2010年6月29日火曜日

マチャ(三男誠孝)の法名は「西往院至誠孝順居士」

1.病院から住み慣れた家へ無言の帰還
 マチャは3月29日朝、救急車で県立中央病院に緊急入院し、42日目の5月9日の午前9時5分に息を引き取った。40年5月5日の生であった。遺体はすぐに病院職員の方によって清拭され、そして慌しく病室を空けることに。遺体をどうして自宅まで運ぶか、休日の場合、病院から自宅への搬送は葬儀社の当番制になっていて、まだ葬儀社の当てがないようであれば、こちらで計らいますとのこと。家が野々市町にあることもあり、病院に頼らないとすれば急を要した。家内では懇意にしている方が葬儀社に関係しているとのことで、その方に病院の公衆電話から連絡するが常に話し中のような感じで通じない。入院していた階は5階、そこで4階に下りてかけてもつながらない。とうとう1階まで下りてかけて漸く通じた。何のことはない、電話回線の故障だった。漸く連絡がついた後は、スムースにことが運んだ。部屋の荷物は持ち帰るものと不要なものとに選別して待機する。葬儀社は天祥閣、マチャは差し向けられたストレッチャーに乗せられ、霊安室口から霊柩車に移されて自宅へ。マチャには私が付き添い、車を自宅まで案内した。
 フリークスの福岡社長の機敏な対応で、自宅には数人の社員の方が待機しておられ、居間にマチャの遺体を安置した。頭を北に、本当に眠っているような寝顔だ。まだ身体も温かい。枕元に簡易な仮の仏壇が届けられ、順に皆が焼香する。程なく妙齢の女の方が見えられ、マチャに今一度軽い化粧をし、髪型も整え、死装束に着替えてくれた。さすがはプロ、マチャの顔、手先、足先以外の肌を全く衆目に曝すことなく着替えを済ませた。しかも一人で、これで旅装束に着替えたことになる。よく耳とか鼻に綿を詰めるのにしないので聞くと、この人は元気があって体内に不要な水分がないので、外に水分が出ないのでしなくてもよいとのことだった。入院中身体が浮いているような印象を受けたがと言うと、彼女はそれは浮腫とは違うと、またひょっとしてお腹の膨らみもがん性腹水のせいではと思っていたが、その方では、長年の経験からそうではないと言われた。もしそうだとすると、亡くなってから時間が経つと、体の下の方に水が下がって、穴という穴から水が出てくるとのことだった。髪型も生前好んでしていた髪形そっくりに仕上げてあって、なおのこと眠っているような印象が強かった。病であっても痩せてなくて、堂々とした立派な偉丈夫だ。
2.マチャの寝ている横で葬式の仕切りをする
 通夜や葬儀の段取りは、千晶や私達の話を聞き、フリークスの社長が判断されて万事が進行した。死亡広告は会社の方でされることに。これは恐らくは参会者のほとんどは会社関係の方達だろうという目論見があったことにもよる。葬儀式場の設営、開始時間、祭壇の規模、故人の写真の手配、各所への連絡、返礼の文面、香典の返し等などは社長に主導していただいた。受け付ける盛り花や菓子類も、金額とスタイルは統一した方がよいと指示されていた。また、葬儀の段取りとか通夜の振る舞いや中陰の人数や料理等々、細かいことまで葬儀社の担当の方や私達も交えて打ち合わせをした。また受付や来訪者の車の整理等も葬儀社任せではなく、必要最小限の雇いは別として、後必要な人数はこちらで動員し、必要なら指示して貰えばよいとのこと、百人くらいは動員できると言われた。現在フリークスには直営店が15店、FC加盟店が16店あるが、全店から通夜・葬儀に来ますとのこと、マチャに関わりのある方が多く見えるということは、マチャも嬉しいだろう。
 こうして通夜は5月10日(月)午後7時から、葬儀は5月11日(火)午前10時から、野々市町矢作にあるフューネラルホール天祥閣で執り行われることになった。喪主は妻の千晶だが、状況から見て、フリークスの社葬ともいえるスタイルになった。通夜と葬儀の親戚代表の挨拶は私だが、喪主の千晶にも簡単な挨拶をしてもらうことにした。また社長の希望では、通夜には参会者の方々に社長として挨拶したいと言われ、また葬儀には弔辞を述べたいと言われた。マチャは幸せ者だ。嬉しかった。
3.仮通夜にもマチャのもとには沢山の方が弔問に
 マチャが自宅に帰ったとのことで、沢山の方が弔問に訪れてくれた。以前いた会社で同僚だった、マチャが病院で皆勤賞を渡さねばとまで言っていたJ君は、ずっとマチャのそばにいてくれた。素晴らしい友を持ったものだ。マチャの長男は小学生のときには剣道、中学では野球を、次男は小学生で剣道をしているが、その関係の子供たちや先生や親御さんも弔問に見えた。通常仮通夜というと内輪だけのものだが、マチャの場合、会社の方はもちろん、前の会社の同僚や小中高の同窓の人も顔を出してくれたのには恐縮した。私にとっては前代未聞である。
 午後1時過ぎ、私の家の檀那寺である法船寺(浄土宗)の方丈さんが見えられた。この方は来年行われる法然上人八百年大遠忌の実行委員長をされていて、週5日は京都の知恩院に詰められていて、今日の日曜も夕方には京都に帰られ、明日の通夜に間に合うように来沢し、明後日の葬儀が済み次第京都に帰られるという過密なスケジュール、まことにお忙しい。
 翌日の葬儀の日も、納棺する午後3時頃までも弔問の客があった。寝顔は昨日とも全く変わっておらず、本当に安らかに眠っているようで、声をかければ「オー」と言って目を覚ますのではと思うほど自然な顔立ち、でも身体は脇と腹にドライアイスを抱かされていて冷たい。
4.マチャの写真の合成の妙
 天祥閣の係の人から葬儀の祭壇に飾る写真の元になる写真がありませんかと言われ、何葉かの写真を千晶が出してきた。そのうちから一応2枚を候補として上げたが、被写体が小さく、拡大するとボケそうな感じだ。そこへ社長が顔を出し、社には千枚以上ものマチャが被写体の映像がパソコンに入っているから、良いのを選ばせると言って社へ指示された。ほどなく選んだというA4のプリントが何枚か届いた。こちらは随分鮮明である。千晶と私達も入って選んだのが、どこかのスポーツジムでダンベルを持ち上げているポーズのマチャの写真、楽しんでいる様子で微かに笑みを浮かべている。社長曰く、顔はこれでいいとして、首から下はシャキッとしてないといけないので、フォーマルなスタイルの映像はないかと言うと、これにもすぐ呼応、胸元も決まって、これで行こうと社長。後はどうするのかと聞くと、九州に日本一写真を合成するのが上手いスタジオがあって、そこへ依頼するとか、画像を送信すればすぐに合成されて画面が送られてくるとか。元の2枚は色合いも向きも微妙に違っていて、そのままでは不自然なものになるのではと思っていたが、なんと出来上がった写真は全くの自然体、どこが継ぎ目なのか全く分からない。こんなことが出来るとすると、近頃問題になった件の女性の裸体も、首だけ挿げ替えると簡単に件の女性と見間違うことに、どんな合成写真も思いのままというのには実に驚いた。また当然だが、被写体やバックの色合いも自由自在である。葬儀用の写真はその画像を基にして葬儀社で作られるらしい。というのは葬儀がすんだ際、通常サイズの葬儀用写真が入ったポートレートを私に記念にとくれたが、それを目ざとく見つけた長男と次男が同じものをほしいというのでお願いしたら、簡単に引き受けてくれたことで分かった。
5.通夜には笑顔のマチャのスライドショー
 マチャが納棺されて、皆に担がれ、霊柩車に乗り、矢作の葬儀場へ。車には千晶と私が同乗、車は一旦生家である実家の前を通って行ってくれた。今度実家へ帰ってくるのは四十九日の満中陰の日だ。この法要は私と家内で仕切ろう。これが親としてできる最後の勤め、後は千晶に任そう。式場は既に整備されていた。受付もフリークスの方たちが監査役の方の指示でリハーサルしていた。そのほかにも沢山の方たちがいて、生前のマチャの楽しそうな表情をした過去を演出しようと懸命になっていた。あの励ましの色紙や千羽鶴も飾られることに、そのボードやパネルなんかもお手の物だという。なんとも社長の心配りには心から感謝しなければならない。スライドショーのリハーサルをしているところを少し拝見したが、生前の元気だったマチャが満面の笑みを浮かべて躍動していた。 
 ある女性の社員が私に、常務は会社では絶対私たちの前で笑顔を見せることはなく、緊張することが多かったけれど、慰安会などでは本当に楽しく別人のようだったと。だから好きなんだけれど、こと仕事では厳しく怖かったと。またある男性は、会社で注意されてしょげていると、後で必ず飲んだりしたときにフォローしてくれて、またしっかりやろうという元気が吹き込まれ、活力が湧いてきたと。気のいい優しい奴、しかもその人に合った矯正術を心得ているという印象を受けた。こんなだから自身で金を使うことはないものの、矯正して元気をつけるには「飲み」は必要だったようで、対手は個人のこともあり、少人数なことも、グループであることもあったようだ。だから貯金はせず、千晶が家内に嘆いたこともあったとかだったが、しかしその多くの人たちへの功徳がマチャの信望となり財産となって還元されてきているのだと思うと、決して無駄な投資ではなかったように思う。亡くなって千晶もようやく納得したようだった。私はとてもそこまでは出来ない。もって生まれた素晴らしい才能と性格のなせる結果だ。
 開式1時間前には喪主と父は席に着いて下さいとのこと、早いけれど、もう弔問客が見えているからだと。会場の正面左にはスクリーンが下げられ、あのマチャのスライドが映写されているようだが、遺族席からは真横で見えない。入り口のホールでも上映されているようだ。またバックに音楽が流れていたが、後日小立野の金大病院前にある前田書店の御主人が、私にその音楽は「色彩のブルース」という曲とかで、私にメールで届けて頂けた。聞くと、この曲はマチャの好きな曲で、携帯電話の着メロにも使っていたとは千晶の弁、だから彼女は聴くのは辛いと話していた。
 通夜の会場は1階のみの使用にして、1階は椅子席で200席ばかりだが、式が始まる20分前には席は全て埋まってしまった。通夜に訪れた人は620人ばかりと後で聞いた。
6.福岡社長の挨拶で分かったマチャの功績
 通夜の導師は実家木村家の檀那寺浄土宗法船寺の御住職、伴僧は大円寺と大連寺の御住職、浄土三部経の読経があった。頂いた誠孝の法名は「西往院至誠孝順居士」。
 読経が終わって社長の挨拶、初めはスクリーンを見ながら話しますとのことだったが、真横に位置するため画面を見ながらのトークは難しく、口頭での挨拶となった。内容は、誠孝との出会い、株式会社フリークスへの参画、緊密な下調べによる新店舗開拓への努力、社長の片腕となっての活躍、そしてフリークスグループの基盤確立への貢献、などである。
 社長が自立してマンガ喫茶を野々市町に持ったのは平成11年、この頃誠孝はペプシコーラの営業をしていて、よく訪ねてきていたという。2年後にはこの店を閉めて、フリークスの1号店を有松に出店したが、このとき誠孝の努力が実ってコカコーラからペプシに納入先が変わった。平成15年に有限会社フリークスを立ち上げ、請われてフリークスに入社した。私達は慰留したが、社長に惚れたのだろう。誠孝の決意は固かった。会社は2年後には株式会社に改組している。当時はまだマンガ喫茶にも発展の余地があり、専ら優良な居抜き物件を取得してマンガ喫茶にする方針で出店していたが、社長では誠孝が診断してGOとなった店はことごとく繁盛したとのことで、社長の片腕となりえたようだ。出店は地元石川ばかりでなく、福井、新潟、三重、岐阜、愛知にも及び、現在も健在で営業している。またフランチャイズ加盟店も石川ばかりでなく、福井、富山、青森、岩手、宮城にも出来、誠孝は開発関係の最高責任者として活躍するとともに、常務取締役として経営にも参画することになる。社長は挨拶でフリークス発展の要だったと言ってくれた。その後幹部の方たち10人ばかりが、今後10年を展望した誠孝の方針を引き合いに出し、それぞれが方針の実現に向かっての抱負を述べてくれた。
 これに対し私からは、昨年7月に入院してから今年5月に他界するまでの経過と、社長との出会い、そして誠孝は福岡社長の下でこそ「時」と「所」を得て活躍することができたことに対する感謝の気持ち、病院にいても仕事に対する情熱は衰えることなく、私は木口小平の「死んでもラッパを放しませんでした」という昔の修身の一節を思い出し、また「斃れて後止む」ということを実践してくれたように思えると述べた。またこの世との別離に当たっても、妻や私達両親にもただ「ありがとう」という感謝の気持ちのみしか述べなかったことも、常人では出来ないのではと話した。
 この後、誠孝を偲んで、近親者、会社関係の方々、その他友人達が寄って、お酒を飲みながらいろんな話をした。会社の方々の席へ挨拶に行くと、社長は誠孝が愛飲していた「鏡月」を飲まれていた。私も頂いて誠孝に「献杯」した。遺体は私達が泊まる部屋の安置場所に移されていたが、ここで誠孝と対面しながら、また飲みかつ話し合った。
7.小雨のなかの葬儀
 翌日の葬儀の日は生憎の小雨、でも三百人を超える方々がお参りに訪れて下さった。読経の後、福岡社長の弔辞、私と千晶の挨拶の後、出棺、最後のお別れには、多くの人にも声をかけて誠孝を花で埋めてもらった。やさしい寝顔だった。火葬は旧鳥越村にある共同斎場で。ここでの火葬は2時間を要するので、僧侶の方達からは敬遠されていると聞いている。私もここへ来たのは初めてだった。金沢市の斎場での待ち時間は1時間である。方丈さんも京都へ帰られるので、時間を気にしておいでだったが、長男の将太も修学旅行に二晩目の今晩合流参加しても良いかとの打診に、身内の方の同伴があれば宿で待ちますとの返事、これで父親が生前行ってこいと言ったことがやっと実現するが、これも時間との戦い、気が気でなかった。
 予定より30分も遅れて火葬が終わった。178cmの偉丈夫も今は白骨と化した。体育会系だけあって立派な大腿骨と股関節、職員の話では仙骨が脆くなっていたとか、腰や足の痛みは大変だったろうと思いやった。骨壷に皆で遺骨を拾い収めた。読経と初七日の法事を済ませ、慌しく方丈さんも将太も金沢駅から電車に、将太も無事甲子園の宿舎に皆と合流できたとか、よかった。時間が遅延したこともあって、中陰の席に着かずに帰られた人も何人か。七七日、四十九日の満中陰の法事は6月27日の日曜日に、誠孝が生まれた実家で執り行うことに。こうして慌しくも無事誠孝の葬儀を終えることができた。
 翌日は千晶と家内と私とで関係各所への挨拶回り、誠孝が亡くなってのこれからの生活設計も考えねばならないが、これで取り敢えずは一段落した。

〔追記〕
後日、株式会社フリークスコアからリーフ3葉が入った手紙を貰った。内容を以下に転記する。
1.御 礼
 先日は弊社常務取締役木村誠孝儀、葬儀に際しましてはご多忙中にも拘らずご会葬賜り且つご丁重なるご弔辞とご厚志まで頂戴し心より御礼申し上げます。
 思いおこしてみると、故人は熱く誠実で、そして優しい男でした。創業以来、いつも私の片腕として共に走り続けてきた第一人者でありました。どんな時も”感謝”を忘れないことを信条に、最後まで命を懸けて家族そして会社の為にそして私の為に頑固なまでに体を張り、フリークスグループの基盤を創ってくれました。
 これから私たちは常務の思いを胸に秘め、力を合わせて社業の発展に努めて参ります。生前にお世話になった皆様、今後とも今まで同様にご指導ご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。
 最後になりますが、貴社の益々のご発展と末永いご健康を祈念いたしましてご挨拶とさせていただきます。
 平成二十二年五月
 フリークスグループ 代表  福岡 悟  印

2.サンクスカードを持った笑顔の誠孝 と 誠孝の上半身正面写真・枠内に式場正面 
 サンクスカード: FROMフリークス社員・スタッフ一同  TO木村常務
 『感謝をこめて・サンクスカード』 1人目  H22年5月9日
 「木村常務には、たくさん ご指導いただき 大変感謝しています 本当にありがとう」
 墨書 「人生感謝」 「ありがとうございました」 「お世話になりました」
 木村誠孝の墨書の自署 『感謝』 木村誠孝   平成22年5月9日永眠・・・

3.平成の漫画喫茶キムラ39珈琲オープンのご案内
 先日は、弊社 常務取締役 木村誠孝儀 葬儀にご参列ありがとうございました。故人が新しいプロジェクトの責任者として進めて参りました「平成の漫画喫茶キムラ39珈琲南新保バイパス店」がいよいよオープンする運びとなりました。故人の思いや取組みを店で感じていただき、故人同様の御厚情、ご愛顧を賜りますようお願い申し上げます。
 平成二十二年五月吉日
 フリークスグループ  株式会社 キムラ39
 代表取締役  福岡  悟     取締役  木村 千晶
 オープン日時:2010年6月2日(水) 午前7時
 営業時間:午前7時~深夜1時
 場   所:金沢市南新保ト23-1
 電話番号:076-239-0860



 

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