2015年11月27日金曜日

久々に感動した OEK の演奏(続き)

承前( 20 分間の休憩)
3.ストラヴィンスキー 弦楽のための協奏曲 ニ調 (1946)
 初めて聴く曲だった。作曲家のストラヴィンスキーは、ロシア・バレエ団のために書いた「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」の一連の前衛的なバレエ曲を発表して、一大センセーションを巻き起こしたのだが、その後に革命を逃れてアメリカに移住してからは、バロックに回帰した作風に変わってしまったという。そんな折に、バーゼル室内管弦楽団の創立 20 周年を記念して、主宰者のパウル・ザッハーから委嘱を受けて作曲したのがこの曲であるという。古典的な骨格と雰囲気を持った、3楽章の聴きやすい十数分であった。協奏曲とあるが、弦4部のみの弦楽合奏曲である。
 
4.ベートーヴェン 交響曲 第8番 ヘ長調 op.93
 交響曲 第7番が作曲されたと同じ年に、比較的短期間で作曲された第8番は、演奏時間が 30 分未満と短く、短さの点では初めて作られた交響曲 第1番と似ている。交響曲の中で、何が一番好きかと問われると、私が挙げたいのは、このベートーヴェンの第8番とモーツアルトの第 40 番である。前者はヘ長調の曲、後者はト短調の曲で、曲想は全く異なるが、何となく愛着があっていとおしい感じがする。
 第1楽章 Allegro vivace e con brio 明るい主題と「タタタ・タン」が何度も出るソナタ形式。
 第2楽章 Allegretto scherzando メトロノームを思わせる音の刻みが快い洒落た楽章。
 第3楽章 Tempo di Menuetto 3拍子の舞曲風旋律の中で奏でられるラッパの音が実に印象的。
 第4楽章 Allegro vivace 快速のロンドとティンパニーの鮮烈な効果が心地よい。
 この曲が作曲されている最中、ベートーヴェンは恋をしていたとある。そしてその感情がこの曲を一気に書き上げてしまう原動力になったとか、とにかく明るくて、洒落ていて微笑ましく、そして彼の心の内を音符に綴ったような曲である。あのトランペットが奏でるラッパの音は、恋しい人の許へ手紙を届ける郵便馬車の模倣だという。他の交響曲には見られない随筆のような書きぶりの交響曲である。
 演奏が終わって、瞬時の静寂の後、あちこちから上がるブラボーの声と万雷の拍手、立っている人もかなり見受けられた。私も何度か演奏会でこの曲を耳にしたが、この曲でこれほどの熱狂は経験したことがない。この演奏は皆さんに計り知れない感動を与えたからだろう。とにかく素晴らしい指揮とそれに応えた素晴らしい演奏、名前を全く知らなかった若い指揮者だったが、これ程に聴衆を熱狂させるオファーを持ち合わせていたとは驚きだった。

 どよめきの聴衆に応えて演奏された曲は、シューベルト作曲の劇音楽「キプロスの女王ロザムンデ」op.26.  D.797 から間奏曲 第3番 変ロ長調。よく知られている緩やかに流れる愁いを含んだ旋律は心を和ませてくれ 、心に染みた。最後まで席を立つ人もなく、惜しみない拍手が続くなか、演奏者も順々に去って、演奏会は終わった.当初はそれ程期待していなかっただけに、その感激は一入だった。

久々に感動したオーケストラアンサンブル金沢 (OEK) の演奏

第369回 OEK 定期公演「アンダルシアの誘惑」
 県立音楽堂に着いたのは午後1時、開演1時間前だった。でももう2階ロビーには人が溢れていた。いつものように生ビールを手にしてプレコンサートを聴く。ヴァイオリン、ビオラ、チェロの三重奏でのモーツアルトの作品の演奏だった。開場になって、定位置の 10 列 10 番に着席する。今日の指揮者は台湾国家交響楽団音楽監督のリュウ・シャオチャさん、プロフィールには過去にブザンソン国際指揮者コンクールに優勝、その後ヨーロッパの主要オーケストラや歌劇場で指揮をしたとある。でも私には初めて耳にする方、いつもの公演のように静かに聴こうと思っていた。

1.メンデルスゾーン 序曲「フィンガルの洞窟 (ヘブリディース)」op.26
 メンデルスゾーンがイギリスのヘブリディース諸島にある伝説の王フィンガルの名が付いた洞窟を観て作ったという描写音楽、私の大好きな曲の一つである。曲が始まって、指揮者の曲の引き出し方に何かピッとした感覚が走った。指揮ぶりを見て、瞬時に OEK のミュージックパートナーである山田和樹を連想した。見ていると、右手の指揮棒の動きと左手の動き、時に同じなこともあるが、大方は異なっている。リズムと曲想とを実に巧みにコントロールしているところが実に何とも素晴らしい。そして北の荒海の光景と荒波が打ち寄せる洞窟の情景を彷彿とさせてくれる描写を、実にリアルに表現してくれていた。 OEK のこんなに溌剌とした演奏を久しぶりに聴いた。演奏の後の拍手が凄かった。

2.ファリア バレエ音楽「恋は魔術師」
 バレエ音楽とは言っても歌がとても多く、スペインのオペレッタとも言われるサルスエラに近い曲である。歌う方は、二期会所属のメゾソプラノ歌手の谷口睦美さん。よく聴く曲だが、生で聴くのは初めてだ。日本語訳の詩が両袖に出るが、内容はともかく、素晴らしい声量と艶やかな声質に圧倒された。しかも容姿端麗、それかあらぬか、指揮者の歌い手に対する心遣いも素晴らしく、それもあってオーケストラとの一体感が実に素晴らしかった。終わった後も聴衆のどよめきは凄く、ブラボーの声が数カ所から、そして中には立って拍手する人も、私は立たなかったが、でも精一杯の拍手をした。こんなに素晴らしい興奮は久しぶりだった。終わって、何度も何度もステージへ挨拶に見えられたが、聴衆の皆さんは本当に魅了されたようだった。 (続く)

「蕎麦やまぎし」は大晦日まで

 石川県立音楽堂でオーケストラアンサンブル金沢 (OEK) の演奏会が土・日にある時は、開演時間は大概午後2時である。このような時は私は決まって「やまぎし」でそばを食べる。11 月 21 日の第 369 回定期公演も土曜日で、開演時間は午後2時である。ところで「やまぎし」の開店は午前 11 時半、席は 11 席しかないので、タイミングを外すとすぐに満席になってしまうので、少なくとも開店 15 分前には店に到着する必要がある。予約は可能だが 、席の予約はできない。店の張り紙には「開店は 11 時 30 分」と書いてあるが、半だともう満席になっていることが多い。この日も 15 分前に出かけたが、もう2組4人が座っていた。私の定番は、田舎粗挽きと財宝 (薩摩焼酎) 2杯、先月は知らず、先々月までは締めて 1100 円だったが、新そばのせいか 1200 円に値上がりしていた。この粗挽きは店主の山岸 隆さんの考案によるもので、噛み締めないと喉を通らない代物、私は何時もこれに能登の塩をまぶして、噛み締めながら食べ、かつ焼酎を飲む。私は店主を開店前から存じ上げているが、とにかく独創的で器用である。前職が県警本部の強面の部長さんだったとはとても思えない。
 ところでこの店の客層を観察していると、圧倒的に観光客の方が多い。金沢駅近辺では、駅に最も近く、しかも独特の風合いのそばを提供するとあれば、誰だって一度は寄ってみたいと思うのは必然である。開店当初は店の場所が分かりにくくて往生したが、今店に初めて来る人でも、皆さんスマホなどを持っておいでて、簡単に来てしまう。この店では、予め券売機で目的の品を求めることになっているが、初めての人はそれに気付かないので、すぐに初見と分かる。ところでこの店は今年一杯で閉めて、生まれ故郷である旧石川郡鳥越村の左礫 (ひだりつぶて) に店を移して営業するとか。そうすると金沢へ訪れる観光客はとても行ける場所ではない。その場所は手取川の支流の大日川の上流の右岸、今はなくなってしまった大日スキー場の手前である。それにしても大胆な発想をしたものだ。私は移転の話を初めて耳にした時は、今住んでおいでる金沢近郊の旧石川郡額村に移転されるとばかり思っていたが、思いもよらない僻地での開店に驚いた。今年は今の店で 12 月 31 日まで営業されるとかだ。

2015年11月20日金曜日

石川とその周辺の「猿」の名が付く山々

 来年の平成 28 年は丙申 (ひのえさる) の年である。そこで、「申」に因んで「猿」の字が付く山々を思い浮かべてみた。すぐに思い付いたのは、金沢の市街地からもよく見える「猿ヶ山」、白山の北方稜線の山々からは庄川を隔てて指呼の間に見える「猿ヶ馬場山」、それに能登での雪割草の大群落地として知られる「猿山」である。その外にも何かないかと日本山名事典 (三省堂) と日本山名総覧 (白山書房)をあたってみた。すると、富山県に「猿倉山」、福井県に「猿塚」、石川県に「猿矢山」というのが見つかった。両書によると、国土地理院発行の地形図に記されている山名で、日本で「猿〕が付いている山が 60 山、「申」が付いているのが7山あるという。以下に以上の6山について紹介しようと思う。
〔1〕猿ヶ山(1448m) 越中の山
 石川県金沢市にある日本三名園の一つの「兼六園」の小立野口を出ると、小立野通りの向こう正面になだらかな山容の山が見えるが、この山が猿ヶ山である。加賀平野から見ると、双耳峰の医王山 (939m) と加賀富士と称されている大門山 (1572m) の間に見える。一見石川と富山の県境の山と思われがちだが、富山の山である。大門山の登山口でもあるブナオ峠 (980m) を逆方向の北へ辿ると、大獅子山 (1127m) を経て尾根伝いに猿ヶ山へ行くことができる。途中まではネマガリダケが繁茂していて、小径が分かりにくい箇所もある。春にはこの辺りへは煤筍を採りに人が訪れる。なだらかな尾根筋で、頂上付近にはツバメオモトの群落が見られる。尾根をさらに北へ辿ると、三方山 (1142m) から袴腰山 (1163m) に至る。この袴腰山の下には、東海北陸自動車道の袴腰トンネルが通っている。 
〔2〕猿ヶ馬場山 (18875m)  飛騨の山
 庄川右岸の岐阜県白川郷にある飛騨高地の最高峰で、日本三百名山である。なだらかで広大な山頂をもち、両白山地の格好の展望台となっている。だから逆に、岐阜と石川の県境となっている白山 (2702m) から大門山 (1572m) に至る北方稜線のどの山からも、この山を庄川を挟んだ東方に見ることができる。中で最も至近なのは妙法山 (1776m) である。この山へ直接登る道はないが、近年切り開かれたとの情報もあるが不明である。残雪期には、北東方向にある籾糠(もみぬか)山 (1744m) や、南東にある一等三角点がある白山の遥拝所でもある御前岳 (1816m)) から、尾根伝いに容易に行ける。そしてこの山の下には、東海北陸自動車道の日本では2番目に長い、難工事でもあった隧道の飛騨トンネルが通っている。さてこの山の西には前衛峰である帰雲(かえりくも)山 (1622m) がある。この山は天正 13 年 (1585) の白山大地震の折に山崩れを起こし、山麓にあった内ヶ島氏の帰雲城を一夜にして埋めつくし、一千戸もあった城下町と数千の人馬が地底に葬られたことで知られている。国道 156 号線の白川街道を通ると、庄川沿いの道路に帰雲城跡の標識が立っている。
〔3〕猿山 (381m)  能登の山
 能登半島の奥能登丘陵の北西端、日本海に面する 200m の断崖の上にある。一帯はスハマソウ (雪割草) の群生地として大変よく知られている。西には海に面して猿山岬灯台がある。登路は北からは門前皆月から娑婆捨峠を経て、南からは門前深見から欣求(ごんぐう)峠を経て辿ることができる。雪割草の開花期の頃には大勢の人で賑わう。
〔4〕猿倉山 (345)  越中の山
 富山市大沢野にあり、飛騨山地の北端にある小佐波(おざなみ)御前山 (754m) から北西に延びる尾根の
末端にあり、西麓には神通川が流れていて、すぐ下流には神通川第二ダムがある。神通川沿いの左岸には国道 41 号線が通っているので、ダム近くからは対岸の右岸にこの山を望むことができる。山には風力発電の施設があり、北麓には猿倉山スキー場がある。
〔5〕猿塚 (1221m)  越前の山
 両白山地の南端に広がる越美山地、その福井と岐阜の県境近くに平家岳 (1442m) がある。この山は九頭竜川上流のダム堰止湖の九頭竜湖の南に位置していて、福井側から登路がある。この山は北へ2本の尾根が延びているが、その西側の尾根の中程に猿塚がある。登路はない。
〔6〕猿矢山 (381m)  能登の山
 輪島市街の東にある山で、南に尾根を辿ると、奥能登丘陵の最高峰で、航空自衛隊のレーダー基地がある高州山 (570m) に達する。輪島港に立って東に高州山を望むと、左へ連なる尾根の稜線上に見える。登路はない。

2015年11月13日金曜日

シンリョウのツブヤキ( 14 )ふだんのおつとめ

 父が昭和 55 年 (1980) に他界 (享年 73 ) してから、母が唱えていたお経に興味を持ち、父の一周忌に母と浄土宗の総本山知恩院にお骨を納めに行った折に、私が用いる日常信徒が勤行に行なう折に唱える「浄土日用勤行式 全」を求めた。その母も平成 15 年 (2003) に他界し、それ以降は私が普段のお勤めをし、先祖の命日には供養のお経を唱えている。
 毎年師走になると、私の家では十夜法要 (浄土真宗でいう報恩講 ) を行なう。旧野々市町では浄土宗の門徒は私の家と、今は絶えた分家のみで、他の家は皆さん浄土真宗の門徒である。それも圧倒的に大谷派 (お東) が多く、本願寺派 (お西) は少ない。私の家の檀那寺は金沢市中央通町 (宝舩寺町) にある浄土宗の佛海山法舩寺である。家のお十夜にはお寺のお住職にお出でを願って法要を行ってもらう。
 それとは別に、月経というのがあって、母が存命中は、野々市町の真宗大谷派のお寺の方にそれをお願いしていたが、母が他界してからは、法舩寺さんにお願いしている。と言って本来ならば来宅してお経をあげて頂くのが筋なのだろうが、私も家内も勤務していたこともあり、代わってお寺さんでお経をあげて頂いている。またこれとは別に、門徒全体の御十夜法要が檀那寺で執り行われ、その時は大概出席するのが常だが、今年はどうしても外せない用事で出席できなかった。
 ところで私は家では先祖の命日には必ずお経をあげ、勤行を行なっている。現在私は木村家の5代目、それで、初代の曾祖父の父母、曾祖父母、祖父母、父母のほか、夭折した祖父の弟、子がいなくて家が絶えた叔父、そして私の三男の計 11 人の命日には、次の順序で勤行を行なっている。これは正式に坊さんがあげるお経を若干端折って短くしているが、それでもかれこれ 25 分位はかかる。読経をする前には、燭台にお灯明を上げ、香炉に線香とお香を焼べ、経本の指示にしたがって、おりんと木魚とかねを打ち分けて読経する。次にその順序を記す。
 ( 1 ) 「三宝礼」、 ( 2 ) 「懺悔偈」、 (3)「十念」十遍唱える、(4)「開経偈」、(5)「仏説無量寿経四誓偈」、(6)「仏説観無量寿経第九身心観文」、(7)「仏説阿弥陀経」、(8)「発願文」、(9)「回向文」本誓偈と聞名得益偈、(3)「十念」、( 10 )「摂益文」、( 11 )「念仏一会」百八遍唱える、( 12 )「総回向文と十念」、( 13 )「別回向文と十念」命日や祥月命日の先祖の回向、( 14 )「別回向文と十念」木村家先祖代々の回向。
 また月々の1日と 15 日には、次のような順序で読経を行なう。(1) 〜 ( 5 )、( 15 ) 元祖大師御法語「一紙小消息」、( 16 ) 元祖大師御遺訓「一枚起請文」、( 10 ) 〜 ( 12 ) 。そしてこの日には、庭に置かれている 阿弥陀座像 と 観音様立像 にもお参りする。
 そのほかの普通の日には、次のように行なう。(1) 〜 (4) 、( 17 )「摩訶般若波羅密大明咒経」、次いで ( 10 ) 〜 ( 12 ) 。この 摩訶般若波羅密大明咒経 は、西暦 403 年に 鳩摩羅汁 が訳したもので旧訳と呼ばれていて、これに対して 玄奘 が西暦 649 年に訳したものは 摩訶般若波羅密多心経 ( 般若心経 ) で新訳と言われている。このお経を日本に持ち帰ったのは僧空海であるが、その当時のシナでは新訳がよく読誦されていたという。したがって現在日本で読誦されているのは新訳の般若心経である。本文の字数は、旧訳が300字、新訳が262字で、類似性は90%で、今風に言えば、新訳は旧訳のコピペであると思う。私は旧訳の鳩摩羅汁訳を知ってからは、新訳の般若心経ではなく、天の邪鬼にも旧訳の 摩訶般若波羅密大明咒経 を唱えている。
 また私が求めた 観世音菩薩坐像を仏間に安置してあるが、この前でも毎朝読している。その順序は、(2) 〜 (4)、( 17 )、( 10 )、(3)、( 14 ) である。
 なお、昨年 11 月に金沢市野町にある浄土宗大連寺で五重相伝を受けて以降は、その折に授かった「新版 浄土日用勤行式 完」に則って、命日の勤行を行なっている。
 そして本来ならば、これらを朝と夕に勤行すべきなのだが、こちらの方は怠けて、夕は十念だけで済ませているのが現状である。ただ五重相伝を済ませた折に、導師から1日に南無阿弥陀仏の念仏を3百
回以上唱えなさいとのことで、これは在宅の折には実行している。ところで旅行などで家にいない時など、声を出さずに念ずるだけでは駄目ですかと訊いたら、それは駄目で、必ず声を出して唱えなさいとのこと、でないと阿弥陀様には声が届かないからとの答えだった。私にはまだそこまで出来ないということは、修行がたりないということか。

2015年11月7日土曜日

珠洲に恩師を訪ねる(続き)

(承前)
3.翌日は暫し恩師と能登を周遊
 翌朝は男女入れ替えで、大浴場「見附の湯」へ行った。丁度海から朝日が上がってきた。風はあるが晴れている。暫し日の出を湯に浸りながら拝んだ。朝食は午前8時に予約しておいた。今日の行程は先生に一任することに。朝食後、ロビーで寛いでいると、先生からお返しの品といわれて、珠洲焼のビアカップを頂いた。近頃珠洲焼はなかなかの人気である。あの黒い渋い色が特徴で、近年復活した焼物、遠慮せずに頂くことにした。それで先生では、私たちが持参した土産を一旦家に置いてから、外浦を回って輪島に出て、その後能登空港まで送って欲しいとか。空港からは金沢からの珠洲行き特急バスが 12:20 に出るので、それに間に合うようにお願いしたいとかだった。先生は珠洲の方なので、途中の案内役をお願いした。
 宿から一旦珠洲道路まで戻り、飯田にある珠洲市役所近くにある先生宅へ。以前は入り組んで分かりにくい場所だったそうだが、今は前に広い道ができて、すこぶる分かりやすい場所だ。さて正午まで2時間ばかり、珠洲の突端へ行くのは止めて、国道 249 号線を通り、大谷峠 (トンネル) を越えて大谷へ出ることにする。途中山の稜線には、風力発電のタワーが林立していた。トンネルを抜け、ループ橋を渡る手前に、平時忠卿とその一族の墳 (県指定史跡) がある。大谷へ下りて国道を海岸線に沿って走ると、程なく道の駅「すず塩田村」に着く。ここは連続テレビドラマ「まれ」での塩田のロケ地である。今は時節は秋で揚げ浜塩田は休止しているが、それでも観光客は次から次へと訪れている。この辺り一帯には塩田が多いが、でも最盛期よりは少ないようだ。塩は 50g単位で販売されていて、品薄からお一人様1個に限ると書かれていた。塩田の周りには観覧席が設けられていて、観光目当ての商魂が伺われた。
 更に西へ向かう。曽々木を過ぎて少し行くと、右の浜手に「奥能登揚げ浜塩田輪島塩」の看板が、ロケは珠洲で行なったものの、ドラマでの場所は輪島、それで急遽輪島にも揚げ浜塩田を設えたもののようだ。ここにも観光客が立ち寄っていた。御陣乗太鼓発祥の地の名舟を過ぎると、白米の千枚田は近い。道の駅「千枚田」の駐車場には大型バスが数台、それもひっきりなしに次から次へと発着している。バスが着く度に記念写真の撮影、天気も良く、千枚田をバックにした写真は絵になる。県外の乗用車も多い。早々に引き揚げる。
 輪島の町に入り、希望で朝市に寄ることに。ブラブラと朝市の通りを歩く。もう 11 時近くとあって、終う店も、先生ではこの時間帯が最も値切ることができて安く買えるという。村田君がいないので先生に訊くと、彼は骨董に興味を持っているから、多分その店に行っているはずと言われる。案の定彼は其処にいた。彼の言では、この前寄ったときと値段がどうなっているかを見たかったとかだった。少々買い物をした。次に新しく出来たキリコ会館へ行く。すごく立派な出来だ。今日は時間がないので、中へは入らなかった。この場所は海を埋め立てて造成したとか。海との際にある岸壁に、次々と高い波がぶつかって、飛沫が高く舞い上がる。その時そこに陽が射すと、一瞬虹がかかり、この虹は次から次へと押し寄せる波が岸壁に当たって砕け散る度に具現する。飽かず眺める。この岸壁には1万トン級の舩も接岸できるとかである。
 朝市と港でずいぶん時間を費やした。急いで県道を南下し空港へ向かう。輪島市内でもたもたしたのと、途中で穴水へとあった交差点を反対に曲がったものだから枝道に入り込み若干時間をロスしたのと、空港手前の交差点での渋滞があったりで、空港のバス停に着いた時には目の前でバスは出て行ってしまった。時間の遅れはほんの 30 秒ばかりだった。先生ではこの後珠洲への特急バスは夕方までなく、それで穴水駅から出ている路線バスで帰ると仰る。その発時間は 12:50、それではとのと鉄道の穴水駅へと向かった。お陰で先生と駄弁る時間が増えたというものだ。空港から駅までは 10 分ばかり、今度は十分間に合った。先生とは又の再会を願って、固い握手をして別れた。一度金沢での耳順会に参加したいと申されていた。乞うご期待である。
 先生と別れて、穴水駅から一旦県道を北上し、穴水 IC からのと里山海道に入り、白尾 IC から津幡バイパス、次いで山側環状道路を通り、金沢まで一気に戻った。天候にも恵まれた、思い出深い2日間だった。

珠洲に恩師を訪ねる

1.はじめに
 平成 14 年 (2002) に村田君が台湾から 30 年ぶりに帰沢したのを機に、12 名が集まって「耳順会」が発足した。その後2名の入会と3名の他界があり、現在の会員は 11 名である。それで3月、6月、9月の第1月曜日には、金沢市内の割烹屋で懇親の会を開き、また 12 月にはやはり第1月曜日に加賀温泉で忘年会を行っている。一方これとは別に、毎月第3土曜日には、金沢市内のホテルで「湧泉会」と称して昼食会を催している。これまで耳順会は、会員の持ち回りで会を運営してきたが、平成 25 年 (2013) 正月に湧泉会が発足してからは、両会とも村田君が仕切っている。ところでお酒が入る耳順会はともかく、湧泉会は昼食会なのでお酒なしなのだが、午前 11 時半に始まって、いつも終了が午後4時という長談義になってしまう。女の井戸端会議ならいざ知らずと言いたいのだが、話題は身近なことから世界情勢まで延々と話が続くのだから、もう閉めますと言われて漸く終わりになるのが常だ。
 さて彼は日本に帰ってきてから、泉丘高校1年の時の担任だった珠洲市在住の橋本秀一郎先生とはよく会っていて、彼は先生とよく能登の社寺や遺跡を巡ったという。先生は社会の先生で、その方のことは大変お詳しく、彼も興味を持っていたようで、意気投合したというのが本当のところだろう。このことは彼も会でよく話していた。ところで先生を一度耳順会にお誘いしようということになった。それで先生に打診したところ、金沢へ出て来られるとか、珠洲からは特急バスで3時間ばかりとか、それで9月にお誘いした。ところが生憎体調をこわされて、実現しなかった。先生は私たちが高校へ入学した時には、京都大学を出られたばかり、だとすると私たちより7〜8歳上、現在 84 歳である。
 私たちが高校に在籍していた時においでた先生方のうち、現在も存命なのは5名のみとか。私が授業を受けた先生の中では唯一の先生である。それで村田君から珠洲へ先生に会いに行こうと提案があった時には、即賛同した。彼と先生との交渉で、日は 10 月 25 日の日曜日ということになった。当初は5名参加の予定だったが、ご不幸や他の同窓会との鉢合わせもあって、行くのは村田君と村上君と私の3名、車の運転は私がすることに。3人とも1年の時は同じ組で、橋本先生が担任だった。また村上君は母校でも教鞭をとっていたこともあり、また先生も彼も退職時には高校の校長先生であったこともあり、昵懇の間柄でもある。

2.珠洲で60年ぶりに恩師と再会
 金沢からの出発は午後1時、村田君宅の近くにある大きな書店の駐車場で待ち合わせた。山側環状道路から津幡バイパスへ、さらにのと里山海道、珠洲道路 (のとスターライン) を経由して珠洲市へ、村田君の予想では午後3時半には宿泊場所の珠洲市宝立町鵜飼にある「のとじ荘」に着けるという。この予想は見事に的中して、途中一度別所岳 SA でトイレ休憩したものの、予想通りの時間に着けた。途中で村田君は道路を車で走ると朝ドラ「まれ」のテーマ曲が流れるというので、それをぜひ聴きたいとのことだったが、別所岳 SA を過ぎた辺りで、約2分間ばかり聴くことができた。
 珠洲温泉「のとじ荘」に着いてチェックインする。部屋は4室とも海側に面した個室、この宿は今年3月に金沢までの新幹線開業に合わせてのリニューアルオープン、以前に泊まったことがあるが、雰囲気は全く違い、近代的な佇まいになっている。個室志望は村田君の意向によるものだが、複数で泊まってそれぞれ個室というのは、何となく居心地がよくない。でも彼は何時でも個室に拘るようだ。時間もあるので見附海岸を散歩する。
 先生はバスで来られるとか、すると到着は午後5時半頃、先に風呂に入ることに。この時間帯、男性は展望風呂がある「弘法の湯」、新しく設えられた露天風呂は実に快適、すぐ近くに絶景見附島を望める好位置にあり、海を眺めながら時の経つのも忘れる。そして夕闇が迫る頃に、先生が着かれた。村田君や村上君はともかく、私と先生とは 60 年ぶりの対面、村田君からキムラシンリョウが同行すると告げられていたこともあってか、先生の記憶の中に私が残っていたのには感動した。初めての担任だったこともあるのだろうか。先生の湯浴みが終わるのを待って、夕食となる。
 夕食は2階にある「レストラン漁火」の個室、お酒は先生の希望で熱燗にする。会食の折、村田君が持参した高校1年の時に、構内やハイキングで写した白黒写真のコピーを見ながら話に花が咲いた。私たちはともかく、先生が生徒の名前を覚えておいでたのには驚いた。40 年近く教職にあったのに、最初の担任であったにせよ、正に驚異だった。すごく懐かしがっておいでたのには本当に感動した。時間になってレストランを出て、1階ラウンジにあるカウンター席へ移った。先生はここではスコッチウイスキーのストレート、私も追随したが、旺盛な元気には感服した。先生は奥さんを亡くされていて、現在独り身だが、夕食は近くに住んでおいでる長男夫婦の所で召し上がるとかだった。それにしてもタフだ。午後9時過ぎ、海の方を見ると、十三夜の月が海上を照らしていた。幻想的でもあった。

2015年11月3日火曜日

シンリョウのジュッカイ ( 10 ) 「野々市の祭」

 今年の野々市本町の秋祭には、久しぶりに神輿 (二丁目 )と獅子舞が3町 (一丁目、三丁目、四丁目)から出た。旧野々市町の頃は、春祭はともかく、秋祭りには必ずそろい踏みしたものだが、このところ4つが揃って出ることはなかった。それだけに今年は賑わいを見せた。とはいっても地味な祭であって、この祭を見にわざわざ訪ねる人は稀で、むしろお盆の「野々市じょんから」の方が皆さんに知られている。ところで旧野々市町には6町あったが、何故か当時神輿や獅子舞を出すのは4町のみだった。神輿でも獅子舞でも、法被には旧町名が染め抜きされていた。神輿は一日市町、獅子舞は荒町、中町、西町の3町である。
 野々市は古くは野市 (読みはノノイチ)、野の市、布市 (神社にこの名が残る) と称したようだが、近年は野々市の表記になっている。旧町は北國街道に沿っていて、金沢 (尾山) から来ると、街道は町の真ん中辺りで直角に折れて、松任に向かっている。古くは金沢寄りから、荒横通、北横通、一日市 (ひといち) 通、中通、六日 (むいか) 通、西通と称していたが、大正 13 年に野々市村から野々市町になって、荒町、新町、一日市町、中町、六日町、西町となった。でもこれは通称であって、公称ではない。これら旧の呼称は現在石碑に刻まれ、保存されている。旧野々市町は戸数四百戸、人口二千人ばかりで、ほとんど増減がなかったが、昭和 32 年に町村合併があり、さらに平成 11 年に野々市市になって以降は人口が増加し、現在は5万2千人程になっている。
 旧6町はその後、荒町は一丁目、新町と一日市町は二丁目、中町は三丁目、六日町は四丁目、西町は五丁目となった。なので、神輿は二丁目、獅子舞は一、三、五丁目からということになる。そして四基とも氏神の布市神社の秋季例大祭に合わせて奉納する。これは旧通にはそれぞれに八幡様やお稲荷様があったのだが、これらの神様は通から町になった折、一日市町にある村社の布市神社に合祀されたからである。ところで私の住む新町には白山神社と辻の宮 (北横宮) があったが、白山神社も村社格であったため合祀されずに今も残っている。ただ祭祀は布市神社の宮司が仕切っている。また北横宮はその後白山神社に合祀された。 
  3町から出された獅子舞は、数年ぶりだった町もあったのに、棒振りの子供達は皆さん随分はつらつと上手に振る舞っていた。以前に振ったことがある方達が指導したのだと思われるが、中々見事だった。通りの家々の前では悪魔除けの棒振りをしてくれるが、それには祝儀をはずむのがしきたりである。私の家は旧街道に面しているので、3基とも寄ってくれた。ところで獅子の胴は大きな幌で覆われていて、その幌の足は若衆が持ち、昔はその胴の中に、三味線、笛、太鼓の衆が入っていて、特に三味線は芸者衆が受け持っていたものだ。でも世は世知辛くなり、昨今はテープを流して凌いでいる。また幌も車付きになって簡単に移動できる。それでも幌の修理はままならないようで、色は落ち、薄破れも目立ち、今一見栄えがしない。またそれかあらぬか、舞が終わって凱旋する時には、以前なら、オッピキダイサンノーエ、オッピキダイサンノーエで始まる勇壮な歌を高らかに歌って引き揚げたものだが、昨今いま少し威勢がない。やるなら幌も新調して威勢よくやって欲しいものだ。
 一方神輿の方は、近隣では今じゃ名物になっている「豊年野菜神輿」で、起源は明治時代に凶作に見舞われた折に、農家が五穀豊穣を願って農作物で神輿を作ったのが始まりとされている。戦後は一時途絶えていたが、その後一日市町若衆が復活させ、町制施行後は本町二丁目に野菜神輿保存会が発足し、今日に至っている。この神輿は土台以外はすべて野菜や穀物や秋の草木を使って製作するもので、製作には2ヵ月を要するという。重量は約 500 kg、出来上がりは中々壮観である。神輿の屋根は稲穂で葺き上げてあり、黄金色で重厚で美しい。欄干には玉葱、鳥居には蓮根、御紋には茄子、柿、栗、唐辛子、生姜、果物等を用いて飾り付けされる。また特に壮観なのは神輿の頂上に乗っかる羽を広げた大きな鳳凰で、秋の草木や人参を用いての重厚な造りになっている。全てが生ものなので重たく、特に繰り出す日が雨だと、雨で重量が増し、担ぎ手の負担は相当なものになる。幸い今年は比較的天気が良くて、雨は落ちたものの、短時間で上がり、一安心だった。
 今年は3町全てから獅子舞が出て、久方ぶりに神輿と競演する「4町合わせ」が旧野々市町役場前の広場で行なわれ、賑わった。それにしても、神輿や獅子舞の母体となっている旧町は、町全体の人口が増加している割には、むしろ減少の傾向にある。というのは、私の家でもそうだが、子供達は皆外へ出てしまっているとか、同じ野々市にいても、実家の町内ではなく、別の町内に所帯を持っていたりしている。そういうこともあって、旧町内にいたことがある人ならば、積極的に参加することが出来るようにした方が如何かと思う。そうしないと、存続が段々難しくなるのではと思ったりする。毎年出すようにするには、人数をある程度確保する一工夫が必要な気がしている。