2009年6月23日火曜日

蕎麦と蕎麦つゆは本来無関係?

 週刊朝日に東海林さだおが「あれも食いたいこれも食いたい」というコラムをもう20年間も書き綴っている。毎週である。よくネタ切れしないものだと感心している。ところで私の見落としがあるのかも知れないが、蕎麦が俎上に上ったことはないような気がする。しかし初かどうかは別として、今回は蕎麦がテーマで、題は「現代の冒険水蕎麦」。自称「丸かじりのオッサン」は文の冒頭で次のように書き出している。
 「水蕎麦というものをやってみようと思った。/『え? 水蕎麦って、まさか蕎麦を水につけて食べるんじゃないでしょうね』/と、うろたえる人もいると思うが、蕎麦を蕎麦つゆではなく水につけて食べる食べ方が、あるんです。」/(中略)「ぼくが水蕎麦をやってみようと思ったのは(中略)好奇心からです。/蕎麦を水につけて食べるとどういう味になるんだろう。/とりあえず、旨くはないだろうな。/蕎麦には味がなく、水にも味がなく、味がないものを、味がないものにつけて食べると、どういう心境になるのだろう。」
 思うに東海林さんは、水蕎麦は田舎の農繁期などで米飯を早く食べねばならないときに、水やお湯をブッカケてかきこむとか、修行僧がわざと粗食をするときに水をかけて食べるとか、止むを得ないときを想像して、蕎麦でもそういうこともあり得ると想定して設定したような印象を受ける。すなわち世に水蕎麦なる商品はないものと思い込み、蕎麦を水につけて食べようとの暴挙に出ようとしたとしか思えない。
 たしかにそば屋でそばを食べようとすれば、どんな場合であろうと蕎麦つゆが付いてくるのであって、その味や塩加減や量や出し方はまちまちであるが、先ず出ないことはない。ただ水蕎麦を標榜している場合には、蕎麦つゆが付いてこないこともある。会津の山都宮古では、水蕎麦が厳然と商品としてあり、村松友視が「夢見水」と名付けた水が入った朱塗りのお椀に、細打ちのそばが入って出てくる。以前は太くて、噛みしめて食べると蕎麦の香りが口中に広がったものだが、細くなったお陰で、噛みしめなくても喉へ滑り込んでしまう。確かに喉越しはよいが、田舎っぽさはなくなった。ほかに水蕎麦として出しているのは信州の安曇野穂高にある「上條」である。ここのはざるに盛られ、ぐい呑みか茶碗のような磁器に水が入ってくる。でも蕎麦つゆも付いてくるから、これは好みでというか、なぐさみに銘水に浸して食べるのも話の種という程度かも知れない。
 さて、近頃はそばの食べ方をお品書きに書き記してある店も出てきた。曰く「最初は何もつけないで蕎麦本来の味だけを味わって下さい」と。確かにこれを知ってからは、先ずそばをそのまま手繰って食べることにしている。儀礼的には、そうすると蕎麦本来の風味がよく分かりますと言うことにしている。ではどんな風味ですかと言われると絶句してしまう。この間京都の「じん六」へ行ったときに、福井、茨城、滋賀、大分と4種類の蕎麦を出された。それぞれに個性があって美味しかったが、さてその違いをどう表現するかとなると、表現力に乏しい小生には的確な味や香りの違いを書き記せなかった。
 東海林さんは続ける。「現代人の生活にはあまりにも冒険の部分がない。/私は決然と勇猛をふるって危険をかえりみず水蕎麦に挑む。」(中略)「買ってきた生の二八蕎麦を茹でる。/水でようく洗い、ようく水を切る。/ざるに盛る。/蕎麦徳利に水を入れる。/蕎麦徳利から蕎麦猪口に水を注ぎ入れる。(中略)/箸で取りあげた七、八本の蕎麦を、猪口の中の水に、通の作法を無視して、どっぷりひたす。/すする。蕎麦がまとまったどっぷりの水分をまず感じる。」ここで、今さっき水をよく切ったばかりなのに、また水にひたすという行為にはどういう意味があるのかという疑念がおきたと。「なにしろ、蕎麦つゆ!という部分がないので、蕎麦そのものに集中せざるをえない。/蕎麦特有の微かな苦味がある。うどんの滑らかさとは違ったざらつく舌ざわりがある。(中略)/飲みこむとき、のどの奥のほうにかすかに蕎麦の香りが立つ。/二口目。穀物ということをいっそう意識する。/三口目、四口目、少しも飽きてこない。特別旨いとも思わないが、まずいとも思わず、次から次へ箸が出る。/何の迷いもなく食べ終わった。そしてすぐにかねて用意しておいた蕎麦つゆにつけてもう一度食べてみた。/誰もが蕎麦と蕎麦つゆは一体のものと思っているが、本来無関係で、無関係の二種のものをいっしょに口に入れた、という思いがした。/とても不思議な感覚でした。」
 冷えた米飯でも、米に本来の旨みがあれば、水をかけて食べても、温かいのには敵わないにしてもおいしいものだ。そばも香りがあって旨ければ、水蕎麦の形式でもいけるに違いない。ところが他の麺類ではどうだろうか。素麺、冷麦、きしめん、うどん、はたまたラーメンとなると、おそらく汁(つゆ)がなければ食べられないのではなかろうか。とすると、蕎麦は五穀ではないが、自己主張できる素晴らしい穀物だということができる。蕎麦万歳!

2009年6月18日木曜日

水無月の信州探蕎は三店三人三様

木曽・時香忘、浅間温泉・玉之湯、安曇野・時遊庵あさかわ
 6月13,14日の土日は、かねてからの計画に沿って、信州への探蕎に出た。9名の参加だったが、直前になって7名に、久保車と和泉車に分乗、随分余裕のある旅となった。計画はすべて久保副会長によるもの、初日に訪れる「時香忘」には10時半必着とあって、白山市番匠の「和泉」を午前6時に出発する。久保車の先導で金沢西ICから高速道へ、北陸道から東海北陸道と進み、飛騨清見ICで下り、高山市街を抜け、国道3フォント サイズ61号線沿いの道の駅「飛騨たかね工房」では午前9時の開店を待って工房熟成の唐辛子調味料を仕入れ、後はひたすら木曽街道を一路目的地へ、前回は開田高原で秀麗な御岳を眺めていて不覚をとったが、この日は生憎の雲り空で山は拝めず、お陰で開店の10時半前に着けた。
一、ZCOBO 時香忘(じこぼう) (店主:高田 典和)
 昨年秋に訪れた時は僅か5分位の遅れだったのに、沢山のバイクと車、入ると店内は3席が空いているだけ、結果としては2順目まで待つことになった。しかし今回は広い駐車場に車の陰はなく、一番乗り。入り口にはまだ木のバーがかかっている。奥さんが竹箒で周りを掃いておられ、もう少し待って下さいと言われる。何故か私に蜜蜂が寄ってくる。コニャックの香りのせいだろうか。集合写真を撮っていただく。横を流れる清流からはカジカの鳴き声が、うるさい程だ。そして開店の10時半少し前にバーが外され、木道の回廊を進む。周りには朴の木が沢山植生されていて、緑の大葉が瑞々しい。70米ばかり進むと玄関に着く。主人がお出でて、好きなテーブルにと言われ、窓際の6人掛けテーブルに5人、隣の4人掛けテーブルに2人掛ける。他に客はいない。注文は初めに「夜明け」7枚、次いで予約の「野点」、5人分とかだが7枚にしてもらう。蕎麦前には木曽の「七笑」をお願いする。主人の高田さんが、まだ他に客がおいでないこともあって、テーブルの側に来られ、お話を始められた。これは予期せぬこと、望外の喜びだった。次の客が入ってきて話しは終ったが、やがて30分近く話されたのではないか。
 高田さんは名古屋の出身、50代前半。事業をされていたが、人生の後半、何か振り返ってよかったというようなことをしたいと、それも未知の場所で、ゼロから挑戦ということで、6年前にこの地でそば屋を始めることに。店の名前の由来を聞いたところ、先ず此処へ来た方が、この山の森の中で、流れる沢の水音を聴きながら朴の林に身を置くことによって、都会の喧騒を忘れて頂き、林の中の木道の回廊を、大きな朴の葉の間から見える方形の池を見ながらそぞろ歩くことによって、時を忘れて頂こうと。そして漸く辿り着いた先では、吹き抜けの素晴らしい空間で、ガラス越しに見える森を眺めながら、香り高いそばをゆったりと食べて頂こうとの願いを込めて命名したのだと。また英字のZCOBOのZはJではないかと言われるが、私はZにこだわるのだと。何故ならZはzeroのZ、ゼロから出発したから。そしてアルファベットの最後はZ、究極の目的を求めるからZだと言われた。これだけでも半端じゃない。
 また高田さんは「そばの原点」ということを何度も口にされた。それは年老いた田舎の婆ちゃんが古い石臼で挽いている蕎麦は、石臼の目立ても古くなってきれいに細かくならないが、でもこの粗挽きともいえるそばが本物ではないかと。だから私のそばは粗挽きなのだと。粗挽きよりもっと進化したのが石臼を使わず実を石で割った「石割り」であり、究極は丸抜きを潰してつくる「野点」だと。だから此処の「そば」は噛んで味わって食べてほしいと。細かく挽いたそばは、打つときに香りも味もとんでしまうと仰る。とにかくお客様に美味しいそばを出す、それには美味しいそばに仕上げる、これが信念だと。
 一方で、いろんなそばに挑戦しているとも。「雪解け」は雪解け後に大地から新芽が躍り出るイメージで、フキノトウを入れて打つことにしているとも。またマスタードとかガーリックソースを使ったそばにも挑戦したいとも。いつか京都の「もうやん」で見たときは度肝を抜かれたが、結構若い世代には気に入られているようだが、土台のそばがしっかりしていないと中途半端なものになりかねないが、その点高田さんなら次元が違う。
 「石割り」や「野点」はつなぎがないと打ちにくい。極粗挽きのそばのつなぎを求め、高田さんは飯山市富倉にまで出かけ、オヤマボクチを知り、独自の方法で葉脈のみを取り出し、これを極少量練り込むことにより、粗挽きそばだけでは出ない、喉越しやコシのよさを出せたという。粗挽きというとどちらかといえば喉越しが悪いが、その荒々しさがオヤマボクチを加えることにより、荒々しさはそのままに、滑らかさも相備わるようになったという。ただ自生するオヤマボクチは3年くらいでなくなる。というのはどうも連作障害があるようだという。需要が少ないときは採取するにしても場所を違えればよいが、需要が多くなると深刻になる。高田さんは代わりに十日町の「へぎそば」に使うフノリを使用してみたという。でも出来上がったそばを噛んだ感触は、オヤマボクチではスッと切れるのに、フノリの場合は弾力性があって切れにくく、高田さんの目指す究極の粗挽きそばにはそぐわなかったという。
 オヤマボクチは栽培しても連作できないことから収量は見込めず、新しい素材の開発に目を向けた。オヤマボクチはキク科の植物で、通称山ごぼうの一種である。(ヤマゴボウ科の植物とは別物)。そこで畑で栽培しているゴボウの葉を同様に処理してみたが、通常のゴボウでは葉が薄く、葉脈を十分量集めることができなかったものの、同じ効果が期待できた。そこで葉が厚くて葉脈がしっかりした品種を選び処理したところ、オヤマボクチに匹敵する収量が期待できたという。現在はこのゴボウを栽培し、10日ごとに20kgずつ葉を採取し、渓流で両面をきれいに洗い、5日間かけて処理して葉脈を採っているという。
 このようにオヤマボクチやゴボウの葉脈繊維を入れたそばは通常のものよりも硬く、したがってより時間をかけて打っているし、硬いこともあって切る包丁の寿命も半分だと仰る。また此処では「そばの三たて」は通じなくて、むしろ時間をかけることにより熟成ということも起きるという。また丸抜きの蕎麦を窒素ガスで急速冷凍すると、よりモチモチ感が増すことも経験できたと。玄蕎麦は信州産の信濃1号を使用しているとのこと。
 次の客が見え、高田さんは奥へ、。程なく「夜明け」が出た。田舎と水ごねの更科とを張り合わせ、夜明け前の漆黒の闇と夜明けの白々とした明るさを表現したという限定もの。昨秋よりもより切りが細い印象を受けたが、この方がより上等だ。立派な生山葵と鮫皮おろしが付いてくる。次いで「野点」、これもやはり細くなっている。見ると蕎麦の実の粒がしっかり見えている。やはりこれは噛んで味わうべきだろう。そして汁ではなく塩で頂く。塩は3種、広島の藻塩、アンデスのピンク色の岩塩、沖縄のぬちまーす。
 客が立て込んできて、失礼することに。精算のときに店主と奥さんが来られた。寺田会長は断わってツーショットをものにされたが、小生はおじけてそれはできなかった。

時香忘「夜明」
時香忘「野点」
 当初は夕方までに間があり、もう1軒と言っていたが、程よい腹加減なので止めにした。車は木曽谷から伊那谷に抜け、中央道を岡谷ICで下り、諏訪一ノ宮の諏訪大社の春宮へ、この前は秋宮だった。その後久保車の先導で美ヶ原高原へ、2千米近い高原は天気晴朗ならば一大パノラマが展開するのに生憎の梅雨空。ビーナスラインを北へ下り、美ヶ原温泉を経て浅間温泉の玉之湯に着く。午後4時少し前だった。
二、浅間温泉・ホテル玉之湯 (社長:山崎 良弘)
 このホテルを選定したのは、ここの館主がそばを打つからとか、昨年の美ヶ原温泉の宿もそばが縁だったが、あの時は満腹でどうにも入らず、随分残してしまった。男ばかり7名は3階の和室へ、12畳と6畳がセットになっている。時間が早かったこともあり、夕食は6時に、湯上りにビールといきたかったが、生憎と冷蔵庫の中は空、仕入れる必要があったようだ。「神の河」を持参していたので、氷と冷水を貰って喉を潤す。夕食は当初年寄りが多いからということでミニ会席になっていたが、ネットで見ると昼食のような感じ、事務局にお願いして通常のものにしてもらったが、少し残された方もいた。また食事は当初から「そば」となっており、昨年のこともあり心配したが、コシもあり喉越しもよい二八の細打ちでよい出来だった。ここの社長は信州産のそば粉で手打ちする「信州そば切りの店」を普及する信州そば産地表示推進協議会の事務局長をしている。このような制度は福井県が先進県で、県内ばかりでなく、県外にもこの制度を普及している。
 夕食が終った後、1階のふれあい広場車座でフラメンコの夕べがあるという。こんな温泉場でのショーなどと高を括っていたが、中々の出来に引き込まれ、最後まで見てしまった。フラメンコギターを弾いた若者は大変上手で、初めから終いまで主役となり脇役となって場を盛り上げた。歌・踊りもさることながら、ソンブレロを冠った一見メキシコ人と思しき人が現れ、その人の仕草は現地の人そのもの、スペイン語と日本語を自在に操る器用さには驚いた。するともっと驚いたことに、そこへ女将が登場して、実はこの人は私の主人ですと?、こんな外人と一緒になってどうするのかとマジに心配したが、実はその人は社長の良弘さんだった。まんまと騙された。二人の間には三男二女がいるという。旦那は大学ではスペイン語専攻、メキシコでの留学経験もあるという。メキシコでそばを打ち、高じてメキシコで蕎麦を蒔き、収穫して、それを打つという。30年近く前に、明治18年創業の老舗旅館へ来た経緯は知らないが、何か縁があったのだろう。ひょうきんさを持ち合わせた御仁だが、確たる信念を持った方だ。またメキシコやスペインへそばの普及に出かけるという。
 翌朝、女将の見送りを受けた。一緒に集合写真を撮る。旦那はと聞くと、そばを打っていますとのこと。昼に出すそばなのだろうか。
 浅間温泉を後にして一路西へ、山麓から山中へ。行き着いた先は栗尾山満願寺、真言宗豊山派の名刹である。駐車場から本堂までは約50米の登り、途中の仁王門の山号には「救療山」とあった。下がって山麓を北へ、穂高有明にある「時遊庵あさかわ」へ向かう。11時前に着いた。開店は11時半、ゆっくり待つことに。
三、そば処時遊庵あさかわ (店主:淺川 政昭)
 浅川さんは25年間、土地開発の会社に勤務していたという。山岳写真家・田渕行男の失われてゆく安曇野の憂いに共感し、先ずは安曇野の敷地にギャラリー喫茶を開き、地域づくり運動を始めた。しかし景観の保護というのは実に難しいことに気付く。「あさかわだより」によれば、人の心が荒ぶのは自然の生命力に素直に感動できる目と心がなくなってしまったからだと思ったと。そして自分が出来ることは何だろうと考えつつ山を散策していたときに、川辺に咲いていた山紫陽花に心を打たれ、安曇野をこの花で彩ろうと、平成3年春から苗木を育て始めたと。親が開いた1200坪の土地に、太陽の光、風の匂い、野の花、雑木に出会える小道を設え、そこに「あさかわ」を開いたのが11年前、店は廃材を利用、庭には廃線の枕木350本を敷き詰め、桜、梅、楓、桂、山葡萄、あけびを植えた。根元には安曇野の草花や山紫陽花を植えた。開いた畑地には、菜の花、春そば、秋そばが植えられ、花を咲かせる。今では県内県外の多くの人達の協力で、蒐集した山紫陽花の品種は113種にもなり、株数は1千株にもなった。
 私達が着いた時にはもう数台の車が、30分以上待たねばならないのにである。入り口にある予約表を見ると、久保さん8名がトップに書いてある。予約したものだから、あちらで先に書かれたのではとは久保さんの弁。奥に小さなギャラリーがあり、そこには鉢植えの山紫陽花が数株置かれている。楊貴妃というのもある。見ると、「お客様へ お待ちして頂いている間、安曇野の原風景、森林浴を当店の『時遊庭ーふれあいの小径』でお楽しみ下さい」とある。一歩庭へ踏み出すと、そこは里山の雑木林の風情、開いた畑地には春そばが真っ白な花をつけている。山紫陽花も其処此処に咲いている。なんと素晴らしい自然空間なのだろう。でもこれは千坪もの土地があればこそ出来ること、並みの人がそば屋を開業しようとしても、こうはゆかない。
時遊庵「ざる」
 時間になって中へ入る。4人掛けのテーブルに4人と3人に分けて掛ける。注文は「わさびの花芽ざる」と「天ぷら」の単品。蕎麦前は大雪渓の冷酒。サービスに野菜の煮物も出た。ここでは「花芽ざる」の場合、「わさびの花芽おひたし」と「ざる」に汁が別々に登場する。だから別々に注文しても結果としては同じになる仕掛け。ざるは細打ちの二八、コシもあり喉越しもよい。使っている塗りの器も猪口もギャラリー時代からの仲間が作ってくれたものという。安曇野を愛する仲間との縁の賜物だと。客が次から次へと訪れる。中々の人気店だ。外へ出ると、車が20台以上止まっている。県外ナンバーもある。また訪れたい店だ。
 帰りに大町市立の山岳博物館に寄る。ここは高台にあり、天気が好ければ、餓鬼岳から白馬岳まで一望できるのに、生憎のガスで山は見えていない。充実した二日を過ごすことができた。

2009年6月15日月曜日

白山にライチョウー65年ぶりに確認

 6月5日夕方のNHK金沢のテレビニュースで、白山でライチョウが確認されたとの情報を流していた。びっくりすると同時にヤッパリとも思った。というのは12年前に家内と平瀬から7月半ばに登山した際、大倉尾根から室堂平に入って最初の雪渓に出くわす辺りで、私達が通りかかったからか、鶏大の鳥が凹地の上手に向かって低く羽ばたいて飛び去るのを目撃したからである。室堂へ着いてからカクカクシカジカと職員に話したが、幻だとか、カラスだったのではとか、大きさの誤認だとかで一笑に付されてしまった。特にあそこの主とも言えるオバハンからは、白山に居ないものを見たというのは夢でも見てたのではと、けんもほろろに一蹴されてしまった。カメラは持っていたものの一瞬のできごと、眺めているだけで何もできなかったが、冷静に対処できていれば何かモノを言えたのにと臍を噛んだ。独りならまだしも、家内も目撃していたのにである。場所は2400mを超えているハイマツ帯である。
 今回の通報は5月26日に目撃したという登山者からのもので、通報先が県の白山自然保護センターというのも幸いしたように思う。6月1日に情報が寄せられ、翌2日に同センターの上馬次長(金沢大学在学時にはワンゲル部に所属、白山には詳しい)が、目撃情報があった付近で雌の成鳥1羽を確認したという。ライチョウは餌となるガンコウランとコケモモの芽や葉をついばみ、30分後に飛び去ったという。この情報は環境省と石川県から「世界環境デー」の6月5日に発表された。当日の夕刊に記事はなかったが、翌日の朝刊には、地元の北國新聞には1面トップで「白山にライチョウ」、「雌1羽66年ぶり目撃」「豊かな自然裏付け」「北アルプスから移動?」の見出しが踊った。また朝日新聞でも1面に「白山にライチョウ」「雌1羽、65年ぶり確認」と、いずれの新聞も写真付きで報道された。金沢大学山岳会(KUAC)ネットでも、畏友佐久間君が6月6日に〔KUAC:1692〕で、「白山にライチョウ」、〔KUAC:1694〕では「ライチョウ」の一文を載せている。
 さて、今回の白山でのライチョウの目撃は、地元の北國新聞では66年ぶりと報じた。その根拠は、白山麓では昭和18(1943)年以降は目撃情報がないことによっていて、白山では絶滅したとされていることによる。朝日新聞では65年ぶりとあったが、これは県内では昭和20(1945)年頃から目撃情報が途絶え、石川県では絶滅種に指定したとの根拠によっている。また〔KUAC:1692}では、白山では1930(昭和5)年以降絶滅したとされてきたとある。またこれは誤認と思われるが、上杉喜寿が著した「白山」(1986)の中では、昭和30(1955)年7月に白山が国定公園に指定された折、日本野鳥の会の一行が白山の鳥類の調査を行った際、55種を確認したが、標高1700mから2700mの頂上付近までに21種を確認し、この中にライチョウも含まれていたとの記述があり、この時の踏査コースは市ノ瀬から入山し中宮温泉へ下山していて、全行程45kmとある。でもこれは明らかに間違いで、引用した原典は不明だが、ミスか勘違いである。私が知っているのは、石川県が昭和23(1948)年に鳥の中西、植物の本田、動物の岸田、昆虫の名和とその道の権威に委嘱して白山の動植物の調査を行った折に、ガスに煙った室堂平でライチョウの鳴き声を聴いたとの中西悟堂の記載が白山でのライチョウの公式記録の最後である。県の資料では目視ではないので(〇)となっていた。それでも61年ぶりということになる。
 ライチョウは「氷河期の遺留動物」といわれ、日本では本州中部の高山帯にだけ生息する。ライチョウの棲む場所としては南アルプスが世界最南端となっていて、昭和30(1955)年には国の特別天然記念物に指定されている。また環境省が絶滅の恐れのある野生動物を指定するレッドデータブックリストでは、絶滅の危険が増大している絶滅危惧Ⅱ類とされている。現在ライチョウは、北アルプス、南アルプス、乗鞍岳、御岳にしか生息していないとされるが、生息域については、日本野鳥の会編集の「日本の野鳥」〔1982〕では、本州中部の日本アルプス、白山、新潟県の焼山及び火打山に留鳥として分布するが、近年白山では記録されていないと記載されている。また日本野鳥の会会員の真木広造と大西敏一による「日本の野鳥590」(2000)では、留鳥として南北両アルプスと新潟県の火打山及び焼山の高山ハイマツ帯やそれに続く高原植物の草原に生息し、冬は亜高山帯へ移動するとある。日本での生息数は昭和59(1984)年の信州大学の調査では約3千羽と推定されているが、その後の登山ブームや地球温暖化の進行で高山植物の生育環境が悪化し、約2千羽にまで減少したのではとの指摘もある。また〔KUAC:1964〕では、最近の調査によると、南アルプス白根三山周辺では20年前の40%にまで減少しているとのこと。更に平均気温の1℃上昇で90%、2℃上昇で61%、3℃上昇で28%に減少するとされ、将来は白馬、槍、穂高の3集団のみになると推定されるとも。というのは、3℃上昇すると、植生垂直分布が400m上昇し、餌となるハオマツ帯が現在の2500mから3000m近くまで上がり、そうするとライチョウはほとんどが姿を消してしまうことになるとしている。
 ところで何故白山でライチョウが見つかったのだろうか。石川県の自然保護課では、厳冬期に1500m前後の高い山々を飛び継いで移動しながら白山まで来たのではないかと分析しているという。もっとも確認されたのは雌1羽で雄とのつがいは確認されておらず、白山に棲みついて生息している可能性は低いとされる。移動の根拠は、ライチョウの最大移動距離が約35kmとされることによるらしいが、これは本当に本土に棲むライチョウの記録なのだろうか。立山では容易にライチョウに会えるし、春先の縄張り争いでは飛ぶライチョウの姿も目撃されるが、あの体躯で長時間飛行できるとは考えにくい。というのはライチョウが飛ぶときには翼を激しく羽ば立たせてからでないと飛べず、しかも平地では滑翔するのであって、他の鳥のように急に高くに飛び上がれるとは思えない。
 とは言え白山で見つかったライチョウが長距離を移動してきたとして、元の生息域は何処なのだろうか。報道ではライチョウは標高2400m以上に生息するから、白山から最も近い生息域は、立山連峰の南に位置する北ノ俣岳(2661)と笠ヶ岳(2898)で75km離れているとしている。そうならば乗鞍岳(3026)や御岳(3067)もほぼ同じ距離である。でも留鳥であるライチョウが、渡り鳥のような帰巣性もないのに、天敵もいように、どうして75kmも西進したのだろうか。それに白山に辿り着くまでには神通川と庄川という二つの河川を横断しなければならない。報道されたように、冬に1500m前後の山岳を移動しながらとなると、ずっと移動距離も長くなり、困難を伴うのではなかろうか。低山での給餌も問題である。また県はライチョウが移動してきたのは、白山には豊かな自然が維持されていることを裏付けたものだと自画自賛しているが、ライチョウにそのような本能があるのだろうか。
 ライチョウの生態については、日本野鳥の会偏の「日本の野鳥」では、「雌雄または雛を連れた家族群で生活し、秋から冬は群れで生活している。草の種子や芽、昆虫等を地上でとるが、ハイマツの上や木の下枝に止まることもある。春にはナワバリを見張るため、雄はケルンや岩、木の上によく止まる。冬は雪に穴を掘って眠る。」とある。とすると、縄張り争いに敗れた雄が長躯白山へ新天地を求めて飛来したというなら話は別だが、見つかったのは雌の成鳥で、この鳥が長距離を移動してきたとは考えにくい。では生息していたのかとなると確証はないが、将来雄や雛が見つかれば難問は解決する。〔KUAC:1962〕では、学者によると、白山ではハイマツ等の植生からみて、70羽程度の生息は可能としている。ところで、第一発見者が5月26日に目撃した場所の付近で再度確認できたということは、テリトリーが出来ているような印象を受ける。環境省は今回の具体的な発見場所は非公表としているので分からないが、写真からは雪渓跡の砂礫地と思われ、私達が以前に遭遇した場所と相似している。御前峰東方の台地ならば、ライチョウにとっても棲みやすい場所なのではなかろうか。とは言え〔KUAC: 1694〕によれば、寿命は雄で11年、雌で8年、60年以上生息していたとすると、そこそこの個体数がいなければならないことになるが、そうなると半世紀もの間、全く人目につかずに生き長らえられたのかという疑問も残る。でも御前峰東面台地は登山客が簡単に入り込める場所でないうえ、豊富な深いハイマツ帯と草原帯がある。石川県では、「ライチョウ発見で多くの人が白山に関心を持ってくれるのは嬉しいが、登山道を離れて探すようなことはしないでほしい」としている。また環境省も「もし見つけても静かに見守ってほしい」と呼びかけている。
 ライチョウといえば富山県の県鳥で、立山はライチョウのまとまった生息地として知られている。だが、かつては白山にも生息していて、ライチョウとヒトとの交流の歴史を辿ると、古くは雷鳥というと白山の神鳥として有名だったという。以下に北國新聞社編の「霊峰白山」(2004)から抜粋して紹介する。
 白山の雷鳥が登場する最古の文献としては、正治2(1200)年の歌集「夫木抄(ふぼくしょう)」が知られる。「白山の松の木陰にかくろいて やすらにすめるらいの鳥かな」、これは後鳥羽上皇が詠まれた歌である。このように白山の雷鳥が当時の都に知られていたのは、白山に登った修験者が珍しい存在として語り広めたからと思われ、歌に詠まれたばかりでなく、説話をもとに絵としても描かれている。江戸期に入ると、加賀藩五代藩主前田綱紀が白山の雷鳥の生態調査を行ったというが、これは野鳥保護の先駆けともいうべき試みだったと評されている。また江戸期の白山紀行文には、「越の白山に雷鳥あるといふ その形雉に似たり 人まれに見るといへり」、「雷鳥は実に霊鳥にて 神の御使なる事知るべし」、といった記述もみられるという。雷鳥の資料を収集している金沢市在住の八木史郎さんは、雷鳥が神格化された理由をこう説明している。「白山でも2千米以上に生息していた雷鳥は、天に最も近い鳥であって、平地で見られる鳥とは棲む世界が違っていて、山岳修行者は高山でも生きる気高い姿を神の使いとして受け止めたに違いない」と。また八木さんによると、神鳥としての雷鳥は、雷除けや魔除けになるという信仰もあって、その羽が売買されたという記録もあるという。
 〔KUAC:1694〕では、「奈良時代より白山信仰の盛んな頃はライチョウの宝庫だった」とある。とはいっても、白山は独立峰であり、棲息するのに適した縄張りの数も限られることから、ライチョウの宝庫とはいっても必ずしも適した環境ではなく、どちらかといえば個体数の維持が難しいと言えるのではないか。江戸時代に加賀の前田の殿様が行った白山のライチョウの生態調査はどうだったのだろうか。前述の白山紀行文にもあるように、稀にしか遭遇しなかったのではと思う。加えて白山にはライチョウの天敵と目されるイヌワシやオコジョもいる。この鳥の習性として、天候のよいときは天敵を恐れて出歩かないとも言われるほどである。
 白山のライチョウに関しては、少なくとも戦後、その生態に関する正確な記録は皆無である。ある人は白山のライチョウが絶滅に向かったのは明治後期から大正時代にかけてではなかろうかと言っている。もっとも絶滅の原因は謎といってよい。〔KUAC:1694〕では、「主に人の捕食で絶滅したと考えられている」としている。ライチョウは植物の種子や芽、それに昆虫を食しているから、その肉はきっと美味だろう。だからその気になれば容易に捕獲できようし、個体数もそれ程多くなければ、簡単に絶滅に追いやられたと思われる。このような人為的な乱獲のほかにも、天敵の存在や感染症の蔓延による絶滅も指摘されてはいるものの、これといった決め手はなく、やはり絶滅の原因はナゾに包まれたままである。
 この度、白山でライチョウが目撃されたことは、大きな反響を呼んだ。そっと見守るのも必要かも知れないが、専門家による詳しい調査での実態の解明が待たれる。
 〔付記〕白山市の白山ヒメ神社の宝物殿には、白山にいたライチョウの剥製が保管されている。また長野県大町市の大町山岳博物館には、ライチョウの生態や孵化から成鳥になるまでの各ステージの雌雄別の成長や季節による換羽の状態が沢山の剥製の個体で展示されている。よくあれだけの数を蒐集できたものだと感心する。実に貴重な財産である。