2010年11月5日金曜日

生蕎麦に纏わること

〔蕎麦屋の暖簾〕
 今秋の10月半ばに、長野県松本市の美ヶ原温泉で開かれた薬学部昭和34年卒の同窓会:ゼレン会の席で、大阪在住のK君から、君なら知ってるだろうと難問を吹きかけられた。それは以前はよく蕎麦屋で見かけた暖簾に書かれた文字のことである。金沢では往時蕎麦屋は一軒しかなく無いに等しかったが、東京辺りではよく見かけたものだ。何て書いてあるのと言われれば「生そば」でしょうと言えるが、彼の質問の主旨は「きそば」はよいとして、どういう漢字を崩したのかそれを知りたいと言う。「まさか『生蕎麦』じゃないでしょうね」と念を押された。これには一本取られた。これまで「きそば」と思っていただけで、そこまでは詮索しなかった。彼が言うには、蕎麦屋へ入って聞いても全く埒が開かないとのこと、じゃ手前が調べればよいものをと思ったものだ。
 いわゆる変体仮名を読める人には、こんな字を読むことは朝飯前、暖簾に書いてある文字は「生蕎麦」ではなく「幾楚者」で、漢字を崩して書いたものではなく、この漢字を字母とした平仮名だという。110年前の1900年(明治33年)に、帝国教育会が同音の仮名に当時数種あるのを一種に限ると議決し、小学校令施行規則の第1号表に当時使われていた48種の字母による平仮名(一音一字)が誕生し、それ以外の字母による仮名はいわゆる「変体仮名」として扱われるようになり、日常生活には使われなくなった。すなわちそれまでは現代の平仮名も制定後は変体仮名とされた仮名も区別なく平仮名として巷で用いられてきた。乱暴な言い方をすれば、ある「音」の字母が数種あれば、数種の平仮名が存在したことになり、その使いようは時代によっても、時に個人によっても好みで異なるようであった。その数は多く、200とも300とも言われている。
 さて、本題に戻ろう。現在用いられている字母は、「き」は「幾」、「そ」は「曽」、「は」は「波」である。ところが暖簾の字は、「そ」は「楚」、「は」は「者」を字母とした今でいう変体仮名である。しかしこの暖簾の文字は明治の制定以前から用いられていて、いわば伝統として特に当時の業界が抵抗して残したものと言え、このような例は他にもありそうだ。暖簾を見ると「者」の変体仮名の「む」のような字に濁点が振られているが、濁点の歴史は浅いから、これは以前はなかったかも知れない。近頃は「そば」は変体仮名を用い、「き」は「生」を当てている暖簾もある。しかし新しく興った大部分の蕎麦屋は、伝統にこだわることなく、自由な発想で暖簾を作成している。
 それではこの「生蕎麦」とは何だろうか。あれこれ辞書を見ると、とにかく「蕎麦粉だけで混ぜものがないそば、もしくは蕎麦粉だけで打ったそば」と要約することができる。すなわちいわゆる純粋な蕎麦粉や十割蕎麦もしくは生粉打ちということらしい。ところが全部の辞書ではないが、少量のつなぎを加えたそば、混ぜものが少ないそばもそう呼ばれるとある。しかしこの「生蕎麦」と染め出された暖簾ができた当時は、うちは100%の蕎麦粉でつなぎを入れずに打っています、生粉打ちですという表示だったらしいが、時代を経るにしたがって、自分の処で「そば」を打っていますとの表示となり、もっと下がっては、単に「そば」を出していますという店でも出すようになったらしい。
〔挽きぐるみ〕
 私は長い間「挽きぐるみ」とは玄蕎麦を石臼で挽いたそばと思っていた。では丸抜きを石臼で挽いたものはというと?となる。そこで蕎麦に関することばの解説をあれこれ読むと、玄蕎麦であろうが丸抜きであろうが、そのまま三番粉まで挽きこんだ全層粉を「挽きぐるみ」というそうだ。昔は玄蕎麦をそのまま石臼で挽き、その後篩にかけて殻を取り除いていたが、これでは殻を完全に取り除けないため、黒っぽいボソついた食感の「田舎そば」となる。しかし現在市場で「挽きぐるみ粉」と呼ばれている粉は、殻を完全に取り除いてから製粉していて、甘皮も挽き込んでいるため、野趣に富んだ粉となる。「蕎麦やまぎし」では自家製粉で、前者を「黒」、後者を「白」と呼んでいる。
〔注1〕植原路郎の蕎麦辞典(昭和47年刊)によると、「蕎麦実を最初に置上げと言って、臼の間隔を広げて軽く挽いたものが『さらしな』、次に甘皮まで挽き込んだ二番粉が、世間でいう普通の蕎麦粉、これから更に挽き込んだものが三番粉の『挽きぐるみ』、もう一歩進めて、蕎麦殻のきわまで引き込むと『さなご』となる」とある。
〔注2〕中村綾子による上記蕎麦辞典の改訂新版(平成14年刊)では、「玄そば(殻つき)をそのまま挽き、篩で殻を取り除く製粉法をいう。これは外皮や甘皮部分の壊れくず等も混ざるので、黒っぽくてぼそつくが、香りも強く栄養価も高い。そばを丸ごと食べるようなものである。  ※ 殻を除いた丸抜きをそのまま挽いて粉の取り分けをしない粉を全層粉というが、これと混同されやすい」とある。

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