2016年2月29日月曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その2)

3.初めてのみちのく蕎麦ツアー 平成12年 (2000) 5月12〜14日
 このツアー名は私が勝手に書いたもので、もちろん正式なものではない。ところで当時の会の機関誌「探蕎」には、波田野会長は「山形蕎麦街道ツアー」と書いておいでだ。この企画がどうして立ち上がったのかは、会長や発起人の方々がお骨折り頂いたことに間違いはないのだろうけれど、やはり既に何度か山形方面へ出かけられていた久保さんの尽力があったからこそ、実現したのではないかと思う。この辺りの経緯は発起人である前田事務局長ならご存じと思う。このツアーには、波田野会長以下、発起人の北島、前田、松原副会長のほか、50音順に、太田、木村、久保夫妻、越浦、小塩、砂川夫妻、松原夫人、松田の14人が参加した。
 またこのツアーが行われるに当たっては、企画立案が大事で、2泊3日のツアーをスムースに行なうには、寄るべき蕎麦屋は久保さんに一任するとして、宿の確保と行事は北島さんが担当された。この方は NTT に勤務されていた方で、当時はまだ普及していなかったインターネットを駆使して情報を収集され、宿の確保もさることながら、山形の地での「蕎麦道楽衆」なる同好の士との交流までも企画して頂き、実に実り多いツアーになった。そしてもう一つは足のこと、これも大変重要な要素の一つである。これに呼応して参加されたのが砂川の旦那だった。この方は日本通運の長距離大型トラックの運転の経験があり、東北までの往復など朝飯前、私たちはこの朗報に欣喜雀躍したものだ。素晴らしい頼もしい助っ人が現れたものだ。お陰で楽しいマイクロバスでの探蕎の旅が約束されたも同然だった。
・初日 5月12日(金)
 朝6時に久保さんの先導車とマイクロバスで金沢を発ち、昼には山形県南陽市の「荻の源蔵そば」に着いた。ここは茅葺きの百姓家、明治24年の創業とか、現在は4代目、自家製粉、生粉打ち、メニューは「生そば」のみ、その評価は「これはそばだ」という感じだった。次いで大石田町の「七兵衛そば」を予定していたが、北島さんの尽力で、今宵の宿、天童市の「滝の湯ホテル」で、蕎麦道楽衆との懇談と道楽衆の打つそばを賞味できるとかで、ホテルへ直行することに。ホテルでは直営の広重美術館で作品を鑑賞し、会議室では天童道楽衆代表から「そばは人と人とのつなぎ役」というテーマでの講演と交談、実に有意義な素晴らしい企画だった。そして道楽衆手打ちの「そば」は夕食時に出されたが、なかなか格調の高いそばだった。それに美人女将にお酌までして頂き、感激してしまった。
・二日目 5月13日(土)
 先ず久保さんの提案で、寒河江市にある慈恩宗本山の瑞宝山慈恩寺を訪れた。その後村山市にある「あらきそば」へ直行。北島さんの話では、予約の開店11時前には着かないといけないとのこと、丁度予定の時間に筑後150年という茅葺きの百姓家に入れた。板張りに白木の座卓、正に田舎家そのもの、今は三代目と四代目が打ち手、出し物は「板そば」オンリー、「うす毛利」は「昔毛利」の半分とは言え、普通の量の倍はあろうかという盛り、秋田杉の柾目の板箱に、箱一杯に広げられていて、何とも圧巻である。流石名にし負う絶品だ。波田野会長は折よく二代目と談笑されたが、その中で何故「あらき」なのかの問いには、先代が荒木又右衛門の大ファンで、名の又三にもその一字が入っていて、代々襲名とかだった。
 その後松原副会長の提唱で、山形市の庄司屋へ入る前に、山形市の菓子処佐藤屋へ寄り銘菓「乃し梅」を求め、また重要文化財となっている旧山形県庁舎と議事堂の「文翔館」を見学した。次いで山形では最も古い江戸末期の創業の「庄司屋」へ。現当主は21代目で、出されたのは十一 (といち) の更科そば、ここの変わりそばも素晴らしかろうと思う。そして今宵の宿「ホテルサンルート米沢」へ。そして荷物を置く間もなく近くの「粉名屋小太郎」に出かけた。現当主は12代目、直に店の来歴を聴かせて頂いた。そばは更科系の白くて細めのそば、老舗の味をとくと味わった。翌朝聞いた話では、夕食後、米沢牛を求めて「吉亭」なる店まで出かけたという豪の者が5名いたという話を耳に挿んだ。
・三日目 5月14日(日)
 ホテルを出て市内にある米沢城址へ、そして園内にある上杉神社に参拝した。それから南下し、大峠を越えて福島県へ、そして喜多方市では「大和川酒蔵北方風土館」を見学し、次いで山都町宮古地区にある「なかじま」に向かう。山深い処で13軒の農家が蕎麦を提供している。ここでは朱塗りのお椀に水が入っていて、それに蕎麦を浸して食べる「水蕎麦」が名物、初めての貴重な体験だった。こうして初回の素晴らしいみちのくへの旅は終わった。  

2016年2月27日土曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その1)

1.久保健一さんのこと
 探蕎会の副会長をされていた久保健一さんが、平成27年 (2015) 年11月17日に急逝された。9日前の11月8日には探蕎会の11月の例会を、久保さん縁のそば屋でもある金沢市泉丘の「やまの葉」で行なったというのにである。この店は出来立ての頃に久保さんから初めて紹介され、私も家内と何度か出かけたことがある店である。この日もお酒がすすんで、心地よい酔いのあと、久保さんと談笑しながら、終わっては家内の車でご自宅までお送りした。その日も御当人はお元気そのもので、車の中でもいろんなお話を伺い、実に愉快だった。それなのに十日を待たずして幽界に赴かれるとは、今でもとても信じられない。久保健一さんのご冥福を心からお祈りしたい。
 久保さんは探蕎会が発足した平成10年 (1998) に入会なさっている。しかし蕎麦に関する知識や巡られた蕎麦屋の数は、当時発起人でもあり、全国を巡って「蕎麦屋無責任番付」を出された波田野会長にも勝るとも劣らない程、あちこちの蕎麦屋を行脚されていた。後年探蕎会で蕎麦屋巡りをするに当たっては、会員の面々は正に久保さんには「おんぶにだっこ」の状態だったと言えよう。石川、富山、福井の北陸三県は言うに及ばず、遠く東北、信州、東海、秩父、伊豆、関西、山陰の各地へ遠征できたのも、久保さんのアドバイスに負っていたと言っても過言ではない。しかも久保さんは正に俗にいう「人間ナビゲーター」だった。今でこそ車にカーナビは標準装備だが、当時は地図が頼り、でも久保さんは正に人間ナビであって、的確に私たちを目的地に案内してくれる能力を持ち合わせておいでた。
 一方で、久保さんの奥さんは斎藤茂吉に心酔されていた歌人なこともあって、度々お二人でみちのくへ出かけられていたようだった。特に奥さんは茂吉の故郷である山形には格別な想いを持っておいでたようである。そして会の機関誌の「探蕎」にも、時折詠まれた短歌を寄稿されていたが、格調の高い素晴らしい歌で、とても私たちには及びがつかないレベルなのに驚かされたものだ。
 思うに会員の諸氏は、私も含めて、こんな素晴らしい先達がおいでたからこそ、みちのくはもとより、全国津々浦々にある多くの旨い蕎麦屋へ立ち寄ることができ、かつその土地々々の名勝旧跡にも接することができたと思う。これは会の発起人の波田野会長の理念にも合致するものであって、それを久保さんは巧みに調和されて私たち会員を導いて下さった。久保さんの他界による損失は真に計り知れないと言える。まだまだ私たちを導いてほしかった。
 久保さんはまた音楽にも造詣が深かった。自宅にはグランドピアノがあり、LP や CD を沢山所蔵されており、立派なオーディオを持たれ、そして時には合唱団の指導・指揮をもなされていた。また奥さん共々オーケストラアンサンブル金沢 (OED) の定期会員にもなっておいでて、私もよく定期演奏会ではご一緒になった。そして時には東京や大阪までも演奏会に出かけられていたという。しかしもうお会いすることは叶わない。本当に、惜しい方を亡くしてしまった。

2.久保さんとのみちのくへの旅のはじめに
 久保さんには、ずいぶん多くの地域の蕎麦屋へ連れていって頂いた。久保さんという先達がおいででなかったら、地元はともかく、全国津々浦々のこれだけ多くの蕎麦屋へは、とても私一人では行けなかったろうにと思う。ここに久保さんとのその足跡の全てを網羅することは困難であるが、その概況は現寺田会長がまとめられた「探蕎会の足取り」を見れば、その足跡をほぼ辿ることができよう。ここでは、私が久保さん夫妻が特に思い入れが深かったのではないかと推察する、山形・福島への5回の探蕎行を振り返って、そのみちのくへの旅の一端を思い浮かべてみようと思う。 
 ところでこの5回のみちのくへの探蕎行には、会員は久保さん夫妻をも含めて、延べ 27 人が参加している。参加人数は、1回目14人、2回目14人、3回目13人、4回目12人、5回目8人である。勿論久保さん夫妻は全回に参加されておいでるが、ほかに共々5回全部に参加したのは、小塩、松田と私の3人、3回参加されたのが、砂川、前田、石黒、和泉の4人、そして2回参加された方が6人、1回のみの参加が12人であった。もっともこの中には、今は既に退会されている方も含まれている。正に人間ナビと称された久保さんあっての「みちのく蕎麦屋巡り」であったと述懐している。