2014年3月13日木曜日

源野外志男君への弔いと思い出

 平成26年3月7日の朝、小学中学高校と同期の女性の方から電話があった。「源野さんが亡くなったわよ」と。私は地元紙のお悔やみの欄には毎朝必ず目を通しているのに、この日の朝は何故か見逃していた。早速確認すると、その通りだった。7日午後7時通夜、8日午前11時葬儀とある。同級生の何人かと連絡をとった。すると彼と親戚筋にあたる女性から、子うし会で弔辞を読んで下さいませんかとのこと、全く予期していなかったことだけに、そのようなことは全く考えていないと答えておいた。でも何となく気になり、家内に相談すると、読んで上げるのは当然とのこと、腹を括った。これまでやはり親しくしていた小学中学高校と同期だった中川君の時には私が読んだことはあるが、随分昔のことだ。
 そこで急いで原稿を書き、奉書紙を求めてそれに清書し、通夜に持参した。というのは葬儀のある8日には予てからの用事があり出席できないので、誰かに代読してもらう必要があった。子うし会の男性の世話人にと思ったが、彼も公の用事で葬儀には出席できないとか、急遽親戚筋にあたる関西に住む同級生にお願いし、どうやら承諾していただいた。
 私が書き記した文章は次のようである。文中の子うし会は「コウシカイ」と読む。
「弔 辞」
 子うし会会員だった源野外志男君のご霊前に謹んでお別れの言葉を申し上げます。
 この子うし会というのは、昭和十一年遅生まれのネズミ年と昭和十二年早生まれのウシ年の小学校と中学校の同級生の集まりの会です。毎年一回皆が集まって旧交を温めて来ましたが、貴兄 (あなた) はいつも率先して会の世話をしてくれました。しかし昨年の初夏に皆で粟津温泉「法師」で喜寿の宴を企画した際には、貴兄からは胃ガンの治療に専念したいので欠席しますとの連絡を頂きました。しかし私たち一同は貴兄がきっと本復されて、再び元気な顔をした貴兄に会えると信じていました。しかしあれからやがて十ヵ月、私たちは貴兄が帰らぬ人となられたという訃報に接しました。私たちは七十年来の親しい友人を亡くしてしまいました。元気で几帳面で世話好きだった君とはもう会えないのかと思うと無性に淋しく悲しくなります。
 さて、貴兄は本当に心から「そば」を愛されていましたね。おしどり夫婦の奥さんと「そば」を食べに全国を巡っているとも話されてくれましたね。そして貴兄は「そば」を食べるだけではなくて、「そば」を打つ卓越した技術も持っておいででした。私も「そば」を食べるのが好きで、あちこちに出掛けたりはしますが、とても貴兄の足元には及びませんでした。貴兄も所属されていたそば好きが集まる同好の会では、年に一度は貴兄が打った「そば」を皆で賞味したものですが、今はそれも叶わなくなりました。凛々しい白の装束に身を包まれて「そば」を打たれていた姿が目に浮かびます。
 源野君、貴兄とは永久の別れをしなければならないことになりました。どうか安らかにお休み下さい。ここに心から「さようなら」の言葉を捧げます。
   平成二十六年三月八日
    子うし会 代表  木村 晋亮 (のぶあき)
         代読  木戸 三雄

 通夜に挨拶に立った一級建築士でもある長男の方の話では、3月5日に眠るように亡くなったとかだった。彼は大変器用で精力的、春や秋には山へ分け入って山菜や茸を採りに行っていて、よくそのお裾分けを頂いた。そしてそばにも格別の興味を持ち、そばを打つ道具も一式揃え、同好会に入って本格的にそばを打っていた。年末には年越しのそばを毎年届けてくれた。しかし一昨年の暮れに、体調不良で今年の暮れのそばは届けられないと言ってきた。胃ガンが見つかったとか。でも早期なのできっと本復すると信じていた。彼はまた篆刻にも素晴らしい作品を残した。探蕎会の会報の題字を書かれた書家であり篆刻家でもある北室南苑さんに師事していて、中国までも出かけていたし、賞も何度か頂いたと聞いた。とにかく凝り性だった。長男さんの言では、彼は生前、もう死んでも思い残すことは何もないと語ったという。この言は、どんなに達観していたとしても、中々言えることではない。
 心から彼の冥福を祈る。

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