2014年6月28日土曜日

京都へ行くまいかい:4世代連れの旅(その2)

 平成26年 (2014) 6月1日(日)
 朝食は朝8時、畳敷きの「ごてんの間」、關鳩楼というそうだ。周りの雨戸は総ガラス張り、由緒ある庭を存分に見渡せる。黒塗りの和机に向かい合わせに4人ずつ座る。朝食は和定食。この部屋にバイキングは向かない。素晴らしい雰囲気の中での朝食、何とも清々しい。
 今日は奈良へ観光、9時15分頃に宿を後にする。ここ京都市の北西にある嵯峨野の嵐山から奈良市までは、南東へ直線で約40km ばかりある。私は出立する前に、部屋に残っていた酒類を、勿体ないので胃の腑へ全部流し込んだものだから、少々酩酊してしまい、気が付いたらもう奈良へ着いていたという始末だった。
 先ずは華厳宗大本山の東大寺へ。大仏の造立と東大寺の建立が聖武天皇の偉業であることはよく知られている。その後平氏の南都焼き討ちによって灰燼に帰したが、僧重源によって再建された。しかし大仏殿は室町末期に再び兵火に遭い、現在の大仏と大仏殿は江戸期に再鋳、再建されたものだという。そして昭和55年 (1980) には、大仏殿の昭和大修理が完了した。また平成10年 (1998) には、「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。
 南大門を潜る。左右には、鎌倉時代の彫刻の傑作、運慶・快慶らの作になる金剛力士像が、大仏殿に向かって左には阿形の、右には吽形の二体が配置されている。そしてこの南大門は、重源により鎌倉時代に再建された貴重な建造物、これらはいずれも国宝に指定されている。また通称「お水取り」で知られる千二百年以上も続いている「修二会」の儀式が行なわれる二月堂もこの境内にある。
 皆さん大仏殿へ行かれたようだったが、私はまだ身体が本復せず大儀だったので、南大門近くの庭石に腰掛けて、皆さんの帰りを待った。
 バスへ戻り、春日大社の境内を車で巡る。そして隣接する興福寺へ。この寺は法相宗の大本山、藤原氏の氏寺として和銅3年 (710) の平城遷都とともに建立されたものだが、その後国家に保護される官寺となり、また藤原氏の氏神である春日社 (明治の神仏分離後は春日大社) も興福寺に包摂され一体化された。いわゆる神仏習合である。そしてこの組織は次第に肥大化し、平安末期以降、大和一国が興福寺の所領となるまでになる。しかし江戸時代になると、次第にその地位は失われることになる。そして明治初年に発せられた神仏分離令による廃仏毀釈によって堂宇伽藍は破壊され、辛うじて五重塔、東金堂、北円堂、南円堂、大湯屋が残ったのみ、しかも堂塔以外の寺地はことごとく没収された。往時の寺の敷地は大変広大で,現在寺の北側にある奈良県庁の一帯、猿沢池の南側一帯、奈良公園、春日大社を含む規模だったという。ただ往時の春日社はそのまま春日大社となった。
 興福寺はこれまで平氏による南都焼き討ちも含め四度の大火があり、その度に堂宇のほとんどが焼失しているが、その都度再建されてきた。しかし寺勢が衰えた江戸時代の享保2年 (1717) の大火の後は、中金堂の再建は仮堂が造られたのみで明治を迎えた。しかし平成になり、創建千三百年を機に再建の機運が高まり、平成10年 (1998) に世界遺産に登録されたこともあり、焼失してから三百年、漸く中金堂の再建が平成22年 (2010) にスタートした。現在は工事中で、何年後にか、天平期の姿形と大きさが同じの中金堂が再建されることになる。堂の大きさは、東西 36.83 m、南北 23.76 m だという。
 皆さん国宝館へ、ここは昭和34年 (1959) に開館され、平成22年 (2010) にリニューアルされ、国宝45点、重文19点が展示されている。何と言っても、あの天平彫刻の粋である阿修羅像は圧巻である。私は何度か訪れたこともあり、混雑もしていたので、入口近くのビデオコーナーで皆さんを待ち受けた。
 揃ってバスで昼食場所へ行く。時間は午後1時少し前、場所は興福寺の南に位置する中新屋町にある鶉屋倶楽部1Fにある「旬彩ひより」という食事処。洒落た感じの店、懐石料理を基本に、奈良の風土が育んだ伝統野菜をメインとしたランチがお勧めとか、旬の野菜は専属の農園で栽培しているという。16人が長いテーブルに相対して着席、それにしてもよくこんなハイカラな店が見つかったものだ。地図を見ると、隣り合った福智院町にある、奈良では最も老舗の蕎麦屋「玄」がすぐ近く。この店、春日大社に御神酒「春鹿」を奉納している今西清兵衛商店の離れでもあり、大変懐かしい。さて昼食、大和野菜が中心の品が7品ばかり出て、程よい満腹感。私は此処で初めて京大生のケイちゃんと会った。髪も金髪風にすると、俄然外人っぽくなり、綺麗さもあって目を瞠ってしまった。彼女は大相撲幕内力士の遠藤とは中学校同期である。彼女はどこで乗車したのだろうか、記憶にない。
 1時間ばかりいて、次に奈良・西ノ京にある唐招提寺へ行く。ここは律宗の総本山でもある。開祖は唐の僧の「鑑真和上」、苦難の末に来朝された物語は、井上靖の小説「天平の甍」で読んだことがある。奈良時代、仏教で正式な一人前の僧侶となるには、正式な資格を持つ十人の師(十師)が参加する授戒の儀式を経なければならなかったが、当時の日本にはそれに必要な「十師」が居なかった。そこで戒師招請の発議となり、天平5年 (733) に勅命を帯びて二人の僧が遣唐使に随行して唐に渡った。しかし10年を経ても念願を果たせず、そろそろ帰国を考え揚洲を訪れたその時に出会ったのが、長安・洛陽では並ぶ者がいない律匠と仰がれていた鑑真である。二人は足下に頂礼して、弟子の派遣を懇請した。しかしそれに応える弟子はなく、「不惜身命」(この句は貴乃花が横綱昇進を伝える使者に用いた)の一句をもって、鑑真自らが渡海の決意をされたという。しかし渡航は困難を極め、11年の間に5度の失敗を重ね、その上失明されたが、渡海の意思は堅く、天平勝宝5年 (753) 、6度目にして漸く来朝を果たされた。                                                                      
 翌年鑑真らは東大寺に招かれ、授戒伝律を任され、これを受け、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇はじめ多くの僧にわが国初の十師による授戒が行なわれた。そして天平勝宝7年 (755) には戒壇院という常設の授戒道場が完成し、以後鑑真和上はここで5年を過ごされる。この間その功績を讃えて大僧都にも任命され、辞されてからは大和上の称号を賜り、合わせて故新田部親王の旧宅地を下賜され、天平宝字3年 (759) に戒律の専修道場を創建した。これが唐招提寺である。その当時、多くの寺が国営の官寺であったが、唐招提寺は鑑真個人の理想を体現した私寺であった。大和上は天平宝字7年 (763) にこの地で76歳の生涯を終えられた。境内の北東の隅には鑑真和上御廟がある。また御影堂 (重文) には入滅直前に作られたという鑑真和上座像 (国宝) がある。
 私たちは南大門を潜り、拝観受付をして世界遺産になっている寺の境内をそぞろ歩く。この前来た時は、天平建築の金堂 (国宝) の平成大修理が終わった直後で、講堂 (国宝) 共々内陣が公開されていたが、今は通常は非公開とのこと、今回は外観するのみになった。ぐるっと境内を拝観して外へ。土産に春日大社の御神酒の「春鹿」を買った。
 こうしてこの楽しい旅は終わった。そしてここから長駆して金沢まで帰ることに。途中、京都駅で石田夫妻とケイちゃんが下りた。握手して別れた。マタネ!!!

0 件のコメント:

コメントを投稿