1.はじめに
私の家内は昭和 17 年 (1942) 生まれ、もうとっくにリタイアしてよい年齢なのだが、まだ野々市市内の F 医院に事務職員として勤務している。この医院はついこの間までは病院としての位置付けだったが、事情があって有床の医院となった。家内は今この医院で家内の後継者の養成に心血を注いでいる。
さて、病院だったときには薬局があって、患者には院内で調剤をして渡していたが、今の時代の流れとして、院外処方に踏み切ることになった。そうなると、これまで初代院長の時から勤務していた女性の薬剤師の方は病院を去らねばならないことになった。家内は病院創設時からの就労で特に勤務が長いが、薬剤師の H 嬢もかなり長い。これまで家内と H 嬢とは昵懇なこともあって、私も加わって何度か一緒に旅行をしたことがある。そんなこともあって、彼女が辞めるにあたって、もうきっと最後になるだろうから1泊泊まりで3人で温泉にでも行かないかと提案したところ、すんなりと同意が得られた。日はやりくりして5月 13 日 (水) と 14 日 (木) にした。
宿は私に任すと言う。私はよく家内と秘湯と称する宿へよく出かける。秘湯の宿と言ってもピンキリで、1泊料金が8千円もあれば4万数千円台もあったり、また果たしてこれが秘湯?といったものまであったりで様々である。当初新穂高温泉のとある広大な露天風呂がある旅館を予約したが、何となく彼女と家内からはクレームがつき、それで彼女も訪れたことがあり受けも良かった満山荘に予約したところ、ようやく GO のサインが出た。
今年の5月はことのほか沢山の行事があり、私もこの旅行のほかに、小中学校の同窓会や大学の同窓会、親戚の親睦旅行など1〜2泊の旅行が集中していたり、また連休には子供の家族らが家に集まったりで、5月は日程がかなり窮屈だ。ところで家内は4月末から風邪気味で健康が優れなかったが、連休中は子供らがいたこともあって、微熱が続いていたものの、風邪だろうから薬を飲んでいれば何とか納まるだろうと高をくくっていた。6日に長男も横浜へ戻り、家内は7日から勤務に出たが、診察を受けたところ、左肺上葉に肺炎の影があり、即入院となった。37℃ 台の微熱が 10 日以上も続いていて、何となく不安だったが、その不安は的中した。今はとにかく本復することが先決であって、H 嬢の退職慰安の温泉行きに暗雲が立ちこめることに。でも本人は旅行までには本復するだろうとのことで、私もキャンセルはしなかった。しかし家内は酸素吸入の必要もあるとのこと、とても7日の入院での本復は無理とあって、対応をどうするかが問題となった。そこで満山荘に問い合わせたところ、人数の変更は前日でもいいですとのこと、家内にこのことを伝えると、私は行けない代わりに、医院の受付に居る K 嬢にお願いしたとのこと、、それで彼女の費用は全部こちら持ちということにしてあるので、そのようにして下さいと念を押された。こうして H 嬢の退職慰安温泉行きは家内抜きの道中に。年齢は、私は 70代、H 嬢は 50 代、K 嬢は 30 代で、一見父親、娘、孫娘という風に見えなくもない。
〔閑話休題〕
金沢赤十字病院の内科部長をされていた F 先生が、住まわれていた野々市町に F 内科外科病院を開設されることになった。先生の奥さんはバドミントンを趣味とされていて、家内も大好きだったことから、町でのクラブの創設にも互いに深く関与していた。病院の創設に当たって、何かと開設を手伝うことになり、創設後も事務担当職員として勤務することになった。創設時は長男の先生が院長で内科担当、次男の方が事務長、三男の方が外科担当と、身内でしっかり固めた布陣での開設だった。家内が院長先生や院長夫人と親しかったこともあって、私も親しく付き合わせて頂いていた。ところで院長先生は登山やスキーが大好きで、休日にはよくナースたちを集ってよく山へ出かけられていた。私も誘われてよく便乗させて頂き出かけたものだ。私はスキーはあまり得手ではなかったものの、登山は金沢大学山岳部に籍を置いていたこともあり、先生の意向を受けて常に皆さんのリード役をしていた。私は韋駄天のキーさんと言われていたこともあり、足は随分と達者だった。そしていつの頃だったろうか、薬局に H 嬢が入局し、この山行きにも加わってきた。彼女は華奢な身体ながら、上りも下りも大変達者で、私の後にくっついて歩くほど、これは他の病院のスタッフ達とは雲泥の差だった。聞けば秋田の出身とか、彼女とはそれ以来の長い付き合いである。因みに私の家内はこの病院の山行きやスキー行には全く参加したことがない。バドミントン一途といったところだった。
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