6月半ばのある日、表題の上映会が野々市市役所の一室であるというチラシが舞い込んでいた。私の家は旧宅と新宅があるが、その両方に舞い込んでいたから、配付した人はそのことには疎い人だったに違いない。ところで上映されるのは6月27日の木曜日の午後1時半から3時半まで、何となく興味がひかれ、出かけることにした。副題には「現代と変わらぬ『家庭悲劇』をハッピーエンドに転回させたお釈迦さまの物語」とあった。
なぜ私が興味を持ったのか、それは浄土宗や浄土真宗の聖典である浄土三部経の中の中経といわれる観無量寿経(観経)で、善導大師が序説とした部分が実は「王舎城の悲劇」の一節であって、このお経には概略のみで詳しい顛末は書かれていないが、これのみでは1時間もの筋を立てるには余程想像をたくましくしなければ無理である。ところで手元にある岩波文庫の「浄土三部経」の下巻の註を見ると、この物語は「涅槃経」にはかなり詳しくその経過が書かれているようだし、日本では親鸞上人が著した「教行信証」には長々と引用されていると書かれている。
チラシに書かれた概略では、「インドで最強を誇ったマガダ国の王舎城に住むビンバシャラ王とその妃イダイケ夫人は、一人息子のアジャセによって虐待され、ついには獄中の人となる。この2600年前にインドで起きた仏教史上最大の悲劇を救ったお釈迦さまの物語」とある。それで私なりに筋を辿ってみた。お経の中に出てくる地名や人名は、原語(岩波文庫の浄土三部経の註から引用)の音訳を漢字で表してあるが、その漢字読みと原語のカナ読みをその後に付した。漢字がない場合は、その部分は仮名書きとした。
ブッダ(釈迦・釈尊)在世時、中部インドでは大国であったマガダ国の首都王舎城(おうしゃじょう・ラージャグリハ)の王宮には、国王の頻婆沙羅(びんばしゃら・ビンビサーラ)と王妃の韋提希(いだいけ・ヴァイデーヒー)が住んでいた。ところで二人の間には子供がなく、心配した王は占い師にそのことを尋ねたところ、ある山で修行している仙人がやがて死ぬが、死後、王子として生まれ変わるであろうと予言した。それにはもう5年待たねばならないと。これを聞いた王妃は、もう5年もしたら私は子供を産めなくなる体になるので、それまで待てないと王に懇願した。すると王は王妃の言を聞き入れ、王は仙人のいる山へ三百の兵を引き連れ、王と王妃は象に乗り出向く。そして端座瞑想している仙人を殺害した。仙人は死ぬ間際に王と王妃を罵り、必ず復讐すると言ってこと切れる。
すると予言通り、王妃は懐妊する。しかし復讐のことが頭から離れず悶々とした日々を送っていた。そこで再び占い師に尋ねたところ、お腹の赤ちゃんは仙人の身代わり、この王子は生まれたら必ず両親へ仇を報ずるであろうと言った.怖くなった王と王妃は一計を巡らし、出産の折に、剣を逆に沢山林立させた剣の林に子を産み落として殺そうとした。ところが運良く赤子は剣と剣の間に落ち、小指を半分切断しただけで助かった。王と王妃は罪もない赤子を不憫に思い、大事に育てることにした。しかしこの事実を知っている者達には厳重な箝口令を敷いた。
王位を継承する王子の阿闍世(あじゃせ・アジャータシャトル)太子は、手厚く育てられ、聡明な子に育った。しかし弓矢を与えたところ、生きるものを平気で殺すという気性があることが分かってきた。弓の腕は大したもので、狙った獲物は確実に仕留めた。この頃釈尊の従兄弟の提婆達多(でいばだった・デーヴァダッタ)は、釈尊の布教には大変大勢の人が集まるのを妬み、何とか釈尊を亡き者にしようと企んでいた。釈尊の一行が旅の途中、山道にさしかかった折、崖の上から大きな岩を落としたり、原では獰猛な象の群れで襲わせたりしたが、岩は外れ、象はおとなしく跪き、計はことごとく徒労に終わった。この頃には、王も王妃も釈尊に帰依していた。
そこで提婆は一計を企んだ。それは太子を味方につけ、太子を新王にし、釈尊の地位に自らがなろうという悪計であった。ある時、太子は家来を連れずに一人で狩りに出た。提婆はこの機会を逃さず、太子に獰猛な虎を差し向かわせた。矢で射殺するには余りにも大きく、太子は観念した。その時提婆が象に乗って現れ、太子を救った。太子は大いに喜び、提婆を王宮に招き入れ、諸事全てを提婆に相談して事を運んだ。太子の信頼を得たのを見計らい、提婆は出生の秘密を太子に吹き込んだ。太子の小指の経緯である。凶暴な太子は大いに怒り、王を周りを堀で巡らした塔の一室に幽閉し、家臣には「食わすな、飲ますな」と厳命した。王は叫んで我が身を嘆くが、どうにもならなかった。王は釈尊に助けを求め、親友の目連尊者を遣わしてほしいと懇願した。当時釈尊は王都を取り巻く峰々の一つの耆闍崛山(ぎしゃくつせん・グリドウフラクータ)(又の名を霊鷲山りょうじゅせん、鷲の峰とも言い、釈尊はこの山を説法の会座としていた)にいた。王が幽閉されている室には高いところに小さな窓があり、光が射し込んでいた。釈尊は十大弟子で神通第一の大目鍵連(だいもくけんれん・マハーマウドガリヤーヤナ)と、やはり十大弟子で説法第一の富楼那(ふるな・プールナ)を遣わして王に八戒を授け、法を説いた。善因善果、悪因悪果、自因自果、因果応報。王は己が修行の仙人を殺し、我が子を剣の林立した所へ産み落とさせたことを懺悔し、悔いた。
王が幽閉されてから、王妃は毎日王に会いに行った。王妃は毎朝沐浴して身を清め、精製したバターに乾飯の粉末を混ぜ合わせたものをその身に塗り、胸飾の中に葡萄酒を入れ、秘かに王に与えていた。王には他の誰も面会できず、王妃のみが会えたが、物を持ち込むことは禁じられていた。こうして王は乾飯の粉末を食べ、葡萄酒を飲み、口を漱ぎ、その後鷲の峰に向かい合掌し、長老の説法を聞いた。この時の王は幽閉の身でありながら、顔の色は穏やかで、喜びに満ちていた。このようにして37日が過ぎた。
幽閉して37日も過ぎたのだから、父王はもう死んでいるだろうと思い、門を守る者に「父王はどうしているか」と問うたところ、王妃が毎日食物と葡萄酒を与えておられること、沙門の長老のお二方が空からやって来て説法されていること、そしてこれらを禁制することは私たちにはできないと。これを聞いた太子は激怒し母に向かい、「私の母は賊であり、沙門は悪人である」と言い、剣を取り母を殺そうとした。その時太子の側には二人の大臣がいた。一人は月光(がっこう・チャンドラプラディーバ)といい聡明で智慧者、もう一人は耆婆(ぎば・ジーヴァカ)という名医で、二人は太子に説いた。「太子よ、はるかな昔より、多くの悪王がいて王位に即こうと父を殺した者は1万8千人にも上る。しかし未だかって母を殺したというためしは聞いたことがない。殺害すればそれは賤民の所行、王宮に住まわせることはできない」と言い、剣の柄に手をかけ、後ずさりした。これを見て太子は剣を捨て、代わりに母である王妃を内務の役人に命じて奥深い部屋に幽閉した。王妃は王に会えなくなり、王は衰弱し亡くなった。この時代は異母の王子が何人もいて、王位に即きたい王子は、時にこういう強行手段に訴えたという。そして太子は王となった。
王毋は愁いに閉ざされ憔悴し、尊者を殺し、我が子をも殺そうとしたことを悔い、この所行は地獄へ行くしかないと悟る。そして五体投地し、哀れみを求めて懺悔した。そして願わくは木蓮尊者と阿難(あなん・アーナンダ)尊者にお目にかかりたいと願い、悲しみの涙を流して、釈尊のおいでる鷲の峰に向かって礼拝した。すると釈尊は王毋の思念を知り、目連を左に阿難を右に侍して王毋の前に姿を現された。釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、天人たちは天花を降らして供養しているのが見えた。王毋は釈尊のお姿を見て、五体を地に投じて礼をし、釈尊の愛おしみを求めて懺悔した。そして私に清らかな行いのある世界を観せて下さいと願った。
こうして王毋は、憎しみ、怒り、呪いのない、ひたすら苦悩のない清らかな世界に生まれたいと願い、釈尊はこれに応えて、諸仏の世界を光明を放って見せしめた。その「幸あるところ」とは極楽浄土であり、その西方浄土を観想するには、心を一筋にし、思いを一処に集中して思い浮かべねばならないと説いた。〔正説〕(一、心統一して浄土を観想する十三の方法、定善十三観)
一方で心統一することが出来ない散乱心の凡夫に対しても、王毋の請いにより、悪を廃め善を修めて浄土往生を得しめる散善を説いた。〔正説〕(二、散心の凡夫、往生を得る九種の方法)
その後、王は父王を殺したことを悔い、王毋を牢より出した。その後、王は重い病気になり、名医の耆婆に導かれて釈尊の教えを仰ぎ、病が癒えて後は菩提心を発して改心し、そして釈尊に帰依することになる。
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