2015年1月29日木曜日

福岡勝助さんの突然の他界(その1)

 福岡勝助さんは、私の三男の故木村誠孝が当時常務取締役だった㈱フリークスコアで代表取締役社長をしていた福岡悟氏の父上である。現在この会社は㈱レガシーホールディングスといい、主にインターネット・漫画喫茶「サイバーカフェ フリークス」をコアとしていて、主に北陸3県、東北、中京を中心に30店舗程を展開している。この店舗展開に当たっては、息子は社長の右腕となって、一時は米国や中国にも店舗を展開する計画もあったやに聞いていた。そんなこともあってか、平成22年に息子が肺癌で他界した後も、息子の細君を社外重役として遇してくれていて、親としては一方ならぬ厚情に心から感謝している。
 1月23日に、会社から社長のお父さんが亡くなったと息子の細君に電話があり、すぐその報は家内にも届き、私は家内から連絡を受けた。いろいろ過分な気遣いをしていただいていることもあり、お通夜と葬儀に出ることにした。24日の新聞のお悔やみ欄には案内がなかったが、25日には案内があり、通夜は25日午後7時、葬儀は26日午前10時とのことだった。25日は日曜日だったので、故三男の息子二人も参列してくれた。場所は加賀市作見町の JA やすらぎ会館、JR 加賀温泉駅に程近い所に位置している。
 喪主は二男の聡 (さとし) とあったので一瞬訝ったが、それは福岡家の事情によることであり、こちらが気に病むことではない。返礼の挨拶状には、喪主の二男、母親 (故人の妻)、長男、長女の名が順に書かれていた。葬儀場で耳に挟んだ話では、2歳上の長男さんは山代温泉でブティックを経営しているとか、3歳下の長女の方は兄の二男さんの会社で取締役として仕事をサポートしているとかだった。喪主の二男さんの手広い商売の関係もあって、生花や供物も多く、また弔問に訪れた人も多く、お通夜には6百人を超える人のお参りがあった。式は檀那寺の真宗大谷派 (お西) の僧侶によって行なわれた。通夜と葬儀の式後、喪主から参列者に挨拶があった。内容は急に亡くなった経緯と、故人の生きざまを語ったもので、かなりの時間が割かれた。興味があったので、その一端を記そうと思う。
(1)父の急逝
 父は昭和7年2月12日生まれの82歳、夫婦二人での生活、共に元気だった。父はことのほかお餅が大好きでよく食べていたが、1月12日に突然餅を喉に詰まらせ、おそらく誤嚥だったと思われるが、それで呼吸が困難になり、更に心臓も停止してしまったという。救急車で病院に運ばれ、蘇生の甲斐があって心臓は鼓動を回復したが、およそ30分も心停止があったこともあって、脳の機能は回復せ
ず、記憶は戻らなかった。その間付きっきりで家族皆で看病したが、10日後の1月22日に息を引き取り、永い眠りについた。看病の間、一途な信念を貫いてきた父の背に、残された家族皆で手を取り合い励んでゆくと約束した。
(2)父の生い立ち
 父が生まれたのは、石川県江沼郡東谷奥村字荒谷 (その後江沼郡山中町荒谷町)、現在の加賀市山中温泉荒谷町である。(注:動橋川の上流にある集落で、現在はこの一帯の加賀東谷地区は国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている)。父が生まれた頃はまだ百世帯ほどが暮らしていて、福岡家は代々林業と炭焼きが生業で、それに少しの棚田があった。父は四男四女の6番目の三男だった。父親は厳格だったが、母親は優しかったという。父親は大勢の家族を養うために、自前で炭を焼けなくなってからは、越前 (福井県) へ炭焼きの出稼ぎに出向いたという。稲は作ってはいたが、狭い棚田で収量は少なく、炭の行商もして虎口を凌いだ。それで戦時中に祖父を荒谷に残して一家は山代へ移った。そして戦後、父は国民学校を卒業してからは、父親の炭売りや田圃の仕事を手伝いながら、子供心に「何が一番お金になるか」を必死で考え、まだ配給制だった電球や米を仕入れ、自分でも商いを始め、少しずつお金を貯めていった。15歳の頃である。その後兎や鶏を飼い、さらに豚を飼育するまでになる。こうして家に生活費を入れながら、父親に内緒でお金を貯めていった。そうして山代温泉の東口の民家から離れた土地を買い求め、養豚の畜舎を建てる計画をした。ところが未成年なので親の印鑑が必要なので父親に相談したところ、大反対され、計画はご破産になった。それで家を出ることに、父18歳の時である。

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