昭和40年代始めの頃だったと思うが、生ガキ喫食による下痢症が時々報道されるようになった。それによると、養殖の生ガキを食べると、時にあたって下痢をするのだという。国でもその病原体を追求するべく、国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)が中心となって、全国の地方衛生研究所(地研)に、生ガキによる下痢症が起きた時には,出来るだけ多くの下痢便検体を送ってほしいとの連絡を出した。折しも和倉温泉のとある旅館から、生ガキをどうしても食べたいと仰るお客さんには、下痢のリスクを承知で生ガキを提供するのですが、気をつけてはいても,時に本当に当たって下痢をされるお客さんがいるので、何が原因なのかを調べてほしいと連絡があった。早速私が行ってその旅館の女将さんに話を聞くと、先日フランス人の許へ嫁いだ娘が帰ってきた折に、婿さんが生ガキを食べたいというので、七尾湾でも最も水がきれいと言われている所へ案内したのですが、生憎と当たってしまって大変でしたとのこと。聞くと、とにかくその婿様の食べた生ガキの量が半端でないことが先ず判明した。そのせいかどうかは分からないが、当たったのはその婿様だけだったそうだ。また一方で、養殖カキの筏を置く場所は,川の河口に近い方が栄養分が多くてカキの成長が早いこと、それで時には育成のために糞尿を撒くこともあることを教わった。現在は下水道も整備され、そうでなくとも浄化槽が備わっているからして、河川の汚れは昔から見れば格段に良くなっているが、当時はまだ一部は垂れ流しの状態だった。
そこで提案された条件は、10月から翌年3月まで、毎月生ガキを4kgずつお送りしますので、そちらでは生で食べていただいて、もし下痢が起きたら、その原因を究明して下さいというものだった。生ガキは七尾湾では比較的汚れがあるといわれる和倉温泉沖の筏のものを提供しますとのこと、当時は私もまだ若く、胸を張って受け入れた。ここで肝心なのは、生食でという条件であった。
早速に私が勤務していた石川県衛生研究所(衛研)で、生ガキを生食する有志を募り、調査が始まった。人により、多い人は10個、少ない人は1個、くれぐれも生で喫食するようお願いした。また衛研で一度に4kgは多いので、当時私が研究生として所属していた、波田野先生が主宰されていたガン研究所ウイルス部の方々にも協力を頂き、半分をお送りし、同様なお願いをした。新鮮な生ガキは教室の皆さんにも喜ばれ、時に催促まである程だった。協力していただいてから5ヵ月は特に何事もなく過ぎた。ところが最後の回となる3月に異変が起きてしまった。衛研では喫食した半数の十数人に異変があった。主症状は下痢で、生ガキを食べた個数の多寡には関係がないようだった。また男女差もなかった。かくいう私も下痢症状が起きた。一時的にパニックになり、きちんと疫学調査をしなければならないのに、サンプル採取もままならず、結果として何ら成果を出せず、うやむやのうちにこのプロジェクト?は終了した。今だったら始末書ものだったろうが、特にお咎めはなかった。
ところで衛研での一件が終息した頃、大学ではどうだったろうかと聞いてみた。するとやはり半数近くの人が下痢し、女性2人は症状がひどくて入院したとか、これまで5回は何ともなく、美味しく頂いたので、まさか生ガキのせいとは誰も疑っていなかったのに、私が糾したことで生ガキのせいと分かってしまい、波田野先生からは大目玉をくった。そんな状況だったので、とても様子を伺うことさえ憚られ、こちらも調査できる状況ではなく、やはりうやむやになってしまった。
当時の日本では、あちこちで生ガキ喫食による下痢症の報告があり、電子顕微鏡によるウイルス像観察では、小型球形ウイルス(SRSV) が見られ、これが病原体であろうと推測されていた。折しもアメリカの Norwalk で集団下痢症の発生があり、やはり SRSV が観察され、これに Norwalk agent という名が冠された。日本で観察されたウイルス粒子との相同は当時明確ではなかったが、症状は比較的軽く、死亡に至る経過がないことなどはよく似ていた。現在はウイルスの遺伝子型まで読まれているが、当時はまだ分かっていなかった。しかしいずれにせよこのウイルスはヒト由来で、日本での場合、川に放出されたウイルスが海にいるカキの体内で濃縮され、これが生ガキを食べることによって起こされる下痢症の病原体とされた。ところでその後ウイルスの命名法が確立され、Norwalk agennt を含む SRSV はノロウイルス (Norovirus) と呼称されることになった。その後、いつ頃か記憶が曖昧だが、これまで日本にあった在来のノロウイルスの系統のほかに、バルト海辺りを起源とする別系統の病原性の強いノロウイルスが日本に入ってきた。これが現在日本で猛威を振るっているノロウイルスである。現在養殖生ガキは原則として生食禁止だが、新しいノロウイルスは従来あったカキ由来のウイルスとは遺伝子型が異なるので、これによって発生を食い止めることはできない。この新しいノロウイルスは感染性が抜群に強く、経口感染はもちろん、飛沫感染もあり、実に厄介だ。
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