(承前)
波田野先生は東京のお生まれ、千葉大学医学部を卒業され、川喜多先生の下でジフテリア毒素の研究をされていた。一方金沢大学ではボツリヌス毒素を研究されていた西田先生が新しく細菌学教室(後の微生物学教室)の教授になられ、先生が海路で英国へ留学される折、途中のアデンから波田野先生に招請の電報を打たれ、それに応じて金沢へおいでになり助教授になられた。昭和35年 (1960) のことである。その後先生はインフルエンザの研究のためアメリカへ2年間留学された。その頃から私が所属していた衛生研究所でもインフルエンザウイルスの検査をしなければならなくなり、その教えを波田野先生に乞うべく研究生となった。その後しばらくして、大学にがん研究施設が付設されることになり、そこのウイルス部門の教授に波田野先生が就任され、私も移籍することになった。施設はその後発展して金沢大学がん研究所となる。この頃になると、大学院生や研究生が10数人在籍していて、教室は活気づいていた。その頃に何人かの女子短大出身の教務助手の方が教室に居られ、教務以外にも細胞の培養や実験の補助などをされていた。ウイルス実験に入るまでの下準備の手間は馬鹿にならず、随分と彼女らにはおんぶに抱っこの状況が続き、本当にお世話になった。その中の一人に横山さんがいた。
彼女の住まいは小立野二丁目、波田野先生とは同じ町内、何かの折に先生と会われた際に、大学へ来ないかと誘われたとのことだった。彼女の家柄は前田家の家老の横山家の分家に当たる名門である。私はがん研ウイルス部に在籍中の昭和40年 (1965) に結婚したが、その後に午年生まれの家内と申年生まれの横山さんとは、高校時代に同じ陸上競技部に所属していたことを知った。一緒に過ごせたのは1年だけだったのだが、そんなこともあってか、私自身彼女に大変親近感があった。その後私は昭和50年 (1975) には教室を離れてしまうので、横山さんがいつまでがん研ウイルス部に在籍されたかは知らないが、もし波田野先生が退官されるまでおいでたとしたら、昭和63年 (1988) までおられたことになる。
その後いつだったかは覚えていないが、彼女の妹さんが卒論か何かで松尾芭蕉の「幻住庵記」をテーマに選ばれたとかで、どうして探されたかは知る由もないが、私の家の仏間に掛かっている芭蕉直筆の書を見せてほしいと頼まれた。こちらには別に異存はなくお見せしたが、そのときは書かれた和紙は下地の和紙に貼られた状態にあり、しかるべく保存をしたほうがよいともいわれた(これについては後日アクリルで封じて永久保存できるようにした)。私はこの筆で書かれた草書体の文字は全く読めなかったが、後日彼女からは読み下し文と解説を送っていただいた。その後このことがきっかけだったかどうかは知らないが、彼女が古文書を読み下すことに精を出されているということを風の便りに聞いた。そして図書館へ行き、何か目的があって、昔の古い資料を読みあさっておいでるとも聞いた。
そうこうするうちに、彼女が加賀百万石の前田家のこととか、自分の家の横山家のこととか、金沢の町並みのこととかについて、講演されているということが、テレビや新聞で報道されているのを知ることになった。彼女は大変な努力家だったが、それだけではこれほど素晴らしい郷土史家になれるはずはなく、加えて横山家の血筋を引いた天賦の才があったからだと思う。さらに古文書に対する緻密な調査と、持って生まれた几帳面な性格とが今日の彼女の地位を不動のものにしたのだと信ずる。彼女は現在石川県郷土史学会幹事であり、金沢市の埋蔵文化財、町並み保存、伝統的構造物保存、用水保全等の委員の職にあって活躍されており、著書や論文も出されている。
こんな彼女から話を聞きたいと思ったのは単なる思いつきからではなく、これこそ巡ってきた願ってもない千載一遇のチャンスだと思った.ただ忙しくて月の半分は予定で埋まっているとのことで心配したが、幸いにも探蕎会総会の日は運よく空いていたのは正に僥倖だった。
2014年2月26日水曜日
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