2012年7月31日火曜日

私の毎日の処し方(2)平成24年7月から

勤務がなくなって家内が真っ先に心配したことは、私がアルコール類が好きなので、昼間から酒類を口にするのではないかということであった。それでどこかカルチャーセンターへ出かけて何かするのがベターだと口酸っぱく言うので、じゃ英会話とフランス語をやろうということにした。家内は善は急げとばかり、早速パンフレットを取り寄せてくれた。当初は陶芸を勧めてくれていた。事実私の先輩や後輩で、凝りに凝って自宅に窯まで造り、素晴らしい作品を作っている御仁も知っているが、敢えて私は知的なことに興味を示した。英会話については、今もって全く対応できないというのが本音で、先ず相手が何を言っているのかが分からないので、それを何とか解決したかった、昔の英語教育の弊害で、読めても、聞き取れない、喋れないという始末、それで一から出直そうと思ったのである。またフランス語は、シャンソンを原語で歌いたくて、2年ばかりラジオのフランス語講座にかじりついたことがあり、今一度と思ったわけである。それで実際にセンターへ出向いて話を聞いてみた。英語は初級から難度の高い実務レベルまであり、どのレベルにするかは面接の際に決めるとかだった。フランス語は、地元では初級のみで、一度聴講に来てみて下さいとのことだった。それでその時の腹積もりでは、フランス語の方は地元野々市で、英会話は金沢でということにしていた。ただ危惧したのは、これらの講習は週1回のみなので、これで効果が出るのだろうかということだった。もっとも受講しないで危惧ばかりするのは愚の骨頂なのかも知れないが、でも当初は本気で受講しようと思っていた。しかし今は外回りの仕事や内の片付けなどで、受講を見合わせている。ちなみに受講料は1回1時間あたり2千円、3ヵ月分前納である。
 ところで、毎年家の庭には庭師が剪定に入るが、例年は大概1日4人で3日間入るのが常であった。しかし費用は馬鹿にならず、家内は夫は年金生活に入るので、剪定に入るのは延べで例年の半分の6人にしてくれませんかと頼んだという。私も剪定するのは庭木だけにしてもらおうと思っていたし、今年以降は剪定もこちらでお願いした庭木のみにしてもらおうという腹積もりもあって、来るのなら私が勤務を辞めて家に居る7月以降にして下さいとお願いした。しかし昨年の秋以降、庭掃除をしていないので、植木屋が来る前に、なんとか掃除くらいはしておかねばと思った。それで当面、この時期は暑いので、とにかく午前中のみ庭へ出ることにして、1日の処し方の計画を立てた。
 7月以降は出勤はないので、私の起床は午前4時とした。これまでと同じノルマをこなすとすると、5時10分には終えることができる。7月になって、家内は何を思ったのか、朝30分程散歩すると言い出した。ではと5時30分に家を出て、金沢工業大学(工大)を周回する3kmのコースを一緒に歩くことにした。6時過ぎに帰宅し、彼女はシャワーをし、その後朝食の用意と弁当を作ったりし、彼女のお勤めを終えると、約1時間が経過する。その後朝の連続テレビ小説2本を観ると7時45分、彼女は8時からのテレビ小説をもう一度観て出勤する。その後私は後片付けをして、朝の30分では歩き足りないので、あと4km歩く。8時20分に家を出たとして帰宅は9時過ぎ、それから約2時間程度庭の掃除をする。昼近くに上がって、シャワーをして、ビールを飲んで食事を済ますと1時半くらいになる。この後、家内が帰る6時半までの5時間が私の時間だが、今は家の中の整理整頓で時間が費やされてしまう。この間、植木屋さんが来ていた1日半と、竹薮の枯れた孟宗竹と矢竹の整理の2日間は、朝から晩までの外仕事だった。
 職を辞してから約1ヵ月、いろいろ試みてきたが、朝のスタイルは定着しつつある。というのは、陽が上がると、この時節じっとしていても汗をかくので、家内が出勤してから再び歩くのは苦痛だし、またその後庭へ出て外仕事をするのはもっと苦痛なので、歩くのは、先祖の命日は5時半に、その他の日は5時〜5時半の間に歩き出し、家内は4km、私は6km歩くことにした。これだと家から金沢赤十字病院(日赤)までは家内と一緒に歩き、家内はここから県道沿いに家へ帰る周回コース、私は山側環状道路(山環)までの往復コースとなる。この案は定着しそうである。すると家内が勤務に出た後は、私は全くのフリータイムとなるが、ここしばらくは家の整理に精を出そうと思っている。
 

2012年7月30日月曜日

子供たちによる私の退職慰労の会

私達の長男夫婦は現在横浜市に住んでいるが、正月と旧盆にはいわゆる里帰りで野々市と押水の実家に帰って来る。ところで今年の正月には帰ってきたが、旧盆には仕事の都合で帰られないと話していた。ところが都合がついて、7月の28日に来て、30日に帰るという伝言が家内からあった。ただ長男の娘たち二人は、それぞれ大学と高校の受験対応で来られなくて、本人のみの里帰りとのことだった。その後野々市に帰るのは27日と1日繰り上がったとのこと、私にとっては特段どうということはなく、聞き流していた。その後その理由というのが、私の退職慰労の会をするのを、次男夫婦が企画していて、それに参加するために長男が出て来ると聞いた。私としては全く念頭になかったこと、でも大変嬉しく、喜んで受けることにした。
 しかし何時、何処でするのか、誰が出席するのか、そんなことは一切知らされてなく、ミステリーだった。その後開催日は7月29日の日曜日ということ、長男の娘たち2人と母親は来られないけれど、二男夫婦と息子と娘、故三男の細君と二人の息子も一緒だと聞いた。ただ場所と時間は知らされず、その後、家まで送迎のバスが当日の午後6時頃に来るので、皆さん野々市の実家に集合して一緒に出かけることまで判明した。
 さて当日、日中は大変暑い日だった。テレビや新聞の報道では、日本はまだ金メダルは0個、当初の金確実の種目でも、日本は苦戦を強いられていると。そんな中、長男は娘たちのために、「片目あき達磨」を求めに福井まで遠征するとか、でも後での連絡では、金沢で求められたとかだった。ことがことだけに、あって良かった.また二男夫婦は、長男は少年野球、長女は内灘権現森海岸での地引き網漁、充実した1日だったらしい。それでその収穫を持参しての訪問となった。初めての地引き網漁が素晴らしかったことを話してくれた。そして収穫の小アジとキス十数尾、それに本人はワカメだという海草、取りあえず鱗をひき、鰓と腸をとって下拵えをした。6時近くで慌ただしかった。
 迎えのバスが来て乗り込む。迎えのマイクロバスの胴には菜香楼のネーム、今晩の会は中華料理だということが分かる。場所は西念というから駅西方面、次男の勤務先の守備範囲内なのだろう。程なく着いた。訊くと銀行ではよく利用しているようだ。
 入り口には招龍亭とある。なかなか瀟洒な建物、初めてである。雰囲気がよい。一行は大人6人、小人4人、13人入る大きな円形の卓がある間、これだと大きな盛りから取り分けることは不可能だ。どうするのだろう。飲み物は個々に、乾杯は生ビールなどを、子供らも個々に頼んでいるが、大人よりよく何でも知っている。というよりは、私がそんなことに疎いのだろう。知らない飲み物もある。
 次男が口上を述べ、初めに長男が挨拶する。私は神妙に聞く。私が石川県衛生研究所に就職したのが昭和35年(1960)、36年間在職して平成8年(1996)に退職、そして同年(財)石川県予防医学協会に再就職、16年勤務して平成24年(2012)6月末日に漸く退職した。この間52年3ヵ月、現在75歳、これまでの人生の3分の2を勤め上げたことになる。思えば長かった。飲み物が出てきて、次男の指名で故三男の長男がねぎらいの言葉をかけてくれて、乾杯の音頭をとってくれる。しばらくして音曲が聴こえてきた。子供たちが見に行く。すると誰でも聴けるとかで、私も興味があり中座して見に行く。でも丁度終わるところだった。訊くと揚子江の揚の字と琴と書く「揚琴」とか、初めて見る楽器、箱型で多数の琴線が張られていて、それを木琴やマリンバを叩くような、先に玉のついた棒で叩くと独特な音が出る。不思議な楽器だ。
 部屋へ戻る。紹興酒を1本貰い、ロックにして飲む。こんな飲み方は初めてだ。料理が順に出てくる。料理は大人3人に一皿、子供ら4人に一皿、それを取り分ける。子供らも上手に取り分けるのを見て驚く。飲みかつ話し、時間はあっという間に過ぎ、デザートも出て最終コーナー、私が指名され皆さんにお礼を述べ、私の来し方とこれからを話した。当面の予定なのは、8月3日から4日間の家内との九州と山陽の旅、そして旧盆過ぎの白山美濃禅定道の石徹白への下りで、これはぜひ成就したい。時間が来てお開きになった。これでお終いかと思ったら、UTSUROIという小さなアルバムを渡された。それには息子夫婦たちや孫たちからのメッセージが入ったいた。これは思い出に「子供たちからのメッセージ」として転載しよう。そして最後に大きな花束を贈呈された。感謝感激だった。楽しい思い出の一時をありがとう。

「子供たちからのメッセージ」
1.木村豊明(長男)の家族より 『お父さんへ  退職おめでとうございます  これからは いろいろな趣味にチャレンジしてください   豊明』 『長い間 お仕事お疲れ様でした  これからは趣味などで 楽しんでください  敏美』 『おじいちゃんへ  今までお疲れさまでした これからも ずっと 元気でいてね  汐里』 『おじいちゃんへ  お仕事お疲れ様でした これからは のんびりと過ごしてください  香奈』
2.木村朋伸(次男)の家族より 『お父さんへ  本当に長い間 お疲れ様でした これからは体に気をつけて お母さんと2人で楽しく過ごして下さいね 私もお酒を飲んだり 山へ登ったりすることを 心から楽しみにしています  朋伸』 『おとうさん  長い間 本当にお疲れ様でした 先日 おかあさんに お弁当に対する感謝の意を表されたことに とても感動しました 私たちもおとうさんたちのように 素晴らしい夫婦になれるよう 頑張ります  倫子』 『お仕事お疲れ様でした ぼくもこれから勉強と野球をがんばるので おじいちゃんも元気でいてください  太一』 『おじいちゃんへ  おしごとおつかれさま 今日からゆっくり休んでください  優希』
3.木村誠孝(三男)の家族より 『お父さんへ  長い間 お仕事おつかれ様でした これからは 楽しい時間をいっぱい過ごして いつまでも元気でいて下さい  千晶』 『じいちゃんへ  長い間 お仕事おつかれさまでした 健康に気をつけて 長生きしてください  将太より』 『じいちゃんへ  長い間 お仕事おつかれ様でした これからもしっかりと休んで 健康に気をつけて 長生きして下さい  勇貴』
  




2012年7月27日金曜日

私の毎日の処し方 (1)平成24年6月まで

平成16年4月から平成24年6月までの8年3ヵ月の間、私は (財)石川県予防医学協会の (臨床)検査部顧問として勤務していた。この間、朝は7時頃には協会に着き、大概午後6時頃まで協会にいた。正規の勤務時間は午前8時30分から午後5時10分までである。もっとも部長から顧問になってからは、学童健診の蟯虫検査がある時以外は、特に課せられた義務的な実務はなく、蟯虫の鏡検以外は、言ってみれば気ままな私的なことをこなしていたに過ぎず、随分と優雅な勤務だったと言える。依頼された調査にしたって、ブログの記載にしたって、すべて協会の勤務時間中にこなしてきた。
 ここ1年のこれまでの1日を振り返ってみると、家にいるのは朝6時50分頃まで、帰宅は夕方の6時10分頃、行事があれば別だが、何もなければ、家に居るのは1日の半分強のみということになる。家に帰ってからは、その日の朝刊と夕刊を見て、家内は6時半から7時頃には帰って来るから、後はもう「飲み」だけという毎日だった。テレビを見ながら、駄弁りながら飲む。それで翌朝は午前3時起床なので、午後9時になると就寝と決めていた。家内は私の就寝以降は我が世の春、テレビは彼女の独占で、サスペンスものがあればそれに浸りっきり、私はキッタ・ハッタというのは性に会わないのに対し、彼女は最も得てとする分野なので、時として熱中すると翌日になることも。私が途中で起きて、彼女が眠っていると思いテレビを消すと、見ているという。正確には聴いているというべきか。とにかく彼女の場合、午後11時前の就寝というのは考えられない。夜人間と言うべきか。
 さて、午後9時就寝の私は6時間後の午前3時頃に目を覚ますことになる。これは1年を通じて、春夏秋冬変わらない。この時間に起きてからすることは、昨晩の食事の後片付け、大概は洗ってあるが、それを片づける。これに約10分位、洗いも入ると20分はかかる。それから、リビングには私の両親と私達の三男の遺影、別部屋には家内の両親の遺影が置いてあるので、新しい水を汲んで供え、私達一同のご加護とご教導をお願いし、十念を唱える。これに10分位要しようか。次いで神棚の宝珠に新鮮な水を汲み供え、5日に一度は榊の水を取り替える。神棚の神々に家内安全のお参りをし、なかんずく昨年からは大白山大明神大権現妙理大菩薩には白山全登山路踏破成就の願掛けをする。その後朝の体操をし、鰐のポーズのヨガをする。これにざっと15分を要する。
 次いで仏壇の華瓶(けびょう)の柾の水を新しいのに替え、新しくご飯を炊いたときは、仏飯器におぼくさんを供える。次いで平日ならば、仏壇の阿弥陀如来立像と両脇の半金色の善導大師と墨染めの法然上人、私の祖父母の量光院と壽光院、父母の真如院と清光院、私達の三男の西往院に一家の庇護を念じてお参りし、摩訶般若波羅蜜大明咒経を読経する。また同じお経を観世音菩薩にも読経して供える.これに10分強を要する。また木村家の過去帳には十一仏が載っているが、そのそれぞれの命日には浄土三部経の仏説無量寿経四誓偈、仏説観無量寿経第九真身観文、仏説阿弥陀経を読経して供養する。これには約25分かかる。すると、起きてからここまで約70分程度かかり、4時10分がここまでの目安となる。
 この時間、秋の彼岸から春の彼岸までは、まだ暗いので、歩きには光に照らされると発光する襷をかけての出発となる。今はコースは決まっていて、街灯がある道を選んでのコース取りである。このコースの詳細は以前にこのブログで記したが、大まかには県道の窪ー野々市線を窪二丁目の山側環状道路の交差点で折り返すコースで、距離にして約6km、時間にして約1時間である。夏場はこの時間帯には日の出は過ぎていて明るい。このウォーキングには、片足600gの底が丸いMBTというウォーキングシューズを履いて歩く。この靴は底が丸くて、じっと動かないで立つのは難しいという代物、Mはマサイ族、Bは裸足を、Tは覚えていないがトレーニングだろうか。好日山荘で勧められた代物である。歩くときはポールかステッキがあった方が安定する。400万歩歩くと摩耗するとかだった。このコースを歩いてくると1時間強かかるので、帰宅すると5時15分位、それから風呂で汗を流し、上がって前日の新聞をもう一度見て、切り抜きが必要な記事や写真を切り取ってスクラップする。すると6時近くになる。6時過ぎには食事をする。朝食の用意と弁当は家内がやってくれる。ニュースを見ながらの食事、その日1日の薬の配分もこの時行なう。後片付けを終えると6時半過ぎになる。それから出かける用意をして、6時50分頃には家を出る。
 ざっとこれが私の勤務していたときの、勤務日のタイムスケジュールである。

2012年7月18日水曜日

退職の日 平成24年6月30日

1.引っ越し
 3月1日付けで、6月末日をもって退職する旨の願いを提出した。本来ならば年度末の3月末日での退職なのだが、丁度年度初めに実施される学童等健診の蟯虫卵検査の体制がまだ整っていないこともあって、その応援に3ヵ月を要することからの変則的な退職願の提出となった。鏡検枚数は春の方が秋より多く、小学校、幼稚園、保育園(所)の児童、園児を中心に、私が鏡検する枚数はざっと10万枚で、鏡検が集中するのは4月半ばから6月半ばにかけてである。
 6月下旬になって鏡検も一段落し、引越しの準備にかかった。大部分は学術参考図書と学術雑誌と参考資料である。本の類いは重たいので、家でも整理に使っている、B5判が横に2列に入る外寸法が「39×28×22cm」のNo.3というダンボール箱を使った。ところで近年はA4判の雑誌や書籍も多くなり、これだと上記寸法が内寸法だと問題はないのだが、外寸法なので他の書籍との混載となった。こうして退職前日の29日までには36個のダンボール箱に荷物は納まった。残りはワープロと倒立顕微鏡で、これは業者の方にお願いすることにした。
 委託する業者は家内に任せておいたが、取扱いが丁寧との評判でサカイに頼んだようだが、生憎30日の土曜は空きがなく、アート引越センターへの委託となった。費用の見積もりは31,500円とか、もっとかかるかと思ったが意外だった。箱には本がぎっしり入っていて重たいですと話すと、当日は屈強の者を寄越すのでご心配なくとのこと、お任せした。
 ところで当日、現れたのは若い美女3人、男とばかり思い込んでいたので大丈夫かなと心配した。車は協会の計らいで裏口に引越トラックをつけることができ、スムースに積み込みができた。ところで驚いたことに、彼女らは本の入った重たい箱を2個ずつ抱えて運ぶではないか、とても私にはできない相談だ。トータル38個の荷物はまたたく間に車に積み込まれてしまった。この程度の引越しなど朝飯前という印象だった。その後私が先導して、通い慣れた通勤路を家へ、シンダチという旧館のおえの間に運び込んでもらう。当初の予定では引越しは10時から11時、ぴったり1時間で引越しは終了した。
2。送別会
 辞める3日前から協会の幹部の方達へ退職の挨拶に回った。県の場合だと、退職前日に退職辞令が出るので、それを持って関係先へ回るのが通例であるが、協会ではそのような例はないようで、時間を見計らって回ったものの、特に外勤の方にはお目にかかれず終いになった方もあった。
 6月30日の送別会の会場は近江町会館2階の「市の蔵」という大衆割烹、時間は7時半からとのこと、7時に着くように出かけた。この日はどういう方が出席されるのかは全く知らされてなく、挨拶回りで会に出席しますと言われて、有難うございますとお礼を言ったものの、当然会えなかった人の消息は分からない。30分前だとまだ数人しか来ていないようだったが、予防医学協会の方だったらどうぞと言われて中へ入る。入って初めて今日の出席者が私も含めて46名だということが分かった。理事長以下役員の方々、医局の先生方、各部門のマネージャー、サブマネージャー、リーダーの諸氏、そして私が所属する臨床検査部の方達、部屋は計ったように丁度一杯だった。
 会は定時に始まった。冒頭、臨床検査部部門長の小松原MGから、私が溶血を指標とした腸管出血性/ベロ毒素産生性大腸菌の検出に関して、2000年1月の予防医学技術研究集会での研究発表に対して、予防医学事業中央会学術賞(児玉賞)が授与されたこと、また同年3月に日本臨床微生物学雑誌に登載された論文に対して、日本臨床微生物学会学術奨励賞が授与されたことが紹介された。あの頃は日本感染症学雑誌や国立感染症研究所のジャーナルにもよく投稿したものだ。次いで理事長からも過分なお褒めの言葉を頂戴した。
 さて宴会が始まり、当初は出席した皆さん方にお酌をして回ろうと目論んでいたのだが、初めは個人がオーダーする仕組みのせいもあって回れず終い、その後ビールが大きなピッチャーに入ってきたが、これも持って回るには大きすぎて敬遠、したがって私と同じテーブルの人達にしか注ぐことは出来なかった。松崎理事長、中村先生、小山先生、田畑先生、鰺坂先生、金地事務局長、佐々木さん、前野さん、竹中さんなどである。宴もたけなわとなって、お酒の小さな徳利が出回るようになって、私も少々酩酊してきた。たまたま私の真ん前に座っていた佐々木さんが中座されると、別のテーブルの方が酌に来られ、場所は彼らに占拠され、彼女は席へ戻れなくなってしまった。こんな事態になることは想定していなくて、これは痛恨の極み、しかも注ぎに来られて受けないのは本意でないことから、つい過ごしてしまった。相手変われど主変わらずの集中砲火、カミさんには口酸っぱく言われていて、気を付けなければと思いつつも、ついつい過ごしてしまった。後は記憶が定かでなく、タクシーでの帰宅時でも、旧北國街道の東野々市バス停の真ん前に自宅があるのだが、ルートが違っていて、しかも辺りが暗いのと酩酊とで、自力帰宅は困難、この期に及んでまたもカミさんの手を煩わせてしまった。皆さんにちゃんと挨拶できたのかとカミさんに問われても返事できない始末、お目玉をくっても仕方がない。
 翌朝、金地事務局長には早速お詫びの電話をしたが、かえって労いの言葉をかけて貰い恐縮した。彼と私とは協会へ入ったのが同期である。もっとも彼は大学出でフレッシュそのもの、旭日の勢いだったのに対し、私は県を辞しての再就職とあって、落日の様相、上りと下りの違いはあった。ところで、送別会で他のテーブルには何方がおいでたかも分からず、月曜に幹事をしてくれた小川リーダーから出席者のリストをFAXで頂き、後日、御礼の気持ちをしたためた下記の文章を皆さんにお送りした。
3.御礼文(縦書き・墨書)
 私こと(下段記載) この度 平成二十四年六月末日をもちまして 十六年三ヶ月に及ぶ (財)石川県予防医学協会の職を辞することになりました 最終日にあたります 六月三十日には 私のために心のこもった送別会を開いていただき 厚く御礼申し上げます 本来ならば 皆様方お一人ずつに御礼を申し述べねばなりませぬところ それがかなわず失礼してしまいました 今後も健診等でお世話になると思いますが 何卒宜しくお願いいたします これからも 協会が益々ご繁栄されご発展されんことを また皆様のご健勝とご多幸を 心からお祈りしております
 平成二十四年七月吉日
4.出席者リスト
 頂いた座席表の番号と出席者名を記す。
・第1テーブル(1〜14)14名
 1小松原 2浦島 3松崎理事長 4前野 5木村顧問 6田畑先生 7竹中 8百崎 9中村先生
 10伊川 11小山先生 12佐々木 13鰺坂先生 14金地事務局長
・第2テーブル(15〜30)16名
 15岡本 16西田 17南MG 18中西先生 19表本部長 20魚谷先生 21宮崎SMG    22坂野SMG 23松田 24谷井 25竹口 26三野 27廣川部長 28松原         29伊藤MG 30村本
・第3テーブル(31〜46)16名
 31松崎幹事 32山川 33渡辺 34坂下 35坂蓋 36福田SMG 37高安 38東
 39小川 40白江 41米田 42清水 43中山 44貝崎 45松永SMG 46金地