2015年6月16日火曜日

子うし会で五島列島を巡る(その3)

3.5月28日(木)
3−1 頭ヶ島 (かしらがしま) 天主堂(有川地区)
 ホテルからの出立は8時、表に出ると上五島観光交通の超大型のバスが玄関先に、訊くとマイクロバスが出払ってしまってこのバスしか都合できなかったとか、こんな経験は初めてだ。そして車腹には大きく「上五島から世界遺産を」と赤いトッピング、同じ意味の英語はコバルトブルーで。現在頭ヶ島天主堂が世界遺産暫定リストに登録されているとかである。
 今日初めに訪れる頭ヶ島は以前は離島だったが、この島に上五島空港を造るため、中通島と頭ヶ島との間に頭ヶ島大橋が架橋され、この島へは車で来られるようになった。でも肝心の空港は一昨年廃港になり、現在は滑走路が残っているのみである。大橋を渡った後、山道を教会まで下りるのだが、車の交差はかなり厳しい。でもどうやら着くことができた。
 天主堂への参道は綺麗に掃き清められていて、ガイドの説明では、毎日信者さんが掃除されているとか。この天主堂は、迫害が終わって再びこの島に戻り住んだ信者たちが、自ら切り出した砂岩を積み上げて造ったという全国でも珍しい石造りの教会で、この地で生まれた教会建築の先駆者である鉄川与助の設計・施工によって、明治 43 年 (1910) に着工し、大正6年 (1917) に完成している。現在国指定重要文化財に指定されている。内部に入ると、花柄模様のついた折り上げ天井が素晴らしい特徴、そして朝日夕陽がステンドグラスを通して教会内部に射すように設計されている。教会内のステンドグラスの意味合いを初めて知ることになった。
3−2 坂本龍馬ゆかりの広場(有川地区)
 中通島へ戻り、東海岸を南下すると程なくこの広場に着く。この地は坂本龍馬が組織した貿易商社の洋式木造帆船ワイル・ウエフ号が嵐で難破した潮合崎 (しおやざき) を望む地にあり、当時龍馬は体調不良で乗船していなかったが、後にこの地を訪れ、遭難現場に近い江ノ浜に若き志士たち 12 人の慰霊碑を建てたという。後年地元の人達により、龍馬が訪れたこの地に、「龍馬ゆかりの地」と記された碑、ワイル・ウエフ号の舵取り棒のレプリカ、そして彼らの冥福を祈る龍馬の大きなブロンズ像が遭難現場を向いて建てられた。
3−3 矢堅目 (やがため) 公園と青砂ヶ浦 (あおさがうら) 天主堂(上五島地区)
 この日の出発点だったホテルの前を通り、北上して矢堅目公園へ行く。途中あの鉄川与助が初めて設計・施工したという冷水教会の前を通った。矢堅目公園の海岸には実に特徴的な巨大な円錐形の奇岩が聳えていて、複雑な海岸線が実に美しい。一方公園からは奈摩湾を挟んでこれから訪れる青砂ヶ浦天主堂を望むことができる。車は急な道を海岸近くまで下って製塩所へ。ここでは海水を直接巨大な釜で煮詰めて製塩している。私はここで矢堅目名産の「つばき茶塩」を求めた。上五島では今資生堂と提携して大々的に椿油の生産をしているとか。
 湾の口まで戻り、対岸の青砂ヶ浦天主堂へ。この建物も鉄川与助の手になるもので、煉瓦造りの教会堂で、平成 22 年 (2010) には献堂 100 周年を迎えたという。ここも国指定重要文化財になっている。天主堂の高みにはステンドグラスが嵌め込まれた丸窓があり、朝日と夕陽が教会内に射し込むように設計されている。現在上五島には 29 の教会があるという。
 再び戻って奈摩湾の口にあるダイニング厨房「万里波」で昼食をとる。どっさりの海の幸ばかり、全部を食べ尽くせなかった。なかでも大きな鮑の刺身は圧巻だった。
3−4 若松大橋から若松港へ(若松地区)
 若松港からの出港が午後1時とかで、早々にバスで中通島西岸を南下する。小1時間ばかりを要する。当初は若松大橋を車から降りて歩く予定だったが、時間に余裕がなく割愛した。この若松大橋は中通島と若松島の間の若松瀬戸に架かる橋で、平成3年 (1991) に開通している。高みにある大橋からはこれから行く若松港が眼下に見えている。そして程なく若松港に着いた。既にチャーター舩は待っていた。
3−5 キリシタン洞窟「キリシタンワンド」(若松地区)
 ここは若松島の西南にある断崖絶壁の地にある洞窟で、奥行き 50 m 幅7m もの空間があり、明治のキリシタン迫害の際に信者らが隠れ住んだが、沖を通った舩に朝食を炊く煙を見つけられて捕らえられたという。明治 42 年 (1967) 、入口の崖上に高さ4mの十字架とキリスト像が建てられた。今でも舩でしか行けないこの地を目にして手を合わせた。そして舩は1時間後に福江港に着いた。こうして3日間の充実した五島列島探訪の旅は終わった。
 福岡空港から伊丹へ小松へ、来年の傘寿の会での再会を期して別れた。

子うし会で五島列島を巡る(その2)

2.5月27日(水)
2−1 大寳寺(玉之浦地区)
 今日のガイドさんは五島市ふるさとガイドの会の前会長の男性、通年だと年に十数回のお呼びだが、今年はもうそれを越えているとか。ホテルを9時に出て西進し、玉之浦地区に入る。大寳寺は島の西南にあり、ホテルからここまで 45 分を要した。僧空海が元和元年 (806) に唐から帰国した際に、この地の沖に漂着したと言われ、ここで初めて布教したことから、この寺は西の高野山とも称され、寺は国指定重要文化財になっている。境内には空海の書とされる「いろはにほへと…」の書の石碑が建っている。本堂にも上がってお参りし、御朱印を頂いた。 
2−2 井持浦 (いもちうら ) 教会ルルドと大瀬崎灯台(玉之浦地区)
 大寳寺から半島の狭い山道を 20 分ばかり西へ進むと井持浦教会ルルドがある。この教会の左手にある崖にはマリア像が安置されており、聖母マリアが 18 回も現れたと言われる南フランスのルルドの町にあるマッサビルの洞穴を模して造られた洞穴があり、そこからは霊泉が湧き出ている。この教会は明治 32 年 (1899) に創建されたという。この日も多くの人達が訪れていた。私もこの有難い泉の水を飲ましていただいた。志を納める。  
 その後半島を少し北の方へ進み、途中から折れて南下すると、東シナ海に突き出た断崖の突端に建つ白亜の大瀬崎灯台を見下ろせる場所に出る。高台から見下ろすと実に素晴らしい景観だ。この灯台は日本の灯台 50 選にも入っており、ここから見る東シナ海の水平線に沈む夕日は格別とか、日本の夕陽 100 選の場所でもある。素晴らしい自然を堪能した後、玉之浦町にある大瀬崎ルルド観光レストラン「NEWパンドラ」で昼食をとった。
2−3 魚藍観音展望台(三井楽地区)
 昼食後、島の西端につけられた国道 384 号線を北上する。荒川温泉を過ぎ更に北へ進むと、五島の代表的な砂浜がある風光明媚な海水浴場が隣接して2つ現れる。初めに眼下に見えたのは玉之浦地区北端にある頓泊 (とんとまり) ビーチ、次いで見えたのは三井楽地区の南端に位置する高浜ビーチで、広い入江に広がった白砂の浜は実に美しい。特に後者は日本一美しいと言われる砂浜で、日本の渚 100 選、日本の海水浴場 100 選に選ばれている。そしてバスはこの2つの海水浴場を眼下に見下ろせる魚藍観音展望台へ。青い海、白い浜、背後の山々の緑、晴れた空の色、白い雲、これは正に一幅の絵になる構図である。
2−4 辞本涯の碑と、「道の駅」遣唐使ふるさと館(三井楽地区)
 東シナ海を見ながら更に北上し、島の北西端に達すると、そこには「辞本涯」と書かれた大きな記念の石碑が建っている。ここは空海が延暦 23 年 (804) に唐へ舩で渡る際の日本見納めの地とされていて、この字句は空海の書から引用されたもので、「日本の最果ての地を去る」という意味だそうだ。碑は突端にある柏崎灯台と沖に浮かぶ姫島を背に、空海の遺徳を顕彰するために、地元有志により建立されたという。
 柏崎から東海岸沿いに 30 分ばかり南下すると、長崎県では離島初という道の駅に着く。もうここには何でも有りの店。また遣唐使ふるさと館と称しているだけあって、遣唐使についてのかなり詳細な説明があるコーナーも設けられている。ここには高い展望台もあり、立ち寄った。
2−5 水之浦教会と魚津ヶ崎 (ぎょうがさき) 公園(岐宿 (きしく) 地区)
 国道を東進すると進行方向右手に水之浦教会が見えてくる。この教会は明治 13 年 (1880) に創建され、昭和 13 年 (1938) に改築されたという教会で、木造教会としては最大規模と言われ、車窓から見たのだが、白い天主堂と尖塔が実に印象深かった。車はここから左折して魚津ヶ崎 公園に向かう。ここは遣唐使舩の日本最後の寄港地として、古くは肥前風土記にも記載されていて、その説明板が置かれていた。広い草地となっていて、キャンプもできるという。
 これで福江島の観光が終わり、上五島へ向かうため福江港へ。ここで長崎港と福江港を結ぶジェット舩に乗り、上五島の中通島にある奈良尾港へ向かう。
2−6 ホテルマリンピア(中通島 有川地区)
 海路 30 分で奈良尾港に着き、ホテル差し回しの車でホテルへ向かう。この中通島は新上五島町では最大の島で、その西岸を南北に通る国道 384 号線を通って約1時間、この町最大というホテルマリンピアに着いた。早速展望風呂で汗を流し、着替えてレストランで夕食。魚などの刺身はともかく、一人に1尾の立派な伊勢海老の姿造りが出されたのには本当に度肝を抜かれた。五島名産の牛、豚、それに地の焼酎、十分に堪能できた。

子うし会で五島列島を巡る(その1)

 昨年の子うし会 (昭和 11 年子年4月〜昭和 12 年丑年3月に生まれた野々市小・中学校同窓生の会)で、今年は五島列島を巡ろうということになった。昨年の 10 月に案内を出したところ、男5名、女5名、計 10 名の参加が見込まれた。しかし会員の年齢が 80 歳に近いこともあって体調不良の方が出て、最終的には男4名、女3名の旅行になった。催行日程は、平成 27 年5月 26 日 (火) 〜 28 日 (木) の2泊3日である。
 五島列島は長崎県の西の洋上にあり、全島が西海国立公園になっている。行政区画では、下五島は五島市、上五島は大部分が南松浦郡新上五島町であるほか、一部の島は西海市と佐世保市に属している。

1.5月26日(火)
 石川在住の5名と北陸交通の添乗員の方は小松空港から、大阪在住の2名は伊丹空港から、共に福岡空港で合流し、乗り継いだプロペラ機で福江空港 (愛称は五島つばき空港) に降り立った。福江島は五島列島では最大の島で、空港は島の南東、鬼岳の麓にある。
1−1 鬼岳(福江地区)
 空港には五島バスのマイクロバスが来ていた。25 人乗りとあって、ゆったりの観光となった。この日案内してくれたのは、五島市ふるさとガイドの会の女性、島のことについては実に詳しく、しかも退屈させない案内、本当に恵まれた旅行になった。 
 初めに訪れたのは鬼岳、標高は 317m 、全山芝生に覆われたボタモチ状の火山。駐車場に車を停め、あとは徒歩で山の中腹へ。山頂への中程にはなだらかな場所があり、そこには展望台や休憩所がある。東側には海が広がり、西側には島中央部にある山々が連なって見え、眼下には空港も見えている。広い芝生の広場には、あちこちにニワゼキショウが咲いていた。
1−2 鐙瀬 (あぶんぜ) 熔岩海岸(福江地区)
 鬼岳の南に位置するこの海岸は、鬼岳噴火での熔岩が海に流れ込んで出来た地形で、黒い荒々しい岩礁が十数 km にわたって続いていて、その景観を高台にある展望所から眺めることができる。ソテツが沢山自生していて、何故か古い葉を切り落とすのだが、するとその箇所にいろんな植物が寄生し、変わった独特な景観を醸し出している。
1−3 武家屋敷と福江城 (石田城) 跡(福江地区)
 車は福江の市街地に戻る。ゆっくり武家屋敷通りをバスで通りながら、説明を受ける。屋敷はすべて石垣塀で囲まれていて、塀の上には丸い小石が積み重ねられている。この小石の効能は、賊が塀を乗り越えようとすると崩れて乗り越せないことのほかに、この小石を武器代わりにしたとか、通りにある石垣はみな同じような構築だった。そして今宵の宿の近くにある福江城跡、我が国唯一の海城で、外国船の襲来に備えて江戸時代に築城されたとか。城の周りには堀が巡らされている。
1−4 堂崎天主堂(福江地区)
 市内を通り抜け、島の東北端にある、五島では最も古いという堂崎教会へ行く。この教会は明治 13 年 (1880) にマルマン神父によって初めて建立された堂崎小聖堂が原型とか。その後明治 21 年 (1888) に着任したペルー神父は、資材の一部を遠くイタリアから取り寄せ、明治 37 年 (1904) に着工し、明治 41 年 (1908) に現在の赤煉瓦造りのゴシック様式の建物が完成し、殉教した日本 26 聖人に捧げられた。平成 20 年 (2008) には、堂崎天主堂献堂 100 周年祭が行なわれた。資料館には、聖ヨハネ五島 (日本 26 聖人) 関係の資料、弾圧され表向きには仏教徒を装った隠れキリシタン (元帳) の資料、五島で生まれ、その後ブラジルで宣教した中村長八神父関連の資料等々が展示されている。また教会前の庭には、聖ヨハネ五島 ( 26 聖人の一人)の殉教像、アルメイダ (ザビエルの鹿児島上陸の後、五島でキリスト教を布教した宣教師 ) の碑、マルマン神父とペルー神父と子供たちの碑が置かれている。県指定有形文化財。
 現在下五島には、福江島に 14 、久賀島に2、奈留島には3、計 19 の教会がある。
1−5 カンパーナホテル(福江地区)
 現在五島列島では最も大きいホテルで、福江港に近い東浜町にある。ホテルの展望風呂からは、福江の町並みや福江城跡を眺めることができる。夕食は地魚の造り、煮付け、蒸し物、酢の物、ソテー、五島牛の陶板焼き、御飯は五島米、留椀は五島うどんと、すべて五島の産物のオンパレードだった。

2015年6月9日火曜日

軽井沢へ行こまいかい(その3)

(承前)
3−2 軽井沢レイクガーデン(南軽井沢地区)
 朝食後に歩いたグループは、コテージから再びホテルまで徒歩で行く。午前11時過ぎ、ホテル前に回送された車に乗り、車はホテルより南下する。行き先はレイクニュータウンにあるレイクガーデンとか、そこには何があるのだろう。目的地にある広い駐車場に車を停めて入口へ.エントランスには石造りの門と噴水、子供たちがはしゃぐ。パンフレットを見ると、大きな池の中にはウッドランドと称する島があり、対岸とは架け橋やめがね橋で結ばれている。池を巡る小径のほか、ウッドランドにも多くの小径が巡らせれている。私たちは入って右方向へ。すると初めにフレンチローズガーデンに出くわす。でもまだ花は咲いていない。ローズシーズンは6月19日〜7月20日とか、今はクレマチスが咲いていた。めがね橋を渡って睡蓮の池へ。小さな池だが、睡蓮の植わっている水面にはカルガモの親子が、子ガモが親ガモの後についていく微笑ましい光景に見とれる。
 小径を辿ってウッドランドへ。ここは起伏に富んだ地形になっていて、小川もあり小山もあり、この場所には内外の山に自生している沢山の宿根草や灌木が植わっている。羊歯も多い。ベニシダだろうか。山手ではタニウツギの赤い花が満開だった。高みから振り返ると、樹間から浅間山が見えている。そして樹下にはヤグルマソウが白い花を付けていた。ウッドランドを一通り周回して架け橋を渡って池を周回する径のレイクサイドパスへ出る。この辺りには水辺の植物が群生しているのだが、まだ花は咲いていない。
 池を周回していると、オオデマリが沢山咲いている場所があった。これだけ咲いているとなかなか壮観である。マロニエ(セイヨウトチノキ)も淡い紅色の花を付けていた。フレグランスパスを抜け、ウッドランドの湖岸を通って、めがね橋を渡りイングリッシュローズガーデンへ、薔薇が咲く季節ならばさぞ壮観だろう。これでレイクガーデンを一巡したことに。時間は正午過ぎ、土産を求め、車へ戻る。
3−3 旧軽井沢商店街
 旧市街に戻り、町営駐車場に車を停め、三叉路になった場所で午後3時に集合することにして、それぞれが街へ繰り出す。私たち第1世代は昼食場所を求めてうろうろ、それでとあるカレー屋に入り昼食をしたが、余り美味くなかった。その後土産を求めてそぞろ歩く。前に欅の木がある店では、オーソドックスな軽井沢名産の菓子を、そして次に訪ねた腸詰屋、この店は高島夫妻が昼食に入った店とか、ユニークな腸詰めもさることながら、食事も提供するとか、彼らは旅慣れている。腸詰めの試供品をいろいろ食べ、ワインのお供にと4点ばかり求めた。豊富な品の数々、高山の田舎にあるキュルノンチュエを思い浮かべた。でもあそこでは試食は出来ない。皆が揃ったところで車に戻り、お茶を飲みに。
3−4 ホテルマロウド軽井沢(新軽井沢地区)
 このホテルは旧軽井沢と軽井沢駅の中間に位置している。ここのロビーでお茶を飲もうという趣向である。テーブルと椅子がセットされ、皆さん思い思いの飲み物を注文する。私は紅茶、やはりコーヒー嗜好の方が多い。子供らはかくれんぼをして遊ぶ。帰りの新幹線「はくたか」の乗車時間は 16:56、午後4時にホテルを後にする。
3−5 新幹線の車窓から見えた山々
 2日間の軽井沢での周遊もあっという間に終わってしまった。東京へ帰る石田夫妻を見送って、我々も下りのホームへ。今度も 10 号車、しかも進行方向左側の窓側、車窓から山を眺めるには絶好の席だ。見えた山々を順に列挙してみよう。
 軽井沢駅を出て佐久平駅 (通過 ) 付近からは八ヶ岳 (百名山)、上田駅付近からはなだらかな美ヶ原(百名山)が見える。上田駅から長野駅にかけては、遠く後立山連峰の蓮華岳(三百名山)、針ノ木岳(二百名山)、爺ヶ岳(三百名山)、鹿島槍ヶ岳(百名山)、五竜岳(百名山)、唐松岳(三百名山)が、近くには高妻山(百名山)の先鋒が白く輝いて見える。長野駅を過ぎると飯縄山(二百名山)が、飯山駅を過ぎ上越妙高駅付近に来ると、黒姫山(二百名山)、妙高山(百名山)、火打山(百名山)が、糸魚川駅付近からは雨飾山(百名山)や焼山(三百名山)、黒部宇奈月温泉駅付近からは白馬岳(百名山)や僧ヶ岳、富山駅から高岡駅の間からは、北から順に毛勝山(二百名山)、劔岳(百名山)、奥大日岳(二百名山)、立山(百名山)、鍬崎山(三百名山)、薬師岳(百名山)が連なって見える。そして終点の金沢駅近くからは医王山(三百名山)の双子峰が見え、こうして軽井沢への旅は終わった。

軽井沢へ行こまいかい(その2)

(承前)
2−3 ハルニレテラス(星野エリア)と白糸の滝(北軽井沢地区)
 昼食は塩沢地区とは中軽井沢駅を挟んで北に位置する星野エリアへ、ここには清流湯川と自生するハルニレに囲まれた小さな街並があり、個性豊かな15もの店舗が並び、いろんな色の透明なビニール傘が吊るされていて、木漏れ日が路を彩っている。高島夫妻からの伝言で、昼食は個々でとの指示、私たち第1世代の5人は中国家庭料理店の希須林へ、軽井沢ビールも飲みながら、それぞれ好みの中華麺を食し寛ぐ。昼食を終え、三々五々林の中の渓流沿いの遊歩道を歩き、駐車場へと戻る。
 再び車上の人となり、車は国道 146 号線を北上して峠の茶屋へ、ここが白糸の滝の入口になっていて、ここからハイランドウェイを東進すると、白糸の滝の駐車場があり、ここから約 150m 歩くと滝に達する。土曜日とあってか、かなり沢山の観光客が来ている。滝の規模は、高さ3m、幅 70 mとかで、湾曲した岸壁に数百条の地下水が白糸の様に落ち、涼しげだ。白糸の滝という滝は、全国 12 県に 14 滝あるそうだ。中でも有名なのは、富士山の南西麓の富士宮市にある滝で、こちらは高さ 20 m、幅 200 m、水量毎秒 1.5 t とかである。しかし規模はともかく、滝の近辺や水が流れ下る渓谷は気分を晴々とする効果があるようだ。午後3時近く、来た時とは別のルートで宿舎の軽井沢プリンスホテルへ向かう。
2−4 宿泊は軽井沢プリンスホテルのコテージ
 ホテルに着いてチェックインしてやれやれ、午後4時頃だったろうか、大浴場にでも入ってリラックスしようと思っていたら、それには千数百円を追銭しないといけないとか、それだと断念せざるを得ない。こういう宿泊のスタイルは初めてとあって一寸戸惑う。暫く待って敷地内を運行する電動カーに乗って所定のコテージへ。この敷地内には夥しい数のコテージがあり、これだと暗くなってからでは行き着けないのではと思ったりする。成人女性6人は 969 号棟、そして2家族と男性は 952 号棟、私は後者である。
 さてこれから皆さんはショッピングプラザで買い物とか、私と石田の旦那は飲み物とつまみを買ってコテージで皆さんの帰りを待とうということに。それでその軍資金を貰いに家内のいるより山手にあるコテージへ、とかく家内と離れていると少々不便である。その後電動カーを呼び寄せホテルへ、私たち二人はホテルの売店で蕎麦焼酎と氷とつまみを仕入れ、我々のコテージへ戻った。2時間半ばかりの間、テレビを観ながら、他愛もない話をしながら、飲みながら、つまみながら、皆さんの帰りを待った。
 皆さんが帰棟し、午後7時過ぎにはホテルのレストランへ、全員がほぼ一緒のグループになってテーブルに座る。2人で焼酎を1本空けたこともあって、少々酩酊していた。料理はステーキがメインディッシュのディナーコース料理、初めに白ワインで乾杯したのは記憶にあるが、後はあまり定かではない。でも和気あいあいの雰囲気の中でお開き。午後9時過ぎだったろうか、コテージへ帰り、朝まで爆睡だった。

3.第2日 5月31日(日)
3−1 ホテルの朝
 朝目が覚めてコテージ内にある風呂に入る。旅館やホテルでは、部屋付きの風呂には滅多に入ったことはないが、汗もかいていたのでお湯を張って浸った。ゆっくり入って気分も爽快になり、外へ。芝の緑と木々の新緑、空気までもが爽やかで、暫くの間逍遙する。今日も天気は上々だ。
 朝食の時間になりホテルへ。レストランはかなり混み合っている。暫く待った後案内され、テーブルに着く。朝はバイキング形式。皆思い思いの食材をチョイス。でも私の場合、どうしても欲張り根性が出て、余計にものを取り過ぎてしまう。でもあの朝粥は美味しかった。
 食事の後、コテージまで歩こうということになり、下のコテージのグループは三々五々歩き出す。子供達は元気でどんどん先へ進む。凡そコテージの方角は見当ついていたこともあって、程なくコテージに着くことができた。電動カー利用の女性軍とほぼ到着が同じだったので、驚かれたのが印象的だった。さて、今日は何処へ行くのだろう。

2015年6月8日月曜日

軽井沢へ行こまいかい(その1)

1.はじめに
 私の家内の姉が嫁いでいる宮田家の一族郎党の会で京都へ行くことになり、二人共々中学校の先生である高島さん夫妻が主宰して、その当時娘さんが京都大学に在学していたこともあって、2012 年の初夏に「京都に行くまい会」を立ち上げ、私たちにも一緒にどうですかと誘われて参加したのが最初で、これまで都合3回ご一緒させていただいた。そして今年もどうですかと声がかかり、同道することになった。ただ今年の行く先は京都ではなく軽井沢とのことであった。しかもこれまでは全行程マイクロバス使用だったが、今回は3月 14 日に開通した北陸新幹線を利用するとか、これは私にとっては初の乗車機会である。日程は平成 27 年5月 30 日 (土) と 31 日 (日) の2日である。参加者は、第1世代 (旧姓西野の3姉妹とその配偶者) の5名、第2世代 (旧姓宮田の3姉妹とその配偶者) の5名、第3世代 (第2世代の子とその配偶者) の4名、第4世代 (第3世代の子) の3名の、計大人 14 名、幼児3名である。これまでも4世代混合の旅行がこの会の特徴だったとも言える。

2.第1日 5月30日(土)
2−1 軽井沢へ
 集合は5月 30 日の午前8時に金沢駅改札口、案内では 8:20 発の「はくたか 556 号」に乗車、軽井沢へは 10:25 着とのことである。家を午前7時に出た。途中道路が混んでいるのを心配してのことだが、割とスムースに着くことが出来た。家内は在来線の改札口で待とうとしたが、新幹線の改札口は別、初めてだとどうも戸惑う。それと開業以来、客から苦情が多かったのは、女子トイレとコインロッカーの少なさ、家内も時間があるのでトイレに出かけたが、余りにも遅いので訊くと、やはり長蛇の列だったとか。私は駅地下にあるコンコースにあるトイレに行ったが、こちらはガラガラ、案内にも問題がありそうだ。
 8時近くになり皆さんお揃い、高島さんから乗車券と特急券が渡される。旦那さんはラフな格好だが、この4月からは金沢市内のとある中学校の校長先生、でも二人とも大変フランクで親しみが持てる。ただ惜しいことに、旦那の方は少なくともこの1年間はお酒と縁を切らねばならないとか、気の毒至極である。
 ホームへ上がると列車は既に入っていて、我々が乗る 10 号車の後に続く 11 号車のグリーン車、最後尾 12 号車のグランクラスの内部を外から見ながら列車のノーズを見に。車体先端から上部にかけての鮮やかなブルーと側面のアイボリーホワイトのコンビネーションがとても良く、皆さんこの先頭車両をバックに記念写真を、我々も御多分にもれずである。
 列車に乗って出発を待つ。出発のベルが鳴るわけでもなく、あの出発のメロディーもドアが閉まった車内では聞こえず、外を見ると列車は動いていた。これは評判通りだと感心した。少なくとも発車の振動は全く感じられない。ただ停車のために減速する時には、これから停まるのだなあとの感じがした。「はくたか」は各駅停車で軽井沢まで 10 回の停車、ほとんどノンストップの「かがやき」とは東京までだと 30 分の差がある。しかしこの静かさと振動の少なさは、従来線では全く思いもよらないことだ。
 車窓の景色も楽しみにしていたが、この日は靄っていて、近景はともかく遠景の山々は見えなかった。定刻に軽井沢駅に着いた。何回か訪れているが、列車に乗って降り立ったのは初めてだ。天候は晴れ。高島夫妻と共にトヨタレンタリースへ。ワゴン車2台を借り受ける。運転は高島夫妻、二人とも運転は抜群の腕前、感心する。
2−2 塩沢湖・軽井沢タリアセン(塩沢エリア)
 車に分乗して初めて訪れたのが塩沢湖、何処へ行くのか全く知らされず、実にミステリーな旅だ。広い駐車場に車を停め、その名も泥川という一級河川を渡り、ゲートへ。パンフレットを貰い入場する。林を抜けると、右手に塩沢湖、でもあの泥川から水を引いているのか、水は濁っている。でも見ると沢山の鯉、それに鴨。この鴨は軽鴨ではなく、羽切りをした真鴨のようだ。鯉が餌をねだって群がってくる。歩いてボート乗り場へ。子供連れの2組がスワンタイプの足こぎボートに、ぐるっと 30 分の周遊である。私たちは手元にある入園券で入られるというペイネ美術館へ向かう。ところが入館には追加料金が必要とか、私も入園の折に、件の美術館のみ入れますと聞いていたのに意外な対応、交渉したが埒が開かず、パスすることに。後でこれは入園時に入館券を渡すのを忘れたとのこと、料金は精算してもらったようだった。湖に浮かぶ中の島では結婚式も、パンフレットによると、タリアセンとは、ウェールズ語で「輝ける額」を意味し、同名の吟遊詩人もいたとか。