2010年12月24日金曜日

「やまぎし」の荒挽きをアテに財宝を飲む

 12月11日(土)の昼近く、予約してあった来年4月に来演するチェコフィルの前売券を県立音楽堂のチケットセンターへ貰いに行くのに合わせて「やまぎし」へ寄った。営業時間は11時30分から14時30分、もし「そば」の手持ちがなくなれば、それまでとなる。近頃は遠処の人も訪れて来るようになり、私も一度ならず待たされたことがある。平日は行けないから、もし11時半までに出かけるとすれば土曜日しかないことになる。この日もきっちり時間に合わせて出掛けたが、もう先客が一人いた。
 券売機で「荒挽き」の大盛りを頼んだ。ここに置いてあるアルコール類は鹿児島の芋焼酎の「財宝」のみ、開店当時はそばの「白」と「黒」のみ、飲み物は出されるそば茶のみで、蕎麦前はなかった。それがいつの頃からか焼酎が置かれるようになり、100cc200円で出してくれる。冷やである。席に着くなり財宝をお願いした。始めはそば茶がアテである。先客に黒の普通盛り、次いで私に荒挽きの大盛りが出た。これはもう極太である。荒挽きには丸抜きの挽き割りが混ざっていて、太さは5mmばかり、ひょっとして6mmはあるかも知れない。前にも二度ばかり食したが、これは太いので、口の中で奮闘して噛んで食べないと喉には通らない。そんなそばをどうして打ち出すようになったのか、興味深い。
 しばらく客が途絶え、山岸さんと話す。これだけ太いと伸びませんよね。とすると蕎麦前ならぬ蕎麦中のアテになりますねと。そのままでも美味しくかつサケのアテになるとは、何たるそばなのか。このときは打ち始めるようになった経緯は聞かず終いだったが、結局大盛りを平らげるのに、財宝を三杯も飲む羽目となった。薬味の山葵や葱や大根下ろしは、折々に極太打ちのツマになった。汁も時折味わい、程よく切れた長さがまた絶妙である。でも私が居て、ここで財宝を所望する人は見たことはないが、いろんな事情でお酒を飲めない人ならいざ知らず、でなければ一度は試みてほしいものだ。ところで売りの蕎麦の唐揚げはこの荒挽きを揚げたものである。
 さて先日、頼んであった宮下裕史の「そば」名人というプレジデントムックが前田書店から届いた。これは雑誌danchuに連載されたそば職人25人の生き様を一冊に纏めたもので、その中には本文とは外れた一項に、「出羽の国発浪速着・超絶極太打ちアテ蕎麦物語」という一文があり、副題は「あらきそば」「そば切り凡愚」「そば切り蔦屋」に脈々と流れるおいしい風景、時空を超え「そば切り山親爺」に到達した驚きの新しい味覚を知る。とある。
 出羽の国発というのは、大阪浪速の「凡愚」の主人真野氏が山形の「あらきそば」の板そばという太打ちのそばの「むかし毛利」に遭遇し、これはとてもズズッという食べ方は出来ず、しかも地の人の食べ方を見ていると、そばのみを食べるのではなく、唯一の肴である「にしんのみそ煮」をツマに、地酒を飲みながらそばを食べるという、いわばそばをアテにして楽しんでいるという情景に出くわす。二代目当主の芦野又三氏にはそば屋にまつわるあれこれを話してもらい、「大阪でおいしいそば屋をやって下さい」と励まされたという。そして浪速の「凡愚」に太打ちの「フト」が誕生した。私はまだ行ったことはないが、写真で見ると田舎そばの極太打ちで、これは口中でモグモグと噛みしめて食べるより方法がない代物とお見受けした。しかも長そうなので、箸で切るか、噛み切ってから口中へ入れなければならない。ただこの「フト」が酒のアテの定番になっているかどうかは知らないが、凡愚には突き出し以外に定番のアテはないという。 
 この凡愚の太打ちは弟子の一人蔦谷氏が営む「蔦屋」にも伝播した。しかし本来は和食が本業だった蔦谷氏は「フト」を止めて、ホソより一回りほど太い田舎そばに落ち着かせたという。ところが蔦屋でまだフトを出していた頃に修業していた山口氏が神戸で開店した「山親爺」では、凡愚譲りのフトを大切に育み提供しているという。それもこの店ではおおっぴらに堂々とフトをアテにして酒を酌み交わす光景も見られるという。この凡愚の主人が出羽で出くわした「太」が浪速で「フト」を産み、さらに播磨にも伝播したことになる。
 翻って「やまぎし」の荒挽きはどうなのか。ここの荒挽きは挽きぐるみに丸抜きの挽き割りを加えた代物で、他店の粗挽きとは異なる。店主の山岸氏によれば、このそばを思い付いたとき、とても細打ちは叶わず、必然的に太くせざるを得なかったという。しかも全くの独創の結果の産物であって、出羽の板そばも浪速や播磨のフトも全く知らないという。驚くべき発想だ。何事にも新しい発想をする氏独自の世界が見えてくる。
 補遺:いつか美濃の胡蝶庵へ寄っての帰り、関市の「助六」の「円空なた切りそば」を食べたくて寄ったが生憎の満席、しかも土砂降りとあって食いはぐれたが、ここのそばは、もし円空がそばを打ったらこんなそばを打ったであろうというそばで、田舎そばできしめんの倍以上はあると笑ってしまうような幅をもつ平打ちそばであるらしい。

2010年12月15日水曜日

五嶋みどりーこの素晴らしい音楽伝道大使

 11月3日の文化の日に五嶋みどりと井上・OEKとの初共演が実現した。もっともこの企画は年度始めに公表されていて、私は一度もあの天才少女にお目見えしていないこともあって、この特別公演は是が非でも聴きたいと願っていた。前売券の発売は7月1日10時、真先に申し込んだ。石川県立音楽堂のコンサートホールは1~3階を合わせて1,560席あるが、程なく完売したと聞いた。SS席でも9,000円と格安だったことも影響したのだろう。共演の演奏曲目はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調、聴きなれた曲なのも人気の一端を担っていたのかも知れない。でもこの曲、今でこそ聴く機会が非常に多いが、この曲をアウエルに献呈したときには「演奏不能」とされた代物、代わってブロズキーに献呈され3年後に演奏されたものの、「悪臭を放つ音楽」と酷評されたという。これは4年前に作曲されたピアノ協奏曲第1番のルービンシュタイン献呈の場合と全く同じパターンだった。
 五嶋みどり(英語表記では単にMidori、これは母が離婚したからだとか)は1,971年大阪の生まれ、母の節さんはヴァイオリニスト、みどり2歳のときに母が弾いた曲を口ずさんでいるのを聴き、3歳から英才教育、6歳でデビュー、8歳のとき演奏テープをジュリアード音楽院に送って認められ、母と渡米する。11歳のとき、ズビン・メータ指揮のニューヨーク・フィルハーモニックとの演奏会で「サプライズゲスト」としてパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番第1楽章を弾きデビュー、天才少女と評された。14歳のとき、タングルウッド音楽祭でレナード・バーンシュタイン指揮でバーンシュタイン作曲の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのセレナード」の最終第5楽章を演奏中、突然E弦が切れ、コンサートマスターのストラディヴァリウスを借りて演奏したが、またもE弦が切れ、今度はアシスタント・コンサートマスターのガダニーニを借りて演奏を続け、無事演奏を終えたという。14歳の少女が弾くヴァイオリンの大きさは3/4、コンサートマスターのは4/4、これには指揮者のバーンシュタインも感動し、驚嘆と尊敬の念で彼女を抱きしめたという。このことは翌日のニューヨークタイムズの1面トップに「14歳の少女タングルウッドをヴァイオリン3挺で征服」という見出しで報じられたという。そしてこの出来事は「タングルウッドの奇跡」として語り継がれ、アメリカの小学校の教科書にも載せられたという。
 現在彼女はアメリカを拠点に、年間70回以上の演奏活動に加えて、音楽を楽しく伝える非営利団体(NPO法人)「みどり教育財団」(Midori & Friends)を立ち上げ、特に開発途上国での地域密着型の社会貢献活動に取り組んでいる。またニューヨーク大学では心理学を専攻し、修士の称号を得ている。情操教育にも熱心で、特に子供のための活動が目立つ。現在南カリフォルニア大学ソーントン音楽学校の弦楽学部の主任教授であり、また日本人初の国連大使(ピースメッセンジャー)に就任し活動している。
 さて文化の日の当日、前半はOEKの演奏で、チャイコフスキーの3大バレエ組曲から7曲が抜粋されて演奏された。馴染みの曲ながら格調が高く、素晴らしい演奏だった。休憩の後みどりさんとの共演、マエストロ井上はいつものおどけた表情は見せず、心なしか少し緊張しているようだった。みどりさんは細かい水玉模様の黒っぽいガウン様の服を着ての登場、若いみどりさんのイメージからすると老けたなあという印象、マエストロはスコアなしでの演奏、だからか、みどりさんの情感豊かな優雅な旋律とOEKの格調高いハーモニーとは正に一体となっての演奏、満員の聴衆を魅了した。演奏後の二人の満足そうな表情に爽やかさを感じた。拍手が鳴り止まず、いつもはアンコール曲は弾かないといわれるみどりさんが、ショーソンのポエム(詩曲)を弾きますと言われた。この曲はショーソンの代表曲で、本来はヴァイオリンと管弦楽のための曲なのだがソロでの演奏、その繊細な音の響きに何とも言えない緊張の高ぶりを感じた。14~15分かかる曲、異例の贈りもの、本当に心から感動してしまった。万雷の拍手、素晴らしい名演奏だった。

2010年12月14日火曜日

ペースメーカーのバッテリー交換

 徐脈と不整脈が著しいということで、ペースメーカー植え込みを勧められたのは平成15年の2月上旬のこと、念のためホルターの心電計を24時間つけて観察すると、長い時は40秒も心臓が止まっていることがあることも分かった。以前から脈拍数は40程度だったのだが、何かの折に目まいを起こして内科に受診した際、その先生が金沢医科大学病院から派遣されてきていたこともあって、精密検査は金沢医科大学病院の胸部心臓血管外科へお願いすることになった。主治医の先生では、自動車を運転していて、ふっと気を失ったりすると大変なことになるから、ぜひペースメーカーを装着しなさいとのことで、お願いすることにした。診断された病名は「洞結節不全症候群」ということで、ペースメーカーの植え込み以外に改善はないとのこと、十分主治医から説明を聞いての手術だった。
 手術の担当医は若い方二人、麻酔は局部麻酔、ペースメーカーを入れるポケットの作成とリード線の心房と心室の所定の場所への設置で、すべてモニターを見ながらの手術、鼠けい部からも導線を入れられ、この一部始終は私も観察できた。難渋したのはリード線の先端が所定の場所に届かないことで、これには随分苦労していた。指導医がいてあれこれ指示するのだが、リード線の先端が丸まっていて、先ずこれを解消しないといけないのだが、遠隔操作とて思うようには行かない。施術されている私も段々心細くなっていた。とそのとき、突然大きなくしゃみが出た。するとリード線の先端が2本ともピッと真っ直ぐになったのにはびっくり、思わずヤッタと嬉しい叫び、私も安堵した。
 でも手術が終わってからが大変で、丸一日ベッドに固定された。植え込んだペースメーカーがずれないように固定させるためとか。それにしても丸一日動けないと腰が病めて、これには往生した。術後数日間は抗生物質の点滴、固定されている間の栄養補給は経静脈点滴、排尿の方はカテーテルでの導尿、何故か便意はなかった。そして3日目にはカテーテルも外され、食事もできるようになり、トイレにも行けるようになったが、便秘がひどく、これには実につらい思いをした。
 ペースメーカーのチェックは定期的に半年に一度行われる。ところで電池の寿命はまだ半年はもつとのことだったが、この10月のチェックでは、もう残りは少なく今月中に電池交換の手術をする必要があるとのこと、もし電池が切れると大変なことになるらしい。最初の埋め込みから7年半が経過していた。それで月末に入院することにする。今回は前の轍を踏まないように、特に入院前には食事を細くして、便秘にならないように、また腰痛対策には鎮痛消炎添付薬を用意し、また手術に備え入院1週間前からは常用している血液サラサラ薬も控えた。朝入院手続きを済ませ、所定の検査を済ませ、手術の説明を受け、同意書に署名する。医師の説明では午後にも手術するという。時間は約1時間、ただリード線に問題があると新しくする必要があること、また交換時に自分の脈拍が少なくて血圧を維持できないときは鼠けい部から一時的に対外式のペースメーカーを挿入する必要があることだったが、結果的にはこの両方ともクリアでき、手術は正味1時間弱、都合2時間で手術を終えられた。初めての本館での手術は、印象としては雑然とした雰囲気の手術室での手術という印象があったが、今回の新館の手術室は空調も感染症対策も万全で、実に素晴らしい環境と設備、そんな手術室がずらっと並んでいるのには驚かされた。
 今回は尿カテーテルの挿入もなく、術後3時間はベッドで安静にしていて下さいと言われたものの、固定されることもなく、3時間後には飲水も可とのこと、栄養点滴と朝夕2回の抗生物質の点滴で、体の動きを制限されるようなことはなく、この前のときに遭遇した数々の心配は杞憂に終わった。当初入院は1週間とのことだったが、ペースメーカーのチェックは専門の業者が行っていることもあって、9日目の退院となった。

[病院でのあれこれ]
・「病室からの眺望」:病室は新館10階の西病棟、窓からは晴れた日には、南側には白山から富士写ヶ岳に至る山並み、西側には眼下に能登有料道路を挟んで日本海が開け、晴れていれば夕日が海に沈むのを居ながらにして見ることができる。夜は街灯や家の明かり、それに車の灯でかなり明るく退屈しない。でも明かりで星はほとんど見ることはできない。
・「日の出」:西病棟のダイニングルームからは海しか見えないが、東病棟のダイニングルームからは北から東を見渡せ、宝達山から北アルプスも後立山から乗鞍岳までを俯瞰でき、特に快晴の日の日の出は素晴らしい。日の出は6時50分近く、座って見てても飽きない。特に夜明け寸前の山並みのシルエットは実に鮮やかで圧巻、特定してはいないが、後立山は朝日岳辺りまでも見通せるのではなかろうか。朝日は乗鞍岳辺りから昇る。夕日は太陽が真っ赤に染まって大きくゆっくり沈むのに対して、朝日は小さいが珠玉のような光でもって目を射る力がある。陽が上がると辺りが靄ってしまい、山並みは薄れて見えなくなる。今は使用されていない本館からだと、東から南へ医王山から白山、三ノ峰までも眺められるが、東側には12階建ての本館があるので両白山地を見ることは出来ない。
・「食事」:入院の際に食事は1500Calとのこと、飯は全粥、食塩は5gとのこと、1週間の辛抱、もちろん禁酒である。それにしても基礎代謝量とは恐れ入った。といって別段つまみ食いもせず、若干お茶を飲んだ程度、あまり動かないからこれでいいのかも知れない。
・「運動」:手術後5日には、院内歩行がOKとなった。そこで階段の昇降をすることを思い付いた。非常階段の場所は入院時に担当の看護師から説明されていた。西病棟の非常階段で通行できるのは上は12階まで、下は地下1階までである。この間に段数は298あり、高低差は50mある。そこで食後に10Fから12Fへ上り、次いでB1Fまで下り、その後10Fまで戻るということを試みた。時計の高度計機能を確かにするため、12FとB1Fでは10秒立ち止まるが、後はノンストップで昇り降りする。ただ手術後から退院するまで心電計を着用させられていて、昇降時もつけたまま、これはスタッフステーションでモニターされているのだが、特に昇降の影響はなかったのか、別段注意はなかった。この昇降には10分を要するが、それでもこれだけ歩くと汗が出る。ただこの正式には階段室という非常階段は、通常は関係者以外立入禁止なのだが、スタッフと会っても別に咎められたことはない。
・「看護師」:西病棟には24人の看護師(うち男性1人)がいて、日勤、夜勤、その中間の勤務の体制で常にローテートしている。したがって1日のうち3回も係りの看護師が代わるので慌ただしい。私には一応担当の看護師はいるものの、私にかかりきりではない。この階は整形外科、呼吸器外科、胸部心臓血管外科の患者が多く、患者数は50人である。それにしても診療科がいろいろなのに、それぞれの診療科の専門知識も持ち合わせている必要もあろうに、看護師のレベルはかなり高いように思えた。また感心したのは言葉遣いで、血圧測定、採血、点滴、聴診、検脈等にあたっては、皆さん「~してもらっていいですか」という言い回しをするし、終わった後には大概「ありがとうございます」と言うが、少し過剰なのではと思ったりする。でも近頃は「お客様は神様」的な考えが敷衍しているから、これ位は当然のことなのだろうか。7年前の入院ではこんな現象は全くなかった。

2010年11月22日月曜日

訪れた山の秘湯では源泉水を高台までアップしていた

 信州は山の国、温泉も数え切れない程沢山あり、これは私が住む石川県の比ではない。また秘湯というと、山の中にぽつんとある一軒家を思い浮かべるが、正にその通りで、信州にはこの類の一軒のみの温泉も多く、それは山峡であったり、山奥であったり、時には車道が途切れて歩かねばならない処だったりする。
 この秋、家内と訪れたのは信州でも高台にある温泉で、そこでのんびり露天風呂にでも浸かって山でも眺めようという趣向である。家内とは定年になったら、二人であちこちの山に出かけ、そして山の出湯に浸ろうと、そんな山巡りをしたいと願っていたが、私自身脚力の衰えが目立ってきたこともあり、とても以前のような山行は無理になった。また家内の方も以前は私がバテてもシャンとしていたこともあったのに、どうも近頃は山歩きするとその後の体調が思わしくなく、結果として出かけなくなってしまった。そうならば山は眺めることにして、それで今回は温泉に浸りながら山を眺められるという条件を満たすような、しかも秘湯といわれる山の湯宿を物色することにした。
 信濃の国は周りが高い山で囲まれていることから、北信濃の長野盆地や中信濃の松本盆地からは、西に飛騨山脈(北アルプス)を眺められるし、南信濃の伊那盆地からは東に赤石山脈(南アルプス)、西に木曽山脈(中央アルプス)を仰ぐことができる。これらの盆地にも沢山の温泉があり、居ながらにして山々を眺めることは可能である。しかし里ではなく山の温泉にこだわった場合、山懐へ入ってしまうと、山間では山は見えても近くの山のみ、もし高い峰々を見たいと願望するとすれば、もっと高みまで上らないと眺望はきかず、今回はそういう高台にあって、しかもアルプスの山並みが見える秘湯と称される温泉をチョイスすることにした。
 そこで選択されたのが「中の湯温泉」と「奥山田温泉」で、前者は奥穂高岳や前穂高岳を眺められるし、後者は西穂高岳から小蓮華岳までの大パノラマを居ながらにして眺めることができる。いずれも標高1,500mを超える高地にある。ただこういう標高のところだと、10月には初雪を見る場所ともなる。

・中の湯温泉旅館(長野県松本市安曇中の湯4467)
 古くから岳人の湯、焼岳登山口の宿として知られ、梓川沿いにあったが、安房トンネル掘削工事のため閉鎖しなければならなくなり、平成10年春に現在地に移転し開業した。新しい宿の標高は1,580m、平湯からだと国道158号線の安房トンネルを抜けて直ぐ左手の安房峠へ行く旧国道に入り(ここが1号カーブ)、7号カーブを過ぎると左手緩斜面に宿がある。だから松本方面からだと安房トンネルに入る前に右折して旧道に入ることになる、1号カーブにゲートがあるが、ここから旧道を2.2km、標高にして200m上がると着く。この道路は、旧道に降雪があると、それ以降道路は閉鎖され、ゲートは閉められる。また降雪がなくても11月15日以降はゲートが閉められる。ただ「中の湯温泉」は通年営業なので、ゲートの施錠はない。バス利用の客は路線バスの「中の湯}バス停にある中の湯温泉案内所に行けば、迎えの車が来る。徒歩では40分位かかるそうだ。
 駐車場からはさらに10mばかり高みにある玄関にまで上がることになる。新築してまだ10年余り、木の香がしそうな玄関、日本秘湯を守る会のあのおなじみの提灯が下がっている。入ると広い広いロビー、山の宿とは思えないくらいモダンで、調度も立派な温泉クラス、でも外は原生林、総ガラス張りなので居ながらにして自然の中に居るような錯覚、左手には雪を纏った奥穂高岳、吊り尾根、前穂高岳、明神岳が見えている。そして正面には霞沢岳の大きな山体、高倍率の望遠鏡も置いてある。ゆったりとした空間でお茶を頂き寛ぐ。右手の林の、男性の露天風呂の先に小鳥の餌台が置いてあって、主人が言うには、今年は山では木の実が少ないので、ひまわりの実を置いておくと、次から次と小鳥が訪れ、それがロビーからも大変よく見え、これがまた心を癒す。本当に次から次と、その数は夥しい。主人では、今来ているのは、シジュウカラ、コガラ、ヒガラ、ゴジュウカラだという。野生の小鳥だが、後で露天風呂に入っていても、物怖じしないで寄ってくる。見ていて飽きない。
 部屋へ案内される。部屋は二階の「蓮華」、8畳で板の縁付き、ここからも穂高がよく見える。着替えて風呂へ行く。硫黄の匂いがする。内風呂は2槽あり、大きい浴槽は温かく、小さな浴槽は熱く、お湯はかけ流しである。ところがこのお湯は、元の泉源からここまでポンプアップしているという。泉源から何キロもお湯を引いている例は幾らも知っているが、アップするというのは初めて聞いた。主人では此処ではボーリングしてもお湯は出ず、元の泉源から引くことにしたと。道端に大きなタンクがあったが、これはお湯の中継点だそうだ。さて、露天風呂は内湯に匹敵する大きさ、温めで長く浸かっていても大丈夫だ。此処からも穂高が見える。そしてすぐ目の前に小鳥の群れ、入れ替わり立ち代り訪れる。結構なお湯だ。ただ後で聞いたのだが、女性の露天風呂からは穂高は見えないという。湯上りに秘湯ビールを貰う。陽も傾いて、穂高が紅に染まり始める。何ともいえない風情だ。明日は寒気の南下で寒くなり、午後は雨になるという。明日は誘われて上高地の閉山祭に行くことにしているのだが。夜の帳が下りると、外は漆黒の闇である。
 夕食は食堂のテーブルで、家内は生ビール、私は地酒を貰う。11品が次々と出てくる。一品料理に馬刺しを貰ったが、これが柔らかくて実に美味しかった。ここは急峻な地形、しかも公園内?とあって、天然の山の幸、川の幸は出ないが、素朴で家庭的な雰囲気だ。
 〔温泉情報〕源泉温度:55℃、温泉使用量:120ℓ/分、泉質:単純硫黄温泉、利用形態:かけ流し(加水・加温あり).

・奥山田温泉満山荘(長野県上高井郡高山村奥山田温泉3681-343)
 上高地閉山祭が終わって中の湯に戻ったのが午後1時半、そばをお願いしてあったが、職人が休みとかで食べ損ねる。もう時間もなく、高速道路に松本ICで上り、須坂・長野東ICで下りる。道路事情に疎く、ナビに従って行く。途中工事で通行止めがあり、迂回する。パンフではICを下りて45分とあったが、1時間くらいかかったろうか。山田温泉を過ぎると道は松川渓谷沿いになる。五色温泉を過ぎ、七味温泉への分岐から山へ分け入る。高度が増すと一面の雪景色、幻想的だ。着いたのは午後4時半頃、奥山田温泉には満山荘だけだと思っていたら、現在11軒も点在するとか、山の中、日が暮れる前に着けたのは僥倖だった。駐車場には私の車が入って満車状態、シンガリだった。
 宿の入り口は草庵風、玄関には日本秘湯を守る会の提灯と日本の秘湯・満山荘をデフォルメしたと思われる暖簾がかかっている。ここは標高1,550m、外は小雪がちらついている。入ると玄関にも帳場にもロビーにも人影がない。掛け声で宿の若い主人が現れた。勝手知ってる人だと、上がって帳場の上に釣り下がっている鐘を叩くというのだが、それは後で説明を聞いて分かったこと、ここには内線電話はないとのことだった。主人から囲炉裏で沸かしたお湯で入れたお茶を頂く。手続きを済ませて部屋へ案内される。部屋は和洋室の観山(みやま)館の一室、畳の部分には既に布団が敷かれている。窓は東向き、天気が好ければ雪を頂いた北アルプスが一望できるのに、雪とガスで視界は利かない。ここには新館と旧館があり、新館をお願いしておいたが、これが新館なのだろうか。
 作務衣に着替えて風呂へ行く。階段を下って行き着いた男風呂は、古いパンフに出ていた見覚えのある石組み、何でもここの親父さんが自ら選んで造ったという岩の内湯、ゴツゴツした感じがそれを物語る。露天風呂は切り石の岩風呂、ここも天気が好ければ、北アルプス連峰の山々を眺めながらの別天地なのだが、今日は真っ白な雪の世界を眺めながらの入湯である。お湯は真夜中の0時から朝の8時までは男湯と女湯が反転するとか、もう一方は朝早くに入ることにしよう。家内が出てくるのを展示室で待つ。
 展示室には図書や撮影機具、写真集、パノラマ写真、アルペンホルン等が置いてある。特に奥に飾ってある山田牧場からの北アルプス連峰のパノラマ写真は圧巻で、南北約80kmがくっきり写っている。眺めているとそこへ矍鑠としたご老体が敬礼してのご登場、特攻隊の生き残りとか。先ずはガラス製のアルペンホルンの説明、長さは2mはあろうか、吊り下げてあるのは触られないようにとか、何せスイスで大枚出して買ってきたもの、特に直管の部分を真っ直ぐに伸ばすのが大変という。この間何人もの人が挨拶する。聞くと皆さんリピーターで、京都の女性は年に3回、これまで37回、50回は来たいと仰る。群馬の男性も40回は来てるとのこと、それだけ魅力があるということだ。ここは家族での切り盛りという。
 話が温泉のことになった。ここは源泉かけ流し、でも泉源は松川渓谷の一角、そこから700mもお湯をアップしているとか、途中30箇所もの中継点があり、コンピューターで制御しているという。これまで7億円を投じたとか。この温泉組合には当時20軒が加盟していたが、今は11軒、この堀江文四郎さんは現在も組合長をされていて、お湯の管理も自身でされている。また雪形にも興味を持たれ、旧来の白馬岳の代掻き馬とか五竜岳の武田菱のほかに、爺ヶ岳に日本カモシカ、白馬鑓ヶ岳にアルプスの少女ハイジを発見、写真で見ると実によく似ている。
 夕食は食事処で、私たちはテーブルだったが、奥には畳の間もある。テーブルもゆったりしていて、隣りとは暖簾で仕切られている。ほぼ満席、夕食は「北信濃風いなか料理」、奥さん手書きのお品書き、大したものだ。品は13品、書いてある素材だけでも40近く、しかも創作料理、というけれど変な衒いはなく、見た目は実に新鮮、また色彩の配合が素場らしい。その上個性があって美味しいので、お湯もさることながら、料理でも人を魅せ引きつけてしまう。本当に驚いた。家内もリピーターになりそうだ。
 翌朝、天気は快方に向かうとはいうものの、ガスが薄れた程度、チェックアウトは11時とか、朝食後も部屋で寛ぐ。すると一瞬陽が射し、ガスが一瞬切れ、北アルプスが半分くらいだが見えた。一瞬とはいえ、見えたことに感動を覚えた。何という僥倖、満足して宿を後にすることができた。出たのは私たちがラス前だった。
 〔温泉情報〕源泉温度:72℃、温泉使用量:40ℓ/分、泉質:単純硫黄温泉、利用形態:源泉かけ流し(加水・加温なし)、但し冬期加温あり(給湯口源泉・浴槽加温・濾過・殺菌循環),、

2010年11月17日水曜日

上高地閉山祭

 11月14日、かねて家内と山の湯宿ということで選んだのが「中の湯温泉」である。ここは安房トンネルを平湯から沢渡方面へ抜けたあと、左折して安房峠へ行く旧道を七曲りして、高さにして200mばかり上がったところにある標高1500mの温泉である。以前は梓川沿いにあったのだが、安房トンネル掘削の煽りをくって閉鎖の破目になり、新しく旧の峠道の脇にある緩斜面の場所に移して建てられたもので、聞くともう11年を経過したとか。ここは焼岳の中の湯登山口でもある。11月初旬に電話したところ、もう一度は降雪があったとかで、車のタイヤは冬用のスタッドレスの方がよいとのこと、切り換えして出かけた。出立した日の天気は曇り、翌日は下り坂とのこと、この日は日曜日なので、松本まで高速自動車道を利用し、中の湯へと向かった。この国道158号線を通ったのは随分昔のこと、ガタガタした道だったが、今はきれいに舗装されている。途中で携帯電話があり、安房峠への道路はゲートが閉まっているが、鍵は掛かっていないので、開けて通って下さい、通った後はまた閉めておいて下さいと連絡があった。この連絡がなかったら、パニックになるところだった。中の湯温泉旅館には午後2時半頃に着いた。
 着くなり、主人に明日上高地へ行きませんかと誘われた。何と15日には上高地の閉山祭が河童橋畔であるという。次の日は松本をブラつく予定をしていたが、お願いすることにした。上高地へは旅館の車でお送りしますとのこと、出発は午前8時30分、主人では天気が好ければ大正池から明神池まで歩いて穂高神社の奥宮へお参りしてから、正午に始まる閉山祭に参加して御神酒を頂いて帰ってくればよいとのこと、車はここに置いて出かけた方がよいとも。帰りは上高地から釜トンネルを出た処にある中の湯バス停までは路線バスで来て、バス停の近くには中の湯温泉の案内所があるので、電話があれば車で迎えに行きますと。歩くと40分はかかるとのことだった。この日は旅館のロビーからは雪を纏った奥穂高岳、吊り尾根、前穂高岳、明神岳が見え、すぐ目の前には霞沢岳がどっしりと対峙する。青空をバックの峰々にも感動したが、夕方、夕陽に赤く染まった穂高も中々印象的だった。
 翌朝、今日の天気予報は曇り後雨とか、朝起きた時は部屋の窓からは穂高が見えていたが、暫くしてからはガスがかかり見えなくなった。今日は上空に冬並みの寒気が流れ込んで気温が急に下がるとか、8時半頃にはもう雨が降り出した。それでも宿泊客のうち10人が上高地へ行くという。主人では今日は雨なので、バスターミナルから河童橋周辺とビジターセンターで時間を潰した方が賢明だと言われる。河童橋は夏の雑踏はないものの、でもまだかなりの観光客がいる。セーターを着てきたのは正解だった。気温がどんどん下がるのが分かる。素手では手が冷たく手袋を求める。カラマツの落ち葉を踏んで路を歩く。ケショウヤナギも葉はすっかり落ち、寒空に梢を伸ばしている。すっかり冬の景色だ。岳沢はもう白く雪化粧をしている。奥穂も前穂も雲に覆われ見えていない。雨のなか、明神池へ行くのは止して、河童橋からビジターセンターへ向かう。
 ビジターセンターは環境省の管轄、上高地は黒部峡谷と並んで、国の特別名勝・特別天然記念物に指定されていることもあって、じっくりと落着いて見学できるだけの沢山の資料があり、実に見応えがある。ここで2時間ばかり費やしたろうか。外は寒いが中は温かい。この後、五千尺ホテルで温かいコーヒー、紅茶を飲みながら、すぐ外で行われている閉山祭の準備を眺める。外は風も出てきて寒そうだ。紅白の幔幕が風を孕んで、はためいている。時間も迫り、寒いが外へ出る。世話人は明るいグリーンの法被を着ている。中の湯の主人の顔も見えている。人数は関係者、登山者ほかを合わせて300名くらいだろうか。
 正午きっかりに式が始まる。すると不思議にも雨が止んだ。神官二人で、修祓、降神の儀、献餞、祝詞奏上、玉串奉奠、撤餞、昇神の儀、直会の順で式が運ばれる。この間約30分ばかり。この後、河童橋の中央で薦被りの樽酒の鏡開き、先ず梓川に御神酒を注ぐ。その後紙コップに樽酒を酌み、参加者の皆さんに振舞ってくれる。私も家内も頂き、先ず梓川の清流に頂いた酒を少々注ぎ、残りを感謝して頂く。報道陣もかなり来ていた。この閉山祭が済むと、上高地は冬の静寂に包まれることになる。
 式が済む頃、雪がちらついてきた。着いたころは寒暖計は15℃を指していたが、雪とともに気温は2℃と急激に低下した。バスターミナルへ急ぎ、折りよく発車寸前のシャトルバスに乗り、上高地を後にした。中の湯の案内所で迎えを頼み、温泉旅館に戻った。ここは上高地とほぼ同じ標高、ここでも粉雪が舞っていた。

2010年11月11日木曜日

「百萬石」と「ギャルド」

・百萬石ウィンドオーケストラ
 10月25日付けの朝日新聞石川版に、「百萬石」が銀(吹奏楽コン)という見出しの記事が載った。これは全日本吹奏楽連盟と朝日新聞の主催で、10月24日に松山市の愛媛県県民会館(ひめぎんホール)で開催された第58回全日本吹奏楽コンクールの結果の記事で、百萬石ウィンドオーケストラが職場・一般の部に北陸支部代表として出場し、銀賞を受賞したとあった。このウィンドオーケストラは石川県で数多くある吹奏楽団の中ではトップクラスで、私も二度ばかり聴いたことがあるが、かなりレベルの高い演奏内容をもっている。何故この楽団を紹介したかというと、このオーケストラの団長の谷井君は、私が勤務している予防医学協会の同じフロアで仕事をしているからで、彼のこのオーケストラでのパートはユーフォニウムというあまり聞いたことがない金管楽器である。彼に会って「おめでとう」と言うと、地元新聞での報道がないのに、どうして分かりました」と言ったものの、あまり嬉しそうでないのに驚いた。聞くと「金賞だと嬉しいのですが、実は金と銅は少ないのですが、他はみな銀賞なんです」と。でもこれまで10回も出場しているというし、定期演奏会も行い、今回の自由曲もマッキー作曲の「オーロラの目覚め」という幻想的なオーロラの情景が思い浮かぶような繊細な演奏が必要とあって、全体として一つのサウンドにもっていくのに、実に緻密な練習を繰り返したと語っていた。団員は学生のほかは皆さん手に職を持っている人たち、息を合わせるのは大変だったろう。谷井君はまだ30代、協会では仕事もバリバリやっている静かな闘志を秘めた若い子煩悩な父親だ。

・パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団(パリ共和国親衛隊音楽隊)
 10月末の30日には、石川県ほか2団体の主催で、通称「ギャルド」として知られる世界の名門吹奏楽団の金沢公演が県立音楽堂であった。この種の公演は大概座席指定なのに、この公演ではS席とA席はグループ内自由席という変則的な方式、だから開始前1時間というのに長い長い列、その数は数百人、私は1時間半前に来て200番くらい、とても往生した。しかし約160年の伝統があるこの吹奏楽団の演奏は実に素晴らしく、その音色は心を震撼した。指揮者は第10代楽長のフランソワ・ブーランジェ氏、全員が金モールの付いたブルーの軍服もどきの制服を着用、女性もいる。総勢は80人ばかり、金管より木管が多い編成で、特にクラリネットは20人ばかりいて、楽員の4分の1を占め、その首席奏者はコンサートマスターも務める。本邦での公開公演は7回、メインはクラシックの吹奏楽編曲、歴代の楽長/主席指揮者の手になるものが多い。
 金沢公演での曲目は、バーンシュタインの「キャンディード」序曲、ハチャトゥリアンのバレー音楽「ガイーヌ」から剣の舞とレズギンカ、組曲「仮面舞踏会」からワルツ、レスピーギの交響詩「ローマの松」、次いでマーチが2曲、「サンブル・エ・ミューズ連隊行進曲」と「ロレーヌ行進曲」、そして最後にラヴェルの「ボレロ」だった。聴いていて中でもマーチ曲の演奏が最も生き生きとしていたように感じた。十八番というべきか。でも金管が主のウィンドオーケストラとは一味違った、華やかさがある中にも落ち着きのある響きだった。木管のなせる業なのだろうか。ところでこのマーチの演奏は金沢公演だけだったらしい。演奏の前半のバーンシュタインとハチャトゥリアンも、吹奏楽では見せ場の多い曲、大編成を武器にした迫力ある演奏は、管弦楽とは違った感動で心を揺さぶった。最後のラヴェルの「ボレロ」、吹奏楽ではどうなるのだろうと固唾を呑んだが、あの初めから終いまで続く単調な小太鼓の響きはなく、少々落胆した。聞けば、パーカッションで共演の石川直(なおし)が、なぜか金沢公演のみ欠席だったとか、正に画竜点晴を欠くきらいがあった。この編曲の初演にはラヴェル本人が指揮し、しかも満足したというから尚更である。あのただひたすら繰り返される同じリズムがないと、またあの単調で根気の要るワザが聴けないと、この曲は生きて来ないように思う。
 ちなみに、この楽団の入団応募資格は「パリ音楽院で一等賞を獲得した者またはそれと同等の能力を持つ者」となっていて、しかもその応募者の中からコンクールによって採用者を決めるという厳しい条件が課せられているから大変だ。また金沢との関係でいえば、「ギャルド」第9代楽長のロジェ・プトリー氏は、オーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)のコンポーザー・イン・レジデンスを務めたことでも知られている。

2010年11月5日金曜日

生蕎麦に纏わること

〔蕎麦屋の暖簾〕
 今秋の10月半ばに、長野県松本市の美ヶ原温泉で開かれた薬学部昭和34年卒の同窓会:ゼレン会の席で、大阪在住のK君から、君なら知ってるだろうと難問を吹きかけられた。それは以前はよく蕎麦屋で見かけた暖簾に書かれた文字のことである。金沢では往時蕎麦屋は一軒しかなく無いに等しかったが、東京辺りではよく見かけたものだ。何て書いてあるのと言われれば「生そば」でしょうと言えるが、彼の質問の主旨は「きそば」はよいとして、どういう漢字を崩したのかそれを知りたいと言う。「まさか『生蕎麦』じゃないでしょうね」と念を押された。これには一本取られた。これまで「きそば」と思っていただけで、そこまでは詮索しなかった。彼が言うには、蕎麦屋へ入って聞いても全く埒が開かないとのこと、じゃ手前が調べればよいものをと思ったものだ。
 いわゆる変体仮名を読める人には、こんな字を読むことは朝飯前、暖簾に書いてある文字は「生蕎麦」ではなく「幾楚者」で、漢字を崩して書いたものではなく、この漢字を字母とした平仮名だという。110年前の1900年(明治33年)に、帝国教育会が同音の仮名に当時数種あるのを一種に限ると議決し、小学校令施行規則の第1号表に当時使われていた48種の字母による平仮名(一音一字)が誕生し、それ以外の字母による仮名はいわゆる「変体仮名」として扱われるようになり、日常生活には使われなくなった。すなわちそれまでは現代の平仮名も制定後は変体仮名とされた仮名も区別なく平仮名として巷で用いられてきた。乱暴な言い方をすれば、ある「音」の字母が数種あれば、数種の平仮名が存在したことになり、その使いようは時代によっても、時に個人によっても好みで異なるようであった。その数は多く、200とも300とも言われている。
 さて、本題に戻ろう。現在用いられている字母は、「き」は「幾」、「そ」は「曽」、「は」は「波」である。ところが暖簾の字は、「そ」は「楚」、「は」は「者」を字母とした今でいう変体仮名である。しかしこの暖簾の文字は明治の制定以前から用いられていて、いわば伝統として特に当時の業界が抵抗して残したものと言え、このような例は他にもありそうだ。暖簾を見ると「者」の変体仮名の「む」のような字に濁点が振られているが、濁点の歴史は浅いから、これは以前はなかったかも知れない。近頃は「そば」は変体仮名を用い、「き」は「生」を当てている暖簾もある。しかし新しく興った大部分の蕎麦屋は、伝統にこだわることなく、自由な発想で暖簾を作成している。
 それではこの「生蕎麦」とは何だろうか。あれこれ辞書を見ると、とにかく「蕎麦粉だけで混ぜものがないそば、もしくは蕎麦粉だけで打ったそば」と要約することができる。すなわちいわゆる純粋な蕎麦粉や十割蕎麦もしくは生粉打ちということらしい。ところが全部の辞書ではないが、少量のつなぎを加えたそば、混ぜものが少ないそばもそう呼ばれるとある。しかしこの「生蕎麦」と染め出された暖簾ができた当時は、うちは100%の蕎麦粉でつなぎを入れずに打っています、生粉打ちですという表示だったらしいが、時代を経るにしたがって、自分の処で「そば」を打っていますとの表示となり、もっと下がっては、単に「そば」を出していますという店でも出すようになったらしい。
〔挽きぐるみ〕
 私は長い間「挽きぐるみ」とは玄蕎麦を石臼で挽いたそばと思っていた。では丸抜きを石臼で挽いたものはというと?となる。そこで蕎麦に関することばの解説をあれこれ読むと、玄蕎麦であろうが丸抜きであろうが、そのまま三番粉まで挽きこんだ全層粉を「挽きぐるみ」というそうだ。昔は玄蕎麦をそのまま石臼で挽き、その後篩にかけて殻を取り除いていたが、これでは殻を完全に取り除けないため、黒っぽいボソついた食感の「田舎そば」となる。しかし現在市場で「挽きぐるみ粉」と呼ばれている粉は、殻を完全に取り除いてから製粉していて、甘皮も挽き込んでいるため、野趣に富んだ粉となる。「蕎麦やまぎし」では自家製粉で、前者を「黒」、後者を「白」と呼んでいる。
〔注1〕植原路郎の蕎麦辞典(昭和47年刊)によると、「蕎麦実を最初に置上げと言って、臼の間隔を広げて軽く挽いたものが『さらしな』、次に甘皮まで挽き込んだ二番粉が、世間でいう普通の蕎麦粉、これから更に挽き込んだものが三番粉の『挽きぐるみ』、もう一歩進めて、蕎麦殻のきわまで引き込むと『さなご』となる」とある。
〔注2〕中村綾子による上記蕎麦辞典の改訂新版(平成14年刊)では、「玄そば(殻つき)をそのまま挽き、篩で殻を取り除く製粉法をいう。これは外皮や甘皮部分の壊れくず等も混ざるので、黒っぽくてぼそつくが、香りも強く栄養価も高い。そばを丸ごと食べるようなものである。  ※ 殻を除いた丸抜きをそのまま挽いて粉の取り分けをしない粉を全層粉というが、これと混同されやすい」とある。

2010年11月4日木曜日

三男誠孝の魂を継ぐと語ってくれた福岡社長

 三男誠孝が生前に勤めていたフリークスグループの福岡 悟社長から、誠孝の遺宅の千晶さんに、北國新聞からインタビューを受けたとの連絡があったのが10月の25日、2-3日後に新聞に掲載されるはずとのこと、私は家内からその報を聞いた。福岡社長では、誠孝のことを記者に話しておいたが、どれくらい取り上げてくれるかははっきりしないがとも話されていたとも。北國新聞では、朝刊2面の「北國経済」欄に、主に石川県と富山県の経済人を対象に、経済人「やるしかない」というタイトルで、トップのやるしかないという強い想いを語ってもらっている。福岡社長の記事が載ったのは10月25日(木曜日)だった。故人の三男誠孝のことも語られていて、家内共々嬉しかったので、以下に再録したが、ひょっとしてこうした行為は違反事例なのかも知れないと危惧する。でもアレンジして載せるよりは記事そのものの方が、社長の真意が伝わるような気がする。お許しいただきたい。

● 北國新聞 2010年(平成22年)10月28日(木曜日)第2面〔北國経済〕欄
 〔経済人「やるしかない」〕
 〔タイトル〕「次のステージへ命懸ける」 フリークスグループ社長 福岡 悟氏

 起業から11年。いわゆる「インターネットカフェ」で事業を拡大してきた。創業時はニュービジネスだった業態も今ではすっかり定着し、北陸でも店舗数は飽和気味だ。
 「次の柱を見つけないといけない。具体的には飲食ですね。カレーに焼肉、鉄板焼き。何でもやっていきますよ」。飲食店は現在4店。来月にハンバーグ店、年内にはラーメン店も開業させる。
 初期投資に1億円ほどかかるネットカフェに比べ、飲食店なら2~3千万円で済む。客の回転も速く、利益率は高い。だが、飲食にこだわる理由はもう一つある。
 〔魂を継ぐ〕
 今年5月、大切な「右腕」を失った。常務の木村誠孝氏が肺がんで40歳で亡くなった。
 創業間もないころ、清涼飲料の営業マンとして出会った。鳴かずと飛ばずのまま閉店した漫画喫茶時代からの付き合いで、能力と情熱を買って引き抜いた。一手に任せた新規事業の中でも、飲食は木村氏の肝いりだった。
 「入院後も、鼻に酸素吸入のチューブを通して出社してたんです。まさに、仕事に命を懸けていた。彼の魂は絶対に引き継ぎます」。6月にオープンした漫画喫茶「キムラ39珈琲(こーひー)」の店名には、木村氏への感謝の思いを込めている。
 先日開いた「経営計画発表会」で、全国の店長クラス約60人に「経営者になりたい人はいるか」と質問した。本当は全員が手を挙げるのを期待したが、3分の1ほどだった。
 「飲食店にしろネットカフェにしろ、勤め人感覚じゃ駄目なんです。全員が起業家、経営者という気概を持ってほしい」。独立を目指す社員は全力で応援したい。
 〔えこひいきはする〕
 「えこひいきはする」と社内で宣言している。怠けてうそばかりつく人間と、汗水垂らして努力する人間が同じ評価でいいはずがない。
 「人から『頑張ってるね』と言われる仕事をしたい。評価は他人がするものです」。全社員を奮い立たせ、会社を次のステージへと成長させることが役割だと感じている。
 「笑顔と感謝にあふれる店づくりを進めたい」。

◆ふくおか さとし  加賀市出身 1983年日本体育大学卒
 体育教員、スポーツクラブの統括エリア支配人などを経て1999年に創業。48歳。
◆フリークスグループ (石川県野々市町)
 サイバーカフェフリークスや飲食店を展開、北陸、東海、東北エリアに32店舗を持つ。
 資本金は9300万円。2010年3月期の売上高は約30億円。 
 

2010年10月28日木曜日

第6回白山・手取川もみじウォーク余聞

 白山市実行委員会、日本ウォーキング協会、北國新聞社が主催するもみじウォークも今年が第6回目、私は第2回から参加しているが、これまでは白山スーパー林道の一部を歩くので、林道が閉鎖される11月10日以降の土日に開催日が設定されてきた。ところが11月中旬以降になると、天候が悪いと時に霙が降ったり、気温が10℃以下になったり、気象条件によっては参加者の健康管理にも問題が生ずることが指摘されていた。またこの時期は、白山麓辺りでの紅葉は適期が過ぎていることが多く、この点も時期を早める要因の一つとなったものと思われる。そういうこともあってか、今年は昨年より3週間早い10月23・24日の土・日になった。もっとも「もみじウォーク」と銘打っている以上、紅葉が一つの条件になるのは言うまでもない。でも開催日は少なくとも5月末までには確定する必要があり、かつうまく紅葉の時期にマッチさせる必要がある。
 開催日を10月下旬にしたことでもう一つクリアしなければならないのは、峡谷美が素敵な白山スーパー林道の中宮料金所から姥ヶ滝駐車場間の4.0kmを歩くことである。この区間は蛇谷の中でも特に峡谷美が優れていて(注)、紅葉の季節は特に圧巻である。しかしこの林道は実は自動車専用道路であって、歩行は禁止されている。しかし特別な事情があれば許可されるが、それにしても自動車が通行できる午前8時から午後5時の間の歩行はできない。そこでの苦肉の一策は、午前8時までにこの自動車専用道路から退去するようにすることで、実際のタイムスケジュールでは、中宮料金所出発の姥ヶ滝往復コースでは、受付が午前5時、出発が5時45分、姥ヶ滝駐車場出発の渓谷周遊コース、姥ヶ滝コースでは、受付5時半、出発6時45分で、前者は往復8kmを2時間15分で、後者は下り4kmを1時間15分でクリアしなければならない。この時期の日の出は6時10分頃、受付時はまだ暗い。
 初日の市ノ瀬コース(21km)の受付は8時30分、家を7時に出る。国道157号線を南下するがかなりの車、今日のもみじウォークに参加の車かと思ったが、大部分はスーパー林道の方へ行ってしまった。スーパー林道は中腹が今が見頃だろう。受付場所の白峰公民館に着いたのは8時、受付までまだ30分ある。今回は前田さんほか参加の常連は不参加の由、知っている人はいない。白山市在住の50代の男性と話す。白山市に住んでいながら初の参加とか、一寸冷え込んできたので厚着をしてきたというから、歩き出すと熱くなりますよと話す。白山へもまだ登っていないと仰る。私は薄手の登山シャツ一枚のみですと話したら、びっくりしていた。このコースの定員は600人、今回は6月に案内があって、10月1日が申込み締め切りだったが、前田さんの話では10月半ばになって参加勧誘があったと言うし、当日でもまだ受付をしていたから、定員割れしているというな印象を受けた。
 受付を済ますと、布製のゼッケンに都道府県と氏名、それに今日明日の歩行距離とメッセージを書くことになっている。メッセージには歳と足を考慮して「お先にどうぞ」と書いた。9時半発の出発地点の百万貫の岩へのバスを待つ間、福島県と埼玉県から参加の男性と女性と一緒になる。お二人とも60代後半、聞くと二人とも日本ウォーキング協会の会員で、全国を股にかけてあちこちのウォーキング大会に参加している。こちらからお願いするまでもなく、お二人はこれまでの軌跡を話され、その印を見せて下さった。埼玉の女性は、協会が選定した「日本の歩きたくなるみち500選」が入っているウォークに積極的に参加しているとのこと。また福島からの男性は、協会が展開している全国1800の自治体とタイアップした「ご当地ウォーク」に熱心に参加していて、この方も全国を股にかけて飛び回っておいでる由、福島県は全市町村をクリア、石川県もすでに3市町をクリアしておいでた。驚くべきバイタリティーだ。お二人とも今日は21kmに挑戦とか、嬉々としておいでだった。移動のバスに乗っては、石川県の協会の方と一緒になった。この方も「ウォーク日本1800」の冊子を持っておいでた。私は協会では20本の指に入る健脚ですとも、立派な体躯、まだ50代か。その方が言うには、協会では会長が最も元気、スロースターターだが、序盤を過ぎるとどんどん前の人を追い抜いて行くとか、これが歩きの骨頂で、素晴らしい快感とのこと、私も会長にあやかった歩きを心掛けているとか、恐れ入った。現に市ノ瀬コースでは、私が付けていたトップグループに彼は居なかったが、10分くらいしたら強烈な力強い歩きで皆をごぼう抜きにしていったのには驚いた。市ノ瀬の折り返しではコースを2番目で折り返していた。法螺ではなかったわけだ。
 北國新聞の記事では、初日は3コースに1,100人が参加したという。私が参加した21kmの市ノ瀬コースは定員600人だったが、参加は半数程度だったような印象を受けた。前回では申込み締め切り後での申し込みは断られたと前田さんが話していたが、それからみると参加者は少なくなったようだ。でも初日は天気に恵まれて、爽やかな歩きができた。コースから白山の御前峰が見える場所が3ヵ所あるが、2番目に良く見える場所に「白山眺望の場所〕と撮影箇所を設けてあったが、この行事に合わせて設けたのだろうか。沢山の方がカメラを向けていた。紅葉は色づいている木もあるが、今年の夏は猛暑が長期間続いたこともあって、例年なら盛りなのだろうけれど、1週間は遅れているような感じ、冷え込みが来ないと紅葉は期待できない。
 木々の色づきは今一だったが、路傍にはノコンギクや知らない黄色のキク科の花がずっと咲いていた。また驚いたのは、山側に擁壁が施されている場所の下部に、何十米にもわたって可憐なダイモンジソウが群生して咲き誇っていた。車で通っていては目に付かないだろうが、これも歩きの功徳というものだ。(黄色い花はカセンギク・歌仙菊でした)
〔初日のコース概要〕出発地点:百万貫の岩(標高610m)-5.1km-市ノ瀬(790m)ー5.1kmー百万貫の岩(610m)-6.0kmー緑の村(485m)ー4.8km-白峰公民館(445m):ゴール地点。 歩行距離:21.0km 、標高差:345m 、延べ上り:240m 、延べ下り:405m 、出発時間:10:18 、帰着時間:13:17 、所要時間:2:59(この間市ノ瀬でトイレ休憩 0:04)、時速:7.05km 、分速:117.3km 。
 前回は市ノ瀬で折り返して百万貫の岩へ戻ってきたときに、ここを出発点とする人たちと合流するような感じになったが、今年は1時間の差もあって誰も居なかった。そこから20分ばかり歩いて11時出発の組の殿に追いついた。協会の世話役の男女二人が私たちが11時組の殿ですと言われる。それでその前を見ると、親子5人が歩いていて、一番小さな子も一丁前にゼッケンを付けて歩いていた。後で参加者の最年少は3歳と聞いたが、きっとあの子だったのではなかろうか。
 二日目は姥ヶ滝往復コース(14km)にエントリーしていたが、初日の頑張りで、左足の親指の付け根に腫れが出たこともあり、また受付が午前5時ということもあって、軟弱にもパスすることにした。この日の天候は曇りで、午後は雨模様とか、でも新しく新岩間温泉コース(12km)が設けられたこともあって、新聞社の発表では二日目には1,700人の参加があったとかだった。参加者の最年少は3歳、最高齢は89歳、20都府県から参加があり、地元石川が最多で、次いで富山、福井、兵庫が多く、兵庫からは大型バスでの参加だった。コースは初日3コース(7,11,21km)、二日目5コース(10,12,14,20,30km)だった。
(注)白山スーパー林道の中宮料金所から姥ヶ滝駐車場に至る4kmは蛇谷峡と言われ、V字峡谷と枝谷から落ちる滝と岸壁、それにへばりつくように生えている潅木、それにこの谷を跨ぐ蛇谷大橋からの俯瞰、正に一服の画になる。林道対岸(右岸)には下流から順に、しりたか滝、赤石の滝、岩底の滝、蛇谷大橋を渡ると、かもしか滝(五色滝)、水法の滝(慰ヶ滝)と続く。姥ヶ滝駐車場からは、露天風呂の親谷の湯(ドスの湯)へ下る遊歩道がある。この湯からは対岸(左岸)の正面に日本の滝100選の姥ヶ滝を正面に見ることができる。林道からは駐車場を若干過ぎた地点から見ることができ、奥には小親谷の滝がある。さらに2km遡ると、蛇谷では最も落差の大きいふくべの大滝がある。この区間は通常は歩行禁止で、かつ駐車場のある姥ヶ滝とふくべの大滝以外は車は2,3台しか止められず、もしゆっくりと峡谷美を観賞しようとするならば、この区間を歩くことができるこのような機会を逃すと無理ということになる。

2010年10月20日水曜日

信州探蕎:屯(飯田市)と黒耀(長和町)

 探蕎会の平成22年秋の探蕎は、久保副会長の企画で、長野県南部の飯田市にある「屯」(たむろ)と中部の小県郡長和町の「とく田」となった。経緯はともかく、南信の飯田市へ行くのは初めてで、企画を聞いたときは、随分遠いところへという印象が先に立った。一度木曽の「時香忘」へ行くのに、中央自動車道を岐阜県の中津川ICで下りて、木曽路を北上したことがあるが、今度も中央自動車道経由でということになった。もっとも岐阜県と長野県の境にある恵那山トンネルを抜ければ、そこはもう飯田の里ということになるから、驚くに当たらないかも知れない。そこから今宵の宿となる中信の別所温泉へは、中央自動車道を北上、さらに長野自動車道を北上、そして上信越自動車道を東進して入ることになる。翌日出かける「とく田」は美ヶ原高原の東南の縁、別所温泉の南に位置している場所、でも直には行けないから、東からか、もしくは西から回り込まなければならない。ただこのそば屋は春に行く予定になっていてボツになった経緯もあって、ぜひ行きたいと思っていたそば屋だ。
 
○工房「屯」(たむろ)(飯田市大瀬木 1948-12)
 そばと家庭料理を標榜する工房「屯」は、飯田市の西に広がる台地の中腹にある。中央自動車道の飯田ICで下りて、国道153号線を南下し、大瀬木交差点の一つ手前の交差点を右折して西に向かって台地を登って行くと、右に見えてくる。標高は700m、「屯」は二階建てのどこか外国の山小屋という感じの建物で、息子さんの設計とか。店の前には5,6台の車が止められる未舗装のスペースがある。私は直感的に、雰囲気としては福井三国の「小六庵」に似てるなあと思った。どちらも高台にあり、「小六庵」からは海が見えるが、「屯」からは飯田盆地を挟んで、東には南アルプスが屏風のように連なっているのが見える。実に素晴らしい環境である。着いたのは開店少し前、付近を散策する。天気は上々、汗ばむほどだ。山々を飽かず眺める。南アルプスは北半分の山々が見えている。南半分の山々は手前の伊那山地に隠れて見ることはできない。左手の北から順に、仙丈ヶ岳(3033m)、北岳(3193m)、間ノ岳(3189m)、農鳥岳(3026m)、塩見岳(3052m)、小河内岳(2802m)が見えている。
 開店時間の11時30分少し前に店に招じ入れられる。7人が大きな長いテーブルに陣取る。既に久保さんは「屯コース」(1,650円)を予約してあった。お酒は瓶詰めの地酒の冷やを貰う。この店の看板は「手打ちそば」に手造りの黒豆豆腐、それに家庭料理、中でも店主の出身地の神奈川県三崎のマグロの中トロはお勧めの品とか、何とも変わった一面を持つ店ではある。コースには三崎マグロの刺し身、冷や奴、がんもどき、デザートが「ざるそば」のほかに付いてくる。この山の中でマグロとは何ぞやと思ったものだが、前住の地の拘りもあるからなのだろう。でも新鮮で実に美味しかった。何ともはやである。デザートを残してメインの「ざるそば」が出てきた。手製の白木のせいろにこんもり高く盛られた二八の細打ちのそば、きれいな手打ちだ。手繰ると蕎麦の香り、素敵な喉越しである。汁は濃くない。
 パンフには、おそばが大好きな人、夜景を楽しみたい人、ものづくりが好きな人、一人しずかにお酒を飲みたい人、音楽を愛する人・・が多く集い、出会い、くつろいで頂ける店として・・・とあった。ものづくりが好きといえば、店内のテーブルや椅子はすべて店主の自作だそうだ。

○手打ちそば処「黒耀・とく田」(小県郡長和町和田 3360-1)
 そば処「とく田」は、これまで国道142号線の旧和田村役場から県道和田美ヶ原線(178号線)をビーナスラインへ向かって行き、美ヶ原高原別荘地の手前1kmの和田野々入地区にあったが、平成21年春からは国道142号線(旧中仙道)沿いに「黒耀・とく田」として営業している。国道を通っていると大きな木を組み合わせて造られたモニュメントが見え、それに「そば処」「黒耀」と大書してあり、一目瞭然である。そして広い駐車場がある。またモニュメント下の看板には「黒耀・とく田」の文字が見える。店は大きな平屋建て切妻屋根の建物だ。開店は11時なのだが、ここでも開店前に招じ入れられた。私たちが最初の客である。中へ入ると広い「おえのま」があり、沢山のテーブル台が並んでいる。私たちは「おくのま」に入る。テーブル台に両肘掛け付きの座椅子、心地よい座りだ。ここでも久保さんは「黒耀三色盛り」を既に注文されていた。三色盛りはすべて十割の田舎・さらしな・ダッタンの盛合わせ、いろいろなそばを味わえるよう配慮された由である。それに二人に1皿のすごいボリュームの「海老と季節の野菜の天ぷら盛合わせ」も手配済みであった。そして蕎麦前には地酒の喜久水の300mlの瓶詰めの冷やを2本もらう。
 それぞれのそば一品は1,050円、三色盛りは1,575円であるから、単純には三色盛りは1.5食分ということになる。宿の朝食をお代わりして食べられた方々には量が多いと目に映ったようだ。長方形の店主自作のせいろに三つのそばが盛られて出てきた。細打ちの「田舎」は思ったより滑らか、とても十割とは思えない喉越しの良さ、食べやすく旨い。次いで純白の「さらしな」、繊細と言えばよいのだろうか、十割の水ごねでこんなに極細の打ち、ほのかな甘味を感ずる。そして「ダッタン」はと見ると、淡い紅黄色の細打ち、以前食べたダッタンそばは黄色く、しっかりした苦味を感じたが、これは色も苦味も従前のものとは違ってどちらも淡い。あの苦味と色が念頭にあった私は、咄嗟にはダッタン2割と思った。他所ではダッタンそばは3割で打つのが通常だ。でもこの店のそばはすべて十割とのこと、とすると私の知っているダッタンそばとは違うものであるらしい。
 店のパンフでは「信濃霧山ダッタンそば」とあり、地元長和町の標高800-1,400mの霧の高原で栽培したダッタンそばで、苦味が少ないのが特徴とのことだ。蕎麦にはポリフェノールのルチンが含まれていることはよく知られている。ところでルチンは毛細血管を強化し、血圧を降下させる働きがあることが知られているが、ダッタンそばにはこのルチンが通常のそばの100倍も含まれているという。ところが長和町産のダッタンそばにはこのルチンの含有量が120倍だという。加えて苦味が少なく食べやすいとのことでアピールしていて、特産品としてダッタンそばの乾麺やケーキ、クッキーも販売している。そば麺は1袋200g入り600円とか、申し分のない健康食品である。
 付:この店の名の「黒耀」は、長和町の和田峠や霧ケ峰周辺に産する黒曜石に因んで付けられたものだろう。現にそば打ちに使われている水は、すぐ近くで湧く「黒耀の水」だそうだ。黒曜石の「曜」の字は、本来は店名に使われている「耀」の字が当てられるのだが、当用漢字にはないとかで「曜」となっている由である。北海道十勝地方も産地としては有名で、北海道では「十勝石」という名で知られている。なお、大分県の姫島の黒曜石産地は天然記念物に指定されているそうだ。

2010年10月4日月曜日

白山平瀬道の今年の秋色は望み薄

 10月初旬の土日、白山の秋色の具合を探るため、今年4度目の山行きをした。白山の紅黄葉を観る場合、白山の東側、登山道でいうと岐阜県の大白川から登る平瀬道からが一番だと思う。白山で最も多く利用されるのは山頂の西側、市ノ瀬から登るルートなのだが、紅黄葉ということになると、紅黄葉する樹種が少ないこともあって、秋は何とも味気ない。もっとも弥陀ヶ原まで登れば、草紅葉や散在するウラジロナナカマドの橙色が目を和ませてくれるが、何といっても数が少ない。でも室堂平まで上がれば、その数は少し多くなる。
 秋色でつとに有名なのは涸沢の紅黄葉であるが、年によって若干差異があるのかも知れないが、概して毎年、台風などの影響で葉が痛まなければ、観賞に値する紅黄葉を期待できるようだ。その要因の一つは涸沢が圏谷という大きな谷筋に当たることだと思う。木々の紅黄葉には水が大いに影響していることは昔からよく言われていることで、山でなくても紅黄葉の名所などでも、適度な保湿と寒暖の差が紅黄葉の出来に大いに影響するとされている。その点涸沢は紅黄葉の条件が十分満たされている。
 私が住む石川県野々市町から岐阜県白川村の平瀬までは、以前だと、森本から富山県の福光へ、さらに城端から五箇山へ抜け、庄川をさかのぼって平瀬に達し、そこから大白川に入ったものだ。優に登山口まで3時間はかかった。ところが今では東海北陸自動車道ができて、これを利用すれば、距離はずっと長いが、時間は1時間半で登山口まで辿り着ける。ずっと以前は、平瀬が登山口、自動車道はなく、奥の大白川温泉へ行くにも歩いていったものだ。ただ現在でも道路幅は狭く、大型バスの乗り入れは困難なこともあって、定期の登山バスは通っていなくて、入山は自家用車かマイクロバス、タクシーかハイヤーということになる。
 私が出かけた10月2日は上天気、私が大白川の駐車場に着いた時にはもう50台くらいの車が並んでいた。見ると関東と中京、それに地元の岐阜と北陸の富山、石川ナンバーも1台いた。私が着いたのは6時半、7時に登り始める。この歳では若い人と伍する歩きはできる筈もなく、ゆっくり、ただ休まずに登る。平瀬道は別当出合からの登山道に比べて若干長いが、登山口の標高は偶然ながら同じである。初めに尾根筋に出るまでの高度差約200mは急登となるが、以後は緩急のある登りとなる。散在するヤマウルシが橙色に、オオバカメノキが赤く色付いているが、まだ紅黄葉は始まったばかり、カエデ類はまだ緑のままだ。高度で500mばかり登ると、東の展望が利くようになり、槍・穂高から乗鞍・御岳が一望できる。このジグザグを抜けると、根曲がり竹の斜面のトラバース、この辺りのブナは少し黄葉がかってきている。白水湖のエメラルドグリーンが印象的だ。ここを過ぎると大倉尾根に取り付くことに、この辺りになると、紅葉の主役のタカネナナカマドが多く見られるようになる。いつか家内と家内の友人を案内したときは、最高の紅葉、紅の海の中を逍遥しているような感があった。先月に砂防新道から登ったときには、弥陀ヶ原や室堂平のウラジロナナカマドは葉はシャンとしていて、今年は紅黄葉が期待できそうだと思っていたが、どうだろうか。大倉尾根下部のタカネナナカマドは丁度緑から紅への移行中であった。さらに登りつめると視界が開けて、左に御前峰、右に剣ヶ峰が見えるようになる。ミネカエデが鮮やかな黄色に輝いている。そしてタカネナナカマドは紅色に、しかし鮮やかさがないのはどうしてなのか。大体平瀬道の標高1700mから2000mにかけてはタカネナナカマドが多く、最盛期にはこの紅色が主役なのだが、今年はこの紅色がどうしたわけかくすんでいる。大倉避難小屋を過ぎる辺りからはウラジロナナカマドが混生してくる。見分けは葉の形で一目瞭然、色はタカネが紅なのに対してウラジロは橙色に染まる。だが今年のウラジロは葉が丸まっていてきれいな橙色になっていない。一部茶葉になっているものもある。この道での最高点である賽の河原への急なのぼり道からは白水谷の黄葉が俯瞰できるが、まだ少し時期が早いようだ。辺りの黄葉した草紅葉は今が盛りだ。
 賽の河原を過ぎるとそこは室堂平の一角、草紅葉と散在するウラジロナナカマドの橙色のコントラストがよい。室堂平ではこの辺りが最も観賞に値する場所だと思う。写真家が別山をバックに紅黄葉の一葉をものにするのもこの辺り、この日も1名いた。ここから室堂までは600mばかり、草紅葉の中ではハクサンフウロの濃い紅色が印象的だ。小潅木のクロウスゴも多く、こちらは紫色がかった紅色が地を染めている。しかし主役のウラジロナナカマドは橙色が冴えない。しかも先月中旬にはまだ元気だった葉が、一部丸まっていて、強い風のせいなのか、あるいは気温のせいなのか、とにかく一部が茶色がかっている。この傾向は室堂に近づくにつれ、一層酷くなるような印象を受けた。
 室堂のビジターセンター前は登山者で溢れかえっていた。今日一日は天気が保証されていることもあってのこと、団体さんも3組くらいいる。女性が6割くらい、中年もいるが、若いいわゆる山ガールが多い。時間は11時、食事してから御前峰を往復する。雲が湧いてきて、頂上からの視界は効かないが、頂上も人、人、人の賑わい、何人もからシャッター押しを頼まれる。「白山頂上」の碑が立っている場所が空くことがない繁盛ぶり、こんな場面には久しぶりに出くわした。室堂へ戻ったのが12時半過ぎ、平瀬から登った人の9割以上の人は日帰りで、登ってきた道を下って行く。私が登っているときに尋ねた老若男女、一人を除いて皆さん日帰りだった。それも泊まるとすれば室堂泊まりが普通、私のように南竜山荘に泊まる人は皆無である。何故なら翌日の帰りには、賽の河原までの400mの登り返しがあるからである。
 室堂からトンビ岩経由で南竜山荘へ、この道は古い美濃禅定道そのもの、途中石畳の部分が残っている部分がある。昨年このルートが一部改修され、半月前はここを登ったが、以前から見れば随分良くなった。でも下りとなるとエコールートに比べ、距離は短いが、下りに要する時間は長い。8月末の閉山祭の折、お下がりの御神酒の一升瓶を頂いた南竜山荘の主任さんに下りはトンビからですかと聞いたら、エコーからと言われたのを思い出した。岩の角に当てて割らしたのでは様にならないからなのだろう。上りは構わないようだ。下る途中に母娘の一組に出会った。南竜泊まりですかと聞くと、この後砂防を下るのだとか、元気だ。
 トンビ岩から下るこの斜面は、室堂辺りから比べるとウラジロナナカマドの傷みが随分と少ない。先月の泊りでは、南竜ヶ馬場の紅黄葉は10月初旬が身頃ですとのことだったが、少し早いものの、見頃に近い風情、黄色い草紅葉と相まって、あちこちにある橙色のスポットが映える。この前は泊り客9人だったが、今日は37人とか、奈良から16人の団体さんが入っていた。年を通じても、平瀬へ下る人で、ここに泊まる人は極めて少ないだろう。夕食は5時、朝食は6時と言われる。今晩はスタッフが5人ばかり多いので、今日は土曜だからとだと思っていたら、最盛期にバイトでいたスタッフが応援?に来たのだとか、殊勝な連中だ。彼らは朝早くほとんど空身で下って行った。愉快な気のおけない連中だった。夕食をはさんでビールと神の河、7時頃には眠たくなり、消灯前に寝てしまった。明日の天気予報は曇り後雨、夜起きて外へ出たが、星は全く見えずガスっていた。
 翌朝4時半には団体さんが出発した。朝食のお膳は12人分しかなかったから、大部分の人が朝暗いうちに出かけたことになる。その人たちは皆さん夕方別当出合から来ていて、朝早く室堂へ向かって発って行った。私も食事を済ませて7時に山荘を出た。オバちゃんが「今年はもう会えないね」と言うから、天気が好かったら16日(山荘はこの日で閉鎖)に来ますと言ったが、天気次第だ。もう半月後となると、紅黄葉も終わりに近いだろう。この時間に展望歩道を歩く人は皆無、もっともガスで視界は20mばかり、何も見えない。ホシガラスがよく鳴いている。賽の河原まで1時間、もっとかかると思っていたが、私もまだ捨てたものではないなと思った次第。ここからは1200mの下り、下り始めて間もなく3人の若者、下を5時頃に出たのだろう。私が大白川の登山口に下りるまで30人ばかりの登山者に出会った。今日も午後から雨模様、明日も雨なのにと思う。下りには2時間半を要した。もっと時間を要するかと思ったが、どうやら標準タイムのようだ。
 今年の平瀬道は、下部はまだこれから、中間部はこれからそろそろ始まる様相、上部は始まってはいるが、草紅葉はよいとして、肝心要のウラジロナナカマドの葉が縮れて丸まっていて橙葉を期待できない。またタカネナナカマドも紅葉は始まってはいるものの、何か色が冴えない様相、あの鮮烈な紅葉は期待できそうにない。後は中間部と下部のブナとカエデ、黄葉を期待したいがどうなるだろうか。
 

2010年9月29日水曜日

荘川の里にある手打ちそば処「蕎麦正」

 過日、探蕎会で荘川町一色にある三嶋家の「式部の庵」へ寄ったが、標榜する「十割手打ちそばの店」は立派だが、出された「そば」は今一の感があった。このことを久保さんに話していると、一度「蕎麦正」へ行ってみたらとのこと、機会あって出かけることにした。荘川そば街道には6店が加盟しているが、そのうちでは最も北に位置している店である。場所は荘川町牧戸にある。庄川の源流はひるがの高原であるが、この荘川町も庄川の最上流に位置している。2005年には高山市に合併したが、それまでは旧大野郡荘川村、合併時の人口は1,400人弱だった。村役場(現荘川支所)のある新渕は標高800m、冬には積雪が2mという豪雪地帯である。
 手打ちそば処「蕎麦正」(そばしょう)の案内を見ると、蕎麦は昔から地元で採れた蕎麦を使っているという。栽培の場所は荘川町黒谷の標高1,200mのダナ高原、通称荘川高原、東海北陸自動車道の南側、あの「式部の庵」のある荘川町一色の東側に広がる高原である。ここは朝晩の温度差が大きく、蕎麦ばかりでなく、夏期には冷涼野菜の栽培にも適した土地、加えて白山連峰や北アルプスを望める岐阜県の美濃飛騨新百景にも選ばれている場所である。そして此処で採れた蕎麦は自然乾燥され、「荘川そば」として提供されているという。正に地産地消である。
 寄ったのはお昼近く、お客さんが多く、名前を書いて予約する。繁盛している。場所は国道156号線と158号線の交点の牧戸交差点から、国道158号線を少し南へ下がった道路沿いにある。駐車場は広く、20台は止められる。蕎麦正の席数は全部で50席、席数が多いこともあって回転が早く、10分程して店へ入れた。四人席のテーブルに3人で座る。50人も入るというのだから、別の部屋もあるのだろう。私達の入った部屋は大きくなく、椅子席で16人しか座れない。何か畳敷きの部屋もあるそうだ。
 おしながきを見て、十割そば1枚、源流そば2枚、岩魚の姿煮1、季節の天ぷら2を注文する。やがて薬味が届く。刻み葱、大根おろし、それに中ぶりの生山葵と陶製のおろし金、そして青い猪口には赤穂の天日塩、この塩はそばの初めの一口に、そば汁でなくて、この塩を一振りして、蕎麦そのものの味と香りを楽しんで下さいとあって、すると蕎麦の甘味が伝わってくるという。テーブルには、「本山葵と箸は持ち帰らないで下さい」と書いたメモが置いてある。出た箸は竹製、太めで先は細くなっていて、一見単なる竹の箸だが、注意書きを読むと、この箸は「やまご箸」といって、成竹を湯ダキして天日干しにして自然乾燥させた後に加工したもので、すべて手作業とのこと、希望の方には500円でお分けしますとある。ほかにも生そばセット(3人前、つゆ付)を販売している。
 初めに「源流そば」が来た。丸い皿に丸い簾の子を敷き、その上に細打ちのそばが載っている。蕎麦正のうたい文句は「石臼による自家製粉」と「挽きたて・打ちたて・茹でたての三たて」だという。とにかく出されたそばは端正できれいだ。十割は別にあるので、二八だろうか。少しお相伴すると、コシもあり、喉越しも良い。次いで天ぷら、季節の畑の野菜、中でもトマトの一品は初めてお目にかかった。擂りおろした本山葵は、直接そばに絡ませてから蕎麦つゆにつけてお召し上がり下さい、すると旨みがお口いっぱいに広がりますとある。実践する。やや間を置いて「十割そば」と岩魚の姿煮(甘露煮)が来た。こちらもきれいな細打ちだ。何故か十割そばには小鉢に刻み海苔が付いている。源流そばよりシコシコ感がある。これは店内のお品書きには載っているが、パンフレットには載っていない。ということは余り打たないような印象を受ける。この店のお客の数は半端でないから、さもあろう。一応建前では仕込みは朝のみ、したがって無くなれば閉店ということになる。
 小生には此処で出された荘川の地で採れた蕎麦の滋味の特徴というものはついぞ実感できなかった。でも出されたそばは美味しく上等だった。この荘川産の蕎麦は、飛騨荘川手打ちそば街道の6店のほか、蕎麦正の姉妹店の飛騨そば街道の4店でも味わえる。

〔おしながき〕単位(円)
・十割そば1300 源流そば1000 おろしそば1000 大根サラダそば1200 そばがき600
・季節の天ぷら500 きのこ汁300 岩魚の姿煮700 そばぜんざい300
・お持ち帰り用(3人前つゆ付)1600 ご贈答用(3人前本山葵蕎麦粉つゆ付)2500
〔蕎麦正の住所ほか〕
・岐阜県高山市荘川町牧戸160-1  電話05769-2-2234
・営業:午前11時~売り切れ閉店  定休日:木曜日

2010年9月28日火曜日

砺波の里にある「蕎麦福助」

 9月21日、前田さんから「今久保さんがいらっしゃって砺波市の『福助』がいいので是非行ってくださいとのことでした。住所:砺波市林 947-1、時間 11:30-2:30 5:30-8:30、電話:0763-33-2770 」というメールが届いた。実はこのメールを見て、9月初めの日曜日に久しぶりに家内とその友人の三人で鶴来の「草庵」へ行った折、満員だったが、おカミさんと話す機会があり、その時「富山の福助さんへ行って来ました」と言われたことを思い出した。
 早速前田さんに電話して、場所は何処かとお伺いしたところ、ナビに電話番号を入力すればOKという。それもそうだと25日の土曜日に挑戦することにした。家内は都合がつかず私独りで出かける。11時半開店なので、家を10時に出る。地図では、砺波市林は市の中心部から北へ3kmばかり、そんなに離れてはいない。とりあえず高速道を砺波ICで下り、ここで電話番号を入力する。ところが該当する施設はないという返事。ではと「ふくすけ」で探索すると、全国では560ばかり、富山でも数ヵ所、もっとも飲食店の名称で索引するから蕎麦屋とは限らない。砺波市にもあるが、林ではない。それではと砺波市林で入力し、ナビに従って行くと、田圃の真ん中で「目的地周辺です 音声案内を終了します」となった。時間はまだ11時と早いが、この道、車は通るが人影は見えない。とりあえず国道156号線まで出る。車を退避できる場所に止め、もう一度砺波市林と入力する。今度は逆方向からの進入、すると目的地周辺の電柱に「福助」左折のマーク、これで助かった。
 着くと屋敷はかなり広い。田圃の真ん中、水田を造成したものだろう。入り口に大きな「福助」の看板、車が4台止まっていた。駐車場は優に20台は止められ、未舗装の駐車場もある。建物は大きな瓦葺き切妻屋根の棟屋、建物の入口は1間半はあろうか、大きな白の暖簾には、右上に「手打ち石臼挽き」、中央に大きく「蕎麦」、左下には「福助」と墨書してある。暖簾をくぐり、板戸を開け、中へ入る。靴を脱ぎ、上がり框へ上がり、大きな障子戸を開けて中へ入る。中は板の間。「お好きなところへどうぞ」と言われたが、独りなので、窓際の「えん」の座机に座る。既に4組16人が入っている。
 注文は先ず「新そばの細挽きせいろ」と、やや間を置いて出すようにお願いした「粗挽き田舎の鴨汁せいろ」。でも結果として、鴨汁のつけ汁は温かいので、後で出てきたのは新蕎麦でないひねこの細挽きせいろだった。これは注文ミス、「粗挽き田舎」を食べ損ねた。
 建物は総欅造り、黒部の山間部の庄屋の築百年以上の古い民家、豪雪で全壊したものを、とある建設会社の古民家事業部が規模を3分の1にしてこの地に移築したとのこと、内部の「おえのま」には吹き抜けと見紛う高い天井に太い磨かれた欅の梁、すごく印象的である。欅の帯戸も見応えがある。「おえのま」には四人掛けテーブルが3脚、六人掛けテーブルが2脚置いてあり、「おくのま」は向かって左に四人掛けテーブル、右の間には衣桁に展示の友禅の着物が掛けてある。「えん」には、二人が向かい合わせに座れる座机と四人座れる座机が置いてある。
 初めに蕎麦茶、次いでセットで「つけ汁」と蕎麦猪口、それに刻み葱少々と生山葵(1㎝弱の輪切り)とおろし金とおろし金から摩り下ろした山葵を外すスプーン状の竹の櫛(これを初めて目にしたが、中々便利な代物だ)がお盆に。暫くして丸い笊に入った「細挽きせいろ」が角盆に載って出てきた。通常の細挽きよりも細い切り、きれいな仕上がりである。新蕎麦は北海道滝川産とかで、新そばは「細挽きせいろ」のみ、ただ新そばとはいっても萌黄色は伺えない。ただ香りは好い。手繰ると新そばらしい味、でも強烈さはない。猪口に汁を少し入れて味わうと濃いめ、少し浸して食べる。極細打ちにしてはコシがある。山葵は下ろしたものをそばにまぶして、それを汁に浸してお召し上がり下さいとある。
 次いで「鴨汁せいろ」、粗挽きは出ず、細挽き、岩手産だとか、笊に盛られた細挽きは少々くっついている。色は新そばよりも若干茶色が濃い。鴨汁は中位の深鉢に並々と、それに生の三つ葉がふんだんに盛られている。汁は濃いめ、鉢には焦げ目のついた鴨の切り身と焼き葱が、鴨は程よい加減、一杯欲しいところだ。薬味には、柚子胡椒と黒七味が付いている。そばは先ほどの新そばより落ちるのは致し方ない。汁が濃いので全部浸せない。汁をよそう小さな木の杓子も付いているが、啜るには濃くて抵抗を感じる。終わって蕎麦湯を貰う。蕎麦湯は蕎麦粉を湯で溶いたもの。新そばのせいろの汁も、鴨汁のつけ汁も沢山余った。濃ければ量を少なく、鴨汁はもっと薄めにしてほしいものだ。一工夫ほしい。
 店主は西村忠剛さん、32歳、まだ童顔の好青年、蕎麦粉は自家製粉の石臼挽き、打つそばは九一そばである。出身は地元福光町、神戸の蕎麦店「土山人」で4年間修業して開店、今年で4年目、細君のほか、男性1人、女性2人での営業である。それにしてもこの古い民家の移築には多額の資金が必要だったろう。それにしても「おえのま」の空間は実に見事だ。本当に気持ちが休まる。周りの庭も手入れが行き届いていて清々しい。貰った小さな栞には、「やわらかな緑と古民家のたたずまいで、五感に潤う豊かなひとときをお楽しみください」とある。

〔おしながき〕単位:円
・冷たい蕎麦:細挽きせいろ850、粗挽き田舎850、辛味大根おろし蕎麦1100、とろろ蕎麦1200、海老天せいろ1800、国産天然穴子天せいろ2000。
・温かい蕎麦(細挽きのみ):かけ蕎麦850、とろろ蕎麦1200、にしん蕎麦1400、海老の天麩羅蕎麦1800、国産天然穴子の天麩羅蕎麦2000。 (以上大盛り300円増)
・そばがき850。  (以上新そば100円増)
・酒の肴:焼き味噌300、出し巻き卵800、酒の肴三種盛り1200。
・天麩羅:海老と野菜の盛合わせ1500、国産天然穴子と野菜の盛合わせ1500、野菜の盛合わせ500、野菜単品400。
・酒類:日本酒(富山の地酒)550-1100、蕎麦焼酎550-650、芋焼酎550-650、麦焼酎550-600、泡盛600-650、梅酒550-650、ビール400-650、ノンアルコールビール550、ソフトドリンク550。
〔食材産地〕
・蕎麦(北海道,長野,富山,福井,宮崎)、山葵(静岡)、大和芋(群馬)、辛味大根(北海道,福井,富山)、穴子(淡路,博多,長崎,徳島,江戸前)。
・冷たい蕎麦の出汁:本節(枕崎)、鯖節(鹿児島,福岡)、宗田節(高知)。何れも厚削り。
・温かい蕎麦の出汁:うるめ(熊本)、目近(熊本,高知)、鯖(鹿児島,福岡)、鰯(熊本)。
〔アクセス〕
 北陸自動車道を砺波ICで下り、国道359号線の砺波IC前交差点を右折、次の国道156号線の太郎丸交差点を左折、国道159号線を2kmばかり北上する。JR城端線を渡り、市役所前交差点を左折、杉木南交差点を右折、初めの田圃中の舗装農道を左折して直進すると、左に見えてくる。この区間に案内があるかどうかは分からない。国道156号線を市役所前の次の十年明交差点を左折した場合には、杉木交差点を左折し、初めの田圃中の舗装農道を右折して直進すると、左に見えてくる。このルートには案内が出ている。

2010年9月24日金曜日

三島家ゆかりの義民上木甚兵衛と孝子三島勘左衛門

 先に平成22年秋の探蕎で、荘川町一色のそば処「式部の庵」へお邪魔した。この店は代々この地の庄屋や名主だった三嶋家の豪壮な住宅の中にある。ただ建物は新しく、では代々あった建物はどうなったのかという素朴な疑問が起きた。ならばあの折に主人に聞けばよかったのだろうけれど、聞かず終いで何となく心に引っ掛かりが残った。ところでその1週間後に飛騨の温泉へ出かける機会があり、それではと再び荘川の里を訪れた。今回の目的は高山市の民俗文化施設「荘川の里」(高山市荘川町新渕)にある「旧三島家住宅」の建物が、先に寄った現三嶋家の旧家屋だったのかどうかの確認のためである。
 訪れたのは9月19日の午後、庄川が流れる「荘川の里」には、岐阜県重要文化財の「旧三島家住宅」のほか、高山市文化財の「旧山下家、旧木下家、旧渡辺家住宅」三棟のほか、「旧宝蔵寺庫裏」や民俗資料館がある。パンフレットを見ると、「旧三島家住宅」は旧白川郷一色村の豪農三島家の住宅で、昭和47年に岐阜県重要文化財に指定され、昭和60年には荘川村が買い受け、現在地に移築したとある。ということは、現在荘川町一色にある探蕎会で訪れた現三嶋家の旧居に間違いないと思われる。
 旧住宅は間口16間、奥行き9間の建物、現在は瓦葺き切妻屋根になっている。正面やや左の「げんかん」を入ると、すぐ正面に「げんかんのま」があり、その左に「ふくべのま(次のま)」、次に進むと「なかのま」と左に「とこのま」、さらに進むと一番奥に「ぶつま」があり、浄土真宗の大きな仏壇が安置されている。「ぶつま」の左手には「女中座敷」という間がある。これらの間はすべて畳敷きで、部屋の大きさはすべて十畳である。「げんかん」の両脇には「えんげ」という上がり框があり、向かって右正面にある「えんげ」はやや大きく奥の広い「おえ」に、また左の「えんげ」は「ふくべのま」に通じている。「おえ」の奥には広い「ものおき」と、右手奥には広く大きな「だいどこ」があり、それを取り巻いて「みんじゃ(水屋)」がある。建物の前面最右には「まや」がある。通常の出入り口は正面のやや右寄り正面にある「えんげ」と「まや」の間にある「どじ」だと思われる。「ふろ」は正面最左の角と「みんじゃ」の左奥の二か所、「せっちん」は建物の左手に続く「えん」の最奥にある。
 現三嶋家と比較すると、外観は一見似ている。しかし旧宅は大きいが質素、現住宅は大きさは小振りだが、重厚さで優っている。もっとも当然間取りなどは全く違っている。

 以下に旧三島家住宅に関連して、三島家に纏わることを、いくつかの資料から抜粋して紹介する。手元にある資料では、「みしま」の表記はすべて「三島」となっているが、「式部の庵」の玄関の表札は「三嶋」となっていた。しかしここでは資料にしたがって「三島」と表記する。
 三島家の祖は、浄土真宗の開祖親鸞聖人の弟子で、鎌倉時代の初めに白川郷へ入った嘉念坊善俊から数えて八世の明誓の長男教信が還俗して武士となり、その子正顕が一色村に帰農して三島家を興したとある。「荘川の里」にある「旧三島家」が建てられたのは、三島家十一代勘左衛門正英の時である。この勘左衛門という人は、当時の三島家の跡継ぎとして上木(うわぎ)家から赤子の時に迎え入れられた人で、上木甚兵衛自賢(よりかた)の次男重松である。ところで上木甚兵衛という人は、実は三島家の次男で上木家へ養子に入った人なのだが、三島家の長男の実兄は若死にし、また迎えた養子も病弱で子供ができず、この里帰り養子の仕儀となったようだ。この住宅が建てられたのは宝暦13年(1733)で、勘左衛門13歳の時、したがって建築は実父の上木甚兵衛がすべてを取り仕切り、高山町の棟梁今井忠次郎によって建てられた。甚兵衛は若い頃には幕府御用木の元伐・流送の元締めをしていて、家はその時に払い下げを受けた檜で建てられたという。当初は寄棟式入母屋合掌造りの茅葺き屋根であったが、明治11年(1878)にくれ板葺き切妻屋根に改造され、その後屋根は瓦葺きにされている。
 ところで飛騨は徳川幕府の天領(直轄地)で、すでに元禄3年(1692)には検地(元禄検地)が行われていたが、安永2年(1773)に代官として赴任した大原が強引に再検地を強行したために、大原騒動という飛騨一円に大きな百姓一揆が起きた。この折に、上木甚兵衛は終始百姓の味方をし、代官との交渉では百姓の言い分を代弁したため、62歳という高齢で伊豆七島の新島に遠島となった。勘左衛門は実兄の上木与作と父の赦免に奔走したが、埒が開かなかった。
 一方遠島になった甚兵衛は、島の子供たちに読み書きを教え、島の人たちと交遊し、島民からは「飛騨ン爺」と呼ばれ慕われたという。在島15年の寛永2年(1790)、甚兵衛は中風の発作を起こし、後遺症が残る不自由な身体となる。
 このことを知らせる便りが島から届いた夏、勘左衛門は一族の代表として、父を介抱するため新島へ行くことを決意する。三島家の家督を息子の甚助に譲り、渡島する。翌寛永3年(1791)4月に勘左衛門は18年振りに父甚兵衛と対面する。長い年月のことを互いに語り合い、父の看病をし、自給自足の生活、一方で医術を会得して島人の治療をして生計を立てた。その献身的な振舞いは島の人々の心を打ち、またその評判は幕府にも届き、甚兵衛親子には米や金子や薬が度々下賜されたという。
 勘左衛門が渡島して7年4ヵ月後の寛政10年(1798)8月19日、甚兵衛は2ヵ月ほど臥した後、波瀾に満ちた生涯を終えた。在島23年、享年85だった。
 甚兵衛の辞世の句 「くもの巣に かかりて二度の 落ち葉かな」
 勘左衛門は父の死後なお1年ばかり島に留まり、我が手で父の墓を刻み、さらに今度は合掌する自分の姿を彫り、その胎内に法華経を収め父の墓の傍らに据え、父への回向を託した。寛政11年(1799)、父の一周忌を済ませた勘左衛門は島を離れることになるが、最後に父の墓に詣でたとき、離別の悲しみを詠んだ句がある。
 「こればかり 残る涙や 石の露」
 この甚兵衛の墓と勘左衛門の自刻像は、東京都新島村本村の長栄寺の墓地にあり、東京都の指定史跡となっていて、献花の絶えることがないという。
 勘左衛門が一色村の自宅に帰ったのは寛政12年(1800)の2月、父の葬儀を執り行い、父との島での暮らしを「新島追慕編」という絵巻に残し、また「伊豆七島風土細覧」という民俗資料も著している。そして天保3年(1832)に84歳で他界した。
 勘左衛門の歌集「深山世婦子鳥」には、辞世の句が書かれている。しかしこの絵入りの歌集は、江戸から新島へ渡るに先立って自らの法号とともに、一首の歌を「辞世」と題して書きつけたもので、再び生きて故郷の土を踏めないかも知れないという深い覚悟を込めて詠んだ歌である。
 「さくら花 つらなる枝も ちりぢりに 風にいずこの 土と消ゆらん」

 旧三島家住宅はこうして大切に保存されているが、この住宅には親と子の深い絆で結ばれた温かい物語があった。 

2010年9月21日火曜日

2年ぶりの南竜山荘

 8月31日の白山閉山祭で、列席した南竜山荘の主任の方に一度は来て下さいと言われ、9月には訪れますと言った手前、行かざるを得ないと考えていた。そこで2年前に乞われて白山登山をした姉妹に家内から打診してもらったところ、9月14日15日なら休暇が取れるとか、それではと14日に南竜山荘に宿泊予約をした。曜日は火曜と水曜。ルートは砂防新道から登って南竜山荘に寄り、ザックを置いて御前峰に登り、南竜まで下り、翌朝は展望コースのアルプス展望台で御来光を見て、朝食後下山するというものである。家内とは二人で山歩きしようと話していたが、登山すると浮腫みが出るということもあって、一緒に山へ出かけることは難しい状況にある。私も73歳、何処へでも独りで出かけるには抵抗を感じる年齢になった。
 週間天気予報では、予定の日は天気が安定しているような雰囲気、彼女たちも楽しみにしているという。ところで彼女たちは2年前より体力が衰えて心配だと話すが、こちらの方はもっと衰えが著しい。午前4時半に小生宅出発、1時間20分ばかりで駐車場に着く。別当出合の駐車場は舗装線引きが終わってきれいになっているが、今朝はまだ進入禁止、係員が来て、今日は平生は駐車禁止の道路脇に止めてほしいと、指示に従う。駐車場から別当出合の登山口までは60mの高度差、この分がなく助かる。食事を済ませ出発する。
 大柄な姉と小柄な妹、どちらも足は達者、マラソンや自転車レースをやっているという。出で立ちはスポーツタイツに半ズボンの流行スタイル、本格的だ。そこで彼女らを先行させ、待機場所を指示する。とても彼女たちの歩に合わすことは無理で、マイペースで進む。曇り空から雨が落ちてくるようになり、中飯場で彼女たちには雨具を着用させる。とはいってもビニール製のポンチョである。私はザックカバーのみ被せ、少雨なので雨具は着けなかった。甚之助小屋まで来ると、新小屋建設の現場監督をしている清水建築(本社野々市町)の清水さんに会った。ガスが濃くて視界が悪く、ヘリが飛ばないので仕事にならないとボヤく。此処で泊り込みですかと聞くと、何と野々市町の自宅からの通勤とか、これには驚いた。もっとも中飯場まで車で入り、甚之助の現場まで登るのだが、でも超人的だ。若い者は長靴履きで20分で上がって来るが、私は35分かかりますと。まるで庭のようなものだ。この間は気が付かなかったが、工事に永井建設の名が載っている。この標識は登山路の工事箇所には名が出ているが、甚之助では初めて、聞くと小屋周辺の整備をしてもらっているとか。この会社は白峰だが、社長は野々市町の住人で町の体協の会長、家内も長く副をしていて親しい仲、開山祭にはどんな天候であろうと毎年必ず出席の御仁、よく現場見回りに直々おいでるとは清水さんの言。
 この間10分ばかりだったが、この時下から二人の若者が、やはりビニール製のポンチョを着用、ザックも登山用のものではなく、重心が下になっている代物。今日はお休みですかと聞くと、火水が定休だという。変わった会社もあるものだ。今晩は南竜山荘泊まりだというから、じゃまた後で会いましょうと別れる。私たちは水平道を通って南竜山荘へ向かう。山荘に着いたが彼らの姿はなく、どうも直接室堂へ行ったようだ。久しぶりの山荘、主任さんもいるし、オバちゃんも元気だった。天気のせいでキャンセルの電話が入っている。室堂では宿泊の受付は午後1時以降なのだが、ここではこの時期午前でも受付してくれた。食事をし、指定の部屋に荷を置き、室堂へ向かう。ルートはトンビ岩コース、古くは美濃禅定道、昨年登山路の補修工事をしているとかだったが、きれいになっている。彼女たちに先行させても間違うことはない。ガスの中だが、トンビ岩では立ってもらっての記念写真を撮る。彼女たちの西側から間近に見た印象では怪獣だと言う。
 トンビ岩から室堂へは緩い登り、万歳谷を渡ってからは礫が多く歩き辛い。途中彼女たちは御前峰への登拝路を見上げて、件の若者二人が下りてくると言う。大変な視力だ。事実彼らとは室堂で再会した。食事をしてからトンビ岩コースを下るのだと。私たちは頂上へ向かう。頂上にはガスの切れ間に十数人の人が見える。ガスは時間とともに薄くなる感じ、時折青空も覗く。登りの途中、中年の小父さんたちが下りてきて、彼女たちのスタイルに共感し、来週奥穂高へ行くときはぜひそのスタイルで行きたいと言う。彼女たちに遅れること3分、奥宮に着いた。お参りして御前峰に上がる。頂上から大汝峰は見えないが、剣ヶ峰は時折見える。方位盤にも寄り、暫し滞在する。寒くはない。
 室堂からはエコーラインを下る。五葉坂は登りも下りも好きになれない坂だ。今は通行禁止になっている水屋尻の坂の方がずっと歩きやすい。弥陀ヶ原の木道を通り、エコーのジグザグを下り、南竜山荘へ。丁度着いた際に、例の若者二人が展望台まで行くと出たところ、明日は別山までを往復するという。彼女たちの脚力では十分伍していけると思い、彼らに同伴をお願いする。明日は私はアルプス展望台で日の出、彼女らは油坂峰で日の出を拝むことに、彼らが出たあと、彼女らも展望台へ出かけた。私はビールと神の河で一杯、今晩の泊まりは9名とか、秋の平日はこんなもんですと言われる。
 山荘も昨年外装を施し、随分きれいになった。ベランダへも出られ、快適だ。ガスも引いて、チブリ尾根もくっきり見える。先ず彼らが帰着、程なくして彼女らも帰ってきた。明日は別山ということで、朝食を弁当に、出発は朝4時とする。私は4時半に出て、帰って山荘で朝食をとることに。アルコールも入って賑やかになる。私は酔って何時に寝たのだろうか、夜半に起きて外へ出ると満天の星、今日は天気が良さそうだ。
 朝3時半に目覚めたが、皆はまだ寝たまま。心配になったが、ちゃんと4時前には目を覚まし、4時には山荘を出て行った。そんなに寒くはない。山荘から見送る。柳谷を渡ってテント場の方へ上がって行くライトの列、別山道は橋を渡って直ぐ右だと言っておいたが見にくかったようだ。でも怪我の功名で、下道は帰りに通ったが、雨でぬかるんで大変だったとか、朝の暗がりではもっと大変だったろう。私も4時半に出た。行く先にライトが2つ、先行者がいる。今朝の日の出は5時27分、稜線に出ると油坂峰の頂に灯りが見えている。1時間もかからずに着いたようだ。アルプス展望台に着くと先行の2名がいた。テン泊の2人で、今日は御前峰を巡り、今晩もテン泊とか。ほぼ10分待っての日の出、東の空が赤くなってからが長い。太陽が昇るのは焼岳と乗鞍岳の中間辺り、方角は真東にあたる。やがて日の出、光は徐々に光度を増す。下は雲海、でも上にも高層雲が、それで太陽は真ん丸にならずに、下の雲と上の雲との間でのみ顔を覗かせることに。そしてやがて上の雲に隠れてしまった。でも視界はよく、北アルプスは北は朝日岳、白馬岳から、南は焼岳、霞沢岳まで、そして乗鞍岳、御嶽山、その間に遠く八ヶ岳連峰と南アルプスが見えている。先着のテン泊の2人は上に登って行った。そして私も山荘へ戻った。
 朝食を済ませ、帰り支度をして、4人の帰りを待つ。出たのは4時なので、往復5時間とすると9時、6時間とすると10時ということになる。食堂から油坂峰からの下り径をオバちゃんと凝視する。見えた地点からでも山荘までは20分以上かかろう。遅くてもよいが無事帰って来てくれることを祈る。もし泊まりの客がきたら、部屋の荷物を下へ下ろしてほしいと言われる。彼らは毛布も片付けずに出て行ったが、10時には掃除をされたようだった。ガスが湧いてきて遠方の山々も見えなくなり、やがて油坂峰も見えなくなった。アッという間の変化、でもまだ雨は降っていない。10時半、下の径に」4人の姿が見えた。安堵した。迎えに出る。よかった。男だちは女だちの足の強いのに感心したと言っていた。私が行っていたらもっとかかったかも知れない。
 帰り支度をして山荘を出たのが11時、見送って頂く。山荘を離れると、山荘の窓を開けて手を振ってくれる。こちらも応ずる。姿が小さくなったら「また来てね」との声が届く。こちらも「また来ます」と応える。嬉しかった。10月にはまた来ようと思う。雨が降ってきた。山荘からは山の鼻を曲がるまで見通せるが、もう声は届かない。彼らのうち足に疲れが出たという大将を先頭に私がシンガリ、時々休みをとりながら下る。お陰で私も助かった。車へ辿り着いたのは午後1時半、彼女たちにとっては別山行きというオマケがついた山行きは終わった。

〔付〕登りは彼女ら2人に、下りでは4人に、聞かれて教えた植物を次に掲げる。せめて3つくらいは覚えておいてほしいと言ったのだが。 〔食べられる実〕:(赤)ベニバナイチゴ、(紫)クロウスゴ。 〔食べられない実〕(赤)ウラジロナナカマド、(白)シラタマノキ、(稚児車様)チングルマ。 〔赤い花〕フジアザミ、タテヤマアザミ、ハクサンアザミ、カライトソウ。 〔紫色の花〕ハクサンカメバヒキオコシ、ノコンギク、オヤマリンドウ、タテヤマリンドウ、ハクサントリカブト。 〔黄色い花〕アキノキリンソウ、ミヤマアキノキリンソウ、キツリフネ。 〔白い花〕サラシナショウマ、ミヤマコゴメグサ。 〔枯れた茎が立っている〕 コバイケイソウ。

2010年9月16日木曜日

平成22年秋の日帰り探蕎は荘川町の「式部の庵」

 平成22年秋の第1回探蕎は9月12日(日)に、久保副会長の世話で岐阜県高山市荘川町の「式部の庵」ということになった。出発は朝8時30分、面々16名は石川県予防医学協会の駐車場に集合した。寺田会長の挨拶と久保副会長の説明を聞いて、3台に分乗しての出発となる。予定では白川郷ICを過ぎ飛騨トンネルを出たところにある飛騨河合PAで一旦トイレ休憩をして荘川ICに行く予定が、私の乗った前田車は一気に荘川ICまで来てしまった。約2時間弱、後の2車は予定通り、ICの駐車場で暫し待ち合わせて合流後、時間があるので道の駅「桜の郷荘川」で時間をやり過ごす。目的とするそば処の開店は11時の由、道の駅からはほんの2,3分の至近距離だった。
 着いた「式部の庵」は豪壮な入母屋造りの民家、まだ新しい築造、入口には本日臨時休業の張り紙、久保さんでは飛騨河合PAから連絡するとのことだったが、もし本当に休業だとすると、その時に分かる筈。とすると我々一行が訪れるので、他はお断りの意味なのだろうか、でもお入り下さいということで謎は氷解した。真新しい豪邸に歩を入れる。柱や梁は檜、床は寄木だが、中々重厚である。玄関には三嶋喜之助の表札、古い家柄とのことだったが、それとこの豪邸との結びつきが今一つしっくり来ない。あるいは古い家屋はどこかへ移築したのか、その辺りのことは当たらず終いになってしまった。
 部屋へ通される。絨毯にシックな机、それに両肘掛けの椅子、豪華な感じ、16名分がセットされてある。メニューは「三種もり」と3人に1皿の「山野草天ぷら」と聞いている。長押の上には、手槍、薙刀、槍が飾られている。また壁には、天ぷらになる山野草の名と効能が書かれているが、大部分はそこらにある野草の類、恐らく春ならば、毒草でない限り何でも天ぷら材料になるような気がする。かなりあり、これには興味が持てた。知らないものも二三あるが、調べてみよう。後で聞いたことだが、出てくる山野草は皆此処の敷地で採れたものとかである。敷地は広い。
 玄関に御神酒が置いてあるのを思い出し、そばが出るまで暫く時間がかかるようだったら蕎麦前をと思い、お年寄りに「おみきを下さい」と言ったら、「おみずですか」と言われ慌ててしまった。なんか若い姉さんは体調不調で店に不参とか、手伝いの方もいるが、どうも話が通じにくい。賄い処へ出向いて、お酒を所望すると、コップでいいですかと言われたから、それで結構ですと言うと、後で持って上がりますと。暫時の後にコップ七分目位のお酒、銘柄は「久寿玉」という地酒、会長に一献、飲みやすい美味しいお酒だ。前田事務局長があと何杯かほしいと言うと、あと2杯くらいしかないと、これはしたり、予め予約する必要があるらしいが、そば屋に酒はつきもの、何と間の抜けた。本当に銚子2本と盃が出て、これで終いとか、面白い店だ。また、どぶろくが解禁になりましたとあるのを見た前田さんが、「どぶろくありますか」と聞くと、「あります」とのこと、「じゃそれを下さい」と言うと、ややあって片口に入ったどぶろくが登場した。匂いが立つ。「もう少しありませんか」と言うと、「これで最後です」と言ってもう一杯の片口を持って来られた。私も貴重な一滴を頂戴した。蕎麦前を出さない店はあるにはあるが、でも本当に珍しい蕎麦屋に出会った。
 先に天ぷらが。説明では「くわ」と「よもぎ」と「はっか」とか、蓬と薄荷は何となくそれらしき香りがする。中々上手に揚げてある。天ぷらは揚げたてでないといけない。お酒もどぶろくも天ぷらもなくなって、最後に「三種もり」が登場した。量は多め、平打ちの田舎、粗挽きの細打ちに更科の細打ち、この中では更科の出来が比較的よいように見える。特に粗挽きの十割の細打ちは切れ切れ、これだけ多くを一気に仕上げるというのは無理のような気がする。少しずつ順に出してもらえば良かったのに。今は端境期で、打つには最も難しい時期、考慮してほしかった。臨時休業と張り紙してあったのに、2組が入って来たが、そばにはありつけたようだった。二組のそばはどうだったろうか。
 辞して白川村平瀬にある「しらみずの湯」に向かう。国道156号線を北上すると、車窓からは「そばの里 荘川」の日本一大きいという五連水車が、御母衣湖畔には荘川桜も見えた。新道脇にできた「しらみずの湯」は、今は湖底の元の大白川温泉の源泉から14kmも導湯して開かれている含硫黄ーナトリウムー塩化物泉、かけ流し、白山から平瀬へ下りた時にはよく利用する温泉だ。源泉の温度は92.5℃、到達温度は約60℃、若干加水されている。肌に優しく、古くから「子宝の湯」として親しまれているとか。
 湯から上がり、久保さんがいつも訪れるという白川村保木脇にある「深山豆富」に寄る。私は何回も通っているのに、全く気付かなかった。堅豆富「石」、深山「雪」豆富(笊入りそぼろ豆腐)、深山こも豆富(味付け)を求めた。保冷剤には冷凍した「おから」、後で味付けすると食べられるとか、考えたものだ。出て白川郷ICから高速道へ、こうして最初の探蕎は無事終わった。恒例で小矢部SAで総括、解散した。

付表
「式部の庵」に記載されていた植物の名称の科名と属名と効能〔庵での記載には誤りもあったので訂正して記載〕。植物名は50音順。

・アマナ(ユリ科アマナ属)〔咳、滋養強壮〕
・イタドリ/スイバ/スカンポ(タデ科タデ属)〔便秘、蕁麻疹〕
・イヌガラシ/アゼダイコン(アブラナ科イヌガラシ属)〔利尿、消炎〕
・ウド(ウコギ科タラノキ属)〔風邪、頭痛、歯痛、リウマチ、神経痛〕
・カキドオシ(シソ科カキドオシ属)〔糖尿病、黄疸、膀胱結石、尿路結石〕
・カタバミ(カタバミ科カタバミ属)〔皮膚病、虫刺され〕
・カラスノエンドウ/ヤハズエンドウ(マメ科ソラマメ属)〔胃炎〕
・カワラボウフウ/ヤマニンジン(セリ科カワラボウフウ属)〔消化促進、強壮、頻尿〕
・ギシギシ(タデ科ギシギシ属)〔動脈硬化、便秘〕
・同上おかじゅんさい(冬のギシギシの包葉)〔耳痛、便秘〕
・キランソウ/ジゴクノカマノフタ(シソ科キランソウ属)〔咳、痰、下痢、腫れ物〕
・クサソテツ/こごみ(若芽)(イワデンダ科クサソテツ属)〔滋養〕
・クワ(クワ科クワ属)〔滋養強壮、糖尿病、関節炎、咳、痰、頭痛、神経痛、リウマチ〕
・ゲンノショウコ(フウロソウ科フウロソウ属)〔高血圧、下痢、便秘、更年期障害〕
・コウゾリナ(キク科コウゾリナ属)〔利尿〕
・コシアブラ(ウコギ科ウコギ属)〔強壮〕
・ゴマナ(キク科シオン属)〔健胃、整腸〕
・スギナ(トクサ科トクサ属)〔糖尿病、肝炎、胆石、膀胱結石、尿路結石、湿疹〕
・セリ(セリ科セリ属)〔神経痛、食欲不振〕
・ソバ(タデ科ソバ属)〔動脈硬化、高血圧予防〕
・タマガワホトトギス(ユリ科ホトトギス属)〔滋養〕
・タラノキ/たらの芽(ウコギ科タラノキ属)〔滋養強壮、糖尿病、高血圧症、疲労回復〕
・タンポポ(キク科タンポポ属)〔滋養強壮、催乳〕
・ツユクサ(ツユクサ科ツユクサ属)〔下痢、風邪、心臓病、浮腫、利尿〕
・ドクダミ(ドクダミ科ドクダミ属)〔便秘、利尿、腫れ物、水虫、蓄膿症〕
・ハコベ(ナデシコ科ハコベ属)〔歯茎の炎症、歯痛、打撲傷、腫れ物、催乳〕
・ハッカ/ニホンハッカ(シソ科ハッカ属)〔消化不良、歯痛、目まい、眼の充血〕
・ハルジオン(キク科ムカシヨモギ属)〔糖尿病〕
・ヒメジョオン(キク科ムカシヨモギ属)〔糖尿病〕
・ヒメムカシヨモギ(キク科ムカシヨモギ属)〔滋養強壮〕
・フキ/ふきのとう(キク科フキ属)〔咳、痰、喉の炎症〕
・マンテンハギ/あずきな(マメ科ソラマメ属〕〔滋養〕
・ユキザサ/あずきな(ユリ科ユキザサ属)〔頭痛、リウマチの疼痛、打撲傷〕
・ユキノシタ(ユキノシタ科ユキノシタ属)〔利尿、浮腫、ひきつけ、腫れ物〕
・ヨメナ(キク科ヨメナ属)〔解熱、利尿〕
・ヨモギ/モチグサ(キク科ヨモギ属)〔健胃、整腸、滋養強壮、気管支喘息、腰痛〕

2010年9月7日火曜日

これがもりそばの正しい食べ方?

 金沢駅前にある蕎麦「やまぎし」は、開店当初は水曜日が定休日だったが、しばらくしてからは日曜日になった。客の入りの関係でそうしたのだと思う。営業時間は午前11時から午後3時までだが、近頃では大概2時頃には打ったそばがなくなって、店を閉めてしまう。そうだからまだ勤務に出ている小生にとっては、もし「やまぎし」へそばを食べに行こうとすると、土曜日しかないことになる。駐車料まで払って食べに行くのもしゃくなので、県立音楽堂で演奏会があるときには、昼過ぎに出かけて寄ることにしている。9月4日の土曜日は、オーケストラ・アンサンブル金沢の第286回定期演奏会、午後3時の開演なので、「やまぎし」には午後1時頃に出かけた。詰めて9人しか入れない店には、もう5人がいた。ここのそばは「粗挽き」「黒」「白」の三種の「並もり」と「大もり」のみで、すべて十割、量は並が180gで750円、大が230gで900円、食べおきがある。開店当初は、客は当主の友人ばかりだったが、近頃はわざわざ食べに来る人も増えたとか。私が7月3日の土曜日に寄ったときは、2日発行のあの太野棋郎さんの著書「蕎麦手帳」が置いてあり、それを見ると、「やまぎし」の名が明記されていた。ただし店名のみだった。しかし9月4日に寄ったときには、その本を持って訪れたと思われる人がいた。
 7月に寄ったときに、鹿児島の芋焼酎「財宝」が置いてあるので聞くと、希望があったので置くことにしたと。値段は100cc200円とのこと、どうしてこの銘柄を選んだのかは聞いていない。ただ当主は断酒したので今は全く飲んでいない。でも私は今回は初にこれを飲みながら、注文の「白の大もり」が来るのを待つことにする。いつも蕎麦茶にそば棒の揚げたのが付きだしに出るので、これで焼酎を楽しむ。
 先客二人は「黒の大もり」、一人は地元だったが、もう一人は一見の客、手には一眼レフのカメラを持っての入店、蕎麦手帳を見て来たとのこと、「黒の大もり」が来た。私の隣の地元の人は、そば汁を全部蕎麦猪口に入れ、沢山の辛味大根の下ろし、程よい量の生山葵、薄切りの葱の薬味全部をそば汁に入れ、その後そばを手繰ってそば汁にどっぷり浸けてのお上がり、豪快な様だが、一寸野暮な感じがする。いつか塚野さんが、そばを食べるときは、先ずはそのまま食し、次はそば汁の塩梅の加減を見て、その次にそばを手繰り少しそば汁に浸けて食し、もし大根下ろしがあればそば汁に少し加え、その汁にそばを浸けて食べる。そば汁には匂いの強い葱や山葵は入れないで、入れるのはそばが終わって蕎麦湯で割るときに入れると聞いたことがある。
 さて、カメラマン氏は、まずカメラで接写し、次にそばを少し摘んでそのまま口に運び、次いでそば汁を少し猪口に注いで、そば汁の味見、その後三種の薬味(辛味大根の下ろし、薄切りの葱、生山葵の下ろし)の先ず大根下ろしをそばの上に置いて、やおら箸で摘んで一寸そば汁に浸けて口元へ運ぶ。次いで葱、次いで山葵、という風に、それぞれの薬味でそばを味わう趣向だ。これを終えてから、次に大根下ろしに葱の組み合わせ、山葵に葱の組み合わせで同様に頂く。ただ大根と山葵の取り合わせはないようだった。ほかには大根などの漬物が付いてくる。そばがなくなった頃合を見計らって蕎麦湯と蕎麦餅が出てくる。、彼氏のそば汁はたっぷり残っているので、蕎麦湯をお代わりしていた。こんな食べ方をしているのを見たのは初めてだった。こうすればそば汁は全く濁らなくて、出されたときと同じ状態、これが正規かどうかは別として、合理的なような気がして、私も真似てみた。
 このように薬味を汁に溶かずに主体に載せたり付けたりして食べるやり方は、刺身を食するときに目にしたり行ったりすることはあるが、そばでは初めてお目にかかった。どうせ胃に入るのだからこだわることはないのかも知れないが、そばの食べ方としては上品で、理にかない、堂に入っているように感じたが、どうであろうか。でも、食べ方とすれば面白い趣向である。
 私が店に入ったときは粗挽きは品切れですと言っていたが、後で入ってきたカップルは予約してあったのだろう、粗挽きを注文した。粗挽きの十割だと、どうしても太くならざるを得ず、湯がくと短く切れてしまうことになる。これは予め当主が断っていることでもある。そこで思うに、こう短くてごついと、先ほどのようにそばの上に薬味を載せて頂く手法を採ろうとしても、一寸技巧上難しいような気がする。そうならば、そばを食べるのに特にあの方法にこだわって食べることはないか。
 

2010年9月6日月曜日

煌めく才能が響き合う! IMA日本海交流コンサート

 IMAとは、いしかわミュージックアカデミーの略称で、1998年(平成10年)に開設された「世界レベルの若手音楽家の育成と地域音楽文化の振興」を目指した組織で、以降毎年開催されている。特にマスタークラスはプロの演奏家を目指す若手を養成するコースで、一流の著名な指導陣が講師として招聘されていて、現在では質の高い国際音楽セミナーとしての地位を確立している。講師陣は、ヴァイオリン6人〔IMA音楽監督の原田幸一郎(桐朋学園大学教授・国際コンクール審査員)、クンシトフ・ヴェグレン(ハノーバー音楽大学教授・国際コンクール審査員)、キム・ナムユン(韓国国立芸術大学教授・国際コンクール審査員)、レジス・パスキエ(パリ国立高等音楽院教授)、堀正文(NHK交響楽団コンサートマスター・桐朋学園大学教授・国際コンクール審査員)、神尾真由子(ヴァイオリニスト)〕、チェロ2人〔毛利伯郎(桐朋学園大学教授)、パク・サンミン(韓国国立芸術大学教授)〕、ピアノ3人〔カン・チュンモ(韓国国立芸術大学教授)、ピオトル・パレチニ(ショパン音楽アカデミー教授・国際コンクール審査員)、江口文子(昭和音楽大学教授・国際コンクール審査員)〕である。
 かつての受講者には、庄司紗矢香(1999年第46回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール史上最年少・日本人初の優勝者)や、神尾真由子(2007年第43回チャイコフスキー国際コンクールヴァイオリン部門優勝・日本人2人目)、また今回のコンサートに招聘された申賢守(シン・ヒョンス)(2004年第50回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール第3位/2008年ロン・ティボー国際コンクール優勝:韓国)、クララ=ジュミ・カン(2009年ソウル国際ヴァイオリンコンクール優勝/2010年第4回仙台国際音楽コンクールヴァイオリン部門優勝:ドイツ・韓国)がいる。このアカデミーでのレッスンは5回のみだが、その内容はハイレベルで、受講生にとっては大変濃い内容となっていて、大きな糧になるという。レッスンはすべて公開で、後に公開の演奏会も開かれる。私にとっては地方のIMA受講者から国際的なアーティストが誕生していることは驚きで、これら受講者の演奏を聴くことは、巣立ちする前の若鳥の若々しい音に接しられるという幸運に接しているということにもなる。
 このアカデミーの受講者は日本人より韓国籍の人の方が多い。このコンサートが始まる冒頭の挨拶で、来年からは韓国の方達も聴けるようなツアーを組みたいと話していたが、実現するかも知れない。講師陣にも、ヴァイオリン、チェロ、ピアノに韓国ではトップの教授陣が名を連ねている。韓国の若手ヴァイオリニストのほとんどが、韓国では、IMAの講師に名を連ねるキム・ナムユン氏に師事しているのを見ても頷ける。
 この日のコンサートは、IMA with 井上道義(指揮)&OEK と銘打ってあり、始めにバルトークの弦楽のためのディベルティメントより第1楽章が、IMA受講生選抜メンバーとOEKとで合同演奏された。主体性を受講生に持たせた弦楽合奏、21人中韓国の方が15人、バルトークが亡命前にスイスの山中で作曲した曲、緊迫した雰囲気のある曲を、見事にこなした演奏に拍手が送られた。次いで正戸里佳(2005年第51回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクール第3位、現在留学生としてパリ国立高等音楽院修士課程に在学中)がラヴェルのツィガーヌを演奏した。冒頭から独奏部分が多く、まことに力強い演奏で情熱的だった。次いでクララ=ジュミ・カンの登場、サラサーテに献呈されたサン=サーンスの序奏とロンド・カプリチオーソとサラサーテのツィゴイネルワイゼンを、共に技巧を要する名曲なのに、飄々と難なくこなした実力は凄く、聴衆の拍手が止まなかった。
 休憩を挟んで、マウラーの4本のヴァイオリンのための協奏交響曲イ短調、ヴァイオリンは最先端の新人4人。鈴木愛理(2006年第13回ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリンコンクール第2位)、青木尚佳(2004年若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクールで最年少ディプロマを受賞)、インモ・ヤン(2009年若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール第4位、2009年IMA音楽賞受賞、男子中学生)、松本紘佳(2006年第10回リピンスキ・ヴィエニヤフスキ国際コンクールジュニア部門第2位・最年少入賞、2009年IMA音楽賞受賞、女子中学生)。大学生と中学生の合同演奏だったが、違和感なくレベルは高い。
 最後はシン・ヒョンスのモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調「軍隊」、3楽章ともにあるカデンツァを見事に弾きこなし、聴衆からは絶大な拍手があった。使用楽器は日本音楽財団より貸与されている1710年製のストラディヴァリウス「カンポセリ-チェ」だという。スタンディングコールする人も出て、アンコールに応えてパガニーニの24の奇想曲の1曲を弾いたが、先日の神尾真由子にも匹敵するような技巧、驚いてしまった。歳は彼女より1つ下の23歳、現在は韓国国立芸術大学大学院に在学し、やはりキム・ナムユン氏に師事している。
 IMAの受講生の中にはこんな金の卵が沢山いることに驚嘆し、石川の誇りであることを身に滲みて強く感じた。

2010年9月2日木曜日

白山の(夏山)閉山祭

 白山の閉山祭というものに一度は立ち会ってみたくなった。閉山祭は7月1日の開山祭(山開き)に対するもので、例年8月31日に挙行される。また開山後の7月15日過ぎの日曜日には、奥宮大祭が行われるが、今年は18日だった。これまで開山祭に出たことも、奥宮大祭に出くわしたこともあるが、閉山祭にだけは30年来出たことがない。この祭事、私はてっきり頂上の奥宮でするものとばかり思っていたが、実は室堂平にある奥宮祈祷殿でするのだということが直前になって分かった。この日は富士山でも閉山祭が催され、富士山では事実上山は閉められる。また立山は1ヵ月遅れの9月30日に雄山頂上の神社で閉山の神事が執り行われる。
 今年の8月31日は火曜日、月・火と休みを取っての山行となった。ここ暫くはお天気続きなのだが、天気予報では火曜日には生憎天気が崩れる予報となっていた。朝4時過ぎに自宅を出て登山口の別当出合へ、夏の繁忙期だと月曜日は正午までは市ノ瀬までしか自家用車は入れないが、この日は規制が外れていた。平日とあって、車は20台ばかり、シーズンも後半ということで多くはない。用意して歩き出したのが6時、当初は上りを観光新道にしようと思っていたが、天気が良いのと、観光新道は途中で水が全くないので、この前と同じく砂防新道にした。登り出して暫くすると、砂防新道の上をしょっちゅうヘリが飛ぶ。真上を通る時は正に轟音で、落ちてくるような錯覚に陥る。1台で市ノ瀬とを往復しているようだが、上がってくるのは10分おき位、何かあの轟音が間近になると、コワイという感じがする。高飯場(正確には高飯場跡)まで来ると、ヘリが来るので登山者は暫くここで止まってほしいと係の方が皆を止めている。暫くしてヘリが、見るとバケットにセメントを入れて運んでいるようだ。この場所には元飯場があっただけに平で、工事関係者の宿舎が建てられている。聞くと全員ではないが、一部は泊まるとかだった。
 ヘリが下りていって通れるようになり、甚之助小屋へ。ヘリは新しい甚之助小屋の新築工事のためのもので、請負しているのは清水建築、甚之助小屋のすぐ下の台地が新しい甚之助小屋の現場、ヘリが上がってきて、着き、ホバーリングしてミキサーに流し込んで下りるまでの約3分間は登山者の上り下りが制限されるが、それを指示している若者がいた。私が「清水建築というのは野々市に本社がある清水さんですか」と言うと「そうです」と言う。「じゃ、南竜のケビンもお宅でされましたね」と言うと、「あれは10年前のこと、一昨年は改修をしました」と。また昨年は南竜山荘の外壁外壁補修も手掛けたと聞いている。「私の家の新築も清水さんのお世話になりました。私は新町の木村です」と言うと、「私は清水です」と。両親を亡くし、今は西村さんという方が社長をされているが、ゆくゆくは跡を継がれることになる若者だ。へりのホバーリングの時間は30秒位、正確で早いのに感心する。こんな近くで見たのは初めて、登山者の何人もがその状況を撮っていた。
 別当出合から、山は初めてという坊やを連れた親子連れと、75歳という山岳会関係者と中年の女性とカメラマンの連れの2組とずっと相前後する。このことは砂防新道と南竜水平道の分岐での会話で分かった。75歳の方は、今日が白山登山199回目とか、来週は200回目登山をしますとか、私の歳は言い出せなくなってしまった。別山の方は雲で見えないが、こちらはカンカン照りで暑い。昔の二ノ坂、三ノ坂を経て十三曲りの急登へ、延命水は沢山の人がいたのでパス、黒ボコ岩、弥陀ヶ原、五葉坂を経て室堂に着いた。時間は10時過ぎ、4時間少々を要した。昔の3時間が信じられない歳になってしまった。食事をしてから、約束に従って家内に電話した。以前の携帯ならOKだったが、機種を換えたら圏外とのことで公衆電話での連絡ということに。空身になって御前峰頂上へ、少しガスがかかってきた。でも天気は良く暑い位だ。今日は室堂泊まりなので、時間はゆっくりある。上り45分、下り23分とは、衰えも甚だしい。どうも朝のウォーキングはメタボ解消には役立っても、筋トレには全く役立ってはいないことが判明した。
 室堂宿舎の受付は午後1時から、早々に済ませる。済ませて前の広場で、神の河と室堂の水とで一杯やる。すると1時半から2時半にかけて、100名位の団体と40名位の団体が二つ、相前後してセンター前の広場に到着、一気に賑わしくなった。100名と40名は高校生、40名のもう1つはツアー団体。ほかに30名位の大学生の団体も、彼らは着くなり早速ワイン20本位空けて乾杯してクライマックス、実に楽しそうだ。団体さんは皆さん頂上へは明朝ご来光を見に登るのだそうだ。夕食は私は5時から5時20分の入場、早々に済ませて、一緒になった福島の夫婦と駄弁る。今回は1週間の旅行、月に一度は遠出するとか、カミさんの方がよく山へ行っていて、目的は百名山ではないと言うが、実にあちこち出かけている。実に羨ましい。
 夕方からガスが立ち込め、明日もこうだったらご来光はパスしようと決める。7時半に就寝、温かい夜、11時半に一度目が覚め、外へ出る。するとガスは消え、月齢20.5の月が煌々と輝いている。正しく快晴、この分だと明朝はご来光が拝めそうだ。日の出は5時23分、ご来光が拝めそうなら、1時間前に太鼓が鳴らされる。しかし0時を過ぎ、日が31日に変わったその時、頂上に現れた白いガスの帽子が瞬く間に下に駆け下り、月の光を遮り、辺りは白い闇に包まれた。そしてガスはその濃さを増し、視界は30米ばかりに、寒くはないが、何も見えず、宿舎の小桜荘へ戻る。朝4時、ガスはやはり濃く、太鼓も鳴らされなかった。でも高校生達は予定の行動なのだろう、頂上へ向かって行った。しかし驚いたことに電灯は5人に1個、でも闇の中元気に出かけていった。私は気が萎え、また寝てしまった。食事は6時から8時の間、6時には高校生達は戻ってきた。やはり頂上はガスで何も見えなかったが、日の出とともにガスが金色に輝いて素晴らしかったと話してくれた。高校生は石川と静岡、皆若くて元気だ。
 食事を済ませて、あと8時まで1時間半、前の広場で待つことに。室堂センターの前にある奥宮祈祷殿の戸が開いた。30分前に室堂のアナウンスがあり、夏山閉山祭を8時30分からしますので、登山者の方もお参り下さいと。この間にも宿泊者は次々と室堂を後にして下山していく。下から長靴を履いた方が、私なりに工事の関係者で閉山祭に来られたとの印象を受けた。でも登山者で閉山祭に参加されそうな人は居ないような雰囲気だ。時間が来て祈祷殿に入ると男性二人に女性が一人のみ、ずいぶん少ないのに驚く。修祓、降神の儀、献餞、祝詞奏上、玉串奉奠、巫女舞奉納、撤餞、昇神の儀、直会の順で式が運んだ。途中で女性数人が入って来たが、閉山祭には興味がなかったようだ。式は約30分かかった。祝詞では夏山が安全に閉じられること、続く秋山も安全であるようにと、また宿泊施設の白山室堂と南竜山荘の繁栄、そして白山観光協会と金沢大学白山診療班の尽力への感謝等が祝詞で奏上された。男の方二人は室堂と南竜山荘の主任の方だった。女の方も南竜に関係する方だったらしい。彼女も私も玉串を捧げさせて頂き、さらにお神酒まで頂戴し、式は終了した。写真を撮っても宜しいですかと彼女が言うと、どうぞと言われ、神主さん二人と巫女さん二人が座られて写真を撮らせて頂いた。霊峰白山と揮毫された扇子があり、私はてっきり飾りだと思っていたが、彼女はお分け頂けますかと尋ねると、1,800円でお分けするとのこと、私も頂戴した。辞そうとして去ろうとすると、あの長靴の御仁に、もしや貴方は木村さんではと言われ驚いた。昨年は南竜には泊まっていないのに。帰りに寄っていかれませんかと言われたが、観光を下ることにしていますのでとお断りした。また9月にでもお寄りしますと言って別れた。多い年には3回も4回も泊まったものだ。でも近頃は人気があって、土日はいつも一杯らしい。トイレも食堂も同じフロアなのがいい。肝っ玉カアさんは元気だという。団体さんも全部出払ってしまって、もうこの時間、下から登山者が上がってくる時間になってしまった。勤務している家内に、これから観光新道を下ると電話して、室堂をあとにした。
 天気はよく暑い。越前禅定道(観光新道)の尾根には、下る登山者が点々と見えている。100名の石川の組は砂防新道を下りたようだ。40名の静岡の組は観光新道、かなり列がバラけている。ザックを2個持った若者がいる。尾根筋とて陰が少なく、暑い下り、私も別当坂の下り口(林檎の樹のテラス)で食事をした。これから急な大きな下りが4カ所、それに備えての腹ごしらえというわけである。暑い中やっとの思いで駐車場に辿り着いた。駐車場には静岡ナンバーの大型観光バスが、予定の時間を過ぎているがまだ来ないと言っていたが、もう少しかかりそうだ。かくいう私も4時間5分を要した。

2010年8月27日金曜日

「もっとカンタービレ」へのお誘い

 米田さんから「もっとカンタービレ第22回(IMA&カンタービレ・ジョイントコンサート)」に出演される江原さんからお誘いがあったとの手紙を頂いた。〔江原さんからのメール:22日18時より、音楽堂地下交流ホールにて、室内楽シリーズの「もっとカンタービレ」があります。数年前にチャイコフスキーコンクールで優勝した神尾真由子さんが弾きますし、江原も一曲出ます。チケットは出演者割引で預かっています。もし興味と時間のある方がいらしたら、聴いていただけると嬉しいです〕。続いて米田さんからは、「一夜缶ビールをやめて、江原さんからのプレゼントをお受け取りになりませんか。魅力的な価格のチケットにつきましては、米田にお申し付け下さい」と。
 早速お願いしたところ、わざわざチケットを届けて下さった。米田さんの仲介で、探蕎会の方々も聴きに行かれるとか。これまでこの室内楽コンサートがあることは私も知ってはいたが、聴いたことはない。後で知ったことだが、この企画はOEK(オーケストラ・アンサンブル金沢)の楽団員がオールプロデュースしているとのことだった。
 コンサートの当日、開場5時半少し前に着いたのだが、もう長蛇の列、前田さんや寺田先生は既に前の方に並んでおいでた。エライ人気なのに驚いた。私は永坂、早川両先生、米田さんとご一緒、後で岩先生も見えられた。交流ホールは固定した椅子席がなく、何人入られるかは知らないが、係員に聞くと、これ位の人数なら十分入れますと。私はこの会場でラ・フォル・ジュルネのクロージング・コンサートがあった際、始めから終いまで立ち見だったことをふっと思い出した。
 1曲目は神尾真由子さんのヴァイオリン独奏でパガニーニの24のカプリースから5曲。この曲は超難曲として知られ、ヴァイオリンのあらゆる難しい技法が随所に盛り込まれていることで知られる曲、中でも最終の第24曲は特に有名で、リストやブラームス、ラフマニノフなどがこの曲を主題とした狂詩曲や変奏曲を作曲していて、私はむしろこちらの方が馴染み深い。だから生のソロで聴いたのは勿論初めてで、とても新鮮だった。しかも弾きぶりも大したもので、堪能した。この曲は昨年リリースされている。特に驚いたのは弾きながらの撥弦、今度で二度目だが、実に凄い技術だ。彼女は今24歳、3年前には4年に一度開催される若手演奏家の登竜門であるチャイコフスキー国際コンクール(第43回)のヴァイオリン部門で優勝している。この部門での日本人の優勝は、1990年の諏訪内晶子以来2人目である。という彼女は2000年と2001年にIMA(いしかわミュージックアカデミー)を受講している。また2008年にはOEKと共演している。使用楽器は、名ヴァイオリニストのヨアヒムが生前使用していた1727年製のストラディヴァリウスで、2001年にサントリーから貸与されている。
 2曲目はブラームスのクラリネット五重奏曲、ブラームスがクラリネットの名手ミュールフェルトに出会い感銘し、わずか3週間で書き上げたといわれるよく演奏される名曲である。IMAからは音楽監督の原田幸一郎(第1ヴァイオリン)とサンミン・パク(チェロ)、OEKからはクラリネットの遠藤文江、第2ヴァイオリン首席の江原千絵、ヴィオラのシンヤン・ベックで、この組み合わせは偶然にも師弟コンビだと紹介された。原田さんは江原さんの大学での師、パクさんはベックさんの師とのことだった。遠藤さんのクラリネットは定評があり、私も何度かソロを聴いているが、音色といい、緩急自在のテクニックといい、聴いていて心が和み、惚れ惚れとする。弦の4人も超ベテラン、特に原田さんは室内楽では多くの人を指導されていて、この曲でもアンサンブルをリードしておいでた。おそらくこのメンバーではリハーサルも1回でOKなのではなかろうか。素晴らしい調和で楽しかった。
 3曲目はドヴォルザークのピアノ五重奏曲で、3曲ある弦楽五重奏曲、2曲あるピアノ五重奏曲の中では最もよく演奏される名曲である。特に第二楽章と第三楽章に流れる民族舞曲のリズムは実に楽しく興味深かった。5人のメンバーは皆さんがIMAの講師の方々。第1ヴァイオリン:レジス・パスキエ(パリ国立高等音楽院教授)、第2ヴァイオリン:神尾真由子(前出)、ヴィオラ:原田幸一郎(IMA音楽監督・桐朋学園大学教授・国際コンクール審査員)、チェロ:毛利伯郎(桐朋学園大学教授)、ピアノ:チュンモ・カン(韓国国立芸術大学教授)。メンバーの顔ぶれもさることながら、実に息の合ったハイレベルの演奏を聴くことができた。
 ただ、第1曲は立っての演奏だったので表情も手や指のさばきも見えたが、第2曲と第3曲は座っての演奏、交流ホールというフラットな場での演奏だったので、演奏者の姿が見えず、こんな素晴しいメンバーだったらホールで演奏してほしかった。

2010年8月26日木曜日

山岳遭難でのヘリ出動自己負担の是非

 山岳遭難を主な執筆テーマとして取材を続けているフリーライターの羽根田治さんが、2010年(平成22年)8月12日付の朝日新聞のオピニオン欄に寄せた主張の主題は「安易な救助要請が山岳遭難を助長する」で、副題は「連れられ登山は無責任。ヘリ出動費は全額負担させ自覚を促せ」である。これに対し朝日新聞の尾沢智史氏が異議ありとした。結論から言うと、羽根田さんは、山の事故の99%は自己責任であるからして、自己責任に基づく山での事故の救助費用は全額自己負担すべきであると主張されている。これに対し尾沢氏は、山での遭難をすべて自己責任とするには違和感があるとする。確かに本人のせいで起きた遭難もあるだろうけれど、しかし相手は何しろ大自然、計算できないこともあるはずだし、しかも山の遭難は命にかかわる問題、簡単に割り切るわけにはいかないのではないかと反論する。
 警察庁のデータによると、平成21年(2009)の山岳遭難の発生件数は1,676件、遭難者数は2,085人と過去最多、そして遭難者の75%以上は40歳以上の中高年者であるという。ここでの「遭難」の定義は、救助要請があったすべてで、中には救助要請する必要が全くなかったような例も包含されている。遭難の内訳は、道迷い43.5%、滑落15.6%、転倒12.4%の順で、前年(2008)と比較すると、道迷い、疲労6.2%、悪天候2.2%による遭難者が増加した一方、滑落、病気、鉄砲水による遭難者は減少している。
 このようにして山岳遭難の件数は年々増加しているが、羽根田さんによると、大したことがない怪我、ただ疲れた、足が痛いというだけで救助を頼むケースが目立つという。山岳診療班が駐在する山域もあり、極端な例では、「近くの山小屋まで歩けませんか」と言っても、「早くヘリを」の一点張りもあるとか。50年位前、金沢大学山岳部が早春の白山で遭難者を出したとき、自衛隊小松基地のヘリが山岳地帯を飛ぶこと自体、予期しない乱気流で墜落の危険があるということで自粛したものだが、でもその後の試験行でゴーとなった経緯がある。現在は山への荷物の運搬ばかりでなく、遭難者の救助・捜索にもヘリは大活躍、むしろなくてはならない存在になっている。先週白山の岩間道を下っていて転落した遭難者もヘリで発見された。当然悪天候をおして出動することはないが、しかしヘリが山岳地帯を飛ぶことには確実に危険が伴う。昨年の奥穂高岳での防災ヘリの墜落、今年の秩父での沢筋での防災ヘリの墜落は記憶に新しい。特に地形的には大変危険を伴う救助があるということを、救助を要請する側も救助する側もよく認識すべきだと思う。
 また平成に入ってからの中高年の登山ブームにのって登山を始めた方々の中には、登山をハイキングの延長と考え、山は危険だという認識がない人も多い。この類の人たちは、ちょっと厳しい状況になると、すぐに救助を求めてしまうことになる。これには携帯電話の普及も一役かっている。近頃流行の「ツアー登山」などでは、全くの素人の場合には山での危機管理について話すだろうけれど、しっかりしたリーダーがいないグループ登山の場合は問題で、でも少なくともグループのリーダーと名が付けば、グループの危機管理もすべきである。もっとも携帯電話といっても、山域により機種により通話できないことがあることは十分認識しておくべきである。その場合は昔と同じように、近くの有人山小屋へ救助を求めるか、麓まで下って救助を要請するしかない。
 救助を要請した場合、救助に当たるのは、管轄する警察や消防の職員や民間の救助隊である。民間の救助隊やヘリに要請した場合には、その程度がどうであれ、要した費用は要請者に後日請求されるから問題はないが、問題となるのはヘリの出動が必須でないにもかかわらず、民間以外のヘリを要請した場合である。因みに昨年(2009)長野県内で起きた山岳遭難でのヘリの出動回数は、警察ヘリ113件、消防防災ヘリ33件、民間ヘリ4件で、民間要請は僅かに2.7%でしかない。はたして安易な救助要請に対して、貴重な税金を使わねばならないかという批判が出てくることもむべなるかなである。
 民間の「ツアー登山」や「ガイド登山」、また山岳団体や学校山岳部での登山には、今の時節必ず保険が掛けられている。1回の山行ごとに掛けるものもあれば、年単位の商品もある。またこれら死亡・後遺障害、入院・通院を主としたもののほか、捜索・救助を主とした商品、両方を含むもの等々、今は多彩な商品が売り出されている。一般の人の場合、当初から危険な時期に、あるいは危険な場所に行くことはなく、一般登山道を歩くような場合であれば1,000円で、受傷して自力下山できずにヘリ等で救助されることを見込んだレスキュー保険でも年額5,000円でOKである。今後は一般の方々にも、これら山岳保険制度があるということを普及すべきかも知れない。
 個人の山行でも、その延長線上にあるパーティー登山でも、登山というのは山に登るだけではなく、安全に下りてくるまでまでが登山であるということは、肝に銘ずべきことである。特にパーティーの場合には、リーダーはもちろんだが、個々のメンバーも単に連れられて行くではなく、ある程度の主体性も持ち合わせ、各人が責任を持った登山をすべきだろう。
 今ヘリを飛ばすとどれ位費用がかかるのだろうか。遠近にもよるだろうけれど、羽根田さんでは、遭難場所が特定できていて、ヘリの飛行時間が1時間以内で救助できるケースでは、費用は100万円以内で済むという。しかし百万円というのは大金である。もしこれが自己負担であれば、対応するにはレスキュー保険の活用しかない。これに加入していれば、通常の遭難事故ならば、救助費用のほとんどはカバーできる(但し限度300万円)。羽根田さんは、「保険に入らなければ山に登るべきではないという位の危機管理意識を持って山へ登る方がいい」とも。
 「登山での事故でのヘリ出動の費用は全額自己負担させ自覚を促せ」というのが羽根田さんの持論である。その考えは、登山という行為自体もともとリスクの高い場所へ自らの意思で行くという点、もう一つは登山での事故の99%は不可抗力ではなく、自己責任であると考えているという点に立脚している。しかし全額自己負担するとして、1%ある不可抗力な遭難も自己負担にするのか、もしそうでないとすれば、その線引きをどうするのか、乗り越えねばならない制度上の問題点は多い。現に警察や消防のヘリは救急患者の搬送や災害時にも使われているが、受益者負担ではない。平成16年(2004)に長野県の田中康夫知事(当時)が、山岳救助に県の税金を使うことに批判的な声に考慮して、山岳救助に県のヘリが出動した場合の有料化を検討したが、結局線引きが難しく断念した経緯がある。これまでは、長野県内の山岳で起きた事故には、長野県だけで対処してきたが、現在では富山県とか岐阜県とかとの広域体制が確立されている。人道上という言葉を振りかざされると、自己負担という主張の勢いは衰えてしまう。とすれば、登山者の自覚とモラルに待つしかないか。

羽根田 治(はねだ おさむ)1961年生まれ 48歳。フリーライター。山岳遭難を主な執筆テーマとし、警察や民間の救助関係者、遭難当事者などの取材を続けている。著書に「山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か」「トムラウシ山遭難はなぜ起きたか」(共著)など。

2010年8月24日火曜日

飛騨そばの老舗 恵比壽本店(高山市)

 子供達3家族が旧盆で一堂に会することができるのは8月13日しかないというので、夕方6時半に集まることにした。いつもはこちらで料理するのだが、今年は略して個々に手巻き寿司でやるのだという。その材料だけは家内が調達し、私も刺身のサクを切り分けるのを手伝った。しかし総員13名ともなると、大きなテーブルでもすし詰めの状態、その上寿し飯や沢山の材料がのっかるものだから、修羅場である。この類は家では初めてだが、子供達の家族ではチョクチョクやるという。まあ大変な賑わい、私はそんな喧騒の場には加わらずに、用意されたレタスと生ハムで赤ワインを飲んでいた。
 そろそろ孫達もお腹が膨れ、別の部屋へ移動した。長男が明日どこかへ皆で行こうと言う。15日は旧盆、16日には長男も横浜へ帰るから、もし一緒に出かけるとすれば明日の14日しかない。何処にするかも問題だったが、何かのはずみで高山へ蕎麦を食べに行こうということになった。どうも私が蕎麦を食べに行くのなら付き合いすると言ったらしい。次男の家族は保留、三男の家族は小旅行で参加できないという。金沢から高山までは2時間ばかり、それで家を朝10時に出ることにする。
 当日私は家内の車で行こうと思っていたら、突然私に運転の命が下った。そんな折、次男の家族も同道したいとの連絡、じゃとにかく10時に家を出てほしいと伝言する。長男と私達は10時に家を出た。ルートはともかく、北陸道の小矢部SAで集合することにする。長男は金沢西ICから、私達は例の如く山側環状から森本IC経由で向かうことに、次男も私達と同じルート、ところがこの日のこの時間帯、山環は強烈な渋滞、ノロノロは高速道に上がるまで続いた。私達が小矢部SAに着いたのは11時53分、次男が着いたのは10分延、それに対して長男は11時頃の着き、ここで朝食も取れたほどの余裕、高速道はそんなに混んでいなかったから、早くに高速道へ上がった長男の作戦勝ちだった。天気は小雨模様、3台ともガソリン補給し、次は飛騨清見ICの手前、長い飛騨トンネル(10.7km)を抜けた飛騨河合PAで集まることにする。
 東海北陸自動車道は大部分が2車線、片側1車線の対面通行、バラバラになることもなく河合PAに着いた。トイレ休憩して清見ICへ向かう。この辺りはトンネルと橋が交互といった山岳地帯、ICを出て、そのまま高山清見道路を高山へ、目的とする蕎麦屋は老舗の恵比壽本店にした。市内の道路はことのほか混んでいる。先ずは駐車しなければ、蕎麦屋にも若干の駐車スペースがあるらしいが。通りをゆるゆる走っていると、丁度駐車整理をしているのに出くわした。渡りに船、そこは高山別院の境内だった。料金は前払い、夕方5時までには出ると言うと800円、一安心して蕎麦屋に向かう。
 雨はまだ降っている。漸く目的の店を特定できた。この店を選んだのは、高山市で最も古い店だし、名前は思い出せないが、誰かがこの店で修業したと書いてあったからで、一度訪れたかった店である。外見は古い平屋建て、屋根の勾配が緩く、以前は板葺きだった雰囲気だ。入り口の上の厚い一枚板には横書きで「手打そば 恵比壽本店」とある。そしてその上には立派な飾り屋根のついた大きな行灯が鎮座し、「そば」「宇どん」とある。また入り口の行灯には「ひだ手打そば ゑびす本店」と、また暖簾には「飛騨そば 明治31年創業」とある。ここは高山市上二之町46、この場所は創業時と変わっていないそうだ。中へ入る。手前の土間にはテーブル席が、十数人は入られよう。奥は上がり框になっていて、二人座れる小さな座机が20ばかり、人数によって離合集散できる仕掛け、私達は通路を挟んで右手に2家族8人、左手に私達2人が座った。奥には坪庭が、涼しげだが、戸が開け放たれていると、むしむしする暑さがそのまま部屋に流れ込む。私達は「天ざる」を注文した。皆思い思いに注文するが、見たところ「天ざる」が最も多い。ただ天ざるは、天ぷらの揚げたてをお持ちしますので少々時間がかかりますと。最も注文の早かった私達のところに漸く天ざるが来た。そばつゆとは別に天つゆと塩が付いている。これは良心的だ。ただ「ざる」にはたっぷりの刻み海苔が、「ざる」と「もり」の違いが海苔のあるなしということがあったが、それを踏襲しているのでは。蕎麦粉は業者から購入した粉を二八で打っているのだろう。今は四代目が打っておいでとか。打ちは大変きれいで、切りも丁寧だ。ただ蕎麦の産地とかは不明で、時期が時期だけに、香り高いそばを求めるのは無理だ。そばは並み、量は多いほうだ。片や天ぷらの方は大変上手に揚げてあって、海老も野菜も満足いくものであった。私達が食べ終わった頃に、やっと次男のところに「天ざる」が届いた。
 店を出る頃には雨も上がり、古い町並みをブラつき、ゆっくり買い物をした。付き合いも孝行のうちか。孫たちもお気に入りの土産を買い、満足げだった。私も「鬼ころし」の本舗で、蕎麦焼酎「甚六」をゲットした。終えて駐車場を出たのは午後5時少し前だった。

2010年8月20日金曜日

シンリョウのツブヤキ (2)

・オハグロトンボ
 お盆前に路地の草むしりをしていた土曜(7月31日)の午前、この日はオオバコに絞って根から抜く作業をしていた。オオバコは小さくてもしたたかで、小さくても穂をつけ、実もつけている。一区画の掃討が済んで、取った草を竹薮(孟宗竹と矢竹)へ捨てに行った折に、薄暗い林床でオハグロトンボ数匹に出会った。何十年ぶりのことである。ずっと昔、それは昭和20年代だろうか、裏の背戸では普通に見られていたのに、いつの間にか姿が消え今日まできた。それが突然現れたものだから驚いた。正式な和名はハグロトンボ、イトトンボ亜目、カワトンボ科に属し、以前はハグロカワトンボともいった。翅が黒く、尾?は雄は黒緑色、雌は黒褐色、全身黒づくめのトンボである。飛ぶ様は翅をゆっくり上下し、蝶よりももっと優雅にひらひらと飛ぶ。このように翅が黒いからハグロと思いがちだが、名の由来は黒色でも「お歯黒」の色に似た色のトンボということで、私たちが子供の頃にはオハグロトンボと言っていたが、するとこちらの読みが正統かも知れない。しかしどうして出現したのか、背戸には南北に用水が流れているが、幼虫のヤゴが生息できそうな環境はというと、?がつく。来年ももし見られるならば、用水の曲水のどこかで繁殖しているということになろうか。でももし一斉消毒されると、生息できないかも知れない。
・オナガとヒヨドリ
 オナガはカラス科の、ヒヨドリはヒヨドリ科の留鳥である。どちらも群れで庭に来て、よく啼いている。オナガは頭が黒く、背は灰褐色、翼と長い尾は青灰色、喉から腹は灰白色、そして尾の先が白い。郊外ではよく見かける鳥だが、私にとっては特にお気に入りの鳥でもある。ところでカラス科の鳥は皆鳴き声がよくなく、オナガも例外ではない。鳴き声は文字では表しにくいが、敢えて書くと、グェーイグェイグェイグェイグェイとギューイギュイギュイギュイギュイの中間の発声になろうか。庭に来ていると姿でも声でもすぐに判る。一方のヒヨドリは頭と胴体は灰色の羽毛に被われ、頬に褐色の部分があり目立つ。翼と尾羽は灰褐色で、飛び方に特徴があり、波のような上下動があり、一目でそれと判る。鳴き声はヒーヨヒーヨかピーヨピーヨと聴こえる。こちらも来ているとすぐに判る。どちらもある程度の群れをなしているからか、両方が一緒にいることは少なく、どちらか一方が占拠するような状況になる。ただどちらも長逗留することはない。もっとも両方の群れを包容するほど大きなキャパがないことにもよるのかも知れない。私は雨が降っていなければ山側環状道路まで早朝に往復しているが、途中の久安一丁目にある御馬神社の境内の森にはいつもヒヨドリがいて、棲みついているというような印象を受ける。
・庭に昔はなかった草木が生えた(続き)
 〔イワヒバ〕イワヒバ科の羊歯植物で、そのものは観賞用として市販されている。大概は岩に付着した形で、ヒバの葉に似たような印象があるから命名されたと思われる。ところで道路(旧北國街道)を隔てた向かいの家2軒の庭には、イワヒバが付いた岩が鎮座している。私の家にも石や岩があるが、私の家の前庭に生え出したイワヒバは、岩でなく露地に育っている。そしてこの野性的なイワヒバはどんどん増える傾向にある。だが起源は前2軒からかどうかは判らない。家内が春先に前年の古葉を刈ったところ、後に綺麗な新葉が出てきた。 〔ヒメツルソバ〕タデ科の植物で、ヒマラヤ原産だという。花はピンク色の小花が毬形にまとまっていて、盛夏以外は年中咲いている。葉は赤みがかった緑色、中央にV字形の斑紋がある。茎は匍匐性で、どちらかというと乾いた地面を好むようだ。一面びっしりになるのでグラウンドカバー植物となる。どうして私の家に訪れたのかは全く不明だが、家とアスファルト舗装との間の隙間に種がこぼれて芽吹いて、今では玄関の外のタタキの半分を覆い尽している。まん丸な球花が可愛い。 〔センリョウ〕センリョウ科の常緑小低木。漢字では千両と書き、冬には赤い実をつけることもあって、お正月にはやはり赤い実をつける万両(マンリョウ:ヤブコウジ科の常緑小低木)と共に縁起物とされる。去年の秋、前庭に十数株の赤い実をつけたセンリョウを見つけ家内に話したところ、以前に誰かから貰った苗木をコウジミカンの根元に植えたとのこと、どうもこれが元になって、実が散らばり殖えたらしい。よほど環境が好かったのだろう。そこはまたフキの原でもある。 〔余談〕縁起物としては他に百両と十両がある。百両とはヤブコウジ科の常緑低木のカラタチバナ(タチバナ)のことで、赤い実をつける。花は白色の5弁花で、文化勲章のデザインとなっている。また十両はヤブコウジ科の常緑小低木のヤブコウジのことで、やはり赤い実をつける。これは私の家の庭にも生えている。これら万両、千両、百両、十両は本来は赤い実だが、白い実をつけるものもある。 

2010年8月19日木曜日

シンリョウのツブヤキ (1)

 こんな表題で、思ったこと、あったことなどを、思いついたまま、全く無作為に書き留めておこうと思い、この項を立てた。大体何項目かで2,000字程度になったら、「晋亮の呟き」に組み込もうと思う。1項目を何字くらいにするかは特に決めてなくて、成り行き次第である。
・庭の草むしり
 旧盆前になると、お盆に叔父が見えるので、どうしても庭の掃除をしなければならない破目になる。平生から庭の手入れをしていれば慌てることはないのだが、草が繁って目に余るようになり、しかもお盆前という逼迫した状態になってからやり出すものだから、負担も大きい。しかも156坪の建屋に住んでいるのは私と家内のみ、年々歳をとるせいか段々しんどくなる。家の周りは344坪、うち見た目にきれいにしなければならない庭の部分はその3分の1位だろうか。大きな草は処理しやすいが、日当たりのよい場所によく生えるメヒシバ(メイシバ、メイジワとも)とオオバコには往生する。苔の間に密集して生えているのが最も難物、私が受け持ったたかが20坪ばかりの草むしりに丸1日もかかってしまった。しかもメヒシバは少し大きくなると、延びた茎の節が地に触れると根が出て、次々と更に広がっていくから厄介だ。ひところ難物だったスズメノカタビラは奮闘の甲斐あってどうやら少なくなってきた。これらイネ科の雑草は一年草なので、種子が落ちないようにするのが少なくするのには肝要なのだが、想うは易く、行なうは難しである。
・庭で鳴く蝉
 裏の背戸には樹木が鬱蒼と繁っていて、夏至が終わった6月下旬になると、チーとかシーとかジーとかニーとかに聞こえるニイニイゼミが鳴きだす。個体数は少なくはない。合唱の声は、丁度私の耳鳴りのシーに近い鳴き声だ。しかし7月になってアブラゼミが鳴き出すと、あのジジジジという大きな声にかき消されてしまって、優しいニイニイの声は居るのだろうけれど聞けなくなる。ニイニイゼミは小型の蝉で、表に出ている前翅が褐色のまだら模様になっていて、可愛い。次いで現れるのがヒグラシ、あのカナカナと鳴く蝉である。声が聞けるのは7月下旬までで、ニイニイと似ている。大きさは中型で細身、雌は小さく雄は大きい。翅は透明、薄暮の日の出前とか日の入り後に声が聞ける。個体数は少ない。鳴き声には秋の夕暮れの雰囲気があり、俳句では秋の季語になっているそうだが、実は夏の蝉、でも8月にはもう居ない。7月になるとアブラゼミの登場、あのジジジジの音は暑さを一層増幅する。大きさはクマゼミ程ではないが大型、茶色の不透明な翅を持っていて、特に暑さが大好きで、熱帯夜では夜も鳴き続ける。だから薄暮での鳴きは少ない。個体数は多く、9月になっても鳴いている。旧盆の頃になると、ツクツクボウシとミンミンゼミが前後して鳴き出す。前者は中型、後者は大型で、いずれも透明な翅を持っていて、しかも暑さが苦手である。だから夜明けや夕暮れによく鳴く。もっとも日中でもそんなに暑くなければ鳴いているが、猛暑日の日中は遠慮している。個体数は少ないが、ヒグラシよりは多いような気がする。ツクツクはツクツクオイースを十数回、ウイヨースを数回、最後にジーで終わる。ミンミンはミーンミンミンミンミンを音程を変えながら数回鳴く。この声を聞くと、秋が近くに来ているなあといつも想う。
・庭に昔はなかった草木が生えた
 〔ホンモンジスゲ〕旧盆に植物には詳しい久吉叔父が来て言うには、このスゲは一部では絶滅危惧種になっているとか。始め株が小さいうちは家内に引っこ抜かれていたが、私はこれまで見たことがなかったので、一部残しておいたのが大株の小群落となった。変わった見たことがない草木は大きくしてどうなるか見てみたいのが私の趣味だが、家内には通じないこともある。 〔ヤブニッケイ〕ツワブキの小群落の間に生えていて、もう高さ1メートルくらいになっている全身濃い緑色の木で、緑の葉はやや厚めで光沢がある。叔父はこれを見て、珍しいと言って葉を千切って揉んで匂いを嗅いだ。私も嗅いだが、クスノキ科に特有な精油の匂いがした。鳥が種子を運んできたのだろうとのこと、言われて初めて気付いた。植木屋に切られないようにしなければ。でもそのまま大きくすると喬木になるらしいから、どうしたものか。 〔ヤブミョウガ〕数年前に変わった草があるなあと想って見守ってきた。冬には地上部は枯れてしまうので一年草と思っていたが、同じ場所に生えてくるので、種子が落ちて生えてくるのだとばかり思っていた。ツユクサが繁るやや湿った場所に生えている。花が白くて可愛く、毎日見て楽しんでいたが、ある日家内に切られて玄関に飾られてしまった。そこで調べたところ、ツユクサ科のヤブミョウガだと判明した。そういえば葉はミョウガに似ている。この時期(8月)にはミョウガも花盛り、でも茗荷の花は株の根元の地面から咲いていて別物だ。ミョウガはショウガ科の植物である。

2010年8月9日月曜日

信州の二湯(2)仙仁温泉「岩の湯}

仙仁温泉/滝のある大洞窟風呂の宿/花仙庵「岩の湯」 (長野県須坂市仁礼3159)
 この宿では、できるだけお客様に寛いでもらおうということで、チェックアウトは正午、チェックインは午後2時と、他の宿と比べて逗留時間が長くなっている。梓川SAで昼食を済ませて、上信越自動車道の須坂長野東ICを下りたのが午後2時少し前、昨日は時間潰しをしたが、この日は途中で給油したのみで、ナビを頼りに大笹街道の国道406号線を菅平高原に向かって走る。須坂市を出た頃に1台のBMWが後にぴったりくっつく。やがて山へ入り込もうという所でナビの音声案内は終了した。左手に駐車場があるが、宿らしき建物は見えない。道で止まると、件の外車はその左手の砂利敷きの駐車場へ入っていった。私達も勝手が分からないまま後について入り込むと、ようこそと言われてイケメンのお兄さんが、車を枠内に停めて下さいと。家内が訝って、ここは岩の湯ですかと聞くと、そうだと言う。ここでも荷物を全部もってくれて、砂利を踏んで東屋風の門をくぐり、滔々と流れる仙仁川を渡って、庵にも似た玄関に着いた。きれいに植え込まれた木々は清々しく、深い山間にいるような錯覚を覚える。
 ここは古くは山伏の里、近世では清和源氏の流れをくむ仙仁氏の居城があった場所とも言われる。この湯は草津白根山修験道の山伏、湯本行者によって平安末期頃に発見されたという。客室数は19室、収容は100名、離れ仙山亭4室、旧本館仙郷亭9室、仙寿亭6室で、料金は2名だと税抜きで順に、42000円、35000円、30000円となっていて、6名だと28、24、22千円となる由。また休前日と特別期間は2000円高となる。田舎の温泉にしてはかなり高い部類だと思うが、何故か評判がよくて中々予約が難しく、帰り際に来年の予約をする客も多いというから、1年先でも予約できない日もあるとか。確かに玄関へ入っての雰囲気は他所にはない心を和ませる気が漂っていて中々よい。この宿は「日本秘湯を守る会」の宿でもあるという。
 宿のフロントでチェックインした後、暫く待って下さいと言われる。庵だからロビーとは言わないのだろうけれど、まだ3組20人以上の人達が待っている。まだ案内までに時間がありそうなので、付近をブラつく。待ち屋風の涼み処にはハンモックやロッキングチェアが置いてある。林間からは仙仁川の流れが見える。右手に延びる突き当りの庵は喫茶所なのだろうか。池に鯉がいるが、この池にはかけ流しの湯が入り込んでいるという。前の組の人達が案内され、玄関が静かになるのを見計らって、先のテーブルに戻ると、抹茶の接待があり、涼しげな茶菓子付き、家内では大変美味しい一品だと言っていた。初老のお姐さんから宿の説明を受ける。
 ここの名物は何といっても洞窟風呂である。宿の一番奥まったところに男女の大浴場があって、ここが洞窟風呂の入り口でもあるとのこと。どうして出来たのか、目的は何だったのかの説明はなかったものの、要は洞窟風呂は混浴なので、洞窟入り口で所定の湯浴み着を着用してから入って下さいと。男の場合、パンツをはき、その上に布製の腰蓑をつけてお入り下さいと。これら着衣は水を吸いにくい特殊な素材らしい。洞窟内にはお湯(34.2℃)の滝があり、また深みもありますので御注意をと。どうやらこれが売りの「岩の湯」の由来らしい。今日も満室ですが、部屋は分散しているので、やたら他人と鉢合わせするようなことはありませんとも。何とも贅沢な宿だ。
 風呂の説明の後は、旧本館仙郷亭の「竹の間」に案内される。途中別亭の喫茶所、あちこちにある休み処、テラス、蔵書4千冊の図書室(仙人文庫)、書斎、談話室等の説明を頂くが、どの部屋も隠し部屋のような風情、貸切りの露天風呂も3ヵ所あるという。あちこちに階段があるのは、ここの各部屋は山の段丘を上手に利用しているからで、それぞれの棟が離れのようになっている。どうやら「竹」に着いた。入ると10畳の和室に山荘風の談話室、その先にバルコニー、クローゼット、洗面所、シャワールーム、ミニキッチンが付いている。BGM用のCDとプレーヤーも。ここでも説明がある。キーは2個、引き出しには男物、女物のフルサイズの浴衣が2着ずつ、裁縫道具や置き薬も常備してある。床の間には「山」の一字の書の軸と生け花、最後にエアコンを調節してくれて案内の人は去った。この案内の方と顔を会わせたのはこの時のみだった。
 取り敢えずは風呂へ、家内とは大浴場へ入ってから、洞窟風呂で会いましょうということで出かける。タオルもバスタオルもそれぞれの浴場に十分用意してあるとのこと、内湯は大きな檜風呂、加温かけ流しである。総ガラス張りなので、露天風呂に入っているような印象、山の樹々が美しい。身体を洗ってから、やおら湯浴み着を着けて洞窟へと進む。少し進むと左手に岩で囲った湯船があり、ここは熱い。洞窟内ではこの湯だけが加温されているとかだった。堰を乗り越えて少し進むと、右手からお湯(34.2℃)が滝となって流れ落ちているが、その量は半端ではない。その奥にも小さな滝がある。ここで洞窟は二手に分かれる。先ず左へ、下は粗めの砂利が敷き詰められていて歩きにくい。やがて広い空間に、ここでは十数人がゆっくり座れるほどの広さ、洞窟はここで右に緩く曲がっているが、ここが最奥である。元へ戻って右の洞窟へ、こちらはやや水深が深く、腰辺りまでの深さ、どんどん進むと堰があり、乗り越えて進むと更に高い堰が現れ、それを越えると深い湯壷に達する。湯壷を更に奥へ進むと、左手からお湯の急流が迸って出ている。でもその先は真っ暗で行けるかどうかは分からない。私がこうした探検をしている間には誰とも出会わなかった。一通り探検をして女性の入り口で待っていると、やっと家内が武装して現れた。さっき通ったルートをもう一度辿った。奥行きは20mばかりだろうか、所々に灯りがあるが、真っ暗では遭難しかねない。分かれて出る頃、新参の人が見えた。お湯は単純泉とかである。
 湯上りに冷たい山の水を一口、部屋には柿の葉茶が冷えている。神の河で割り、喉を潤す。やがて希望した夕食の時間になり、食事処深仙庵へ向かう。食事は山里懐石料理、地元の旬の食材だけを使っての料理とか、家内は獣肉や川魚ばかりだったらどうしようと案じていた。深仙庵はすべて個室になっている。ローソクの明かりもあって幻想的である。外には真竹の林が見える。飲み物は生ビールと冷酒、お品書きにしたがって料理が運ばれてくる。ざっと二時間ばかり、適度な間を置いて、ここでもその出しようは絶妙というべきか、こちらで催促する必要は全くなかった。昨晩もそうだったが、その辺りは客の意を予め酌んでいるような完璧ともいえる接待、恐れ入った。至れり尽くせりとはこのことかと思う。
 昨晩のお品書きには、材料がこと細かく記されていたが、今宵のは材料は色々沢山入っているのだが、何かとなると分からない。ここでは品書きに書いてあった言葉を「 」を付けて記した。(頭書)「山里料理・七月五日」、(先附)「蕨琥珀寄せ」、(前菜)「風待月のおもてなし」五品、(中鉢)「松代蒸し」、(造り)「山里のお造り」鮎と鯉、(焼肴)「鮎の塩焼き」笹に稚鮎二尾と根曲がり竹三本一皿、大きな鮎の串刺し一皿、(椀物)「北信濃根曲がり竹汁」、(強肴)「石焼ステーキ」陶板に信州牛のミディアムは家内が、私は「杉の香焼き」陶板に鯛?の切り身の焼き、(箸休め)「梅酒ゼリー」、(温物)「新じゃが蒸し」片葉を添えて、「御食事」御飯、止椀、香の物、「デザート」五品、「飲み物」珈琲と紅茶、優に四杯分くらいあり、飲みつくせなかった。
 程よく酔って部屋に戻る。床が部屋の真ん中に敷いてあるが、6人も入れる部屋に2人だから、贅沢なかぎりだ。テーブルには夜食の寿司が置いてある。テレビを見ながら、駄弁りながら、柿の葉茶を飲みながら、神の河も空になった。後は白川夜船、朝までぐっすりだった。
 朝5時に覚醒する。家内を誘って露天風呂へ出かける。この時間だともう明るい。この貸切風呂のうち最も古いのが「風姿の湯」で一見洋風、外湯1、内湯1の構成。この露天風呂の湯は120mのボーリング掘削で自噴しているもので、泉質や泉温は大浴場や洞窟風呂とほぼ同じらしい。次に出来たのが「野守の湯」で、ここは雰囲気が和風で、湯船は外湯1、内湯1の構成である。最も新しいのは2007年に出来た「無想の湯」、和洋折衷で面積も最も広く、外湯2、内湯1の構成で、最も高い処にある。私たちはこんな知識は全く持たずに、順に覗きながら一番高みの露天風呂へ行ったのだが、幸いすべて空いていたものの、最も高みの湯が最も新しくすばらしい露天風呂だったことになる。環境も最高、申し分のない露天風呂で、このような経験はこれまでにない。途中で来訪者があったが、当然使用中、それにしても空いていればいつでも利用できるというのがよい。後で家内が姪に良かったと電話したら、夜中に入ると満天の星でなお最高とのこと、聞いておけばよかった。またリピートすることもあろうから、その時は挑戦しよう。
 戻ってから朝食を頂く。昨晩と同じ個室で食事をする。この日の朝も豪華な食事、蕎麦粥が嬉しかった。ゆっくりと頂く。午後には小布施をブラつくことに、蕎麦屋も数件推薦してもらえた。宿には正午近くまで居た。帰るまで床は敷かれたまま、誰も来ず、寛げた。
 チェックアウトし、男の方と女の方に送っていただいた。仙仁川の橋の上でと、東屋風の入り口とで、家内とのツーショットを撮ってあげますと言ってくれたが、こんな気配りも嬉しかった。機会があればまた訪れたい宿だ。
 

2010年8月6日金曜日

信州の二湯(1)早太郎温泉「二人静」

 三男誠孝の四十九日満中陰が済んだら、ブラッとどこかの温泉にでも出かけようかというのは、私と家内の暗黙の了解だった。とは言っても、いざ何処にするかとなると星の数ほどあって決めかねてしまう。一計はよく旅行もする姪に相談したらという逃れだった。すると二の返事で「岩の湯」にしたらと、姪によると一押しの名湯とかである。聞けば長野県の温泉だという。だったらもう一湯は、随分前に行ったことのある「二人静」にしようかと、ここは以前は中々予約が取れないことで有名な宿、でも一応チャレンジしてみることに。出かける日は7月4日(日)から年休2日とっての3日間、車で行こうということになった。HPで調べると、「仙仁温泉・岩の湯」は、申込みは直接来館か電話のみの申込みということで、電話で申込みすると、4日の空きはなく、5日はありますとのこと、ただし35,000円の室しか空いていませんとの返事、家内に相談すると、折角の推薦の宿、お願いしましょうということで、2日目の宿は決まった。次に初日の「早太郎温泉・二人静」の方はインターネットでの申し込み、こちらの方は空きがあって、最も安い離れ「花心庵」が13,000円で空いているとのことで、そのまま申し込んだ。この両方の宿では22,000円もの開きがあり、どうしてこんなに差があるのか訝っていた。後日心配になって電話で問い合わせたところ、本邸まで80m位離れていて、それがハンディらしく、食事も入浴も本邸まで出向かねばならないという。雨の日は大変ですというから、本邸に空きはないかと聞くと、洋室ならありますとのこと、和室はと聞くと洋室折衷のが別邸「一花一葉」に1室あるとのことで、そこに変更してもらった。料金は22,000円という。
 7月4日日曜日は小雨がぱらつく生憎の空模様、本来なら8時頃に出かけようと思っていたのだが、この日は町内一斉の清掃の日、出られないと連絡はしてあるものの、堂々と出かけるのも憚り、6時出発とする。山側環状道路経由で森本ICから北陸自動車道へ、有磯海SAで朝食、長野自動車道の梓川SAで早めの昼食、このまま中央自動車道の駒ヶ根ICまで行くと、チェックインは午後3時なので時間を持て余すので、塩尻北ICで下りて、一般道を南下することに。それでも駒ヶ根市に着いたのは午後2時前、それで宿近くにある駒ヶ根高原美術館を見学してから初日の宿に入った。広い駐車場に車を止めると、女将が直々にようこそいらっしゃいましたと挨拶されたのには驚いた。部屋への挨拶ではなく、宿へ着いたときに挨拶されるのも、新しい合理的な方法と思ったものだ。また荷物を運ばれる方も一緒、西洋では当たり前の光景だが、これはいい意味での和洋折衷と思った次第。

信州駒ヶ根高原/早太郎温泉/山野草の宿「二人静」 (長野県駒ヶ根市赤穂4-161)
 宿は本邸の「二人静」、別邸の「一花一葉」、離れ「花心庵」、教会の「トラムス」からなっていて、本邸は1995年のオープン、別邸は2005年のオープンとかで、前回に訪れたのは2002年だったので宿は5階建ての本邸のみ、教会が出来立てだったような気がする。チェックイン後、別邸へ案内される。本邸から別邸へは専用カードキー(通行札)がないと 入られない仕組みになっていて、私と家内に1枚ずつカードが渡された。別邸の3Fには大露天風呂付き特別室が6室、4Fには擬似洋風和洋室(擬洋室)が10室あり、話題の旅館デザイナー、和創匠の松葉啓氏のプロデュースになるものだという。私達が入ったのは4Fで、畳に高床式ふとん(ベッドスタイル)が設えてある新感覚の部屋であった。部屋とウッドデッキとの間には猫足バスが置いてあるが、これは湯浴みするにはチョッとチャチだ。バルコニーに出ると、下には太田切川がうるさい位の高い瀬音を立てて流れている。川には対岸へ赤い駒ヶ根橋が架かっている。東に目を向けると、中央アルプスの宝剣岳(2932m)が遠く尖って見えている。天気が良ければ西に、南アルプスの仙丈ヶ岳(3033m)、左手に甲斐駒ヶ岳(2966m)、右手に北岳(3192m)が望めるはずだが、雲に隠れていて見えない。ここは標高860mの駒ヶ根高原の一角、取り敢えずは冷えたビールと持参の神の河で喉を潤す。山野草の宿というだけあって、あちこちに山野草を主とした花が生けられている。
 小憩の後、本邸の大浴場へ、そこからはさらに開放感のある大きな露天風呂へと続いている。温泉は単純アルカリ泉、さらりとした好い湯だ。露天風呂は程よい湯加減、周りは緑の樹々に覆われていて、深山幽谷の趣、いつまで入っていても飽きがこない。ゆっくりと十分に手と足を伸ばす。
 夕食は2Fの金宝珠という食事処、三箇所ある中の一つ、ペアでゆっくり8組が入れる大きさの部屋、落着ける雰囲気と細やかな気配りが伝わってくる。料理は懐石料理、一品一品がゆっくり間を置いて出てくる。別邸は本邸とは棟が別なこともあって、料理は恐らく別と思われる。料理長渡辺徹のこの日のお品書きは、食前酒(山葡萄と山桃のカクテル)、先附(若筍豆腐、蔓菜、キャヴィア)、前菜(千代久‐自家製塩辛、自家製牛肉燻製、姫大根、蛤貝焼、丸十レモン煮)、椀物(手毬海老真薯、花びら麩、口‐木の芽)、造里(平目、サーモン、牡丹海老、妻一式)、焼肴(鮎塩焼、昆布有馬煮、白アスパラ梅肉和え)、温物(炊き合わせ、飛龍頭、蓮根、筍、コーン)、揚物(こしあぶらと桜海老のかき揚げ、穴子)、強肴(国産牛ロース肉の笹蒸し)、食事(鯛釜飯)、留椀(信州味噌袱紗仕立て)、香物(野沢菜、はんなり漬、山牛蒡)、水菓子(駒ヶ根産胡麻のプリン)の13品、十分堪能した。多過ぎず、少なくもなく、程よい分量、しかも素材が本来もっている甘味や旨みを引き出す素朴な料理、私も心掛ける目標でもある。奇を衒った小細工は無用だ。その点此処での料理は満足すべきものだった。飲み物は白ワインと生ビール、よく料理と合った。ゆっくり時間をかけての夕食、本当に至福の時を過ごした。スタッフの細やかな気配りが嬉しかった。
 翌朝見上げると、宝剣岳は雲に隠れている。昨晩のフロントへの問い合わせでは、もし山の天候が悪くなくて、ロープウェイが運行する場合には、朝一番にここへも連絡が入りますとのことだったので問い合わせると、運行するとのこと、山は見えないが出かけることにする。ロープウェイ駅への連絡バスは30分おきとのこと、豪華な朝食を昨晩と同じ場所で済まし、チェックアウトする。車は川上の黒川平駐車場にもって行かないでここに置いて出かけたほうがよいとのことで、駐車したまま向かいの橋の袂の駒ヶ根橋バス停に向かう。バスには数人の登山姿の人が乗っている。ロープウェイ駅のあるしらび平は標高1661.5mで、ここよりさらに800m高みにある。細い道をバスは喘いで上る。所々に交差可能な場所はあるものの、今はまだ朝早くで下りの車はないが、日中は大変な混雑だろう。40分くらいで終点のしらび平に着いた。途中は山の中とて、バス停はあるものの、客の乗り降りはなかった。
 いよいよ待望のロープウェイである。驚いたことに搬器の定員は61人、案内嬢が一人付くので客は60人乗れる勘定、通常は20分毎の発車である。バスに乗っていた客がそっくり乗り込む。料金は往復2200円。終点の千畳敷(2611.5m)へは950mの上り、この高低差も終点駅の高度も日本最高だそうである。完成は昭和42年、平成10年にリニューアルしている。秒速7m、所要時間は7分30秒とかである。山は厚い雲で閉ざされていて見えない。ところが上昇するにつれ、下では曇りだったのに、搬器が雲の上に飛び出ると、そこは快晴の世界、あの宝剣岳が真っ正面にくっきり見えている。やがて千畳敷駅、初めて来た中央アルプス、この遊び格好で山へ登るわけにはゆかないが、バスにいた乗客は木曽駒ケ岳まで行って来ますと言って登山道を登って行った。まだ雪渓が沢山残っていて、初夏の感じ、径の傍らにはキバナコマノツメ、クロユリ、コイワカガミなどが咲いている。ここから木曽駒ケ岳(2956m)までは上り2時間、下り1時間40分の行程である。行きたいが行けないもどかしさ、途中の雪渓まで下りてみた。
 小一時間ばかりいたろうか、帰ることに。駅へ戻ると沢山の観光客が上がってきている。下るのは私達二人のみ、下りは臨時便だった。厚い雲は2200m辺り、さらに下がると再び曇りの世界になった。しらび平のターミナルには大型観光バスが10台くらい停まっていた。聞くと、どんどん臨時便を出して上へ上げるという。正にラッシュである。私たちは定期バスで下に下りるが、この時間帯に下りる人は誰もいない。ただバスの交差は大丈夫なのかとそれが心配になる。途中で数台の上りのバスに遭遇したが、チャンとうまく交差している。実に魔術師のようなテクニックに感心する。一度は行きたいと思っていた千畳敷カールだが、取り敢えずは足を運べた。この次には山にも登りたいものだ。このカールには72人泊まれるホテルもあり、通年営業している。ここも良さそうだ。
 バスを駒ヶ根橋で下り、「二人静」に戻り、再び車に乗る。駒ヶ根ICから中央自動車道、長野自動車道、上信越自動車道と継いで、須坂長野東ICで下りる。ナビに今晩の宿を入力し、宿に向かう。

2010年7月27日火曜日

講演会「厳冬期白山ワンディ山行」

 標記の講演会が深田久弥山の文化館の主催で、7月25日(日)に加賀市大聖寺京町にある大聖寺地区会館で午後1時半から3時まで開催された。講師は言わずと知れた早川康浩氏である。私がこの講演会があるのを知ったのは、氏のHPのブログの「山と医療の本音トーク」の副題がある「YASUHIROの独り言」を見てである。二度案内があり、二度目は講演3日前の7月22日にあった。主催者の言では、6年ぶり二度目ということで、二度目は早川氏が初めてとのことであった。深田久弥山の文化館では、毎月1回、月末の日曜日に講師を招いてレクチャーを行っていて、40人ばかりの人が集まるとのことだが、今回招いた早川さんの場合、とても山の文化館では収容しきれないと判断して、近くにある大聖寺地区会館での開催となったとのことであった。
 氏は昭和34年(1959)生まれの50歳、群馬大学医学部を卒業後、金沢大学医学部第1内科に入局し、厚生連高岡病院、富山県立中央病院勤務を経て、1995年には済生会金沢病院に就職、その後2000年4月には、内科・胃腸科・肛門科を標榜する「はやかわクリニック」を金沢市寺中町に開業、特に消化器内視鏡学会指導医として、年間6,000件を超える内視鏡検査を実施しており、中でも大腸カメラは年間2,700件と北陸でもトップクラスである。
 氏と山とのかかわりは、富山の病院へ行ってからで、特に剱岳に惚れて、剱岳を中心に単独速攻の登山を行ってきた。山に登り出したのは32歳だったという。以後開業するまでの8年間の間に、深田久弥日本百名山も踏破した。また山スキーは、富山にいた頃、立山にあった文部省の登山研修所に医師としてかかわった折に、勧められて始めた由、35歳のときだったという。現在は開業しているので、休診日の日曜・祭日と水曜日を中心に、山へは日帰りの速攻登山、特に11月から5月にかけては、北アルプスや白山を中心に、スキーを駆使してのワンディ山行を行っている。まだ明るいうちに帰着することを大原則としていることもあって、出発は真夜中の0時であることも多く、とても常人ではおよびがつかない。
 氏は冒頭に、深田久弥は青年よアドベンチャラスであれと言っているが、私にとって山スキーは人生をかけたパフォーマンスであり、オリジナリティを追求しながら、これからも楽しみたいと言う。油断できない趣味であるが、この素晴らしい世界を多くの人達に伝えることができたら、それは本望だと。この日は、氏のHPを見て、遠く埼玉からも、また中京の愛知、岐阜、三重、それに地元の石川、富山、福井から、約150人が集まった。氏のHPは恐らく全国で見られていて、1999年1月23日に開設されて以来、既に320万回ものアクセスがなされている。
 講演会の表題は「厳冬期白山ワンディ山行」となっているが、いくつかの山スキー行についての紹介があった。パソコンを使っての映写具一式を持参されての講演であった。用意された枚数は135枚とのことであった。

1.厳冬期ワンディ白山(単独)(2010.2.24)
 白峰ゲート(緑の村)を0:11に出発、ここから別当出合までが核心部分で、特に急な崖の中腹に付けられた径は、デブリがあると片斜面になっていて、この部分の通過にはアイゼンが必携で、特に夜間では非常に緊張したと。このような箇所は何箇所もあり、気を抜けなかったが、5時間かかって出合に着けた。ここから砂防新道にルートをとるが、難関は吊り橋で、冬期は幅10cmの一本橋、凍結していて非常に緊張したという。渡った後は夏道をカットして一面の雪原をシールを付けて登る。甚之助小屋は雪で埋まっていて場所は不明、ここからは真っ直ぐに直登して弥陀ヶ原に至る。真っ白い台地、風が強く、室堂から山頂へはアイゼンを付けて登る。御前峰(2702m)には10:44に着いた。10時間半を要した。下りは山頂からスキーで、黒ボコ岩から観光新道寄りの白い大斜面を別当出合まで滑り込む。後は白山公園線を白峰まで、下りは山頂から4時間半を要して、15:29に着いた。白峰からは往復50kmである。
 このルートのスナップでは、2007.1.21に深沢名人と二人で行った時のものも公開された。この時は白峰ゲートを0:01に出発、同じルートで山頂には11:10に着き、下りも同ルートで4時間かけ、白峰に15:28に着いている。この日は天気も良く、スナップも多い。

2.厳冬期大笠山ワンディ登山(3人パーティ)(2010.2.7)
 この時は深沢名人と、メールでぜひ参加したいという福井の方と3人でクルーを組んだ。夏道ルートとは全く別の、早川氏が地図を見ながら独自に考えたルートの大笠山主稜線東尾根を辿るもので、境川ダムの堰堤を渡って対岸の尾根に取り付く。この日の天候は雪、国道156号線の広場に車を止め、3:00に出発、境川ダムまで4.5kmをラッセル、この日は雪が多いので、スキーとシールと靴とで10kgにもなるスーパーファットのポンツーンを使用した。主稜線東尾根は雪で視界不良であったが、専らGPSを使用して氏がリードして尾根を辿った。核心部分は1470mのピークで、右は崖、左は谷で、緊張したという。稜線を忠実に辿ったためアップダウンがあり、その点ではかなり時間と体力をロスした。しかし大笠山(1821m)には8時間かけて11:09に着いた。しかし帰路につく頃には天候が回復し、快適な4時間弱のダウンで、15:30に帰着した。このルートからの登行も冬期ワンディ登山も初記録だと思われる。スナップは晴れた帰路に写されたものである。

3.近年の山スキー道具
 山スキーではどれだけ軽量化できるかが、安全な滑りをするための重要なポイントとなる。値段が高くても良い品を使うことが大事である。山スキーは命がけ、万が一の時の費用の方がはるかに高くつく。お金で少しでも安全性が買えるのであれば、これほど安いものはないと考える。特に半永久的に使えるものは、高くても良いものを買うことが肝要です。命は一つしかありません。
 厳冬期、雪が深い時には、スキーの幅が160mmと広いスーパーファットのポンツーンが有用です。これは先端が反っていて、深雪でも先端が沈まない利点がある。またビンディングも軽くて丈夫なTLTがベストで、今これに匹敵するものはない。難点はこれに付くクトーがなかったが、現在はあり、無敵です。靴はガルモントメガライトが秀逸で、よりライトなタイプもある。ストックはブラックダイヤモンドの2段式で、ワンタッチレバー、回転式は凍結すると使用不能になる。またストックのうち1本もしくは両方をピック付きのウィペットセルファレストにしておくと、ピッケルの携行が不要になる。私は片方のみですが、名人は両方です。

4.今シーズンの山スキー行から:馬場島から大窓周回(深沢名人と)(2010.5.3)
 馬場島を2:00に発ち、立山川を遡行し、室堂乗越(6:25)から剱御前(8:00)へ、剣沢を下り、近藤岩(8:55)から北俣をつめて池ノ平(10:31)へ、ここから小黒部谷を大窓出合まで500m下り、大窓まで700m上り返す(12:48)。大窓には巨大な雪庇が張り出していて、崩壊しないことを祈った。大窓からは白萩川へ下ったが、タカノスワリのゴルジュは雪で埋まっていて、高巻きは免れた。馬場島には13時間弱後の14:48に着いた。

5.昨シーズンの山スキー行から:新穂高から水晶岳ワンディ(深沢名人と)(2009.4.29)
 新穂高を0:00に発つ。大ノマ乗越(4:23)から双六岳(6:59)を経て、三俣山荘(7:57)へ。山荘から岩苔乗越まで下り(9:04)、水晶小屋へ登り上げる(10:27)。ここからは稜線をアイゼン着用で水晶岳(2986m)に至る(11:31)。距離は11.5km、所要時間は11時間30分だった。頂上には30分滞在して、帰りは頂上から直接岩苔乗越まで滑り込み(12:59)、三俣山荘へ登り返し(13:40)、三俣蓮華岳(15:00)を経由し、大ノマ乗越(17:19)から新穂高に帰着した(18:54)。下りには7時間を要した。

6.その他の山スキー行のスナップ
 ・天狗原山(2197m)(長野) 小谷温泉から往復
 ・四ツ岳(2774m)(岐阜) 平湯温泉から往復
 ・大門山(1572m)(石川/富山) 五箇山西赤尾から往復
 ・御前岳(1826m)(岐阜) 月ヶ瀬下小鳥ダムから往復
 ・横前倉岳(1907m)(長野) 北小谷来馬温泉から往復

 
 大窓周回以外の山スキー行では、氏のグループ以外には全く人影がなく、白い処女地にシュプールを描く醍醐味は麻薬的な魅力がある。主催した人からは、これを見て憧れて雪山へスキーに出かけることは避けて下さいと言っていたが、それは確かで、卓越した技術と強靭な体力と冷静な判断力を持った人のみが味わえる世界である。ここではスキーの機動性が遺憾なく発揮されている。、

2010年7月23日金曜日

二年振りに白山へコマクサを見に行く

 白山にコマクサが植わっていることを知ったのは10年前のことである。北國新聞に「北陸の自然発見」というシリーズがあって、これを加賀市在住の写真家、宮 誠而さんが担当していて、その第28回のテーマが「白山の高山植物」だった。そしてその表題は「人知れず咲いたコマクサ」、副題は「魅惑のピンク、がれ場に植えられ」だった。新聞は平成12年7月19日付発行で、写真では、遠くに能登半島が望める礫地にコマクサが十数株植わっていて、半数の株が花を付けている。宮さんはコマクサを目的として登山したわけではなく、高山植物を撮る目的で入山されていて、コマクサに遭遇したのは前年の3回目の登山の折だったという。丁度台風一過で能登半島が遠望できる程の澄みきった晴れの日だったとか。そして能登半島が望める地点で撮影していたときに、偶然にも足元に植わっているコマクサに出会ったという。写真で見たところ、実生もあるらしいから、植栽されたのは更に5年以上も前のことだったのではなかろうか。
 コマクサは他の植物が育たないような過酷な礫地に生育することで知られる。その秘密は根にある。栽培品はどうか知らないが、自生のコマクサは細い根が地中深くにまで入り込んでいて、地上部を養っているという。地上部は冬には枯れ、種子は親株の近くで芽吹くことになる。したがって、実生は親株から遠く離れた場所で芽吹くことはない。この写真でも親株の周辺に実生と思われる株が生えているのが伺える。見ると、コマクサは数株植栽されたらしく、その周りにはあたかもコマクサをガードするように手頃な岩を環状に巡らせてある。宮さんはこの場所が何処なのかは記していない。ただ遠くには能登半島を望める場所とあるから、感じでは御前峰のどこか一角だろうということになろうか。私も興味があって、一度は見たいものだが、まだその場所には遭遇してはいない。
 こういう火成岩の礫地は、白山は火山であるからして、あちこちに存在する。コマクサの生育環境を熟知していないと植栽できないのは当然で、私なら何処に植栽するかと逆推して選んだのが大汝峰の頂上一帯の礫地である。私が見つけたのは6箇所、1箇所に3株ばかり、周りを拳大の岩を積んで囲ってあった。初めての遭遇は5年前のことである 。しかしこの植栽されたコマクサは、私が雪倉岳や蓮華岳や燕岳で見た群生地のコマクサ比較すると、何とも貧弱で弱々しい。でも年月を経れば、逞しさが身についてくるのではないかと思い、以来毎年訪ね、観察することにしている。
 ところで白山のコマクサのことを神戸に住む畏友に話したところ、私も見たという。何処かと聞いたところ、後日地図にその場所を示して送ってくれた。場所は室堂から御前峰への登拝路から千蛇ヶ池へ行く径の左手、径からは少し離れているとか。目印は黒い岩だという。何度か注意して探して見たが、一帯は草が生い茂っている場所でもあり、開けた礫地は見えず、コマクサの植生地としては適していないような気がしてならない。
 ところで昨年は梅雨の明けるのが不明瞭なこともあって、コマクサの花期に合わせての登山はできなくて、ご対面は叶わなかった。それにひきかえ今年は7月15日には梅雨が明け、今年は是が非でもと、21日の水曜日に年休をとっての白山行となった。午前4時に家を出て、別当出合の駐車場には5時過ぎに着き、体力のことを考えて砂防新道を上ることに。昨年からみると更に足に衰えを感ずる。砂防新道に新しく作られた径は上部が特に急で、供用するに当たっては上り専用となっている。一方で、従来の別当の七曲りは下り専用となって供用されることに。下りの疲れた足には、極度に急な新道は危険が孕んでいる。ところで私はゆっくりのマイペース、若者にも女の子にも径を譲るのがしょっちゅう、情けないことになったものだ。中飯場近くで径を譲った妙齢の女の子はチタンの軽ピッケルを持っていたので印象に残ったが、飄々とした足取り、幽霊がフワフワと歩いているようで、見とれてしまった。この日の登山者は二百人台だろうか。ゆっくりゆっくりで室堂まで4時間もかかってしまった。
 食事を済ませてから、お池巡りコースを逆に辿り千蛇ヶ池に出て、そこから大汝峰に向かうことにする。大汝峰には下から見ると5人ばかりが取り付いている。岩場には赤ペンキでと登路が示されていて、初めての人でも大概上り下りすることができる。正午近く、ガスが湧いてきて視界は効かない。大汝神社にお参りしてからコマクサの植栽されている場所へ行く。前に見た一昨年には6箇所あったが、それが何故か4箇所になっていた。根の張り具合からすれば、岩の囲いが自然の力で無くなっても、根があれば株は残っていそうなものだが、それがなくなっている。またそれぞれのサークルでは、これまではそれまでに植栽された3株に加えて実生もあり、繁殖しているという印象を強くしてきたが、今年はというと、1株を除いて花の数も少なく、かつ株も小さくなっている印象が強い。このことは、礫地なら何処でもということではなく、相応しい場所とそうでない場所があるのではと思いたくなる。観察し終わって立っていると、件のあの軽ピッケルを持った彼女がいるではないか。彼女に今朝会いましたねと言ったが、そうでしたかという返事。私はどうしてピッケルを持参して登るのかと思っていたと言うと、本当はヒルバオへ行きたかったのだけど、途中で引き返してきましたとのこと、あの雪渓は急で、もしお花松原まで行こうとすると、ピッケルは当然必携、安全を期すならアイゼンも要るだろう。彼女の颯爽と、しかも飄々とした歩き振りを再び垣間見ることに。彼女には4箇所のうち最も花数が多く堂々としている1株のコマクサを紹介することにした。びっくりしたような様子、白馬岳や燕岳で見たことがあるけれど、まさか白山で見られるなんてと興奮気味だった。携帯電話で何枚か撮って、誰かに転送しようとしたけれど、圏外とのことでそれは叶わなかったが、喜んでいた。そして有難うと言って飄々として去っていった。
 ガスが巻く大汝峰を後にする。先に出かけた彼女が急崖を下りてゆく姿が見えた。しかしこの後目を凝らしたが彼女は私の視界からは消えてしまった。峰を下りて私は翠ヶ池に回り、紺屋ヶ池からガラ場を御前峰へと向かう。宮さんが写した場所はこの辺りと見当をつけて探したが、今回も場所を特定することはできなかった。午後2時近くとて、山頂にいるのは十人ばかり、今から上がってくる人達は今晩宿泊の人達だろう。家内に携帯電話で連絡しようとするが、圏外でダメだった。室堂から電話することにしよう。一度は必ず電話するようにとうるさい催促なので、とにかく一度は連絡しなければ。家内と二人で山へ行っていた頃が懐かしいが、近頃は家内は歩いた後に身体が浮くとかで、それ以降は一緒に山へは登っていない。それもあってか尚更心配になるらしい。ここは彼女の意も酌まねば。
 室堂から家内の勤務する病院に電話したのが午後2時半少し前、以前は下りは2時間もあれば十分下山できたが、今は無理だろう。交通規制がある日は、最終バスの発車は午後5時、一度逃したことがあるが、今日は車を乗り入れているのでその心配はないが、膝と大腿の衰えは上りにも下りにも影響している。下りには連れになった二組の夫婦と共に下る。元気なときには考えられなかったことだ。一つには何かアクシデントがあった時などに、誰かそばにいるのとそうでないのとでは安心感が違う。この日は団体の大部隊が5組も上がってくるのに遭遇した。2組は高校生、他の組はメインがおばちゃん連、平日でも空いているとは限らないのが今の白山の現状なのか。
 下りは砂防新道を下ったのに2時間半もかかってしまった。今日の予定では観光新道を花を愛でながら下る積もりでいたが、惰弱にも砂防にしてしまった。冷たい水もあり、暑い日にはうってつけと思ったからだ。歳が歳だけに、家内の心配も酌んでやらねばと思う昨今となった。でもまだ、気が向いたらブラッと山に出かけたいという気持ちはまだ失せてはいないのは取り柄だ。

2010年7月20日火曜日

山野草の宿「二人静」の植物126種

 標高860米の山野草の宿「二人静」には探蕎会で2002年秋に訪れている。その折、山野草の宿と冠名しているのだから、何か山野草のリストはないのかと尋ねたが、どうもないらしい。そこで翌朝、宿の右手の急な崖にある山野草園へ上がると、野草の名を付した立て札があったので、その名をメモした。しかし、中には判読できないものとか、帰宅して図鑑等で調べても一致する植物がないもの等があり、最終的には114種をリストアップした。今夏再び「二人静」に投宿したが、山野草園は草丈が背丈位に繁っていたことと、以前は崖には細いが歩ける径がついていたが、今回はその踏み跡も定かではなく、崖には踏み込めなかった。今回も植物リストについて尋ねたが、やはりないとのこと、でもホームページには47種の花の名が掲載されている。そこで従前のリストから2種を除き、14種を加えた126種について、種名に科名と属名を付した。
 以下には、双子葉植物合弁花類、離弁花類、単子葉植物、羊歯植物の順に、科名と属名を五十音順に配列した。種名の後の( )内には花の色を書いた。但しこの花というのは必ずしも花弁とは限らず、ガクとかホウとか、目に映ずる色と考えて頂いた方がよい。また種名が:で連なっているのは、一方が別名であることを示す。

双子葉植物合弁花類
・アカネ科 〔ヤエムグラ属〕キヌタソウ(白)
・イチヤクソウ科 〔イチヤクソウ属〕ベニバナイチヤクソウ(紅)
・イワウメ科 〔イワウチワ属〕トクワカソウ(淡紅) 〔イワカガミ属〕イワカガミ(淡紅)
・イワタバコ科 〔イワタバコ属〕イワタバコ(淡紫)
・キキョウ科 〔ツリガネニンジン属〕イワシャジン(紫) 〔ツルニンジン属〕ツルニンジン:ジイソブ(淡緑) 〔ホタルブクロ属〕シロバナホタルブクロ(白)ホタルブクロ(赤紫) 〔ミゾカクシ属〕サワギキョウ(濃紫)
・キク科 〔フキ属〕フキ(白) 〔ヤブレガサ属〕ヤブレガサ(白) 〔ヤマハハコ属〕ヤマハハコ(白)
・キョウチクトウ科 〔チョウジソウ属〕チョウジソウ(淡青紫)
・ゴマノハグサ科 〔クワガタソウ属〕ヒメトラノオ(青紫)
・サクラソウ科 〔オカトラノオ属〕オカトラノオ(白)
・シソ科 〔ジャコウソウ属〕ジャコウソウ(淡紅紫)
・スイカズラ科 〔ツクバネウツギ属〕ベニバナノツクバネウツギ(紅)
・ツツジ科 〔スノキ属〕コケモモ(淡紅)
・ナス科 〔ホオズキ属〕ホオズキ(淡黄白)
・マツムシソウ科 〔マツムシソウ属〕マツムシソウ(淡紫)
・ムラサキ科 〔ワスレナグサ属〕ワスレナグサ(淡青紫)
・ヤブコウジ科 〔ヤブコウジ属〕マンリョウ(白)ヤブコウジ:ジュウリョウ(白)
・リンドウ科 〔ツルリンドウ属〕ツルリンドウ(淡紫) 〔リンドウ属〕エゾリンドウ(青紫)ハルリンドウ(青紫)リンドウ(青紫)

双子葉植物離弁花類
・アカバナ科 〔アカバナ属〕ヤナギラン(赤紫) 〔マツヨイグサ属〕マツヨイグサ(黄)
・ウコギ科 〔トチバニンジン属〕トチバニンジン:チクセツニンジン(黄緑)
・ウマノスズクサ科 〔ウスバサイシン属〕ウスバサイシン(暗紫) 〔カンアオイ属〕カンアオイ(暗紫)
・カタバミ科 〔カタバミ属〕ミヤマカタバミ(白)
・キンポウゲ科 〔イチリンソウ属〕シュウメイギク:キセンギク(紅紫)ニリンソウ(白) 〔オキナグサ属〕オキナグサ(暗赤紫) 〔オダマキ属〕オダマキ(青紫)ヤマオダマキ(褐紫) 〔カラマツソウ属〕カラマツソウ(白) 〔シラネアオイ属〕シラネアオイ(淡紅紫) 〔センニンソウ属〕ハンショウヅル(紅紫) 〔トリカブト属〕ヤマトリカブト(青紫) 〔フクジュソウ属〕フクジュソウ(黄) 〔リュウキンカ属〕リュウキンカ(黄) 〔レンゲショウマ属〕レンゲショウマ(淡紫)
・ケシ科 〔オサバグサ属〕オサバグサ(白) 〔キケマン属〕ミヤマキケマン(黄)ムラサキケマン:ヤブケマン(紅紫) 〔コマクサ属〕ケマンソウ:タイツリソウ(淡紅)
・シュウカイドウ科 〔シュウカイドウ属〕シュウカイドウ:ヨウラクソウ(淡紅)
・センリョウ科 〔チャラン属〕ヒトリシズカ(白)フタリシズカ(白)
・ツリフネソウ科 〔ツリフネソウ属〕キツリフネ(黄)
・ドクダミ科 〔ドクダミ属〕フイリドクダミ(白)
・ナデシコ科 〔センノウ属〕フシグロセンノウ(朱赤)マツモトセンノウ(深紅) 〔ナデシコ属〕カワラナデシコ:ナデシコ:ヤマトナデシコ(淡紅) 〔ハコベ属〕ハコベ(白)
・バラ科 〔キジムシロ属〕キンロバイ(黄) 〔シモツケソウ属〕キョウカノコ(淡紅紫)シモツケソウ:クサシモツケ(淡紅) 〔ダイコンソウ属〕ダイコンソウ(黄)チングルマ(白) 〔ヤマブキ属〕ヤマブキ(黄) 〔ワレモコウ属〕カライトソウ(赤紫)
・ベンケイソウ科 〔ベンケイソウ属〕イワベンケイ(黄) 〔マンネングサ属〕キリンソウ(黄)ツルマンネングサ(黄)
・ボタン科 〔ボタン属〕ヤマシャクヤク(白)
・マタタビ科 〔マタタビ属〕サルナシ:コクワ:シラクチヅル(白)
・ミズキ科 〔ミズキ属〕サンシュユ(黄)ヤマボウシ(白)
・ミソハギ科 〔ミソハギ属〕ミソハギ(紅紫)
・メギ科 〔イカリソウ属〕イカリソウ(赤紫) 〔サンカヨウ属〕サンカヨウ(白) 〔タツタソウ属〕タツタソウ:イトマキグサ(淡紫) 〔ルイヨウボタン属〕ルイヨウボタン(緑黄)
・ユキノシタ科 〔チダケサシ属〕トリアシショウマ(白) 〔ベルゲニア属〕ヒマラヤユキノシタ(淡紅) 〔ヤグルマソウ属〕ヤグルマソウ(緑白) 〔ヤワタソウ属〕ワタナベソウ(黄白) 〔ユキノシタ属〕ユキノシタ(白)

単子葉植物
・アヤメ科 〔アヤメ属〕アヤメ(紫)シャガ(白紫)ヒメシャガ(淡紫) 〔クロコスミア属〕ヒメヒオウギズイセン:モントブレチア(橙黄)
・サトイモ科 〔ザゼンソウ属〕ザゼンソウ:ダルマソウ(暗紫) 〔テンナンショウ属〕ウラシマソウ(黒紫)オオマムシグサ(濃紫)ヒロハテンナンショウ(緑)マムシグサ(緑) 〔ハンゲ属〕カラスビシャク:ハンゲ(緑) 〔ミズバショウ属〕ミズバショウ(白)
・ツユクサ科 〔ツユクサ属〕ツユクサ(青) 〔ムラサキツユクサ属〕ムラサキツユクサ(紫)
・ユリ科 〔アマドコロ属〕アマドコロ(白緑)ヒメイズイ(白緑) 〔エンレイソウ属〕エンレイソウ(暗褐)ミヤマエンレイソウ:シロバナエンレイソウ(白) 〔カタクリ属〕カタクリ(紅紫)キバナカタクリ(黄白) 〔キチジョウソウ属」キチジョウソウ(淡紅紫) 〔ギボウシ属〕オオバギボウシ(淡紫)コバギボウシ(淡紫) 〔キンコウカ属〕キンコウカ(黄) 〔ショウジョウバカマ属〕ショウジョウバカマ(紅) 〔チゴユリ属〕チゴユリ(白)ホウチャクソウ(白緑) 〔ツバメオモト属〕ツバメオモト(白) 〔ホトトギス属〕タマガワホトトギス(黄)ホトトギス(淡紅紫)ヤマホトトギス(白) 〔ユキザサ属〕ユキザサ(白) 〔ユリ属〕ササユリ(淡紅) 〔ワスレグサ属〕ニッコウキスゲ:ザンテイカ(橙黄)ヒメカンゾウ(橙黄)
・ラン科 〔エビネ属〕エビネ(淡褐)キエビネ(黄)ナツエビネ(淡紅紫) 〔シラン属〕シラン(紅紫) 〔ハクサンチドリ属〕ウチョウラン(紅紫)

羊歯植物
・イワヒバ科 〔イワヒバ属〕イワヒバ
・ゼンマイ科 〔ゼンマイ属〕ヤシャゼンマイ
・トクサ科 〔トクサ属〕トクサ
・ハナヤスリ科 〔ハナワラビ属〕フユノハナワラビ



 

2010年7月13日火曜日

小布施で出会った発芽そば

 三男誠孝の満中陰の法事が終わったら、骨休みを兼ねて二人でゆっくりどこかの温泉にでも入りに行こうと家内と話していて、こんな夫婦二人だけの旅というのは新婚旅行以来ということに気付く。折角だから泊まりは2泊として、日月火とすることに。ところで場所を何処にしようかということになり、そういえば家内の姪がよく旅行をするので何処か好いところを推薦して貰えないかと相談したら、「岩の湯」が実に素晴らしかったという。では其処を先ず第一候補にしようということに。その湯は信州なので、もう一軒も信州にすることにして、それは私の希望で、いつか探蕎会で行ったことのある「二人静」にした。後者はインターネット申込みで7月4日の晩に、前者は電話申込みで翌5日の晩に泊まることに。
 月曜に泊まった仙仁温泉の「岩の湯」は北信の須坂市にあり、市内から菅平高原へと続く国道406号線沿いにある。温泉の紹介は別の機会にすることにして、翌日の火曜日には小布施の街をぶらつくことにして、宿の方に小布施でどこか蕎麦屋を紹介してくれませんかと頼んだところ、四軒ばかり地図を付けて紹介してくれた。小布施では「せきざわ」にはこれまで3回も訪れているので、家内はそれ以外のところにしようと言う。街中は駐車も大変だろうからと、国道406号線沿いの店の「鼎」という店を訪れることにした。通りから1本入った処だが比較的分かりやすい店だった。駐車場に車を止めて店へ行くと、都合により臨時休業とか、じゃ次の候補の「おぶせ」にする。この店は宿で100円引きの券をくれた店だが、地図はあるものの、街中で何となく分かりづらい。しかしぐるぐる回っている間に、目印の小布施ミュージアムに出た。車を止めて、いざとなれば入館しようと、そこの駐車場に止める。駐車場には先に1台が止まっていた。さて、これからどうしたものか。地図ではこの建物の北側に隣接するとある。
 うろうろしていると、中年の小母さんが現れ、「おぶせ」という蕎麦屋さんへ寄って下さいと勧誘された。実はそこへ行きたいのだがと言うと、この小径を下って行って左へ行くと案内板があるので、それに従って行くと見えて来ますとのこと、ところが分かりづらい。小径を辿っているともう一組のカップルがいて、何故か迷っている様子でうろうろしている。私は左へ上る小径があったのでそこを曲がるのじゃないかと思ったが、家内は猪突猛進の勢いでどんどん下がって行く。しかしこの小径はミュージアムに続く建物のところで切れてしまっている。しかしここから下の方を見ると、前方に蕎麦屋の看板が見えた。もうこうなれば見つかったも同然、草原を横断して、下の道に飛び下りた。それにしても何と分かりにくいことか。
 店の名は「手打百芸 おぶせ」、手打百芸は何かで見たことがある。看板が出ていなければ、ありふれた普通の町屋である。途中でうろうろして迷っていた一組も、目的はこの店だったらしく無事御到着になった。店に入ると2組5人がいた。土間に4人掛けテーブルが4脚、座敷にはやはり4人が座れる座机が6脚、つくばいの水音が響く落着いた店である。
 店主がお出でて、メニューの説明をされる。一番のお薦めのそばは、「御前二色そば」だと仰る。これは「発芽そば切り」と「更科そば」の盛合わせだとのこと、せっかくのお薦めなのでそれを頂くことに。店主は脱サラだとか、上田市の「おお西」の大西利光さんに師事して修行し、ここで6年前に開店したとのこと、それで初めての人にはぜひ「発芽そば」を食べてほしいとのことだった。発芽そばを見せていただく。丸抜きの蕎麦を暫く水に浸し、その後ざるに上げてならし、半日ばかり寝かすと発芽するが、この状態の蕎麦粒を石臼で搗いて餅状態にして、これに同量の石臼挽きの蕎麦粉を加えて捏ね、伸して、切るとか。一通り話を聞いた頃、10人ばかりの地元の人達が入ってきた。もっとも昼時でもあり、独りの方も2組ばかり。この店で出すそばは全部十割とのことだった。店が忙しくなって御主人一人で大丈夫なのかと思っていたら、駐車場でそばの割引券を配っていた例の小母さんが現れた。勧誘していたのは主人の相方で、客引きのためだったのか。
 始めに、突き出しとして大根の塩漬けとそのチップの揚げ物が出た。塩漬けはともかく、揚げ物とは驚いた。酒の肴には良いかも知れないが、運転がある。次いでそば汁と薬味、薬味は葱と山葵、程なくして注文の品が届いた。長方形の黒塗りのせいろに二盛り、更科の方は真っ白の細打ち、一方の発芽そばはというと淡い黄土色に淡い緑色がかった色の細打ちである。先ず発芽そばを手繰ると、箸にぬめりを感じる。普通はこのぬめりを洗いとって冷水で締めるのだが、どうもこれが発芽そばの特徴らしい。口にすると餅のようなもつもつ感、しかも普通のそばより甘味を感ずる。甘味は発芽期に発生する糖化酵素による甘味だとか。以前探蕎会で福井で発芽そばを食したことがあったが、あの時は特別に意識しなかったが、今回はその違いをはっきり意識できた。ただ切りが丁寧でないのが気になった。御前の方は心持ち発芽より細め、性質上どうしても水を含みやすく、からみやすいが、まずまずの出来、それにしても通常はつなぎが入るのに、この店のは更科の生粉打ちというから恐れ入った。しかも水捏ねだとか。技術がいるそうだ。とにかくこの二色盛りは貴重な体験となった。これで切りがきっちり揃っていたら申し分ないのだが、その分未完成の部分が残っている印象を受けた。
 玄蕎麦は信州八ヶ岳産と信濃町産とのことだが、これはどうも製粉工場で石臼挽きした粉を仕入れているような雰囲気、ただ「田舎そば」は店で手挽きした粗挽き粉をブレンドしているようだし、「挽きぐるみ」と「発芽そば切り」には、やはり丸抜きを手挽きしたものをブレンドしているような口ぶりだった。

 注1.〔発芽そば〕 丸抜きの蕎麦の粒を水に入れ、発芽促進のため夏期は30分、冬期は2時間置く。水を吸った蕎麦粒を水から上げ、笊に均一な厚みになるように敷き詰め、発芽するまで25~28℃に、夏期なら9時間、冬期なら12時間寝かせる。こうして芽が0.5~1mmにまで成長したら全体を石臼で搗くか、フードプロセッサーで餅状にする。これに元と同重量の丸抜きを石臼で挽いた蕎麦粉を加えて捏ね、その後伸して切る。(この部分が大西利光師匠考案の手打法の伝授によるらしい)。発芽期に発生する糖化酵素による甘味の増加、餅のような食感、独特のぬめりで、従来のそばの概念とは異なるものである。新芽の誕生によって、もともと蕎麦に含まれている優れた成分の増加があり、またブロックされていて使えなかった成分や新しい成分が利用できるという。その点このそばは素晴らしい健康食だといえる。なお、『発芽そば切り』は特許及び商標登録出願中だという。
 注2.〔手打百芸 おぶせ〕でのお品書き(抜粋)
〔店主お薦めそば〕
・発芽そば切りー1370円
・御前二色そばー1700円(発芽そば切りと更科そばの盛り合わせ)
〔も り〕 更科、挽きぐるみ、田舎 ー 各890円
〔お薦めのもり〕 (大盛りは全品400円加算)
・三種そばー1450円(更科、挽きぐるみ、田舎の三種類)
・二色そばー1450円(更科、四季そばの盛り合わせ)
・四季そばー1260円(この時期は「梅切り」)
・鴨南もりー1850円
〔そば団子/そばがき〕 - 各525円
・発芽そば団子(醤油と砂糖をからませています)
・発芽そばがき(わさび醤油で召し上がっていただきます)
・揚げそばがき(汁仕立てで召し上がっていただきます)
・焼きそばがき(くるみ味噌で召し上がっていただきます)
〔そば雑炊〕 - 840円  きのこ入り発芽そば雑炊
ほかに、〔あつもの〕 〔ひやもの〕 〔つまみ〕 〔のみもの〕
 注3.〔店舗データ〕 店名、住所、電話、営業時間、定休日
「手打百芸 おぶせ」 小布施町中央627-15、 ℡026-247-2847、 11-15 17-20、 木曜
 注4.〔長野県内の系列店〕 「手打百芸 おお西本店」(上田市中央) 「手打百芸 おお西別所支店」(上田市別所温泉) 「手打百芸 奈賀井」(上田市西内)
 
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2010年7月7日水曜日

マチャ(三男誠孝)が夢見た幻の新会社

 誠孝の通夜での挨拶か、あるいは通夜の振る舞いの時かは定かではないが、フリークスの福岡社長が、誠孝から新しい会社を立ち上げたいという相談を受けたという話を聞いた。社長は独立してやるのは大変だろうから、じゃフリークスの中で新しい事業として始めたらどうかということで話がまとまったとかであった。誠孝の新会社構想では、誠孝が社長になり、妻千晶が役員になり、社長が亡くなったら妻が社長になり、そうすれば生活設計も家計も何とかなるだろうという思惑もあってのことだったのだろう。これまで誠孝の給与は人への投資に使い、いわゆる貯金はしていないとのことだった。誠孝が目指していた構想というのは何だったのだろうか。ここに誠孝が入院していたときに見せてくれた構想のメモがある。
 フリークスは福岡社長が起こした会社、平成15年には株式会社となり、誠孝が参画した頃からは店舗数も飛躍的に伸びた。しかし平成17年以降になると直営店の新規開店はなく、新規フランチャイズ加盟店が1店のみという状況、このネットカフェ業界を全国的な視野でみても、進出競争は一段落しつつある状況だという。このような状況の下、経営に参画していて誠孝が考えたことは、無駄を省いて経費を削減することによって、利益の積み増しを図ろうとしたことは想像に難くない。
 先ず初めに手掛けたのは直営店15店舗での経費削減への取組み、どんな手立てを使い、どう対応したのかは定かではないが、あちこちにある個々の店舗での個々の対応を、フリークスが提携している企業に一本化することで経費削減を図ったのではないかと思われる。当然省エネにも取り組んだであろう。こうして経費削減プロジェクトを立ち上げ、取り組んで1ヵ月余りの削減活動の結果、年に換算して5千万円を削減できたとか、この金額は従前の必要経費の3割に相当するという。それもサービスを落とさないでの削減、金額や割合からして余程の無駄がない限り難しいと思うが、それが出来たらしい。しかしこれは現場に足を運んでのチェックがないと、とても書類の提出だけでは無理だろうし、加えて卓越したコンサルティング能力がないと出来るものではない。誠孝が入院しているときにチラッと「マチャにそれを見極める能力があるとして、そのノウハウを受け継いでくれる後継者はいるのか」と聞いたが、「そんな人は今のところいない」とのこと、とするとアシスタントになる人は別として、フリークスでこの仕事をやるとすれば、誠孝しかいないのではと思った。
 年換算削減成功額5,000万円の内訳は、最も大きいのは人件費で2,500万円(50%)、以下ゲーム・DVDソフト600万円(12%)、ネット回線500万円(10%)、家賃400万円(8%)、食材400万円(8%)、動画配信200万円(4%)、コミック・雑誌150万円(3%)、光熱水費100万円(2%)、有料放送70万円(1.4%)、運送会社40万円(0.8%)、携帯電話40万円(0.8%)となっている。(これらは公開資料である) 
 誠孝はこれら自社直営店での成績を基に、新たに始めようとする経費削減の事業は、社長の慰留もあり、フリークスの事業として行うことにしたようだ。早速数社と接触し、経費削減のためのコンサルティングを始めた企業もあったようだ。ここにメモがあり、相手側のクライアント企業との間に契約を締結する場合の約束が書かれている。(1)相手方には情報を開示していただくことが必要なので、秘密保持のための契約を結ぶ。(2)どういう経費項目を削減したいのかを確認する。そしてその項目に関係する取引先、取引上の問題点を明らかにする。(3)業務委託が締結したら削減可能な項目から経費削減交渉に入る。その際必要なデータは提供して頂く。(4)交渉結果については、その都度報告する。(5)完全成功報酬なので、削減できない場合は一切報酬はもらわない。
 しかし誠孝の病状が進行してからは現場へ足を運ぶことが出来なくなり、この事業はまだ緒についたばかりであり、フリークス内にも確たるこのコンサルティング事業を行う部門が確立されていなかったこともあって、計画は中断されることになる。私は誠孝に挫折感はなかったのかと思ったりもするが、少なくとも私には亡くなるまでそのことについて口にすることは一切なかった。

2010年6月29日火曜日

マチャ(三男誠孝)の法名は「西往院至誠孝順居士」

1.病院から住み慣れた家へ無言の帰還
 マチャは3月29日朝、救急車で県立中央病院に緊急入院し、42日目の5月9日の午前9時5分に息を引き取った。40年5月5日の生であった。遺体はすぐに病院職員の方によって清拭され、そして慌しく病室を空けることに。遺体をどうして自宅まで運ぶか、休日の場合、病院から自宅への搬送は葬儀社の当番制になっていて、まだ葬儀社の当てがないようであれば、こちらで計らいますとのこと。家が野々市町にあることもあり、病院に頼らないとすれば急を要した。家内では懇意にしている方が葬儀社に関係しているとのことで、その方に病院の公衆電話から連絡するが常に話し中のような感じで通じない。入院していた階は5階、そこで4階に下りてかけてもつながらない。とうとう1階まで下りてかけて漸く通じた。何のことはない、電話回線の故障だった。漸く連絡がついた後は、スムースにことが運んだ。部屋の荷物は持ち帰るものと不要なものとに選別して待機する。葬儀社は天祥閣、マチャは差し向けられたストレッチャーに乗せられ、霊安室口から霊柩車に移されて自宅へ。マチャには私が付き添い、車を自宅まで案内した。
 フリークスの福岡社長の機敏な対応で、自宅には数人の社員の方が待機しておられ、居間にマチャの遺体を安置した。頭を北に、本当に眠っているような寝顔だ。まだ身体も温かい。枕元に簡易な仮の仏壇が届けられ、順に皆が焼香する。程なく妙齢の女の方が見えられ、マチャに今一度軽い化粧をし、髪型も整え、死装束に着替えてくれた。さすがはプロ、マチャの顔、手先、足先以外の肌を全く衆目に曝すことなく着替えを済ませた。しかも一人で、これで旅装束に着替えたことになる。よく耳とか鼻に綿を詰めるのにしないので聞くと、この人は元気があって体内に不要な水分がないので、外に水分が出ないのでしなくてもよいとのことだった。入院中身体が浮いているような印象を受けたがと言うと、彼女はそれは浮腫とは違うと、またひょっとしてお腹の膨らみもがん性腹水のせいではと思っていたが、その方では、長年の経験からそうではないと言われた。もしそうだとすると、亡くなってから時間が経つと、体の下の方に水が下がって、穴という穴から水が出てくるとのことだった。髪型も生前好んでしていた髪形そっくりに仕上げてあって、なおのこと眠っているような印象が強かった。病であっても痩せてなくて、堂々とした立派な偉丈夫だ。
2.マチャの寝ている横で葬式の仕切りをする
 通夜や葬儀の段取りは、千晶や私達の話を聞き、フリークスの社長が判断されて万事が進行した。死亡広告は会社の方でされることに。これは恐らくは参会者のほとんどは会社関係の方達だろうという目論見があったことにもよる。葬儀式場の設営、開始時間、祭壇の規模、故人の写真の手配、各所への連絡、返礼の文面、香典の返し等などは社長に主導していただいた。受け付ける盛り花や菓子類も、金額とスタイルは統一した方がよいと指示されていた。また、葬儀の段取りとか通夜の振る舞いや中陰の人数や料理等々、細かいことまで葬儀社の担当の方や私達も交えて打ち合わせをした。また受付や来訪者の車の整理等も葬儀社任せではなく、必要最小限の雇いは別として、後必要な人数はこちらで動員し、必要なら指示して貰えばよいとのこと、百人くらいは動員できると言われた。現在フリークスには直営店が15店、FC加盟店が16店あるが、全店から通夜・葬儀に来ますとのこと、マチャに関わりのある方が多く見えるということは、マチャも嬉しいだろう。
 こうして通夜は5月10日(月)午後7時から、葬儀は5月11日(火)午前10時から、野々市町矢作にあるフューネラルホール天祥閣で執り行われることになった。喪主は妻の千晶だが、状況から見て、フリークスの社葬ともいえるスタイルになった。通夜と葬儀の親戚代表の挨拶は私だが、喪主の千晶にも簡単な挨拶をしてもらうことにした。また社長の希望では、通夜には参会者の方々に社長として挨拶したいと言われ、また葬儀には弔辞を述べたいと言われた。マチャは幸せ者だ。嬉しかった。
3.仮通夜にもマチャのもとには沢山の方が弔問に
 マチャが自宅に帰ったとのことで、沢山の方が弔問に訪れてくれた。以前いた会社で同僚だった、マチャが病院で皆勤賞を渡さねばとまで言っていたJ君は、ずっとマチャのそばにいてくれた。素晴らしい友を持ったものだ。マチャの長男は小学生のときには剣道、中学では野球を、次男は小学生で剣道をしているが、その関係の子供たちや先生や親御さんも弔問に見えた。通常仮通夜というと内輪だけのものだが、マチャの場合、会社の方はもちろん、前の会社の同僚や小中高の同窓の人も顔を出してくれたのには恐縮した。私にとっては前代未聞である。
 午後1時過ぎ、私の家の檀那寺である法船寺(浄土宗)の方丈さんが見えられた。この方は来年行われる法然上人八百年大遠忌の実行委員長をされていて、週5日は京都の知恩院に詰められていて、今日の日曜も夕方には京都に帰られ、明日の通夜に間に合うように来沢し、明後日の葬儀が済み次第京都に帰られるという過密なスケジュール、まことにお忙しい。
 翌日の葬儀の日も、納棺する午後3時頃までも弔問の客があった。寝顔は昨日とも全く変わっておらず、本当に安らかに眠っているようで、声をかければ「オー」と言って目を覚ますのではと思うほど自然な顔立ち、でも身体は脇と腹にドライアイスを抱かされていて冷たい。
4.マチャの写真の合成の妙
 天祥閣の係の人から葬儀の祭壇に飾る写真の元になる写真がありませんかと言われ、何葉かの写真を千晶が出してきた。そのうちから一応2枚を候補として上げたが、被写体が小さく、拡大するとボケそうな感じだ。そこへ社長が顔を出し、社には千枚以上ものマチャが被写体の映像がパソコンに入っているから、良いのを選ばせると言って社へ指示された。ほどなく選んだというA4のプリントが何枚か届いた。こちらは随分鮮明である。千晶と私達も入って選んだのが、どこかのスポーツジムでダンベルを持ち上げているポーズのマチャの写真、楽しんでいる様子で微かに笑みを浮かべている。社長曰く、顔はこれでいいとして、首から下はシャキッとしてないといけないので、フォーマルなスタイルの映像はないかと言うと、これにもすぐ呼応、胸元も決まって、これで行こうと社長。後はどうするのかと聞くと、九州に日本一写真を合成するのが上手いスタジオがあって、そこへ依頼するとか、画像を送信すればすぐに合成されて画面が送られてくるとか。元の2枚は色合いも向きも微妙に違っていて、そのままでは不自然なものになるのではと思っていたが、なんと出来上がった写真は全くの自然体、どこが継ぎ目なのか全く分からない。こんなことが出来るとすると、近頃問題になった件の女性の裸体も、首だけ挿げ替えると簡単に件の女性と見間違うことに、どんな合成写真も思いのままというのには実に驚いた。また当然だが、被写体やバックの色合いも自由自在である。葬儀用の写真はその画像を基にして葬儀社で作られるらしい。というのは葬儀がすんだ際、通常サイズの葬儀用写真が入ったポートレートを私に記念にとくれたが、それを目ざとく見つけた長男と次男が同じものをほしいというのでお願いしたら、簡単に引き受けてくれたことで分かった。
5.通夜には笑顔のマチャのスライドショー
 マチャが納棺されて、皆に担がれ、霊柩車に乗り、矢作の葬儀場へ。車には千晶と私が同乗、車は一旦生家である実家の前を通って行ってくれた。今度実家へ帰ってくるのは四十九日の満中陰の日だ。この法要は私と家内で仕切ろう。これが親としてできる最後の勤め、後は千晶に任そう。式場は既に整備されていた。受付もフリークスの方たちが監査役の方の指示でリハーサルしていた。そのほかにも沢山の方たちがいて、生前のマチャの楽しそうな表情をした過去を演出しようと懸命になっていた。あの励ましの色紙や千羽鶴も飾られることに、そのボードやパネルなんかもお手の物だという。なんとも社長の心配りには心から感謝しなければならない。スライドショーのリハーサルをしているところを少し拝見したが、生前の元気だったマチャが満面の笑みを浮かべて躍動していた。 
 ある女性の社員が私に、常務は会社では絶対私たちの前で笑顔を見せることはなく、緊張することが多かったけれど、慰安会などでは本当に楽しく別人のようだったと。だから好きなんだけれど、こと仕事では厳しく怖かったと。またある男性は、会社で注意されてしょげていると、後で必ず飲んだりしたときにフォローしてくれて、またしっかりやろうという元気が吹き込まれ、活力が湧いてきたと。気のいい優しい奴、しかもその人に合った矯正術を心得ているという印象を受けた。こんなだから自身で金を使うことはないものの、矯正して元気をつけるには「飲み」は必要だったようで、対手は個人のこともあり、少人数なことも、グループであることもあったようだ。だから貯金はせず、千晶が家内に嘆いたこともあったとかだったが、しかしその多くの人たちへの功徳がマチャの信望となり財産となって還元されてきているのだと思うと、決して無駄な投資ではなかったように思う。亡くなって千晶もようやく納得したようだった。私はとてもそこまでは出来ない。もって生まれた素晴らしい才能と性格のなせる結果だ。
 開式1時間前には喪主と父は席に着いて下さいとのこと、早いけれど、もう弔問客が見えているからだと。会場の正面左にはスクリーンが下げられ、あのマチャのスライドが映写されているようだが、遺族席からは真横で見えない。入り口のホールでも上映されているようだ。またバックに音楽が流れていたが、後日小立野の金大病院前にある前田書店の御主人が、私にその音楽は「色彩のブルース」という曲とかで、私にメールで届けて頂けた。聞くと、この曲はマチャの好きな曲で、携帯電話の着メロにも使っていたとは千晶の弁、だから彼女は聴くのは辛いと話していた。
 通夜の会場は1階のみの使用にして、1階は椅子席で200席ばかりだが、式が始まる20分前には席は全て埋まってしまった。通夜に訪れた人は620人ばかりと後で聞いた。
6.福岡社長の挨拶で分かったマチャの功績
 通夜の導師は実家木村家の檀那寺浄土宗法船寺の御住職、伴僧は大円寺と大連寺の御住職、浄土三部経の読経があった。頂いた誠孝の法名は「西往院至誠孝順居士」。
 読経が終わって社長の挨拶、初めはスクリーンを見ながら話しますとのことだったが、真横に位置するため画面を見ながらのトークは難しく、口頭での挨拶となった。内容は、誠孝との出会い、株式会社フリークスへの参画、緊密な下調べによる新店舗開拓への努力、社長の片腕となっての活躍、そしてフリークスグループの基盤確立への貢献、などである。
 社長が自立してマンガ喫茶を野々市町に持ったのは平成11年、この頃誠孝はペプシコーラの営業をしていて、よく訪ねてきていたという。2年後にはこの店を閉めて、フリークスの1号店を有松に出店したが、このとき誠孝の努力が実ってコカコーラからペプシに納入先が変わった。平成15年に有限会社フリークスを立ち上げ、請われてフリークスに入社した。私達は慰留したが、社長に惚れたのだろう。誠孝の決意は固かった。会社は2年後には株式会社に改組している。当時はまだマンガ喫茶にも発展の余地があり、専ら優良な居抜き物件を取得してマンガ喫茶にする方針で出店していたが、社長では誠孝が診断してGOとなった店はことごとく繁盛したとのことで、社長の片腕となりえたようだ。出店は地元石川ばかりでなく、福井、新潟、三重、岐阜、愛知にも及び、現在も健在で営業している。またフランチャイズ加盟店も石川ばかりでなく、福井、富山、青森、岩手、宮城にも出来、誠孝は開発関係の最高責任者として活躍するとともに、常務取締役として経営にも参画することになる。社長は挨拶でフリークス発展の要だったと言ってくれた。その後幹部の方たち10人ばかりが、今後10年を展望した誠孝の方針を引き合いに出し、それぞれが方針の実現に向かっての抱負を述べてくれた。
 これに対し私からは、昨年7月に入院してから今年5月に他界するまでの経過と、社長との出会い、そして誠孝は福岡社長の下でこそ「時」と「所」を得て活躍することができたことに対する感謝の気持ち、病院にいても仕事に対する情熱は衰えることなく、私は木口小平の「死んでもラッパを放しませんでした」という昔の修身の一節を思い出し、また「斃れて後止む」ということを実践してくれたように思えると述べた。またこの世との別離に当たっても、妻や私達両親にもただ「ありがとう」という感謝の気持ちのみしか述べなかったことも、常人では出来ないのではと話した。
 この後、誠孝を偲んで、近親者、会社関係の方々、その他友人達が寄って、お酒を飲みながらいろんな話をした。会社の方々の席へ挨拶に行くと、社長は誠孝が愛飲していた「鏡月」を飲まれていた。私も頂いて誠孝に「献杯」した。遺体は私達が泊まる部屋の安置場所に移されていたが、ここで誠孝と対面しながら、また飲みかつ話し合った。
7.小雨のなかの葬儀
 翌日の葬儀の日は生憎の小雨、でも三百人を超える方々がお参りに訪れて下さった。読経の後、福岡社長の弔辞、私と千晶の挨拶の後、出棺、最後のお別れには、多くの人にも声をかけて誠孝を花で埋めてもらった。やさしい寝顔だった。火葬は旧鳥越村にある共同斎場で。ここでの火葬は2時間を要するので、僧侶の方達からは敬遠されていると聞いている。私もここへ来たのは初めてだった。金沢市の斎場での待ち時間は1時間である。方丈さんも京都へ帰られるので、時間を気にしておいでだったが、長男の将太も修学旅行に二晩目の今晩合流参加しても良いかとの打診に、身内の方の同伴があれば宿で待ちますとの返事、これで父親が生前行ってこいと言ったことがやっと実現するが、これも時間との戦い、気が気でなかった。
 予定より30分も遅れて火葬が終わった。178cmの偉丈夫も今は白骨と化した。体育会系だけあって立派な大腿骨と股関節、職員の話では仙骨が脆くなっていたとか、腰や足の痛みは大変だったろうと思いやった。骨壷に皆で遺骨を拾い収めた。読経と初七日の法事を済ませ、慌しく方丈さんも将太も金沢駅から電車に、将太も無事甲子園の宿舎に皆と合流できたとか、よかった。時間が遅延したこともあって、中陰の席に着かずに帰られた人も何人か。七七日、四十九日の満中陰の法事は6月27日の日曜日に、誠孝が生まれた実家で執り行うことに。こうして慌しくも無事誠孝の葬儀を終えることができた。
 翌日は千晶と家内と私とで関係各所への挨拶回り、誠孝が亡くなってのこれからの生活設計も考えねばならないが、これで取り敢えずは一段落した。

〔追記〕
後日、株式会社フリークスコアからリーフ3葉が入った手紙を貰った。内容を以下に転記する。
1.御 礼
 先日は弊社常務取締役木村誠孝儀、葬儀に際しましてはご多忙中にも拘らずご会葬賜り且つご丁重なるご弔辞とご厚志まで頂戴し心より御礼申し上げます。
 思いおこしてみると、故人は熱く誠実で、そして優しい男でした。創業以来、いつも私の片腕として共に走り続けてきた第一人者でありました。どんな時も”感謝”を忘れないことを信条に、最後まで命を懸けて家族そして会社の為にそして私の為に頑固なまでに体を張り、フリークスグループの基盤を創ってくれました。
 これから私たちは常務の思いを胸に秘め、力を合わせて社業の発展に努めて参ります。生前にお世話になった皆様、今後とも今まで同様にご指導ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。
 最後になりますが、貴社の益々のご発展と末永いご健康を祈念いたしましてご挨拶とさせていただきます。
 平成二十二年五月
 フリークスグループ 代表  福岡 悟  印

2.サンクスカードを持った笑顔の誠孝 と 誠孝の上半身正面写真・枠内に式場正面 
 サンクスカード: FROMフリークス社員・スタッフ一同  TO木村常務
 『感謝をこめて・サンクスカード』 1人目  H22年5月9日
 「木村常務には、たくさん ご指導いただき 大変感謝しています 本当にありがとう」
 墨書 「人生感謝」 「ありがとうございました」 「お世話になりました」
 木村誠孝の墨書の自署 『感謝』 木村誠孝   平成22年5月9日永眠・・・

3.平成の漫画喫茶キムラ39珈琲オープンのご案内
 先日は、弊社 常務取締役 木村誠孝儀 葬儀にご参列ありがとうございました。故人が新しいプロジェクトの責任者として進めて参りました「平成の漫画喫茶キムラ39珈琲南新保バイパス店」がいよいよオープンする運びとなりました。故人の思いや取組みを店で感じていただき、故人同様の御厚情、ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。
 平成二十二年五月吉日
 フリークスグループ  株式会社 キムラ39
 代表取締役  福岡  悟     取締役  木村 千晶
 オープン日時:2010年6月2日(水) 午前7時
 営業時間:午前7時~深夜1時
 場   所:金沢市南新保ト23-1
 電話番号:076-239-0860



 

2010年6月23日水曜日

マチャ(三男誠孝)は彼岸へ旅立った

1.五度目の入院は救急車での緊急入院
 平成22年3月16日に退院して自宅で静養していたが、月末の29日朝、息苦しくなって救急車で県立中央病院に緊急入院したと、細君の千晶から連絡が入った。入院は数えて五回目になる。家内と私は直ぐに病院へ駆けつけた。主治医の先生も見えられ、救急処置がなされたようだ。容体についての詳しい説明はなかったが、間質性肺炎の悪化が考えられる。容体は落着いたが、先生ではこのまま入院した方が安心だとのこと、五度目の入院ということになった。丁度この日は次男家族の千葉松戸から金沢への引越しの日、家内は手伝いに行く予定にしていたらしいが、フルタイムはとても無理だったが、少しは手伝えたと言っていた。家内はマチャが入院したということで、この日からこれまでのように午後6時前にマチャの所へ行き、午後7時前には一旦家に帰り、午後8時までにはまた病院へ戻るという日課が再開された。前の入院時よりも息苦しさがあるようだが、病院という環境が安心感をもたらすのか落着いていた。また何故なのか食欲はある方で、私には実に不思議な現象に思えた。だから一見病人らしくない病人のようだった。こうして容体も落着き、4月が過ぎていった。私もこの間、年2回あるペースメーカーのチェックに金沢医科大学病院へ出かけられたし、勤務している予防医学協会に働くT君が団長を勤める百万石ウインドオーケストラの定期演奏会も聴いたり、ラ・フォル・ジュルネ金沢のオープニングコンサートにも出かけられた。 
 マチャが再々々々度入院したということで、フリークス傘下の店の従業員全員と思われる大勢の方達から「木村常務、早くよくなって下さい」という病気平癒の寄せ書きが沢山寄せられ、その数は夥しく、マチャがこれほど慕われていたことに驚きもし、感謝の念を禁じえなかった。半ば公けな一面はあるにせよ、それを読むと、その文章の端々には、早く癒されてまた一緒に仕事をしたいという、皆からの一途な熱い思いが伝わってきて、やるせないものがあった。福岡社長の快癒を願う大きな墨書の色紙は、マチャには大きな励みになったことだろう。またフリークス以外の方からも、病気に打ち勝ってとの激励の力強い書が届いた。嬉しい限りである。私は土曜ごとにしか訪ねていないのに、社長はとりわけ忙しいのに、足繁く訪ねられていた。また前にいた会社での同僚の中には、ほぼ毎日訪ねてくれた人もいた。
 そんな中で、社長の発案なのだろうか、あるいは誠孝も少しはかんでいたのかも知れないが、入院している病院に程近い国道8号線沿いの、丁度フリークスの駅西バイパス店の向かい側辺りに、以前はラーメン屋だったとかの居抜き物件を改装して「キムラ珈琲」という店をオープンするとか。誠孝は知っていたのかも知れないが、親としては社長の心遣いに涙が出るほど嬉しかった。内装も外装も、マチャがタッチしたのかどうかは知る由もないが、マチャからは設計図やイラストを見せてもらった。当初の開店は5月31日、マチャのカレンダーには『キムラ珈琲OPEN!』と書き込んであった。もっとも実際開店したのは、大安吉日の6月2日だった。でもマチャはその日を待たずに他界していた。
 5月に入って、1日には長男の豊明が帰ってきて4日までいた。この間、マチャとは何回も顔を合わせている。また次男の朋伸は駅西に銀行の支店があるので、病院とは近いこともあって、時々様子を見に出かけていたようだ。この5月のGWには、以前なら私達夫婦と子供達3家族とが何処かで集まる企画を立ててくれたものだが、もうそのような機会は来ないのだろうか。親子の情もさることながら、兄弟の情というのはまた親と違った絆を感ずるものらしい。長い最長7日というGWも過ぎ、8日の土曜日は終日庭の掃除をした。ツツジの花が終わったあと、その萎れた花を外すのにはかなりの手間がかかるが、きれいになると新緑が実に清々しい。終わっていつものごとく私は夕方病院へ出かけた。酸素の流量が多くなったとのこと、少し息遣いが荒いのが気になる。それに対処するためか安楽療法を始めるという。どういう治療なのか皆目見当がつかないが、身体が楽になるというのであれば、それも一つの選択だが、ただ食は細るとのことだった。食べたくなくなるのだろうか。そしていつもの如く、一度家内と自宅へ帰ることに。そして家内は再び病院へ。
2.マチャとの別れと彼岸への旅立ち
 翌日の9日は日曜日、少し遅れたが朝1時間のウォーキングに出かける。家に着いたときに家内から電話、誠孝の容体がおかしいので、直ぐに病院へ来るように、朋伸が迎えに行くからと。午前8時頃だったろうか。急いで身繕いして病院へ。マチャはベッドに半分くらい上体を起こして寄りかかっていた。見たところ、そんなに切羽詰ったような様子は見られないものの、息遣いは荒く苦しそうだ。細君の千晶と次男の勇貴も着いた。長男の将太は野球の対外試合があるとかで中学校へ出かけたとのこと、学校へ連絡して、次男の朋伸が迎えに行く。誠孝の次男の勇貴は永久の別れを察したのか、父の傍を離れないで泣いている。千晶が誠孝に「将太は明日から楽しみにしていた修学旅行」だと言うと、誠孝は「行ってもよい」と言う。微かな笑みを浮かべたやさしい顔をしている。千晶とは何度も抱き合って「ありがとう」「アリガトウ」を何度となく口にしていた。もう長くはないと感じていたのだろうか。でも声はしっかりしている。心から吐露された言葉には真心が感じられる。私もいつも別れるときのように手を握った。いつもは「また来るから元気でナ」と言うのだが、この日は大きなマチャの手で強く握り返されて「ありがとう」とマチャに言われてしまった。
 誠孝は職員には感謝の気持ちを忘れないようにと、平生からくどいほど口にしていたと聞いたことがあるが、正に付け足しではなく本当に心と体とが一体になっている感がする。酸素マスクが外れそうになって、目張りをする。長男の将太が着いた。将太の顔を見るなり、「修学旅行に行って来いヤ」という思いやり、涙が出る。将太や勇貴ら子供達には「スマンナア」と言い、妻や両親や兄弟には「アリガトウ、ありがとう、有難う」と、何の愚痴を言うこともなく、達観した悟りの境地とも受け取れる姿、私だったらこうは行くまい。既に仏になっているのだろうか。苦しいのだけれど苦しい表情も見せずに、我が子ながら実に見上げたものだ。
 午前9時頃、女の看護師が右腕に筋注を1本した。予め誠孝からお願いしてあったとか、麻酔薬なのか、睡眠薬なのか、暫くして誠孝は静かに目を閉じた。主治医の先生は学会に出張だとか。代わりに若い医師が、その医師に眠りは浅いのか深いのかと聞くと、浅いとのこと。その1,2分後だったろうか、福岡社長が見えられた。耳元で「ジョウム」と呼ばれて、誠孝は一瞬目を開けた。奇跡ともいえる2秒だった。でも口は結んだままだった。もし注射する前だったら、どんな会話が交わされたろうか。でも誠孝から発せられる言葉は、「有難う」と「お世話になりました」だったろう。「本当にお疲れさんでした」がみんなからのはなむけの言葉だ。
 心肺機能のモニターはナースセンターにあるが、やがて心肺停止の連絡が入った。肉体の苦しみは永遠の眠りにつくことで開放されたようだが、この注射は何となく死亡幇助のような気がしてならなかった。午前9時5分、医師は心肺停止と瞳孔散大を確認し、御臨終ですと。こうして誠孝は彼岸へ旅立った。死因は肺炎ですと。剖検しますかと言われたが、断った。40年と5月と5日の命であった。生前元気なときに、せめて還暦まで、かなわなくてもせめて50歳まで仕事をしたいと言っていたが、40年を駆け抜けて、親より先に他界してしまった。
 でもマチャは皆から可愛がられ、慕われ、頼りにされ、十分立派な悔いのない道を歩き、世を渡ってきたと思う。偉かったと心から褒めてやりたい。私達は誠孝と呼ぶよりは、小さい時から愛称の「マチャ」と呼んできた。これは家族だけではなく、同窓生も皆「マチャ」と呼んでいたし、親しい間柄の人だったらやはり「マチャ」だったようだ。何となく響きがよい。
 実家に来ても仕事の話は一切しなかった。時々国内国外へ出張した折に求めた土産の品を持って来てくれた。そんな折にマチャが飲むのは「鏡月」、実家にはしっかりキープしてある。マチャそれを私が愛用している大きな厚手のグラスに入れ、それにレモンの櫛切りを入れ水で割る。マチャはいつも私には同じグラスにレモン汁を加え、「山楽」を満たしてくれる。こんなことをしてくれるのはマチャだけだった。
 誠孝は新しく名刺ができても親にくれることはなかったが、私の両親の遺影と妻の両親の遺影の前には必ず名刺を置いていってあった。誠孝が亡くなって初めて何枚かの名刺を目にした。最後の一番上に置いてあった名刺には、株式会社フリークスコアの常務取締役・開発本部長という文字が刷り込まれてあった。
 木村誠孝、愛称「マチャ」は、安らかに眠っているような寝顔、声をかければ「オー」と言って起きてきそうな様子。何も言い残さず、ただ感謝、感謝のみを口にして、永久の旅に発ち、彼岸へ往った。合掌。享年40。