2016年2月27日土曜日

久保さん夫妻とのみちのくへの蕎麦屋巡り(その1)

1.久保健一さんのこと
 探蕎会の副会長をされていた久保健一さんが、平成27年 (2015) 年11月17日に急逝された。9日前の11月8日には探蕎会の11月の例会を、久保さん縁のそば屋でもある金沢市泉丘の「やまの葉」で行なったというのにである。この店は出来立ての頃に久保さんから初めて紹介され、私も家内と何度か出かけたことがある店である。この日もお酒がすすんで、心地よい酔いのあと、久保さんと談笑しながら、終わっては家内の車でご自宅までお送りした。その日も御当人はお元気そのもので、車の中でもいろんなお話を伺い、実に愉快だった。それなのに十日を待たずして幽界に赴かれるとは、今でもとても信じられない。久保健一さんのご冥福を心からお祈りしたい。
 久保さんは探蕎会が発足した平成10年 (1998) に入会なさっている。しかし蕎麦に関する知識や巡られた蕎麦屋の数は、当時発起人でもあり、全国を巡って「蕎麦屋無責任番付」を出された波田野会長にも勝るとも劣らない程、あちこちの蕎麦屋を行脚されていた。後年探蕎会で蕎麦屋巡りをするに当たっては、会員の面々は正に久保さんには「おんぶにだっこ」の状態だったと言えよう。石川、富山、福井の北陸三県は言うに及ばず、遠く東北、信州、東海、秩父、伊豆、関西、山陰の各地へ遠征できたのも、久保さんのアドバイスに負っていたと言っても過言ではない。しかも久保さんは正に俗にいう「人間ナビゲーター」だった。今でこそ車にカーナビは標準装備だが、当時は地図が頼り、でも久保さんは正に人間ナビであって、的確に私たちを目的地に案内してくれる能力を持ち合わせておいでた。
 一方で、久保さんの奥さんは斎藤茂吉に心酔されていた歌人なこともあって、度々お二人でみちのくへ出かけられていたようだった。特に奥さんは茂吉の故郷である山形には格別な想いを持っておいでたようである。そして会の機関誌の「探蕎」にも、時折詠まれた短歌を寄稿されていたが、格調の高い素晴らしい歌で、とても私たちには及びがつかないレベルなのに驚かされたものだ。
 思うに会員の諸氏は、私も含めて、こんな素晴らしい先達がおいでたからこそ、みちのくはもとより、全国津々浦々にある多くの旨い蕎麦屋へ立ち寄ることができ、かつその土地々々の名勝旧跡にも接することができたと思う。これは会の発起人の波田野会長の理念にも合致するものであって、それを久保さんは巧みに調和されて私たち会員を導いて下さった。久保さんの他界による損失は真に計り知れないと言える。まだまだ私たちを導いてほしかった。
 久保さんはまた音楽にも造詣が深かった。自宅にはグランドピアノがあり、LP や CD を沢山所蔵されており、立派なオーディオを持たれ、そして時には合唱団の指導・指揮をもなされていた。また奥さん共々オーケストラアンサンブル金沢 (OED) の定期会員にもなっておいでて、私もよく定期演奏会ではご一緒になった。そして時には東京や大阪までも演奏会に出かけられていたという。しかしもうお会いすることは叶わない。本当に、惜しい方を亡くしてしまった。

2.久保さんとのみちのくへの旅のはじめに
 久保さんには、ずいぶん多くの地域の蕎麦屋へ連れていって頂いた。久保さんという先達がおいででなかったら、地元はともかく、全国津々浦々のこれだけ多くの蕎麦屋へは、とても私一人では行けなかったろうにと思う。ここに久保さんとのその足跡の全てを網羅することは困難であるが、その概況は現寺田会長がまとめられた「探蕎会の足取り」を見れば、その足跡をほぼ辿ることができよう。ここでは、私が久保さん夫妻が特に思い入れが深かったのではないかと推察する、山形・福島への5回の探蕎行を振り返って、そのみちのくへの旅の一端を思い浮かべてみようと思う。 
 ところでこの5回のみちのくへの探蕎行には、会員は久保さん夫妻をも含めて、延べ 27 人が参加している。参加人数は、1回目14人、2回目14人、3回目13人、4回目12人、5回目8人である。勿論久保さん夫妻は全回に参加されておいでるが、ほかに共々5回全部に参加したのは、小塩、松田と私の3人、3回参加されたのが、砂川、前田、石黒、和泉の4人、そして2回参加された方が6人、1回のみの参加が12人であった。もっともこの中には、今は既に退会されている方も含まれている。正に人間ナビと称された久保さんあっての「みちのく蕎麦屋巡り」であったと述懐している。

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