2011年8月25日木曜日

人と微生物との関わり

 平成9年(1997)4月29日に金沢市で開催された石川県栄養士会の総会において、表記表題でもって特別講演を行なったが、以下はその時の講演要旨である。十数年を経て、若干違和感が無きにしも非ずだが、「晋亮の呟き」に再掲する。

 微生物というと、黴菌、伝染病、食中毒という悪いイメージを連想することが多い。事実、微生物の仕業と分かる以前にも、人類は天然痘、ペスト、コレラ等の伝染病に悩まされ、その原因が未知だっただけに、神がかりなものとして極度に恐れられてきた。食中毒にしても、これは有史以前からあったに違いなく、微生物によるものばかりではなく、経験的に、どういうものが食べられ、どういう状態が安全であるのか、またどういうものが有毒で、どういう状態になると食べられなくなるのかを、長い年月をかけて会得してきた。
 しかし一方で、これも微生物の仕業と分からなかったまでも、人はおろか猿までもが、酒を醸しだす技術を身に付けるようになったが、これは微生物の有用な利用の一方の旗頭として、我々人類にとってはなくてはならないものとなっている。
 ところで、微生物学という学問は、伝染病の原因究明という大義名分のもと、病原微生物学として発展してきた。しかし、人にとって病原微生物といった場合、この一群の微生物は、とりもなおさず人の体温、すなわち37℃近辺を最も至適温度として増殖できることが最大の条件であり、大部分の病原微生物はこの範疇に入っている。しかしながら、このようないわゆる中温菌といわれる一群の菌群は、全体の微生物からすれば極めて少ない一握りでしかなく、大部分の微生物は自然界に広く分布している。そしてその生息する場所は極めて多様で、地中深くにも、気温が高い乾燥した砂漠にも、一年中氷で覆われている南極大陸にも、90℃を超える非常に高温な温泉の中にも、水深1万mを超す海底にも微生物は生息している。そしてこの自然界には、我々が未だ知らない微生物が、かなりの数存在しているであろうことは、十分予想されることである。
 我々は微生物の洪水の中で生活をしていると言っても過言ではない。土の中、水の中、空気中等の環境、我々人体の表面、口、鼻、喉、消化管、生殖器等、外気と接しまたは通じている器官には、夥しい数の微生物が常在している。このような微生物の一群はノーマル・フローラ:正常細菌叢と呼ばれているが、平常は我々にとって不都合なことはほとんどなく、かえってこのようなフローラのない方の害の方が遥かに大きく、人の場合でも、大部分のノーマル・フローラは宿主である人と共存共栄、すなわち「共生」している。
 我々にとって、食品や食材の腐敗は好ましいことでないばかりか、病気の一因となる。しかし、これら自然界に無数に存在する微生物は、自然界にとってはなくてはならない存在である。物質の輪廻を考えてみると、植物は無機体から有機体を形成するが、有機体を無機体にすることは出来ない。また動物は人も含め、有機体を利用し、有機体を排泄している。すなわち、動物も植物も有機体から構成されているが、有機体を無機体にする能力を持ち合わせてはいない。ということは、もしこの世の中に微生物、とりわけ有機物を利用する細菌が存在しなかったら、有機体のみが蓄積されることになり、地球上は夥しい量の動植物の屍骸と糞尿とで覆い尽くされてしまうことになる。人がもし有機体を無機体にしなければならないとしたら、燃焼以外に方法は見当たらない。このように微生物の環境浄化力は人智を遥かに超えている。
 さて、我々の日常生活を見回してみても、微生物の恩恵に浴していることが如何に多いかに気付くはずである。発酵食品としての酒類(アルコール飲料)、味醂、食酢、大豆製品の味噌、醤油、納豆、水産加工品の鰹節、なれ寿し、くさや、塩辛、魚醤、乳製品としてのバター、チーズ、ヨーグルト、乳酸菌飲料、そのほかにも、パンや漬物、紅茶やウーロン茶等々、我々が口にするもので、微生物の恩恵に浴しているものは枚挙にいとまがない。また、酵素、ホルモン、ビタミン、抗生物質、ステロイドのほか、アルコール類、有機酸類、アミノ酸等も、その製造はまだまだ微生物に依存しているウェイトが高い。一方で、厄介ものの難分解性の合成洗剤、プラスチック、PCB,あるいはタンカーから流失した重油の後処理に、微生物による生分解が期待されていて、既に一部は実用化されている。このように、微生物は昼夜を分かたずに働き続けてくれ、もっと英知を傾ければ、我々人類はまだまだ微生物に頼れる部分が多くあるのではなかろうか。

 さて、抗生物質やワクチンの普及、栄養や環境の改善、衛生思想の敷衍等によって、人類は伝染病の恐怖から解放され、もはや伝染病は過去のこととして我々の脳裏から忘れ去られようとしている。確かに、恐れられた天然痘(痘瘡)は、1980年には地球上から根絶されてしまったし、日本でも、戦前は多かったコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ジフテリア等の伝染病は、皆無かもしくは極端に減少してしまった。ところが一方で、日本では発生が見られなくなったトラホームは、中国や東南アジアでは未だ重要な疾患であり、これによる失明者もまだまだ数多い。また発展途上にある国々では、3人に1人は感染症で亡くなっていると言われており、WHOの統計でも、1995年の死亡者数は約1,700万人に達したと報じられている。
 現代医学は感染症の制圧に成功したかのような錯覚を感じさせていた時、突如として、先進国でも今まで経験したことがなかったような感染症が人類に襲いかかってきた。1981年に忽然として現れたエイズ:後天性免疫不全症候群を初めとして、新しい感染症が次々と現れてきた。日本でも1996年に大流行した腸管出血性大腸菌O157については未だ記憶に新しい。このように新しく我々の目の前に出現した感染症をエマージング・ディシーズ:新興感染症と呼んでいる。何故このような新しい感染症に我々は遭遇したのだろうか。一説に、20世紀後半の世界人口の急激な増加は、食料増産のために未開の土地を開かざるを得ない状況を作り出し、それに伴う環境破壊によって、これまで人類が知らなかった未知の新しい病原体と遭遇したと予測する人もいる。ともあれ致死性の高い新型の感染症が人類を苦しめることとなる。特にアフリカ奥地、アマゾン流域は、生態系が多様なことで知られているが、一方で病原体が潜む絶好の場所でもある。致死性の高いエボラ出血熱、マールブルグ病、ベネズエラ出血熱等しかりである。このほかにも、英国で起きた狂牛病、その病原体はプリオンと言われているが、クロイツフェルト。ヤコブ病との関連も取り沙汰されていて、牛から人への感染とも相まって、恐怖感が払拭されないでいる。これら新しい感染症は確たる治療法が確立されているわけではなく、またその感染のメカニズムも解明されていないのが現状である。
 さて一方で、古くて新しい感染症、リエマージング・ディシーズ:再興感染症も疎かにはできない。インフルエンザは毎年流行する身近なウイルス病であるが、その根絶は極めて困難である。人類にとって「最強最後の感染症」と言われる所以は、その変わり身の速さにある。変幻自在に変化し、免疫系の網を潜り抜け、生き残る逞しさには脱帽せざるを得ない。化学療法剤もワクチンも決め手を欠いている。また日本では制圧に成功したかのように見えた結核も、ここ数年は増加の傾向にある。WHO発表の1995年の感染症による死亡者1,700万人の内、結核による死亡者は約300万人と言われ、この数字は結核が世界的に大流行した1900年前後の年間推定死亡者数を大きく上回る史上最悪の数字と言われている。特に米国では、エイズ患者が結核を発病するケースが増えてきており、20~40歳台の患者の増加が問題視されている。1995年には、結核以外にも、世界中でコレラが前年の4倍を超える規模で流行した。新型のベンガル型コレラ菌O139によるものである。日本でもバリ島帰りのコレラ患者多発は未だ耳に新しい。
 そのほか、日本では、24時間風呂でのレジオネラ菌による感染、クリプトスポリジウム原虫による大量水系感染、サルモネラ・エンテリティジスによる食中毒の大量発生、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)やVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)等の薬剤多剤耐性菌やセラチア菌等のいわゆる日和見菌による院内感染等々、抗生物質の開発は限界に近いと言われているだけに、不測の事態を起こしかねない状況にある。
 地球温暖化も厄介である。病原体を運ぶ吸血昆虫が生息域を拡げ、熱帯域での風土病であったデング熱やマラリアや寄生虫病が、再び温帯域まで拡がってくる恐れもある。
 しかし一方で、ワクチンの適切な投与により、今後根絶が期待できる感染症も少なくない。ポリオは1961年の生ワクチン投与以降、日本では患者の発生はほぼ皆無に等しくなったことはまだ記憶に新しい。現在このポリオ根絶作戦は、中国や東南アジアで、日本が主導して展開中である。またMMRワクチンが普及するようになれば、麻疹(はしか)や風疹、ムンプス(おたふく風邪)」の発生を激減させることが出来ようし、B型肝炎や成人T細胞白血病も、適切な対応とワクチン投与により、将来はなくなるであろう。エイズやC型肝炎にしても、例え感染しても、ヘルペスウイルスグループ感染の例のように、発病を抑えることが可能になり、ウイルスと共存して生きていけるようになるであろう。トラホームやらいについては、治療法が確立されたこともあって、日本では、その予防法の必要性はなくなり、既に廃止された。
 これまで人類は英知でもって感染症に立ち向かい、困難を乗り越えてきた。これからも例え新型の感染症が出現したとしても、化学療法剤やワクチンを含む免疫学的、分子生物学的療法でもって、それを克服するに違いない。しかし、忘れてならないのは、病原体も生き物、人智をもってする数多くのバリアーを乗り越えて子孫を増やそうと策を弄するであろう。とすると、人と病原体との闘いは、長い目で見ると、どちらの勝利もない、いわばいたちごっこの、延々と際限なく続く、デスマッチと言えるかも知れない。

 ところで微生物工業は、従来の醗酵工業から脱皮して、新しい世代に入ってきた。醗酵工業では、培地中に微生物の代謝産物を蓄積させ、それを単離して利用するのが一般的な常法であり、その収量を上げるために、自然界で自然に起きる突然変異株(細胞分裂100万回~100億回に1回起きるといわれている)の中に、より優れた株がないかをチェックしてきた。しかし、この「啼くまで待とう」式では、極めて効率が悪いうえ、時間を要した。そこでより突然変異株を効率よく作り出すため、人為的に変異原を用いて誘導する方法が考案された。それには、X線、γ線、紫外線を照射する物理的な方法と、変異原物質を用いる化学的な方法とがあるが、これらの方法は「啼かせて見せよう」式とも言える。その後の解明により、これらの変異は、遺伝子の傷、複製の間違い、組み換えや再編成、動く遺伝子の介入によっていることが判明し、DNA上では、塩基や塩基群の添加、欠損、置換、重複、転座、逆位等がみられた。
 一方、細菌を用いた遺伝情報の伝達の研究から、細菌等の原核細胞には、体染色体のほかにプラスミドという伝達可能な遺伝子が存在すること、細菌ウイルスであるバクテリオファージの中には、その遺伝子を細菌の体染色体に取り込ませて組み換えを起こし、溶菌することなく細菌の増殖につれて増殖する溶原化現象を起こす株があることが分かり、プラスミドによる伝達(接合)やファージによる形質導入が可能になった。また、ある細菌から抽出したDNAを他の細菌に取り込ませる形質転換の方法も確立され、細菌間の遺伝情報の伝達に止まらず、外来遺伝子DNAを異種の細胞内に導入し、その形質を発現させるということが可能になった。
 更に、ある細胞から抽出したDNAから、目的とする遺伝情報のみを、制限酵素というハサミで切り取る技術が開発され、この情報を運び屋である自己増殖性のある小型DNAのベクター(プラスミドか溶原ウイルス)に、同じ制限酵素で開裂させた箇所にノリの役目をするDNAリガーゼを用いて結合させ、この両種の雑種である組み換えDNA分子を形質転換の技術を応用して宿主の細胞に移し込む、遺伝子組み換え技術が開発された。この宿主の遺伝子工場には、大腸菌、枯草菌、酵母等が好んで用いられ、ヒトの生理活性物質の多くがこの方法で作られ、利用されている。その他、細胞融合やベクターDNAのみを増幅させる方法も考案され、微量生産物質の大量生産も可能になった。

2011年8月23日火曜日

濃霧・雨・風で再び石徹白への下りを断念

 別山からさらに南へ延びる美濃禅定道(南縦走路)は一部を除いてまだ走破したことがなく、今年はどうしても踏破したいと願っていた。急いでいるのは一つは年齢の壁であり、年々体力とバランス感覚の衰えが進行しているように思えるからである。幸い宮川さんという一回りも若い助っ人を得、かつ前田さんの協力もあり、何とか成就できないかと願っている。今年の最初のチャレンジは7月18日、これは16・17日の土日は満員で宿泊できなかったからで、実は後の祭りになるのだが、今から思えば18日を15日にしておけば、台風6号の影響も受けずに、成就できたのではと思っている。それが判断ミスで18日としたものだから、台風の影響をもろに受けてしまった。天気予報では北陸への影響は20日以降とのことだったが、高山では2日前からも大きな影響が出ていた。こうして初回のチャレンジは特に風の影響でもって不首尾に終わった。
 次いで計画したのが8月7~9日の日~火、結果的にこの期間は天気が安定していて申し分なかったのだが、石徹白はこの週全村挙げての体験ツアー受け入れがあり、宿泊は全く駄目とかで断念せざるを得なかった。お盆は空いているとは言われても、こちらも旧盆でいろいろ都合があり、リベンジは盆明けの土~月の8月20~22日を予定し、協力していただけるお二方の了解も得た。
 当日4時半に家を出立、家内運転で1時間程で市ノ瀬へ、5時20分発のシャトルバスで別当出合へ、天気は曇り、でもガスで視界は悪い。天気図では、日本列島に停滞している秋雨前線が幾分北寄りだったのが南下したため、北陸も大きく影響を受けることになった。でも少々の悪化ならばリベンジには特に大きな障害とはならない。6時10分前に歩き出す。高度が上がるにつれガスは濃くなり、甚之助小屋辺りではもうミルキーホワイト、何にも見えない状態だった。ところが更に高度が上がると、このガス帯を抜け、別山の山並みがくっきりと見えるようになり、眼下にはミルキーホワイトの雲の層が広がっている状況に。しかし空には厚い高層雲があり、陽の光はない。
 南竜山荘には8時過ぎに着く。何時もだと受付は午後からなのだが、山荘へはもう入れますとのことで、部屋に荷を置き御前峰へ向かうことに。今日は120名の宿泊とか、やはり土曜はほぼ満員のようだ。主任の方に聞くと、予報では午後には雨になるとか、昼食と雨具を持って出かける。出掛けに小母さんと話していると、植生されたコマクサを除去する話が持ち上がっているとか、どんどん繁殖するオオバコと同一視されては叶わないのだが。小母さんは植生した御仁も知っていた。また雷鳥の居場所は御前でなく大汝だという話を聞いたとか。私は御前のような気がするが、でもそれは単なる勘でしかない。小母さんは上馬さんに聞いて見ないととも言う。彼は雷鳥をビデオ撮りした当人だが、彼は現在県の白山自然保護センターの次長でもあり、彼は話すことはないだろう。ひとしきり話をして室堂へと向かう。トンビ岩コースを辿る。この前通ったときはこのコースにはかなりの残雪があったが、もう雪は全くない。雪が溶けるのが遅かった斜面には、コイワカガミやアオノツガザクラが丁度満開、ピンクとホワイトグリーンの絨毯を形成している。御前坂の上部ではもうベニバナイチゴが赤い熟れた実をつけている。ミヤマリンドウも青紫の花を咲かせている。
 室堂前の広場で食事をする。何時もは登山者で一杯になる広場も、この日は半分程度の入り、旧盆が済んでピークが過ぎた印象を受ける。雨がポツリときた。ガスも少しだがかかり始めた。雨具を着け頂上へ向かう。今室堂平はハクサンフウロとイブキトラノオ、オンタデが丁度花盛り、特に濃いピンクのハクサンフウロは圧巻だ。頂上への径で、60ℓのピンクのザックカバーを付けた人が前を歩いている。こちらはほとんど空身、なのに中々追いつけない。とうとう頂上まで追いつけなかった。頂上でご対面したら小柄な女の子、これからどちらへと聞いたら南竜のテン場とか、その荷物を持ってまた下りるのですかと言うと、これはザックカバーだけなのですと、道理で追いつけなかったわけだ。ガスも次第に濃くなってきた。
 予定どうり展望コースを下る。ガスで視界は全く利かず、ただ黙々と下るのみ。展望台からの下りで、子供を含めた中年男性の一団、室堂泊まりとか、お天気が好ければ素晴らしい展望が開けるが、この雨とガスでは余りお勧めできるコースではない。雨も次第に強くなる。4時間半余りの周遊、濡れたものを乾燥室で乾かす。一段落し、これから食堂で、この前のように一杯しようと思ったら、大勢の人数の弁当作りとかで2時には食堂はシャットアウトになり、部屋飲みになる。5時に夕食、気温の低下もあって、ビールでなく熱燗にする。ガスは次第に濃くなる。別棟ではギターのコンサートとか。お陰で8時消灯が8時半に、この間食堂でテレビを見ながらの飲み、主任と副とバイトの学生5人、お酒と焼酎をお相伴になる。話の中で主任はまだ独身とか、お客の8割方は女性というのに、勿論ペアあり、中高年ありだが、若い山ガールも結構多いというのに。アルバイトは古くは女子短大生だったが、ここ10年ばかりは金沢工大のスキー部員だとか。山荘に常駐は5人、バイトは土曜の午前に来て、日曜の午後に帰るパターン、速い人は山荘から中飯場まで下り30分とか、驚くべきタフさだ。そう言えば、新しい甚之助小屋の建設にあたって、あそこの現場主任は、中飯場から長靴履きで毎日30分で通う野々市の人だった。
 コンサートは終わり、飲みも終了。窓には明かりを求めて沢山の白い翅の蛾が、主任では明日は雨は大したことはないと言う。雨になる日はこの蛾は来ないと言う。でもガスはますます濃くなったようだ。隣の小舎がもう見え難い。
 夜中に起きてベランダに出ると、ガスは濃く、ホワイトアウトとまでは濃くはないものの、それに近い状態、小雨が降っている。風も混じってきて、時々ヒューという息が聞こえてくる。今日の夕方の雨とガス程度なら決行しようと、夕食後、前田さんにも、石徹白の民宿「おしたに」へも、家内へもその旨伝えたところだが、こう視界が悪いと、別山越えは難しいかも知れないと思うようになる。でもこんな状態の中、3時にペアが、3時半には6人のパーティーが出発していった、昨晩おしたにさんには別山まではよく通い慣れた径ですのでとは言ったのだが、こうも状態が悪いと断念しなければならないのではと思い直した。予定では5時の出立だが、もう1時間だけ様子を見ることにする。もう1晩泊まって様子をみようかとも思ったが、昨晩の気象衛星画像を見ると、前線の雲が日本列島をすっぽり覆っているようで、明日快方に向かうという保証はない。濃いガスと小雨、それに風も出てきて、終に断念することにした。6時に民宿「おしたに」へ電話、やはり無理でしょうとのことだった。家内にもその旨伝える。前田さんには明日のことなので、市ノ瀬へ下りてから宮川さんに伝言してもらうことにする。ほとんどの方が市ノ瀬へ下るようだ。私たちも7時に山荘を出た。
 南竜分岐から標高が下がるにつれて、ガスの濃さは段々薄れてきたが、雨粒は大きくなり、本降りの様相になる。甚之助小屋に着くまでは余り上りの人とは会っていない。小屋では数人がシュラフに包まっていた。新しい小屋は実に快適、トイレもきれいで気持ちが良い。しかし小屋を過ぎた辺りから、この雨の中、続々と沢山の登山者が、そしてその8割近くが女性、妙齢の若い方も多い。何が彼女らを駆り立てるのか。天候が少しでも快方に向かうことを願わずにはおれない。40人近くの団体も2パーティー。上る人をやり過ごしたり、またお喋りもしたりで、ゆっくりと下る。以前だと旧盆を過ぎると登山者はぐっと少なくなったものだが、これもブームだからなのだろうか。私たちが2時間10分もかかって別当出合に着いてからも、登山者がシャトルバスで上がってくる。下ではガスは薄れているが、まだ雨は間断なく降っている。
 シャトルバスは9時半に市ノ瀬へ、金沢駅行きのバスは、8月20日を過ぎると午後1時30分1本のみに、時間があるので、永井旅館の日本の秘湯にでも浸って疲れを癒すことに。この温泉は掛け流し、食塩・炭酸泉、源泉は48℃だが、掛け流しの方は加温なしなので、気温によって湯温が異なりますという断り書きがしてある。一方大きな浴槽は加温循環式なので熱い。我々がトップ、ゆっくり温泉に浸れた。旧の本館にあった浴槽は小さかったが、新館の浴槽は明るくてきれいで気持ちが良い。上がってお決まりのビール、まだバス出発まで2時間以上、カップラーメンで腹ごしらえをする。この頃から続々と入浴客が、女性も多い。浴場は芋の子を洗うが如き状態だろう。助っ人の宮川さんからは、昨晩に引き続いて山の話をいろいろ聞く。年に50日も山へ行っているとか、近場の山も、また積雪期にも、でも写真での記録はあるものの、それ以外の記録は極めて少ないのは勿体ない。私はどんな小さな山行でも記録を取るが、彼は一切しないようだ。また文章にも残していない。聞くと実に素晴らしい山行もあり、写真のみでなく、ほんの印象だけでも書き記すように勧めたのだが。でも写真は玄人はだしの作品もあるようで、コンテストに出さないかと言われているとか、本人も意欲はあるようだ。
 別当出合を13:30に出た金沢駅行きバスは満員、市ノ瀬を10分遅れで出発した。このバスには生まれて初めての乗車。びっくりしたのは白峰車庫で5分間のトイレ休憩、その後白峰の街中の旧道を経由し、何故か尾口瀬女の道の駅へ立ち寄り、鶴来でも街中の旧道に入り鶴来駅へ、それから鶴来街道を野々市へ。金沢駅への急行バスとあったが、とんだ寄り道だらけの急行バスだった。
 こうして石徹白へのリベンジはまたも敗退となった。

2011年8月19日金曜日

平成22年開催のゼレン会への近況報告

● まえがき
 私は昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した。その同窓生の会の名称が「ゼレン会」である。この命名に当たっては、私は卒業時にかなり重度の胃潰瘍で入院していて参画できなかったが、経緯は卒業年を原子番号34にあやかっての命名と聴いている。元素記号はSeで、日本名はセレン、英名は Selenium 、ドイツ名はSelen で、命名はドイツ名の日本式ドイツ語読みによる(ドイツ語ではゼレーンと発音)。あの頃は薬学の分野ではまだドイツ語が幅を利かしていたものだ。ところで昨年(2010)は9月に同窓会があったが、その折幹事から同窓生各位に近況報告をと頼まれしたためたものを、「晋亮の呟き」に再録する。因みに今年(2011)は5月に宮城県で開催予定だったが、3月に未曾有の東日本大震災があり、中止になった。ゼレン会はこのところ毎年開催している。
● 近況報告
(1) 健 康
 私は現在石川県予防医学協会という健診機関に勤務していることもあって、年に2回の健康診断を受けている。直近の検査は7月末、指摘があったのは、糖代謝と脂質代謝、前者は HbA1c が 6.2、後者は LDLコレステロールがやや高めである。糖尿病については薬物療法を行なっているが、それだけでは数字の改善は望めず、加えて食事療法と運動療法を行なっている。もっとも食事は完全な糖尿病食ではなく、心掛けているという程度。運動は毎朝6km1時間のウォーキングを行なっているが、これは皮下脂肪減少や糖代謝促進に対して若干の効果があるようだ。ただこれには筋トレ効果はない。
 ほかにはペースメーカーを装着しているので、年に2回の健康診断と機器チェックがある。また消化器がん予防のため、年に1回、食道・胃・大腸の内視鏡検査を受けている。常用薬としては、糖尿病用薬、高脂血症用薬、緩下剤、消化性潰瘍治療薬、降圧薬を服用している。
 飲酒は医師の指導もあり、1日酒換算4合から2合に減量、また酒は自主的に糖分の少ない蒸留酒をメインにしているが、どんな酒にでもそれぞれの個性があることから、酒の種類による好き嫌いは一切ない。健診の勧告では、酒は1日1合、週に2日の休肝日をというが、それは無理というか不可能な相談だ。ただ入院中の禁酒は厳守している。
(2)白 山
 白山では絶滅したと思われていた雷鳥が、昨年(2008)の6月に雌1羽だけであるが、生息していることが確認された。その後昨年には越冬したことが確認されたものの、今年は8月まで未確認だったが、9月になって漸く居ることが確認され、これで2度越冬したことになる。昨年採取された抜け落ちた羽のDNA鑑定では、北アルプスにいるコロニーと同じであることが確認されている。北アルプスから来たとすれば、どうして来たのだろうか。
 白山にコマクサは自生していないが、10年前に植生した人がいて、新聞でも紹介されたことがある。新聞紹介の場所は御前峰の北側だが、そこは私はまだ確認していない。3カ所位あるらしいが、私が毎年眺めに出かけているのは、大汝峰の頂上西方の礫地、成育場所としては申し分ない環境だが、そんなに増えているわけではない。ただ実生は育っている。日本のある町では、勝手に植生した駒草を除去したと報じられていたが、ここは国立公園なので、引っこ抜いて除去することはできない。私としてはこれからも見守っていきたい。
 国立公園内でも、除去が歓迎されている植物がある。それはオオバコとスズメノカタビラである。道路周辺に多いということは、登山者の靴に付着して侵入してきたもので、毎年ボランティアを募り駆除している。でもその除去区域は山小屋周辺に限られている。中でも特に深刻なのはオオバコで、南竜周辺は以前はハクサンオオバコの群生地だったが、今は2つの種の中間雑種が跋扈していて、のっぴきならない事態になっている。
(3)そ ば
 学生の頃も「そば」は好きだったが、当時の金沢には自家製のそば(そこは機械打ち)を出す店は1軒のみしかなかった。石川県自体が「うどん圏」だったからでもある。当時は東京23区内でも、蕎麦屋は百数十軒位ではなかったろうか。学生の頃は山に夢中だったから蕎麦まで気が回らなかったが、石川県に奉職してからというもの、出張時には、地図を片手に都内の蕎麦屋をほっつき歩いたものだ。でも今はそばブーム、東京には少なくとも3千軒以上の蕎麦屋があるだろう。私の師匠も「そば」が好きになり、それこそ全国の蕎麦屋巡りをした。高じて十数年前に金沢で「探蕎会」なるそば同好会を立ち上げ、会員は全国津々浦々へ出かけている。会でもツアーを組み、これまで北海道、四国、九州を除く各地に出かけ、単に「そば」を食うばかりでなく、その地の文化に接し、その地の酒を愛で、いわゆる「探蕎」を続けている。もし興味ある方は「探蕎会」で検索してみて下さい。

2011年8月17日水曜日

探蕎会有志の面々、いざ、そば農園第二次農事作業へ

● まえがき
 探蕎会の素地ができたのは、平成10年(1998)1月に、波田野先生宅で持たれた会合で、この寄り合いには、松原、北島、植松、塚野、前田の諸氏が参加したとある。そして3月8日には「末野倉」で探蕎会の第1回の行事としての発会式が行なわれ、会長波田野、副会長松原、他の4氏は世話人ということで会が発足した。この平成10年には12月の総会までに12回の行事が持たれ、このうちの4回をそば農園での種蒔き、除草・土寄せ、収穫、そば打ちに当てている。私が誘われて初めて会の行事に参加したのがこの種蒔きの時で、この年の第5回目の行事の時だった。
 その当時はまだ会報はなく、行事の経緯や成行きは、会長指名の方が、後日A4もしくはB5のレポート用紙に感想を交えてレポートし、そのコピーが会員に配布されていた。会報が創刊されたのは翌年の平成11年(1999)12月であるからして、平成10年と11年の行事記録はこのようなレポート様式で報告されており、公式には現存していない。
 ところで、そば農園での農事作業は計4回で、会の行事では、第5回、第6回、第7回、第9回がこれに該当する。この作業が行なわれた「そば農園」の場所は、長野県東筑摩郡朝日村大字古見の「もえぎ野」にある。以下に4回にわたり実施された農事作業の実施日、作業ツアー名、参加者(入会順)、指名報告者を掲げる。またツアー時に寄った蕎麦屋も記載した。
(1) 7月26日 そば農園種蒔きツアー(波田野、松原、北島、前田、木村、越浦、前田さんの娘さん)、
  レポーター:北島健次、「もえぎ野」(朝日村)・「信州家」(松本)。
(2) 8月23日 そば農園除草・土寄せツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
  レポーター:木村晋亮、「ふじおか」(黒姫)・「ひらく」(穂高)。
(3) 10月9日 そば農園収穫ツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
  レポーター:塚野八平、「もとき」(松本)・「浅田」(松本)。
(4) 11月21日~22日 そば農園収穫そば打ち体験ツアー(波田野、松原、北島、塚野、木村、越浦)、
  レポーター:松原 敏、「浅田」(松本)・「もえぎ野」(朝日村)。宿泊:「ホテル花月」(松本)。
 以上が概略で、表記表題の初出は、平成10年(1998)8月23日に行なわれたそば農園第二次農事作業と探訪した蕎麦屋のレポートである。  「晋亮の呟き」に再録する。

● レポート
 今日一日、晴れが保証のの8月23日(日)の朝、小生は今日の農事作業である草取り・土寄せに必要な鎌、鍬、長靴等を用意し、波多野会長の命により、先生宅へ午前8時にお寄りする。奥様お手注ぎのお茶を頂くも間もなく、出発の案内。出ればMr前田のOdyssey号には既にMr北島が鎮座されており、我々も乗り込む。道案内を自認する波田野会長は助手席に陣取る。その後、鈴見台で今一人の参加者Mr塚野を同道し、金沢を後にする。この日の作業が如何ばかりなのか全く見当が付かないが、各々方は各自それなりに周到な準備を怠りなくされているようにお見受けした。
 金沢東ICへ入ったのが8時半、前回が5時なのに比べると一寸遅い感じだ。富山へ入ると、同乗の鮎釣師は、河川の水量、濁りを見極めんと鋭い眼差し、門外漢の小生には友釣りの醍醐味も分からず、ただ食するのみだが、でも素晴らしいレクチャーをして貰った。
 Mr前田の運転は極めて快調、先ずは今日の第一のお目当て、黒姫山麓の「ふじおか」へ向かう。妙高高原スキー場への通い慣れたR18を一路南下、会長の名指示で信濃町野尻山桑へ達する。辺りにはペンションが乱立、このような所に名店があるのかと訝る。杉野沢への道を右折して間もなく、Mr塚野が「あった」と喜びの声、直進すれば妙高へ行ってしまうところだったが、寸でのところでうまく解決した。まだ11時、11時半が開店だが行こうと杉木立の林の中の一本道を辿る。幽山深谷とは異とするが、開けた明るい所からいきなり暗い所へだと、何となくそう感じても不思議ではない。道端にはノアザミの赤、ツユクサの青、ミズギボウシの紫が美しい。下り坂を400mばかり、左手に一見山小屋風の建物が見え、そこが「ふじおか」だった。誰かが言う。初めてお妾さんの家へ通う時のときめくあの気持ちだとか。経験はないが、このときめきがそうなのだろうか。
 着くと、既に5台の乗用車、長岡が2台、富山、大阪、長野が各1台、空き地に駐車している。そして石川、30分前だが、待つ甲斐があると納得する。受付入店もやはり11時半、小生は信濃Breweryまでの山中を徘徊する。時間になり漸く開店。辛抱強く待った蕎気の男女が次々と中に消える。我々も後に続く。定員20名は既に了承済み、ぎりぎり何とかなるさは、極めて甘い観測だった。6組目の私達は、主人から午後1時半にお越し下さいとの丁重なお断り、本当に前の組とは真にタッチの差であっただけに、泣き言の一つも出ようというものだ。こうなっては2時間待ってもありつくぞと衆意一決する。たかが「そば」を食うのに2時間待ちとは、蕎変じて狂となる。その執念たるやである。それではと、北信濃の地ビールを製造している信濃町野尻上山桑にある信濃Breweryへと向かう。田中の畦道をそぞろ歩く。湿地にはガマの群生、太い茶色の穂が素晴らしい。また畦にはコウヤワラビが一面に、若々しい浅緑、清々しい。
 着くとやはり他県ナンバーの車がやたらと多い。中へ入ると、4種の地ビール、Shinano, Mountain, Dragon の各エールと、Kurohime stout、思い思いに2杯位ずつ胃の腑へ流し込む。小生の飲み比べた印象では、芳醇な香りと適度な苦味の Dragon が良かった。この地ビールは全国へ宅配できるとか、一度ご賞味を。
 再びぶらぶら、林へ入る。途中熟れたブルーベリーを少々口に含む。甘い。「そば」にありつけるまでにはまだ1時間余り。折りよく一茶記念館の標識が、聞けば車で10分とか。Mr前田は車を回してくれた。信濃町柏原にある記念館はそこそこの人出、こざっぱりした感じ。併設の民族資料館には思い出の農機具の数々、懐かしい。2時間の余得。感謝々々。
 今度こそはご対面できると思うと心がときめく。取って返して蕎麦処へ。空き地には湘南ナンバーの車もある。午後1時半きっかり、我々5人が最初に入る。中は6人掛けと4人掛けのテーブルが各2脚、それで計20人、但し原則として相席はないとのこと、頑固そのものである。また10歳以下のお子様お断りもしかりである。紹介書には甘皮を残した蕎麦の実を挽いたという、微かに緑を宿すかに思える「せいろ」と「そばがき」が載せてある。「せいろ」5枚と越後大吟醸の「鄙願」を3本所望する。待つこと暫し、2時近くに、酒と蕎麦実・野山の幸が入った5人分の突き出し?がドンと出た。本番前にはかくあるのか、雑味払いか、酒は美味しい。ただ全くクセがない。吟醸香が極めて薄い。これで徳利1本1100円は高いのでは、一致した意見だった。また待つこと暫し、佐々木小次郎の胸中を察する。しかし終にご対面。甘皮を付けたまま挽いた蕎麦粉100%の「せいろ」、姿・形は本とそっくりである。そっと数本口に含む。微かな蕎麦の香り、久方振りに出会った名品。生山葵を含めた旨い淡味のつゆが花を添える。再び「せいろ」3枚と「そばがき」2鉢を追加する。待つこと暫し、「そばがき」が現れた。讃岐彫り様の木皿に、搗き立ての柔らかい餅と見紛う、ブナの新緑を思い起こさせる淡い若草色の「そばがき」が鎮座している。こんな印象はこの62年間にはない。絶品としか他に言いようが無い。「せいろ」よりも蕎麦の香りが良い。と同時にどうしてこんなに均一で滑らかなのか。粉に秘密があるのか、或いは掻き方によるのか、いずれにせよ大収穫であった。本日も振られた11時半と1時半の2回のみ。1日多くて40人。再び挑戦するとすれば、平日か。2,3回振られた人もいるとか、今日はもうお終いですとの声に去る組もあった。
 余韻を後に、本日の主行事の蕎麦の草取り土寄せに朝日村へ向かう。信濃町ICから塩尻北ICへ高速道を辿り、1時間半後の4時半きっかりに朝日村古見のもえぎ野に着いた。途中に見えた農園の蕎麦は花盛り。私達のは畝や条の不揃いがあり、種蒔きの濃淡があり、どうなっているかとあれこれ心配したが、どうもそれは一見おいそ目には全く分からず、胸をなで下ろした。それで勇んで農場へ。道端に車を停め、身繕いして農園に入る。農園には我々以外には人影はなく、頃合いとすれば、日中よりはましである。さてと、手入れが終わった先人のをと見ると、かなり人為的倒伏が目立つ。蕎麦は肥料を施したせいもあって、思ったより大きく、しかもはちこっている。丈は50~60cmはあろうか、しかも茎はスカンポのように太く、けれど中空な茎は簡単に折れてしまう。本来ならば草丈30cm位の頃に土寄せしなければならないのに、蕎麦のはちこりで蕎麦が畝の両端からはみ出ていて、草取りが出来ず、草取りは省けたものの、土寄せ自体は難行を極めた。蕎麦の間に潜るので、新たな蕎麦の倒伏は先人の比ではなく、これでは収穫は半減するのではないかとさえ思え、いっそのことしないほうが良いのではという率直な意見が続出し、完全な土寄せは極めて困難との見通しから、作業を中断した。行なった部分的な惨状は会長が自ら記録に留めることにする。作業すること40分余り、滞在1時間で切り上げ、次の目的地の穂高町「上条」へ向かうことに。
 運転は大吟醸を召したMr前田に代わってMr塚野が、車では前回小生の不覚で迷い込んだ立派な尻切れ農道の話が一頻り、しかし今回Mr塚野も危うく前車の轍を踏んで、あの袋小路の農道へ迷い込みそうになった。表示板が曖昧過ぎる。高速道を塩尻北ICから豊科ICへ、夕暮れの安曇野を北へ向かう。常念岳が残照に浮かぶ黄昏、会長の先導でご推薦の「上条」に着いた。この建物の外観は洋館、幟がなければ全く蕎麦屋には見えない。案内では8時までのはず、でも灯は落ちており、振られてしまった。
 急遽、代役は同じ穂高町の「ひらく」、かの「ふじおか」と同じ紹介書に載っている銘店である。そして閉店間際?に到着。時刻は午後6時40分、早速「特製ざる」3枚、「そばがき」2鉢、つまみに花山葵、酒は冷燗の白馬錦を所望する。「ざる」は細打ち、「そばがき」は田舎風で量は豊か、つまみはセンナの醤油漬し、酒はいわゆる爽やかな本醸造、かれこれ40分ばかり居たろうか、7時半前には帰路についた。安房峠経由で金沢へ、Mr前田の滑らかな流れるような運転で夜をひた走り、11時に帰沢した。走行600kmに及んだ1日もどうやら無事終了した。

2011年8月12日金曜日

奈良探蕎 : 玄(奈良市) と 稜(葛城市)

 表記表題の初出は「探蕎」会報第41号(平成20年7月5日発行)で、訪れたのは平成20年(2008)の6月14日に「玄」、6月15日に「稜」である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 本年前半の行事のうち、探蕎小旅行は奈良・京都方面ということだったが、参加予定者が10名と少なかった上、いつも企画・立案・案内される久保さんが不参加ということで、旅行の実施自体が危ぶまれた。事務局の前田さんでは、会の行事として決めたので、団体でなくても個人でいいから探蕎してきてほしいとのこと、全く自信がなかった。5月25日に湯涌みどりの里で会員そば打ちがあり、会員多数が参加し、6月の旅行に参加を予定している人も8名出席だった。それで当初は団体での旅行の中止を伝えようと臨んだのだが、和泉さんご夫妻から8名だったら私の方で車を用意しましょうとの申し出があり、そこで方向転換、実施することで話を進めることになった。久保さんからは奈良市のそば屋を4店紹介して頂いた。しかし宿はコースが未定なこともあり、参加の皆さんにはアウトラインが決まってからお知らせすることにして、取り合えず帰りに前田書店へ相談に寄った。私はいつもなら蕎麦前を頂くのだが、前日に大腸ポリープを切除して禁酒 を命じられていたこともあって、車の運転は可能だった。
 宿は前田さんでは「奈良ホテル」を推奨、電話ではツイン4室ありとのことだったが、仮押さえせずにネット申込みしたものだから、いざ申込みの時点では「空室なし」になっていた。帰宅してネットでいろいろ調べるが、当たったホテルはすべて満室、ただ当初の奈良ホテルに空きがあるようなサインが出たので、今一度前田さんにお願いした。結果として奈良ホテルはノーだったが、程近い「さるさわ池よしだや」をゲットして頂けた。一方、旅行スケジュールについては一切を寺田先生にお願いすることにした。そば屋は初日は奈良では最も古い「玄(げん)」に、2日目は當麻寺門前の仁王門「稜(そば)」とし、そば屋の交渉以外は一切先生に一任ということで旅行はゴーとなった。そば屋2店には、翌日に「石川県の金沢から食べにお伺いするので、何とか便宜を図ってもらえませんか」とお願いしたところ、「玄」では「せいろ」と「田舎」8人分を余分にお打ちしましょうと言って下さったし、「稜」でも確保して置きましょうと言って頂けた。寺田先生のコース取りも決まり、5月31日に事務局の前田さんから参加者全員に「奈良方面旅行のご案内」としてメールが発信された。こうして、和泉さん、寺田先生、前田さんのご尽力で、どうやら旅行が成立することになった。

● 玄(げん) (6月14日)
 予約は開店時間の11時30分、白山市番匠を午前6時少し前に出発、寺田先生の水先案内よろしく、奈良には4時間で着いてしまった。開店にはたっぷりの時間があり、先に国立奈良博物館を訪れた。「玄」からは、近くへ来たら電話下さいとのことで、博物館から出るときに電話をした。「県庁の駐車場からだったら、天理街道を南下して、奈良ホテルが見えたら、次の大きな交差点の次の福智院町の交差点を右に折れ、少し進むと右に駐車場がありますから、そこの島崎と書いてある5~7番に車を停めて下さい」とのこと、了解して駐車場を出た。ところが右折禁止で銚子が狂って方角を間違え、天理街道へ戻ってからも交差点を見落として1km以上もオーバーラン、通行人に訊き漸く件の交差点に着いた。でも今度は駐車場の場所が不明、また電話したら、極々近くだった。興善寺の門前の通路には参詣者用の駐車場はあるものの、ここは駄目らしい。寺の門前を左に折れ、狭い路地を直進すると、突き当たりにお目当ての「玄」の暖簾が見えた。予定の10分遅れで着けた。由緒有りげな門と建物と思ったら、隣にある重要文化財「今西家書院」の離れだという。小さな庭は手入れが行き届いている。
 上がると3列に座机、既に2組が陣取っていた。玄は久保さんのメモでは、春鹿酒造の後とあり、裏で続いていて隣のようなもの、当然玄でのお酒は「春鹿」のみ、純米吟醸生酒の「しぼりたて」を2合お願いした。実は春鹿酒造という醸造元はなく、正確には「今西清兵衛商店」という老舗の酒銘が「春鹿」、春は春日大社から、鹿は神の使いから、今も春日大社の御神酒を醸造しているという。お酒はギヤマン風の角瓶に入ってきた。値はしっかりと高いが、実に馥郁としていて美味しいお酒だ。
 ややあって「せいろ」、2枚ずつ運ばれる。正方形の木枠に竹簾が敷かれ、鶯色のそばが薄盛りにされている。つなぎなしの十割の極細、初めての対面、毎日必要分だけを石臼挽きにするのだという。そばの量は多くない。これだけ細いと、茹で時間は瞬時だろう。これでコシもあり、喉越しも良いのだから、もしそばの香りを最も大事にするのだったら、つゆは水のみでもよいのではと思う。
 次いで「田舎」、薄手のくすんだ陶製の浅い皿鉢の真ん中にこんもり鎮座した感じで出てきた。粗挽きで、色はそんなに黒くはない。これは石臼の加減だろう。「せいろ」より心持ち太いようだ。でも細い。ホシは細かい。そして香りはこちらの方がやや濃い感じだ。
 最後に「そば団子」、これは前日にもう一度念のため電話した折に勧められたもので、4人前申し込んでおいた。これは予約分のみ当日の朝作るとか、木の盆に2個、練り上げた蕎麦粉の皮の上には黄粉がかかり、中には漉し餡が入っているとか。私は食するのをパスしたが、味の方は如何だったろうか。
 これで此処での食は滞りなく終了した。帰りに店主のお見送りを受ける。門から出て狭い路地を歩いていると、やっと見つけたとガイドブックを手にした若いカップルに出会った。「玄」は奈良では最も古い店、とは言っても平成3年の創業、まだ17年、でも店主の島崎さんは関西そば界では、草分け的存在である。

・お品書(税別、単位百円):せいろ・いなか(10),山かけ・おろし・そばがき(12),そば団子(4),酒(春鹿)(15~25).
・住 所:奈良市福智院町 23-2,  電話:0742-27-6868.
・営業時間:(昼)11時半~1時半(入店1時迄),(夜)18時~21時(入店19時迄 蕎麦遊膳のみ).
・定休日:土(夜)と日・月曜日、乳幼児入店お断り.

● 稜(そば)(6月15日)
 2日目のコース取りは寺田先生ならではのユニークなもの、宿を出て先ず信貴山朝護孫子寺へ、そして當痲寺と門前の仁王門「稜」へ。車にナビは付いてはいないものの、寺田先生の人間ナビの案内で「稜」へも開店前に到着できた。そして昨日と同じく、先に當痲寺を拝観した。その後開店の11時45分に「稜」へ入った。入ると、左手の小上がりに4人座れる座卓が3脚、右手には檜の自然木の大きなテーブル、店主の片岡さんからはお好きな場所へと言われ、全員一箇所にとテーブルに陣取ることに。我々が最初だった。ここでも蕎麦前を少々頂くことにして、奈良吉野の地酒「花巴」純米吟醸を2合、よく冷えたのが片口に入れられて出てきた。中々癖のない淡麗な酒だ。
 程なくして、「せいろ」が伊万里の中皿の真ん中に置かれた円い曲げ物の中に入って出てきた。中細で端正なそばという感じ。手繰って食すると、コシも喉越しもそこそこだが、今少し物足りない。つなぎなしではない印象を受ける。つゆは濃い方だ。そばの量は若干多め。次いで「田舎」、四角な中皿に長方形の枡形が置かれ、そこにこれが田舎そばだという黒いそば切り、粗挽きを思わせる黒いホシが見えている。「せいろ」よりやや太め、やはりそばは綺麗に揃っていて中々端正だ。これは店主の人柄を表している。しかしこちらも強烈なインパクトが感じられない。ということは、自家製粉ではないのではと思ったりする。
 量が多いからと、一人「田舎」を召し上がらない方が出た。予め頼み込んであった手前、どうしたものかと店主の片岡さんに相談すると、構いませんと言われた。それより金沢からわざわざお出でて、もしやまずかったのではと、そんな心配をして下さったのには、かえって恐縮した。開店して11年目ですと言われる。中々感じの好い店だった。

・お品書(税込.単位百円):せいろ・田舎・そばがき(10).山かけ・辛味大根(12),酒:花巴(10~20),越の鶴(10),稜特選(15).
・住 所:奈良県葛城市當痲 1256-2.  電話:0745-48-6810.
・営業時間:(昼)11:45~売り切れ迄,(夜)創作料理.
・定休日:火曜日.

2011年8月11日木曜日

蕎麦屋情報一筆:そば切り「多門」(小矢部市)

 表記表題の初出は「探蕎」会報第40号(平成20年5月24日発行)の蕎麦屋情報一筆の欄で、訪れたのは平成20年(2008)5月11日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 平成20年の4月中旬、私が勤務する石川県予防医学協会で、同じ部署に勤務するあるそば好きな女性から、金沢市市瀬町にあった「多門」が店を閉め、新たに富山へ移って開業するという情報をもらった。その後彼女には開店案内の通知が届いたとかで、その案内の葉書を見せてもらった。新住所は富山県小矢部市金屋本江、概略の地図は載せてあるが、すごく大雑把なので、このままではとても行き着けるとは思えない。新店での打ち始めは5月8日、案内状を見せてもらったのが5月9日、早速11日の日曜日に出かけることにする。
 午前10時に家を出て、北陸自動車道を小矢部ICで下り、ここでナビに住所を入力し、それに従う。ICを出て県道42号線福光安楽寺押水線を左折、初めての平桜交差点を右折して国道359号線に入り、初めの藤森交差点を左折して県道368号藤森岡線に入る。この道を道なりに進む。県道18号線の和沢、県道16号線との野寺の各交差点を過ぎると、右手に大谷中学校のおとぎの国のような建物が見えてくる。さらに進んで県道24号線との交差点水牧を過ぎると、右手に大谷小学校が見え、過ぎたら右折、次の農道をまた右折して南下すると、程なく右手に大きな庭のある家があり、そこが新拠点の「多門」である。ICからは6km強ばかり、周りは水田、最後の右折後最初の家である。
 着いたのは11時、案内を乞うと地田さんが出てこられ11時半からだと、車の中で待つ。地田さんから案内があり、部屋へ上がる。12畳と6畳2間を通しにしてあり、見慣れた長い白木の座机が2脚とクロス張りのテーブルが1脚、6人ずつ18人が座れる。出されるそばは、十割生粉打ちの「ざる」「おろし」「とろろ」と「そばがき」のみ。家内は「ざる」、私は「おろし」を頼む。これまでの羽咋市兵庫や金沢市市瀬と同じく、店主一人での賄いだ。程なく「そば」が出る。あのホシがある手挽きの中細、久し振りにお目にかかった。感慨無量だった。店主は相変わらずの無愛想、必要最小限のことしか話さない。美味かったのでもう1枚、家内は「とろろ」、私は「ざる」にする。若干不揃いなものもあるが、これが「そば」だというい見本のようなものだ。市瀬の時には蕎麦前があったが、ここでは出ない。正午過ぎまで居て辞す。帰るまでに3組6人がご入来になった。車のナンバーは3台とも富山だった。

 品書きは、ざるそば850円、おろしそば、とろろそば、そばがきがそれぞれ950円。
 そば打ちを教えます とある。
 定休日は月・火曜日。 住所は 小矢部市金屋本江528番地。 電話 0766-68-1079 。

2011年8月10日水曜日

蕎麦屋情報一筆:「茗荷庵」(羽咋市神子原町)

 表記標題の初出は「探蕎」会報第35号(平成18年12月5日発行)の蕎麦屋情報一筆の欄で、訪ねたのは平成18年(2006)9月17日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 山へ行く予定が秋雨前線と台風13号の襲来で延期になり、それではと、かねて訪れたいと思っていた羽咋市神子原町の「茗荷庵」へ出かけた。連れは家内とその友人。名前が同じ孝子なのも何かの縁か。午前10時に家を出る。国道159号線の飯山交差点を右折して、国道415号線に入り、神子原町に到る。辺りは山間に開けた田園風景が広がる長閑な一帯で、そのそば屋はその国道沿いにある。着いたのは11時過ぎだったが、もう我々のも入れて、車が4台、石川ナンバー2台、富山ナンバーが2台、氷見に近いこともあって、富山の人も多く訪れるようだ。この「茗荷庵」については、「探蕎」会報第24号に、松原さんが「元六兵衛、いま茗荷庵 辛いおろしそば」の一文を既に寄稿されている。
 「茗荷庵」は神子原町で開店して4年目になるという。暖簾をくぐると右手に打ち場があり、ガラス越しに中が窺える。左手通路を挟んで右手はカウンターになっていて、止まり木が5つ、左は上がり框になっていて、10人は座れる大きな囲炉裏と6人座れる座卓が2つ置かれている。お品書きは、「冷」が、ざる・おろし・とろろ・天ざる、「温」が、かけ・山かけ・おろし・ニシン・鴨南蛮・天ぷら。飲み物は、そば焼酎・ビール・酒。酒には銘が入ってなく、ただ「酒」とあるだけ。女性は「天ざる」、小生は「鴨南蛮」を所望する。
 先ず冷酒が来る。藍色の瀟洒な湯飲み風の片口に、対の盃とつまの蕎麦味噌、温物は後で案内があった時にお持ちしますとの付言、中々気が利いている。次いで女性に「天ざる」が届く。天ぷらは角盆に乗り切らない6種盛り、そばは角の塗った蒸篭に盛られている。一筋摘まませてもらう。細いが中々コシがあってしっかりしている。喉越しも良く、上等だ。お酒をお代わりし、鴨南蛮を出してもらう。温かいそばは、駅の立ち食いそばを除けば、廃業した「砂場」のそば以来だ。そばを手繰ると、温かなのにしっかりコシがある。これは余程しっかり打たないとこうはゆくまい。早々にそばをすべて手繰り、残りの鴨と葱を肴に酒を干す。この鴨と葱は絶妙の火の通し加減、実に美味い。つゆの味加減も抜群、すべて飲み干した。
 備えの芳名禄を見ると、石川・富山以外の地域からも結構来店している。そんなに宣伝しているとは思えないから、恐らくは口コミなのだろう。また訪れたい店の一つだ。少し遠いが、環境も良く、素晴らしい立地条件と言えよう。今度は松原さん推奨の「おろしそば」を賞味しよう。
 営業は午前11時~午後4時、でもそばが無くなり次第終了。定休は水曜日。電話は 0767-26-2419

 [付記] この後、七尾市国分町の「欅庵」へ寄った。ここで食べた「辛味おろしそば」の辛味大根の辛さは素晴らしく、家内はその大根下ろしを除けて食べる始末。後で店主の岡崎さんに聞くと、信州伊那の「みのわ大根」とか、直径が10cmばかりの丸い大根、今まで扱った大根の中では最も辛いと仰る。また丸いもの程辛いとも。私にとってもこれまでで最高の辛味だった。

2011年8月9日火曜日

瓢箪から駒:福井のそば屋「一の谷」で出た竹田の厚揚げ

 表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、丸岡町上竹田へ寄ったのは、平成18年(2006)4月15日、23日、30日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

● 4月15日は坂井市長・市議の選挙事務所開き
 福井県坂井郡丸岡町も平成の大合併で、同じ郡の三国町、坂井町、春江町と合併し、3月20日に坂井市となり、御多分に漏れず、新しい市長と市議会議員の選挙が4月23日に行なわれる段取りとなった。この日は実は探蕎会で丸岡蕎麦道場へお邪魔することになっていたが、選挙当日とあれば勿論論外で、1週ずらしての30日にしたものの、その日は道場主の海道さん宅では田植え時の大変忙しい最中、1日位空けますと言っては頂けたものの、本当に申し訳ない。さて、いつもお世話になる丸岡蕎麦愛好会の世話役の1人である旧丸岡町議の小見山さんが、新市会議員に立候補されることになり、その選挙事務所開きが15日にあるという。その必勝祈願に波田野会長と前田事務局長が出掛けられることになり、2人では余りにも数不足とかで、永坂、寺田の2長老も同行することに、更に無理やり小生も割り込んだ。
 前田局長運転の車で金沢を午前10時に発った。昼食は当初は加賀尾口の「山猫」の予定だったらしいが、会長の希望で越前朝倉の「利休庵」にしたとか。車は加賀産業道路を経て国道8号線を丸岡へと向かう。もう11時に近い。事務所開きは午後1時、後3時間ばかり、逆算して朝倉への往復は無理と判断、国道沿線で済ますことにする。さて、何処にするか。会長推薦のそば屋があるらしいがそこは予約制とかで断念。とすると、8号線を福井へ向かう時にいつも左に見える平屋建てのそば屋しかないか。時々前を通るが、一度だって入りたいと思ったためしがない店である。外見もさることながら、隣に赤錆が出たトタン葺きの建物があり、そば屋にしては環境が良くないこと甚だしい。
 熊坂川を渡って程なく、その店に着く。「そば」と青地に白抜きした旗竿が濡れて立っている。意を決して、小雨の中、「一の谷」へ入る。ところが、中は思ったよりスッキリしてたのには驚く。外見や周りの環境に左右される予見は禁物か。濁り池に咲く清楚な睡蓮や蓮の花とまではゆかなくても、何かそれに近い印象を受けた。入り口に近く4人掛けの机1脚、左手通路を挟んで左右の小上がりに4人掛け座机4卓。右手の小上がりに上がる。
 品書きはと見ると、「冷」は、おろし、とろろ、とろろおろし、ざる、山菜、「温」は、鴨鍋、かけ、牛すじ、とろろ、山菜。会長は「とろろおろし」、他の4人は「おろし」を頼む。待つこと暫し、おろしは出汁と一緒に大きな鉢に入っている。そばは二八、幾分細め。越前そばと言うと、ごつごつした田舎そばを思い浮かべるが、ここのそばはそれとは異なる印象だ。そばにおろしの入った出汁をかけ、あっという間に胃の腑に納まった。まずまずの食感だ。でも、可もなく不可もなしか。時間はというと、まだ1時間半もある。
 少しアルコールを入れたらとの局長の言に甘え、富久駒1合と通しに「竹田の厚揚げ」を所望する。酒は真ん丸で透明な硝子の銚子に入っており、それに対のグラス、清々しい感じだ。厚揚げは厚さ一寸近くあり、半分の片面を焼き上げて、六つ切りにしたのを横長の皿に盛り付け、それに葱と大根下ろしと専用の醤油だれが付いている。切り口はと見ると、内は詰まってなく、パンに似たようなスカスカした風情、初めての出会いだ。なかなか旨い。一時は福井の人だった会長に尋ねると、名前は聞いていたが、食するのは初めてと仰る。永坂、寺田の両長老も所望される。これは掘り出し物だ。これがあれば酒がすすむことは必定。こうなると、他のつまも美味しそうに見えてくるから不思議だ。曰く、鴨塩焼き、牛すじ、山菜、冷や奴、等々。この厚揚げは何処かで買えるのかと尋ねると、スーパーでもと。でもややあって、20分程待って頂ければ取り寄せますとも。でも20分は待てないとお断りする。会長はこの「竹田の厚揚げ」の幟を竹田の村で見たことがあると仰る。もし時間が許せば、手に入るかも知れないと淡い期待を抱く。
 丸岡の町はこの日から3日間は桜まつり。丸岡城を経由して小見山さんの選挙事務所へ向かうが、祭りで道路封鎖もあり、ナビどおりには行かなかったが、やっと目的地に着けた。事務所は何と真宗のお寺さんの本堂、これには驚いた。初の体験だ。聞けば初回からとか。町中には立候補者用の掲示板が目立つ。市長には4人、市議会議員には48人のスペースが。市長は事実上2人の一騎打ち、議員は42人から30人とか、中々厳しい選挙だ。当の小見山さん、それに市長候補の林田さんも見えた。林田さんは会長とも親しく、丸岡を蕎麦生産量福井一にした人だ。祈必勝の檄が所狭しと並ぶ。会長持参の有名書家筆の檄も並ぶ。堂内には支援者の方々が詰めかけられ、雰囲気はいやが上にも盛り上がっている。御両名が挨拶。心から必勝あらんことを願う。投票権がないのが玉に傷。晴れて当選されんことを祈念して辞す。帰りに若月さんの案内で、林田さんの事務所にも寄った。ここの檄はもう張る所がなく、天井にも重ね張り、激戦が伺われる。暫し歓談。公示は明日だが、選挙はもう終盤だと仰る。
 事務所を辞したのが2時少し前、局長用事の6時にはまだ4時間ばかり、竹田・大内経由で帰ることに衆議一決、会長の通い慣れた人間ナビの誘導で、一路竹田へと向かう。丸岡から南下し、通称永平寺道路から山に入る。この新道の開通で、永平寺と山中温泉が緊密になったとか、観光も広域的になってきている。会長の言では、天気が好ければ、高架橋からの越前平野の眺めはは大変素晴らしいとか、でも生憎の曇り空で霞んでいる。近庄峠を貫く新道のトンネルを2つ抜けると竹田は近い。ここは竹田渓谷の上流、丸岡町上竹田、千古の家や龍ヶ鼻ダムもある景勝の地、程なく会長の言う「竹田のあげ」の幟が見えた。
 人々は名物の油揚げを求めて、ここ谷口屋に来るのだろうか、狭くもない駐車場は満車の状態。早速店に入る。店内もほぼ満席。かろうじて空いていた一画に陣取る。個々に湯豆腐ほかを頼み、自前で熱くしてその熱々を食する。丸大豆特有な旨味のある「絹ごし」、中々美味い。土産に「竹田のあげ」2枚と「竹田のとうふ」2丁を求める。締めて960円也。当然、皆さんも買い物。見てると、豆腐や揚げのみ求めに来ている人もいる。効能書きには、白山禅定の清水を使用して、昔ながらの製法に拘って作っているとも。そして竹田の揚げには、「北陸の名物」と銘打ってあった。帰って早速厚揚げと湯豆腐をつまにして一献、至福の時を過ごす。カミさんが居れば、2枚2丁は消えたものを、独りとて、翌晩もまた同じパターン。その晩遅く帰ってきたカミさんに、竹田の厚揚げと豆腐は大変美味だったと吹聴すると、今度の日曜の23日に連れて行けとの御託宣、聴いてやらねばなるまい。23日は坂井市の市長と市議の投票日でもある。
● 9月23日は坂井市長・市議の投票日、カミさんと丸岡へ
 午前10時少し前に家を出て、先ずは「一の谷」へ向かう。辿るコースは先週の土曜日と全く同じ。店には既に先客が2組、蕎麦前でかなりの出来上がり、地元の人とお見受けした。程なくまた2組、これで満席となる。親しげな語り口は、同じ村の出の感じ。そう言えば、この店昔は村で食堂をしていたとか、故あってこの8号線沿いに店を構えた由、地の人が多い訳だ。小生はこの前と同じく冷酒、それと通しに「鴨の塩焼き」を所望。カミさんは「厚揚げ」と「とろろおろし」。やヽあって、山菜の天ぷらが出来上がったので如何ですかと、揚げたてを一盛り頂く。コシアブラ、タラの芽、コゴミ、センナなど、この時期の山菜だ。酒が更にすすむ。もう一盛り頂く。大変美味い。しかし鴨の塩焼きは、幾分厚めに切った肉の塩焼きだが、焼き過ぎで硬い上に香りもなく、感心した出来ではなかった。やはり蕎麦前の鴨は鴨ロースに限るようだ。締めに「おろしそば」を頂き、次の竹田へ向かう。
 選挙はどんな具合だろうか。「一の谷」はあわら市なので、隣の市のことは分からないと。竹田へは丸岡を通らないと行けないらしい。丸岡へ寄ったので丸岡城へ案内する。遅咲きの桜が満開で見頃である。城の資料館にも寄り、ここで竹田への道を聞く。竹田渓谷沿いの道が近くてよいとのこと、親切に教えて頂いたとおりに進むと、山竹田に着いた。道を南下して上竹田に至る。幟がはためく谷口家は、日曜ともあって駐車場は満タン、道端に車を停めて店に入るが、席を取るのに長い行列。買い物をしようと思ってもこれまた列。やっとの思いで厚揚げ2枚と絹ごし大2丁にがんも2つを買い、早々に退散した。この山の中でよくぞこの混雑、良い道と車がなければ、こんな地で商売が成り立つ訳がない。
 谷口屋では何も口にすることは出来なかったので、山竹田の新道脇にある「ふるさと渓流」に寄った。店の前には立派な本石楠花が今を盛りの満開。店は広いが、客はほかに1組のみ。山の幸なら、四つ足よし魚よし山菜よしの何でもござれの品書き。そばは地元丸岡の玄蕎麦を使用とあるが、どうも期待できそうにない。しかし、福井県の地元蕎麦を使用する認定店とある。そう言えばそれを証明する幟も立っている。野菜の煮物の付き出し、山菜鍋と冷や酒を頼む。ここにはチャンとノンアルコールビールが置いてあり、カミさんはそれを飲む。仕上げに「おろしそば」を。中太の二八そばは推奨できかねる品。それかあらぬか、客は少ない。日曜の昼というのに、谷口屋とは全く対照的だ。
● 4月30日には探蕎会で丸岡蕎麦道場へ、坂井市長選・市議選は惜敗
 翌週の30日の日曜日、待望の丸岡蕎麦道場行き、参加者もこれまでになく多い。総勢28名にもなり、マイクロバス1台では納まらず、自家用車2台が追加される。天気は上々、国道8号線経由で海道さん宅の蕎麦道場に着く。既にいつもより多い愛好会の方々が満を持して待っておいでた。海道さんの娘御さんもおいでる。動員されたのだろうか。若月さんも、そして小見山さんも、小見山さんは33位で惜敗だったとか、やはり広域選挙となると中々厳しいらしい。それにしても、1年に春秋2回もの訪れ、押しかけ女房のようで、本当に申し訳なく思う。予定より1週の遅れで、待望のコシアブラは無理だろうと話し合っていたのに、着いたら真先に素晴らしい逸品を見せて頂き、只々感謝であった。その天ぷらの美味なこと、加えて美味しい手打ちの「おろしそば」を存分に頂き、お酒は持参した3升4合では足りず、焼酎そば湯割りまで頂く始末、全く申し訳ない。小見山さんお手製のおにぎりも、あっと言う間に無くなった。良い鯖が手に入らず、バッテラは出来なかった由だが、それにしても頭が下がる。終いに近く、海道さんが模範手打ち、全く隙のない流れ、切り揃えたそばは、お持ち帰りにと。おんぶにだっこだった1日だった。只々感謝々々。
 帰路は局長の発案で竹田経由となる。それならば、ぜひ大杉商店の「へしこ」を求めなさいと、小見山さんのお勧め。皆さん賛同され、早速小見山さんが電話される。何しろ樽仕込みなので、それから出して包装するのに時間を要するので、予め連絡するとのこと。薄塩仕込で殊の外美味しいと言われ、20人ばかりが予約。山竹田の三叉路を真っ直ぐ直進すれば右手ですと教わる。今回は道路標識に従って素直に辿ったところ、先週私達が通った竹田渓谷沿いの道となった。三叉路を右と思っていたが、道なりからすれば真っ直ぐが正解と言える。南下する旧道沿いに大杉商店はあった。1パックに二枚下ろしの1尾、凄く立派で大きい。見ればノルウェー産とある。一目見て、小見山さん手製の立派なバッテラを想い浮かべた。店主は帰り際、くれぐれも生でなく焼いて食べて下さいと念を入れられた。加賀の糠漬けなら生でも食べられるのにと思ったが、塩の案配の違いなのだろうか。でもここは郷に入ればの譬えで従わねばなるまい。
 次にお目当ての谷口屋、今日も相変わらずの押すな押すなの盛況、買い物の列は店の外まではみ出している始末、現物を抱え込んで並ぶ方も。いやはや。でも我々のグループには、我関せずと森林浴よろしく外で談笑される御仁もおいでた。一時の熱に浮かされないのは偉い。小生はといえば、へしこ(大杉の薄塩鯖糠漬)1パック、竹田の厚揚げ2パック、同絹ごし大2丁のゲット。今宵はこれがあれば、カミさん共々これで十分な肴。何しろ直仕込なのが良い。充実した1日だった。

[閑話休題]
 後日、カミさんが、とある大型スーパーで「竹田の厚揚げ」を見かけ、買ってきた。賞味期限が3日後ということは2日前の製造ということになるが、運が良ければ、当日製造の揚げに出会えるかも知れない。カミさん、丁寧にも店員に、これは大変有名で美味しい豆腐だと吹聴してきたとか。でも、これもイヤハヤの類である。「絹ごし」は置いてなかったそうだ。これでどうしてもという時があっても、竹田まで行かなくてもよくなった。カミさんもあちこち歩けば、竹田の厚揚げに当たる。

2011年8月8日月曜日

遠州・美濃探蕎の旅の2日目、岐阜に吉照庵を訪ねる

 表記表題の初出は「探蕎」会報第34号(平成18年7月20日発行)で、遠州・美濃探蕎の旅に出たのは、平成18年(2006)6月10日と11日、吉照庵を訪ねたのは6月11日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 「今回は長老扱いに」
 遠州・美濃探蕎の旅の2日目の朝は、浜名湖畔舘山寺温泉の宿「ニューいずみ館」で迎えた。同室は寺田先生と久保さんと私、部屋割りは前田局長によるものだが、これまでは少なくとも小生は長老と目される方々との同室はなかったと記憶しているのだが、今回は到々年寄り扱いにされてしまった。外は霧雨か、湖面が煙って見える。釣り人も傘を差している。御両名は装束を改めて、近隣へ朝の散策にお出かけになった。小生はというと、朝風呂から上がり、部屋で湖面を渡る風を満身に受け、持参の「菊の露」で身を清めていた。そこへ前田局長のお出まし、一献を勧めるが、不要とのこと、代わりに「白州の水」を所望とか。それもよしとするか。
 用件は、今日の探蕎先である「胡蝶庵」と「吉照庵」の割り振りのことである。昨日から案が二転三転、大筋としての、前田・塚野両名の胡蝶庵、木村の吉照庵は良しとして、後の面々は流動的であったが、漸く確定したと。胡蝶庵は1組4名様までとあるので、2卓8名が限度とあって、その辺りが思案のしどころだが、局長の英断で、胡蝶庵8名、吉照庵7名となった。
 「胡蝶は本隊、吉照は別働隊」
 気になったのは、胡蝶を本隊、吉照を別働隊と命名したことである。両庵は岐阜市では双璧だろうが、片や新進気鋭の洗練された蕎麦屋、片や古い街中にある昔からの大衆蕎麦屋、雰囲気が全く違う。胡蝶庵へは、現在地へ移転して2年ばかり経った頃に寄ったことがあるが、鮮烈な印象が残っている。印象記なる拙文を「探蕎」会報第11号の蕎麦屋情報一筆に寄稿したことがあるが、雰囲気としては、とにかくわいわいがやがやとは全く縁がない、静寂が漂う店なのである。本来ならば皆さんに両方の雰囲気を味わって頂ければ、この上ないことなのだが、それは時間的にも無理なことである。それに、胡蝶庵には小型車しか駐車できず、マイクロバスは吉照庵にしか停められない。両店間の距離は長良川を挟んで、直線にして2kmばかり。結論として、バスで胡蝶庵へ行き、局長のいう本隊を下ろし、残りの別働隊はバスで吉照庵に行き、ここにバスを駐車することに。そして本隊は終了後、川辺をブラブラ散歩しながら吉照庵まで帰って来るという手立てにした。
 朝食には軽くビールが付いた。身支度をして、8時過ぎに宿を後にする。東名高速道経由で岐阜市に至る。小生は程よい振動と菊の露とキリンでお休みの体、目が覚めると、車は既に岐阜市に入っていた。長良川に架かる忠節橋が目指す胡蝶庵の第一の目印。以前の記憶では、橋を渡り、電車の線路の手前を左に折れ、最初の踏切を渡り、そこをそのまま進んで掘割を渡ると右手にあったと記憶している。だが電車は廃線になった由。バスは元の駅を左に見て直進する。そこで次の交差点を左に入ってもらう。少々行き過ぎだが、とすれば戻ればよい。道はT字路になる。もう近い筈。本隊8名はここで下車し、小生が勘を頼りに先導、先ず掘割へ。ものの1分程で掘割に当たる。そして右へ掘割沿いに進むと、お目当ての胡蝶庵が見えた。既に高級車が3台ばかり駐車している。玄関のつくばいの風情が良い。初めに1組4人、次いで残り4人が庵に消えた。一抹の寂しさを禁じ得なかったが、小走りにバスへ戻る。
 「パトカーに道を尋ねる」
 古い街並みでは路が狭く、特に吉照庵辺りはそのせいで一方通行が多い。塚野さんから頂いた道路地図が頼りだ。橋は一本上の金華橋が目印。バスはとにかく東進して広い通りへ出たら右折して、取りあえず川を渡る算段。ところがかなり東へ進んで右折したのに、渡った橋は忠節橋、リングヴァンデリングだ。気を取り直し、川沿いに金華橋へ向かう。右手には金華山が聳える。バスにはナビは付いてはいるが、吉照庵のある米屋町の表示が出ない。というのも町名表示が昔のままで、町の区画が実に小さい。金沢で言えば、油車や池田町界隈のような感じだ。金華橋を渡ってから反転して南下するが、何処で左折してよいのか全く分からない。丁度とある交差点で止まったところ、隣にパトカーが止まったので、吉照庵はどこですかと尋ねると、次の交差点を左折し、広い通りを道なりに進み、広い通りの交差点を右折、二本目の一方通行の路を入ればすぐとのこと。地理不案内で先導して貰いたい位だった。でも迷わずに着けた。駐車場は広いが、バスの区画はない。鍵を預け、そぞろ店に入る。店は大正初期の数奇屋風の造り、古めかしく落ち着いた佇まい、一見して老舗という感じがする。雰囲気は中々良い。
 中はほの暗い。座敷でもなく、かといって小上がりでもなく、その中間。部屋の感じは百年以上タイムスリップしたよう。昔野々市に「にゅうりや」という仕出しもし、そこで料理を取り酒も飲める店があったが、フッとそんな印象が過ぎった。上がると、ある一画に案内され、漆塗りらしき座机二連に7名が座った。
 「蕎麦前教育不足では」
 姐さんが来たので、取り合えずお酒を5合と言うと、5合もですかとびっくりした様子に、こちらが驚いた。1人5合なら驚いて貰ってもよいのだが。此処では蕎麦前の教育はしていないのだろうか。銘柄を任され、根尾の「薄墨桜」とする。酒の菜は個々に色々と注文する。板わさ、天麩羅、山かけ納豆、そば豆腐、イクラ下ろし等々。やがて薄墨桜が片口に入ってきた。盃も大きくてよい。流行の手作り風だ。と言って、お酒を飲まれない会計担当の米田さんは何を飲まれたかさっぱり記憶にない。別働隊は共同体のような雰囲気で、あれこれ少しずつ賞味する。個々には何ら不満はなく、満更でもない。更に2合の追加を所望する。そばは皆さん「鴨せいろ」を頼んだ。
 「画竜点晴を欠いていた鴨せいろ」
 「鴨せいろ」が来た。そばは長方形の使い込んだせいろ2段に入っている。そばは十割の伝承美濃そばとの触れ込み、色は黒くなく、むしろ白っぽい。伝統の極細打ちだが、そばの太さは不揃い。一見手打ちと分かるが、素人目にも不揃いはいけない。仮にもプロならば、揃っていてほしい。一筋取ってそばの味を味わおうとすると、取れないではないか。団子状とまではゆかなくても、せいろに入っているそばが全部持ち上がってくる感じだ。これは茹でに問題があるのか、締めに問題があるのか、せいろに盛ってから時間が経ち過ぎているのか。ならば,伝統に拘らずに、極細でなく細打ちにした方が良いのではと思ったりする。この日も混んでいて、どれ位の人数が入っていたかは知らないが、しかし天下の吉照庵のそばがこれじゃお粗末過ぎる。出汁の方が上等だっただけに、画竜点晴を欠いていた。
 「小吉と大吉と」
 かれこれ1時間ばかり居たろうか、吉照庵を出る。タイミングよく本隊から連絡あり、松田さんには吉照庵までは遠すぎるので迎えを頼むと。OKせずばなるまい。帰り際フッと見ると、店の外れに道路に面して高札があり、ここが江戸時代、歴代尾張藩主が岐阜御成りの際に本陣を勤めた賀島家があった処とか。その賀島家は明治24年の濃尾大震災で焼失したとのこと、由緒ある地なのだ。
 忠節橋を渡り、件のT字路にバスを止め、胡蝶庵へ迎えに行く。本隊第2陣は外にお出ましだったが、第1陣はまだ中とか。入ると奥の間に未だ鎮座。局長の言では、蕎麦三昧が丁度我々で終いであったが、中々良かった由。ただ出てくるのに時間が掛かったので、この時間になったとか。止むを得まい。済むのを待ってバスへ戻る。これで全員集合。こうして今回の探蕎の目的は果たされ、帰路につく。小吉、大吉はあったものの、一応は大団円。当初ではもう一軒という案もあったようだが、高速利用ということで割愛となった。
 「おわりに」
 小生バスに乗っては白河夜船、どこのICから上がったかも知らず、目が開いたら蛭ヶ野PA,清算を兼ねて休憩する。大日ダイナランドスキー場が雄大に広がって見える。晴れていれば、大日岳も白山も見える景勝の地なのに、雲に隠れている。今回の会費は4万円也、それが清算で8千円も戻り、すこぶる得した感じ。参加の皆さんご苦労様でした。特に往復の運転をして頂いた和泉さん、島田の宮本で水酒を飲まれずに和泉さんの運転の代行をされた塚野さんに、深甚の謝意を表したい。

2011年8月5日金曜日

丸岡蕎麦道場で食した「そば」は最上々、これこそ究極のそばか

 表記標題の初出は「探蕎」会報第32号(平成17年12月27日発行)で、訪問したのは平成17年(2005)11月13日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 平成17年の丸岡の海道さんのところの蕎麦の生育は芳しくなく、二度蒔きもしたとか。また蕎麦の丈も低く、収量も多くなかったそうだ。ところが、蕎麦の質はこれまでになく上質で、しかも完熟前に青刈りしたことによって、玄蕎麦の質が一層高まったと仰る。
 一番初めに「おろしそば」。中細のそばは仄かな鶯色、芳しい蕎麦独特の香り。このそばを見ていると、初めて「ふじおか」へ出かけた時のときめきを感じた。二すじ三すじ口に含む。十割生粉打ちなのに硬くはなく、程よいコシ、二八にも劣らない喉越し、甘味も感ずる。正に逸品である。これ以上の「そば」があろうか。今年出会った「そば」の中で、このそばの右に出るそばはない。これは究極の「そば」だ。正に絶品。
 あまりの美味さに、「水そば」を所望する。水は竹田川の伏流水、水そのものが大変美味い。そばの真髄は、水そばでこそ発揮される。このそばに汁(つゆ)は必要ない。蕎麦自身の持つ色を愛で、芳しい香りに酔い、仄かな甘味を舌に感じ、硬くもなく、柔らかくもなく、正に中庸、啜れば何とも言えない甘美な喉越し、つるつるでもなく、勿論もさもさでもない。正にこれは究極の「そば」としか言いようがない。絶品だ。
 次いで「釜あげ」を貰う。こういう食べ方は市中のそば屋では決して味わうことができないだけに、貴重な経験だ。器に茹で上がったばかりのそばを、少し取り分けて頂く。小見山さんから、醤油はチラッとかけるように、決して余計かけないようにと、助言を頂く。一口頂く。口中に蕎麦の強烈な香りが充満する。ふと、幼いときに祖母が打ってくれた蕎麦の香りが蘇った。何とも不思議な一瞬だった。もつもつした感じ。これなら「そばがき」も最高だろう。
 締めに、再び「おろしそば」を頂く。「越前おろしそば」と言えば、あの硬くて太い黒い田舎そばがベースのおろしそばを思い出すが、とすれば、丸岡蕎麦道場で頂いた「おろしそば」は何と命名すべきか。この「そば」は、先ず絶品の玄蕎麦があって、しかも優れた三立てがないと、生まれる代物ではない。
 終りに近く、海道さんが皆さんの前で「そば」を打たれた。これまで何度かお見受けしたが、この春に打たれた時と今度は、京都の「じん六」さんから伝授された技での方法とか。通常の打ち方と違う点の一つは、最初の蕎麦粉への加水に、規定量の8割もの水を一気に加える点で、蕎麦粉が水の中に浮かんでいるような始末、それでも水回しをするにつれて、そぼろ状態になってくる。残りの水を加えて、更に動作を続けると、立派にまとまった。菊練りに入る。ここでもう一点、力任せに強く揉まずに、柔らかく、そして時間も長くかけないことが肝要とか。こうすることで、細かい空気の泡が程よく捏ねたそばの中に分散し、食べる時の口当たりを良くするとか。これが「じん六」の極意の一端とか。次いで延し、4本の麺棒を自由自在に使い分けて延ばす。打ち粉は極力少なくするとか。粉がそばに食い込むと、これまたそばの味を落とす原因になるとか。延していても、そばが縮むのがありありと分かる。粘りがあるというか、実に弾力性に富んだ蕎麦だ。厚い丸い玉が魔法のように、本延し後には薄い正方形になる。延し終わって畳む。この時は打ち粉をたっぷり、もう延しがなければ,食い込まないと。粉は切った後で払えばよいという。切りに入る。実にリズミカルに、等間隔に切り揃えられ、手際よく生舟に並べられる。速い。切った「生そば」を口に含んでみて下さいと。口にすると、口中で溶けてしまう。驚いた。やはり究極の「そば」なのだ。このような方式でのそば打ちは、福井では他にはまだやられていないとかで、他で打つ時は、従来の方式で打つことの方が多いとも。
 今年の蕎麦は質が上々なこともあって、何回かお邪魔した中でも最高の出来だった。探蕎会では丸岡蕎麦道場に春と秋に訪れるのが、半ば恒例化してしまっている。春の山菜、秋の新そば、ご迷惑なのではと思いながらも、次回が心待ちにされる。今回も、海道さん、小見山さん、若月さんのほか、沢山の方々に接待して」頂いた。実に冥加に尽きる。本当に有り難うございました。
 追記:「そば」のことのみ書いてしまったが、いつも用意して頂く酒肴の、バッテラ、笹寿司、煮物、甘酢漬け、浅漬けなどは、皆さんが丹精込めて作られた品々だけに、大変美味しく、楽しみにしている。中でも特に小見山さん手作りのバッテラは素晴らしく、何時もながら玄人はだしで圧巻だ。感謝々々。

2011年8月4日木曜日

今秋の探蕎会蕎麦花茶会の集いは戸室山麓に近い山間の喬屋にて

 表記表題の初出は「探蕎」会報第32号(平成17年12月27日発行)で、行事があったのは平成17年(2005)10月29日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 探蕎会が行なう蕎麦花茶会はこれが4回目、ひょっとして以後は毎年催されることになりそうだ。とはいっても、これは会員の中に松田宗和先生という裏千家の茶匠がおいでるからこそで、とても素人集団では取り仕切れる類のものではない。もっとも茶道に無頓着な小生でも、見てると、当日出席された会員諸氏の4割近くの方は、少なくともお茶会でお茶を頂く作法を心得ていらっしゃると見た。どうも、懐紙と黒文字は必携のようだ。お茶席の後の飲み会で、「加賀に居て、お茶を頂く作法とお能くらいは知っておかないと」と越中の女人から喝破されたのには参ってしまった。さらに重ねて、「お茶会での無作法は、失礼にあたるのですよ」とも。何とも穴に入りたい心境になってしまう羽目に。必要最小限の作法は、来年の茶会までには身に付けるよう、努力せんならんとも。そうだ、探蕎会事務局あたりで、会員用に『茶道作法』「探蕎会茶会でこれだけは守ってほしい心得」という副題を付したマニュアルを作成しては頂けないものだろうか。かくいう小生、石川県職員の時、研修で丸1日かけてお茶の心得・作法を伝授されたが、通り一遍とて、全く身に付かなかった。ただその時「お茶の作法には、全く無駄がなく、且つ合理的な所作である」と言われたことだけが、今でも脳に刻み込まれている。
 今年の会場は、当初の行事予定では10月19日の水曜日に、第2回と第3回の会場となった旧鶴来町の「草庵」とのことだった。でも、お茶会で30人も集うには幾分狭い嫌いもなくはなく、誰が最初に邂逅したのか、それで今回の会場の「喬屋」に白羽の矢が立った。7月半ば、前田局長と小生とが検分と交渉を兼ねて出かけ、日は二転三転したが、結果として10月29日の土曜日に決まった。ただ、これだけ時期が遅くなると、恐らくは会長から蕎麦花の提供を委嘱されているだろう早川先生にはご迷惑なのではなかろうかと、ふっと先生の顔が浮かんだ。
 今年はどうしたことか、週末になると天気がよくない。勤め人の小生にとっては、土・日は山へ行くかきいれ日なのに、何ともやりきれない。案の定この日も雨。和装の方々は大変だ。中でも女性の方はどうされるんだろう。道行ぐらいではどうにもならない雨、大型のマントかポンチョをスッポリ纏えば濡れずに済むのではと思ったりする。まことに恨めしい雨御である。
 お茶会は午後2時の開席、1時半の集合。会場の「喬屋」は金沢市俵町、バスの便はあるものの、2時間に1本という山間の地、自家用車という手はあるものの、お酒が出るとあっては、「飲んだら乗るな」との鉄則もあることから、事務局には山へ向かうバスの時刻を予め皆さんにお知らせしてはと提案してたのに、その返事はない。局長には何か思案があるのだろうと思っていたところ、迎えに上がるとのこと。これにはたまげた。ただし10時に。前田局長の迎えは4回に及ぶという。何と献身的な。現地参集が当たり前なのにと思うと、彼の人となりに只々感謝々々。初回は野村会員同道のお道具運び、2度目は山から下りて野々市で小生を、返して野町で寺田先生を、そして清川町で松田宗匠を迎えに上がり、再び山へ。雨の中、再度、再々度と迎えが続けられた。本当にお疲れ様でした。
 局長の言では、今日は送迎の任に当たるので、お酒は口にしないとか。何と殊勝な、事務局長の鑑とも思える言。ところが、集合時間近く、漸く4巡目が済み、安堵の顔を見せる局長に労いの言葉をかけたところ、「帰りの送りはカアちゃんにまかせて、酒を飲むことにした」と。突然の変心。原因は何と平澤会員提供の「十四代」に目が眩み、白旗の由。でも良かった。飲みたいのに飲めない彼を前にしては、小生ならずとも気が滅入る。
 筑後20年の欅造りの建物の1階は田の字型、奥の2間がお茶会の席、襖を外し、床の間には掛け軸を、床には三彩(白・紅・黄)の蕎麦花、その前にはお手前をする風炉が設えられ、上手に藍色の毛氈と下手にはコの字に緋色の毛氈が敷かれ、お茶席が完成した。手前左手の1間は控えの間、右の1間はお水屋、皆さん甲斐々々しい。用意は整った。>
 会員諸氏が席に着かれたところで、波田野会長からご挨拶。お茶会は定時を少し回って、松田宗匠の口上があり始まった。お手前は塚野会員の御愛娘、お運びは袴姿の野村会員とお美しい着物姿の米田会員、正に絵になる。正客は波田野会長、次席は越浦副会長、次いで岩先生、寺田先生、そして着物姿の永坂先生、早川先生と続く。後は会員諸氏適宜。広いのでゆったりしている。菓子が運ばれる。懐紙と黒文字は持ってない人もあろうかと、松田宗匠が受付を申し出られた寺田先生に託されたお陰で、正座した会員諸氏の前には、必携の品がチャンと揃っている。皆さんお菓子を取り分けられ、賞味される。
 やおら、時を見計らって、一服目が正客へ。間を置いて、水屋からもお二人によって順次お茶が運ばれてくる。お茶会半ばには、この後出し物を提供される予定の斉藤社中の方々が、そして終りに近く塚野会員が止めに入られた。父には娘さんがお茶をお運びされる。感激の一瞬、誰となくフラッシュが焚かれる。かくしてお茶会は賑々しく、ちょっぴり厳かにお開きとなった。それにしても、広いということは良いことだ。初回の宗匠の清遊庵での会では膝をくっつけ合って座ったし、次回の草庵では2回に分けて行なったし、次々回の草庵では出し物もあって立礼だったことを思うと、場所の不便さを差し引けば、今回の会場は文句の言いようがなかった。ただ、お道具はできるだけ簡略にされたとは仰るものの、運び込みし、セットして、本番を取り仕切り、片付けして、持ち帰らねばならず、大変な労力だ。
 次に、斉藤社中の出し物、お二方による三弦と篠笛の調べに歌澤、そして斉藤会員による書のコラボレーション、15分の時間一杯で諸氏を堪能させた。心憎い限り、プロのなせる仕業だ。書は傍らに陣取った会長の申し出に応じて、「探蕎」と筆太に揮毫され、そして落款。ここで会長からさらに「そば三彩の宴にて」の署名の希望、再び筆を取り申し出に応じられる。場所が場所なら畳大の紙に極々太の筆でとも。そう言えば、そのパフォーマンスに以前お目に掛かったことがある。
 諸氏の協力のお陰で片付けが終わり、飲みの会に移る。テーブルの配置では議論百出、船頭多くしての例えの典型、終いは喬屋の女将の言で漸く決着。お茶会の2室と控えの間が使われることに。右奥の重厚な黒塗りの台は会長以下4人の長老、永坂・早川両先生は左奥のテーブル、松原顧問は奥さん共々右中のテーブル、後は三々五々、ただ何故か右手前のテーブルは女性のみになった。酒解禁となった局長と「十四代」提供の平澤会員、塚野・宮川両会員と小生は、目論見もあって左手前のテーブルに、遅れて入って来られた松田宗匠は永坂席、野村会員は松原席、斉藤社中の人達は控えの間のテーブルに。
 会長の乾杯の挨拶で会が始まった。料理は田舎仕立てで量はたっぷり、酒は局長仕込みの「鄙願」が6升と「十四代」が4合、徳利はなく、1升瓶からの直注ぎ、2本では行き渡らず4本に、漸く行き渡ったようだった。「十四代」は当初左手前のテーブルで処理する予定だったけれども、仏心が出て、局長は長老席と野村会員へ。さすが、私欲に駆られないところが良い。塚野会員も運転を断念しての参画、お陰で小生も心置きなく飲むことができた。ありがたい。
 やおら、控えの間では、お琴が設えられ、斉藤女史はヴァイオリンを手に登場。先の歌澤の折に、歌澤の文句が書かれた紙の裏に、文部省唱歌「もみじ」と「四季の歌」の歌詞が書いてあり、皆さんこれを歌って下さいと。初めの予定に入っていたのかどうかは怪しげだが、ともかくも斉藤女史のパフォーマンスにまんまと乗っけられてしまった.勢いとは恐ろしいもので、会員の歳も考慮し、皆さんが歌えるように選曲をしたとあって、大合唱となってしまった。何ということか、アンコールをという声まで。全く驚いた。それに応えて、譜面はないけれどと1曲あったが、何だったかは記憶が定かではない。ただテキサス在住の伊藤さんの娘さんの寺田さんがケンタッキーに住んでいたことに共鳴された永坂先生が、彼女との短い英語でのやりとりの後、洲歌の「ケンタッキーのわが家」を原語(英語)で歌い出された。しかし、歌ったのは随分昔のこととあって、途中までとなってしまった。かく言う小生もできると思いきや、やはり脱落してしまった。時間を忘れての宴、楽しい一時だった。
 それにしてもメインの「そば」は、付け足しになってしまった感を拭えない。痺れを切らした会長の発声で、漸くメインであるべき「そば」が出てきた。1日25食しか打たないという主人に聞くと、1週間分を打った位疲れたとか。でも酒飲みの身に、「そば」は格好の滋養で、私は2枚も頂いてしまった。しかし、会長の最初の1枚の提供から、殿の小生の2枚目まで、随分と時間がかかった。お開きの予定は午後4時半だったが、全部片付けが終わったのが6時半、最後に私たちが辞したのは8時過ぎ、長い人は12時間のご苦労であった。
 喬屋での蕎麦花茶会は、来年に向けて、いろんな課題を提供してくれた会だったと思う。最後に、茶会を主宰された松田宗匠と会員の送迎に多大なお骨折りを頂いた前田事務局長と御奥方に深甚なる謝意を表したい。

● お料理メモ
 ・五種盛り(銀杏酒粕漬.鰊煮.丸干し烏賊.生姜佃煮.茗荷酢漬)
 ・茸三種盛り(しめじ佃煮.ならたけ佃煮.ますたけ味噌漬)
 ・煮豚.煮玉子.レタス添え  ・小芋煮.柚子添え  ・胡麻豆腐.下ろし生姜添え
 ・小松菜.しめじ.薄揚げの和え物  ・蕪.胡瓜.人参の漬物  ・奈良漬
● 斉藤社中の皆さん(敬称略)
 ・斉藤千佳子:書(斉藤千霞)と ヴァイオリン演奏
 ・伊藤美智子:歌澤(歌澤芝駒恵)と 三弦、箏演奏(伊藤美智恵)
 ・水谷美代子:篠笛演奏(藤舎秀代)
 ・寺田 淳子:箏演奏 [テキサスから]
 ・S.ルース: [ニューヨークから]

蕎麦屋情報一筆:「喬屋」(金沢市俵町)


 表記表題の初出は「探蕎」会報第31号(平成17年10月28日)の蕎麦屋情報一筆で、訪ねたのは平成17年(2005)7月16日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 「喬屋」の名を初めて聞いたのは、6月半ばにあった探蕎会の西国への小旅行の時だったろうか。以来少々気になっていた。さて、前田書店のホームページに、局長は根気よく「日めくり日記」なるものを書き記しているが、その6月17日付けの日記に、ようやく喬屋を尋ね訪ね、これが初見とあると。しかし、そこで何ともう3回目とかの石野さんに出会ったとか。あの料理教室主宰の先生が、懲りもせずに出かけているとあっては、いやが上にも行きたくなるというのが人情。そしてその後、前田局長も何度か足を向けた由。そして私に曰く、分かり難いから、行くなら、わしが案内すると。
 機は熟した7月の頭、行きたいのだがと誘ったが、あそこのは柔らかいから、今日のところは「敬蔵」でと、何故かその時は軽くいなされた。それじゃ啼くまで待とう。それから半月経ち、薮入りの16日の土曜日、今日はどうかと電話すると、即色好い返事が返ってきた。11時に前田書店へ、そして喬屋へ案内してもらう。
 田上から昔通い慣れた医王山への道を俵へ、戸室山界隈には唯一と言う有名な信号のある交差点の手前を右に折れる。そしてその道をやや進み、用水の手前を右に曲がると、小さな「喬屋」という看板があり、そこをまた右へ、これでは初見じゃ大変だ。前田局長の言が嘘偽りでないことが判明する。漸く辿り着けた。周りは水田、家はまばら、独りで初めてじゃ、確実に途方に暮れるだろう。
 玄関を入る。デッカイ家だ。30人は優に入ろう。主人が出て来られ、一番奥へと。座してお茶を頂く。早速に「ざる」を所望する。ややあって届く。ソバは先ずまずの出来。腰もあり、喉越しも良く、仄かな香りもする。小さなホシが点々。ただ量は少なめだ。つゆは中庸か。次にもう1枚「おろし」をお願いする。ソバは同じ、おろしは大根のみ、やや多め、辛くはない。局長曰く、今日のは良いと。そして、小生の風体を観て、気を入れたのではないかとも。
 訪れた時は、他に客はなく、主人の藤田喬さんの話を聴く。開店は4月15日、そば打ちは「唐変木」、究めは「多門」とか。特に宣伝することはなく、奥方の口コミのみ。蕎麦は越前大野産、石臼手挽きで、二八で1日25食のみ、追い打ちはせず、売り切れ御免の由。
 建物の総欅造りの館は建築時一億円とも、住人は年寄り婆さん独りとなり、比較的安く買い受けたとか。でも買主の当主はここではなく、金沢市南郊の額にお住まいとか。探しあぐねた物件だったとも。今秋10月末に、探蕎会の蕎麦花茶会を此処ですることになっているが、十分ゆったりのスペースだ。

 住所は金沢市俵町ヨ67。 営業日は金曜~月曜と祝祭日。 営業時間は午前11時30分から。

2011年8月3日水曜日

大杉谷の蕎麦

 表記表題の初出は「探蕎」会報第30号(平成17年7月10日発行)の蕎麦屋情報一筆で、大杉谷へ出かけたのは、平成17年(2005)5月28日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 とある春の一日、前の週には雨で登り損ねた大日山へ出かけた。あの日はヤマケイ紹介の蟹ノ目山(ガンノメヤマ)へ行くという前田組長を無理やり大日山へ転向させたまではよかったが、登山口へ行くと生憎のザーザー降り、結局天気でこっちが折れてしまい再転向、結果として前田組の方が初志貫徹ということに相成った。6日置いた土曜日、前田組は日本百名山の越前荒島岳へ、夕方用事のある小生は大杉谷、鈴ヶ岳経由で大日山を目指すことにする。久し振りの大杉谷、とは言っても大杉谷はれっきとした小松市内、車は立派な車道を進む。ふと左手に、「そば」の看板が、近頃流行りの「ついで蕎麦」だろうと思いながらも、縁があれば帰りにでも寄ろうと思い先を急ぐ。道はやがて杉林の林道となり、初めは舗装だったが、やがて車1台が精一杯の細々とした山道に、対向車が来たらどれ位バックしなければと思うと気が滅入る。しかし、朝早いせいもあってか、どうやら登山口に辿り着けた。既に先着2名、そして後着1名。聞けばこの3名、還暦間近の退職組の面々。この年になって、山にはまってしまったと。毎週土曜の遍歴とか、恐れ入った。
 小生これまでに3回の大日山行は、すべて山中温泉の奥の真砂(まなご)から、大杉谷からは初、一度訪れたいと思っていた。山道は先ずまずの整備、大杉兜が見える頃、白山も遠望でき、鈴ヶ岳の頂を経て大日山に至る。尾根筋は春の山花が一杯。前田組長推奨のデジカメの威力に感謝しながらの満足山行となった。雪田跡のサンカヨウの群落、カタコガ原のカタクリの大群落、灌木のタムシバ、ミツバツツジ、ムシカリ、それにホンシャクナゲ、林床にはミヤマカタバミ、トクワカソウ、オオバキスミレ、エイザンスミレ等々の群生。出作り小屋下の湿原には植栽したと思われる水芭蕉田もある。往復5時間のところ6時間半もかけてゆっくり逍遥し、山を下りた。
 再び大杉谷の舗装道に戻って、件のそば屋を探すがなかなか見つからない。諦めかけた頃に、漸く小さな貼り紙を見つけた。入り口には「ゆるぎ荘」とある。はて、宿屋だったか。この田舎にと思う。中は薄暗い。人夫らしき2人が酒を飲み談笑している。親爺が相手をしているところを見ると、常連らしい。特にわしには挨拶はない。カウンターを占拠されているので、止む無く奥の炭火が燃え盛っている大火鉢の一角に陣取る。先ずビールを所望。品書きには川魚の焼き物とあるから頼むと、1時間はかかると。これから川へ獲りに行くのか、これには参った。つまみはと聞くと、何とかすると。やゝあってセンナが出てきた。
 やおら喉が潤ったところで、1日20食とかいう十割り蕎麦を所望すると、これは未だあるという。添いのバアさんが奥で何かガサゴソしている。やがて、深い大きめのドンブリに、かなり多めの細めの平打ちのソバが大杉谷の清流に浸かって、水蕎麦の風情で出てきた。ドンブリには緑の枝葉が。これは何じゃ。そりゃ大杉のお茶じゃと。親爺さんは相変わらず例の二人連れと相手。バアさんはわしと相手。お茶葉を食べるようにとうながされ、茶葉をそぞろに噛む。そばは正に水そば。で、蕎麦は先ずまず。つゆはついているが、無しでも可だった。水が美味しいからと言われ、多少濁っていたが呑まされてしまった。蕎麦の御代は壱千円也。今まで経験したことのない蕎麦だった。
 「ゆるぎ荘」は動山(ゆるぎさん)由来かと聞くと、そうだと、裏山だと。このとき小生はまだ登ってはいなかったが、話には聞いていた。また山へ来た時には寄ると言って辞した。二人連れは既に帰り、親爺は外で仕事をしていた。帰りに顔を合わしたら「有り難う」と言ってくれた。

2011年8月2日火曜日

「そば」とアレルギー

 表記標題の初出は「探蕎」会報第29号(平成17年4月17日発行)で、この一文を作成したのは平成17年(2005)3月13日である。  「晋亮の呟き」に再録する。

 探蕎会に入っている人は、皆さん蕎麦好きで蕎麦愛好家、中には高じてそば屋を負かす腕前の人もいる。蕎麦好きが原則であるからには、そばを食べない会員はいないはずだ。ところで、そばアレルギーの方は、例え好きであっても、そばは食べられないはずで、食べないとすると、そのような方は、探蕎会とは全く縁がないということになる。ところが、昨年秋の山形蕎麦行に際して欠員ができて、何方か希望の方はいませんかと、事務局からお誘いがあり、お三方が会員外で同行されたが、そのうちのお一方は私がお誘いした方で、温泉と蕎麦が大好きという、この企画にはうってつけの方だった。松川さんといわれ、私が勤務する協会の役員である。時に、松川さんからいつ告白されたかは定かではないが、「実は私そばアレルギーなのです」と。では、何故蕎麦が好きなのかと聞いたところ、「蕎麦は好きだけど、黒姫近辺の蕎麦を食べると、蕁麻疹のように体が痒くなるので、北信濃産の蕎麦は避けている」とのこと。また「他の産地の蕎麦では、そんなことは起きない」とも。こんな奇特な人と出会ったのは初めて、大変興味深く、少し調べてみることにした。
 そばアレルギーといっても、症状は、激しいショックを起こして死亡することもあるアナフィラキシーから、発疹や口の痺れ程度まで、重いものから軽いものまで、千差万別であるらしい。ところで、食物アレルギーのうちで、よくある小麦、牛乳、鶏卵、海老・蟹に対するアレルギーは、長じて大人になると不感性になって、治ってしまうこともあるそうだが、ことそばアレルギーの場合は、死ぬまで治らないと言われている。しかも、食物アレルギーの中では、生死に関わるのは唯一「そば」のみとも。
 インターネットで「そばアレルギー」を検索すると、夥しい数の例が出てくる。身体に入るルートとしては、喫食(経口的)、吸入(経気道的)、接触(経皮的)が主なものであって、いずれのルートでも体内に入ればアレルゲンとして作用するようである。明らかに蕎麦や蕎麦粉が入っている食品の喫食では当然起きるとして、通常は全く入っていないと思われるような食品でも、添加されていたために起きた例も大変多い。例えば、お菓子、お好み焼き、春巻き、ギョーザ、グラタン、コロッケ、ソーセージ等々である。蕎麦もやし(蕎麦の若芽)、蕎麦花の蜂蜜、そば焼酎も該当するようだ。また、そば屋のうどん、そばを扱ううどん屋のうどんも、そばとうどんが、茹でや湯通しで同居したり、打ち台や打ち粉の共用で付着したりすれば、元凶となり得る。花が咲いている頃の蕎麦畑の傍やそば屋の前を通っても、喘息や蕁麻疹になる人もいるとか。中には長野へ行けないという人も。そして極め付きは、「蕎麦入り胡椒」の存在で、メーカーは一切増量剤として用いてはいないとはいうものの、症例があると言うことは、疑わしいと言わざるを得ない。挙句の果ては、それを用いたカレー、ソース、ドレッシング、たれで起きた例もあるとか。
 さて、本題に戻ろう。松川さんの症状は極めて軽い方に属していると言えるが、問題なのは、黒姫近辺の蕎麦でのみ起きるという点である。初めて聞いた時は、昨年中毒死の事故があったスギヒラタケのことがフッと頭を過ぎった。私も昔から上品な美味しさで重宝して食べていて、昨年も数回頂いて鍋にしたが、全く異常はなく、初めは狐につままれた感じがしたものだ。しかしマウスの実験で毒性が確認されたとの報道には驚いてしまった。原因物質は糖蛋白であろうと推定されていて、含有量には地域差があること、90℃の加熱では毒性は残るが、100℃に熱すると無毒化するという。このような地域差が蕎麦にもあるのだろうか。
 そこで、取り合えずそばアレルギーの原因物質に関する文献がないかと、永坂先生にお願いしたところ、程なく米田さんから一編の紹介があった。学会の英文抄録であったが、その概要は発表時にトピックス「そばアレルギーの原因物質を特定」として、平成14年(2002)9月に朝日新聞と読売新聞に掲載されたという。ここでは、国立成育医療センター研究所の田中和子さんが、太平洋アレルギー・免疫学会で発表された学会誌の英文抄録と所属研究所のホームページを参考に概要を紹介しようと思う。

[抄録標題]:ペプシン抵抗性の16kDaのソバ蛋白がそばアレルギー患者の即時型過敏症反応に関係している.
[背景]:蕎麦は多くの国々で健康食品として敷衍しているが、アジアを中心としてそばアレルギーが増加している。蕎麦はアナフィラキシー症状を惹き起こすことの多いアレルゲンとしてよく知られている(食物アレルギーの3%を占める)が、その重篤なアレルギー反応を起こす原因物質は未だ特定されてはいなかった。
[アレルゲンとなる原因物質]:田中らは、これまで蕎麦粉の中に存在する24kDa(キロダルトン)(注1)の大きさのソバ蛋白が主なアレルゲン(注2)物質であると報告してきた。事実、この物質はそばアレルギーの大部分の患者血清中に存在するIgE抗体(注3)とは結合することは確かめられている。その後の研究で、16kDaと19kDaのソバ蛋白も、アレルギー検査(RAST)(注4)で蕎麦に特有なIgE抗体を持ち(検査陽性)、かつ蕎麦を食べてアナフィラキシー(注5)を起こしたことのある人の血清と反応すること、しかし、このソバ蛋白は、アレルギー検査は陽性だが蕎麦を食べてもアナフィラキシー症状が出ない人の血清とは反応しないことが判明し、より特異性が高い活性物質と推定された。次に、これら3つのソバ蛋白を胃液中の酵素のペプシンで消化し、消化後にこれらソバ蛋白がソバIgE抗体とどう反応するかをみたところ、16kDaのソバ蛋白のみ未消化で結合することが確認されたが、他の2つは消化されて結合能は消滅することが判明した。
[結論]:そばアレルギーの中でも、アナフィラキシーを含む即時型過敏症反応を起こす患者の血清中には、胃液中の酵素で消化されにくい低分子量(16 kDa)のソバ蛋白に対するIgE抗体が存在する。この抗体は重篤な症状を示さないそばアレルギー患者の血清中には存在していない。しかるに、より大きくかつ胃液中の酵素で消化される 24kDa のソバ蛋白は、通常のそばアレルギー抗体検査ではその IgE抗体は検出されるものの、重篤な蕎麦による即時型過敏症反応とは無関係であることが判明した。ということは、蕎麦粉に含まれるソバ蛋白のうち、ペプシンで消化されない低分子量(16 kDa)のソバ蛋白のみが、アナフィラキシー症状を惹き起こす原因物質であると結論づけられた。ちなみに、16kDaと 24kDaのソバ蛋白のアミノ酸配列を比較したところ、全く類似性がなかった。
[展望]:今後、この成果を生かして、重篤な症状を伴うそばアレルギーであるかどうかを確実に診断する方法の開発が期待される。
(注1):キロダルトン=1,000ダルトンのことで、分子の質量単位。分子量と考えてよい。
(注2):アレルゲン=アレルギー(過敏症)を起こす物質(抗原)。
(注3):IgE抗体=免疫グロブリンEのこと。アトピー(Ⅰ型即時型過敏症反応を起こしやすい体質)患者のアレルゲンに対する特異的抗体(レアギン)で、即時型過敏症反応を惹起する機序の本体。
(注4):ラスト法=放射性アレルゲン吸着試験。血清中のⅠ型即時型過敏症の発症抗原に対する抗体の定性・定量を行なう。複数のアレルゲンを検索できる。ただこの方法は、吸入性アレルゲンについての信頼性は高いが、食物アレルギーについての診断的価値は低いとされている。
(注5):アナフィラキシー=Ⅰ型即時型過敏症。全身アナフィラキシーでは、ペニシリンショックのように激しい全身症状(呼吸困難・血圧低下による意識喪失・蕁麻疹)が現れ、時に死に至る。

 以上が、蕎麦で起きる激しいアナフィラキシーを起こす原因物質の概要であるが、ここではより軽いアレルギー症状に関係する物質については言及していない。蕎麦にも地域によってソバ蛋白の量の多寡に差が出ることは十分考えられるし、ある地域の蕎麦にのみ特有なソバ蛋白が存在することも考えられなくもない。イムノブロッティングの結果をみると、前述の3つのソバ蛋白のほかにも、いろんな大きさのソバ蛋白が存在していて、一部ペプシン抵抗性のソバ蛋白もある。これら全てのソバ蛋白がアレルギーに関係しているとは思えないが、人により、ソバ蛋白に対する IgE抗体の獲得に差が生じているとすれば、そばアレルギーの表現型に差が出てきても不思議ではない。

道の駅「瀬女」に蕎麦処「山猫」を訪ねる

 表記標題の初出は「探蕎」会報第29号(平成17年4月17日発行)で、「山猫」を訪れたのは平成17年(2005)2月14日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 旧紀元節の日、何となく見ていたテレビ朝日に、尾口(今の白山市)の瀬戸に昨年12月開店した「山猫」の取材が映し出されていた。「そうか、そう言えばそんな名を誰かから聞いたことが」。画面では、男性が15食限定の「石臼手挽きそば」を、女性が「付け鴨そば」を食し、当然のことながら、「うまい」「本当にうまい」「こんなに美味しいのは食べたことがない」の連発。そしてオーナー田口夫妻とのインタビュー。いつか「多門」が取材放映されて、あの山の中へそば愛好者?が殺到したことを思い出した。あの頑固親爺には迷惑じゃなかったのか。
 翌日の土曜日の朝、余り天気が良くなかったのと、前日の酒宴で体調が本復しないこともあって、スキーを見送ったが、段々天気が良くなるのに気を悪くし、ままよそれなら「山猫」への遠征をと思い立った。昼を少しずらして午後1時半を目処に、道中はすいすい、「いくら放映されたと言っても、まさかはや殺到にはまだ早かろう」と思い込みながら、馴染みの「瀬女スキー場」へと車を走らせた。ところが着いてびっくり、何と、及びもつかない程の車の数、第1~第5駐車場は満タンなのか、溢れた車は第6と称する「道の駅」の一角にも、夥しい数が。そしてお目当ての「山猫」にも次々と客が。もう中を覗くまでもなく、超満員の有様に断念。1時間かけて来たのに、スキー場も満杯、そば屋も一杯、でもこんないいこことはないと祝福しつつ、その場を去った。3日前の9日には、平日だったこともあって、スキー場はガラガラ、お陰でユックリ、バッチリ滑られたのに。これじゃ今後どうなるのかと心配したが、土日がこうなら、まあ何とかなるだろう。
 再度の挑戦は、日曜日を挟んだ指定休の月曜日、天気予報が外れて晴なのに狂喜し、勇躍瀬女高原スキー場へ。午前9時から午後3時まで、お陰さまでガラガラのゲレンデで1日スキー公望、そしてやおら3時半に「山猫」へ。外からは主人が蕎麦を手挽きしているのが見える。中へ入る。右に折れ、やや進んで左が店内、右にカウンター5席、左の上がり框に座テーブル3脚、奥から6人、5人、4人とみた。先客は1組の夫婦のみ。小生は右のカウンターへ。取り合えず蕎麦前は純米冷酒に供は鴨焼き、そばはやや間を置いて「白山しぼり」太打ちを所望。鴨は塩・胡椒のみでの焼きに生姜と白髪葱、鴨はいささか薄味で物足りない。次いで挽きぐるみの「白山しぼり」、辛味大根のしぼり汁と出汁と薬味、薬味には天然山葵と葱と味噌。そばは細長の手びねりの浅鉢に三つ盛りに、ホシも大きく粗挽きで、噛めば蕎麦の香りが口中に広がり上等、程よい硬さ加減、先ずまずの出来だ。先客は加賀市からとか、「こんなに美味しいそばが、こんな田舎に」とか言い残して帰って行った。
 終わって暫らく、私はまだお若い夫婦と会話を交わしたが、素朴で朴訥で真面目、慢心しなければきっと素晴らしいそば屋になること請け合いだ。そばはすべて生粉打ち、手挽きは15食のみ、ほかは電動石臼、いずれも粗挽き、印象からふと縁続きの「敬蔵」を想った。帳場に「山英」「宮川」「敬蔵」の名刺が置いてあった。山英の親爺のことを聞いたら、今は営業しているとか。先ずは安心。

[資料]①蕎麦前:冷酒(福正宗純米) 600円、熱燗(銘なし) 400円、鴨ぬき 300円、鴨焼き 500円、鰊 500円、そば豆腐 300円。 ②飲み物:ビール、ノンアルコール、ウーロン茶、ジュース。 ③冷:山猫の石臼手挽きそば 1,000円、蕎香もりそば 800円、白山しぼり 900円、付け鴨 1,300円。 ④温:かけ 800円、きのこ 1,200円、鴨南 1,300円、卵とじ 1,100円、にしん 1,300円。 ⑤他:そばがき 700円、そばがきぜんざい(抹茶付き) 700円、山菜ごはん 300円、おろしそば 800円。 ⑥玄蕎麦:手挽き(丸岡在来種)、細打ち(福島会津在来種と岩手在来種)、太打ち(北海道沼田オトネップ)。 ⑦大根:白山しぼり(下伊那辛丸大根)、蕎香(自家産雪美人と野々市福田産ねずみ大根)。 ⑧葱:自家産葱と千住葱。 ⑨鴨:仏バルバリー種マグレ・カナール。 ⑩出汁:枯本節、枯宗田、枯鯖、うるめ鰯、利尻昆布。 ⑪器:増井洋子(金沢の陶芸家)、米田万太郎(美濃焼) 作陶。

2011年8月1日月曜日

山形探蕎行つれづれ・ささの巻

 表記標題の初出は「探蕎」会報第27号(平成16年10月6日発行)で、行事があったのは平成16年(2004)9月18~20日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 山形への探蕎行の朝、会長御下賜のささ、預かり受けし事務局の長より披露あり、ささは若狭の産の大吟醸酒、名は「長瀬浦」、聞くは初めてなれど、会長先生の頂きものとあれば、さぞや美味ならん。昨夏の山形探蕎行の会長差し入れのささの純米大吟醸酒「梵」を想う。想うに、昨夏の山形行きの乗合い車の中にて、「毒味を」との御下言に甘え、試飲せしが、余りもの美味に、この世にかくなるささがあるものかと驚嘆せしことを。この日、ほかに差し入れのささは、松任坊丸の「天狗舞」山廃吟醸のみ。いとさびし。
 車そぞろ進みて、越中に入る頃、まだ冷え足りぬとは想うものの、喉の渇きを抑うることあたわず、まず一本を所望。昨年に懲りて、会長御下賜のささは、ご参加の皆々様と共に頂くこととし、今一本のささを開く。はたと困りしこと有り。喇叭飲みも憚られ困りしところ、同行の茶匠の友なるご夫妻、数個の丸き紙製容器を持参されしとのこと、お借りすることとする。何と用意周到な、感謝々々。所望されし面々に、嵩の多寡あれどお注ぎ申す。味は先ずまずか、別段苦情なし。残りのささは、その後、車後部座席に陣取りし約三、四名の呑み助の胃の腑に納まりし由。いとうまし。
 車は、館長の名運転にて越後中条に至り、高速道路を下路する。よく走りし車にも油を補給、また事務局の長の計らいにて、同乗の人様にも給油をと、とある銘酒販店に立ち寄りて、ささを求む。何と心温まる所作ならん。ささの名は「〆張鶴」吟醸酒、名に聞こえし越後村上の銘酒。これもまた美味。いとうれし。
 初日に目指す蕎麦店は、白鷹の「千利庵」、蕎麦前は天童の「出羽桜」吟醸酒。くせなく、美味しいお水というところか。いとすがすがし。
 この日は、蕎麦の後、鮎の簗場へ向かう予定なりしが、天候下り坂の由、一気に蔵王刈田岳に向かい、蔵王のお釜を拝む。昨年秋はここより強風濃霧の中、熊野岳に至り、蔵王温泉に下りしことを想う。車に戻りし頃、雲霧去来し、視界閉ざされ、運良きを喜ぶ。いとつきよし。
 今宵の蔵王温泉の宿は、深山荘高見屋。淡い乳白色の湯に浸りし後、夕食の宴。飲み物は麦酒とささ。ささには地酒五品を所望、それぞれ二合を飲み比ぶ。ところで面々の評価は極めて不評、わずかに「出羽桜」一品のみまずまずとの評価。いとまずし。
 後で会長御下賜のささに大いなる期待を託し、早々に席を立ち、部屋へ。いよよ御期待の御開封、固唾を呑む。冷酒を硝子容器に少々入れ、試飲。前回御下賜の「梵」は、飲み後に、心地よい吟醸香と、えもいわれぬ旨さを感じたが、冷えが過ぎたせいもあるのか、含み香も少なく、旨さでないクセが口中に残る。諸侯も早々にもう結構と宣う。このささは玄人好みか。少なくとも凡人向きに非ず。半升よりは減らず。誰言うともなく、これからの御下賜は「梵」に限ると。会長へはどう御伝言すべきか。いとつらし。
 翌朝は、有志にて残る御下賜のささを頂く。昨日より冷えが緩く、味はやや円やか。それでもまだ残りあり。未だ三合を残す。朝食時の飲み物は麦酒のみ。今日の探蕎は原点の蕎麦店「あらき」の予定。途次の車中、ご婦人方に御下賜のささを賞味頂く。中にお一方が美味と仰る。この一言は会長にぜひ御報告せねばなるまい。佳き知らせ。肩の荷が下りる感じ。「あらき」には一刻に滑り込み。正に満員の盛況。ささなしで、次の鮎の簗場に期待。利き酒は男より女の方が適任とも。いとすごし。
 白鷹の簗場は鮎祭りの中日とて凄い人出、焼き鮎を食うにも長蛇の列、諦める。尺弱の大きさ、梁には落ち鮎の姿はなく、果たして天然かと。早々に立ち去る。いとがやがやし。
 この日の宿は、昨夏もお世話になった、白布温泉の中屋別館不動閣。今宵のささには、地元東根限定販売の新聞包み一升瓶「六歌仙」を壽屋で求める。夕の宴は孔雀の間、麦酒とささ、ささは地元米沢の地酒「富久鶴」、料理の多いこともあって一人一合が二合に、程よく可もなく不可もなき本醸造の燗酒。部屋へ戻り、「六歌仙」を飲む。飲むほどに、昨夏にこの部屋で談論風発した「ソクシンブツ」の話が、今回は止めとする協定せしが、再燃する。本来は「即身(成)佛」なるが、小生「即神仏(位)」として話を進める。昨夏は初代から三代、今回は酒席討論に参加の御仁から、相応しい四代と五代を名誉ある即神仏に推挙することに。また蒙古行きも、駒ヶ根行きも、大いに談ずる。いとたのし。
 三日目の朝、御下賜の三合のほかは全て胃の腑へ収め、清々しく宿を発つ。昨夏は雨で断念した白布大滝も滝下迄至る。小径に近く、金漆(コシアブラ)の喬木多し。因みに、笹野一刀彫の鷹ポッポはこの木の由、材は白く柔らかい。今年も帰りに不動閣限定の、昨夏も頂いた「富久鶴」の一合瓶を頂く。商標紙に、米沢の方言の「おしょうしな」はともかく、仏語、英語、独語で、「メルシ」「サンキュー」「ダンケシェーン」と、横文字と片仮名で。発案は酒蔵と中屋の社長の合作とか。いとおもしろし。
 笹野観音、上杉家御廟所を経て、米沢の蕎麦処「蕎酔庵」に至る。十一、十割、共に逸品、山形探蕎行の〆に相応しい。付録は名店「吉亭」での葡萄酒付き牛肉焼き。かくして探蕎酒行は終幕を迎える。今回は師匠の参加なかりし。いとさびし。
 閑話休題
 帰宅して、会長に、御下賜の「長瀬浦」の復命をする。女性一名からのお褒めと小生は玄人受けするお酒と評した。会長曰く、このお酒は漁師の間で愛飲される酒だと。道理でクセについて行けなかったのだと納得した。そこで、肝入りの鮟鱇鍋で「長瀬浦」を飲み直した。あのクセが正に鮟鱇にしっくりと合い、至福の時を過ごせたのは、望外だった。

西東京ひばりが丘に「たなか」を訪ねる

 表記標題の初出は「探蕎」会報第25号(平成16年4月18日発行)で、「たなか」へ出かけたのは平成15年(2003)11月23日である。  「晋亮の呟き」に転載する。

 昭和40年頃、私が探蕎会会長の波田野先生に師事した前後、石川県衛生研究所に在籍していた縁で、国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所、東京大学医科学研究所へ、延べ1年間ばかり研修に出された。その頃は足も健脚で、この間、休日には東京というか関東一円の山々へよく出かけた。と同時に、東京のそば屋を、山本嘉次郎の「東京食べある記」を手に、よく探訪した。「藪」「更科」「砂場」の系統のほかに、この系統によらない店もあって、その中に「田中屋」もあった。在所は練馬、今でこそ街中だが、東京でも未だ田舎の風情が残っていた。
 昨年の暮れに、柴田書店から、新訂「名店案内・そば店100」が出され、見ると、以前の「田中屋」は主が代わって、「名月庵ねりま田中屋本店」となり、銀座と赤坂にも支店を出す大店となっている。読むと、創業は昭和31年。しかし、創始者の田中さんは、奥様の療養のため、店を平成8年に現オーナーの野口さんに譲り、廃業したと。でも何と言ったって、田中さんが偉かったのは、当時ほとんど機械打ちだったのに、手打ちを始めたことだろう。都心からも、客は来たようだ。ただ、当時私が寄ったのは、何も手打ちに惚れた訳でなくて、単にそば屋食べ歩きの一端で寄ったに過ぎない。
 さて、本を捲ると、東京23区外に「たなか」西東京市というのが目に止まった。読むと、かの田中さんの店であるらしい。西部池袋線ひばりが丘駅南口から徒歩5分とある。この駅は、保谷市にある叔父の家を訪ねる時に下車する駅だ。
 11月末のとある日の昼下がり、ひばりが丘駅に降り立った。連れは家内。「たなか」の地番は駅近くの1丁目15番9号、電柱の表示を見ながら歩く。途中に枝道はない。しかし、歩くにしたがって、14番に、そして13番に。狐につままれた感じ。ギブアップ。自転車の小父さんを止めてかくいう店はと聞くと、慣れた口調で、「先の十字路を左へ曲がって暫らく行くと、左に『この先行き止まり』という看板が出ているから、そこを左に、すると奥の突き当たり左にあります」と。やっと電柱に「たなか」という看板が。もう間違える心配はない。ほっとする。「来たぞ」という感じ。
 樹々が多い住宅地、見れば、新そば色の洋館、外に燻し板の看板がなければ、全くもってそば屋とは判じ難い。玄関へ入ると、もう20足位、「どうぞ」の声で中に入る。足元はグレイの絨毯、二人掛けの机に案内される。もう満席に近い。お品書が出る。そばは、粗挽きそばの「せいろ」と「かけ」が共に500円、「そばがき」(手廻石臼挽)1,000円、そして無漂白の地粉使用の手打ちの釜揚げうどんが600円。そして野菜と生車海老の天ぷらが各600円、自家製玉子焼き(地卵使用)が600円、ほかに「そばぜんざい」600円、大納言のブランデー漬け400円、自家製シャーベット400円。それで、「せいろ」2枚、「そばがき」、野菜天と海老天を所望する。安いので、量が少ないのではと心配になり、お姐さんに「せいろ2枚では少ないですかね」と聞くと、「天麩羅がありますから、大丈夫ですよ」との返事。安心した。
 程なく、長方形の赤い塗りのせいろに、薄緑色の中細のそば、普通のもりの量、蕎麦は茨城産の新蕎麦、丸抜きの石臼自家製粉で、打ちは外一とか。薬味は、刻み葱と辛味大根下ろし。つゆはもり用は濃く辛く、野菜天用は淡く甘い。海老は塩で召し上がって下さいと。
 そばは、色といい、香りといい、粗挽きの感触といい、そして喉越しといい、申し分がない。さすがの家内も返す言葉がない様子。天ぷらがこれまた美味い。特に生け車海老の歯触り、拘りを感ずる。油は太白か。美味い。そして、そばがき。外が黒塗り、内が赤塗りの椀に、巾着に絞った大振りの蕎麦掻きが。薬味は、下ろし山葵。程よい大きさに取り分けて、つゆを浸けて食する。蕎麦の香りと味が口中に広がる。訪ねて良かった。周りはと見ると、皆さん玉子焼きをご注文、どうも目玉のようだ。ぜひにとは思ったが、外には沢山の方々が。また、次の機会にしよう。酒や茶やジュースを置かない理由が分かる。
 外へ出る。天気は上々、汗ばむ陽気。待つ人も心得た様子。通りの袋小路には、次から次と、丁度昼時、席数は24と聞いたが。凄い人気だ。駅までに2組から「たなか」は何処ですかと尋ねられた。例の返事をしたのは、言うまでもない。
 陽は高い。家内に「この近くに「ほしの」という生粉打ちの店が」と私、「そばばかりでお腹がふくれたら、今晩の横浜はどうなるの?」。ここは家内に従わねば。

 営業時間:午前11時~午後4時。定休:月曜と第3月曜。駐車:1台のみ(要予約)
 店内禁煙。生麺クール宅急便発送可能。電話:0424-24-1882 。

「敬蔵」で福井丸岡産新そば試食の記

 表記標題の初出は「探蕎」会報第24号(平成15年11月29日発行)で、「敬蔵」へ出かけたのは平成15年(2003)11月12日で、この日は開店して6ヵ月と21日目にあたる。  「晋亮の呟き」に転載する。

 「敬蔵」が休業日の11月12日の水曜日に、通常の営業日の営業時間帯である「午前11時半~午後2時半と午後5時半~午後8時のお好きな時間に、新そばを差し上げますので御来店下さい」との案内状を頂いた。案内状一葉でお二人様までとあって、家内や2,3の人に声をかけたが、小生の空いている昼時は都合が悪いとかで、結果として独りで出かけることになった。
 当日の献立は、「新そばの相盛り」と「旬の盛合わせ」、お目当ての越前丸岡産のそばの方は、細打ちは、抜き実の30メッシュ篩いの粉、太打ちは、玄蕎麦を同様に挽いて篩った粉による、いずれも生粉打ち、新そばは打ちやすいとかで、細打ちは極細とまではいかないが、いつもよりかなり細めの仕上がりであった。選択は「相盛り」と「大盛り」のみ、私は「相盛り」を選んだ。
 信楽焼きの大皿に、仄かに淡い緑色をした細打ちの堆い盛りと田舎そばの盛りとの相盛り。そして、同じ焼きの角皿に、和紙に載せた可愛い新そばの蕎麦掻きの天麩羅2個と一摘まみの天塩添え、笹の葉を敷いた蕎麦豆腐のみそ漬け3切れの蕎麦芽添え、銀杏のそばつゆ炊き2粒2連、それに地物秋摘みの春菊の胡麻和えの4品盛り合わせ。
 そばつゆの薬味は、辛味大根の下ろし、葱の小口薄切りと下ろし生山葵。丸岡産の在来種の玄蕎麦は小粒であり、その磨かれたものを仕入れたとか。また抜き実の方は、甘皮の淡緑色が眩しい位、若干早めに収穫したものだろう。新そばの細打ちは、味・香りとも申し分がない。また細めとあって喉越しも良い。つゆはなくてもよいくらいだ。太打ちの方は、しっかりと噛んで味わえ、これが田舎そばだという感じだ。私はこの田舎そばの太打ちだと、いつも「おろしそば」として食するが、それは正解のようだ。蕎麦猪口に浸して食べるより、冷えた片口に入った冷たいつゆに、辛味大根の下ろしと葱の薄切りを薬味に加えて、三具足の鉢に入った太打ちの田舎そばにぶっかけて食べるのが似つかわしい。
 終りに蕎麦湯が出たが、敬蔵の蕎麦湯は蕎麦粉を溶いたもので、かなり濃いものだ。これは人により好き好きだが、私はそばの茹で湯の方が好きだ。もっともこれにもそれなりの良さはあるのだが。
 呆気なく、相盛りは私の胃の腑に納まってしまった。客が次々と訪れる。主人との会話の中で、今度の日曜日、丸岡の蕎麦生産者の処へ行くと話した。それにしても今回の細打ちは、これまでで最も良かったように思う。「ご馳走さま」と礼を言って外へ出る。帰り際に「祝儀はどうしましょう」と言ったら、笑っていた。玄関に入る時はなかったようだったが、入口には「今日はお休みです、案内状お持ちの方のみお入り下さい」との張り紙がしてあった。