2012年1月23日月曜日

「シンリョウのジュッカイ」 (7)

● 大怪我で九死に一生を得る
 父の軍隊での土地返還の残務整理も終わり、私たちは金沢市十一屋町から野々市町へ帰ってきた。そして4月には野々市小学校へ転校して5年生に転入、弟は新入生として入学することになった。そして1町歩の農地を耕してお米を作る百姓の一歩を踏み出すことになった。巷の噂では、まったくの素人百姓が長続きする筈がない、いずれは早晩ギブアップするのは火を見るより明らかと言われていた。だから近所でノウハウを教えてくれる人は誰もなく、四面楚歌での米作りが始まった。でも捨てる神あれば拾う神ありで、田起こしは、父の軍隊の関係で、町で馬喰をしている方が協力してくれた。当時は田起こしは牛か馬に犂を引かせてしたものだ。荒起こし、代掻きの後、苗を植えるには田を均さねばならず、それには重い板を引っ張って均した。苗は苗代田で育て、均した田には枠を回して枠の跡を付け、苗を植え付ける。しかしこの枠回しは中々熟達した技が必要で、田圃一面に綺麗な枠跡を付けるのは、素人にとっては至難の技、しかもやり直しがきかず、しかも優劣の差が歴然とする。これには苦労した。
 百姓をしていて集中して忙しいのは田植えと稲刈り、初年度は周りの人の協力もなく、馬喰の方の斡旋で、植え付けの時期が遅い羽咋の方から何人かに来て頂いて、どうやら田植えを乗り切った。
 私が田圃に借り出されたのは、「田植え」と「らち打ち」と「稲刈り」だった。らち打ちは今では全く行なわれていないが、草取りと稲の根に活力を与えるために行なうもので、どこの家でも大概子供の分担だった。ところで百姓をして数年も経った後には、田植えは「結い」といって数軒が纏まってやるようになったので、始めた頃のような心配はなくなった。それから秋の仕事の稲刈りも一時(いっとき)仕事なので、初めての年はやはり応援を頼んだ。稲刈りは天気の良い日に刈ることにし、午前に刈った稲は、午後には何株かをまとめて結び、それを「きらば」にして積む。その後、明日天気が良いようだと夕方まで刈り、刈り倒しにしておく。全部刈り上がって積んだら、順次「きらば」を崩して天日干しにし、乾かしてまた積み直し、大体3回位干すと乾燥するので、荷車に積んで納屋に運ぶ。その後納屋で脱穀する。納屋が小さくて入らない家は、天気の良い日に田圃で脱穀していた。その点私の家は大きな米倉と納屋があったので、稲束を全部収容できた。当時の脱穀は足踏み式の脱穀機でしていた。ただ籾摺りは小型の籾摺り機で対応していた。その後米選機で粒を揃え、4斗ずつ米俵に詰め、供出用のには新しい俵を、保有米のには前に使った古い俵を使った。供出に使う米俵と桟俵は、農閑期の冬の間に藁で編んだ。
 さて、稲刈りが済んだ後のとある秋の昼下がり、私は弟と妹と三人で、近くにある学校の運動場にいた。何をしていたかは定かではないが、夕方近くになり家へ帰るのに競争して帰ろうということになった。お宮さんの境内を通って帰れば、ものの1分程で帰られる距離、私が一番に納屋に着いた。両親は納屋には居らず、納屋には足踏み式脱穀機が置いてあった。一度は使ってみたいと思ってはいたが、子供では稲藁が引っ張られて危ないとかで使わせてもらえなかった。弟たちはまだ帰ってこず、これは千載一遇のチャンスとばかり、足踏み板を踏んで機械を動かした。稲束を持って機械に当てたが、予想以上の引張りがあり、途中で稲束を放してしまった。それで機械を止めねばと思った。ブレーキは付いておらず、本来なら踏み板を足で踏んで抑えればよいのだが、私は噛み合っている歯車に左手の中指を入れて止めようとした。ところがアッと言う間に中指は歯車に巻き込まれてしまった。機械は止ったものの代償は大きかった。
 歯車を戻し、指を抜き、手が油まみれなので、流しへ行って手押しポンプで水を汲み、水で左手を洗った。痺れていたせいか痛みはそんなになく、出血もさほどでもなかった。見ると、中指は完全に潰れていたし、人差し指は根元の所でくっついてはいるものの、ブランと下がっていた。黒い油は水だけではほとんど取れなかった。こんな私を最初に見つけてくれたのは、薬剤師で山崎太可堂へ婿入りすることになっていた叔父で、持ってきたマーキュロクロム液(通称赤チン)をぶっかけ、包帯で左手をぐるぐる巻きにしてくれた。当時の野々市町には二軒の医院があったが、いずれも内科医だった。両親に連絡し、ハイヤーで大学病院へ、熊埜御堂外科だったと思う。緊急に手術がなされた。結果として中指は切除、人差し指は挫滅していたがどうにか繋がっていたので、縫合された。でもこの縫合が後で火種となった。
 一応表向きの傷は塞がって退院した。しかし何となく傷の場所に爆弾を抱えているような違和感があった。そんなある日の午後、布団に横たわって寝ていたとき、突然左手の傷の部分から大出血した。「かあちゃん、でたっ」と叫んだ。何か生ぬるいものが左手の包帯の中に充満した。そして記憶を失った。
 私は夢を見ていた。始めは暗いトンネルを歩いていた。遠くに明かりが見えている。トンネルの出口なのだろうか。私はその明かりに向かって歩いている。衣装は纏っているのだろうけど、どんなかは記憶にない。しかし行けども行けども遠くの明かりは近づかない。でも突然暗闇だった視野が明るい野原に反転した。野原にはポピーのような丈の低い草が一面に生えていて、いろんな色の花を咲かせている。そんな中に一筋の道がついていて、私はそこを歩いている。行く手には靄がかかっている。明るい陽が射しているかどうかは分からない。ただ何処へ行くという当てがあるわけではないが、足が何かに魅かれるように動いて行く感じだ。やがて遠くに低いが山のような丘が見えてきた。どれ位時間が経ったのかは分からない。すると行く手に小川が見えてきた。少し左にカーブして、小川の辺に着いた。すると、向こう岸に男の人か女の人かは区別がつかない人がいて、此処は子供の来るところではないから帰りなさいと言われる。何の疑義も差し挟まないまま、黙って今辿ってきた道を戻ることに。すると程なく野の風景は突然なくなり、現実に。そして正気に返った。九死に一生を得た瞬間だった。
 後で母に聞いた話では、母が戻ると出血して布団も血で濡れていて、私は気を失っていたとか。母は私を抱こうとしたらしいが、抱いてはいけないと叔父に言われ、取り敢えずかかりつけでもあった川畑さんという医師へ連絡し来てもらったという。これは輸血しないと命を落とすと言われ、父か母かどちらかは分からないが、緊急なので親の血を輸血することにしたという。私の腕の血管からは輸血ができず、窮余の一策で足のくるぶしのところから試みてやっと輸血できたという。そうしてやっと血の気が射してきたとかだった。大学病院へハイヤーで搬送され、緊急手術を受けた。人差し指の縫合部分が化膿していたのは、藁などの夾雑物を閉じ込めたまま縫合してしまったためとかだった。今度は念入りにきれいにして縫合し、その後はトラブルもなく退院できた。
 その後暫らくは左手に添え木を当てて、包帯でぐるぐる巻きにして学校へ通った。当時学校にはナトコとかいう巡回映画が学校を回っていて、そのときに野口英世の伝記ものが上映された、彼は幼い時に、囲炉裏に掛かっていた鉄瓶のお湯で火傷して、指がくっついて開けなくなる大火傷を負った。それで「てんぼう」というあだ名が付けられたという。一方で私も左手をぐるぐる巻きにしていたものだから、早速「てんぼう」というあだ名を頂戴することになった。その時の印象では、似ていたから致し方はないものの、あまり有り難いあだ名ではなかった。傷がきちんと治ってからも、一時は手の先に針金の輪を付け、人差し指を真っ直ぐに引っ張っていたこともあったが、その効果はあったのだろうか。爪が伸びてくるので、指も伸びるのかと期待したが、医者からは骨が切れているのでそれはないと言われた。だから今でも左手の人差し指の長さは、小学5年の時のままである。
 私の父親の末弟の四番目の叔父は、当時東大の学生だった。当時は医学部薬学科に在籍していた。終戦後は学費の仕送りもままならず、大変だったようだ。一時は小石川植物園の元クジャクがいた部屋で寝泊りしたという話を聞いたことがある。でもお盆とお正月には野々市の実家に帰ってきていた。私は博学だったこの叔父に傾倒し、草木、鳥、星、そして音楽の楽しみを教えてもらった。そして学校にあったタテ型のピアノで、運指をバイエルで教えてもらっていた。しかしそれも一夏だけで、秋には大怪我をして左手の第2指と第3指を廃絶してしまい、ピアノは中止せざるを得なかった。私が博物学や音楽に興味を持ったのも、大学へ進学するのに医学部ではなく、薬学部へ進んだのも、叔父の影響が極めて大であった。その叔父は今年卒寿を迎える。
[異 聞]
 高校から大学へ進学するに当たって、先生からも親戚からも金沢大学の医学部を受験するよう強く勧められた。今の泉丘高校と違って、一時は小学区制だったこともあるが、とにかく総合成績では3番を下ることはなかった。しかし左手の二指の廃絶は重くのしかかり、医学部へ入るとは医者になることと思い込んでいたから、こんな手で診療はできないと思うと、とても受験はできなかった。もしあの時、基礎研究もできると誰かから聞いていれば、そんなに抵抗はしなかったと思う。私の卒業した昭和30年(1955)当時は、金沢大学で最も偏差値が高かったのは薬学部で、医学部はその次だった。だから医学部へは当時の泉丘で20番位までだったらストレートで進学できた時節だった。この年の金沢大学のトップ合格者は、薬学部を受験した定時制高校出の人で、新聞には大々的に報道された。母子家庭の方で、私より5歳年長だった。

2012年1月17日火曜日

山崎家の法事での話題

平成24年(2012)1月9日、山崎家の現当主の御母堂の満中陰の法要があり、その後での食事をしながらの懇談では、いろんな話が出て、興味が尽きなかった。その中からのいくつかを紹介してみようと思う。

(1)浄住禅寺の御住職の話
 このお寺は金沢市長土塀三丁目にあり、山崎家の菩提寺で、現住職は50代目、開山したのは七百年前とか、御住職の話では門前の総持寺より古いとのことであった。七百年前というと鎌倉時代後期、開山時は山崎の庄にあったとされ、山崎家も同じく山崎の庄の出という。兼六園内には山崎山というのがあるが、これは山崎の庄に因んだものだと、山崎家の先代(木村の出で、私の叔父)が話してくれたことがある。山崎家と浄住寺との付き合いは七百年昔の頃からあったのだろうか。とにかく山崎家の先祖代々の墓は浄住寺の墓地にはある。宗派は曹洞宗で、浄住寺の開山時には、現在金沢市長坂にある「東香山大乗寺」は既に野市(現在の野々市市)にあったという。現住職の話では、明治になり武家の衰退で檀家が少なくなったこともあって、寺の維持が大変だという。でも御住職のお話では、現在金沢市での既存仏教の色分けは、浄土真宗が8割、次いで曹洞宗(禅宗)が15%、次いで日蓮宗、浄土宗だというから、満更でもないのではないか。そういう木村家は浄土宗なのだが、そういえば旧野々市町には木村家以外には浄土宗の家はなく、大部分は浄土真宗である。ひるがえって、往時野々市町の学校へ寄留していた金沢市の旧三馬村横川出の家はそのほとんどが禅宗である。
 門前の総持寺はその前身は「諸嶽観音堂」という真言律宗の教院であって、大乗寺の二世の榮山禅師が時の住職の定賢から請われて入院し、1321年に寺号を「総持寺」、山号を旧名に因んで「諸嶽山」と改名し、禅院としたとのことだ。その後大本山としての総持寺は明治44年(1911)に石川県から神奈川県(横浜市鶴見区)へ移転し、以後門前にある総持寺は「総持寺祖院」と呼ばれているという。
 山崎の叔父は金沢薬専を出た薬剤師であるが、その先々代も、未だ薬専が広坂の第四高等学校の校舎にあった時の卒業生であったという。ある時金沢で下痢を主徴とする病気(何か不明)が流行った時に、その先々代が患者に石炭酸を飲ませたところ(どういう処方か全く不明)本復し、患者はもとより、健康者も予防に飲んだことから、それで一財産を築き、旧英町一帯はほとんどが山崎太可堂(たいかどう)の地所だったという。しかしその後の相続に際して、そのほとんどを手放したとのことだった。

(2)山崎とみさんの話
 彼女は三人兄妹弟(皆さん薬剤師)の真ん中、未だ独身、天衣無縫というか、行動も大胆で、時に常軌を逸することもあり、しかも神出鬼没、恐れを知らない胆力の持ち主である。女性であることに間違いはないが、女らしさは持ち合わせてはいなくて、またそれが武器となっているという女御である。父の死に際しては、デスマスクを二面採ったと話していた。
● 納骨のこと
 父の死の時もそうだったが、この度の母が亡くなったときも、とみさんの一存で、火葬後の骨はすべて彼女が持ち帰った。父の骨はどうしたのかと浄住寺の住職の方が聞くと、菩提寺の浄住寺の先祖代々の墓へ入れたほかに、父が生前わしは山崎の墓へ入らんと私に話していたので、木村の菩提寺の法船寺に新しく父の墓を作ってそこにも納めたと、それは私も案内を受けて知っている。後は本山の永平寺と榮山禅師の誕生寺へ納めたとか。それは皆さんと相談してそうしたのかとお寺さんが聞くと、私の一存でという返事、これには母も兄弟も関わっていないとのことだった。
● 音楽との関わり
 彼女は独身貴族である。よくある海外旅行の話は彼女から余り聞くことはないが、音楽会にはよく出かけているようだ。いつか持っているチケットを見せてもらったことがあるが、かなりの枚数を持っているのに驚いたことがある。私が聴くのは金沢でだけだが、彼女は東京や大阪、時にはウィーンやザルツブルグへも出かけるというから驚きで、その現地での証拠だといって写真を見せてくれたりする。金大名誉教授の岩先生も音楽に造詣が深く、外国特にオーストリアへ出かけられたりするが、彼女は先生とどこかでお会いしたことがあるとか、とかく行動範囲が広いのに驚く。
 また本人は声楽はアマチュア・プロであると自称している。事実アンサンブル金沢とかの合唱団に所属していたこともあって、第九やメサイアにもアルトのパートで出たことがあり、下の弟もテノールのパートで出ていたという。私も二度ばかり聴かしてもらったことがある。一方ヴァイオリンも弾くようである。亡くなった母親の長姉(故人)は金沢で初の脳神経外科医院を開業した山本医師(他界)の許へ嫁いだが、その家から借りていたヴァイオリンをやっと返してくれたと、現当主の山本院長(彼女と従兄の間柄)が話していたが、彼女は代わりに30万円のヴァイオリンを買ったとか。それで何とかいうプロのピアニストとデュエットするとかで、相手の写真も見せてくれたが、独りよがりでなく、人にも聴かせられる程のものなのかどうか、話を聞いていて何とも不思議な気分になった。叔父で彼女の父の弟は四高時代からチェロや声楽をやっていたほか、ヴァイオリンやフルートや琴などにも堪能だったが、彼女にもそんな血が流れているのだろうか。
 話がオーケストラアンサンブル金沢(OEK)のことに及び、今年のニューイヤーコンサートの指揮をした山田和樹は私が提案して実現できたという。昨年の東日本大震災で日本への渡航を拒否した指揮者がいて、金沢では代わりに山田和樹が振ったが、その折とみさんが彼と馴れ馴れしく会話しているのを見て驚いたものだが、満更話に嘘でもないらしいところがある。OEKの専務理事(泉丘高・県庁の後輩)や音楽監督とも自由に話すとか、また正規ではないが自称応援団と称していて、主演・共演する奏者の提案も時折するとのことだが、当然のことながら決定権はないものの、大概は私の提案は通るとか言っていたが、これも驚きである。山田和樹は現在OEKのミュージック・パートナーに就任している。
 例のカラヤンの件のことを聞いたら、大阪でのコンサートの折、コンサートホールとホテルとが地下通路でつながっていて、たまたまその通路をカラヤンが一人で歩いているのに出くわし、色紙にサインをお願いしたところ気軽に応じていただけ、握手もして頂いたとかで僥倖だったと言っていたが、これはまだあのヴァイオリンを借りていた時のことで、あのヴァイオリンには不思議な魔力が宿っていて、それにあやかったからだと述懐していた。
● 叔父が山崎へ婿入りした経緯
 叔父が薬専を卒業した後、地元の製薬会社に就職したものの、程なく召集され、内地勤務となった。当時私はよく叔父に手紙を書き、叔父からも絵葉書で便りをくれていた。終戦後は野々市の実家に帰ってきていたが、程なく縁談がまとまり、英町の山崎太可堂に婿入りすることになった。この縁談がどうして纏まったのかを知りたくて話を出した。すると山本院長は、私の母は山崎の長女で、医者である父は軍医となって、叔父とは習志野で一緒になり、医師と薬剤師の関係だったという。当時山崎の長女と次女は既に嫁いでいて、その下に長男と次男がいたが二人とも他界してしまって山崎を継ぐ男性がいなくなり、急遽三女に婿をということになり、白羽の矢が立ったのが山本軍医のお眼鏡に適った叔父だったということだった。これは山本院長からばかりでなく、とみさんからも、また同席されたとみさんの叔母の次女の方からも聞かされた。

(3)山本院長の話
 叔父は調剤薬局が導入されると、卸部門は止めて、漢方薬の勉強を始め、市販の漢方薬ではなく、自分でいろんな処方をしていた。その処方は叔父の方から医者に患者の様子を聞いて処方し、医師にその教えた処方を書いてもらうというやり方をしていた。山崎脳神経外科医院も親戚であり、漢方薬の勉強をするようにとテキストも頂き、それなりに知識を集積したとは院長の言だった。ところが、時に院長の私の意見と叔父の意見が一致しないことがあり、おかしいと言ったことがあるが、叔父はがんとして処方を改めることはなく、当惑したこともあったとか。同じ意見の不一致は、金沢大学薬学部生薬学教室に席を置き、学生らの漢方薬研究会の顧問をしていた2歳下の叔父との間でもあり、二人が会うとよく議論をしていた。私にも勉強するようにと漢文のテキストを頂いたが、深入りすることはなかった。漢方処方は現当主も踏襲はしていないようである。

2012年1月12日木曜日

孫との初スキー

次男から正月に一緒にスキーに行こうという誘いを受けた。正月のこのシーズン、例年なら私の古巣の石川県庁のくろゆりスキーくらぶの誘いで志賀高原へ繰り出すのだが、今年は体力の衰えを感じて、参加を見合わせた。通常は金曜の晩に出て、土曜・日曜の全日と休日である月曜の午後2時頃まで滑り、夜に金沢着というスケジュールで、実質2日半のスキー三昧というわけである。費用も昼食とリフト代は別だが、お酒、ワイン、ビール等々お酒類飲み放題で3万円のスキーツアー、毎年楽しみにしていた。ところが昨年は何か体力の衰えを感じ、滑った時間も前年よりも少なく、そろそろ退き時かなあと思ったものだ。事実ここ数年メンバーの中ではずっと私が最年長、それもあって、このシーズンもお誘いを受けたが、辞退することにした。
 家内から私を誘って正月の休みにスキーに行こうと次男一家が楽しみにしているということを聞いて、どうしようかなあと案じたが、時間も空いていることだし、孫たちの付き合いならそんなに負担にもならないだろうと思い、付き合うことにした。家内はというと、スキーは全くの不得手で、足元が動くだけでも怖いというからどうしようもない。だからもし私と行くときは、彼女は読書、私はスキーという段取りで出かけねばならず、それに適した環境のスキー場はというと、八方尾根かアライということになる。さて今回の日取りは1月7日の土曜日、場所は瀬女高原スキー場ということになり、次男が私を午前8時に迎えに来るという。私にとってはこのシーズン初めてのスキーである。昨年は志賀高原の3日間と瀬女高原へ2回行ったきり、しまってあったウェアやスキー道具一式を前日に出した。
 当日は小雪が舞う一日、スキーは短いカービングスキーにする。ウェアに昨年のチケットが残っていたので見ると半日券、昨年も1日持続して滑る体力は持ち合わせていなかったからなのだろう。で今年はというと、できるだけ長い時間滑っていたいとは孫の男の子の弁、小学6年生なのだが、男親に言わすと、少年野球チームに所属していて、しかもエースピッチャー、背はそんなに高くはないが身体は鍛え上げられていて、持久力は抜群だという。だとすると疲れ知らずで、しかもスキーを始めてまだ2年ばかりだとすると面白い盛り、やはり親の弁では瀬女高原のパノラマのロングコースもボーゲンで下まで下るとか、このコースには何ヵ所か30度の斜面があるのにである。往きの車の中での談義では、午後3時半位まで滑って、簡単な食事をして、温泉で汗を流して帰ろうということになった。
 スキー場に着くと、駐車場は第二が7割の入り、6箇所ある駐車場が満車になった時期もあったのに、昨今は本当に少ない。もっとも利用する人にとってはリフト待ちもなく利用勝手がよいのだが、営業としてはどうなのだろうか。当初は小学1年生の孫娘と母親は下のファミリーゲレンデ(1日でも千円とか)で滑るということだったが、滑られるようになると単調なので、慣れたら上の林間コースでということになり、慣れるまで男親が面倒をみることにして、後で皆で合流しようということになった。
 6年生の孫と母親と私が先に上へ上がる。初めに中央のルンルンコースに入る。1年ぶりの感触だ。この日は圧雪車が直前に入っておらず、若干の積雪がある。以前ならこのコースの下までの標高差400mを一気に滑り降りたものだが、今は50mダウンで休まないと足に負担がくる。滑って休んで、また滑るという繰り返し、我ながら情けなくなる。でも孫が下りてくるまで待てるのが救いだった。ところがその後ペアリフトのドキドキコースを終え、孫と二人で臨んだ3本目のルンルンになると、孫が休みなしに滑り降りるのに付いて行くのが精一杯、追いついても瞬時しか休めず、その次のルンルン挑戦では、私はここで待っているから一人で滑っておいでと言って大休止することに。そうこうするうちに皆が揃った。ルンルンコースではくろゆりスキーくらぶのメンバーの一人に出会った。彼は町内会の世話で志賀高原へは出かけられなかった由、この日も正午までとか、華麗な滑りで下っていった。
 昼食後、1年生の長女と母親は林間コースへ、残り3人はドキドキへ、次男の滑りを見たが、上手になっているのに驚いた。またその格好も様になっていて、小さかった頃の滑りしか知らない私にとっては驚きだった。長男坊も疲れ知らず、太刀打ちできない。この後ルンルンとワクワクを滑ったが、もう付いて行くのが精一杯、それで私のみ外れて午後2時半に落ち合うことにして、私は最後のルンルンへ、疲れてしまった。その後落ち合って、パノラマコースを下まで下る。ここは700mの高度差、以前のようなノンストップでの下りは、今では夢のまた夢、考えられない。休みながらの下り、下り終わって皆一緒になる。此処からの出発は3時半、時間があるので長男坊と母親はもう一度パノラマに挑戦、母親はショートスキーでバランスはとりにくいはずなのに端整なきれいな滑り、今日は二度目、羨ましい限りだ。それに引き換え私は耄碌の滑り、75歳がのしかかる。
 帰りに瀬戸野のラーメン屋に寄り簡単な食事をする。白山へ登った帰りには必ずといっていいほど寄った店だ。今は飲酒運転はご法度だが、その昔はここの名物のキンキンに冷えたビールを一本飲んで、すぐ近くの温泉で汗を流して帰宅したものだが、懐かしい思い出だ。でも飲んだら乗るなの規制になってからも、此処での下山時の飲酒なしでの食事は欠かしていない。でもこの日は運転なし、そのキンキンビールにありつけた。私の定番はここの八宝菜、皆さんは焼飯、中華麺、ギョーザ等々。ただ昨年は2回しか白山に来なかった上、二度とも岐阜県の石徹白へ下る予定でいたので、ここへは一度も寄っておらず、2年ぶりということになる。
 次いで瀬波の奥にある白山里温泉へ、雪が積もっている。ここも白山からの下山時の定番の寄り場所、出来て9年になるという。泉質はナトリウム炭酸水素塩・硫酸塩泉、泉温は41.5℃、効能は神経痛、筋肉痛、五十肩、疲労回復などとか、少々ツルツルした感じの温泉である。湯船はそんなに広くはないが、きれいで気持ちがよい。浴場の大きな窓からは、大笠山が源の瀬波川や取り巻く自然林が見渡せ、この時間帯にはライトアップされていて、降り来る雪の片や木々を幻想的に映し出している。お湯も上々、飽きが来ない良い温泉だ。疲れがすうっーととれるような快適な湯だ。
 こうして孫たちとの初スキー行は無事に終わった。帰宅してお酒を飲みながら、改めて今日1日を振り返った。手元にある記録を見ると、平成16年(2004)には15日間、17年(2005)には13日間、18年(2006)には18日間、19年(2007)には7日間、20年(2008)には12日間スキーに行っている。ところが21年(2009)以降は毎年5日間のみ、しかしこのうちの3日間は志賀高原へのスキーツアーだから、今年は2日となるかも知れない。
 そこでもう一つ、今日出かけた瀬女高原スキー場で、過去に累積滑走高度差で1日に10,000m以上滑ったことのある回数を見ると、2004年には2回、05年には1回、06年には3回、08年には1回あり、最もよく滑ったのは2004年3月4日の14,105m、32本の滑りで、パノラマコースに換算してざっと20本ということになる。因みに今日の滑降回数は8本、累積高度差は3,585mだった。往年の4分の1である。衰えが著しいのが一目瞭然と、改めて実感した1日だった。

2012年1月6日金曜日

平成24年の正月は格安の温泉旅館で

私の父も私も長男なので、何というか所謂「お里」という感覚の場所がない。もっとも母方の里はあるのだが、所は北海道の札幌と旭川の間のやや旭川寄りの奈井江町、まだ母の父親が存命中に三度ばかり寄ったことはあるが、それはお盆とかお正月の時ではない。翻って私の父は長男で家を継いでいたので、叔父や叔母はよく来ていた。ところで私たちには三人の子がいて、皆男の子である。昔なら長子相続が当然というならわしがあったが、この頃はどこの家でも両親がサラリーマンの家庭では、次男三男はもとより、長男であっても両親と同居している例は極めて少なく、核家族化している。
 私の長男はコンピューター関連の仕事に就いているが、就職した時は地元だったが、今では横浜での生活の方が長くなったのではと思ったりしている。次男は銀行マンで、地元での勤務もあるが、富山や大阪、東京での勤務もあり、旅烏稼業である。三男は地元にいて自宅も建て、こちらで腰を落ち着けることにしていた。三家族とも子供は二人ずつの四人家族である。そんなわけで、平生の私たち夫婦の生活は二人のみなこともあって、三家族が集まるお盆とお正月には一挙に大家族と化する。しかし私はともかく、家内はこの時を心待ちにしているし、何よりも孫たちは孫たち同士が集まるのを楽しみにしている。まるで合宿の様相である。
 年暮れから正月にかけては、おせち料理を作って、年越しそばやお雑煮は作るものの、あとはその時々に料理を作ることはしないで、作り置きした料理を食べるのがこれまでのしきたりだった。私の母が元気だった頃は、沢山の種類のおせち料理をほとんど暮れの二日間で作っていた。今こそ便利で出来合いのものがあり、家で料理しなくても可だが、でもわが家では母がしていたように、家内が奮闘して作ってきた。来る人数が人数だけに、全部手前料理で済まそうとするとかなり大変である。ただここ数年は、お正月の飾り料理は付き合いや義理もあって買っていたが、やはりメインは家で作った手作り料理だった。
 ところが今年は異変が起きた。次男から正月の元日に温泉へ皆で行かないかという話が持ち上がった。他の家族もOKだし、私も家内も賛成した。次男の思惑では、母の手料理の負担を少しでも軽減したいという気持ちが先立ってのことではなかったか。確かにそうすれば、これは家内にとっては大きな負担軽減につながろうというものだ。行き先は山代温泉の山下家とか、私は一度小中学校同窓生で還暦祝いの時に行ったことがある。家内からは、料金が安いこともあって、サービスはないようだけれど、不平は言わないようにと釘をさされた。それは家内がここを利用した人から、安かろう悪かろうとの情報を得たからだった。ともかく私にとってはこの手の格安温泉旅館は初めての経験である。
 元日の朝、家の神仏、近所の氏神の白山神社、そして加賀一の宮の白山さんへ恒例の初参り、お神酒も頂き、帰宅して皆でお雑煮を祝う。元日は天気は荒れるとの予報だったが、まずまずの日和だ。温泉宿のチェックインは午後3時とかで、皆は2時頃に家を出た。私と家内は1時間遅れで向かった。途中でもう寛いでいるとの連絡が入る。
 宿へ着くと大変な雑踏、温泉旅館でこんな混み様は初の経験だ。車も離れた駐車場へ回すように言われたが、結果としては回送してくれることになった。それにしてもこの時節どの旅館でも客足が遠のいているというのに、本当に仰天した。経営の改革というのは恐ろしいことだ。部屋番号は聞いていたので、順路に従い、身長に応じた浴衣を選んだ後、部屋へ向かう。ところが飛び乗ったエレベーターは目的の12階の部屋には行けず、聞けば別棟のエレベーターに乗らないと行けないとか、宿へ着いてから部屋に入るまで随分うろうろする破目に。
 夕食まで1時間ばかり、バイキング形式だから混みそうだという。そういえば部屋へ来る途中、食堂の前にはもう待っている人たちがいた。急いで1階上の展望風呂へ。でもこの男風呂は脱衣場が狭く、入るときは人数が少なくて問題はなかったが、出るときは混んできて大変だった。部屋へ帰ってもお酒を飲む間もなく、ディナーバイキングに出かける。食堂はレストランの方は案の定満員、仕方なく離れた畳の間へ、そして13人が座れる長机に案内されたが、もう少し遅れていたら座れる場所がなくて、次回に回されるところだった。
 バイキング料理はかなり豊富で、和洋いろいろあり、どれも美味しそうに作られている。思い思いのものをチョイスするが、バイキングの常としてどうしても余計に取ってしまう。別料理でずわい蟹を食べている人がいたが、1,500円でも身が詰まっていてお得だったとか、良心的だと言っていた。遠所の人なのだろう。お酒は別注文なのだが、人手が少ないせいか、届くのに随分と時間がかかった。そして見てると、夕食が終わっても、飲み物を飲んだり、駄弁ったりで、優に1時間は席が空かず、部屋に入れなかった人はその間待っていなければならず、大変だったろう。
 午後8時から落語寄席があるというので見に行く。かなりのお歴々が高座に上ったということを示す顔写真や色紙が飾ってあるが、それは随分昔のことなのでは。この安い料金ではそんな高名な人をお呼びすることは叶うまい。寄席には百人位、半分の入り、前座があって、落語があって、歌もあり、9時までとか。落語が終わって小用に立ち戻ろうとしたら、皆さんお戻りとか、私も部屋へ帰ることに。
 さて、これからが本番、というのはお年玉の交付と皆でのビンゴ、でも子供たちは先ずはお年玉が先だという。子供たちは6人、小学生から高校生まで、4家族と家内の姉からも頂いているから、一体各人いくらになるのか見当もつかないが、個々には皮算用をしているに違いない。ただ毎年のことだが、次男は皆に渡す前に今年の抱負を言わしていたが、皆しっかり答えていたのには感心した。
 そして次はビンゴ、一番小さな次男の小1の長女が司会、今時の子たちはしっかりしている。景品は男衆には白ワイン、女衆には小物、子供衆には仮装用品を用意したとか。長男はゲットした子供たちには仮装の品をつけさせ撮影していた。被りものや着るものはともかく、圧巻は強く揉むと膨らむというボール、膨らむ前は2個でこぶし大だが、着衣の下の胸に装着して強く揉むと次第に膨れて直径10cmばかりのボールになり、大変なボインになるという代物、女の子がチョイスしたものの、さすがこれは着けさせるわけにはゆかず、男の子が実演したが、これにはたまげてしまった。よくぞ考えたものだ。原理はどうなっているんだろう。
 その後飲んだり、トランプをしたり、オセロをしたり、駄弁ったり、夜の更けるのも忘れての楽しい時間、家ではこうは行かない。家内とも初めてオセロをしたが、彼女の2勝1敗、でもこれは先手必勝の気がする。皆が寝た後、今年高校へ入った次男の長男が、別室で勉強をするという。しっかりした心掛けだ。エライ。
 翌朝、再び13階の展望風呂へ、今朝は昨晩とは男女入れ換えになっていて、今朝の方が昨晩のより脱衣場も浴槽もはるかに広く、こちらの方が断トツに快適だ。湯加減も上々、文句のつけようがない。上って朝食バイキングへ、今朝は早かったこともあって、レストランのテーブルでの食事となった。朝粥があるのも嬉しかった。食後寛いで、チェックアウトの11時少し前に宿を出た。料金はと聞いたら、大人一人6,700円とか、あれでペイできるのかと、他人事ならず心配になった。家内では、知人の印象ではよくなかったとか、どうなんだろうか。私たちは部屋も最上階で快適だった。
 通常の日本旅館ならば部屋にはランクがあるはずなのに、利用した加賀の本陣・山代温泉山下家は、大江戸温泉物語グループになった現在では全室同一料金、しかも365日間同じだという。結構だが、信じられない経営形態だ。石川県では、片山津温泉の「ながやま」もそうだという。