11. 翌日は松本へ、そして帰沢、私は病院へ
翌朝7時に、宿から推奨の、別棟になっている「かわらの湯」へ行く。母屋から歩いて3分ばかり、川原といっても、谷川からは少々離れている。露天風呂かと思いきや、積雪に耐える屋根がある立派な檜風呂、でも谷川のせせらぎが間近に見え、清々しい。かれこれ 30分はいたろうか。朝食は8時半、昨晩と同じ場所、出立は 10時と聞いた。本来なら朝食にお酒は付きものなのだが、運転手二人はともかく、私も夕方には病院へ戻らねばならなくて飲めず、ということもあってお酒好きのユキオさんも遠慮されてしまった。何か悪く申し訳なかった。
駐車場で、湯元長座の看板を背に写真を撮ってもらい、いざ出発。旅程は高島夫妻に一任、出たのは10時、下手から平湯バイパスに出て、安房トンネルを抜け,梓川沿いの国道 158号線 (野麦街道・飛騨街道) を松本へ、お天気は上々、松本平まで下りると、背後に真っ白な雪を纏った常念岳が見えてくる。安曇野のシンボルだ。昨晩は石田さん夫妻は高山から名古屋回りで帰京するとのことだったが、この期に及んで、松本から帰ることになった。特に何処へという当てもなく、取りあえずは松本城へと向かう。休日でしかも上天気とあって、駐車場はどこもかしこも満杯、しかし城の周囲を一巡してると、幸いにも松本市が臨時に設けた駐車場を見つけた。正に僥倖であった。小春日和の一日、ブラブラ歩きながら、松本城を大きく周回してから街へ。
時は昼時、松本は蕎麦どころ、城の周りにも沢山の蕎麦屋があるが、これまで十数回松本にそばを食べに来た経験からは,特に城の南側の蕎麦屋のそばは観光客目当てでよくない。誰かが松本らーめんをと言うが、さすがにそんな店は見当たらない。そしてやっと血眼になって見つけた店は休業していた。歩いて女鳥羽川を渡る。松本でそばのおいしい店は何軒か知っているが、それには更に南へと歩かねばならず、駐車場からはどんどん遠ざかることになる。すると本町通りに、古い漆喰の壁がある家の1階に、カレー屋が見つかった。「デリー」という。腹も減っていて、衆議一決、ゾロゾロと入る。私たちが入ると満席に、客が次から次へと、結構繁盛している店のようだ。私はビーフの辛め、ただし白飯は半分にしてもらった。久方ぶりのカレー、味も上々、満足だった。
店を出て女鳥羽川を対岸に渡り、なわて通りの繁華街を通り抜け、城の東側にある臨時駐車場に戻る。これで旅行の行事はすべて終わった。石田夫妻を松本駅まで送るが、市内は大変混雑して渋滞していた。駅へ着いて暫し語らい、また来年の再会を期して別れた。松本から東京へは1時間に1本は特急が出ているだろうから、もう帰ったも同然だ。
さて後は金沢へ帰るのみ、松本からだと安曇野を国道 147号線 (松本街道) で北上して大町へ、さらに国道 148号線 (糸魚川街道) を姫川沿いに更に北上して糸魚川に出て、北陸道でということになる。松本を出たのが午後2時、私に課せられた病院の門限は午後5時なのだが、これは無理な相談、それより何よりも安全運転が第一だ。
大町からは、左手に雪を纏った後立山連峰を見ながらの走行、爺ヶ岳、鹿島槍ヶ岳、五竜岳、唐松岳、白馬三山などが展開する。道の駅白馬で小憩する。ここからはトンネルとスノーシェードの連続、運転には気が抜けない。しかも幹線道路とて交通量が多い。そして漸く糸魚川、ここから高速道に。有磯海 PA で休憩、早川夫妻とはここで別れた。マアちゃんはここでこちらの車に移る。
車はひたすら走る。私は本来なら上荒屋まで行き、家内の車で病院へと思っていたのだが、高島夫妻の好意で、直に金沢医科大病院へ送って貰うことに、感謝々々。病院へ着いたのは午後6時10分。車からの下りしな、高島夫妻と感謝をこめて握手、全快したら拙宅で「サーモンの会」を開くことを約束した。慌ただしかったものの、楽しかった「とある会」の旅行は終わった。
「閑話休題」
高島夫妻の娘のケイちゃんと幕内力士の遠藤とは、金沢市西南部中学での同級生だとさ。
2013年12月23日月曜日
2013年12月22日日曜日
とある会の旅行にまつわることども(その6)
10. 夜中に疾風の如く現れた山姥の怪
寝ていて夜中に私は夢を見た。私はアマゾンのどこか奥深くに分け入っていて、場所はアマゾン河の上流、何となくエクアドルの国境に近い場所だと感じていた。そこで私は変わった鳥の啼き声を聞いた。その声は、ケ・ケ・ケ・ケ・ケと聞こえた。これはオオハシドリの啼き声に違いない。しかしそうこうしているうちに、その声は夢うつつの中での鳥の啼き声ではなく、どうもこの世のものらしくなった。目を覚ますと、その声は正に現実、声の主は隣の部屋からのようだった。そっと起きて、隣の部屋の戸を開けた。
戸を開けると、エイジとヒロシはまだ囲炉裏の縁に座っていた。時間は真夜中。そして囲炉裏の間とは一段高くなっている部屋の縁に腰掛けて、おレイさんとタカちゃん (家内) がいて、皆と何か喋ったり笑ったりしている。私が夢のなかで聞いた鳥の声と覚しき啼き声は、正しくおレイさんの笑い声だったのだったのである。女性軍は寝たはずだったのに、何故居るのだろう。しかしエイジとヒロシが発言したことで、その様相が判明し出した。
女性の皆さんと私が就寝のため部屋を出た後、エイジとヒロシとユキオさんはまだ囲炉裏の縁に座って飲んでいた。その後ユキオさんは温泉の湯へ、その時点で男姓の部屋の戸の鍵はかかっていなかった。残った二人が飲んでいると、突如入り口の戸が開き、疾風の如く、タカちゃんが髪を振り乱して、さながらやまんば (山姥) の如く突如現れ、部屋を横切り、クローゼットに突進、あれこれ物色した後、アッという間に、部屋から出て行ったという。この時戸口にはレイさんが立っていて、ニコッと笑みをたたえていたという。それはアッという間の出来事、部屋へ入るや2歩程でクローゼットに達し、入って出て行くまでも数秒という早業、あっけにとられて、声も出せなかったという。二人の表現によると、その行動はさながらムササビが部屋に飛び込んできて、アッという間にまた出ていったという表現だった。二人には一体何が起きたのか、全く分からなかったという。一瞬の出来事。ユキオさんが部屋に戻ってきたので一部始終を話し、これは一体何事だったのか、説明してもらわねばと話し、ユキオさんが全権大使となって、向かいの女性の部屋へ行き、これは一体何事だったのか、説明してほしいと頼んだ。それでおレイさんとタカちゃんが釈明に現れたのだった。
この説明の折、時折間の手に出たおレイさんの高笑いの声が、さながらアマゾンの奥地に棲むオオハシドリの声に似ていて、それで私は夢のアマゾンから現実の世界に引き戻され、皆さんの輪の中に加わった次第。家内の説明では、夜に寒くなって下着を重ね着しようと思ったが見つからず、てっきり部屋が替わった際に、前のクローゼットに置き忘れたと思い、これはどうしても奪取しなければと思っての暴挙だったという。家内は元は陸上とバドミントンの選手、その昔とった杵柄の力を、一瞬のうちに遺憾なく発揮して起きた出来事だった。ようやく話しに決着がついて、先ずは大団円。それでそのお尋ねの下着は、翌朝、見つかったとのことだった。
寝ていて夜中に私は夢を見た。私はアマゾンのどこか奥深くに分け入っていて、場所はアマゾン河の上流、何となくエクアドルの国境に近い場所だと感じていた。そこで私は変わった鳥の啼き声を聞いた。その声は、ケ・ケ・ケ・ケ・ケと聞こえた。これはオオハシドリの啼き声に違いない。しかしそうこうしているうちに、その声は夢うつつの中での鳥の啼き声ではなく、どうもこの世のものらしくなった。目を覚ますと、その声は正に現実、声の主は隣の部屋からのようだった。そっと起きて、隣の部屋の戸を開けた。
戸を開けると、エイジとヒロシはまだ囲炉裏の縁に座っていた。時間は真夜中。そして囲炉裏の間とは一段高くなっている部屋の縁に腰掛けて、おレイさんとタカちゃん (家内) がいて、皆と何か喋ったり笑ったりしている。私が夢のなかで聞いた鳥の声と覚しき啼き声は、正しくおレイさんの笑い声だったのだったのである。女性軍は寝たはずだったのに、何故居るのだろう。しかしエイジとヒロシが発言したことで、その様相が判明し出した。
女性の皆さんと私が就寝のため部屋を出た後、エイジとヒロシとユキオさんはまだ囲炉裏の縁に座って飲んでいた。その後ユキオさんは温泉の湯へ、その時点で男姓の部屋の戸の鍵はかかっていなかった。残った二人が飲んでいると、突如入り口の戸が開き、疾風の如く、タカちゃんが髪を振り乱して、さながらやまんば (山姥) の如く突如現れ、部屋を横切り、クローゼットに突進、あれこれ物色した後、アッという間に、部屋から出て行ったという。この時戸口にはレイさんが立っていて、ニコッと笑みをたたえていたという。それはアッという間の出来事、部屋へ入るや2歩程でクローゼットに達し、入って出て行くまでも数秒という早業、あっけにとられて、声も出せなかったという。二人の表現によると、その行動はさながらムササビが部屋に飛び込んできて、アッという間にまた出ていったという表現だった。二人には一体何が起きたのか、全く分からなかったという。一瞬の出来事。ユキオさんが部屋に戻ってきたので一部始終を話し、これは一体何事だったのか、説明してもらわねばと話し、ユキオさんが全権大使となって、向かいの女性の部屋へ行き、これは一体何事だったのか、説明してほしいと頼んだ。それでおレイさんとタカちゃんが釈明に現れたのだった。
この説明の折、時折間の手に出たおレイさんの高笑いの声が、さながらアマゾンの奥地に棲むオオハシドリの声に似ていて、それで私は夢のアマゾンから現実の世界に引き戻され、皆さんの輪の中に加わった次第。家内の説明では、夜に寒くなって下着を重ね着しようと思ったが見つからず、てっきり部屋が替わった際に、前のクローゼットに置き忘れたと思い、これはどうしても奪取しなければと思っての暴挙だったという。家内は元は陸上とバドミントンの選手、その昔とった杵柄の力を、一瞬のうちに遺憾なく発揮して起きた出来事だった。ようやく話しに決着がついて、先ずは大団円。それでそのお尋ねの下着は、翌朝、見つかったとのことだった。
2013年12月21日土曜日
とある会の旅行にまつわることども(その5)
9. 囲炉裏の間で、奥飛騨の田舎料理を盛り込んだ「ごっつぉ」を味わう
大きな部屋に、テーブル式の囲炉裏が2基並んでいて、1テーブルに8人が座れる。足は下へ下ろせる。ところで我々一行は9人、8人ならば1テーブルに座れるのだが、生憎と9人、それで宿の計らいで,女5人と男4人に分断された。これは残念。囲炉裏には火が熾っていて、岩魚と五平餅が串に刺されていて、ほぼ焼き上がっている。料理の数は多い。「おしながき」は次のようだった。
食前酒は、大女将手作りの果実酒。先付けは、山里の珍味盛りと銀杏餅の揚げ出しの二種。前菜は、季節の田舎料理。お造りは、河ふぐの重ね造りとあしらい一式。焼き物は、岩魚の塩焼き、飛騨牛の串焼きと五平餅。台の物は、飛騨牛と野菜色々の鉄板焼き。炊き合わせは、きのこ鍋。揚げ物は、野菜のかき揚げ。御飯は、五目御飯。香の物は、飛騨の漬物。水菓子は、アップルパイクリーム添え。
お酒は、女性は清酒とビール、男性は焼酎、私が選んで芋焼酎の「蜜酒の杯」にする。それで飲むスタイルは、エイジはストレートと癒しの水、ユキオさんはお湯割り、ヒロシさんは水割り、私はオンザロック、全く四人四様である。談笑しながら、焼酎を飲みながら、料理も摘む。串に刺されている岩魚は7寸はあろうかという大物、私は頭が硬くて、骨を吐き出したが、全部すっかり食べた人もいて、目を見張った。熱い骨酒にしたら美味しいだろうと思う。五平餅も平生なら食べないのに、何故か抵抗なく食べてしまった。
串焼きに飛騨牛がないと思いきや、程なく串に薄切りにした肉を巻き付けたのが現れた。火に翳して万遍なく適度に回して焼き上げて下さいと。私たちは忠告に従って忠実に焼いているのに、女性軍はと見ていると、我慢できないのか、そこそこに焙ったところで、かぶりついたようだ。きっとその方がレアで美味しいに決まってはいようが、男性群は実に律儀だ。焼き上がった頃に家内が来て、「あなたはこれを食べると食べ過ぎになるから」と、飛騨牛の串を取り上げていった。でも悔悟の念はなく、欲しければ呉れてやろうという寛大な気持ちになったから不思議だ。しかしその後、鉄板焼きで飛騨牛のコロ数個と野菜が出て、私も飛騨牛のお相伴にありつけた。
ところで皆さんはほとんど刺し身の「河ふぐ」を残されていたが、今から思えば、鉄板の上で焼く手があったなあと思う。河ふぐとは鯰のこと、昔は川で捕まえて、虫がいるので生では食べずに、炊いて煮付けて食べたものだ。白い身で、こりこりとした食感で美味しかったことを覚えているが、生で食べたのは全く初めてだ。きっとどこかで養殖しているのだろう。でないと生では食せない。私は刺し身をすべて食べたが、味は淡白、柔らかくて、癖はないものの、そんなに旨いとは言えない代物、話の種だ。
料理の量が多く、そのほとんどを平らげたが、お終い近く、茸が数種入った大鍋が出た。この辺りになると、焼酎はまだ飲めたものの、食べる方はお腹が一杯で一寸一服、当然のことながら、美味しく炊けた五目五版も、一摘み賞味したに止まった。それにしても、4人居たとはいえ、焼酎の 720ml の瓶を2本大方空けたというのには驚いた。私はそんなに飲まなかったような気がするのだが。
こうして夕食は終わった。食事では男性と女性が別々であったこともあって、皆さん部屋へ引き取る前に、皆で男性の部屋で炬燵に入って談笑しようということになった。蜜柑を食べながら、また残った焼酎を飲みながら、他愛もない会話をしながら、時間を過ごした。午後9時頃だったろうか、散会する。私も眠たくなって床に入る。残り3人は囲炉裏に陣取って、焼酎を飲みながら……。
大きな部屋に、テーブル式の囲炉裏が2基並んでいて、1テーブルに8人が座れる。足は下へ下ろせる。ところで我々一行は9人、8人ならば1テーブルに座れるのだが、生憎と9人、それで宿の計らいで,女5人と男4人に分断された。これは残念。囲炉裏には火が熾っていて、岩魚と五平餅が串に刺されていて、ほぼ焼き上がっている。料理の数は多い。「おしながき」は次のようだった。
食前酒は、大女将手作りの果実酒。先付けは、山里の珍味盛りと銀杏餅の揚げ出しの二種。前菜は、季節の田舎料理。お造りは、河ふぐの重ね造りとあしらい一式。焼き物は、岩魚の塩焼き、飛騨牛の串焼きと五平餅。台の物は、飛騨牛と野菜色々の鉄板焼き。炊き合わせは、きのこ鍋。揚げ物は、野菜のかき揚げ。御飯は、五目御飯。香の物は、飛騨の漬物。水菓子は、アップルパイクリーム添え。
お酒は、女性は清酒とビール、男性は焼酎、私が選んで芋焼酎の「蜜酒の杯」にする。それで飲むスタイルは、エイジはストレートと癒しの水、ユキオさんはお湯割り、ヒロシさんは水割り、私はオンザロック、全く四人四様である。談笑しながら、焼酎を飲みながら、料理も摘む。串に刺されている岩魚は7寸はあろうかという大物、私は頭が硬くて、骨を吐き出したが、全部すっかり食べた人もいて、目を見張った。熱い骨酒にしたら美味しいだろうと思う。五平餅も平生なら食べないのに、何故か抵抗なく食べてしまった。
串焼きに飛騨牛がないと思いきや、程なく串に薄切りにした肉を巻き付けたのが現れた。火に翳して万遍なく適度に回して焼き上げて下さいと。私たちは忠告に従って忠実に焼いているのに、女性軍はと見ていると、我慢できないのか、そこそこに焙ったところで、かぶりついたようだ。きっとその方がレアで美味しいに決まってはいようが、男性群は実に律儀だ。焼き上がった頃に家内が来て、「あなたはこれを食べると食べ過ぎになるから」と、飛騨牛の串を取り上げていった。でも悔悟の念はなく、欲しければ呉れてやろうという寛大な気持ちになったから不思議だ。しかしその後、鉄板焼きで飛騨牛のコロ数個と野菜が出て、私も飛騨牛のお相伴にありつけた。
ところで皆さんはほとんど刺し身の「河ふぐ」を残されていたが、今から思えば、鉄板の上で焼く手があったなあと思う。河ふぐとは鯰のこと、昔は川で捕まえて、虫がいるので生では食べずに、炊いて煮付けて食べたものだ。白い身で、こりこりとした食感で美味しかったことを覚えているが、生で食べたのは全く初めてだ。きっとどこかで養殖しているのだろう。でないと生では食せない。私は刺し身をすべて食べたが、味は淡白、柔らかくて、癖はないものの、そんなに旨いとは言えない代物、話の種だ。
料理の量が多く、そのほとんどを平らげたが、お終い近く、茸が数種入った大鍋が出た。この辺りになると、焼酎はまだ飲めたものの、食べる方はお腹が一杯で一寸一服、当然のことながら、美味しく炊けた五目五版も、一摘み賞味したに止まった。それにしても、4人居たとはいえ、焼酎の 720ml の瓶を2本大方空けたというのには驚いた。私はそんなに飲まなかったような気がするのだが。
こうして夕食は終わった。食事では男性と女性が別々であったこともあって、皆さん部屋へ引き取る前に、皆で男性の部屋で炬燵に入って談笑しようということになった。蜜柑を食べながら、また残った焼酎を飲みながら、他愛もない会話をしながら、時間を過ごした。午後9時頃だったろうか、散会する。私も眠たくなって床に入る。残り3人は囲炉裏に陣取って、焼酎を飲みながら……。
とある会の旅行にまつわることども(その4)
7. 今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ
これで昼間の行事は終わり、今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ向かう。国道 158 号線は、山間の S 字状のカーブを何回も回りながら標高を上げる。以前朴の木平スキー場へ来ていた頃は、平湯温泉から平湯峠 (1684m) を越えて行ったものだが、今は峠の下に平湯トンネルが出来て、簡単に平湯温泉へ抜けられる。それでも標高は 1500m はあろうか。トンネルを抜けて下りになり、福地温泉へは平湯温泉へは行かずに、平湯バイパス (国道 471 号線) を通って行く。今宵の宿の湯元長座は、南北に長く点在する温泉宿の一番下手の北側に位置する。車は南側の上手から入った。福地温泉は標高 1000m にある12 軒のこじんまりした温泉、道を北上し湯元長座に着いた。広い駐車場に車を停め、屋根付きの通路を辿って母屋へ、この温泉では最も大きいという。建物は築 130 年の飛騨造りと呼ばれる庄屋屋敷を移築したものとか、豪壮で重厚な感じがする。聞けばこの温泉の建物は、ほとんど古民家を解体移築したものだという。入ると大きな囲炉裏があり、熊や羚羊の毛皮が敷きつめられ、囲炉裏には薪が焼べられている。黒光りした太い梁や柱や鴨居、時間が百年タイムスリップしたようだ。暫しロビーで寛ぐ。ここは日本秘湯を守る会の会員宿でもある。
3階の部屋へ案内される。女性5人、男性4人、2部屋があてがわれる。それで指定された通りの部屋で旅装を解いて、浴衣に着替えた段階で、男性の部屋が大きく、女性の部屋が小さいのに気付く。さらに決定的になったのは、男性の部屋には大きな鏡台があるのに、女性の部屋には姿見もないことが判明、そこで総入替え、着替えていたから、一切合切持っての相互の大移動、大変だった.忘れ物はないか、確認だけでも大変だが、この際慌てての未確認があって、後でとんでもないハプニングが起きることになる。
漸く一段落して、一旦は一件落着。こんな大移動は初体験だ。暫し休憩してから風呂へ。この湯元長座の泉質は単純温泉 (源泉温度 46 ℃) とナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉 (源泉温度 90℃) で、湯量は合わせて毎分 550 ℓ、加温・加水はなく、源泉かけ流しである。内湯も良かったが、それに続く露天風呂は更に素晴らしく、木々に囲まれて広くてゆったりした感じだ。湯は柔らかく、湯温も程々の熱さ、お湯は滔々と流れていて、これぞ本当の温泉という感じ、ゆっくりと温まった。
8. 湯上がりにビールを飲みながら、テレビで大相撲中継を観戦する
湯から上がって、男性3人は当然といえば当然、湯上がりのビール、部屋からフロントへ電話すると、部屋まで持ってきて貰えるとのことで、早速注文。生大はないとかで、生中を3杯、ほどなく届く。でも私は食前にインシュリンの注射をしなければならず、これまで一度も自分一人でしたことがなかったので、家内に介添えを頼んであり、その時間が5時 30分、私はそれまで待つことに。私は取りあえず「皆さんどうぞ私に遠慮なさらずに」と言ったが、もとより外交辞令、それで遠慮する面々ではない。そして 17:30、家内に手伝ってもらい、インシュリン 16 uを腹部へ注射、これで OK。時間が過ぎたこともあり、私は遠慮して生中でなく生小にして、囲炉裏縁の皆の輪に入った。
折しもテレビは丁度大相撲14日目の結び前、大関稀勢の里と横綱白鵬との大一番、稀勢の里は昨日は横綱日馬富士を破って2敗のまま、今日は二人目の横綱白鵬との取組み、見ていると二人は蹲踞に入らずに立っての睨み合いが二度も続いた。こんな状況は久しく見たことがない。もちろん今場所でも初めてのことじゃなかろうか。皆はビールを飲むのも忘れ、テレビに食い入るように見ている。行司の軍配が返った。稀勢の里は素早く右上手を取り、寄る。白鵬は後手に回る。両者土俵際で投げの打ち合いとなるが、稀勢の里の上手投げが白鵬の下手投げに勝り、稀勢の里が勝ちを制した。4人とも興奮し、大歓声と大拍手。互いに肩を叩き合い、ジョッキでゴツンと乾杯、こんな光景は初めてだ。これは我々日本人が日本人横綱の出現を待望していることの証だ。ひとしきりの興奮の後、今度は日馬富士に今日と明日は勝ってほしいと願う。結びは日馬富士が大関鶴竜に勝った。そして千秋楽の横綱決戦では、日馬富士が白鵬を破ってほしいというのが4人の総意、これまでこんなに興奮したことがあろうか。ビールを飲み干したところで、夕食の案内。2階の囲炉裏の間に下りる。
これで昼間の行事は終わり、今宵の宿の福地温泉・湯元長座へ向かう。国道 158 号線は、山間の S 字状のカーブを何回も回りながら標高を上げる。以前朴の木平スキー場へ来ていた頃は、平湯温泉から平湯峠 (1684m) を越えて行ったものだが、今は峠の下に平湯トンネルが出来て、簡単に平湯温泉へ抜けられる。それでも標高は 1500m はあろうか。トンネルを抜けて下りになり、福地温泉へは平湯温泉へは行かずに、平湯バイパス (国道 471 号線) を通って行く。今宵の宿の湯元長座は、南北に長く点在する温泉宿の一番下手の北側に位置する。車は南側の上手から入った。福地温泉は標高 1000m にある12 軒のこじんまりした温泉、道を北上し湯元長座に着いた。広い駐車場に車を停め、屋根付きの通路を辿って母屋へ、この温泉では最も大きいという。建物は築 130 年の飛騨造りと呼ばれる庄屋屋敷を移築したものとか、豪壮で重厚な感じがする。聞けばこの温泉の建物は、ほとんど古民家を解体移築したものだという。入ると大きな囲炉裏があり、熊や羚羊の毛皮が敷きつめられ、囲炉裏には薪が焼べられている。黒光りした太い梁や柱や鴨居、時間が百年タイムスリップしたようだ。暫しロビーで寛ぐ。ここは日本秘湯を守る会の会員宿でもある。
3階の部屋へ案内される。女性5人、男性4人、2部屋があてがわれる。それで指定された通りの部屋で旅装を解いて、浴衣に着替えた段階で、男性の部屋が大きく、女性の部屋が小さいのに気付く。さらに決定的になったのは、男性の部屋には大きな鏡台があるのに、女性の部屋には姿見もないことが判明、そこで総入替え、着替えていたから、一切合切持っての相互の大移動、大変だった.忘れ物はないか、確認だけでも大変だが、この際慌てての未確認があって、後でとんでもないハプニングが起きることになる。
漸く一段落して、一旦は一件落着。こんな大移動は初体験だ。暫し休憩してから風呂へ。この湯元長座の泉質は単純温泉 (源泉温度 46 ℃) とナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉 (源泉温度 90℃) で、湯量は合わせて毎分 550 ℓ、加温・加水はなく、源泉かけ流しである。内湯も良かったが、それに続く露天風呂は更に素晴らしく、木々に囲まれて広くてゆったりした感じだ。湯は柔らかく、湯温も程々の熱さ、お湯は滔々と流れていて、これぞ本当の温泉という感じ、ゆっくりと温まった。
8. 湯上がりにビールを飲みながら、テレビで大相撲中継を観戦する
湯から上がって、男性3人は当然といえば当然、湯上がりのビール、部屋からフロントへ電話すると、部屋まで持ってきて貰えるとのことで、早速注文。生大はないとかで、生中を3杯、ほどなく届く。でも私は食前にインシュリンの注射をしなければならず、これまで一度も自分一人でしたことがなかったので、家内に介添えを頼んであり、その時間が5時 30分、私はそれまで待つことに。私は取りあえず「皆さんどうぞ私に遠慮なさらずに」と言ったが、もとより外交辞令、それで遠慮する面々ではない。そして 17:30、家内に手伝ってもらい、インシュリン 16 uを腹部へ注射、これで OK。時間が過ぎたこともあり、私は遠慮して生中でなく生小にして、囲炉裏縁の皆の輪に入った。
折しもテレビは丁度大相撲14日目の結び前、大関稀勢の里と横綱白鵬との大一番、稀勢の里は昨日は横綱日馬富士を破って2敗のまま、今日は二人目の横綱白鵬との取組み、見ていると二人は蹲踞に入らずに立っての睨み合いが二度も続いた。こんな状況は久しく見たことがない。もちろん今場所でも初めてのことじゃなかろうか。皆はビールを飲むのも忘れ、テレビに食い入るように見ている。行司の軍配が返った。稀勢の里は素早く右上手を取り、寄る。白鵬は後手に回る。両者土俵際で投げの打ち合いとなるが、稀勢の里の上手投げが白鵬の下手投げに勝り、稀勢の里が勝ちを制した。4人とも興奮し、大歓声と大拍手。互いに肩を叩き合い、ジョッキでゴツンと乾杯、こんな光景は初めてだ。これは我々日本人が日本人横綱の出現を待望していることの証だ。ひとしきりの興奮の後、今度は日馬富士に今日と明日は勝ってほしいと願う。結びは日馬富士が大関鶴竜に勝った。そして千秋楽の横綱決戦では、日馬富士が白鵬を破ってほしいというのが4人の総意、これまでこんなに興奮したことがあろうか。ビールを飲み干したところで、夕食の案内。2階の囲炉裏の間に下りる。
2013年12月18日水曜日
とある会の旅行にまつわることども(その3)
5. 飛騨への旅は先ずは高山へ
目指すは奥飛騨温泉郷の福地温泉、往きは高山経由、北陸・東海北陸と高速自動車道を継いで、清瀬ICからは中部縦貫自動車道へ、高山市街を下に見下ろす高台からは、真っ白な乗鞍岳が見える。国道41号線から高山の古い町並みへ、街中の駐車場はどこも満車、それで高山別院の駐車場へ行くよう勧める。ここは半日 800円、私たちはいつもここを利用している。古い街並も近く、都合が良い。さて街へ、そぞろ歩く。金沢とは一味違った古い雰囲気、時間は昼時、皆さんの第一希望は「高山らーめん」、私たちはいつも蕎麦だが、若い人達は食の趣向が違う。ここは若い人達に任せよう。とは言っても繁華街を外れた古い街並に入り込んでしまうと、中々らーめん屋は見つからない。ブラブラ歩いて、街外れの高山本陣にまで来てしまった。
でもこの時運よく「中華そば」の看板が目に入った。でも「高山らーめん」とは書いてない。幹事のエイちゃんが駆け入って OK のサイン、9人がゾロゾロと入る。石田夫妻と私たちは同じ小テーブルに、これは正に予定の行動、というのも先ずはお酒を一献の魂胆があるからである。他の皆さんはカウンターに陣取る。これで店はほぼ一杯。高島と早川の旦那は運転手なのでお酒はご法度だ。お酒は「蓬萊」、飛騨古川の酒、時々飲むが癖のない美味しいお酒、1合 500円、1合半 700円、迷わず割安の1合半にする。そして遠来の石田の旦那の好みに合わせて熱燗とする。この熱燗、マアちゃんに試飲してもらったところ、余りにもあっさりしていて、お酒らしくないと言う。さすが酒豪である。そしておレイさんも家内も同感とか。このお酒、私は爽やかだと思ったが、女性軍は飲んべえということになろうか。ややあって中華そばが出た。中華麺はやや細めの縮れ麺、家内は私に汁は飲まないようにと御託宣、麺も多かったら私に頂戴と、お酒を飲みながらのらーめん、私には娑婆では初めてのことだ。でお酒も麺もなくなった。この中華そば、こだわりの手打ちなのだろうか、硬めの細麺は、まずまず旨かった。
半兵衛なるその店を出て、高山本陣前にある南洋輸入のアクセサリーを扱っている家内推奨の店に入る。この前来た時もアレコレ物色、女性軍は皆さん満足そう。来れなかったバア子ちゃんにも何か買い物をしたようだった。でも男性群には縁のない店だ。店を出て、ブラブラと街並を歩き、駐車場へと戻る。途中に真っ赤な楓があり、実に印象的だった。今頃京都は紅葉・黄葉がきっと見事だろう。
6. 高山から平湯の飛騨大鍾乳洞へ向かう
次に平湯にある大鍾乳洞へ、この前には郡上八幡の大滝鍾乳洞へ寄ったが、規模は小さく今一だった。これから訪れる鍾乳洞は「大」が付いているから、そこそこの大きさなのだろう。国道158号線を東へ、案内の看板に従って山へ入る。かなり車で標高をかせぐと、突然開けた場所に出た。標高は900m、郡上よりは広場の規模はもっと広く、建物も大きく、数も多く、沢山の観光客が訪れている。鍾乳洞へ入るばかりではなく、釣やバーベキューを楽しんでいる人も多くいる。階段を上ってゲートへ、足元も綺麗に整備されていて、その比は郡上八幡をはるかに超える。鍾乳洞の入口には、「出口には第一、第二、最終の第三があり、足に自信のない人は、第一もしくは第二出口から出るように」との指示がある。パンフレットを見ると、特に第二出口から第三出口にかけての第三洞にはかなりの登りがあるようだ。私はここ2週間ばかりは全く歩いていないので気掛かりだ。
この鍾乳洞は昭和40年に発見されたとか、後発だからか、洞内の歩道は広くてきれいに舗装されていて感じが良い。順に洞内へ、私は3番目、2番目の家内の後について歩く。情けないがこの方が安全だ。第一洞では「竜宮の夜景」がスポット、ライトアップされている。洞内は歩きやすい。ずっと上りが続く。第一出口を過ぎて第二洞へ、階段が所々に現れるようになる。ここのスポットは「ナイアガラの滝」、これはフローストーン、流れる石のような鍾乳石、「幸福の滝」という水が流れる滝もある。ここを過ぎた辺りから通路は狭くて急な上り下りの連続となる。そして第二出口。そして看板には、「これより急な階段が百段続きます。自信のない人は第二出口から出て下さい。」とある。皆さんは私を気遣って、どうしますかと尋ねる。でも男晋亮、ここで出るわけには行かず、GOと宣言する。
第三洞はのっけから急な鉄の階段、息が切れそうだ。短い休みを取りながら、手すりに手をかけながら、家内と離れないように歩を運ぶ。この洞のスポットは「月の世界」、ここは洞穴珊瑚で成り立ち、太古の昔、ここは海の底だったという。そして漸く最後の第三出口が見えた。通路の総延長は 800mばかり、ゆっくりの鑑賞で1時間弱要した。
心配だったが、どうやら達成できた。第三出口を出ると、そこは山の中腹、ここから下へ下へと長い長い階段が洞穴の入り口まで続いている。入り口まで高度差 70-80mはあろうか。これだけ洞穴の中を登ったことになる。この下山の通路、屋根も囲いもあり、手すりも付けられていて、私にとって手すりは有り難かった。漸くの思いで入り口へ、以前なら何ということのない山の下り道、私も衰えたものだ。下りて、差し渡しが5mはあろうかと思われる大鍋をバックに記念写真を撮った。
目指すは奥飛騨温泉郷の福地温泉、往きは高山経由、北陸・東海北陸と高速自動車道を継いで、清瀬ICからは中部縦貫自動車道へ、高山市街を下に見下ろす高台からは、真っ白な乗鞍岳が見える。国道41号線から高山の古い町並みへ、街中の駐車場はどこも満車、それで高山別院の駐車場へ行くよう勧める。ここは半日 800円、私たちはいつもここを利用している。古い街並も近く、都合が良い。さて街へ、そぞろ歩く。金沢とは一味違った古い雰囲気、時間は昼時、皆さんの第一希望は「高山らーめん」、私たちはいつも蕎麦だが、若い人達は食の趣向が違う。ここは若い人達に任せよう。とは言っても繁華街を外れた古い街並に入り込んでしまうと、中々らーめん屋は見つからない。ブラブラ歩いて、街外れの高山本陣にまで来てしまった。
でもこの時運よく「中華そば」の看板が目に入った。でも「高山らーめん」とは書いてない。幹事のエイちゃんが駆け入って OK のサイン、9人がゾロゾロと入る。石田夫妻と私たちは同じ小テーブルに、これは正に予定の行動、というのも先ずはお酒を一献の魂胆があるからである。他の皆さんはカウンターに陣取る。これで店はほぼ一杯。高島と早川の旦那は運転手なのでお酒はご法度だ。お酒は「蓬萊」、飛騨古川の酒、時々飲むが癖のない美味しいお酒、1合 500円、1合半 700円、迷わず割安の1合半にする。そして遠来の石田の旦那の好みに合わせて熱燗とする。この熱燗、マアちゃんに試飲してもらったところ、余りにもあっさりしていて、お酒らしくないと言う。さすが酒豪である。そしておレイさんも家内も同感とか。このお酒、私は爽やかだと思ったが、女性軍は飲んべえということになろうか。ややあって中華そばが出た。中華麺はやや細めの縮れ麺、家内は私に汁は飲まないようにと御託宣、麺も多かったら私に頂戴と、お酒を飲みながらのらーめん、私には娑婆では初めてのことだ。でお酒も麺もなくなった。この中華そば、こだわりの手打ちなのだろうか、硬めの細麺は、まずまず旨かった。
半兵衛なるその店を出て、高山本陣前にある南洋輸入のアクセサリーを扱っている家内推奨の店に入る。この前来た時もアレコレ物色、女性軍は皆さん満足そう。来れなかったバア子ちゃんにも何か買い物をしたようだった。でも男性群には縁のない店だ。店を出て、ブラブラと街並を歩き、駐車場へと戻る。途中に真っ赤な楓があり、実に印象的だった。今頃京都は紅葉・黄葉がきっと見事だろう。
6. 高山から平湯の飛騨大鍾乳洞へ向かう
次に平湯にある大鍾乳洞へ、この前には郡上八幡の大滝鍾乳洞へ寄ったが、規模は小さく今一だった。これから訪れる鍾乳洞は「大」が付いているから、そこそこの大きさなのだろう。国道158号線を東へ、案内の看板に従って山へ入る。かなり車で標高をかせぐと、突然開けた場所に出た。標高は900m、郡上よりは広場の規模はもっと広く、建物も大きく、数も多く、沢山の観光客が訪れている。鍾乳洞へ入るばかりではなく、釣やバーベキューを楽しんでいる人も多くいる。階段を上ってゲートへ、足元も綺麗に整備されていて、その比は郡上八幡をはるかに超える。鍾乳洞の入口には、「出口には第一、第二、最終の第三があり、足に自信のない人は、第一もしくは第二出口から出るように」との指示がある。パンフレットを見ると、特に第二出口から第三出口にかけての第三洞にはかなりの登りがあるようだ。私はここ2週間ばかりは全く歩いていないので気掛かりだ。
この鍾乳洞は昭和40年に発見されたとか、後発だからか、洞内の歩道は広くてきれいに舗装されていて感じが良い。順に洞内へ、私は3番目、2番目の家内の後について歩く。情けないがこの方が安全だ。第一洞では「竜宮の夜景」がスポット、ライトアップされている。洞内は歩きやすい。ずっと上りが続く。第一出口を過ぎて第二洞へ、階段が所々に現れるようになる。ここのスポットは「ナイアガラの滝」、これはフローストーン、流れる石のような鍾乳石、「幸福の滝」という水が流れる滝もある。ここを過ぎた辺りから通路は狭くて急な上り下りの連続となる。そして第二出口。そして看板には、「これより急な階段が百段続きます。自信のない人は第二出口から出て下さい。」とある。皆さんは私を気遣って、どうしますかと尋ねる。でも男晋亮、ここで出るわけには行かず、GOと宣言する。
第三洞はのっけから急な鉄の階段、息が切れそうだ。短い休みを取りながら、手すりに手をかけながら、家内と離れないように歩を運ぶ。この洞のスポットは「月の世界」、ここは洞穴珊瑚で成り立ち、太古の昔、ここは海の底だったという。そして漸く最後の第三出口が見えた。通路の総延長は 800mばかり、ゆっくりの鑑賞で1時間弱要した。
心配だったが、どうやら達成できた。第三出口を出ると、そこは山の中腹、ここから下へ下へと長い長い階段が洞穴の入り口まで続いている。入り口まで高度差 70-80mはあろうか。これだけ洞穴の中を登ったことになる。この下山の通路、屋根も囲いもあり、手すりも付けられていて、私にとって手すりは有り難かった。漸くの思いで入り口へ、以前なら何ということのない山の下り道、私も衰えたものだ。下りて、差し渡しが5mはあろうかと思われる大鍋をバックに記念写真を撮った。
とある会の旅行にまつわることども(その2)
3. 外泊許可が出て、清酒「晋亮」でささやかな乾杯
11月22・23日の外泊と23・24日の外出は、9階の病室にいる時からお願いしてあって、主治医の先生にも了解を得ていたが、6階へ移って主治医の先生が代わるに及んで不安が過った。しかし9階の私の担当の受持ち看護婦さんと6階の主任看護婦さんの絶妙の連携と尽力で、6階に移った当日の22日に許可になった。本当に感謝・感激だった。しかし治療とインシュリンの自己注射の確認があったために、外泊と外出の許可は、22日の午後8時から24日午後5時までとの制約が入った。それにしても快哉。
私が入院して以来、家内は酒断ちをしていたという。勿論私も隠し酒などしていない。不思議なもので、入院していると、特にお酒を欲しいと思うことはなかった。また禁断症状なども全く出なかった。家内に迎えに来てもらい、久しぶりに我が家の敷居をまたいだ。病院ではシャワーなどはしたが、入浴はなく、家では先ずゆっくりと風呂に入りたく、ゆったり浸かった。久しぶりに家内に背中を流してもらったが、垢がボロボロ、実に爽快だった。風呂から上がると無性に一寸一杯欲しくなった。病院にいる時、担当の看護婦さんに、恐る恐る外泊の時の飲酒について尋ねると、飲みなさいとは言えないけれど、飲んではいけないとも言えませんとのこと、家内も少しならと言う。ではと私は小さなワイングラスに、とっておきの清酒「晋亮」を半分位、家内はビールで、ささやかな乾杯をした。この清酒は長男が私に送ってくれたもので、福島喜多方の笹正宗、ラベルには和紙に「晋亮」と墨書されている。久しぶりに家内と談笑できた。やはり我が家に優るものはない。
夜眠っていて、夢で、旅行の間、1日1回朝食後に飲む糖尿病治療薬が2日分必要なのに1日分しかないのに気付き、起きて確かめるとやはり1回分しかなく、翌朝旅行に出る前に病院へ取りに行くことにする。
4. 先ずは病院で薬を調達、そして飛騨の旅へ出立
翌朝7時半に家を出る。忘れた糖尿病薬、1日1回なだけにどうしても持参しなければならず、朝食の配膳の少し前に病室に戻り、薬を持って出た。家内からは、旅行の時などは必ず余分に持ちなさいと注意された。納得。
この日の朝は休日とあって、内灘町にある病院まではスイスイ、とはいっても 20km の道のり、順調でも40分はかかる。家内は私の我侭を聞き入れてくれて、朝と晩との2回、この道のりを毎日通ってくれた。往きか帰りかのどちらかにはラッシュにあうから、私のために毎日3ー4時間費やしてくれたことになる。巷の雀たちは、1日か2日に1回で十分よと言っているのにも拘らずにである。病室でも多くて1日1回、中には週に1回の人もいる。本当に申し訳なく、感謝々々である。
病院を出て、集合場所の金沢市上荒屋の宮田邸に行く。ここで歳頭のバア子ちゃんが前日急に体調不良で入院し、体調は復したものの、大事をとって参加しないと聞く。すると一行は9人ということに。私も入院していて参加が危ぶまれたが、入院のことは姪のマアちゃん以外には一切話していない。私は病院へ入って体重が4kgばかり減っていて、皆と会った折、少しスマートになったねと言われた以外は特に気付かれることはなかった。10時近く、2台に分乗して出発する。東京から来沢した石田夫妻を金沢駅近くのホテルへ寄って乗せ、いざ出発。
11月22・23日の外泊と23・24日の外出は、9階の病室にいる時からお願いしてあって、主治医の先生にも了解を得ていたが、6階へ移って主治医の先生が代わるに及んで不安が過った。しかし9階の私の担当の受持ち看護婦さんと6階の主任看護婦さんの絶妙の連携と尽力で、6階に移った当日の22日に許可になった。本当に感謝・感激だった。しかし治療とインシュリンの自己注射の確認があったために、外泊と外出の許可は、22日の午後8時から24日午後5時までとの制約が入った。それにしても快哉。
私が入院して以来、家内は酒断ちをしていたという。勿論私も隠し酒などしていない。不思議なもので、入院していると、特にお酒を欲しいと思うことはなかった。また禁断症状なども全く出なかった。家内に迎えに来てもらい、久しぶりに我が家の敷居をまたいだ。病院ではシャワーなどはしたが、入浴はなく、家では先ずゆっくりと風呂に入りたく、ゆったり浸かった。久しぶりに家内に背中を流してもらったが、垢がボロボロ、実に爽快だった。風呂から上がると無性に一寸一杯欲しくなった。病院にいる時、担当の看護婦さんに、恐る恐る外泊の時の飲酒について尋ねると、飲みなさいとは言えないけれど、飲んではいけないとも言えませんとのこと、家内も少しならと言う。ではと私は小さなワイングラスに、とっておきの清酒「晋亮」を半分位、家内はビールで、ささやかな乾杯をした。この清酒は長男が私に送ってくれたもので、福島喜多方の笹正宗、ラベルには和紙に「晋亮」と墨書されている。久しぶりに家内と談笑できた。やはり我が家に優るものはない。
夜眠っていて、夢で、旅行の間、1日1回朝食後に飲む糖尿病治療薬が2日分必要なのに1日分しかないのに気付き、起きて確かめるとやはり1回分しかなく、翌朝旅行に出る前に病院へ取りに行くことにする。
4. 先ずは病院で薬を調達、そして飛騨の旅へ出立
翌朝7時半に家を出る。忘れた糖尿病薬、1日1回なだけにどうしても持参しなければならず、朝食の配膳の少し前に病室に戻り、薬を持って出た。家内からは、旅行の時などは必ず余分に持ちなさいと注意された。納得。
この日の朝は休日とあって、内灘町にある病院まではスイスイ、とはいっても 20km の道のり、順調でも40分はかかる。家内は私の我侭を聞き入れてくれて、朝と晩との2回、この道のりを毎日通ってくれた。往きか帰りかのどちらかにはラッシュにあうから、私のために毎日3ー4時間費やしてくれたことになる。巷の雀たちは、1日か2日に1回で十分よと言っているのにも拘らずにである。病室でも多くて1日1回、中には週に1回の人もいる。本当に申し訳なく、感謝々々である。
病院を出て、集合場所の金沢市上荒屋の宮田邸に行く。ここで歳頭のバア子ちゃんが前日急に体調不良で入院し、体調は復したものの、大事をとって参加しないと聞く。すると一行は9人ということに。私も入院していて参加が危ぶまれたが、入院のことは姪のマアちゃん以外には一切話していない。私は病院へ入って体重が4kgばかり減っていて、皆と会った折、少しスマートになったねと言われた以外は特に気付かれることはなかった。10時近く、2台に分乗して出発する。東京から来沢した石田夫妻を金沢駅近くのホテルへ寄って乗せ、いざ出発。
2013年12月17日火曜日
とある会の旅行にまつわることども(その1)
1.とある会のメンバー
とある会とはとある会のことで、もうかれこれ数年は続いている。昨年の京都行きでは「京都へ行こまい会」という名称だった。ところで今年は幹事の高島夫妻の娘さんがまだ京都にいるので、てっきり今年も京都行きだとばっかり思っていたところ、案内では今年は飛騨の福地温泉だという。高島夫妻は揃って中学校の先生、とても世話好きである。この会のメンバーは10人、メンバーの選定には誰が当たったのかは定かではないが、これまでにも何回か温泉行きがあり、ほぼ顔ぶれは決まっている。
メンバーは端的に言えば、宮田一統が中心と言える。その第一世代は旧西野三姉妹、長女のバア子ちゃん(私が勝手にそう呼んでいる)は現宮田姓、二女のおレイさん(前に同じ)は東京在住(現石田姓)、そして三女は私の家内(現木村姓)、この会にはその連れ合いも入会資格があるとのこと、ほかに西野姓の男の兄弟も2人いるが、この会のメンバーには入っていない。次の第2世代には、長姉の子の三姉妹の、マアちゃん(現宮田姓)、ミキちゃん(現早川姓)、ヨッコちゃん(現高島姓)とその連れ合いである。これで単純に計算すると、固定メンバーは12人になるが、バア子ちゃんの旦那(宮田家の当主)は今回も旅行には参加せず、またマアちゃんの旦那は既に他界していて参加はできない。ということで、このとある会のメンバーは10人ということになる。このうち石田さん夫妻は東京住まいだが、他は金沢やその近郊に住んでいて、連絡は取りやすい。
それで今年の旅行は、11月23日 (土曜・勤労感謝の日) と翌24日 (日曜) にすると、高島夫妻から連絡があった。私は今年もぜひ参加したいと思っていたが、俄に暗雲が去来した。
2.思いもよらない入院で、参加が危ぶまれる事態に
私は一度は郡上八幡の街をブラついてみたいと思っていた。それが実現したのは11月3日の文化の日 (日曜) 、ところがこの日の夕食後に吐き下して悪寒があり、暖房して一夜を過ごした。それで翌日は観光を止めて、早々に帰宅することに、来る時は私が運転してきたが、帰りは長いトンネルは苦手という家内も、勇をこして運転してくれ、帰宅した。
この日は長男が泊まるので、次男も呼び宴を催すことにしていたが、とても飲み食いする状況でなく、私は風邪薬を飲んで臥せっていた。翌朝、帰浜する長男を小松空港にまで車で送る積もりにしていたが、長男に拒否され、休養することに。近医へ受診しようかと迷ったが、取り敢えずは風邪薬を飲んで様子を見ることにし、7日は年2回のペースメーカー外来(金沢医科大学病院)なので、そこで受診すればよいと思っていた。この頃には息づかいも荒く、深く息を吸うと咳き込んで、胸部レントゲン写真を撮るのに難儀した。担当の心臓外科の先生は、ペースメーカーには問題はないと言われたが、呼吸が荒いのには全く言及されず、その診断は他で診察を受けて下さいと。家内が思わずこの病院で他の科を受診できませんかとお願いしても、それは私からは出来ないとのこと、胸部レントゲン写真では素人目にも真っ白でおかしいのにである。失望して診察室を出て廊下を歩いていると、その科の外来の主任と思われる看護婦さんが小走りに追って来られ、同じフロアの呼吸器内科の外来に案内してくれた。嬉しかった。その外来担当の先生は診察して即入院と言われ、先ずは安堵した。それから10日後、両側肺炎は随分と良くなった。そこで心配になったのは、23日と24日にある旅行のこと、恐る恐る先生に訊くと、それまでには退院できるでしょうとのこと、事実前日の22日には退院許可が出た。
ところが肺炎は良くなったものの、血糖値が異常に高く、主治医が呼吸器内科の先生から内分泌内科の先生へ変更になり、病室も9階の整形外科に間借りの病室から、内分泌内科の本来の6階の病室に移動となった。それも21日の予定がずれて22日に、さて旅行前日の22日と旅行当日の23日の外泊と、22、23日の外出は許可になるのか、雲行きが怪しくなってきた。万事休す。
とある会とはとある会のことで、もうかれこれ数年は続いている。昨年の京都行きでは「京都へ行こまい会」という名称だった。ところで今年は幹事の高島夫妻の娘さんがまだ京都にいるので、てっきり今年も京都行きだとばっかり思っていたところ、案内では今年は飛騨の福地温泉だという。高島夫妻は揃って中学校の先生、とても世話好きである。この会のメンバーは10人、メンバーの選定には誰が当たったのかは定かではないが、これまでにも何回か温泉行きがあり、ほぼ顔ぶれは決まっている。
メンバーは端的に言えば、宮田一統が中心と言える。その第一世代は旧西野三姉妹、長女のバア子ちゃん(私が勝手にそう呼んでいる)は現宮田姓、二女のおレイさん(前に同じ)は東京在住(現石田姓)、そして三女は私の家内(現木村姓)、この会にはその連れ合いも入会資格があるとのこと、ほかに西野姓の男の兄弟も2人いるが、この会のメンバーには入っていない。次の第2世代には、長姉の子の三姉妹の、マアちゃん(現宮田姓)、ミキちゃん(現早川姓)、ヨッコちゃん(現高島姓)とその連れ合いである。これで単純に計算すると、固定メンバーは12人になるが、バア子ちゃんの旦那(宮田家の当主)は今回も旅行には参加せず、またマアちゃんの旦那は既に他界していて参加はできない。ということで、このとある会のメンバーは10人ということになる。このうち石田さん夫妻は東京住まいだが、他は金沢やその近郊に住んでいて、連絡は取りやすい。
それで今年の旅行は、11月23日 (土曜・勤労感謝の日) と翌24日 (日曜) にすると、高島夫妻から連絡があった。私は今年もぜひ参加したいと思っていたが、俄に暗雲が去来した。
2.思いもよらない入院で、参加が危ぶまれる事態に
私は一度は郡上八幡の街をブラついてみたいと思っていた。それが実現したのは11月3日の文化の日 (日曜) 、ところがこの日の夕食後に吐き下して悪寒があり、暖房して一夜を過ごした。それで翌日は観光を止めて、早々に帰宅することに、来る時は私が運転してきたが、帰りは長いトンネルは苦手という家内も、勇をこして運転してくれ、帰宅した。
この日は長男が泊まるので、次男も呼び宴を催すことにしていたが、とても飲み食いする状況でなく、私は風邪薬を飲んで臥せっていた。翌朝、帰浜する長男を小松空港にまで車で送る積もりにしていたが、長男に拒否され、休養することに。近医へ受診しようかと迷ったが、取り敢えずは風邪薬を飲んで様子を見ることにし、7日は年2回のペースメーカー外来(金沢医科大学病院)なので、そこで受診すればよいと思っていた。この頃には息づかいも荒く、深く息を吸うと咳き込んで、胸部レントゲン写真を撮るのに難儀した。担当の心臓外科の先生は、ペースメーカーには問題はないと言われたが、呼吸が荒いのには全く言及されず、その診断は他で診察を受けて下さいと。家内が思わずこの病院で他の科を受診できませんかとお願いしても、それは私からは出来ないとのこと、胸部レントゲン写真では素人目にも真っ白でおかしいのにである。失望して診察室を出て廊下を歩いていると、その科の外来の主任と思われる看護婦さんが小走りに追って来られ、同じフロアの呼吸器内科の外来に案内してくれた。嬉しかった。その外来担当の先生は診察して即入院と言われ、先ずは安堵した。それから10日後、両側肺炎は随分と良くなった。そこで心配になったのは、23日と24日にある旅行のこと、恐る恐る先生に訊くと、それまでには退院できるでしょうとのこと、事実前日の22日には退院許可が出た。
ところが肺炎は良くなったものの、血糖値が異常に高く、主治医が呼吸器内科の先生から内分泌内科の先生へ変更になり、病室も9階の整形外科に間借りの病室から、内分泌内科の本来の6階の病室に移動となった。それも21日の予定がずれて22日に、さて旅行前日の22日と旅行当日の23日の外泊と、22、23日の外出は許可になるのか、雲行きが怪しくなってきた。万事休す。
2013年12月13日金曜日
郡上八幡での出来事
私はこれまで郡上八幡を通過したことはあるが、街に降り立ったことはなく、この静かな山間の街に何となく憧れ、一度は出かけたいと思っていた。家内と相談して出かける日は11月3日の文化の日(日)と翌日の4日(振替休日・月)、宿は懇意にしている北陸交通の方に世話してもらった。出かける日の天候は曇り後雨の予報、家を朝8時頃に出て、北陸道から東海北陸道へ、あの日本では2番目に長い飛騨トンネルの 10,710mはさすがに長い。ひるが野高原 PA で休憩をと思っていたが、着く手前には「ひるが野高原 PA は休日は大変混雑しています」という横断幕、着くと本当にその通り、本当に芋の子を洗うような混雑、他の PA は閑散としているのにである。本当に1台も停める余地がない始末、そこで家内の機転で、橋となっている通路の脇に車を停めた。監視員がいたら駄目だったろう。
ここ蛭ヶ野からは、両白山地の南端に位置する大日岳が真正面に見える。晴れていれば見える白山は雲の中、こんな状況でも大型の観光バスもここで停まるから、その混雑たるや想像を絶する。軽食をとり、早々に郡上八幡へと向かう。今日の予定は、お薦めの街の南の山中にある大滝鍾乳洞を見て、街の蕎麦屋で昼食をとり、城山にある宿へ入り、そこから近くにある郡上八幡城を見て、宿へ戻るというものだ。先ずは鍾乳洞へ、山間を縫う大規模林道を通りどんどん標高を上げると、やがて広い空間が現れ、そこには沢山の車が駐車している。見ると鍾乳洞へ入る人もいようが、そこには釣り堀あり、バーベキューもでき、周囲には土産物屋も多く、ちょっとした野外観光地の様相を呈している。それでこの時間に鍾乳洞へ入るのは、私たちと子供連れの2組のみ、入口へ案内されると、目の前には10人ばかり乗れるトロッコ、これに乗るとウインチで高さで 50m ばかり引き上げてくれる。そして終点が鍾乳洞の入り口になっている。
入口から出口までは凡そ30分とある。洞穴へ入る。明かりは点いてはいるが、通路は狭く歩きにくい。くねくねした狭い通路を上がったり下がったり、でも総じて上りが多い。所々に名称が付けられてはいるが、何とも規模が小さく、チャチである感は拭えない。最後に狭くてすごく急な階段をかなり下ると出口に出た。来る時にトロッコを降りた場所を下に見下ろせる場所だった。ここからは下の広場に向かって、杉の木立の中を小道が付いている。連れの子供が先頭になって、走るように下って行った。私たちはゆっくり下る。広場の周りには食べ物屋も多くあるが、一度街へ下りてから蕎麦屋に寄ることにする。
先ず第一候補は本町の「そばの平甚」、でも店の前には長い行列、それに近くの駐車場はどこも満タン、諦めて第二候補の鍛冶屋町の「蕎麦正まつい」へ、でも近くに駐車場が見つからず、仕方なく3軒目の「そば八」へ、ここは町外れで、長良川に沿った国道 256 号線にある店、さすが街の観光客もここまでは足を延ばせず、店の前の駐車場に車を停める。古い潜り戸の方は閉まっていて、土産物屋を通って入ることになっている。家内はこんな蕎麦屋は不安だという。店に入ると、ガラス戸の向こうで親父が太い一本棒を使ってそばを打っているのが見える。ここのそばは手打ちだという証にはなる。食堂はかなり広い。私たちは入口に近い一角に座り、天ぷらそばを注文する。他に客は10人ばかり、待つこと暫くして注文の品が届く。天ぷらもそばも大盛り、天ぷらは地元の野菜、私はビールと地酒で頂く。運転は家内と交代だ。そばは見た目は生粉打ち、ただかなりの太打ち、1本を手繰ると、これはダンゴの味、手打ちには間違いないが、太い棒状のそばは正にそば団子、もしこれをもう少し伸して薄く切ったとしたら、バラバラかキレギレになるだろう。天ぷらはともかく、そばは半分以上残してしまった。家内の舌は私よりもっと厳しく、3分の2は残したろう。隣のテーブルに子連れの夫婦が入ってきたが、私たちがそばを沢山残したのを見て、目をパチクリしていた。早々に引き上げた。量も多かったが、久しぶりに実に不味いそばに遭遇した。雨の中、宿へ向かう。
小雨の中、ナビに従って、城山にあるホテルへ向かう。宿のホテル積翠園に着くと、駐車場はほぼ満タン、案内板では地元の方が旭日双光賞を叙勲されたとかで、その祝賀会とのことである。荷物をフロントに預け、すぐ近くの城へは雨なので車で出かける。城への道路は一方通行のため、一旦城へ上がる道路に続く広場にまで下りる。城への道は、上の城にある駐車場の関係で、係員が誘導している。歩いて城へ行く人もかなり多いが、車道と歩道の区別はなく、雨の中難儀しているようだった。車は少しずつ動いている。どの位かかったろうか、漸く城の駐車場に着いた。駐車場は広くはなく、これでは渋滞もやむを得ないと納得する。
郡上八幡城は山城、小さいが中々堅固、一見城郭の部分は国宝丸岡城を思わせるものがあった。城は三層、高台の城とて眺めは良い。一通り巡って城を辞す。駐車場からの帰りは一方通行、城からあっという間にホテルへ着けた。天気が良ければ、一方通行の車道を逆に辿れば、5分も歩けば城に着けそうな気がする。
ホテルでチェックインする。部屋は1階に2室、2階に3室のみ。1室4人で、最大20人、宴会がメインで、宿泊ホテルとしては大きくはない。荷物は運ばれていた。時間は午後4時20分、取り敢えずは風呂へ、風呂は沸かし湯、湯槽はそんなに大きくはない。でも1間に3間ばかり、子供2人連れのお父さんがいて、お湯に戯れている。私が入って一旦水遊びを中断したが、私がどうぞ続けて下さいと言ったところ、エスカレートして、泳いでターンばかりでなく、飛び込みも始めた。私が飛び込みもOKですよとは思ってもいなかったろう。でもこの時不覚にも、お湯を少し飲んでしまった。風呂から上がって部屋で寛ぐ。夕食は個室でと言われる。まだこの時点では体調も極めて良く、異常は全く感じられなかった。
案内があって個室へ、「木村様献立表」とある立派な料理、一通り説明を受ける。飲み物は料理に合わせ、赤ワインフルボトル1本とアサヒスーパードライ延べ3本、地酒で乾杯して水入らずの小宴会、ただどんな会話を交わしたのかは思い出せない。ゆっくり時間をかけて食事をした後、部屋で寛ぐ。その後心地よく眠りにつく。ところが夜半に私に異変が起きた。晴天の霹靂、胸がむかむかし、そして突然急に食べたものを全部は吐き下してしまった。風呂の水を飲んだからか、ただ覚えているのは吐物の中に黒い欠片のようなものがいくつか見えたことで、それが何だったのかは確かめていない。そしてその後、歯がガチガチして噛み合わない程の強烈な悪寒、ストーブを最強にして、布団を何枚も掛けても寒かった。家内は救急車でも呼ぼうかと思ったという。でも明け方になって漸く落ち着きが戻った。本当に何が起きたのか全く見当がつきかねた。ただその後痰の色が黒いのが気になった。でもその色はやがて鉄錆色に変わった。しかし身体の調子は回復し、少々の脱力感はあるものの、熱もなく、ただ食欲はなく、朝食は止めにした。今日は街中を散策する予定だったが、すぐ家に帰ることに、運転は家内にお願いした。
〔閑話休題〕
帰宅した11月4日は横浜から長男が帰郷していたこともあって、晩に次男家族も招いて会食することにしていたが、私は何となく身体がだるく、臥せていた。本来ならかかりつけの舩木病院へ受診するのが当然なのだが、実は3日後の11月7日にペースメーカーの検診で金沢医科大学病院へ行くことになっていて、血液検査、心電図、胸部X線検査をするので、その時に正確に診断されればと思い、当面は軽い脱力感のみなので、その日まで静かに過ごそうと思った。ただ帰宅後も2日間、あの鉄錆色の痰が続いたのが気掛かりだった。だがこの辺りの受診の判断は意見の分かれるところである。
11月7日、正午近く、私のみでは不安だと、家内は病院を休んで金医大病院まで運転手兼付き添いで同行してくれた。心強かった。感謝々々。この日の心臓外科のペースメーカー外来の受付は 13〜15時、3つの検査は原則必要な検査、更にペースメーカーの機械的なチェックを済ませてM先生の診断を待つ。ただ胸部X線撮影の時、息を吸ってと言われても深呼吸ができず、咳き込んでしまったのが気掛かりだった。順番が来て診察室へ入る。このM先生には過去3年間ばかり診てもらっているが、いつも丁寧に説明してくれるのに、この日はその説明がなく、ペースメーカーには特に問題はないという。でも肺のレントゲン写真は真っ白で、家内が肺の方はどうですかと言うと、異常だと言う。ではこの病院のしかるべき診療科を紹介してほしいと言うと、私はそういう他科への斡旋や紹介は一切していないので、貴女の方で何処かへ受診して下さいとのこと、正にけんもほろろ、この病院では個人での初診は無理とのこと、それじゃ家から近い日赤病院にでも行こうかと、とぼとぼと診察室を後にした。すると年配の看護婦さんが小走りに後を追って来られて、同じフロアにある呼吸器内科へ案内してくれた。一旦捨てられたのに、助けていただいたあの方はまさに天使、本当に嬉しく、これで助かったと思った。この日に担当の女医さんのF先生は、X線写真を診られ、聴診器を当て、すぐに入院して下さいとのこと、とにかく一晩は絶対安静にして下さいとのこと、呼吸器内科にはベッドの空きはなく、緊急に整形外科の病棟に間借りすることになった。この日から4週間の病院生活が始まった。
ここ蛭ヶ野からは、両白山地の南端に位置する大日岳が真正面に見える。晴れていれば見える白山は雲の中、こんな状況でも大型の観光バスもここで停まるから、その混雑たるや想像を絶する。軽食をとり、早々に郡上八幡へと向かう。今日の予定は、お薦めの街の南の山中にある大滝鍾乳洞を見て、街の蕎麦屋で昼食をとり、城山にある宿へ入り、そこから近くにある郡上八幡城を見て、宿へ戻るというものだ。先ずは鍾乳洞へ、山間を縫う大規模林道を通りどんどん標高を上げると、やがて広い空間が現れ、そこには沢山の車が駐車している。見ると鍾乳洞へ入る人もいようが、そこには釣り堀あり、バーベキューもでき、周囲には土産物屋も多く、ちょっとした野外観光地の様相を呈している。それでこの時間に鍾乳洞へ入るのは、私たちと子供連れの2組のみ、入口へ案内されると、目の前には10人ばかり乗れるトロッコ、これに乗るとウインチで高さで 50m ばかり引き上げてくれる。そして終点が鍾乳洞の入り口になっている。
入口から出口までは凡そ30分とある。洞穴へ入る。明かりは点いてはいるが、通路は狭く歩きにくい。くねくねした狭い通路を上がったり下がったり、でも総じて上りが多い。所々に名称が付けられてはいるが、何とも規模が小さく、チャチである感は拭えない。最後に狭くてすごく急な階段をかなり下ると出口に出た。来る時にトロッコを降りた場所を下に見下ろせる場所だった。ここからは下の広場に向かって、杉の木立の中を小道が付いている。連れの子供が先頭になって、走るように下って行った。私たちはゆっくり下る。広場の周りには食べ物屋も多くあるが、一度街へ下りてから蕎麦屋に寄ることにする。
先ず第一候補は本町の「そばの平甚」、でも店の前には長い行列、それに近くの駐車場はどこも満タン、諦めて第二候補の鍛冶屋町の「蕎麦正まつい」へ、でも近くに駐車場が見つからず、仕方なく3軒目の「そば八」へ、ここは町外れで、長良川に沿った国道 256 号線にある店、さすが街の観光客もここまでは足を延ばせず、店の前の駐車場に車を停める。古い潜り戸の方は閉まっていて、土産物屋を通って入ることになっている。家内はこんな蕎麦屋は不安だという。店に入ると、ガラス戸の向こうで親父が太い一本棒を使ってそばを打っているのが見える。ここのそばは手打ちだという証にはなる。食堂はかなり広い。私たちは入口に近い一角に座り、天ぷらそばを注文する。他に客は10人ばかり、待つこと暫くして注文の品が届く。天ぷらもそばも大盛り、天ぷらは地元の野菜、私はビールと地酒で頂く。運転は家内と交代だ。そばは見た目は生粉打ち、ただかなりの太打ち、1本を手繰ると、これはダンゴの味、手打ちには間違いないが、太い棒状のそばは正にそば団子、もしこれをもう少し伸して薄く切ったとしたら、バラバラかキレギレになるだろう。天ぷらはともかく、そばは半分以上残してしまった。家内の舌は私よりもっと厳しく、3分の2は残したろう。隣のテーブルに子連れの夫婦が入ってきたが、私たちがそばを沢山残したのを見て、目をパチクリしていた。早々に引き上げた。量も多かったが、久しぶりに実に不味いそばに遭遇した。雨の中、宿へ向かう。
小雨の中、ナビに従って、城山にあるホテルへ向かう。宿のホテル積翠園に着くと、駐車場はほぼ満タン、案内板では地元の方が旭日双光賞を叙勲されたとかで、その祝賀会とのことである。荷物をフロントに預け、すぐ近くの城へは雨なので車で出かける。城への道路は一方通行のため、一旦城へ上がる道路に続く広場にまで下りる。城への道は、上の城にある駐車場の関係で、係員が誘導している。歩いて城へ行く人もかなり多いが、車道と歩道の区別はなく、雨の中難儀しているようだった。車は少しずつ動いている。どの位かかったろうか、漸く城の駐車場に着いた。駐車場は広くはなく、これでは渋滞もやむを得ないと納得する。
郡上八幡城は山城、小さいが中々堅固、一見城郭の部分は国宝丸岡城を思わせるものがあった。城は三層、高台の城とて眺めは良い。一通り巡って城を辞す。駐車場からの帰りは一方通行、城からあっという間にホテルへ着けた。天気が良ければ、一方通行の車道を逆に辿れば、5分も歩けば城に着けそうな気がする。
ホテルでチェックインする。部屋は1階に2室、2階に3室のみ。1室4人で、最大20人、宴会がメインで、宿泊ホテルとしては大きくはない。荷物は運ばれていた。時間は午後4時20分、取り敢えずは風呂へ、風呂は沸かし湯、湯槽はそんなに大きくはない。でも1間に3間ばかり、子供2人連れのお父さんがいて、お湯に戯れている。私が入って一旦水遊びを中断したが、私がどうぞ続けて下さいと言ったところ、エスカレートして、泳いでターンばかりでなく、飛び込みも始めた。私が飛び込みもOKですよとは思ってもいなかったろう。でもこの時不覚にも、お湯を少し飲んでしまった。風呂から上がって部屋で寛ぐ。夕食は個室でと言われる。まだこの時点では体調も極めて良く、異常は全く感じられなかった。
案内があって個室へ、「木村様献立表」とある立派な料理、一通り説明を受ける。飲み物は料理に合わせ、赤ワインフルボトル1本とアサヒスーパードライ延べ3本、地酒で乾杯して水入らずの小宴会、ただどんな会話を交わしたのかは思い出せない。ゆっくり時間をかけて食事をした後、部屋で寛ぐ。その後心地よく眠りにつく。ところが夜半に私に異変が起きた。晴天の霹靂、胸がむかむかし、そして突然急に食べたものを全部は吐き下してしまった。風呂の水を飲んだからか、ただ覚えているのは吐物の中に黒い欠片のようなものがいくつか見えたことで、それが何だったのかは確かめていない。そしてその後、歯がガチガチして噛み合わない程の強烈な悪寒、ストーブを最強にして、布団を何枚も掛けても寒かった。家内は救急車でも呼ぼうかと思ったという。でも明け方になって漸く落ち着きが戻った。本当に何が起きたのか全く見当がつきかねた。ただその後痰の色が黒いのが気になった。でもその色はやがて鉄錆色に変わった。しかし身体の調子は回復し、少々の脱力感はあるものの、熱もなく、ただ食欲はなく、朝食は止めにした。今日は街中を散策する予定だったが、すぐ家に帰ることに、運転は家内にお願いした。
〔閑話休題〕
帰宅した11月4日は横浜から長男が帰郷していたこともあって、晩に次男家族も招いて会食することにしていたが、私は何となく身体がだるく、臥せていた。本来ならかかりつけの舩木病院へ受診するのが当然なのだが、実は3日後の11月7日にペースメーカーの検診で金沢医科大学病院へ行くことになっていて、血液検査、心電図、胸部X線検査をするので、その時に正確に診断されればと思い、当面は軽い脱力感のみなので、その日まで静かに過ごそうと思った。ただ帰宅後も2日間、あの鉄錆色の痰が続いたのが気掛かりだった。だがこの辺りの受診の判断は意見の分かれるところである。
11月7日、正午近く、私のみでは不安だと、家内は病院を休んで金医大病院まで運転手兼付き添いで同行してくれた。心強かった。感謝々々。この日の心臓外科のペースメーカー外来の受付は 13〜15時、3つの検査は原則必要な検査、更にペースメーカーの機械的なチェックを済ませてM先生の診断を待つ。ただ胸部X線撮影の時、息を吸ってと言われても深呼吸ができず、咳き込んでしまったのが気掛かりだった。順番が来て診察室へ入る。このM先生には過去3年間ばかり診てもらっているが、いつも丁寧に説明してくれるのに、この日はその説明がなく、ペースメーカーには特に問題はないという。でも肺のレントゲン写真は真っ白で、家内が肺の方はどうですかと言うと、異常だと言う。ではこの病院のしかるべき診療科を紹介してほしいと言うと、私はそういう他科への斡旋や紹介は一切していないので、貴女の方で何処かへ受診して下さいとのこと、正にけんもほろろ、この病院では個人での初診は無理とのこと、それじゃ家から近い日赤病院にでも行こうかと、とぼとぼと診察室を後にした。すると年配の看護婦さんが小走りに後を追って来られて、同じフロアにある呼吸器内科へ案内してくれた。一旦捨てられたのに、助けていただいたあの方はまさに天使、本当に嬉しく、これで助かったと思った。この日に担当の女医さんのF先生は、X線写真を診られ、聴診器を当て、すぐに入院して下さいとのこと、とにかく一晩は絶対安静にして下さいとのこと、呼吸器内科にはベッドの空きはなく、緊急に整形外科の病棟に間借りすることになった。この日から4週間の病院生活が始まった。
2013年11月5日火曜日
ゼレン会 in 松島(その2)
第2日 10月15日(月) 松島ー遠刈田ー蔵王ー山形ー仙台市秋保温泉「ホテルニュー水戸屋」
午前8時に宿を出て、小型バスで遠刈田温泉(蔵王町)にある「みやぎ蔵王こけし館」に向かう。ここには東北地方各地の系統のコケシの名のある職人の作品が系統別に整理して陳列されていて、居ながらにしてその全容を知ることができる。円筒形の胴の形やそこに描彩される模様や、丸い頭の形や面相にはそれぞれ特徴があり、飽きずに眺めた。次いで蔵王エコーラインを通り蔵王へと向かう。過去には有料道路だったそうだが、現在は無料とか、見える山々には雲がかかっているが、はたして蔵王のシンボルでもある御釜のエメラルドグリーンを観ることができるのかと不安がよぎる。見えなければ来た甲斐がないというもの、天候が気になる。これまで3度来て晴れだったのは1回のみ、一度は雨とガスの中、刈田岳 (1670m) から熊野岳 (1841m)、地蔵山 (1736m) まで縦走したこともある。中腹では紅葉が始まっていて、標高が上がるにつれて色づきが綺麗になる。刈田峠からは有料道路の蔵王ハイラインに入り刈田岳に向かう。ここではウラジロナナカマドの葉はもう散っていて、赤い実が残っているのみ、ガスが去来し寒い。バスを降り、御釜へ歩を進める。尾根へ出ると、時折雲の切れ間から御釜が見えている。御釜の色は天候によっても変化し、晴天ならばコバルトブルーだが、今日は淡いエメラルドグリーン、でも初めてのお人にとっては見えていて良かった.
バスに戻り、蔵王エコーラインを西へ向かって下り、山形県上山 (かみのやま)市へと向かう。ほぼ1時間の山下りで、目的地の上山市にある山形県観光物産館に着く。ここで昼食をとり、土産を買う。私も幹事に勧められた乾燥トマトを求めた。再び車で、ここへは蔵王の南側から入ったが、帰りは北側に回り、山形上山 IC から山形自動車道に上がり、東北自動車道の宮城仙台 IC で下り仙台へ、ここまでは周りが本当の田舎風景だったのに、トンネルを2つ抜けた途端に仙台のど真ん中に躍り出た。これには皆さん驚かれるというが、本当に度肝を抜かれた。仙台駅でこの日のうちに九州へ帰られるMさんを下ろし、青葉城址へ向かう。ここは伊達政宗の居城跡、徳川家康に恭順の意を示すために天守閣を置かなかったとか。天守台からは仙台市を俯瞰でき、その先には太平洋までをも見渡せる。城跡には伊達正宗の騎馬像が立つ。山を下りて、今宵の宿の秋保 (あきう) 温泉へ向かう。市の中心部から、車で30分ばかり、名取川に沿って温泉街がある。私は秋保大滝を見たいと添乗の S さん話したところ、温泉から更に奥へ車で10分もかかるとか、これでは断念せざるを得ない。宿のホテルニュー水戸屋は温泉街の丁度真ん中辺り、道を挟んだ向かい側には伊達家縁の伝承千年の宿佐助がある。ここの温泉の泉質は、ナトリウム・カルシウムー塩化物泉、いわゆる低張性中性温泉で、遥か古墳時代に開湯されたとか、「名取の御湯」として有馬、道後とともに「日本の三御湯」として湯治場としても知られ、伊達藩の御殿湯でもあったという。宿に着き、早速温泉に入る。ここには薬師の湯と称する大きな浴場が3つあり、それぞれに趣きが異なり、「水心殿」「月宮殿」「梅の粧」といい、男女入替制になっている。それぞれに庭園露天風呂がいくつか付属していて、広く退屈しない。
夕食は小宴会場で、東北の素材をふんだんに盛り込んだ旬の料理の数々、十分に堪能できた。外は雨になってきた。台風26号が接近しているという。明日は風雨が強まるとか。面々の半数はゴルフ、半数は中尊寺という予定だが、先ずゴルフは無理とのこと、ゴルフ組も中尊寺組へ合流することに。私は別途今晩は家内の姉夫婦と会いに東京に行くことに、天気予報が気がかりだが、食後は囲碁をしながら、観戦しながら、焼酎を飲みながら、駄弁って日が変わるまで歓談した。雨は降ってはいるが、風は強くない。
第3日 10月16日(水) 秋保温泉ー仙台駅ー東京
翌朝のテレビ放送では、台風の接近で仙台空港を発着する空の便は勿論のこと、東北新幹線も仙台駅以南は始発から運転を見合わすという。このような状況の中で、中尊寺行きも中止になった。明日は回復するとのことで、もし明日行くとすればもう1泊する必要があるが、幹事では早めに申し込まないと部屋が取れないおそれもあるとか、私は宿のマイクロバスが午前に2便出るが、その最初の便で仙台駅に行くのに予約しておいた。仙台駅に着いて改札で訊くと、ダイヤの見通しは全く立っていないという。私の乗る新幹線は午後1時半過ぎだったので、取りあえず時間つぶしに市内観光循環バスの「るーぷる仙台」に乗って市内を小観光することにする。途中で下車して施設や観光地を見て回れる1日乗車券は 600 円だが、下りなければ 250 円とか、私は乗りっぱなしの後者を選んだ。1周1時間15分、バスは何ともレトロ調なバス、一番前に乗って観光を楽しんだ。天候は小雨、風はない。
コースは、(1) 仙台駅前、(2) 青葉通り一番町、(3) 晩翠草堂前、(4) 瑞鳳殿前、(5) 博物館・国際センター前、(6) 仙台城跡、(7) 青葉山植物園ゲート前、(8) 理学部自然史標本館前、(9) 二高・宮城県美術館前、(10) 交通公園・三居沢水力発電所前、(11) 大崎八幡宮前、(12) 二高・宮城県美術館前、(13) メディアテーク前、(14) 定禅寺通り市役所前、(15) 地下鉄広瀬通駅、(1) 仙台駅前 となっている。乗って驚いたのは、運転手の方のおしゃべりの仕方が、観光バスのガイドに負けないくらい素晴らしいガイドをしてくれたことで、場所の説明ばかりでなく、故事来歴や催し物にも言及され、実に楽しい小観光であった。市内を蛇行している広瀬川を6回も渡り、その度に橋にまつわる話が出るし、また東北大学工学部の構内を通った時などには、東北大学の先生方の沢山の業績を述べてくれるなど、実に感心した。また東北大学植物園にはツキノワグマがいて、ここを通る工学部への近道は閉鎖になっているとか、とかく話題がつきず、あっというまの 75 分だった。この種の循環バスには、松本市や金沢市で乗ったことがあるが、説明が全くなく、これでは路線バスと何ら変わらず、とても循環観光バスとは言えない。
駅へ戻ると、午後1時頃から新幹線が動き出すらしいとのこと、でも私の乗る指定列車は運休とある。駅員に訊くと、払い戻すか、でなければ「みどりの窓口」で新たにキップを求めてくださいとのこと、窓口へ行くと正に長蛇の列、窓口にたどり着くのに1時間以上も要した。とんだハプニングだった。でもどうやら午後2時過ぎの新幹線に乗ることができ、危機を脱した。
東京への土産は、仙台土産定番の『牛タン」と「笹かま」にした。
午前8時に宿を出て、小型バスで遠刈田温泉(蔵王町)にある「みやぎ蔵王こけし館」に向かう。ここには東北地方各地の系統のコケシの名のある職人の作品が系統別に整理して陳列されていて、居ながらにしてその全容を知ることができる。円筒形の胴の形やそこに描彩される模様や、丸い頭の形や面相にはそれぞれ特徴があり、飽きずに眺めた。次いで蔵王エコーラインを通り蔵王へと向かう。過去には有料道路だったそうだが、現在は無料とか、見える山々には雲がかかっているが、はたして蔵王のシンボルでもある御釜のエメラルドグリーンを観ることができるのかと不安がよぎる。見えなければ来た甲斐がないというもの、天候が気になる。これまで3度来て晴れだったのは1回のみ、一度は雨とガスの中、刈田岳 (1670m) から熊野岳 (1841m)、地蔵山 (1736m) まで縦走したこともある。中腹では紅葉が始まっていて、標高が上がるにつれて色づきが綺麗になる。刈田峠からは有料道路の蔵王ハイラインに入り刈田岳に向かう。ここではウラジロナナカマドの葉はもう散っていて、赤い実が残っているのみ、ガスが去来し寒い。バスを降り、御釜へ歩を進める。尾根へ出ると、時折雲の切れ間から御釜が見えている。御釜の色は天候によっても変化し、晴天ならばコバルトブルーだが、今日は淡いエメラルドグリーン、でも初めてのお人にとっては見えていて良かった.
バスに戻り、蔵王エコーラインを西へ向かって下り、山形県上山 (かみのやま)市へと向かう。ほぼ1時間の山下りで、目的地の上山市にある山形県観光物産館に着く。ここで昼食をとり、土産を買う。私も幹事に勧められた乾燥トマトを求めた。再び車で、ここへは蔵王の南側から入ったが、帰りは北側に回り、山形上山 IC から山形自動車道に上がり、東北自動車道の宮城仙台 IC で下り仙台へ、ここまでは周りが本当の田舎風景だったのに、トンネルを2つ抜けた途端に仙台のど真ん中に躍り出た。これには皆さん驚かれるというが、本当に度肝を抜かれた。仙台駅でこの日のうちに九州へ帰られるMさんを下ろし、青葉城址へ向かう。ここは伊達政宗の居城跡、徳川家康に恭順の意を示すために天守閣を置かなかったとか。天守台からは仙台市を俯瞰でき、その先には太平洋までをも見渡せる。城跡には伊達正宗の騎馬像が立つ。山を下りて、今宵の宿の秋保 (あきう) 温泉へ向かう。市の中心部から、車で30分ばかり、名取川に沿って温泉街がある。私は秋保大滝を見たいと添乗の S さん話したところ、温泉から更に奥へ車で10分もかかるとか、これでは断念せざるを得ない。宿のホテルニュー水戸屋は温泉街の丁度真ん中辺り、道を挟んだ向かい側には伊達家縁の伝承千年の宿佐助がある。ここの温泉の泉質は、ナトリウム・カルシウムー塩化物泉、いわゆる低張性中性温泉で、遥か古墳時代に開湯されたとか、「名取の御湯」として有馬、道後とともに「日本の三御湯」として湯治場としても知られ、伊達藩の御殿湯でもあったという。宿に着き、早速温泉に入る。ここには薬師の湯と称する大きな浴場が3つあり、それぞれに趣きが異なり、「水心殿」「月宮殿」「梅の粧」といい、男女入替制になっている。それぞれに庭園露天風呂がいくつか付属していて、広く退屈しない。
夕食は小宴会場で、東北の素材をふんだんに盛り込んだ旬の料理の数々、十分に堪能できた。外は雨になってきた。台風26号が接近しているという。明日は風雨が強まるとか。面々の半数はゴルフ、半数は中尊寺という予定だが、先ずゴルフは無理とのこと、ゴルフ組も中尊寺組へ合流することに。私は別途今晩は家内の姉夫婦と会いに東京に行くことに、天気予報が気がかりだが、食後は囲碁をしながら、観戦しながら、焼酎を飲みながら、駄弁って日が変わるまで歓談した。雨は降ってはいるが、風は強くない。
第3日 10月16日(水) 秋保温泉ー仙台駅ー東京
翌朝のテレビ放送では、台風の接近で仙台空港を発着する空の便は勿論のこと、東北新幹線も仙台駅以南は始発から運転を見合わすという。このような状況の中で、中尊寺行きも中止になった。明日は回復するとのことで、もし明日行くとすればもう1泊する必要があるが、幹事では早めに申し込まないと部屋が取れないおそれもあるとか、私は宿のマイクロバスが午前に2便出るが、その最初の便で仙台駅に行くのに予約しておいた。仙台駅に着いて改札で訊くと、ダイヤの見通しは全く立っていないという。私の乗る新幹線は午後1時半過ぎだったので、取りあえず時間つぶしに市内観光循環バスの「るーぷる仙台」に乗って市内を小観光することにする。途中で下車して施設や観光地を見て回れる1日乗車券は 600 円だが、下りなければ 250 円とか、私は乗りっぱなしの後者を選んだ。1周1時間15分、バスは何ともレトロ調なバス、一番前に乗って観光を楽しんだ。天候は小雨、風はない。
コースは、(1) 仙台駅前、(2) 青葉通り一番町、(3) 晩翠草堂前、(4) 瑞鳳殿前、(5) 博物館・国際センター前、(6) 仙台城跡、(7) 青葉山植物園ゲート前、(8) 理学部自然史標本館前、(9) 二高・宮城県美術館前、(10) 交通公園・三居沢水力発電所前、(11) 大崎八幡宮前、(12) 二高・宮城県美術館前、(13) メディアテーク前、(14) 定禅寺通り市役所前、(15) 地下鉄広瀬通駅、(1) 仙台駅前 となっている。乗って驚いたのは、運転手の方のおしゃべりの仕方が、観光バスのガイドに負けないくらい素晴らしいガイドをしてくれたことで、場所の説明ばかりでなく、故事来歴や催し物にも言及され、実に楽しい小観光であった。市内を蛇行している広瀬川を6回も渡り、その度に橋にまつわる話が出るし、また東北大学工学部の構内を通った時などには、東北大学の先生方の沢山の業績を述べてくれるなど、実に感心した。また東北大学植物園にはツキノワグマがいて、ここを通る工学部への近道は閉鎖になっているとか、とかく話題がつきず、あっというまの 75 分だった。この種の循環バスには、松本市や金沢市で乗ったことがあるが、説明が全くなく、これでは路線バスと何ら変わらず、とても循環観光バスとは言えない。
駅へ戻ると、午後1時頃から新幹線が動き出すらしいとのこと、でも私の乗る指定列車は運休とある。駅員に訊くと、払い戻すか、でなければ「みどりの窓口」で新たにキップを求めてくださいとのこと、窓口へ行くと正に長蛇の列、窓口にたどり着くのに1時間以上も要した。とんだハプニングだった。でもどうやら午後2時過ぎの新幹線に乗ることができ、危機を脱した。
東京への土産は、仙台土産定番の『牛タン」と「笹かま」にした。
2013年11月2日土曜日
ゼレン会 in 仙台(その1)
ゼレン会というのは、昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した同窓生の会の名称で、原子番号 34 のセレンに因んで名付けられた。しかし何故「セ」が「ゼ」になっているかというと、当時はまだドイツ語読みが多かったこともあって、Selen をゼレンと呼んだことによる。同窓会は当初は10年おきだったのが5年になり、60歳になって皆さん定年になってからは2年おきに開かれるようになった。しかしゴルフ好きの連中は毎年集まってコンペを開いていたらしくて、それを皆が知ったのが7年前、以降は毎年の開催になって今に続いている。ただ東北大震災が起きた平成23年の仙台での開催は中止となった。
振り返ってみて、私たちが入学したのは昭和30年4月、40名が薬学部に入学した。ところで当時は教養課程が1年半、ここでは所定の単位は勿論、必須の教科をクリアしないと専門課程に進学できず、中でも難関は物理で、40名中7名が落とされ、ビーコンはしないとのことだったが、交渉で一度だけということで再試験されたものの、クリアしたのは1名のみ、こんなに留年したのは前代未聞、この年だけだったようだ。専門課程では何人かの留年組も合流し、学年は全部で38人、でも1名が病死、2名が長期病欠、卒業したのは35名だった。あれから54年、卒業後さらに7人が他界し、現在の同窓生は28名である。今回の出席者は夫婦1組を入れて15名で、ほぼ半数が参加したことになる。
今回の同窓会は仙台市在住のO君が世話し、会は1泊なのだが、翌日開催のゴルフ組はもう1泊するので、それに会わせて私たちももう1泊することにした。ここ数年、出席者は10名前後で、欠席理由の多くは体調の不調によるもの、また配偶者やお姑さんの介護、中にはまだ現役で活躍されていて参加できない人もいる。これまでずっと出て来られなかった人で、久しぶりに参加された方にはその重圧から解放された方もおいでるし、またこれまで毎回参加されていたのに、急な体調不調で参加できなくなった人もいる。こうした方々の安否を知りたいのだが、今回もそうだが、そんな情報はなかなか入って来ない。気がかりなことではある。
今回の会のスケジュールは、初日の10月14日(月)に宿泊先の「ホテル松島大観荘」に午後2時過ぎに集合し、遊覧船で松島湾内島巡り観光、その後五大堂と瑞巌寺に拝観して宿泊。2日目は貸切りバスで蔵王観光、その後山形市で昼食、仙台市へ戻り仙台城址を散策し、秋保温泉の「ホテルニュー水戸屋」で宿泊する。3日目はゴルフ組と平泉寺観光組とに分かれ、終了後帰郷する、という予定だ。
第1日 10月14日(月) 宮城県松島町(松島湾内巡り、五大堂、瑞巌寺)「ホテル松島大観荘」宿泊
金沢駅を 7:10 に発ち、越後湯沢、大宮を経由して仙台へ、そして仙石線で松島海岸駅へ、ここで同窓生6名が一緒になった。1年ぶりとて話に花が咲く。ここには宿泊先の大観荘のシャトルバスが迎えに来るはずなのだが、交通渋滞とかで20分も待たされた。バスはかなりの勾配の坂道を上り、ホテルに着いた。この山に建っているのはこのホテルのみ、風光明媚な松島湾をこのホテルだけが一望できる特権を与えられている。やがて航空機で来仙した人達も合流し、先ずは松島湾内島巡りへと出かけることに。O 幹事昵懇の宮城観光センター社長の S さんが自ら案内をかって出られ、機知とウイットに富んだ語り口に、都合1日半を全く退屈せずに過ごすことができ、実に楽しい会となった。
私たちの乗った小型バスは、一般の方達が乗船する場所でなく、別の場所へ、何とそれは中型の高速遊覧船一隻をチャーターしての湾内遊覧、すなわち大名遊覧だった。船名はマリンスター、遊覧時間は1時間半、湾外にまで出ての遊覧、過去2回来ているが、外洋まで出たのは初めてだった。昨年3月の東北大震災では、湾内 260 余ある島々が波消しブロックのような働きをして、松島海岸での潮位の上昇は僅かに1m だったとか。でも湾内の幾つかの島は崩れたり欠けたり、津波の影響が窺い知れた。遊覧後、船を下りてからは、妙齢の案内嬢に導かれて、先ずは五大堂へ、方角に合わせて干支が彫ってあることを初めて知った。平日だが相変わらず多くの客で賑わっていた。次いで瑞巌寺へ。参道の両脇には杉林があるが、かなり伐られている。その理由は地下にあるとのこと、この土地の下には岩盤があり、根が充分張れず、成長が止まり、枯死するのだそうだ。特に山門に向かって左側の杉の木はほとんど枯死し伐採されていた。その対策として、木をある程度の高さで伐り、その切り口の部分を雨水が入らないように覆いがしてあったが、何とも痛ましかった。寺は今修復中で中には入れないが、この寺は伊達家の菩提寺であるほかに、伊達家の隠し城の機能も持っているとか、これには驚いた。
夕食の宴はお座敷で、宴たけなわの折にはカラオケも飛び出し賑わった。中で秀逸だったのは、唯一夫婦で参加した N 君の奥さんが正式な日本舞踊を舞われたことで、周到にも着る着物、扇子などの小物、さらに音曲の装置までも持参され、正式な踊りを披露されたのには度肝を抜かれた。その後皆さんの近況報告もあり、お開き前には「名無し草」を皆で2回も高吟した。
振り返ってみて、私たちが入学したのは昭和30年4月、40名が薬学部に入学した。ところで当時は教養課程が1年半、ここでは所定の単位は勿論、必須の教科をクリアしないと専門課程に進学できず、中でも難関は物理で、40名中7名が落とされ、ビーコンはしないとのことだったが、交渉で一度だけということで再試験されたものの、クリアしたのは1名のみ、こんなに留年したのは前代未聞、この年だけだったようだ。専門課程では何人かの留年組も合流し、学年は全部で38人、でも1名が病死、2名が長期病欠、卒業したのは35名だった。あれから54年、卒業後さらに7人が他界し、現在の同窓生は28名である。今回の出席者は夫婦1組を入れて15名で、ほぼ半数が参加したことになる。
今回の同窓会は仙台市在住のO君が世話し、会は1泊なのだが、翌日開催のゴルフ組はもう1泊するので、それに会わせて私たちももう1泊することにした。ここ数年、出席者は10名前後で、欠席理由の多くは体調の不調によるもの、また配偶者やお姑さんの介護、中にはまだ現役で活躍されていて参加できない人もいる。これまでずっと出て来られなかった人で、久しぶりに参加された方にはその重圧から解放された方もおいでるし、またこれまで毎回参加されていたのに、急な体調不調で参加できなくなった人もいる。こうした方々の安否を知りたいのだが、今回もそうだが、そんな情報はなかなか入って来ない。気がかりなことではある。
今回の会のスケジュールは、初日の10月14日(月)に宿泊先の「ホテル松島大観荘」に午後2時過ぎに集合し、遊覧船で松島湾内島巡り観光、その後五大堂と瑞巌寺に拝観して宿泊。2日目は貸切りバスで蔵王観光、その後山形市で昼食、仙台市へ戻り仙台城址を散策し、秋保温泉の「ホテルニュー水戸屋」で宿泊する。3日目はゴルフ組と平泉寺観光組とに分かれ、終了後帰郷する、という予定だ。
第1日 10月14日(月) 宮城県松島町(松島湾内巡り、五大堂、瑞巌寺)「ホテル松島大観荘」宿泊
金沢駅を 7:10 に発ち、越後湯沢、大宮を経由して仙台へ、そして仙石線で松島海岸駅へ、ここで同窓生6名が一緒になった。1年ぶりとて話に花が咲く。ここには宿泊先の大観荘のシャトルバスが迎えに来るはずなのだが、交通渋滞とかで20分も待たされた。バスはかなりの勾配の坂道を上り、ホテルに着いた。この山に建っているのはこのホテルのみ、風光明媚な松島湾をこのホテルだけが一望できる特権を与えられている。やがて航空機で来仙した人達も合流し、先ずは松島湾内島巡りへと出かけることに。O 幹事昵懇の宮城観光センター社長の S さんが自ら案内をかって出られ、機知とウイットに富んだ語り口に、都合1日半を全く退屈せずに過ごすことができ、実に楽しい会となった。
私たちの乗った小型バスは、一般の方達が乗船する場所でなく、別の場所へ、何とそれは中型の高速遊覧船一隻をチャーターしての湾内遊覧、すなわち大名遊覧だった。船名はマリンスター、遊覧時間は1時間半、湾外にまで出ての遊覧、過去2回来ているが、外洋まで出たのは初めてだった。昨年3月の東北大震災では、湾内 260 余ある島々が波消しブロックのような働きをして、松島海岸での潮位の上昇は僅かに1m だったとか。でも湾内の幾つかの島は崩れたり欠けたり、津波の影響が窺い知れた。遊覧後、船を下りてからは、妙齢の案内嬢に導かれて、先ずは五大堂へ、方角に合わせて干支が彫ってあることを初めて知った。平日だが相変わらず多くの客で賑わっていた。次いで瑞巌寺へ。参道の両脇には杉林があるが、かなり伐られている。その理由は地下にあるとのこと、この土地の下には岩盤があり、根が充分張れず、成長が止まり、枯死するのだそうだ。特に山門に向かって左側の杉の木はほとんど枯死し伐採されていた。その対策として、木をある程度の高さで伐り、その切り口の部分を雨水が入らないように覆いがしてあったが、何とも痛ましかった。寺は今修復中で中には入れないが、この寺は伊達家の菩提寺であるほかに、伊達家の隠し城の機能も持っているとか、これには驚いた。
夕食の宴はお座敷で、宴たけなわの折にはカラオケも飛び出し賑わった。中で秀逸だったのは、唯一夫婦で参加した N 君の奥さんが正式な日本舞踊を舞われたことで、周到にも着る着物、扇子などの小物、さらに音曲の装置までも持参され、正式な踊りを披露されたのには度肝を抜かれた。その後皆さんの近況報告もあり、お開き前には「名無し草」を皆で2回も高吟した。
2013年10月31日木曜日
シンリョウのツブヤキ(3)
● キチジョウソウ
今年も例年の如く沢初造園さんに庭の手入れをお願いした。以前は1日4人で3日かけて庭木の剪定をお願いしていたが、私も勤務を辞めて年金生活に入ったことから、延べ人数を半分の6人にしてもらった。それでも支払う費用は年金月額の半分を優に超えてしまう。庭木は放っておけないのが難である。ところで庭木ではないが、隣の敷地にまで枝を延ばしていたヨノキの枝を払ってもらい、その際藤棚のヤマフジも選定しようと言われお願いした。フジは蔓を四方八方に延ばしていたので、少し離れて生えているハゼノキやケンポナシにもまつわりついていた。ところで親方の言うには、ハゼは紅葉するから残せばいいが、ケンポナシは雑木だから元から伐ってしまった方がよいとのこと、お言葉に従って伐ってもらった。ところで伐って貰った後の木の根元を見ると、何か今まで見たことがない花が目に入った。早速図鑑で調べてみると、それはキチジョウソウの花だということが分かった。
キチジョウソウはユリ科キチジョウソウ属の植物で、山地のやや湿り気のある日陰に群生する多年草とある。家の裏庭にはずっと以前から2カ所に群生していて、半陰の場所にある群落は毎年広がり、私が以前山から採ってきて植栽したツルボの一画をも取り込む勢いである。でも期待はしているものの、花が咲いた試しがない。何故花の咲くのを待ち望んだかというと、この花が咲くと吉事があるという言い伝えがあるからで、それで吉祥草と名が付いたという。私はこれまで見たことがなかったから、これには驚いた。記述では、「晩秋、葉の間から高さ 10 ~ 13 cm の花茎を出し、淡紅色の花を穂状につける。花被はやや肉質で、長さ 8 - 13 mm 。液果は球形で紅紫色。花期は9−10月」とある。今その周囲にはコムラサキシキブが紅紫色の実を付けているが、同じような実が付くのだろうか。楽しみだ。
この草の記述を松村明の大辞泉に求めると、「ユリ科の常緑多年草。陰地に生え、茎は地表にはい、ひげ根を出す。葉は広線形。秋の終わりに、淡紫色の小花を穂状につけ、実は紅紫色。植えている家の吉事のときに花が開くという俗信がある。観音草。吉祥蘭」とある。
● アキチョウジ
いつか家内とドライブした時に、どこかの道の駅で求めた山野草の一つで、1株だったので消えたと思っていたのに、いつの間にか数株に増えて、可愛い紫色の唇形花が茂みの中に咲いていた。先に家内が咲いているのを見つけ、玄関の花生けにコムラサキシキブと一緒のに生けてあった。清楚な紫色と鮮やかな紅紫色の対比が面白い。
アキチョウジはシソ科ヤマハッカ属の植物で、図鑑の記述によると、「山地の木陰に生える 60 - 90 cm の多年草。葉は対生し柄があり狭卵形、まばらに毛があって先端は鋭く尖る。茎の先や葉の脇から花穂を出し、細毛のある短い花柄の先に青紫色の唇形花をつける。花冠の長さは 1.7 - 2 cm 。蕚の上唇は3裂し、裂片の先は鋭い。下唇は2裂する。和名は秋丁字で、秋に丁字形の花を開くことに由来する。花期は8−10月」とある。同属には、ヤマハッカ、ヒキオコシがあり、白山特産のハクサンカメバヒキオコシもこの属に入る。
● イヌカタヒバ
3年前のシンリョウのツブヤキで、『庭に昔はなかった草木が生えた(続き)」で、向かいの家の庭の岩に生えているイワヒバが私の家の前庭に飛んできて、岩ではなくて露地に生え出したと記したが、どうも形態に差があるように思えてならなかった。あれから3年、この羊歯は今や前庭のあちこちに繁茂していて、どんどん増えている。あるとき池畑怜伸著の「写真で見るシダ図鑑」(トンボ出版)を求め見ると、私がイワヒバと誤認していた羊歯は、同じイワヒバ科イワヒバ属のイヌカタヒバであることが判明した。記述によると、「イワヒバは暖地の日当りのよい岸壁に群生する・・とは言ってもよく人に採られて、今では人の手が届かない絶壁にしかその群生は見られない。和名のヒバはヒノキの葉に似ていることから。秋田・岩手辺から鹿児島に分布。これに対しカタヒバは、イワヒバが放射状に広がるのに対して、これは片側に垂れるからの和名で、少し湿り気のある岸壁に垂れ下がって群生し、その姿はなかなか美しい。分布は茨城・隠岐から屋久島」とある。そして参考としてイヌカタヒバが載っていた。それによると、「カタヒバによく似ており、本来は石垣島辺りの危急種だそうであるが、近頃サツキの鉢に付くなどして庭に広がり雑草化している。カタヒバとの区別点は、肉眼で見える範囲では、葉面にツヤがないほか、カタヒバは葉の背葉列が盛り上がり、葉に鋸歯がないのに対し、イヌカタヒバは葉の背葉列が平面的で、葉に鋸歯がある」とある。
今年も例年の如く沢初造園さんに庭の手入れをお願いした。以前は1日4人で3日かけて庭木の剪定をお願いしていたが、私も勤務を辞めて年金生活に入ったことから、延べ人数を半分の6人にしてもらった。それでも支払う費用は年金月額の半分を優に超えてしまう。庭木は放っておけないのが難である。ところで庭木ではないが、隣の敷地にまで枝を延ばしていたヨノキの枝を払ってもらい、その際藤棚のヤマフジも選定しようと言われお願いした。フジは蔓を四方八方に延ばしていたので、少し離れて生えているハゼノキやケンポナシにもまつわりついていた。ところで親方の言うには、ハゼは紅葉するから残せばいいが、ケンポナシは雑木だから元から伐ってしまった方がよいとのこと、お言葉に従って伐ってもらった。ところで伐って貰った後の木の根元を見ると、何か今まで見たことがない花が目に入った。早速図鑑で調べてみると、それはキチジョウソウの花だということが分かった。
キチジョウソウはユリ科キチジョウソウ属の植物で、山地のやや湿り気のある日陰に群生する多年草とある。家の裏庭にはずっと以前から2カ所に群生していて、半陰の場所にある群落は毎年広がり、私が以前山から採ってきて植栽したツルボの一画をも取り込む勢いである。でも期待はしているものの、花が咲いた試しがない。何故花の咲くのを待ち望んだかというと、この花が咲くと吉事があるという言い伝えがあるからで、それで吉祥草と名が付いたという。私はこれまで見たことがなかったから、これには驚いた。記述では、「晩秋、葉の間から高さ 10 ~ 13 cm の花茎を出し、淡紅色の花を穂状につける。花被はやや肉質で、長さ 8 - 13 mm 。液果は球形で紅紫色。花期は9−10月」とある。今その周囲にはコムラサキシキブが紅紫色の実を付けているが、同じような実が付くのだろうか。楽しみだ。
この草の記述を松村明の大辞泉に求めると、「ユリ科の常緑多年草。陰地に生え、茎は地表にはい、ひげ根を出す。葉は広線形。秋の終わりに、淡紫色の小花を穂状につけ、実は紅紫色。植えている家の吉事のときに花が開くという俗信がある。観音草。吉祥蘭」とある。
● アキチョウジ
いつか家内とドライブした時に、どこかの道の駅で求めた山野草の一つで、1株だったので消えたと思っていたのに、いつの間にか数株に増えて、可愛い紫色の唇形花が茂みの中に咲いていた。先に家内が咲いているのを見つけ、玄関の花生けにコムラサキシキブと一緒のに生けてあった。清楚な紫色と鮮やかな紅紫色の対比が面白い。
アキチョウジはシソ科ヤマハッカ属の植物で、図鑑の記述によると、「山地の木陰に生える 60 - 90 cm の多年草。葉は対生し柄があり狭卵形、まばらに毛があって先端は鋭く尖る。茎の先や葉の脇から花穂を出し、細毛のある短い花柄の先に青紫色の唇形花をつける。花冠の長さは 1.7 - 2 cm 。蕚の上唇は3裂し、裂片の先は鋭い。下唇は2裂する。和名は秋丁字で、秋に丁字形の花を開くことに由来する。花期は8−10月」とある。同属には、ヤマハッカ、ヒキオコシがあり、白山特産のハクサンカメバヒキオコシもこの属に入る。
● イヌカタヒバ
3年前のシンリョウのツブヤキで、『庭に昔はなかった草木が生えた(続き)」で、向かいの家の庭の岩に生えているイワヒバが私の家の前庭に飛んできて、岩ではなくて露地に生え出したと記したが、どうも形態に差があるように思えてならなかった。あれから3年、この羊歯は今や前庭のあちこちに繁茂していて、どんどん増えている。あるとき池畑怜伸著の「写真で見るシダ図鑑」(トンボ出版)を求め見ると、私がイワヒバと誤認していた羊歯は、同じイワヒバ科イワヒバ属のイヌカタヒバであることが判明した。記述によると、「イワヒバは暖地の日当りのよい岸壁に群生する・・とは言ってもよく人に採られて、今では人の手が届かない絶壁にしかその群生は見られない。和名のヒバはヒノキの葉に似ていることから。秋田・岩手辺から鹿児島に分布。これに対しカタヒバは、イワヒバが放射状に広がるのに対して、これは片側に垂れるからの和名で、少し湿り気のある岸壁に垂れ下がって群生し、その姿はなかなか美しい。分布は茨城・隠岐から屋久島」とある。そして参考としてイヌカタヒバが載っていた。それによると、「カタヒバによく似ており、本来は石垣島辺りの危急種だそうであるが、近頃サツキの鉢に付くなどして庭に広がり雑草化している。カタヒバとの区別点は、肉眼で見える範囲では、葉面にツヤがないほか、カタヒバは葉の背葉列が盛り上がり、葉に鋸歯がないのに対し、イヌカタヒバは葉の背葉列が平面的で、葉に鋸歯がある」とある。
2013年10月10日木曜日
ALS (アマロスシンドローム) になった私(その2)
(承前)
このドラマは約5年間の出来事を語っているが、この間にあまちゃんは年をとったにせよ、この間に格別進化したとは思えない。しかし本人自身が天野アキを演じられたこと自体、本当に幸せだったと思っているとコメントしているように、観ている私たちも、透明感があって、キラキラ輝いて見える彼女から何か元気をもらえたように思っている。思うに東京へ出て、もしアイドルになってしまう筋書きだったら、ここまで私も共感しなかったのではと思ったりする。この従来の朝ドラとは違う宮藤のシナリオが、このドラマが大勢の視聴者を引きつけた原動力になったに違いないと思っている。
この時期視聴率が高かったのは、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」と,TBS系列の日曜劇場「半沢直樹」で、ビデオリサーチの調査では後者が前者を上回っていた。後者では「やられたらやり返す。倍返しだ!」が決めゼリフで、これが視聴者の共感を呼んだという。週刊朝日での全国男女500人のアンケートによる調査では、どちらも観ていない人がほぼ半数、残りの3分の1ずつを、どちらも観たことがある、「あまちゃん」だけ観たことがある、「半沢直樹」だけ観たことがある、が同じように占め、男女ともほぼ同じ傾向だった。またどちらの作品により元気をもらえましたか?では、60代ではほぼ同数、50代以下では、前者が後者を上回っていた。
NHKの連続テレビ小説の放送は月〜土にあり、NHK総合では午前8:00 と再放送が午後0:45 にあり、前者を「朝あま」、後者を「昼あま」というそうだ。その後 BS でも放送していると言われ、以降は BS プレミアムで午前7:30 からの放送はかかさず観ることに、そして最終週にはその再放送の午後11:00 にも観る羽目になった。因みに通称は、前者が「早あま」、後者が「夜あま」というそうだ。また番組が済んでから知ったことだが、土曜日の午前9:00 からは1週間分をまとめて観られたというが、これは済んでから知ったので、後の祭りだった。ところで9月28日の最終回を見終えて、何となく喪失感を抱いているが、このような症状を「『あまちゃん』ロス症候群」というのだそうだ。週刊誌にはそのロス度を調べるチェックリストも載っていて、私が試みたところでは、『あまちゃん』ロス度は、最も軽い j1だった。その対処法としては、録画や DVD やブルーレイを観るというのが多く、ほかには起きがけにサウンドトラックを聴くとか、いずれにしてもそのうち時間が解決してくれるだろうというものだ。しかし全部が収録されている完全版は、DVD で税込み 51,870 円、ブルーレイだと 58,695 円と高価だ。そこで私が今計画しているのは、10月14日に放送される総集編の録画で、これには経験がないのと不在なので、息子の嫁はんにお願いしようと思っている。後は時間の経過を待とう。
彼女の過去を辿ると、2006年に雑誌「nicola」のモデルオーディションに応募して見事グランプリを獲得し、誌面デビューをしている。13歳だったという。2010年には映画「告白」で女優としてデビュー、その後数々のドラマに出演し、2012年には「カラスの親指」で第37回報知映画賞新人賞を受賞している。そして2013年には NHK 連続テレビ小説「あまちゃん」のヒロインに抜擢された。そして好評のうちに終わった今、今後はアクションものをやりたいとか、コメディエンヌになりたいとか話しているようだが、外野席からは今のままがよいとか、お色気路線がいいとか、ほかにもいろんな要望めいたこともあるようだが、あの子は何でも吸収できるキャパシティーを内に秘めているような気がしてならない。今後の成長に期待をしたい。
「あまちゃん」の最終週が始まる9月23日の前日の9月22日に、岩手県のとある会館で「あまちゃんファン感謝祭じぇじぇじぇ祭り!」が開催され、翌日の午前に40分にわたって NHK で放映された。3千人を超える観客を前にして、夏ばっぱの宮本信子、あまちゃんの能年玲奈、ベンさんこと塩見三省、その他の人達が撮影秘話などを披露し、会場は爆笑の渦だった。あまちゃん効果は絶大で、東北に33億円もの経済効果をもたらしたという。
このドラマは約5年間の出来事を語っているが、この間にあまちゃんは年をとったにせよ、この間に格別進化したとは思えない。しかし本人自身が天野アキを演じられたこと自体、本当に幸せだったと思っているとコメントしているように、観ている私たちも、透明感があって、キラキラ輝いて見える彼女から何か元気をもらえたように思っている。思うに東京へ出て、もしアイドルになってしまう筋書きだったら、ここまで私も共感しなかったのではと思ったりする。この従来の朝ドラとは違う宮藤のシナリオが、このドラマが大勢の視聴者を引きつけた原動力になったに違いないと思っている。
この時期視聴率が高かったのは、NHKの連続テレビ小説「あまちゃん」と,TBS系列の日曜劇場「半沢直樹」で、ビデオリサーチの調査では後者が前者を上回っていた。後者では「やられたらやり返す。倍返しだ!」が決めゼリフで、これが視聴者の共感を呼んだという。週刊朝日での全国男女500人のアンケートによる調査では、どちらも観ていない人がほぼ半数、残りの3分の1ずつを、どちらも観たことがある、「あまちゃん」だけ観たことがある、「半沢直樹」だけ観たことがある、が同じように占め、男女ともほぼ同じ傾向だった。またどちらの作品により元気をもらえましたか?では、60代ではほぼ同数、50代以下では、前者が後者を上回っていた。
NHKの連続テレビ小説の放送は月〜土にあり、NHK総合では午前8:00 と再放送が午後0:45 にあり、前者を「朝あま」、後者を「昼あま」というそうだ。その後 BS でも放送していると言われ、以降は BS プレミアムで午前7:30 からの放送はかかさず観ることに、そして最終週にはその再放送の午後11:00 にも観る羽目になった。因みに通称は、前者が「早あま」、後者が「夜あま」というそうだ。また番組が済んでから知ったことだが、土曜日の午前9:00 からは1週間分をまとめて観られたというが、これは済んでから知ったので、後の祭りだった。ところで9月28日の最終回を見終えて、何となく喪失感を抱いているが、このような症状を「『あまちゃん』ロス症候群」というのだそうだ。週刊誌にはそのロス度を調べるチェックリストも載っていて、私が試みたところでは、『あまちゃん』ロス度は、最も軽い j1だった。その対処法としては、録画や DVD やブルーレイを観るというのが多く、ほかには起きがけにサウンドトラックを聴くとか、いずれにしてもそのうち時間が解決してくれるだろうというものだ。しかし全部が収録されている完全版は、DVD で税込み 51,870 円、ブルーレイだと 58,695 円と高価だ。そこで私が今計画しているのは、10月14日に放送される総集編の録画で、これには経験がないのと不在なので、息子の嫁はんにお願いしようと思っている。後は時間の経過を待とう。
彼女の過去を辿ると、2006年に雑誌「nicola」のモデルオーディションに応募して見事グランプリを獲得し、誌面デビューをしている。13歳だったという。2010年には映画「告白」で女優としてデビュー、その後数々のドラマに出演し、2012年には「カラスの親指」で第37回報知映画賞新人賞を受賞している。そして2013年には NHK 連続テレビ小説「あまちゃん」のヒロインに抜擢された。そして好評のうちに終わった今、今後はアクションものをやりたいとか、コメディエンヌになりたいとか話しているようだが、外野席からは今のままがよいとか、お色気路線がいいとか、ほかにもいろんな要望めいたこともあるようだが、あの子は何でも吸収できるキャパシティーを内に秘めているような気がしてならない。今後の成長に期待をしたい。
「あまちゃん」の最終週が始まる9月23日の前日の9月22日に、岩手県のとある会館で「あまちゃんファン感謝祭じぇじぇじぇ祭り!」が開催され、翌日の午前に40分にわたって NHK で放映された。3千人を超える観客を前にして、夏ばっぱの宮本信子、あまちゃんの能年玲奈、ベンさんこと塩見三省、その他の人達が撮影秘話などを披露し、会場は爆笑の渦だった。あまちゃん効果は絶大で、東北に33億円もの経済効果をもたらしたという。
ALS(アマロスシンドローム)になった私(その1)
NHK連続テレビ小説の「あまちゃん」は9月28日の土曜日が最終回、惜しまれて視聴者の前から姿を消してしまった。平成25年4月1日に第1回が始まって以来、日曜を除く週6回、26週156回にわたって放映された。私はあまりテレビドラマを観る方ではないのだが、昨年 (1922) 6月末に勤務を辞めてサンデー毎日になってからは、朝の連ドラを観ようと思えば観られるようになった。石川県や予防医学協会へ勤務していた頃は、大概7時過ぎには家を出ていたから、連ドラなど全く縁がなかったに等しい。でも辞めてからは観る気があれば観られるわけで、現に前作の朝ドラは当初はテンポの良い快活な女の子が主役で、この女の子の役にもこのドラマの筋にも興味があり観ていたが、中途からはつまらなくなり、あまり観なくなった。
ところで次の朝ドラの「あまちゃん」は、前評判もさることながら、東北大震災を受けた岩手県の北三陸市(久慈市)が舞台になるということで、震災復興の応援のためにも観てやらねばと思うに至った。話はアイドルを夢見て24年前に上京した天野春子が、大向大吉の一計で母の天野夏が病気で入院したとの報を受けて、一人娘の天野アキを連れて24年ぶりに帰郷したところからドラマは始まる。
このドラマの企画がまとまって、脚本担当の宮藤官九郎 (くどう・かんくろう) や音楽担当の大友良英 (おおとも・よしひで) が、NHKの担当らと岩手県の久慈市を中心に取材したとき、彼らも当初は暗いイメージを抱いていたのに、現地での取材を進めているうちに、何とも明るいイメージが湧いてきたと、二人ともそれぞれが新聞や雑誌やテレビでその印象を語っていた。宮城県出身である宮藤さんは、現地取材をしていている間に、すんなり全26週のシナリオの大枠が出来上がったという。また大友さんも、三陸鉄道北リアス線 (北三陸鉄道 )に乗り、また北三陸の自然に接し、あのオープニングテーマのメロディーがすっと出来上がったと語っていた。あのメロディー、何とも軽快で、赤ちゃんから猫まで画面にかじりつくと聞いて、さもありなんと思った。夏の甲子園の高校野球選手権大会で、3校が応援歌に使っていたが、これには作曲者も本当にびっくりしていた。私もどうしてこんなにも早く取り入れられたのかと、本当に驚いた。それも決勝戦にまで鳴り響いたのだから何とも素晴らしい。彼はこのドラマで300を超す劇中曲を作り上げたという。
主役の「あまちゃん」こと天野アキを演じたのは能年玲奈 (のうねん・れな )、オーディションで1937人の中から抜擢されたという。封筒を手渡されて、中に入っていた紙に、「2013年の連続テレビ小説『あまちゃん』のヒロインは、能年玲奈さんに決定しました」と書かれていたのに、それは次のテストのセリフだとばっかり思って、覚えようと懸命になっていたというから可愛い大物だ。1993年の生まれというが、設定の高校生であっても全くの違和感がないかわゆい女の子である。生まれは兵庫県の山の中の出とか、それなのに海女として潜水に果敢に挑戦したのは凄い根性だ。それと凄くインパクトがあったのは、あの驚きの表現の「じぇ」という言葉、その程度に応じて「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」とエスカレートするのが何とも合理的で、さらに加えることで驚きをグレードアップできるのが素晴らしく、流行語になったというが、むべなるかなである。
ドラマの設定は2008年から震災を挟んだ2012年まで、ヒロインはあまちゃんなのだろうが、出演している皆さんがその場面々々で主役を共軛していて、ドラマを盛り上げていた。だからあまちゃんが上京して、本来なら東京が主舞台になるはずなのだが、随所に北三陸の舞台が現れ、両方同時進行する手法を用いたので、NHKのセットでは大変だったらしい。これも主役一辺倒になっていない気配りがあってこそで、大変良かったと思う。
さて、「あまちゃん」こと、ヒロインの天野アキを演じた能年玲奈についてだが、沢山の方が彼女について語っている。私が見たり聞いたりしたのは、NHK総合の午後1時半少し前から始まる「スタパ」(スタジオパークからこんにちわ)、ここにはかなりの共演者が出演したし、また同じくNHK総合の朝の番組「あさイチ」にも本人を始め何人かが出演した。また私が定期購読している朝日新聞や北國新聞、また週刊朝日でも、演出者や共演者が対談だったりインタビューだったりで彼女のことを述べている。そこで何故か共通して語られるのは、「彼女は天才だ」という言葉である。今まで多くの人がこの朝ドラのヒロインを演じてきたのに、これまでこんな評価のされ方があったのかと考えさせられた。その一端が「あさイチ」で、「あまちゃん」が終了した後に出演した際にそれを垣間見たような気がした。というのは、あの海千山千の有働アナが、ドラマ以外について質問をした時で、ドラマについては歯切れのよい答えが返るのに、その時は言葉選びもあってか返事に時間を要することがしばしばで、失礼にも待てずに話題を中断したり変えたりした。その後に出てきた共演の渡辺えりは逆にポンポン喋るので、時に質問をしているのはあなたではなくて能年さんですとか、自身はアメリカへ特派された実績もある才媛だが、今をときめくヒロインをギャフンと言わせたいような、あるいは変な顔つきを要求するような言動は見ていて噴飯ものだった。こんなに慎重で反応が遅いと思われる彼女なのに、一旦シナリオを手に取り演技をする段になると、途端に変身して信じられない変貌を遂げて、その場に最も相応しいキャストになるとのこと、このことが彼女を天才だと言わしめたのではと思った。(続く)
ところで次の朝ドラの「あまちゃん」は、前評判もさることながら、東北大震災を受けた岩手県の北三陸市(久慈市)が舞台になるということで、震災復興の応援のためにも観てやらねばと思うに至った。話はアイドルを夢見て24年前に上京した天野春子が、大向大吉の一計で母の天野夏が病気で入院したとの報を受けて、一人娘の天野アキを連れて24年ぶりに帰郷したところからドラマは始まる。
このドラマの企画がまとまって、脚本担当の宮藤官九郎 (くどう・かんくろう) や音楽担当の大友良英 (おおとも・よしひで) が、NHKの担当らと岩手県の久慈市を中心に取材したとき、彼らも当初は暗いイメージを抱いていたのに、現地での取材を進めているうちに、何とも明るいイメージが湧いてきたと、二人ともそれぞれが新聞や雑誌やテレビでその印象を語っていた。宮城県出身である宮藤さんは、現地取材をしていている間に、すんなり全26週のシナリオの大枠が出来上がったという。また大友さんも、三陸鉄道北リアス線 (北三陸鉄道 )に乗り、また北三陸の自然に接し、あのオープニングテーマのメロディーがすっと出来上がったと語っていた。あのメロディー、何とも軽快で、赤ちゃんから猫まで画面にかじりつくと聞いて、さもありなんと思った。夏の甲子園の高校野球選手権大会で、3校が応援歌に使っていたが、これには作曲者も本当にびっくりしていた。私もどうしてこんなにも早く取り入れられたのかと、本当に驚いた。それも決勝戦にまで鳴り響いたのだから何とも素晴らしい。彼はこのドラマで300を超す劇中曲を作り上げたという。
主役の「あまちゃん」こと天野アキを演じたのは能年玲奈 (のうねん・れな )、オーディションで1937人の中から抜擢されたという。封筒を手渡されて、中に入っていた紙に、「2013年の連続テレビ小説『あまちゃん』のヒロインは、能年玲奈さんに決定しました」と書かれていたのに、それは次のテストのセリフだとばっかり思って、覚えようと懸命になっていたというから可愛い大物だ。1993年の生まれというが、設定の高校生であっても全くの違和感がないかわゆい女の子である。生まれは兵庫県の山の中の出とか、それなのに海女として潜水に果敢に挑戦したのは凄い根性だ。それと凄くインパクトがあったのは、あの驚きの表現の「じぇ」という言葉、その程度に応じて「じぇじぇ」「じぇじぇじぇ」とエスカレートするのが何とも合理的で、さらに加えることで驚きをグレードアップできるのが素晴らしく、流行語になったというが、むべなるかなである。
ドラマの設定は2008年から震災を挟んだ2012年まで、ヒロインはあまちゃんなのだろうが、出演している皆さんがその場面々々で主役を共軛していて、ドラマを盛り上げていた。だからあまちゃんが上京して、本来なら東京が主舞台になるはずなのだが、随所に北三陸の舞台が現れ、両方同時進行する手法を用いたので、NHKのセットでは大変だったらしい。これも主役一辺倒になっていない気配りがあってこそで、大変良かったと思う。
さて、「あまちゃん」こと、ヒロインの天野アキを演じた能年玲奈についてだが、沢山の方が彼女について語っている。私が見たり聞いたりしたのは、NHK総合の午後1時半少し前から始まる「スタパ」(スタジオパークからこんにちわ)、ここにはかなりの共演者が出演したし、また同じくNHK総合の朝の番組「あさイチ」にも本人を始め何人かが出演した。また私が定期購読している朝日新聞や北國新聞、また週刊朝日でも、演出者や共演者が対談だったりインタビューだったりで彼女のことを述べている。そこで何故か共通して語られるのは、「彼女は天才だ」という言葉である。今まで多くの人がこの朝ドラのヒロインを演じてきたのに、これまでこんな評価のされ方があったのかと考えさせられた。その一端が「あさイチ」で、「あまちゃん」が終了した後に出演した際にそれを垣間見たような気がした。というのは、あの海千山千の有働アナが、ドラマ以外について質問をした時で、ドラマについては歯切れのよい答えが返るのに、その時は言葉選びもあってか返事に時間を要することがしばしばで、失礼にも待てずに話題を中断したり変えたりした。その後に出てきた共演の渡辺えりは逆にポンポン喋るので、時に質問をしているのはあなたではなくて能年さんですとか、自身はアメリカへ特派された実績もある才媛だが、今をときめくヒロインをギャフンと言わせたいような、あるいは変な顔つきを要求するような言動は見ていて噴飯ものだった。こんなに慎重で反応が遅いと思われる彼女なのに、一旦シナリオを手に取り演技をする段になると、途端に変身して信じられない変貌を遂げて、その場に最も相応しいキャストになるとのこと、このことが彼女を天才だと言わしめたのではと思った。(続く)
2013年9月30日月曜日
白川義員の「永遠の日本〕に見る日本の原風景〔14〕
(承前)
8.12 雲仙天草国立公園/天草諸島
(92)天草・龍仙島落日:この国立公園で、雲仙は長崎県、天草は熊本県に属している。天草は大きく上島と下島とに分けられ、写真になる被写体は圧倒的に下島に多く、下島でも西海岸と南端に集中している。この写真は下島南端の牛深の南西 8km の沖にある龍仙島を、牛深から先に延びている岬の突端まで行って望遠レンズで撮ったものである。日本で落日を撮ると、スモッグが邪魔をして、輝く夕日を撮るのは中々難しい。(93)天草・砂月海岸:下島の南端では、小さな岬が南西と南東に延びていて、岬に囲まれた奥にこの砂月海岸がある。青い海と空を分ける水平線が一直線で、波打ち際の白い波も一直線、見渡す限り人一人いない不思議な風景であった。(94)天草・大ヶ瀬夕景:下島の西海岸を走る国道 389 号線は別名サンセット・ラインと呼ばれて、夕日を満喫できる名所が続く。我々は海岸線まで下りて、大ヶ瀬の岩と落日を組み合わせて撮った。(95)天草・茂串海岸:ここも下島の西南端にある。写真の左方には白い砂浜の海水浴場があり、かつてNHKのロケ地になったことがあって、その記念碑が立っている。自然破壊である。
8.13 日南海岸国定公園/青島
(96)青島の日の出:宮崎県の青島は国の特別天然記念物に指定されている。周囲たった 1.5km、海抜 6m の小さな島の海岸が「鬼の洗濯板」といわれていて、岩が板状に数百メートルも規則正しく北東から南西に延びている。岩の板と朝日を撮った。(97)青島・浸食された岩:硬さの違う砂岩と泥岩が重なった岩盤がこの辺り一帯を覆っていて、それが長い年月の間に浸食され、柔らかい層が洗い流され、独特な波状岩が形成された。干潮時には沖合に 100m も現れる。(98)青島・鬼の洗濯板:青島の地元では「鬼の洗濯岩」と呼んでいたが、今の名前に統一した。いずれにしても、岩石の柔らかい層が波に浸食されて今日の姿になった。(99)青島・岩面の造形:柔らかい岩層が、長い年月の間に波に浸食されて、硬い岩だけが残ったとしても、その岩膚を見ると、とても繊細な模様なのに驚く。
8.14 霧島錦江湾国立公園/薩摩半島
(100)開聞岳朝陽:薩摩半島の南端に南九州市があり、その海岸に番所鼻自然公園がある。ここの海岸に出ると、この風景に出くわす。右に見える端正な三角形の山が標高 924m の開聞岳である。(101)長崎鼻の岩礁:薩摩半島の最南端の突端にあるのが長崎鼻で、ここから眺める開聞岳が最高と言われている。それでその反対側を見ると、この岩礁がある。この方も見事で、日の出直後に撮影した。昼間は観光客が多くて撮影は大変である。
8.15 屋久島国立公園/屋久島
(102)屋久島・原海岸の夜明け:屋久島の東南に原という集落があり、その海岸にある原漁港の朝焼け。有名な千尋の滝はこの漁港の北にある。この日の朝焼けは物凄いと形容していい程だった。(103)屋久島・いなか浜:屋久島の北東部に「いなか浜」という海水浴場がある。撮影したのは8月だったが、海水浴客は一人もいなくて、砂浜は足跡一つなく風紋まであって、何とも不思議な素晴らしい風景であった。(104)屋久島・船行川河口:屋久島の東面に安房という大きな町がある。その北方を流れているのが船行川で、その河口にある岩礁である。赤っぽい岩が硬く、黄色い岩が柔らかく、波浪の浸食で削られつつある。(105)屋久島・永田浜:屋久島北西の「いなか浜」の南にあるのがこの「永田浜」である。この辺りは「前浜砂丘」や「千本松原〕やこの永田浜など、素晴らしい風景が続く海岸である。眺めが美しい岳之川の河口である。(106)屋久島・平野海岸の日の出:屋久島東面の安房の南 3km にこの平野海岸がある。岩礁が多くて眺めのいい海岸である。そこから撮影した日の出の太陽。早朝であるのに、スモッグで太陽が輝かないのが残念である。
8.16 西表石垣国立公園/石垣島・西表島
(107)石垣島・暁の白保海岸:八重山諸島の石垣島の東岸に白保海岸がある。この辺りは九州や本州と違って、スモッグがほとんどないせいか、日の出でも日没でも、太陽そのものがカッと輝いて真っ白に飛んで、太陽の輪郭が見えなくなる。だからこの写真のように、まだ薄明の空を撮っても、中天は真っ黒で星が煌煌と輝いているが、東の空は、地平線のオレンジ色から赤・紫・青、そして中天の黒まで、色彩の差を肉眼ではっきり克明に識別できるのである。画面上部の星は金星、右方上下に3つ並んでいるのがオリオン座の三つ星、その左方に光っているのがペテルギウス等々、多くの星が夜明けの空を彩って輝いている。(108)白保海岸とモンパの木:モンパ (紋羽 ) の木は熱帯から亜熱帯の海岸に生える低木で、別名「浜紫の木」ともいわれる。白保海岸の所々にこのモンパの木が自生していて、南国らしい情緒溢れる風景を醸し出している。(109)石垣島・ダテフ崎夕暮れ:石垣島北部西岸のダテフ崎での落日の光景である。夕陽は強烈で白く調子が飛ぶから、水平線に雲が湧いて漸く絵になった。(110):石垣島・米原海岸:石垣島の北面に米原海中公園がある。その海岸には白い砂浜と青い海、そして手前の砂浜には朝顔のような花が一面に咲いていて、珍しい風景に出会った。コントラストが素晴らしい。(111)石垣島・平久保崎:石垣島最北端の岬が平久保岬、その突端からの風景。上部の細長い濃い青の所が外洋、すぐ手前の薄茶色の所がサンゴ礁で、風が強い日にはこのリーフに打ち寄せた波が白く舞う。日本離れした広大な風景である。(112)石垣島・底地海岸の落日:石垣島の北西部に崎枝湾がある。その北部にあるのがこの底地海岸。かつては沖縄は米軍に占領されていたから、地図にはスクジ・ビーチと表記されている。ここはビーチであるから砂浜で海水浴場と思われるが、撮影時の7月末は暑い盛りであるにもかかわらず、人が一人も居なかった。写真をみて咄嗟に日の出と思うだろうが、これが沖縄の日没である。それ程スモッグがなく空気が透き通っている。(113)西表島・南風見田 (はえみた) 浜:西表島南部に島を周回する県道 215 号線の終点から 4km 先の岩礁の中に、浸食された特異な形をした岩がある。(115)南風見田浜の岩礁:2km 続く砂浜の一部の 40m-50m の範囲に、波浪で浸食されて独自の造形をした岩が点在している。人知の及ばない造形である。(115)西表島・浦内川河口:西表島の南東から北西の端まで流れる島で最も長い川が浦内川で、その河口とマングローブの林である。海との接点の水の中に森林が出来ている。南国らしい我々には珍しい風景である。(116)石垣島・名蔵湿地:石垣島の西面に大きな名蔵湾がある。そこに流れ込んでいる名蔵川の河口が広大な湿地帯を形成し、網張 (あんばる ) と呼ばれ、野鳥の飛来地として有名である。この湿地帯に密生するマングローブの林、ここの木々は支根が少ない。(117)永遠の日本の旭日:石垣島の東面、白保海中公園にある白保海岸から日の出の太陽を撮った。太陽の輝きが強烈で、輪郭が判らないほど真っ白にならないよう、露出を5分の1に切りつめた。写真集の最後を飾る写真は、大概夕日か月で締めくくるが、今回は敢えて日の出の太陽にした。明日の日本にはまた燦然とした輝く太陽が昇る。
私は、日本人よ自然に帰ろう、と呼びかけている。人間如何に生きるべきかを自然と対話しながら考えてほしいと願っている。それがこの『永遠の日本』を制作した目的の総てでもある。
8.12 雲仙天草国立公園/天草諸島
(92)天草・龍仙島落日:この国立公園で、雲仙は長崎県、天草は熊本県に属している。天草は大きく上島と下島とに分けられ、写真になる被写体は圧倒的に下島に多く、下島でも西海岸と南端に集中している。この写真は下島南端の牛深の南西 8km の沖にある龍仙島を、牛深から先に延びている岬の突端まで行って望遠レンズで撮ったものである。日本で落日を撮ると、スモッグが邪魔をして、輝く夕日を撮るのは中々難しい。(93)天草・砂月海岸:下島の南端では、小さな岬が南西と南東に延びていて、岬に囲まれた奥にこの砂月海岸がある。青い海と空を分ける水平線が一直線で、波打ち際の白い波も一直線、見渡す限り人一人いない不思議な風景であった。(94)天草・大ヶ瀬夕景:下島の西海岸を走る国道 389 号線は別名サンセット・ラインと呼ばれて、夕日を満喫できる名所が続く。我々は海岸線まで下りて、大ヶ瀬の岩と落日を組み合わせて撮った。(95)天草・茂串海岸:ここも下島の西南端にある。写真の左方には白い砂浜の海水浴場があり、かつてNHKのロケ地になったことがあって、その記念碑が立っている。自然破壊である。
8.13 日南海岸国定公園/青島
(96)青島の日の出:宮崎県の青島は国の特別天然記念物に指定されている。周囲たった 1.5km、海抜 6m の小さな島の海岸が「鬼の洗濯板」といわれていて、岩が板状に数百メートルも規則正しく北東から南西に延びている。岩の板と朝日を撮った。(97)青島・浸食された岩:硬さの違う砂岩と泥岩が重なった岩盤がこの辺り一帯を覆っていて、それが長い年月の間に浸食され、柔らかい層が洗い流され、独特な波状岩が形成された。干潮時には沖合に 100m も現れる。(98)青島・鬼の洗濯板:青島の地元では「鬼の洗濯岩」と呼んでいたが、今の名前に統一した。いずれにしても、岩石の柔らかい層が波に浸食されて今日の姿になった。(99)青島・岩面の造形:柔らかい岩層が、長い年月の間に波に浸食されて、硬い岩だけが残ったとしても、その岩膚を見ると、とても繊細な模様なのに驚く。
8.14 霧島錦江湾国立公園/薩摩半島
(100)開聞岳朝陽:薩摩半島の南端に南九州市があり、その海岸に番所鼻自然公園がある。ここの海岸に出ると、この風景に出くわす。右に見える端正な三角形の山が標高 924m の開聞岳である。(101)長崎鼻の岩礁:薩摩半島の最南端の突端にあるのが長崎鼻で、ここから眺める開聞岳が最高と言われている。それでその反対側を見ると、この岩礁がある。この方も見事で、日の出直後に撮影した。昼間は観光客が多くて撮影は大変である。
8.15 屋久島国立公園/屋久島
(102)屋久島・原海岸の夜明け:屋久島の東南に原という集落があり、その海岸にある原漁港の朝焼け。有名な千尋の滝はこの漁港の北にある。この日の朝焼けは物凄いと形容していい程だった。(103)屋久島・いなか浜:屋久島の北東部に「いなか浜」という海水浴場がある。撮影したのは8月だったが、海水浴客は一人もいなくて、砂浜は足跡一つなく風紋まであって、何とも不思議な素晴らしい風景であった。(104)屋久島・船行川河口:屋久島の東面に安房という大きな町がある。その北方を流れているのが船行川で、その河口にある岩礁である。赤っぽい岩が硬く、黄色い岩が柔らかく、波浪の浸食で削られつつある。(105)屋久島・永田浜:屋久島北西の「いなか浜」の南にあるのがこの「永田浜」である。この辺りは「前浜砂丘」や「千本松原〕やこの永田浜など、素晴らしい風景が続く海岸である。眺めが美しい岳之川の河口である。(106)屋久島・平野海岸の日の出:屋久島東面の安房の南 3km にこの平野海岸がある。岩礁が多くて眺めのいい海岸である。そこから撮影した日の出の太陽。早朝であるのに、スモッグで太陽が輝かないのが残念である。
8.16 西表石垣国立公園/石垣島・西表島
(107)石垣島・暁の白保海岸:八重山諸島の石垣島の東岸に白保海岸がある。この辺りは九州や本州と違って、スモッグがほとんどないせいか、日の出でも日没でも、太陽そのものがカッと輝いて真っ白に飛んで、太陽の輪郭が見えなくなる。だからこの写真のように、まだ薄明の空を撮っても、中天は真っ黒で星が煌煌と輝いているが、東の空は、地平線のオレンジ色から赤・紫・青、そして中天の黒まで、色彩の差を肉眼ではっきり克明に識別できるのである。画面上部の星は金星、右方上下に3つ並んでいるのがオリオン座の三つ星、その左方に光っているのがペテルギウス等々、多くの星が夜明けの空を彩って輝いている。(108)白保海岸とモンパの木:モンパ (紋羽 ) の木は熱帯から亜熱帯の海岸に生える低木で、別名「浜紫の木」ともいわれる。白保海岸の所々にこのモンパの木が自生していて、南国らしい情緒溢れる風景を醸し出している。(109)石垣島・ダテフ崎夕暮れ:石垣島北部西岸のダテフ崎での落日の光景である。夕陽は強烈で白く調子が飛ぶから、水平線に雲が湧いて漸く絵になった。(110):石垣島・米原海岸:石垣島の北面に米原海中公園がある。その海岸には白い砂浜と青い海、そして手前の砂浜には朝顔のような花が一面に咲いていて、珍しい風景に出会った。コントラストが素晴らしい。(111)石垣島・平久保崎:石垣島最北端の岬が平久保岬、その突端からの風景。上部の細長い濃い青の所が外洋、すぐ手前の薄茶色の所がサンゴ礁で、風が強い日にはこのリーフに打ち寄せた波が白く舞う。日本離れした広大な風景である。(112)石垣島・底地海岸の落日:石垣島の北西部に崎枝湾がある。その北部にあるのがこの底地海岸。かつては沖縄は米軍に占領されていたから、地図にはスクジ・ビーチと表記されている。ここはビーチであるから砂浜で海水浴場と思われるが、撮影時の7月末は暑い盛りであるにもかかわらず、人が一人も居なかった。写真をみて咄嗟に日の出と思うだろうが、これが沖縄の日没である。それ程スモッグがなく空気が透き通っている。(113)西表島・南風見田 (はえみた) 浜:西表島南部に島を周回する県道 215 号線の終点から 4km 先の岩礁の中に、浸食された特異な形をした岩がある。(115)南風見田浜の岩礁:2km 続く砂浜の一部の 40m-50m の範囲に、波浪で浸食されて独自の造形をした岩が点在している。人知の及ばない造形である。(115)西表島・浦内川河口:西表島の南東から北西の端まで流れる島で最も長い川が浦内川で、その河口とマングローブの林である。海との接点の水の中に森林が出来ている。南国らしい我々には珍しい風景である。(116)石垣島・名蔵湿地:石垣島の西面に大きな名蔵湾がある。そこに流れ込んでいる名蔵川の河口が広大な湿地帯を形成し、網張 (あんばる ) と呼ばれ、野鳥の飛来地として有名である。この湿地帯に密生するマングローブの林、ここの木々は支根が少ない。(117)永遠の日本の旭日:石垣島の東面、白保海中公園にある白保海岸から日の出の太陽を撮った。太陽の輝きが強烈で、輪郭が判らないほど真っ白にならないよう、露出を5分の1に切りつめた。写真集の最後を飾る写真は、大概夕日か月で締めくくるが、今回は敢えて日の出の太陽にした。明日の日本にはまた燦然とした輝く太陽が昇る。
私は、日本人よ自然に帰ろう、と呼びかけている。人間如何に生きるべきかを自然と対話しながら考えてほしいと願っている。それがこの『永遠の日本』を制作した目的の総てでもある。
2013年9月28日土曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔13〕
(承前)
8−8 吉野熊野国立公園/熊野灘
(59)橋杭岩暁天:和歌山県串本町にあり、大小約 40 本の岩峰が 850m にわたって突っ立っている。橋脚のようだから橋杭岩と名が付いた。岩には総て名が付けられている。左から平岩、チョンギリ岩 (ボウズ岩) 、背の高いのが大オガミ岩、細いのが小オガミ岩、右端がビシャコ岩である。(60)橋杭岩朝光:太陽が右端の平岩と中央の蛭子岩の間から昇る。左へ折岩、コボレ岩。(61)橋杭岩薄明:夜明け前でまだ水平線がやっと黄色くなった頃である。中央がチョンギリ岩、右が大オガミ岩、左端がハサミ岩。(62)橋杭岩の午後:潮が引いた橋杭岩を少し北方から撮った。岩が散乱しているのが見え、これは宝永地震によるとされる。中央がチョンギリ岩、左端がハサミ岩、右へ大オガミ岩、小オガミ岩、右端がビシャコ岩。(64)ハサミ岩と太陽:ハサミ岩の3つの岩峰のうち、他の2峰より低い左の峰の上に太陽が来るようにセットした。(63)紀の松島・ラクダ岩:和歌山県那智勝浦町にある大小 130 余りの島々が、日本三景の松島に匹敵する意から「紀の松島」と呼ぶ。その中の1島がラクダ島である。(65)熊野灘・獅子岩:三重県熊野市の熊野灘に面した白砂青松の「七里御浜」にあるう。海に向かって獅子が吠えているような奇岩で、海から吹き付ける海風蝕によって造られたものだが、上顎の鋭さと下顎に生えた草のコントラストが正に絶妙である。(66)熊野灘・海金剛:三重県の熊野市と尾鷲市の境の海岸の二木湾の入口にある。柱状節理が高さ80m、600m にわたって続く。
8−9 山陰海岸国立公園/香住海岸・鳥取砂丘・浦富海岸
(67)山陰香住海岸・鎧の袖:国立公園の中央部、兵庫県の日本海に面して香住 (かすみ) 海岸がある。「鎧の袖」は柱状節理の断崖で、高さ 65m、幅 200m、傾斜角度 70° の海蝕崖である。香住海岸には他にも鷹ノ巣岩、釣鐘洞門、小白岩、鉄砲島など写真になる被写体が多い。(68)鳥取砂丘:国立公園の西端に位置する東西 16km、南北 2.4km、最大起伏 47m の日本三大砂丘の一つである。中国山地の花崗岩が風化し、それが千代川によって海に運ばれ、海岸に集まったものが砂丘になったといわれる。撮影は人の足跡のない風紋が美しい風景を狙って何度か出掛けたが、もう日の出直後には百人以上もの人が歩いていた。画面に見える凹凸はすべて人の足跡だが、これ程密集すると自然の造形に見えなくもない。(69)砂丘と虹:砂丘と日本海に現れた二重の虹を咄嗟に撮った。(70)鳥取砂丘と日本海:砂丘の頂上をずっと東に辿って行くと、一部だが足跡のない自然があった。正に手つかずの新鮮な砂丘と日本海である。(71)城原海岸・菜種島:鳥取砂丘の北東部に山陰海岸国立公園を代表する景観の地の浦富海岸がある。城原海岸はその主要な一部である。波に浸食された島が連なっていて菜種五島と呼ばれ、その先端にあるのが写真上部の菜種島である。高さ 60m、周囲約 400m、春になると島全体が野生の菜の花で黄金色になる。
8−10 大山隠岐国立公園/隠岐諸島
隠岐諸島:島根半島の北方約 50km の洋上にあり、最大の島の島後 (どうご) と中ノ島・西ノ島・知夫里島の3島からなる島前 (どうぜん) の2地域4島で構成される。但し小さい島々は 180 個もあるといわれる。(72)隠岐島前・知夫里島赤壁:知夫里島の南西にある名所の赤壁。絶壁の幾つかの岩層が真っ赤であることから赤壁という。(73)島前・中ノ島屏風岩:中ノ島の北東端の海岸が明星海岸で、海水浴場やキャンプ場がある。そこを西の突き当たりまで進むと、右側に赤い岩峰が屹立している。これが屏風岩で、海蝕で削られたハートの形が人気だそうである。(74)島前・三郎岩の日の出:中ノ島の北端の宇受賀 (うずか) から撮った。太陽の下の山は西ノ島の北端で、手前の海から屹立しているのが三郎岩である。(75)島後・ローソク岩の落日:島後の北西に海から 50m 突き出した奇岩があり、これがローソク岩である。夕日がこの岩塔の頂上に落ちるとローソクに灯がともったように見えることからこの名が付いた。これを見るのに夕方福浦港から観光船が出るが、操船が上手でないと見られない。(76)島前・観音岩日没:西ノ島の西端に有名な国賀海岸があり、ここも浸食を受けた奇岩や奇景が連なる。この観音岩もその一つで、海側から見ると百済観音の姿に似ているという。これは陸側から観音岩の頂上に落日を組み合わせて撮ったものである。(77)島後・浄土ヶ浦の朝:島後の東北にあり、この辺りは隠岐諸島随一の多島海といわれ、数百の島や岩礁がある。東に突き出した崎山岬の北側が浄土ヶ浦で、隠岐諸島を代表する景勝の地とされる。早朝日の出直後、逆光線でこの風景を見ていると、「さながら浄土のごとし」の意味が納得させられる。(78)島後・塩の浜夕日照る:島後の西南端にある「塩の浜」は夕日の美しい海岸として知られている。夕日を撮った。(79)島前・国賀海岸:隠岐諸島で最も有名な景観がこの国賀海岸ではないかと思う。これは赤尾の展望台から撮ったものである。右端の穴の開いた岩が通天橋、手前の入江が国賀浦である。(80)島後・那久岬:島後の西海岸で最も西に突き出した岬の、波浪で浸食された岩塔や岩礁を上空から撮った。ここは夕日を眺める名所でもある。(81)島後・帆掛島と洞門:島後の北端に白島崎が突き出ている。その先にある白島や沖の島が有名だが、その手前にあるのが帆掛島。波浪に洗われた岩礁と洞門、それに木々の緑が素晴らしい対比である。白島崎展望台から撮った。(82)島後・尾白鼻夕景:島後の北西部、ローソク岩の近くにある。西面の波浪と風によって浸食された崖は、夕陽を受けて赤く染まった。観光船から撮った。(83)島後・鉄砲岩日暮れ:これも島後の北西部、ローソク岩の近くにある。ローソク岩で太陽が下がり過ぎてローソクに灯がついたような風景が見られないと、観光船で周囲の島々を巡ってくれる。その際に撮った。左が鉄砲岩。(84)島後・流門岩と洞門:島後の北端にある白島海岸の南東に笠崎海岸がある。そこに流門岩と2個の洞門がある。水の力で出来たものだろうが恐ろしい力だ。
8−11 西海国立公園/九十九島・五島列島
(85)展海峰から九十九島:長崎県佐世保市の佐世保湾入口のすぐ北にこの展海峰がある。島が最も多く見える展望台である。九十九島とは島が多くあるという意で、実際には 208 島ある。5月に撮影した。(86)光芒射す九十九島:展望台としてはこの石岳が最も有名である。佐世保港の西側の山の上にあり、ここから見た九十九島。夕陽が光芒を放つのは冬季に限られる。(87)九十九島逆光:石岳展望台から左 (南) 方向にある島々を逆光で浮かび上がらせた。2月初旬に撮影。(88)多島海冬景:石岳展望台へ向かう山道の途中にこの船越展望台がある。したがってアングルが低く、2月に太陽と組み合わせようとすると、少し南方向に向けることになる。北方向の島なら10月ということになる。(89)西海・高浜海岸の落日:五島列島の南端福江島の南端にある高浜海岸。すぐ北に、かつて遣唐使が風待ちをした三井楽や魚津ヶ崎がある。干潟に潮が満ち始め、それが夕陽に輝き、真っ赤な波や黄金色の波が交互にひたひたと迫って来る様に、自然の営みとはかくも美しいものかと感激した。(90)西海・高浜海岸:島を一周する国道 384 号線の道路上から撮った。これ程静かで美しい海岸が道路から見える所など世界でも多くはない。ニースやカンヌなどより、ここの方が美しい。(91)西海・曽根の赤ダキ:五島列島中通島の北部にこの断崖がある。かつての火山の火口壁で、上部に赤い断層が複数ある。「赤ダキ」とは赤崖がなまったもので、今日も使用されているそうである。
8−8 吉野熊野国立公園/熊野灘
(59)橋杭岩暁天:和歌山県串本町にあり、大小約 40 本の岩峰が 850m にわたって突っ立っている。橋脚のようだから橋杭岩と名が付いた。岩には総て名が付けられている。左から平岩、チョンギリ岩 (ボウズ岩) 、背の高いのが大オガミ岩、細いのが小オガミ岩、右端がビシャコ岩である。(60)橋杭岩朝光:太陽が右端の平岩と中央の蛭子岩の間から昇る。左へ折岩、コボレ岩。(61)橋杭岩薄明:夜明け前でまだ水平線がやっと黄色くなった頃である。中央がチョンギリ岩、右が大オガミ岩、左端がハサミ岩。(62)橋杭岩の午後:潮が引いた橋杭岩を少し北方から撮った。岩が散乱しているのが見え、これは宝永地震によるとされる。中央がチョンギリ岩、左端がハサミ岩、右へ大オガミ岩、小オガミ岩、右端がビシャコ岩。(64)ハサミ岩と太陽:ハサミ岩の3つの岩峰のうち、他の2峰より低い左の峰の上に太陽が来るようにセットした。(63)紀の松島・ラクダ岩:和歌山県那智勝浦町にある大小 130 余りの島々が、日本三景の松島に匹敵する意から「紀の松島」と呼ぶ。その中の1島がラクダ島である。(65)熊野灘・獅子岩:三重県熊野市の熊野灘に面した白砂青松の「七里御浜」にあるう。海に向かって獅子が吠えているような奇岩で、海から吹き付ける海風蝕によって造られたものだが、上顎の鋭さと下顎に生えた草のコントラストが正に絶妙である。(66)熊野灘・海金剛:三重県の熊野市と尾鷲市の境の海岸の二木湾の入口にある。柱状節理が高さ80m、600m にわたって続く。
8−9 山陰海岸国立公園/香住海岸・鳥取砂丘・浦富海岸
(67)山陰香住海岸・鎧の袖:国立公園の中央部、兵庫県の日本海に面して香住 (かすみ) 海岸がある。「鎧の袖」は柱状節理の断崖で、高さ 65m、幅 200m、傾斜角度 70° の海蝕崖である。香住海岸には他にも鷹ノ巣岩、釣鐘洞門、小白岩、鉄砲島など写真になる被写体が多い。(68)鳥取砂丘:国立公園の西端に位置する東西 16km、南北 2.4km、最大起伏 47m の日本三大砂丘の一つである。中国山地の花崗岩が風化し、それが千代川によって海に運ばれ、海岸に集まったものが砂丘になったといわれる。撮影は人の足跡のない風紋が美しい風景を狙って何度か出掛けたが、もう日の出直後には百人以上もの人が歩いていた。画面に見える凹凸はすべて人の足跡だが、これ程密集すると自然の造形に見えなくもない。(69)砂丘と虹:砂丘と日本海に現れた二重の虹を咄嗟に撮った。(70)鳥取砂丘と日本海:砂丘の頂上をずっと東に辿って行くと、一部だが足跡のない自然があった。正に手つかずの新鮮な砂丘と日本海である。(71)城原海岸・菜種島:鳥取砂丘の北東部に山陰海岸国立公園を代表する景観の地の浦富海岸がある。城原海岸はその主要な一部である。波に浸食された島が連なっていて菜種五島と呼ばれ、その先端にあるのが写真上部の菜種島である。高さ 60m、周囲約 400m、春になると島全体が野生の菜の花で黄金色になる。
8−10 大山隠岐国立公園/隠岐諸島
隠岐諸島:島根半島の北方約 50km の洋上にあり、最大の島の島後 (どうご) と中ノ島・西ノ島・知夫里島の3島からなる島前 (どうぜん) の2地域4島で構成される。但し小さい島々は 180 個もあるといわれる。(72)隠岐島前・知夫里島赤壁:知夫里島の南西にある名所の赤壁。絶壁の幾つかの岩層が真っ赤であることから赤壁という。(73)島前・中ノ島屏風岩:中ノ島の北東端の海岸が明星海岸で、海水浴場やキャンプ場がある。そこを西の突き当たりまで進むと、右側に赤い岩峰が屹立している。これが屏風岩で、海蝕で削られたハートの形が人気だそうである。(74)島前・三郎岩の日の出:中ノ島の北端の宇受賀 (うずか) から撮った。太陽の下の山は西ノ島の北端で、手前の海から屹立しているのが三郎岩である。(75)島後・ローソク岩の落日:島後の北西に海から 50m 突き出した奇岩があり、これがローソク岩である。夕日がこの岩塔の頂上に落ちるとローソクに灯がともったように見えることからこの名が付いた。これを見るのに夕方福浦港から観光船が出るが、操船が上手でないと見られない。(76)島前・観音岩日没:西ノ島の西端に有名な国賀海岸があり、ここも浸食を受けた奇岩や奇景が連なる。この観音岩もその一つで、海側から見ると百済観音の姿に似ているという。これは陸側から観音岩の頂上に落日を組み合わせて撮ったものである。(77)島後・浄土ヶ浦の朝:島後の東北にあり、この辺りは隠岐諸島随一の多島海といわれ、数百の島や岩礁がある。東に突き出した崎山岬の北側が浄土ヶ浦で、隠岐諸島を代表する景勝の地とされる。早朝日の出直後、逆光線でこの風景を見ていると、「さながら浄土のごとし」の意味が納得させられる。(78)島後・塩の浜夕日照る:島後の西南端にある「塩の浜」は夕日の美しい海岸として知られている。夕日を撮った。(79)島前・国賀海岸:隠岐諸島で最も有名な景観がこの国賀海岸ではないかと思う。これは赤尾の展望台から撮ったものである。右端の穴の開いた岩が通天橋、手前の入江が国賀浦である。(80)島後・那久岬:島後の西海岸で最も西に突き出した岬の、波浪で浸食された岩塔や岩礁を上空から撮った。ここは夕日を眺める名所でもある。(81)島後・帆掛島と洞門:島後の北端に白島崎が突き出ている。その先にある白島や沖の島が有名だが、その手前にあるのが帆掛島。波浪に洗われた岩礁と洞門、それに木々の緑が素晴らしい対比である。白島崎展望台から撮った。(82)島後・尾白鼻夕景:島後の北西部、ローソク岩の近くにある。西面の波浪と風によって浸食された崖は、夕陽を受けて赤く染まった。観光船から撮った。(83)島後・鉄砲岩日暮れ:これも島後の北西部、ローソク岩の近くにある。ローソク岩で太陽が下がり過ぎてローソクに灯がついたような風景が見られないと、観光船で周囲の島々を巡ってくれる。その際に撮った。左が鉄砲岩。(84)島後・流門岩と洞門:島後の北端にある白島海岸の南東に笠崎海岸がある。そこに流門岩と2個の洞門がある。水の力で出来たものだろうが恐ろしい力だ。
8−11 西海国立公園/九十九島・五島列島
(85)展海峰から九十九島:長崎県佐世保市の佐世保湾入口のすぐ北にこの展海峰がある。島が最も多く見える展望台である。九十九島とは島が多くあるという意で、実際には 208 島ある。5月に撮影した。(86)光芒射す九十九島:展望台としてはこの石岳が最も有名である。佐世保港の西側の山の上にあり、ここから見た九十九島。夕陽が光芒を放つのは冬季に限られる。(87)九十九島逆光:石岳展望台から左 (南) 方向にある島々を逆光で浮かび上がらせた。2月初旬に撮影。(88)多島海冬景:石岳展望台へ向かう山道の途中にこの船越展望台がある。したがってアングルが低く、2月に太陽と組み合わせようとすると、少し南方向に向けることになる。北方向の島なら10月ということになる。(89)西海・高浜海岸の落日:五島列島の南端福江島の南端にある高浜海岸。すぐ北に、かつて遣唐使が風待ちをした三井楽や魚津ヶ崎がある。干潟に潮が満ち始め、それが夕陽に輝き、真っ赤な波や黄金色の波が交互にひたひたと迫って来る様に、自然の営みとはかくも美しいものかと感激した。(90)西海・高浜海岸:島を一周する国道 384 号線の道路上から撮った。これ程静かで美しい海岸が道路から見える所など世界でも多くはない。ニースやカンヌなどより、ここの方が美しい。(91)西海・曽根の赤ダキ:五島列島中通島の北部にこの断崖がある。かつての火山の火口壁で、上部に赤い断層が複数ある。「赤ダキ」とは赤崖がなまったもので、今日も使用されているそうである。
2013年9月27日金曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔12〕
(承前)
8−5 富士箱根伊豆国立公園/伊豆諸島・伊豆半島
(24)大島三原山:東京都大島町にある伊豆諸島最大の島で、中央に海抜 758m の三原山火山がある。大火口は直径 300~350m、深さ 200m、火口上部から空撮した。(25)鵜渡根島:東京都新島村にあり、伊豆諸島では本州から3番目に近い島である。東西 1.5km、南北 600m、標高 210m の無人島である。(26)石廊崎の日の出:伊豆半島南端の石廊崎の有名な「蓑掛岩」に掛かる日の出の太陽を撮った。この位置に太陽が出る月日や日の出の時間や撮影位置を計算しての撮影だった。(27)城ヶ島曙光:静岡県伊東市の東南に位置する。4000年昔に大室山の噴火により溶岩が海に押出して出来た断崖絶壁が、波浪に浸食されて今日の特異な景観が造られた。太陽が出ている所が伊豆大島である。(29)城ヶ崎荒天:門脇崎の近くから早朝に撮った対岸の岬に叩き付ける波である。波浪が長い年月打ち寄せれば溶岩が浸食され、今日の奇岩の集合になるのは容易に想像できる。(28)田子の夕陽:静岡県西伊豆町の大田子海岸から見る田子の落日である。手前の岩が海獣岩、左遠くの2個の岩が田子岩、春分と秋分の日にはこの島の中央に太陽が沈むことで有名である。(30)堂ヶ島夕景:静岡県西伊豆町の有名な観光地の堂ヶ島。駿河湾に沈む夕陽が美しいことから「夕陽のまち」と言われる。撮影は12月中旬。中央が稗三升島、右が蛇島。
8−6 小笠原国立公園/小笠原諸島
小笠原諸島:小笠原諸島は東京の南南東 1000km の洋上に 30 余の島々からなっている。父島、母島、硫黄島、南鳥島以外は無人島で、一般住民が住んでいるのは父島と母島だけである。小笠原諸島は、父島列島の北に聟島列島、南に母島列島がある。(31)父島南島扇池:父島列島は、北から弟島、兄島、父島で、その父島の南西端に南島がある。その南島の扇池は小笠原で最も有名な景勝地の一つである。(32)父島千尋岩:父島の南端に円縁湾があり、その湾内にこの「千尋岩」別名ハートロックがある。この岩だけが赤くてハート形をしている。(33)父島三日月山からの落日:父島の二見港のすぐ北側にあるのが三日月山、気象ドームや海上保安庁の無線塔があって、眺めは抜群である。落日を眺めるのには最高の場所である。(34)父島列島中通島:兄島と父島の間の兄島瀬戸に浮かぶのが中通島である。この島は左右対称の岩がお互いくっつき合っているように見えて面白い。それより鮮やかな海の青さが素晴らしい。(37)父島長崎の岩峰:父島の二見港から旭山に向って登ると長崎展望台がある。そこから見た長崎という岬の岩峰で、個々の岩峰が花弁で、全体として咲いた花のように見える。(35)母島列島鬼岩:この鬼岩は母島の北端の乾崎の北側にある。見るからに嫌悪で獰猛な表情をしているのが実に面白い。(36)聟島列島針之岩:聟島と媒(なこうど)島の間に南北に横たわる針之岩という岩礁があり、岩峰が数十本続いている。
8−7 瀬戸内海国立公園/新舞子浜・瀬戸内海・寒霞渓
新舞子浜:兵庫県たつの市御津町黒崎にあり、恐らく日本で最も遠浅の干潟が広がる場所でないかと思う。干潮時には潮が 500m も引いて広大な干潟が現れる。(38)新舞子浜夜明け:引いた干潟の水の部分を赤く撮ろうとするには、先ず東の空が赤くなること、しかも太陽が画面の上に来ること、この条件が満たされるのは冬至の頃である。しかも日の出前後に最も潮が引く日を調べ、これらの条件が満たされないと目的の写真は撮れない。2009年でこれが満たされた日は、12月19,20日だった。(39)新舞子浜黄金色:日の出の太陽は真っ赤で、4〜5分でオレンジ色になる。次は黄色になるが、オレンジ色から黄色に変わる 15秒間位の間、太陽光は黄金色になり水に反射する。(40)新舞子浜夕陽:新舞子浜は夕陽が有名である。日没後の風景も素晴らしい。(41)新舞子浜薄明:早朝の新舞子浜を撮影する崖の上から、播磨灘の海岸線を俯瞰撮影した。赤くなった東の空の色彩が海に投影されて面白い情景になった。
瀬戸内海:瀬戸内海は愛媛、広島を中心に、西は大分、東は大阪・和歌山まで 11 の府県に海岸線を持つ東西 450km、南北 15~55km の広大な地域を擁していて、その中に大小合わせて 3000 の島がある。もちろん国立公園としても最大の面積を誇る。(42)釣島海峡:セスナで撮影しての帰り、松山空港に着陸寸前に釣島海峡を落日を入れて撮った。手前の島が睦月島、画面中央が中島、その左に高島、右の怒和島、ここまでが愛媛県、左上の情島は山口県になる。(43)荘内半島の島々:高松空港でセスナをチャーターし半島の島々を撮った。手前が志々島、その上が粟島、左上に延びているのが紫雲出山がある荘内半島の突端である。(44)芸予諸島:芸とは安芸国広島県であり、予とは伊予国愛媛県である。夕陽に向かい、下から肥島、大下島、見附島、ここまでが伊予、その先の三角島と上蒲刈島は安芸である。(45)塩飽諸島:瀬戸大橋の上空から夕陽に向かって撮った。手前が本島、中央が広島、その先右に手島、ここまで香川県、その先左右に茂床島と大島、更に北木島で岡山県。(46)大三島から広島へ:落日の大三島上空から西望。手前の黒いのが大三島、その上小さい三角が来島、ここまで愛媛県、中央の大きな島が大崎上島、その先小さいのが来島で広島県、その先は本州の大地である。(47)銭壺山朝陽:山口県岩国市にある標高 540m の頂上が平らな山で、車で行くことができる。瀬戸内海の島々を望める展望所として有名。桜花の下、眼下に前島と福島を見る。(48)紫雲出山の眺望:荘内半島突端近くにあり、山名の由来は、浦島太郎が竜宮城から持ち帰った玉手箱を開けた時に出た紫色の煙がこの山にかかったという伝説に基づいている。桜の名所、桜花の下、東を望む。下に粟島が見える。(49)竜王山の桜:広島県三原市にある竜王山の頂上から南望した。桜は満開、正面下に佐木島。(50)父母ヶ島:香川県三豊市にあるこの浜は夕陽が美しいことで有名である。特に大潮の際の干潟が逆光に映えるのが最高で、この日は干潟が黄金色に輝いて見事だった。
寒霞渓:小豆島は映画「二十四の瞳」で一躍有名になった瀬戸内海では第二の大きさの島である。この島の中心部に、最高峰星ヶ城山 817m と四方指山との鞍部に、奇岩が累々の寒霞渓の渓谷がある。その中心的展望台が「四望頂」である。(51)播磨灘の夜明け:香川県の小豆島にある寒霞渓の四望頂から撮影した播磨灘の夜明けである。撮影したのは11月下旬、太陽は雲間を辿るように上昇していったが、空と海の明暗のバランスが一分の隙もなく絶妙であった。水平線の向こうには瀬戸内海最大の島淡路島がある。(52)猪谷池の紅葉:寒霞渓は東西 7km、南北 4km の範囲で、その南端に猪谷池がある。この池は8代将軍吉宗の治世に造られたもので、灌漑や水道水源として使われた。ここの紅葉は実に見事というほかない。(53)寒霞渓紅葉:温暖で知られる瀬戸内海の島でこれほどの紅葉が見られるというのは意外である。ロープウェイの上部駅の近くから撮った。(54)奇岩と紅葉:11月下旬に寒霞渓の西端にある奇岩と紅葉をスカイラインから撮った。この年の日本での最後の紅葉だろう。(55)寒霞渓曙光:この写真も四望頂展望台から撮った。今度は空が真っ赤になった。(56)寒霞渓暮色:これも四望頂展望台から撮った落日である。太陽の下は備讃瀬戸だから、右は豊島や小豊島、左は男木島や女木島だろう。
(56)(57)鳴門の渦潮:徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にあるのが鳴門海峡、海峡の幅は 1.3km、ここへ1日2回潮流が時速 13~15km で瀬戸内海に流れ込み、また2回流れ出す。大潮時には時速 20km、日本最速の潮流で、世界三大潮流の一つである。渦の大きさも直径 30m、世界最大級である。
8−5 富士箱根伊豆国立公園/伊豆諸島・伊豆半島
(24)大島三原山:東京都大島町にある伊豆諸島最大の島で、中央に海抜 758m の三原山火山がある。大火口は直径 300~350m、深さ 200m、火口上部から空撮した。(25)鵜渡根島:東京都新島村にあり、伊豆諸島では本州から3番目に近い島である。東西 1.5km、南北 600m、標高 210m の無人島である。(26)石廊崎の日の出:伊豆半島南端の石廊崎の有名な「蓑掛岩」に掛かる日の出の太陽を撮った。この位置に太陽が出る月日や日の出の時間や撮影位置を計算しての撮影だった。(27)城ヶ島曙光:静岡県伊東市の東南に位置する。4000年昔に大室山の噴火により溶岩が海に押出して出来た断崖絶壁が、波浪に浸食されて今日の特異な景観が造られた。太陽が出ている所が伊豆大島である。(29)城ヶ崎荒天:門脇崎の近くから早朝に撮った対岸の岬に叩き付ける波である。波浪が長い年月打ち寄せれば溶岩が浸食され、今日の奇岩の集合になるのは容易に想像できる。(28)田子の夕陽:静岡県西伊豆町の大田子海岸から見る田子の落日である。手前の岩が海獣岩、左遠くの2個の岩が田子岩、春分と秋分の日にはこの島の中央に太陽が沈むことで有名である。(30)堂ヶ島夕景:静岡県西伊豆町の有名な観光地の堂ヶ島。駿河湾に沈む夕陽が美しいことから「夕陽のまち」と言われる。撮影は12月中旬。中央が稗三升島、右が蛇島。
8−6 小笠原国立公園/小笠原諸島
小笠原諸島:小笠原諸島は東京の南南東 1000km の洋上に 30 余の島々からなっている。父島、母島、硫黄島、南鳥島以外は無人島で、一般住民が住んでいるのは父島と母島だけである。小笠原諸島は、父島列島の北に聟島列島、南に母島列島がある。(31)父島南島扇池:父島列島は、北から弟島、兄島、父島で、その父島の南西端に南島がある。その南島の扇池は小笠原で最も有名な景勝地の一つである。(32)父島千尋岩:父島の南端に円縁湾があり、その湾内にこの「千尋岩」別名ハートロックがある。この岩だけが赤くてハート形をしている。(33)父島三日月山からの落日:父島の二見港のすぐ北側にあるのが三日月山、気象ドームや海上保安庁の無線塔があって、眺めは抜群である。落日を眺めるのには最高の場所である。(34)父島列島中通島:兄島と父島の間の兄島瀬戸に浮かぶのが中通島である。この島は左右対称の岩がお互いくっつき合っているように見えて面白い。それより鮮やかな海の青さが素晴らしい。(37)父島長崎の岩峰:父島の二見港から旭山に向って登ると長崎展望台がある。そこから見た長崎という岬の岩峰で、個々の岩峰が花弁で、全体として咲いた花のように見える。(35)母島列島鬼岩:この鬼岩は母島の北端の乾崎の北側にある。見るからに嫌悪で獰猛な表情をしているのが実に面白い。(36)聟島列島針之岩:聟島と媒(なこうど)島の間に南北に横たわる針之岩という岩礁があり、岩峰が数十本続いている。
8−7 瀬戸内海国立公園/新舞子浜・瀬戸内海・寒霞渓
新舞子浜:兵庫県たつの市御津町黒崎にあり、恐らく日本で最も遠浅の干潟が広がる場所でないかと思う。干潮時には潮が 500m も引いて広大な干潟が現れる。(38)新舞子浜夜明け:引いた干潟の水の部分を赤く撮ろうとするには、先ず東の空が赤くなること、しかも太陽が画面の上に来ること、この条件が満たされるのは冬至の頃である。しかも日の出前後に最も潮が引く日を調べ、これらの条件が満たされないと目的の写真は撮れない。2009年でこれが満たされた日は、12月19,20日だった。(39)新舞子浜黄金色:日の出の太陽は真っ赤で、4〜5分でオレンジ色になる。次は黄色になるが、オレンジ色から黄色に変わる 15秒間位の間、太陽光は黄金色になり水に反射する。(40)新舞子浜夕陽:新舞子浜は夕陽が有名である。日没後の風景も素晴らしい。(41)新舞子浜薄明:早朝の新舞子浜を撮影する崖の上から、播磨灘の海岸線を俯瞰撮影した。赤くなった東の空の色彩が海に投影されて面白い情景になった。
瀬戸内海:瀬戸内海は愛媛、広島を中心に、西は大分、東は大阪・和歌山まで 11 の府県に海岸線を持つ東西 450km、南北 15~55km の広大な地域を擁していて、その中に大小合わせて 3000 の島がある。もちろん国立公園としても最大の面積を誇る。(42)釣島海峡:セスナで撮影しての帰り、松山空港に着陸寸前に釣島海峡を落日を入れて撮った。手前の島が睦月島、画面中央が中島、その左に高島、右の怒和島、ここまでが愛媛県、左上の情島は山口県になる。(43)荘内半島の島々:高松空港でセスナをチャーターし半島の島々を撮った。手前が志々島、その上が粟島、左上に延びているのが紫雲出山がある荘内半島の突端である。(44)芸予諸島:芸とは安芸国広島県であり、予とは伊予国愛媛県である。夕陽に向かい、下から肥島、大下島、見附島、ここまでが伊予、その先の三角島と上蒲刈島は安芸である。(45)塩飽諸島:瀬戸大橋の上空から夕陽に向かって撮った。手前が本島、中央が広島、その先右に手島、ここまで香川県、その先左右に茂床島と大島、更に北木島で岡山県。(46)大三島から広島へ:落日の大三島上空から西望。手前の黒いのが大三島、その上小さい三角が来島、ここまで愛媛県、中央の大きな島が大崎上島、その先小さいのが来島で広島県、その先は本州の大地である。(47)銭壺山朝陽:山口県岩国市にある標高 540m の頂上が平らな山で、車で行くことができる。瀬戸内海の島々を望める展望所として有名。桜花の下、眼下に前島と福島を見る。(48)紫雲出山の眺望:荘内半島突端近くにあり、山名の由来は、浦島太郎が竜宮城から持ち帰った玉手箱を開けた時に出た紫色の煙がこの山にかかったという伝説に基づいている。桜の名所、桜花の下、東を望む。下に粟島が見える。(49)竜王山の桜:広島県三原市にある竜王山の頂上から南望した。桜は満開、正面下に佐木島。(50)父母ヶ島:香川県三豊市にあるこの浜は夕陽が美しいことで有名である。特に大潮の際の干潟が逆光に映えるのが最高で、この日は干潟が黄金色に輝いて見事だった。
寒霞渓:小豆島は映画「二十四の瞳」で一躍有名になった瀬戸内海では第二の大きさの島である。この島の中心部に、最高峰星ヶ城山 817m と四方指山との鞍部に、奇岩が累々の寒霞渓の渓谷がある。その中心的展望台が「四望頂」である。(51)播磨灘の夜明け:香川県の小豆島にある寒霞渓の四望頂から撮影した播磨灘の夜明けである。撮影したのは11月下旬、太陽は雲間を辿るように上昇していったが、空と海の明暗のバランスが一分の隙もなく絶妙であった。水平線の向こうには瀬戸内海最大の島淡路島がある。(52)猪谷池の紅葉:寒霞渓は東西 7km、南北 4km の範囲で、その南端に猪谷池がある。この池は8代将軍吉宗の治世に造られたもので、灌漑や水道水源として使われた。ここの紅葉は実に見事というほかない。(53)寒霞渓紅葉:温暖で知られる瀬戸内海の島でこれほどの紅葉が見られるというのは意外である。ロープウェイの上部駅の近くから撮った。(54)奇岩と紅葉:11月下旬に寒霞渓の西端にある奇岩と紅葉をスカイラインから撮った。この年の日本での最後の紅葉だろう。(55)寒霞渓曙光:この写真も四望頂展望台から撮った。今度は空が真っ赤になった。(56)寒霞渓暮色:これも四望頂展望台から撮った落日である。太陽の下は備讃瀬戸だから、右は豊島や小豊島、左は男木島や女木島だろう。
(56)(57)鳴門の渦潮:徳島県鳴門市と兵庫県南あわじ市の間にあるのが鳴門海峡、海峡の幅は 1.3km、ここへ1日2回潮流が時速 13~15km で瀬戸内海に流れ込み、また2回流れ出す。大潮時には時速 20km、日本最速の潮流で、世界三大潮流の一つである。渦の大きさも直径 30m、世界最大級である。
2013年9月26日木曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔11〕
この第8章のタイトルは「海浜・島嶼」で、ここにはこれまでの章では最も多い117点の写真が収載されている。ところで日本列島は四方を海に囲まれた島国であるからして、海岸線が非常に長くしかも多くの島があり、それぞれに素晴らしい景観があろうことは容易に想像できる。ところで白川氏は山岳写真家としてのイメージが強くて、この本でも山岳写真が最も多いと思われたが、山岳の章での掲載は予想に反して105点だった。だからこの海岸と島の章での写真が山の章を超えていることに驚きもした。しかし内容をみると、山以上に多彩な顔を持っていることに更なる驚きがあった。ここでの紹介はほぼ掲載順に、国立公園や国定公園の名を頭に冠して記載した。
第8章 海浜・島嶼 Coastal Regions and Islands
8−1.利尻礼文サロベツ国立公園/利尻島・礼文島
利尻島:日本の北端、稚内の西に位置し、ほぼ円形の日本で面積が18番目の島である。アイヌ民族はこの島をリー・シリ(高い島)と言った。島の中央には標高 1721m の利尻山が聳え、この山がこの島を形成している。南岸の奇岩はこの山の噴火と北の外洋の波浪で造られたものである。(1) 利尻・御崎 (みさき) の光芒:利尻島の南端、仙法志御崎公園からの落日。ここから眺める落日は最高だと称賛できる。(2)利尻・御崎夕照:この御崎の奇岩累々は利尻山の噴火による溶岩で造られた。今日も波涛が逆光に輝いて見事である。夕陽の傾きによって、色彩が黄色から黄金色に、オレンジ色から赤へと変化する。
礼文島:人が住んでいる島としては日本最北端の島である。(3)礼文・地蔵岩:島の南端にある有数の観光地で、ここには高さ 50m の岩峰が屹立している。岩峰と日本海の落日とを組み合わせて撮影した。(4)礼文・澄海岬:島北部の西側海岸にある岬の岸壁がとても素晴らしい。
8−2.知床国立公園/知床半島
(5)流氷と落日:半島のオホーツク海側の南端にある見晴橋から撮った流氷で埋まった海と落日。(6)流氷覆う:見晴橋は海岸線から少し高まった所にあるので、流氷の海を広く撮ることができる。(7)流氷と月:この日の午後ずっと見晴橋で太陽と雲と流氷が演じるドラマを眺めてきた。日没後、西の水平線が真っ赤になった。その後中天に月と一番星が現れた。(8)知床岬と流氷:知床半島の突端の知床岬を取り巻く流氷をオホーツク海の上空から撮影した。岬の岩礁が克明に写っている。(9)流氷と知床連山:網走と知床岬の中間点の上空から撮った流氷と知床連山。一番高いのが羅臼岳、左へ順に三ツ峰、サシルイ岳、オッカバケ岳、硫黄岳、画面右の低いのが天頂山、左に下がって一番低いのが知床峠。(10)知床岬鳥瞰:知床岬の西側は岩礁が続き、更に岩礁は絶壁状に落ち込んでいる。流氷と共に空撮した。(11)知床半島旭日:網走港の東方の海岸から撮った流氷と日の出の太陽である。撮影は2月末、この季節太陽は海別岳の左肩から上がる。全面凍った海に流氷が散在し、久しぶりに出た太陽が海面を真っ赤に染めた。(12)夜明け前の知床半島:網走港の港外から撮影した夜明け前の流氷と知床半島。中央に羅臼岳、右端に海別岳。(13)流氷とサンピラー:知床半島ウトロ港の上部から撮った夕陽のサンピラー (太陽柱) 。夕方になって空気中の湿気が凍り、少し弱いが太陽柱になった。
8−3.下北半島国定公園/仏ヶ浦
(14)仏ヶ浦俯瞰:青森県下北半島にある特異な形をした巨岩や断崖が連なる海蝕崖地である。写真は国道328号線から俯瞰したもので、高度差は 100m ある。右下の幾つか集まった岩峰が「十三仏」、左の白いのが「仁王岩」、中央の青い岩峰が「蓬莱山。その向こう側が「鳳鳴山」。両方から海に突き出た岩盤が「極楽浜」。(15)仏ヶ浦仁王岩:仁王岩を海側の岩礁から撮影した。津軽海峡からの長年月の荒波により、これ程までに浸食されるものか。(16)十三仏と仁王岩残照:極楽浜から太陽が水平線に沈む直前に撮影した。左の岩峰が十三仏、右が仁王岩である。この仏ヶ浦は昔は恐山と一体であって、恐山を参拝した後この仏ヶ浦を巡拝していたという。(17)五百羅漢:この岩の集団は先の岩の集団とは北に離れている。陸からも遠望できるが、近くで見ようとすれば海上からでしか見れない。個々の岩には仏様に因んだ名が付けられている。
8−4.陸中海岸国立公園/三陸海岸
(18)鵜ノ巣断崖の日の出:三陸海岸は太平洋に沿って 200km にわたり断崖絶壁が続く。岩手県田野原村には断崖の中腹にウミウが営巣している場所がある。その崖上から撮った日の出である。気宇壮大な朝。(19)久慈海岸の岩礁:久慈海岸といえば「つりがね洞」や「小袖海岸」が有名だが、この岩礁は久慈港のもっと北にある。(20)矢越崎:有数の名所である田野原村の北山崎にある第一展望台から南望した。画面左の穴の開いた丸い巨大な岩が矢越崎。その左の岩峰がローソク岩。そのバックにある崖が鵜ノ巣断崖である。(21)浄土ヶ浜曙光:浄土ヶ浜の西に三方が崖の山があり、その頂上から浄土ヶ浜の日の出を撮った。1月上旬、太陽は画面の右側から出た。(22)北山崎朝光:北山崎は 200m 級の断崖が 8km も続いていて、海のアルプスと呼ばれている。これは第二展望台から撮ったもので、太陽は左の水平線から出てこの時は崖に太陽が当たるが、その後は終日逆光で日陰になる。(23)浄土ヶ浜・剣の山:岩手県宮古市、5200 万年前、白い火山岩によって半島が造られ、それが浸食されて今日の姿になった。浄土ヶ浜に立つと、入り江の向こう側に白い流紋岩の岩山が並ぶ。北西から鷹岩、エボシ岩、浄土ヶ島、剣の山と南東に続く。剣の山はこれらの岩山のほぼ中央にあり、不思議なことに草木が全く生えず、白い裸の岩山である。白いが故に見る人を魅了する。昔から人は遠くに眺められる真っ白な雪山を白山として信仰した。ヨーロッパ最高峰のモンブランもヒマラヤ 8000m 峰のダウラギリも現地語では白山である。
第8章 海浜・島嶼 Coastal Regions and Islands
8−1.利尻礼文サロベツ国立公園/利尻島・礼文島
利尻島:日本の北端、稚内の西に位置し、ほぼ円形の日本で面積が18番目の島である。アイヌ民族はこの島をリー・シリ(高い島)と言った。島の中央には標高 1721m の利尻山が聳え、この山がこの島を形成している。南岸の奇岩はこの山の噴火と北の外洋の波浪で造られたものである。(1) 利尻・御崎 (みさき) の光芒:利尻島の南端、仙法志御崎公園からの落日。ここから眺める落日は最高だと称賛できる。(2)利尻・御崎夕照:この御崎の奇岩累々は利尻山の噴火による溶岩で造られた。今日も波涛が逆光に輝いて見事である。夕陽の傾きによって、色彩が黄色から黄金色に、オレンジ色から赤へと変化する。
礼文島:人が住んでいる島としては日本最北端の島である。(3)礼文・地蔵岩:島の南端にある有数の観光地で、ここには高さ 50m の岩峰が屹立している。岩峰と日本海の落日とを組み合わせて撮影した。(4)礼文・澄海岬:島北部の西側海岸にある岬の岸壁がとても素晴らしい。
8−2.知床国立公園/知床半島
(5)流氷と落日:半島のオホーツク海側の南端にある見晴橋から撮った流氷で埋まった海と落日。(6)流氷覆う:見晴橋は海岸線から少し高まった所にあるので、流氷の海を広く撮ることができる。(7)流氷と月:この日の午後ずっと見晴橋で太陽と雲と流氷が演じるドラマを眺めてきた。日没後、西の水平線が真っ赤になった。その後中天に月と一番星が現れた。(8)知床岬と流氷:知床半島の突端の知床岬を取り巻く流氷をオホーツク海の上空から撮影した。岬の岩礁が克明に写っている。(9)流氷と知床連山:網走と知床岬の中間点の上空から撮った流氷と知床連山。一番高いのが羅臼岳、左へ順に三ツ峰、サシルイ岳、オッカバケ岳、硫黄岳、画面右の低いのが天頂山、左に下がって一番低いのが知床峠。(10)知床岬鳥瞰:知床岬の西側は岩礁が続き、更に岩礁は絶壁状に落ち込んでいる。流氷と共に空撮した。(11)知床半島旭日:網走港の東方の海岸から撮った流氷と日の出の太陽である。撮影は2月末、この季節太陽は海別岳の左肩から上がる。全面凍った海に流氷が散在し、久しぶりに出た太陽が海面を真っ赤に染めた。(12)夜明け前の知床半島:網走港の港外から撮影した夜明け前の流氷と知床半島。中央に羅臼岳、右端に海別岳。(13)流氷とサンピラー:知床半島ウトロ港の上部から撮った夕陽のサンピラー (太陽柱) 。夕方になって空気中の湿気が凍り、少し弱いが太陽柱になった。
8−3.下北半島国定公園/仏ヶ浦
(14)仏ヶ浦俯瞰:青森県下北半島にある特異な形をした巨岩や断崖が連なる海蝕崖地である。写真は国道328号線から俯瞰したもので、高度差は 100m ある。右下の幾つか集まった岩峰が「十三仏」、左の白いのが「仁王岩」、中央の青い岩峰が「蓬莱山。その向こう側が「鳳鳴山」。両方から海に突き出た岩盤が「極楽浜」。(15)仏ヶ浦仁王岩:仁王岩を海側の岩礁から撮影した。津軽海峡からの長年月の荒波により、これ程までに浸食されるものか。(16)十三仏と仁王岩残照:極楽浜から太陽が水平線に沈む直前に撮影した。左の岩峰が十三仏、右が仁王岩である。この仏ヶ浦は昔は恐山と一体であって、恐山を参拝した後この仏ヶ浦を巡拝していたという。(17)五百羅漢:この岩の集団は先の岩の集団とは北に離れている。陸からも遠望できるが、近くで見ようとすれば海上からでしか見れない。個々の岩には仏様に因んだ名が付けられている。
8−4.陸中海岸国立公園/三陸海岸
(18)鵜ノ巣断崖の日の出:三陸海岸は太平洋に沿って 200km にわたり断崖絶壁が続く。岩手県田野原村には断崖の中腹にウミウが営巣している場所がある。その崖上から撮った日の出である。気宇壮大な朝。(19)久慈海岸の岩礁:久慈海岸といえば「つりがね洞」や「小袖海岸」が有名だが、この岩礁は久慈港のもっと北にある。(20)矢越崎:有数の名所である田野原村の北山崎にある第一展望台から南望した。画面左の穴の開いた丸い巨大な岩が矢越崎。その左の岩峰がローソク岩。そのバックにある崖が鵜ノ巣断崖である。(21)浄土ヶ浜曙光:浄土ヶ浜の西に三方が崖の山があり、その頂上から浄土ヶ浜の日の出を撮った。1月上旬、太陽は画面の右側から出た。(22)北山崎朝光:北山崎は 200m 級の断崖が 8km も続いていて、海のアルプスと呼ばれている。これは第二展望台から撮ったもので、太陽は左の水平線から出てこの時は崖に太陽が当たるが、その後は終日逆光で日陰になる。(23)浄土ヶ浜・剣の山:岩手県宮古市、5200 万年前、白い火山岩によって半島が造られ、それが浸食されて今日の姿になった。浄土ヶ浜に立つと、入り江の向こう側に白い流紋岩の岩山が並ぶ。北西から鷹岩、エボシ岩、浄土ヶ島、剣の山と南東に続く。剣の山はこれらの岩山のほぼ中央にあり、不思議なことに草木が全く生えず、白い裸の岩山である。白いが故に見る人を魅了する。昔から人は遠くに眺められる真っ白な雪山を白山として信仰した。ヨーロッパ最高峰のモンブランもヒマラヤ 8000m 峰のダウラギリも現地語では白山である。
2013年9月20日金曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔10〕
この第7章のタイトルは「湿原」で、ここには23点の写真が収録されている。この章の序を書いた辻井達一によれば、太古の日本は湿原の国だったという。それは最古の歴史書である「古事記」には、この国を「豊葦原瑞穂国」、すなわち葦が一面に生い茂っている国と称していることからも伺い知れるという。またもう一つの名称の「秋津島」もトンボが沢山飛んでいる島、これも湿原を思わせる名称である。ところで現在は湿原と呼べる箇所は限られていて、ここでは釧路、尾瀬、日光、立山と月山の弥陀ヶ原臥紹介されているのみだ。ここでは掲載順に、国立公園名を入れて記した。
第7章 湿 原 Wetlands
7−1 釧路湿原国立公園/釧路湿原
(1) 湿原曙光:日本最大の大湿原の最も代表的なビューポイントである北斗展望台から、日の出直後に撮った写真である。湿原の全体は葦で覆われ、その中にハンノキが散在している。その葦原に太陽の曙光が走る。その色彩がピンク色から黄金色に変化していく風景を見ていると、心身爽快で幸せな気持ちになる。(2)シラルトロエトロ川:屈斜路湖に端を発した釧路川が釧路港に流れ込む中間地点が標茶町で、そのすぐ南から釧路湿原が始まる。つまりシラルトロエトロ川はこの湿原の北端に位置している。この湿原で最も紅葉が美しい場所がこの川の周辺で、ここの紅葉は実に見事というほかない。
(3)釧路川:これ程曲がりくねった一級河川は釧路川以外にはないのではないか。この湿原の2番目に有名な湿原の東端にある細岡展望台の上空からヘリで空撮した。湿原は一面黄葉している。(4)釧路湿原逆光:湿原の真ん中部分を冬季に空撮した。湿原に伸び出した宮島岬の少し南方、ツルワシナイ川と雪裡川との合流点である。湿原を縦横に流れる中小の河川が、まるで網の目のようになって流れている。(5)雪裡川下流:湿原の南端近くを流れ、このすぐ南で人工的に掘削された新釧路川に合流する。冬の上空から見ても、この辺りが自然との境界である。(6)釧路湿原夜明け前:湿原の南西に北斗展望台がある。夜が白み始めてハンノキが肉眼でも漸く見えるようになった頃、葦の原に東の赤い空が映えた。(7)釧路湿原黎明:北斗展望台から撮った日の出数分後の写真。湿原とハンノキ林が黄金色に輝く歓喜の一瞬である。(8)湿原茫々:釧路湿原は湿原の広さだけで 22,070ha ある ( 国立公園はさらに広い ) 。そしてこの北斗展望台から眺められる広さはその 10 分の 1もない。でもこのような原初の風景が残っていることは嬉しい。(9)細岡展望台直下:早朝に筋状の雲が出て、見渡す限りの葦原が筋状の縞模様になった。実に珍しい光景に出くわした。
7−2 中部山岳国立公園/立山弥陀ヶ原
(10) 立山弥陀ヶ原ガキ田:弥陀ヶ原というと、立山、白山、月山が有名である。立山の弥陀ヶ原は標高 1600 - 2100m の高原で、そのほぼ中央に大小合わせて約 3000 個の沼があり、その沼・池のことをガキ田 (餓鬼田) という。これは立山餓鬼道地獄に落ちた亡者たちが耕した田圃の伝説からそう名付けられたもので、栄養状態が極めて悪い湿地で、とても人が耕したり水田にすることは出来ない。それで今日まで景観が保たれたのである。秋たけなわのガキ田は、地表の草が黄葉に燃え、無数に点在する池が青空を映して青く見え、低い常緑樹の緑色と相まって、見事な色彩絵巻を見せていた。
7−3 磐梯朝日国立公園/月山弥陀ヶ原
(11) 月山弥陀ヶ原と鳥海山:朝日山地の北端にある出羽三山の一つの月山の山腹にある高層湿原が弥陀ヶ原で、そこには数百の池塘がある。写真は緑の湿原と青い池塘と、ほぼ 60km 離れている鳥海山 (2236m) を撮ったものである。(12)弥陀ヶ原と月山:画面の上方に月山 (1984m) 、その手前に標高1450m の弥陀ヶ原。高所に池塘ができたのは、地表の植物が秋に枯れても、冬の低温で腐らずに泥炭となり、その凹地に水が溜まったからである。
7−4 尾瀬国立公園/尾瀬ヶ原
(13) 尾瀬ヶ原全景:至仏山の上空から見た尾瀬ヶ原全景である。正面の山が燧ヶ岳で、その右に尾瀬沼が見えている。尾瀬ヶ原は福島、新潟、群馬の三県にまたがっていて、至仏山、燧ヶ岳、袴腰山、中原山など 2000m 級の山々に囲まれた、東西 6km 南北 3km の高所盆地である。(14)尾瀬ヶ原遠望:6月中旬に撮影した尾瀬は至る所にミズバショウが咲き、長閑な風景だった。それが秋になったらどうなるのかという興味が湧き、10月下旬にヘリを飛ばした。写っているのは晩秋の上田代だが、正に赤く劇的に変貌していた。(15)尾瀬ヶ原鳥瞰:今度は高度をうんと下げて湿原を大写しにした。すると地表の至る所に獣道が縦横に走っているのが見えて、昼間はほとんど見ることがない動物が相当数生息していることが伺われた。尾瀬で木々が集まる林が細長いのは川に沿っているからで、広葉樹は既に落葉して白い枝だけが残っている。左には池塘が黒く克明に写っている。(16)尾瀬ヶ原中田代:尾瀬ヶ原は大きく3地域に分けられ、至仏山側を上田代、燧ヶ岳側を下田代、その中間がこの中田代で、上空から空撮した。湿原は赤く、池塘は黒く写っていて、池塘には可愛い木々が生えている。(17)田代山山頂湿原:燧ヶ岳の東方約 18km の福島と栃木の県境にこの田代山 1971m がある。田代とは山頂が湿原のことで、この山の山頂が湿原であることで有名である。10月下旬の空撮だが、周辺の山々は今が盛りの紅葉だった。(18)燧ヶ岳と尾瀬ヶ原:燧ヶ岳上空から南望した写真。左のピークが俎嵒 (まないたぐら)
2346m 、すぐ右の一番高いのが柴安嵒 (しばやすぐら) 2356m 、尾瀬ヶ原はこの燧ヶ岳の火山活動で造られた。尾瀬ヶ原の突き当たりが至仏山である。(19)尾瀬釜ッ堀:早朝に北側の沼山峠から尾瀬に入った。ミズバショウは途中の大江湿原にも尾瀬沼ビジターセンター周辺のほかあちこちにあるが、これは
釜ッ堀のミズバショウである。バックは尾瀬沼と燧ヶ岳である。6月中旬に撮った。(20)尾瀬下の大堀川:尾瀬で最も有名なミズバショウの群落はこの大堀川である。この日は群馬県側の鳩待峠から入った。ここから眺める至仏山は堂々としていて雄大である。6月中旬の撮影だが、人が多いのには閉口した。
7−5 日光国立公園/日光戦場ヶ原
(21) 小田代原 (おだしろがはら) と戦場ヶ原:左下方が小田代原、その上に横長に広がるのが戦場ヶ原、紅葉真っ盛りの10月中旬に空撮した。山は中央が太郎山、左が山王帽子山、右端が大真名子山、右画面外に男体山が続く。(22)カラマツ林:戦場ヶ原の一画にカラマツの群生地がある。ヨーロッパアルプスの山麓に生育するアローラ松は茶系の黄葉だが、日本のカラマツは場所によってはオレンジ色になる。その見事なオレンジ色の黄葉を10月中旬に空撮した。(23)日光湯川:奥日光湯ノ湖から落ちた湯滝の水が、中禅寺湖まで 12,4km をゆったりと流れるのが湯川で、この湯川が西の小田代原と東の戦場ヶ原とを分けている。上空から見ると川の流れに沿って林があり、黄葉した落葉樹と緑の常緑樹が入り乱れて多彩な風景を醸し出している。それに草原の草紅葉が加わって、自然が何か賑やかなお祭りでも始めそうな華やかな雰囲気に見えた。
第7章 湿 原 Wetlands
7−1 釧路湿原国立公園/釧路湿原
(1) 湿原曙光:日本最大の大湿原の最も代表的なビューポイントである北斗展望台から、日の出直後に撮った写真である。湿原の全体は葦で覆われ、その中にハンノキが散在している。その葦原に太陽の曙光が走る。その色彩がピンク色から黄金色に変化していく風景を見ていると、心身爽快で幸せな気持ちになる。(2)シラルトロエトロ川:屈斜路湖に端を発した釧路川が釧路港に流れ込む中間地点が標茶町で、そのすぐ南から釧路湿原が始まる。つまりシラルトロエトロ川はこの湿原の北端に位置している。この湿原で最も紅葉が美しい場所がこの川の周辺で、ここの紅葉は実に見事というほかない。
(3)釧路川:これ程曲がりくねった一級河川は釧路川以外にはないのではないか。この湿原の2番目に有名な湿原の東端にある細岡展望台の上空からヘリで空撮した。湿原は一面黄葉している。(4)釧路湿原逆光:湿原の真ん中部分を冬季に空撮した。湿原に伸び出した宮島岬の少し南方、ツルワシナイ川と雪裡川との合流点である。湿原を縦横に流れる中小の河川が、まるで網の目のようになって流れている。(5)雪裡川下流:湿原の南端近くを流れ、このすぐ南で人工的に掘削された新釧路川に合流する。冬の上空から見ても、この辺りが自然との境界である。(6)釧路湿原夜明け前:湿原の南西に北斗展望台がある。夜が白み始めてハンノキが肉眼でも漸く見えるようになった頃、葦の原に東の赤い空が映えた。(7)釧路湿原黎明:北斗展望台から撮った日の出数分後の写真。湿原とハンノキ林が黄金色に輝く歓喜の一瞬である。(8)湿原茫々:釧路湿原は湿原の広さだけで 22,070ha ある ( 国立公園はさらに広い ) 。そしてこの北斗展望台から眺められる広さはその 10 分の 1もない。でもこのような原初の風景が残っていることは嬉しい。(9)細岡展望台直下:早朝に筋状の雲が出て、見渡す限りの葦原が筋状の縞模様になった。実に珍しい光景に出くわした。
7−2 中部山岳国立公園/立山弥陀ヶ原
(10) 立山弥陀ヶ原ガキ田:弥陀ヶ原というと、立山、白山、月山が有名である。立山の弥陀ヶ原は標高 1600 - 2100m の高原で、そのほぼ中央に大小合わせて約 3000 個の沼があり、その沼・池のことをガキ田 (餓鬼田) という。これは立山餓鬼道地獄に落ちた亡者たちが耕した田圃の伝説からそう名付けられたもので、栄養状態が極めて悪い湿地で、とても人が耕したり水田にすることは出来ない。それで今日まで景観が保たれたのである。秋たけなわのガキ田は、地表の草が黄葉に燃え、無数に点在する池が青空を映して青く見え、低い常緑樹の緑色と相まって、見事な色彩絵巻を見せていた。
7−3 磐梯朝日国立公園/月山弥陀ヶ原
(11) 月山弥陀ヶ原と鳥海山:朝日山地の北端にある出羽三山の一つの月山の山腹にある高層湿原が弥陀ヶ原で、そこには数百の池塘がある。写真は緑の湿原と青い池塘と、ほぼ 60km 離れている鳥海山 (2236m) を撮ったものである。(12)弥陀ヶ原と月山:画面の上方に月山 (1984m) 、その手前に標高1450m の弥陀ヶ原。高所に池塘ができたのは、地表の植物が秋に枯れても、冬の低温で腐らずに泥炭となり、その凹地に水が溜まったからである。
7−4 尾瀬国立公園/尾瀬ヶ原
(13) 尾瀬ヶ原全景:至仏山の上空から見た尾瀬ヶ原全景である。正面の山が燧ヶ岳で、その右に尾瀬沼が見えている。尾瀬ヶ原は福島、新潟、群馬の三県にまたがっていて、至仏山、燧ヶ岳、袴腰山、中原山など 2000m 級の山々に囲まれた、東西 6km 南北 3km の高所盆地である。(14)尾瀬ヶ原遠望:6月中旬に撮影した尾瀬は至る所にミズバショウが咲き、長閑な風景だった。それが秋になったらどうなるのかという興味が湧き、10月下旬にヘリを飛ばした。写っているのは晩秋の上田代だが、正に赤く劇的に変貌していた。(15)尾瀬ヶ原鳥瞰:今度は高度をうんと下げて湿原を大写しにした。すると地表の至る所に獣道が縦横に走っているのが見えて、昼間はほとんど見ることがない動物が相当数生息していることが伺われた。尾瀬で木々が集まる林が細長いのは川に沿っているからで、広葉樹は既に落葉して白い枝だけが残っている。左には池塘が黒く克明に写っている。(16)尾瀬ヶ原中田代:尾瀬ヶ原は大きく3地域に分けられ、至仏山側を上田代、燧ヶ岳側を下田代、その中間がこの中田代で、上空から空撮した。湿原は赤く、池塘は黒く写っていて、池塘には可愛い木々が生えている。(17)田代山山頂湿原:燧ヶ岳の東方約 18km の福島と栃木の県境にこの田代山 1971m がある。田代とは山頂が湿原のことで、この山の山頂が湿原であることで有名である。10月下旬の空撮だが、周辺の山々は今が盛りの紅葉だった。(18)燧ヶ岳と尾瀬ヶ原:燧ヶ岳上空から南望した写真。左のピークが俎嵒 (まないたぐら)
2346m 、すぐ右の一番高いのが柴安嵒 (しばやすぐら) 2356m 、尾瀬ヶ原はこの燧ヶ岳の火山活動で造られた。尾瀬ヶ原の突き当たりが至仏山である。(19)尾瀬釜ッ堀:早朝に北側の沼山峠から尾瀬に入った。ミズバショウは途中の大江湿原にも尾瀬沼ビジターセンター周辺のほかあちこちにあるが、これは
釜ッ堀のミズバショウである。バックは尾瀬沼と燧ヶ岳である。6月中旬に撮った。(20)尾瀬下の大堀川:尾瀬で最も有名なミズバショウの群落はこの大堀川である。この日は群馬県側の鳩待峠から入った。ここから眺める至仏山は堂々としていて雄大である。6月中旬の撮影だが、人が多いのには閉口した。
7−5 日光国立公園/日光戦場ヶ原
(21) 小田代原 (おだしろがはら) と戦場ヶ原:左下方が小田代原、その上に横長に広がるのが戦場ヶ原、紅葉真っ盛りの10月中旬に空撮した。山は中央が太郎山、左が山王帽子山、右端が大真名子山、右画面外に男体山が続く。(22)カラマツ林:戦場ヶ原の一画にカラマツの群生地がある。ヨーロッパアルプスの山麓に生育するアローラ松は茶系の黄葉だが、日本のカラマツは場所によってはオレンジ色になる。その見事なオレンジ色の黄葉を10月中旬に空撮した。(23)日光湯川:奥日光湯ノ湖から落ちた湯滝の水が、中禅寺湖まで 12,4km をゆったりと流れるのが湯川で、この湯川が西の小田代原と東の戦場ヶ原とを分けている。上空から見ると川の流れに沿って林があり、黄葉した落葉樹と緑の常緑樹が入り乱れて多彩な風景を醸し出している。それに草原の草紅葉が加わって、自然が何か賑やかなお祭りでも始めそうな華やかな雰囲気に見えた。
2013年9月14日土曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔9〕
(承前)
6−4 日光国立公園/茶臼岳・朝日岳
(19) 朝日岳:日光国立公園の北端の茶臼岳とその北側の三本槍岳との中間にある 1896m の山。茶臼岳ロープウェイ乗り場の少し上から10月下旬に撮影。(20) 日塩 (にちえん) もみじライン:日光国立公園の鬼怒川から塩原温泉までの有料道路で、もみじ谷大吊橋を過ぎた辺りから、日の出の太陽を受けて赤く染まったもみじラインの風景である。11月上旬に撮影。(21) 茶臼岳:標高 1915m の火山。北と西に噴気口があり噴煙を上げている。火口を空撮した。(23) 霧降高原:東方向から空撮した紅葉の霧降高原。右に赤薙山 2010m、左遠くに男体山 2486m が見える。
6−5 秩父多摩甲斐国立公園/瑞牆 (みずがき) 山
(17) 瑞牆山:長野県との県境に近い山梨県の山で、標高は 2230m。全山花崗岩から成る。長年の風化浸食で独特な山容となった。紅葉はこの年最後の輝き。
6−6 富士箱根伊豆国立公園/箱根仙石原
(22) 箱根仙石原:神奈川県箱根町にある仙石原高原、標高約650m。火口原湖跡が高原になったといわれる。一面の草黄葉。11月中旬に撮影。
6−7 中部山岳国立公園/立山・安曇野・陸郷
(11) 天狗平と剣岳:天狗平は室堂平と弥陀ヶ原の間にある標高 2300m の古立山火山によって形成された溶岩台地である。秋の天狗平の草紅葉と剣岳 ( 2999m ) 。(12) 立山地獄谷の落日:ここは立山の爆裂火口の跡で周囲 1.5km 。今も夥しい白煙が噴気孔から吹き出している。10月のこの日の夕方は雲が厚かったが、雲の切れ間から黄金色の太陽が覗き、神秘的な光景になった。(13) 爺ヶ岳と鹿島槍:安曇野三郷の黒沢川の堤防の満開の桜並木を入れて、後立山連峰を撮った。中央の双耳峰が鹿島槍ヶ岳 2889m 、左が爺ヶ岳 2670m 、右が五龍岳 2814m 。(14) 桜と常念岳:早朝の日の出直後、安曇野から撮影した朝焼けの常念岳 2857m 。手前に新堀堰の桜。(15) 桜仙峡と北アルプス:長野県池田町の東側の山の上に「陸郷」という展望絶佳の場所があり、そこから眺めた 桜仙峡で、桜が満開の頃は桃源郷になる。遠く左に大天井岳 2992m 、その右に燕岳 2763m を望む。
6−8 大山隠岐国立公園/大山・蒜山
(24) 鬼女台からの蒜山:大山の東南約 7km に鬼女台という有数の展望台がある。標高 869m 。そこから見た秋深い蒜山高原の日の出。ススキが逆光に映えて清々しい。(25)大山と烏ヶ岳:前の写真を撮った前日の夕方に鬼女台から撮ったものである。左遠くに見えるのが大山 1729m 、右の三角山が烏ヶ岳 1448m 、太陽光が長波長になって紅葉が真っ赤になった。
6−9 山陰海岸国立公園/玄武洞
(26) 青龍洞:この国立公園は海岸の公園であるが、玄武洞を中心とする洞窟は円山川に沿った内陸にある。通常玄武洞として知られているが、他に青龍洞、白虎洞、北・南朱雀洞の五洞から成っている。玄武洞は江戸時代後期に命名され、玄武岩はここに因んでいる。この五洞の最大の特徴は見事な柱状節理である。最も大きな玄武洞は相当に採石されてしまったが、青龍洞は自然のままに残っている。前面に池があったことが幸いしたと言われている。写真でも池の反射は効果的である。
6−10 阿蘇くじゅう国立公園/阿蘇山・九重山
(27)九重黒岳:九重山西部に黒岳 1390m がある。北側に男池湧水群があり、その鉄山キャンプ場から撮った紅葉と黒岳である。(28)阿蘇中岳:ロープウェイの乗り場の阿蘇山西駅から少し西方に山上広場と名付けられた場所があり、ここはミヤマキリシマの群生地である。ここから見た阿蘇中岳 1506m 。撮影は5月下旬。(29)九重三俣山:九重山の中心地は長者丸で、そのススキの原を隔てて三俣山 1745m を撮った。季節は11月初旬。(30)阿蘇御竈門 (おかまど) 山:阿蘇パノラマラインを北上すると火の山トンネルがある。そこを抜けた辺りから撮ったミヤマキリシマと御竈門山 1153m である。5月の阿蘇は華やかである。(31)往生岳と月:阿蘇パノラマラインを東に向って山に上り始めると、左に米塚が現れる。この地から撮った往生岳 1238m と右に杵島岳 1270m である。夕方の長波長の太陽光を受けて風景が少し赤く色づいた。東の空に月が出た。
6−4 日光国立公園/茶臼岳・朝日岳
(19) 朝日岳:日光国立公園の北端の茶臼岳とその北側の三本槍岳との中間にある 1896m の山。茶臼岳ロープウェイ乗り場の少し上から10月下旬に撮影。(20) 日塩 (にちえん) もみじライン:日光国立公園の鬼怒川から塩原温泉までの有料道路で、もみじ谷大吊橋を過ぎた辺りから、日の出の太陽を受けて赤く染まったもみじラインの風景である。11月上旬に撮影。(21) 茶臼岳:標高 1915m の火山。北と西に噴気口があり噴煙を上げている。火口を空撮した。(23) 霧降高原:東方向から空撮した紅葉の霧降高原。右に赤薙山 2010m、左遠くに男体山 2486m が見える。
6−5 秩父多摩甲斐国立公園/瑞牆 (みずがき) 山
(17) 瑞牆山:長野県との県境に近い山梨県の山で、標高は 2230m。全山花崗岩から成る。長年の風化浸食で独特な山容となった。紅葉はこの年最後の輝き。
6−6 富士箱根伊豆国立公園/箱根仙石原
(22) 箱根仙石原:神奈川県箱根町にある仙石原高原、標高約650m。火口原湖跡が高原になったといわれる。一面の草黄葉。11月中旬に撮影。
6−7 中部山岳国立公園/立山・安曇野・陸郷
(11) 天狗平と剣岳:天狗平は室堂平と弥陀ヶ原の間にある標高 2300m の古立山火山によって形成された溶岩台地である。秋の天狗平の草紅葉と剣岳 ( 2999m ) 。(12) 立山地獄谷の落日:ここは立山の爆裂火口の跡で周囲 1.5km 。今も夥しい白煙が噴気孔から吹き出している。10月のこの日の夕方は雲が厚かったが、雲の切れ間から黄金色の太陽が覗き、神秘的な光景になった。(13) 爺ヶ岳と鹿島槍:安曇野三郷の黒沢川の堤防の満開の桜並木を入れて、後立山連峰を撮った。中央の双耳峰が鹿島槍ヶ岳 2889m 、左が爺ヶ岳 2670m 、右が五龍岳 2814m 。(14) 桜と常念岳:早朝の日の出直後、安曇野から撮影した朝焼けの常念岳 2857m 。手前に新堀堰の桜。(15) 桜仙峡と北アルプス:長野県池田町の東側の山の上に「陸郷」という展望絶佳の場所があり、そこから眺めた 桜仙峡で、桜が満開の頃は桃源郷になる。遠く左に大天井岳 2992m 、その右に燕岳 2763m を望む。
6−8 大山隠岐国立公園/大山・蒜山
(24) 鬼女台からの蒜山:大山の東南約 7km に鬼女台という有数の展望台がある。標高 869m 。そこから見た秋深い蒜山高原の日の出。ススキが逆光に映えて清々しい。(25)大山と烏ヶ岳:前の写真を撮った前日の夕方に鬼女台から撮ったものである。左遠くに見えるのが大山 1729m 、右の三角山が烏ヶ岳 1448m 、太陽光が長波長になって紅葉が真っ赤になった。
6−9 山陰海岸国立公園/玄武洞
(26) 青龍洞:この国立公園は海岸の公園であるが、玄武洞を中心とする洞窟は円山川に沿った内陸にある。通常玄武洞として知られているが、他に青龍洞、白虎洞、北・南朱雀洞の五洞から成っている。玄武洞は江戸時代後期に命名され、玄武岩はここに因んでいる。この五洞の最大の特徴は見事な柱状節理である。最も大きな玄武洞は相当に採石されてしまったが、青龍洞は自然のままに残っている。前面に池があったことが幸いしたと言われている。写真でも池の反射は効果的である。
6−10 阿蘇くじゅう国立公園/阿蘇山・九重山
(27)九重黒岳:九重山西部に黒岳 1390m がある。北側に男池湧水群があり、その鉄山キャンプ場から撮った紅葉と黒岳である。(28)阿蘇中岳:ロープウェイの乗り場の阿蘇山西駅から少し西方に山上広場と名付けられた場所があり、ここはミヤマキリシマの群生地である。ここから見た阿蘇中岳 1506m 。撮影は5月下旬。(29)九重三俣山:九重山の中心地は長者丸で、そのススキの原を隔てて三俣山 1745m を撮った。季節は11月初旬。(30)阿蘇御竈門 (おかまど) 山:阿蘇パノラマラインを北上すると火の山トンネルがある。そこを抜けた辺りから撮ったミヤマキリシマと御竈門山 1153m である。5月の阿蘇は華やかである。(31)往生岳と月:阿蘇パノラマラインを東に向って山に上り始めると、左に米塚が現れる。この地から撮った往生岳 1238m と右に杵島岳 1270m である。夕方の長波長の太陽光を受けて風景が少し赤く色づいた。東の空に月が出た。
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔8〕
この第6章のタイトルは「高原」で、ここには31点の写真が収載されている。でもここに出てくる撮影地や被写体は一般に高原として通用しているとは限らない。高原と名の付く地形名は高校の地図帳では4高原のみとか、そこで私は成美堂出版の日本地図で当たってみたところ、「高原」と名の付く地形名は48あった。また似たような「山地」というのが46、ほかに「台地」が10、「〜原」が7、「〜平」が3、「高地」が2あった。しかし撮影者は必ずしもこれらにこだわってはいない。ところで撮影地や被写体は国立公園なので、公園をほぼ北から南へと順に示した。
第6章 高 原 Highlands
6−1 大雪山国立公園/大雪山・十勝岳
● 大雪山/(1) 銀泉台の日の出:かつて大雪山を横断する観光道路が造られることになったが、工事進行中に自然保護団体の猛反対が起き、工事が中止されたが、その地点がこの銀泉台 (1500m) である。大雪山周辺で車で行ける最高地点であり、大雪山赤岳の登山口でもある。ここが有名なのは日本で最初に紅葉が始まる所であり、またその紅葉が実に見事である。それで多くの人が押しかけるので、9月中旬の10日間はマイカー乗り入れ規制が行なわれる。したがって日の出を撮ろうとすればこの時期を外さねばならない。紅葉もさることながら、ここからの日の出は実に素晴らしい。 (2) 銀泉台紅葉:銀泉台から赤岳への登山道を30分ばかり登るとこの地点に着く。この辺りが最も素晴らしい場所で、淡い緑と濃い緑、黄色にオレンジに真っ赤と、紅葉を構成する色が豊かに揃っている最高の場所である。 (3) 大雪高原:銀泉台の南方に広がる高根ヶ原の下には大雪高原沼が散らばっていて、ここも紅葉の名所である。この写真は沼の一つ式部沼から見上げて高根ヶ原と紅葉を撮っている。 (5) 銀泉台秋色:赤岳への登山道をさらに登って第二花園辺りから見た紅葉で、これ程鮮やかな紅葉は銀泉台周辺以外にはない。 (7) 旭岳の噴煙:大雪山の主峰旭岳の山麓にある姿見の池の上方に5,6個の噴気口があって白い噴煙が上がっている。気温が下がる秋や冬には特に噴煙が多くなる。
● 十勝岳/ (4) 十勝岳:望岳台から吹上温泉へ行く細道から撮った十勝岳の噴煙と紅葉である。この辺りは撮影者があまり入らず、紅葉は新鮮だった。 (6) 姿見平から十勝岳:大雪山旭岳ロープウェイで姿見平に上がると、すぐ近くに第一展望台がある。そこから遠く南西の方向に十勝岳が見える。緑のハイマツの中の紅葉が鮮やかだった。(10) 望岳台から山麓:十勝岳の望岳台から十勝岳温泉に向う道から山麓の富良野方面を見た。丘や林が自然のまま残り、それが紅葉して見事な景観だった。
6−2 阿寒国立公園/アトサヌプリ (硫黄山) ・サワンチサップ (帽子山)
(8) 川湯・帽子山:阿寒国立公園の摩周湖と屈斜路湖の丁度中間に、硫黄山など3つの山がある。南から硫黄山 512m、この山は今も活発な噴気活動を続ける火山である。その北にマクワンチサップ 574m、一番北に帽子山 520m の二重式溶岩円頂丘がある。その手前に地元でキツネ山と呼ばれる紅葉が格別の山がある。この写真のターゲットは手前にある夥しい流木で、これは恐らく硫黄山の火山ガスで立ち枯れになった木々が倒れ、長い年月をかけてここまで流れ着いたと思われる。でもよく見ると、流木の中に紅葉している木があるのには驚かされる。 (9) 硫黄山中腹:温泉街の近くなのに人の手が入らない平地がある。その周りを取り巻く林は真っ赤に紅葉している。
6−3 磐梯朝日国立公園/吾妻小富士
(16) 花見山:写真家の故秋山庄太郎氏が「福島に桃源郷あり」と言って一躍有名になった花見山。4月下旬に満開の桜を早朝に撮影した。吾妻小富士 1707m が見える。 (18) 天狗の庭から吾妻小富士:福島の高湯温泉から南の土湯峠まで磐梯吾妻スカイラインが延びている。このルートに沿って故井上靖氏が命名した吾妻八景がある。写真はこの第3番目の「天狗の庭」から見た吾妻小富士である。紅葉が見事だ。
第6章 高 原 Highlands
6−1 大雪山国立公園/大雪山・十勝岳
● 大雪山/(1) 銀泉台の日の出:かつて大雪山を横断する観光道路が造られることになったが、工事進行中に自然保護団体の猛反対が起き、工事が中止されたが、その地点がこの銀泉台 (1500m) である。大雪山周辺で車で行ける最高地点であり、大雪山赤岳の登山口でもある。ここが有名なのは日本で最初に紅葉が始まる所であり、またその紅葉が実に見事である。それで多くの人が押しかけるので、9月中旬の10日間はマイカー乗り入れ規制が行なわれる。したがって日の出を撮ろうとすればこの時期を外さねばならない。紅葉もさることながら、ここからの日の出は実に素晴らしい。 (2) 銀泉台紅葉:銀泉台から赤岳への登山道を30分ばかり登るとこの地点に着く。この辺りが最も素晴らしい場所で、淡い緑と濃い緑、黄色にオレンジに真っ赤と、紅葉を構成する色が豊かに揃っている最高の場所である。 (3) 大雪高原:銀泉台の南方に広がる高根ヶ原の下には大雪高原沼が散らばっていて、ここも紅葉の名所である。この写真は沼の一つ式部沼から見上げて高根ヶ原と紅葉を撮っている。 (5) 銀泉台秋色:赤岳への登山道をさらに登って第二花園辺りから見た紅葉で、これ程鮮やかな紅葉は銀泉台周辺以外にはない。 (7) 旭岳の噴煙:大雪山の主峰旭岳の山麓にある姿見の池の上方に5,6個の噴気口があって白い噴煙が上がっている。気温が下がる秋や冬には特に噴煙が多くなる。
● 十勝岳/ (4) 十勝岳:望岳台から吹上温泉へ行く細道から撮った十勝岳の噴煙と紅葉である。この辺りは撮影者があまり入らず、紅葉は新鮮だった。 (6) 姿見平から十勝岳:大雪山旭岳ロープウェイで姿見平に上がると、すぐ近くに第一展望台がある。そこから遠く南西の方向に十勝岳が見える。緑のハイマツの中の紅葉が鮮やかだった。(10) 望岳台から山麓:十勝岳の望岳台から十勝岳温泉に向う道から山麓の富良野方面を見た。丘や林が自然のまま残り、それが紅葉して見事な景観だった。
6−2 阿寒国立公園/アトサヌプリ (硫黄山) ・サワンチサップ (帽子山)
(8) 川湯・帽子山:阿寒国立公園の摩周湖と屈斜路湖の丁度中間に、硫黄山など3つの山がある。南から硫黄山 512m、この山は今も活発な噴気活動を続ける火山である。その北にマクワンチサップ 574m、一番北に帽子山 520m の二重式溶岩円頂丘がある。その手前に地元でキツネ山と呼ばれる紅葉が格別の山がある。この写真のターゲットは手前にある夥しい流木で、これは恐らく硫黄山の火山ガスで立ち枯れになった木々が倒れ、長い年月をかけてここまで流れ着いたと思われる。でもよく見ると、流木の中に紅葉している木があるのには驚かされる。 (9) 硫黄山中腹:温泉街の近くなのに人の手が入らない平地がある。その周りを取り巻く林は真っ赤に紅葉している。
6−3 磐梯朝日国立公園/吾妻小富士
(16) 花見山:写真家の故秋山庄太郎氏が「福島に桃源郷あり」と言って一躍有名になった花見山。4月下旬に満開の桜を早朝に撮影した。吾妻小富士 1707m が見える。 (18) 天狗の庭から吾妻小富士:福島の高湯温泉から南の土湯峠まで磐梯吾妻スカイラインが延びている。このルートに沿って故井上靖氏が命名した吾妻八景がある。写真はこの第3番目の「天狗の庭」から見た吾妻小富士である。紅葉が見事だ。
2013年9月11日水曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔7〕
この第5章のタイトルは「渓谷・河川」で、ここには23点の写真が収載されている。この章での撮影地は国立公園内なので、配列は北から順に示した。したがって写真の配列は本での配列とは異なっている。また国立公園の末尾に下流域の河川名を記した。
第5章 渓谷・河川 Rivers and Gorges
5−1 大雪山国立公園/石狩川上流の渓谷
層雲峡は大雪の山々が大噴火し、その溶岩で埋め尽くされた大地を、石狩川が浸食して、高さ 200m、長さ 24km に及ぶ大峡谷を作り上げた。ただ左右に立ち並ぶ柱状節理の岩峰だけなら大函までの 15km に限られる。上川から入って層雲峡入口からホテル街までに名前の付いている岩峰が 29峰、その先にも11峰、それに加え流星の滝や銀河の滝もある。谷底には国道 39 号線が通っていて、車の中からもこれら岩峰を見ることができ、特に紅葉の季節は壮観である。この層雲峡は大雪山の北側にあるが、西側には天人峡がある。岩質も成因も層雲峡と全く同じだが、この大地を削ったのは石狩川の支流の忠別川である。 ● 天人峡(1) 七福岩:北海道上川町の天人峡温泉にあり、この先には有名な羽衣の滝もある。下の忠別川から7本の岩峰がそそり立っているのは圧巻で、特に紅葉真っ盛りの景観は実に素晴らしい。撮影は10月初旬。 ● 層雲峡(2) 双子岩:地名はかつてアイヌ語でソウウンナイ (滝の多い川) であったのを、1921年に大町桂月が層雲峡と命名したとされる。写真の左が双子岩、右がこうもり岩で、ホテル街のすぐ下流にある。年間 300万人が訪れるという。撮影は10月初旬、紅葉が盛りだった。(3) 九老峰:層雲峡下流にある岩峰で、右端が兜岩、左に九老峰、その左は無名峰、左端が普賢峰。(4) 胡蝶岩:層雲峡入口にある岩壁で、赤い大きな岩の姿が、丁度美しい蝶が羽を広げたように見えるところから命名されたという。
5−2 十和田八幡平国立公園/奥入瀬川と北上川の上流の渓谷
十和田湖の子 (ね) ノ口から流れ出した奥入瀬川は、14km 流れて焼山で蔦川と合流するが、この間が名高い奥入瀬渓谷である。奥入瀬は谷底を流れる一本の川で、写真 ( 静止画像 ) にするには難しい被写体である。しかし肉眼で流れを見ていると、人の心を癒し安心させ気持ちを豊かにさせる。春も夏も秋も奥入瀬は人を引きつける。 ● 奥入瀬渓谷(7)秋:秋の紅葉は素晴らしいが、人が多くて撮影に苦労する。(8)夏:夏の青空が水面に反射して、流れも青く夏らしい奥入瀬になった。(9)春:春は奥入瀬の代表的な場所とされるほぼ中間地点の馬門岩で撮った。 ● 八幡平(16)松川渓谷:北上川の上流の松川渓谷は、松川温泉と八幡平温泉を結ぶ岩手県有数の紅葉の名所である。紅葉を狙って現地に入ったが、紅葉よりは渓谷の柱状節理に魅せられた。
5−3 磐梯朝日国立公園/阿武隈川・須川上流の渓谷
(14)吾妻つばくろ谷:吾妻連峰は標高 2000m級の山々が連なる。その連峰を縫うように走るのが吾妻スカイラインで、そこに故井上靖が命名した吾妻八景がある。これはその2番目の「つばくろ谷」。長さ 170m の不動沢橋の上から深さ 84m の谷底を撮ったのがこの写真で、紅葉が実に素晴らしかった。
5−4 日光国立公園/利根川・鬼怒川上流の渓谷
この国立公園には、ないのは高山と海浜や島だけで、名瀑、湖沼、森林、渓谷、高原、湿原が揃っている極めて珍しい国立公園である。(12)龍王峡:日光鬼怒川温泉と川治温泉の間の鬼怒川渓谷は最も有名で「龍王峡」という。この主要部 3km は岩石の色の違いから、白龍峡、青龍峡、紫龍峡に分けられる。最も景観が良いのは青龍峡で、ここを空撮した。(13)瀬戸合峡:龍王峡のずっと上流の川俣湖に隣接していて、深さ 100m に及ぶ渓谷が 2km も続き、国道 23 号線から見下ろすことが出来る。この有名な紅葉の名所を空撮した。(17)鬼怒川楯岩:鬼怒川温泉にある高さ 70m の巨岩で、楯に似ていることからこの名が付いた。国道 121 号線の立橋から11月中旬に撮影した。
5−5 上信越高原国立公園/信濃川・清津川上流と利根川上流の渓谷
新潟県十日町市にある日本三大峡谷の一つ。日本三大峡谷とは、この清津峡と富山県の黒部峡谷と、三重県大台町の大杉谷を指す。信濃川の支流の清津川が浸食してこの峡谷を作った。100m を超える岩壁が柱状節理であることが景観を物凄いものにしている。(10)清津峡:この清津峡には 750m のトンネルが掘られていて、4カ所に展望所がある。これは4番目のパノラマステーションから撮ったものである。撮影は11月初旬、紅葉が見事だった。(11)清津峡の清流:これはトンネルの入口から最初にある第一展望所から下を覗いて撮った写真である。岩が柱状節理なので写真になった。(18)湯檜曽川:群馬県みなかみ町。写真下部の白く見えている川原の左方向が、有名な谷川岳の一ノ倉沢である。この川は北の上流でドカ雨が降ると鉄砲水が出やすい。
5−6 中部山岳国立公園/信濃川と姫川の上流
(5)高瀬川と北アルプス:松本市の近郊を流れる高瀬川に架かる高瀬橋から撮った北アルプス。左の3峰が爺ケ岳、左から南峰、中峰、北峰、画面中央が鹿島槍ケ岳で、左が南峰、右が北峰。右端が五龍岳。撮影は4月中旬、山はまだ白い。(6)松川と北アルプス:白馬村の八方尾根の麓を流れる松川に架かる松川橋から撮った北アルプスの山々。左が五龍岳、右が八方尾根の頂上になる唐松岳。撮影は10月中旬、夕陽を受けて川床のすすきが黄金に輝いている。
5−7 秩父多摩甲斐国立公園/富士川・笛吹川・荒川上流の渓谷
(19)昇仙峡:甲府市の荒川上流にある峡谷。川の水が花崗岩を深く浸食することによって造られた。写真上部の岩は覚円峰と呼ばれる高さ 180m の巨岩。このような形の岩は周辺にいくつもある。ここもまた紅葉の名所で人が多い。
5−8 吉野熊野国立公園/熊野川・北上川上流と古座川上流の渓谷
奈良・和歌山・三重3県の県境を流れる熊野川の支流北山川にあるのが有名な瀞峡である。(20)瀞峡:田戸の上流に上瀞と奥瀞、下流に下瀞があり、下瀞を瀞八丁といい、全長 31km ある。 写真は山の上から上瀞を撮ったものである。(23)滝ノ拜:和歌山県古座川町。古座川の支流小川の川床が水流によって次第に穴状になり、そこに 8m の渓流瀑があり、これを滝ノ拜という。異様な風景と滝を神と崇めた。
5−9 阿蘇くじゅう国立公園/菊池川上流の渓谷
● 菊池渓谷(21)紅葉ヶ瀬:菊池渓谷は熊本県菊池市にあり、国立公園の北西端にある。遊歩道が整備されていて、文字通り紅葉が素晴らしい。(23)四十三万滝:名前の由来は、昭和9年にある新聞社が名勝地募集をしたところ、この滝が 43万票で第1位になったからという。また一説には1日の水量が43万石に因むという。
第5章 渓谷・河川 Rivers and Gorges
5−1 大雪山国立公園/石狩川上流の渓谷
層雲峡は大雪の山々が大噴火し、その溶岩で埋め尽くされた大地を、石狩川が浸食して、高さ 200m、長さ 24km に及ぶ大峡谷を作り上げた。ただ左右に立ち並ぶ柱状節理の岩峰だけなら大函までの 15km に限られる。上川から入って層雲峡入口からホテル街までに名前の付いている岩峰が 29峰、その先にも11峰、それに加え流星の滝や銀河の滝もある。谷底には国道 39 号線が通っていて、車の中からもこれら岩峰を見ることができ、特に紅葉の季節は壮観である。この層雲峡は大雪山の北側にあるが、西側には天人峡がある。岩質も成因も層雲峡と全く同じだが、この大地を削ったのは石狩川の支流の忠別川である。 ● 天人峡(1) 七福岩:北海道上川町の天人峡温泉にあり、この先には有名な羽衣の滝もある。下の忠別川から7本の岩峰がそそり立っているのは圧巻で、特に紅葉真っ盛りの景観は実に素晴らしい。撮影は10月初旬。 ● 層雲峡(2) 双子岩:地名はかつてアイヌ語でソウウンナイ (滝の多い川) であったのを、1921年に大町桂月が層雲峡と命名したとされる。写真の左が双子岩、右がこうもり岩で、ホテル街のすぐ下流にある。年間 300万人が訪れるという。撮影は10月初旬、紅葉が盛りだった。(3) 九老峰:層雲峡下流にある岩峰で、右端が兜岩、左に九老峰、その左は無名峰、左端が普賢峰。(4) 胡蝶岩:層雲峡入口にある岩壁で、赤い大きな岩の姿が、丁度美しい蝶が羽を広げたように見えるところから命名されたという。
5−2 十和田八幡平国立公園/奥入瀬川と北上川の上流の渓谷
十和田湖の子 (ね) ノ口から流れ出した奥入瀬川は、14km 流れて焼山で蔦川と合流するが、この間が名高い奥入瀬渓谷である。奥入瀬は谷底を流れる一本の川で、写真 ( 静止画像 ) にするには難しい被写体である。しかし肉眼で流れを見ていると、人の心を癒し安心させ気持ちを豊かにさせる。春も夏も秋も奥入瀬は人を引きつける。 ● 奥入瀬渓谷(7)秋:秋の紅葉は素晴らしいが、人が多くて撮影に苦労する。(8)夏:夏の青空が水面に反射して、流れも青く夏らしい奥入瀬になった。(9)春:春は奥入瀬の代表的な場所とされるほぼ中間地点の馬門岩で撮った。 ● 八幡平(16)松川渓谷:北上川の上流の松川渓谷は、松川温泉と八幡平温泉を結ぶ岩手県有数の紅葉の名所である。紅葉を狙って現地に入ったが、紅葉よりは渓谷の柱状節理に魅せられた。
5−3 磐梯朝日国立公園/阿武隈川・須川上流の渓谷
(14)吾妻つばくろ谷:吾妻連峰は標高 2000m級の山々が連なる。その連峰を縫うように走るのが吾妻スカイラインで、そこに故井上靖が命名した吾妻八景がある。これはその2番目の「つばくろ谷」。長さ 170m の不動沢橋の上から深さ 84m の谷底を撮ったのがこの写真で、紅葉が実に素晴らしかった。
5−4 日光国立公園/利根川・鬼怒川上流の渓谷
この国立公園には、ないのは高山と海浜や島だけで、名瀑、湖沼、森林、渓谷、高原、湿原が揃っている極めて珍しい国立公園である。(12)龍王峡:日光鬼怒川温泉と川治温泉の間の鬼怒川渓谷は最も有名で「龍王峡」という。この主要部 3km は岩石の色の違いから、白龍峡、青龍峡、紫龍峡に分けられる。最も景観が良いのは青龍峡で、ここを空撮した。(13)瀬戸合峡:龍王峡のずっと上流の川俣湖に隣接していて、深さ 100m に及ぶ渓谷が 2km も続き、国道 23 号線から見下ろすことが出来る。この有名な紅葉の名所を空撮した。(17)鬼怒川楯岩:鬼怒川温泉にある高さ 70m の巨岩で、楯に似ていることからこの名が付いた。国道 121 号線の立橋から11月中旬に撮影した。
5−5 上信越高原国立公園/信濃川・清津川上流と利根川上流の渓谷
新潟県十日町市にある日本三大峡谷の一つ。日本三大峡谷とは、この清津峡と富山県の黒部峡谷と、三重県大台町の大杉谷を指す。信濃川の支流の清津川が浸食してこの峡谷を作った。100m を超える岩壁が柱状節理であることが景観を物凄いものにしている。(10)清津峡:この清津峡には 750m のトンネルが掘られていて、4カ所に展望所がある。これは4番目のパノラマステーションから撮ったものである。撮影は11月初旬、紅葉が見事だった。(11)清津峡の清流:これはトンネルの入口から最初にある第一展望所から下を覗いて撮った写真である。岩が柱状節理なので写真になった。(18)湯檜曽川:群馬県みなかみ町。写真下部の白く見えている川原の左方向が、有名な谷川岳の一ノ倉沢である。この川は北の上流でドカ雨が降ると鉄砲水が出やすい。
5−6 中部山岳国立公園/信濃川と姫川の上流
(5)高瀬川と北アルプス:松本市の近郊を流れる高瀬川に架かる高瀬橋から撮った北アルプス。左の3峰が爺ケ岳、左から南峰、中峰、北峰、画面中央が鹿島槍ケ岳で、左が南峰、右が北峰。右端が五龍岳。撮影は4月中旬、山はまだ白い。(6)松川と北アルプス:白馬村の八方尾根の麓を流れる松川に架かる松川橋から撮った北アルプスの山々。左が五龍岳、右が八方尾根の頂上になる唐松岳。撮影は10月中旬、夕陽を受けて川床のすすきが黄金に輝いている。
5−7 秩父多摩甲斐国立公園/富士川・笛吹川・荒川上流の渓谷
(19)昇仙峡:甲府市の荒川上流にある峡谷。川の水が花崗岩を深く浸食することによって造られた。写真上部の岩は覚円峰と呼ばれる高さ 180m の巨岩。このような形の岩は周辺にいくつもある。ここもまた紅葉の名所で人が多い。
5−8 吉野熊野国立公園/熊野川・北上川上流と古座川上流の渓谷
奈良・和歌山・三重3県の県境を流れる熊野川の支流北山川にあるのが有名な瀞峡である。(20)瀞峡:田戸の上流に上瀞と奥瀞、下流に下瀞があり、下瀞を瀞八丁といい、全長 31km ある。 写真は山の上から上瀞を撮ったものである。(23)滝ノ拜:和歌山県古座川町。古座川の支流小川の川床が水流によって次第に穴状になり、そこに 8m の渓流瀑があり、これを滝ノ拜という。異様な風景と滝を神と崇めた。
5−9 阿蘇くじゅう国立公園/菊池川上流の渓谷
● 菊池渓谷(21)紅葉ヶ瀬:菊池渓谷は熊本県菊池市にあり、国立公園の北西端にある。遊歩道が整備されていて、文字通り紅葉が素晴らしい。(23)四十三万滝:名前の由来は、昭和9年にある新聞社が名勝地募集をしたところ、この滝が 43万票で第1位になったからという。また一説には1日の水量が43万石に因むという。
2013年9月6日金曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔6〕
この第4章のタイトルは「森林・巨木」で、ここには21点の写真が収載されている。このタイトルで、森林はともかく、巨木は伐られた木も含まれることから、現存している樹木だから、巨樹としてほしかった。この章の大半は白神山地と屋久島の森林や巨木に充てられている。括弧内数字は写真番号で、その前後に写真のタイトルを書いた。
第4章 森林・巨木 Forests and Large Trees
4−1.白神山地
青森県と秋田県にまたがる13万haに及ぶブナの原生林。そのうちの1万7千 ha が1993年に世界自然遺産に登録された。白神山地は今も隆起が続いていて地盤が極めて弱く、崖崩れが多発して林道建設が困難なこと、この山地は景勝の地とはいえず観光客が少なかったこと、またブナの木は椎茸栽培以外には用途が少なかったこと等の要因が重なって、今日まで手つかずに原生林が残った、日本では極めて珍しい稀有な地域といえる。
(1) 白神山地と岩木山:地元の人から今が丁度紅葉のピークと聞いて、セスナ機をチャーターして空撮した。この山地には峠が3つあるが、峠からの眺望はありふれていて、絵にはならず、ここは空撮に限る。快晴に恵まれ、満足のいく撮影となった。右遠くに岩木山 (津軽富士) 1625m の端正な姿が見える。 (2) 樹海紅葉:正に樹海は赤に染まっている。ブナは黄葉と思っていたが、光線の具合なのか、見事な紅葉に写っている。遠くに白神岳 1232m と向白神岳 1250m が見えている。 (3) 白神山地山稜:この山地の青森県側に「暗門滝 (あんもんのたき) 」があるが、その周辺の原生林の紅葉である。稜線は赤く、沢に下がるにしたがってオレンジ色、黄色になり、沢の近くでは緑色も見える。 (4) 白神十二湖:青森県側白神山地の西部の日本海のすぐそばに「十二湖」がある。湖沼は全部で 33 あるが、崩山から見えるのは 12 なので十二湖と呼ばれるという。写真中央には白く崩れて見える有名な「日本キャニオン」が見えている。ここでの紅葉はこれからである。 (5) 岳代 (だけだい) 原生林:この原生林は山地の秋田県側にある。7月の原生林は緑一色、実に瑞々しい風景である。 (6) 母なる樹:青森県側山地の津軽峠から山道を5分ばかり歩くと、樹例 400 年といわれる「マザーツリー」と呼ばれるブナの巨木に出会う。胸高幹周り 465cm 、樹高は 30m ある。ブナの寿命は通常 200 年といわれているから、その2倍生きていることになる。
4−2.屋久島
日本で名だたる巨木が集中している所といえば屋久島である。中でもその巨木を車の窓から間近に見られるというのが紀元杉 (18) で、確かに駐車場の脇に立っている。したがって観光客も多い。その後歩いて巨木を訪ねようとすればヤクスギランドで、入るには入場料が要る。ここには仏陀杉 (15) 、千年杉、三根杉、蛇紋杉等がある。ハイライトは縄文杉を訪ねる山登りで、荒川口から小杉谷のトロッコ道を歩き、楠川分かれから登りになる。最初に出会うのが三代杉 (17) である。山道が急坂になった辺りに立っているのが翁杉 (16) 、その上にウィルソン株、それから大王杉、夫婦杉、最上部に縄文杉 (19,20) がある。
(15) 仏陀杉:樹高 23.7m 、幹周り 8m 、樹齢は約 1800 年、空洞化が進んでいるが、見るからにとことん生きてきたという風貌をしている。 (16) 翁杉:樹高 21.5m 、幹周り 12.6m 、樹齢約 2000 年、特に幹周りは縄文杉に次いで2番目に太かった。しかし 2010 年に幹が折れて倒れた。したがって今はない。この写真は 2009 年に撮影したものである。 (17) 三代杉:樹高 38.4m 、樹齢 2000 年の一代目が 1500 年前に倒れ、その上に二代目がほぼ 1000 年生長したが約 350 年前に伐採され、その上に今日の三代目が 350 年生長している。三千数百年の間に三代更新した不屈の杉である。根元の空洞化がすさまじい。 (18) 紀元杉:ヤクスギランドの西方にあって、ここまでは車で行くことができ、この杉に最も観光客が集まる。樹高 19.5m 、幹周り 8.1m 、樹齢約 3000 年、頂上部は落雷で枯れている。(19)縄文杉:樹高 25.3m 、幹周り 16.4m 、樹齢推定 3000 年以上、屋久島のほぼ中央部の山中にあり、屋久島では今日確認されている中では最大の杉で、縄文時代から 4000 年以上生きてきたからというのが名前の由来である。 (20) 縄文杉根幹:かつて環境庁が環境週間ポスターで樹齢 7200 年と印刷して一躍有名になったが、これには根拠がない。屋久島は花崗岩なので栄養分が少なく、木の生長が遅く木目が詰まっている。また降雨が多く湿度が高いので、樹脂分が多く腐りにくく、耐久性に優れているため、建築材や造船材として明治時代までにほとんど伐採されてしまった。今日観光資源として残っている杉は、形がいびつで使い物にならないものだけが残ったことになる。しかしこの夕日に染まった縄文杉の幹を見ると、風雨に堪え抜いた崇高さと荘厳さを感じる。 (21) 蛸足杉:縄文杉展望台の縄文杉とは反対側に、枝が蛸の足のようになっている杉がある。夕日の周辺は赤とオレンジだが、下側は青と緑だった。
4−3.その他
● 伊勢神宮内宮の原生林 (7): 神宮から南へ約 10km のところに剣峠があり、ここからは内宮の原生林を見渡すことができる。5月の新緑を撮った。
● 日光山王峠 (8): 日光中禅寺湖から川俣温泉へ抜ける道の途中にこの山王峠がある。近くの湯ノ湖周辺の紅葉も格別だが、この峠の紅葉も絢爛で美しい。
● 志賀高原平床 (9) :奥山田温泉から笠岳の裾を回って志賀草津道路に出た場所が平床で、大噴気泉がある。その平床の紅葉は夕日を受けて真っ赤に染まった。
● 口永良部島の繁る椎の木 (10):屋久島の北西 12km に、ひょうたん型をしたこの島がある。島の北東には椎の木の林がある。この椎の木の林を見上げると、空一面に枝と葉が均等に配分されていて、重複せずに隙間なく配置されていて、これは自然が造形した芸術品だと思った。
● 熊野古道大雲取越 (11):熊野那智大社から熊野本宮本社にい至る参詣道、この大雲取越へは那智大社からは約 18km 、徒歩で7時間かかる。かつてはここに「楠の久保旅籠」があり、旅籠が十数軒あり、多くの熊野詣での人達の往来があった。秋深い11月末に訪れたが、誰一人として出会わなかった。静まり返った深い森だった。
● 石徹白の大杉 (12):岐阜県郡上市の白山国立公園にある杉の巨木。幹周り 14.5m 、樹高 35m 、樹齢 1800 年といわれる国の特別天然記念物である。登山口から 420 段の階段を上ると出会える。
● 乳房杉 (13):隠岐諸島最大の島の島後にある大満寺山に、乳房が垂れたように見える杉がある。幹周り 9.6m 、樹高 38m 、樹齢 800 年、幹から乳根が多く下がっている。
● サキシマスオウの木 (14):沖縄の西南にある西表島の南部にある仲間川の上流で、イリオモテヤマネコの探索中に偶然発見された。奇妙な板根を持つ樹齢 400 年の木である。
第4章 森林・巨木 Forests and Large Trees
4−1.白神山地
青森県と秋田県にまたがる13万haに及ぶブナの原生林。そのうちの1万7千 ha が1993年に世界自然遺産に登録された。白神山地は今も隆起が続いていて地盤が極めて弱く、崖崩れが多発して林道建設が困難なこと、この山地は景勝の地とはいえず観光客が少なかったこと、またブナの木は椎茸栽培以外には用途が少なかったこと等の要因が重なって、今日まで手つかずに原生林が残った、日本では極めて珍しい稀有な地域といえる。
(1) 白神山地と岩木山:地元の人から今が丁度紅葉のピークと聞いて、セスナ機をチャーターして空撮した。この山地には峠が3つあるが、峠からの眺望はありふれていて、絵にはならず、ここは空撮に限る。快晴に恵まれ、満足のいく撮影となった。右遠くに岩木山 (津軽富士) 1625m の端正な姿が見える。 (2) 樹海紅葉:正に樹海は赤に染まっている。ブナは黄葉と思っていたが、光線の具合なのか、見事な紅葉に写っている。遠くに白神岳 1232m と向白神岳 1250m が見えている。 (3) 白神山地山稜:この山地の青森県側に「暗門滝 (あんもんのたき) 」があるが、その周辺の原生林の紅葉である。稜線は赤く、沢に下がるにしたがってオレンジ色、黄色になり、沢の近くでは緑色も見える。 (4) 白神十二湖:青森県側白神山地の西部の日本海のすぐそばに「十二湖」がある。湖沼は全部で 33 あるが、崩山から見えるのは 12 なので十二湖と呼ばれるという。写真中央には白く崩れて見える有名な「日本キャニオン」が見えている。ここでの紅葉はこれからである。 (5) 岳代 (だけだい) 原生林:この原生林は山地の秋田県側にある。7月の原生林は緑一色、実に瑞々しい風景である。 (6) 母なる樹:青森県側山地の津軽峠から山道を5分ばかり歩くと、樹例 400 年といわれる「マザーツリー」と呼ばれるブナの巨木に出会う。胸高幹周り 465cm 、樹高は 30m ある。ブナの寿命は通常 200 年といわれているから、その2倍生きていることになる。
4−2.屋久島
日本で名だたる巨木が集中している所といえば屋久島である。中でもその巨木を車の窓から間近に見られるというのが紀元杉 (18) で、確かに駐車場の脇に立っている。したがって観光客も多い。その後歩いて巨木を訪ねようとすればヤクスギランドで、入るには入場料が要る。ここには仏陀杉 (15) 、千年杉、三根杉、蛇紋杉等がある。ハイライトは縄文杉を訪ねる山登りで、荒川口から小杉谷のトロッコ道を歩き、楠川分かれから登りになる。最初に出会うのが三代杉 (17) である。山道が急坂になった辺りに立っているのが翁杉 (16) 、その上にウィルソン株、それから大王杉、夫婦杉、最上部に縄文杉 (19,20) がある。
(15) 仏陀杉:樹高 23.7m 、幹周り 8m 、樹齢は約 1800 年、空洞化が進んでいるが、見るからにとことん生きてきたという風貌をしている。 (16) 翁杉:樹高 21.5m 、幹周り 12.6m 、樹齢約 2000 年、特に幹周りは縄文杉に次いで2番目に太かった。しかし 2010 年に幹が折れて倒れた。したがって今はない。この写真は 2009 年に撮影したものである。 (17) 三代杉:樹高 38.4m 、樹齢 2000 年の一代目が 1500 年前に倒れ、その上に二代目がほぼ 1000 年生長したが約 350 年前に伐採され、その上に今日の三代目が 350 年生長している。三千数百年の間に三代更新した不屈の杉である。根元の空洞化がすさまじい。 (18) 紀元杉:ヤクスギランドの西方にあって、ここまでは車で行くことができ、この杉に最も観光客が集まる。樹高 19.5m 、幹周り 8.1m 、樹齢約 3000 年、頂上部は落雷で枯れている。(19)縄文杉:樹高 25.3m 、幹周り 16.4m 、樹齢推定 3000 年以上、屋久島のほぼ中央部の山中にあり、屋久島では今日確認されている中では最大の杉で、縄文時代から 4000 年以上生きてきたからというのが名前の由来である。 (20) 縄文杉根幹:かつて環境庁が環境週間ポスターで樹齢 7200 年と印刷して一躍有名になったが、これには根拠がない。屋久島は花崗岩なので栄養分が少なく、木の生長が遅く木目が詰まっている。また降雨が多く湿度が高いので、樹脂分が多く腐りにくく、耐久性に優れているため、建築材や造船材として明治時代までにほとんど伐採されてしまった。今日観光資源として残っている杉は、形がいびつで使い物にならないものだけが残ったことになる。しかしこの夕日に染まった縄文杉の幹を見ると、風雨に堪え抜いた崇高さと荘厳さを感じる。 (21) 蛸足杉:縄文杉展望台の縄文杉とは反対側に、枝が蛸の足のようになっている杉がある。夕日の周辺は赤とオレンジだが、下側は青と緑だった。
4−3.その他
● 伊勢神宮内宮の原生林 (7): 神宮から南へ約 10km のところに剣峠があり、ここからは内宮の原生林を見渡すことができる。5月の新緑を撮った。
● 日光山王峠 (8): 日光中禅寺湖から川俣温泉へ抜ける道の途中にこの山王峠がある。近くの湯ノ湖周辺の紅葉も格別だが、この峠の紅葉も絢爛で美しい。
● 志賀高原平床 (9) :奥山田温泉から笠岳の裾を回って志賀草津道路に出た場所が平床で、大噴気泉がある。その平床の紅葉は夕日を受けて真っ赤に染まった。
● 口永良部島の繁る椎の木 (10):屋久島の北西 12km に、ひょうたん型をしたこの島がある。島の北東には椎の木の林がある。この椎の木の林を見上げると、空一面に枝と葉が均等に配分されていて、重複せずに隙間なく配置されていて、これは自然が造形した芸術品だと思った。
● 熊野古道大雲取越 (11):熊野那智大社から熊野本宮本社にい至る参詣道、この大雲取越へは那智大社からは約 18km 、徒歩で7時間かかる。かつてはここに「楠の久保旅籠」があり、旅籠が十数軒あり、多くの熊野詣での人達の往来があった。秋深い11月末に訪れたが、誰一人として出会わなかった。静まり返った深い森だった。
● 石徹白の大杉 (12):岐阜県郡上市の白山国立公園にある杉の巨木。幹周り 14.5m 、樹高 35m 、樹齢 1800 年といわれる国の特別天然記念物である。登山口から 420 段の階段を上ると出会える。
● 乳房杉 (13):隠岐諸島最大の島の島後にある大満寺山に、乳房が垂れたように見える杉がある。幹周り 9.6m 、樹高 38m 、樹齢 800 年、幹から乳根が多く下がっている。
● サキシマスオウの木 (14):沖縄の西南にある西表島の南部にある仲間川の上流で、イリオモテヤマネコの探索中に偶然発見された。奇妙な板根を持つ樹齢 400 年の木である。
2013年9月4日水曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔5〕
(承前)
3−6 支笏洞爺国立公園
● 倶多楽湖(27)倶多楽湖の日の出:周囲 2km の円形のカルデラ湖。流入流出河川はなく、透明度は摩周湖に次いで国内2位。原生林に囲まれた無人静寂の湖の日の出。
● 支笏湖(28)支笏湖の朝焼け;周囲 40.2km のカルデラ湖で、貯水量は琵琶湖に次いで2番目、面積はカルデラ湖では屈斜路湖に次いで2番目、最大水深 363m は田沢湖に次いで2番目。4年間で最も赤かった朝焼けを収載した。
● 洞爺湖(29)洞爺湖昼景:東西 11km 、南北 9km のカルデラ湖。周囲 50km 、最大水深 180m、湖の中島は標高 455m 、左端の白い山は羊蹄山。洞爺湖一周道路南側から撮影。(30)洞爺湖夕景:車で一周できるので、日の出も日没も撮影できる。これは秋の日没直後に撮影した。右端に羊蹄山。
3−7 十和田八幡平国立公園
● 十和田湖(31)十和田湖錦秋:周囲 46km の二重カルデラ湖。有名な展望台の瞰湖台から10月下旬に撮影。紅葉は見事に真っ盛りだった。
● 後生掛温泉の沼(32)後生掛大湯沼:八幡平北端にある後生掛温泉の西南端にある沼。撮影は10月初旬、紅葉が実に見事だった。
● 南八甲田の沼(33)蔦沼朝光:撮影したのは10月下旬の早朝。日の出直後の長波長の赤い光線を受けて、風景が赤く輝いた。左上に南八甲田山群の赤倉岳。この山の爆発の土砂で沼ができた。(34)蔦沼明暗:「蔦の七沼」のうち最大の沼である。赤倉岳の噴火でこれら七沼が出来た。一般的には6沼(蔦沼、鏡沼、月沼、長沼、菅沼、瓢簞沼)を巡る。もう1つの赤沼は離れているので訪れる人は少ない。七沼の内で最も写真になるのはこの蔦沼で、紅葉の盛りのシーズンには多くの人が殺到し、午前5時に現場へ行ったのでは、撮影場所がない。
3−8 磐梯朝日国立公園
● 裏磐梯の湖沼(38)中瀬沼と磐梯山:裏磐梯にはよく知られた檜原湖がある。磐梯山の爆発で出来た湖である。そのすぐ東側にあるのが中瀬沼で、駐車場から15分歩くと展望台に着く。藻北から撮影するため、日の出前後がよい。この写真は新緑が見事な6月中旬に撮影したものである。
3−9 上信越高原国立公園
● 戸隠高原の池(35)鏡池と戸隠山:戸隠高原にある鏡池は、前方にある風景をまるで鏡に映したかのように見せることから名付けられたという。我々が撮影した日も湖面は静かであったが、何か風が遮られる地形なのかも知れない。ここは紅葉の名所で、私の写真も紅葉の写真ばかりである。今回の「永遠の日本」は紅葉の写真ばかりとなったが、それは日本を代表する景観、日本独自の景観、日本にしかない景観、それらはすべて紅葉だからである。外国には黄葉はあっても紅葉はない。ただ今回の鏡池の2点は、思い切って緑の風景にした。しかし晴々とした素晴らしい写真景となった。(36)鏡池と西岳:戸隠山の左、西南方向にあるのが西岳である。水面が静かで、まるで夢の中の風景のようだった。
● 志賀高原の池(37)志賀高原蓮池:志賀高原には16の池や沼があって、さまざまな姿と表情を見せるが、この蓮池の紅葉は格別である。湖畔散策路から撮った。
● 妙高高原の池(39)妙高高原乙見池:妙高高原にある笹ヶ峰ダム、高原奥関川の源流に作られたダム湖がこの乙見池である。写真を見てこれがダム湖と思う人はいない。実に静寂そのもの、これ程素晴らしいダム湖を他に知らない。
3−10 日光国立公園
● 中禅寺湖(40)中禅寺湖八丁出島:この湖は男体山の噴火による溶岩で渓谷が埋められて出来た湖である。周囲 25km 、最大水深 163m 。人工湖以外では水面の海抜が 1269m と日本一高い。紅葉の八丁出島を半月山から撮影する予定で出かけたが、渋滞が激しく、急遽宇都宮に引き返し、ヘリコプターを飛ばして撮った。これは半月峠上空から撮ったものである。(41)八丁出島は元々紅葉が美しいスポットであるから、1週間前から戦場ヶ原などを撮りながら最高の時を待った。10月19日、時が来てヘリを飛ばして撮影した。これは湖上から撮ったもので、赤や黄や緑の錦を一杯に纏った大蛇が頭をもたげているかのようで、狙い通りの見事な写真になった。(43)西ノ湖と中禅寺湖:日光国立公園の中心部。画面下が西ノ湖、その右上が中禅寺湖、その左に男体山、中禅寺湖の左手の原っぱが千手ヶ原。紅葉満開の色彩を競う日光高原を空撮。
● 鬼怒川のダム湖(45)五十里 (いかり) 湖:川治温泉の北にある鬼怒川の支流の男鹿川に作られたダム湖で、かつて江戸から丁度五十里であったことからこの名が付いた。紅葉の名所で、秋は一斉に華やかな風景になる。
● 那須岳の池(47)那須沼原池:茶臼岳の南西約 4km にあるこの池と沼原湿原は、以前は一般の人の立ち入りは禁止されていたが、現在は自由に入れる。9月中旬に撮影したが、日没がまるで原色の風景になった。
3−11 尾瀬国立公園
● 尾瀬沼(42)尾瀬沼と燧ヶ岳:尾瀬国立公園は群馬県側と福島県側とに二分される。この時は後者の沼山峠から入って撮った。水面は海抜 1665m の高所にある。6月中旬に尾瀬沼南端から燧ヶ岳 2356mを入れて撮った。静寂の風景。
● 利根川のダム湖(46)ならまた湖空撮:利根川の支流の楢俣川に作られた奈良俣ダムのダム湖。尾瀬ヶ原を空撮した際、すぐ南西方向にあるこのならまた湖の湖面の青さと周囲の紅葉が実に見事なので撮影した。
3−12 富士箱根伊豆国立公園
● 富士山麓の湖(44)田貫 (たぬき) 湖の富士と月の出:富士山の西麓にある周囲 4km 、水面標高 660m の湖。かつては狸沼と呼ばれていたが、人工的に拡張されて出来た人造湖。4月と8月の20日頃にダイヤモンド富士が見えることでも有名である。日没後の月の出を撮った。
3−13 霧島錦江湾国立公園
● 霧島山群の池(48)霧島六観音御池:主要な霧島連山の山頂は、宮崎県と鹿児島県の県境になっている。その北にあって宮崎県にあるのが六観音御池である。左上が霧島連山の主峰の韓国岳 1700m 。撮影は11月初め、紅葉が盛りだった。(49)霧島大浪 (おおなみの) 池:霧島山群にあって、湖面の標高が 1241m という日本最大の山頂湖で火山湖。直径 630m 、周囲 2km ある大浪池の落日。(50)六観音御池と白紫 (びゃくし) 池:霧島山群の北に、えびの高原と呼ばれる一帯があって、そこには3つの火山湖がある。表題の2湖ともう1湖が不動池である。3湖を巡る一周1時間半の自然研究路が付けられている。写真はこのうちの2湖を空撮した。この辺りはまだ自然が残っている。
3−6 支笏洞爺国立公園
● 倶多楽湖(27)倶多楽湖の日の出:周囲 2km の円形のカルデラ湖。流入流出河川はなく、透明度は摩周湖に次いで国内2位。原生林に囲まれた無人静寂の湖の日の出。
● 支笏湖(28)支笏湖の朝焼け;周囲 40.2km のカルデラ湖で、貯水量は琵琶湖に次いで2番目、面積はカルデラ湖では屈斜路湖に次いで2番目、最大水深 363m は田沢湖に次いで2番目。4年間で最も赤かった朝焼けを収載した。
● 洞爺湖(29)洞爺湖昼景:東西 11km 、南北 9km のカルデラ湖。周囲 50km 、最大水深 180m、湖の中島は標高 455m 、左端の白い山は羊蹄山。洞爺湖一周道路南側から撮影。(30)洞爺湖夕景:車で一周できるので、日の出も日没も撮影できる。これは秋の日没直後に撮影した。右端に羊蹄山。
3−7 十和田八幡平国立公園
● 十和田湖(31)十和田湖錦秋:周囲 46km の二重カルデラ湖。有名な展望台の瞰湖台から10月下旬に撮影。紅葉は見事に真っ盛りだった。
● 後生掛温泉の沼(32)後生掛大湯沼:八幡平北端にある後生掛温泉の西南端にある沼。撮影は10月初旬、紅葉が実に見事だった。
● 南八甲田の沼(33)蔦沼朝光:撮影したのは10月下旬の早朝。日の出直後の長波長の赤い光線を受けて、風景が赤く輝いた。左上に南八甲田山群の赤倉岳。この山の爆発の土砂で沼ができた。(34)蔦沼明暗:「蔦の七沼」のうち最大の沼である。赤倉岳の噴火でこれら七沼が出来た。一般的には6沼(蔦沼、鏡沼、月沼、長沼、菅沼、瓢簞沼)を巡る。もう1つの赤沼は離れているので訪れる人は少ない。七沼の内で最も写真になるのはこの蔦沼で、紅葉の盛りのシーズンには多くの人が殺到し、午前5時に現場へ行ったのでは、撮影場所がない。
3−8 磐梯朝日国立公園
● 裏磐梯の湖沼(38)中瀬沼と磐梯山:裏磐梯にはよく知られた檜原湖がある。磐梯山の爆発で出来た湖である。そのすぐ東側にあるのが中瀬沼で、駐車場から15分歩くと展望台に着く。藻北から撮影するため、日の出前後がよい。この写真は新緑が見事な6月中旬に撮影したものである。
3−9 上信越高原国立公園
● 戸隠高原の池(35)鏡池と戸隠山:戸隠高原にある鏡池は、前方にある風景をまるで鏡に映したかのように見せることから名付けられたという。我々が撮影した日も湖面は静かであったが、何か風が遮られる地形なのかも知れない。ここは紅葉の名所で、私の写真も紅葉の写真ばかりである。今回の「永遠の日本」は紅葉の写真ばかりとなったが、それは日本を代表する景観、日本独自の景観、日本にしかない景観、それらはすべて紅葉だからである。外国には黄葉はあっても紅葉はない。ただ今回の鏡池の2点は、思い切って緑の風景にした。しかし晴々とした素晴らしい写真景となった。(36)鏡池と西岳:戸隠山の左、西南方向にあるのが西岳である。水面が静かで、まるで夢の中の風景のようだった。
● 志賀高原の池(37)志賀高原蓮池:志賀高原には16の池や沼があって、さまざまな姿と表情を見せるが、この蓮池の紅葉は格別である。湖畔散策路から撮った。
● 妙高高原の池(39)妙高高原乙見池:妙高高原にある笹ヶ峰ダム、高原奥関川の源流に作られたダム湖がこの乙見池である。写真を見てこれがダム湖と思う人はいない。実に静寂そのもの、これ程素晴らしいダム湖を他に知らない。
3−10 日光国立公園
● 中禅寺湖(40)中禅寺湖八丁出島:この湖は男体山の噴火による溶岩で渓谷が埋められて出来た湖である。周囲 25km 、最大水深 163m 。人工湖以外では水面の海抜が 1269m と日本一高い。紅葉の八丁出島を半月山から撮影する予定で出かけたが、渋滞が激しく、急遽宇都宮に引き返し、ヘリコプターを飛ばして撮った。これは半月峠上空から撮ったものである。(41)八丁出島は元々紅葉が美しいスポットであるから、1週間前から戦場ヶ原などを撮りながら最高の時を待った。10月19日、時が来てヘリを飛ばして撮影した。これは湖上から撮ったもので、赤や黄や緑の錦を一杯に纏った大蛇が頭をもたげているかのようで、狙い通りの見事な写真になった。(43)西ノ湖と中禅寺湖:日光国立公園の中心部。画面下が西ノ湖、その右上が中禅寺湖、その左に男体山、中禅寺湖の左手の原っぱが千手ヶ原。紅葉満開の色彩を競う日光高原を空撮。
● 鬼怒川のダム湖(45)五十里 (いかり) 湖:川治温泉の北にある鬼怒川の支流の男鹿川に作られたダム湖で、かつて江戸から丁度五十里であったことからこの名が付いた。紅葉の名所で、秋は一斉に華やかな風景になる。
● 那須岳の池(47)那須沼原池:茶臼岳の南西約 4km にあるこの池と沼原湿原は、以前は一般の人の立ち入りは禁止されていたが、現在は自由に入れる。9月中旬に撮影したが、日没がまるで原色の風景になった。
3−11 尾瀬国立公園
● 尾瀬沼(42)尾瀬沼と燧ヶ岳:尾瀬国立公園は群馬県側と福島県側とに二分される。この時は後者の沼山峠から入って撮った。水面は海抜 1665m の高所にある。6月中旬に尾瀬沼南端から燧ヶ岳 2356mを入れて撮った。静寂の風景。
● 利根川のダム湖(46)ならまた湖空撮:利根川の支流の楢俣川に作られた奈良俣ダムのダム湖。尾瀬ヶ原を空撮した際、すぐ南西方向にあるこのならまた湖の湖面の青さと周囲の紅葉が実に見事なので撮影した。
3−12 富士箱根伊豆国立公園
● 富士山麓の湖(44)田貫 (たぬき) 湖の富士と月の出:富士山の西麓にある周囲 4km 、水面標高 660m の湖。かつては狸沼と呼ばれていたが、人工的に拡張されて出来た人造湖。4月と8月の20日頃にダイヤモンド富士が見えることでも有名である。日没後の月の出を撮った。
3−13 霧島錦江湾国立公園
● 霧島山群の池(48)霧島六観音御池:主要な霧島連山の山頂は、宮崎県と鹿児島県の県境になっている。その北にあって宮崎県にあるのが六観音御池である。左上が霧島連山の主峰の韓国岳 1700m 。撮影は11月初め、紅葉が盛りだった。(49)霧島大浪 (おおなみの) 池:霧島山群にあって、湖面の標高が 1241m という日本最大の山頂湖で火山湖。直径 630m 、周囲 2km ある大浪池の落日。(50)六観音御池と白紫 (びゃくし) 池:霧島山群の北に、えびの高原と呼ばれる一帯があって、そこには3つの火山湖がある。表題の2湖ともう1湖が不動池である。3湖を巡る一周1時間半の自然研究路が付けられている。写真はこのうちの2湖を空撮した。この辺りはまだ自然が残っている。
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔4〕
この第3章の湖沼には50点の写真が収録されている。収載されている湖沼は大概風光明媚な場所にあり、大部分は国立公園や国定公園に入っている。そこで区分けは公園単位とした。しかし所属していない場合もあり、その時は近くの公園に入れて記載した。
第3章 湖 沼 Lake Regions
3−1 網走国定公園
● 能取 (ノトロ) 湖 (1) 能取湖サンゴソウ。(2) サンゴソウ緋色:北海道網走市の北西に位置する能取湖の南西岸には4haにわたってアッケシソウが生えていて、秋になると一面サンゴを敷き詰めたように真っ赤になる。そのためこのアッケシソウがサンゴソウと呼ばれるようになった。名前の由来は最初に厚岸 (アッケシ) 湖で発見されたことによるが、現在厚岸湖ではほとんど見ることはできない。この植物は塩分を十分に含む湿地以外には生育せず、絶滅危惧種に指定されている。この2点の写真は、湖の南端にある群落を9月下旬に日の出直後に撮影したもので、昼間よりもサンゴソウがずっと赤く写った。
3−2 阿寒国立公園
● 摩周湖 (3) 神の山の日の出:摩周湖西岸のほぼ中央に第三展望台があって、そこでの日の出。撮影は10月下旬。太陽の下が摩周岳 (858m) で、アイヌ語ではカムイヌプリ (神の山) という。(4)摩周湖朝光:摩周湖は周囲 21km のカルデラ湖で、水面の標高 355m、最大水深 211.5m、その透明度はバイカル湖に次いで世界第2位である。この写真は湖の南端にある第一展望台から撮った日の出で、前の風景とは大分異なる。(5)摩周湖と月:これまで月の出は海外も含めて数百回撮ったが、日没後に東の空がこれほど赤く染まったのは初めてだった。第三展望台に立つと、アイヌ語でカムイシュ (神となった老婆) という中島が見える。水面からの高さ 30m、湖底から 240m の溶岩ドームの頂上部である。(6)静寂なる月の出:第一展望台は昼はバスと車でごった返すが、夜は一転全くの静寂になる。(7)摩周湖俯瞰:摩周湖を東から西に向って空撮した。展望台からは見えていない摩周岳の立派な火口が見える。
● 屈斜路湖 (17)屈斜路湖の夜明け:摩周湖の西方 13km にあり、藻琴山などを外輪山とする屈斜路カルデラ内にできた日本最大のカルデラ湖。周囲 57km 、最大深度 117.5m 。湖としては国内6番目の大きさ。摩周湖と違って周囲から大小の河川が流入し、南端から釧路川となって流出する。これは秋の夜明けの風景で、東の空がこれほど鮮やかに彩色されるのは珍しい。(18)屈斜路湖の太陽柱:美幌峠の展望所から撮った太陽柱 (サンピラー) で、太陽から地平線に対して垂直方向に炎のような光芒を見せる大気現象である。これは風のない静かな日でなくては現れない。滅多に見られない現象で、実に幸運だった.2月19日の日の出直後のことである。(19)屈斜路湖の光の十字架:前の写真の5分後、雲が崩れて氷晶が散り、太陽柱は強烈に反射して光り始めた。そして更に5分後には消えた。(20)屈斜路湖黎明:12月6日の夜明け前に展望台から撮った。辺りは全て氷結している。東の空が明るくなるにつれ、目の前が荘厳な姿になった。
3−3 利尻礼文サロベツ国立公園
● 利尻島の沼(8)オタドマリ沼と利尻山夏景;利尻島の南の海岸近くにあるこの沼からの眺めは定番で、夏には緑が美しい。
● サロベツ原野の沼(9)サロベツ長沼:サロベツ原野には沼が沢山点在しているが、この長沼が最も風光明媚で美しい。
3−4 大雪山国立公園
● 然別湖(10)然別湖秋日:この国立公園は日本では最も広い。その東南部一帯が東大雪エリアで、中心をなすのが石狩岳、ニペソツ岳、それに然別湖である。
● 旭岳中腹の池(11)旭岳姿見の池:大雪山の最高峰旭岳 (2291m) とその中腹にある姿見の池。9月中旬、紅葉は真っ盛り。上部はもう落葉が始まっている。(12)旭岳中腹の池塘:旭岳ロープウェー終点の姿見駅の上にある第一展望所から撮った。紅葉の中に池塘が点在している。池塘を覆っていた旭岳の影が急速に右に後退していくのが素晴らしい。
● 大雪高原湖沼群(13)大雪高原式部沼:大雪山高根ヶ原の東側崖下の森林には多くの沼があり、巡ることができる。この沼はこのコースのほぼ中間にある。この辺りの紅葉は実に素晴らしい。(14)大雪高原えぞ沼:10月初旬に空撮。紅葉に新雪がきた。(15)大雪高原湖沼群:同じ日に南から北へ空撮。左下が大学沼、その右上が式部沼、その右下がえぞ沼、左上隅が高原沼、右上隅が黒沼。(16)晩秋の湖沼:同じ日に空撮。下から式部沼、えぞ沼、湯の沼、左上が鴨の沼。この紅葉も新雪が来て、あと数日限りだろう。
3−5 知床国立公園
● 知床五湖(22)知床四湖:熊が出るとかで閉鎖され、4回目の9月半ばに漸く五湖全体を見て回れた。(23)知床一湖:7月に一湖の湖畔から撮影。背後は左から、羅臼岳、三ツ峰、サシルイ岳。
(24)知床五湖全景:五湖を空撮。左が一湖、真ん中が二湖、その上が三湖、その右が四湖、その下が五湖。(25)暮れ行く知床一湖:この地点は立入禁止になり、今後は一湖の落日は二度と見ることは出来なくなった。(26)知床二湖秋景:紅葉が盛りの10月中旬に撮影。背後は左から、羅臼岳、三ツ峰、サシルイ岳。2007年7月に世界自然遺産に登録されてからは、観光客が爆発的に増えた。
第3章 湖 沼 Lake Regions
3−1 網走国定公園
● 能取 (ノトロ) 湖 (1) 能取湖サンゴソウ。(2) サンゴソウ緋色:北海道網走市の北西に位置する能取湖の南西岸には4haにわたってアッケシソウが生えていて、秋になると一面サンゴを敷き詰めたように真っ赤になる。そのためこのアッケシソウがサンゴソウと呼ばれるようになった。名前の由来は最初に厚岸 (アッケシ) 湖で発見されたことによるが、現在厚岸湖ではほとんど見ることはできない。この植物は塩分を十分に含む湿地以外には生育せず、絶滅危惧種に指定されている。この2点の写真は、湖の南端にある群落を9月下旬に日の出直後に撮影したもので、昼間よりもサンゴソウがずっと赤く写った。
3−2 阿寒国立公園
● 摩周湖 (3) 神の山の日の出:摩周湖西岸のほぼ中央に第三展望台があって、そこでの日の出。撮影は10月下旬。太陽の下が摩周岳 (858m) で、アイヌ語ではカムイヌプリ (神の山) という。(4)摩周湖朝光:摩周湖は周囲 21km のカルデラ湖で、水面の標高 355m、最大水深 211.5m、その透明度はバイカル湖に次いで世界第2位である。この写真は湖の南端にある第一展望台から撮った日の出で、前の風景とは大分異なる。(5)摩周湖と月:これまで月の出は海外も含めて数百回撮ったが、日没後に東の空がこれほど赤く染まったのは初めてだった。第三展望台に立つと、アイヌ語でカムイシュ (神となった老婆) という中島が見える。水面からの高さ 30m、湖底から 240m の溶岩ドームの頂上部である。(6)静寂なる月の出:第一展望台は昼はバスと車でごった返すが、夜は一転全くの静寂になる。(7)摩周湖俯瞰:摩周湖を東から西に向って空撮した。展望台からは見えていない摩周岳の立派な火口が見える。
● 屈斜路湖 (17)屈斜路湖の夜明け:摩周湖の西方 13km にあり、藻琴山などを外輪山とする屈斜路カルデラ内にできた日本最大のカルデラ湖。周囲 57km 、最大深度 117.5m 。湖としては国内6番目の大きさ。摩周湖と違って周囲から大小の河川が流入し、南端から釧路川となって流出する。これは秋の夜明けの風景で、東の空がこれほど鮮やかに彩色されるのは珍しい。(18)屈斜路湖の太陽柱:美幌峠の展望所から撮った太陽柱 (サンピラー) で、太陽から地平線に対して垂直方向に炎のような光芒を見せる大気現象である。これは風のない静かな日でなくては現れない。滅多に見られない現象で、実に幸運だった.2月19日の日の出直後のことである。(19)屈斜路湖の光の十字架:前の写真の5分後、雲が崩れて氷晶が散り、太陽柱は強烈に反射して光り始めた。そして更に5分後には消えた。(20)屈斜路湖黎明:12月6日の夜明け前に展望台から撮った。辺りは全て氷結している。東の空が明るくなるにつれ、目の前が荘厳な姿になった。
3−3 利尻礼文サロベツ国立公園
● 利尻島の沼(8)オタドマリ沼と利尻山夏景;利尻島の南の海岸近くにあるこの沼からの眺めは定番で、夏には緑が美しい。
● サロベツ原野の沼(9)サロベツ長沼:サロベツ原野には沼が沢山点在しているが、この長沼が最も風光明媚で美しい。
3−4 大雪山国立公園
● 然別湖(10)然別湖秋日:この国立公園は日本では最も広い。その東南部一帯が東大雪エリアで、中心をなすのが石狩岳、ニペソツ岳、それに然別湖である。
● 旭岳中腹の池(11)旭岳姿見の池:大雪山の最高峰旭岳 (2291m) とその中腹にある姿見の池。9月中旬、紅葉は真っ盛り。上部はもう落葉が始まっている。(12)旭岳中腹の池塘:旭岳ロープウェー終点の姿見駅の上にある第一展望所から撮った。紅葉の中に池塘が点在している。池塘を覆っていた旭岳の影が急速に右に後退していくのが素晴らしい。
● 大雪高原湖沼群(13)大雪高原式部沼:大雪山高根ヶ原の東側崖下の森林には多くの沼があり、巡ることができる。この沼はこのコースのほぼ中間にある。この辺りの紅葉は実に素晴らしい。(14)大雪高原えぞ沼:10月初旬に空撮。紅葉に新雪がきた。(15)大雪高原湖沼群:同じ日に南から北へ空撮。左下が大学沼、その右上が式部沼、その右下がえぞ沼、左上隅が高原沼、右上隅が黒沼。(16)晩秋の湖沼:同じ日に空撮。下から式部沼、えぞ沼、湯の沼、左上が鴨の沼。この紅葉も新雪が来て、あと数日限りだろう。
3−5 知床国立公園
● 知床五湖(22)知床四湖:熊が出るとかで閉鎖され、4回目の9月半ばに漸く五湖全体を見て回れた。(23)知床一湖:7月に一湖の湖畔から撮影。背後は左から、羅臼岳、三ツ峰、サシルイ岳。
(24)知床五湖全景:五湖を空撮。左が一湖、真ん中が二湖、その上が三湖、その右が四湖、その下が五湖。(25)暮れ行く知床一湖:この地点は立入禁止になり、今後は一湖の落日は二度と見ることは出来なくなった。(26)知床二湖秋景:紅葉が盛りの10月中旬に撮影。背後は左から、羅臼岳、三ツ峰、サシルイ岳。2007年7月に世界自然遺産に登録されてからは、観光客が爆発的に増えた。
2013年8月30日金曜日
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔3〕
ここでは第2章の名瀑の20滝の写真32点について紹介する。
第2章 名 瀑 Waterfalls
2−1 北海道をめぐる
● 羽衣の滝 (1):北海道中央の大雪山群の天人峡にある7段の滝、落差は 250m。「世界百名瀑」に選定されている。
● 銀河の滝・流星の滝(2):大雪山群の層雲峡にある滝で、前者は落差 120m で別名は雌滝。後者は落差 90m で別名は雄滝、2滝合わせて以前は夫婦滝といわれていた。この滝も2滝合わせて「世界百名瀑」に選定されている。
● オシンコシンの滝(3):知床八景の一つに数えられるこの滝は、知床の入口のウトロ港のまだ手前にあって、国立公園からも世界自然遺産からも外れている。でも落差 80m、幅 30mの知床最大の滝である。
2−2 関東・東北をめぐる
● 湯滝(4-5):奥日光戦場ヶ原の北にある湯ノ湖から流れ落ちる滝で、落差 50m、幅 25m。この水は湯川となって戦場ヶ原を横断し、竜頭の滝となって再び落下し、中禅寺湖に入る。紅葉の時期が素晴らしい。華厳の滝、竜頭の滝と合わせて奥日光三名瀑とされる。
● 霜降の滝(6-7):日光の華厳の滝の北東にある日光三名瀑の一つ。上下2段の滝で、上段は落差 25m、幅 15m、上下合わせて落差 75mとされる。新緑も瑞々しくて良いが、紅葉の華麗さには及ばない。
● 袋田の滝(8):茨城県大子町にある 滝の高さ120m、幅 73m、大岸壁を4段になって流れるので「四段の滝」といわれる。この滝は、華厳の滝、那智の滝とともに日本三名瀑と呼ばれる。滝と周辺の風景は良いが、滝の上は畑と民家になっている。
● 梅花皮 (かいらぎ) の滝(9):山形県小国町にある 落差 270m、7段の滝である。「世界百名瀑」の選定にあたり、アメリカやドイツの委員から提示された日本を代表する6滝中の1滝である。彼らは衛星写真で発見した。日本人が知らない滝があったことに驚く。
● 華厳の滝(10 - 11 ):霜降の滝、裏見の滝と合わせて日光三名瀑布とされる。落差 97m、幅 7m、807年に日光を開山した勝道上人が発見したと伝わる。
● 秩父・丸神の滝( 12 ):埼玉県子鹿野町にある3段の滝。上段 12m、2段目 14m、3段目 50mの滝。
2−3 北陸・中部・東海をめぐる
● 白山・阿弥陀ヶ滝( 13 ):岐阜県郡上市にある落差 60m、幅 7m の滝。723年に白山を開山した泰澄によって発見され、天文年間長滝寺の僧が護摩を焚いて修行中、阿弥陀如来の姿が現れたことかsらこの名が付いた。滝の姿が阿弥陀如来の立ち姿に似ている。
● 称名の滝(14 - 15 ):立山弥陀ヶ原の大地を浸食してできたゴルジュの先端から落ちるのが日本最大の名瀑で、落差が 349m あり、「世界百名瀑」に選定されている。
● 七ツ釜五段の滝( 16 ):山梨県西沢渓谷の最奥にある有名な滝で、落差は上4段が 35m 、最下段が 20m 。
● 七味大滝( 17):長野県高山村の七味温泉の奥にある落差 20m の滝。
● 白糸の滝( 18 - 20 ):静岡県富士宮市にある高さ 20m、幅 200m、水量毎秒 1.5 t の滝である。「世界百名瀑」。白糸の滝は全国12の県に14滝ある。中でも山形県の白糸の滝は落差が 120m あり、最上四十八滝中最大である。また山梨県富士吉田市の白糸の滝は岩盤うえを140m にわたって滑り落ちる。
2−4 近畿・中国をめぐる
● 布引の滝( 21 ):三重県熊野市にある4段落差 53m の滝。白い反物をすっと投げたような姿である。
● 千尋 (せんひろ)の滝( 22 ):奈良県上北山村にある落差 85m の滝。滝に太陽が当たるのは日の出直後の早朝のみ、撮影は容易ではない。
● 鼻白の滝( 23 ):和歌山県新宮市にある上段の一ノ滝 45m 、下段二ノ滝 38m の滝である。
● 荒滝( 24 ):布引の滝の 200m 手前に落差 25m のこの滝がある。修験道の水行の場である。
● 中ノ滝・西ノ滝( 25 ):奈良県上北山村、大台ケ原にある。西ノ滝 落差 150m、中ノ滝 落差 250m、東ノ滝 落差 25m もある。「世界百名瀑」に選定されている。
● 那智の滝( 26 -28 ):和歌山県勝浦町にある落差 133m の日本有数の名瀑。一の滝とも呼ばれ、上流には那智四十八滝がある。この滝の最大の特質は、落下する水が信仰の対象であること、水そのものが御神体で、こういうのは世界に例がない。
● 神庭の滝( 29 - 32 ):岡山県真庭市にある落差 110m、幅 20m の西日本一と称される豪快な滝である。滝の下半分には虹がかかり、見事な色彩の滝である。
第2章 名 瀑 Waterfalls
2−1 北海道をめぐる
● 羽衣の滝 (1):北海道中央の大雪山群の天人峡にある7段の滝、落差は 250m。「世界百名瀑」に選定されている。
● 銀河の滝・流星の滝(2):大雪山群の層雲峡にある滝で、前者は落差 120m で別名は雌滝。後者は落差 90m で別名は雄滝、2滝合わせて以前は夫婦滝といわれていた。この滝も2滝合わせて「世界百名瀑」に選定されている。
● オシンコシンの滝(3):知床八景の一つに数えられるこの滝は、知床の入口のウトロ港のまだ手前にあって、国立公園からも世界自然遺産からも外れている。でも落差 80m、幅 30mの知床最大の滝である。
2−2 関東・東北をめぐる
● 湯滝(4-5):奥日光戦場ヶ原の北にある湯ノ湖から流れ落ちる滝で、落差 50m、幅 25m。この水は湯川となって戦場ヶ原を横断し、竜頭の滝となって再び落下し、中禅寺湖に入る。紅葉の時期が素晴らしい。華厳の滝、竜頭の滝と合わせて奥日光三名瀑とされる。
● 霜降の滝(6-7):日光の華厳の滝の北東にある日光三名瀑の一つ。上下2段の滝で、上段は落差 25m、幅 15m、上下合わせて落差 75mとされる。新緑も瑞々しくて良いが、紅葉の華麗さには及ばない。
● 袋田の滝(8):茨城県大子町にある 滝の高さ120m、幅 73m、大岸壁を4段になって流れるので「四段の滝」といわれる。この滝は、華厳の滝、那智の滝とともに日本三名瀑と呼ばれる。滝と周辺の風景は良いが、滝の上は畑と民家になっている。
● 梅花皮 (かいらぎ) の滝(9):山形県小国町にある 落差 270m、7段の滝である。「世界百名瀑」の選定にあたり、アメリカやドイツの委員から提示された日本を代表する6滝中の1滝である。彼らは衛星写真で発見した。日本人が知らない滝があったことに驚く。
● 華厳の滝(10 - 11 ):霜降の滝、裏見の滝と合わせて日光三名瀑布とされる。落差 97m、幅 7m、807年に日光を開山した勝道上人が発見したと伝わる。
● 秩父・丸神の滝( 12 ):埼玉県子鹿野町にある3段の滝。上段 12m、2段目 14m、3段目 50mの滝。
2−3 北陸・中部・東海をめぐる
● 白山・阿弥陀ヶ滝( 13 ):岐阜県郡上市にある落差 60m、幅 7m の滝。723年に白山を開山した泰澄によって発見され、天文年間長滝寺の僧が護摩を焚いて修行中、阿弥陀如来の姿が現れたことかsらこの名が付いた。滝の姿が阿弥陀如来の立ち姿に似ている。
● 称名の滝(14 - 15 ):立山弥陀ヶ原の大地を浸食してできたゴルジュの先端から落ちるのが日本最大の名瀑で、落差が 349m あり、「世界百名瀑」に選定されている。
● 七ツ釜五段の滝( 16 ):山梨県西沢渓谷の最奥にある有名な滝で、落差は上4段が 35m 、最下段が 20m 。
● 七味大滝( 17):長野県高山村の七味温泉の奥にある落差 20m の滝。
● 白糸の滝( 18 - 20 ):静岡県富士宮市にある高さ 20m、幅 200m、水量毎秒 1.5 t の滝である。「世界百名瀑」。白糸の滝は全国12の県に14滝ある。中でも山形県の白糸の滝は落差が 120m あり、最上四十八滝中最大である。また山梨県富士吉田市の白糸の滝は岩盤うえを140m にわたって滑り落ちる。
2−4 近畿・中国をめぐる
● 布引の滝( 21 ):三重県熊野市にある4段落差 53m の滝。白い反物をすっと投げたような姿である。
● 千尋 (せんひろ)の滝( 22 ):奈良県上北山村にある落差 85m の滝。滝に太陽が当たるのは日の出直後の早朝のみ、撮影は容易ではない。
● 鼻白の滝( 23 ):和歌山県新宮市にある上段の一ノ滝 45m 、下段二ノ滝 38m の滝である。
● 荒滝( 24 ):布引の滝の 200m 手前に落差 25m のこの滝がある。修験道の水行の場である。
● 中ノ滝・西ノ滝( 25 ):奈良県上北山村、大台ケ原にある。西ノ滝 落差 150m、中ノ滝 落差 250m、東ノ滝 落差 25m もある。「世界百名瀑」に選定されている。
● 那智の滝( 26 -28 ):和歌山県勝浦町にある落差 133m の日本有数の名瀑。一の滝とも呼ばれ、上流には那智四十八滝がある。この滝の最大の特質は、落下する水が信仰の対象であること、水そのものが御神体で、こういうのは世界に例がない。
● 神庭の滝( 29 - 32 ):岡山県真庭市にある落差 110m、幅 20m の西日本一と称される豪快な滝である。滝の下半分には虹がかかり、見事な色彩の滝である。
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔2〕
ここでは、第1章 名岳 後半の51点について紹介する。
(承前)
1−4 上信越をめぐる
● 浅間山 (2568m) (55) 浅間山:残雪深い山頂火口を東南方向から空撮.(56) 浅間山噴火口鳥瞰:噴火口真上からの鳥瞰. 直径は450m, 最も有名な噴火は 1787年の大噴火, その時の溶岩流が鬼押出し, 実に危険な撮影だった.
● 妙高山 (1977m) (57) 妙高山:中央火口丘から西望. 火打山, 焼山, 裏金山, 金山, 雨飾山まで妙高連峰が延びる.
● 谷川岳 (1977m) (58) 谷川岳一ノ倉沢衝立岩鳥瞰:衝立岩をヘリコプターから真下に向って撮影.(59) 一ノ倉沢衝立岩正面:下方に左右に延びる湯檜曽川周辺は紅葉真っ盛りであるが, ここ一ノ倉沢は紅葉も終わり, 上部には既に新雪が来ている.
1−5 南アルプスをめぐる
● 北岳 (3193m) (60) 北岳:冬の北岳を南から空撮.
● 赤石岳 (3120m) (61) 赤石岳と南アルプス連峰:赤石岳上空から南アルプス北望.
● 聖岳 (3013m) (62) 聖岳:冬の聖岳を北から空撮.
● 仙丈ヶ岳 (3033m) (63) 仙丈ヶ岳:冬の仙丈ヶ岳を西から空撮.
1−6 富士山をめぐる
● 富士山 (3776m) (64) 満月と富士山:箱根仙石原の北にある金時山から夜明けに撮影した満月と富士山.(65) 富士山赤変:富士山上部を日没直前に北西方向から撮影. この方向からのみジグザグの登山道が見えない.(66) 富士山乱気流:日の出直後, 箱根スカイラインから撮影した富士山と逆巻く雲. 1週間通った. この時刻, 人工物は写らない.(67) 富士山火口:夕方北西方向から撮った富士山火口. 直径約800m.(68) 富士山朝光:箱根スカイラインから撮影した日の出10分後の富士山. 眼下に雲が張りつき, 人工物は見えない.(69) 落日と富士山:山頂に沈む落日を東方向からセスナ機で撮った.
1−7 大山をめぐる
● 大山 (1729m) (70) 大山紅葉:奥大山の紅葉と大山.(71) 大山夕照:有名な鍵掛峠の紅葉と大山南壁. 夕方快晴になって, 長波長の赤い光が紅葉を一層際立たせた. 三脚が林立していた. (72) 大山南壁遠望:大山は南面が最高である.(73) 大山夏景:鍵掛峠から真夏に撮った大山南壁.(74) 大山と落日:北東方向から空撮した大山と落日.(75) 大山東壁:厳冬期の夕方空撮.(76) 大山西面:日没直前, 真っ赤に染まった大山西面を空撮した.(77) 大山南壁:日没前に赤く染まった南壁を空撮.(78) 大山北壁:夕方の大山北壁を空撮.(79) 晩秋の大山:一ノ沢の紅葉と大山南壁.
1−8 九州をめぐる
● 雲仙岳 (1483m) (80) 平成新山:平成2年11月の始まった噴火で, 報道陣を中心に43名が死亡した.
(81) 平成新山と月:日の出直後に真東から撮った平成新山と落月.(82) 平成新山頂上岩塔:平成新山の頂上をヘリから俯瞰撮影.
● 阿蘇連山/阿蘇中岳 (1506m) (83) 阿蘇根子岳:南東から見た阿蘇根子岳. 阿蘇六岳の中でこの山だけが山容も鋭く特異な山である.(84) 阿蘇中岳第一火口:阿蘇六岳の中で噴煙を上げているのは中岳で, 4つある火口のうち生きているのはこの第一火口のみ.(85) 冬の中岳第一火口:季節を変えて4度空撮したが, 冬には明らかに煙の量も多く, 水面は白かった.(86) 沸騰する火口:中岳第一火口は強烈な酸を産出し煮えたぎって白煙を噴き上げている. 生きているようだ.
● 由布岳 (豊後富士) (1584m) (87) 由布岳:日の出直後に南から撮影.(88) 由布岳頂上:頂上を冬季の夕方に空撮.
● 九重山群/中岳 (1791m) (89) 九重硫黄山と阿蘇遠望:画面左には九重硫黄山が, 右奥には阿蘇中岳が噴煙を上げている. 冬の日没近くの風景。(90) 三俣山:三俣山を5月下旬に撮影. 一面にミヤマキリシマが咲いている. 緑とピンクのコントラストが素晴らしい.
● 霧島火山群/新燃 (もえ) 岳 (1421m) , 高千穂峰 (1574m) (91) 噴火前の新燃岳:2011年1月に突然大爆発. その3ヵ月前にヘリで空撮.(92) 噴火後の新燃岳:大噴火後の3ヵ月後にヘリで空撮.(93) 新燃岳残像:噴火する前の新燃岳の火口全景.(94) 新燃岳俯瞰:噴火後の火口全景.(95) 高千穂峰:霧島火山群の名山. 噴火口は御鉢と呼ばれ, 直径500mもある.
● 桜島 (1117m) (96) 朝焼けの噴煙と満月:朝焼けと満月と噴煙の三拍子が揃うのはただただ運次第である.(97) 桜島噴火の瞬間:ここに掲載した9点の写真は, 2011年3月から4月にかけての26日間に, 夕方から明け方にかけて撮影したものである.(98) 噴火と火山雷:噴煙が物凄いと火山雷が発生する.(99) 噴火する昭和火口:噴火口が南岳の東斜面にあるため, 撮影は東からに限られる. 毎日撮影者が押し寄せる.(100) 桜島閃光:噴火した火が火口周辺にばらまかれた.(101) 黒煙と火花:風下 (南東) にいると, 爆発的噴火でも猛烈な噴煙で火が隠されてしまう.(102) 火柱立つ:猛烈な噴火では火柱が立つが, 猛烈な噴煙で一部が隠される. こんな時に火山雷が発生する.(103) 桜島沸騰:噴火を大写しで撮るには, 桜島一周道路東側以外にはない.(104) 桜島燃ゆ:地元テレビ局が初めて夜の噴火を撮影した場所で撮影. 夜中に風向きが変わると, カメラに火山灰が降り積もる.(105) 火花舞う:噴煙が風で流れると, 噴火の火がよく見える.
(承前)
1−4 上信越をめぐる
● 浅間山 (2568m) (55) 浅間山:残雪深い山頂火口を東南方向から空撮.(56) 浅間山噴火口鳥瞰:噴火口真上からの鳥瞰. 直径は450m, 最も有名な噴火は 1787年の大噴火, その時の溶岩流が鬼押出し, 実に危険な撮影だった.
● 妙高山 (1977m) (57) 妙高山:中央火口丘から西望. 火打山, 焼山, 裏金山, 金山, 雨飾山まで妙高連峰が延びる.
● 谷川岳 (1977m) (58) 谷川岳一ノ倉沢衝立岩鳥瞰:衝立岩をヘリコプターから真下に向って撮影.(59) 一ノ倉沢衝立岩正面:下方に左右に延びる湯檜曽川周辺は紅葉真っ盛りであるが, ここ一ノ倉沢は紅葉も終わり, 上部には既に新雪が来ている.
1−5 南アルプスをめぐる
● 北岳 (3193m) (60) 北岳:冬の北岳を南から空撮.
● 赤石岳 (3120m) (61) 赤石岳と南アルプス連峰:赤石岳上空から南アルプス北望.
● 聖岳 (3013m) (62) 聖岳:冬の聖岳を北から空撮.
● 仙丈ヶ岳 (3033m) (63) 仙丈ヶ岳:冬の仙丈ヶ岳を西から空撮.
1−6 富士山をめぐる
● 富士山 (3776m) (64) 満月と富士山:箱根仙石原の北にある金時山から夜明けに撮影した満月と富士山.(65) 富士山赤変:富士山上部を日没直前に北西方向から撮影. この方向からのみジグザグの登山道が見えない.(66) 富士山乱気流:日の出直後, 箱根スカイラインから撮影した富士山と逆巻く雲. 1週間通った. この時刻, 人工物は写らない.(67) 富士山火口:夕方北西方向から撮った富士山火口. 直径約800m.(68) 富士山朝光:箱根スカイラインから撮影した日の出10分後の富士山. 眼下に雲が張りつき, 人工物は見えない.(69) 落日と富士山:山頂に沈む落日を東方向からセスナ機で撮った.
1−7 大山をめぐる
● 大山 (1729m) (70) 大山紅葉:奥大山の紅葉と大山.(71) 大山夕照:有名な鍵掛峠の紅葉と大山南壁. 夕方快晴になって, 長波長の赤い光が紅葉を一層際立たせた. 三脚が林立していた. (72) 大山南壁遠望:大山は南面が最高である.(73) 大山夏景:鍵掛峠から真夏に撮った大山南壁.(74) 大山と落日:北東方向から空撮した大山と落日.(75) 大山東壁:厳冬期の夕方空撮.(76) 大山西面:日没直前, 真っ赤に染まった大山西面を空撮した.(77) 大山南壁:日没前に赤く染まった南壁を空撮.(78) 大山北壁:夕方の大山北壁を空撮.(79) 晩秋の大山:一ノ沢の紅葉と大山南壁.
1−8 九州をめぐる
● 雲仙岳 (1483m) (80) 平成新山:平成2年11月の始まった噴火で, 報道陣を中心に43名が死亡した.
(81) 平成新山と月:日の出直後に真東から撮った平成新山と落月.(82) 平成新山頂上岩塔:平成新山の頂上をヘリから俯瞰撮影.
● 阿蘇連山/阿蘇中岳 (1506m) (83) 阿蘇根子岳:南東から見た阿蘇根子岳. 阿蘇六岳の中でこの山だけが山容も鋭く特異な山である.(84) 阿蘇中岳第一火口:阿蘇六岳の中で噴煙を上げているのは中岳で, 4つある火口のうち生きているのはこの第一火口のみ.(85) 冬の中岳第一火口:季節を変えて4度空撮したが, 冬には明らかに煙の量も多く, 水面は白かった.(86) 沸騰する火口:中岳第一火口は強烈な酸を産出し煮えたぎって白煙を噴き上げている. 生きているようだ.
● 由布岳 (豊後富士) (1584m) (87) 由布岳:日の出直後に南から撮影.(88) 由布岳頂上:頂上を冬季の夕方に空撮.
● 九重山群/中岳 (1791m) (89) 九重硫黄山と阿蘇遠望:画面左には九重硫黄山が, 右奥には阿蘇中岳が噴煙を上げている. 冬の日没近くの風景。(90) 三俣山:三俣山を5月下旬に撮影. 一面にミヤマキリシマが咲いている. 緑とピンクのコントラストが素晴らしい.
● 霧島火山群/新燃 (もえ) 岳 (1421m) , 高千穂峰 (1574m) (91) 噴火前の新燃岳:2011年1月に突然大爆発. その3ヵ月前にヘリで空撮.(92) 噴火後の新燃岳:大噴火後の3ヵ月後にヘリで空撮.(93) 新燃岳残像:噴火する前の新燃岳の火口全景.(94) 新燃岳俯瞰:噴火後の火口全景.(95) 高千穂峰:霧島火山群の名山. 噴火口は御鉢と呼ばれ, 直径500mもある.
● 桜島 (1117m) (96) 朝焼けの噴煙と満月:朝焼けと満月と噴煙の三拍子が揃うのはただただ運次第である.(97) 桜島噴火の瞬間:ここに掲載した9点の写真は, 2011年3月から4月にかけての26日間に, 夕方から明け方にかけて撮影したものである.(98) 噴火と火山雷:噴煙が物凄いと火山雷が発生する.(99) 噴火する昭和火口:噴火口が南岳の東斜面にあるため, 撮影は東からに限られる. 毎日撮影者が押し寄せる.(100) 桜島閃光:噴火した火が火口周辺にばらまかれた.(101) 黒煙と火花:風下 (南東) にいると, 爆発的噴火でも猛烈な噴煙で火が隠されてしまう.(102) 火柱立つ:猛烈な噴火では火柱が立つが, 猛烈な噴煙で一部が隠される. こんな時に火山雷が発生する.(103) 桜島沸騰:噴火を大写しで撮るには, 桜島一周道路東側以外にはない.(104) 桜島燃ゆ:地元テレビ局が初めて夜の噴火を撮影した場所で撮影. 夜中に風向きが変わると, カメラに火山灰が降り積もる.(105) 火花舞う:噴煙が風で流れると, 噴火の火がよく見える.
白川義員の「永遠の日本」に見る日本の原風景〔1〕
ここでは第1章の「名岳」の105点の写真のうち、前半の54点を紹介する。彼の写真には人工物は一切移らないように工夫・配慮されている。それには映ったものを消去するという技法を使うのではなくて、写す段階でいろいろ工夫している。それには、人工物がない場所を選定する。またあっても写らないよう工夫する。それはアングルであったり、写す時間、例えば日の出や日没の前後であったり、逆光を利用したり、積雪の多い厳冬期だったり、様々である。また彼は上空からの撮影、空撮を多用している。足では見えない鳥瞰・俯瞰は有力な手段である。彼は高度3,000メートルを超える場合はセスナ機で、それ以下ではヘリコプターを多用する。しかし日本の空港の場合、大部分は国土交通省の管轄であって、小型機やヘリの発着は午前9時から午後5時までであり、これでは早朝や日没後の撮影はままならない。ただ日本では航空自衛隊の訓練空域をもつ空港は24時間離着陸自由で、彼は特に北アルプスの撮影に当たっては金沢(小松)を多用したという。ただ日本では、指定された場所以外での着陸は認められていなくて、空撮ではドアを外して撮影するので、これには撮影場所近くで外せれば最も効率がよいのだが、近くの空港からにしても随分動線は長くなる。その点外国ではこんな煩わしい制約はないらしい。ここでは、地域ごとに、山名と写真のナンバーとタイトルと要約した説明を付した。
第1章 名 岳 Mountains
1−1 北海道をめぐる
● 雌阿寒岳 (1499m) (1) 雌阿寒岳夕照:冬季の噴煙上げる日没直前の雌阿寒岳を真北からセスナ機で空撮. 山体も噴煙も赤いオレンジ色. 背後に阿寒富士.(2) 雌阿寒岳静日:冬季の珍しく無風の昼間, 噴煙が静かに天に向かって延びるのを空撮.(3) 雌阿寒岳火口赤変:日没直前の頂上火口を空撮.(4) 雌阿寒岳火口鳥瞰:夏は噴煙が少なく火口真上から空撮. 新火口と赤沼, 旧火口と青沼が見える.(5) 走る噴煙:強風の中, 落日寸前の雌阿寒岳を逆光で撮影. 噴煙は赤に, 山肌の雪は青に. 当日のパイロットは南極で飛んでいたベテランパイロット.
● 十勝岳 (2077m) (6) 十勝岳夏景:望岳台からの十勝岳. 山全体から噴煙が上がる.(7) 十勝岳紅葉:望岳台は観光客で満杯になる. 喧噪を避けた場所からの撮影.(8) 十勝岳鳥瞰:冬季に上空から撮影. 周囲に噴煙を上げている火口や火口跡が散らばって見える.
● 利尻山 (利尻富士) (1721m) (9) 利尻山全景:南海上から空撮. 遠くに礼文島の礼文岳を望む.(10) 利尻山西壁:冬季に西から見上げた利尻山の全景.(11) 利尻山東南壁:夏季に東南から見上げた利尻山の全景.(12) 利尻山落日:海を隔てたサロベツ原野から望遠レンズで撮った利尻山山頂の落日.
● 知床連山/羅臼岳 (1661m) (13) 知床連山赤変:初冬の夕方に真西から空撮. 右から羅臼岳, 三ツ峰, サシルイ岳の三山が赤く彩色されている. 遠くに国後島の爺爺(チャチャ)岳を望む.(14) 知床硫黄山:半 島のほぼ中央, 羅臼岳の北東にある円錐状複式火山. 上空から見ると, 噴火によって山がずたずたに引き裂かれたことがよく分かる.(15) サシルイ岳夕映え:この山は知床連山の中では最も秀麗な形をしている. 夕日が当たった西面が特に良い.(16) 知床岳と国後島:半島の北端にある知床岳と流氷の海を隔てた国後島の爺爺岳を上空から撮影.(17) 夕映えの硫黄山:日没直前の太陽の光を受けて赤く染まった硫黄山.
● 羊蹄山 (蝦夷富士) (1898m) (18) 羊蹄山火口:火口を俯瞰撮影. 周囲2kmの巨大火口.(19) 羊蹄山冬景色:積雪豊富な4月に空撮.(20) 樽前山と羊蹄山:噴煙を上げている樽前山上空から支笏湖を隔てて羊蹄山を遠望.(21) 洞爺湖と羊蹄山:洞爺湖南岸上空から真北に積雪の羊蹄山を見る.
1−2 みちのくをめぐる
● 岩手山 (南部富士. 岩手富士) (2038m) (22) 岩手山:残雪の岩手山を南西から空撮. この方向からが最も秀麗.(23) 東岩手山火口:岩手山は東西の複式火山. その火口を上空から鳥瞰。(24) 岩手山焼走り: 1732年の大噴火で溶岩が走り抜けた溶岩原. 今は木々が生えていて, 特別天然記念物として保護されている.
● 八甲田山群/大岳 (1585m) (25) 八甲田山群:初冬に空撮. 左に井戸岳の噴火口, 右に大岳と火口. 雲が噴煙のように見える.
● 秋田駒ヶ岳 (1637m) (26) 秋田駒ヶ岳山頂:初冬に空撮. 画面中央の火口丘が1970年に噴火した女岳,
左上が男岳, そのすぐ右上が主峰の男女岳.
1−3 北アルプスをめぐる
● 剣岳 (2999m) (27) 剣岳と落日:夕方黒部側から空撮. 高度3000mでもスモッグに覆われ, 中々鮮烈な写真にはならない.(28) 剣岳黎明:厳冬期の黒部側からの剣岳近影. 日の出前30分, 東の地平線の空が赤く色づき始めた頃, 東側の一部が僅かに変色した. 全体はまだ暗い.(29) 剣岳赤変:日の出後5分. 剣岳は赤に染まる.(30) 剣岳黄変:更に5分後, オレンジ色から赤色が完全に抜ける直前の黄変した剣岳. まだ谷には陽光は届いていない.(31) 剣岳白景:白い山を白く撮るには, 日の出後30分から1時間以内である. これは鹿島槍ヶ岳の上空から望遠レンズで撮影したもの.
● 立山三山/大汝山 (3015m) (32) 立山夕焼け:厳冬期に夕照の立山を弥陀ヶ原上空から撮影.(33) 朝焼けの立山:厳冬期に日の出直後の立山を黒部川上空から撮影.(34) 立山紅葉:北アルプスで最も早く紅葉が始まるのは後立山連峰と立山周辺である. また北アでの紅葉の名所は, この立山周辺と穂高の涸沢であろう.
● 鹿島槍ヶ岳 (2889m) (36) 鹿島槍ヶ岳残照:厳冬期に双耳峰をほぼ真西から日没直前に撮影した.(37) 鹿島槍ヶ岳と日の出:厳冬期に黒部川十字峡から撮影. 山はまだシルエット.(38) 鹿島槍ヶ岳鳥瞰:冬の朝, 北東方面から空撮した.
● 白馬岳 (2932m) (39) 白馬岳夜明け:八方尾根から撮った, 日の出の太陽を受けて赤変した白馬三山.
(40) 白馬三山:八方尾根の紅葉と白馬三山.(41) 白馬岳と大雪渓:厳冬期の白馬岳と大雪渓を空撮. (42) 厳冬の白馬三山:厳冬期の早朝, 八方尾根上空から撮った白馬三山.
● 穂高連山/奥穂高岳 (3190m) (43) 朝焼けた穂高三山:3月の朝光を受ける奥穂, 前穂, 西穂の三山を
空撮.(44) 穂高連山朝光:3月の朝光を受ける奥穂, 北穂と涸沢岳を空撮.(45) 穂高三山と太陽:続い て, 奥穂, 涸沢岳, 北穂の三山と日の出の太陽を岐阜県側から空撮.
● 槍ヶ岳 (3180m) (46) 槍ヶ岳朝光:3月の朝光を受けて赤く染まる槍の穂.(47) 槍ヶ岳の稜線:西に雪を纏った槍ヶ岳から南へ延びる稜線を西望する.(48) アルプス銀座:北鎌尾根上空から南望した槍・穂高連峰.
● 乗鞍岳(3026m) (49) 乗鞍岳と槍・穂高連峰:冬の乗鞍岳上空から北望.(50) 乗鞍岳:冬の乗鞍岳8 峰を鳥瞰.(51) まいめ池と乗鞍岳:乗鞍高原には小さな湖沼が数多くあるが, この人造湖である「まい め池」からの眺めが代表的といわれる.(52) 一ノ瀬園地からの乗鞍岳:乗鞍高原の紅葉は素晴らしい が, 中でもこの一ノ瀬園地が最高に華やかである.
● 焼岳 (2455m) (53) 焼岳:雪の焼岳をヘリから撮影.
● 笠ヶ岳 (2455m) (54) 笠ヶ岳:雪の笠ヶ岳を空撮.
第1章 名 岳 Mountains
1−1 北海道をめぐる
● 雌阿寒岳 (1499m) (1) 雌阿寒岳夕照:冬季の噴煙上げる日没直前の雌阿寒岳を真北からセスナ機で空撮. 山体も噴煙も赤いオレンジ色. 背後に阿寒富士.(2) 雌阿寒岳静日:冬季の珍しく無風の昼間, 噴煙が静かに天に向かって延びるのを空撮.(3) 雌阿寒岳火口赤変:日没直前の頂上火口を空撮.(4) 雌阿寒岳火口鳥瞰:夏は噴煙が少なく火口真上から空撮. 新火口と赤沼, 旧火口と青沼が見える.(5) 走る噴煙:強風の中, 落日寸前の雌阿寒岳を逆光で撮影. 噴煙は赤に, 山肌の雪は青に. 当日のパイロットは南極で飛んでいたベテランパイロット.
● 十勝岳 (2077m) (6) 十勝岳夏景:望岳台からの十勝岳. 山全体から噴煙が上がる.(7) 十勝岳紅葉:望岳台は観光客で満杯になる. 喧噪を避けた場所からの撮影.(8) 十勝岳鳥瞰:冬季に上空から撮影. 周囲に噴煙を上げている火口や火口跡が散らばって見える.
● 利尻山 (利尻富士) (1721m) (9) 利尻山全景:南海上から空撮. 遠くに礼文島の礼文岳を望む.(10) 利尻山西壁:冬季に西から見上げた利尻山の全景.(11) 利尻山東南壁:夏季に東南から見上げた利尻山の全景.(12) 利尻山落日:海を隔てたサロベツ原野から望遠レンズで撮った利尻山山頂の落日.
● 知床連山/羅臼岳 (1661m) (13) 知床連山赤変:初冬の夕方に真西から空撮. 右から羅臼岳, 三ツ峰, サシルイ岳の三山が赤く彩色されている. 遠くに国後島の爺爺(チャチャ)岳を望む.(14) 知床硫黄山:半 島のほぼ中央, 羅臼岳の北東にある円錐状複式火山. 上空から見ると, 噴火によって山がずたずたに引き裂かれたことがよく分かる.(15) サシルイ岳夕映え:この山は知床連山の中では最も秀麗な形をしている. 夕日が当たった西面が特に良い.(16) 知床岳と国後島:半島の北端にある知床岳と流氷の海を隔てた国後島の爺爺岳を上空から撮影.(17) 夕映えの硫黄山:日没直前の太陽の光を受けて赤く染まった硫黄山.
● 羊蹄山 (蝦夷富士) (1898m) (18) 羊蹄山火口:火口を俯瞰撮影. 周囲2kmの巨大火口.(19) 羊蹄山冬景色:積雪豊富な4月に空撮.(20) 樽前山と羊蹄山:噴煙を上げている樽前山上空から支笏湖を隔てて羊蹄山を遠望.(21) 洞爺湖と羊蹄山:洞爺湖南岸上空から真北に積雪の羊蹄山を見る.
1−2 みちのくをめぐる
● 岩手山 (南部富士. 岩手富士) (2038m) (22) 岩手山:残雪の岩手山を南西から空撮. この方向からが最も秀麗.(23) 東岩手山火口:岩手山は東西の複式火山. その火口を上空から鳥瞰。(24) 岩手山焼走り: 1732年の大噴火で溶岩が走り抜けた溶岩原. 今は木々が生えていて, 特別天然記念物として保護されている.
● 八甲田山群/大岳 (1585m) (25) 八甲田山群:初冬に空撮. 左に井戸岳の噴火口, 右に大岳と火口. 雲が噴煙のように見える.
● 秋田駒ヶ岳 (1637m) (26) 秋田駒ヶ岳山頂:初冬に空撮. 画面中央の火口丘が1970年に噴火した女岳,
左上が男岳, そのすぐ右上が主峰の男女岳.
1−3 北アルプスをめぐる
● 剣岳 (2999m) (27) 剣岳と落日:夕方黒部側から空撮. 高度3000mでもスモッグに覆われ, 中々鮮烈な写真にはならない.(28) 剣岳黎明:厳冬期の黒部側からの剣岳近影. 日の出前30分, 東の地平線の空が赤く色づき始めた頃, 東側の一部が僅かに変色した. 全体はまだ暗い.(29) 剣岳赤変:日の出後5分. 剣岳は赤に染まる.(30) 剣岳黄変:更に5分後, オレンジ色から赤色が完全に抜ける直前の黄変した剣岳. まだ谷には陽光は届いていない.(31) 剣岳白景:白い山を白く撮るには, 日の出後30分から1時間以内である. これは鹿島槍ヶ岳の上空から望遠レンズで撮影したもの.
● 立山三山/大汝山 (3015m) (32) 立山夕焼け:厳冬期に夕照の立山を弥陀ヶ原上空から撮影.(33) 朝焼けの立山:厳冬期に日の出直後の立山を黒部川上空から撮影.(34) 立山紅葉:北アルプスで最も早く紅葉が始まるのは後立山連峰と立山周辺である. また北アでの紅葉の名所は, この立山周辺と穂高の涸沢であろう.
● 鹿島槍ヶ岳 (2889m) (36) 鹿島槍ヶ岳残照:厳冬期に双耳峰をほぼ真西から日没直前に撮影した.(37) 鹿島槍ヶ岳と日の出:厳冬期に黒部川十字峡から撮影. 山はまだシルエット.(38) 鹿島槍ヶ岳鳥瞰:冬の朝, 北東方面から空撮した.
● 白馬岳 (2932m) (39) 白馬岳夜明け:八方尾根から撮った, 日の出の太陽を受けて赤変した白馬三山.
(40) 白馬三山:八方尾根の紅葉と白馬三山.(41) 白馬岳と大雪渓:厳冬期の白馬岳と大雪渓を空撮. (42) 厳冬の白馬三山:厳冬期の早朝, 八方尾根上空から撮った白馬三山.
● 穂高連山/奥穂高岳 (3190m) (43) 朝焼けた穂高三山:3月の朝光を受ける奥穂, 前穂, 西穂の三山を
空撮.(44) 穂高連山朝光:3月の朝光を受ける奥穂, 北穂と涸沢岳を空撮.(45) 穂高三山と太陽:続い て, 奥穂, 涸沢岳, 北穂の三山と日の出の太陽を岐阜県側から空撮.
● 槍ヶ岳 (3180m) (46) 槍ヶ岳朝光:3月の朝光を受けて赤く染まる槍の穂.(47) 槍ヶ岳の稜線:西に雪を纏った槍ヶ岳から南へ延びる稜線を西望する.(48) アルプス銀座:北鎌尾根上空から南望した槍・穂高連峰.
● 乗鞍岳(3026m) (49) 乗鞍岳と槍・穂高連峰:冬の乗鞍岳上空から北望.(50) 乗鞍岳:冬の乗鞍岳8 峰を鳥瞰.(51) まいめ池と乗鞍岳:乗鞍高原には小さな湖沼が数多くあるが, この人造湖である「まい め池」からの眺めが代表的といわれる.(52) 一ノ瀬園地からの乗鞍岳:乗鞍高原の紅葉は素晴らしい が, 中でもこの一ノ瀬園地が最高に華やかである.
● 焼岳 (2455m) (53) 焼岳:雪の焼岳をヘリから撮影.
● 笠ヶ岳 (2455m) (54) 笠ヶ岳:雪の笠ヶ岳を空撮.
2013年8月8日木曜日
人工物(道具・民具など)に係る紋所を探る
ここでは30項目について記載した。このうち田中豊子さんの「不思議を訪ねる」には、文様の項に6項目、民具・その他の項に14項目記載されている。残り10項目は田中さんの本には記載のない項目である。これらについて、五十音順に記載した。各項目の記述はこれまで同様、松村明監修の「大辞泉」の各項目の「紋所の名」によった。各項目の和名と漢字名及び簡単な説明に加えて、[1] 紋所の由来、[2]代表的な紋所の名称を記した。
● あかとり 垢取り 赤鳥 : 櫛の間にたまった垢を取る道具。赤鳥は当て字。
[1] 六つ歯の櫛を図案化したもの。 [2] 今川赤鳥 など。
● いしだたみ 石畳 甃 : 庭や道路などで、平らな敷石を敷き詰めた所やその石。
[1] 方形の石を一面に敷き並べたような形状を図案化した文様の石畳をかたどったもの。
[2] 三甃、三寄せ甃、四甃、石畳車 など。
● いづつ 井筒 : 井戸の地上部分に設けた円筒状あるいは方形の囲み。
[1] 井筒を図案化したもの。
[2] 平井筒、角立井筒、丸に角立井筒、唐井筒、花井筒、重ね井筒、三井筒 など。
● うちわ 団扇 : あおいで風を起こす道具。
[1] 団扇を図案化したもの。普通、細く削った竹の骨に紙や絹を円形に張って作る。
[2] 丸に団扇、三つ団扇、桑名団扇、軍配団扇、三つ軍配団扇 など。
● おうぎ 扇 : 手に持ち、あおいで風を起こす道具。普通、折り畳めるものをいう。
[1] 扇をかたどったもの。種類が多い。
[2] 丸に日の丸扇、三つ扇、檜扇、丸に五本扇、島原扇、違い扇、扇菱 など。
● かさ 笠 傘 : 日光、雨,雪などが当たらないように頭にかぶったり、さしたりするもの。
[1] 笠や傘を図案化したもの。
[2] 神宮笠、丸に笠、柳生笠、二蓋笠、竝笠、対笠、三蓋笠、三本傘 など。
● かま 鎌 : 草などを刈るのに使う道具。
[1] 鎌をかたどったり、または鎌を取り合わせたもの。 [2] 違い鎌、卍鎌 など。
● くぎぬき 釘抜き : 打ち込んだ釘を抜き取る道具。
[1] 釘抜き、またはそれを組み合わせた形を図案化したもの。
[2] 釘抜き菱、重ね釘抜き、違い釘抜き、丸に釘抜き、釘抜きに閂 など。
● くつわ 轡(口輪の意) : 手綱をつけるため、馬の口にかませる金具。
[1] 円形の中に十字を置く。轡の鏡の部分をかたどったもの。 [2] 轡、花轡、轡菱 など。
● くるま 車 : 軸を中心にして、回転する仕組みの輪。車輪。
[1] 車輪をかたどったもの。 [2] 源氏車、木下車、榊原車 など。
● こくもち 石持 黒餅 : 紋所の名。
[1] 黒い円形で中に文様のないもの。もと矢口の祭りの黒餅をかたどったもの。
[2] 石持、黒餅 など。
● こづち 小槌 : 小さな槌。
[1] 打ち出の小槌を図案化したもの。 [2] 打ち出の小槌 など。
● ごとく 五徳 : 金属や陶器で作った三本または四本の脚のある輪。
火鉢や炉の火の上にかぶせて立て、やかんや鉄瓶などをかける。
[1] 五徳の形を図案化したもの。 [2] 五徳 など。
● ことじ 琴柱 箏柱 : 琴や箏で胴の上に立てて弦を支え、その位置によって音の高低を調節する。
[1] 琴柱や箏柱をかたどったもの。 [2] 一琴柱、三琴柱、三盛り琴柱 など。
● じがみ 地紙 : 扇や傘などに張るために、その形に切った紙。
[1] 扇の地紙をかたどったもの。 [2] 重ね地紙 など。
● ぜに 銭 : 金属でつくられた貨幣。
[1] 銭の形をかたどったもの。 [2] 表一文銭、裏一文銭、四文銭 など。
● ちきり 千切り : 織機で、縦糸を巻くのに用いる。木製で中央が括れた棒状の部品。
[1] 上記のものを図案化したもの。 [2] 千切り、丸に千切り、四方千切り など。
● ぬさ 幣 : 祈願をし、または、罪・穢れを払うために神前に供える幣帛。御幣。
[1] 幣をかたどったもの。 [2] 丸に幣 など。
● のし 熨斗 熨 : 方形の色紙を六角形に襞をつけて折りたたみ、中に熨斗鮑の細片を包んだもの。
祝儀などの進物などに添える。鮑の代わりに昆布や紙も用いたりする。
[1] 熨斗鮑の形を図案化したもの。 [2] 熨斗、熨斗の丸 など。
● ひさご 瓢 瓠 : 瓢はユウガオ・ヒョウタンなどの総称。またその果実。なりひさご。
瓠はヒョウタンの果実の果肉を取り去って中空にし、乾燥させて容器としたもの。
[1] ヒサゴの果実をかたどったもの。 [2] 中輪に一つ瓠 など。
● ふんどう 分銅 : 秤で物の重量を計る時、重量の標準として用いるおもり。
[1] 分銅を図案化したもの。 [2] 分銅、子持ち分銅、三つ寄せ分銅 など。
● ほ 帆 : 帆柱に高く張り、風を受けて船を進ませる船具。
[1] 帆を図案化したもの。 [2] 丸に一つ帆、霞に帆、帆巴 など。
● まさかり 鉞 : 伐木用の大型の斧。古くは武器、刑具にも用いられた。
[1] 鉞を図案化したもの。 [2] 四つ違い鉞 など。
● ます 枡 升 桝 : 液体や穀物などの分量を計る容器。木製や金属製、方形や円筒形がある。
[1] 枡の形を図案化したもの。 [2] 丸に枡、三つ入子枡 など。
● や 矢 箭 : 武具・狩猟具の一つ。木または竹で作った棒状のもので、一方の端に羽をつけ、他方 の端に鏃(やじり)をつけ、弓の弦につがえて、目的物を射るもの。
[1] 矢の形を組み合わせて図案化したもの。
[2] 一本矢(1)、並び矢(2)、違い矢(2)、三矢(3)、矢扇(5)、六本矢車(6) など。
● やはず 矢筈 : 矢の末端の弓の弦を受ける部分。
[1] 矢筈を図案化したもの。 [2] 丸に矢筈 など。
● ゆいわた 結綿 : 数枚重ねた真綿の中央を結び束ねたもの。祝い物に用いる。
[1] 結綿を図案化したもの。 [2] 結綿 など。
● ゆきわ 雪輪 : 文様・紋所の名。
[1] 六角形の雪の結晶を円形に表したもの。 [2] 雪輪、外雪輪 など。
● りんぼう(ぽう) 輪宝 : 七宝の一つ。もとは車輪の形をした古代インドの武器。
[1] 輪宝を図案化したもの。 [2] 輪宝 など。
● ろくもんせん 六文銭 : 一文銭を三個ずつ横二列に並べたもの。
[1] 信州上田の真田氏の紋として有名。 [2] 真田六文銭、六連銭 など。
● あかとり 垢取り 赤鳥 : 櫛の間にたまった垢を取る道具。赤鳥は当て字。
[1] 六つ歯の櫛を図案化したもの。 [2] 今川赤鳥 など。
● いしだたみ 石畳 甃 : 庭や道路などで、平らな敷石を敷き詰めた所やその石。
[1] 方形の石を一面に敷き並べたような形状を図案化した文様の石畳をかたどったもの。
[2] 三甃、三寄せ甃、四甃、石畳車 など。
● いづつ 井筒 : 井戸の地上部分に設けた円筒状あるいは方形の囲み。
[1] 井筒を図案化したもの。
[2] 平井筒、角立井筒、丸に角立井筒、唐井筒、花井筒、重ね井筒、三井筒 など。
● うちわ 団扇 : あおいで風を起こす道具。
[1] 団扇を図案化したもの。普通、細く削った竹の骨に紙や絹を円形に張って作る。
[2] 丸に団扇、三つ団扇、桑名団扇、軍配団扇、三つ軍配団扇 など。
● おうぎ 扇 : 手に持ち、あおいで風を起こす道具。普通、折り畳めるものをいう。
[1] 扇をかたどったもの。種類が多い。
[2] 丸に日の丸扇、三つ扇、檜扇、丸に五本扇、島原扇、違い扇、扇菱 など。
● かさ 笠 傘 : 日光、雨,雪などが当たらないように頭にかぶったり、さしたりするもの。
[1] 笠や傘を図案化したもの。
[2] 神宮笠、丸に笠、柳生笠、二蓋笠、竝笠、対笠、三蓋笠、三本傘 など。
● かま 鎌 : 草などを刈るのに使う道具。
[1] 鎌をかたどったり、または鎌を取り合わせたもの。 [2] 違い鎌、卍鎌 など。
● くぎぬき 釘抜き : 打ち込んだ釘を抜き取る道具。
[1] 釘抜き、またはそれを組み合わせた形を図案化したもの。
[2] 釘抜き菱、重ね釘抜き、違い釘抜き、丸に釘抜き、釘抜きに閂 など。
● くつわ 轡(口輪の意) : 手綱をつけるため、馬の口にかませる金具。
[1] 円形の中に十字を置く。轡の鏡の部分をかたどったもの。 [2] 轡、花轡、轡菱 など。
● くるま 車 : 軸を中心にして、回転する仕組みの輪。車輪。
[1] 車輪をかたどったもの。 [2] 源氏車、木下車、榊原車 など。
● こくもち 石持 黒餅 : 紋所の名。
[1] 黒い円形で中に文様のないもの。もと矢口の祭りの黒餅をかたどったもの。
[2] 石持、黒餅 など。
● こづち 小槌 : 小さな槌。
[1] 打ち出の小槌を図案化したもの。 [2] 打ち出の小槌 など。
● ごとく 五徳 : 金属や陶器で作った三本または四本の脚のある輪。
火鉢や炉の火の上にかぶせて立て、やかんや鉄瓶などをかける。
[1] 五徳の形を図案化したもの。 [2] 五徳 など。
● ことじ 琴柱 箏柱 : 琴や箏で胴の上に立てて弦を支え、その位置によって音の高低を調節する。
[1] 琴柱や箏柱をかたどったもの。 [2] 一琴柱、三琴柱、三盛り琴柱 など。
● じがみ 地紙 : 扇や傘などに張るために、その形に切った紙。
[1] 扇の地紙をかたどったもの。 [2] 重ね地紙 など。
● ぜに 銭 : 金属でつくられた貨幣。
[1] 銭の形をかたどったもの。 [2] 表一文銭、裏一文銭、四文銭 など。
● ちきり 千切り : 織機で、縦糸を巻くのに用いる。木製で中央が括れた棒状の部品。
[1] 上記のものを図案化したもの。 [2] 千切り、丸に千切り、四方千切り など。
● ぬさ 幣 : 祈願をし、または、罪・穢れを払うために神前に供える幣帛。御幣。
[1] 幣をかたどったもの。 [2] 丸に幣 など。
● のし 熨斗 熨 : 方形の色紙を六角形に襞をつけて折りたたみ、中に熨斗鮑の細片を包んだもの。
祝儀などの進物などに添える。鮑の代わりに昆布や紙も用いたりする。
[1] 熨斗鮑の形を図案化したもの。 [2] 熨斗、熨斗の丸 など。
● ひさご 瓢 瓠 : 瓢はユウガオ・ヒョウタンなどの総称。またその果実。なりひさご。
瓠はヒョウタンの果実の果肉を取り去って中空にし、乾燥させて容器としたもの。
[1] ヒサゴの果実をかたどったもの。 [2] 中輪に一つ瓠 など。
● ふんどう 分銅 : 秤で物の重量を計る時、重量の標準として用いるおもり。
[1] 分銅を図案化したもの。 [2] 分銅、子持ち分銅、三つ寄せ分銅 など。
● ほ 帆 : 帆柱に高く張り、風を受けて船を進ませる船具。
[1] 帆を図案化したもの。 [2] 丸に一つ帆、霞に帆、帆巴 など。
● まさかり 鉞 : 伐木用の大型の斧。古くは武器、刑具にも用いられた。
[1] 鉞を図案化したもの。 [2] 四つ違い鉞 など。
● ます 枡 升 桝 : 液体や穀物などの分量を計る容器。木製や金属製、方形や円筒形がある。
[1] 枡の形を図案化したもの。 [2] 丸に枡、三つ入子枡 など。
● や 矢 箭 : 武具・狩猟具の一つ。木または竹で作った棒状のもので、一方の端に羽をつけ、他方 の端に鏃(やじり)をつけ、弓の弦につがえて、目的物を射るもの。
[1] 矢の形を組み合わせて図案化したもの。
[2] 一本矢(1)、並び矢(2)、違い矢(2)、三矢(3)、矢扇(5)、六本矢車(6) など。
● やはず 矢筈 : 矢の末端の弓の弦を受ける部分。
[1] 矢筈を図案化したもの。 [2] 丸に矢筈 など。
● ゆいわた 結綿 : 数枚重ねた真綿の中央を結び束ねたもの。祝い物に用いる。
[1] 結綿を図案化したもの。 [2] 結綿 など。
● ゆきわ 雪輪 : 文様・紋所の名。
[1] 六角形の雪の結晶を円形に表したもの。 [2] 雪輪、外雪輪 など。
● りんぼう(ぽう) 輪宝 : 七宝の一つ。もとは車輪の形をした古代インドの武器。
[1] 輪宝を図案化したもの。 [2] 輪宝 など。
● ろくもんせん 六文銭 : 一文銭を三個ずつ横二列に並べたもの。
[1] 信州上田の真田氏の紋として有名。 [2] 真田六文銭、六連銭 など。
2013年8月6日火曜日
文様に係る紋所を探る
田中豊子さんの「不思議を訪ねる」には、文様の項には45項目が記載されている。ところで、このうち紋所に関連あるのは15項目のみだった。そこでここでは更に3項目を加え、18項目について、五十音順に記載した。ここでの記述は、松村明監修の「大辞泉」の各項目の「紋所の名」によった。これまで同様、その文様の和名と漢字名及び簡単な説明に加えて、[1] 紋所の由来、[2] 代表的な紋所の名称を記載した。
● いげた 井桁 : 木で井の字の形に組んだ井戸のふち。井の字の形。
[1] 井の字を菱形に図案化した文様・紋所。
[2] 井桁、井桁に木瓜、三つ井桁、丸に角立井桁、陰陽重ね井桁 など。
● うろこ 鱗 : 動物の体を覆って保護する硬い薄片。
[1] 三角形と逆三角形又は円形を組み合わせたもの。
[2] 北條鱗(三鱗)、清明鱗(六鱗) など。他に、一鱗、二鱗、五鱗、九鱗 などがある。
● きっこう 亀甲 : 龜の甲の形(亀甲形)の略。
[1] 龜の甲をかたどったもの。
[2] 違い亀甲、結び亀甲、三つ盛花菱亀甲、相馬亀甲、六郷亀甲、毘沙門亀甲花菱 など。
● ぎょうよう 杏葉 : 形が杏の葉に似ているところから。
[1] 杏の葉を二つ左右から抱き合わせた形のものなど。
[2] 丸に一つ花杏葉、鍋島杏葉、花なし杏葉、杏葉牡丹 など。
● くよう 九翟 : 七曜星(日・月・火・水・木・金・土)に羅喉と計都を加えた名称。
[1] 中央の大きな円の周りを八つの小さな円で囲んだもの。九翟紋の略。
[2] 九翟、結び九翟、割り九翟、九翟車、蛇の目九翟 など。
● しっぽう・しちほう 七宝 : 仏教での七種の宝。
[1] 七宝文(円周を円弧によって四等分した文様)を図案化したもの。
[2] 七宝、大岡七宝、七宝に花菱、七宝輪違い など。
● じゃのめ 蛇の目 : 蛇の目のように太い輪の形をした図形。
[1] 上記図形をした紋所。 [2] 蛇の目、三つ盛蛇の目 など。
● ともえ 巴 鞆絵 : 湧き出した水が渦を巻いて外へ巡るような形の模様。
[1] 上を図案化したもの。巻く方向によって左、右があり、数によって一〜三がある。数が多い。
[2] 左・右一つ巴、左・右二つ巴、やせ二つ巴、陰陽勾玉巴、左・右三つ巴、三つ巴菱、有馬三つ巴、
角形三つ巴、隅切り勾玉巴 など。
● はなびし 花菱 : 菱形の周囲を花弁の形に図案化したもの。
[1] 上に同じ。 [2] 花菱、三つ花菱、剣花菱、亀甲花菱 など。
● ひきりょう 引両 : 輪の中に横に一〜三本の太い線を引いたもの。
[1] 横だけでなく、縦に引いた紋もあり、変形も含め多くの種類がある。
[2] 丸に一つ引、丸の内に二つ引、丸に立二つ引、田村立引、岩城立引 など。
● ひし 菱 : 菱形の略。
[1] 菱形を様々に図案化したもの。
[2] 幸(さいわい)菱、三蓋菱、中陰松皮菱、武田菱、日向一つ菱、五つ重ね菱 など。
● まる 丸 : 丸い形、円形または球形。
[1] 円形の紋所の名。円形単独のもののほか、他の文様と組み合わせたものもある。
[2] 丸輪、丸に十、丸に並び棒、丸に中の字、丸に生の字、薄(すすき)の丸、鶴の丸 など。
● まんじ 卍 : 印度のビシュス神の胸の旋毛を起源とする瑞兆の相。仏教に入り、仏の胸など体に現 した吉祥の印の表象となった。日本では仏教寺院の記号・紋章、標識として用いられる。
[1] 卍を図案化したもの。 [2] 左卍、右卍、丸に卍(蜂須賀卍) など。
● めゆい 目結 : 布地を摘んで糸で括り、括り目を回のような目の形に染め出す絞り染め。
[1] 上の絞り染め(鹿の子絞りなど)を図案化したもの。
[2] 角立一つ目結、三つ目結菱、四つ目結菱、角出し四つ目結、平四つ目結 など。
● もっこう 木瓜 : 数個の円弧形をつなぎ合わせた中に、唐花や花菱などを入れたもの。
[1] 鳥の巣が卵を包んでいるように見える図柄。また瓜を輪切りにした形を図案化したものともいう。
[2] 木瓜、剣木瓜、唐木瓜、竪木瓜、横木瓜 など。
● やまがた 山形、山型 : 山のような形。
[1] 山をかたどったもの。 [2] 山形、入り山形、違い山形 など。
● わ 輪 : 曲げて円形にしたもの。
[1] 円形を図案化したもの。 [2] 丸輪 など。
● わちがい 輪違い : 二つ以上の輪が交差して半ば重なっている形。
[1] 上を図案化したもの。 [2] 輪違い、三つ輪違い など。
● いげた 井桁 : 木で井の字の形に組んだ井戸のふち。井の字の形。
[1] 井の字を菱形に図案化した文様・紋所。
[2] 井桁、井桁に木瓜、三つ井桁、丸に角立井桁、陰陽重ね井桁 など。
● うろこ 鱗 : 動物の体を覆って保護する硬い薄片。
[1] 三角形と逆三角形又は円形を組み合わせたもの。
[2] 北條鱗(三鱗)、清明鱗(六鱗) など。他に、一鱗、二鱗、五鱗、九鱗 などがある。
● きっこう 亀甲 : 龜の甲の形(亀甲形)の略。
[1] 龜の甲をかたどったもの。
[2] 違い亀甲、結び亀甲、三つ盛花菱亀甲、相馬亀甲、六郷亀甲、毘沙門亀甲花菱 など。
● ぎょうよう 杏葉 : 形が杏の葉に似ているところから。
[1] 杏の葉を二つ左右から抱き合わせた形のものなど。
[2] 丸に一つ花杏葉、鍋島杏葉、花なし杏葉、杏葉牡丹 など。
● くよう 九翟 : 七曜星(日・月・火・水・木・金・土)に羅喉と計都を加えた名称。
[1] 中央の大きな円の周りを八つの小さな円で囲んだもの。九翟紋の略。
[2] 九翟、結び九翟、割り九翟、九翟車、蛇の目九翟 など。
● しっぽう・しちほう 七宝 : 仏教での七種の宝。
[1] 七宝文(円周を円弧によって四等分した文様)を図案化したもの。
[2] 七宝、大岡七宝、七宝に花菱、七宝輪違い など。
● じゃのめ 蛇の目 : 蛇の目のように太い輪の形をした図形。
[1] 上記図形をした紋所。 [2] 蛇の目、三つ盛蛇の目 など。
● ともえ 巴 鞆絵 : 湧き出した水が渦を巻いて外へ巡るような形の模様。
[1] 上を図案化したもの。巻く方向によって左、右があり、数によって一〜三がある。数が多い。
[2] 左・右一つ巴、左・右二つ巴、やせ二つ巴、陰陽勾玉巴、左・右三つ巴、三つ巴菱、有馬三つ巴、
角形三つ巴、隅切り勾玉巴 など。
● はなびし 花菱 : 菱形の周囲を花弁の形に図案化したもの。
[1] 上に同じ。 [2] 花菱、三つ花菱、剣花菱、亀甲花菱 など。
● ひきりょう 引両 : 輪の中に横に一〜三本の太い線を引いたもの。
[1] 横だけでなく、縦に引いた紋もあり、変形も含め多くの種類がある。
[2] 丸に一つ引、丸の内に二つ引、丸に立二つ引、田村立引、岩城立引 など。
● ひし 菱 : 菱形の略。
[1] 菱形を様々に図案化したもの。
[2] 幸(さいわい)菱、三蓋菱、中陰松皮菱、武田菱、日向一つ菱、五つ重ね菱 など。
● まる 丸 : 丸い形、円形または球形。
[1] 円形の紋所の名。円形単独のもののほか、他の文様と組み合わせたものもある。
[2] 丸輪、丸に十、丸に並び棒、丸に中の字、丸に生の字、薄(すすき)の丸、鶴の丸 など。
● まんじ 卍 : 印度のビシュス神の胸の旋毛を起源とする瑞兆の相。仏教に入り、仏の胸など体に現 した吉祥の印の表象となった。日本では仏教寺院の記号・紋章、標識として用いられる。
[1] 卍を図案化したもの。 [2] 左卍、右卍、丸に卍(蜂須賀卍) など。
● めゆい 目結 : 布地を摘んで糸で括り、括り目を回のような目の形に染め出す絞り染め。
[1] 上の絞り染め(鹿の子絞りなど)を図案化したもの。
[2] 角立一つ目結、三つ目結菱、四つ目結菱、角出し四つ目結、平四つ目結 など。
● もっこう 木瓜 : 数個の円弧形をつなぎ合わせた中に、唐花や花菱などを入れたもの。
[1] 鳥の巣が卵を包んでいるように見える図柄。また瓜を輪切りにした形を図案化したものともいう。
[2] 木瓜、剣木瓜、唐木瓜、竪木瓜、横木瓜 など。
● やまがた 山形、山型 : 山のような形。
[1] 山をかたどったもの。 [2] 山形、入り山形、違い山形 など。
● わ 輪 : 曲げて円形にしたもの。
[1] 円形を図案化したもの。 [2] 丸輪 など。
● わちがい 輪違い : 二つ以上の輪が交差して半ば重なっている形。
[1] 上を図案化したもの。 [2] 輪違い、三つ輪違い など。
2013年8月5日月曜日
自然及び自然現象に係る紋所を探る
この自然及び自然現象に係る紋所については、田中豊子さんの「不思議を訪ねる」には該当するものがないので、これまでの植物や動物に準じて、五十音順に記載した。ここでは、松村朗監修の「大辞泉」から、紋所の名と記載のある事象を抽出し、その事象の和名と漢字名と簡単な説明、及び [1] 紋所の由来、 [2] 代表的な紋所の名称を記載した。
● いし 石 : 岩石の小片。岩よりも小さく、砂よりも大きなもの。
[1] 石を図案化したもの。 [2] 三つ石、四つ石、丸に一つ石 など。
● いなずま 稲妻 : 空中電気の放電によって生じる電光。
[1] 稲妻形:稲妻の形を折れ曲がった直線で図案化したもの。
稲妻菱:稲妻形を菱形に描いたもの。
[2] 稲妻鶴、丸に稲妻 など(以上稲妻形)、稲妻菱、四つ稲妻菱 など(以上稲妻菱)。
● しちよう 七曜 : 日・月と火星・水星・木星・金星・土星の七つの天体。七曜星。
[1] 中央の大きな円の周りを6つの小さな円で囲んだもの。 [2] 七曜、割り七曜 など。
● すはま 州浜、洲浜 : 曲線を描いて州が出入りしている浜。
[1] 州浜形(州浜を上から見下ろしたような)もので、三つ輪形とも。[2] 州浜、丸に州浜など。
● つき 月 : 地球の衛星。
[1] 月の形を図案化したもの。 [2] 半月、朧月、月星 など。
● なみ 波 : 風や震動によって起こる海や川の水面の高低運動。波浪。
[1] 波を図案化したもの。 [2] 向い浪、二頭浪、三頭浪 など。
● ひあし 日足、日脚 : 雲の切れ目や物の隙間から射す太陽の光線。陽射し。
[1] 陽射しを図案化したもの。 [2] 六つ日足 など。
● ほし 星 : 夜空に点々と小さく光っている天体。
[1] 円形を星に見立てて、いろいろに組み合わせたもの。
[2] 三つ星、丸に三つ星、一文字に三つ星、渡辺星 など。
● やま 山 : 陸地の表面が周辺の土地よりも高く盛り上がった所。日本では古来、草木が生い茂り、 さまざまな恵をもたらす場所としてとらえている。また古くは神が住む神聖な地域として、信仰の 対象や修行の場とされた。
[1] 山を図案化したもの。 [2] 山に霞 など。
● いし 石 : 岩石の小片。岩よりも小さく、砂よりも大きなもの。
[1] 石を図案化したもの。 [2] 三つ石、四つ石、丸に一つ石 など。
● いなずま 稲妻 : 空中電気の放電によって生じる電光。
[1] 稲妻形:稲妻の形を折れ曲がった直線で図案化したもの。
稲妻菱:稲妻形を菱形に描いたもの。
[2] 稲妻鶴、丸に稲妻 など(以上稲妻形)、稲妻菱、四つ稲妻菱 など(以上稲妻菱)。
● しちよう 七曜 : 日・月と火星・水星・木星・金星・土星の七つの天体。七曜星。
[1] 中央の大きな円の周りを6つの小さな円で囲んだもの。 [2] 七曜、割り七曜 など。
● すはま 州浜、洲浜 : 曲線を描いて州が出入りしている浜。
[1] 州浜形(州浜を上から見下ろしたような)もので、三つ輪形とも。[2] 州浜、丸に州浜など。
● つき 月 : 地球の衛星。
[1] 月の形を図案化したもの。 [2] 半月、朧月、月星 など。
● なみ 波 : 風や震動によって起こる海や川の水面の高低運動。波浪。
[1] 波を図案化したもの。 [2] 向い浪、二頭浪、三頭浪 など。
● ひあし 日足、日脚 : 雲の切れ目や物の隙間から射す太陽の光線。陽射し。
[1] 陽射しを図案化したもの。 [2] 六つ日足 など。
● ほし 星 : 夜空に点々と小さく光っている天体。
[1] 円形を星に見立てて、いろいろに組み合わせたもの。
[2] 三つ星、丸に三つ星、一文字に三つ星、渡辺星 など。
● やま 山 : 陸地の表面が周辺の土地よりも高く盛り上がった所。日本では古来、草木が生い茂り、 さまざまな恵をもたらす場所としてとらえている。また古くは神が住む神聖な地域として、信仰の 対象や修行の場とされた。
[1] 山を図案化したもの。 [2] 山に霞 など。
2013年7月31日水曜日
動物由来の紋所を探る
先の「植物由来の紋所を探る」に引き続いて、田中豊子さんの「不思議を訪ねる」を参考にして、動物由来の紋所を探った。田中さんは動物のジャンルを、動物,鳥,魚、昆虫に分けて記載されたが、ここでは動物と一括りにして五十音順に記載した。前回と同じく、松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある動物を抽出し、その動物の和名と漢字名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を記載した。
● あげはちょう 揚羽蝶 :アゲハチョウ科の蝶(昆虫)の総称
[1] 揚羽蝶の側面を図案化したもの。 [2] 揚羽の蝶、丸に揚羽、対揚羽蝶など。
● いせえび 伊勢海老 :イセエビ科の甲殻類の総称
[1] 伊勢海老全体を図案化したもの。[2] 伊勢海老の丸など。
● いたやがい 板屋貝(半辺蚶) : イタヤガイ科の二枚貝の総称
[1] 貝を図案化したもの。 [2] 一半辺蚶、二半辺蚶、三半辺蚶など。
● うさぎ 兎 : ウサギ科の哺乳類の総称
[1] 兎を図案化したもの。 [2] 真向き兎(1)、向かい兎(2) など。
● うま 馬 ; ウマ科の哺乳類の総称
[1] 馬を図案化したもの。 [2] 左かけ馬、右かけ馬、相馬(二杭)繋ぎ馬など。
● おしどり 鴛鴦 : カモ科の鳥
[1] 鴛鴦を図案化したもの。 [2] 番い鴛鴦の丸など。
● かりがね 雁金(雁の別名): カモ科の鳥のうち、ハクチョウ類を除いた大型のものの総称
[1] 雁を図案化したもので、数が多い。
[2] 雁金、結び雁金、飛び雁金(以上一羽)、雁金菱(二羽)、亀甲雁金、三つ盛り雁金(以上三羽)。
● かめ 龜 : カメ目の爬虫類の総称
[1] 龜を図案化したもの。 [2] 龜の字、光琳龜、登り龜、龜の丸、親子龜など。
● しか 鹿 : シカ科の哺乳類
[1] 鹿の角の形を図案化したもの。 [2] 抱き角、違い角など。
● たか 鷹 : タカ科の鳥のうち、小型〜中型のものの総称
[1] 鷹の羽(たかのは)とその斑紋をかたどったもので、数が多い。
[2] 並び鷹羽、久世鷹羽(以上並び)、違い鷹羽、白川鷹羽(以上違い)、芸州鷹羽、浅野鷹羽(以上丸に違 い)。
● ちどり 千鳥 : ちどり科の鳥の総称
[1] 千鳥を図案化したもの。 [2] 波に千鳥、波輪に陰千鳥など。
● ちょう 蝶 : アゲハチョウ上科とセセリチョウ上科に属する蝶(昆虫)の総称
[1] 蝶を図案化したもの。 [2] 鎧蝶、向い蝶、胡蝶、蝶菱、蝶花形、源氏蝶など。
● つばめ 燕 : ツバメ科の鳥の総称
[1] 燕を図案化したもの。 [2] 対飛び燕など。
● つる 鶴 : ツル科の鳥の総称
[1] 鶴の形を様々な形に図案化したもので、数が多い。
[2] 鶴の丸、諏訪鶴、南部鶴丸、光琳舞鶴、三つ鱗鶴、鶴菱、折り鶴など。
● とんぼ 蜻蛉 : トンボ目の昆虫の総称
[1] 蜻蛉を図案化したもの。 [2] 対蜻蛉、三蜻蛉など。
● はと 鳩 : ハト科の鳥の総称
[1] 鳩を図案化したもの。 [2] 対鳩、向い鳩など。
● はまぐり 蛤 : マルスダレガイ科の二枚貝
[1] 蛤を図案化したもの。 [2] 一蛤、二蛤、三蛤、四蛤、五蛤、蝶蛤など。
● ほうおう 鳳凰 : 古代中国で、麟、龜、竜と共に四瑞として尊ばれた想像上の霊鳥。
体は前は麟、後は鹿、首は蛇、尾は魚、背は龜、顎は燕、嘴は鶏に似ていると言われる。
[1] 鳳凰を図案化したもの。 [2] 鳳凰の丸、桐に鳳凰など。
● ほらがい 法螺貝 : フジツガイ科の巻貝
[1] 法螺貝を図案化したもの。 [2] 法螺貝、対法螺など。
● りゅう 竜 : 想像上の動物。中国では、凰、龜、麟と共に四瑞として尊ばれる。
体は大きな蛇に似ていて、四本の足、二本の角、耳、髭を持ち、全身は鱗に被われている。
多くは水中に住み、天に昇り雲を起こして雨を降らすという。
[1] 竜を図案化したもの。 [2] 竜丸、昇降竜、雨竜、雨竜菱など。
● あげはちょう 揚羽蝶 :アゲハチョウ科の蝶(昆虫)の総称
[1] 揚羽蝶の側面を図案化したもの。 [2] 揚羽の蝶、丸に揚羽、対揚羽蝶など。
● いせえび 伊勢海老 :イセエビ科の甲殻類の総称
[1] 伊勢海老全体を図案化したもの。[2] 伊勢海老の丸など。
● いたやがい 板屋貝(半辺蚶) : イタヤガイ科の二枚貝の総称
[1] 貝を図案化したもの。 [2] 一半辺蚶、二半辺蚶、三半辺蚶など。
● うさぎ 兎 : ウサギ科の哺乳類の総称
[1] 兎を図案化したもの。 [2] 真向き兎(1)、向かい兎(2) など。
● うま 馬 ; ウマ科の哺乳類の総称
[1] 馬を図案化したもの。 [2] 左かけ馬、右かけ馬、相馬(二杭)繋ぎ馬など。
● おしどり 鴛鴦 : カモ科の鳥
[1] 鴛鴦を図案化したもの。 [2] 番い鴛鴦の丸など。
● かりがね 雁金(雁の別名): カモ科の鳥のうち、ハクチョウ類を除いた大型のものの総称
[1] 雁を図案化したもので、数が多い。
[2] 雁金、結び雁金、飛び雁金(以上一羽)、雁金菱(二羽)、亀甲雁金、三つ盛り雁金(以上三羽)。
● かめ 龜 : カメ目の爬虫類の総称
[1] 龜を図案化したもの。 [2] 龜の字、光琳龜、登り龜、龜の丸、親子龜など。
● しか 鹿 : シカ科の哺乳類
[1] 鹿の角の形を図案化したもの。 [2] 抱き角、違い角など。
● たか 鷹 : タカ科の鳥のうち、小型〜中型のものの総称
[1] 鷹の羽(たかのは)とその斑紋をかたどったもので、数が多い。
[2] 並び鷹羽、久世鷹羽(以上並び)、違い鷹羽、白川鷹羽(以上違い)、芸州鷹羽、浅野鷹羽(以上丸に違 い)。
● ちどり 千鳥 : ちどり科の鳥の総称
[1] 千鳥を図案化したもの。 [2] 波に千鳥、波輪に陰千鳥など。
● ちょう 蝶 : アゲハチョウ上科とセセリチョウ上科に属する蝶(昆虫)の総称
[1] 蝶を図案化したもの。 [2] 鎧蝶、向い蝶、胡蝶、蝶菱、蝶花形、源氏蝶など。
● つばめ 燕 : ツバメ科の鳥の総称
[1] 燕を図案化したもの。 [2] 対飛び燕など。
● つる 鶴 : ツル科の鳥の総称
[1] 鶴の形を様々な形に図案化したもので、数が多い。
[2] 鶴の丸、諏訪鶴、南部鶴丸、光琳舞鶴、三つ鱗鶴、鶴菱、折り鶴など。
● とんぼ 蜻蛉 : トンボ目の昆虫の総称
[1] 蜻蛉を図案化したもの。 [2] 対蜻蛉、三蜻蛉など。
● はと 鳩 : ハト科の鳥の総称
[1] 鳩を図案化したもの。 [2] 対鳩、向い鳩など。
● はまぐり 蛤 : マルスダレガイ科の二枚貝
[1] 蛤を図案化したもの。 [2] 一蛤、二蛤、三蛤、四蛤、五蛤、蝶蛤など。
● ほうおう 鳳凰 : 古代中国で、麟、龜、竜と共に四瑞として尊ばれた想像上の霊鳥。
体は前は麟、後は鹿、首は蛇、尾は魚、背は龜、顎は燕、嘴は鶏に似ていると言われる。
[1] 鳳凰を図案化したもの。 [2] 鳳凰の丸、桐に鳳凰など。
● ほらがい 法螺貝 : フジツガイ科の巻貝
[1] 法螺貝を図案化したもの。 [2] 法螺貝、対法螺など。
● りゅう 竜 : 想像上の動物。中国では、凰、龜、麟と共に四瑞として尊ばれる。
体は大きな蛇に似ていて、四本の足、二本の角、耳、髭を持ち、全身は鱗に被われている。
多くは水中に住み、天に昇り雲を起こして雨を降らすという。
[1] 竜を図案化したもの。 [2] 竜丸、昇降竜、雨竜、雨竜菱など。
2013年7月29日月曜日
信州の秘湯:角間温泉と七味温泉(その2)
真田の郷を離れて、上田市街地にある上田城に向かう。真田氏歴史館ではゆっくりと過ごしたので、上田城址公園の駐車場に着いたのはやがて午後1時近く、本丸堀の橋を渡り、東虎口櫓門から城址に入る。真っ直ぐ行き真田神社に参拝し、横を抜け、真田井戸の脇を抜け、西櫓に達する。この櫓のみが当時から残っている本丸隅櫓、中へは入られない。ここで引き返し、本丸跡を逍遙し、再び東虎口櫓門に戻る。虎口とは城の出入り口のことで、この本丸には、かつては櫓門2基、隅櫓7基があったが、明治になり城は民間に売られ、その後篤志家により買い戻され、寄贈された経緯がある。その後南櫓と北櫓が移築復元され、城門も平成6年に復元されたとのこと。今回は南北両櫓と城門へ入ることが出来た.本丸隅櫓は寒冷地によく見られる、壁の下部が板張りの「下見板」になっている。また窓は突き上げ戸の「武者窓」、また射撃用の小窓「矢狭間・鉄砲狭間」も設けられている。
本丸跡を出て、二の丸跡に向かう。ここには上田市立博物館がある。ここには上田城の城主であった真田氏2代40年間、仙石氏3代85年間、松平氏7代166年間の資料が保存されている。この城がつとに有名になったのは、この城を築城して間もなくの天正13年に、武田家が滅亡して、徳川家康から城を明け渡すようにと言われノーと返事したことで家康が7千の兵で攻撃したのを撃退したこと、また慶長5年の関ヶ原の戦いの折、中山道を進んだ徳川秀忠軍3万8千人を釘付けにしたことによる。天守閣もないろくに石垣もない平城での奮戦、ほかに例がないといわれる。
城を出て、今宵の宿へは一般道で行くことにして、途中千曲市稲荷山にある「つる忠」でそばを食べることにする。電話すると今日は営業の由、ナビに従い国道18号線を北上し、千曲川を渡ってかの店へ、時間は閉店時間の午後3時少し前、滑り込んだという感じだった。客は3組、間もなく暖簾は中へ取り込まれた。家内は「ざるそば」、私は「鴨せいろ」とお酒を注文した。お酒は升にコップ、久しぶりだ。主の市川富士子さんは所用でおいでないとか、もう80歳は出ておいでるのではなかろうか。そばはまずまず、家内は龜屋のそばには及ばないという。でも探蕎会では訪れられなかっただけに,私は満足だった。
ここからも一般道経由で高山村へ、家内の運転で、須坂市を経由して松川渓谷へ、天気も良く快適だ。八滝や雷滝の駐車場や日帰り温泉の駐車場は混んでいる。やがて満山荘へ上がる道と分かれ、七味温泉へと松川まで下り、松川を渡るとそこに今宵の宿がある。この温泉にはホテル渓山荘のみと思っていたが、ほかに温泉旅館1軒、日帰り温泉が1軒あった。着いたのは午後4時頃、チェックインしていると、3年前にできた露天風呂「恵の湯」へぜひ入って下さいと言われる。宿からゆっくり歩いても5分ばかりとか、出かけることにする。部屋は2階の「飯綱」、この階の部屋は北信五岳、戸隠、黒姫、妙高、斑尾など。浴衣に着替えて「恵の湯」へ、近くの駐車場には沢山の車、ここは日帰り温泉施設でもあって、9:30〜17:30の営業とか。宿の親子2代で手作りで仕上げた自然石を配した実に大きな露天の岩風呂、男湯・女湯のほかに貸切りの湯もあるとかである。お湯は乳白色、肌触りがよい。資料によると、泉質は単純硫黄泉、源泉かけ流し、源泉の温度は62.5℃、湧出量は毎分383ℓとある。
食事は午後6時半、時間になって囲炉裏のある部屋へ案内された。長方形の大きな囲炉裏には5人はゆっくり吸われそうだ。串を打った岩魚が焼かれ、網にはエリンギや獅子唐辛子や万願寺唐黍が乗っている。囲炉裏の縁は幅広で沢山の料理が載せられる。先付けは蕨のお浸し、前菜は川海老の唐揚げや小鯛の手鞠寿司など5品、造りは馬刺し、煮物は冬瓜と蓮芋の餡掛け、酢の物は地の夏野菜のおろし酢和え、蒸し物は銀杏・百合根・三つ葉の豆乳蒸しにフカヒレ餡掛け。取り敢えずは食前酒の果実酒で乾杯する。家内はビール、私は渓流なる生酒をもらう。この酒は須坂の酒、探蕎会でも行って求めたことがあり、さらりとした飲み口の良い酒、4合も頂戴した。次いで天ぷら、茸2種、根曲がり竹、ベビーコーン、南瓜と植物ばかり、抹茶塩で頂く。食事も半ばに、岩魚の塩焼きが串付きで卓に、骨まで食べられますと言うが、大きいのでそうはゆかない。茸鍋に火が入る。こんなには食べられそうにない。後で信州牛のステーキが出ると言うから、少し腹に余裕を持たせないとと思いながら食べる。囲炉裏の野菜も焼き上がったが、腹に入りそうにない。そうこうするうちに件のステーキが来た。焼きはミディアムで良いのだが、小さく切ってあり、汁がかかっていて、口にするとグンナリした感じ、何とも頂けなかった。終盤になり、五穀米と吸物と香の物、そしてデザートのプリン、満腹になって食事を終えた。
翌朝5時に内湯へ行く。源泉かけ流し、露天の岩風呂も風情がある。ゆっくり浸る。包み込まれるような優しい湯である。上がってカウンターで志賀高原への道路状況を訊く。道路の拡張工事はされているが、通行は可能とのこと、今日は横手山へ行こう。家内に話すと、この前のように歩くのはお断りとのこと、合点した。朝食は8時、着替えて出かける。食事は個室、相変わらず多め、ご飯は軽く一膳だが、副食で満腹になる。家内は今日はハッスルしていて、山道とトンネルの多い高速道路以外は私が運転すると言う。彼女は私よりはるかに運転歴が長い。そうしよう。
宿を出立したのは午前9時20分、満山荘の前を通り、山田牧場を抜け、笠ヶ岳(2075m)を回り込むようにして道路は続く。途中交互通行があり、10分ばかり待機した。志賀草津道路の国道292号線に合するまで14km、対向車を心配したが、2台のみでうまく交わせた。平床大噴泉、熊の湯、硯川を経て「のぞき」に着いたのは午前10時10分、ここから横手山スカイレーターとスカイペアリフトを利用して横手山(2305m)へ、頂上の展望台からは西方向に、遠く北アルプス連峰とその手前に北信五岳、近くには通ってきた笠ヶ岳が見える。南に目を転ずると、晴れていれば遠くに富士山を望めるのだが、今日は生憎雲が湧いていて見えていない。私は一度だけ正月にスキーに来ていて見たことがあるが、見えると何故か心がときめく。付近を散策する。ハクサンチドリの赤紫、モミジカラマツの白、ミヤマキンポウゲの黄、アオモリトドマツの青紫の毬果が目を楽しませてくれる。凡そ1時間ばかり滞在して車へ戻る。ペアリフトに乗っているときに写された写真が売られていて求めた。これも思い出だ。
車で山を下り、道の駅「北信州やまのうち」で小憩する。ここからは家内の運転で中野ICから高速道に入り名立谷浜SAまで、次いで私が有磯海SAまで、そして再び自宅までは家内の運転、家には午後4時40分に着いた。走行キロ数は 982kmだった。
本丸跡を出て、二の丸跡に向かう。ここには上田市立博物館がある。ここには上田城の城主であった真田氏2代40年間、仙石氏3代85年間、松平氏7代166年間の資料が保存されている。この城がつとに有名になったのは、この城を築城して間もなくの天正13年に、武田家が滅亡して、徳川家康から城を明け渡すようにと言われノーと返事したことで家康が7千の兵で攻撃したのを撃退したこと、また慶長5年の関ヶ原の戦いの折、中山道を進んだ徳川秀忠軍3万8千人を釘付けにしたことによる。天守閣もないろくに石垣もない平城での奮戦、ほかに例がないといわれる。
城を出て、今宵の宿へは一般道で行くことにして、途中千曲市稲荷山にある「つる忠」でそばを食べることにする。電話すると今日は営業の由、ナビに従い国道18号線を北上し、千曲川を渡ってかの店へ、時間は閉店時間の午後3時少し前、滑り込んだという感じだった。客は3組、間もなく暖簾は中へ取り込まれた。家内は「ざるそば」、私は「鴨せいろ」とお酒を注文した。お酒は升にコップ、久しぶりだ。主の市川富士子さんは所用でおいでないとか、もう80歳は出ておいでるのではなかろうか。そばはまずまず、家内は龜屋のそばには及ばないという。でも探蕎会では訪れられなかっただけに,私は満足だった。
ここからも一般道経由で高山村へ、家内の運転で、須坂市を経由して松川渓谷へ、天気も良く快適だ。八滝や雷滝の駐車場や日帰り温泉の駐車場は混んでいる。やがて満山荘へ上がる道と分かれ、七味温泉へと松川まで下り、松川を渡るとそこに今宵の宿がある。この温泉にはホテル渓山荘のみと思っていたが、ほかに温泉旅館1軒、日帰り温泉が1軒あった。着いたのは午後4時頃、チェックインしていると、3年前にできた露天風呂「恵の湯」へぜひ入って下さいと言われる。宿からゆっくり歩いても5分ばかりとか、出かけることにする。部屋は2階の「飯綱」、この階の部屋は北信五岳、戸隠、黒姫、妙高、斑尾など。浴衣に着替えて「恵の湯」へ、近くの駐車場には沢山の車、ここは日帰り温泉施設でもあって、9:30〜17:30の営業とか。宿の親子2代で手作りで仕上げた自然石を配した実に大きな露天の岩風呂、男湯・女湯のほかに貸切りの湯もあるとかである。お湯は乳白色、肌触りがよい。資料によると、泉質は単純硫黄泉、源泉かけ流し、源泉の温度は62.5℃、湧出量は毎分383ℓとある。
食事は午後6時半、時間になって囲炉裏のある部屋へ案内された。長方形の大きな囲炉裏には5人はゆっくり吸われそうだ。串を打った岩魚が焼かれ、網にはエリンギや獅子唐辛子や万願寺唐黍が乗っている。囲炉裏の縁は幅広で沢山の料理が載せられる。先付けは蕨のお浸し、前菜は川海老の唐揚げや小鯛の手鞠寿司など5品、造りは馬刺し、煮物は冬瓜と蓮芋の餡掛け、酢の物は地の夏野菜のおろし酢和え、蒸し物は銀杏・百合根・三つ葉の豆乳蒸しにフカヒレ餡掛け。取り敢えずは食前酒の果実酒で乾杯する。家内はビール、私は渓流なる生酒をもらう。この酒は須坂の酒、探蕎会でも行って求めたことがあり、さらりとした飲み口の良い酒、4合も頂戴した。次いで天ぷら、茸2種、根曲がり竹、ベビーコーン、南瓜と植物ばかり、抹茶塩で頂く。食事も半ばに、岩魚の塩焼きが串付きで卓に、骨まで食べられますと言うが、大きいのでそうはゆかない。茸鍋に火が入る。こんなには食べられそうにない。後で信州牛のステーキが出ると言うから、少し腹に余裕を持たせないとと思いながら食べる。囲炉裏の野菜も焼き上がったが、腹に入りそうにない。そうこうするうちに件のステーキが来た。焼きはミディアムで良いのだが、小さく切ってあり、汁がかかっていて、口にするとグンナリした感じ、何とも頂けなかった。終盤になり、五穀米と吸物と香の物、そしてデザートのプリン、満腹になって食事を終えた。
翌朝5時に内湯へ行く。源泉かけ流し、露天の岩風呂も風情がある。ゆっくり浸る。包み込まれるような優しい湯である。上がってカウンターで志賀高原への道路状況を訊く。道路の拡張工事はされているが、通行は可能とのこと、今日は横手山へ行こう。家内に話すと、この前のように歩くのはお断りとのこと、合点した。朝食は8時、着替えて出かける。食事は個室、相変わらず多め、ご飯は軽く一膳だが、副食で満腹になる。家内は今日はハッスルしていて、山道とトンネルの多い高速道路以外は私が運転すると言う。彼女は私よりはるかに運転歴が長い。そうしよう。
宿を出立したのは午前9時20分、満山荘の前を通り、山田牧場を抜け、笠ヶ岳(2075m)を回り込むようにして道路は続く。途中交互通行があり、10分ばかり待機した。志賀草津道路の国道292号線に合するまで14km、対向車を心配したが、2台のみでうまく交わせた。平床大噴泉、熊の湯、硯川を経て「のぞき」に着いたのは午前10時10分、ここから横手山スカイレーターとスカイペアリフトを利用して横手山(2305m)へ、頂上の展望台からは西方向に、遠く北アルプス連峰とその手前に北信五岳、近くには通ってきた笠ヶ岳が見える。南に目を転ずると、晴れていれば遠くに富士山を望めるのだが、今日は生憎雲が湧いていて見えていない。私は一度だけ正月にスキーに来ていて見たことがあるが、見えると何故か心がときめく。付近を散策する。ハクサンチドリの赤紫、モミジカラマツの白、ミヤマキンポウゲの黄、アオモリトドマツの青紫の毬果が目を楽しませてくれる。凡そ1時間ばかり滞在して車へ戻る。ペアリフトに乗っているときに写された写真が売られていて求めた。これも思い出だ。
車で山を下り、道の駅「北信州やまのうち」で小憩する。ここからは家内の運転で中野ICから高速道に入り名立谷浜SAまで、次いで私が有磯海SAまで、そして再び自宅までは家内の運転、家には午後4時40分に着いた。走行キロ数は 982kmだった。
信州の秘湯:角間温泉と七味温泉(その1)
4月のとある日、家内から7月14日(日)と15日(海の日・7月の第3月曜日)の連休にもう1日年休をとって3日間、信州の温泉にでも行かないかと提案があった。私は毎日サンデーなので問題はなく、早速手配した。私が選んだ候補は、上田市の奥の真田地区角間渓谷にある角間温泉の岩屋館と、かたや高山村の松川渓谷にある七味温泉渓山亭である。2軒とも「日本秘湯を守る会」の会員宿で、申込みは3ヵ月前ということもあって、すんなり予約ができた。宿泊料金はいずれの宿も16〜24千円である。それで初日は角間温泉に、2日目は七味温泉に投宿することにした。
7月14日(日)朝、突然の客人があり、家を出たのは午前10時近くになった。森本ICで高速道に入り、有磯海、名立谷浜、妙高、坂城の各SAやPAで休憩しながら、上田菅平ICで高速道を下りた。時間は午後2時半近く、昼食に上田の刀屋でそばでもと思ったが、生憎と休み、宿のチェックインタイムは午後3時なので、そのまま宿へ向かうことに。国道144号線を北上し、真田交差点を右折し角間渓谷に入り、山道を6kmばかり進むと、真田家の隠し湯と言われる角間温泉岩屋館に着く。先着が1組、宿の前の駐車場には8台停められるスペースがある。周りは岩盤に囲まれた渓谷の猫の額ほどの土地に建つ一軒家、入り口は古ぼけた隠れ家風、でも奥には鉄筋の建物も見える。
案内されたのは、鉄筋の建物を通り抜け、斜面に沿って付けられた屋根のある階段を上って行き着いた最上部の帰鳥庵という離れ、案内してくれた女将によると、ここはこの宿では最もとびきりの部屋とか、玄関から部屋へ上がると、内装も調度も素晴らしいが古めかしい趣きの部屋、でもあまり使われていないような印象を受ける。離れは階段の途中にもう一つあり、渓勝庵という。案内では全体で18室あるとのことだ。
階段を更に10段ばかり上がると、暖簾の向こうに瀟洒な露天風呂がある。お湯は2槽あり、大きな石で組まれた透明で湯温がやや高い湯槽とやや小さく木枠で組まれた茶褐色で温めの湯槽とがある。泉質は前者がナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉、後者は含鉄・炭酸水素塩泉で、後者の源泉は透明なのだが、空気に触れると酸化されて鉄錆色になるとかで、前者よりは温度が低いとかだった。早速入りにいったが、すでに2組の夫婦が入浴していた。ここは原則として混浴だが、女性のみの入浴も1時間ずつ2回設けられている。ところで入浴できるのは日中のみ、夜間は覆いがかけられ、入浴はできない。周りは鬱蒼とした樹々に囲まれ、渓谷や岩峰が眺められる素晴らしいスポットになっている。
2組の夫婦は温い茶色の湯に入っているが、のぼせることもなく、長い間浸かっておいでである。一方私の方は温度が高く、10分も浸かっているとのぼせそうになる。それでそこそこに退散する。離れは鍵がかかったまま、家内は内湯からまだ上がって来ていないので、階段を下り、新館を抜け、本館のフロントまで行き、スペアキーをもらう。この頃にはお客はぞくぞく、案内は女将のみなので、てんてこ舞い。ビールの追加をお願いしたが、とうとう夕食まで届かなかった。漸く家内も戻って、2本しかないビールを分け合って飲む。私は仕方なく持参の神の河で喉を潤す。客への気配りが今一である。
夕食は本館1階の個室、座机にはもう既に八品が並べられている。お品書きは付いていないので、献立の詳細は記すことはできないが、中々豪華である。飲み物は家内はアサヒビール、私は地の冷酒「本泉菊」を貰う。先付け、前菜5品目、瓜の漬物、煮物、蒸し物、ジュンサイの酢の物、鮎の塩焼き、鯉の唐揚げに続いて、順に茄子の田楽、岩魚の造り、蓼科牛と菅平の野菜のすき焼き、海老と地元野菜の天ぷら、もり蕎麦、五穀米とお汁、デザートに甘柑と桃、中でも牛肉と岩魚は絶品だった。
満腹になり、部屋へ戻って寛ぐ。ここは山奥とかで、テレビはBSしか見られない。早々に就寝する。夜は寒く、足袋を履かねばならなかった。家内はいつも朝までに2回は小用に起きるのに、この日は朝までグッスリ、温泉の効能の素晴らしさに驚嘆した。朝5時に、私は内湯へ行く。まだ誰もいない。やはり湯槽は二つあって、茶色の湯は温く、透明な方は熱い。湯冷ましに外を散歩する。渓谷の右岸には豪壮な岸壁が連なっている。谷沿いに歩き、ぐるっと回って駐車場へ、都合8台の車は、東京、横浜、名古屋、大阪、石川からの車、地元の車はいなかった。
離れへ戻り、午前7時半の露天風呂の開湯時間を見計らって、すぐ上にある風呂へ行くと、何と8人ばかりの若い女の子が既に入っているではないか。いくら混浴可とはいっても、これには暖簾から顔を出しただけで、一旦離れへ戻った。食事は朝8時半、8時まで待ち、上へ行くと、まだ2人が入っていたが、入ることに。私が湯に入ろうとすると、彼女らは湯槽から上がった。すれ違ったときに元気な朝の挨拶、清々しかった。彼女らが浴衣を着てカメラを構えて、私の入浴シーンを写したいと、どうぞと言った。今朝の女の内湯からは岩場が間近に見えるので入られたらと話したが、後で入られたようだった。
翌15日朝の朝食は二階とか、皆さんも二階なので彼女たちに会えるのではと楽しみにしていたが、私たち離れの二組はダイニングルーム隣りの特別ルームだった。今朝も15品目、これはとても平らげられない。ご飯は軽く一杯、なます、紅白、きんぴら、海苔佃煮、長芋おろし、イクラ大根おろし和え、紅葉子、梅干し、紅鱒甘露煮、卵巻き、豆腐、サラダ、牛乳、果物ジュース、西瓜と林檎、そしてお汁。本当に満腹になった。
午前10時少し前に清算をして宿を後にする。今日の予定は真田の里を巡り、上田城と記念館を見てから七味温泉へ入ることに。始めに真田家の菩提寺でもある長谷寺へ。ここは真田幸村(信繁)の父の昌幸や祖父母の幸隆夫妻の墓がある。境内には沢山のシダレザクラが植わっていて、春の満開時にはさぞや見事だろうと思われる。お参りを済ませて、次に真田氏歴史館へ向かう。長谷寺からは遠くはないものの、一旦国道144号線まで出たので、大回りになった。駐車場には十数台の車、人気があるようだ。建物はそんなに大きくはないが、ここには真田三代の資料がぎっしりと詰まっている。中でも天正13年(1585)に豊臣秀吉が真田昌幸に宛てた書状や大阪夏の陣之屏風(複製)、NHK時代劇「真田太平記」で着用された真田親子の鎧・兜などはさすがに圧巻である。そしてこの日は休日、真田の赤い甲冑を着けた兄さんが、真田父子の二度にわたる上田城での攻防を、自製の絵巻物を使って講談風に語っていたが、中々堂に入っていて、つい終わりまで聞いてしまった。
7月14日(日)朝、突然の客人があり、家を出たのは午前10時近くになった。森本ICで高速道に入り、有磯海、名立谷浜、妙高、坂城の各SAやPAで休憩しながら、上田菅平ICで高速道を下りた。時間は午後2時半近く、昼食に上田の刀屋でそばでもと思ったが、生憎と休み、宿のチェックインタイムは午後3時なので、そのまま宿へ向かうことに。国道144号線を北上し、真田交差点を右折し角間渓谷に入り、山道を6kmばかり進むと、真田家の隠し湯と言われる角間温泉岩屋館に着く。先着が1組、宿の前の駐車場には8台停められるスペースがある。周りは岩盤に囲まれた渓谷の猫の額ほどの土地に建つ一軒家、入り口は古ぼけた隠れ家風、でも奥には鉄筋の建物も見える。
案内されたのは、鉄筋の建物を通り抜け、斜面に沿って付けられた屋根のある階段を上って行き着いた最上部の帰鳥庵という離れ、案内してくれた女将によると、ここはこの宿では最もとびきりの部屋とか、玄関から部屋へ上がると、内装も調度も素晴らしいが古めかしい趣きの部屋、でもあまり使われていないような印象を受ける。離れは階段の途中にもう一つあり、渓勝庵という。案内では全体で18室あるとのことだ。
階段を更に10段ばかり上がると、暖簾の向こうに瀟洒な露天風呂がある。お湯は2槽あり、大きな石で組まれた透明で湯温がやや高い湯槽とやや小さく木枠で組まれた茶褐色で温めの湯槽とがある。泉質は前者がナトリウムー塩化物・炭酸水素塩泉、後者は含鉄・炭酸水素塩泉で、後者の源泉は透明なのだが、空気に触れると酸化されて鉄錆色になるとかで、前者よりは温度が低いとかだった。早速入りにいったが、すでに2組の夫婦が入浴していた。ここは原則として混浴だが、女性のみの入浴も1時間ずつ2回設けられている。ところで入浴できるのは日中のみ、夜間は覆いがかけられ、入浴はできない。周りは鬱蒼とした樹々に囲まれ、渓谷や岩峰が眺められる素晴らしいスポットになっている。
2組の夫婦は温い茶色の湯に入っているが、のぼせることもなく、長い間浸かっておいでである。一方私の方は温度が高く、10分も浸かっているとのぼせそうになる。それでそこそこに退散する。離れは鍵がかかったまま、家内は内湯からまだ上がって来ていないので、階段を下り、新館を抜け、本館のフロントまで行き、スペアキーをもらう。この頃にはお客はぞくぞく、案内は女将のみなので、てんてこ舞い。ビールの追加をお願いしたが、とうとう夕食まで届かなかった。漸く家内も戻って、2本しかないビールを分け合って飲む。私は仕方なく持参の神の河で喉を潤す。客への気配りが今一である。
夕食は本館1階の個室、座机にはもう既に八品が並べられている。お品書きは付いていないので、献立の詳細は記すことはできないが、中々豪華である。飲み物は家内はアサヒビール、私は地の冷酒「本泉菊」を貰う。先付け、前菜5品目、瓜の漬物、煮物、蒸し物、ジュンサイの酢の物、鮎の塩焼き、鯉の唐揚げに続いて、順に茄子の田楽、岩魚の造り、蓼科牛と菅平の野菜のすき焼き、海老と地元野菜の天ぷら、もり蕎麦、五穀米とお汁、デザートに甘柑と桃、中でも牛肉と岩魚は絶品だった。
満腹になり、部屋へ戻って寛ぐ。ここは山奥とかで、テレビはBSしか見られない。早々に就寝する。夜は寒く、足袋を履かねばならなかった。家内はいつも朝までに2回は小用に起きるのに、この日は朝までグッスリ、温泉の効能の素晴らしさに驚嘆した。朝5時に、私は内湯へ行く。まだ誰もいない。やはり湯槽は二つあって、茶色の湯は温く、透明な方は熱い。湯冷ましに外を散歩する。渓谷の右岸には豪壮な岸壁が連なっている。谷沿いに歩き、ぐるっと回って駐車場へ、都合8台の車は、東京、横浜、名古屋、大阪、石川からの車、地元の車はいなかった。
離れへ戻り、午前7時半の露天風呂の開湯時間を見計らって、すぐ上にある風呂へ行くと、何と8人ばかりの若い女の子が既に入っているではないか。いくら混浴可とはいっても、これには暖簾から顔を出しただけで、一旦離れへ戻った。食事は朝8時半、8時まで待ち、上へ行くと、まだ2人が入っていたが、入ることに。私が湯に入ろうとすると、彼女らは湯槽から上がった。すれ違ったときに元気な朝の挨拶、清々しかった。彼女らが浴衣を着てカメラを構えて、私の入浴シーンを写したいと、どうぞと言った。今朝の女の内湯からは岩場が間近に見えるので入られたらと話したが、後で入られたようだった。
翌15日朝の朝食は二階とか、皆さんも二階なので彼女たちに会えるのではと楽しみにしていたが、私たち離れの二組はダイニングルーム隣りの特別ルームだった。今朝も15品目、これはとても平らげられない。ご飯は軽く一杯、なます、紅白、きんぴら、海苔佃煮、長芋おろし、イクラ大根おろし和え、紅葉子、梅干し、紅鱒甘露煮、卵巻き、豆腐、サラダ、牛乳、果物ジュース、西瓜と林檎、そしてお汁。本当に満腹になった。
午前10時少し前に清算をして宿を後にする。今日の予定は真田の里を巡り、上田城と記念館を見てから七味温泉へ入ることに。始めに真田家の菩提寺でもある長谷寺へ。ここは真田幸村(信繁)の父の昌幸や祖父母の幸隆夫妻の墓がある。境内には沢山のシダレザクラが植わっていて、春の満開時にはさぞや見事だろうと思われる。お参りを済ませて、次に真田氏歴史館へ向かう。長谷寺からは遠くはないものの、一旦国道144号線まで出たので、大回りになった。駐車場には十数台の車、人気があるようだ。建物はそんなに大きくはないが、ここには真田三代の資料がぎっしりと詰まっている。中でも天正13年(1585)に豊臣秀吉が真田昌幸に宛てた書状や大阪夏の陣之屏風(複製)、NHK時代劇「真田太平記」で着用された真田親子の鎧・兜などはさすがに圧巻である。そしてこの日は休日、真田の赤い甲冑を着けた兄さんが、真田父子の二度にわたる上田城での攻防を、自製の絵巻物を使って講談風に語っていたが、中々堂に入っていて、つい終わりまで聞いてしまった。
2013年7月19日金曜日
植物由来の紋所を探る(その2)
(承前)
● ささ 笹:イネ科の多年生植物で、一般に丈の低いタケ類をいう
〔1〕笹の葉や枝などを図案化したもので、種類が多い。
〔2〕丸に篠笹、三枚熊笹、五枚笹、六枚笹、九枚笹、雪待ち笹、仙台笹、上杉笹など。
● しだ 羊歯 歯朶:シダ植物の総称
〔1〕シダの葉を図案化したもので、少ない。〔2〕歯朶の丸など。
● しゅろ 棕櫚:ヤシ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕シュロの葉の開いた形を図案化したもので、少ない。〔2〕棕櫚など。
● すいせん 水仙:ヒガンバナ科の多年草
〔1〕水仙の花と葉を図案化したもの。〔2〕水仙の丸など。
● すぎ 杉:スギ科の常緑大高木
〔1〕杉の木をかたどったもの。〔2〕一本杉、丸に二本杉、三本杉、杉巴など。
● すすき 薄 芒:イネ科の多年草 秋の七草の一(おばな)
〔1〕ススキの穂と葉を図案化したもので、少ない。〔2〕薄に露、雪輪に薄など。
● すみれ 菫:スミレ科スミレ属の総称
〔1〕菫の花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕菫車など。
● せり 芹:セリ科の多年草 春の七草の一
〔1」芹の葉と根を図案化したもの。〔2〕三つ芹など。
● だいこん 大根:アブラナ科の越年草または一年草 春の七草の一(すずしろ)
〔1〕葉付き大根を図案化したもの。〔2〕違い大根、大根の丸など。
● たけ 竹:イネ科タケ亜科の総称
〔1〕竹を図案化したもの。〔2〕一本竹、竹丸紋、竹に雀など。
● たちばな 橘:ミカン科の常緑小高木
〔1〕橘の葉と実を組み合わせて描いたもの。〔2〕橘、葉敷き橘、彦根橘など。
● たんぽぽ 蒲公英:キク科タンポポ属の多年草の総称
〔1〕タンポポの花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕蒲公英など。
● ちゃ 茶:ツバキ科の常緑低木
〔1〕茶の実を図案化したもの。少ない。〔2〕茶の実、違い茶の実など。
● ちょうじ 丁子 丁字:フトモモ科の常緑高木
〔1〕丁子の実をかたどったもの。〔2〕丸に一つ丁子、六つ丁子など。
● つた 蔦:ブドウ科の落葉性の蔓植物
〔1〕蔦の葉をかたどったもの。〔2〕鬼蔦、中陰蔦、結び蔦など。
● つばき 椿:ツバキ科の常緑高木
〔1〕椿の花を図案化したもの。花がポトリと落ちるので数は少ない。〔2〕三つ椿など。
● でんじそう 田字草:デンジソウ科の多年生のシダ
〔1〕デンジソウの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕田字草など。
● なぎ 梛:マメ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕ナギの葉を図案化したもの。〔2〕一梛葉、二梛葉、違い梛葉など。
● なずな 薺:アブラナ科の越年草 春の七草の一
〔1〕ナズナの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕八つ薺など。
● なでしこ 撫子 矍麦:ナデシコ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕ナデシコの花を図案化したもの。〔2〕矍麦、石竹、三つ割り矍麦など。
● はぎ 萩:マメ科ハギ属の落葉低木の総称 秋の七草の一
〔1〕萩の花、葉、枝を図案化したもの。〔2〕萩の丸など。
● はす 蓮:スイレン科の水生の多年草
〔1〕蓮の花、葉、茎を図案化したもの。〔2〕丸に一つ蓮の花、立ち蓮の花など。
● ひいらぎ 柊:モクセイ科の常緑小高木
〔1〕柊の葉を図案化したもの。〔2〕丸に一つ柊、違い柊、抱き柊など。
● びわ 枇杷:バラ科の常緑高木
〔1〕枇杷の葉を図案化したもの。少ない。〔2〕三つ枇杷の葉など。
● ふじ 藤:マメ科の蔓性の落葉低木
〔1〕藤の花房や葉を図案化したもの。〔2〕上がり藤、下がり藤、九条藤など。
● ぶどう 葡萄:ブドウ科の蔓性の落葉低木
〔1〕葡萄の葉や実を図案化したもの。〔2〕葡萄、三つ葡萄の葉など。
● ぼたん 牡丹:ボタン科の落葉低木
〔1〕牡丹の花、葉、枝を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕大割り牡丹、乱れ牡丹、蟹牡丹、利休牡丹、薩摩(島津)牡丹、仙台(伊達)牡丹など。
● まつ 松:マツ科マツ属の常緑高木
〔1〕松の幹、枝、葉、松毬を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕櫛松、二蓋松、丸に三蓋松、四つ若松、永井(松葉)松毬、松葉菱など。
● みょうが 茗荷:ショウガ科の多年草
〔1〕茗荷の芽や花を図案化したもの。〔2〕丸に抱き茗荷、入れ違い茗荷など。
● もも 桃:バラ科の落葉小高木
〔1〕桃の実や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕丸に葉付き桃、糸輪に三つ桃など。
● やまぶき 山吹:バラ科の落葉低木
〔1〕山吹の花や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕山吹に水など。
● ゆうがお 夕顔:ウリ科の蔓性の一年草
〔1〕夕顔の花を図案化したもの。少ない。〔2〕夕顔の花、夕顔に月など。
● りんどう 竜胆:リンドウ科の多年草
〔1〕リンドウの花や葉を図案化したもの。〔2〕丸に竜胆、竜胆車、二つ竜胆など。
● わらび 蕨:イノモトソウ科のシダ
〔1〕ワラビの若芽を図案化したもの。〔2〕蕨、三本蕨、五つ蕨、子持ち蕨など。
● ささ 笹:イネ科の多年生植物で、一般に丈の低いタケ類をいう
〔1〕笹の葉や枝などを図案化したもので、種類が多い。
〔2〕丸に篠笹、三枚熊笹、五枚笹、六枚笹、九枚笹、雪待ち笹、仙台笹、上杉笹など。
● しだ 羊歯 歯朶:シダ植物の総称
〔1〕シダの葉を図案化したもので、少ない。〔2〕歯朶の丸など。
● しゅろ 棕櫚:ヤシ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕シュロの葉の開いた形を図案化したもので、少ない。〔2〕棕櫚など。
● すいせん 水仙:ヒガンバナ科の多年草
〔1〕水仙の花と葉を図案化したもの。〔2〕水仙の丸など。
● すぎ 杉:スギ科の常緑大高木
〔1〕杉の木をかたどったもの。〔2〕一本杉、丸に二本杉、三本杉、杉巴など。
● すすき 薄 芒:イネ科の多年草 秋の七草の一(おばな)
〔1〕ススキの穂と葉を図案化したもので、少ない。〔2〕薄に露、雪輪に薄など。
● すみれ 菫:スミレ科スミレ属の総称
〔1〕菫の花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕菫車など。
● せり 芹:セリ科の多年草 春の七草の一
〔1」芹の葉と根を図案化したもの。〔2〕三つ芹など。
● だいこん 大根:アブラナ科の越年草または一年草 春の七草の一(すずしろ)
〔1〕葉付き大根を図案化したもの。〔2〕違い大根、大根の丸など。
● たけ 竹:イネ科タケ亜科の総称
〔1〕竹を図案化したもの。〔2〕一本竹、竹丸紋、竹に雀など。
● たちばな 橘:ミカン科の常緑小高木
〔1〕橘の葉と実を組み合わせて描いたもの。〔2〕橘、葉敷き橘、彦根橘など。
● たんぽぽ 蒲公英:キク科タンポポ属の多年草の総称
〔1〕タンポポの花と葉を図案化したもの。少ない。〔2〕蒲公英など。
● ちゃ 茶:ツバキ科の常緑低木
〔1〕茶の実を図案化したもの。少ない。〔2〕茶の実、違い茶の実など。
● ちょうじ 丁子 丁字:フトモモ科の常緑高木
〔1〕丁子の実をかたどったもの。〔2〕丸に一つ丁子、六つ丁子など。
● つた 蔦:ブドウ科の落葉性の蔓植物
〔1〕蔦の葉をかたどったもの。〔2〕鬼蔦、中陰蔦、結び蔦など。
● つばき 椿:ツバキ科の常緑高木
〔1〕椿の花を図案化したもの。花がポトリと落ちるので数は少ない。〔2〕三つ椿など。
● でんじそう 田字草:デンジソウ科の多年生のシダ
〔1〕デンジソウの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕田字草など。
● なぎ 梛:マメ科の常緑高木 雌雄異株
〔1〕ナギの葉を図案化したもの。〔2〕一梛葉、二梛葉、違い梛葉など。
● なずな 薺:アブラナ科の越年草 春の七草の一
〔1〕ナズナの葉を図案化したもの。少ない。〔2〕八つ薺など。
● なでしこ 撫子 矍麦:ナデシコ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕ナデシコの花を図案化したもの。〔2〕矍麦、石竹、三つ割り矍麦など。
● はぎ 萩:マメ科ハギ属の落葉低木の総称 秋の七草の一
〔1〕萩の花、葉、枝を図案化したもの。〔2〕萩の丸など。
● はす 蓮:スイレン科の水生の多年草
〔1〕蓮の花、葉、茎を図案化したもの。〔2〕丸に一つ蓮の花、立ち蓮の花など。
● ひいらぎ 柊:モクセイ科の常緑小高木
〔1〕柊の葉を図案化したもの。〔2〕丸に一つ柊、違い柊、抱き柊など。
● びわ 枇杷:バラ科の常緑高木
〔1〕枇杷の葉を図案化したもの。少ない。〔2〕三つ枇杷の葉など。
● ふじ 藤:マメ科の蔓性の落葉低木
〔1〕藤の花房や葉を図案化したもの。〔2〕上がり藤、下がり藤、九条藤など。
● ぶどう 葡萄:ブドウ科の蔓性の落葉低木
〔1〕葡萄の葉や実を図案化したもの。〔2〕葡萄、三つ葡萄の葉など。
● ぼたん 牡丹:ボタン科の落葉低木
〔1〕牡丹の花、葉、枝を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕大割り牡丹、乱れ牡丹、蟹牡丹、利休牡丹、薩摩(島津)牡丹、仙台(伊達)牡丹など。
● まつ 松:マツ科マツ属の常緑高木
〔1〕松の幹、枝、葉、松毬を図案化したもの。種類が多い。
〔2〕櫛松、二蓋松、丸に三蓋松、四つ若松、永井(松葉)松毬、松葉菱など。
● みょうが 茗荷:ショウガ科の多年草
〔1〕茗荷の芽や花を図案化したもの。〔2〕丸に抱き茗荷、入れ違い茗荷など。
● もも 桃:バラ科の落葉小高木
〔1〕桃の実や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕丸に葉付き桃、糸輪に三つ桃など。
● やまぶき 山吹:バラ科の落葉低木
〔1〕山吹の花や葉を図案化したもの。少ない。〔2〕山吹に水など。
● ゆうがお 夕顔:ウリ科の蔓性の一年草
〔1〕夕顔の花を図案化したもの。少ない。〔2〕夕顔の花、夕顔に月など。
● りんどう 竜胆:リンドウ科の多年草
〔1〕リンドウの花や葉を図案化したもの。〔2〕丸に竜胆、竜胆車、二つ竜胆など。
● わらび 蕨:イノモトソウ科のシダ
〔1〕ワラビの若芽を図案化したもの。〔2〕蕨、三本蕨、五つ蕨、子持ち蕨など。
2013年7月18日木曜日
植物由来の紋所を探る(その1)
「巨樹いしかわ」の15周年記念誌に、田中さんご夫妻が「植物紋様雑記」というA4で28頁という長文を寄せられていて、植物と紋様の関わりについて記述されている。その当時田中さんご夫妻は石川巨樹の会の事務局を担当されていて、この役目は旦那さんが亡くなるまで20年間続いた。その後は奥さんも事務局を辞退され、それ以降は、それまで蒐集された膨大な、主として紋様に関わる諸々の事柄の集大成に時間を費やされ、「不思議を訪ねる」というA4で300頁を越す本にまとめられ、自費出版された。その副題には「無用の用・用の用を楽しむ」とあり、これはこれまでご夫妻が興味を持った事象についての備忘録のまとめでもある。ここには、植物、動物、架空動物、鳥、魚、昆虫、紋様、民具・その他の8ジャンルにわたり、256項目について、名称のいわれ、説明、民族文化・伝承・風習・行事との関わり、故事来歴や縁起、紋様との関わり、用途等々、それも古今東西にわたって記されていて、それを読むと、さながら大事な玉手箱から、何が入っているのかと、興味津々な気持ちで、一つ一つ取り出すような感じがあって、実に楽しい。
私はこの中で最も項目数も多く、身近に興味を持てた植物の紋所について、田中さんの本を参考にしながら、小学館の松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある植物を抽出し、その植物の和名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を列記してみた。植物名は50音順とした。
● あおい 葵:アオイ科アオイ属・フヨウ属に含まれる植物の総称
〔1〕フタバアオイ(カモアオイ)を図案化したもので、種類が多い。〔2〕葵巴(葵三枚を巴形にかた どったもので、徳川氏の紋.三つ葉葵、徳川葵)、本田立ち葵など。
● あさ 麻:クワ科の一年草 雌雄異株
〔1〕麻の葉を図案化したもの。〔2〕麻の葉など。
● あさがお 朝顔:ヒルガオ科の蔓性の一年草
〔1〕朝顔の花を図案化したもので、数は少ない。〔2〕朝顔の花など。
● あし 葦 蘆:イネ科の多年草
〔1〕細い葦の葉を図案化したもの。〔2〕二つ葦の葉、違い葦の葉など。
● いちょう 銀杏 公孫樹:イチョウ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕銀杏の葉を図案化したもので、多くの種類がある。
〔2〕丸に立ち銀杏、一つ巴銀杏、三つ銀杏、剣銀杏、五つ銀杏、六つ銀杏など。
● いね 稲:イネ科の一年草
〔1〕稲穂を図案化したもので、数は少ない。〔2〕丸に一本稲、二つ稲、違い稲など。
● うめ 梅:バラ科の落葉高木
〔1〕一重の梅の花を正面や裏から見たものを図案化した「梅花紋」と幾何学構成で花弁が必ず円形の 「梅鉢紋」とがある。
〔2〕梅花紋:梅の花、捻梅、裏梅、横見梅、八重梅、三つ割向こう梅など。
梅鉢紋:剣梅鉢、星梅鉢、加賀梅鉢など。
● うり 瓜:ウリ科の植物のうち、実を食用にするものの総称
〔1〕瓜の花と実を図案化したもの。〔2〕瓜の花、捻り瓜、陰の瓜など。
● おおばこ 車前草 大葉子:オオバコ科の多年草
〔1〕全草を図案化したもの。〔2〕抱き車前草など。
● おもだか 沢潟 面高:オモダカ科の多年草
〔1〕オモダカの葉と花を組み合わせて紋様化したもの。
〔2〕立て沢潟、丸に沢潟、子持ち抱き沢潟、沢潟に水など。
● かえで 楓:カエデ科カエデ属の落葉高木の総称
〔1〕楓の葉を図案化したもの。〔2〕中輪に楓、糸輪に三つ楓など。
● かきつばた 杜若 燕子花:アヤメ科の多年草
〔1〕カキツバタの葉と花を図案化したもの。〔2〕立ち杜若、石山(三花)杜若など。
● かじのき 梶:クワ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕梶の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕立ち梶の葉、諏訪梶の葉など。
● かしわ 柏 槲:ブナ科の落葉高木
〔1〕柏の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕三つ柏、抱き柏、結び柏など。
● かたばみ 酢漿草:カタバミ科の多年草
〔1〕カタバミの葉を図案化したもの。〔2〕酢漿草、剣酢漿草、石持ち酢漿草など。
● かぶ 蕪:アブラナ科の越年草 春の七草の一(すずな)
〔1〕葉付き蕪を図案化したもの。〔2〕抱き蕪など。
● ききょう 桔梗:キキョウ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕桔梗の花をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕丸に桔梗、抱き桔梗、蔓桔梗、三つ割り桔梗、八重桔梗、土岐桔梗、光琳桔梗、剣桔梗など。
● きく 菊:キク科キク属の総称
〔1〕菊の花や葉などを図案化したもの。皇室の十六葉八重表菊のほか種類が多い。
〔2〕十六葉裏菊、十四葉一重表菊、丸に八葉菊、三つ割り菊など。
● きり 桐:ゴマノハグサ科の落葉高木
〔1〕桐の花と葉をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕五七の桐、太閤桐、五三の桐、花桐など。
● くず 葛:マメ科の蔓性の多年草 秋の七草の一
〔1〕葛の花や葉を図案化したもの。〔2〕三つ葛葉、葛花、横見葛花、葛花車など。
● くり 栗:ブナ科の落葉高木
〔1〕栗の実と葉を図案化したもの。〔2〕栗など。
● こうほね 河骨 川骨:スイレン科の多年草
〔1〕河骨の葉を図案化したもの。〔2〕三つ河骨など。
● さくら 桜:バラ科サクラ属の落葉高木
〔1〕桜の花を図案化したもの。〔2〕八重桜、一重桜、山桜など。
私はこの中で最も項目数も多く、身近に興味を持てた植物の紋所について、田中さんの本を参考にしながら、小学館の松村朗監修の「大辞泉」から紋所の名と記載のある植物を抽出し、その植物の和名と簡単な説明、〔1〕紋所の由来、〔2〕代表的な紋所の名称 を列記してみた。植物名は50音順とした。
● あおい 葵:アオイ科アオイ属・フヨウ属に含まれる植物の総称
〔1〕フタバアオイ(カモアオイ)を図案化したもので、種類が多い。〔2〕葵巴(葵三枚を巴形にかた どったもので、徳川氏の紋.三つ葉葵、徳川葵)、本田立ち葵など。
● あさ 麻:クワ科の一年草 雌雄異株
〔1〕麻の葉を図案化したもの。〔2〕麻の葉など。
● あさがお 朝顔:ヒルガオ科の蔓性の一年草
〔1〕朝顔の花を図案化したもので、数は少ない。〔2〕朝顔の花など。
● あし 葦 蘆:イネ科の多年草
〔1〕細い葦の葉を図案化したもの。〔2〕二つ葦の葉、違い葦の葉など。
● いちょう 銀杏 公孫樹:イチョウ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕銀杏の葉を図案化したもので、多くの種類がある。
〔2〕丸に立ち銀杏、一つ巴銀杏、三つ銀杏、剣銀杏、五つ銀杏、六つ銀杏など。
● いね 稲:イネ科の一年草
〔1〕稲穂を図案化したもので、数は少ない。〔2〕丸に一本稲、二つ稲、違い稲など。
● うめ 梅:バラ科の落葉高木
〔1〕一重の梅の花を正面や裏から見たものを図案化した「梅花紋」と幾何学構成で花弁が必ず円形の 「梅鉢紋」とがある。
〔2〕梅花紋:梅の花、捻梅、裏梅、横見梅、八重梅、三つ割向こう梅など。
梅鉢紋:剣梅鉢、星梅鉢、加賀梅鉢など。
● うり 瓜:ウリ科の植物のうち、実を食用にするものの総称
〔1〕瓜の花と実を図案化したもの。〔2〕瓜の花、捻り瓜、陰の瓜など。
● おおばこ 車前草 大葉子:オオバコ科の多年草
〔1〕全草を図案化したもの。〔2〕抱き車前草など。
● おもだか 沢潟 面高:オモダカ科の多年草
〔1〕オモダカの葉と花を組み合わせて紋様化したもの。
〔2〕立て沢潟、丸に沢潟、子持ち抱き沢潟、沢潟に水など。
● かえで 楓:カエデ科カエデ属の落葉高木の総称
〔1〕楓の葉を図案化したもの。〔2〕中輪に楓、糸輪に三つ楓など。
● かきつばた 杜若 燕子花:アヤメ科の多年草
〔1〕カキツバタの葉と花を図案化したもの。〔2〕立ち杜若、石山(三花)杜若など。
● かじのき 梶:クワ科の落葉高木 雌雄異株
〔1〕梶の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕立ち梶の葉、諏訪梶の葉など。
● かしわ 柏 槲:ブナ科の落葉高木
〔1〕柏の葉をかたどったもので、種類が多い。〔2〕三つ柏、抱き柏、結び柏など。
● かたばみ 酢漿草:カタバミ科の多年草
〔1〕カタバミの葉を図案化したもの。〔2〕酢漿草、剣酢漿草、石持ち酢漿草など。
● かぶ 蕪:アブラナ科の越年草 春の七草の一(すずな)
〔1〕葉付き蕪を図案化したもの。〔2〕抱き蕪など。
● ききょう 桔梗:キキョウ科の多年草 秋の七草の一
〔1〕桔梗の花をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕丸に桔梗、抱き桔梗、蔓桔梗、三つ割り桔梗、八重桔梗、土岐桔梗、光琳桔梗、剣桔梗など。
● きく 菊:キク科キク属の総称
〔1〕菊の花や葉などを図案化したもの。皇室の十六葉八重表菊のほか種類が多い。
〔2〕十六葉裏菊、十四葉一重表菊、丸に八葉菊、三つ割り菊など。
● きり 桐:ゴマノハグサ科の落葉高木
〔1〕桐の花と葉をかたどったもので、種類が多い。
〔2〕五七の桐、太閤桐、五三の桐、花桐など。
● くず 葛:マメ科の蔓性の多年草 秋の七草の一
〔1〕葛の花や葉を図案化したもの。〔2〕三つ葛葉、葛花、横見葛花、葛花車など。
● くり 栗:ブナ科の落葉高木
〔1〕栗の実と葉を図案化したもの。〔2〕栗など。
● こうほね 河骨 川骨:スイレン科の多年草
〔1〕河骨の葉を図案化したもの。〔2〕三つ河骨など。
● さくら 桜:バラ科サクラ属の落葉高木
〔1〕桜の花を図案化したもの。〔2〕八重桜、一重桜、山桜など。
2013年7月2日火曜日
アニメ映画「王舎城の悲劇」
6月半ばのある日、表題の上映会が野々市市役所の一室であるというチラシが舞い込んでいた。私の家は旧宅と新宅があるが、その両方に舞い込んでいたから、配付した人はそのことには疎い人だったに違いない。ところで上映されるのは6月27日の木曜日の午後1時半から3時半まで、何となく興味がひかれ、出かけることにした。副題には「現代と変わらぬ『家庭悲劇』をハッピーエンドに転回させたお釈迦さまの物語」とあった。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
2013年6月22日土曜日
改装なった川金・鮎の庄へ香魚を求めて
昨年10月8日に子持ち鮎を食べに川金・鮎の庄へ行った折、改築のため11月1日から翌年4月まで休業するとのことだった。改築前の席数は50ばかり、営業は午前11時からなのだが、土日は11時に行ったのでは既に満席で、最初にありつこうとすれば、10時には着いて事前登録しなければならなかった。土日祝日以外の平日ならば予約はできるが、これまで平日に出向いたことはない。庄川畔には今も数軒の鮎を食べさせる店があるが、この店ほど混み合っている店は他にはない。古くは石川県知事だった中西陽一さんが、よく車を飛ばして食べに行かれたことでも知られている。
今年になって、そろそろ鮎も解禁(犀川は6月15日、庄川は6月22日)になるのにどうなっているのかなと思っていたところ、地元紙に6月1日に新装開店とあった。家内が6月12日(水)に休みがとれるとのことで、早速予約した。当日は天気もよく、家を9時に出て、額菩提樹苑にある三男の墓へ寄った後、山側環状道路、森本IC、北陸高速道、砺波ICを経て、富山県砺波市上中野の庄川畔にある川金・鮎の庄に向かった。10時半に着いた。11時からなので、川金のロビーで暫く寛いだ。改築された鮎の庄は改築前の倍くらいの大きさの平屋建て、以前と比べモダンな感じになった。時間になって促されて鮎の庄に向かう。以前は旅館に垂直に建物が延びていたが、新しい建物は平行になっている。
案内されたのは窓側の6人テーブル、テーブルの真ん中に角形の灰床、以前のは囲炉裏部分が大きくて、皿を置くスペースが狭かったが、新しいのはテーブルも広く、椅子にも余裕がありゆったりしている。以前に比べて角形の灰床の面積は小さいが、でも6人が10本ずつ食べても、十分串を並べるスペースがあり、合理的な設計になっている。とにかくゆったりなのが良い。6人での相席でも十分余裕がある。前は10人席でも10人だと窮屈だったし、小上がりの6人卓も狭かった。職員の服装も、和装から洋装になった。
注文は、取りあえず、鮎の塩焼き10本、鮎の造り1皿、うるか三種盛り1皿、飲み物は銀嶺立山の300mlとノンアルコールビールを1本お願いした。つまみには「ちょろぎ」が出た。〔注:チョロギというのは、中国原産のシソ科の多年草で、栽培されている。秋には淡紅色の唇形の花を穂状につける。この植物の根の先端には、連珠状の白い塊茎が付くので、これを掘り取り、梅酢で赤く染めて食用に供する。地方によっては、正月料理には黒豆との取り合わせにかかせないという〕。
さて鮎だが、川金のパンフレットには次のように書かれている。「庄川で育まれた鮎は、天下一との誉れをいただいており、遠方からも多くのみなさまがお越しになります。釣りたてを炭火で焼き上げた味を、川金「鮎の庄」でご堪能ください」と。しかし私たちが寄ったのは6月12日、解禁は22日であるからして、鮎は天然ではなく養殖である。これは解禁後も同じで、鮎の庄では天然の鮎が出ることはなく、もし天然の鮎を食べたいのならば、川金で鮎料理を食べねばならない。改築後は見られなくなったが、以前は生け簀に沢山の鮎をストックしていて、しょっちゅう補給されていた。そして一度に何十尾もタモですくい、目にも止まらない速さで串に刺していた。今はそれが見られなくなった。ただ入り口近くで鮎を焼いていて、強火の遠火で円形に串を立て、焼いているのを見ることができる。1カ所でざっと30尾、これが3カ所あり、圧巻である。
程なくして鮎の塩焼きが来た。大きさは15〜17cm位、養殖なので月を経てもそんなに大きくはならないが、もう少しは大きくなろうか。でも、小さくとも焼きたてを蓼酢で頂くのは至福の時である。もう一尾二口である。鮎の造りの鮎は塩焼きのよりは大きい。洗いにしてはなく、下ろしたまま、清々しい味がした。鮎のうるかは私の大好物、でも近頃は家内も味をしめて、三種盛りでも特に「子うるか」を独り占めにしてしまう。ただ「黒うるか」や「わたうるか」には手を出さないから救われる。ちなみに「うるか」というのは、鮎のはらわたや卵を塩漬けにした塩辛で、酒の肴としては中々珍味である。
その後さらにもう10本所望、そして野菜の天ぷらと漬物盛り合わせ、それに飲み物、最後に家内はざるうどんを頼んでいた。これで十分に堪能した。でも見てると、大部分のお客さんは「鮎の膳」を注文のようで、後で清算したときに、20本も食べられたのですかとあきられたというから、私たちの方が変わっていたのかも知れない。でも満足した。
以下に余分だが、新装なった「鮎の庄」を若干紹介しておく。
● 営業の案内
旬彩いろり茶屋「鮎の庄」 〒939-1323 富山県砺波市上中野70 川金 庭園内
電話 フリーダイヤル 0120-01-0257 代表 0763-82-0257
営業時間 昼の部 11:00〜14:30 夜の部 17:00〜20:00
定休日 4月〜10月は無休 11月〜3月は火曜日が定休日
予 約 平日の昼・夜ともに可 土・日・祝日は夜のみ可 個室4室あり予約可
● 鮎御膳 2,000~3,000円 鮎料理 500-900円 鮎の塩焼き 380-650円 鮎の造り 800-1,000円
● 一品料理 500-700円 珍味うるか 100-600円 鮎雑炊 800円 麺類 750-800円 甘味物 300-700円
● 日本酒(4合)2,000-7,800円 ビール ノンアルコールビール ワイン 焼酎 チューハイ ほか
今年になって、そろそろ鮎も解禁(犀川は6月15日、庄川は6月22日)になるのにどうなっているのかなと思っていたところ、地元紙に6月1日に新装開店とあった。家内が6月12日(水)に休みがとれるとのことで、早速予約した。当日は天気もよく、家を9時に出て、額菩提樹苑にある三男の墓へ寄った後、山側環状道路、森本IC、北陸高速道、砺波ICを経て、富山県砺波市上中野の庄川畔にある川金・鮎の庄に向かった。10時半に着いた。11時からなので、川金のロビーで暫く寛いだ。改築された鮎の庄は改築前の倍くらいの大きさの平屋建て、以前と比べモダンな感じになった。時間になって促されて鮎の庄に向かう。以前は旅館に垂直に建物が延びていたが、新しい建物は平行になっている。
案内されたのは窓側の6人テーブル、テーブルの真ん中に角形の灰床、以前のは囲炉裏部分が大きくて、皿を置くスペースが狭かったが、新しいのはテーブルも広く、椅子にも余裕がありゆったりしている。以前に比べて角形の灰床の面積は小さいが、でも6人が10本ずつ食べても、十分串を並べるスペースがあり、合理的な設計になっている。とにかくゆったりなのが良い。6人での相席でも十分余裕がある。前は10人席でも10人だと窮屈だったし、小上がりの6人卓も狭かった。職員の服装も、和装から洋装になった。
注文は、取りあえず、鮎の塩焼き10本、鮎の造り1皿、うるか三種盛り1皿、飲み物は銀嶺立山の300mlとノンアルコールビールを1本お願いした。つまみには「ちょろぎ」が出た。〔注:チョロギというのは、中国原産のシソ科の多年草で、栽培されている。秋には淡紅色の唇形の花を穂状につける。この植物の根の先端には、連珠状の白い塊茎が付くので、これを掘り取り、梅酢で赤く染めて食用に供する。地方によっては、正月料理には黒豆との取り合わせにかかせないという〕。
さて鮎だが、川金のパンフレットには次のように書かれている。「庄川で育まれた鮎は、天下一との誉れをいただいており、遠方からも多くのみなさまがお越しになります。釣りたてを炭火で焼き上げた味を、川金「鮎の庄」でご堪能ください」と。しかし私たちが寄ったのは6月12日、解禁は22日であるからして、鮎は天然ではなく養殖である。これは解禁後も同じで、鮎の庄では天然の鮎が出ることはなく、もし天然の鮎を食べたいのならば、川金で鮎料理を食べねばならない。改築後は見られなくなったが、以前は生け簀に沢山の鮎をストックしていて、しょっちゅう補給されていた。そして一度に何十尾もタモですくい、目にも止まらない速さで串に刺していた。今はそれが見られなくなった。ただ入り口近くで鮎を焼いていて、強火の遠火で円形に串を立て、焼いているのを見ることができる。1カ所でざっと30尾、これが3カ所あり、圧巻である。
程なくして鮎の塩焼きが来た。大きさは15〜17cm位、養殖なので月を経てもそんなに大きくはならないが、もう少しは大きくなろうか。でも、小さくとも焼きたてを蓼酢で頂くのは至福の時である。もう一尾二口である。鮎の造りの鮎は塩焼きのよりは大きい。洗いにしてはなく、下ろしたまま、清々しい味がした。鮎のうるかは私の大好物、でも近頃は家内も味をしめて、三種盛りでも特に「子うるか」を独り占めにしてしまう。ただ「黒うるか」や「わたうるか」には手を出さないから救われる。ちなみに「うるか」というのは、鮎のはらわたや卵を塩漬けにした塩辛で、酒の肴としては中々珍味である。
その後さらにもう10本所望、そして野菜の天ぷらと漬物盛り合わせ、それに飲み物、最後に家内はざるうどんを頼んでいた。これで十分に堪能した。でも見てると、大部分のお客さんは「鮎の膳」を注文のようで、後で清算したときに、20本も食べられたのですかとあきられたというから、私たちの方が変わっていたのかも知れない。でも満足した。
以下に余分だが、新装なった「鮎の庄」を若干紹介しておく。
● 営業の案内
旬彩いろり茶屋「鮎の庄」 〒939-1323 富山県砺波市上中野70 川金 庭園内
電話 フリーダイヤル 0120-01-0257 代表 0763-82-0257
営業時間 昼の部 11:00〜14:30 夜の部 17:00〜20:00
定休日 4月〜10月は無休 11月〜3月は火曜日が定休日
予 約 平日の昼・夜ともに可 土・日・祝日は夜のみ可 個室4室あり予約可
● 鮎御膳 2,000~3,000円 鮎料理 500-900円 鮎の塩焼き 380-650円 鮎の造り 800-1,000円
● 一品料理 500-700円 珍味うるか 100-600円 鮎雑炊 800円 麺類 750-800円 甘味物 300-700円
● 日本酒(4合)2,000-7,800円 ビール ノンアルコールビール ワイン 焼酎 チューハイ ほか
2013年6月17日月曜日
会員そば打ちの集いで出されたサプリメント
今では恒例となっている探蕎会の湯涌みどりの里でのそば打ちの集いは、平成15年に始まったのだから、もう数えて11回目になる。それまでは毎回場所を転々としていたから、世話は先ず場所選びから、世話する方々は大変だったろうと思う。それが現在の場所に定着したのは、世話人の塚野さんの尽力に負うところが多い。それに一昨年からはクイズまがいで、生粉打ち、九一、二八で打たれた「そば」を当てるという趣向も加わった。また当日のおしながきを見ると、そば以外に「つきだし」や「でざーと」と称して、会員の方々が腕を振るった品々が提供され、それが格好のお酒の友やお土産となっている。ところでこの趣向の傾向も年々内容が充実、いやエスカレートしているのではと思われ、これは素晴らしいことである。これが会員一人一品とまで義務化されると大変だが、そうでなくて任意でボランティア的であるのが素晴らしい。それにしても今年は昨年よりも品数が多くなったように感じた。それで厚かましくも遠慮しないで、一部の品を除いてはしっかり食し、堪能させて頂いた。以下に今年の会で出されたサプリメントについて、感謝をこめて列記してみたい。順不同である。
一、つきだし類
1.新田さん提供の品々
● 「かたはのお浸し」:「かたは」というのはご当地名で、和名はウワバミソウ、イラクサ科の植物である。やや湿気た山地に群生していて、茎は瑞々しい。東北では「みず」といい、茎が赤みがかっているものを「あかみず」、そうでないものを「あおみず」と呼んでいる。我が家の庭にも群生してはいるが、丈も低くこわそうで、食したことはない。本品のお浸しの作り方は不明だが、榎茸も入っていて、生姜と茗荷のトッピングで、仄かなうまみがお酒の友にはぴったりだった。
● 「ワラビの煮浸し」:言わずと知れた「わらび」、和名もワラビで、古くはウラボシ科だったが、現在はコバノイシカグマ科に分類されている。春に未だ丸まって開いていない拳状の若葉のついた葉柄を湯がいて食する。匍匐茎があるので、何度か収穫できる。この品は醤油に浸したものとか。色は黒紫色、姿はというと精悍な風貌、程よい歯触り、素人ではこうは作れまい。逸品だった。
● 「ゼンマイの煮物」:ゼンマイはゼンマイ科の多年生の羊歯で、春の山菜の代表でもある。春先、先ず胞子葉が、次いで栄養葉が出る。どちらも芽生えは綿毛で被われ、ゼンマイ状に巻いている。食用にするのは後者で、生食することはなく、一旦乾燥して揉んで保存できるようにしたものを煮たりして食する。出された「ぜんまい」は能登産とか、油揚げと竹輪、それと茸?とが入った煮物、おふくろの味というべきか。私の家の庭にも数十株のゼンマイが葉誇りしているが、ついぞ食べたことはない。
● 「コールラビの塩麹漬け、酢麹漬け」:コールラビとは何か。出品の新田さんに訊くと「のと野菜」だとのこと。後日、南栃市福光の道の駅で、この品の表示を見たが、残念ながらその品は売り切れていた。ただ説明の表示があり、それを書き写した。「コールラビとはドイツ語でキャベツカブという意味で、キャベツに似たやさしい甘味があります。茹でてサラダにしたり、スープや味噌汁などの汁物、煮込みなどにも合います」とあった。現物は見ていないが、アブラナ科の植物であることは間違いない。一見小蕪のようで、調理には皮を剥いてとある。出た品もそうして輪切りにしたものを漬け込んだもの、初めて口にしたが、新来の味だった。
● 「モミジガサの白和え」:モミジガサは山地の林下に生えるキク科の多年草である。食用にするのはその若芽で、キク科の植物の大半は若芽であれば食することができる。最も安直なのは天ぷらである。でもこの品はモミジガサを湯がいて、よく摺った白味噌と白胡麻とで和えてあった。見た目には、濃い緑と白のコントラストが素晴らしかった。
出品された新田さんは岩手県遠野市の出身、何と言ったって東北は山菜の宝庫、しかもスナック遠野を経営されていて、料理の腕前も一流、毎回素晴らしい一品を提供して下さっている。
2.早川さん提供の品
● 「山椒の未熟実の入った縮緬雑魚」:縮緬雑魚はカタクチイワシなど、鰯の雑魚を煮干しにしたもので、しらす干しともいう。これに薄味を付け、灰汁抜きした山椒の緑色未熟実を混ぜてある。市販の山椒粉は、赤く熟した実の黒い種子を粉末にしたもの、未熟な実の方がミカン科特有の芳香を出す。昨年は実の数が多くて舌が麻痺する程だったが、今年は少なかった。因みにこのサンショウは雌雄異株、先生宅のは雌株で、小生の庭のは雄株の老木、でも庭のあちこちに幼木が育っているのはどうしてなのだろう。
3.松田さん姉上提供の品
● 「花豆の煮豆」:花豆とは、マメ科インゲン属のベニバナインゲンの成熟した種子のことで、大型の豆、大福豆や虎豆と共に高級煮豆の材料になるという。これら大型の豆類を上手に煮るのは難しく、その炊き方にはコツが要るという。提供された煮豆は煮崩れもなくて上等な出来だった。でも何故か私は口にしていない。
4.久保さん提供の品
● 「沢庵と大根の浅漬け」:沢庵も自家製なのだと思う。私の家でも母が存命中は家で沢庵を仕込んでいたが、今は大根の浅漬けでさえ漬け込むことは少ない。どちらもお酒の格好の友と言える。
5.池端さん提供の品
● 「帆立の貝柱の干物」:小粒なのがよく、じっくりお酒を頂く時には格好のつまみになる。
二、でざーと
1.久保さん提供の品
● 「そば掻きぜんざい」:小豆(あずき)の中では最も粒が大きい大納言小豆、それも毎年こだわって福井県大野市から引かれるとか。久保さんは探蕎の折りには、もしぜんざいがあれば必ずといっていいほど所望される善哉通である。この作品は奥様の作であろうが、作り方にも甘味にもきっとこだわりをもっておいでだと思う。事務局長の前田さんが終了までに間に合い、このそば掻きぜんざいを食されたと「日めくり日記」に記されていたが、絶賛されていた。私はこれを見て、ぜんざいはともかく、粗挽きの蕎麦掻きは食べたかったと思ったものだ。
2.石野さん提供の品
● 「そばクッキー」:石野さんは今回は欠席だった。いつもは「シフォンケーキ」を提供されるのだが、今回はお休み。代わりに「そばクッキー」が配られた。すでにパッケージされていて、乾燥剤も入れられていた。私は家に持って帰り、翌日にウィスキーの水割りと共に頂いたが、最高だった。甘味が程よく調和され、格好の摘まみとなった。
3.松田さん提供の品
● 「水無月(蕎麦粉入り)」:裏千家の宗匠さんである松田さんお手製のお菓子、これは6月に頂く定番の和菓子とか、知らなかった。横から見ると、下の方5分の4ばかりが白っぽい生地で、ここに蕎麦粉が入っているようだ。その上に甘く煮た小豆が乗っかっている。白い部分は氷室の氷を表し、小豆は悪魔祓いを意味するという。またこのお菓子は三角の形状をしているが、これも魔除けを意味し、このお菓子を頂くと、その年の後半の厄払いと夏の健康祈願となるという。有難く頂いた。それにしてもよくぞ作られたものだ。
一、つきだし類
1.新田さん提供の品々
● 「かたはのお浸し」:「かたは」というのはご当地名で、和名はウワバミソウ、イラクサ科の植物である。やや湿気た山地に群生していて、茎は瑞々しい。東北では「みず」といい、茎が赤みがかっているものを「あかみず」、そうでないものを「あおみず」と呼んでいる。我が家の庭にも群生してはいるが、丈も低くこわそうで、食したことはない。本品のお浸しの作り方は不明だが、榎茸も入っていて、生姜と茗荷のトッピングで、仄かなうまみがお酒の友にはぴったりだった。
● 「ワラビの煮浸し」:言わずと知れた「わらび」、和名もワラビで、古くはウラボシ科だったが、現在はコバノイシカグマ科に分類されている。春に未だ丸まって開いていない拳状の若葉のついた葉柄を湯がいて食する。匍匐茎があるので、何度か収穫できる。この品は醤油に浸したものとか。色は黒紫色、姿はというと精悍な風貌、程よい歯触り、素人ではこうは作れまい。逸品だった。
● 「ゼンマイの煮物」:ゼンマイはゼンマイ科の多年生の羊歯で、春の山菜の代表でもある。春先、先ず胞子葉が、次いで栄養葉が出る。どちらも芽生えは綿毛で被われ、ゼンマイ状に巻いている。食用にするのは後者で、生食することはなく、一旦乾燥して揉んで保存できるようにしたものを煮たりして食する。出された「ぜんまい」は能登産とか、油揚げと竹輪、それと茸?とが入った煮物、おふくろの味というべきか。私の家の庭にも数十株のゼンマイが葉誇りしているが、ついぞ食べたことはない。
● 「コールラビの塩麹漬け、酢麹漬け」:コールラビとは何か。出品の新田さんに訊くと「のと野菜」だとのこと。後日、南栃市福光の道の駅で、この品の表示を見たが、残念ながらその品は売り切れていた。ただ説明の表示があり、それを書き写した。「コールラビとはドイツ語でキャベツカブという意味で、キャベツに似たやさしい甘味があります。茹でてサラダにしたり、スープや味噌汁などの汁物、煮込みなどにも合います」とあった。現物は見ていないが、アブラナ科の植物であることは間違いない。一見小蕪のようで、調理には皮を剥いてとある。出た品もそうして輪切りにしたものを漬け込んだもの、初めて口にしたが、新来の味だった。
● 「モミジガサの白和え」:モミジガサは山地の林下に生えるキク科の多年草である。食用にするのはその若芽で、キク科の植物の大半は若芽であれば食することができる。最も安直なのは天ぷらである。でもこの品はモミジガサを湯がいて、よく摺った白味噌と白胡麻とで和えてあった。見た目には、濃い緑と白のコントラストが素晴らしかった。
出品された新田さんは岩手県遠野市の出身、何と言ったって東北は山菜の宝庫、しかもスナック遠野を経営されていて、料理の腕前も一流、毎回素晴らしい一品を提供して下さっている。
2.早川さん提供の品
● 「山椒の未熟実の入った縮緬雑魚」:縮緬雑魚はカタクチイワシなど、鰯の雑魚を煮干しにしたもので、しらす干しともいう。これに薄味を付け、灰汁抜きした山椒の緑色未熟実を混ぜてある。市販の山椒粉は、赤く熟した実の黒い種子を粉末にしたもの、未熟な実の方がミカン科特有の芳香を出す。昨年は実の数が多くて舌が麻痺する程だったが、今年は少なかった。因みにこのサンショウは雌雄異株、先生宅のは雌株で、小生の庭のは雄株の老木、でも庭のあちこちに幼木が育っているのはどうしてなのだろう。
3.松田さん姉上提供の品
● 「花豆の煮豆」:花豆とは、マメ科インゲン属のベニバナインゲンの成熟した種子のことで、大型の豆、大福豆や虎豆と共に高級煮豆の材料になるという。これら大型の豆類を上手に煮るのは難しく、その炊き方にはコツが要るという。提供された煮豆は煮崩れもなくて上等な出来だった。でも何故か私は口にしていない。
4.久保さん提供の品
● 「沢庵と大根の浅漬け」:沢庵も自家製なのだと思う。私の家でも母が存命中は家で沢庵を仕込んでいたが、今は大根の浅漬けでさえ漬け込むことは少ない。どちらもお酒の格好の友と言える。
5.池端さん提供の品
● 「帆立の貝柱の干物」:小粒なのがよく、じっくりお酒を頂く時には格好のつまみになる。
二、でざーと
1.久保さん提供の品
● 「そば掻きぜんざい」:小豆(あずき)の中では最も粒が大きい大納言小豆、それも毎年こだわって福井県大野市から引かれるとか。久保さんは探蕎の折りには、もしぜんざいがあれば必ずといっていいほど所望される善哉通である。この作品は奥様の作であろうが、作り方にも甘味にもきっとこだわりをもっておいでだと思う。事務局長の前田さんが終了までに間に合い、このそば掻きぜんざいを食されたと「日めくり日記」に記されていたが、絶賛されていた。私はこれを見て、ぜんざいはともかく、粗挽きの蕎麦掻きは食べたかったと思ったものだ。
2.石野さん提供の品
● 「そばクッキー」:石野さんは今回は欠席だった。いつもは「シフォンケーキ」を提供されるのだが、今回はお休み。代わりに「そばクッキー」が配られた。すでにパッケージされていて、乾燥剤も入れられていた。私は家に持って帰り、翌日にウィスキーの水割りと共に頂いたが、最高だった。甘味が程よく調和され、格好の摘まみとなった。
3.松田さん提供の品
● 「水無月(蕎麦粉入り)」:裏千家の宗匠さんである松田さんお手製のお菓子、これは6月に頂く定番の和菓子とか、知らなかった。横から見ると、下の方5分の4ばかりが白っぽい生地で、ここに蕎麦粉が入っているようだ。その上に甘く煮た小豆が乗っかっている。白い部分は氷室の氷を表し、小豆は悪魔祓いを意味するという。またこのお菓子は三角の形状をしているが、これも魔除けを意味し、このお菓子を頂くと、その年の後半の厄払いと夏の健康祈願となるという。有難く頂いた。それにしてもよくぞ作られたものだ。
2013年6月13日木曜日
二つの同窓会(高校と小・中校)
昭和12年生まれの私たちは今年が数え77歳、いわゆる喜寿の祝いをする歳である。学年ではいわゆる遅生まれの昭和11年生まれの人(但し4月2日以降に生まれた人)と早生まれの人(但し4月1日までに生まれた人)とが混在しているが、近頃は満年齢で祝うこともあるというから、同一学年で祝いをしても特にクレームをつける人は少ない。しかし中には「喜寿祝」と銘打つことに異論を唱えて参加しない人もいる。でも高校の同期同窓会でも小学校・中学校の同期同窓会でも、参加した人は特にこだわってはいない。
(1)泉丘高校七期同窓会 平成25年5月30日(木)ー31日(金) 粟津温泉 のとや
七期の同窓会は1年おき(2年に一度)に実施される。それはそうとして、何時も実施時期が決まるのが遅いきらいがある。実は小・中学校の同窓会の実施時期は前年にもう6月4日5日と決まっていたのに、高校の方が決まらずにヤキモキした。というのも野々市中学校から13名が泉丘高校に進学しているからで、現在地元に住んでいない人は、一旦帰るのか残るのか、若しくは片方のみに出るのかの選択を迫られることになる。高校の卒業生は当時11クラスあったから、卒業生はざっと440人、だから割合からすれば極少であるのだが。同窓会の世話をしている人に参加人数について訊いてみると、最も多かったのは還暦のときで約100名、後は大体70名前後で推移していたが、近頃は60名前後とのこと、今回は58名だった。会の冒頭でこの2年間で物故された人が読み上げられたが、何と20人もが亡くなっていたのには驚いた。参加者が少なくなった原因の一つには本人の体調不良も大きな原因となっていることが伺われた。でも参加した人達は皆さん意気軒昂で、宝生流の謡にも張りがあったし、校歌斉唱も迫力があった。その後は三次会までこなし、大いに盛り上がった。
(2)野々市小・中学校同窓会(子うし会) 平成25年6月4日(火)ー5日(水) 粟津温泉 法師
子うし会は毎年集まっている。中学卒業時には53名いたが、これまで11名が亡くなり、3名が消息不明である。したがって同窓会の案内対象者は39名である。それで毎年少なくとも1泊はするが、すぐ解散というのは名残惜しいということもあって、大概物見遊山をオプションとして付けている。しかしそうなると、足腰の不自由な人、乗り物酔いをする人は参加しづらくなる。そこで今年は喜寿祝ということもあり、旅館1泊のみとした。その結果、いつもは多くて18名の参加なのだが、今年は22名と、56%の参加率だった。高校の同窓会はいつもこのスタイルなのだが、子うし会には元気な女子会員がいるので、このスタイルを続けるのは困難なようである、だから数え80歳の傘寿の祝には、またこのスタイルを継承するとしても、その間は旅行も取り入れた会にしなければならないと思う。ここ数年、宴会のスタイルはテーブルと椅子の形式、それだけ身体が不自由な人が多くなったということだ。いつもそうだが、この会では宴会が退けた後、皆さんが一部屋に集まって鴕弁るのが常であるが、これがまたお互いの親睦を深めるのに重要で欠かせない潤滑油となっている。これは出席した人達の9年間の絆の一層の強化ではないのか。お互いを呼び合うのに姓でなく名で言えるのも小学校や中学校に在学していた頃のノスタルジアか。でもそうだと、姓が結婚して変わっていようと、姓のことで頭を悩ますことはない。
(1)泉丘高校七期同窓会 平成25年5月30日(木)ー31日(金) 粟津温泉 のとや
七期の同窓会は1年おき(2年に一度)に実施される。それはそうとして、何時も実施時期が決まるのが遅いきらいがある。実は小・中学校の同窓会の実施時期は前年にもう6月4日5日と決まっていたのに、高校の方が決まらずにヤキモキした。というのも野々市中学校から13名が泉丘高校に進学しているからで、現在地元に住んでいない人は、一旦帰るのか残るのか、若しくは片方のみに出るのかの選択を迫られることになる。高校の卒業生は当時11クラスあったから、卒業生はざっと440人、だから割合からすれば極少であるのだが。同窓会の世話をしている人に参加人数について訊いてみると、最も多かったのは還暦のときで約100名、後は大体70名前後で推移していたが、近頃は60名前後とのこと、今回は58名だった。会の冒頭でこの2年間で物故された人が読み上げられたが、何と20人もが亡くなっていたのには驚いた。参加者が少なくなった原因の一つには本人の体調不良も大きな原因となっていることが伺われた。でも参加した人達は皆さん意気軒昂で、宝生流の謡にも張りがあったし、校歌斉唱も迫力があった。その後は三次会までこなし、大いに盛り上がった。
(2)野々市小・中学校同窓会(子うし会) 平成25年6月4日(火)ー5日(水) 粟津温泉 法師
子うし会は毎年集まっている。中学卒業時には53名いたが、これまで11名が亡くなり、3名が消息不明である。したがって同窓会の案内対象者は39名である。それで毎年少なくとも1泊はするが、すぐ解散というのは名残惜しいということもあって、大概物見遊山をオプションとして付けている。しかしそうなると、足腰の不自由な人、乗り物酔いをする人は参加しづらくなる。そこで今年は喜寿祝ということもあり、旅館1泊のみとした。その結果、いつもは多くて18名の参加なのだが、今年は22名と、56%の参加率だった。高校の同窓会はいつもこのスタイルなのだが、子うし会には元気な女子会員がいるので、このスタイルを続けるのは困難なようである、だから数え80歳の傘寿の祝には、またこのスタイルを継承するとしても、その間は旅行も取り入れた会にしなければならないと思う。ここ数年、宴会のスタイルはテーブルと椅子の形式、それだけ身体が不自由な人が多くなったということだ。いつもそうだが、この会では宴会が退けた後、皆さんが一部屋に集まって鴕弁るのが常であるが、これがまたお互いの親睦を深めるのに重要で欠かせない潤滑油となっている。これは出席した人達の9年間の絆の一層の強化ではないのか。お互いを呼び合うのに姓でなく名で言えるのも小学校や中学校に在学していた頃のノスタルジアか。でもそうだと、姓が結婚して変わっていようと、姓のことで頭を悩ますことはない。
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