2016年11月30日水曜日

「手打ち蕎麦 穂乃香」

 例年11月の探蕎会行事は、海道さんのお世話で、丸岡蕎麦道場にお邪魔するのが常だったが、前田事務局長からの案内では、今年海道さんは生憎と体調不良で、今後探蕎会からの大勢の人を受け入れるのは困難になったとのことで、急遽どこか別の場所へということになった。例年丸岡では、海道さん収穫の新そばをお腹いっぱい食べ、また手作りの鯖寿司や煮物にも舌鼓を打っての大満足の行事だっただけに、この中止は大変残念だった。でも海道さんの体調不良とあれば、これまで「おんぶにだっこ」だっただけに、断念やむを得ず、本復を心からお祈りする次第である。
 そこで11月の行事の候補に挙がったのが、世話人の塚野さんから提案があったという、金沢市北郊外の金市町に今年2月下旬に開店したという「手打ち蕎麦 穂乃香」という蕎麦屋。前田事務局長から連絡があったのは11月7日、催行日は11月28日 (月) で、現地集合とのことであった。前田さんではネットで検索できますということで調べてみると、場所こそほぼ見当はついたものの、さて行くとなると、すんなり行けるかどうかは、全く自信がなかった。ところで最終的には11月24日に連絡があり、参加者は11名、車4台に分乗して向かうことになり、私は寺田会長と前田事務局長の車に分乗して向かうことになった。そして拙宅には10時半の迎えということに。
 11月28日当日、前田さんの車に便乗して山側環状道路へ。訊けば前田さんは予め行かれたようで、この日は山環を神谷内 IC で下り、国道359号線 (旧8号線) を北上して、法光寺北交差点を左折し、 JR ガード下を潜り、バス通りの横枕交差点を右折し、さらに北陸自動車道の下を潜ると、金市のバス停の手前に案内の看板が見えた。そして右手にどっしりとした屋敷が見え、それが件の蕎麦屋だった。周りは蓮田、南側には間近に北陸自動車道が通っている。ただ道路にはフェンスが張られていて、通行する車を見ることはできない。
 着いたのは11時少し過ぎ、屋敷は石垣に囲まれていて、前庭には車を優に10台は停められるスペースがある。車が1台停まっていた。立派な玄関のある屋敷、「商い中」とある。「手打ち蕎麦 穂乃香」の文字が、石垣には嵌め込みのパネルで、前庭には大きな立柱に、玄関には暖簾に記されていて、何とも主人の意気が感じられるというものだ。お天気も良く暫く散策していたが、促されて屋敷に入った。中は清潔で、板張りも磨かれていて、御殿のようだ。玄関右側には、広い打ち場がある。私たちの席はテーブルで、11人分セットしてあった。南側の窓越しには石を配した庭が設えてあって、眺めも良い。窓側と座敷には座机が並べられていて、窓際には一組の客がいた。この1階のスペースで30人は入られるとかだった。暫く待っていると、皆さん順次着かれ、定刻の11時半には全員が揃った。それにしても中々豪華な設えの和室、欄間は両面透かし彫り、こんな蕎麦屋は珍しい。
 注文は各自とか。テーブルが同じなので、店のお姉さん方3人から、各自に番号札が渡された。私は二番、木札に「二」と記され、その下に小さな穴が2つ、他の方の「十」を見せて貰うと、10個穴が彫ってあって、手で触れても番号が分かるという仕組み、これには感心した。私が注文したのは「鴨せいろ」と手取川の冷酒、初めにお酒、そして摘みには地の小坂蓮根の揚げ物に蕎麦汁を含ませた小皿が
付いてきた。皆さんにも順次注文した「そば」が届く。私にも銚子1本が空になる頃、注文のそばが届いた。
 塗った角盆に、挽きぐるみの中太のそばが円いざるに盛られ、それが更に大きい白い丸皿に載せられ、盆の左手には、先程の蓮根の揚げ浸しと、汁が入ったずんぐりとした円い壺、その上に蓮根と鴨肉と地物の野菜の煮しめが盛られた皿が載せられている。こんな様式は他の蕎麦屋で食べる「鴨せいろ」とは随分趣きが異なっている。また通常はこれに付いてくる山椒の粉がない。訊くと味に含ませてあるとか、先ずは上の皿の具材を汁の入っている壺に入れた。お酒をもう1本所望し、邪道ながら飲みながら蕎麦を手繰る。そばは新蕎麦なのだろうか。どうも判然としない。家内を案内しようと思ったものの、この「そば」では満足しないのは必定だ。また鴨肉は厚切りで固く、美味しかったのはご当地の小坂蓮根のみという印象だった。でも環境は実に素晴らしい。居る間にもお客さんが次々と来られていたが、ネットで見られて来訪するのだろうか。また再訪はあるのだろうか、興味が湧くところだ。また私は注文しなかったが、向かいのお二方が注文された特製の鯖寿司二貫は美味しそうだった。もし次回来ることがあったら所望しようと思った。
 終わって主人から少しお話が聴けた。蕎麦は今庄の新蕎麦だとか。またこの屋敷の大家さんは、もと小坂蓮根の生産組合の会長さんだったとか、道理で立派なわけだ。さしずめ蓮根御殿というべきか。
〔手打ち蕎麦 穂乃香〕
 所在地/金沢市金市町ニ71番地   電話/076−256−0288
 営業時間/午前11時から午後3時まで   定休日/水曜日
 ホームページ/ h t t p : / / s o b a - h o n o k a . c o m

2016年11月18日金曜日

微生物学同門会のこと

  平成28年9月に、金沢大学医学部微生物学教室の平成28年度同門会を開くのでご参集下さいという案内があった。幹事は杏林大学医学部教授の神谷氏と沖野歯科医院の沖野氏である。この同門会は私が細菌学教室に入った頃は毎年開かれていたようで、私が正式に参加できるようになったのは、学位を取得した昭和50年以降である。ところでこの会は初代教授の谷友次先生、二代目の西田尚紀先生、三代目の中村信一先生までは毎年開催されてきたが、中村先生が金沢大学副学長、次いで学長になられ、四代目の清水徹先生が就任されてからは開催されなくなった。教室のテーマは、谷先生は梅毒だったが、西田先生以降は嫌気性菌、とりわけクロストリジウムの毒素と病原性の関係を追求してこられた。平成15年に中村先生が教授の折、やはりクロストリジウムを研究されていた清水先生が助教授に招聘された。しかしその翌年に、中村先生が金沢大学副学長に就任され、清水先生が教授に選任された。同門会ではその折に教授就任祝賀会を行なった。でもその後教室は一切同門会には協力せず、会は事実上休会となってしまった。清水先生は分子生物学的見地から毒素産生を研究されるという世界でも最先端の研究をされていて、国際的にも広く知られた方とかだった。それで教室での会話は英語のみとか、従って日本人よりも海外、とりわけアジア諸国から多くの研究生が集まっていたようだ。このような環境では、旧態然とした同門会は蚊帳の外となったことは容易に想像できる。
 ところで清水先生は平成26年2月に急逝されてしまった。教室主催で偲ぶ会が十全講堂で執り行われ、海外からも沢山のメッセージが寄せられ、その功績の大きさに驚かされもした。またピアノを弾くのが大好きで、よく演奏もされていたとか、疎遠にしていただけに、知られざる一面を披瀝され驚かされもした。そして在任中は同門会が開かれずにいたこともあって、教室がどうなっていたのかは全く知らされなかった。そして逝去された後、在籍していた院生や研究生はしかるべき研究の場に行かれたのだろう。
 ところで後任の教授が決まったというのを、後任教授の藤永由佳子博士からの就任案内状で知った。平成27年8月のことである。早速在沢の旧微生物学同門会有志の主催で歓迎会が催された。会場は東山の「山の尾」、ざっと20名ばかりが参集した。女性の教授の就任もさることながら、北海道大学薬学部卒業とかs、私も薬学出身なので、すごく親近感を感じた。先生はその後札幌医科大学で学位を取得され、以降は国の内外でコレラ毒素やボツリヌス毒素の研究に勤しまれ、前任は大阪大学微生物学研究所の特任教授で、金沢大学へは三代続いたボツリヌス毒素の研究が縁で選任されたとかだった。まだ就任されたばかりで、教室造りはこれからだが、出席されていた中村前学長も一安堵という雰囲気だった。
 それで今年9月に、平成28年度金沢大学微生物学教室同門会を開催しますという案内が大学からあった。詳しい経緯は知らないが、実に嬉しく楽しくなった。暫く途絶えていただけに、喜びも一入だった。開催日時は11月12日の土曜日、集まった人は25人と少なかったが、全国各地から同門の人達が集まった。名簿を見ると、会の顧問に中村信一さんと藤永由佳子さん、会長に神谷茂さん、副会長に沖野善則さんが選ばれていて、今後は毎年開催するとかだった。名簿を見ると、現在のところ会員は79名、特別会員が2名、また物故者は102名とのことだった。会では教室の近況報告や出席者全員の自己紹介などが行なわれた。そして来年は、今年の出席者全員が、とにかく一人を勧誘して参加しましょうということになり、会を閉じた。
 私のスピーチでは、私が金沢大学薬学部出身なこと、卒業後は石川県へ奉職し、当初は県で発生が多かった赤痢対策に振り回されたこと、その後当時国が行なっていたインフルエンザの検査を県でも行なわねばならなくなり、昭和38年に当時細菌学教室の助教授だった波田野基一先生の下で専修生として研鑽を積んだこと、しかしその後学制改革で癌研究施設が創設され、波田野先生はそこのウイルス学講座の教授に就任されて教室を離れられたこと、でも当面は建物がなく微生物教室の旧助教授研究室で当面研究を続けていたこと、その折には耳鼻咽喉科を開業されていた先生方が沢山専修生として教室においでたこと、でも今日はその懐かしい方々の参加が全く無くて寂しい……などを話した。事実出席された方を見ると、歯科出身の玉井先生門下の歯科医の方たちが圧倒的に多かった。だから私が顔を知っていて話せたのは6名のみだった。終了後、二次会が設定されていたが、私は参加しなかった。
〔閑話休題〕
 教室名称の変遷:古くは医学部細菌学講座だったが、ウイルス学も扱うようになって、医学部微生物学講座になった。その後中村学長の頃に、金沢大学の学部の大きな編成替えがあり、教室は医薬保健研究域医学系感染症制御学講座となった。でもこの難解な講座名は実に分かりにくく、今年からは医薬保健研究域医学系細菌学分野となったようだ。

2016年10月27日木曜日

「蕎味 櫂」(続き)

(承前)
 そして本命の「そば」、円いざるに盛られた手挽きの細打ちのそば、量は少なめ、汁は若干濃いめで辛口の印象を受けた。しかし今少し小腹を満たしたくなり「辛味大根おろしそば」を所望した。暫し待って、淡い空色の鉢に入ったそばには、辛味大根のおろしと巾広の削り鰹と刻み葱が載っている。汁は辛口、越前そばの流儀である。
 最後にデザート、塗った木皿に白い磁器、中に小豆、ヨーグルト、桃、蜜柑、黒く塗られた木の匙で頂く。何とも贅沢な「そば遊膳」のコースだった。
 終わって主人の田尻さんと暫し懇談した。田尻さんは宮城・仙台の出身、東京立川にある蕎麦懐石の名店「無庵」で20年研鑽を積まれた由、おカミさんが金沢出身とかで、ここ金沢東山で昨年夏に暖簾を揚げられたとか。この町家は十年ばかり空き家になっていたという。ここは茶屋街からは少し離れた静かな場所、ゆったりとした趣きある空間で、美しい器に盛られた品とあしらいに加え、江戸仕込みの蕎麦を手繰り、美味いお酒を堪能するのも一興だろう。
 メモ: 住所 金沢市東山1丁目23−10   電話 (076)252−8008
     営業時間/(昼)12:00〜14:00 (夜)17:30〜20:00(要予約)
     休日/日曜と第1月曜
     席数/10席  駐車場/なし

(閑話休題)
〔その1〕 卯蕎 金沢市子来町
 前田藩は金沢城の鬼門の方位にあたる山 (卯辰山) の鬼門封じに宝泉寺を建てた。それはそうとして、この寺の裏手にある五本松からは金沢の市街が一望に見渡せ、かつて芥川龍之介が室生犀星の招きで金沢を訪れた折に此処に立ち寄り、金沢随一の絶景と称賛したそうである。ところで件の卯蕎なる蕎麦屋はこの並びにあり、部屋からは兼六園や金沢城を望むことができるという。ということで一度場所を確かめに出かけたいと思っていた。幸いなことに、蕎味櫂を出て北方向を見ると、「卯蕎まで5分」という案内が電柱に表示されていた。有志5人で出かける。矢印が示す道は大変急な坂道、息が切れる。すると程なく右手に宝泉寺、そして裏手へ回ると一軒家があり、それが件の蕎麦屋であった。でも暖簾は出ておらず、閉まっていた。どうも昼の営業のみらしい。前を通り五本松へ。すると南西に展望が開けて、金沢の市街を一望できる。私は初めてこの景を目にした。
〔その2〕 高野山真言宗 長谷山 観音院 金沢市東山1丁目
 道路に出てこれから帰ろうかというときに、とある女性に会い、近くの観音院で秘仏の御開帳がされているので寄られたらとの声かけに応じて行くことに。坂を下って行くと程なく着いた。観音町もここに由来するのだろうか。御本尊は十一面観世音菩薩、一千二百年の歴史をほこるという。パンフレットを見ると、ここは北陸三十三観音霊場14番札所・金沢三十三観音霊場25番札所で、前田利常が境内伽藍を整備し、前田家の祈祷所となり、大和、鎌倉と並び、加賀の長谷観音として多くの信仰を集めたとある。しかし明治になって廃仏毀釈が行なわれ、本堂、三重之塔ほか数々の施設が壊され、そして現在の形になったとか。往時の境内は随分と広いものだったようだ。お参りし、御朱印を頂いた。
〔その3〕 浅野川右岸を歩く
 観音院で解散し、私は叔父が住まいする田上新町まで歩くことに。すると西田さんが、私の住まいも田上新町なので一緒に歩こうと仰る。そして浅野川沿いに行こうとも。私は町中を通らねばと思っていたので、これは渡りに舟だった。先ずは山を下って天神橋へ。終戦直後、ここまで下肥を取りに来たことを思い出した。西田さんの案内で右岸沿いの道を上流に向かって歩く。聞けばこの道は田上まで連なっているという。進行方向は南東、上流には加賀富士と言われる大門山、それに続く犀川源流の見越山、高三郎山、奈良岳、それに大笠山がずっと見えている。素晴らしい散歩道を紹介して頂いた。常磐橋、鈴見橋、若松橋、旭橋、下田上橋を経て田上新町へ。喋りながらの楽しい散策、感謝々々だった。 

「蕎味 櫂」

 本年8月に行なった探蕎会の世話人会で、平成28年10月の会の行事は、前田事務局長の発議で、10月24日 (月) に、金沢市東山茶屋街の一角にある蕎麦屋「蕎味 櫂」へ行くことに決まった。この店、前田さんによると、1年前に開店した由、そして本年7月からは、昼は3500円、夜は7000円のコース料理のみで、そばは単品のみでは注文できないとのことだった。また席数は10席のみと狭く、予約が賢明とかだった。
 その後、前田さんのブログの「めくれない日めくり日記」9月6日の記載を見ると、予め世話人の塚野さんと2人で下見をしたとあった。席数は4人掛け2脚と2人掛け1脚のみで、すぐに満席になったとのことだった。そしてその日は店内にジャズが流れ、雰囲気は殊の外良かったと記述されていた。
 しかし会の行事とはいえ、この店の収容人員は10名ということ、また今まで全く知らなかった店ということもあって、漏れ聞いた希望者だけで定員に達してしまったらしい。それでこの日参加した諸氏は、寺田会長のほかには、50音順に、池端、奥平、木村、西田、新田、前田、松井、松川、松田の諸氏であった。
 集合は10月24日 (月) の正午に、金沢市東山茶屋街の一角にある蕎麦屋「蕎味 櫂」、でも私はすんなりその店に辿り着けるかどうかは不安だった。前田さんに訊くと、茶屋街の突き当たりを右に曲がると件の店があるとか、場所は大体見当はついたが自信はなく、30分程前に東山茶屋街に着くようにした。しかし簡単には見つからず、そうこうするうちに参加されるメンバーと顔が会い、件の店の前に全員が集合できた。建物は中三階の町家、その昔は茶屋だった風情の家で、小さく「蕎味 櫂」と書かれた標識がそれと分かる印なのだが、暖簾が出ていないと、つい見逃してしまいそうだ。そして正午になり暖簾が出され、私たちは三々五々店内に入った。この日はテーブルを全部寄せて、10人が座れるように設えてあり、外履きのまま格子戸を開け店内に入った。そして足元には鉢に野花が生けてある。この1階は、おそらく外履きのまま入れるように改装したのだろう。通りに面した側には、町家によく見かけられる「きむすこ」がはめ込まれている。そして入り口右手の棚には、趣味の蕎麦猪口などのコレクションが飾られている。
 この日のコースは「そば遊膳」のコースである。取り敢えずはお酒、個々ではなく4合瓶で頂くことに。先ずは地元石川・白山の「吉田蔵」、都合で飲めない2人を除く8人で頂く。大変口当たりが良く、さながら美味しいお水という感じ。ラベルを見ると、山廃純米無濾過原酒とある。どうも冷酒用に設えたもので、度数は13度と控えめ、道理ですいすい飲めるわけだ。凌ぎの水も添えられていて嬉しい。
 はじめにモダンな中鉢にすり下ろした「とろろ」に「いくら」、それに下ろし山葵。一口ですすれそうな分量、でもそうはゆくまい。お酒がなくなって、次いで宮城の「伯楽星」、これは純米吟醸酒、少し重いが美味しいお酒だ。度数は16度とある。
 次いでお刺身、素朴な素焼き風の中皿に三種盛り、鰺、あら、ばい貝の刺身に、下ろし生姜と山葵、あしらいにツルムラサキ、これは私の家の庭にも生えている。同行の新田さんはスナックを経営されていることもあって、食材には詳しく、「あら」は正式にはクエという大型の魚だと話されていた。食べながらこんな知識を得られるのも楽しい。
 次にお椀もの、鴨のつみれとそばがきに原木ナメコ、汁が張られ、あしらいに苺と若芽が添えられている。お酒の凌ぎにはもってこいだ。そして3本目のお酒は石川・輪島、奥能登の白菊の純米酒の「寧音」、度数は13度、穏やかなスッキリしたお酒だ。
 次いで天ぷら、金襴手の円い中皿に紙を敷き、海老、唐辛子、甘藷、蓮根、椎茸の天ぷらが形よく並べられて出された。でも今一盛り付けに工夫があれば最高なのにと思った。       (続く)

2016年10月4日火曜日

中の湯温泉と上高地(その2)

(3)中の湯温泉旅館 長野県松本市安曇中の湯 4467
 この旅館は以前は梓川沿いにあったが、安房トンネル工事のため閉鎖し、完成後現在の海抜 1500 m のこの地で平成10年に再開した経緯がある。昨日着いた時には少々駐車場に余裕もあったが、夕方近くには満車の状態、ここに泊まって焼岳 (2455 m) へ登る客が多いからだ。部屋は穂高 205 号室で、家内では前の時と同じ部屋とか、窓からは北に前穂高岳 (3090 m) と明神岳 (2931 m)、近くには霞沢岳 (2646 m) が見えている。でもやがて雲に覆われて見えなくなった。寛いだ後、露天風呂で身体を休める。好きな宿だ。
 翌日の朝は、入替えになった露天風呂に入る。上がって午前7時に食事。。山へ行く人達はもうとっくに食事を済ませ、宿から出て行ったようだ。私たちの予定は、食事後、8時30分発の宿のマイクロバスで上高地へ行くことに。もっと早くに出た人達もいる。以前来た時は、何度も河童橋近くの上高地バスターミナルまで送って頂いたが、今日は手前の大正池までしか送れませんとのこと、そんなふうになったのだと思っていたが、後で判ったことだが、2016 年の観光バス乗入れ規制で年に7回、土日のマイクロバスと観光バスの上高地への乗入れが出来ない日があり、9月24日 (土) と25日 (日) がその日に該当していたのだった。年間を通じて、自家用車 (自動二輪を含む) は釜トンネルを通行できないので、平湯か沢渡の駐車場に車を停めて、シャトルバスもしくはタクシーで入山することになる。私たちが行った日は、たまたまその乗入れ規制の日だった。
(4)上高地 長野県松本市上高地
 中の湯温泉旅館を8時30分に出発するマイクロバスには2組5人のみ、申し訳ない感じだ。車は九十九折れになった国道 158 号線を1号カーブまで 250 m 下り、中の湯の釜トンネルゲートへ、そこでチェックの後トンネルへ、隧道の内壁はずっと以前には岩でゴツゴツしていたが、今はきれいに仕上げられている。ただきつい勾配はそのまま、かなり急である。2km 近いトンネルを抜けると、今度は真新しいトンネルが、訊くと今年7月に竣工開通したとか、名称は「上高地トンネル」、長さは1km ばかりだろうか。この公園内では、道路は中々拡幅できないこともあって、車両数を減らさないと渋滞は解消できないが、トンネル開通で少なくともこの区間の通行がスムースになったことは歓迎すべきだろう。
 そして太兵衛平のバス停を過ぎると、次が大正池のバス停、送迎の車はここまでだ。下りて大正池へ向かう。私は何度も上高地へ入ってはいるが、大正池の辺りに佇むのは初めてだ。この池は大正4年 (1915) の焼岳の大噴火で梓川が堰止められて出来た池、以前は林立していた枯れ木はもう数える位になっている。曇り空が次第に明るくなり、焼岳もくっきりとその姿を見せてくれるようになった。池にもその姿を写している。沢山の人が来ている。今日はここから河童橋までそぞろ歩くことにする。陽が射してきて、上着を着ていると汗ばんでくる。20 分ばかり歩くと田代池への分岐に出た。
 すぐ近くにある田代池へ、ここは以前は池だったらしいが、今は大部分が土砂の堆積で湿原化している。暫し佇んだ後、元の分岐まで戻り、梓川コースへ。川辺へ出る小径があるが、家内ではこの径はどん詰まりで川縁沿いには歩けないとか、それでそのまま上流へと歩を進めることにする。すると程なく田代橋に出た。ここで梓川を渡る。中州を挟んで穂高橋があり、川の右岸へ渡る。5分ばかり上流へ歩を進めると、左手に上高地温泉ホテルがある。以前ここで大学の同窓会をしたことを思い出した。さらに5分ばかり歩くと、ウェストン園地に出た。この園地の山手の崖には、明治時代に日本アルプスを世界に紹介した、あのイギリス人のウォルター・ウェストン卿のレリーフが嵌まっている。実物を拝見するのはこれが初めてで、とても感激した。毎年6月初旬にはここでウェストン祭が開催されている。そしてさらに歩を進めていると、数頭の日本猿に出くわした。全く人を恐れない様子、餌を絶対やらないで下さいとのことだったが、餌をやると人に危害を加えるようになる恐れがあるという。何とも大胆不敵で、もし増えるとすると問題が起きそうだ。15 分ばかり歩くと、左手にホテルや山荘やロッジが連なる所となり、やがて河童橋の袂に着いた。手前の河原には沢山の人がいる。私たちも下りてみた。流れる水は澄んでいて透明、底までくっきり見える。空も青く澄んでいて、正面の岳沢の奥には奥穂高岳、吊り尾根、前穂高岳が、あの上高地での一級の穂高連峰の風景が展開している。秋も深まると、上高地には多いカラマツ (落葉松) が一斉に黄色く色づき、また別の素晴らしい景観を醸し出してくれる。そんな秋の上高地にも家内を案内したいと思った。
 10 時を過ぎ、バスターミナルへ戻る。旅館の指示では、ここからは沢渡へ行く路線バスに乗り、中の湯で下り、すぐ近くにある中の湯温泉の連絡所へ行き、そこから旅館へ連絡して貰えば迎えに行きますという。暫くして迎えのマイクロバスが来て、駐車場へ戻った。歩くとすると1時間以上かかるという。サービスとはいえ大変助かる。
 帰りは国道 158 号線を1号カーブまで下りて右折し、有料の安房トンネルへ、ほぼ3 km はあろうか、抜けると平湯、帰りはここから新平湯、神岡を通る国道 471 号線を北上して国道41号線へ。途中富山県へ入っての最初の道の駅「細入」で小休止、魅せられて立派な子持ち鮎を食べ、そしてビールで喉を潤した。充実した2日間だった。

2016年10月3日月曜日

中の湯温泉と上高地(その1)

9月24日(土)
 中の湯温泉から来訪の案内があったのは6月中旬、これまで数回訪れており、それで9月24日宿泊で返事を出しておいた。来館された折には、飛騨牛のステーキを用意しますという。またそこへ泊まると、翌朝に上高地まで送って貰えるという恩典もある。
 この日は9時過ぎに家を出た。白山 IC から北陸道へ、さらに東海北陸道を辿り、飛騨清見 IC で下り、中部自動車縦貫道を高山で下り、国道41号線を南下し、取り敢えずは市の南端にある高山陣屋を目指す。家内のお目当ては、陣屋の真ん前にあったユニークな小間物屋?、でもその店は名の聞こえた人の名を冠したラーメン屋に変身していた。高山は何度も来ているのでパスし、私は高山から東へ延びる国道158号線の途中に記載のある「森の水族館」というのに興味が魅かれ行くことに。早速ナビで検索するが、岐阜県にある水族館は1カ所のみ、それは飛騨ではなかった。でも地図には載っているのだからと、注意して車を走らせると、「森の水族館」という小さな看板が左手に出ていた。小八賀川に架かる橋を渡り、県道を西へ、そして2km ばかり走ると、お目当ての施設が見えた。
(1)民芸ミュージアム匠の館・森の水族館  高山市丹生川町根方 532
 丹生川町は町村合併前は、岐阜県大野郡丹生川村で、以前にはこの村にある朴の木平スキー場へ何度も通ったし、乗鞍スカイラインのバスターミナルもこの地内にある。スキー場は秋にはコスモス園になる。また飛騨大鍾乳洞も標高 900 m の国道沿いにある。
 さて目指すは森の水族館だったが、着いたのは「匠の館」、よく見ると、小さく「森の水族館」の文字、どうも水族館の方は付属施設のようだった。でも来たのだからと入館料を払って館の中に入る。どっしりとした名工が建てたという田上家の農家住宅、玄関の右手には馬小屋、入り口の一番良い場所に馬を飼っておくとか、今いるのは小柄な木曽馬、いろんな芸もし、その度に褒美の餌を貰っている。観光客にも慣れていて可愛い。館はかなり大きい。座敷も幾間もある。庄屋だったのだろうか。二階は以前は蚕を飼っていたというスペース、今はそこにいろんなものが展示されている。中でもこの家からは日展会友の画家を輩出していて、その方の絵画も多く飾られていた。1階に戻って、受付をしている老婆と暫し話し込む。その折に、玄関に置いてある新鮮な野菜に話が及び、家内は興味を示して、一通り全部を買った。新鮮で安く、実にツヤツヤとしていて、こんなきれいな野菜はなかなか巷では見られない。
 次いで「森の水族館」へ。館右手の潜り戸を抜けて露地に入る。戸は必ず閉めて下さいと。でもその意味はすぐに分かった。中に一羽のアヒルが居て、私たちが中へ入った時は池に居たが、入ると池から上がって来て、猛然と私のズボンに噛み付いてきた。どうしてよいか分からず、家内に母屋へ聞きに行ってもらうと、エサの催促とのことだった。一瓶百円とかという餌、中はトウモロコシ、蓋を空けるや否や跳びかかってきた。驚いて瓶を落とすと、瓶の中も、溢れた実もきれいに食べた。そしてその後お目当ての水族館へ。とはいっても、水槽は4つのみ、谷川のきれいな水が絶えず供給されている。入り口にドクターフィッシュ、次いでチョウザメ、そして圧巻はイトウ、1 m はあろうか、そしてイワナの群れ、老婆は日本で一番小さな水族館だという。尤もだ。母屋に戻り、野菜を頂いて辞する。帰りに老婆と家内との記念写真を撮った。後日送ることに。帰りには進行方向に行きなさいと。あの細い道をまた戻らねばならないのかと心配していたが、助かった。
(2)平湯大滝(日本の滝100選) 高山市奥飛騨温泉郷平湯768−47
 森の水族館を出たのは午後1時半、国道158号線を東へ、飛騨大鍾乳洞への分岐を過ぎて更に高度を上げ、朴の木平を過ぎる。以前にこのスキー場へ来るには平湯峠 (1684 m) を越えて来たものだが、その後平湯トンネルが出来て便利になった。トンネルを抜けてループ橋を降下すると平湯に出る。まだ時刻は午後2時、ここには平湯大滝という名爆があり、私はここへは何度も来ているのに、その全貌は見たことがなく、見に行くことにした。
 平湯スキー場の脇を車で行くと、平湯大滝公園の駐車場に着く。ここでの駐車料金は環境整備協力費という名目で500円。ここから滝までは歩いて15分ばかりとか、かなり沢山の車が停まっている。10分程歩くと滝が見えてきた。さらに歩くとその全貌が、日本の滝百選にも選ばれているだけあって、高さといい、水量といい、それだけの価値はある。この滝は乗鞍岳中腹の標高 1500 m の大滝川にかかる落差64m の直瀑で、大水量が巨大な断崖を一気に落ちていて、谷全体にその水音が轟いている。何とも豪快な滝だ。日本アルプスを世界に紹介した W. ウェストン卿もこの滝を絶賛したとある。
 午後2時半近くになり、一旦平湯に戻り、中の湯温泉へは安房峠越えの国道158号線を辿ることにする。安房峠道路入り口を通り過ぎて、温泉街の途中から山へ向かう。新トンネルが開通するまでは、この山越えが松本と高山を結ぶ唯一のルートだった。その頃に通ったことがあるが、特に大型トラックや大型バスの通行があると、大変渋滞したものだ。でも今は静かな峠越え、安房平を過ぎ、安房峠 (1790 m) を越え、下から数えて7番目の7号カーブを過ぎると、右手に今宵の宿の中の湯温泉旅館が見えて来る。

2016年9月22日木曜日

9月の探蕎会行事は「やまぎし」で

 9月16日 (金) には探蕎会の行事で「やまぎし」に行くことに。総勢11名、前田事務局長の指示で、野々市市役所駐車場に10時半に集合することに。私は和泉さん夫妻の車に迎えに来て頂き出かけた。この日のメンバーは、ほかに太田夫妻、大滝、奥平、西田、松田、竹内の面々、車4台に分乗して出発する。鶴来山手バイパスを経由し、白山町南交差点で国道157号線を横切り、手取川に架かる鳥越大橋を渡り、後はひたすら県道44号線を手取川、次いで大日川に沿って南下する。2車線の県道が1車線になり、山間を進むようになると左礫町の標識、道路左手に「蕎麦やまぎし」と書かれた家が見えてくる。出発してここまで40分ばかり、山岸さんによると、金沢からは34km ばかりとかだった。ここは今では無くなった大日スキー場への途中にある。来る道の所々に大日スキー場まであと何 km という目印がガイドになる。この旧鳥越村左礫は、昭和初期には55軒もあったというが、今は11軒とか、正に限界集落である。山岸さんは何とか「村おこし」をしたいとの熱意で生まれ故郷に帰ってきたという。
 着いた時に、玄関前には大型バイクが2台、先客があった。ここでの注文は、欲しい品を予め券売機で買う仕組み、高速道路のサービスエリアの食堂などで見られるあのシステムである。でも初めての人はかなり戸惑うし、ましてや探蕎会の11人という大勢?では、一人一人順番ということもあって、少々混雑する。でも初めてとあれば、これは致し方がないというものだ。さて中へ入って、11人の皆さん椅子席希望ということで、板の間の2連のテーブルに7人、もう1つのテーブルに4人が座ることに。私たちが着いた時、店には山岸さん御夫婦2人のみ、これまで一団体で11人のことがなかったのか、注文を受ける段になって少々もたつきが生じたようだった。奥さんは、皆さん何を注文したか覚えておいて下さいと言われたが、頼んだ人の方も戸惑いがちな様子だった。後で山岸さんの妹さんが遅れて来られてようやくスタッフが揃い、どうにか軌道に乗ったものの、一度に大勢というのはやはり大変なようで、少々混乱が続いた。大人数の場合、何か段取りに工夫が必要なような気がした。その後も3組ものお客があり、金曜という平日なのにこれだけの方が来店するとは驚きだった。やはり「やまぎし」には何か人を引きつける魅力があるのだろう。
 注文を受けている時に、山岸さんの奥さんが太田さん夫妻と旧知のような親しげな話をされていたのでお訊きしたところ、山岸さんの奥さんの実家が津幡で、太田さんの住まいとは近いとのことだった。奇遇なことだ。
 さて今日出されたそばは、十割の「白」「田舎」「田舎粗挽き」の普通盛りと大盛り、それに「天ぷら」に「そばがき」、飲み物はビールと焼酎、私は田舎粗挽きの普通と天ぷらと財宝2杯の定番コースにプラスして「そばがき」を注文した。ここでの普通盛りは 170 g で8百円、大盛りは 270 g で1千円である。そばは何人かは普通盛り2杯、他の方は大盛りか普通盛りを一杯だった。皆さん食べ終わった頃に、私が頼んだ「そばがき」が運ばれてきた。材料は「白」、私もそこそこ満腹、皆さんにも試食してもらった。
 かれこれ1時間半ばかり居たろうか。この日は集合写真は撮らなかったが、大滝画伯が食事している様子をスケッチされていた。さすが画壇の大御所だと感心した。「やまぎし」を出て、ここでさみだれ解散、私は再び和泉さんの車に乗せて頂いた。往路は旦那さん、復路は奥さんの運転だった。晴れた秋の1日を満喫した。

〔メ モ〕 「蕎麦 やまぎし」 (4室 24人)
 住 所:石川県白山市左礫町ニ55番地
 連 絡:電話 076−254−2322  携帯 080−8997−7714
 品 書:白、白太切り、田舎、田舎太切り、田舎粗挽き。 普通盛り 800円、大盛り 1000円。
     天ぷら 400円。そばがき 250円、ほかに 礫 (つぶて)焼き? など。
 飲 物:お酒 (130ml) 上 450円、並 350円。 焼酎 (100ml) 200円。 ビール 中 450円、小 350円。
     ノンアルコール 250円。 ジュース 200円。
   定休日:毎週 水曜と木曜。

2016年9月21日水曜日

9月12日 (月) に「やまぎし」と「草庵」へ

 友人の N さんは、体格も大柄、車もランクルの4.5L と大型、本業が不動産取引とあってか交友も広く、しかも旅行好きでよく出かけるようだ。そして折々にふれ、その土地の土産と称して、お酒やお菓子を持参してくれる。いつも貰いっぱなしなので、家内とは何かお返しをしなければと話していた。9月初め、彼は京都の土産と称して、赤唐辛子の十倍もの辛さという黄金唐辛子一味柿の種というものを持参してくれた。そこでその時思いついたのは、「そば」が好きだという彼にそばを食べに行かないかと誘ってみた。すると行きましょうという返事。そこで鳥越の山奥に「やまぎし」という蕎麦屋があるというと、ぜひ行ってみたいという。それで行くのは9月12日の月曜日とし、小生宅へ10時20分に来てもらうことにした。というのも彼はお酒を飲まないので、それにあやかったのである。でも「やまぎし」のみではお礼に不足があるので、帰りに「草庵」へ寄ることにした。
 当日の朝、何時もは時間励行の彼が約束の時間に来ないので、ひょっとして忘れたのではと心配したが、5分延で来てくれた。こうして私が便乗したのは、彼は体格は立派なのだが、お酒が飲めないという特技があるからである。しかもお彼は仕事がら旧鳥越村をよくご存じで地理にも明るい。「やまぎし」のある左礫 (ひだりつぶて) の一つ手前の渡津 (わたづ) を通っているとき、ここは「蛍の里」といって、農薬を使わない山田 (水田) で蛍を育てていて、夏には大変賑わうという。何せ蛍の幼虫が食するカワニナが、ここでは川ではなく、水田で生育しているとかだった。この貝は清澄な水環境でないと住まないというから、環境がよっぽど良好なのだろう。説明を聞きながら、車は程なく「やまぎし」に着いた。
 この家は山岸さんの生家で、築75年、ここ20年ばかりは無住で、ここで開店するにあたり、正月から3ヵ月かけて、自前の大工仕事で、内装も外装もこなし、かつ飲食店営業に不可欠な設備も備えた。本当に器用でかつ超人的な人だ。開業したのは3月26日、私も駆けつけた。山岸さんでは、当面は10年を目標にしています(果たして ?) とも。
 この日はまだ先客がなく、車を停めて下りると山岸さんから声がかかった。この日予約はしてなかった。玄関に入るとご夫妻に迎えられた。玄関にある券売機で注文の品を求める。N さんは「白」と「田舎」の普通盛りと「天ぷら」、私はいつもと同じく「田舎粗挽き」の普通盛りと「天ぷら」と焼酎「財宝」を2杯。今日のスタッフは山岸さんの妹さんも加わっての3人体制である。奥の座敷の老樹の座机に陣取る。雨戸は開け放たれていて、県道に面している。野菜の天ぷらと焼酎がそれぞれ2つずつ届く。2人分と思ってましたとは奥さんの言だった。暫くすると、2家族と1女性団体が、この山奥に月曜日なのに訪れる人があるのは驚きだ。ややあって白と田舎粗挽き、付き出しに沢庵と煮物、薬味には辛味大根と刻み葱と山葵、粗挽きには岩塩が似合う。N さんの白が食べ終わる頃、田舎が届いた。普通盛りは 170 g  とか、そばは中太で、少々噛んだ方が味わい深い。また粗挽きは噛まないと食べられない。因みに「白」は丸ヌキを40メッシュで、「田舎」は玄そばを18メッシュで、「田舎粗挽き」は同じく13メッシュで篩っているとか、すべて自家製粉である。
 今週の金曜日には10人ばかりで来ますと予約して「やまぎし」を辞した。
 来た道を引き返して白山市鶴来日吉町の「草庵」へ。入ると店には数組がいた。座敷を希望し案内されて一卓に座る。N さんは熱いそばをということで「鴨なんばん」を、私は「鴨せいろ」を、つまみには「出し巻き玉子」と「焼みそ」を貰う。ここでは粗挽きの十割そばは1日10食限定とかで、基本の「せいろ」は外一の中細である。お酒は「八海山」を頂く。つまみとお酒がなくなる頃、そばが届いた。鴨はフランス原産種の合鴨を国内で飼育したものとか、柔らかいがプリプリした食感と歯応えが素晴らしい。終わって奥さんと暫しの懇談、今年ある全国誌の特集で、全国厳選そば店80に選ばれたと喜んでおいでた。開業してもう16年になるとか、以前ほど混んではいないが、やはり繁盛している。満腹になり、満足して草庵を後にした。帰り際、奥さんから、「また奥さんともども来て下さい」と言われた。

2016年9月14日水曜日

岩城宏之没後10年メモリアルコンサート

1.はじめに
 オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) の創始者である岩城宏之さんが亡くなったのは2006年9月6日、あれから10年、標記のコンサートが9月10日に石川県立音楽堂で開催された。毎年この時期には、故人の遺志と故人の夫人の木村かをりさん (ピアニスト) の計らいで、北陸3県に関わりのある優秀な演奏者を表彰している。選考にはほかに井上道義 OEK 音楽監督と池辺晋一郎 音楽堂洋楽監督が審査にあたる。第10回の今年は、OEK の第1コンサートマスターのアビゲイル・ヤングさんが受賞した。OEK からは過去に首席チェロ奏者のルドヴィード・カンタさんが受賞している。彼女はスコットランドのグラスゴー出身とか、スピーチの通訳は第2ヴァイオリン首席奏者の江原千絵さんがされた。ヤングさんが使われているヴァイオリンは、OEK がレンゴー(株)から貸与されている 1714 年製のストラディヴァリウス「ラング」だそうである。
 この公演は金沢と東京で行なわれる。指揮は山田和樹、彼は現在モンテカルロ・フィル芸術監督兼音楽監督、スイスロマンド管弦楽団首席客演指揮者、OEK ミュージック・パートナー、また故岩城宏之氏が務めていた東京混声合唱団音楽監督・理事長を引き継いでいる。彼が OEK を振ったのは16ヵ月ぶりである。私はこの日を待ちわびていた。この日私の胸は躍った。彼は現在37歳である。将来が頼もしい。

2.リゲティ:ルクス・エテルナ (永遠の光) 無伴奏合唱 (アカペラ)
 正面のパイプオルガンが置かれている中2階のバルコニーに、東京混声合唱団のソプラノ、アルト、テノール、バスの各4人が上がり、各声域がさらに4部に分かれ、計16声部が微妙にずれて歌うという複雑な歌い方、総譜には「音を保って非常に静寂に 遥かに届くように」と書かれているとか。指揮者は1階の指揮台に立ち、端正な指揮をした。何とも荘厳な祈りの歌であった。「永遠の光が彼らに輝きますように」と。岩城宏之氏への鎮魂か。

3.バーバー:ヴァイオリン協奏曲  Op. 14
 故岩城宏之氏は、中西陽一石川県知事が亡くなった時に、鎮魂のためにバーバー作曲の「弦楽のためのアダージョ」を演奏されたことを思い出す。解説によると、この曲はアメリカの富豪の依頼によって作曲されたが、余りにも技巧的で演奏不可能とまで言われたという。そこで依頼者は改訂を申し出たが彼はこれを拒否、結果として別の人が非公式にピアノ伴奏のみで初演、その後アメリカの著名な指揮者であるユーディン・オーマンディやフリッツ・ライナーにより取り上げられ、新たな形式の協奏曲の傑作として演奏されるようになったという。聴いていると正に常動の曲、演奏者には実に難曲だ。しかしアビゲイル・ヤングさんは実に見事に弾き切った。あまり馴染みのない曲だが、しかし素晴らしい技巧での弾き振りの彼女に、惜しみない拍手が送られたのは当然の帰結であった。山田和樹の指揮ぶりもお世辞なしに秀逸で、実に聴き応えがあった。演奏が終わっても拍手が鳴り止まず、ヤングさんはこれに応えて、スコットランドの唄をヴァイオリンで奏でてくれた。

4.フォーレ:レクイエム ニ短調 Op. 48
 作曲家でクリスチャンであれば、大概教会音楽を作曲している。これは必然といってよいと言える。今手元にある三省堂のクラシック音楽作品名辞典を見ると、42名の作曲家がレクイエムを作曲している。この中で最もよく演奏されるのはモーツアルト作曲のレクイエムであろう。この曲は未完に終わり、没後弟子のジュスマイアーにより完成されたことで知られ、私も過去2回演奏会で聴いたことがある。またブラームスのドイツレクイエムも往々に演奏されるが、それよりもっと演奏の頻度が多いのがフォーレ作曲のレクイエムである。この曲を私は生で初めて耳にした。
 合唱は東京混声合唱団、東京芸術大学声楽科の卒業生で構成される日本を代表するプロの合唱団、本年は創立60周年とか、音楽監督・理事長は山田和樹である。この日はソロがソプラノとバリトンの2人、合唱はソプラノ11人、アルト11人、テノール9人、バス9人の構成だった。伴奏はパイプオルガンと OEK、ソロはソプラノの方はパイプオルガンのある中2階、バリトンの方はステージの最前列、コーラスは OEK の最後列に2列で、これには木村かをりさんがピアノのパートを担当された。曲は第1曲の「入祭唱とキリエ」から第7曲の「楽園へ」まで、指揮者は合唱団の音楽監督でもあり、見事な指揮ぶりだった。曲が終わって数秒の静寂、実に荘厳だった。ステージには大きな岩城宏之永久名誉音楽監督の微笑むパネルが飾られていて、指揮者の山田さんが曲が終わった後、遺影に拝礼されたのが印象的だった。彼と OEK との初の出会いは、岩城さんの代役での共演だった。

2016年9月9日金曜日

石川県立音楽堂開館15周年記念コンサート(2)

(承前)
3.モーツアルト:交響曲第35番ニ長調「ハフナー」K.385
 20分間の休憩で、前の舞台はすっかり片付けられ、次いで OEK の常任メンバーによって、お馴染みのモーツアルトの交響曲第35番「ハフナー」が演奏された。両大作の合間の一服の清涼剤の役目を果たしてくれた。演奏時間は約20分間。そして次の演目に備えての30分間の休憩。この間にカフェコンチェルトのフロアではドリンクサービスがあり、あるスポットでは、石川県酒造組合連合会の協賛で、県内34の酒蔵から出品された日本酒が振る舞われた。お代わりも可で、大変盛況だった。

4.ラヴェル:舞踊音楽「ボレロ」 舞/野村萬斎(狂言師)
 ラヴェルの「ボレロ」に合わせて野村萬斎氏に舞を希望したのは井上道義 OEK 音楽監督だとか。5年前に東京で試演したこともあるとかだったが、今回の舞をするに当たっては、萬斎氏は、振り付けでは、不動の静から始まり、復活、再生を描くとし、そしてそれには、夜明けから始まる一日や一年、一生を、この16分間ばかりの曲に凝縮させるつもりと意気込みを表明されていた。萬斎氏は、狂言師で人間国宝であった野村万作氏の長男、祖父の故六世野村万蔵氏と父に師事し、現在重要無形文化財総合指定保持者として活躍している。
 さて、ラヴェルの「ボレロ」を演奏するにあたっては、40人規模の室内オーケストラでは演奏できず、80人規模の演奏者を必要とする。OEK では過去に一度演奏したことがあるが、その時はどこか他のオーケストラとの合同演奏だったような気がする。この日のメンバーを拝見すると、OEK のメンバーが35人、客演奏者が39人の総勢74人だった。
 この曲は、イダ・ルビンシテインが自ら踊るためにラヴェルに作曲を依頼した作品である。この曲の特徴は、始めから終いまで延々と続くあの2小節の「タンタタタタンタタタタンタン/タンタタタタンタタタタタタタタタ」という小太鼓のボレロリズムで、それが延々と規則正しく、なんと169回も反復され、そして次第次第に強くなり、最後には大音響で叩きつけられて終わる。この間、18の管楽器が単独若しくは複数で、18のパートで、あの18小節のボレロのメロディーを反復する。一見単調単純なようだが、あのボレロのリズムとメロディーは聴衆を虜にする不思議な心理効果を醸し出す。そして曲が進むにつれ気持ちは次第に高揚し感動し、そして最後には大音響で瓦解し現実に戻る。
 バレー音楽ながら、曲のみでも素晴らしいが、今回は野村萬斎氏が精魂を傾けた振り付けを行なって披瀝した。氏の言によると、「ボレロ」は狂言の「三番叟」という舞踊に似ていて、同じリズムを繰り返しながら盛り上がっていくところに通ずるものがあり、それを振り付けに取り入れたとのことであった。
 ステージには3m四方ほどの緋毛氈が敷かれ、それを凹状に囲んで演奏者が陣取り、その凹状の要に当たる部分の左側に指揮者、そして緋毛氈の通り道を挟んだ右側に、この曲の重要な主役である小太鼓の奏者、そしてこの緋毛氈の通路は真ん中奥の扉に通じている。
 暫しの静寂の後、弱く小太鼓があのリズムを刻み出した。そして始めにフルートがソロで pp でメロディーを奏でる。次いで p でクラリネット、この時奥の扉が開いて野村萬斎氏が現れた。乳白色の長袖長袴の素袍?の出で立ち、そして背には緋色の背当て、ボレロのリズムに合わせて、長い袖と長い袴をいろんな形容に変化させながら、緋毛氈の舞台を縦横に使っての幽玄な仕舞い、単純だが一つ一つの仕舞いに微細な差があり、16分はアッと言う間に過ぎた。そして最後の大団円には、氏は舞台から客席前に仕組まれた穴に高くジャンプして飛び下りた。正に和と洋が渾然と融合した仕舞いだった。
 今回の石川県立音楽堂開館15周年記念コンサートは、パンフレットには「ディスカバリー・クリエーション〜過去・現在・未来〜」という副題が添えてあった。そして今回の記念公演は、次の十五年、さらには五十年、百年先を見据えての企画だとあった。そして金沢素囃子・混声合唱・オーケストラによる「勧進帳」と OEK による「ハフナー」は過去の音楽堂の集大成、野村萬斎氏を招いての OEK
との「ボレロ」の響宴は、ホールの特性を生かした新たな演出によるパフォーマンスだとした。

石川県立音楽堂開館15周年記念コンサート(1)

1.はじめに
 世界的指揮者の岩城宏之氏が、若き一時期金沢第一中学校に在籍したことがあった縁で、当時の中西陽一石川県知事に懇願して、外国人を含む40名からなる日本初とも言える室内オーケストラのオーケストラ・アンサンブル金沢 ( OEK ) を誕生させたのは昭和63年 (1988) のことである。でも設立当時の OEK には演奏の拠点がなく、次第にコンサートホール設立の機運が高まり、現谷本正憲知事の英断によってホールが設立されることになった。一方で金沢は邦楽の盛んな土地柄、邦楽会館の設立機運も高まり、この日挨拶に立った谷本知事は、造るなら恥じないものをと、そして要望に応えて和洋合わせた音楽堂を造るに至ったと述べた。こうして石川県立音楽堂が完成したのは平成13年 (2001)のこと である。施設の特徴としては、メインのコンサートホール (1,560 席) にパイプオルガンを設置したこと、また邦楽ホール (720 席) には歌舞伎が演じられるように左右に袖を設けたことで、このような和洋折衷の施設は他にはなく、自賛してよいとも話した。そして今年は開館してから15周年にあたり、それを記念してのスペシャル・コンサートが開催された。

2.素囃子と混声合唱、オーケストラのための「勧進帳」
 この曲は、平成12年 (2004) に OEK が鈴木行一氏に委嘱して作曲された作品で、翌13年 (2005) 3月に県立音楽堂で初演された。そこでは歌舞伎「勧進帳」で奏される長唄の分かりにくい筋を、現代語訳の合唱とオーケストラで再度再現し、聴衆に内容を分かりやすくしたことと、曲全体が一体となった壮大な叙事詩というかオラトリオに仕上げられたことだった。そしてこの曲の初めと終わりに、義経の愛人の「静」の存在を思わせる「しずやしず」のフレーズを挿入し、雪の吉野で別れた静御前を思い起こさせ、勧進帳とは全く関係がないものの、この曲では義経の悲劇的英雄伝説を一層盛り上げる働きをしていた。そして今回行なわれた 2016 年版の演奏では、素囃子とオーケストラが共演する試みもされ、より新鮮味が増したように感じた。このような試みは初めてではなかろうか。ところでこの曲を作曲された鈴木行一氏は平成22年 (2010) に他界され今年は七回忌とか、このコンサートには奥さんの理恵子さんが来ておいでて、再演を大変喜んでおいでた。
 「勧進帳」は、源義経が壇ノ浦の合戦で平家を滅ぼした後、兄頼朝に疎まれ、追われる身となり、奥州を目指して逃れる途中に、加賀の国の安宅に設けられた関所での顛末を脚色したもので、それが歌舞伎の「勧進帳」であり、能の「安宅」である。ここでは素囃子で奏される長唄の筋を現代語の合唱とオーケストラで演奏し、その内容を字幕で流し、聴衆にその内容を知らしめた。素囃子も実に見事だったが、その内容を聴衆にことごとく伝えたのは素晴らしい試みだった。
 素囃子は金沢素囃子保存会の皆さん、金沢市無形文化財の指定を受けているとか。右手の三段になった雛壇に、上段には唄方、中段には三味線と上調子と笛、下段には大鼓 (つづみ) と小鼓 (つづみ) の計19人、中でも大鼓と小鼓のソロの掛け合いが実に素晴らしく、感銘を受けた。合唱団はオーケストラ・アンサンブル金沢合唱団の皆さん、左手奥に女性、ソプラノ10人とアルト8人、右手奥に男性、テノール6人とバリトン・バスの10人。そして左手前方と中段にはオーケストラ・アンサンブル金沢のメンバーと客演奏者の約60人、そして指揮者の井上道義氏は聴衆からは見えないように置かれた矢羽根模様をあしらった大きな衝立ての影での指揮だった。
 演奏時間はほぼ30分、こんな邦楽と合唱とオーケストラのコラボによる演奏は、滅多に見たり聴いたりすることはできず、私は二度目だが、多くの聴衆はこの初めての壮大なコラボレーションに酔いしれたのではなかろうか。そして素囃子とオーケストラとのコラボは、全く新しい試みなだけに、これからの邦楽と洋楽の新しい合奏形態を占うものとして、高く評価されるのではなかろうか。

2016年8月25日木曜日

野々市市総合防災訓練の顛末(2)

(承前)
 9時になり、これから拠点避難所の金沢工大の第2体育館へ向かいますということで、皆さんゾロゾロと出発する。この行き先となる場所は私は何処にあるのかは全く知らず、この際にぜひ確かめておきたいという気持ちもあった。天候は晴れ、工大駅前の広場には木陰もあったが、一行は暑いかんかん照りの日射しを浴びての歩き、この行動に移る前には、歩くのに自信のない方は参加しないで下さいとの注意、この一言で年寄りの班長さんも半数が抜けてしまったことが後で分かった。一行は一旦東へ、そして高梁川の橋を渡って右岸を川に沿って南へ、更に県道を東へ、それから工大の扇が丘キャンパスに入ってさらに南へ、漸く行き先の体育館が見えてきた。かれこれ 1.5 km ばかりの炎天下の行進だった。キャンパス内では工大生が誘導に当たってくれていて、頭が下がった。入った体育館は随分と広くて大きく、天井も高く、お陰で暑さはさほど感じなかった。着いたのは9時半少し前、ここには3町会4グループが避難することになっていて、既に地元扇が丘町会のグループは着いていた。貰ったフローチャートでは、集団避難後に避難者カードに記入とあったが特になく、フロアに適宜座って世間話、その後避難者にアンケート用紙が配られ記入する。訊くと昨年は体験訓練とかで簡易ベッドや簡易トイレの組み立て等があったそうだが、今年はアルファ米の試食とか、でもこれは希望者のみとか。様子を見てると、どうも体裁だけらしいと思わざるを得ない。そこへ災害防護服に身を固めた本町2丁目出身の市会議員の方がおいでて暫し懇談した。当然のことながら、1回目の案内の放送も、2回目の放送も内容がはっきりせず、あれは何とかならないかとの要望が出た。議員さんでは、あの放送はデジタル (?) なので、肉声とは異なる音声になるとのこと、予めリハーサルできなかったので、今後良くしたいとのこと、ぜひ改善してほしい。また二度目の放送は市長が自らかってでてされたようだとのこと、水に潜って話してるようで、これは実に意味不明でひどかった。正確に伝えてこそその機能が発揮できるというものだ。ところで放送の前に軽いサイレンが鳴らされたが、もっと分かりやすく出来ないのかとの声には、災害時や火事の時のようなサイレンを鳴らすと、本当に災害や火事があったと勘違いするので止めてほしいとの要望があって、軽いサイレンにしたとか、これじゃ全くのお遊びで訓練にはならない。議員さんは皆さんの要望を市に伝えておきますとのことだった。
 10 時になったが、まだ2グループしか来ていない、余りに暇なのを見かねてか、アルファ米試食したい人はこちらへと誘導された。大きな鍋にお湯が湧かされていて、工大の学生が試食の担当を任されている。担当からは、袋の中身を良く混ぜてから、そこにお湯を注ぎ、20 分おいてから食して下さいと。説明の後、これは希望する方のみですので、希望しない方は帰ってもよいですと。聞くと昨日2丁目ではバーベキュー大会があり、そこでも提供されたとか、それには半数の人達が参加されていて、その方達は参加されなかった。私も山へ行っていた頃には重宝していたこともあって、割愛することにした。見てると参加したのは女性の方達ばかりだった。
 工大のキャンパスを出る頃、近くの高橋町の町会の方々とすれ違った。この町会では8時ではなく 10 時に集合したという。何ともちぐはぐだ。また2丁目の別のグループとは、とうとう出会うことはなかった。家には 10 時半に着いた。予定では 12 時半にだったから、家内はびっくりしていた。振り返って何とも締まりのない防災訓練だった。

 閑話休題
 今年1月 24 日に防火訓練があった。想定では本町2丁目にある白山神社に落雷があり、出火したという想定。訓練は任意参加だったが、すぐ近くなのと、氏子でもあったので参加した。訓練は神社からの備品の持ち出しと消火で、これには白山市との広域消防の消防車3台も参加した。発煙筒が焚かれ、周辺道路の封鎖も行なわれ、放水による消火が行なわれた。訓練とは言え、行動は実働そのもの、実にきびきびして統制がとれていて、見ていても身が引き締まった。時間は約1時間ばかりだったが、実に内容はコンパクト、終わって我々氏子も整列して担当責任者から訓示を受けた。実に充実した訓練だった。
 プロとアマの差はあろうが、市の防災訓練も、もう少し魂の入ったものにならないものだろうか。でも市の防災訓練当日の消防団の役目は、各一時避難場所での住民の避難状況の把握のみと聞いた。

2016年8月24日水曜日

野々市市総合防災訓練の顛末(1)

 表記の訓練は、今年で三度目だという。私はこれまでこんな訓練があることは全く知らなかった。恐らく時々回ってくる回覧板に防災訓練実施の案内のチラシが挟まれていたのだろうが、内容は皆さんぜひ参加をという拘束力のあるものではなく、関係者や興味のある方は参加して下さいという極めて緩やかな呼びかけじゃなかったかと思う。したがって私はこれまで参加したことは一度もない。
 ところで東日本大震災の後にこの訓練が始まったのだろうが、それに続いて起きた九州熊本での大地震もあって、今年は全市一丸となって取り組もうということになったらしい。そんなこともあってか、今回は班長の方が一軒一軒回って参加をお願いし、しかも参加の有無まで確かめるという念の入れようだった。日時は8月21日の日曜日の午前8時から正午まで、私は一度も参加したことがないこともあって何となく興味が湧き、それじゃ参加しましょうと返事をした。私の住まいがある本町2丁目は旧一日市町と新町とからなり、世帯数は約260、古くは前者と後者は別の町会だったが、今は一本になっている。そしてその中には16の班があり、私の家は第11班に属し、この班には16軒が入っている。そしてこの防災訓練は班単位で、行動は町会単位で行なうとのことだった。
 訓練の概要は次のようだった。想定では、午前8時 00 分に、富樫断層を震源とする震度6弱の地震が発生し、これが市内32カ所に設置されている放送拠点から放送されるので、先ずは自分と家族の身の安全を確保し、火の始末をした後に、指定された一時的避難場所へ避難する。この際には近所に声をかけ、助け合いながら避難して下さいとのことだった。シナリオとしては申し分ないと言える。服装は、災害時の活動に適したものをということで、私は作業服の上下に長靴を履き、軍手をはめ、野球帽を冠った。また熱中症対策のため水痘を持参するようにとのことだった。見ていた家内は、用意ができたのなら出掛けたらと言うが、地震が起きたという放送もないのに出掛けたのではやらせも甚だしいと思い、地震発生の放送を待った。
 午前8時になって、軽いサイレンの音に続いて、地震が発生したので取り敢えず一時的避難場所に避難して下さいという女の人での放送が続いて2回あった。極度にゆっくりとした口調は丁寧なつもりなのかも知れないが、何故か口調がはっきりせず、しかも間延びしていて緊急性が全く感じられず、しかも放送は1回きり、これでは聞きそびれることだって生じよう。どうも内容がはっきりしない放送だったが、とにかく一時的避難場所に指定されている北鉄の工大前駅前の広場に向かった。そこには既に 10 人ばかりが来ていた。そのうち皆さん三々五々集まってきたが、私たちの 11 班の参加者は6家族9人のみだった。ここには8班が集結することになっているとのことだが、班長が来ない班もあるとかで、何とも締まりがない。前日には班長会議をやり打ち合わせをしたというのにである。私たちの 11 班は、班長が出席者を確認した後、今回から導入したという避難していない人の安否確認に出かけた。これは参加していない世帯を訪問して、その安否を確認するのだとか、必要だろうが実際の災害時には出来ようか。この間に消防車が確認のためか、避難場所脇の道路を通っていった。そしてこの時男の人の声で、内容は全く聞き取れないが、多分今日は市の防災訓練の日なので皆さん参加して下さいという趣旨と思われる放送があった。しかし何とも締まりのない訓練で、皆さん手持ちぶたさだった。この避難場所の責任者からは、9時にここから拠点避難所の金沢工大学園扇が丘キャンパス第2体育館へ向かうので、それまでお待ち下さいとのこと、さらに 20 分もブラブラして待つことに。

2016年7月25日月曜日

オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(2)

 このシーズン中このシリーズは10回あり、10回目の第379回定期公演は7月23日にあった。この回のテーマは「現代ヨーロッパの潮流 多才ヴィトマンの世界」。この日の立役者は、クラリネット奏者であり、作曲家であり、指揮者でもあるイェルク・ヴィトマン、現在フライブルク音楽院のクラリネット科の教授と作曲科の教授を兼任しているという。私にとっては初めて耳にする人だった。今日のプログラムはヴィトマンのクラリネット演奏が2曲、ヴィトマン作曲の小品が2曲、指揮が1曲という構成だった。
 初めに演奏されたのはウェーバーの「クラリネット小協奏曲 変ホ長調 op.26」で、この曲は初演の後、バイエルン王の委嘱で作曲された2曲のクラリネット協奏曲の端緒となった曲とか、ヴィトマンは導入部こそ手振りで指揮をしたが、後は演奏に専念、コンサートマスターのヤングが曲をリードした。演奏はさすがクラリネットの名手と言われるだけあって、感動の演奏であった。
 次いでヴィトマン作曲の「セイレーンの島 (1997)」。セイレーンとはギリシャ神話に出てくるあの上半身は女、下半身は鳥の姿をした海の魔物で、人魚伝説の原型とされている。オーケストラアンサンブル金沢のコンサートマスターのヤングの独奏ヴァイオリンと19の弦楽器による演奏、弦楽器の多様な奏法を高度に駆使した正に現代の弦楽曲で、ヤングのリードが実に素晴らしかった。この演奏にヴィトマンは指揮をせず、終わってヴィトマンがヤングに言葉をかけたのがすごく印象的だった。聴いて見て感激した演奏だった。
 前半の最後はロッシーニの「クラリネットと管弦楽のための序奏、主題と変奏曲」、ロッシーニの数少ない器楽曲の一つで、この曲はとあるクラリネット奏者から依頼を受けて作られたという小品で、この曲でのヴィトマンのクラリネット演奏は、さながらオペラやバレーでの主役のような役割をしていて、序奏から主題の提示、そして5つの変奏を順に駆け巡る華やかな構成で、ここでも曲はヤングがリードしていた。
 休憩を挟んで、初めにヴィトマン作曲の「180ビーツ・パー・ミニット (1993)」という弦楽六重奏曲、構成はヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ3で、1分間180拍という激しさ、しかも拍子が目まぐるしく変わるという難曲。演奏が終わってヴィトマンはヤングと抱き合っていたが、よくぞこなしたという印象、聴衆の拍手が凄かった。
 最後はメンデルスゾーンの「交響曲第1番ハ短調 op.11」、この曲はメンデルスゾーンが12歳から14歳にかけて作曲した12曲の「弦楽のための交響曲」に続いて15歳の時に作曲され、当初は13番とされていたが、出版時に「交響曲第1番」とされた経緯がある。ヴィトマンの指揮に初めて接したが、情熱的で的確な指揮は聴衆を魅了した。拍手が鳴り止まない素晴らしい名指揮だった。
 次の新しいシーズンは2016年9月から始まる。

オーケストラアンサンブル金沢の今シーズン (2015ー2016) 最後の公演(1)

1.マイスターシリーズ「ショパンと友人たち」
 シーズン中にこのシリーズは5回あり、第1回は昨年の10月24日、最終の第5回は今年の7月16日の第379回定期公演だった。今回のシリーズのテーマは「ショパンと友人たち」、この日はショパンのオーケストラ付ピアノ曲として ピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21 、それにメンデルスゾーンの 交響曲第3番イ短調「スコットランド」op.56 が演奏された。ほかに現代ポーランドの新進作曲家キラールの「オラヴァ (1988)」という弦楽オーケストラのための作品、そして嬉しいことに、前回の演奏会で演奏者急病でキャンセルとなったショパンの管弦楽付ピアノ曲の「ポーランドの歌による幻想曲 op.13」が追加演奏された。指揮をした井上道義 OEK 音楽監督の言によれば、再演の要望が非常に強く、この日のピアノ奏者の北村朋幹(ともき)さんの了解もあって実現したとかだった。北村さんはまだ弱冠34歳、現在ベルリン芸術大学に在学中の新進気鋭のピアニストである。
 初めにショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」、この曲はこの後に演奏されたピアノ協奏曲第2番のワルシャワでの初演 (1930年3月) の際に初めて演奏されたという曲である。演奏に先だって、門田 宇 (たかし) さんによるナレーションがあり、それは暗くて果てしないポーランドの原野を印象づけるような語りだった。その後暫く時間をおいてから、曲はオーケストラのゆっくりとした序奏から始まった。第1部はポーランドの民謡に、第2部はポーランドのとある作曲家の旋律に修飾、第3部はポーランドの民族舞踊を主題にしたもので、華やかな独奏ピアノを管弦楽が装飾し、序奏、第1部、第2部、第3部と進むにつれ、ピアノは静から動へと華やかに躍動する様は凄く、満席の聴衆に感動を与えた1曲だった。追加の演奏だったのにこの迫力、要望が強かったのが頷ける会心の演奏だった。
 次いでキラールの「オラヴァ」、弦楽器パートのみ15人での演奏、オラヴァとは川の名だそうだが、演奏は民族音楽風な感じの簡潔なリズムの反復と、次第にだんだん強くなる力強い推進力が身体に直に感じられるような凄い音楽だった。
 そして本命のショパンのピアノ協奏曲第2番へ短調 op.21、作曲も初演も第1番よりも先だったという
ことはよく知られている事実で、2曲あるピアノ協奏曲のうち出版が後だったということで第2番になっている。第1番、第2番共によく演奏されるが、この日の若い北村さんの華麗な旋律は聴衆を惹き付けた。
 最後にメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」op.56、第4番「イタリア」と共につとに有名である。井上道義の華麗な全身を駆使した指揮ぶりには圧倒された。

2016年7月9日土曜日

本家吉田家のお墓が野々市にあることを知る

 7月2日の午前10時頃、突然電話があり、「京都の吉田ですが、お昼少し前に木村さんのお宅へお寄りしたいのですが、宜しいでしょうか」とのこと。私は特にお断りする理由もないので、「お待ちしております」と返事した。京都には私が年賀状を差し出している吉田さんという家が3軒あり、お電話頂いた吉田さんはどの吉田さんなのだろうかと思案したりしていた。先の電話では、「タクシーを待たせてお寄りするので、時間は取らせませんから」とも話されていた。
 11時過ぎ、吉田さんと言われる上品な女の方と身体が大きな息子さんと思われる方とが見えられた。「タクシーを待たせておりますので、玄関先でご挨拶だけ」と言われ、それで私もそれに甘んじて応対させてもらった。そして驚いたのは、「今日は吉田の家のお墓にお参りに来たので、木村さんのお宅にも寄らせて頂きました」とのこと。吉田家の墓が野々市にあることは知っていたが、これまで私が吉田のお墓にお参りしたことは一度もない。年寄りから野々市の旧中町の墓地に吉田家の墓があるとは聞いてはいたものの、場所がどこなのか、どんなお墓なのかは知らず、それでこれまで気にしたこともなかった。だから突然来られて、お墓参りに来ましたと言われても、驚いて全く応対のしようがなかった。それで「いつか人伝に、吉田さんのお墓は京都の方に移されたとお窺いしましたが」と言うと、「いえ、私の主人からは、亡くなったら野々市のお墓に埋葬して欲しいと言われていましたので、お骨は野々市のお墓に納めました。またその際に墓碑も新しくしました」とのこと、私にとっては全く寝耳に水のこととて、赤面してしまった。「そうとは知らずに、大変失礼をいたしました」とお詫びをした。玄関先での数分の会話だったが、その時に後でぜひ吉田さんのお墓へ行って来なければと思った。吉田さんからは、手土産に京都の宇治茶のラスクを頂戴した。
 いつかまだ私の弟が存命中に、一度旧中町の墓地に案内されて、これが吉田のお墓だと紹介されたことがあるが、それは本当に小さなお墓だったので、その後吉田のお墓が京都に移されたと聞いた時は、さもありなんと合点していた。それでその日の夕方に、家内は知っているというので、案内してもらったが、吉田家のお墓は大変立派なので驚いた。現在吉田さんの御一族は皆さん京都に住んでおいでだが、これほどの大きなお墓を移すのは容易ではないと思った。
 お墓の土台は、間口 250 cm、奥行 190 cm、高さ 52 cm で、その中央に5段組の高さ 180 cm の「吉田家累代之墓」が建っており、正面には「丸に州浜」の家紋が刻まれている。そして右面には昭和九年八月建之とあり、左面には、吉田亀次郎、吉田規一、澤田 冬、南 壽美と4人の名が、おそらくこの4人の兄弟姉妹が建立したのだろう。亀次郎さんも規一さんも、木村の家に来られたのを私は子供心に覚えている。そして左側には2段積みの高さ 82 cm のお墓があり、正面には南无阿弥陀仏の文字、左面には木屋五左衛門、右面には弘化二年七月とあった。木屋というのは吉田家の屋号で、私の家の先祖の五右衛門も吉田家から分家して木屋五右衛門と名乗っていて、明治維新以後に木村姓を名乗るようになったと聞いている。また我が家の家紋も「丸に州浜」で、これも主家の家紋と同じである。
 お墓の右端には新しい墓碑 (法名板) があり、3名の法名と名前と没年齢、それに没年月日が記してあった。それには右から順に、香譽梅薫禅定尼 梅野 八十一歳 昭和三十八年二月二十二日、法譽浄規禅定門 規一 五十二歳 昭和四十三年十月十日、壽楽優道信士 壽雄 六十六歳 平成十二年三月
二十一日、と記してある。
 壽雄さんは規一さんの長男で、もし今存命ならば 82 歳、私と同年代である。身体の大きな方で、一時相撲部屋に居たことがあったが、修業が厳しくて挫折し、一時木村の家に逗留していたことがあるので覚えている。今思うに、お墓参りにおいでた方は、壽雄さんの奥さんと息子さんだったのだろう。後日出したお礼の手紙には、旧盆にはお参りさせて頂きますと書き記した。
 本家の吉田家がいつ頃からいつ頃まで野々市においでたのかは知らないが、野々市には吉田の姓を名乗る家が何軒もあり、皆親戚同士だと聞いたことがある。本家はかなり以前から吉田の姓を名乗っていたが、分家は屋号で呼んでいたろうし、明治以降に吉田姓を名乗ったのだろう。因みに私の先祖は吉田でなく木村を名乗ったが、旧野々市村で木村を名乗ったのは私の家と今は絶えた分家だけである。
 今年の旧盆にはぜひ吉田家のお墓にお参りしたいと思っているが、ほかにどんな方がお参りされるのか、興味が持たれる。もし縁者の方が近くにおいでれば、お参りされると思うのだが、どうだろうか。旧盆が待たれる。

2016年6月17日金曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その3)

(承前)
国宝 大法寺三重塔 長野県小県群青木村当郷
 道の駅で大法寺への道順を訊くと、上田に向かって1km ばかり行くとコンビニがあるので、その手前を山に向かって入って下さいと。礼を言って車を走らすと、コンビニの手前に標識があり、そこから山に入る。このお寺は子檀嶺岳 (こまゆみだけ) (1223m) の中腹にあり、ここからは塩田平を一望できるという。坂道を上がって行くと駐車場があり、ここに車を停める。寺はさらに高みにあり、径を辿り、階段を上がると本堂と思しき建物の前に出た。でも堂の正面は閉ざされていて、一見無住の感じである。塔は何処かと見回すが、此処からは見えない。すると三重塔への順路の標識があり、それに従って歩むと、上に三重塔が見えた。さらに急な石段を二つばかり上がると、三重塔の全容が見えた。右手に寺務所があり、拝観料を払い、御朱印も頂いた。案内所によると、このお寺は天台宗で、古くは大宝寺といい、奈良前期の大宝年間 (701-704) に創設されたという。この三重塔が造られたのは鎌倉時代から南北朝時代に移る過渡期とされ、この三重塔の特徴は、初重が特に大きいことで、このような形式の塔は他には奈良の興福寺の三重塔のみという。高さは 18.38 m、塔の姿があまりにも美しいので「見返りの塔〕という名で親しまれているとか。全国で国宝の三重塔は 13 基あるそうで、その内の一基は、近くの塩田平にある安楽寺の八角三重塔で、以前訪れたことがある。また寺には重要文化財の木造十一面観音立像や木造普賢菩薩立像ほか四点があるという。三重塔は素朴で静かな佇まいをして建っていた。境内には樹齢 480 年という榧 (かや) の樹があった。

麻績 (おみ) IC への道を間違えて松本へ
 寺を出て国道 143 号線沿いのコンビニまで戻り、ナビで自宅へ戻る指示を出すと、上田菅平 IC へという指示、それで一旦解除して西へ進んでからナビを入力しようと思った。国道を西進すると、途中には国道 143 号線と麻績 IC への表示が大きく出ていたので、安心して車を走らせた。沓掛温泉、そして田沢温泉への分岐を過ぎ、そろそろ県道 12 号線に入り、修那羅峠越えをしなければならなかったのに、つい快適に車を走らせ、しかもナビに入力するのも忘れ、分岐を過ごしてしまった。IC への分岐点には大きな表示があるものと思い込んでいたものだからどんどん走り、九十九折りの道になってやっと間違えたと分かった。そして青木峠を越えて松本市に入った。ここまで来たのだから腹を決めて松本へ下りようと思っていたら、暫くして道端に麻績 IC へとの表示、細い山道だが、表示を信じて山を下った。篠ノ井線を渡り、国道 403 号線に出て長野自動車道を潜り、こうしてどうやら麻績 IC に辿り着けた。
 先ずは姥捨 SA で小憩し、ここからは家内の運転で取り敢えずは小布施 PA まで、でももう少しというので新井 PA まで、これから北陸自動車道に入るとトンネルが 26 も続くので私が運転をと思っていたが、新井 PA でも停まらず、さらに名立谷浜 SA も通過、もうこうなればトンネル嫌いとかは言っておれず、観念して運転は家内に任せた。そして家内は長駆し有磯海 SA まで運転してしまった。トンネル嫌いと言っていたが、これで少々自身がついたとは彼女の言だった。後は私が運転して自宅まで。走行キロ数は 650 km、所要時間は3時間半だった。

付.蕎麦タチアカネのこと
 道の駅あおきで見たタチアカネという品種の蕎麦について紹介する。これは長野県野菜花き試験場が育成した長野県オリジナルの蕎麦の品種で、名前は茎が丈夫で倒れにくいことから「タチ」、また蕎麦の白い花が実になると茜色になることから「アカネ」、名はこの2つに由来する。今長野県では、信濃1号という中間秋型品種が最も多く栽培されているが、このタチアカネという品種 (平成 21 年登録) はより耐倒伏性に優れ、ゆで麺色の評価や千粒重や容積重がより優れているという。ただ蕎麦は他花受粉性の作物で、他の品種が近在すると交雑するので、長野県では今は青木村に限定して栽培させているという。白い花と赤い実とのコントラストが美しく、今では青木村の風物詩として定着しているという。現在村には蕎麦屋が4軒ある。

 付.山田牧場よりの日本アルプス連峰全山の山名(堀江文四郎さん撮影・制作)
 写真に表示してある山名と標高をそのまま転記した。標高にはマチガイもある。
左から右へ。前穂高岳 (3090)、奥穂高岳 (3190)、常念岳 (2857)、涸沢岳 (3110)、北穂高岳 (3106)、槍ヶ岳 (3180)、燕岳 (2763)、三俣蓮華岳 (2841)、鷲羽岳 (2924)、野口五郎岳 (2924)、烏帽子岳 (2628)、蓮華岳 (2799)、針ノ木岳 (2821)、赤沢岳 (2678)、爺ヶ岳 (2670)、立山・雄山 (3003)、鹿島槍ヶ岳 (2890)、劔岳 (2998)、五龍岳 (2814)、唐松岳 (2698)、八方尾根、天狗の大下り (2812)、白馬鑓ヶ岳 (2903)、白馬杓子岳 (2900)、白馬大雪渓、白馬岳 (2933)、白馬乗鞍岳 (2469)、戸隠連峰 (1904)、飯綱山 (1817)

2016年6月15日水曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その2)

(承前)
 うっかりしていて、食事ですと呼ばれて、慌てて食事処「風土」へ行く。この名前は前と全く同じ、架かっている暖簾も前と同じだ。中へ入ると、これまた前の満山荘と見間違う位同じスタイル、驚く程似ている。指定のテーブルには料理が並べられていて、予め注文してあった地ビールと地元ワイナリーの赤ワイン、それに今夕の食事の献立表も置かれていた。前の宿でもそうだったが、料理は奥さんの創作料理、次にその献立を紹介しよう。
〔信州沓掛 夏の献立〕 平成28年6月5日 料理明子 印
「食前酒」枸杞酒
「生湯葉」クコ柚子胡椒
「信州サーモンのコンフィー」塩糀、アロエヤングリーフ、シーサラダ
「地物野菜他とピクルスなど」野菜 (アスパラ、茄子、赤蕪、豌豆、ブロッコリー、パプリカ、長芋、大根、オクラ、ベビーコーン)、ビーツとパプリカのソース、蕗味噌マヨネーズ、醤油ジュレ
「牛乳豆富」柚子味噌
「十六穀米スープ」ドライベジタブル
「夏の天麩羅」エリンギ茸、万願寺甘唐、モロッコ隠元、破竹、信州りんご、抹茶
「チーズの茶碗蒸し」トマト、葱
「牛ヒレと冬瓜のお吸い物」独活、人参、クレソン
「大岩魚のジェノバ風ソース」サラダ大根生ハム巻、クリームチーズ、ミニトマト、ブルーベリーソース
「野沢菜茶漬け」
「りんごシャーベット」りんご赤ワイン煮、マンゴーヨーグルトソース
 飲み物が不足したので、清酒「八海山」を追加した。

 終わって部屋に戻り、翌日の計画を立てることに。私の当初の計画では、沓掛温泉の背後の夫神山の東側に広がる塩田平の寺院、前山寺や安楽寺や北向観音などを拝観して、その後上信越自動車道の上田菅平 IC から帰ろうと算段していた。ところが色好い返事が貰えず、ではこの青木村の道の駅で買い物をして、近くにある国宝の大法寺の三重塔を見て帰ることにした。それで沓掛温泉への車でのアクセスを見ると、上田 IC からも長野自動車道の麻績 (おみ) IC からも、距離は20km、時間は30分と同じなので、帰りは麻績からとした。

 6月6日(月) 朝5時に起きて風呂に行く。内湯はともかく、露天風呂は少々温くて、上がると寒い。それで早々に上がって外へ。宿の前から急な崖に付けられた細い径を辿って、下に見える池まで下りる。径は樹林に聳える欅の大樹を巻くようにして付けられている。ウグイスやホトトギスやヒヨドリの啼き声が聴こえる。下の池には掛け流しの湯が流れ込んでいて、池には熱帯魚のピラニアがいると書かれている。魚の群れが見えたが、果たしてそうだったのかは不明だった。帰りは車道を歩いて満山荘のさらに奥にある外湯の「小倉乃湯」まで足を延ばした。この湯は開湯が平安時代とか、また小倉の由来は裏山の山容が京都の小倉山に似ているところから名付けられたと記してあった。そして以前はここは湯治場で、宿も数軒あったというが、今は3軒のみである。宿へ戻ると入り口に、温泉に入りたい方は「小倉乃湯」へどうぞとの貼り紙がしてあった。そして中の帳場の横には、ビニール袋に入ったピラニアの餌が置いてあった。
 朝食は8時から、でも朝の NHK の連ドラを見てからだったので、食事処へ行くと、もう皆さん食事の真っ最中だった。朝はバイキング形式、肉、魚、野菜、果物、煮物、焼物、揚物、漬物、サラダ、飲物など、その数 30 種位、無くなると追加される仕組み。こういうバイキング方式で、美味しそうな物が並んでいると、つい取り過ぎになってしまい勝ちで、取ってしまった以上は残すことは憚られ、つい食べ過ぎになってしまう。ご飯とお汁が副食になってしまう感じである。食事は9時まで、時間になって部屋へ戻った。
 暫し部屋で寛いで、チェックアウトの 10 時になって宿を出た。昨晩車は6台あったが、既に出発したのは1台のみ、我々が第2陣ということに。県道 12 号線を北上して国道 143 号線に出て右折し、上田方面に向かうとやがて左手に「道の駅あおき」が見えた。青木村は山に囲まれた農村、地元の野菜を主とした農産物やその加工品が直売されていた。中に青木村限定栽培の「タチアカネ」という品種の蕎麦がお勧め品に入っていた。

2016年6月13日月曜日

満山荘が奥山田温泉から沓掛温泉へ(その1)

 (株) 朝日旅行では、「日本の秘湯を歩く」という企画をしていて、3年間の間に、社団法人「日本の秘湯を守る会」に所属する温泉宿に10軒訪れると、その中の1軒に無料で招待され宿泊できるという仕組みになっている。宿の数は出入りがあるが、平成27年3月現在、1都1道30県にある178軒の宿が会員になっていて、北陸3県では、富山2軒、石川3軒、福井1軒が対象になっている。振り返って、この3年間に私たち夫婦が訪れたには、長野県の角間温泉、七味温泉、白骨温泉、小谷温泉、中の湯温泉、奥山田温泉、岐阜県の福地温泉、平瀬温泉で、このうち奥山田温泉の満山荘にはこの間に3回訪れた。ここは志賀高原に近い標高 1,550 m に建つ宿で、天気が良ければ、南は前穂高岳から北は白馬乗鞍岳までの、南北 80 km に及ぶ北アルプスが、その奥には立山・劔岳、手前には飯綱山、戸隠連峰、黒姫山の三山、眼下には善光寺平が眺められ、しかもこれらを露天風呂に浸りながら俯瞰できるのが醍醐味の宿である。もっとも天気が悪ければ、このような景色は見られない。それで無料で宿泊できる宿に、この満山荘を希望したのは必然だったとも言える。以前の招待の時もここで宿泊した。
 この無料宿泊には制限があって、正月、ゴールデンウイーク、旧盆、それに土曜日や祝祭日の前日は除外される。申込みには、宿は第1から第3希望まで、宿泊日も第1から第3希望までを指定して出すことになっている。ところで3月末に連絡があって、第1希望の満山荘は1月3日をもって閉館し、元の奥山田温泉から場所を離れて、沓掛温泉「おもとや旅館」を引き継ぐことになりましたが、それでも宜しいですかとのこと。それで場所は違うけれども手配をお願いしますと連絡した。その結果、新しい満山荘への招待は6月5日 (日) ということになった。
 6月5日 (日) の朝10時15分前に家を出た。この日はまだ百万石行列行事が金沢市内で行なわれているので、それを避けて白山 IC から北陸自動車道へ、そして時々休みながら、その後上信越自動車道に入り、上田菅平 IC で下りて沓掛温泉へ向かった。上田市内が混雑していて、通り抜けるのに少々時間がかかったが、その後国道143号線を西へ進み、青木村沓掛にある沓掛温泉満山荘に着いた。着時刻は午後3時15分で、所要時間は5時間半だった。
 沓掛温泉は国道筋にある青木村役場から鹿教湯温泉へ抜ける県道12号線の途中の山間にあり、県道から温泉への標識に従って小高い山腹を上がると着いた。ここには温泉宿が3軒と外湯 (大衆浴場) があり、すべて源泉かけ流しで、泉質はアルカリ性単純温泉とかである。この温泉は夫神岳 (おかみだけ) の西の麓の海抜 670 m に位置していて、反対側の東の麓には別所温泉 (上田市) がある。
 宿に入ってお会いしたこの宿の主人は、正しく奥山田温泉の主人だった。記帳した後に此処の温泉の特徴の説明があった。この温泉には泉源が2本あって、泉質は同じだが泉温が36℃と39℃で、ここでの内湯には前者を41℃に加温して用い、後者はそのまま露天風呂に用いていると説明があった。部屋は1階に7室、2階に4室、3階に3室あり、私たちは2階の201号室の「穂高」、2階では最も大きい部屋で、洋間風の寝室と居室、それに広縁の付いた青畳の和室までも付いていた。洋間はどちらもゆったりとしていて、窓を開けると、鬱蒼と繁った樹々の間からは青木村の田園風景が広がっているのが見えた。和室の窓を開けると、下に駐車場が見え、ここが玄関の上だということが知れた。居室には大きなソファと大型テレビとハンモック、部屋のスタイルは前の満山荘を彷彿とさせる雰囲気だ。
 風呂から上がって、高速道の SA で買ったつまみで焼酎「神の河」を飲む。今の時間帯は男性は内湯のみ、女性は内湯と露天風呂、家内はまったりのお湯三昧だった。ややあって2階にあるラウンジへ行く。前の宿でもこんなスペースがあったが、この新しい宿では2間も開放されていて、ここではコーヒー、紅茶、お茶、冷水などを自由に飲めるようになっている。また客室では禁煙だが、ラウンジの1室は喫煙可能とかだった。そして前の当主の堀江文四郎さんが、奥山田温泉の山田牧場から撮影された北アルプスの山並みの横幅4mもの写真も置かれていた。残雪期の写真で、山名はもちろん雪形なども記してあった。あの爺様は今はどうされているのだろうか、今の当主には何となく言い出すのが憚られ、聞きそびれてしまった。今夕の食事は午後6時半とか、それまでゆっくりと部屋で寛いだ。

2016年6月8日水曜日

平成28年5月のあれこれ(その5)

16.魯山人寓居跡「いろは草庵」訪問
 子うし会での傘寿の祝宴を山代温泉の「ゆのくに天祥」で行なった折に、同じ山代温泉の旧吉野屋別荘の「いろは草庵」で、「燕台ー魯山人を支えた文人」という企画展が開かれていることを知った。この企画展は「魯山人の美の原点を探る」という一連のシリーズの一つで、3ヵ月毎にテーマを換えて行なっていて、今回は第44回だという。北大路魯山人は今ではつとに有名で、誰一人として知らぬ者はいない程の有名人であるが、しかし彼が本来持っていた書家や篆刻家としての才能の上に、中でも料理人兼美食家/陶芸家として花開いたのは、細野燕台との邂逅があったからこそで、でなければ彼の才能がこれほどまでに発揮できたかどうかは疑問である。
 私がこの企画展に興味を持ったのは魯山人ではなくて、燕台の名が出ていたからで、今まで一度も「いろは草庵」には足を運んだことがなかったこともあって、尚更興味が沸いた。細野燕台については、金沢市下本多町にある金沢ふるさと偉人館にかなりの資料があり、何度か訪れたことがある。また常設展示はしていないが、伊東深水が描いた晩年の細野燕台の全身像が、金沢市出羽町にある石川県立美術館に収蔵されている。
 細野燕台は本名は申三といい、金沢の商家細野家の長男として生まれた。次男は生二といい、私の母の父親 (母方の祖父) である。そして長女は玉といい、私の父の母親、即ち私の祖母である。であるからして、私の父と母はいとこ添いということになる。こういう近い縁であるからして、燕台は野々市の家にもよく来てお出でで、私も会った記憶がある。そんなこともあって、私の家には燕台が書いた筆跡や上絵付けした器などが残っている。
 5月31日の火曜日に車で山代温泉の「いろは草庵」へ出かけた。場所は山代温泉総湯の近くにある。燕台に伴われて山代温泉に来た魯山人 (当時は福田大観といった) は、吉野屋旅館の食客になり、篆刻家としてこの吉野屋別荘で刻字看板の制作を始め、当時の山代の温泉旅館のほとんどの看板を彫ったとされる。いろは草庵の中には、当時の篆刻をしていた作業場が再現されていて、彫りかけの作品も置かれていた。その後燕台や吉野屋の紹介で初代の須田菁華の窯に入ることが叶い、上絵付けを体験することになる。
 展示室には、燕台が彫った「吉野屋」という刻字看板と、福田大観 (魯山人) が彫った「吉野屋」という刻字看板が並べて置いてあった。また二人が書いた書や扁額、それに鉢や花入れ、皿や向付け等が置かれていた。また燕台が魯山人に宛てた書簡も展示されていた。中でも一際目をひいたのは、燕台の長男の結婚式に当たって魯山人が作陶したという「乾山風梅椿手付鉢」で、魯山人の大胆な形状の器と構図には目を見張った。これは初めて目にした作品だった。この庵の展示スペースは広くはなく、それで何回にも分けて展示するのだろう。私は小一時間ばかりいて辞した。

付.庭に出た孟宗竹の筍を食す
 私の家がある地所は、旧北國街道沿いで、南北に長い矩形状をしている。そして地所のやや東寄りに、用水が南から北へ流れていて、後半は曲水になっている。用水の西側の通りに面した方は約390坪、用水の東側は約110坪ある。後者の南端は竹薮で、以前は孟宗竹と真竹の薮だったが、真竹は花が咲いて枯れて無くなった。もう50年前のことである。今は此処には孟宗竹と矢竹が繁っている。ところで真竹が無くなって以降は、孟宗竹が勢いを増して、至る所に根を張り巡らすようになり、とんでもない所に筍が出るようになった。特に築山に置かれている台石や飛び石を持ち上げたり、植木の間に出たり、もう3日も回らないとアッという間に大きく成長する。
 以前母が元気だった頃は、まだ竹薮の範囲が今ほど広がっておらず、薮以外に出た筍は丹念に掘って捨てていた。というのは、こんな庭に出てくる筍など、多分えぐみがあって食べられないと思っていたからである。母が亡くなって、筍退治の役目は私に回ってきた。今竹が生えて薮になっている面積は、往時の2倍にもなっていよう。それで薮以外に生えてきた筍は総て取って捨てていた。ところで3年前、私の妹が一度食べてみたいと言うので渡したところ、食べられるとのこと、それではと持ち帰ってもらうことにした。でも量が多い時は家でも食してみた。ところが思っていたえぐみは全くなく食べられた。ところで昨年は裏年で数はそれ程多くはなかったが、今年は表年、丹念に取った。その数50本以上、大きなものは径が15㎝ もあり、私と妹とでは処分しきれず、知人にも引き取ってもらった。それでも取り残しが大きくなり、伐って捨てたものも20本はあった。ところで食した方からは、市販の筍よりも美味しかったというお世辞もあり、これには目尻が下がった。薮の50本ばかりは今は大きく成長している。

2016年6月1日水曜日

平成28年5月のあれこれ(その4)

13.子うし会物故者法要
 物故者法要は5月24日午後1時、場所は野々市市本町三丁目にある真宗大谷派の照臺寺で行なった。このお寺は大変古く、創建は康平4年 (1061) とか、開基は道圓、当時は近くに加賀の国司だった富樫氏の館があった。しかし一向一揆が起きて富樫氏が滅亡し、その後嘉禄元年 (1225) には天台宗から一向宗 (浄土真宗) に転宗したという経緯がある。
 法要が始まる 30 分前には、男9人と女9人、それに 21 日に亡くなった U 君の妹さんもお参りに来られた。皆さん大概は昔の面影があり、昔話をして旧交を温めたが、1人名を思い出せない方がいて、失礼ですが何方ですかとお聞きしたところ、K 君と分かった。数え四十歳の厄除け以来で、40 年ぶりの再会だった。また 90 歳になられた前住職の方もお見えになり、以前毎年法要をしていた頃は、この方に導師をして頂き、またお説教もして頂いたものだ。今は娘婿の方が住職をなされておられ、今日の導師はこの方がなされた。
 物故者は男 12 人女4人の計 16 人、本堂の本尊阿弥陀如来立像の前の仏壇に、16 人の名前と亡くなった年月日と享年を墨書した名簿が掲げられてあった。一番初めに亡くなった方の年齢が当時で 40 歳、今年亡くなった U 君の享年が 80 歳、40 年経過したことになる。もう子うし会で行う物故者法要は、これを区切りにしようということに申し合わせたこともあって、意義ある会になったのではと思う。法要は1時間ばかり、唱えられたお経は観無量寿経のようだった。順に焼香して、故人の冥福を祈った。
(閑話休題)法要を行った照臺寺の前住職の照岡淳さんは、北國新聞社刊行の「日本の名僧 100 人 この一字」に名を連ねておいでで、真宗大谷派全国正副議長会の会長を歴任されたことがあるとか。そして書かれた一字は「臺 (だい, うてな)」で、これは「物事の土台となる基盤」「尊い場所」を示し、万物の生を支えてくれる大地を表するという。
14.山代温泉「ゆのくに天祥」で傘寿の祝宴
 1泊2日の傘寿の祝宴に参加するのは男性5名女性6名の 11 人、当初は宿の車を利用しようと思って交渉していたが、15 名に満たないと宿のマイクロバスは出せないとのことで、急遽自家用車3台に分乗して出かけることにした。野々市から山代温泉までは 50 km 弱、午後2時過ぎに寺を出て、3時には宿に着いた。白雲本館の 20 畳はあろうかという標準和室、隣り合わせの部屋に女性6人と男性5人が入った。
 小憩の後、浴場へ行く。この宿では4年前に自家源泉を掘削し、これまでの共同源泉からの引湯とで、加水なしで3つの大きな浴場を掛け流しにしている。この時間帯は、男性が1階の「九谷の湯処」の6湯、女性が3階の「悠幻の湯殿」の7湯と1階の「滝見の湯屋」の5湯、翌日の午前にはこれが男女入れ替えになり、すべてで 18 の湯を巡ることもできる。新しく造られた天祥の館には、温泉露天風呂付きの客室もあるとかである。ただ標準仕様の部屋の浴室の湯は温泉水ではないと断り書きがしてあった。
 食事は午後6時に食事処・四季でテーブル形式、この会ではもう十年位前から、足腰不自由な人が居るので、食事はもっぱらこのスタイルにしてもらっている。傘寿の祝いの宴と銘打ってあり、献立の品数も 15 品ばかりと多く、十分満足できるものだった。そして部屋には紫色のちゃんちゃんこと冠りものが用意されていて、これらを身につけて記念写真を撮った。そして十分に食べて飲んで駄弁った後、部屋に戻り、その後男性部屋で再び二次会、地元での会は久しぶりで、遠くだと参加できないという方々の参加もあって、随分と話が弾んだ。それで来年以降は、この「子うし会」も有志で行なうことにし、石川の私を入れた地元3人は世話人を下りることにし、以降の世話は何故か皆元気がいい関西在住の方々にお願いすることにした。
15.叔父と同道して旧薬学部薬草園へ
 5月 29 日の日曜日に、かねて叔父が世話をしていた小立野にある旧薬草園を一度見に行きたいと話されていたので、午後1時に叔父宅へ出向いた。この日は天気が良く、汗ばむ程だった。医学部構内の旧薬学部前に車を停め、旧薬草園へ行った。元は薬草園の入り口に植えられていたメタセコイアは、伐られずに高く成長していた。叔父の話では石川県に植えられた第1号だとか。私の家の庭にも叔父が植えたのがあるが、欅と孟宗竹に囲まれて樹勢は今一である。ところで旧薬草園は、小立野トンネル貫通の際と、医学部の付属施設が造られて、旧の面積の4分の1位になり、しかも残りは高いフェンスに囲まれていて、中へは全く入られず、しかも全く手入れされずで、密林状態になっていた。以前は4百種ばかりの薬用植物が植えられていたというが、今は草本は多分なく、木本が繁っている状態である。外からウツギの白い花が咲いているのが見えた。訪れた記念に大きなハクウンボクの葉を持ち帰った。

2016年5月28日土曜日

平成28年5月のあれこれ(その3)

10.子うし会同窓の U 君の他界
 5月24日に小学・中学の同窓生の会の「子うし会」で、会員全員が数え80歳になった今年、会を一旦解散するに当たって、これまでに亡くなった15名の物故者法要をすることにして、参加者を募った。現在連絡が可能な人は男14人と女21人、ただ連絡不能な人が男に3人いる。それで法要に参加すると連絡があったのは、男8人と女9人だった。参加できないという方の表向きの理由は、真偽はともかく、身体が不自由でというのが理由だった。でも意外だったのは、トラックでの事故で下半身不随になった U 君が、家でも車椅子を使って生活しているのに、ぜひ出たいという申し出があったことだ。ところが5月20日になって、奥さんから急に体調を悪くして法要に出られなくなりましたと電話で連絡が入った。私からは、永い間会っていないので会うのを楽しみにしていましたが、でも養生第一、どうぞお大事になさって下さいと話して電話を切った。
 ところが翌21日の昼下がり、U 君の妹で、平成6年に他界した N 君の奥さんが拙宅に訪ねて来られて、兄は急に心不全で亡くなりましたとのこと、驚いて声も出なかった。U 君も N 君も私と同じく泉丘7期、奥さんでは今年は主人の二十三回忌ですとのこと、随分と月日の経つのは早いものだ。それで U 君のお通夜は22日、葬儀は23日と告げられた。明朝の新聞には死亡案内が出ると思いますとのこと、それで特に私からは皆さんに案内はしないことにしたが、法要を行う野々市の昭臺寺には物故者が1人追加になりましたとお知らせした。因みに亡くなった U 君の奥さんは、先に亡くなった N 君の妹である。
11.探蕎会の会員そば打ち
 恒例の会員そば打ちには、事務局の前田さんからのメールでは、今年は24名の参加とか。連絡では私は和泉さんの車に便乗しての湯涌入り、でもそば打ちをする和泉さんは午前10時までに会場へ到着とのこと、私は朝9時の出立は困難だったので、往きは家内に送ってもらい、帰りは和泉車に便乗させてもらうことにした。朝用事を済ませて、私がみどりの里の会場に着いたのは10時半過ぎだった。  建家に入って驚いたのは、和泉さんが夫婦共々そば打ちに挑戦されていたこと、昨年は奥さんが挑戦されていたが、今年は夫婦での挑戦、聞けば和泉さん宅ではそば打ちに小屋まで建てられ、そば打ちはプロ級という道下さん夫妻の直々の指南を受けておいでとか、恐れ入った。好きこそものの上手なれというから、先ずは好きになることが先決なのであろう。
 時間になり寺田会長からの挨拶の後、塚野さんから、蕎麦は長野県産で、そばは塚野さんと道下さん夫妻の手打ちによる、十割・外一・二八の三種、付き出しは、今日は欠席の新田さん手製の「きゃらぶき」「こんにゃくのきんぴら」「蕨の煮浸し」と漬物(胡瓜の山葵醤油漬けと辛子醤油漬け)、お土産のデザートにはやはり欠席の石野さん手製の福井県産蕎麦粉入りの「シフォンケーキ」と「蕎麦羊羹」がありますと紹介があった。また早川さんからは恒例となっている先生手製の「縮緬山椒」の紹介、今年は例年より1ヵ月早かったので新しい山椒の実がまだ実ってなくて、実は去年のものを使用しましたと説明があった。この品は毎年楽しみにしている一品である。更に道下さんからはダッタン蕎麦茶を使用した蕎麦ご飯の話もあった。今年は久保さんが逝かれて、定番だった「ぜんざい」はない。
 説明が終わって「鄙願」2本の登場、私にとっては1年ぶりである。これほどクセのない酒も珍しい。正に「美味しい水」である。でも今晩は急逝した U 君のお通夜があるので酔っぱらうわけにはゆかない。お酒が出た後、待望の「そば」が届いた。一番初めに頂いた細打ちのそばは実に美味しかった。その後もう2回そばが配られたが、どれがどれと限定はできないものの、何となく感じた思いでは、最後に出たそばが一番あっさりしていたように感じた。こうして今年も楽しい一時を過ごすことができた。帰りには蕎麦羊羹とシフォンケーキ、それに縮緬山椒をお土産に頂いた。お世話された方々に心から感謝します。
12.U 君のお通夜
 お通夜の式場は金沢市泉丘にあるセレモニーホール、U 君と義兄弟の N 君の22年前の式場もこのホールだった。私位の歳になると、皆さん新聞の死亡案内には必ず目を通していると仰るが、出る出ないはその方の自由である。子うし会同窓生の住所を見ると、現在金沢市に住んでいるのが男1人女7人、野々市市在住が男5人女9人いるが、これまで通夜や葬儀に出席した人は多くて7人、しかも顔ぶれはほぼ同じ、今回は私のほか女性3人が出席した。また私は過去同窓生の葬儀で3回弔辞を述べたが、今回は過去20年以上も顔を合わせていないこともあって、申し出しなかった。U 君の細君で故 N 君の妹や、姉で石川巨樹の会の役員をされている T さんとも久しぶりにお会いできた。これもご縁であろう。合掌。

2016年5月27日金曜日

平成28年5月のあれこれ(その2)

4.5月6日に田植え
 今私の家では250歩田1枚のみ稲の作付けをしている。とはいっても全面委託、私がするのは水回りのみである。以前友人に委託していた時は、田植えの時には動員させられたものだが、今は全くのお任せである。ただ稲刈りまでの水管理は任される。大概朝と夕の2回見回る。少なくとも苗が活着するまでの1週間は特に気を遣う。程々の水深を保つのが肝要だからである。
5.故三男(西往院)の七回忌法要
 祥月命日は5月9日だが、法要は8日の日曜日の午前11時に三男の家で行なうことにした。長男家族も細君と次女が出席、それに次男家族と私たち夫婦が出席した。長男家族は8日の午後一番で帰浜するというので、前日の7日の夕方に、次男の世話で、駅西の中華料理屋で4家族が一同に会して宴を張った。そして長男の次女の大学入学と次男の長女の中学入学の祝いも兼ねて行なった。祝い宴とあって私は少々飲み過ぎて、家内から目玉をくった。
 8日の法要は午前11時から、長男家族は法要の後、新幹線で帰るので、朝に三男の墓参りを済ませた。墓前では私が読経した。七回忌法要の導師は、私の家の檀那寺の浄土宗佛海山法舩寺のお住職、法要は1時間ばかり、終えて次男と三男の家族と再び墓参りした。次の回向は十三回忌、私はそれまで元気で居られるかどうかの自信はなく、それで今回の供養などに要した諸費用は私たちが負担することにした。
6.右目が後発性白内障になり眼科受診
 1ヵ月位前から右目にうっすらと霞がかかったような具合になり、5月12日に1年半ぶりに野々市にある若林眼科へ出かけた。1年半前には左目の白内障を手術で治療して明るくなったが、10年前に黄斑変性の手術の折に同時に行なった白内障の手術をした右目が、明るさは良好だが、少し霞んだような状況になったからである。診察の結果、レーザーでのパルス照射をしましょうとのこと、半信半疑だ
ったが、アトロピンによる瞳孔散大が完全に終息した夕方には、嘘のように視界が明るくキラキラとなったのには感激した。
7.次男が新宅へ引越し
 次男がこれまで住んでいたのは借家で、私の希望では、野々市に土地があるので、新宅を建てるのであれば野々市にと思っていたが、金沢へ移ってからの近所との付き合い、スポーツ仲間との交流、子供の通学等々で、今住んでいる近くで新宅を建築することになった。建ち前をしてから3ヵ月後、50坪ばかりの土地にモダンな家が出来上がった。現在住んでいる家は5月15日が期限なので、14日と翌15日の2日間での引っ越し、今の家と新宅とは近くだが、それでも引っ越しは大仕事だ。家内は2日とも手伝いに出かけたが、かなりダンシャリが必要だったようだ。家内も捨てるのは勿体ないと、家に持ち込んだ物もある。私の家にもまだ次男の所有物がかなりの量置かれたままになっている。
8.OEK 北陸新人登竜門コンサート
 古くは石川県人もしくは石川県に在住している人を対象にしていたが、7年目からは対象が北陸3県となり、今年は20年目になる。部門は、ピアノ、弦楽器、管・打楽器と声楽の3部門が毎年順に開催され、今年は管・打楽器と声楽部門だった。今年選ばれたのは、ソプラノの中宮さん、サクソフォンの小川さん、ティンパニの伊藤さんで、5月15日の日曜日に、0EK 音楽監督の井上さんの指揮で披露があった。私が特に興味を持ったのは伊藤さんの演奏によるラバンサーのティンパニ協奏曲「OBI」で、ティンパニ奏者をソリストとする曲などこれまで聴いたことがなかったので、特別な興味を抱いたわけだ。5台のティンパニを縦横に操りながらの曲芸的ともいえる妙技、初めての経験だった。
9.第376回 OEK 定期公演 マイスターシリーズ
 5月21日午後2時に、このシリーズのテーマ「ショパンと友人たち」の4回目の公演があった。今回の友人はシューマンとメンデルスゾーン、曲は前者のピアノ協奏曲と後者は劇付随音楽「夏の夜の夢」から4曲、ほかにはサティの「3つのジムノペティ」からドビュッシーが管弦楽用に編曲した1番と3番、そしてショパンは「ポーランドの歌による幻想曲」という予定だった。ところがピアノ奏者の菊池裕介氏が公演前日に体調を崩され、急遽彼の先輩である若林顕氏が代理で演奏することになった。ところが演奏予定のショパンのピアノ曲は過去に弾いた経験がないと弾きこなせない代物、それでこの曲は割愛になってしまった。何とも残念だったが、こればかりはどうしようもない。でもシューマンのピアノ協奏曲は素晴らしかった。指揮はベルギーのフランダース交響楽団の首席指揮者を務めるジャン・レイサム=ケーニック氏、OEK の指揮は2度目、巧みな指揮ぶりとメリハリのある演奏は聴衆を魅了した。度々来日して客演指揮しているという。

2016年5月23日月曜日

平成28年5月のあれこれ(その1)

 私のブログの「晋亮の呟き」に5月は一度の書き込みもなく、それで何か書かねばという思いに急かされ、思いつくまま日記風に記すことにした。

1.長男の帰郷と周遊と帰浜
 長男は仕事の関係で横浜に住んでいるが、旧盆と正月、それに5月の連休には野々市の実家に帰ってくる。今年は自分で車を運転し、4月29日の昭和の日に長男のみが帰郷した。昼は旧友とのゴルフ、夜は友人との飲みで日程は詰まっているが、でも希望で次男や三男一家を呼んでの会を帰郷した翌日の4月30日に、また帰浜する前日の5月3日にもお別れ会を家で催した。また長男は帰郷した折には、決まって私たちと何処かへ出かけることにしていて、今年は5月1日にどこか富山方面へ行きたいと希望していた。でも特に行きたい場所の指定はないとのことで、昨年は氷見へ出かけたことでもあり、今回は能登島の水族館へ出向くことにした。
 のと里山海道を徳田大津 JCT まで行き、能越自動車道の和倉 IC から能登島大橋を渡り、のとじま水族館へ行った。天気は良く、日曜でもあり、かなりの人出だった。この水族館の目玉は近海で捕獲された2頭のジンベエザメ、前に居たのは余りにも大きくなり過ぎ、海へ放したとのことだったが、それでも今いる大きい方は体長4mもあり圧巻である。この鮫はおとなしくて、餌は訓練で呼び寄せて口の中に入れてやるそうで、そうしないと他の魚に餌を取られてしまうとか、鮫にも人にも並々ならぬ苦労があるというものだ。それにしても大水槽での悠揚とした泳ぎはやはり圧巻で目玉だ。またこの日は丁度フンボルトペンギンの行進も間近で見られ楽しかった。そして人気のイルカショウ、久しぶりに長男も童心にかえって満足そうだった。ここの水族館はクラゲの蒐集でも知られている。
 帰りには一旦七尾の能登食祭市場に立ち寄り、生で岩牡蠣と牡丹海老を食し、名物の海産物を買って宅配便で送り、その後能越自動車道と北陸自動車道を経由して野々市へ帰った。それにしても長男の車運転は上手だがかなりスピードを出すので、家族が乗車を敬遠するのも何となく分かるような気がした。長男は5月4日の午前9時過ぎに家を出て、余り渋滞にも遭遇しなかったのか、午後4時半には横浜の自宅に着いたと連絡があった。

2.ラ・フォル・ジュルネ金沢には欠席
 今年のテーマは「ナチュール 自然と音楽」で4月29日にオープン、5月3〜5日には3会場でメインの公演、例年ならば6公演前後予約をするのに、今年は気乗りせず予約しなかった。何故か。少しマンネリ化してしまって、何となく魅力が薄れてしまったと感じたことと、それでも OEK のミュージック・パートナーになっているヤマカズこと山田和樹が来て振ってくれれば別だったが、彼は本業が忙しかったのか来日はなく、なおさら足が遠のいてしまった。来年以降はどうなるのだろうか。

3.久吉叔父訪問
 叔父は今は連れ添いを亡くしてからは、一人暮らしである。実子は東フィルのホルン奏者で、年に一度戻れれば良い方だし、亡妻の子も貿易関係で海外に出ることも多くて、やはり年に一度帰沢できれば上出来らしい。それで私たちは月に二度ばかり叔父のところに顔を出すことにしている。5月5日には午後2時頃にお邪魔し、5時くらいまでいろんな話題で話をした。叔父は大正12年生まれ、金沢一中47期、四高、東大出で、専門は生薬学・薬用植物学である。
 それでいつも必ず話題になるのが、北は礼文・利尻から、南は八重山諸島の石垣や西表で採集されたさく葉(押し葉)標本十万点を、薬学部が小立野から角間へ移転した際に、白山で採集された標本以外は全て破棄されたことで、1ヵ月ばかり悔しくて寝られなかったという。門外漢にとっては全く不要の
ゴミ、どこかへ移管されれば良かったのにとも思うが、事件は叔父が辞めた後の出来事、ライフワークだっただけに無念だったろうと思う。台紙に貼ったものは備品となるので破棄は免れたようだが、でも完成品はごく一部でしかなかった。一方白山で採集されたさく葉は、現在石川県立自然史資料館で少しずつ標品化されているとか。でも作業は遅々としていて、膨大な資料が整理される目処は立っていないと聞いている。
 叔父の日常は、週2回デイケアセンターでの入浴があり、これはすごく有難いと言っている。食事は自前が多いようで、冷蔵庫には溢れる程食料が入っている。車での行き来に買い物をしたり、時には歩いて買い物に出かけたりしているようだ。賞味期限のチェックをセンターの担当職員にもお願いしている。食事以外の大部分の時間は、朝日と北陸中日新聞の切り抜きと整理、それに薬学、動植物学等の夥しい数の書籍に囲まれての生活、退屈はしないという。いつまでも元気でいてほしいものだ。

2016年4月30日土曜日

再度と再々度の「蕎麦やまぎし」訪問

1.4月17日 (日) 再度「やまぎし」へ
 風が吹いているものの天気は良く、なんとなく3週間前に開店した「やまぎし」へ行こうかと家内と話し合ったものの、「やまぎし」の開店案内には、原則前日までの予約制とあったのに気付き、それでほぼ同じ位の距離にある瀬戸の「山猫」へ出かけることにした。ほぼ同じ位の距離と思ったのは、旧鳥越村左礫と旧尾口村瀬戸は、南北に連なる鷲走ヶ岳 (1096m) の主稜線の西と東に対峙しているからである。10時少し前に家を出た。途中風が大変強くて、時々車が風に煽られることもあったが、国道 157 号線を南下し、40分ばかりで「山猫」に着いた。この店は休日にはかなりの人が押し寄せ、昼は時間待ちにさせられることが往々にあったことから、とにかく11時前に着こうと思っていた。とにかく昼時には順番待ちになるのだが、この日はまだそんな気配はないようだった。時間前だったが中へ入ると、奥さんが居られ、11時からですが予約を取っておきますと言われ、窓側の座机をお願いし、隣にある道の駅・瀬女で買い物をして時間を過ごした。
 店に戻るともう既に3組が来ていた。取りあえずお酒、萬歳楽の冷酒を頂く。久しぶりに来たのに覚えて頂いてて、お酒は片口から溢れる位に、恐縮した。山猫の主人の田口さんと敬蔵の志鷹さんとは宮川で修業した兄弟分で、田口さんとは敬蔵でも会ったことがあるし、以前は行き来があって、互いの名刺が置いてあったりしたが、今は置いてない。また以前は山やスキーの帰り、でなくてもよく寄ったものだ。開店当初、箸を京都で竹で作らせたのだが、当初は持ち帰られて苦労し、持ち帰らないようにお願いしてからは、洗った後に組み合わせるのが大変で相談を受けたことがあるが、持ち手側に番号を付けたらと話し、この日の私の箸は十九と記されていた。家内は天ぷらそばを、私は鴨せいろを頂いた。そばは丁寧な二八そば、おいしく頂いた。昼時とて客が次から次へと訪れる。
 時は丁度正午、時間も早いので何となく「やまぎし」へ寄ろうということになった。国道を北上し、下吉野から釜清水、別宮を経て大日川沿いに県道を南下し左礫に至る。瀬戸からここまで20分ばかり、でも家内は満腹なので入らず車で待つという。仕方なくこの前に見ておいた少し上流の道路が広くなっている場所に車を停める。辺りにはキケマンやジロボウエンゴサク、タチツボスミレが咲き乱れている。私は一人で「やまぎし」へ向かう。入ると2組いた。今食べてきたのでと言うと、とにかく奥さん共々上がってほしいと、この前の開店の祝儀のお礼の品も上げたいのでとのこと、車へ戻り家内とお邪魔する。家内は今日はそばは食べられないとかでお茶を、私は天ぷらと財宝 (芋焼酎) を2杯頂戴した。私が山岸さんに、水曜と木曜の連休は大額の方に戻られるのですかと訊くと、私は此処の地で当面は十年を目標に村おこしに尽力したいので、通いはありませんと仰った。素晴らしい覚悟なのに感服してしまった。
〔閑話休題〕
 翌日の新聞を見ると、この日は暴風警報が出ていたという。風は強かったが、まさか最大瞬間風速が 37.5m もあったとは、本当に驚いた。そして翌日庭を見回ると、10cm 以上はあろうかという欅や楢柏の枯れ枝が落ちていたし、北側に植わっている6本の杉のうちの1本が、幹の中途から折れて隣の空き地に倒れ込んでいた。その処理に半日を要してしまった。

2.4月26日 (火) 再々度「やまぎし」へ
 探蕎会の前田さんから連絡があり、火曜日に「やまぎし」へ出かけませんかという。ほかには寺田会長と松井さん、前田さんの車で10時に迎えに来て頂く。車はホンダのハイブリッド車、すごく燃費が良いという。ナビに従って順調に左礫に達する。時間は40分、駐車場に車を停め、開店時間前だったが中へ入る。今日は奥さんがお出でていた。奥さんにどうしてここまでと訊いたら、車でと仰る。車を運転されないと勝手に思い込んでいたものだから、これには以外だった。まだ他に客はなく、7人掛けのテーブルに4人が座る。それぞれに欲しい品を券売機で求める。私は天ぷら、田舎粗挽きと焼酎2杯、他のお三方は天ぷらと白 (殻抜き) 、加えて松井さんは焼酎1杯、前田さんは田舎 (殻付き) をもう1枚。蕎麦は幌加内産玄蕎麦の石臼挽きの十割、特に田舎粗挽きは蕎麦殻も入った太い蕎麦、粗塩を付け、それを肴に焼酎を飲むのが私の定番。天ぷらには畑の野菜 (茄子、南瓜) に加えて、山の幸 (コシアブラ、タラの芽、こごみ) が出た。この日は山岸さんの奥さんと妹さんが出番、妹さんは腰が少々曲がっておいでるが、金沢の田上から車での出勤とか、本当に恐れ入った。
 天気は上々、そこで「やまぎし」を出た後、一旦下流にある相滝まで下がり、右の谷の堂川沿いの県道を、古くは大字だったという五十谷へ向かう。以前ここには「才次郎」という一風変わった蕎麦屋があったが、今はやっていないようだ。それで隣にある八幡神社の境内にある、石川県天然記念物の五十谷の大杉を訪ねる。樹齢千二百年、枝が四方に延びて異様な樹相を呈している。由緒書きには、弘法大師がこの地に杉の枝を刺したのが起源とあった。その後谷を下り、相滝で以前寄った蕎麦屋に寄ってみたが、この日は生憎の定休日、でも当初の探蕎の目的は達成できたというものだ。

2016年4月22日金曜日

久々に興奮した OEK 定期公演

 オーケストラ・アンサンブル金沢 (OEK) は金沢駅前にある石川県立音楽堂で年に14回の定期公演を行なっている。内訳はフィルハーモニー・シリーズが全8回、マイスター・シリーズが全5回、その外にファンタスティック・オーケストラコンサートというジャンルを超えた音楽を楽しむ企画が全4回ある。私がここで紹介するのは4月16日にあった第375回定期公演のマイスター・シリーズである。このシリーズは年毎にテーマを掲げていて、このシーズンのテーマは「ショパンと友人たち」で、5回ともショパンのオーケストラ作品が入っている。今回はその第3弾で、指揮者は現在 NHK 交響楽団正指揮者の尾高忠明さん、ピアノ奏者は江口玲(あきら) さんだった。現在 OEK の常任の奏者は35名、でも今回の演奏には指揮者の意向で27名の客演奏者を加え、総勢62名での演奏だった。
 今回のショパンの友人たちは、同じ19世紀生まれで1歳年下のリストと、ショパンと同じポーランド生まれで、百年後の20世紀生まれのパヌフニクとルトスワフスキである。
 冒頭にパヌフニクの「カティンの墓碑銘」とルトスワフスキの「小組曲」が演奏された。初めて聴く前衛的な現代曲、共に独創的で力強い感じで好感が持て、楽しかった。
 次いで今日の目玉、ピアノ奏者の江口玲さんの登場、略歴を見ると、東京芸大、ジュリアード音楽院を卒業し、現在は東京とニューヨークとを行き来し、国際的な活躍を続けているとある。私にとっては初めての方だ。黒のシャツに黒のズボン、ベルトには大きなバックル、一見前衛音楽の奏者のような出で立ちでの登場、演奏する曲はショパンの「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」。そして彼が弾くピアノは、あの巨匠のホロヴィッツが東京公演で専用に使用していたというアメリカ製のスタインウェイ。ところで、この音楽堂にある2台のピアノはいずれもドイツ製のスタインウェイだという。さて演奏が始まって、出だしのフレーズを聴くと、こちらの方がやや音が優美で柔らかい感じを受けた。この曲は15分弱の演奏なのだが、華やかなオーケストラをバックに、実に絢爛たる素晴らしい技巧での演奏、特に独奏パートは華麗で力強く、それでいて優美、久々に凄い指さばきの演奏を垣間見ることができた。(ちなみに私の座席からは、演奏者の指さばきをじっくり見ることができる位置にある。)
 休憩を挟んでの後半はリストの作品、最初は「ファウスト交響曲」から第3楽章の「メフィストフェレス」、これはグロテスクな悪魔メフィストフェレスを描写した音楽、おどろおどろしい表現が出ていた。これはピアノ曲にも編曲されているがs、今日はオーケストラでの演奏だった。次いでピアノとオーケストラによる「死の舞踏:怒りの日によるパラフレーズ」、主題はグレゴリオ聖歌に由来するとされ、この主題が様々に変形されて5つの変奏が続けられ、リストならではの超絶技巧が随所に駆使されており、それを実に息も継がせずに多彩な指さばきで披露してくれたのには感心してしまった。終わっても拍手が鳴り止まなかった。素晴らしい第一級の演奏に久々に感動した。
 そして最後は同じくリストの交響詩「前奏曲」、交響詩と前奏曲、一見違うジャンルの音楽なのにどうしてなのだろうと、いつも疑問に思っていた。リストは10曲以上の交響詩を作曲しているが、オーケストラ作品に交響詩というジャンルを確立したのはリストが最初だとされている。交響曲というのは原則として特定のストーリーを持たないのに対して、交響詩は表題に即した音楽だと言う。ところでこの交響詩の表題は「前奏曲」、でもこの不思議がやっとこの日の解説と文献からその謎が解けた。
 当初この曲はフランスの詩人オートランの詩による大地、北風、海の水、空を主題とした合唱曲「四元素」の前奏曲として作曲されたが、その後の改訂に当たって、ラ=マルティーヌの詩である「瞑想録」に、「人生とは死への前奏曲である」という、つまり「死の前段階としての生」があることに着目して標題とし、その後「前奏曲」という独立した交響詩として発表されたという。
 曲は「緩ー急ー緩ー急」の切れ目のない4つの部分から構成されていて、第1部は死へと向かう人生の始まりと愛、第2部は愛の破綻と嵐、第3部は平和な田園生活への希求、第4部は戦いと勝利、という内容になっている。今回指揮者はこの曲を演奏するに当たって、弦楽器、管楽器、打楽器の数を大幅に増やし、更にハープも動員して、鮮やかで壮大な音のドラマを現出した。これには本当に感動した。今回の演奏会には、通路を挟んだ隣の席に岩先生がいらっしゃっていたが、先生も大変素晴らしかったと述懐されていた。
 今回の演奏会では、久々に素晴らしいピアノとオーケストラのコラボを堪能できた。本当に素晴らしい午後の一時だった。

2016年4月1日金曜日

妙成寺門前のそば処「浄楽」

 探蕎会の3月の行事である蕎麦屋訪問は、24日の木曜日に羽咋市にある「浄楽」へということに。提案されたのは寺田会長で、HAB (北陸テレビ朝日) で紹介されていたのを見られたとのことでの訪問となった。事務局の前田さんからの案内では、参加者は12名で、当日の注文は蕎麦屋ランチ A  1,350 円で予約済みとかだった。
 当日は天候も良く、寺田会長と私は和泉さんの車に便乗し、集合場所の山側環状道路沿いにあるカーマ田上店駐車場に向かう。全員集合し、車3台で出かける。出発は10時、取りあえず能登里山海道の高松 P まで、他の2台は前田さんと奥平さんの車。高松 P で会長から挨拶があり、その後一路妙成寺へと向かう。能登里山海道を柳田 IC で下りて、国道 249 号線を北上する。気多大社前を過ぎ、妙成寺の五重塔が見える頃、柴垣交差点を妙成寺への標識に従って右折し道なりに行くと、右手に目指す「浄楽」があった。集合場所からは10分の休憩を入れて1時間だった。ところで店の前には車は2台しか駐車できないが、少し坂を下ると妙成寺の黒門があり、その前とか中の広い駐車場に車を停められる。
 開店は11時30分なので、暫く寺の周辺をブラつく。黒門をくぐると、正面奥に五重塔が見える。訪れたのは、私の叔父の後妻の父親が妙成寺の貫主をなされていた頃に訪れて以来である。受付で御朱印を頂いた。暫くして店に入ってもよいとの案内があり、「浄楽」に戻る。店に入ると、中に「本日は予約客のみ」との貼り紙、一瞬私たちのみのためにそうされたのだとすると、何か実に申し訳ないと内心思った。入るとすぐに囲炉裏があり、そこには前田さんがいて、ここは酒を飲まない人が座る場所とかで、酒飲みは奥のテーブルへどうぞと言われて奥へ。結局囲炉裏端に4人、奥の部屋に8人が座る。
 初めにお茶と摘みに中細の蕎麦の唐揚げが出る。お酒はコップ酒か4合瓶とかで、私は珠洲の宗玄の中瓶を貰った。暫くして、黒塗りのお盆に「そば飯」「そば豆腐」「野菜のかき揚げ盛り合わせ」「野菜の一夜漬け」が、そしてそば汁と薬味も届く。蕎麦の入った御飯や蕎麦豆腐を食べるのは実に久しぶりだった。かき揚げは地元野菜を5品ばかり、田舎らしい仕上げだ。そして本命の「田舎そば」、孟宗竹を縦割りにした器に石臼手挽きした中細のそばが盛られている。。「そば」はまずまずの出来だった。途中にどやどやと2組ばかりの客が入って来て、これでほぼ満席になった。彼らも予約客だったようだ。入り口の貼り紙は伊達に書かれていた訳ではなかったと知り、内心安堵した。午後1時近く、用事があるという奥平さんと大滝さんは帰沢され、残り10人は妙成寺へ参詣に出かけた。

 妙成寺は北陸における日蓮宗の本山で、山号を金榮山という。開創は永仁2年 (1294) 。開山は日蓮上人の弟子の日像上人。今の建物は加賀前田家の初代から五代にかけて造営されたもので、十棟が国指定重要文化財 (国重文) に、三棟が石川県文化財 (県文) に指定されている。ほかに県文の名勝庭園もある。受付で拝観料を払い、順路に従って境内を巡った。いずれの建物も中へは入られず、外からのみの拝観である。
 (1) 浄行堂。(2) 二王門 (国重文) は寛永2年 (1625) の建立。二王は阿行と吽行。(3) 開山堂 (県文) は延宝5年 (1677) の建立。(4) 経堂 (国重文) は寛文10年 (1670) の建立。(5) 五重塔 (国重文) は元和4年 (1618) の建立。北陸唯一の木造五重塔で、高さは 34.18 m 。国宝指定への動きがある。(6) 丈六堂/釈迦堂 (県文) は貞享3年 (1686) の建立。傍らに閻魔堂がある。(7) 三十番神堂 (国重文) は慶長19年 (1614) の建立。内陣に日本の国神三十体を祭祀する。(8) 三十番神堂拝殿 (県文) 。(9) 三光堂 (国重文) は元和9年 (1623) の建立。堂内に三光天 (日天、月天、明星天) を安置。(10) 本堂 (国重文) は慶長19年 (1614) の建立。屋根は入母屋造り杮葺き。(11) 祖師堂 (国重文) は寛永元年 (1624) の建立。宗祖日蓮上人の尊像を安置。(12) 鐘楼 (国重文) は寛永2年 (1625) の建立。(13) 名勝庭園 (県文) は江戸時代前期の作庭で蓬萊式池泉鑑賞庭園。(14) 書院 (国重文) は万治2年 (1659) の建立。(15) 庫裏 (国重文) は文禄2年 (1593) の建立。妙成寺最古の建築。 以上を順に見て回った。
 久しぶりにゆったりした時を過ごした。受付に近い境内で、大きな石を配置していたので訊くと、新しく池を造成して周りに石を配するのだとか。当然境内なので建物等ともマッチしバランスも考えてのことなのだろうが、本当に必要な配置なのか疑問に思った。

〔メ モ〕
1.そば処「浄楽」 〒925−0002 羽咋市滝谷町 ロ 51  ☎0767−27−1433
          営 業:11時半 〜 15時  定休日:水曜日  席 数:20
   〔お品書き〕 田舎そば、まかない蕎麦 (釜あげ) 900円
          昼ランチ(田舎そば、そば飯、そば豆腐、かき揚げ ほか) 1350円
          そばコース「心づくし」(要予約) 2000円、3000円
2.金榮山「妙成寺」 日蓮宗北陸本山
          〒925−0002 羽咋市滝谷町 ヨ 1  ☎0767−27−1433
          拝観時間:午前8時 〜 午後5時   拝観料:500円 

2016年3月29日火曜日

「蕎麦やまぎし」白山市左礫町で再開

1.はじめに
 山岸さんは県を退職された後、独学で蕎麦打ちを会得され、8年前に金沢市此花町のビルの一角に、十割蕎麦を提供する11席の小さな店を持たれた。ところでこの店、金沢駅に近いこと、個性が光る名物蕎麦とあって、地元の客よりも、むしろ金沢に観光に来られた一見の客の方が多いようだった。しかも近頃は初めての方でも、スマホ片手に簡単に店の場所を当ててお出でになる。私は開店された時には所在が分からなくて往生したというのにである。そんな状況であったからして、随分と繁盛していた。営業は午前11時半から午後2時半まで、それも売り切れ次第終了であった。こんな状況だったにもかかわらず、山岸さんは期することがあって、昨年の12月31日午後8時30分をもって閉店してしまった。その後に頂いた案内では、実家のある旧鳥越村の白山市左礫 (ひだりつぶて) 町で、限界集落の創生に一役買いたくて、3月下旬を目処に「蕎麦やまぎし」を再開する予定なので、また宜しくとのことだった。

2.3月26日に再開した「蕎麦やまぎし」へ
 金沢から左礫までは凡そ34km、とすると野々市からは約30km、朝9時50分に家を出た。旧鶴来街道を南へ、月橋交差点から鶴来山手バイパスを経て国道157号線の白山町南交差点に出る。此処から国道を横切り、手取川に架かる鳥越大橋を渡り、県道44号線 (小松鳥越鶴来線) をひたすら南下する。旧鳥越村役場のあった別宮で国道360号線を横断し、更に南下すると、別宮から約4kmで左礫に到着する。ここは大日川右岸の河岸段丘にある町、見たところ平地はほとんどなくて、まさに山村そのものである。通りの右手にバス停があり、その向かいに、1字ずつ「蕎」「麦」「や」「ま」「ぎ」「し」と書かれた板片が民家の外壁に貼付けられていて、場所はすぐに分かった。ここまで家から40分ばかり、駐車場がないので案内を乞うて訊ねると、道路に寄せて駐車すればとのこと、道路脇に停めた。まだ時間があるので、村の中をブラつく。緩い斜面に民家が20軒ばかり、中には立派な構えの家も見受けられる。道で5人ばかりに出会った。訊くと数日前に山岸さんに呼ばれて蕎麦を振る舞われたとかだった。
山岸さんの家の前には開店祝いの大きな花輪が、玄関に入ると、左手に券売機、品数は金沢の時とほぼ同じだ。私は金沢の時は「田舎粗挽き」と財宝 (芋焼酎) 2杯が定番だったが、この日は車運転なので、挽きぐるみの「白」と殻つきの「田舎」の並盛り (普通) と新しくメニューに加わった「天ぷら」を 貰うことに。仏壇が置かれている部屋には、お祝いの胡蝶蘭の鉢や祝酒が沢山置かれていた。私も御祝儀を包んだ。入り口の板の間には薪ストーブが2基置かれ、4席と7席座れるテーブルが2脚、4畳の間には4人座れる座机、座敷には5人座れる座机が置かれ、既に2組4人が入っていた。
 中には山岸さんのほかに若い女性が1人と、地元の方と見受けられる婆さんが2人、初日とあってか段取りが上手く行かない。特に天ぷらは皆さんが注文するので、小さい鍋では極めて効率が悪く、しかも担当が婆さん一人とあって、5品 ( 茄子、さつま芋、南瓜、蕗の薹、椎茸 ) 付くのだが、一品づつ揚げたのを持って来られるので、誰に何を出したかこんがらかってしまう始末、慣れて軌道に乗るまでには当分時間がかかりそうだ。私は先に「白」を、そして「黒」の時に天ぷらをお願いしたが、これも思うようにはことが運ばなかった。同席の方達との会話では、ここ左礫に常住している人は10人ばかりとか、本当なのだろうか。一見とても限界集落には見えないのだが。
 山岸さんはこの生家で店を開くに当たって、無住だった家の改修はすべて本人が自身でなされたとかだった。おえの間の板張りも実にきれいな仕上がり、営業許可を得るには、最低限必要な環境は整えて置かねばならないはずだが、それにしても本当に器用な人だ。

3.メ モ
・お品書き:
〔そばは十割〕田舎、白、粗挽き、田舎太切り、白太切り。 普通盛り800 円、大盛り1000 円。
〔そばがき〕400 円。〔酒肴〕250 円。
〔飲み物〕日本酒 130ml 上 450 円、並 350 円。 焼酎 100ml 200 円。 ジュース 200 円。
     ビール  中びん 450 円、小びん 350 円。 ノンアルコール 250 円。
・所在地:〒 920ー2353 白山市左礫町 ニ 55番地。
・営業時間:午前11時から午後3時まで。
・定休日:水曜日、木曜日。
・営業形態:原則として前日までの予約制。予約なしの場合は蕎麦打ち時間 30 分待ち。
・電話、ファックス:076−254−2322
・携帯:080−8997−7714
・交通:ずっと以前には金沢から左礫まで路線バスが1日2本あったが、現在はない。
    現在は白山市のコミュニティバスが別宮や釜清水から午前2本 午後2本運行されている。

2016年3月20日日曜日

大白川の秘湯と能登島のそば(その2)

(承前)
3.3月13日 (日)・14日 (月) 平湯温泉・藤助の湯 ふじや
 午後2時過ぎにせせらぎ公園駐車場を後にする。国道 156 号線、通称白川街道をさらに南下し、バイパスを外れて旧道を平瀬に入ると、右手に目指す宿がある。チェックインの2時30分には少々早かったが宿に入る。3月とて、おえの間には赤い毛氈を敷いた雛壇が飾られている。土間にある大きな薪ストーブの辺りで茶菓の接待を受けた。その後、案内されたのは別館の別棟2階の野紺菊の間という和室、この宿は本館4室、別館10室のこじんまりとした宿である。部屋で少々寛いでから風呂へ、ここは源泉かけ流し、露天の湯の風情がよい。
 ここの湯は別名「大白川の湯」といい、源泉は庄川支流の大白川の上流12km にあり、そこから湯を引いている。この川の上流には白水の滝という名瀑があり、その上流に造られているダム湖の白水湖ができる以前には、谷間に大白川温泉という鄙びた宿があった。しかしダムが建設され、温泉は埋没してしまった。でもその後、ダム湖畔に別の泉源が見つかり、現在はこの93.2℃の源泉から平瀬の宿まで引湯している。泉質は含硫黄ーナトリウムー塩化物泉 (弱アルカリ性低張性高温泉) である。ゆっくり露天風呂にも入って後、部屋でワインを飲み、テレビで大相撲を観戦する。今日は春場所初日、この日は横綱二人に土がついた。それにしても幕内に石川出身の地元力士がいないのは寂しい限りだ。
 午後6時になり、指定された母屋にある炉のある食事処へ。お品書きを見ると、地元の材料ばかり、初めに「ふじやの花梨酒」で乾杯する。前菜は竹籠に入った大きな朴の葉の上に。蕗の薹、菜の花、山葵の葉、独活、浅葱、里芋、胡桃などが載っている。そしてその後順に十品が間を置いて出てきた。中でも飛騨牛の陶板焼きはボリューム満点で圧巻だったし、天子の塩焼きや、茶碗蒸しに添えられた桜の花弁も新鮮だった。酒は飛騨の生酒・古川の白真弓、十分堪能した。満腹になり、山菜の天ぷらとミニ釜で炊き上げられた飛騨コシヒカリと粟の御飯は海苔巻きにしてもらい、部屋に届けてもらった。
 翌朝起きて外を見ると、一面真っ白、粉雪が舞っている。朝風呂に行く。露天風呂に置いてあった菅笠を冠って湯に入った。粋な風情だ。泊まり客は3組だけのようだ。昨日は男風呂が混んでいたが、居合わせたのは外来の入浴客だったようだ。外気は冷たいが、湯に入っていると程よい心地である。ここには男女の風呂のほかに、家族用貸切りの半露天の風呂が2つあるとのことだった。
 今朝の食事は8時半にお願いしてあり、朝の NHK の BS での連続テレビ小説を観てから食事に出かけることができた。通常山の宿では BS が映らないことが多いのに、ここでは OK だったのは嬉しかった。朝も品数は 10 品ばかり、中でも朴葉焼きは素朴で飛騨らしかった。私は食事後、今一度小雪の舞う露天風呂で寛いだ。
 さて今日はこれからどうしようか。東へ行こうか、南へ行こうか、それとも北へ。私は思案がつかない時は賽を振るか、二者択一ならば鉛筆を転がすのだが。それでこの日は観光はともかく、昼は「そば」を食べようということになった。とすると、東なら高山か飛騨古川、南なら荘川か越前、北なら長駆して能登島の「槐」の提案、そうしたら難なく新しく出来た能越自動車道を通って七尾へ出ようということになった。
 
4.3月14日 (月) 能越自動車道を経由して能登島の「槐」へ
 10時過ぎに宿を出た。周りの山々は真っ白な綿帽子を冠ったような風情、幻想的でさえある。一旦南へ下がってからバイパスに出ることに。というのは以前に何回か利用した立派で大きな共同浴場を見るためで、在れば外来の客がわざわざ「ふじや」の湯に入りに来なくてもと思ったからである。すると今は大改装中、これで合点がいった。平瀬バイパスを北へ、そして白川街道へ、途中に帰雲城跡の標識、寄ろうかと思ったが家内に一蹴され諦める。もうこうなれば七尾へ一直線。白川郷 IC で東海北陸自動車道に入り、小矢部砺波 Jct から能越自動車道へ、途中高岡 IC 付近に料金所があり、200 円を支払う。IC を過ぎると2車線になり、高速道路から自動車専用道路となる。通行車両は多くなく、快適に北上する。富山と石川の県境にさしかかると、県境に真新しい木造の建物、停まって入るとそれは木の香がするトイレだった。ここは高台で海岸も近く富山湾を望め、左手の山並みは石動山に続いているという。現在はこの自動車道は七尾までで、その後は一旦一般道に下りた後、自動車道の和倉 IC を経由して能登島へ向かう。
 能登島向田にある生蕎麦「槐」には12時半に着いた。駐車場に車がないのでひょっとして休みかと心配したが、暖簾が下がっていた。座敷に入り、挽きぐるみと田舎の二色盛りと、更科のしょうが切を注文する。先客が1組いた。その後3組が入来。そばは十割の細打ち、この前に家内と訪れた時は、遅くて更科しか残っていなかったが、私はともかく、家内にとって此処のこのいわゆる「そば」は初めてなのだが、感想は上々とのことだった。また変わりそばも繊細な細打ちで、生姜の仄かな香りがした逸品だった。来た甲斐があったというものだ。
 辞して車で和倉 IC に着くと、金沢も輪島も珠洲も右折とある。標識にしたがって車を進める。すると、とある交差点で金沢は左、輪島・珠洲は右とあり、左へ進むと車は能登里山海道の徳田大津 Jct に出た。金沢から和倉へはこのルートを通るのが賢明だと、初めて気付いた。
 こうして2日間の旅は終わった。走行キロ数は 330 km だった。

2016年3月17日木曜日

大白川の秘湯と能登島のそば(その1)

1.はじめに
 唱和50年 (1965) に、当時の朝日旅行会 (現株式会社 朝日旅行) によって、(社) 日本秘湯を守る会が設立され、平成27年 (2015) 現在、31都道県に178軒の会員宿がある。そして3年間の間にこれらの宿の10軒に宿泊すると、訪れた宿の中から希望で選んだ1軒に、年末年始、ゴールデンウイーク、旧盆以外の日曜〜金曜に、1泊宿泊の招待をされるという仕掛けになっている。ただこれに該当する宿泊は、あくまでも個人で行った時のみであって、団体で行ったような場合には該当しない。探蕎会でも過去に3度ばかりこの会の宿に泊まったことがある。
スタンプ帳を見ると、平成25年 (2013) 4月に2巡目のラリーに入り、この3月で有効期限が切れることが判り、慌てて比較的近くにある岐阜県の平瀬温泉の「ふじや」に出かけた。これまで2巡目で訪れたのは、長野県の奥山田温泉3回、角間温泉、七味温泉、白骨温泉、中の湯温泉、小谷温泉に各1回、岐阜県の福地温泉に1回の計9回である。年別では、初年が5回と最も多く、2年目3回、3年目1回、そして今年1回で、計10回となる。

2.3月13日 (日) 一路白川郷へ
 朝9時半に家を出た。天気は良く、山側環状道路ー北陸自動車道ー東海北陸自動車道と継いで、白川郷 IC で下り、国道 156 号線を南下し、先ずは荻町の白川郷合掌造り集落へ寄る。世界文化遺産に指定され、国指定の重要伝統的建造物保存地区であることからして、平成26年 (2014) 4月以降は集落内に車を入れないとかで、村営せせらぎ公園駐車場へと誘導された。この有料駐車場は集落とは庄川を挟んだ対岸にあり、案内では大型バス38台と普通車188台が駐車可能とある。着いたのは11時過ぎだった。普通車のスペースは若干余裕があるものの、観光バススペースは残りが少ないようだった。そして駐車場に隣接した庄川左岸の堤防には、まだ雪が残っていた。でも対岸に見える集落の家々の屋根には雪は全くない。
 庄川に架かった「であい橋」を渡る。橋の幅が比較的狭いので、左側通行でお願いしますとある。見ると日本語ばかりでなく、英語、中国語、韓国語でも表示してある。確かに中国や台湾の人たちも多く見受けられ、皆さんスマホを持ち歩いている。橋を渡り、神社の脇を通って集落に入る。今日は日曜日のせいか、とにかく人が多い。村の中心を縦貫している旧国道156線の本通りを横切り、先ずは山手にある明善寺へ向かう。ここは岐阜県の重文とある。山手の東通りに沿って歩く。途中に手打ちそば処と書かれた幟が出ている店があり、沢山の人が並んでいた。中を窺うと、止まり木のみの小さな店だった。気が動いたが諦めて、更に進んでやはり岐阜県重文の長瀬家に入る。この家は白川郷最大級の5階建ての合掌造り家屋、五箇山の合掌造りの家には入ったことがあるが、白川郷では初めてだった。入館料は大人300円、1階には祝祭道具と代々漢方医の当主が使用していたという薬棚、中でも大きな仏壇と九段重ねの朱塗りの盃と片口には目を見張った。3階には生活用品等、4階には山仕事に使う道具や農機具などの展示、私たちが小さい頃に周りにあった品々の数々を懐かしく見ることが出来た。また屋根裏に結わえてある縄の色が真新しく、訊くと5年前に80年ぶりに屋根の葺き替えをしたとか。その模様は NHK で放映されたとか、そう言えば私も見た記憶がある。またこの前に此処を訪れた時は、丁度「結い」で茅葺きの屋根の葺き替えをしているのに遭遇したことを思い出した。
 昼も過ぎて、展望台へは上がらずに本通りへ戻り南下する。とにかく外国人観光客が多い。東洋人に混じってフランス人のご一行もいる。通りに面して「五平餅」「みたらしだんご」と書かれた看板が出ている店には人だかりがしていて、外国の方もいる。家内は食べたいと言って列についた。暫くして嬉々として団子を2本ゲットしてきた。私にも1本と差し出してくれたが、ノーサンキュウである。食べながらブラつき、やがて1軒の軽食堂に入った。ここも店内は客で溢れている。店前に置いてある順待ちのノートに記帳し、暫く待って案内され中へ入る。家内は山菜うどん、私は山菜そばを注文する。暫くして、空いた隣りのテーブルに、シンガポールかマレーシアからと思しき6人が掛けた。皆さんスマホを駆使している。見ればお品書きには英語でも名称と内容が記されている。店員は会話は無理だが、片言での品物の説明は OK のようだった。それにしてもこの店、40人は優に入ろうというのに、厨房には3人ばかり、品は何でも有りなこともあって、手がまわらないのか、私たちも注文してから届くまで30分以上も待たされた。隣のテーブルも注文はそれぞれが個々に別々、何でも有りにしては仕事は丁寧なように感じたが、いつ皆が食べ終わるのだろうか、人ごとながら気になった。
 再び本通りに出てブラつく。車が通らないので歩行者天国のような感じ。外国人がやけに多いように感じる。以前にも何回か訪れているが、こんなに多いのは初めてだ。橋を渡ってせせらぎ公園に戻り、堤防を歩き、県重文9棟があるという合掌造り民家園まで歩く。傍らにはそば道場もある。民家園に入ろうと思ったがかなり広大で、料金所の前で引き返した。そろそろ午後2時近く、駐車場への帰り際、「総合案内であいの館」に寄った。そこにはここ白川郷の各国語のパンフレットが置いてあった。日本語のほか、中国語、韓国語、タイ語、英語、ドイツ語、フランス語、スペイン語など、高山市内でも外国語パンフレットを見たことがあるが、こんなに多言語のにお目にかかったのは初めてだった。

2016年3月4日金曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その4)

6.四度目のみちのく蕎麦ツアー 平成19年 (2007) 10月6日〜8日
このツアーに参加したのは、初回から連続参加の久保夫妻、小塩、松田と私と、3回目の石黒、2回目の越浦、和泉、松川に、初回の池端、和泉夫人、小山の総勢12人の諸氏である。
第1日 10月6日 (土)
 過去3回マイクロバスの運転を担当されてきた砂川さんが退会されてしまって、長距離のバス旅行が危ぶまれたが、ここに救世主の泉さんが登場された。感謝感激である。早朝白山市の「和泉」駐車場に集結し出発する。途中バスから立山から昇る朝日に遇う。今日最初に目指すのは上山市金瓶にある「想耕庵」、この地は旧金瓶村と言って、斎藤茂吉の故郷であり、斎藤茂吉記念館もあり、久保夫妻の思い入れも一入だったろう。昼に着いた。古い門構え、入ると庭は一面の野菜畑、母屋は元は豪商の離れだったとか、何とも野趣に富んだ店ではある。野菜天の材料は自家産、所で出された板そばには茹でむらがあり、久保さんの言では、まだ素人さんだねということだった。窓下には須川が流れ、外には粉雪と見紛う小虫の乱舞、実はそれは薄 (すすき) の穂絮だと主に教えてもらった。
 次いで近くにある「斎藤茂吉記念館」へ寄り、1時間ばかり見学した。その後には長駆北上して、今宵の宿がある尾花沢市の銀山温泉にある老舗旅館「古山閣」へ向かう。旅館街は銀山川に沿ってあり、上流には銀山跡、往時には加賀、能登、越中から多くの鉱夫が来て賑わったとか、この旅館の先祖も加賀の出身だという。また「能登屋」という大きな老舗旅館もある。ところで私たちが泊まったのは本館ではなくて、離れの蔵屋敷、それでお湯は歩いて5分の本館まで行かねばならないのが難儀だった。夕食後、銀山川の辺りで開かれていた花笠踊りのイベントを見に出かけた。
第2日 10月7日 (日)
 8時に宿を出て、今日は長駆南下して米沢市へ、そして前回も訪れた「蕎酔庵」へ。タイミングよく開店時間に入れた。蕎麦前の後、十割と二八を頂く。ところで新蕎麦だというのに久保さんは浮かない顔、主人の言では、使ったのは地元の極早生で、香りが今一とか、そのせいだった。この後近くにある「東光の酒蔵」を見学し、小野川温泉の「やな川旅館」へ向かった。若衆はサイクリングを楽しむ。
第3日 10月8日 (月・祝)
 8時過ぎに宿を出て、大峠トンネルを抜けて福島へ、道の駅で「くらはく」(喜多方蔵のまちづくり博覧会)があると知り、喜多方市の「喜多方蔵の里」へ、この日は無料とかで、いろんな蔵を見学できた。また久保夫人の案内で、古い茅葺きの曲がり家にも案内して頂けた。そして今日のお目当ては、会津若松市にある超人気店の「桐屋夢見亭」、地酒と「飯豊権現蕎麦」でこの度の探蕎の旅を締めた。

6.五度目のみちのく蕎麦ツアー 平成21年 (2009) 10月23日〜25日
 ツアー前に発起人でもあった波田野会長と松原顧問を亡くしての旅。参加したのは、初回から連続参加の久保夫妻、小塩、松田と私と、寺田新会長と和泉夫妻の8名である。これまでの最少行となった。
第1日 10月23日 (金)
 参加者8人とて、久保さんと和泉さん運転の車2台で出かける。早朝に金沢を発ち、「しらかた隠れそば屋の里」の「酒・そば工房 さんご」へ着いたのはお昼過ぎ、関所のような大きな門を車で潜る。蕎麦前は「笑酒招福」なるオリジナル酒、そばは生粉打ちの「もりそば」、久保さんの評は良かった。それで何故「さんご」なのかを訊ねると、珊瑚ではなく、先祖の三五郎さん由来だった。辞して米沢市の高畠ワイナリーに立ち寄り、その後以前宿泊した白布温泉の更に奥にある天元台下の標高1120mにある新高湯温泉の奥白布「吾妻屋旅館」に入る。露天風呂の滝見の湯や大岩の湯など、秀逸だった。ところで当初は久保さんの奥さんが熱望されていた姥湯温泉の桝形屋は申込み時にはもう満室、急遽前田事務局長の機転で新高湯温泉に変更になったとのことだったが、でも素晴らしい宿だった。
第2日 10月24日 (土)
 朝一旦白布温泉まで下り、白布峠を越えて裏磐梯の桧原湖に出る。山々一帯は紅黄葉、満喫した。更に南下して磐梯町へ、この日のお目当ては「ラ・ネージュ (ゆき)」という白いペンション風のレストラン。場所は町の中心部、時は11時少し前、まだ人影がなく、近くの資料館へ出かける。しかし開店前10分に戻るともう長蛇の列、でもどうやら定員すれすれながら全員入ることができた。私は「かけそば」を貰ったが、コシもしっかりした細打ち、よくぞ選んで頂けたという店だった。今宵の宿は一度は行きたいと思っていた檜枝岐村の尾瀬檜枝岐温泉、福島県のど真ん中から南西の端まで車を走らせた。でも着いた檜枝岐村の雰囲気は鄙びた雰囲気ではなく、一見温泉街と見紛う雰囲気、本当に驚いた。宿の「旅館ひのえまた」は5階建てのビルだった。夕食は「裁ちそば」付きの「山人料理」、舞茸の骨酒?まで飲んで、山間の酒と食を堪能した。
第3日 10月25日 (日)
 早朝村内を散策する。中心部を外れればまだまだ鄙びている。今日の目的地は新潟県の小千谷市、一旦北上して只見町の田子倉ダム湖へ出て、そこから六十里越を越えて新潟県魚沼市へ、車窓に越後三山を見る。昼少し前に「わたや」平沢店に着いた。ここは「へぎそば」オンリーの店。つなぎに海藻の「ふのり」を使った独特のツルリとした食感、それが「へぎ」という折敷に入って出てくる。一度は味わっておきたいそばだ。

 こうして久保さん先導の5回に及ぶ「みちのく蕎麦行」は終焉した。楽しい旅と食、まことにありがとうございました。

2016年3月2日水曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その3)

4.再度のみちのく蕎麦ツアー 平成15年 (2003) 5月30日〜6月1日
 このツアーに参加されたのは、第1回に参加した久保夫妻,小塩、砂川、波田野会長、前田、松田と私に、新たに石黒、和泉、永坂、野村、平澤、米田の諸氏が加わった14名である。
第1日 5月30日 (金)
 砂川さん運転のマイクロバスで金沢を早朝に発ち、昼には鶴岡市の「寝覚屋半兵衛」に着いた。ここは「むぎきり」と「そば」のみの店、欲張ってその合い盛りを頂く。この店明治6年の創業、現当主は5代目、屋号は「目が覚めるような美味しさ」からとか、また下半分は初代の名とか、そばは歯ごたえ十分だった。次いで羽黒町にある出羽三山神社に参拝した。三山とはs、羽黒山、月山、湯殿山のこと、雪形の残る月山がきれいだった。それから朝日村にある湯殿山注連寺へ、この寺の本堂には恵眼院鉄門上人の即身仏がガラスケースの中に安置されていた。初めての拝見、ここに至る迄には凄まじい修行と年月が必須とか、久保さんでは山形には八体あるという。この後天童市の宿舎「滝の湯ホテル」へ。この日の夕は丁度祝賀会があり、女将とは会えなかったが(翌朝ご対面) 、3年ぶりに天童蕎麦道楽衆とは懇談できた。
第2日 5月31日 (土)
 平澤会員は山形の出身とかで、案内されて山形市の山寺立石寺へ行く。頂上まではかなりの標高差、でも私、野村、石黒の順に登拝、往復した。その後北上し、大石田町の「手打大石田そばきよ」へ行く。ここは「板そば」と「かいもず (そばがき) 」のみ、酒は十四代、漬物はお代わり自由、何とも嬉しい店だった。次いで南下して東根市に至り、東根小学校の校庭にある国指定特別天然記念物の大欅を見る。樹齢1500年、幹回り13m とか、畏敬の念で仰いだ。そして平澤会員推奨の寿屋で名物漬物を土産に買い、その後は佐藤錦などのさくらんぼ園を見ながら南下し、上山市の「原口そばや」へ。古い茅葺きの民家、創業は大正3年、現在は3代目、「もり」と「そばがき」のみというこだわり、その味の深さは、壁に多く貼られた色紙を見ても頷けた。今宵の宿は最上川上流の大樽川沿いにある標高 850 m の秘湯、米沢市白布温泉の「中屋別館不動閣」である。ここでは王将戦や本因坊戦が行われたという由緒ある宿である。
第3日 6月1日(日)
 近くにある白布大滝を見て、バスで峠を越えて裏磐梯へ、更に3年前に寄った山都町宮古の「なかじま」へ。途中、村松友視氏命名の「夢見水」を口に含む。そして再びあの「水そば」に邂逅したが、以前食した時より細めで腰が柔らかく、前の面影はなかった。訊けば都会の女子衆の要望に応じてこのような「そば」にしたとか。時の流れなのであろうか。残念だ。

5.三度目のみちのく蕎麦ツアー 平成16年 (2004) 9月18〜20日
 このツアーに参加したのは、第1回に参加した久保夫妻、小塩、砂川、前田、松田と私に、2回目参加の石黒、野村、新たに寺田、中岸夫妻、松川の諸氏が加わった13名。
第1日 9月18日(土)
 三連休を利用した今回の旅、砂川さん運転で早朝に金沢を発ち、昼には山形の白鷹町の「千利庵」に着いた。久保さんでは白鷹町は近年「隠れそば屋の里〕として知られるようになった由、ここの「しらたかそば」は十割の白い細打ち、良品だった。前庭には三椏 (みつまた)、初めて見た。天気が良く、1日前倒しして蔵王の御釜へ向かう。蔵王連峰刈田岳下にある火口湖は青く澄んでいた。この前訪れた時は濃霧だったが、今度もやがて霧に閉ざされてしまった。バスで麓にある、とはいっても標高 900 m にある蔵王温泉の「深山荘高見屋旅館」に入る。享保元年 (1716) 開業という老舗旅館、この温泉、玉川温泉に次ぐ強酸性の温泉とかだった。
第2日 9月19日(日)
 この日の本命は初回にも訪れた「あらきそば」、途中前回にも寄った東根市の大欅を見た後、村山市へ向かう。着いたのは 11 時 15 分前、この到着時間が絶妙だった。すんなり入れたものの、開店の 11 時には満席になった。しかも外には客が次々と、僥倖だった。注文は「身欠き鰊の味噌煮」と「うす毛利」、そばは太く荒々しく野性的、しかも量が多い。終えて白鷹町の鮎祭り会場へ寄るが、最上川に架かる簗場には落ち鮎の姿はなく、面々は誰も大振りな鮎の焼物には手を出さなかった。次いで久保さんも初めてという上山市の「村尾」へ。出されて食した白いそばは味なくまずかった。久保さんの論評では論外とのことだった。そして今宵の宿は昨年と同じく米沢市白布温泉の「中屋別館不動閣」。今年は昨年と異なり満館、しかも一月先までもとか。
第3日 9月20日(月・祝)
 早朝、大樽川に懸かる白布大滝へ。急な径は金漆 (こしあぶら) の喬木林の間を縫うようについている。この木は笹野一刀彫の鷹ポッポの材と聴いた。宿を出てバスで一旦峠まで往き、引き返して高台から最上川源流の赤滝・黒滝を遠望した後、再び白布温泉へ。そして再度白布大滝を見る。それから米沢市郊外にある笹野観音堂 (長命山幸徳寺) 別名アジサイ寺へ行く。さらに上杉家歴代藩主の墓所がある上杉氏廟所を訪ねた。そしていよいよ今日の本命の「蕎酔庵」へ。久保さんでは以前は米沢市内にあったそうだが、今は郊外の田園地帯、ミゾソバが溝に咲き誇る、日射しが眩い場所にある。ここは一茶庵系、十一、次いで十割をもらう。清々しい逸品に感激する。満足し蕎酔庵を後にした。そして締めは「そば」ならぬ「吉亭」の「ステーキ」、ワインと極薄のレアとミディアム、よくぞその極めつけの技に感心した。

2016年2月29日月曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その2)

3.初めてのみちのく蕎麦ツアー 平成12年 (2000) 5月12〜14日
 このツアー名は私が勝手に書いたもので、もちろん正式なものではない。ところで当時の会の機関誌「探蕎」には、波田野会長は「山形蕎麦街道ツアー」と書いておいでだ。この企画がどうして立ち上がったのかは、会長や発起人の方々がお骨折り頂いたことに間違いはないのだろうけれど、やはり既に何度か山形方面へ出かけられていた久保さんの尽力があったからこそ、実現したのではないかと思う。この辺りの経緯は発起人である前田事務局長ならご存じと思う。このツアーには、波田野会長以下、発起人の北島、前田、松原副会長のほか、50音順に、太田、木村、久保夫妻、越浦、小塩、砂川夫妻、松原夫人、松田の14人が参加した。
 またこのツアーが行われるに当たっては、企画立案が大事で、2泊3日のツアーをスムースに行なうには、寄るべき蕎麦屋は久保さんに一任するとして、宿の確保と行事は北島さんが担当された。この方は NTT に勤務されていた方で、当時はまだ普及していなかったインターネットを駆使して情報を収集され、宿の確保もさることながら、山形の地での「蕎麦道楽衆」なる同好の士との交流までも企画して頂き、実に実り多いツアーになった。そしてもう一つは足のこと、これも大変重要な要素の一つである。これに呼応して参加されたのが砂川の旦那だった。この方は日本通運の長距離大型トラックの運転の経験があり、東北までの往復など朝飯前、私たちはこの朗報に欣喜雀躍したものだ。素晴らしい頼もしい助っ人が現れたものだ。お陰で楽しいマイクロバスでの探蕎の旅が約束されたも同然だった。
・初日 5月12日(金)
 朝6時に久保さんの先導車とマイクロバスで金沢を発ち、昼には山形県南陽市の「荻の源蔵そば」に着いた。ここは茅葺きの百姓家、明治24年の創業とか、現在は4代目、自家製粉、生粉打ち、メニューは「生そば」のみ、その評価は「これはそばだ」という感じだった。次いで大石田町の「七兵衛そば」を予定していたが、北島さんの尽力で、今宵の宿、天童市の「滝の湯ホテル」で、蕎麦道楽衆との懇談と道楽衆の打つそばを賞味できるとかで、ホテルへ直行することに。ホテルでは直営の広重美術館で作品を鑑賞し、会議室では天童道楽衆代表から「そばは人と人とのつなぎ役」というテーマでの講演と交談、実に有意義な素晴らしい企画だった。そして道楽衆手打ちの「そば」は夕食時に出されたが、なかなか格調の高いそばだった。それに美人女将にお酌までして頂き、感激してしまった。
・二日目 5月13日(土)
 先ず久保さんの提案で、寒河江市にある慈恩宗本山の瑞宝山慈恩寺を訪れた。その後村山市にある「あらきそば」へ直行。北島さんの話では、予約の開店11時前には着かないといけないとのこと、丁度予定の時間に筑後150年という茅葺きの百姓家に入れた。板張りに白木の座卓、正に田舎家そのもの、今は三代目と四代目が打ち手、出し物は「板そば」オンリー、「うす毛利」は「昔毛利」の半分とは言え、普通の量の倍はあろうかという盛り、秋田杉の柾目の板箱に、箱一杯に広げられていて、何とも圧巻である。流石名にし負う絶品だ。波田野会長は折よく二代目と談笑されたが、その中で何故「あらき」なのかの問いには、先代が荒木又右衛門の大ファンで、名の又三にもその一字が入っていて、代々襲名とかだった。
 その後松原副会長の提唱で、山形市の庄司屋へ入る前に、山形市の菓子処佐藤屋へ寄り銘菓「乃し梅」を求め、また重要文化財となっている旧山形県庁舎と議事堂の「文翔館」を見学した。次いで山形では最も古い江戸末期の創業の「庄司屋」へ。現当主は21代目で、出されたのは十一 (といち) の更科そば、ここの変わりそばも素晴らしかろうと思う。そして今宵の宿「ホテルサンルート米沢」へ。そして荷物を置く間もなく近くの「粉名屋小太郎」に出かけた。現当主は12代目、直に店の来歴を聴かせて頂いた。そばは更科系の白くて細めのそば、老舗の味をとくと味わった。翌朝聞いた話では、夕食後、米沢牛を求めて「吉亭」なる店まで出かけたという豪の者が5名いたという話を耳に挿んだ。
・三日目 5月14日(日)
 ホテルを出て市内にある米沢城址へ、そして園内にある上杉神社に参拝した。それから南下し、大峠を越えて福島県へ、そして喜多方市では「大和川酒蔵北方風土館」を見学し、次いで山都町宮古地区にある「なかじま」に向かう。山深い処で13軒の農家が蕎麦を提供している。ここでは朱塗りのお椀に水が入っていて、それに蕎麦を浸して食べる「水蕎麦」が名物、初めての貴重な体験だった。こうして初回の素晴らしいみちのくへの旅は終わった。  

2016年2月27日土曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その1)

1.久保健一さんのこと
 探蕎会の副会長をされていた久保健一さんが、平成27年 (2015) 年11月17日に急逝された。9日前の11月8日には探蕎会の11月の例会を、久保さん縁のそば屋でもある金沢市泉丘の「やまの葉」で行なったというのにである。この店は出来立ての頃に久保さんから初めて紹介され、私も家内と何度か出かけたことがある店である。この日もお酒がすすんで、心地よい酔いのあと、久保さんと談笑しながら、終わっては家内の車でご自宅までお送りした。その日も御当人はお元気そのもので、車の中でもいろんなお話を伺い、実に愉快だった。それなのに十日を待たずして幽界に赴かれるとは、今でもとても信じられない。久保健一さんのご冥福を心からお祈りしたい。
 久保さんは探蕎会が発足した平成10年 (1998) に入会なさっている。しかし蕎麦に関する知識や巡られた蕎麦屋の数は、当時発起人でもあり、全国を巡って「蕎麦屋無責任番付」を出された波田野会長にも勝るとも劣らない程、あちこちの蕎麦屋を行脚されていた。後年探蕎会で蕎麦屋巡りをするに当たっては、会員の面々は正に久保さんには「おんぶにだっこ」の状態だったと言えよう。石川、富山、福井の北陸三県は言うに及ばず、遠く東北、信州、東海、秩父、伊豆、関西、山陰の各地へ遠征できたのも、久保さんのアドバイスに負っていたと言っても過言ではない。しかも久保さんは正に俗にいう「人間ナビゲーター」だった。今でこそ車にカーナビは標準装備だが、当時は地図が頼り、でも久保さんは正に人間ナビであって、的確に私たちを目的地に案内してくれる能力を持ち合わせておいでた。
 一方で、久保さんの奥さんは斎藤茂吉に心酔されていた歌人なこともあって、度々お二人でみちのくへ出かけられていたようだった。特に奥さんは茂吉の故郷である山形には格別な想いを持っておいでたようである。そして会の機関誌の「探蕎」にも、時折詠まれた短歌を寄稿されていたが、格調の高い素晴らしい歌で、とても私たちには及びがつかないレベルなのに驚かされたものだ。
 思うに会員の諸氏は、私も含めて、こんな素晴らしい先達がおいでたからこそ、みちのくはもとより、全国津々浦々にある多くの旨い蕎麦屋へ立ち寄ることができ、かつその土地々々の名勝旧跡にも接することができたと思う。これは会の発起人の波田野会長の理念にも合致するものであって、それを久保さんは巧みに調和されて私たち会員を導いて下さった。久保さんの他界による損失は真に計り知れないと言える。まだまだ私たちを導いてほしかった。
 久保さんはまた音楽にも造詣が深かった。自宅にはグランドピアノがあり、LP や CD を沢山所蔵されており、立派なオーディオを持たれ、そして時には合唱団の指導・指揮をもなされていた。また奥さん共々オーケストラアンサンブル金沢 (OED) の定期会員にもなっておいでて、私もよく定期演奏会ではご一緒になった。そして時には東京や大阪までも演奏会に出かけられていたという。しかしもうお会いすることは叶わない。本当に、惜しい方を亡くしてしまった。

2.久保さんとのみちのくへの旅のはじめに
 久保さんには、ずいぶん多くの地域の蕎麦屋へ連れていって頂いた。久保さんという先達がおいででなかったら、地元はともかく、全国津々浦々のこれだけ多くの蕎麦屋へは、とても私一人では行けなかったろうにと思う。ここに久保さんとのその足跡の全てを網羅することは困難であるが、その概況は現寺田会長がまとめられた「探蕎会の足取り」を見れば、その足跡をほぼ辿ることができよう。ここでは、私が久保さん夫妻が特に思い入れが深かったのではないかと推察する、山形・福島への5回の探蕎行を振り返って、そのみちのくへの旅の一端を思い浮かべてみようと思う。 
 ところでこの5回のみちのくへの探蕎行には、会員は久保さん夫妻をも含めて、延べ 27 人が参加している。参加人数は、1回目14人、2回目14人、3回目13人、4回目12人、5回目8人である。勿論久保さん夫妻は全回に参加されておいでるが、ほかに共々5回全部に参加したのは、小塩、松田と私の3人、3回参加されたのが、砂川、前田、石黒、和泉の4人、そして2回参加された方が6人、1回のみの参加が12人であった。もっともこの中には、今は既に退会されている方も含まれている。正に人間ナビと称された久保さんあっての「みちのく蕎麦屋巡り」であったと述懐している。

2016年1月29日金曜日

世界と日本の「白い山」考(その2)

日本の「白い山」  日本山名事典(三省堂)から引用
 標高順に山名 (呼び名) 標高・所在地・「2.5万分1地形図名」・「20万分1地勢図名 」を記した。

(1)白 山
1.白山(はくさん) 2,702m・石川県白山市、福井県大野市、岐阜県郡上市/高山市/白川村の境・
  「越前勝山」(5万分1名)・「金沢」 
2.白山(はくさん)1,910m・栃木県足尾町・「皇海山」・「日光」
3.白山(はくさん)1,387m・長野県波田町・「波田」・「高山」
4.白山(はくさん)1,073m・熊本県中央町/砥用町と泉村の境・「柿迫」・「八代」
5.白山(はくさん)1,012m・新潟県加茂市と村松町の境・「越後白山」・「新潟」
6.白山(はくさん)   862m・岐阜県白川町・「金山」・「飯田」
7.白山(はくさん、はっさん)793m・鹿児島県垂水市・「上祓川」・「鹿児島」
8.白山(はくさん)   658m・静岡県森町と春野町の境・「犬居」・「豊橋」
9.白山(はくさん)   547m・兵庫県氷上町・「柏原」・「京都及大阪」
10.白山(はくさん)   510m・兵庫県黒田庄町・「谷川」・「京都及大阪」
11.  白山(はくさん)   400m・大分県大分市・「坂ノ市」・「大分」
12.  白山(はくさん)   319m・福岡県宗像市・「吉木」・「福岡」
13.白山(はくさん)   289m・秋田県湯沢市と羽後町の境・「湯沢」・「新庄」
14.白山(はくさん)   284m・神奈川県厚木市と清川村の境・「厚木」・「東京」
15.白山(はくさん)   274m・岐阜県加茂市と八百津町の境・「美濃加茂」・「飯田」
16.白山(しらやま、はくさん、はくざん) 274m・長崎県対馬市・「小茂田」・「厳原」
17.白山(しらやま、はくさん) 251m・山口県菊川町・「田部」・「山口」
18.白山(はくさん)   218m・熊本県宇土市・「熊本」
19.白山(はくさん)   213m・茨城県桂村・「野口」・「水戸」
20.白山(しらやま、しろやま) 203m(東讃富士)・香川県三木町・「志度」・「徳島」
21.白山(はくさん、しろやま) 184m・岩手県紫波町・「日詰」・「盛岡」
22.白山(はくさん)   171m・福岡県北九州市若松区・「折尾」・「福岡」
付.白山岳(はくさんだけ) 3,756m(富士山頂の一峰)・山梨県富士吉田市/鳴沢村と静岡県小山町の  境・「富士山」・「甲府」

(2)接頭語が「し」で始まる「白」が付いた山々と数 (日本山名事典による)
白猪山・白石岳・白石峰・白石山 (9)・白井岳 (2)・白板山・白井山・白岩山 (8)・白岩岳 (3)・白老岳・白尾山 (6)・白皇山・白鹿岳・白鹿山・白髪岳 (3)・白髪山 (7)・白銀峰・白金山・白樺山・白神岳 (2)・白亀山・白毛門山・白木山 (6)・白木谷山・白木峰・白草山 (2)・白口岳・白口峰・白雲岳・白倉岳 (2)・白倉山 (10)・白倉又山・白倉峰・白坂山 (2)・白鷺山・白笹山・白沢岳・白沢山 (4)・白沢天狗山・白菅山・白砂山・白須山・白鷹山・白滝山 (9)・白岳 (13)・白岳山・白谷山・白田山・白地畑山・白茶内山・
白手山・白戸山 (2)・白鳥山 (7)・白抜山・白根山 (4)・白根隠山・白野山・白剥山・白萩山・白兀山・白旗山 (4)・白浜山 (3)・白髭岳・白髭山 (2)・白ビソ山・白布山 (2)・白馬山・白馬石山・白水山 (2)・白峰山・白見山・白屋岳・白屋山・白山 (3)・白山堂山・白石岳 (2)・白石山・白岩山 (2)・白馬岳・白馬鑓ヶ岳・白ヶ谷山・白金山・白銀山・白口山・白六山・白倉山・白河内岳・白地畝山・白地山・白砂山・白岳・白太郎山・白津山・白土山・白椿山 (2)・白檜岳・白水岳・白水山・白見山・白身山・白目山・白森山 (2)・白羽山・白蕨山 

(3)接頭語が「は」で始まる「白」が付いた山々と数 (日本山名事典による)
白雲山 (3)・白雲岳・白岩寺山・白山 (19)・白山釈迦岳・白山岳・白石山 (2)・白泰山・白雉山・白湯山・白頭山・白土山・白馬山 (2)・白鹿山

2016年1月28日木曜日

世界と日本の「白い山」考(その1)

 永坂先生から頂いた寒中見舞いの葉書には、先生が撮影されたモンブランの写真が印刷されていた。それには「中央はフランスアルプスのモンブラン (永坂撮影)」とあって、添え書きには「数年前の Mt Blanc  山塊です。今はもっと雪が少ないのではと存じます」とあった。写真には中央に真っ白なピラミッドのモンブランがあり、左右には針峰群を擁している。私は常々「白い山」に憧れみたいな感情を
持っていて、世界にどんな「白い山」があるのかという興味を持っていた。以下に私が知っているその一端を紹介したい。そしてその山々が、広辞苑 (岩波書店) や大辞泉 (小学館) ではどう記載されているかを記してみた。

世界の「白い山」  50音順
1.ヴァイスホルン Weisshorn 4505m
 両書に記載なし。
〔私のメモ〕地図を見ると、スイスのツェルマットの北西にあり、南西にはマッターホルン、南東にはモンテ・ローザがある。
2.キリマンジャロ Kilimannjaro 5895m
〔広辞苑〕アフリカ東部、タンザニア北東部にある火山。最高峰キボは海抜 5895m、アフリカ第一の高山。
〔大辞泉〕タンザニア北東部にある火山。アフリカ大陸の最高峰。標高 5895m。赤道付近に位置するが、氷河・万年雪がある。
〔私のメモ〕スワヒリ語では「輝ける山」、マサイ語では「白い山」を意味する。
3.ダウラギリ Dhaulagiri 8167m
〔広辞苑〕記載なし
〔大辞泉〕ネパール中部、ヒマラヤ山脈中の高峰群。第一峰は標高 8167mで、1960 年にスイス隊が初登頂に成功。サンスクリット語で「白い山」の意。
4.マウナ・ケア Mauna Kea 4205m
〔広辞苑〕記載なし
〔大辞泉〕ハワイ島北部にある楯状火山。ハワイ諸島の最高峰。標高 4205m。
〔私のメモ〕ハワイ語で「白い山」を意味する。
5.モン・ブラン Mont Blanc 4807m
〔広辞苑〕アルプス山脈中の最高峰。海抜 4807m。仏・伊両国の国境に聳え、山頂は花崗岩から成る。万年雪に覆われて多くの氷河が流下。山麓に登山基地シャモニーの町がある。
〔大辞泉〕フランス・イタリア国境にある、アルプス山脈の最高峰。標高 4807m。1786年にパッカールとパルマが初登頂。北麓のシャモニーが登山基地。モンテビアンコ。
付.白 山 2702m
〔広辞苑〕石川・岐阜両県にまたがる休火山。主峰の御前峰は海抜 2702m、富士山・立山と共に日本三名山の一。信仰や伝説で知られる。
〔大辞泉〕岐阜・石川両県にまたがる火山。最高峰は御前峰の標高 2702m。古くから信仰の対象とされ、富士山・立山とともに日本三名山の一。しらやま。
付.長白山 Channgbai Shan 2744m
〔広辞苑〕中国東北部と朝鮮との境に聳える火山。松花江・豆満江と鴨緑江との中間にある長白山脈の主峰をなす。海抜 2744m。朝鮮では白頭山と呼ぶ。
〔大辞泉〕白頭山の異称。
付.白頭山
〔広辞苑〕休火山で白色の軽石石灰岩で覆われているからいう。長白山の朝鮮名。
〔大辞泉〕朝鮮民主主義人民共和国と中国との国境にある山。長白山脈の主峰。標高は 2744m。頂上に火口湖の天池がある。長白山。ペクトサン。

2016年1月26日火曜日

1年ぶりの「敬蔵」(続き)

(承前)
 さて、自動車免許更新のための高齢者講習を受けた翌日の1月 22 日の金曜日、白山警察署鶴来庁舎へ免許更新の手続きに出かけた。それで昼は草庵でそばをとも思ったが、お酒を飲めないのなら、あの敬蔵の素晴らしいそばをもう一度食したいと思った。天気が良ければ敬蔵まで歩いて行ってお酒とそばだが、生憎の雪模様とて車で出かけた。先客が2組あったが、独りなのでカウンター席に座った。注文したのは「塩つゆおろしそば」で、そばは太打ちである。暫く待って件の品が届いた。三つ具足の鉢に太打ちのそば、片口に透明な汁、小皿にピンク色の辛味大根おろしと刻み葱、汁をそばにかけて食べて下さいとの主人の言、具を載せ、塩汁をかけて食べた。でもこの太打ち、敬蔵ではそばはすべて十割だが、5日前に頂いたそばとは違っていた。香りを大事にしたかったので、求めて塩味にしたのだが、色もいわゆる蕎麦色、正しくは正真正銘の蕎麦なのだが、あの日のあの萌葱色の香り高いそばとは異なる十割そばだった。ここでは細打ちと太打ちの二種類あるが、仕込みの蕎麦に違いがあるのだろうか。そこは質さなかった。でも美味しく頂けたことには変わりはない。
 お客さんが居なくなって少しお喋りをした。初めにアルバイトの人達の話があった。お盆や年暮れはもとより日曜日もかなり忙しく、二人ではてんてこ舞いなので、忙しい時はアルバイト、主に学生さんを雇うのだが、以前は十人雇ってみて間に合う子が 7,8人いたものだが、近頃は 2, 3 人しか使い物にならないとか。しかも特に忙しい年末やお盆には予め念を押し、親御さんにも了解を得て来てもらっているのに、簡単に反古にして帰省してしまい、しかも本人も親御さんんも全く悪びれることがないのには驚いてしまうと嘆いておいでた。それが当世風なのだろうか。
 次いで探蕎会の話になった。会で敬蔵を利用したのは、寺田会長が作られた「探蕎会の歩み」を見ると、近々では一昨年の3月である。今度は4月に寄るとかで、そうすると2年ぶりということになる。志鷹さんも去年はおいでていないと話されていた。でも永坂先生は時々おいでになるようで、今年の年賀状は先生がご自身で持参なさったとか。そして志鷹さんは、先生がフランス語もスペイン語も堪能で、しかも金城大学の副学長もされているので、きっと名のある文学の先生なのでしょうと。でもこれは彼の素晴らしい推測なのである。でも実は先生はお医者さんで、金沢大学の医学部で生理学の教授をなさっていて、今は退官されたこと、著書も多いこと、また金城大学は既に退任されてしまっていることなどを話した。もっとも先生の含蓄のあるお話から、先生が文学に傾倒されていると彼が感じても全く不思議ではない。次いで寺田先生、彼は先生こそお医者さんでしょうと言う。彼が何故そう思ったのかは不明だが、実は先生は金沢大学で理学部長もされていた化学 (ばけがく)のオーソリティーなのですよと話した。彼は目を丸くしてびっくりしていた。
 次は私が驚かされてしまった話である。それは、志鷹さんが米田さんと高校同期だと言われたからである。じゃ泉丘 (いずみ) 33 期ですかと訊いたら、そうだという。今の朝ドラじゃないけれど、正にビックリポンであった。彼女が初めて店に来られた時に分かったという。敬蔵が出来て 13 年は経っていようから、ずいぶん前のことなのだろうけれど、それでもそれ以降何度か米田さんとも一緒に敬蔵を利用したことがあるのに、彼女はそんなことを話されたこともないし、またそんな素振りをされたこともない。それだけに、これには大変驚いた。
 そうこうしていると、明菜さんのお母さんが店においでた。以前は週に一度は必ず夫婦揃って来ておいでだったが、今はあまりお出でではないようだ。明菜さんのご両親は以前は吉田タイヤ商会を経営されていて、特に大型車のタイヤの販売や交換をされていて、長距離トラックや大型バス、ダンプカーなどが出入りしていた。私が以前勤めていた石川県予防医学協会の 50 台近くある大型の検診車も、近くにあったこともあって全部を管理してもらっていた。でもこの職業、季節の変わり目には凄く忙しいが、その他の季節は割と暇で、歳と採算を考えてやめられたとかだった。
 さて、亡くなった吉田のおばあちゃんと家内の亡くなった父とは兄妹で、そんな関係もあって家内はお盆には野田山にある吉田家のお墓には毎年お参りしている。私も一度行ったことがある。それで吉田のお母さんとはいろいろ話した中でそのことも話され、いつも有難うと言われた。それでももう今年からはお気にされないようにと家内に伝えて下さいと言われた。私はそう伝えますと言って別れた。
 この日はいろんな驚きと出会いがあった。

1年ぶりの「敬蔵」

 家内と十年ぶりに草庵へ寄っての帰り、敬蔵にも長い間寄っていないので、一度寄らないとねということになった。私は一昨年の 12 月に友人二人を誘って寄って以来、ずっとご無沙汰している。それで一度は行かないと悪いわねえと家内が言ったのは、一つには同じ本町での隣の丁目で近くにあること、でもそれにも増して、亭主の志鷹敬三さんの奥さんの明菜さんの父と家内とは従兄妹同士だということだからである。十数年前に開店した当初は、そんな関係だったこともあって、随分と足繁く通ったものだ。でも名が知れて繁盛するようになってからは、何故かあまり出かけることは少なくなった。
 それで1月 17 日の日曜日の昼に敬蔵に久々に寄ることにした。11 時半開店なので、それに合わせて家内の車で家を出た。歩いても7分の距離、車だからすぐに着いた。まだお客は入っておらず、私たちが一番乗りだった。入って長い間ご無沙汰したことを詫びた。そして入った途端、主人から久保さんが亡くなったんですねと。新聞の死亡広告で久保さんという名前があったけれど、まさかとカミさんと話していたんですとのこと。というのは3日ばかり前に一人で来られたけれどお元気で、ただ何時もは大変饒舌で次から次へと話題が出て話に花が咲くのだけれど、その日はわりとお静かで、少しお元気がないような雰囲気だったとのことだった。私は久保さんの奥さんから、久保さんが亡くなった当日も仕事に行かれ、いつもは会長さんなので午後4時頃には自宅に戻られるのに、何時もより遅いので奥さんが息子の社長さんに電話したら、いつも通りの時間に帰られたとのこと、それで奥さんが車庫へ行かれたところ、倒れられていて、すぐに救急車で病院へ行かれたけれど、蘇生されなかったとお聞きしたとお話しした。私たちも久保さんが亡くなる9日前に、久保さんも交えて「やまの葉」で例会を開いていて、その時もお酒を召されていたし、いたってお元気、帰りは家内の車で自宅までお送りしたことも、家内と共々志鷹さん夫婦にお話しした。本当に驚いておいでた。
 さて、お昼時とて次々にお客さんが見えられ、ほぼ満席になった。私たちは以前定席にしていた窓側の席に座った。この日は寒かったので、取りあえず燗酒を貰うことに。でも暫く来ていなかったこともあり、お酒の銘柄が代わっていた。宇出津の数馬酒造の「竹葉」が目にとまった。ある店ではいつも竹葉の冷やを貰うのだが、温かいのは飲んだことがなく、興味本位で頼んだ。でも私だけでは悪いので、家内にはノンアルコールを勧めた。摘みには、私は「蕗の薹味噌焼」、家内は「鰊煮」、そばは私が「鴨汁そば」、家内は細打ちの「もりそば」を注文した。初めは付き出しの煮昆布で飲んだが、でもこの酒はやはり冷やが良さそうだ。それで次に焼酎の蕎麦湯割りにする。初めての挑戦である。出て来たのはガラスの器に入った無色透明な焼酎と片口に入った蕎麦湯、信楽焼の茶碗に焼酎を入れ、蕎麦湯を足して味わう。これはなかなか乙な味だった。蕗の薹味噌も旬の一品である。家内の鰊を少し頂戴する。これは少し味が浅いような気がする。そしてもう一杯、今度は加賀の鹿野酒造の「常きげん」を、これは燗したのを何度か飲んだことがあり、これは中々美味しい。家内にもりそばが届いた。少し酒の摘みにと分けてもらう。すると大変びっくりした。そばは細打ちというが、いわゆる中細、淡い薄緑の色をしていて、その香りといい、そばの味といい、近頃こんなに素晴らしいそばに出くわしたことはなく、此処でも初めてで、本当に感動してしまった。この新そばは福井の大野の産の早刈りとか、今年は出来が良かったとのことで、蕎麦は味も香りも素晴らしいという。次いで出てきた鴨汁そばも実に良かった。敬蔵で出す鴨は地元産ではなく、フランスからの輸入と聞いたことがあるが、ここの鴨肉は正に逸品で、こんな鴨肉を出すそば屋は極めて少ない。この日は素晴らしいそばに出くわして、大満足だった。 (続く)

2016年1月20日水曜日

年末・年始 アラカルト(その4)

(承前)
・1月10日 日曜日の午後に野々市市の成人式
 これまで私は私自身の成人式以外に出席したことはないが、孫が式の司会をすると聞いて出かけることにした。午後2時に行くと、家族が入る2階席はもう沢山の人々が来ていて、座席は埋まっていた。丁度始まったばかりで、「20年のあゆみ」というビデオがスクリーンに映し出されていた。主に市に2つある中学校の3年担任の先生が順にお祝いの言葉を述べる趣向になっていて、その度に歓声が上がっていた。成人になったのは野々市の中学校出身者ばかりではないだろうけれど、こんな趣向は意気が上がろうというものだ。開式の後に国歌斉唱があったが、起立を促されているのに座ったままの人が見受けられるのには驚いた。その後「愛と和の市民憲章」の唱和があったが、私はこんなものは全く知らないが、でも成人の子等は元気に唱和していたのには感心した。市長の式辞、県会議員らの祝辞、そして謝辞があり、式典は30分ばかりで終了した。司会は男女のペアであったが、しっかりとした態度と声はさすがだった。それにしても、国の祝日の「成人の日」は今は1月の第2月曜日、したがって今年は明日の1月11日なのに、自治体によっては事情もあろうが、国の祝日に祝わないというのは如何なものか。また出席者は対象の半数程度とのこと、私たちの頃は、対象者はずっと少なかったが、9割以上が参加したものだ。
・1月11日 成人の日に草庵へ
 この日の休日に去年のお札を白山さんへもって行こうと思い立った。それで家内に、おそるおそるその帰りに、十年来行っていない草庵へ寄ってはとお伺いを立てたところ、寄っても可とのご託宣が出た。10時に家を出て、途中で給油し、通称天ちゃん道路の国道157号線を南下する。白山町交差点を左折し、白山さんへ向かう。神社の駐車場は思いの外混んでいた。今日は特別な日とも思えないが、随分と沢山な人出なのには驚かされた。古いお札を収容する場所へ行くと、沢山の飾り物がゴミ袋に詰め込まれていて、その袋が山積みにされている。何処かへ持って行って処分するのだろうか。それとも境内で小正月に燃やすのだろうか。とにかくその量は半端ではない。正門へ回ると、お参りに長蛇の列、元旦には横からもどんどんお参りできたのに、どうも解せないが、何となく列に付いてお参りを済ませた。
 11時になり草庵へ向かう。開店は11時半なので、前回のことを思えば開店時間には十分間に合うわけだが、草庵に着くと近くの駐車場は満タン、それで足早に店の前に行くと、順番を記入する順番待ちの紙が置かれていて、私は8番目だった。まだ開店前なのに、往時の草庵を思い浮かべた。休日だとこの混雑になるのだろうか。開店近くになると、その数は一度には入りきれない程に膨らんでいた。開店時間になり、草庵のカミさんに順次呼び込まれる。私たちは2人、以前は囲炉裏があった場所に設えたテーブル席に席を取ってもらった。家内は十年ぶりだが、カミさんからは「ようこそ」と言われた。大部分の人は「そば」のみを召し上がっているが、私は八海山を2合、家内はノンアルコール、摘みには蕎麦味噌と鰊を頼んだ。出し巻き玉子は忙しいからか付箋がしてあった。初めは付き出しの乾き物を肴に、次いで蕎麦味噌で、その次に煮付けた鰊で、これはなかなか大型で秀逸である。そばは家内が天せいろ、私は鴨せいろ、そばが届いた時にもう1合お願いした。家内は十年前にこの店のそばに幻滅して、以来十年も遠ざかっていたが、どうやらそのそばアレルギーはとれたようで安心した。誘った甲斐があったというものだ。
・付 言   それにしても、近くにある「敬蔵」と白尾にある「龜屋」には1年近く行っていない。一度寄らねば。

年末・年始 アラカルト(その3)

(承前)
・1月2日 年賀状拝見
 賀状が届いたのは元旦の午前10時過ぎ、この日は慌ただしくてとても見られなかったが、翌2日には家内と二人でゆっくりと見ることができた。例年だと3組ばかり年賀の客があるのだが、来る方の体調が不良だったり、こちらでまたの機会にとお願いしたりしたこともあって、この日は家内とゆっくりできた。今年用意した年賀葉書は430枚、うち喪中の案内が30通、年賀状は400枚だった。しかし喪中で年賀欠礼案内は出しますが、年賀状は頂きたいという方が4人あって、この日に年賀状を差し上げた。近頃は77歳 (喜寿) とか80歳 (傘寿) になったとかの年齢の区切りや、職を辞したのを区切りに年賀状のやり取りを止めるとか、あるいはブログで年賀挨拶を済ませるとか、それはそれで尊重しようと思う。私の家でも十年前頃までは六百枚位出していたが、今はその3分の2になった。
・1月5日 山岸隆さんからの賀状
 蕎麦「やまぎし」は12月31日をもって閉店したこと、そして3月下旬には生まれ故郷の旧鳥越村左礫で再会の予定だとのこと、びっしりと全文毛筆で書かれていた。そしてあの人らしく、限界集落の創生に一役買いたいという強い思いがひしひしと感じられた。ぜひ春になって開店されたらお邪魔したいと家内と話し合った。
 〒920−2353 石川県白山市左礫町 2−55  携帯 080−8997−7714
・1月10日 成人の日を明日に控えた日曜日の午前
 この日は午前10時から町内会の左義長、午後2時から野々市市の成人式、午後4時には親戚訪問と時間刻みで動くことに。午前8時半には2丁目の左義長で使う孟宗竹を私の家の竹薮から切り出した。今では野々市市本町で竹薮のあるのは2軒ばかりで、私の家の竹薮からは、毎年町内会の左義長と本町公民館での七夕祭には孟宗竹を提供している。左義長も昔は小正月の1月15日にしていたものだが、今は日曜日にするようになって久しい。
 竹を切り出して、正月の飾り物を外し、雑煮を食し、左義長に飾り物を出し、故三男のお墓にお参りし、その後何となく「そば」を食べたくなり、11時過ぎに「亀平」へ寄った。いつもの年だと、かほく市白尾で父と兄がやっている「龜屋」へ行くのだが、今年は弟がやっている金沢市新神田にある亀平に寄った。摘みに漬物、野菜天、焼味噌、出し巻き玉子、飲み物には「立山」300 ml、締めに「二色せいろ」と「鴨せいろ」を頂いた。この店この頃はいつもお昼は一杯で、時間が遅いと入れないこともしばしばである。この日は満足して家へ帰った。

年末・年始 アラカルト(その2)

(承前)
・12月31日 大晦日に宮番
 家のすぐ近くに白山神社がある。このお宮さんは旧新町の氏神様で、旧新町にいた人達は大部分が氏子になっている。そして今は他町へ移っていても氏子であることに変わりはない。ただ所帯出となると、氏子になっていない人もかなりいる。現在は7班40世帯が氏子で、お正月と春と秋の例祭には、内外の掃除と宮番を班単位で行なっている。それでこの正月は私たちの班の5軒が宮番の当番になった。当番は31日の午後2時からお宮さんの内の掃除と飾り付けをし、外回りの行灯の設置や飾り付けは各班の総代が行なう。しかしお宮さんの内と外に張る幔幕の取り付けには、勝手を知っている人が少なくてかなり手こずった。また内の飾り付けも、紅白の鏡餅、御神酒、お塩、お米、海産物 (干し昆布、干しするめ、干し魚 )、生野菜 (白菜,人参、蓮根、大根 )、干し椎茸などを三宝に載せて、二段に分けて所定の棚の場所に飾った。
 さて宮番は、大晦日の午後11時から元旦の午後3時まで、5軒で3時間ずつ担当する。私は最も希望が少なかった大晦日の午後11時から翌元旦の午前2時まで宮番をすることにした。
 午後5時近く、掃除と飾り付けを終え、一旦施錠し、夕食後、まだ紅白歌合戦の最中の午後11時少し前に神社に出向いた。家内が付いて来てくれたが、これには大変助かった。とにかく最初の当番とあって暖房、記帳の用意からしなければならない。神社の表の戸は開けっ放しということもあって、暖房は大きな石油ストーブに炬燵、それにファンヒーター、これら全てを全開にすれば寒くはないという戦術だ。ところがこれらを全開したところ、ブレーカーが下りて真っ暗闇になった。神社の総代と家内が居てくれたから対応できたものの、一人ではパニックになったろう。電気容量は 30 A とか、それでファンヒーターを点けないことにした。またトイレもブレーカーのある場所もどちらも急な階段があり、明かりも暗く、加えてブレーカーを元に戻すには高い台の上に上がらねばならず、心配なので家内は3時間だったら一緒に居ると言ってくれた。これには大変助かった。事実元旦になって年が明けると、10軒もの家の人がお参りにおいでた。お金を預かっていることでもあり、トイレへの中座も安心して行けたのには大変有難かった。以前は2軒で6時間宮番をしていたが、いつ頃からか1軒で3時間のシステムになった。そして午前2時に次の方にバトンタッチして帰宅できた。
・1月1日 元旦に白山さんへ初詣
 次男家族が元旦に寄りたいというので、白山さんへの初詣には一緒に出かけることにした。次男のカミさんに時間を質すと、午前8時に迎えに来るとのこと、それで次男の車に便乗して出かけた。道路は案外空いていたが、旧鶴来警察署前の山手バイパスからは車が数珠つなぎになっていた。それでもまだ空いている方だ。白山さんまで3km強 だが、それでも歩いてかかる1時間ばかりかかった。駐車場は満杯だったが、思ったよりも流れは良かった。1年の無事を祈り、お札と破魔矢を求めた。例年の行事だ。私たちはおみくじはもう長い間求めていないが、次男家族は求めたようだった。白山さんのおみくじは中国の易の六十四卦に基づいていて、すべて均等に入っているのか軽重があるのかは知らないが、道しるべにはなろう。
 帰宅して正月を祝った。この日に祝おうと用意してあった青竹酒を次男に振る舞った。頂いたもので、冷凍してあった細工された青竹に日本酒を入れて1日冷蔵しておいたものを飲んだが、清々しい味と香りが素晴らしかった。酒は京都の吉岡酒造の和久伝青竹酒という特別醸造酒、さらっとしていて、よく青竹の薫りを移していた。午後2時にお開き、3時には家内が白山神社の片付けに出向いた。

2016年1月19日火曜日

年末・年始 アラカルト(その1)

・12月26日 長男の帰郷
 長男は正月、ゴールデンウイーク、旧盆には大概生家に帰ってきている。この正月も暮れの26日に帰ると連絡があった。それで26日の午後5時に小松空港に着くとのことで迎えに家内と出かけた。到着時間は不明だが、とにかく空港には5時に着けた。降車場所で家内を降ろしたものの、近くの駐車場は溢れんばかり、それでぐるっと空港を一回りして再び降車場所で待とうとした。ところが回ってきた間に3車線ある車線は2車線までほとんど車で埋まってしまっていた。でもかろうじて私も2車線目の隙間に車を潜らせた。停まっている大部分の車は迎えらしいが、それにしてもこの大混雑、40分程待って、漸く到着した人が出始めた。少しずつだが車が動きだし、空いた場所に車を動かせた。すぐにも迎えられると思っていたので、家を出る時にトイレに行かなかったものだから、途中で便意を催してしまった時は本当に辛かった。車を降車線に停められたので、一目散にトイレへ駆け込んだ。終わって車に戻ると、丁度家内と長男が来ていた。離れた遠い駐車場でも、やはり停めないと、老人だからか、生理現象が起きると、とても困る。反省。
・12月27日 長男と次男家族との団欒
 長男は26日に来て、31日には横浜へ帰るという。いつもは正月に全員集合するのだが、今年は三男家族に不幸もあり、正月の祝宴は叶わないので、暮れの30日に皆で集まることにした。ところで家内は正月休みが30日からなので、27日の日曜日の昼に正月物の買い出しに出かけることにする。そして28日と29日は、長男は本社の仲間達との飲み会があるとのこと、それで取り敢えず27日の晩に長男の帰郷を祝って次男家族と小宴を催すことにした。三男家族は30日には都合がつくが、27日は来れないとのことだった。飲み物は、長男はもっぱらビール、次男は何でもござれ、私はこの日は日本酒と焼酎、家内はビール、終わってみれば、お酒1本、ビールは大瓶2本と 500ml 123 本、かなりの量を飲んだ。もっとも長男は盛んな時は大瓶1ダースを空けたほどだから、せめて帰郷した時位は大目に見なくちゃ。
・12月30日 三家族との団欒
 長男の家族は次女が大学受験とかで、長男だけが帰郷した。30日には午後6時に次男家族と三男家族ともども皆さんが集合した。正月には全員集合は叶わないので、家内が作ったお節料理もこの日に出した。私も青森から送られてきた生きた帆立貝をさばいて、貝柱は刺身に、紐や精巣・卵巣は煮付けにした。皆さん殊の外、貝柱の刺身は初めてとかで人気抜群だった。それと人気があったのは数の子、今年は私が気張って程よい塩味加減と昆布出汁を含ませたことで、殊の外美味しくなって、子供らにも好評だった。また求めた正月料理もこの日に出した。東西料亭の二段重ね、祇園の花之重には24種、神楽坂の神之重には29種の品が詰まっていて、全部を並べると見た目には随分豪華になった。そして暮れだが、お年玉もこの日に用意して孫達に渡した。長男の長女は既に成人しており、来年は三男の長男が成人式を挙げるというので、祝い金を別に渡した。そして1月10日の日曜日に野々市市の文化会館フォルテで行なわれる成人式には司会を担当するというではないか。その日には行って祝ってやらねばなるまい。私たちには孫が6人、男3人と女3人、皆元気であり、楽しみである。そしてこの日もお酒とビールと焼酎とワインと、アルコールのオンパレード、随分と盛り上がった。