2010年9月24日金曜日

三島家ゆかりの義民上木甚兵衛と孝子三島勘左衛門

 先に平成22年秋の探蕎で、荘川町一色のそば処「式部の庵」へお邪魔した。この店は代々この地の庄屋や名主だった三嶋家の豪壮な住宅の中にある。ただ建物は新しく、では代々あった建物はどうなったのかという素朴な疑問が起きた。ならばあの折に主人に聞けばよかったのだろうけれど、聞かず終いで何となく心に引っ掛かりが残った。ところでその1週間後に飛騨の温泉へ出かける機会があり、それではと再び荘川の里を訪れた。今回の目的は高山市の民俗文化施設「荘川の里」(高山市荘川町新渕)にある「旧三島家住宅」の建物が、先に寄った現三嶋家の旧家屋だったのかどうかの確認のためである。
 訪れたのは9月19日の午後、庄川が流れる「荘川の里」には、岐阜県重要文化財の「旧三島家住宅」のほか、高山市文化財の「旧山下家、旧木下家、旧渡辺家住宅」三棟のほか、「旧宝蔵寺庫裏」や民俗資料館がある。パンフレットを見ると、「旧三島家住宅」は旧白川郷一色村の豪農三島家の住宅で、昭和47年に岐阜県重要文化財に指定され、昭和60年には荘川村が買い受け、現在地に移築したとある。ということは、現在荘川町一色にある探蕎会で訪れた現三嶋家の旧居に間違いないと思われる。
 旧住宅は間口16間、奥行き9間の建物、現在は瓦葺き切妻屋根になっている。正面やや左の「げんかん」を入ると、すぐ正面に「げんかんのま」があり、その左に「ふくべのま(次のま)」、次に進むと「なかのま」と左に「とこのま」、さらに進むと一番奥に「ぶつま」があり、浄土真宗の大きな仏壇が安置されている。「ぶつま」の左手には「女中座敷」という間がある。これらの間はすべて畳敷きで、部屋の大きさはすべて十畳である。「げんかん」の両脇には「えんげ」という上がり框があり、向かって右正面にある「えんげ」はやや大きく奥の広い「おえ」に、また左の「えんげ」は「ふくべのま」に通じている。「おえ」の奥には広い「ものおき」と、右手奥には広く大きな「だいどこ」があり、それを取り巻いて「みんじゃ(水屋)」がある。建物の前面最右には「まや」がある。通常の出入り口は正面のやや右寄り正面にある「えんげ」と「まや」の間にある「どじ」だと思われる。「ふろ」は正面最左の角と「みんじゃ」の左奥の二か所、「せっちん」は建物の左手に続く「えん」の最奥にある。
 現三嶋家と比較すると、外観は一見似ている。しかし旧宅は大きいが質素、現住宅は大きさは小振りだが、重厚さで優っている。もっとも当然間取りなどは全く違っている。

 以下に旧三島家住宅に関連して、三島家に纏わることを、いくつかの資料から抜粋して紹介する。手元にある資料では、「みしま」の表記はすべて「三島」となっているが、「式部の庵」の玄関の表札は「三嶋」となっていた。しかしここでは資料にしたがって「三島」と表記する。
 三島家の祖は、浄土真宗の開祖親鸞聖人の弟子で、鎌倉時代の初めに白川郷へ入った嘉念坊善俊から数えて八世の明誓の長男教信が還俗して武士となり、その子正顕が一色村に帰農して三島家を興したとある。「荘川の里」にある「旧三島家」が建てられたのは、三島家十一代勘左衛門正英の時である。この勘左衛門という人は、当時の三島家の跡継ぎとして上木(うわぎ)家から赤子の時に迎え入れられた人で、上木甚兵衛自賢(よりかた)の次男重松である。ところで上木甚兵衛という人は、実は三島家の次男で上木家へ養子に入った人なのだが、三島家の長男の実兄は若死にし、また迎えた養子も病弱で子供ができず、この里帰り養子の仕儀となったようだ。この住宅が建てられたのは宝暦13年(1733)で、勘左衛門13歳の時、したがって建築は実父の上木甚兵衛がすべてを取り仕切り、高山町の棟梁今井忠次郎によって建てられた。甚兵衛は若い頃には幕府御用木の元伐・流送の元締めをしていて、家はその時に払い下げを受けた檜で建てられたという。当初は寄棟式入母屋合掌造りの茅葺き屋根であったが、明治11年(1878)にくれ板葺き切妻屋根に改造され、その後屋根は瓦葺きにされている。
 ところで飛騨は徳川幕府の天領(直轄地)で、すでに元禄3年(1692)には検地(元禄検地)が行われていたが、安永2年(1773)に代官として赴任した大原が強引に再検地を強行したために、大原騒動という飛騨一円に大きな百姓一揆が起きた。この折に、上木甚兵衛は終始百姓の味方をし、代官との交渉では百姓の言い分を代弁したため、62歳という高齢で伊豆七島の新島に遠島となった。勘左衛門は実兄の上木与作と父の赦免に奔走したが、埒が開かなかった。
 一方遠島になった甚兵衛は、島の子供たちに読み書きを教え、島の人たちと交遊し、島民からは「飛騨ン爺」と呼ばれ慕われたという。在島15年の寛永2年(1790)、甚兵衛は中風の発作を起こし、後遺症が残る不自由な身体となる。
 このことを知らせる便りが島から届いた夏、勘左衛門は一族の代表として、父を介抱するため新島へ行くことを決意する。三島家の家督を息子の甚助に譲り、渡島する。翌寛永3年(1791)4月に勘左衛門は18年振りに父甚兵衛と対面する。長い年月のことを互いに語り合い、父の看病をし、自給自足の生活、一方で医術を会得して島人の治療をして生計を立てた。その献身的な振舞いは島の人々の心を打ち、またその評判は幕府にも届き、甚兵衛親子には米や金子や薬が度々下賜されたという。
 勘左衛門が渡島して7年4ヵ月後の寛政10年(1798)8月19日、甚兵衛は2ヵ月ほど臥した後、波瀾に満ちた生涯を終えた。在島23年、享年85だった。
 甚兵衛の辞世の句 「くもの巣に かかりて二度の 落ち葉かな」
 勘左衛門は父の死後なお1年ばかり島に留まり、我が手で父の墓を刻み、さらに今度は合掌する自分の姿を彫り、その胎内に法華経を収め父の墓の傍らに据え、父への回向を託した。寛政11年(1799)、父の一周忌を済ませた勘左衛門は島を離れることになるが、最後に父の墓に詣でたとき、離別の悲しみを詠んだ句がある。
 「こればかり 残る涙や 石の露」
 この甚兵衛の墓と勘左衛門の自刻像は、東京都新島村本村の長栄寺の墓地にあり、東京都の指定史跡となっていて、献花の絶えることがないという。
 勘左衛門が一色村の自宅に帰ったのは寛政12年(1800)の2月、父の葬儀を執り行い、父との島での暮らしを「新島追慕編」という絵巻に残し、また「伊豆七島風土細覧」という民俗資料も著している。そして天保3年(1832)に84歳で他界した。
 勘左衛門の歌集「深山世婦子鳥」には、辞世の句が書かれている。しかしこの絵入りの歌集は、江戸から新島へ渡るに先立って自らの法号とともに、一首の歌を「辞世」と題して書きつけたもので、再び生きて故郷の土を踏めないかも知れないという深い覚悟を込めて詠んだ歌である。
 「さくら花 つらなる枝も ちりぢりに 風にいずこの 土と消ゆらん」

 旧三島家住宅はこうして大切に保存されているが、この住宅には親と子の深い絆で結ばれた温かい物語があった。 

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