私はこれまで郡上八幡を通過したことはあるが、街に降り立ったことはなく、この静かな山間の街に何となく憧れ、一度は出かけたいと思っていた。家内と相談して出かける日は11月3日の文化の日(日)と翌日の4日(振替休日・月)、宿は懇意にしている北陸交通の方に世話してもらった。出かける日の天候は曇り後雨の予報、家を朝8時頃に出て、北陸道から東海北陸道へ、あの日本では2番目に長い飛騨トンネルの 10,710mはさすがに長い。ひるが野高原 PA で休憩をと思っていたが、着く手前には「ひるが野高原 PA は休日は大変混雑しています」という横断幕、着くと本当にその通り、本当に芋の子を洗うような混雑、他の PA は閑散としているのにである。本当に1台も停める余地がない始末、そこで家内の機転で、橋となっている通路の脇に車を停めた。監視員がいたら駄目だったろう。
ここ蛭ヶ野からは、両白山地の南端に位置する大日岳が真正面に見える。晴れていれば見える白山は雲の中、こんな状況でも大型の観光バスもここで停まるから、その混雑たるや想像を絶する。軽食をとり、早々に郡上八幡へと向かう。今日の予定は、お薦めの街の南の山中にある大滝鍾乳洞を見て、街の蕎麦屋で昼食をとり、城山にある宿へ入り、そこから近くにある郡上八幡城を見て、宿へ戻るというものだ。先ずは鍾乳洞へ、山間を縫う大規模林道を通りどんどん標高を上げると、やがて広い空間が現れ、そこには沢山の車が駐車している。見ると鍾乳洞へ入る人もいようが、そこには釣り堀あり、バーベキューもでき、周囲には土産物屋も多く、ちょっとした野外観光地の様相を呈している。それでこの時間に鍾乳洞へ入るのは、私たちと子供連れの2組のみ、入口へ案内されると、目の前には10人ばかり乗れるトロッコ、これに乗るとウインチで高さで 50m ばかり引き上げてくれる。そして終点が鍾乳洞の入り口になっている。
入口から出口までは凡そ30分とある。洞穴へ入る。明かりは点いてはいるが、通路は狭く歩きにくい。くねくねした狭い通路を上がったり下がったり、でも総じて上りが多い。所々に名称が付けられてはいるが、何とも規模が小さく、チャチである感は拭えない。最後に狭くてすごく急な階段をかなり下ると出口に出た。来る時にトロッコを降りた場所を下に見下ろせる場所だった。ここからは下の広場に向かって、杉の木立の中を小道が付いている。連れの子供が先頭になって、走るように下って行った。私たちはゆっくり下る。広場の周りには食べ物屋も多くあるが、一度街へ下りてから蕎麦屋に寄ることにする。
先ず第一候補は本町の「そばの平甚」、でも店の前には長い行列、それに近くの駐車場はどこも満タン、諦めて第二候補の鍛冶屋町の「蕎麦正まつい」へ、でも近くに駐車場が見つからず、仕方なく3軒目の「そば八」へ、ここは町外れで、長良川に沿った国道 256 号線にある店、さすが街の観光客もここまでは足を延ばせず、店の前の駐車場に車を停める。古い潜り戸の方は閉まっていて、土産物屋を通って入ることになっている。家内はこんな蕎麦屋は不安だという。店に入ると、ガラス戸の向こうで親父が太い一本棒を使ってそばを打っているのが見える。ここのそばは手打ちだという証にはなる。食堂はかなり広い。私たちは入口に近い一角に座り、天ぷらそばを注文する。他に客は10人ばかり、待つこと暫くして注文の品が届く。天ぷらもそばも大盛り、天ぷらは地元の野菜、私はビールと地酒で頂く。運転は家内と交代だ。そばは見た目は生粉打ち、ただかなりの太打ち、1本を手繰ると、これはダンゴの味、手打ちには間違いないが、太い棒状のそばは正にそば団子、もしこれをもう少し伸して薄く切ったとしたら、バラバラかキレギレになるだろう。天ぷらはともかく、そばは半分以上残してしまった。家内の舌は私よりもっと厳しく、3分の2は残したろう。隣のテーブルに子連れの夫婦が入ってきたが、私たちがそばを沢山残したのを見て、目をパチクリしていた。早々に引き上げた。量も多かったが、久しぶりに実に不味いそばに遭遇した。雨の中、宿へ向かう。
小雨の中、ナビに従って、城山にあるホテルへ向かう。宿のホテル積翠園に着くと、駐車場はほぼ満タン、案内板では地元の方が旭日双光賞を叙勲されたとかで、その祝賀会とのことである。荷物をフロントに預け、すぐ近くの城へは雨なので車で出かける。城への道路は一方通行のため、一旦城へ上がる道路に続く広場にまで下りる。城への道は、上の城にある駐車場の関係で、係員が誘導している。歩いて城へ行く人もかなり多いが、車道と歩道の区別はなく、雨の中難儀しているようだった。車は少しずつ動いている。どの位かかったろうか、漸く城の駐車場に着いた。駐車場は広くはなく、これでは渋滞もやむを得ないと納得する。
郡上八幡城は山城、小さいが中々堅固、一見城郭の部分は国宝丸岡城を思わせるものがあった。城は三層、高台の城とて眺めは良い。一通り巡って城を辞す。駐車場からの帰りは一方通行、城からあっという間にホテルへ着けた。天気が良ければ、一方通行の車道を逆に辿れば、5分も歩けば城に着けそうな気がする。
ホテルでチェックインする。部屋は1階に2室、2階に3室のみ。1室4人で、最大20人、宴会がメインで、宿泊ホテルとしては大きくはない。荷物は運ばれていた。時間は午後4時20分、取り敢えずは風呂へ、風呂は沸かし湯、湯槽はそんなに大きくはない。でも1間に3間ばかり、子供2人連れのお父さんがいて、お湯に戯れている。私が入って一旦水遊びを中断したが、私がどうぞ続けて下さいと言ったところ、エスカレートして、泳いでターンばかりでなく、飛び込みも始めた。私が飛び込みもOKですよとは思ってもいなかったろう。でもこの時不覚にも、お湯を少し飲んでしまった。風呂から上がって部屋で寛ぐ。夕食は個室でと言われる。まだこの時点では体調も極めて良く、異常は全く感じられなかった。
案内があって個室へ、「木村様献立表」とある立派な料理、一通り説明を受ける。飲み物は料理に合わせ、赤ワインフルボトル1本とアサヒスーパードライ延べ3本、地酒で乾杯して水入らずの小宴会、ただどんな会話を交わしたのかは思い出せない。ゆっくり時間をかけて食事をした後、部屋で寛ぐ。その後心地よく眠りにつく。ところが夜半に私に異変が起きた。晴天の霹靂、胸がむかむかし、そして突然急に食べたものを全部は吐き下してしまった。風呂の水を飲んだからか、ただ覚えているのは吐物の中に黒い欠片のようなものがいくつか見えたことで、それが何だったのかは確かめていない。そしてその後、歯がガチガチして噛み合わない程の強烈な悪寒、ストーブを最強にして、布団を何枚も掛けても寒かった。家内は救急車でも呼ぼうかと思ったという。でも明け方になって漸く落ち着きが戻った。本当に何が起きたのか全く見当がつきかねた。ただその後痰の色が黒いのが気になった。でもその色はやがて鉄錆色に変わった。しかし身体の調子は回復し、少々の脱力感はあるものの、熱もなく、ただ食欲はなく、朝食は止めにした。今日は街中を散策する予定だったが、すぐ家に帰ることに、運転は家内にお願いした。
〔閑話休題〕
帰宅した11月4日は横浜から長男が帰郷していたこともあって、晩に次男家族も招いて会食することにしていたが、私は何となく身体がだるく、臥せていた。本来ならかかりつけの舩木病院へ受診するのが当然なのだが、実は3日後の11月7日にペースメーカーの検診で金沢医科大学病院へ行くことになっていて、血液検査、心電図、胸部X線検査をするので、その時に正確に診断されればと思い、当面は軽い脱力感のみなので、その日まで静かに過ごそうと思った。ただ帰宅後も2日間、あの鉄錆色の痰が続いたのが気掛かりだった。だがこの辺りの受診の判断は意見の分かれるところである。
11月7日、正午近く、私のみでは不安だと、家内は病院を休んで金医大病院まで運転手兼付き添いで同行してくれた。心強かった。感謝々々。この日の心臓外科のペースメーカー外来の受付は 13〜15時、3つの検査は原則必要な検査、更にペースメーカーの機械的なチェックを済ませてM先生の診断を待つ。ただ胸部X線撮影の時、息を吸ってと言われても深呼吸ができず、咳き込んでしまったのが気掛かりだった。順番が来て診察室へ入る。このM先生には過去3年間ばかり診てもらっているが、いつも丁寧に説明してくれるのに、この日はその説明がなく、ペースメーカーには特に問題はないという。でも肺のレントゲン写真は真っ白で、家内が肺の方はどうですかと言うと、異常だと言う。ではこの病院のしかるべき診療科を紹介してほしいと言うと、私はそういう他科への斡旋や紹介は一切していないので、貴女の方で何処かへ受診して下さいとのこと、正にけんもほろろ、この病院では個人での初診は無理とのこと、それじゃ家から近い日赤病院にでも行こうかと、とぼとぼと診察室を後にした。すると年配の看護婦さんが小走りに後を追って来られて、同じフロアにある呼吸器内科へ案内してくれた。一旦捨てられたのに、助けていただいたあの方はまさに天使、本当に嬉しく、これで助かったと思った。この日に担当の女医さんのF先生は、X線写真を診られ、聴診器を当て、すぐに入院して下さいとのこと、とにかく一晩は絶対安静にして下さいとのこと、呼吸器内科にはベッドの空きはなく、緊急に整形外科の病棟に間借りすることになった。この日から4週間の病院生活が始まった。
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