2011年6月24日金曜日

「子うし会」で熊野三山を巡る


「子うし会」という同窓会がある。昭和11年(1936)4月2日から昭和12年(1937)4月1日の間に、旧野々市町と旧三馬村横川出に生まれ、町立野々市小学校や野々市中学校に在籍した同窓生の集まりである。延べ人数は54名、うち1名は在学中に死亡しているので、小学校、中学校、もしくは小・中学校を卒業した同窓生は、男28名、女25名ということになる。このうち旧三馬村横川出の児童・生徒はいわゆる金沢市からの寄留で、本来なら金沢市の小学校や中学校へ入るべきなのだが、あのころは野々市町の学校がはるかに近かったので越境していたが、現在はこのような通学形態はない。
 現在いる会員は誕生日が来れば75歳になるはずで、干支では子年の遅生まれと丑年の早生まれとが混在していて、会の名称はこれに因む。読みは「コウシカイ」である。卒業生のうち、これまで男7名と女3名が他界しているほか、消息不明が男に2名いて、現在の会員数は男19名女22名である。このうち自他ともに元気だと言える人は男4名女3名くらいしかいない。でも医者に罹りながらも一見元気そうで同窓会に足を運んでくれる人は半数の20名ばかりになる。ところで後の半数は会って確認したわけではないが、会には身体の具合が悪くてとても出られないと言っている。一方会に出てくる人は、もういい歳で先も見えていることもあって、毎年会いましょうということになり、10年位前からは、1回は近場の温泉で1泊、もう1回は1泊もしくは2泊の旅行、それを交互に行なって親睦を深めている。
 旅行をするにあたっての一番の隘路は、女性では、一見元気そうなのだが本人は足腰が悪くて歩けない、次いでバス旅行だと車酔いでダメという人が多く、もうこうなると出られる人は限られてしまい、数えると女性は10名に満たない。その点男性は、一見元気そうだと、足腰が萎えたとか、車酔いの人は少なく、12,3名は参加の見込みがある。そして近場の会では、宴会を椅子席にすることによって、少々足腰が悪くても参加してもらえるような配慮はしている。昨年は芦原温泉に集まった。その際今年の旅行のことを諮ったが、こればかりは元気な女性の希望に沿うことが多く、希望では、日本の秘境といわれる奈良の「十津川郷」と世界遺産にも関連する「熊野三山」、旅行社のプランでは、初日の頭に「明日香村」、翌日に「瀞峡」の遊覧と「太地町」を加えたものを作ってくれた。催行人員は15名、2泊3日の旅である。
 旅行は3日とも平日、北陸交通の中型バスをチャーターしての旅行、野々市町出発帰着で、参加者は男9女6の15名、うち小松で1名、米原で1名、奈良で2名の乗車があった。出発を午前6時にしたが、女性からはもっと遅くならないかとの要望もあったが、長旅を考慮すると、決して早くはないと思うのだが。結果として、朝食欠食の方は尼御前SAで食事をしてもらった。この日の天候は晴れ、旅行日和である。昼少し前に第一目的の明日香村に入った。
(1)明日香村:埋葬者は蘇我馬子らしいと言われる古墳時代後期の古墳の「石舞台古墳」を見る。すごい巨石の石室、すごい墓だ。生徒が沢山見学に来ていた。社会勉強なのか修学旅行なのか。次いで蘇我馬子が開基の5世紀に創建されたという「飛鳥寺」へ寄る。ここには奈良の大仏よりも先に鋳造されたという飛鳥大仏が安置されている。当時は寺の規模も大きかったらしいが、今は堂宇一つのみだ。裏へ周って蘇我入鹿の首塚を見、水落遺跡を巡り、埋蔵文化財展示室へ立ち寄る。食事を済ませて「高松塚古墳」へ、ここにも沢山の生徒たち、壁画館では、展示はすべてレプリカだが、あの見慣れた女子群像や四神、天井部の星宿図を初めて実物大で目の当たりに見た。
(2)十津川村:奈良県の最南端に位置する日本一広い村で、山と十津川の本流・支流により深く刻まれたV字渓谷、そんな村である。川を渡るには橋は欠かせず、幹線道路以外は吊橋、しかもそれは生活用、そんな吊橋が村内に60余基あるとか。私たちが渡った「谷瀬の吊橋」は、村人が共同出資して昭和29年(1954)に架設されたもので、全長297m、高さ54m、中央には80cmの板が敷いてあり、バイクなら通れる橋である。渓谷を縫うように、南北に国道168号線、東西に国道425号線が通っているが、険しい山間とて道幅は狭小である。村の西寄りには、南北に熊野古道の小辺路(こへち)が、東の村境には大峯奥駈道が熊野本宮大社に向かってついている。  初日の宿は「十津川温泉」、泉質はナトリウム炭酸水素塩泉で掛け流し、夕食にはボタン鍋が出た。 翌日は村の東南と和歌山・三重の県境を流れる熊野川の支流の北山川の「瀞峡」の下瀞(瀞八丁)と上瀞の間を往復し、巨岩、奇岩、断崖が続く渓谷美を味わった。
(3)太地町:鯨とイルカの町、そして過剰な海洋環境保護団体という乱暴者のシーシェパードが乗り込んだ町でもある。二日目の夕方、ここにある「くじら館」を見学した。捕鯨に関する貴重な資料が多く集められていた。
(4)熊野三山:二日目の午前に本宮町の熊野本宮大社へ行く。大きな鳥居の横には、初代天皇の神武天皇東征のおり、熊野から大和へ入るのに、天照大神の使者として先導を務めたという三本足の烏「八タ烏」の旗が掲げられている。午後には新宮市にある熊野速玉大社に参詣した。三日目午前には那智勝浦町にある那智大滝と熊野那智大社・青岸渡寺へ、下の駐車場からは雨の中を熊野参詣道・中辺路の大門坂の石畳を上る。雨のせいで、那智大滝の水量は凄く、圧倒された。そして上の駐車場から大社へは、さらに表参道を標高差で100mばかり上らねばならず、5人がパスした。お寺からはよく絵で拝見する三重塔と那智大滝が望見できた。昼食には、滝が見える食堂で、日本一のマグロの水揚げを誇る勝浦港直送のマグロのちらし寿し、私は何時ものように刺し身のみ頂戴し、ビールで喉を潤した。
 こうして、時間的にも盛り沢山のスケジュールのすべてをこなすことは困難で、いくつかを割愛せざるを得なかったが、年齢を考えればもう少しゆとりがあった方がベターだろう。また遠方ならば、現地でのバス調達という方法もある。一考を要する。

 この度の熊野三山巡りに際して、「熊野」「熊野三山」「熊野古道」「熊野参詣道」について、若干の知見を得たので、以下に書き記す。
 [熊 野]
 熊野とは、近世の牟婁郡、明治以降の和歌山県の東・西牟婁郡、三重県の南・北牟婁郡の総称で、現在の市・郡では、これに田辺市、新宮市、尾鷲市、熊野市が加わった4市4郡がその範疇となる。地理的には紀伊半島の南部、地誌的には紀伊山地南部の壮年期の山地で、熊野三千六百峰と呼ばれる山々が連なり、古座川・熊野川などが深い谷を刻んでいる。このように鬱蒼とした森林に覆われた熊野は、神々が宿る地とされ、人々から崇められてきた。
 日本への仏教の伝来により、熊野の地は「神仏習合の地」となり、救いを求めるあらゆる人々を受け入れる聖地、浄土の地となった。このような我が国固有の神の信仰と仏教信仰とが複合調和したのは熊野の地のみでなく、全国各地の山岳信仰でみられている。これは神仏混コウといわれ、奈良・平安初期に始まったようだ。このような考え方は本地垂迹(ほんじすいじゃく)説もしくは神仏同体説といわれる。平安初期、熊野では本宮・新宮道場が開かれ、延喜年間にはさらに那智が加わって三社となり、11世紀末の平安後期初頭には熊野三山という呼称が一般的になった。
 本地垂迹思想による仏教と渾然一体となった熊野信仰では、本宮は西方極楽浄土で来世の救済を受持ち、新宮は東方浄瑠璃浄土で過去世の罪悪の除去に当たり、那智は南方補陀落浄土で現世の利益に関わるとされ、ここに三位一体の信仰が出来上がった。熊野詣ででは10世初頭(平安中期初め)の宇多法皇の熊野御幸が最初で、それ以降皇族・貴族の間に熊野信仰が広まり、後には武士や庶民も熊野詣でをするようになった。その行列は途切れることなく続いたものだから、「蟻の熊野詣で」とも呼ばれた。中でも最もよく歩かれたのは、紀伊路ー中辺路であったという。
 ところが明治元年に神仏分離令が発せられ、国家の神道国教化政策により、廃仏毀釈・排仏棄釈、即ち仏性を廃して釈尊の教えを棄却することが行なわれ、寺院、仏像、経文などの破壊活動が起きた。そして本地垂迹思想による仏教と渾然一体となっていた熊野信仰は衰退してしまった。
 [熊野三山]
 熊野にある、本宮・新宮・那智の聖地の総称である。
 本宮とは熊野本宮大社のことで、和歌山県田辺市本宮町にあり、主祭神は家都美御子大神(ケツミミコノオオカミ)、本地仏は阿弥陀如来である。
 新宮とは熊野速玉大社のことで、和歌山県新宮市新宮にあり、主祭神は熊野速玉大神(クマノハヤタマノオオカミ)、本地仏は薬師如来である。
 那智とは熊野那智大社のことで、和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山にあり、主祭神は熊野夫須美大神(クマノフスミノオオカミ)、本地仏は千手観音である。
 [熊野本宮大社]
 旧官幣大社。創建は伝崇神天皇65年。現在地では、本殿の上四社のみ再建されている。明治22年(1889)の大洪水で流されるまでは、熊野川・音無川・岩田川の合流点の中州にあった。旧社地は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い鳥居(高さ33.9m、横42.0m、鉄筋コンクリート造り、平成12年(2000)完成)が建っている。また以前はあった中四社と下四社は再建されず、旧社地に石祠が建てられているのみである。以下に上四社(第一殿~第四殿)の宮名、祭神、本地仏を掲げる。 第一殿:西御前:熊野牟須美大神:千手観音。 第二殿:中御前:速玉之男神:薬師如来。 第三殿:証誠殿:家都美御子大神(主):阿弥陀如来。 第四殿:若宮:天照大神:十一面観音。
 [熊野速玉大社]
 旧官幣大社。創建は伝景行天皇58年。元宮は近隣の神倉山の盤座に祀られていたが、いつの頃からか現在地(新宮)で祀られるようになった。昭和42年(1967)に再建されている。境内にはナギの大樹がある。元宮の地には現在神倉神社があり、標高120mの山上にあるゴトビキ岩が神体として祭られている。以下に上四社(第一殿~第四殿)の宮名、祭神、本地仏を掲げる。 第一殿:結宮:熊野牟須美大神:千手観音。 第二殿:速玉宮:熊野速玉大神(主):薬師如来。 第三殿:証誠殿:家都美御子大神:阿弥陀如来。 第四殿:若宮:天照大神:十一面観音。同:神倉宮:高倉下命:本地仏なし。 また中四社(第五~第八殿)と下四社(第九~第十二殿)は八社殿として祀られている。
 [熊野那智大社]
 旧官幣中社。創建は伝仁徳天皇5年。元は那智の滝に社殿があり、滝の神を祀っていたと考えられている。今は参道の長い石段を上がった那智山の右手に青岸渡寺、左手に朱の大鳥居と境内が続き、拝殿の奥には総門・瑞垣を挟んで本殿がある。以下に上五社(第一殿~第五殿)の宮名、祭神、本地仏を掲げる。 第一殿:瀧宮:大己貴命(飛瀧権現):千手観音。 第二殿:証誠殿:家都美御子大神:阿弥陀如来。 第三殿:中御前:御子速玉大神:薬師如来。 第四殿:西御前:熊野夫須美大神(主):千手観音。 第五殿:若宮:天照大神:十一面観音。 また中四社と下四社は第六殿の八社殿として祀られている。 
 熊野三山の本宮と新宮の二社では、明治の神仏分離令により、仏堂は悉く破壊されたが、那智では如意輪堂(観音堂)だけが残され、やがて青岸渡寺として復興した。建立は天正18年(1590)、宗派は天台宗、山号は那智山、本尊は如意輪観世音菩薩、熊野那智大社と共に神仏習合の修験道場である。また西国三十三所第一番札所でもある。
 那智の滝(那智大滝)は「一の滝」で、その上流に那智四十八滝があり、熊野修験の修行地となっている。大滝は落差133m、単独では国内1位、総合では称名滝、羽衣ノ滝に次ぐ3位である。また華厳滝、袋田滝と共に日本三名瀑とされる。
 那智山から下った那智浜(地名は浜の宮)には、補陀洛渡海の拠点となった補陀洛山寺がある。創建は伝仁徳天皇治世の4世紀、開基は伝・裸形上人、宗派は天台宗、山号は白華山、本尊は三ゲイ千手千眼観音である。補陀洛とは、古代サンスクリット語の観音浄土を意味する「ポータラカ」の音訳である。
 [熊野古道] 
(1)「紀伊路」(渡辺津~田辺):大阪の淀川河口の渡辺津(窪津、九品津)から、紀伊田辺まで、紀伊半島の西岸を歩む路である。
(2)「中辺路(なかへち)」(田辺~本宮・那智・新宮):紀伊田辺で東に転じ、山中を進み、熊野三山に至る路で、最も頻繁に使われた。紀伊路・中辺路には渡辺津から熊野三山に至るまでに100近くの熊野権現の御子神を祭祀した九十九王子があったが、現存するものは少ないものの、その遺跡が点在しているのが特徴である。
(3)「大辺路(おおへち)」(田辺~串本~那智):紀伊田辺から中辺路と分かれ、海岸線を南下し、紀伊半島を周回して那智に至る路である。国道と重複している箇所も多く、本来の姿が良好に保たれている範囲は少ない。
(4)「小辺路(こへち)」(高野山~本宮):紀伊半島の中央部の霊場「高野山」と熊野本宮を結ぶ路で、途中には標高1,000mを超す峠を三度も越えねばならない険しい路である。
(5)「伊勢路」(伊勢~本宮、新宮):紀伊半島の東岸を歩む路である。途中の「花の窟」から本宮へ直接行く道を「本宮道」という。またそのまま南下して新宮に至る道を「七里御浜道」という。新宮から熊野川に沿って陸路で本宮に行く道を「川端(川丈)街道」というが、国道と競合しほとんど残っていない。形跡が残っていないわけではないが、現在は通れない。逆に本宮から新宮への下りには、往時は熊野川の船便が利用された。
(付)「大峯奥駈道」(吉野・大峯~本宮):修験道の開祖、役(えん)の行者(役の小角)によって開かれた道で、霊場「吉野・大峯」と熊野本宮を結ぶ修験者の修行の道で、紀伊半島中央部にある大峰山脈を峰伝いに縦走する山岳修験道である。
 [熊野参詣道] 
 平成14年(2002)に「熊野参詣道」は国の史跡に指定された。その後平成16年(2004)には「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界遺産(文化遺産における「遺跡及び文化的景観」)に登録された。但し参詣道の登録対象には「紀伊路」は含まれていない。参詣道以外には、「吉野・大峯」「熊野三山」「高野山」が含まれる。道が世界遺産として登録されることは稀である。熊野古道の遺構の特徴として、舗装に用いられた石畳が残っていることが挙げられ、これはこの地が日本有数の降雨地帯であるからによる。でも中には生活道路として、また国道や地方道、市街地のルートとして重複したり、吸収されたものもある。であるからして、世界遺産に登録されたのは熊野古道の全てではない。また、熊野参詣自体にも盛衰があり、正確なルートが不明の区間があること、歴史的な変遷から生じた派生ルートもあることにもよる。
 道が世界遺産に登録された他の例としては、「サンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」(文化遺産・スペイン)がある。
なお、「熊野古道・和歌山」と「十津川郷・奈良」は、日本の秘境100選に選ばれている。

2011年6月17日金曜日

板ヶ谷の旬味処「きよみず」


 五月のとある晴れた休日の昼下がり、家内が向かいの家の年寄り奥さんと我が家の前で話し込んでいた。話題は私の家の前の道路に面して建っている木製の塀のこと、老朽化してきたので作り替えるのに、私は今車を停めている前の部分の塀はなくして、片側のみ塀を造成したいと思っていた。ところが向かいの奥さんのご意見では、やはり入り口の左右両方に塀がないと釣り合いがとれないし、何となく開けっ広げで不用心な印象を受けるとのこと、二人の意見は一致したようだった。そこへ私が通りかかったものだから、家内は我が意を得たりで、やはり私の考えが正しいと言う。ここは反抗すべき場面ではなく、話題を変えることに。ところで向かいの奥さんはなかなか上品な方、お茶の嗜みもあり、いつか次男が招かれたことがあるが、茶室も設えてあるらしい。私たちも招かれたことがあるが、とても応ずることは憚られ、それ以後はお茶の誘いはない。
 塀の件はさておき、家内は私がそばが好きで、あちこち出かけていると話すと、奥さんは、湯涌温泉の奥に「銭がめ」という店があるけれど、その向かいに「きよみず」という店があって、そこのそばはおいしく、私は大好きだと仰る。「銭がめ」に行かなくなってから久しいが、さてそんなところにそば屋があったかなと訝った。「銭がめ」には何度も泊まったこともあり、その頃はよく出かけ、囲炉裏端で岩魚を食い、酒を呑み、小さな風呂にも入って時を過ごしたものだ。奥さんでは「きよみず」の「そば」は一押しだと言われる。そこまで聞いては、是非一度行って見なくちゃなるまい。

閑話休題
 探蕎会の但馬・丹波への旅行の1週間後の土曜日、お天気もよく、うずうずしながら、件の「きよみず」へ出かけることにする。11時半開店かも知れないが、取りあえず11時に着くようにして出かける。山側環状道路を経由すれば、家から湯涌までは1時間もかからずに行ける。湯涌温泉へは入らずに県道10号線を奥へと進む。芝原で橋を渡り直進すると、道の左手に「きよみず」の看板、後で聞いたら頼まれて出したとのことだった。天然温泉の「湯楽」を過ぎ、さらに3km山奥へ向かって走ると板ヶ谷町、「銭がめ」は今では代が替わって立派な温泉旅館に変貌している。ところで「銭がめ」の前には家はなく、さらに奥へ100mばかり進むと、左手に平屋の建物が見え、そこが目指す「きよみず」だった。主人と思しき人が外で仕事をしていて尋ねると、今日も含め月曜までは予約で一杯とか、聞くとどうも予め予約をしておかないと入店は無理なようだ。中へ入れてもらうと、囲炉裏とだるまストーブの周りには岩魚が沢山遠火で焼かれていて、今日はお客が12時に来るとか、20人が限度だとも仰る。雰囲気は田舎の山奥の古ぼけた民家そのもの、来る人は都会の方が多いとのこと、この素朴さが魅力で売りなのかも知れない。今度は連絡して来ますと言って辞した。
 次週の日曜日、家内を誘って行こうと思ったら、たまには家に居たらと言われ、「きよみず」へ独りで行ったのでは酒は飲めず、今回は諦めようかと思っていたら、前日になって付き合いしてもよいとのご託宣、満席かも知れないと思いつつ取りあえず電話した。ところがOKだった。何を用意しましょうかと言われ、咄嗟には岩魚と鴨をお願いした。
 翌日の日曜は生憎の雨降りだったが、車を走らせる。正午にと言われたが、30分ほど早く着いた。中へ入ると、大きな囲炉裏の奥の方に案内される。この前来たときに聞いたのでは、この建物はすべて独りで建てたとのことだったが、よく見ると、古材を上手に組み合わせて作ってある。以前あった建物は例の浅野川の集中豪雨の鉄砲水で流され、その後新しく建てたものだとか。
 囲炉裏には薪がくべられていて、火が赤々と燃え、岩魚が3尾遠火で焼かれている。鴨肉の切り身が出た。筒切りにした白葱も付いている。お酒をお願いする。酒の銘は不明だが、青竹の筒に入れてあり、よく冷えている。注ぎ口に細工が施してあり、これは試行錯誤の結果だとか。猪口も青竹、付け味噌が入った竹の皿は、枝が装飾になっている。主人は囲炉裏から熾きを取り出し、三徳に金網を載せてくれる。ところで家内はトリが大の苦手、この鴨をどうしたものかと心配していたら、彼女はサッと火で炙って何の抵抗もなく食べてしまったのにはびっくりしてしまった。反面私は安堵し、神仏に感謝した。
 私も早速賞味したが、実にジューシーで美味しくうまい。私が鴨は合鴨しか知らないと言うと、このマガモ(青首)はシベリアへ帰る1月から2月(狩猟期間は2月15日まで)頃が最も脂が載っていて美味しく、その元気な鴨を空気銃で仕留めて捕ったものを冷凍して保存してあったものだという。この辺りは鴨の北帰行のコースに当たっているらしい。そういえば、昔はこの辺りの尾根にはカスミ網が張られていた。主人は猟をするのに猟犬を5匹も手持ちしているという。そして見せてくれた猪の肉のブロックも、自ら仕留めたもので、これはボタン鍋に使うのだという。鍋は5人前から、ほかに熊の肉もあると書いてある。問わず語りに、ここで出す材料はすべて自ら手にかけたもの、岩魚も鮎もごりも養殖ものは一切なく、山菜もまた然りである。岩魚は1時間ばかり遠火で焼いたものを頂く。香ばしく、全部食べられる。岩魚の骨酒もうまそうだ。
 山菜をお願いすると、青竹を縦に半切した容器に3種類のお浸しが入ったのが出てきた。コシアブラ、ウド、センナ(ワサビの葉と茎)で、竹は丁度節で区切られている根元に近い部分、なかなか考えてある。みな全て新鮮な色合い、しかもその香りが強く、特ににコシアブラはいつもは天ぷらのため、熱で香りが減ってしまうのに、このお浸しの香りが強いのには本当に驚いた。ウドも芽が出たすぐのものを採取し、太いのはウドの根茎とか、通常は採らないし口にしない部分だが、それを薄く輪切りにしてあるが、ここが美味しいのだと仰る。ワサビも当然野生で、この谷のどこかに生えているのだろう。お酒がすすむ。
 主人が言うには、もし此処で山菜の天ぷらを出すとしたら、採ってきてすぐのものを揚げないとダメだと。生気がないと香りも失せるという。次に、大粒の三年物という山で自生する大きなラッキョウの酢漬けが出た。通常3年経つと分けつして小粒になるのだが、山ではそのまま大きくなるのだとか、栽培品とは異なる妙に感心した。次いで太い根曲がり竹の筍、金網に載せて焼く。程よく焼けたら、皮を剥ぎ、焼き味噌を付けて食べる。大概は皮を剥いで湯がいて処理するのに、こんな食べ方は初めてだった。筍の生の香りが新鮮だ。
 最後にそばが出た。そばは田舎の二八だろうか。蕎麦はこの地の産だと言われる。打ちはどこで教わったのですかと聞いたら、地元のバアちゃんたちに教えてもらったとのこと、中太の香りある端正なそばだった。容器は当然孟宗竹の青竹、清々しい。

 「きよみず」の主人は、旧押野村八日市(現金沢市)の出身、昔のことを話していると、私と同世代の旧押野村(現野々市町)の連中の名をよく知っていた。そして家内の従姉妹とは同級とか、ということは家内と同い年ということになる。勤めを辞めてこの道に入ったとのことだったが、以前は犀川温泉の「滝亭」の支配人だったという。非凡な人だ。
 鉄砲水が出たという枝谷には、今は見上げるような立派な高い堰堤が作られている。あのときは「きよみず」も押し流されてしまったが、隣の家では、翌日嫁ぐ娘さんの嫁入り道具一切合財、住居共々濁流に押し流されてしまったと話されていた。自然は優しく人々に安らぎを与えてくれる半面、一旦牙を剥くと、その猛威は人智を遥かに超える力で襲いかかる。東日本大震災またしかりである。
 この日は他に客もなく、雨の音を聞きながら、静かに世間話をして2時間余りを過ごした。6月半ばには鮎も解禁になる。その季節になったらまた訪ねようと思う。向かいの年寄り奥さんには良い店を紹介してもらったものだ。

2011年6月15日水曜日

丹但探蕎の二日目は出石町へ

 初日の晩に投宿したのは城崎温泉の「つばきの旅館」、諸氏は着くなり城崎温泉の外湯巡り、また今朝も早朝から外湯巡り、中には一番乗りをして記念の手形を頂いた方もいた。朝食を済ませての出立の予定は午前9時、今日の予定の目玉は、円山川沿いにある玄武洞の見学、昼は南下して出石町まで行き、「出石皿そば」を食し、北上して天の橋立に立ち寄り、その後帰沢する予定となっている。朝出立となって旅館の主人の椿野さんがお出でになり、玄武洞見学の後、出石町への途中に、コウノトリが自然繁殖しているハチゴロウの戸島湿地とか、コウノトリを飼育しているコウノトリの郷公園やコウノトリ文化館があり、ぜひ見て行かれたらと言われる。椿野さんは合併後の豊岡市の市会議員であり、また城崎町の消防団長でもあって、また「そば」ならここと、旧日高町の神鍋や旧但東町の赤花の地産地消の「そば」を勧められた。でも出石の町が初めてという方もお出でることから、予定どうりの行動とする。ただコウノトリは途中とのことで寄ることにした。玄武洞では自然の匠の技に感嘆し、コウノトリの子育てを見、飼育施設と文化館を見学し、予定通りの時間に出石町へ入った。車を空いていた鉄砲町駐車場に停める。すぐそばにはこれまで二度寄ったことのある「そば庄鉄砲店」がある。今日のお目当ては「南枝小人店」である。
 出石町は三方を山に囲まれた町で、中心部を南から北へ出石川が流れていて、美しい白糸の滝や奥山渓谷とかもある自然豊かな町である。ここ出石とそばのつながりは、三百年前の宝永3年(1706)に出石藩主松平氏と信州上田の仙石氏がお国替えとなったことに由来する。その際、家臣と共に随伴したそば打ち職人が出石で最初のそば店を出し、初め「大黒屋」と称した。その後嘉永6年(1853)、時の藩主から漢代の五言詩の一首の中の一句「越鳥巣南枝」から「南枝」の屋号を賜り、今日に至っている。「南枝」には本店の柳店と支店の小人店があるが、私達の向かったのは後者の方である。駐車場からは大手前通りを城の方へ南下し辰鼓楼の脇を通り、内町通りを右に折れ、旧国道を左へ折れると左側にある。大きな看板には「創業宝永三年 出石皿そば元祖」とある。店の前は広く、車は優に10台は置けそうだ。ところが店の戸は閉まったまま、日曜だから休みな訳はない。案内を乞うと、もうしばらく待ってほしいとのこと、止むを得まい。
 11時に戸が開く。右手にあるテーブルに陣取る。左手には小上がりと和室、51名収容できるそうだ。皿そば6人前と蕎麦前を頼む。客はほかに居ない。出石皿そばは、出石焼の白い小皿にそばを小分けして盛りつけてあり、その独特なスタイルが特徴となっている。このスタイルは昭和30年代になって確立されたという。1人前は5枚で、これに薬味と出汁の入った徳利と猪口が付く。薬味は多彩で、一般的な「ねぎ」「大根おろし」「わさび」のほか、「とろろ」や「玉子」が付く。この生の鶏卵が付くのが特徴であり、そぼとしては珍しい食べ方と言える。出汁は一般的には鰹と昆布の濃厚な出汁が特徴とされているが、店により独自の工夫をしているのは当然の帰結だろう。現在出石には50軒を超すそば店があり、100人を超す収容人数の団体さん対応の大型店はともかく、大部分の店は手打ちのそばを提供しているようだ。旧来の出石そばは、生地を円形に延ばす丸打ち製法が多かったそうだが、現在ではそうでもないらしい。そして「挽きたて」「打ちたて」「茹がきたて」が伝統の「三たて」製法だというのだが、これはどうだか。そば店の大部分は出石皿そば組合に所属しており、組合内には食麺部もあり、4店が加盟していて、出石皿そばを製造販売している。
 店には出石そばの「おせっかい 食べ方指南」というのが置いてある。引用する。一、つゆをお猪口に注ぎ、つゆの旨味を味わう。ニ、まず、そばとつゆだけで、麺を味わう。三、次に薬味。ねぎ、わさびでさっぱりと。四、山芋・玉子で、違った美味しさを味わう。五、最後はそば湯でしめて、ごちそうさま。ところで以前の食べ方は、出雲割り子そばのように、皿に直接出汁と薬味をかけて食していたというが、今はそば猪口に出汁と薬味を入れ、それにそばを浸して食べるというのが一般的だという。そばを盛る小皿は出石焼で、店ごとにオリジナルな絵付けがされていて、楽しみの一つになっている。
 蕎麦前は地元の酒蔵「出石酒造」の地酒「楽々鶴(ささつる)」。やがてそばつゆと薬味5種類、スペアのそばつゆが徳利に、そして皿そばが運ばれる。そばは田舎そばの感じ、私は皿につゆと薬味を1種類ずつ入れて食した。今は流行らない食し方であるが、その方がいろんな薬味で食べる楽しみがあろうというものだ。こだわることはないのだが。そばは茹でがしっかりしていてコシがあり、喉越しもよく、皿そばはうまくないという印象は、名の通った店ならば賞味に値するもののようだ。皿も徳利も藍で染付けされていて、清楚な感じがしてよい。若い夫婦の応対もよく、清々しかった。皿そばは一人前840円、追加は一皿130円である。店にはお土産用の皿そばを売っていたが、これは組合の食麺部に属する製麺所での製品なのだろう。
 もう1軒寄りたくなり提案すると、4名はOK、ではと全国新そば会員の「甚兵衛」に寄ることに、聞けばすぐ近くである。住所は同じ出石町小人である。新そば会というのは全国で百店あり、発起人は東京の老舗蕎麦屋連である。この出石では、「そば庄鉄砲店」と「甚兵衛」が入っている。名だたる会の会員の店ならば、まず不味くはなかろうとの思惑からである。石川県では、当時県内では唯一の蕎麦屋であった金沢の「砂場」が会員だったが、廃業してしまってから久しい。今北陸では、富山市にある明治28年(1895)創業の「富山大黒や」と福井市にある越前おろしそばの「福そば」が会員となっている。
 南枝から歩いて程ない距離に甚兵衛はある。店はお客でごった返している。前の店とは活気が全く違う。丁度数人が出るところ、運良く入れ換えで入れる。入口に近く、囲炉裏型のテーブルに座る。「そば庄」でも同じタイプのがあったことを思い出す。食べられる人は5枚、でない人は2枚注文する。入口には女将が山から採ってきたというミツバツツジや山野草が生けられている。シャガも花盛りで清々しい。ここの皿そばは一人前900円、後で調べたら、出石では最も高いと分かった。追加は一枚150円、これも一番高い。しかも薬味も別料金で一人前150円取られる。これも後日知ったことである。今年は創業35周年とか、すると昭和51年(1976)の開店である。収容人数は90人、奥の広間に座机が沢山並んでいる。すると蕎麦前もとの要望があり、再び「ささづる」(この店ではなぜか「づ」と濁っていた)をお願いする。結果的には出石で最も高いという皿そばを食したことになったが、そばの味は先の店とも大差ない似たり寄ったりのような気がした。諸氏からも特にうまかったとの発言はなかった。昨夜の旅館の主人が、出石ではおいしいそばは食べられませんと言ったのを反芻する。豊岡でおいしいそばを食べるなら地産地消の神鍋か赤花と言われたのが分かる。
 ここに「そば庄」のそばの配合を示したのがある。他の店も大なり小なり似通っているのではないかと思い、記しておく。「そば庄」の主人は出石そば組合の組合長であり、創業は昭和41年(1966)とのことだ。それでここの皿そばは、製粉会社で玄そばをロール製粉したそば粉と丸ぬきを電動石臼で挽いた粉とを混合し、これに小麦粉を外2に加えて手打ちしている。皿そばは一人前850円、追加は一皿140円である。ところがこの店には、ほかに「ちひろそば」といって丸ぬきを電動石臼で挽いたそば粉で打ったそばとか、玄そばを同様に挽いて打った「田舎そば」があるが、これは予約しないと口に入らないという。ということは名の通った有名店であっても、「出石皿そば」というと、大衆のありきたりのそばという感を拭えない。ただずっと昔に観光バスで寄ったときに食べたあの実に不味かった皿そばは、陰を潜めたような気がする。そして観光バスが横付けする店以外では、手打ちをしているらしいということは良いことだ。
 出石でのそば店は、店こそこだわりをもって選んだが、その店のそばが特別に美味かったとか不味かったとかの話も出ず、探蕎行は無事終了した。豊岡でもし美味いそばを食べようと欲すれば、どうも山へ分け入らねばならないようだ。
[追記]
 今回の探蕎は、丹後の篠山と但馬の出石、宿の城崎も但馬であるので、順に「丹但」とした。ただこの丹但という語句は私の造語ではなく、丹波と但馬を合わせて言うときに、「丹但」もしくは「但丹」と言うようだ。またこの二国に丹後が入ると「三たん」と言うとある。天の橋立は丹後の国、とすれば「三たん探蕎」とすべきだったか。 

2011年6月9日木曜日

丹但探蕎の初日は「ろあん松田」

 この探蕎行に運転をかってでられた和泉さん、ことのほか「ろあん松田」にご執心で、そのこともあって、昨年のこの時期に訪れる予定をしていたのだが、申し込みをしたところ予約の枠が取れず、結果として実現できなかった。今年は再度の挑戦、事務局の前田さんの計らいで、早めの予約で5月14日の土曜日に訪れることになった。「ろあん松田」には探蕎会では過去2回訪れていて、初回は平成13年(2001)に砂川さん運転のマイクロバスで21名が参加し、宿泊は城崎温泉の三木屋(探蕎13号に記載)、2回目は平成17年(2005)に和泉さん運転のマイクロバスで16名が参加し、宿泊は城崎温泉の小林屋(探蕎30号に記載)だった。ところで今年の参加者はわずかに6名、少人数での出動となった。案内は寺田会長が自ら人間ナビを宣言され、会長の案内なら万全と、一同大船に乗ったも同然、安心してお任せできた。会計は私がかってでたが、会長からは予め予算の概略を渡され、これは大変に重宝した。会長の痒いところにまで手が届く配慮には敬服した。当然のことながら、会長発信のコース概略も事務局から出席者全員に配信されたことは言うまでもない。
 一行は寺田会長、和泉夫妻、小山、石黒、木村の6名、車は和泉車、予定では午前5時25分に予防医学協会Pに集合、5時30分に出発、予定通りに出発できた。天気はよく、全くの探蕎日和である。会長の予定では、金沢西IC-北陸自動車道ー敦賀IC-8号線ー27号線ー小浜西IC-舞鶴若狭自動車道ー丹南篠山口IC-ろあん松田(11時着)となっている。この間尼御前SAで朝食未了の方の食事、それに敦賀ICと木之本IC間のボーナス往復ドライブ、それに篠山市へ入ってからの若干のうろうろを除けば、ほぼ順調な運行、そして偶然にも予定の午前11時きっかりに「ろあん松田」に到着した。これは見事というほかない。恐れ入谷の鬼子母神である。沿線は正に初夏の装い、特に緑がきれいだ。所々に藤の花の薄紫の点描、ナビゲーターと運転手の方には申し訳ないが、この佳き環境でさらに高揚すべく般若湯を飲用したのは当然の帰結か。
 開店は11時半とか、奥の池まで散策されたらということで、ブラリと歩き出す。道には100米先で行き止まりとの表示、車道が途切れると山道になり、右への急な径は近畿自然歩道・御嶽登山道とある。そのまま進むと黒岡川をせき止めてできた池(安永年間に治水の目的で作られた)があり、篠山市の水源の一つの丸山水源池である。池の水が迸って流れ落ちている。帰り際に気付いたことだが、下り道の左側の平坦地に、樹種は杉なのだろうか、大きな大きな切り株が間隔を置いて見られたが、此処には何かがあったのだろうか、また何故切られたのだろうか、興味がひかれたが問う機会を失した。でもミステリーである。
 それにしても「ろあん松田」のある場所は辺鄙なところである。黒岡川の最上流の部落丸山(現7戸、明治には11戸)のさらに200米もの奥、よくぞこんな場所にそば屋を開いたものだ。普通なら過疎でなくなりそうなのにである。そのあたりの経緯をdanchuの「そば名人」から抜粋してみよう。主人の松田文武さんは秋田生まれの大阪育ち、大学卒業後、伯母(父の姉)が経営するお好み焼きチェーン店を任されるが飽き足らず、田舎でペンション経営をもくろむ。しかしある不動産屋から夢見たいなことを考えるなと諭されたが、思いは残った。そんな折、長坂のあの「翁」でそばに接し、「田舎でペンション」は「田舎でそば」に変わる。彼にそばの師はいない。でも開店間もなかった奈良の「玄」の主人からはいろいろアドバイスを受け、兵庫県氷上町(現・丹波市)で田舎家を期限限定で借り、「ろあん」を開店する。平成4年(1992)のことである。ここでは極細打ちのそばを供したという。修業経験がないのにである。4年の期限がきて、その後ワンボックスカーを駆って出張そばを1年、震災で空き部屋となった神戸三宮のマンションの一室で1年そば屋をして過ごす。将来は独立した店を持ちたいと思い土地を探していたところ、今の土地を紹介された。しかし余りの田舎に呆然、彼はもう少し町に近い処をと三田市に代替地を見つけてきたが、これには奥さんの敬子さんが大反対し今の土地に執着した。夫婦最大の危機だったと述懐している。そしてともかく篠山の山奥に「ろあん松田」は開店する。平成10年(1998)のことである。今は決して意を曲げなかった奥さんの頑固さに心から感謝しているという。前田さんのブログの記述では、奥さんは前の雑木林が気に入ったとかだった。
 時間が来て中に招じ入れられる。我々は奥の6人掛けのテーブルに案内される。以前はいろいろ注文できたが、今は昼は「蕎麦ひとそろえ」という6,000円のコースと追加料理のみの提供となっている。提供される3種類の「そば」はすべて自家製粉で手打ち、ほかに「そばがき」もコースに入っている。以下にコースの内容というか、お品書きを披露しようと思う。ところが写真を見れば思い出すと思いメモしなかったところ、いざ眺めても思い出せない品が多く、窮余の一策で、2週後に出かける前田さんに頼んで、料理の説明があるのでメモをお願いした。じゃICレコーダーを持参して音声記録し、後日テープ起こしをしてメールで送りましょうとのこと、特に「焼き野菜」と「前菜盛り」については大いに参考になった。ただ5月14日と5月29日に出た素材がどうも同一ではないような印象を受けた。そこまでこだわることはないのかも知れないが、丹波篠山の山奥で出されたそばのコース料理が実にあの自然を描出していたことに感動し、記し置くことにした。出てくる料理の材料は圧倒的に地元産の品が多い。それも魅力だ。

●「揚げ蕎麦」と「黒豆茶」:揚げ蕎麦のそばは中太なので、もとのそばは「もり」なのだろうか。丸い編んだ竹篭に入っている。初めに出るお茶は通常なら「蕎麦茶」なのだろうけど、こんな扱いは珍しい。何となく心の昂ぶりを鎮めてくれる。
● 箸と箸置きが赤い板敷とともに運ばれ、それに「梅風味の玄米スープ」が小さな縦長の湯飲みに入ったのが供される。湯飲みの底がオレンジ色なのが、何か意味ありげである。
● 減圧加熱処理調理法による「焼き野菜盛り合わせ」:地元農家で無農薬栽培されている野菜が10種類以上、白い浅い丸皿に盛って出される。ところが改めて撮った写真を見ると、品が重ね合わさっていて、個別に一つ一つを判別できない。お願いした前田さんからのテープ起こしの助言では次のようになっていた。『山椒でつくった香草オイルで味付けした調理、生のようだが火が通っている。蕎麦板、蕎麦の実、紫からし水菜、パブリカ、菜の花、蓮根、インゲン、ミョウガ、野生のブルーベリー、ブロッコリー、ドライトマト、黒ダイコン』。以上12種あった。でも私が写真で確認できたのは、順に蕎麦板、蕎麦の実(丸ぬき)、紫からし水菜、黄色のパブリカ(薄い輪切り)、蓮根(薄い輪切り)、隠元⇒豌豆、茗荷(中心部の縦薄切り)、野生のブルーベリー(ドライフルーツ)、ブロッコリー、ドライトマトの10種類。重なっているので、見えないところに他の食材が入っていると思われる。
● お酒(一番手):ここでお酒を頂戴する。初めには「こく」のあるものをというと「王禄」が出た。島根の銘酒だが、素性は明かされていないが純米の吟醸酒か大吟醸酒だろう。よく冷えた酒は、手作りギヤマンの栓付き、格好は大型の香水瓶風の厚いガラス瓶に入っている。ぐい呑みも手製のガラスの台付きグラス、聞けば横山秀樹氏の作品とか。冷えた2合はあっという間に皆の胃腑に納まってしまったのは言うまでもない。
●「八寸様・季節の前菜盛り合わせ」:ここでも前田さんのメールを引用しよう。『鹿肉のローストとしぐれ煮、にしん煮、しいたけの粕漬け、ノビル、新タマネギの葉、山ずみ(?)山の木の実、竹の子の姫皮の酢漬け、イタドリの炒め煮、辛みダイコンの実、グリーンピース、鱧の焼通し、卵焼き』の13種類。これら前菜は、杉の柾目の丸い蓋のある曲げ物容器に笹の葉を敷いて載せられていて、その点在は篠山の自然を表現しているように見える。お酒にはもってこいの料理である。順に確認して見ると、鹿肉のロースト(ロースのタタキ)、鹿もも肉のしぐれ煮、身欠き鰊の梅煮と梅肉、とろろ芋とガマズミの赤い実、筍の姫皮の酢漬け、出汁巻き卵の8種は確認できた。ほかにあったのは、コシアブラのおひたし、独活の含め煮、カラスノエンドウ、焼味噌、長芋にカラスミをまぶしたもの、チョロギ、白い小さな花をつけたアブラナ科の草である。グリーンピースは小さな器に入っているが、この時は茶色の小さな固体が入っていた。確認はできないが、椎茸の粕漬けを刻んだものなのだろうか、不明である。じゅんさいが入ることもあるそうだ。
● お酒(二番手):淡麗なお酒ということで「松の司」を頂く。滋賀の酒で吟醸酒、青みがかった酒器に、グラスも変わる。料理を賞味しながらの酒は格別だ。至福の時である。
●「盛りそば」:ここでそばの一番手が出る。丸い二重になった竹笊に、端正な中太のそば、店主が最も気配りして打ったそばとか、生粉打ちである。蕎麦は四国祖谷産、丸抜きにして専用の電動石臼で挽き、80メッシュで篩い、残りをもう一度挽く。味わいと喉を通った後の余韻のような戻り香を期待したいという。そばつゆはやや甘め、出汁には本枯れ節を使用しているという。期待に違わない香りと味だ。
●「筍と蕨の炊き合わせ」:創作の中皿に持ってあり、山椒の小葉を散らしてある。旬の地元の山菜、初夏の香りを放つ。
● お酒(三番手):これまでの酒とは別のお酒を所望して出てきたのが「山形正宗」。聞くのも初めて、飲むのも初めてという酒だ。酒は本醸造酒だろう。樽酒よろしく杉の香がしている。また酒器が変わる。
●「手巻きそば」:通常蕎麦料理に出てくるそば寿司は巻き寿司だが、ここでは手巻きにしてみたという。斬新な考え方だ。かなり大きく、一口にというわけにはいかない。中太のそばに鶏肉のそぼろ、卵の細切り、湯がいた草の葉を入れて手巻きにし、青い角皿に載って出た。海苔がパリッとしていて気持ちがいい。海苔の香と蕎麦の味が一体となった感じがする。
●「そばがき」:白味噌仕立てとかで、放射模様の小皿の真ん中に、滑らかな絹肌の真丸のつるんとしたそばがきがちょこんと載っている。お供は生醤油と生山葵のおろし、口の中でとろける。茨城の旧水府村産の蕎麦粉を使用しているという。
●「粗挽きそば」:中皿に竹のすのこを敷き、やや太打ちのホシが点々とする粗挽きが、やや少なく鎮座している。蕎麦は福井丸岡の産、粗挽きはすべて玄そばからの手挽き、機械では微妙な調整が困難だという。1日量は800グラムとか、24メッシュで篩い、残りをもう一度挽く。つなぎを2割入れて打つ。玄そばならではの上品なそばらしいエグッぽさ、味わい、甘みを期待しているとのこと。これには、藻塩、そばつゆ(出汁には焼き節を使用)、一口鴨汁(つくねと鴨肉が入っている)が付いてくる。初めはそのまま、次いで塩、そしてそばつゆ、最後に鴨汁で頂いた。
●「冷製の蒸し野菜」:深鉢の底に、味付けしたブロッコリー、人参の厚い輪切り、筍が入っている。煮物と違ったあっさり感が味わえた。
●「おろしそば」:黒い釉をかけた皿に盛られて出された。蕎麦は出雲産、玄そばを専用の電動石臼で製粉し、80メッシュで篩い、残りをもう一度挽く。いわゆる田舎そばで、つなぎ1割の細打ちで供される。おろしは辛味大根、暮坪蕪、山芋から選べるらしいが、この日は辛味大根だった。そばつゆは粗挽きそばのを準用、田舎そばの細打ちの香と喉越しを楽しむ。
●「山菜の天ぷら」:天ぷらは蕎麦粉を使って揚げられる。出された山菜は木の折敷に紙を敷いて盛られている。モミジガサ、カキの芽、ホンナ:ヨブスマソウ、ユキノシタ、タラの芽、カタクリ、コシアブラの8種、小皿に岩塩が入っていた。今が旬の山菜だ。
● そば湯:終りに近く、そば湯が出る。調整したものではなく、そばを茹でている釜の湯。私はこちらの方があっさりしていて好きだ。残った二種類のそばつゆに割って、別々に味を楽しむ。
●「香のもの」:中皿に、いぶりがっこ(たくあんを燻したもの)、梅干し、かぶ、甘酢生姜、そば味噌が載っている。
●「お菓子」:このコースの最後には、季節替わりの甘味が付くとあるのだが、なぜか記憶にない。後日寺田会長に聞くと、中に餡が入った「蕎麦餅」が付いたとのことだった。当然天敵は口にしていない。

 以上が、「蕎麦ひとそろえ」という昼の6千円コースとお酒(1合、1,300円より)の内容で、昼の営業は午前11時30分からと午後2時からの2回の入替え制である。夜の営業は午後5時から、9千円のコースとなる。松田家には姉と弟がいて、姉の鮎美さんは母親似、弟の慎之介君は父親似、前田さんに確かめてもらったところ、鮎美さんは大阪の店「ろあん鮎美」を2年で畳んで、現在は「ろあん松田」にいる。丹波篠山の自然を、そばと料理で、一家で演出している。
 私達は入替えの午後2時まで居た。控えの囲炉裏の周りには沢山のお客、少しばかり寺田会長と精算に当たった私と松田夫妻とで話し合えた。店主は55歳で働きざかり、ちょっとお腹がせり出してきた。辞して、「ろあん松田」の入り口で記念の集合写真、そして一路、今夕の宿、城崎温泉の「つばきの旅館」へ向かう。運転は和泉夫人、ナビは引き続き会長が。
         (探蕎51号原稿)