2014年5月16日金曜日

「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(3)

(承前)
3.「蕎麦ふじおか」を信州飯綱高原へ移転し開店 平成21年 (2009)
 住所:〒 380-0888 長野県長野市上ヶ屋 2471-2066 TEL : 026-239-2677
 平成21年(2009) 7月、信州黒姫高原で20年間営んできた蕎麦屋「ふじおか」を、同じ信州の飯綱高原へ移転した。南に信越五山の飯縄山を望むゆるやかな斜面に、洒落たロッジ風の建物を建てた。環境はというと、黒姫では高原の林の中、どちらかというと静かで暗い印象を受けたものだが、飯綱の方は同じ高原の林の中だが、明るく開放的な雰囲気、建物も窓を大きく採ってあり、したがって店内は明るく光に満ち溢れている。高い天井、窓からは四季折々の高原の景色を居ながらにして堪能することができる。何とも贅沢な環境である。そして部屋にはグランドピアノが鎮座し、CD が聴ける装置も置かれている。営業時に音楽が奏でられることはないが、休日には音楽好きな二人のこと、この空間で寛ぎ楽しむのだろうか。また5月に訪れた時は、外にはまだ雪が残っていて、室内では薪ストーブが赤々と燃えていた。このような素晴らしい環境にあるのだが、ただ唯一の難点は、すんなりこの店へ辿り着けないことである。上信越国立公園内ということもあって、やたら広告看板を出せないこともこれに拍車をかけている。
 黒姫から何故飯綱へ移転したのか、その真意はよく知らないが、一説には温暖化の影響もあって、黒姫ではいわゆる霧下蕎麦を期待出来なくなったのではとも聞いている。ところで飯綱へ来て、黒姫で使っていた白木のせいろが傷んできたこともあって作り直すことに。ところで、20年前に作ってくれた中川清司さんはその時人間国宝になられていた。しかしお願いして再び作って戴いた。そして出来上がったせいろは、以前のものに比して幾分小振りで、うすく透明な漆がかけられていたという。それを手にして彼は、このせいろに負けない立派なそばを打たねばと思ったという。それにはこれまでよりももっと細く打つようにしようと思ったという。そのためには、玄そばの風味をさらによく引き出すために、蕎麦を挽く際に粉の粒子を幾分粗くするようにしたという。しかし言うは易く行なうは難しで、目指すべき理想のそばは一朝一夕で簡単にかなうものではない。こうして彼は日々鋭い解析力と高い技術でもって格闘し、より高い進化した「ふじおか」のそばを目指しているという。宮下氏の言によれば、「ふじおか」の主の目下のテーマは「水をはじく、より強靭な麺体を持つそばを打つこと」であるとか、それにはより厳密な水回しが肝要とのことだ。彼は常に前へ進み、常に「これから」という先を見続けている62歳である。それにしても私がこの5月に飯綱でお会いした藤岡さんは、まだお若い好々爺という感じ、気品のある奥さんとは実に似合いの夫婦である。

「蕎麦ふじおか」の案内
● 名 刺:比較的詳しい?案内地図と案内内容が刷られている。
● 営業日:金・土・日・月曜日
● 営業時間:2名以上で予約の上、11時30分に入店して下さい。
● 入店制限:10歳以下の方の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろそば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席 数:18(原則として相席なし) 4人掛け3脚、6人掛け1脚。

4.品の価格の変遷(1991.12 〜 2014.4) 単位:円
● せいろそば:1000 ー 1200 ー 1300 ー 1400 ー 1500 ー 3000
● おかわり:800 ー 800
● そばがき:700 ー 800
● そばぜんざい:800 ー 1000
● お酒 (越後大吟醸酒 [鄙願]):1000 ー 1200 ー 1500
● ビール:500 ー 600
 最初の数字は黒姫 (1991.12) での価格、最後の数字は現在 (2014.4) の価格。

「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(2)

(承前)
3.「ふじおか」を信州黒姫高原へ移転 平成元年 (1989)
  住所:長野県上水内郡信濃町野尻字山桑 2090-28
 「ふじおか」について記している二人の著者がここを初めて訪れたのは、共に偶然にも開業2年後のことである。私たちが初めて訪れた時もそうだったが、道端に目につかない実に小さな標識があるのみで、林の中に建つ山荘風の蕎麦屋に辿り着くのは至難なことだった。それほど外観は蕎麦屋らしくなく、高床式の建物は一見その辺りに散見される別荘かペンションに見える。
 こうしてここでは地元黒姫の何軒かの農家と契約して蕎麦を栽培してもらい、収穫した蕎麦はその場で脱酸素剤を入れて真空パックにし、地下の大きな冷蔵貯蔵室で1年分保管する方式を採り、玄そばを毎日使う分だけ製粉する。それには先ず汚れやゴミを磨き落とし、玄そばをサイズによって5段階にふるい分け、黒い外皮を脱穀機や皮むき機で取り除く。すると甘皮が登場する。この「丸抜き」を石臼で挽き製粉するのだが、この気の遠くなる仕事を全部彼一人でこなした。でもこれだとどんなに頑張っても1日50人分、せいろ百枚が限度だという。そしてそばは製粉までが一番の大仕事で、本当に良い蕎麦粉が出来てしまえば、もうそばは出来たも同然と仰る。また地元の蕎麦を使うのは、蕎麦はあまり移動させない方が良いとの考え方による。こうすることによって、四季を通じて常に素晴らしい味と香りと色をたたえた蕎麦粉が出来る。彼がまだ小学生の時に、担任の先生が「幸福ってどんな色だと思いますか」との質問に、ある女の子が「それはうぐいす色のような気がします」と言ったのを聞いて、どんな色なのかを調べたという。彼はこの蕎麦粉の色を見て、もっと淡い緑色なのだが、この色こそ彼女が言った幸福色そのものに違いないと思ったと述懐している。
 彼は「そば」に関しては一家言を持っている。新そばは必ずしも一番美味しくはないと、暫く寝かせて2月頃が最も美味しいとも、もっともそれは彼の保存方法によっての条件なのだろうが。また、そばは打ちたてが一番とよく言われるが、これは必ずしも当たってはいなくて、多少寝かせた方が美味しいとも。打ちたてのそばは確かに芬香はあるが、その香りは粗野であり、味わいも角があるから、少し寝かせた方が、良質な味と香りがじんわりと出て、旨味のバランスがグッと良くなるとも。私が初めて寄ったのは平成15年 (2003) であるが、この時主に甘皮の付いた丸抜きを見せてもらったが、とても爽やかな浅緑色をしていた。
 彼にそばの師匠はいない。独自で試行錯誤を繰り返しながら「ふじおか」のそばは作られてきた。しなやかで弾力があり、爽やかな喉越しをもつ細身のそばは、香りがあり、それに気品が備わった清冽な味わい、そして自然で美しい彼の郷愁ともいえる幸福色。しかし彼はこれに満足せずに更に進歩したいともらす。
 彼はこの甘皮の優しい浅い緑色の清々しさを感じさせるそばを盛りつけるのに相応しい白木の「せいろ」を、京都の道具屋に特別に注文して作ってもらっている。この精巧な清々しいせいろを作ったのは中川清司氏、この方は後に重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝となられた方である。彼のこだわりをひしひしと感ずる。
 こうして彼は黒姫高原の店で20年間切り盛りしてしてきたが、この間いろんな新しい試みをした。
● そばがき:生来蕎麦屋で出されるそばがきは、整形したものをそば湯やお湯を張った器に入れて供していたが、彼はお湯と共に火にかけながら柔らかく練り上げて器に載せて供したが、そのふんわりとした食感は実に素晴らしい。皿に直接盛るスタイルは彼の考案とかで、ふじおかのそれは正に芸術品である。
● そば湯:これまでのそば湯には、そばを茹でた釜の湯を用いていたが、彼は蕎麦粉をお湯で溶いて、そばのポタージュスープのようにして供した。最近ではこのようなタイプのそば湯を別製で出す店も多いが、これはふじおかで彼が始めたことである。
● そば汁:もともとふじおかでは江戸前の辛口のつゆだったが、あるときを境に激変して薄いつゆになったという。これは辛口のつゆにどっぷりとそばを浸けて食べる客が圧倒的に多くて、これではせっかくのそばの風味が損なわれてしまうので、どっぷり浸けてもそばの味わいが失われないように、薄めのつゆに調整したのだという。
● 打ち粉:自家製粉を標榜している蕎麦屋は多いが、打ち粉だけは粉屋から仕入れるのが通常なのだが、彼は打ち粉も自家製粉したものを使用している。
● お酒:出されるのは越後大吟醸酒の「鄙願」のみ。私が初めて訪れた折、大吟醸酒にしては吟醸香がまるでしないので訊ねたところ、いろいろ試して、そばの微かな香りを妨げない大吟醸酒はこのお酒のみと言われ、恐縮してしまったことを思い出す。
 その他で特記すべき事柄は次のようである。
● 名刺:私は黒姫での店での名刺は知らないが、当初作られた名刺には主の藤岡優也と妻のみち子の両名の名前が並んで記され、それには「楚楚凛然」と刷り込まれていたという。
● 営業:休日は水曜と木曜日。予約は不可。入店は11時半からと13時の2回のみで、15時に閉店。しかし後には11時半1回のみの入店、13時の閉店となった。したがって、どうしても入店したかったら、開店2時間前位に着いて、順に就く必要があった。このことは、何とエラそうな蕎麦屋なんだというような風評が立つ因ともなった。
● 入店制限:10歳以下の入店は不可。したがって親子連れは入れない。
● お品書き:せいろさおば(お代わり可)、そばがき、そばぜんざい、お酒(鄙願)、ビール。
● 席数:18席(原則として相席なし)。
● 現状:この黒姫の店は飯綱への移転後もまだあるものの、お聞きしたところでは、屋根が一部落ちたと話されていた。(2014.4.20)

2014年5月15日木曜日

「蕎麦ふじおか」の主 藤岡優也の軌跡(1)

 この一文を書くにあたり、直接藤岡氏に取材して記事を書いた宮下裕史と佐藤隆介の文章を参考にした。参考にした図書と項目は次の通りである。
 (1)佐藤隆介:うまいもの職人帖:平成9年 (1997) 文芸春秋:藤岡優也の蕎麦道
 (2)宮下裕史:そば読本:平成6年 (1994) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
 (3)宮下裕史:新そば読本:平成11年 (1999) 平凡社:ふじおか 藤岡優也
 (4)宮下裕史:「そば」名人:平成22年 (2010) プレジデント社:「蕎麦ふじおか」藤岡優也

0.藤岡優也の読み
 佐藤隆介は「ふじおか・まさなり」、宮下裕史は「ふじおか・ゆうや」としている。

1.生い立ちから開業まで
 彼が生まれたのは昭和27年 (1952)、伊勢松阪 (三重県松阪市) である。小さな時から手先が器用で、それには自信があり、よく一人でプラモデルを作ったりするのが好きで、誰よりも上手に作れるという自負があった。そんなこともあって、学校生活はあまり好きでなかったし、団体行動が苦手で、いつも僕は落ちこぼれだと思っていたという。中学生になってからは音楽に傾倒するようになる。初めフォークソングに熱中していたが、やがてクラシック音楽に魅力を感ずるようになる。高校へ入ると、クラシックギターを習うようになり、夢中で練習に励むようになり、すごく腕を上げた。高校の教科では物理と化学が大好き、そして音楽好きで手先が器用、それで団体行動が苦手なこともあって、将来はエンジニアになろうと決心するに至る。
 大学は京都の同志社大学の工学部機械工学科を目指した。同志社大を選んだ大きな理由は、同校のマンドリン部が西の雄であったこと、東の雄の明治大学のマンドリン部も有名だったが、演奏曲目はポピュラー音楽をメインにしていたのに対し、同志社では伝統的にイタリアの古典音楽を演奏するのがしきたりだったことによる。彼は大学へはクラブ活動をするために行っていたようなものだったと述懐していたという。そしてこのマンドリン部で将来の伴侶となる信州下諏訪出身の「みち子」さんと知り合うことになる。そして定期演奏会のための合宿で初めて志賀高原へ行き、その時味わった信州の清澄な雰囲気に、とても魅せられたという。
 ところで彼は、将来エンジニアになることを夢見ていたから、可能性のあるいくつかの企業でアルバイトをした。ところが裏表のある人間関係にさらされて疲弊し、企業の一員として身を置くことは無理ではないかと思うようになる。そんな折、信州戸隠の宿坊でアルバイトをする機会が訪れる。宿坊では客に手打ちそばを振る舞うが、そのそばは農家の主婦が打っていて、彼はここで初めてそばと接触することになる。そういう農家の女達の蕎麦談義を聞きながら、また自らもそばを打ち、毎日そばを食べながら、次第にそばに取りつかれるようになったという。そして生来手先が器用なこともあって、いつの間にか、門前の小僧はいっぱしのそば打ちになっていたという。しかしそばに興味を抱いた彼はこれに満足することなく、もっと旨いそばを求めて、そばを食べ歩き始めるようになる。
 ところで、彼は特定の蕎麦屋での修業経験は全くない。1ヵ月ばかり東京でそば打ち教室に通った以外は、もっぱら本を読み漁って試行錯誤を繰り返したという。彼の信条は、「そばはつなぎを入れることなく打たねばそばとは言えない」であり、しかも「旨くなければならない」ということである。

2.故郷の松阪市でそば店「ふじおか」を開業 昭和55年 (1980)
 彼の故郷の松阪市は「うどん圏」である。そんな故郷で、彼は28歳の時に、同志社大のマンドリン部で知り合った信州出身の奥さん、みち子さんと2人で、そば店「ふじおか」を開店することになる。類まれな器用さは、エンジニアとしてではなく、そば職人としてその能力を発揮することになる。彼が開業した当時、松阪市にはそば屋はなかったのではないか。私の2011年の資料を見ると1軒のみ、三重県自体、そば屋は全国でも4本の指に入る位の少なさである。そういう雰囲気の中での開業は大変な苦労を伴っただろうことは想像に難くない。ましてや良い蕎麦粉を手に入れること自体、難しかったのではなかったか。
 そこで開業3年後の昭和58年 (1983)、旨いそばを打つべく、彼は自家製粉を始めた。未知の世界への突入である。そして打つのは蕎麦のみの「せいろそば」のみ、ただこれには何故かセットにして、今日も出されている「野菜料理」と「漬物」を付けるスタイルにこだわり、それは今日でも確立されたスタイルとして踏襲されている。また「十歳以下の子供の入店をお断りします」としたのも、この頃からだという。しかしこのような彼の孤高のスタイルは、地方の都市では受け入れられるはずもなく、うどん圏の人達の嗜好とは次第に乖離してゆくことになる。  

2014年5月9日金曜日

シンリョウのツブヤキ(5)4月の花

 4月に家の庭 (露地) で咲いた木々と草を記した。植物名は五十音順に記した。
 植物名は、種名・別名(科名 属名)の順に記した。
 植物名の後の〔外〕は、外国原産で安土桃山時代以降に日本に渡来した帰化植物であることを示す。
 また〔栽〕とあるのは、外国原産で明治以降に観賞用などで日本に移入された園芸栽培種である。
1.木 本
 アオキ(ミズキ科 アオキ属) アケボノ(ツツジ科 ツツジ属) アンズ(バラ科 ウメ属)
 イロハモミジ・タカオカエデ・イロハカエデ(カエデ科 カエデ属)
 ウメ(バラ科 ウメ属) オオムラサキ(ツツジ科 ツツジ属)
 クサイチゴ・ワセイチゴ・ナベイチゴ(バラ科 キイチゴ属)
 コブシ・ヤマアララギ・コブシハジカミ(モクレン科 モクレン属)
 サンショウ・ハジカミ(ミカン科 サンショウ属) シナレンギョウ(モクセイ科 レンギョウ属)
 ドウダンツツジ(ツツジ科 ドウダンツツジ属) トサミズキ(マンサク科 トサミズキ属)
 ナラガシワ(ブナ科 コナラ属) ヒイラギナンテン(メギ科 ヒイラギナンテン属)
 ヒサカキ(ツバキ科 ヒサカキ属) ヤブツバキ・ツバキ・ヤマツバキ(ツバキ科 ツバキ属)
 ヤマブキ(バラ科 ヤマブキ属) ヤマフジ・フジ(マメ科 フジ属)
 ユズリハ(ユズリハ科 ユズリハ属) ライラック・ムラサキハシドイ(モクセイ科 ハシドイ属)
 以上 20種(10科 14属)
 注:アンズやウメは中国原産で、古くに果実として日本に渡来し、栽培された。
2.草 本
 アオマムシグサ(サトイモ科 テンナンショウ属)
 アメリカスミレサイシン〔外〕(スミレ科 スミレ属) イカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
 オニタビラコ(キク科 オニタビラコ属) カタバミ(カタバミ科 カタバミ属)
 カラスノエンドウ・ヤハズノエンドウ(マメ科 ソラマメ属)
 カンスゲ(カヤツリグサ科 スゲ属) コスミレ(スミレ科 スミレ属)
 スイセン(ヒガンバナ科 スイセン属) スズメノカタビラ(イネ科 イチゴツナギ属)
 スズラン(ユリ科 スズラン属) スミレ(スミレ科 スミレ属)
 セイヨウタンポポ(キク科 タンポポ属) セントウソウ(セリ科 セントウソウ属)
 タチツボスミレ(スミレ科 スミレ属) ダッチアイリス〔栽〕(アヤメ科 アヤメ属)
 タネツケバナ(アブラナ科 タネツケバナ属) ツボスミレ(スミレ科 スミレ属)
 ドイツスズラン〔栽〕(ユリ科 スズラン属) トキワイカリソウ(メギ科 イカリソウ属)
 トキワハゼ(ゴマノハグサ科 サギゴケ属) ノミノフスマ(ナデシコ科 ハコベ属)
 ハコベ・コハコベ(ナデシコ科 ハコベ属) ハルジオン〔外〕(キク科 ムカシヨモギ属)
 ヒメオドリコソウ(シソ科 オドリコソウ属) ヒメスミレ(スミレ科 スミレ属)
 ヒメツルソバ・カンイタドリ〔外〕(タデ科 イヌタデ属)
 ヒメリュウキンカ(キンポウゲ科 キンポウゲ属) フキ(キク科 フキ属)
 フタバアオイ・カモアオイ(ウマノスズクサ科 カンアオイ属)
 ヘビイチゴ(バラ科 ヘビイチゴ属) ホウチャクソウ(ユリ科 チゴユリ属)
 ミスミソウ・ユキワリソウ(キンポウゲ科 ミスミソウ属)
 ミミナグサ(ナデシコ科 ミミナグサ属) ムラサキケマン(ケシ科 キケマン属)
 以上 35種(21科 27属)