2010年6月23日水曜日

マチャ(三男誠孝)は彼岸へ旅立った

1.五度目の入院は救急車での緊急入院
 平成22年3月16日に退院して自宅で静養していたが、月末の29日朝、息苦しくなって救急車で県立中央病院に緊急入院したと、細君の千晶から連絡が入った。入院は数えて五回目になる。家内と私は直ぐに病院へ駆けつけた。主治医の先生も見えられ、救急処置がなされたようだ。容体についての詳しい説明はなかったが、間質性肺炎の悪化が考えられる。容体は落着いたが、先生ではこのまま入院した方が安心だとのこと、五度目の入院ということになった。丁度この日は次男家族の千葉松戸から金沢への引越しの日、家内は手伝いに行く予定にしていたらしいが、フルタイムはとても無理だったが、少しは手伝えたと言っていた。家内はマチャが入院したということで、この日からこれまでのように午後6時前にマチャの所へ行き、午後7時前には一旦家に帰り、午後8時までにはまた病院へ戻るという日課が再開された。前の入院時よりも息苦しさがあるようだが、病院という環境が安心感をもたらすのか落着いていた。また何故なのか食欲はある方で、私には実に不思議な現象に思えた。だから一見病人らしくない病人のようだった。こうして容体も落着き、4月が過ぎていった。私もこの間、年2回あるペースメーカーのチェックに金沢医科大学病院へ出かけられたし、勤務している予防医学協会に働くT君が団長を勤める百万石ウインドオーケストラの定期演奏会も聴いたり、ラ・フォル・ジュルネ金沢のオープニングコンサートにも出かけられた。 
 マチャが再々々々度入院したということで、フリークス傘下の店の従業員全員と思われる大勢の方達から「木村常務、早くよくなって下さい」という病気平癒の寄せ書きが沢山寄せられ、その数は夥しく、マチャがこれほど慕われていたことに驚きもし、感謝の念を禁じえなかった。半ば公けな一面はあるにせよ、それを読むと、その文章の端々には、早く癒されてまた一緒に仕事をしたいという、皆からの一途な熱い思いが伝わってきて、やるせないものがあった。福岡社長の快癒を願う大きな墨書の色紙は、マチャには大きな励みになったことだろう。またフリークス以外の方からも、病気に打ち勝ってとの激励の力強い書が届いた。嬉しい限りである。私は土曜ごとにしか訪ねていないのに、社長はとりわけ忙しいのに、足繁く訪ねられていた。また前にいた会社での同僚の中には、ほぼ毎日訪ねてくれた人もいた。
 そんな中で、社長の発案なのだろうか、あるいは誠孝も少しはかんでいたのかも知れないが、入院している病院に程近い国道8号線沿いの、丁度フリークスの駅西バイパス店の向かい側辺りに、以前はラーメン屋だったとかの居抜き物件を改装して「キムラ珈琲」という店をオープンするとか。誠孝は知っていたのかも知れないが、親としては社長の心遣いに涙が出るほど嬉しかった。内装も外装も、マチャがタッチしたのかどうかは知る由もないが、マチャからは設計図やイラストを見せてもらった。当初の開店は5月31日、マチャのカレンダーには『キムラ珈琲OPEN!』と書き込んであった。もっとも実際開店したのは、大安吉日の6月2日だった。でもマチャはその日を待たずに他界していた。
 5月に入って、1日には長男の豊明が帰ってきて4日までいた。この間、マチャとは何回も顔を合わせている。また次男の朋伸は駅西に銀行の支店があるので、病院とは近いこともあって、時々様子を見に出かけていたようだ。この5月のGWには、以前なら私達夫婦と子供達3家族とが何処かで集まる企画を立ててくれたものだが、もうそのような機会は来ないのだろうか。親子の情もさることながら、兄弟の情というのはまた親と違った絆を感ずるものらしい。長い最長7日というGWも過ぎ、8日の土曜日は終日庭の掃除をした。ツツジの花が終わったあと、その萎れた花を外すのにはかなりの手間がかかるが、きれいになると新緑が実に清々しい。終わっていつものごとく私は夕方病院へ出かけた。酸素の流量が多くなったとのこと、少し息遣いが荒いのが気になる。それに対処するためか安楽療法を始めるという。どういう治療なのか皆目見当がつかないが、身体が楽になるというのであれば、それも一つの選択だが、ただ食は細るとのことだった。食べたくなくなるのだろうか。そしていつもの如く、一度家内と自宅へ帰ることに。そして家内は再び病院へ。
2.マチャとの別れと彼岸への旅立ち
 翌日の9日は日曜日、少し遅れたが朝1時間のウォーキングに出かける。家に着いたときに家内から電話、誠孝の容体がおかしいので、直ぐに病院へ来るように、朋伸が迎えに行くからと。午前8時頃だったろうか。急いで身繕いして病院へ。マチャはベッドに半分くらい上体を起こして寄りかかっていた。見たところ、そんなに切羽詰ったような様子は見られないものの、息遣いは荒く苦しそうだ。細君の千晶と次男の勇貴も着いた。長男の将太は野球の対外試合があるとかで中学校へ出かけたとのこと、学校へ連絡して、次男の朋伸が迎えに行く。誠孝の次男の勇貴は永久の別れを察したのか、父の傍を離れないで泣いている。千晶が誠孝に「将太は明日から楽しみにしていた修学旅行」だと言うと、誠孝は「行ってもよい」と言う。微かな笑みを浮かべたやさしい顔をしている。千晶とは何度も抱き合って「ありがとう」「アリガトウ」を何度となく口にしていた。もう長くはないと感じていたのだろうか。でも声はしっかりしている。心から吐露された言葉には真心が感じられる。私もいつも別れるときのように手を握った。いつもは「また来るから元気でナ」と言うのだが、この日は大きなマチャの手で強く握り返されて「ありがとう」とマチャに言われてしまった。
 誠孝は職員には感謝の気持ちを忘れないようにと、平生からくどいほど口にしていたと聞いたことがあるが、正に付け足しではなく本当に心と体とが一体になっている感がする。酸素マスクが外れそうになって、目張りをする。長男の将太が着いた。将太の顔を見るなり、「修学旅行に行って来いヤ」という思いやり、涙が出る。将太や勇貴ら子供達には「スマンナア」と言い、妻や両親や兄弟には「アリガトウ、ありがとう、有難う」と、何の愚痴を言うこともなく、達観した悟りの境地とも受け取れる姿、私だったらこうは行くまい。既に仏になっているのだろうか。苦しいのだけれど苦しい表情も見せずに、我が子ながら実に見上げたものだ。
 午前9時頃、女の看護師が右腕に筋注を1本した。予め誠孝からお願いしてあったとか、麻酔薬なのか、睡眠薬なのか、暫くして誠孝は静かに目を閉じた。主治医の先生は学会に出張だとか。代わりに若い医師が、その医師に眠りは浅いのか深いのかと聞くと、浅いとのこと。その1,2分後だったろうか、福岡社長が見えられた。耳元で「ジョウム」と呼ばれて、誠孝は一瞬目を開けた。奇跡ともいえる2秒だった。でも口は結んだままだった。もし注射する前だったら、どんな会話が交わされたろうか。でも誠孝から発せられる言葉は、「有難う」と「お世話になりました」だったろう。「本当にお疲れさんでした」がみんなからのはなむけの言葉だ。
 心肺機能のモニターはナースセンターにあるが、やがて心肺停止の連絡が入った。肉体の苦しみは永遠の眠りにつくことで開放されたようだが、この注射は何となく死亡幇助のような気がしてならなかった。午前9時5分、医師は心肺停止と瞳孔散大を確認し、御臨終ですと。こうして誠孝は彼岸へ旅立った。死因は肺炎ですと。剖検しますかと言われたが、断った。40年と5月と5日の命であった。生前元気なときに、せめて還暦まで、かなわなくてもせめて50歳まで仕事をしたいと言っていたが、40年を駆け抜けて、親より先に他界してしまった。
 でもマチャは皆から可愛がられ、慕われ、頼りにされ、十分立派な悔いのない道を歩き、世を渡ってきたと思う。偉かったと心から褒めてやりたい。私達は誠孝と呼ぶよりは、小さい時から愛称の「マチャ」と呼んできた。これは家族だけではなく、同窓生も皆「マチャ」と呼んでいたし、親しい間柄の人だったらやはり「マチャ」だったようだ。何となく響きがよい。
 実家に来ても仕事の話は一切しなかった。時々国内国外へ出張した折に求めた土産の品を持って来てくれた。そんな折にマチャが飲むのは「鏡月」、実家にはしっかりキープしてある。マチャそれを私が愛用している大きな厚手のグラスに入れ、それにレモンの櫛切りを入れ水で割る。マチャはいつも私には同じグラスにレモン汁を加え、「山楽」を満たしてくれる。こんなことをしてくれるのはマチャだけだった。
 誠孝は新しく名刺ができても親にくれることはなかったが、私の両親の遺影と妻の両親の遺影の前には必ず名刺を置いていってあった。誠孝が亡くなって初めて何枚かの名刺を目にした。最後の一番上に置いてあった名刺には、株式会社フリークスコアの常務取締役・開発本部長という文字が刷り込まれてあった。
 木村誠孝、愛称「マチャ」は、安らかに眠っているような寝顔、声をかければ「オー」と言って起きてきそうな様子。何も言い残さず、ただ感謝、感謝のみを口にして、永久の旅に発ち、彼岸へ往った。合掌。享年40。

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