2015年5月24日日曜日

7度目の満山荘は家内抜きで(その3)

(承前)  
3.5月14日(水曜日)
 朝5時に起きて風呂へ行く。昨夜10時から今朝の8時までは男性が桧風呂、岩風呂よりは高みにある。業者に施行してもらっただけに、明るく洗練された感じがする。またの名を「翠嶺乃湯」というとか。内風呂の桧風呂と露天の石風呂とがあり、無加水無加温の単純硫黄温泉が源泉かけ流しで溢れ流れている。淡い乳白色の湯、実にいい気分だ。露天風呂の屋根の庇には、イワツバメの巣があちこちに散見され、しょっちゅう燕が出入りする。でも湯槽の上も飛び交うが、糞が落とされる心配はない。今朝も空は霞んでいて、あの屏風のように連なる雪を頂く北アルプスは霞んで見える。湯から上がって、彼女達にも岩風呂にも入ってきたらと促す。食事は何時からなのだろうか。彼女達が風呂へ行っている間、テレビを観て過ごす。
 彼女達が戻ってきて、私が朝食は何時からと訊くと、食事処には6時半とあるとのこと、びっくりして出かけたが、それは夕食の案内だった。実は朝食は8時からとか、ゆっくり寛ぎ、時間になって食事処「風土」の暖簾をくぐる。朝食はバイキング方式。白磁のトレイに、30種類以上はあろうというふんだんな惣菜からチョイスする。御飯と味噌汁のほかに、野菜類、魚介類、乳製品、肉製品、発酵食品、果物類、玉子、ジュースや嗜好飲料等々、どうしても余計に取り過ぎてしまう。
 食事を終え、精算を済ませて宿を出たのは10時近く、山を下って一路須坂の市街へ、かなり下る。須坂の街へ入って、最初の目的地の田中本家博物館をナビに入力する。
● 豪商の館 信州須坂 田中本家博物館
 前にも一度訪れたことがあるが、今の時期はこの館に江戸時代から明治、大正、昭和と受け継がれてきた雛人形がメインに展示されているという。現在までに 250 点ばかりが残されていて、これらは雛土蔵と呼ばれる専用の土蔵に収納されているとか。展示に10日、収納に20日お要するとか。人形の保存状態は極めて良好で、その時代々々の雛人形の容貌や容姿や飾りは一見の価値があろうというものだ。屋敷は約百米四方あり、周りは二十の土蔵で囲まれていて、この土蔵内に展示の品々が飾られている。展示館を出ると、沙羅の木 (夏椿 ) が植わっている中庭の「夏の庭」 へ、そして「殿様お忍びの門」に通ずる細い蔵の小路を抜けると、池泉回遊式庭園の「秋の庭」へ、ここは大庭と言われ、築山には沢山の紅葉が植わっており、池には悠然と鯉が泳ぐ。大きな枝垂れ桜がアクセントになっている。順路はミュージアムショップへと導かれるようになっており、此処からは紅梅白梅が植わっている表庭の「春の庭」を見渡せる。帰りはこの表庭を横切り、入り口から外へ。それにしても手入れが大変だ。
● 世界の民族美術館と須坂版画美術館
 ナビに誘導されて百々川を渡ったところにある両館共通の駐車場に車を停める。茂みの中の道を通って行くと、瀟洒な建物の民族人形博物館に着く。それにしてもこの時期、木々からは沢山の毛虫がぶら下がっていて、歩くのに難儀する。入り口近くには,新感覚のハートのモニュメントがあり、なかなかユニークである。ここを「恋人の聖地」というのだそうだ。実に面白い試み、顔を出し、何回かシャッターを押した。博物館に入る。今このホールでは、日本最大級と言われる高さ6mもの 15 段に、武者人形 250 体を飾りつけた「五月人形・菖蒲の節句」が展示されている。業者からの出品もあり、実に圧巻である。またほかには小池千枝のコレクションである世界各国の民族人形も常設展示されていた。
 次に再び毛虫がぶら下がっている林の小道を辿り版画美術館へ。この時期入館券は両館共通である。この館でのこの時期の目玉は「三十段飾り千体の雛祭り」で、ホールには、高さ6m、30 段に、豪華絢爛たる 1,000 体もの雛人形が飾られている。私はこれまでこんなに大規模な雛飾りにはお目にかかったことがなく、素晴らしいの一言に尽きる。正に圧倒される凄さである。その後、常設展示されている平塚運一らの版画を観て廻る。ここを出て、同じ敷地内に点在する歴史的建物の脇を抜け、アートパーク駐車場に戻った。
 
 昼近くになり、近くで「そば」でも食べようということになった。手元の地図には松葉屋というそば屋があるが、生憎の定休日。H 嬢に検索してもらうと、松屋というそば屋が。ナビに導かれて着いた店はそこそこの大店、名刺を見ると創業は大正元年とある。店内はかなり広く、昼時とあってかなりの混みよう、私は天そば、彼女らはとろろそば、出来はまずまずの類だった。でも明るく開放的、接客もよく、感じの良い店だった。こうして波瀾に満ちた温泉行きも、喜んでもらって終えることができた。  この日に家内は退院と聞いた。

7度目の満山荘は家内抜きで(その2)

(承前)
2.5月13日(火曜日)
 自宅を7時20分に出ることに。K 嬢は定時に車で来宅した。私の車はハイラックス・サーフ、この車はもう製造中止になっているが、トヨタで整備してもらいながら使用している。排気量は 2600 cc。K 嬢は今軽自動車に乗っているのだが、家内は私が風邪気味なこともあって、もしかして運転を代わらねばならないこともあるかも知れないので宜しくと言われたとかで、私が運転しましょうかとの申し出。これには私も驚いた。それと家内からは、私が運転をしている時は、貴方は後部座席に座って下さいと言われたとも。これはもう一人の H 嬢が私の車に乗る時は何時も助手席に座ることにしていることに起因している。家内の気配りも相当なものだ。
 金沢市の小立野で H 嬢を乗せ、山側環状道路を森本 IC へ。ところで、車の中ではえらく会話が弾み、私はつい森本 IC への導入路を通り過ぎてしまった。私も彼女らも全く気付かず、津幡バイパスへ入る高架橋を通っている時、初めて私は一体何処へ行くのかと疑った。そしてやっと北陸自動車道に戻らねばと気付き、一旦田舎道に下り、再びバイパスに戻り、漸く森本 IC に着けた。その後はひたすら高速道を走り、有磯海 SA で休憩する。昼に近く、ここで昼食をとることにした。暫時休憩の後、彼女のたっての希望もあり、それではと妙高 SA まで運転を任せることにする。運転するに当たって、ギアミッションは、P・B・N・D のラインのみを使うこと、速度は 120 km 以上は出さないようにお願いした。ここからは上越 JCT までに 26 のトンネルがあるが、彼女はトンネルには抵抗がないという。以前に一般車を運転していたせいもあってか、まずまずの運転、時にハンドルがぶれることもあったが、合格点だった。妙高 SA では、間近に仏典での須弥山を思わせる雪を纏った妙高山が端正な姿を見せて聳えていた。
 時間は午後1時半、ここからは私が運転する。小布施に寄ることにし、これまで経験はないが、小布施 PA に入り、スマート IC を抜けて市内に入ることに。市内は平日ながらかなりの混み様、ツアー客が多い印象を受ける。漸く北斎館裏に空き駐車場を見つけ、店で彼女らがお目当ての栗菓子を買い、私も家内からオーダーのあった小布施ワイナリーのワインを求めた。暫時買い物を楽しみ車に戻る。ここで今宵の宿の満山荘をナビに入力し出発する。初めは松川沿いに山田温泉へ、次いで七味温泉口から九十九折れの山道を上り、奥山田温泉へ。今日は空が霞んでいて、晴れた日には望める北アルプスも霞んで見える。
 日本秘湯を守る会の宿「満山荘」に着いたのは午後3時過ぎ、ここは標高 1500 m、今は緑が綺麗だ。いかにも古ぼけた田舎然とした門?を潜り、階段を上がると玄関に達する。入った所は板張りのロビーになっている。案内を告げると、若主人が囲炉裏で沸かした湯でお茶を入れてくれ、先ず一服。チェックイン後は、息子さんに案内されて部屋へ。この部屋はこの前来た時と同じ部屋、早速着替えて風呂へ。この時間帯、男性は岩風呂、女性は桧風呂、前者は館主の老主人の手作り、後者は業者にお願いしたもの、前者は男性的、後者は女性的、泉源は松川渓谷にあり、そこからここまでポンプアップしている。当時20軒で8億円を出資して出来上がったと老主人の堀江文四郎さんが話しておいでた。湯から上がって、部屋で山を眺めながら、持参の神の河で喉を潤す。彼女らも上がってきて、暫し駄弁り寛ぐ。
 午後6時半になり、食事処の「風土」へ。ここの料理は地の野菜や川魚などの旬の食材をふんだんに使った若女将の創作料理が売り物だ。今宵の飲み物にはビールとワインを所望した。この日、平成二十七年五月十三日の「北信濃風春の献立」は次のようだった。
「食前酒」またたび酒。「生湯葉」クコ 柏子 胡椒。「信州サーモンのコンフィー」塩糀 アロエヤングリーワシーサラダ。「地物野菜他とピクルスなど」ビーツとパブリカのソース 蕗味噌マヨネーズ 醤油ジュレ。「牛乳豆富」柚子味噌。「十六穀米スープとドライベジタブル」。「春の天麩羅」蕗の薹 こごみ 山ぶどうの芽 タラの芽 信州りんご 抹茶塩。「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活 人参 ディル (注:ヒメウイキョウ )。「チーズの茶碗蒸し」トマト ねぎ。「大岩魚のジェノバ風ソース」長芋 椎茸 ミニキャロット キウイ生ハム卷クリームチーズ りんごソース。「野沢菜茶漬け」。「りんごあいす りんご赤ワイン煮 マンゴーヨーグルトソース。 (料理 明子)印
 部屋に戻ってロビーで寛ぐ。ベランダへ出ると空気がひんやりとしていい気持ちだ。眼下には長野の市街の明かりが見えている。ハンモック様の吊るされた籠があり、座るとゆらゆら揺れて何とも妙な気分になる。明日は須坂市へ下りて、豪商田中本家の雛飾りと版画美術館の豪華な30段千体の雛祭りと人形博物館の15段の五月人形を観ることに。

7度目の満山荘は家内抜きで(その1)

1.はじめに
 私の家内は昭和 17 年 (1942) 生まれ、もうとっくにリタイアしてよい年齢なのだが、まだ野々市市内の F 医院に事務職員として勤務している。この医院はついこの間までは病院としての位置付けだったが、事情があって有床の医院となった。家内は今この医院で家内の後継者の養成に心血を注いでいる。
 さて、病院だったときには薬局があって、患者には院内で調剤をして渡していたが、今の時代の流れとして、院外処方に踏み切ることになった。そうなると、これまで初代院長の時から勤務していた女性の薬剤師の方は病院を去らねばならないことになった。家内は病院創設時からの就労で特に勤務が長いが、薬剤師の H 嬢もかなり長い。これまで家内と H 嬢とは昵懇なこともあって、私も加わって何度か一緒に旅行をしたことがある。そんなこともあって、彼女が辞めるにあたって、もうきっと最後になるだろうから1泊泊まりで3人で温泉にでも行かないかと提案したところ、すんなりと同意が得られた。日はやりくりして5月 13 日 (水) と 14 日 (木) にした。
 宿は私に任すと言う。私はよく家内と秘湯と称する宿へよく出かける。秘湯の宿と言ってもピンキリで、1泊料金が8千円もあれば4万数千円台もあったり、また果たしてこれが秘湯?といったものまであったりで様々である。当初新穂高温泉のとある広大な露天風呂がある旅館を予約したが、何となく彼女と家内からはクレームがつき、それで彼女も訪れたことがあり受けも良かった満山荘に予約したところ、ようやく GO のサインが出た。
 今年の5月はことのほか沢山の行事があり、私もこの旅行のほかに、小中学校の同窓会や大学の同窓会、親戚の親睦旅行など1〜2泊の旅行が集中していたり、また連休には子供の家族らが家に集まったりで、5月は日程がかなり窮屈だ。ところで家内は4月末から風邪気味で健康が優れなかったが、連休中は子供らがいたこともあって、微熱が続いていたものの、風邪だろうから薬を飲んでいれば何とか納まるだろうと高をくくっていた。6日に長男も横浜へ戻り、家内は7日から勤務に出たが、診察を受けたところ、左肺上葉に肺炎の影があり、即入院となった。37℃ 台の微熱が 10 日以上も続いていて、何となく不安だったが、その不安は的中した。今はとにかく本復することが先決であって、H 嬢の退職慰安の温泉行きに暗雲が立ちこめることに。でも本人は旅行までには本復するだろうとのことで、私もキャンセルはしなかった。しかし家内は酸素吸入の必要もあるとのこと、とても7日の入院での本復は無理とあって、対応をどうするかが問題となった。そこで満山荘に問い合わせたところ、人数の変更は前日でもいいですとのこと、家内にこのことを伝えると、私は行けない代わりに、医院の受付に居る K 嬢にお願いしたとのこと、、それで彼女の費用は全部こちら持ちということにしてあるので、そのようにして下さいと念を押された。こうして H 嬢の退職慰安温泉行きは家内抜きの道中に。年齢は、私は 70代、H 嬢は 50 代、K 嬢は 30 代で、一見父親、娘、孫娘という風に見えなくもない。
〔閑話休題〕
 金沢赤十字病院の内科部長をされていた F 先生が、住まわれていた野々市町に F 内科外科病院を開設されることになった。先生の奥さんはバドミントンを趣味とされていて、家内も大好きだったことから、町でのクラブの創設にも互いに深く関与していた。病院の創設に当たって、何かと開設を手伝うことになり、創設後も事務担当職員として勤務することになった。創設時は長男の先生が院長で内科担当、次男の方が事務長、三男の方が外科担当と、身内でしっかり固めた布陣での開設だった。家内が院長先生や院長夫人と親しかったこともあって、私も親しく付き合わせて頂いていた。ところで院長先生は登山やスキーが大好きで、休日にはよくナースたちを集ってよく山へ出かけられていた。私も誘われてよく便乗させて頂き出かけたものだ。私はスキーはあまり得手ではなかったものの、登山は金沢大学山岳部に籍を置いていたこともあり、先生の意向を受けて常に皆さんのリード役をしていた。私は韋駄天のキーさんと言われていたこともあり、足は随分と達者だった。そしていつの頃だったろうか、薬局に H 嬢が入局し、この山行きにも加わってきた。彼女は華奢な身体ながら、上りも下りも大変達者で、私の後にくっついて歩くほど、これは他の病院のスタッフ達とは雲泥の差だった。聞けば秋田の出身とか、彼女とはそれ以来の長い付き合いである。因みに私の家内はこの病院の山行きやスキー行には全く参加したことがない。バドミントン一途といったところだった。