私は昭和12年2月生まれの77歳、昭和24年3月に野々市小学校を卒業し、昭和27年3月に野々市中学校を卒業した。そして成人式を挙げた頃だったろうか、それぞれの卒業生が合同の会を持つことになり、「子うし会」という会をつくった。これは小・中を通じて1学級だったから出来たのであって、今時のマンモス校であってはとても出来ることではない。したがって小学校にはいたが中学校は転校や進学で他校へ行ったり、またその逆だったりの場合もあるが、ともかく多数が小中一緒だったこともあって、すんなり会が出来た。会の雰囲気はとても和気あいあいで和やかだ。人数は延べにすると男28名、女26名だが、今は鬼籍に入った人もいて、昨年行なった喜寿の祝いの時点では、男19名、女21名になった。
私たちの年頃になると,私のみではなく皆さん新聞のおくやみ欄に目を凝らすようになるという。もっとも逆にわざと見ない人もいないわけではない。今年3月に亡くなった同窓生だった源野君の場合、私はうっかり見逃してしまい、同窓の女性から連絡を受けて初めて知った始末だった。今度の古屋君の場合も、この欄は見たはずなのにまたも見逃していて、先に知った家内からの電話で初めて知った始末、実に注意力散漫になってしまった。古屋君が大腸がんで手術するとは聞いて知ってはいたが、彼が話す声には思いのほか張りがあり、明るさがあったことから、亡くなったと聞いた時には本当に信じられなかった。いつも明るくひょうきんで、皆を笑いに誘う特技を持ち合わせていた彼、何か急変するような事態が起きたのだろうか。遺族の方からは、病気の経緯については一切話がなかったし、私からもことさら訊ねもしなかったが、何となく気掛かりだった。
通夜は平成26年12月22日、葬儀は翌日に、野々市紫雲閣で執り行われた。 合掌。
葬儀の日、私の独断だったが、遺族の了承を得て、次のような弔辞を読ませて頂いた。
「弔 辞」
子うし会の会員だった古屋宏君のご霊前に、謹んでお別れの言葉を申し上げます。
この子うし会というのは、昭和十一年生まれの子年と昭和十二年生まれの丑年の集まりの会で、小学校と中学校での同窓生の会です。毎年一回皆が集まって旧交を温めて来ました。今年も春五月に富山の雨晴で会を持ちました。貴方はいつも率先して会のお世話をして下さっていましたが、今年は一寸身体の具合が悪いとかで欠席されました。お聞きしましたところ 悪性腫瘍の疑いがあるとかで、通院なさっているとか、でも電話でのお声を聞いていると、いつもと同じ明るく元気なお声、きっとそのうち本復されて、また会にも出て頂けると信じていました。貴方は会ではいつも座を取り持たれ、皆を笑いに誘う術を持ち合わせておいででした。貴方と話していると本当に心が和み、実に楽しい一時を過ごすことが出来たものです。この素晴らしい特技はきっと持って生まれた天性だったのでしょう。
貴方の近況を会の世話人の薮内君から聞いたのは先月のことでした。電話でのコンタクトでは、大腸に腫瘍があって手術で取り除くのだとのこと、でも貴方の声は元気な頃と同じように明るくて、薮内君の言では全く心配はないようだとのことでした。ですから貴方が突然彼岸へ旅立たれたと聞いた時は、〔本当にまさか」との思い、とても信じられませんでした。そんなに病状が深刻だったのだとは思いもよりませんでした。
今私の脳裏に去来し思い出されるのは、ただただ貴方の素晴らしい、どんな人をも和ませてしまう笑顔です。古屋君、こんなに早く貴方と永久の別れをしなければならなくなるとは、本当に思いもよりませんでした。どうか安らかにお休みになって下さい。
「さようなら」。
平成二十六年十二月二十三日
子うし会代表 木村 晋亮
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