3.初めてのみちのく蕎麦ツアー 平成12年 (2000) 5月12〜14日
このツアー名は私が勝手に書いたもので、もちろん正式なものではない。ところで当時の会の機関誌「探蕎」には、波田野会長は「山形蕎麦街道ツアー」と書いておいでだ。この企画がどうして立ち上がったのかは、会長や発起人の方々がお骨折り頂いたことに間違いはないのだろうけれど、やはり既に何度か山形方面へ出かけられていた久保さんの尽力があったからこそ、実現したのではないかと思う。この辺りの経緯は発起人である前田事務局長ならご存じと思う。このツアーには、波田野会長以下、発起人の北島、前田、松原副会長のほか、50音順に、太田、木村、久保夫妻、越浦、小塩、砂川夫妻、松原夫人、松田の14人が参加した。
またこのツアーが行われるに当たっては、企画立案が大事で、2泊3日のツアーをスムースに行なうには、寄るべき蕎麦屋は久保さんに一任するとして、宿の確保と行事は北島さんが担当された。この方は NTT に勤務されていた方で、当時はまだ普及していなかったインターネットを駆使して情報を収集され、宿の確保もさることながら、山形の地での「蕎麦道楽衆」なる同好の士との交流までも企画して頂き、実に実り多いツアーになった。そしてもう一つは足のこと、これも大変重要な要素の一つである。これに呼応して参加されたのが砂川の旦那だった。この方は日本通運の長距離大型トラックの運転の経験があり、東北までの往復など朝飯前、私たちはこの朗報に欣喜雀躍したものだ。素晴らしい頼もしい助っ人が現れたものだ。お陰で楽しいマイクロバスでの探蕎の旅が約束されたも同然だった。
・初日 5月12日(金)
朝6時に久保さんの先導車とマイクロバスで金沢を発ち、昼には山形県南陽市の「荻の源蔵そば」に着いた。ここは茅葺きの百姓家、明治24年の創業とか、現在は4代目、自家製粉、生粉打ち、メニューは「生そば」のみ、その評価は「これはそばだ」という感じだった。次いで大石田町の「七兵衛そば」を予定していたが、北島さんの尽力で、今宵の宿、天童市の「滝の湯ホテル」で、蕎麦道楽衆との懇談と道楽衆の打つそばを賞味できるとかで、ホテルへ直行することに。ホテルでは直営の広重美術館で作品を鑑賞し、会議室では天童道楽衆代表から「そばは人と人とのつなぎ役」というテーマでの講演と交談、実に有意義な素晴らしい企画だった。そして道楽衆手打ちの「そば」は夕食時に出されたが、なかなか格調の高いそばだった。それに美人女将にお酌までして頂き、感激してしまった。
・二日目 5月13日(土)
先ず久保さんの提案で、寒河江市にある慈恩宗本山の瑞宝山慈恩寺を訪れた。その後村山市にある「あらきそば」へ直行。北島さんの話では、予約の開店11時前には着かないといけないとのこと、丁度予定の時間に筑後150年という茅葺きの百姓家に入れた。板張りに白木の座卓、正に田舎家そのもの、今は三代目と四代目が打ち手、出し物は「板そば」オンリー、「うす毛利」は「昔毛利」の半分とは言え、普通の量の倍はあろうかという盛り、秋田杉の柾目の板箱に、箱一杯に広げられていて、何とも圧巻である。流石名にし負う絶品だ。波田野会長は折よく二代目と談笑されたが、その中で何故「あらき」なのかの問いには、先代が荒木又右衛門の大ファンで、名の又三にもその一字が入っていて、代々襲名とかだった。
その後松原副会長の提唱で、山形市の庄司屋へ入る前に、山形市の菓子処佐藤屋へ寄り銘菓「乃し梅」を求め、また重要文化財となっている旧山形県庁舎と議事堂の「文翔館」を見学した。次いで山形では最も古い江戸末期の創業の「庄司屋」へ。現当主は21代目で、出されたのは十一 (といち) の更科そば、ここの変わりそばも素晴らしかろうと思う。そして今宵の宿「ホテルサンルート米沢」へ。そして荷物を置く間もなく近くの「粉名屋小太郎」に出かけた。現当主は12代目、直に店の来歴を聴かせて頂いた。そばは更科系の白くて細めのそば、老舗の味をとくと味わった。翌朝聞いた話では、夕食後、米沢牛を求めて「吉亭」なる店まで出かけたという豪の者が5名いたという話を耳に挿んだ。
・三日目 5月14日(日)
ホテルを出て市内にある米沢城址へ、そして園内にある上杉神社に参拝した。それから南下し、大峠を越えて福島県へ、そして喜多方市では「大和川酒蔵北方風土館」を見学し、次いで山都町宮古地区にある「なかじま」に向かう。山深い処で13軒の農家が蕎麦を提供している。ここでは朱塗りのお椀に水が入っていて、それに蕎麦を浸して食べる「水蕎麦」が名物、初めての貴重な体験だった。こうして初回の素晴らしいみちのくへの旅は終わった。
2016年2月29日月曜日
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