2017年12月12日火曜日

戌年に因んだ頭に「イヌ」の名の付く植物(2)

(承前)
 ところで、頭に「イヌ」の付く植物は沢山ありますが、でも「イヌ」の意味は「犬」ではなく、「よく似てはいるが、実は違っている」とか「ホンモノではなく、実は役に立たない」ということを示す接頭語として使われているようです。次に先に掲げた文献から、イヌが頭に付く植物を「草本」「木本」「羊歯」の順に植物の名称(50音順)と科名を羅列してみました。

[ 草本 ]  *印は帰化植物 
 イヌアワ(イネ科)、イヌイ(イグサ科)、*イヌカキネガラシ(アブラナ科)、
*イヌカミツレ(キク科)、イヌカモジグサ(イネ科)、*イヌガラシ(アブラナ科)、
*イヌキクイモ(キク科)、*イヌクグ(カヤツリグサ科)、イヌクログアイ(カヤツリグサ科)、
 イヌグンバイナズナ(アブラナ科)、イヌコウジュ(シソ科)、*イヌハコベ(ナデシコ科)、
 イヌゴマ(シソ科)、*イヌコモチナデシコ(ナデシコ科)、*イヌシバ(イネ科)、
 イヌショウマ(キンポウゲ科)、イヌシロネ(シソ科)、イヌスミレ(スミレ科)、
 イヌセンブリ(リンドウ科)、*イヌタデ(タデ科)、イヌタヌキモ(タヌキモ科)、
 イヌトウキ(セリ科)、イヌドウナ(キク科)、イヌトウバナ(シソ科)、
 イヌナズナ(アブラナ科)、イヌニガクサ(シソ科)、*イヌナギナタガヤ(イネ科)、
 イヌヌマトラノオ(サクラソウ科)、イヌノグサ(カヤツリグサ科)、イヌハギ(マメ科)、
 イヌハコネトリカブト(キンポウゲ科)、*イヌハッカ(シソ科)、イヌビエ(イネ科)、
 イヌビユ(ヒユ科)、*イヌヒメコズチ(シソ科)、*イヌヒメシロビユ(ヒユ科)、
*イヌヒレアザミ(キク科)、*イヌホオキギ(アカザ科)、イヌホオズキ(ナス科)、
 イヌミゾハコベ(ミゾハコベ科)、イヌムギ(イネ科)、*イヌムギモドキ(イネ科)、
 イヌムラサキ(ムラサキ科)、イヌヤマハッカ(シソ科)、*イヌヤマモモソウ(アカバナ科)、
*イヌヨメナ(キク科)、イヌヨモギ(キク科)。栽培種にイヌサフラン(ユリ科)。          以上 48種。 

[ 木本 ] 
 イヌウメモドキ(モチノキ科)、イヌエンジュ(マメ科)、イヌガシ(クスノキ科)、
 イヌガマズミ(スイカズラ科)、イヌガヤ(イヌガヤ科)、イヌガンピ(ジンチョウゲ科)、
 イヌグス=タブノキ(クスノキ科)、イヌゴシュユ(ミカン科)、イヌコリヤナギ(ヤナギ科)、
 イヌザクラ(バラ科)、イヌザンショウ(ミカン科)、イヌシデ(カバノキ科)、
 イヌシュロチク(ヤシ科)、イヌツゲ(モチノキ科)、イヌツルウメモドキ(ニシキギ科)、
 イヌニオイバラ(バラ科)、イヌニンドウ(スイカズラ科)、イヌビワ(クワ科)、
 イヌブシ(カバノキ科)、イヌブナ(ブナ科)、イヌマキ=クサマキ(マキ科)、
 イヌマルバヤナギ(ヤナギ科)、イヌムラサキシキブ(クマツヅラ科)、イヌリンゴ(バラ科)。
   以上 24種。

[ 羊歯 ]
 イヌイワガネソウ(ホウレイシダ科)、イヌカタヒバ(イワヒバ科)、
 イヌガンソク(イワデンダ科)、イヌケホシダ(ヒメシダ科)、イヌシダ(コバノイシカグマ科)、
 イヌチャセンシダ(チャセンシダ科)、イヌドクサ(トクサ科)、イヌナチクジャク(オシダ科)、
 イヌワラビ(イワデンダ科)。  以上 9種。 

2017年12月11日月曜日

戌年に因んだ頭に「イヌ」の名が付く植物(1)

 来年は戌年なので、頭に「イヌ」の名が付く植物を検索しました。参考にした図書は次の通りです。
  A. 日本の野生植物(草本) Ⅰ〜Ⅲ 平凡社 (1982)
       B. 日本の野生植物(木本) Ⅰ〜Ⅱ  平凡社 (1989)
       C. 日本の帰化植物         平凡社    (2003)
    D.    山渓カラー名鑑 日本の野草   山と渓谷社   (1993)
       E.    山渓カラー名鑑 日本の樹木  山と渓谷社    (2011)
       F. 写真でわかるシダ図鑑     トンボ出版     (2008)

 接頭語に「イヌ」の名が付く植物はかなりありますが、動物の「犬」に因んだ植物は少なく、私が知っているのは「イヌノフグリ」とその仲間のみでした。イヌノフグリは日本在来の草で、漢字では「犬の陰嚢」と書き、それはこの草の実の形が、小さいながらも犬の陰嚢そっくりなことに由来しています。この草は道端や空き地などによく匍匐して生えていて、春には径4mm 位の紅紫條のある淡紅紫色の小花を沢山付けます。この仲間でほかによく目にするのが「オオイヌノフグリ」と「タチイヌノフグリ」です。2種とも明治初期にヨーロッパから渡来した植物で、今では日本全国に広く分布し、同じく道端や空き地によく見られます。中でも西アジア原産で明治初期に渡来したといわれる「オオイヌノフグリ」は欧州では Bird's  eye と呼ばれ、春には濃い紫條のある径7〜10 mm の青紫 (藍・瑠璃) 色の可憐な美しい花を咲かせ、なかなか美しく、今では雑草のように言われますが、匍匐して一面に咲くと中々壮観です。そしてその果実がなんとも犬の睾丸にそっくりなので笑えます。本当に野に咲く春の使者という感じのする草で、誰しも一度は目にしておいでで、ご存じの筈です。一方「タチイヌニフグリ」はこちらも帰化植物で、全国に広く分布していますが、前2者とは異なり、匍匐せずに立ち上がっています。花は淡紫色で、径は2mm と小さく、目立ちません。田畑や道端では余り目にしませんが、私の家の庭には散見できます。
 以上は通常の植物図鑑にも搭載されているイヌフグリの仲間ですが、平凡社刊の日本の野生植物の草本編によりますと、これらの外に何れもヨーロッパ原産であるコゴメイヌフグリ (花は白色、径は5mm)、ツタノハイヌフグリ (花は淡青紫色、径は4mm)、アレチノイヌフグリ (花は濃青紫色、径は5mm) が掲載されています。これらイヌフグリの仲間はいずれも分類上はゴマノハグサ科に属している草本です。
 その外に動物の犬に因んだ名をもつ草木を調べたところ、「イヌノヒゲ」「イヌノヒゲモドキ」「イヌノハナヒゲ」という植物がありました。前二者は和名で「犬の髭」「犬の髭もどき」、後者は「犬の鼻髭」で、その花の形状が犬の髭や鼻髭に似ていることから付けられたようです。前二者は分類上はホシクサ科、後者はカヤツリグサ科で、三者とも在来種のようですが、私は見た記憶はありません。


2017年12月7日木曜日

同窓会・同志会・同門会・同好会を振返る(2)

5.金沢大学薬学同窓会
 会則を見ると、会員は金沢大学薬学類、創薬科学類と旧薬学部およびその前身校の現・旧教職員、学生並びに卒業生、大学院生並びに修了生ほか、入会を希望する者とある。名簿には草創期の加賀藩卯辰山養生所舍蜜局 (慶応3・1867) の卒業生から現在までの卒業生が収載されている。でも現在この同窓会の大きな母体となっている組織は、旧金沢医科大学附属薬学専門部 (薬専) と金沢大学薬学部の卒業生である。ところで金沢大学薬学同窓会総会は毎年5月の第3土曜日に金沢市で開催されることになっていて、今年は5月20日に 150 年記念式典を兼ねて第54回総会が開催された。
 地域同窓会:石川 → 北陸薬学同窓会
 現在地域同窓会は全国に15あり、石川県でも県内に在住する同窓生が中心となって、毎年1回同窓会を10月に開催してきた。これまで石川県在住の会員のみの同窓会を14回、また富山・福井と合同の同窓会を5回行ってきたが、来年以降は名称を北陸薬学同窓会として北陸3県在住の同窓生で開催することになった。状況を見ると、地域同窓会の活動は必ずしも一律でなく、都会では活発だが、地方ではそうとは限らないようだ。

6.金沢大学医学部十全同窓会
 会則を見ると、会員は特別会員、通常会員、準会員とからなり、特別会員は医学部や附属病院等に勤務した講師以上の教職員、通常会員 (Ⅰ) は、現医学部医学科、大学院医学系研究科及び旧制医科大学出身者、通常会員 (Ⅱ) は他学部もしくは他校の出身者で学位を授与された者となっている。私は昭和50年2月に学位を授与され、以降十全同窓会の会員になっている。ただ通常総会には出席したことがない。
 金沢大学医学部微生物学教室同門会
 この会は微生物学教室に過去もしくは現在在職の教職員と、初代教授の谷先生以降、この教室で学位を授けられた方々とで構成されている。現在名簿に登載されている会員は78名と特別会員が2名、また物故者が104名おいでる。私は2代目教授の西田先生の折に、波田野助教授の下にウイルス研修の教えを乞い、後に先生が癌研究施設 (後にがん研究所) に移られてからは、そこで論文を仕上げた。ところで私が微生物学教室に1年半専修生として在籍したこともあって、学位を授与された折に微生物学教室同門会の端に加えられ今日に至っている。これまで2度同門会の幹事を仰せつかったことがある。この会は3代目教授の中村先生までは毎年開催されていたが、4代目の清水教授の時には一時中断された。しかし5代目藤永教授が就任されて再び復活し現在に至っている。藤永先生は女性だが、同門会の開催には前向きで、同門会誌「楷樹」も創刊された。会は今は毎年開催されている。今年は11月11日に金沢市内のホテルで開催された。

7.金沢大学学友会
 この会は平成23年 (2011) に設立された。構成員は個人会員と団体会員とからなり、個人会員は金沢大学の卒業生及び修了生と教職員であった者、また団体会員は基幹同窓会 (金沢大学及び前身校及び付属校の同窓会) のほか、準団体会員として卒業生で組織する様々な同窓会や団体も加入することができるとなっている。従って私の場合、卒業生としての個人会員のほか、私が所属する金沢大学薬学同窓会や金沢大学医学部十全同窓会は団体会員に、私が関わる金沢大学山岳会は準団体会員になっている。この会の総会は毎年秋に行われる金大祭に合わせて行われる金沢大学ホームカミングデイの際に開かれている。現在の会長は前金沢市長だった山出保氏 (法文学部卒) である。
 第11回金沢大学ホームカミングデイと第7回学友会役員総会
 今年は第54回金大祭に合わせて10月28日に金沢大学角間キャンパス自然科学本館で開催された。この会に案内を受けるのは、76歳以上の卒業生と卒業後50年、45年、40年、30年、20年、10年を経過した方々で、私は現在80歳なので、毎年案内があり、毎年参加している。内容はキャンパスの見学会、歓迎式典、特別講演、役員総会、懇親交流会である。式典の始めに金沢大学校歌(室生犀星作詞、信時 潔作曲) を斉唱するのが習わしとなっているが、なかなか素晴らしい歌で感激する。その後学長や会長の挨拶、大学の現況や留学体験の報告等があった。しかし毎年参加者はそんなに多くはなく、今年は3百名ばかりだった。
 付.金沢大学山岳会
 私が金沢大学に昭和30年に入学した頃には「山の会」というのがあり入会した。その後山岳部に昇格させ、かなり先鋭的な登山も行うようになり、ヒマラヤのハッチンダールキッシュ峰遠征の折の壮行会には当時の金子金大学長も来賓として参加して頂いた。でもその後アンデスやヒマラヤ、冬の北アルプスや白山での遭難もあり、女性も入部できたワンダーフォーゲル部に人気が集中、4K の山岳部は人気がなく、平成17年卒の薬学生を最後に廃部となった。山岳部がある時は山岳部 OB 会だったが、部が消滅して以降は山岳会と称している。現在は北陸、関東、中京、関西の4支部持ち回りで毎年会を開いている。今年は創部60周年記念総会を石川で開いた。現在生存会員は102名である。

2017年12月6日水曜日

同窓会・同志会・同門会・同好会を振返る(1)  

1.野々市町立野々市小学校と野々市町立野々市中学校の卒業生の会
 私達は昭和17年4月に野々市町立国民学校に入学、終戦後は町立小学校になり、義務教育で全員が野々市中学校に入学、昭和27年3月に卒業した。両方合わせた延べ人数は、男28名、女26名、計54名である。現在物故者は男12名、女5名、その外住所不詳の人が男に3名いる。従って連絡可能な同窓生は男13名、女21名の計34名である。まだ野々市町が合併する前のこととて、1学年1クラスだった。私達が卒業した小・中学校は、今は跡地に碑が建っているのみである。中学校卒業後は十年おきに町の公民館で皆が集まっていたが、還暦を期に毎年集うことにし、同窓会の名を「子うし会」とし、加賀温泉での1泊と3泊4日の旅行を交互に行なうことにし、20年間続けてきたが、昨年皆さん数え80歳になったことから、野々市町照臺寺での物故者法要と加賀山代温泉での傘寿の祝いを行ったのを最後に全員での同窓会を終いにし、後は隔年での有志での旅行をすることにした。因みに会での最後の旅行は長崎の五島列島だった。

2.石川県立金沢泉丘 (いずみがおか) 高等学校第7期同窓会
 私達が昭和27年4月に入学した頃は今と違って小学区制で、高校には普通科のほか、商業科や家庭科も併設されていた。泉丘高校には、金沢市では野田中、泉中、高岡中の木倉町以南在住者のみしか入学できなかった。一方野々市中卒業生は、泉丘高のほか、松任高、鶴来高にも進学でき、大部分は泉丘高へ進学した。工業高校は別枠だった。翻って、野々市中学校では戦後間もないこともあり、英語の先生がいなくて、英語の授業は常に自習、ということもあって入学試験は英語と職業の選択、私は農業を選択した。そのお陰で入学してからは英語の授業について行くのが大変だった。こうして私は昭和30年3月に高校を卒業した。同期生は448人、現在物故者は百名を超えている。そしていつの頃からか各クラスの世話人の尽力で、泉丘第7期同窓会が毎年加賀温泉で開催されるようになった。しかし昨年粟津温泉「のとや」での傘寿の宴を最後に全体の同窓会は終了ということになった。ただ有志で泉丘第七期仲良し会と称して今後も存続することになっている。
「耳順会」と「湧泉会」
 前者は平成14年に M 君が20年ぶりに台湾から郷里へ帰るのを期に有志15名ばかりで結成した。以後毎年4回、3ヵ月毎に酒を酌み交わして旧交を温めてきた。しかし三月に一度では旧交を温められないとの意見が出て、5年前から毎月第3土曜日の午前11時半に金沢のとあるホテルで昼食を兼ねて集まることにし、こちらの名称は「湧泉会」とした。そしてこの12月でくすしくも、耳順会も湧泉会も60回を迎えることになる。後者は全くの井戸端会議、でもいつも午後4時頃まで談論風発、実に不思議な会だ。現在毎回集まるのは7名ばかり、来年からは湧泉会一本として月1回昼の開催、ただ6月と12月は夜の開催とすることにした。

3.一泉同窓会(旧制金沢第一中学校と新制金沢泉丘高等学校の合同同総会)
 何時頃からこの合同同窓会が始まったのかは私は知らないが、私はかなり前から毎年出席している。期日は毎年10月15日と決まっていて、今年は創立124年記念と銘打って、金沢駅前のホテルで開催された。毎年参加者は1200人前後あり、大変盛況である。今では旧制金沢一中卒業の方々の参加は20名前後と少ないが、皆さん矍鑠としておいでだ。そして会の終わりには旧制金沢一中の校歌と泉丘高校の校歌を皆で斉唱するが、この瞬間には素晴らしい一体感を感じる。この同窓会には政財界のお歴々も沢山出席されているが、テーブルは卒業年毎、この空間では肩書きなしの先輩後輩の集まりとなる。
「野々市一泉同窓会」
 全国各地に一泉同窓会の支部が設立されるようになり、関東や関西には大きな組織もある一方で、近年石川県内の市町にも支部が設けられている。私が住む野々市市にも組織ができ、毎年ではないが同窓会が開催されている。今年は市内で6月に開催された。

4.国立金沢大学薬学部第7期卒業同期生会(ゼレン会)
 私達は昭和30年4月に入学し、34年3月に卒業した。入学定員は40名、在学中に1人が亡くなり、また教養課程から専門課程へ進学する際に、必須科目の物理で6名が単位を取れず、必死の願いでビーコンが許可になったが、クリアできたのは1名のみだった。また6期生から2名が加わり、同期で卒業したのは36名だった。卒業年が34年だったので、元素番号34のセレンに因み、ドイツ語読みで「ゼレン会」とした。卒業後は5年おきに同窓会を開いていたが、還暦の頃からは、1年おきに金沢で、そうでない年は他の地区に在住している方が主宰することで今日に至っている。これまで7名が他界している。ところで現在地元金沢に在住しているのは3名のみだ。今年は地元の世話で5月に芦原温泉で、来年は関西在住の方々の世話で琵琶湖畔で開催することになっている。

2017年11月8日水曜日

白山白川郷ホワイトロードと中宮温泉

1.錦繍の白山白川郷ホワイトロード
 10月27日の金曜日、私は治療から帰って家で寛いでいたが、あまりにも天気が良いので、俗称スーパー林道にでも出かけようということになった。今日は平日なので道路も空いていようからという心づもりもあり、家を出たのは10時半、事実道の駅瀬女までは車の通行量も多くはなくウハウハでノリノリだった。ところが瀬女に着くと駐車場は一杯、山猫で蕎麦でもと思って訊ねると、カミさんでは40分は待って下さいとのこと、それで道の駅で少々の食べ物を調達して出立することに。尾添から一里野、さらに中宮へ、まだ車の量はそれ程多くはない。ゲートの中宮料金所でも前には2台のみ、もうこの辺りの狭まった両岸の山肌は錦繍の黄葉、陽が当たって輝くばかりだ。時刻は正午、左岸に付けられた林道を進むと、対岸に先ずしりたか滝、そして赤石の滝、いずれもその対面には車を数台停められるスペースがあるものの満車状態、被写体としても格好だ。私達は停まることもできず通過する。次いで岩底の滝、ここも満車状態。蛇谷大橋を渡り対岸の右岸へ、左手に優しいかもしか滝、次いで車20台は停められよう蛇谷園地のパーキング、でもここも満杯、対岸の親谷には姥ヶ滝が見えている。ここから谷へ下りると親谷の湯がある。さらに車を進めると、この谷最大の落差のふくべの大滝がある。でもここも駐車スペースはほとんどない。仕方なく更に上へ、でも国見展望台も満車、しかし林道からの眺めは抜群だ。ふくべ上園地の広い駐車場で漸く駐車でき、ここで一旦休憩する。ただここは余り眺望は効かない。車を進めて白山展望台へ、さらに進めると栂の木台駐車場、標高は 1450 m、ここからは県境稜線の瓢簞山 (1637) が見え、稜線近くの木々はもう落葉して枝が白くなって見え、冬の気配を感じさせる。一方反対側には雪を頂いた白山を遠望できる。そして三方岩隧道を抜けると岐阜県、ここは駐車場になっていて、ここからは容易に三方岩岳 (1450) に登られる。家内とも数回訪れた山だ。東方には新雪で真っ白な立山・剣岳が望見できた。
 ここから岐阜県側へ下る。ただ植生の違いからか、山肌は石川県側が錦繍なのに比し、岐阜県側はくすんだ茶色、雲泥の差だ。でも途中のスポットから見える白山北方稜線に位置する名山の笈岳 (1841) と大笠山 (1821) の眺めは素晴らしい。そして東方向には新雪の薬師岳も見えている。白川郷展望台のある蓮如茶屋をパスし、馬狩から鳩谷へ下りた。ここからは国道 156 号線をひたすら北上、五箇山上梨のそば屋「拾遍舍」で遅い昼食、地酒の三笑楽で喉を潤す。何度か来たことがあるが久しぶりだった。聞けば開店して25年経ったとか。

2.中宮温泉「くろゆり荘」
 翌週の11月2日、予約してあった「くろゆり荘」へ出かける。この日も快晴、当初は飛騨回りで行こうと計画していたが、先週通ったので、今日は直接宿へ。家を午後2時半に出て、宿へは4時に着いた。この日の泊まりは4組10人とか、記帳して部屋へ。部屋は全部で7室、1階には豪華な洋室1室、2階には和室6室、私達が入ったのは8畳間だった。明るい部屋で、窓からは蛇谷右岸の紅黄葉に彩られた急峻な山肌を間近に見ることが出来る。ところで部屋にはカメムシが、見つけたら粘着テープで捕って下さいとある。部屋でこの虫に出くわしたのは、小谷温泉、板ヶ谷温泉に次いでこれで3度目、でも粘着テープの利用とは賢い方法だ。朝までに7匹をゲットした。窓を開けられないわけだ。
 先ずは風呂へ。源泉はこの奥にある「にしやま旅館」と同じで、加水・加温なしの掛け流しの湯、湯船には樋を利用して湯量を調節し温度を調整する仕組み、無色透明な湯だ。窓を大きく取ってあり、浴室からは紅黄葉の林や山々を居ながらにして見ることができる。充分に温まってロビーへ、生ビールが美味しい。主の乾 (いぬい) さんと談笑する。今年の営業は 11月12日 までとか、スーパー林道も 16 日までで冬季休業に入る。もう一度来ようと思ったが、今期は調整が付かず、来期にしよう。自販機がなく、瓶ビールを貰い部屋で寛ぐ。
 夕食は1階のレストランで、明るい空間に頑丈な大きめの4人掛けのテーブルが5脚、夕食のコンセプトは「白山の恵みを、和に洋に」だとか、要はこの周辺で採れる山菜や茸をふんだんに使い、薬膳風に調理して提供するのだとか。ここの3人のスタッフ は皆さん中医薬膳指導員の資格をお持ちとか、他では味わえない品々が登場する。温泉水もふんだんに利用しているとか。お酒は手取川の常温、家内はビール、ゆっくり時間をかけて食事をした。
 翌朝の朝食のコンセプトは「発酵食で胃腸を元気に」とか、温泉水で炊いた温泉粥と発酵食品の数々、全部平らげ、お粥をお代わりした。ここでの薬膳、子供たちにはちょっと抵抗があるかも知れないが、年寄りにはすごく有り難い食事だった。
 終わって暫し乾さんと談笑した。乾さんはこれまでスウェーデン、ノルウェー、フィンランドにまたがるスカンジナビア半島北部のラップランドに4回も出かけておいでで、そこに住む先住民のサーミとはずっと交流を続けているとか、沢山の資料を見せて頂き、また貴重な話を聴かして貰った.また白山北部の登山道や山小屋の整備にも力を入れておいでで、その苦労話もされた。貴重な時間だった。
 ふと書棚を見ると、白山にコマクサの種子を蒔いたとされる故 R 氏の小冊子 (没後、長男さんが上梓、非売品) が。後日コマクサが生えているのが見つかり、国は1900 株全部を根絶やしにするとかだったが、その後どうなったろうか。私は同伴の人からその場所の詳しい地図を書いていただいたが、私はその場所にはまだ行ったことがない。白山にはほかに御前峰と大汝峰にも植生されているのを確認しているが、私ももう5年出かけていないのでその後の消息は不明である。冊子の冒頭には彼の辞世の句が書かれていた。乾さんはこれに気付かれていなかったという。
 「しら山の 神にたむけし 駒の草 夏来たりなば 永久にさくべし」
 「いわ原に 気品もて咲く 駒の花 よもの山々 従えしごと」
 「

2017年10月26日木曜日

オルゴールセラピー初体験(ミントレイノ)

 10月16日の月曜日、10日に申し込んでおいた「ハーブの里・響きの森 ミントレイノ」へ出かけた。先の訪問時や経験者のトクさん (高校の同期生) からの話からして、急に体調が良くなるということは期待できないにしても、何かしら得るところがあればもっけの幸いという野次馬根性で挑戦してみることにした。時間は11時から、家を9時半に出た。家からかれこれ1時間弱、霧雨の中ミントレイノに着いた。開館までに少々時間があり、周囲を散歩する。園地には糸杉やメタセコイアの高木が植えられていて、もう少しすれば黄葉が見られるだろう。園地を散策していると、軽トラを運転していた小母さんが私のすぐ脇で停まり、「よく南竜山荘に来られていた方ですね」と言われびっくりした。「もう今は山へは行っていません。私は今ここに住んでいます」と。私は白山で泊まる時は、室堂ではなく、もっぱら南竜に宿をとったものだ。私に声をかけて下さった人は、ひょっとして山荘の賄いに入っておいでた方だったかも知れない。
 玄関の戸が開いて中へ入る。先日お会いした高田さんが2階へどうぞと言われる。この時間、客は私達だけらしい。高田さんは、先日永井さんも村田さんも見えられ、村田さんは友達に紹介するとかで沢山パンフレットを持ち帰られましたと。とりわけフランス人の友人に紹介したいとかで予約までされましたと。彼らしい対応の仕方に感心した。
 さて11時になってセラピー体験の始まりである。この前体験したように、大きさ20cm ばかりの小さなオルゴールの上に足を置き気を鎮める。その後高さ2m近くはあろう大きなオルゴールにネジを巻き、大きな円盤を取り付けた。そして演奏。1回数分間ばかり、曲は初めにリストのラ・カンパネラ、次いでパッヘルベルのカノン、そしてヴォーンウィリアムスのグリーンスリーヴスによる幻想曲、その外にも2台の大型オルゴールで数曲聴かされたが、知らない曲だった。説明では、これらの曲は単に美しい響きというだけでなく、耳に聴こえない特に20万〜30万ヘルツの高周波が、心臓と肺をコントロールする生命中枢である脳幹の血流と、神経系や体温調節をする視床下部の血流を盛んにして、心身の恒常性を取り戻すのだという。ほぼこの状態が1時間ばかり、特に心身に変化はないが、何となく落ち着いた雰囲気になったことは確かだ。
 そして次は本番ともいうべき共鳴箱の中に頭を入れ、仰向けに寝て、共鳴板から出る曲を聴き入りながらのセラピー、頭を包む四方八方から音楽が聴こえ、これがこのセラピーの本番なのかなあと思った。このセラピーの時間は30分ばかりなのだろうか、私は前半うっとりしたが、後半は早く終わらないかなあと思ったりした。共鳴箱から頭が抜けて私はホッとしたが、家内は逆に後半軽い鼾をかいて熟睡していたとのこと、この状況はトレイナーの方も観察されていたという。この療法は1回きりではなく数回経験することで効果が現れるとか、家内は乗り気になって、来月も来ようと予約、だと私も付き合わねばなるまい。
 終わって1階の食事処でおまかせランチ (1800 円) を頂く。ハーブや地元の旬菜を使った洒落たコース料理、これを目当てに食べにおいでる客もあるとか、さもありなんである。ここにも大きなオルゴールが置いてあり、曲を聴きながらの食事、今年一杯はセラピーの方は特別企画ということで無料、だから代金はランチ代ということになる。冬は雪が多いこともあって、今年は11月19日まで、でも積雪が
あっても午後には除雪されるので、希望ならば問い合わせてほしいとのことだった。ショップで数点買物をし辞した。

(閑話休題)
 ミントレイノでの体験の翌日、津幡在住で、家内が以前勤務していた野々市の舩木病院 (現医院) の創業時からいる看護師さんから、津幡に「やまぎし」のような太打ちのそばを食べさせる蕎麦屋があると家内が聞いたとかで、出かけてみることにした。店名は分からず、場所は津幡町倉見とか、地図で見ると、国道8号線に倉見 IC があるので、とにかくそこへ行くことにした。この新しい8号線はこれまで通ったことがない。津幡バイパスから津幡北バイパスへ、分岐から2つ目の IC が倉見、ここで下りて南下すると、すんなりそば屋が見つかった。でも案内では開業しているのは土日月のみ、そば店の名は「くらみつ」という。
 この日はその後多少時間を費やして午後5時に白尾の「龜屋」へ寄ることにした。車は車検を済ませたが、余り乗らないこともあってバッテリーを交換、ディーラーからはもっと乗って下さいと。年2万キロ、日8キロは走って下さいと言われたこともあって、ドライブすることに。津幡町から富山県小矢部市に入ってから、その後国道471号線を北上し、宝達志水町まで北上してから南下し、白尾へ向かう。夕方の開店は午後5時、時間前だったが長男さんに招じ入れて頂いた。彼はまだ独身、親父がまだ元気なうちは晩も開けるが、そうでないと晩は厳しいとも。早く伴侶が見つかるとよいのだが。親父さんとも話をしたが、年々体力が下がるのが自分でも分かると言われる。山も昔ほど歩き回れないし、スキーは今年も誘いを受けているが、足の具合が良くなく、参加できるかどうか心配だとも。そばを頂いている時、「亀平」の次男さんが見えられた。これから明日の分の蕎麦を一緒に挽くのだとか。両店ともども繁盛してほしいものだ。

2017年10月13日金曜日

やまぎし/くろゆり荘/ミントレイノ

1.蕎麦やまぎし(白山市 左礫) ☎  076-254-2322
 10月10日の火曜日、久しく龜屋に行っていないので出かけようと家内と前日に話していた。この日私は朝9時に鍼灸を済ませ、石川トヨタで車検の代金の支払いを済ませ、これからいざ龜屋へ向かおうとし、念のために電話をしたところ、今日は休みとのこと、確かめてよかった。それでは左礫にでも行こうということになった。いつものごとく別宮から道の駅/一向一揆に寄り道して野菜物を求め、「やまぎし」に着いたのは丁度開店時間の11時半、でも駐車場にはもう3台もの車が停まっていた。山岸さんではこの日早い人は10時にもうおいでたとか、休日でもないのにこの賑わいなのに驚いた.いつもの如く私は「粗挽き」と天ぷらと財宝2杯、家内は「黒」と天ぷらとノンアルコール、私はこの前会った御仁の勧めもあって「粗挽き」は釜揚げにした。しかし今回食した粗挽きの釜揚げは焼酎のお供にはあまり向いていなかった。ここの極太の粗挽きにはやはり岩塩をお供に、3種の薬味 (辛味大根、葱、生山葵) で楽しむのが最高だと思った。帰り際に例の御仁が御入来、ここで食事してこれから鞍掛山へ出かけるという。全くもってタフな人だ。辞して車の運転を家内に任せ、店から久しぶりに大日ダムまで足を延ばした。そしてそこから尾小屋経由で帰宅しようと思ったら、尾小屋へは抜けられませんとの立て札、それで仕方なくバックして左礫から別宮に戻り、折角ここまで来たので釜清水から白山下に出て、そこから瀬戸野にある道の駅/瀬女とそば屋「山猫」に寄ることにした。ところが生憎と山猫は第2火曜日が定休日、でも偶然奥さんに会え挨拶できた。

2.深山湯治の湯  白山中宮温泉  くろゆり荘(白山市 中宮) ☎  076-256-7955
 天気も良く、折角瀬女まで来たので、中宮温泉近くにある白山自然保護センターの中宮展示館まで足を延ばすことにした。ここには白山の自然に関する資料が数多く収納されており、その内容は年々充実されている。ここは冬季は閉鎖される。近くに「くろゆり荘」があり、時間も早いので温泉にでも入って行こうと思い、歩いて行けるかと訊くと、スーパー林道は車の往き来が激しいので、行くなら車の方が良いと言われた。林道 (現在の呼称は白山白川郷ホワイトロード) の料金所手前を右折し、高みに中宮温泉の「にしやま旅館」が見えてくる辺りを右に折れると、すぐに目指す「くろゆり荘」がある。ここは以前は公営の保養施設で、私も何回か利用したことがあるが、その当時は入浴と休憩のみだったような気がする。でも現在は民営になっていて宿泊もできるという。ここのオーナーの方は、加賀禅定道や中宮道の整備とか、禅定道の奥長倉山にある奥長倉避難小屋の管理をボランティアでやっておいでると聞いている。訪れたのは午後3時過ぎ、お客は誰もいないようだった。案内を乞うて入浴したい旨告げると、午後4時までならと言われ、もしゆっくりでしたら「にしやま旅館」で入浴して下さいとのこと。入浴料金は大人550円、タオルも200円で頂いて浴室へ。以前と比べ浴室からの眺めはグンとワイドで、非常に明るい感じになった。お湯は掛け流しだが、篔から湯船に入らずに外に流れっぱなしになっている。後で聞いたところ、源泉の温度が65℃と高く、ぬるいようだったら源泉を湯船に導けばとのことだった。ゆっくり浸かって、湯上がりに生ビールを頂き、いろいろお話を伺った。ここの営業は雪が降ると休業に、それで大概11月中頃までの営業とか、今月も来月も土 日 祝日は全6室とも満室とか、それで家内の希望もあり、祝前日の11月2日に宿泊予約をした。楽しみだ。

3.ハーブの里・響きの森 ミントレイノ(白山市 女原) ☎  076-256-7660
 中宮からの帰り道に、泉丘高校第7期の有志の会の湧泉会で、永井君 (旧姓徳久・通称トクさん) が、オルゴールを聴きながら体調を整えられるという施設「ミントレイノ」を皆に吹聴していたのを思い出し、そこへ一寸立ち寄ってみようということになった。以前は「ハーブの里」として公営で開放されていたので、何度か寄ったことがあるが、今は民営になりオルゴールセラピーを 標榜している施設とか。
トクさん自身、身内の人と一緒に何度か出向き好評を得ているとか。要は身体の不調が改善されるのだという。彼はもう9回も出かけているとか。時刻はもう午後4時半、丁度営業時間 (9:30ー16:30) ぎりぎりだったが、説明を聴きたいというと応じて頂けた。永井さんはよくお出でますし、紹介で村田さんもお出でましたとのこと。2階へ案内された。この施設でのメインはオルゴールセラピー、私達は椅子に腰掛け、小さなオルゴールの上に足を乗せ、説明を聴いた。この室にあるオルゴールは人の耳には聴こえない 20万〜30万ヘルツの高周波を出し、それが脳幹や神経系や体温調節をする視床下部の血流をよくして、心身を正常にするとか。説明された人は、あるとき母親が年老いてボケ、時に嫌悪な状況になった時に、偶然家にあった大きなオルゴールを鳴らして聴いてもらった時に、母の顔の表情がすごく穏やかになったことにヒントを得て、これを皆さんの役に立てようと考え、営業を終えると聞いたこのハーブの里の土地と建物を取得し、皆さんに体験して貰っているとのことだった。それで平日は 11時 〜 12時半にオルゴールセラピー体験会 (予約が必要 ) があるとのこと、それで早速家内共々 10 月 16 日に体験してみることにした。今は特別企画とかで料金は1人 1800 円とか、定員は6名である。30 分ばかり居て辞した。帰りに常設展示販売されていたチベット絨毯やハーブクッキーを買い求めた。

2017年10月5日木曜日

日曜日の「やまぎし」は超満員

 10月1日の日曜日のお昼近く、テレビを観ていた私に家内が、「行かないの」、「何処へ」、「あなた、朝起きがけに やまぎし へ行こうと言ってたじゃない」、「えっ、俺そんなこと言ったかなあ」、「言ったわよ」、「そうか、でもわしゃ全然覚えておらんけど」、「だから、私今化粧して用意してるのに。私はよく外へ出るので、あなたに悪いと思っているから、無理を聞いてあげなきゃと思ったからよ。それにしてはいつまでもテレビを観てるから、どうしたのって思って言ったのよ」と。「じゃ、行こうか」。
 私のこの頃の日曜日の日課は、朝7時からは NHK のニュースと百景、8時からは MRO テレビのサンデーモーニング、10時からは檀蜜さんが出てれば続けてサンデージャポン、正午からは NHK のニュースとのど自慢、午後1時からは石川テレビの 開運!なんでも鑑定団 という次第。この日私が家内に声をかけられたのは、サンデージャポンが終わる寸前。「やまぎし」はもう開店しているけれど、でも昼時を外せば大丈夫だろうから、「じゃ、今から用意するから」と言って私も用意して一緒に出かけることに。家を出たのは正午を少し回っていた時刻だった。
 いつものように鶴来の山手バイパスを通って行く。ふっとこの間「草庵」へ行った時は月曜日だったけど混んでいたが、今日の日曜日はどうだろうと店の前を通ってみた。ところがさすが日曜日の昼時とあって、20台は停められるという広い駐車場は満タン、すごい混みように度肝を抜かれた。今時の草庵は、一品はともかく、そばは今一の感じがするのに、草庵という名前が人を引き寄せつけるのだろうか。何ともすごい光景だった。
 裏へ回って、朝日小学校の前から再びバイパスへ。白山さんは今日は一日参りなのだろう、駐車場は一杯だった。先へ進むと左手に林業試験場の樹木公園、この敷地に植わっている桂の並木はもうまっ黄色に色付いていた。国道を横切り、鳥越大橋を渡り、ひたすら国道44号線を大日川沿いに南下、途中上野辺りからは白山が望めた。元鳥越村役場があった別宮に着いたのは午後1時少し前、「やまぎし」にはもう少し時間をずらして行くことにして、寄り道して道の駅「一向一揆の里」に寄ることに。ここには地元の農産物が比較的豊富で安くて、「やまぎし」への行き帰りにはよく寄っている。この日も多くの人で賑わっていた。家内が言うには、この賑わいの元は、附属する評判の「鳥越そば」にあるという。地元で採れた玄そば6割につなぎに丸いもを使ったそばとか、乾麺も売っていた。
 道の駅から別宮に戻り、右折して更に県道を南下する。対向車も少なく、すんなり左礫に着いた。時間は午後1時半、もうお客さんも少なくてすんなり入れようと思って前まで来ると、県道沿いの左側にはびっしりの車の列、私も県道に車を停め、店へ。ところが入り口には「打ったそばはなくなりましたので、またのお越しを」と。いつもは開店前に訪れることが多く、こんな目にあったのは初めて、家内は「じゃ、烏骨鶏の卵だけ貰ってくる」といって玄関に入って聞いたが、ないとのことだった。それで仕方なく家内が、「折角来たのだから、挨拶だけしてきたら」と私に言うので玄関に入ると、卵が見つかったというので4個 (1個 250 円 ) 頂いた。その時「あら、木村さん」と奥さんの声、それに呼応して山岸さんが、「もう少し待ってもらえば何とかしますよ」との返事、九死に一生の思いで中に入った。そろそろ波が引く時間帯だが、まだ中で待っている客もいた。すごい人気だ。
 入り口近くの大きなテーブルに、以前会った御仁がいて手招きされた。彼はほぼ毎日ここへ寄るという。今日も山歩きをしてきたとか、もう木通 (あけび) はお終いだとか。彼は名古屋の出身、あちらにいる時は南アルプスはほぼ全域歩いたとか、出来るだけ身軽にするため、雨具やツェルトの代わりに大きなビニール袋を何枚も持って歩いたとか、まるでまたぎだ。私も大学の山岳部に入りたての頃、やはり親父がまたぎの男が入部してきて、どんなに雨が降っていようと火を焚く術を持っていたのに驚かされたが、そんな感じだった。
 私は「田舎粗挽き」と天ぷらと財宝 (焼酎) 2杯といつもの通り、家内は「白」と天ぷらとノンアルコール、でも「白」はなく「黒」に。この日は山岸さん夫婦、弟さん夫婦、妹さんとフルメンバー。そして天ぷらにはこれまで入っていなかった海老が。件の彼氏が言うには、粗挽きは釜揚げも美味しいですよと。今度試してみよう。家内は白より黒の方が味があるとご託宣。今日はそれぞれ60人前ずつ打ったとかだったが、完売とかだった。今日もありつけて良かった。

2017年9月29日金曜日

9月下旬に訪れた蕎麦屋3軒

1.そば処 敬蔵 (野々市 市本町)
 9月初旬に、敬蔵から創作メニュー「こんな蕎麦 打ってみた」という案内が届いた。春にも同種の案内が届き、二度出かけた。主人の目新しい意欲的な創作には意気込みが感じられ、いわゆる差別化を意識したものだ。今回は第六弾と第七弾の案内、この目玉作品の案内にはハーフサイズの試食券が付与されている。先の案内の折には家内と出かけたが、その折に私が敬蔵さんに何か一言話したらしく、今回は貴方一人でどうぞとなった。家から敬蔵さんまでは至近の距離、歩いて出かけた。今回の目玉は「細打十割  北海道沼田産 新そば」で、9月初旬に出回り始める「夏そば」の新そばとかだった。出かけたのは秋分の日のお昼過ぎ、独りなのでカウンターに座る積もりなので、慌てる必要はなかったからだ。店に着くとお客はいなくて、主人からは2人掛けのテーブルへどうぞと言われたが、いつものようにカウンターに座った。初めに試食の新そばと焼酎の蕎麦湯割を頂く。新そばは爽やかな味だった。ご主人に「沼田って北海道の何処にあるのですか」と何気なく訊ねたところ「さあ どこなのですかね」との返事、一寸気抜けした。帰って調べたら、留萌の東隣りの町だった。その後定番の「鴨せいろ」(敬蔵での表記は「鴨汁そば」) と加賀鳶のあらばしりを貰った。この蕎麦は昨秋の福井大野産、ここ敬蔵の鴨は定評がある。終わりに近く、5組のお客が入ってきた。テーブルに座らなくて良かったと思ったものだ。ところでお酒は甘くてそばには不向きだった。
2.蕎麦処 草庵 (白山市 鶴来日吉町)
 何となくドライブを兼ねてそばをと思い、一度は通ってみたかった犀鶴林道と草庵を組み合わせ、家内に相談した。したのは24日、家内から「相撲の千秋楽だけど、いいの」と言われ、じゃ明日にということに。家内はいつ頃からか、草庵へはよく訪れていたのに、ある時期から敬遠するようになっていたので、諾の返事がもらえるかどうか心配だったが、今回は OK の返事だった。 25日の朝10時に家を出た。林道走破に2時間、鶴来には正午頃に着く予定で車を走らせた。金沢市熊走から林道へ。この林道は早川先生のロードトレイニングコースでもある。国見山から水葉山を過ぎる辺りからは金沢市街を俯瞰できる。下って内川へ、そしてさらに上流へ、すると旧内川村の小中学校の跡地に、林道はここから内川を渡り獅子吼高原へと上がるのだが、ここに通行禁止の標示。昨日までは OK だったのに残念至極、仕方なく戻り、内川沿いに金沢へ、そして草庵へ。平日の午後1時頃だったのに、駐車場は混み合い、店も混んでいた。平日なのにこの混みよう、驚いた。三和土の相席の大きなテーブルに案内された。注文は家内が「せいろ」、私は「鴨せいろ」、お酒は八海山、つまみは野菜天。十割もあるが一日十食のみ、「せいろ」は外一とか。そばはまずまず、でもここの鴨肉のプリプリとした食感は絶品だと思う。鴨のつみれも旨い。女将さんが見えないので訊ねると、今日はお休みの日とか。後で家内にお目当ては女将さんだったのではと言われた。
3.香り蕎麦 亀平 (金沢市 新神田)
 27日は探蕎会の9月例会で「亀平」へ。10名限定だったこともあって、募集後すぐに定員に達したとのことだった。昼の営業時間は11時半から15時まで、集合は午後2時、私が着いたのは2時少し前、既に前田車が着いていて、玄関に会長と女性2人、一緒に中へ入る。他に客はいなかった。その後塚野車の3人、最後に磯貝車の2人、これで10人全員が揃った。テーブル2脚に4人ずつ、私と磯貝氏はカウンターに。そばも一品もすべて店主の幸平さん一人で捌くので、先ず私が先鞭を付けて注文、品は焼き味噌とだし巻き玉子と銀嶺立山の冷酒、それに締めに鴨せいろを注文した。一人で10名もの注文をすべてこなすにはかなりの時間を要する。でも順次注文に応じられている様子。当初会では10月には東北へ探蕎の予定、その際90歳の会長は1015段ある山寺 (立石寺) の奥の院まで上がりたいとのご託宣、超元気なのに驚く。以前探蕎会で訪れた時には私も含め3人しか完登できなかったのにである。でも今月衆議院の解散があり、運転手をかって出られている議員の磯貝さんは超多忙で、もし出かけるとすれば11月以降となろう。ところで見ていると、野菜天を注文されている方が多く、私も後で手取川と野菜天を追注した。美味しく飲みかつ食べたが、皆さんはどうだったのだろうか。お開きになり、皆さん来店のグループ毎に店を後にされた。という私は家内が迎えに来てくれると思い込んでいたが、家内は連絡があるものと家で待機していたとのこと、その間店主の好意で店内に、雨も降ってきた。親父さんお元気ですねと話すと、今68歳、以前からみると随分老けましたと。でも白尾の店には親父さんが自ら写された高山の花や鳥や獣の写真が沢山飾ってあり、今でもよく山へ行かれているとか。羨ましい限りだ。

2017年9月19日火曜日

家内と巡った信州探蕎再訪(その2)

(承前)
9月14日(木) 曇り
 今日は晴れを期待していたが曇り空、朝湯を頂き、部屋で寛ぐ。朝食は7時半、定刻にセットされる。朝食は「夏の薬膳五色ごはん」、昨晩とは別の仲居さんが膳を運んで来られた。赤、黄、緑、白、黒の器に10品の料理、かなり細かな細工を施されているものもある。中でも「黒米のお粥」というのは初めてだった。またおひつのご飯は米粒が一つ一つ立っていたのには驚いた。これは蒸したのだろうか。何とも豪華な色鮮やかな朝食だった。そして仲居さんに後で北向観音へ行くと言うと、長野市にある善光寺と向き合うように本堂が北に向いていること、善光寺は来世の利益、北向観音は現世の利益をもたらすとされ、両方に参拝しないと片参りになる等々、いろいろ説明をして頂いた。
 朝食を終えて、北向観音へ向かう。此処は宿のすぐ近くにある。境内にある御手水は温かい温泉のお湯、こんなのは珍しい。本堂で御朱印をお願いし、参拝する。名の知れた有名な女優が志納した幔幕が掛かっている。回廊を巡り、境内奥にある芭蕉や牧水の歌碑を愛で、「愛染かつら」の名がある桂の古木に想いを馳せる。私は数回来ているが、家内は初めてだという。
 9時近く、女将さんに送られ、宿を後にする。初めに前山寺へ行く。別所温泉駅から県道別所丸子線をひたすら東へ走る。右には鋸の刃のような稜線を持つ独鈷山が見えている。暫く走ると、やがて右に前山寺入り口の表示、右に折れ、山の中腹を目指す。程なく駐車場に着いた。ここは弘法大師が開いたと伝えられる真言宗智山派の独股山前山寺、入山料を払い境内に入る。左手には萱葺きの間口十間もの本堂、そして高みには重文の三重塔が見えている。以前来た時は、山道を少し登って上から塔を俯瞰できたが、今は立入禁止になっていた。周りには桜や藤が沢山植わっている。花時は綺麗だろう。入山時に帰りに寄って下さいと言われた休憩所に寄る。ここには野菜や鉢物が販売されている。販売している方の言では、私が朝取りした無農薬の野菜とか、それだからかどれも瑞々しく、その上安い。家内はあれこれ求めていた。そして黄色の花が咲くとかいうホトトギスも求めた。これも功徳か。
 再び県道に戻り更に東へ、そして松本への標識がある交差点を右に、方角を南にとり、有料の平井寺トンネル (210円) を抜けると、道は独鈷山の南側を走る国道 254 号線に出る。ここから方角は西へ、鹿教湯温泉を過ぎ、三才山トンネル (510円) 、さらに松本トンネル (200円) を過ぎると松本平に出る。ここから国道 19 号線を北上し、塔の原交差点を左折し、犀川を渡って県道 51 号線 (安曇野アートライン) へ、暫く走ると右手に標識があり、右折して山道を少し走ると目指す「安曇野 翁」に着いた。時刻は丁度開店の 11 時だった。
 「安曇野 翁 」  北安曇郡池田町中鵜 3056ー5      ☎  0261-62-1017
 この日は木曜日なのにもう乗用車が4台、真っ先に店に入る。でも先客が1組いた。先客の隣のテーブルへ案内される。ここは、ざるそば (白) 、田舎そば (黒) 、おろしそば、鴨せいろの4つのみ、お酒は大雪渓のみ、あとはビール2種とノンアルコールのみ、シンプルそのものだ。いつもならお酒を頂くのだが、今日はこの後道の駅白馬までは私が運転をするので、この場では飲まないことに。そこで、家内はざるそば、私は鴨せいろを頂く。今日は生憎の曇り空で、後立山の山並みは見えていない。しかし店内は明るく、未だ木の香が残っていそうな佇まいのテーブル席と座敷、ここでは相席はなく、空いていないと後のお客さんは外でお待ちをとのこと。ここの主人はかのそば打ち名人の高橋邦宏さんの一番弟子、素晴らしいそばを出してくれる。さて、家内の評価は。一箸手繰って発した言葉は「素晴らしい」の一言、二八ながらこれこそ「そば」だと絶賛、蕎麦汁も繊細でそばの旨味を引き立たせている。実に満足したと。喜んでもらって本当に良かった。客が次から次へと訪れる。帰りに奥さんと思しき女の方
に、ここへ来られてもう 15 年位経ちますかとお訊きしたら、20 年になりますと言われた。帰り際、ご主人の若月さんと目が合い会釈した。
 山を下り、県道 51 号線の安曇野アートラインを北上し大町へ、大町からは通称糸魚川街道といわれる国道 148 号線をひたすら北上、仁科三湖を過ぎ道の駅白馬へ。私はここで地酒を仕入れ、後の運転は家内に任せる。こうして信州蕎麦行を無事終えた。

2017年9月18日月曜日

家内と巡った信州探蕎再訪(その1)

 6月下旬に出かけた信州への探蕎行の話を家で話したところ、家内はいつもの秘湯巡りよりも、この探蕎のコースで行きたいとのことで、早速に別所温泉の七草の湯へ9月13日に泊まる予約をした。早々に申し込んだのは、先の探蕎行で前田さんから聞いた早割ドリンク付きの特典を当て込んだためである。コースは、初日は上田市にある「おお西」、翌日は池田町にある「安曇野 翁」と、会で巡ったコースを踏襲することに。
 
9月13日(水) 曇り
 家を8時半に出る。給油所でガソリンを満タンにする。80ℓで640kmばかり、途中で20ℓを追加給油しよう。白山 IC で北陸道へ、有磯海 SA で休憩、さらに上信越道の妙高 SA で休憩し、上田菅平 IC で高速道を下りる。時刻は午後1時、目指す「おお西」は午後2時で終いという。行き先をカーナビで電話番号を入力したが、登録されていないとのこと、少々焦った。お陰で上田駅前まで一巡する羽目に、でもどうやら店がある柳通りに出た。それでとある空き地に車を停め、店へ向かうと、店の裏手の空き地に主人がおいでた。それで別の空き地に車を停めたというと、構わないとかでそのままにして店へ入った。
 店はかつて商家だったという古めかしい建物、かなり広い座敷と土間、でも薄暗い。私達は土間のテーブルに陣取る.先客がいた。どこか遠所からの客のようだった。私達は主人の大西さんの代名詞でもある「発芽そば切り」と野菜天を注文する。ほどなく届く。そばは大きな蓋付きの朱塗りのお椀に入っている。これはそばが乾かないようにするためだとか、でも水切りが十分でない感じだ。さて家内の評価はどうだろうか、答えを待つ。私はまあまあだと思ったが、彼女の評価は、そばも天ぷらも亀平
( 私達がよく行く金沢のそば屋 ) にはとても及ばないとのこと。それに伝票を持っておいでたおかみさんの格好がまさしく普段着のまま、キリッとした雰囲気が全くなく、これも減点要因となったようだ。2時近くにもう1組が迷ったとか言いながら入ってきた。でも2時過ぎに来られた客は入らずに帰っていった。
 店を出て、車はひたすら西へ、正面に見える夫神岳の麓にある別所温泉を目指す。今宵の宿の「七草の湯」には3時少し前に着いた。もう部屋へ入れますとのことで、案内されて5階の部屋へ、そして暫し寛ぐ。テーブルの上には、お菓子や乾き物6種、佃煮7種、仲居さんからいろいろ説明を聴く。夕食を6時半、朝食は7時半にお願いする。窓下には安楽寺の山門が見え、東方には塩田平が広がり、遠くには菅平高原から浅間山へ続く山並みが見えている。暫く休憩してから安楽寺へ出かけることに。
 宿の前にある山門を潜り、石畳の参道を進む。この寺は、当初北向観音堂をお護りする別所三楽寺 ( 長楽・安楽・常楽 ) の一つとして建立されたが、その後曹洞宗に改宗されている。境内の入り口からは165段の急な石段を上がると寺務所に出る。御朱印をお願いした後、拝観料を納め、さらに64段もの石段を上がり、国宝の八角三重塔を拝観する。一見四重に見えるが、一番下段のは庇とかである。屋根は4年前に全部葺き替えたとか。その際に行われた C14 の年代測定で、この塔は鎌倉時代末期に建立されたことが判明したという。
 次に別所三楽寺の本坊である常楽寺へ向かう。因みにもう一寺の長楽寺は現存していない。安楽寺で常楽寺への近道を教わり出かける。10分ばかりで着いた。この寺は天台宗で、北向観音をお護りする本坊だとか、でも人影はない。入山料を払い、御朱印を頂き (但し無人 )、境内を見回る。茅葺きの本堂の前には、御船の松という由緒ある船の形をした黒松が植わっている。またここには重文の石造多宝塔が裏山にあるとかだが、敬遠した。
 宿へ戻る。北向観音へは明朝お参りすることに。温泉に浸かった後、取りあえず部屋の冷蔵庫にあるビールの大瓶 (この前の訪問の折に2本常備してあることを確認 ) 1本で喉を潤す。摘みは佃煮や乾き物、テレビで相撲を見ながら寛ぐ。その後家内も湯から上がってきてさらに1本、今夕の夕食は部屋食とか、定時に夕食となる。係の仲居さんは小柄な若くて綺麗な方、20代前半かと思いきや32歳で2人のお母さんとか、驚いた。女将さんも挨拶に来られ、前田さんや松川さんの名前を口にされて驚いてしまった。サービスのドリンクは地元の赤ワインのフルボトル、大きなワイングラスも付いてきた。品数は12品、持ってきて頂いた折ごとに一々説明をされる。途中でワインがなくなり、中ジョッキを2つ追加する。当初は何か料理を追加する予定でいたが、頼まなくてよかった。品数も量も多くて満腹になってしまった。片付けてもらって、床を敷いてもらう。窓の外を見ると、散りばめたように明かりが点々とする塩田平、そして空には下弦の月、幻想的な眺めだった。

2017年9月7日木曜日

香りそば 亀平(私が最もよく訪れるそば屋)

 8月のとある日、会の事務局の前田さんから、9月の探蕎行は塚野さんの世話で亀平へ行くことになったと電話があった。その後メールで催行人員は10名に限定したいとのこと、早速申し込んでおいた。狭い店なので、大勢の訪問は憚れることもあっての処置だったのだろう。ところで訪問の日時は9月27日の午後2時とかだった。
 さて、亀平の店主の西川幸平さんが、かほく市白尾にある実家のそば屋「龜屋」から独立して、金沢市に店を持ったのはかれこれ5年位前のことだったろうか。龜屋の親父さんの西川幸一さんから、次男が金沢で店を持ちますのでまた贔屓にしてやって下さいと言われた。それで早速新神田にある「龜平」を訪れた。ところが肝腎のそばがずるずるで、これじゃとてもお客さんには満足して頂けないのではと親父さんに話した。そんなこともあって私達は以後この店へ訪れることはなかった。ところが1年位経ったある日、そば好きな友人から、金沢にこじんまりとしたおいしいそば屋さんがあると言われた。訊くとそれがあの龜平、半信半疑で再び家内と訪れた。するとその時の印象では、そばはしゃきっとしていて喉越しもよく、以前食したそばとは雲泥の差、風の噂では塚野さんのなみなみならぬ尽力があったとか。以後私達夫婦が1年を通じて最もよく訪れる店となった。美味しくて、気楽で、車で10分も走れば行ける気軽さ、本当に捨てがたい存在になった。
 9月に入って、5日の日に何となく行きたくなり出かけた。三男の墓参りを済ませ、いつものように、開店の11時半前に店に着き待った。暖簾と幟が出されると開店の合図、店に入る。定位置は左手奥の4人掛けのテーブル、混み合ってくれば相席となるが、大概昼一番だと満席になることはなく、ここで1時間ばかり、お酒を飲み、摘みを頂き、そしておいしいそばを食べて帰るのが常である。私はお酒を飲むということもあって、独りで出かけるのは憚れるので、家内同伴が原則である。この日は、一品に、焼き味噌、野菜天ぷら盛り合わせ(ピーマン、人参、さつま芋、茗荷、しめじ、金時草)、焼き鳥、お酒は冷酒立山と手取川、そばは家内が二色せいろ(せいろと粗挽き)、私は鴨せいろ、ゆっくり飲みかつ食べ、堪能した。
 店主との会話で、27日に塚野さんから10名ばかり午後2時に訪れますと連絡がありましたとのこと、私も同席しますと話した。本当に気取らない素晴らしい店だ。本家の龜屋さんには年に数回しか訪れることはが出来ないが、ここにはちょいちょい楽しく気軽に訪ねられる。

「香り蕎麦 亀平」の資料
・住 所  金沢市新神田2丁目 12−2   電話 076−292−1156
・営 業  11:30〜15:00  17:30〜20:00(金・土のみ)
・定休日  月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)
・席 数  かうんター 5席、 テーブル 12席
・駐 車  5 台
◯ お品書き(価格は単位円)
・冷たい蕎麦:せいろ (875)   粗挽き/十割 (980)   二色せいろ/せいろと粗挽き (1100)
  おろしそば (980)  かき揚げせいろ (1420)  穴子せいろ (1650)  鴨せいろ/温出汁 (1600)
      天二色せいろ/野菜の天ぷらと二色せいろ (1560)
・温かい蕎麦:かけそば (875)  かき揚げ天そば (1420)  鴨南蛮 (1800)
・大盛り:せいろ (270)  粗挽き・二色せいろ (300)
・夏期限定/トマトそば=フレッシュトマトの自家製和風ソース (1180)
・かき揚げ丼セット/せいろ or かけそば かき揚げ丼 (1500)
・ご飯物:とろろご飯 (320) かき揚げ天丼 (790)  穴子天丼 (990)
・一 品:漬け物(270)  焼き味噌 (860)  野菜の天ぷら盛り合わせ (740)  穴子天ぷら (790)
  だし巻き玉子 (650)  蕎麦屋の焼き鳥 (860)  鴨焼き (1340)
・焼酎/ロック・水割り・蕎麦湯割:天山戸隠 (蕎麦焼酎) (460)  ちょんがりぶし (麦焼酎) (430)
・ビール:キリンハートランド (中瓶) (550)  サッポロエビス (小瓶) (450)
・日本酒:手取川 (1合) (460)  立山 (1合) (430)  銀嶺立山 (冷酒) (300ml) (820)
  加賀鳶 (1合) (580)  満壽泉 (1合) (620)    

2017年7月10日月曜日

石川県人名事典現代編での吾が母の記述

 表記の本は平成3年 (1991) に発刊され、以後平成28年 (2016) 発行の最終卷 (十二) まで、ざっと2千3百名もの方々の追悼文が載せられている本である。対象となった人は、石川県に在住・出身・縁のある方が主で、執筆する方は、身内であったり、師弟や友人であったりと様々で、とにかく故人への想いが自由に語られている。大体一巻あたり2百人弱の人が対象になっていて、これまで2年ばかりで一巻が完成されている勘定になる。編者は片桐慶子さん、発行所は石川出版社 (石川県白山市白山町) である。
 私の母は平成15年 (2003) 2月8日に90歳で亡くなった。ところである日、この本の編者である片桐さんから執筆の依頼があった。何方から耳にされたかは知らず、大それたこととお断りしたのだが、何度かの要請があって後、執筆を承諾することにした。そして私が書いた文は、2005年3月に発行された九巻に掲載された。先日久しぶりにこの本に遭遇した折に、「晋亮の呟き」に再掲したくなり、書き写した。

「木村 好子」(きむら よしこ)
・「誕 生」 明治45年 (1912) 3月17日
 父 細野生二 と母 しづ の四女として 北海道空知郡奈井江町に生まれる。
・「生い立ち」
 母の父 生二は 金沢の旧家 細野家の次男として生まれた。上の兄 申三は後に燕台と号し、書画骨董に造詣が深く、北大路魯山人の後援者でもあった。下の妹の玉は、後に野々市の木村家へ嫁いだ。申三は漢学者だった父 當徹から厳しく教育されたが、生二は奔放で、自ら高嶋嘉右衛門の門を叩いた。兄弟子は師匠を次いだ高嶋呑象である。その後生二は北海道空知郡砂川と奈井江に跨がる四百町もの高嶋農場の管理を委ねられ、特に灌漑には心血を注ぎ、その完遂の借金のため何度も差し押さえにあったと母は述懐していた。それだけに人望は高かった。母の兄弟は9人、上に姉3人、下に弟1人と妹4人、父親は大変厳しく、一方母親はすごく優しかったという。子供らは皆高等教育を受け、母も札幌高女を卒業した。その後暫く教職に就いたが、素晴らしい先生だったらしく、亡くなるまで毎年賀状が何通も教え子から届いていた。その後母は叔母の木村 玉からの縁談の申し入れに、他の姉妹が断るなか、父親の故郷に嫁いでくれと懇願され、身の回り品のみ持ち、野々市の木村家へ嫁いだ。だから私の父 仁吉と母 好子は従兄妹の間柄である。
・「その後と想い出」
 結婚当時、父は第九師団の主計少尉であった。父は大変優しく、沢山の姉弟妹から離れ、ましてや風俗・習慣の違う地で、まるで姐やのようだと話す母を労り支えてくれた。そして間もなく長男の私が誕生した。しかし父は支那事変勃発で出征、母は私を頼りに、父には毎日私の大きくなる様を一部始終手紙で送り続けた。その手紙は今も私の手元にある。父はその後徐州作戦で迫撃砲弾を肩に受け大怪我をしたが、父らしく気丈にも傷痍軍人になるのを拒んだ。母は終戦後の苦しい時期、父の軍人恩給が三月足りなくて支給されないのをボヤいていたが、私は父、父たりと思う。父の戦場での終始は、日野葦平の「麦と兵隊」に詳しい。そして終戦、父は公職追放、家は大地主だったが農地解放でたったの一町、それに財産税の追い打ち、父や祖父が嘆いてばかりだったのに、母は気丈に家を支えた。器用で頑張り屋、木村家にはなくてはならない人になった。慣れない初めての田圃仕事も、昔の小作人達が意地悪し、今に音を上げるぞと言うのを聞き、何糞と踏ん張ったという。見よう見まねで、藁で蓑、筵、俵、草履何でも作った。そして現金収入を得るために織物工場に就職、真面目で器用で利発で頑張り屋で世話好きの母は、程なく女子工員の頭になった。定年後も請われて舎監として、沢山いた東北・北海道出身の若い女子工員達の面倒を見た。退職後は友達と日本津々浦々を旅行して楽しんだ。記録はアルバムに残されている。振り返って、私は弟妹の誰よりも母に心配をかけた。大病もし、指を落とし大出血で死ぬ体験もし、山から7日も帰還が遅れもした。でもその折々、母の愛に救われた。私が学位と厚生大臣賞を貰った時に見せてくれた母の素晴らしい笑顔と額縁は、私の大事な宝である。母との八十年余の悲喜交々の思い出が走馬燈のように過ぎる。
・「死 去」 平成15年 (2003) 2月8日  逝年 90歳
・「葬 儀」 平成15年 (2003) 2月10日  金沢市松島町 シティホール玉泉院
・「法 名」 清光院順譽浄教妙好大姉
・「菩提寺」 浄土宗知恩院派 法船寺(金沢市中央通町 旧宝船町)
・「喪 主」 木村 晋亮(のぶあき)(長男)  当時(財)石川県予防医学協会 勤務

(閑話休題)
 この石川県人名事典現代編には、他界された石川県に関係する多くの方々が登場する。
 私の恩師である波田野基一先生は平成20年 (2008) 8月21日に彼岸に発たれた。先生への追悼文は、畏敬する永坂鉄夫先生が石川県人名事典現代編十一に書いておられる。

2017年7月4日火曜日

久方ぶりの信州への探蕎行(その2)

(承前)
3.「七草の湯」 上田市別所温泉 1621   TEL 0268-38-2323
 「おお西」を出た後、上田城跡公園へと車を進め、上田城跡を散策し、真田神社に参拝した。以前は公園内に駐車場があったが、今は車は入れなくなっている。
 その後は一路別所温泉へ、程なく今宵の宿に着いた。会での別所温泉泊まりはこれで4度目、この宿は3度目だ。時間が早かったので、先ずはすぐ近くにある北向観音堂へ行く。ここの本堂は珍しく真北に向いていて、その先に善光寺があり、ここは現世の、善光寺は来世の利益をもたらすとか、両寺合わせてお参りするのが習わしという。また境内には「愛染かつら」のモデルにもなった桂の巨木もある。手水が温泉なのも珍しい。
 この宿は全館が畳敷き、従ってスリッパはなく、素足である。部屋はゆったりとした和室、男性の部屋にお茶やお菓子が置かれていて、皆でビールを飲み暫し寛ぐ。磯貝さんも漸く心置きなく飲めることに。夕食は午後6時、その間に最上階にある展望風呂へ行く。眼下には塩田平が広がり、露天風呂も付随している。泉質は単純硫黄泉で、美肌効果のある温泉とか、飲泉も楽しめる。案内があって食事処へ。お品書きを見ると、食前酒から留めの水菓子まで十二品、また1ヵ月前の予約の特典の4合瓶が2本、そのほか岩魚の骨酒4合、追加にお酒を4合、美食とお酒を存分に味わった。この間お喋りも談論風発、実に楽しい一時を過ごすことができた。これまでとは違った雰囲気とは何方かの言だった。

4.「安曇野 翁」 北安曇郡池田町中鵜 3056-5 TEL 0261-62-1017
 宿を出たのは9時半、ここから安曇野へはいくつかルートがあるが、宿の方の言では、南に位置する鹿教湯温泉を通る国道 254号線を通るルートが良いとかでそれに従う。トンネルと山道から開放されて安曇野に出ると、正面に常念岳が、いつ見てもさすが安曇野のシンボルだと思う。先ずは故久保さんに教わって以来、信州探蕎の折りには必ず寄っていた就一郎漬物本舗へ、でも火曜は定休日だった。それで翁に直行することにする。
 目指す翁は安曇野アートライン (県道 51 号線) を北上し、右折して上がった高台にある。時間は丁度
11 時、招かれて中へ入る。明るい清楚な佇まい、窓の外には大滝山から鹿島槍ヶ岳までのパノラマが展開する。この日は生憎少々雲がかかっているが、でも展望は素晴らしい。注文は前田さんが「田舎」のほかは皆さん「鴨せいろ」、ささは冷えた大雪渓、生き返るような気持ちだ。ここの主人の若月茂さんは、二八そば打ちの名人で翁を主宰していた高橋邦宏さんの一番弟子だった人、名人ゆずりのそばには定評がある。出てきたざるに盛られたそばは細打ち、コシが立っていて喉越しがよく、少し辛めのつゆに実にマッチしていて美味しい。申し分ない逸品だ。満足して翁を後にした。

5.大雪渓蔵元と道の駅池田
 どうして大雪渓の蔵元へ寄ることになったのかの経緯は不明だが、山から下りて県道 51 号線を北上すると、ほどなく蔵元直営店に着いた。このお酒私は長野では何度か口にしているが、翁でもそうだったように、冷やでの端麗な味が印象に残る酒だ。しかも大雪渓は白馬の大雪渓に因んでいるという先入観があったものだから、長野でも白馬村辺りに蔵元があるのだろうと思っていただけに、安曇野だったのは意外だった。試飲コーナーがあり、純米大吟醸酒や特別純米酒を頂いた。でも失礼だが大雪渓には辛口本醸造の冷やが最も似合っていると思った。皆さん思い思いにお酒を買い求められた。
 次いで更に北上して道の駅池田へ、私は帰路の国道 148 号線の道の駅白馬を推奨しておいたが、連絡がつかないとかで、ここで買い物を済ます。農産物から加工品まで数多くの品が並ぶ。暫し買い物に時間を費やし帰路へ。大町から国道を北上、天気が良ければ左手に白馬三山が勇姿を見せるのだが、生憎の曇り空。道はその後姫川の源流から河口の糸魚川へ、ここから北陸自動車道へ。ところで運転する磯貝さんには委員会開催の報、小矢部川 SA での清算は返上し、一路出発点の金沢駅西口へ向かう。前田さんの機転で、取り敢えず各自に2千円を還付することにし、残りは磯貝さんに渡す。

 帰途、磯貝さんでは遠距離でも運転しますという有り難いお言葉、前田さんとは再び村山市の「あらきそば」や丹波篠山の「ろあん松田」などにも挑戦できるかもと話し合った。乞うご期待。

2017年7月3日月曜日

久方ぶりの信州への探蕎行(その1)

1.出かけるまでの紆余曲折
 6月の探蕎行は信州へとなっていた。ところで会員が高齢化し、他人様を乗せて車で遠出するような場合、多くの場合、家族が反対する。これまで運転していた方でも、ある年齢になると、本人はその気になっていても、家族の了解が得られないことが多い。かくいう私も探蕎会での遠出での運転は憚られる。年齢が80歳ということもある。
 ところで5月22日に事務局の前田さんからの案内で、新しく松川さんの紹介で会員になられた磯貝さんの運転で、6月22、23の両日に信州へ行く予定とか。この募集に応じた会員は男5名、女1名、その後推移があって、24日には男4名、女2名となった。それで宿はこれまで2回利用している別所温泉の「七草の湯」を推薦し、それで訪ねる蕎麦屋に、22日は上田市別所温泉口にある「美田村」を、23日は上田市内にある「おお西」を推薦しておいた。それで事務局からは詳細なスケジュールが参加者各位にメールされ、出発は6月22日の朝7時半に金沢駅西口に集合ということになった。
 ところが6月7日のメールで、運転される磯貝さんは内灘町の町議さんなのだが、職務で22、23日を26、27日に変更したいとのこと、それで日程の変更から、参加者は女1名増の計7名となった。車はワンボックスカーということで、8名まで乗れるという。ところで費用は私の試算で概算3万3千円、それで会費は3万5千円とし、いつもの如く帰路に小矢部 SA で清算することにして、参加者には事務局から12日に案内して頂いた。ところで私は13日の朝、ひどい腰痛で寝返りもままならず、それで前田さんに事情を話し、参加できない旨連絡した。でも前田さんではまだ2週間あるから、3日前にもそんな状態だったら再度連絡して下さいと諭された。私は鍼灸に通い、5日目には多少よくなった。ところが19日に前田さんからの連絡で、今度は和泉さんが体調不良で参加できなくなったとのこと、私からも確かめたが参加できないという。すると和泉夫妻不参加で参加者は5名になったことから、前田さんからは他に参加できそうな何人かに連絡されたようだが埒が明かず、それで参加者にも今一度念を入れて可否を問われたそうだが、皆さん行きたいとのこと、この時点で前田さん自身が参加することに。これで最終的には男4名(磯貝、木村、前田、松川)、女2名(池端、松田)で出かけることになった。
 それで前田さんの意見も入れて、訪ねる蕎麦屋は初日は上田の「おお西」とし、二日目は安曇野へよって、池田の「翁」へ寄ることにした。ここには過去に一度訪れたことがある。こうして6人での信州への探蕎が実現することになった。

2.「手打百藝 おお西」 上田市中央4−9−8 TEL 0268-24-5381
 7時半に金沢駅西に集合し、金沢東 IC から北陸自動車道、上信越自動車道を通り、上田菅平 IC で下り、目指す「おお西」へ。店舗は旧柳町参道と旧北國街道が交わる地点にある。街道沿いの店の脇には延命水が湧き出ていて、店は参道に面していて、旧は商家だったという平屋建ての大きな店、表には一枚板に店名が記されている。この店は有名店なのだが、「ふじおか」と同じく、業界情報誌の取材を頑に受けないことで知られている。ただ上田市には、ほかに支店と系列店がある。ここの主人は大西利光 (かがみ) さんといい、「発芽そば切り」の発案者として知られていて、私は小布施の系列店には2回ばかり訪れたことがある。そばを発芽させるとは、えらく手の込んだ作業だが、発芽させることで栄養価が増し、甘味が増し、独特のぬめりと餅のような食感が出るという。もちろん十割にこだわっている。あまり追随されていないのは、面倒なのかそれとも特許が絡んでいるのかは分からない。でもとにかく一度本家本元で食べてみたかったのが本音だった。
 奥の古い木のテーブルに6人が陣取る。そばは「御前二色そば」、つきもののお酒は、この参道に蔵元があるという地のお酒、付きだしは山菜の漬物5種、私は焼酎の蕎麦湯割りも頂戴した。そばは大きな朱塗りのお椀に入ってきた。訊けばそばが乾燥しないようにとのこと、手繰ると細打ちのそばは、しゃきっとしていて、特に発芽そばはもちもち感が強く、この手のそばには余りお目にかかったことがない。量は多め、でも運転される偉太夫である磯貝さんは、ささの代わりに真っ白な更科を追加して召し上がっていた。私は念願のおお西での元祖発芽そば切りを賞味でき、満足だった。

2017年6月21日水曜日

東京からの客人を誘って「やまぎし」へ

 4月下旬に家内と信濃の中の湯温泉へ行った折、上高地を散策した後、昼食を宿に戻ってざるそばを食べることにしていた。ところでこれには予約が必要で、お願いしたところ OK だという。これを聴いていた東京から来たという女性が、私もお願いしますと頼まれていた。件の女性は見るからにキャリアウーマンという感じだった。でも前日の夕食でも、当日の朝食でも話す機会はなく、また翌日の上高地行きでも、全く話す機会はなかった。上高地から宿への帰りは、一旦路線バスで中の湯のバス停まで行き、一旦近くにある中の湯温泉の連絡事務所へ入り、ここから迎えの車の手配をお願いすることになっている。彼女とは上高地からの路線バスでも一緒、事務所でも一緒、それで事務所では彼女とはそれとなく家内が話をしたようだった。しばらく待って迎えのバスで宿に戻り、一緒に昼食のざるそばを食べた。3人のみとて、漸く話の糸口が見つかり、その後いろいろ会話した。
 訊ねると、彼女は世界各地へ旅行しているとのこと、そしていつも一緒な相棒は同級生だという。外国ばかりではなく、国内もあちこちに出かけられている様子、その上「そば」もお好きだとか。話が弾み、それで家内も一口乗って、「やまぎし」の極太の粗挽きそばの話を持ち出した。するとそれを一度食べてみたいとのこと、じゃその折は案内しましょうと。家内は携帯電話の番号を教えて、お出でる時は連絡して下さいと言って別れた。彼女は宿の車で、朝一緒に上高地へ行った外人夫妻を迎えに再び上高地へ行き、それから松本駅まで送ってもらうとかだった。私達も車で飛騨古川を経由して家に帰った。
 それから1ヵ月ばかり経った5月下旬、宿で会った件の女性から電話が入り、6月16〜17日の土日に友達3人と金沢へ行きますとのこと、それで17日の日曜日に件の「やまぎし」へお願いしたいとのこと、折よく行事もなく、御案内しますと家内は返事していた。その後お一人は子供さんが病気になったとかで、お二人を案内することになった。
 この方達はいつもグループで行動されているようで、金沢は初めてとのことだったが、私達が案内するまでのことはなく、事前にネットで十分に検索されていて、後でお聴きすると、私達よりはるかに上手なプランを立てておいでで、しかも格安で便利な方途を考えられていて、感心してしまった。もちろん「やまぎし」のことも、事前に調べられていたのは言うまでもない。
 6月17日の朝、9時半に宿舎の「兼六荘」へ迎えに行く。ここは私学共済の宿舎で、何度か東京の叔父を迎えに行った記憶がある。今は正式には「ホテル金沢兼六荘」と呼ぶとか、通りを挟んだ向かいには、金沢城公園への甚右衛門坂口がある。ここで信州で会った S さんと、彼女の友人の K さんを載せて、旧鳥越村左礫へと向かった。
 話を伺っていると、土曜の1日はかなり濃密なスケジュールだったようだ。メインは友禅の浴衣を着てのひがし茶屋街の散策、昼は玉泉園で昼食、その後兼六園や金沢城を巡られた由、中々旅慣れておいでだ。それで当日のスケジュールを訊くと、高崎在住の K さんは金沢発 14:50 発の「はくたか」で、S さんは 16:47 の「かがやき」で帰られる由、それで金沢駅へ午後2時と4時に寄られるように車を走らせることに。2人を乗せた後、いつものように山側環状道路から手取川を渡り、大日川を遡行する。そして左礫にある「やまぎし」に着いたのは 10 時 30 分、開店1時間前、待つことにして中へ入れてもらう。注文は「田舎粗挽き」「天ぷら」を各4、隣の渡津部落の蛍米の「おにぎり」を2個、そして小生
の焼酎「財宝〕2杯。待つ間、昨年夏に「男の隠れ家」別冊で紹介されていたのでお見せした。K さんの旦那さんは殊の外そば好きとかで、資料をスマホに収めておいでた。
 今日は予約で満員の由、それであってか、11 時にはもう粗挽きが出された。今日は5人体制 (山岸さん夫妻、弟さん夫妻、妹さん)、11 時までに私達のほかにも3組8人が席に着いていた。訊ねると、定刻の 11 時 30 分にはライダー一行 46 人が予約済みとか、凄い人気だ。粗挽きはヒマラヤの岩塩でも食べることを勧める。こんなのは初めてだと彼女たちは驚いておいでだった。天ぷらはもう粗挽きを食べ終わる頃に出てきた。おにぎりは彼女たちが食べたが、実に美味しそうだった。そして終わる頃に、自動二輪の大部隊が到着した。良いタイミングで席を譲れた。
 2時まで1時間半あるので、五十谷の大杉を見て帰ることにする。一旦本流の谷を下って神子清水から相滝へ、ここから支流の堂川を遡って五十谷の八幡神社境内にある石川県天然記念物の大杉を見に行く。弘法大師ゆかりの杉とか、横に張り出した太い力枝は実に圧巻だ。以前この神社の隣には、後藤さんという人が「登竜門才次郎」という蕎麦屋を開いていて、そばと岩魚が売りで、「男の隠れ家」にも紹介され、知る人ぞ知る評判の店であったが、今はなく、荒れ果てている。その後車でさらに奥へ進み、尾小屋と阿手とを結ぶ道路を左折した後、旧鳥越高原大日スキー場の脇を通り、大日川に沿って下流へ、そして再び左礫に出た後、朝来た道を金沢へ、途中我が家の前を通って、定刻に金沢駅へ着いた。そしてもう一人の S さんは少々時間があるので、その後国道8号線沿いにある「箔一」へ案内した。金箔の生産量の 95 %は金沢での生産とか、だからか特に県外からの人達の見学が多い。私達が寄った折にも、2台の県外の大型バスが駐車していた。その後金沢駅へ。彼女たちは今秋は中国奥地への探訪を計画しているとか、快活でとんでいる女性連だった。

2017年6月12日月曜日

微生物学教室に2年間在籍した想い出

 私は昭和34年に金沢大学薬学部を卒業し、石川県衛生研究所へ薬剤師として採用された。県では当時能登地区での河川水による簡易水道の普及に力を入れていて、その水質検査に追われていた。ところで当時の石川県は全国有数の結核と赤痢の王国とまで言われていて、折しも起きた大規模な集団赤痢が発生した折、私はその応援に駆り出された。化学検査から全く未知の細菌検査へ、当初苦労したが、1年もやっていると元へ戻れなくなっていた。そこで金沢大学医学部衛生学教室から赴任されていた三根先生の働きで、私が国立公衆衛生院の微生物コースを受講し、3ヵ月後に帰任した際、今後衛生研究所でもウイルス検査をしなければならなくなるということで、金沢大学微生物学教室へ三根先生と同道し、西田先生にお願いし、波田野先生の下で専修生として御指導頂くことになった。昭和37年4月のことである。当時の教室は重厚な木造2階建ての建物、1階が微生物学教室、2階が衛生学教室だったように記憶している。
 当時衛生研究所は (旧) 石川県庁の裏手にあり、半日勤務の後、午後2時頃から7時頃まで教室にいた。当初波田野先生からは空気のような存在であれと言われ、当時助手だった森田さんの手伝いに徹した。彼は金沢泉丘高校の1年後輩で理学部出身、特にウイルス検査に必須のガラス器具の洗浄には特に慎重でなければならず、これには大変気を遣った。そして間もなく、波田野先生は2年間の米国留学に出かけられた。この間私は森田さんから、ウイルス検査の基礎となる組織培養やふ化鶏卵でのインフルエンザウイルスの増殖の手技を教わった。これはそれまで国立予防衛生研究所がやっていた冬季のインフルエンザ流行時の検査を、地方の衛生研究所でやらねばならなくなった時に大いに役立った。
 ところで昭和39年4月、前年創設された癌研究施設にウイルス部門が追設されることになり、その部門の教授に留学から帰任された波田野先生が就任され、私も微生物学教室から癌研究施設に移ることになった。しかしまだ研究室はなく、以前の助教授研究室での研究は続いた。森田さんの指導のお陰である程度の技術はこなせるようになり、波田野先生からは帰任後に、先生が持ち帰られたインフルエンザ株の株間の差異を血清学的に解明するテーマを頂き、微生物学教室の一画で没頭した。しかし1年後にはプレハブの新しい施設が出来上がり、そこへ引っ越した。
 当時の微生物学教室には何故か耳鼻科の先生方が多く、野球好きだった西田先生の下、1チームが作られていたようで、雨の日など、廊下では西田投手と森田捕手のコンビでの投球練習が見られたものだ。そして教室には、薬学部の1年後輩の山岸さんが、もう学部在籍の頃から微生物学教室に所属されていて、そんな縁もあって所属されていた他の専修生の方々とも顔見知りになった。貴重な経験だった。
 その後癌研究施設の方は結核研究所と合併し、組織も新しく「がん研究所」となり、建物も医学部敷地に新設された。私も正式にテーマを与えられ、昭和49年には、波田野先生の主査、西田先生の副査で学位審査が行われ、翌昭和50年2月には学位が授与された。そして2年ばかりだったが微生物学教室に所属していたこともあり、西田先生の特別なお計らいで同門会の末席に名を連ねさせて頂くことになった。そしてその後2回ばかり同門会の幹事もさせていただいた。随分昔のことだ。

「注」上記の文章は、同門会誌の「楷樹2017〜金沢大学医学部微生物学教室同門会〜」への投稿原稿である。

2017年5月28日日曜日

初めての「いしかわ動物園」

 当初、長男との恐竜博物館と越前海岸へのドライブを5月8日に予定していたが、それを5日に実行してしまったので、8日に空きができた。どうも5日に私が地元にある「いしかわ動物園」に行ったことがないと話していたらしくて、この日動物園へ行かないかと打診があった。委託してあった田植えも終わっていたので、一緒に出かけることにした。

「いしかわ動物園」 石川県能美市徳山町 600
 長男が帰郷したのは5月3日、出入り1週間で9日に帰浜するという。8日の9時過ぎに家を出た。通称加賀産業開発道路の県道22号線を旧辰口町へ向かう。辰口温泉 への分岐を過ぎると、左手に大きく動物園入り口の案内板、この道路はよく利用していて、この看板はよく目にしてはいるが、この動物園前の交差点を今まで左折したことはない。
 交差点から動物園入り口まではかなりの距離があるようで、一般道から取付け道路へ入ってからもかなり距離があるように感じた。後で気付いたのだが、目的の駐車場へは動物園をぐるっと一周していたようだった。場所は小高い丘にあり、行き着いたのは9番目の P9 という最も奥まった所にある駐車場、数百台は駐車できようか、でも平日のこの日は車は十数台しか停まっていない。一角に階段があり、下の方には正面ゲートが見えている。チケットを求めて中に入る。
 入ると正面に「アシカ・アザラシたちのうみ」というプール付きのステージがあり、ここにはアシカ、ゴマフアザラシ、バイカルアザラシがいる。面積は広いが、ここには各1頭のみ、このスペースからすると、この2〜3倍の頭数がいないと、あまりに閑散としていて、歯が抜けているような感じだった。
 左手にあるスロープをぐるりと回って上ると、次は「サルたちの森」という大きなケージの前に出る。ここには、リスザル、ワオキツネザル、ブラッザモンキー、テナガザルの4種の猿たちが同居している。中には遊具がいろいろあり、気侭に楽しんでいる。はしゃいでブランコなどで戯れていたのはテナガザルで、よくぞ器用にと思って眺めていたが、しかしあの旭川市の旭山動物園の迫力からすれば、数も規模もこじんまりしている。
 道路を挟んだ向かい側には、「小動物プロムナード」というコンクリートの建物があり、ここには、レッサーパンダ、ケープハイラックス、マーラがいた。いずれの動物も愛嬌があり、心が和む。
 次いで「イヌワシの谷」というケージ、イヌワシはじっとしていた。イヌワシは飛翔していてこそ壮観なのだが。でもこのケージの中では飛ぶことはままならない。
 少し歩くと「ネコたちの谷」という一画がある。トラ、ライオン、ヒョウのほかにユキヒョウがいた。ユキヒョウは灰白色の地に黒班の体毛と太い尾、テレビでは何度かお目にかかっているが、実物を見たのは初めてだった。ヒマラヤに住むのだが、夏はオープンでの暑さには大丈夫なのだろうかと思ったりする。
 次いで「オーストラリアの平原」という一画、ここにはカンガルー、ワラビーとエミューが。エミューはダチョウの仲間の鳥、この鳥は私にとって初のお目見えだった。
「郷土の水辺」という一画には、こちらでは激減したトミヨやホクリクサンショウウオがいた。
「南米の森」のケージには、ワタボウシタマリン、ナマケモノ、そして嘴が巨大なオノオオハシがいた。この鳥は初見だった。ナマケモノもなかなか愉快な動物だ。
 次いで寄った「ふれあいひろば」では、丁度お昼時ということもあって、マゼランペンギンに餌の鰺を与えているところだった。30羽近くいる個体を給餌員は覚えていて、なるべく満遍なく与えるのだとか。でも時に餌を池に投げ入れると我先に取り合うが、その動きは水中では実に俊敏、くわえるとすぐに飲み込んでしまう。でないと横取りされてしまう。しばし見とれていたが、動きは陸の上と水中とでは全く別の様相、楽しめた給餌時間だった。
 私達もレストランで食事をした後は、「水鳥たちの池」へ、ここには番いのオシドリもいた。
「カメたちの広場」には、ゾウガメがいた。大きい。初めて見た。
「メダカたちの池」には、メダカのほかにイトヨもいた。絶滅が危惧されている種だ。
「バードストリート」には、インドクジャクの雄がいたが、羽はたたんでいた。別のケージには、オオタカやシロフクロウもいたが、もう少しケージが広ければよいのにと思った。
 休憩所を過ぎると、奥にトキの繁殖施設がある。現在は20羽近くいるとかだが、ここは立入禁止区域、一般の人は新たに作られた「トキ里山館」へと案内される。ここはフリースペースでかなり広く、この動物園の目玉として設えられた。上部は網で覆われていて、池の向こう側にはトキの巣が高みにあり、ここにペアがいるのが見えている。一羽がしゃがんでいて、一見卵を温めているように見える。ぐるりと回ると、巣の近くまで行くことができるが、できればトキが優雅に飛翔しているのを見たいものだ。今後に期待したい。
 その後は動物園の定番であるキリンやシマウマなどがいる「アフリカの草原」、インドゾウがいる「ゾウの丘」、老齢のカバのデカが死んでコビトカバが代わりに入った「カバの池」、さらに「チンパンジーの丘」と「オランウータンの森」などを巡った。
 そして最後は中央にある大きな池に周りの草原にある「ツルたちの水辺」、ここにはタンチョウ、マナズル、コウノトリがいるとか。私達が行った時、丁度給餌員が餌の魚を与えているところだった。私達が見たのは、ペアのタンチョウとコウノトリ、餌の捕り方を見ていると、優雅で大きなタンチョウが一番威張っているように見えた。   こうして一巡りを終えた。

閑話休題
 後日知ったことだが、私達が見たトキのペアは、公開されて初めて1個の卵を生み、抱いていたのは偽卵だが、本物のは人工孵化器で誕生させ、その後雛を巣に戻したという。今後が楽しみだ。 

2017年5月27日土曜日

5月連休の福井県立恐竜博物館

 横浜に居る長男が帰省した時には、大概私達夫婦と一緒に車でドライブするというのが常で、いつもは長男がコースを設定してくるのだが、今回はこちらで企画してほしいという。それで私が選定したのが、これまで一度は行きたいと思っていた福井県勝山市にある福井県立恐竜博物館である。その後は越前海岸でもドライブすればよいのではと思った。

「福井県立恐竜博物館」 福井県勝山市村岡町寺尾 51-11
 出かけたのは5連休真ん中の5月5日、朝8時半に家を出た。国道159号線を南下し、白峰から谷峠を越えて勝山へ、道中まだ残雪が見られ、山肌には山桜が咲いていた。峠を越えると、残雪の大日岳が眩しい。長い坂を下って勝山の町並みが見える辺りを右に折れる。ところがこの交差点、勝山方面からの車は数珠つなぎ、改めて人気の施設なのだと実感させられた。そして取り付け道路に入ると完全にのろのろ運転状態、時間は9時10分、開園は9時だろう (実はこの日は8時30分)と思われるが、さてここから駐車場入り口までどれ位距離があるのか見当がつかない。ともかく近くにある駐車場は既に満杯だ。そして30分ばかりして漸く駐車場入り口へ、あとでパンフレットを見ると、乗用車1500台、大型バス10台のスペースがあるという。とのかく休日の混雑は想像を絶する混雑ぶりだ。
 車から下りて本館へ向かう。途中化石を発掘体験できるコーナーの脇を通ったが、1日4回体験できるこの作業は全て満員とのこと、絶大な人気があるらしい。暫く歩いて、銀色のドームのある本館へ向かう。沢山の人がひしめいている。エントランスホールから中へ。
 石川県にも、手取層とか桑島層とかいう化石が出る先駆となった命名地層があり、その桑島地内には「白山恐竜パーク白峰」という施設がある。でも命名の発端となったこの地域は、国立公園内ということもあって発掘はできず、偶然に公園外の勝山地内の同じ地層から恐竜化石が出たこともあって、今ではこの地が本命となっている。
 先ずは本館1階の「恐竜の世界ゾーン」へ。館内には所狭しと並んだ恐竜の全身骨格、圧倒されてしまう。白峰の施設と比べると、学術的な分類がしてあり、しかも実際に発掘された化石が9割以上の骨格標本も9体、中にはアメリカで発掘され、この施設でクリーニングして組み立てられた標本も展示されていて、とにかく規模も学術的価値も数段高い。私が小さな時に恐竜に興味を持った時には、恐竜の分け方は草食竜、肉食竜、翼竜とか位だったが、ここでは恐竜は大きく竜盤目と鳥盤目に、前者はさらに竜脚形亜目と獣脚亜目に、後者はさらに鳥脚亜目、周飾頭亜目、装盾亜目に分けて展示され、しかも学名まで記されている。さらに驚いたことは、子供たちがそれを当然の如く口にしていたことだった。ジオラマ「中国四川省の恐竜たち」のコーナーは、動きのある恐竜に出会えるコーナーだった。
 次いで同じフロアの「地球の科学ゾーン」へ。ここでは「水と地球」「火と地球」をテーマに、陸や海の堆積物、年代別の化石、隕石、いろんな鉱物、岩石、地層の展示がされていた。また外周には福井県勝山市で発見された5種の化石標本6体、コシサウルス、フクイベナートル、フクイティタン、フクイサウルス、フクイラプトルが、またほかに「手取層群の恐竜」「日本の恐竜」「アジアの恐竜」のコーナーもあった。
 次いで1階の外周のスロープを1階のゾーンを俯瞰しながら上がり、2階の「生命の歴史ゾーン」へ向かう。ここでは生命の誕生から人類までの進化に触れることができる。まず古生代のコーナーでのテーマは、「生命の誕生」「脊椎動物の出現」「陸上への進出」「大森林が育んだ動物たち」、次いで中生代では、「中生代の海」「海と空の爬虫類」、そして古い順に、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の「恐竜時代の森」の再現、そして新生代のコーナーでは、「花咲く植物と哺乳類の繁栄」「哺乳類時代の海」「哺乳類時代の陸」、そして最後は「自然の中の人類」で締めくくられている。各コーナーには、展示などを説明するビデオライブラリーやコンピューターで情報を閲覧できるネットライブラリーがあり、多くの人が利用していた。でも見ていて真に熱心なのは子供たちだった。また3階には映画館やライブラリー、ミュージアムショップ、レストランなどがある。こうしてざっと2時間ばかり、一通り見て回ったが、今度来た時には、もっとゆっくり時間に余裕を持って、じっくり観察したいものだと思った。やはり休日は混むとかで、平日に訪れたい。
 ここの開館時間は午前9時〜午後5時、休館は第2・第4水曜日と12月29日〜1月2日、幼時と70歳以上は無料だそうだ。
「付記」 年間入場者数は、福井は100万人、白峰は2万人と大きな差がある。

「越前海岸」をドライブ
 恐竜博物館を出たのは正午少し前、帰りの駐車場から国道への交差点までもかなり混んでいた。しかも国道へ出てからも入る車は延々と続いていて、この人達は夕方までに入れるのだろうかと訝ったほどだ。私達は福井北 IC から 高速道に入り、武生 IC で下り、越前陶芸村の脇を通り、越前海岸へ出た。途中の山越えで、昼食に季節限定の「竹の子定食」を食した。その後、道の駅「越前」へ寄り道し、後はひたすら海岸線の国道305号線を北上し、越前岬の水仙の里公園を経て、東尋坊へ、休日ということもあって、ここも人でごった返していた。こうしてデューティーだった長男とのドライブは終わった。

2017年5月2日火曜日

春の「やまぎし」

 家内は中の湯温泉の宿で、妙齢の女性に「やまぎし」の田舎粗挽きを吹聴していたが、実は家内はこれまでまだ食したことはなく、それで一度ぜひ食べたいという。それで4月29日の祝日に出かけることにした。10時半には開いているので、1時間前の9時半に家を出た。良く晴れていて暖かい。道が空いていたせいもあって、40分ばかりで着いた。すると家の道路脇には数台の乗用車、もうお客がと訝って中へ入ると、それは山岸さんの関係の方のものだった。駐車場に車を停めて玄関に入ると、もう少しお待ち下さいとのこと、早くてまだ券売機も作動していなかった。中で休ませてもらうことにして家に入ると、中はすっかり模様替えされていた。訊くとここでコンサートを開くことになり改装したとかだった。畳敷きの二間は板張りに、新しく白木の2脚の座机、外のベランダにも1脚のテーブルと2脚の椅子、板張りも座机も山岸さんの自作、素晴らしく器用だ。これでざっと33人は入れよう。
 券売機が稼働し、「田舎粗挽き」「天ぷら」「礫焼き」を各2人前、飲み物は家内はノンアルコール、私はいつもの財宝(薩摩芋焼酎)を2杯頂くことに。今日はいつもの常任3人に妹さんの娘さんが助っ人。今日は天気が良いので外で食事されたらと言われ、簀の子のベランダ(もちろん手製)へ。辺りには山吹が咲き、キケマンが咲き乱れ、向かいに見える鷲走ヶ岳へと続く山並みの中腹には、ところどころ白い芽吹きのように見えているのはスダジイの花だろうか。この場所で食するのは初めてだ。まだ早くて「そば」は出来ないが、飲み物が先に届いた。山の清涼な空気を吸っての一服は実に清々しい。そしてややあって「田舎粗挽き」の登場、私は蕎麦汁をつけて食べることもさることながら、淡桃色をした岩塩をまぶしても食べ、家内にも推奨した。家内は一口食べて、ほかの「田舎」や「白」にはない独特の味わいに感動したという。それに野外にも似た場の雰囲気が、さらにより感動を高めたような気がする。天ぷらも美味しかった。地元の十種の野菜にタラの芽とコシアブラ、量は少しづつだったが、美味しく満喫した。
 食事が終わりに近くなって、一人の御仁が来られ、簀の子に直に座られ、お酒を飲みながら共に談笑した。山岸さんの友人とか。コシアブラは大木になると木の芽が採りにくくなるので、ある高さで伐った方がよく、それでこの時期山に来ているとか。いつか探蕎会で東北の白布温泉へ行った時に見たコシアブラの喬木を思い起こした。水と縁が深いとも話された。またここから見上げる山にも時々出かけるとか、昔植林に際して開いた山道があり、鷲走ヶ岳へと続く尾根に登ることができるとも。お陰で楽しい時間を過ごすことができた。
 今年の4月18日付けの北國新聞の「白山百人百様」という欄にそば職人「山岸 隆」さんの紹介があった。繁盛していた金沢駅近くで8年間開いていた店を閉めて、故郷の白山市左礫の生家で開業した経緯が書かれていた。これまで私は書かなかったが、山岸さんは元石川県警察本部刑事部長だったと記されていた。左礫での開業は2016年3月である。

2017年5月1日月曜日

春の中の湯温泉と上高地

 叔父の他界で延期になっていた中の湯温泉行きを、初七日の法要を終えた4月20日にすることにした。東海北陸自動車道を飛騨清見 IC で下り、中部縦貫自動車道を通り高山市へ、青空に真っ白な雪を纏った乗鞍岳が素敵だった。時間が早かったので、先ずは飛騨一ノ宮にある国指定天然記念物の臥龍桜を見に行くことに。ナビに従って行くが分かりにくく、後で分かったことだが、高山本線の飛騨一宮駅のすぐ側だった。見頃は25日とか、でも咲き始めていた。幹の形が龍が地を這っているような姿をしていることから名付けられたそうだが、台風で損傷し、現在は枝の一部は地中に潜っている。種類はエドヒガン、樹齢は千百年とか、満開だとさぞ壮観だろう。茶屋で手打ちという笊蕎麦を食べた。まずまずなのに安堵した。
 再び高山市内に戻り、国道158号線、次いで安房トンネルを通って中の湯へ、温泉宿は峠への8号カーブの手前左の台地に建っている。まだ雪は多い。チェックイン前だったがロビーで寛ぐ。秘湯温泉ビールが美味しい。窓の外には真っ白な明神岳と前穂高岳、それに近くには霞沢岳、近くの林にはカラが飛び回っている。重装備した登山者が宿の傍らを通りラッセル跡を辿り焼岳へ向かうのが見える。今冬は雪が多く、落雪で壊れた露天風呂を囲む塀を修繕していた。チェックインの際に、明朝上高地へ行かれますかと。開山祭前なのにと訝ると、OK だという。この日の宿泊者は私達2人と、ほかに外国の方2人と女性1人、昨晩は11組だったとか、私達も何度か泊まっているが、いつもほぼ満員だったので、こんなに少ないのは正直初めてだった。
 翌朝の出発は8時半、5人とも上高地へ、バスターミナルで下りた。外国の方はここで0時半に宿の車が迎えに来て、松本駅まで送ってもらうという。昼食は宿で蕎麦を出せますということで、予めお願いしておいた。上高地はバス道路以外はまだ一面の雪景色、でもターミナルには観光バスが何台も、そして何故かその多くが外国人、異郷の地へ来たような錯覚を覚える始末だ。風はまだ冷たい。この時期、まだこのバスターミナルと河童橋の間のみしか散策できない。橋の袂にある35 (トロワ・サーンク) という喫茶店に入り紅茶とコーヒーを飲み、外の風景を観て楽しむ。1時間ばかり居て、10時半発の定期バスで中の湯へ、そしてここから宿の迎えの車で宿へ、もう一人の女性も一緒だった。彼女も蕎麦好きとか、昼は一緒に宿で「ざるそば」を食し談笑した。彼女は世界のあちこちへ旅行しているというスーパーウーマン。金沢にも魅力があるとかで、家内はコンタクトできるように、メールアドレスの交換をしていた。その折に家内は「やまぎし」を吹聴していた。彼女はぜひ行きたいという。それで中でも家内はまだ一度も食べていない「田舎粗挽き」が特に素晴らしいと推奨していた。

2017年4月24日月曜日

ゼレン会への近況報告(木村)

1.ゼレン会
 これは昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した同期生の会の名称で、元素番号34のゼレンに因んで名付けられたと聞いている。というのは、私は卒業時には大量に吐血して入院していて、その経緯を後になって知らされたからである。
2.現在は十病息災
 人間80歳ともなれば、健康で五体満足という人は少ないのではなかろうか。私はかなり強度の不整脈があり、それでペースメーカーを装着してもう14年、そのチェックに年に2回、金沢医科大学病院心臓外科に受診している。また50歳の時に見つかった糖尿病で、現在は3ヵ月に一度の割合で、金沢赤十字病院を受診し、フォローしている。これまでも眼(黄斑変性)や膝(半月板損傷)の手術を受けたし、ひどい腰痛に悩まされ、随分とあちこち転院して治療や施術を受けた。でも今でも痛みは時々あり、週に1〜2回は鍼灸にも通っている始末である。耳鳴りにも悩まされているが、この処置はしていない。
3.うぐいす
 家の裏には孟宗竹の薮があり、ほかにケヤキとスギの高木が各2本とメタセコイア、ブナガシワ、タブノキも繁っている。私が小さい時にはケヤキやエノキの大木があったが今はなく、今あるのはこれらを伐採した後に生育したものである。そのほかに庭には、調べたところ、現在65種の灌木が繁っている。またこれまで40種の木々が無くなっているし、昨年もコブシとエンジュが枯れて伐採した。しかしまだ繁みは多く、多くの鳥が訪れる。その中にウグイスがいる。今年は2月半ばに飛来して、4月下旬の今も終日啼いている。このような繁みのあるのは、近くにあるもう1軒と神社の繁みのみで、この範囲が縄張りのようである。また椿の木にはキジバトが営巣していて、抱卵の最中である。またカラ類のシジュウカラやコガラもよく飛来するし、ヒヨドリやオナガも常連である。また裏庭には用水が流れていて、以前魚がいた頃にはカワセミも飛来していた。
4.一部ダンシャリ実施
 家内はとある医院に創設以来31年間勤務していたが、どうやら辞表を受け取ってもらえることになり、1月末で退職できた。家内は75歳、私も辞めたのは75歳だった。医院は総員38名、全員から寄せ書きが送られ、盛大な送別会をして頂いた。ところで半数の20名ばかりが、私の家でもう一度送別の宴を設けたいとのこと、それに応えるには十分なスペースの確保が先決、それで部屋とそれに続く蔵の前に山積みになっていた諸々の物を整理した。それで市役所のエコステーションへ3日に分けて運び込んだが、これには市役所の人達もあきれ顔だった。でもまだこれはほんの序の口、まだその十数倍もの物を整理しなければならず、往生するまでには何とかしたいと思っている。しかし断捨離とは言っても楽じゃないと思った次第。残したいものは前の倉に整理して収納したいと思っているが、さて先が思いやられる。
5.叔父・木村久吉の他界
 叔父は94歳だった。伴侶を亡くしての独り身、訪問看護を受けていたが、今冬は寒いからということで介護施設で過ごしていた。それで息子さん達は在京ということで、年に一度位しか来沢されないこともあって、私達は月に3度位の目安で叔父を訪問していた。それで3月27日に訪問したときはお元気で、いろんな話をし、時に施設では料理も手伝ったとか、楽しい会話で終始した。ところが翌々日の早朝家に電話があり、前日の晩に肺炎と心不全で救急車で国立病院機構金沢医療センターへ搬送され、CCU で治療中とか。早速駆けつけると、酸素吸入はしているものの、容態は概ね落ち着いているように
見えた。でも担当の先生では、いつ急変するかもしれないとのことだった。CCU では酸素マスクをしていて会話はできないが、寝ながらだけれどもボードにサインペンで筆記はでき、希望や心境をいろいろ書いてくれた。「サヨナラ」「オワカレ」とも。家内には「たかこさん ありがとう」と。また「お水ほしい」「お酒」とも。お酒はともかく、水を非常に欲しがったが、水は誤嚥を招く恐れがあるとのことで、絶対ダメとのことだった。CCU での面接は午後2時半から3時までと決められていて、私達夫婦は毎日この時間帯に訪問するのを常にしていた。容態が安定していることもあってか、入院8日目には一般病棟に移された。でも酸素マスクは外せないこともあって、口から食事は取れず、流動食を経鼻摂取する状況が続いた。この間息子さん達も見えられ、意思の疎通はあったようだ。でも一般病棟へ移って1週間後の早朝、容態が急変して亡くなったと病院から電話が入った。亡くなったのは4月12日午前7時42分とのことだった。2人の息子さんにも早速連絡した。主治医では息子さんの立ち会いの下で死亡を確認するとのこと、一人が立ち会えたのは9時15分、だから死亡診断書の死亡時刻はこの時間になっていた。死因は細菌性肺炎となっていた。老人での肺炎は時に致命的というが、正にそうだった。高齢者の細菌性肺炎の予防接種が叫ばれているが、叔父はしていたのだろうか。
 叔父は生前「しらゆり会」に登録していて、そのことは私も何度か聞いたことがあったし、息子さん達も承知していた。亡くなった後、息子さんから金沢大学医学部附属病院へ連絡したところ、いろんな条件があったもののクリアされ、遺体の引き取りは正午ということに。それで引き取りには火葬許可書が必要とのことで金沢市役所へ。そしてもう一人の息子さんも見えられ、正午に叔父を見送った。葬儀は4年か5年後に遺骨が届いた段階で行なうことにし、取り敢えずは、檀那寺である金沢市中央通町(旧宝船寺町)の法船寺で初七日法要を行った。合掌。

2017年3月10日金曜日

久々に感動した OEK 演奏会

 4月7日の晩に OEK 第388回定期公演があった。近頃は指揮者にしても演奏者にしても、私が過去に聴いたことがあるとか、名前を知っているとかという方の演奏会は少なくなってきたような気がする。また昨年まで行われてきて人気があったゴールデンウイーク中に行われてきた音楽祭のラ・フォル・ジュルネ金沢も、今年からは「いしかわ・金沢 風と緑の楽都音楽祭2017」として、金沢独自の催しに変身することになった。昨年までの人気がどうなるかが気掛かりである。
 さて当日の開演は午後7時、指揮&チェンバロ演奏が鈴木優人さん、ヴァイオリンが木嶋真優さん、私にとってはお二方とも初めての人だった。プロフィールを見ると、鈴木さんはオランダ生まれの56歳、東京芸大大学院修了、オランダ・ハーグ王立音楽院修了という経歴で、現在は NHK FM の「古楽の楽しみ」のレギュラーだとか、鍵盤 (チェンバロ、オルガン、ピアノ) の奏者で指揮者、バロックから現代音楽までこなし、舞台演出から作曲までこなす寵児とか。一方の木嶋 (きしま) さんはまだ30歳そこそこの綺麗な方、ケルン音楽大学大学院を首席で卒業、昨年のアイザック・スターン国際ヴァイオリン・コンクールで優勝されたとある。そして使用している楽器は貸与されているストラディバリウス1700 製の Ex Petri とある。
 最初は大バッハの管弦楽組曲第3番ニ長調、この第2曲目にはよく知られる「G 線上のアリア」の「エール」が入っている曲である。鈴木さんはチェンバロを弾きながらの指揮だったのと、オーケストラの音響が大きかったこともあって、聴いていてどちらつかずの演奏になったような気がした。だからこの演奏会もこの時点までは、予想通り今回は余り期待できないのではと思っていた。チェンバロの演奏が入るのなら、管弦楽の規模をもっと小さくすればよいのではと思った。ただフルメンバーの3分の2ではあったのだが。
 さて次いでは木嶋さんの独奏でモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」、よく知られている曲だ。モーツアルトには確実に彼自身の作とされるヴァイオリン協奏曲が5曲あるが、何故か5曲とも19歳の1775年に作曲されていて、それ以降には全く作曲されていないのも謎の一つになっている。そしてこの曲の通称名は、第3楽章に出てくるトルコ行進曲の特徴的なリズムによっていることもよく知られている。さて曲が始まった。颯爽とした力強さと細やかさ、それにストラディバリウスが醸し出す優雅なホール一杯に響き渡る素晴らしい音色に度肝を抜かれた。正直言って実に驚いた。こんなに素晴らしい演奏は久しぶりだった。それと若々しい清純なお色気、凡そ30分ばかりの演奏だったが、実に素晴らしく感動した。正に万雷の拍手、スタンディングオベーションをしている人も数十人、私は立ち上がらなかったが、それでも力一杯の拍手を続けた。そして何回かの挨拶の後、これに応えてアンコールをしますという。でも私独りではできないので、指揮者のピアノ伴奏で行いますという。前が広く空けられ、ピアノが運び込まれた。曲はグラズノフ作曲の瞑想曲、ピアノ伴奏のヴァイオリン曲、5分ばかりの優雅な曲、実に素晴らしく、再び万雷の拍手、本当に惜しみない拍手が会場一杯に鳴り響いた。素晴らしかった。
 20分間の休憩の後は、OEK フルメンバーによるベートーベンの交響曲第2番ニ長調、指揮者の鈴木さんはこの曲の指揮で正に真価を発揮されたような気がした。9曲ある交響曲の中では比較的演奏機会が少ないとはいえ、ベートーベンが難聴の進行に気付き「遺書」を書いた時期に作曲されたことで知られる。4楽章を通して、鈴木さんの素晴らしい迫力ある演奏は聴衆を完全に虜にしてしまったようだ。これが鈴木さんの真価なんだと聴衆が納得させられた演奏だった。演奏に酔いしれた後は素晴らしい拍手の嵐、またもスタンディングオベーションが起きた。鳴り止まない惜しみない拍手の嵐、35分ばかりの演奏の一瞬一瞬に、本当に心が揺さぶられる感動を味わった。ありがとう。本当に有り難う。
 鳴り止まない拍手に応えてのアンコール曲は、モーツアルト作曲の「フィガロの結婚序曲」、皆さん周知の優雅な流れるような楽しい曲、興奮を鎮める清涼剤とでも言える演奏に皆さん聴き入っていた。再び万雷の惜しみない拍手の嵐、指揮者の鈴木さんは何回も何回も挨拶に出て来られた。そして最後にスタッフ全員で挨拶され、素晴らしい演奏会は幕を閉じた。いつもは終わると皆さん出口へ殺到されるのに、この日はこの感動に酔いしれたのだろうか、席に座ったままの方が多く見受けられた。本当に素晴らしかった。
 追記:この日のコンサートマスターはゲストの水谷 晃さん、特にベートーベンの交響曲第2番では、指揮者の鈴木さんに呼応して、実にオーバーとも思える弾き振りが実に印象的だった。これぞコンサートマスターのお手本ともいうべきか。

これからの探蕎会の運営

 平成29年の探蕎会の総会が2月26日の日曜日に ANA ホリデイ・イン金沢スカイホテル10階の「白山」で開催された。よころで昨年暮れに開かれた世話人会で、前田事務局長からの報告では、年々会員数が少なくなる傾向にあり、何とか対応策を講じないといけないとの発言があった。振り返ってみて、総会の出席者数を見ても、多いときは80名を超えていたのに、昨今は30名前後で推移していたのに、今年はたったの18名と、これまでで最も少ない参加者数となった。
 この現状にどう対応するかが問題なのだが、一案としては、会をより緩い関係の同好会的な雰囲気の会にすればという案が出された。そこで現在ある会則を改めること、行事ごとに何方かにお願いしていた原稿執筆依頼を止めて、単に記録を残すに止めること、従ってこれまで最低年2回は発行していた会誌の発行を年1回とし、配付は総会時に行なうこととし、そうすれば年会費は1千円でよくなること等の案が事務局から出された。
 総会当日、寺田会長は奥様が亡くなられるというご不幸があり出席されなかったが、永坂副会長の挨拶の後、約1時間をかけて、これからの会の在り方について討論した。ただ総会では新しい会則の承認までは漕ぎ着けられなかったものの、大筋では事務局案に添ったものになるであろうと思われる結論に至った。主な改正点の案は次のようである。
 ・永世会長、顧問、副会長、会計監査等の役職をなくする。
 ・総会は年1回とし、総会での審議事項を明記する。
 ・会費は年額1千円とし、会計年度を4月1日から翌年3月31日とする。
 ・総会は4月に行う。
 また会の名称について、名称を変えてはという意見も出されたが、前田事務局長から、この会の設立に当たって、発起人の故波田野前会長が「探蕎会」という名を提唱された旨の発言があり、会名はその主旨を踏襲する意味からも「探蕎会」の名は継承するのが妥当との意見が圧倒的に多く、これはそれで良かったと思う。
 約1時間の議事と討論の後、記念撮影をし、大滝さんの乾杯で宴会となった。そして例年恒例となった大滝さんが描かれた秋刀魚と果物の絵2点の紹介があった。そして今年の特筆すべきは新入会員の加入であった。松川会員の紹介で入会された磯貝さんで、以前はそば打ちも自身でされたことがあるとか、42歳の好青年、内灘町の町会議員をされているとか、新風が吹き込まれたような清々しさを感じた。終わりに近く、斎藤千佳子さんのヴァイオリン伴奏で「ふるさと」や「荒城の月」を合唱、更に永坂副会長が外国の方がよく演奏を所望されるという「さくら」をというリクエストに応じて、アンコール独奏もされた。こうして総会は永坂副会長の挨拶があって閉幕した。

(閑話休題)
 2月下旬、そば処「敬蔵」から、開業15周年を期して、この3月から月替わりで、これまでの細打ち、太打ちのほかに「創作打ち」を供することにしたという案内があった。そしてその案内では、その「創作打ち」の第1弾として、3月は『極あらびき十割そば』を提供するとか。ただ但し書きには「前もって言っておきますが、粉が粗挽き過ぎて麺がつながりません。切れっぽいですが、それに替わる独特の食感・風味が楽しめるはずです。」とあった。そして続いて「勝手ながら『創作打ち』はその主旨から、もり (900円 )、合盛り (細打ちとの合もり 1000円 ) のみの提供となります。」とあった。そしてこれからも『焙煎そば』や『挽き割りそば』、新茶の季節の『敬蔵の茶そば』など…アイデアいっぱいため込んでありますので御期待下さい、お待ちしておりますとあった。
 それで3月7日 (火) のお昼に、久々に「敬蔵」へ寄った。半年ぶりだろうか、随分御無沙汰していた。注文したのは、家内が「創作打ち」の「もり」、私は「合盛り」を所望した。飲み物は焼酎の蕎麦湯割り、つまには定評ある鴨肉と蕗の薹味噌を頼んだ。敬蔵の鴨肉は定評があり、私は蕎麦屋では最も格が上だと思っている。とにかく旨い。ややあってまず家内にそばが、でも見た目にはとても粗挽きとは思えない程のなめらかさ。粗挽きと言えば、あの鳥越左礫の「蕎麦やまぎし」の「極太粗挽き」はこれこそ粗挽きという印象がすこぶる強いが、それに比べると、実に上品でなよなよした感じがして、とても「極粗挽き十割そば」には見えない。山岸のは13メッシュで篩っているが、敬蔵のはもっと細かいのでは、したがって私が頼んだ合い盛りも同じで、細打ちも粗挽きの細打ちではないのではなかろうか。敬蔵のそばは常々十割なのだが、案内の粗挽きには期待していただけに思惑外れだった。やはり「田舎粗挽き」は「蕎麦やまぎし」に限るようだ。


2017年2月10日金曜日

家内が舩木医院を退職(その3)

(承前)
「寄せ書きの続き」
★「木村さん♡ 本当に本当に お世話になりました。ありがとうございました。お身体に気を付けて!
 また会いましょう♡」 S  Y
★「木村さん〜 たいへんお世話になりました。いつも明るく・元気。木村さん、ありがとう。」 C  O
★「木村さん。大変 お世話になりました。心より感謝しています。これからの人生も、もっと謳歌して 下さい。お疲れ様でした。」 N  F
★『おつかれさまでした! 私のステキなお手本でした。有難う!」 Y  Y
★「お世話になりました。お元気で。」 M  O
★「感 謝」 T  M
★「お元気で!」 J  H
★「木村さん!! 私まだ嫁に行っていないんげんけどー!!! 娘のようにかわいがってもらって 本 当にありがとうございました。」 Y  K
★「おつかれさまでした。自家焙煎のコーヒー 飲みにお立ち寄り下さい。ありがとうございました。」
 T  Y
★「木村さん おつかれさまでした。顔がみられなくなると淋しいですけど また顔を見せにきて下さ  い。マッテマス。」 E  A
★「いつも 素敵な 笑顔で♡ 元気を いただいてました。」 H  H
★「”ありがとうございました。まだ実感がわかないケド。。その一言につきます!」 Y  N
★「♡出逢いに感謝♡ 泣いたり、笑ったり…… かけがえのない時間を ありがとうございました。   いつまでも元気でいて下さいネ!!!」K  D

閑話休題:舩木悦郎先生を想う
1.共に山へ出かけた想い出
 先生は山歩きがお好きだった。開業される以前はどうだったのかは知らないが、開業されてからは、病院の職員を誘ってよく山へ出かけられていて、時に私にもお声がかかり、何度かご一緒した。金沢大学医学部には古くから山岳会があり、一方で白山や立山に診療所を開設し、山好きの連中が属していて、私も金沢大学の山岳部に籍をおいていたので、彼らとも交流はあったが、先生はこれらには所属されてはいなかったようだ。でも山好きだったことには間違いはなく、遠くボルネオのキナバル山にも行かれたということを聞いたことがある。ここでは私が先生や舩木病院の職員の方達と一緒に出かけた山々を思い出してみたい。いずれの山行も日帰りだった。思い出すままに書き出してみたい。
★赤兎山 (1629 m)  石川県白山市と福井県大野市との境にあり、福井では最も人気の山。白山国立公園内
★小白木峰 (1437 m)  富山県富山市と岐阜県飛騨市の境にある。頂上一帯には池塘が散在している。
★夜叉ヶ池山 (1212 m)  福井県南越前町と岐阜県揖斐川町の境にある。伝説に出てくる夜叉ヶ池の上。
★袴腰山 (1150 m)  富山県南砺市にある。山の下には東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。
★大門山 (1572 m)  石川県金沢市と富山県南砺市の境にある。加賀富士ともいわれる秀麗な山。
★冠山 (1257 m)  福井県池田町と岐阜県揖斐川町の境にある。特異な山貌。残したい日本の自然百選。
 このような病院職員との山歩きが長じて、私は請われて数回にわたって白山などへ職員の方々を案内した。ある時、御来迎 (ブロッケン現象) に遭遇したことがあった。私は後立山連峰で何回か出くわしていたが、でも白山では初めて、連れの人達は大感激だった。
2.共に出かけたスキー行
 先生はスキーもお好きだった。とりわけお上手ではなかったが、堅実な滑りで楽しんでおいでた。スキー行では、病院の職員のほかに、プロパの方達も参加されるのが常で、賑やかだった。
★朴の木平スキー場:私は都合2回参加した。宿は新平湯温泉のとある先生馴染みの温泉宿で、古い感じの宿だが、よく気心が知れていて、随分居心地がよかった。まだ平湯トンネルが開通しておらず、スキー場へは雪の平湯峠を越えて行った。宿でのスッポン鍋は実に豪快で美味しく秀逸だった。
★野沢温泉スキー場:1年前に予約しておかないと泊まれないという温泉宿、先生は毎年行かれているようだったが、一度ご一緒したことがある。その折、素晴らしいダイアモンドダストに出くわしたが、実に感動的だったことを思い出す。
★ダイナランドスキー場:両白山地の南端に位置する大日ヶ岳の山麓にあり、日帰りで出かけた。
3.釣り
 先生はヘラブナ釣りに興味を持たれていて、よく出かけられていたようだ。でも私はご一緒したことはない。そんな折、いつか大きなスッポンを捕られ、拙宅へ持っておいでになったが、とても私には捌く能力などなく、それでどこかの料理屋に持って行かれたが、どうして捕まえられたのかは聞けず仕舞になった。無想の境地を愛される一面もあった先生だった。
4.写真
 カメラは数台持っておいでて、先生が亡くなられた折、奥さんから形見に大判のカメラを頂いたが、私にはとても使いこなせず、そのままになっている。

2017年2月9日木曜日

家内が舩木病院を退職(その2)

「退職に当たっての職員皆さん方からの寄せ書き」
 送別会の当日、職員皆さん方全員の寄せ書きの色紙を頂いた。了解を得て再掲する。

色紙中央の大きな丸枠に、家内の似顔絵と下に大きく「木村さんおつかれさまでした」の文字と当日の日付「2017.1.31」
「寄せ書き」左上から右下へ (順不同)
★「♡木村さんへ♡ おつかれ様でした。そして大変お世話になりました。木村さんの凛とした姿勢に  いつも憧れていました。また ”喝" を入れに来て下さい。待ってます。」 J M
★「感謝しかないです。本当にありがとうございました。」 A T (事務長)
★「木村さん♡ 本当にいろいろと ありがとうございました。お体に気をつけて 無理をしないで下さ いネ。」 M H (看護師長)
★「一番つらかった時 一番お世話になりました。本当にありがとうございました。幸せです。」 C K
★「(あ) さいーって (リ) ュックサックの私にいつも (が)みがみ怒らせてしまったけど (と)っても  木村さんの気持ちを感じて (う)れしかったよ」  N K
★「いつも気にかけてくれて 本当にありがとうございました !! 感謝です!」 Y K
★「長い間 お疲れ様でした。いつも暖かい言葉ありがとうございました。心の支えになりました。これ からの人生は、木村さんだけのもの。木村さんらしく 楽しく送って下さい。体に呉々も気を付け   て!!」 M H
★「いつもいる3F に木村さんがいないと淋しくて泣きそうです。温かい言葉をかけてもらい うれし
 かったです。ありがとうございました。」 M S ♡
★「木村さん♡ ほんとにお世話になりありがとうございました。感謝しきれない思いでいっぱいです!
 木村さん大好きです♡」 H T
★「長い間お疲れ様でした。いつも気にかけて下さり、本当にありがとうございました。いつまでもステ キな木村さんでいて下さいね。またマルエーで会えるといいな♡」 M I
★「木村さんへ♡ 長い間お疲れ様でした。大変お世話になりました。♫また会う日まで〜♪ ♪会える 時まで〜♫ ありがとうございます。」 Y A
★「♡木村さん♡ いままで本当にありがとうございました。いつも、はげましてくれたり、怒ってくれ たり……。そんな木村さん…感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう♡」 T I
★「木村さん。たくさん たくさん ありがとうございました。いつも木村さんの笑顔を見ると安心して いました。おつかれ様でした。」 K N
★「いろいろ仕事でお世話になり、ありがとうございました。いつまでもお元気で。」 K K
★「〜木村さん〜 長い間お疲れ様でした。言葉にできない程お世話になりました。(子供達も…)あり  がとうございました。」 S M
★「きむちゃん〜♡ よ〜頑張った!! エライ!! すごい!! よ〜世話になった!! ありがと  う!! 今後もどーぞよろしくお願いしますヨ♡♡」 H Y
★「本当にありがとうございました。お身体を大切に!」 K F (院長の母)
★「木村さん 淋しくなります!! いろんな事で アドバイスもらったり 背中を押してもらったり  ほんとうにお世話になりました。ありがとうございました。ずっと元気でいて下さいネ。」 E M
★「木村さんへ。短い間でしたが ありがとうございました。長い間ご苦労様です。最後に お世話をお かけして 申し訳ありません。」 M K
★「ありがとうございました。」 K F (院長)
★「ずっとずっと 大好きです。ずっとずっと 元気でいて下さい!!」 M M
★「木村さん!! 短い間でしたが 大変お世話になりました。ありがとうございました。車の運転には 気をつけて下さいネ。」 T F (院長夫人)
★「木村さんへ、私の話をいつも親身になって聞いてくれて、時には厳しく接してくれてありがたかった です。お世話になりました。ありがとうございました。」 M F
★「木村さん♡ 長い間お疲れ様でした。いつもいつも優しく温かい言葉に支えられました。感謝の気持 ちでいっぱいです。ありがとうございました。大好きです♡」 K Y                                      (続く)

家内が舩木医院を退職(その1)

「はじめに」
 家内が勤務していたのは、野々市市にある内科/外科を標榜する「舩木医院」である。家内はこの医療機関の創設時からのメンバーで、ほかにも数人いるが、年かさでは最年長である。家内は昨年11月には満75歳となり、以前から辞意をもらしていたが、先ずは後継者の育成を頼まれ、それに2年ばかりを要したようだ。職務は医療事務なのだが、その守備範囲は医療行為以外の諸々の分野にわたっていて、金銭・物品出納事務のほか、対税務署、対社会保険事務所、対保健所、対労働基準監督署への対応、加えて職員からの苦情相談などにも応ずるといった具合である。目処がたった以降も何度か辞意を表明したが、その度に慰留され続け、でも漸く院長先生から許可が下りて、退職できることになった。
「プロローグ」
 この病院の開設者は舩木悦郎先生で、金沢大学医学部を卒業され、開設直前には金沢赤十字病院内科医長をされていた。私の父がずっと背の痛みを訴えていて、あちこちで診察を受けたが痛みの原因が分からず、その後日赤病院へ診察に訪れた時の担当が舩木先生で、その後先生の診断で、痛みの原因は肝臓がんからきていることを知らされた。当時私は石川県衛生公害研究所に勤務していて、日赤病院と隣り合わせだったこともあり、先生から急に呼び出され、その結果を知らされたことを思い出す。その時にはもう末期で、そのまま入院したが、そのf後程なくして父は他界した。
 当時先生は野々市町に在住されていて、先生の奥さんはバドミントンの愛好者で、一方家内も好きだったこともあって気が合い、野々市町にママさんバドミントンクラブを創設させた。そんなこともあって、先生とは家族ぐるみでの付き合いをさせて頂いた。だから先生が野々市町で開業を決意されて以降、諸々の準備に家内もいろいろ手伝うことになった。そして昭和60年7月に「舩木内科外科病院」が開設された。院長は長男の先生で内科、次男さんは事務長、三男の先生 (金沢大学医学部卒) は副院長で外科担当、病床数45の病院の誕生である。私も開院の祝賀会に招かれたが、大変盛大だった。
 その後病院は長男先生が他界されて、次男先生が院長になられた。その後次男先生も他界された後は、一時次男先生の奥さんの弟さん (金沢大学医学部卒) が院長をされたが、現在は次男先生の長男 (宮崎大学医学部卒) の方が院長をされている。この間名称は「舩木内科外科病院」から「舩木病院」、そして現在は病床数19の「舩木医院」として、爾来31年有余にわたって、地域医療に貢献してきた。そして家内は4代の院長先生の下で、病院事務に携わってきた。
「送別会は1月31日」
 送別会は偶然か勤務最後の日に設定された。でも最後のご奉公と言うべきか、その日の午後に保健所の監査が入った。正に最後のご奉公となった。送別会は金沢市内のとあるレストランで行なわれ、全職員の6割ばかりの方達が出席されたとか、送別会でこれ程多くの方が出席されたのは初めてとか、大変嬉しいことである。それに非番でなかった方々、家庭の都合で出られなかった方々、また既に退職された方々で、後日改めて送別会を企画されているとか、何とも大変嬉しいことである。また3月下旬には、有志の方々が我が家へ押し寄せる計画もあるとか、これだけ皆さんに愛され慕われたということは、家内にとっては望外の喜びだったろう。私としても大変誇りに思っている。有難いことだ。
 家内は退職に当たって、全従業員に心ばかりの品と、一人一人に想いを込めたメッセージを書いて渡したという。その内容は知らないが、多分心のこもった文だったのだろう。
 また沢山の餞別の品々や花々を頂いた。送別会では25本の深紅の薔薇の花束を頂いたし、ほかにも色とりどりのストック百本もの花束とか、青・赤・ピンクの薔薇や黄色のシンビジュウムなどを組み合わせた花束とかを頂戴した。心から感謝している。
「送別会での挨拶」
 家内は退職にあたって、盛大な送別会を催して頂いた折、会の最後に皆さんにお礼を述べた。家内からその原稿を見せてもらったので、ここに再掲する。
「退職に際しまして、一言ご挨拶申し上げます。今日この日を迎えるに当たって振り返って見ますと、悦郎先生、宏美先生、健一郎先生と三代にわたり31年もの長きにわたって勤務することが出来ましたのも、ひとえに本当に素晴らしいスタッフに恵まれたからと心から感謝いたしております。今日無事にこの日を迎えることが出来ましたのも、それは素晴らしくそして優しい皆さん方達と一緒に仕事が出来たからこそと思っております。そして今日は私のために、このように盛大な送別会を催して頂きまして、本当に有り難うございました」。 

2017年1月7日土曜日

平成28年の師走を振り返る

3日(土) OEK 第384回定期公演(マイスターシリーズ)
 この日の指揮者は OEK の名誉アーティスティック・アドヴァイサーのギュンター・ピヒラー、ピアノはモーツアルト国際コンクール優勝者の菊池洋子、モーツアルトとロッシーニの曲が各2曲演奏された。曲目は前半がロッシーニの歌劇「どろぼうかささぎ」序曲とモーツアルトのピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K. 537 、後半はロッシーニの歌劇「ウィリアム・テル」序曲とモーツアルトの交響曲第36番ハ長調「リンツ」K. 425 、4曲とも比較的よく演奏される曲とあって、リラックスして聴くことができた。それにしても名指揮者のピヒラーさんの指揮ぶりは実に端正で丁寧、実に清々しかった。また日本を代表するピアニストの一人でもある菊池さんの演奏は華麗で躍動的だった。この日の4曲の演奏には実に感動した。
4日(日) 木村家御十夜
 浄土宗でいう御十夜とは浄土真宗でいう報恩講にあたる。いつも毎年暮れの12月に行なっている。今年も妹夫婦、次男家族、故三男家族がお参りしてくれた。導師は金沢市中央通町 (旧宝船寺町) にある佛海山法舩寺の住職、ほぼ1時間の法要だった。
5日(月) 耳順会忘年会
 耳順会は平成15年に、あるきっかけで生まれた金沢泉丘高校第7期卒業生有志の会のことで、当初は15名で発足したが、既に4名が他界してしまった。この会は3ヵ月毎に開くことにしていて、12月は温泉で1泊することにしている。今年の宿は山中温泉の「よしのや依緑園」、以前は大変格式の高い旅館だったが破産し、現在は湯快リゾート傘下のグループになっている。この宿、食事は申し分ないが、人件費を極力抑えているのが伺われ、ただその分大変廉価なのが驚きだ。この宿には能舞台もあり、格式は随分と高い。でも今は客層は老若男女と様々、随分と多彩な人が利用して賑わっているようだ。聴けば半年前の予約解禁時期に申し込まないと予約しづらいとかだった。今回は6名の参加だった。
15日(木) OEK ファンタスティックオーケストラコンサート
 今シーズンのこのシリーズは、県立音楽堂洋楽監督の池辺晋一郎の企画で、延べ5回に渡って行なうクラシック・ベスト100の第1回の演奏会。この日のテーマは「モーツアルト」、全部で8曲紹介するとあって、どうしても端折らざるを得ないこともあって、随分中途半端な企画だと感じた。指揮は新進気鋭の田中祐子、若さを売りにしたピチピチした指揮ぶりだったが、はしゃぎ過ぎな嫌いがあって頂けなかった。その外に歌曲とオペラのアリアが8曲、スクリーンに登場した名曲が4曲、それにお喋りも付いて凡そ2時間半、盛り沢山過ぎて、器からこぼれ落ちた感があった。
16日(金) 今冬初の積雪
 朝起きると何と初雪、5cm ばかりだったが、車に積もった雪は除かねばならなかった。でも日中は晴れて気温も上がり、午後は身障者の ETC 割引の手続きに市役所へ出向いた。
17日(土) 湧泉会例会
 毎月第3土曜日の11時半に、耳順会のメンバーの有志が、金沢ニューグランドホテルで昼食を共にして駄弁ることにしている。話題は実に多岐にわたり、しかも次から次へと、よくぞと思う程の話題の提供と談論、この日も切り上げたのが午後4時、正に老人の井戸端会議、こうも長いと少々食傷気味になってしまう。ホテルでは招かざる客なのでは?。6名参加。
18日(日) 新築マンションの内見と探蕎会世話人会
 次男が銀行マンで相続税対策もやっていることから、その節税対策の一環として、私にも借金をしてマンション経営をと勧められた。もっとも相続税を支払うのは当人であるからして、それに乗っかることにした。6月下旬に基礎工事に入り、8月27日に地鎮祭、そしてこの日敷地222坪に鉄骨3階建て、1階は駐車場や物置、2階3階に 1LDK 16 室のマンションが出来上がった。名称は「木村」のフランス語表記の「ボワ・ヴィラージュ」にした。ところでこの名前をインターネットで見てみると、全国で同じ表記が3件、似た「ボア・ヴィラージュ」が7件あったのには驚いた。来る4月には満室になって欲しいものだ。
 そしてこの日の夕方6時から探蕎会世話人会の忘年会が、この3月末で建て替えのため閉店になる金沢都ホテルの「杜若」で行なわれた。金沢駅には6時前に着いていたが、6時半とばかり思い込んでいたものだから、家内から連絡を受けて出向くと、既に皆さんお待ちで大変恐縮した。今後の探蕎会の在り方についても、いろいろ意見が交わされた。
20日(火) 日赤内科で糖尿病外来での定期検診
 3ヵ月に一度、指定された日に検診を受けている。このところは小康状態が続いている。
21日(水)〜  31日(土) 押し詰まった年末の繁忙期の11日間
 暮れが押し詰まっても、マンション関係の手続き事務や財務処理の事前相談、それに生産組合の事務引継や前々から頼んであった家の修繕の立ち会い等々、それに家の片付けや掃除、正月用品の買い物やお歳暮のお返し、それに楽しい会食が3件、入院している叔父への訪問が2回、そして30日からはお正月料理作り、そして大晦日。暮れから正月にかけては、長男家族4人、次男家族が4人、故三男家族が3人が一堂に会することに。慌ただしさと楽しさのひととき。