ
   14年(2002) 8・8・8・12                4回  36ページ
   15年(2003) 8・14・12・10・12           5回  56ページ
   16年(2004) 8・8・12・8                4回  36ページ
   17年(2005) 8・16・12・8               4回  44ページ
   18年(2006) 8・16・16                 3回  40ページ
   19年(2007) 12・12・8                 3回  32ページ
   20年(2008) 12・8・8・20               4回  48ページ
   21年(2009) 8・8・12                  3回  28ページ
   22年(2010) 16・8・8・8                4回  40ページ
   23年(2011) 8・12・12                 3回  32ページ
   24年(2012) 8・8                     2回  16ページ
   25年(2013) 8・8                     2回  16ページ
   26年(2014) 8 (3月現在)                1回   8ページ
 年会費は発会当初から平成16年までは3千円だった。この7年間に発行された会報は述べ28回、230ページ、平均すると1年あたり4.0回、32.9ページで、この状況から平成17年には年会費が2千円増しの5千円に値上げとなった。それで次の平成17年から平成23年までの7年間についてみると、発行は24回、ページ数は264で、年平均3.4回、37.7ページである。しかし平成24年と25年には、年2回、各年16ページと極端に減少している。このこともあって、会費は再び3千円に減額された。因みに1回当たりのページ数は、平成10〜16年は8.2ページ、平成17〜23年は11.0ページ、平成24年以降は8ページである。
● 行事について
 探蕎会で参加者が多い行事というと、毎年6月に塚野さんのお世話で行われる湯涌みどりの里での「会員そば打ち」と、やはり毎年秋に行っている海道さんにお世話になる丸岡蕎麦道場での「新そば試食」であろう。どちらも30名を超す会員の参加がある行事である。足の方は、前者は三々五々集まるのに対し、後者は事務局の配慮でマイクロバスに乗って出かけることが多くなっている。それに対し、前半の春の探蕎と後半の秋の探蕎は、近隣はともかく、会則にあるように各地の銘店を訪ねつつ蕎麦道を探求するとなると、これまでは久保副会長におんぶに抱っこの感があったが、本年は3月に野々市の「敬蔵」での会が決まっているのみで、後は未定になっている。遠くへ行く場合には、これまでは会員の中で大型やマイクロバスの運転免許を持っている方が運転していただいて便乗したり、少数の場合には車に分乗して出かけたものだが、如何せん高年齢となって運転を辞退されると、少なくとも遠出は困難となる。また出かける曜日も問題で、これは会の今後の運営とも密接にかかわってくる。皆で考えたいものだ。
● 総会でのアトラクション
 総会では会食中に「会員紹介」と称して、会員が自由に話せる場が設けてある。でもマイクが回って来ても、半数の方は話すのを遠慮されるし、となると無闇に無理強いするのは司会者としても本意ではない。もっとも気楽に応じられて話される方があるのも事実である。今年は画家の大滝由季生さんが、今年初筆の4号の絵画2点、「祝い魚」と「実り」を持参頂いたので、その説明をお願いした。すると解説の後に、例年のごとく「猩猩」の一節を謡われた。その後事務局の前田さんから、斎藤千佳子さんがバイオリンを持参されているとのこと、これは渡りに船とお願いした。この方は書家でもあり、以前喬屋での会の時には、大判の紙に「探蕎」の文字を揮毫されたし、またバイオリンの演奏もされ、あの時は皆で合唱した。今回も終わりに近く、斎藤さんの伴奏で「故郷」を出席者全員で斉唱した。帰り際に次回も何か考えましょうとのこと、素晴らしい助っ人である。これまでも、お点前、琵琶演奏、詩の朗読と幽玄の世界とのコラボ等々、予め決められた趣向の演出があったが、このような企画が総会行事に添えられると、会も濃い内容になるのではなかろうか。皆さんからアイディアを募るのも一興かも知れない。

平成26年探蕎会総会を振り返って(その1)

 今年の探蕎会総会は2月16日の日曜日、金沢市武蔵ヶ辻にある金沢スカイホテル 10F の「白山」であった。例年と同じく、会長挨拶、総会議事、記念講演、乾杯、会食、閉会挨拶、記念撮影と、3時間にわたって行なわれた。いつもと違っていたのは、講演に初めて会員以外の方をお願いしたことだろう。本来なら私にお鉢が回っていたのだが、それよりも私が意中の人として選んだ横山さんに講演をお願いしたのだが、これは予想外に好評だった。終わって皆さんから来年もお願いできませんかと言われたあたり、それを如実に物語っている。演題は「前田家と宮家の婚姻」で、藩政時代初期の天皇家・宮家・公家・徳川家・前田家の詳細な略系図を資料とされて、「前田家の女たち」(1) 公家と前田家の婚姻、続いて(2) 宮家・五摂家と前田家の婚姻 について話された。初めて耳にすることも多く、非常に興味が持てた。中でも前田家は、今年の東京都知事選挙に立候補した元内閣総理大臣の細川護熈氏の細川家とは、近衛家を通じて縁続きなことも示された。アンコールの声が出ても不思議ではない内容の話だった。
 以下に総会で感じ取ったことを記してみたい。
● 会員の構成(寺田会長の開会挨拶から)
 会長は「探蕎」会報第1号から、発起人でもある波田野前会長と松原前副会長の言を引用された。前会長は、「探蕎会とは、蕎麦無限の極みー究極の味を究めんとする同好多士済々の集いといえよう」と。また前副会長も、「目下、会員は四十九人。むやみに会員の増加をのぞむ必要はない。元、現の職業や立場はさまざま。意外な人もいて、それぞれが専門的能力をもつ異色有能集団であるところも面白い」と。会員の皆さんが、前副会長のいう「専門的能力をもつ異色有能集団」であるかどうかは別として、前会長のいう「同好多士済々の集まり」とは言えそうだ。しかし会員がどういう方達から構成されているのかは知らないが、同好の士である以上の詮索は全く無用なのかも知れない。
● 会員数のこと
 ところで会報第1号には、末尾に50名の会員が入会順に記されている。平成11年12月現在とあり、この時点で松原さんは、むやみに会員の増加をのぞむ必要はないと言われている。ところで現在この中でどれくらいの人が現会員なのだろうか。事務局では把握されているのだろうが、私が見たところ、残留しているのは半数にも満たないように思う。一時は80名を超える会員数のこともあったが、昨年の会費を支払った人は36名とか、40名前後が望ましいとすればベターなのだろうが。一時は会の行事には参加しないが、会報が入用なので会費を納めているという人がいたが、今はインターネットで無償で見ることだできるようになっているから、そんな人は居なくなったと思う。因みに、創刊以降、平成23年4月発行の第50号までは、新会員の紹介があった。一体どれくらいの人が入会したのかカウントしてみると、ざっと80名ばかり、単純に累計すると130名となる。現会員を40名とすると、90名ばかりが退会していることになる。この中には物故者もいるが、大多数の人は「そば」が好きで会に入ったものの、会そのものには魅力を感じなくなったから退会したということになろうか。私の知っているそば好きの友人は、変に束縛されるよりは、気楽に家内とそば屋巡りをする方に魅力を感じたので退会すると言っていた。
● 会員の年齢構成のこと(前田事務局長の発言から)
 前田さんの発言では、男性では初老の前田さんクラスが会では最も若い年齢層とか。これではまるで老人会そのものである。一時会報にも、若い方の新規加入を呼びかけようとの記事も載ったが、実効があったとは聞いていない。今後探蕎会の魅力をアピールするのか、それともこのまま仲良し会で終始するのか、一度皆さんの意見を聞きたいものだ。
● 会報執筆のこと(寺田会長の開会挨拶から)
 会長は会員の方々に会報への原稿執筆協力の依頼をされた。執筆者に偏りが見られるので、こちらからお願いした節には、ぜひ引き受けてもらいたいとも。詳しく調べたわけではないが、恐らく半数以上の会員は執筆経験がないのではと思っている。いつか前会長がある方に執筆を依頼された折、書けないと言われると、話す言葉を字にすればよいと言われたことを思い出す。その方はどちらかというと饒舌だったのでそんな風に話されたのだったと思うが、結局彼は書かなかった。話されたものを別の方が記述するのならば別だが、本人があまり書かれたことがない場合には抵抗があって難しいように思う。いつか世話人までされていた方の原稿が真っ赤になったという話を聞いたことがあるが、あまり無理強いすると、それじゃ退会しますということになるのではと危惧する。そんなときは程よいサポートが必要なのではなかろうか。私が県にいたときに、一見精力的に仕事をし、また何にでも頭に立ちたがる御仁がいた。ごく短い文章を書かすと意味は通ずるのだが、長くなると何を言いたいのか全く分からず往生したことがあった。そのままでは当然投稿しても不採用になる。この人の文章の訂正には実に手を焼いた。このことがそのまま探蕎会に当てはまるとは思えないが、文を書くのが得手でない人に執筆を強要するのには問題があるように思う。感想を聞くのだったらインタビューするのも一策かも知れない。何と言っても、話すのは残らないかも知れないが、活字は末代まで残るからコワイ。
 

2014年3月18日火曜日

佐渡裕:ベルリンフィルへの挑戦

 2014年3月14日、いつも金曜日の午前8時からは、渡辺真理が司会する歴史館が NHK の BS103 で放映されるが、この日は瀬戸内海で勇猛を誇った村上水軍の栄枯盛衰を、その末裔の方のインタビューも交えて放送され、興味を持って見ていた。いつもはこれでテレビのスイッチを切るのだが、9時からこの日はプレミアム・アーカイブズとして、以前に放映されたことがある番組の中で、特に好評なものを再放映するとのこと、表題は「情熱のタクト〜指揮者・佐渡裕 ベルリンフィルへの挑戦〜」とあった。いつか彼の指揮する曲を聴いたことがあるが、オーラで身体が震えてしまったことを思い出した。それで途端に番組に釘付けになっていまい、凡そ2時間、終わってみれば立ったままで最後まで見ていた。何か臨場感もあって、久しぶりに緊張と祈りの混じったオーラが身体全体に漲った。
 前半は指揮者になるまでの生い立ち、本来はフルート奏者だったのが、ひょんなことで女子校の吹奏楽を指導することになり、その後独学で指揮法を学び、指揮者として歩み始め、関西を中心に指揮活動をすることに。その後世界に羽ばたくようになり、1987年タングルウッドでバーンシュタインに師事し、2年後にはブザンソン国際指揮者コンクールで優勝し、指揮者としての地位を確立することになる。そして 2011年、ベルリンフィルから客演指揮の依頼が舞い込んだ。日本人での客演指揮者依頼は、恩師の小沢征爾以来とのことで、その時彼は 50歳だった。
 ベルリンフィルといえば世界トップの楽団、常任指揮者として、戦後はセルジュ・チェリビダッケ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ヘルベルト・フォン・カラヤン、クラウディオ・アバド、現在はサイモン・ラトルが務めている。また現在のコンサートマスターは日本人の樫本大進、また前任は安永徹だった。ベルリンフィルでは定期公演に年間6〜8人程の指揮者を客演に迎えるという。これは常任指揮者が選ぶのではなく、楽団員が推挙して来てもらうシステムになっているという。ということは、個々の楽団員のレベルが極めて高く、しかもその声が重みを持って大きく反映されるということなんだそうだ。佐渡裕を推挙したのはコントラバス奏者の方、それで楽団員総意で実現の運びになったという。
 佐渡裕がベルリンフィルの定期公演で客演指揮したのは 2011年5月、この年の3月11日には、あの未曾有の東日本大震災があった。この客演指揮に当たっては、NHK は特別に許可をもらって、リハーサルと本番の取材及び楽団員のインタビューをした。演奏する曲は楽団員の希望で、ショスタコーヴィチの交響曲第5番ニ短調作品 47、これは 1936 年の革命記念日のために作曲された第4番が共産党から辛辣な批判を受け、その名誉挽回のため翌年に作曲されたもので、これは大変な称賛を受けたという。現在この作曲者の作品の中では最もよく演奏される曲でもある。さてリハーサルは演奏会の前日と前々日にそれぞれ2時間ずつのみ、佐渡裕はこのリハーサルのための構想を練るのに1週間を充てたという。そして最初のリハーサル (ファースト・コンタクト) の日、コンサートマスターの樫本さんから、最初の10分間が極めて大事で、この印象で楽団員の指揮者への評価が定まってしまうと言われたという。他の楽団員へのインタビューでも同じ返事が返ってきていた。楽団には日本人は樫本さんのほかに女性が3人いるがs、彼女らも同じ意見だった。
 リハーサルの会場は本番と同じホール、彼は開口一番ドイツ語で、東北大震災への協力に対して、心からの御礼を述べた。後での楽団員の評価では、これで少し緊張が和らいだと話していた。とは言え、始めの 10分間のリハーサルでのドイツ語での指示、始めはギクシャクしていたが、彼の自分の考え方に対する理解への丁寧な説明は、次第に指揮者への理解と協力を勝ち得ていくという過程が画面から汲み取れた。2日目には、4種ある金管の音の強弱で首席奏者からクレームが出たが、これに対しても丁寧に対応し、彼に納得しましたと言わしめた。これだけのオーケストラになると、指揮者に不信を抱いてしまうと、指揮者を無視し、自分たちで演奏してしまうという。しかし彼は楽団員の絶大な信頼を受け、彼らの協力を得て、佐渡裕の解釈した第5番を渾身の力を振り絞って本番を終えた。満席の聴衆からの拍手は鳴り止まなかった。実に素晴らしかった。終演後、楽団員が彼に握手を求めに集まった映像が流れたが、本当に感動した。ベルリンフィルでは、楽団員の中に一人でも指揮者に不満があると、次に客演指揮者に呼ばれることはないという。でも彼はこれをクリアした。将来彼は世界に冠たる名指揮者になることだろう。そんな予感をはっきり感じさせる番組だった。

2014年3月13日木曜日

源野外志男君への弔いと思い出

 平成26年3月7日の朝、小学中学高校と同期の女性の方から電話があった。「源野さんが亡くなったわよ」と。私は地元紙のお悔やみの欄には毎朝必ず目を通しているのに、この日の朝は何故か見逃していた。早速確認すると、その通りだった。7日午後7時通夜、8日午前11時葬儀とある。同級生の何人かと連絡をとった。すると彼と親戚筋にあたる女性から、子うし会で弔辞を読んで下さいませんかとのこと、全く予期していなかったことだけに、そのようなことは全く考えていないと答えておいた。でも何となく気になり、家内に相談すると、読んで上げるのは当然とのこと、腹を括った。これまでやはり親しくしていた小学中学高校と同期だった中川君の時には私が読んだことはあるが、随分昔のことだ。
 そこで急いで原稿を書き、奉書紙を求めてそれに清書し、通夜に持参した。というのは葬儀のある8日には予てからの用事があり出席できないので、誰かに代読してもらう必要があった。子うし会の男性の世話人にと思ったが、彼も公の用事で葬儀には出席できないとか、急遽親戚筋にあたる関西に住む同級生にお願いし、どうやら承諾していただいた。
 私が書き記した文章は次のようである。文中の子うし会は「コウシカイ」と読む。
「弔 辞」
 子うし会会員だった源野外志男君のご霊前に謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 この子うし会というのは、昭和十一年遅生まれのネズミ年と昭和十二年早生まれのウシ年の小学校と中学校の同級生の集まりの会です。毎年一回皆が集まって旧交を温めて来ましたが、貴兄 (あなた) はいつも率先して会の世話をしてくれました。しかし昨年の初夏に皆で粟津温泉「法師」で喜寿の宴を企画した際には、貴兄からは胃ガンの治療に専念したいので欠席しますとの連絡を頂きました。しかし私たち一同は貴兄がきっと本復されて、再び元気な顔をした貴兄に会えると信じていました。しかしあれからやがて十ヵ月、私たちは貴兄が帰らぬ人となられたという訃報に接しました。私たちは七十年来の親しい友人を亡くしてしまいました。元気で几帳面で世話好きだった君とはもう会えないのかと思うと無性に淋しく悲しくなります。
 さて、貴兄は本当に心から「そば」を愛されていましたね。おしどり夫婦の奥さんと「そば」を食べに全国を巡っているとも話されてくれましたね。そして貴兄は「そば」を食べるだけではなくて、「そば」を打つ卓越した技術も持っておいででした。私も「そば」を食べるのが好きで、あちこちに出掛けたりはしますが、とても貴兄の足元には及びませんでした。貴兄も所属されていたそば好きが集まる同好の会では、年に一度は貴兄が打った「そば」を皆で賞味したものですが、今はそれも叶わなくなりました。凛々しい白の装束に身を包まれて「そば」を打たれていた姿が目に浮かびます。
 源野君、貴兄とは永久の別れをしなければならないことになりました。どうか安らかにお休み下さい。ここに心から「さようなら」の言葉を捧げます。
   平成二十六年三月八日
    子うし会 代表  木村 晋亮 (のぶあき)
         代読  木戸 三雄

 通夜に挨拶に立った一級建築士でもある長男の方の話では、3月5日に眠るように亡くなったとかだった。彼は大変器用で精力的、春や秋には山へ分け入って山菜や茸を採りに行っていて、よくそのお裾分けを頂いた。そしてそばにも格別の興味を持ち、そばを打つ道具も一式揃え、同好会に入って本格的にそばを打っていた。年末には年越しのそばを毎年届けてくれた。しかし一昨年の暮れに、体調不良で今年の暮れのそばは届けられないと言ってきた。胃ガンが見つかったとか。でも早期なのできっと本復すると信じていた。彼はまた篆刻にも素晴らしい作品を残した。探蕎会の会報の題字を書かれた書家であり篆刻家でもある北室南苑さんに師事していて、中国までも出かけていたし、賞も何度か頂いたと聞いた。とにかく凝り性だった。長男さんの言では、彼は生前、もう死んでも思い残すことは何もないと語ったという。この言は、どんなに達観していたとしても、中々言えることではない。
 心から彼の冥福を祈る。