● 旧野々市小中学校
私が入学した野々市町立国民学校は、終戦後には野々市小学校になったが、今は私たちが通った古い学校の面影は全くない。というのは、古い小学校・中学校は、町村合併によって、統合した小学校、中学校が新しく建てられて移転したからである。しかも旧校舎の敷地は、新たに開通した県道窪野々市線(193号線)によって東西に分断され、今は西側の敷地跡に建てられた野々市中央公民館の前にひっそりと立つ跡地碑によって、昔ここに野々市小中学校があったことが僅かに偲ばれるのみである。ほぼ正方形だった旧敷地は、東は白山神社、南は町道、西と北は住吉川に囲まれていて、一辺は150m位あったろうか。旧校舎は南向きに建っていて、町道を挟んで右手には旧野々市町役場が、左手には旧公民館があった。校舎の裏にあたる北側には広い運動場があり、町の球技大会や盆踊りは此処で開催されるのが恒例だった。
● 小学生の頃の遊び(1) 樹上での鬼ごっこ
運動場の東に接してあった白山神社の境内はそんなに広くはないが、沢山の木々が植わっていて、それらが絡み合っていて、木から木へ容易に移ることができ、三抱えはあろうという銀杏のてっぺんまでも上ることができた。この大銀杏のほかに、欅や赤松とか杉や銀杏などが数本ずつ植わっていて、ここで樹上鬼ごっこをした。私は小さかったが木登りは得意で、木を伝いながら、大銀杏の頂までもよく上がった。身が軽かったこともあって、鬼に捕まったことはないし、逆に鬼になったら確実に狙った相手を捕まえることができた。一度鬼に負われて杉の枝を伝って逃げようとしてたら足元の枝が折れ、宙ぶらりんになったことがあった。ここでの遊びの空間の高さは、大銀杏を除けば5-10mほどだが、とにかく昼休みの時間などにはよくここへ来て遊んだものだ。もっともこれは男の子の遊びで、女の子が混じったことはない。高学年になってからは、松の横枝を絡ませ、藁縄を張り巡らせ、ターザン紛いの樹上遊びもした。でも先生や父兄から咎められたことは一度もない。もっともこれは好きな連中が集まってすることで、空が利かない子に強要したことはない。事故は一度もなく、唯一私の宙ぶらりんが、らしき出来事だった。
あるとき一計をめぐらし、高のきく3人を誘って、NHK金沢放送局の野々市送信所の送信塔に上ることにした。塔は対になっていて、高さは30m位だったろうか、もっと高かったかも知れない。今は送信塔は棒状だが、以前のは送電線の鉄塔のように鉄骨組みで、足場さえ確保できれば上られるはずで、最上部には船型の部分があった。今では鉄塔に簡単に上れないように、忍び返しなどが付けてあるが、当時はそんなものもなく、上っていけないとの表示もなく、難なく全員登頂に成功した。そして船の部分で横になっていたら、送信所の方に見つかって、お目玉を食った。でも学校への通報もなく、以後しませんで堪忍してもらった。今のご時世なら大変な一騒動になっていたに相違ない。
● 小学生の頃の遊び(2) パッチ遊び
パッチというのは、厚紙を直径二寸とか三寸に丸く切り抜かれたもので、通常、表には色々と彩色した絵が、裏には単色の簡単な模様などが描かれているものが多く、自作のはゲームには使用できず、通常市販のものが遊びに使われていた。これは一人でも遊べるが、大概は数人で遊ぶことが多かった。人数分のパッチを表を上にして置いておき、順が回ってきたら、自分のパッチで他の人のパッチに挑戦し、相手のパッチの下へ潜らせたり、相手のを引っ繰り返したりすれば、そのパッチをゲットすることができるというわけである。場所は屋内でも屋外でも、時には凹凸のある所や傾斜のある所、土の上、コンクリート、砂地など、場所を選ばずにやることができる。上手な子は片手では持てない位ゲットしたものだ。
パッチでのもう一つの遊び方は、「ダム」といわれたゲームで、数人でやるのが常で、例えば一人10枚位ずつ皆等分に出し合い、段差がある上の部分に集まったパッチを横長に固めて置き、それを大きなパッチ、もしくは二寸×三寸位の長方形の厚紙(ダマ)で、積まれているパッチに当てたり、あおったりして段下へ落とすもので、落とした分をゲットできる仕掛けになっている。うまくあおってバラして落とすのがコツだった。
またよく似た遊びで、名は忘れたが、同じように同数ずつ出したパッチを平たい所にバラ積みにし、同じように大きめのパッチやダマで当てたり、あおったりして、バラして一枚にするとゲットできるという遊びもした。この手の遊びにはコツがあって、とりわけ上手な名人がいた。オップというあだ名の私らの2級上の大将は、この遊びでは敵なしで、恐れられた存在だった。
● 小学生の頃の遊び(3) かくれんぼ、「ぼいやっこ」
前者はそんなに広くもない区域で、鬼になった子が他の子を見つける遊びだが、後者はかなり広い区域での遊びで、鬼も2,3人いて、他の子を見つけるだけでなく捕まえなければならないというかなりハードな走り回りもしなければならない遊びである。
● 小学生の頃の遊び(4) 杉鉄砲、紙鉄砲、(付 パチンコ)
前者は杉の実、後者は丸めた湿った紙の球を竹の筒から打ち出すもので、前者は杉の実が丁度入る位の細い竹を選び、銃身には節のない部分を、打ち出す方は内径にぴったりの竹ひごを用い、これを銃身下部の竹の節のある部分に刺し、これで内圧を高めて杉の実を飛び出させるもので、竹ひごの長さは調節する必要があった。後者は銃身にはもっと太いヤダケなどを用い、丁度内径にぴったりの細身の竹を探して装着するもので、発射のスピードも威力も杉鉄砲より強く、当たると痛いし、当たり場所が悪いと怪我したりした。
パチンコも作った。これは二又の木のY字の先に幅広のゴムバンドを装着し、小石を挟む部分を革などで補強したもので、これは危険な遊具だった。鳥なんかをこれで狙った。
● 小学生の頃の遊び(5) 独楽回し、凧上げ、剣玉
どこでも行なわれたお馴染みの遊びの数々である。凧は自製が多かった。
● 小学生の頃の遊び(6) 「Sけん」「だっちょぶくろ」 前者は地面に大きなSの字を描き、Sの字の中にいるときは両足で立っていてもよいが、一旦出口から外へ出ると、片足立ちして、ケンケンしなければならないのが決まりで、相手方と遭遇して揉み合い、先に両足が着いた方が負けになる。大概は5,6人が組になって、二組で戦う。
後者は、地面に大きな長方形を描き、その角に膨らんだ円を四つ描き、これがダッチョという部分になる。長方形の内側に、人が一人通れる幅の回遊できる通路を設け、その内側が陣地になる。これを等分に半分にして、通路に向け一カ所の出口を設ける。やはり5,6人が一組になり、二組で争う。遭遇して外枠からはみ出されると負けで、残り人数で比較したり、とことん決着つけたりする。 ● 小学生の頃の遊び(7) 腕相撲など
教室ではよく腕相撲をした。
また、握手をした状態で、右足を前に出して互いに向き合い、足の位置はそのままで、腕や身体を前後左右に振ったりして、相手をよろけさせたり、倒したりすると勝ちになる遊びで、駆け引きが面白い。何と言ったか思い出せない。
また手と手ではなく、両者間の媒体に縄や紐を使うもので、これは二人が相対峙して行なう。これは前者よりもっと駆け引きが必要で、やはり足の位置がずれた方が負けになるもので、面白かった。やはり遊びの名前は分からない。
● 小学生の頃の遊び(8) 「ほっけうま」
一人が壁を背にして立ち、次の人は前に立った人の股に頭を突っ込んで「うま」になり、順次、次々と5,6人が同様に前の人の股に首を突っ込み、こうして連続した「うま」ができ上がる。そこへもう一組の者が、後ろから跳び箱を飛び越す要領で、相手方の「うま」に飛び乗り跨る。このとき「うま」の人は、故意に身体を動かして乗られないようにしたり、振り落としたりすることもできる。二組同数で、交互に「うま」になったり、飛び乗る側になったりして、最後に多く残って乗っていた組が勝ちとなる。しかし時に一人の「うま」に集中して乗られると、その重みで「うま」がつぶれることもしばしばで、そんなときには危険を伴った。
● 小学生の頃の遊び(9) 陣取り
決められた範囲の地面に五寸釘を上手に突き刺して、刺せた点と点とを線で結んで陣地を作るもので、先ずは上手に釘を刺すことと、如何に効率的に場所取りをするかで勝負が決まる。これは地面が乾いていて固いと釘が刺さらず、勝負にならない。
2011年12月28日水曜日
2011年12月22日木曜日
「シンリョウのジュッカイ」 (5)
● 年暮れの餅搗き(1) 戦前
年暮れになると、どこの家でも、正月に飾る大小の紅白の鏡餅や、雑煮に用いる紅白の延し餅を搗くのが習いだった。だからこの季節になると、近所からはペッタンペッタンという音が伝わってきたものだ。私が生まれたのは昭和12年、だから私の戦前の餅搗きの記憶というと、あの皇紀二千六百年の祝いがあった昭和15年から終戦前年の昭和19年にかけてということになる。もっとも近くには造り菓子屋があって餅菓子も造っていたが、自家消費する餅を商売屋に頼む家はなく、わが家で食べる餅は皆自前で餅搗きしていた。
戦前の木村家は大地主だったので、祖父や父が餅搗きに加わることはなく、僅かに祖母(当時60歳前後)や母(当時30歳前後)が手伝う程度で、前日に行なう洗米から当日の蒸し、搗き、鏡餅造り、延し餅造りは、近くに住む大口の小作人のうち、いつも決まった顔ぶれの男手二人と女手二人が手伝いに来てくれていた。その皆さん方は当時40歳前後だったのではと思う。しかし手伝いとは言っても、四人の技量はまるで職人並みで、手際の良さには目を見張るものがあった。また搗く糯米の量は半端でなく、多いときは4斗(40升)、重さで言うと16貫、60kg にもなった。お米は精白するとかち減りするが、一晩水に浸けるとふやけて体積は元に戻る。通常は二升一臼なので、単純には20臼ということになる。
当時は道具蔵と米倉・納屋と母屋に囲まれた空間が、高い吹き抜けの広い土間になっていて、その場所は蔵や倉と同じ高さの瓦屋根で覆われていた。その片隅に直径二尺はあろうという鉄製の大きな竈を置き、それに架ける大きな釜、その上を覆う真ん中に穴の開いた厚い大きな鉄板を置き、その上に厚手のやはり真ん中に穴の開いた布を敷き、その上へ蒸篭を四段に積んで載せた。蒸篭と蒸篭の間にも穴の開いた厚い布が挟まれ、蒸気が漏れないようにしていた。
水に浸けてある米を笊に上げ、蒸篭に簾を敷き、その上に荒く編んだ目の布を敷き、そこへ上げた米を移す。溢れないようにほぼ一杯にすると、水量りで二升入る。真ん中に拳で窪みを作り、その蒸篭を積み重ねる。大体四段で餅搗きを支障なく回転させることができる。竈には薪を使う。納屋には沢山の割った薪が積まれていて、どんどん焚かれる。火力が衰えないように竈前は大事な仕事である。そして一番上、下から四段目の蒸篭から勢いよく蒸気が出てきたら、一番下段の蒸篭が蒸せた目安になるので、その最初の蒸篭を取り出し、お湯で温められた欅の大きな臼に、蒸篭の中の蒸し米を移す。よく蒸せていると布からの蒸し米の離れはよいが、そうでないと布に蒸し米がくっついて往生する。この最初の取り出し時に、蒸篭と鉄板を外し、釜にお湯を補充する。釜の空焚きは厳禁である。その後前と同じ順で蒸篭を積み重ねる。新しい蒸篭が最上段になるようにする。
餅搗きは最初の捏ねが大事で、この段階でほぼ餅の塊になる。この後搗きと返しを交互に繰り返す。このときは搗く人と返す人との呼吸が合っていなければならず、間合いが大事である。また返す人は、適宜餅に水を補給し、餅を返し、突いて凹みを付け、万遍なく均一な餅となるようにする。でも慣れた人は、阿吽の呼吸で、凡そ80回近く搗くと餅が搗き上がり、その後20回位軽く搗いて仕上げる。出来上がった餅は、大きさに応じて、そのまま、半分、適宜の大きさに臼の中で手で切り分け、盤台に米粉を篩った処に餅を置き、周囲から餅を摘まみ上げ、包むように結んで球にし、引っ繰り返して回転させながら風を送って冷やす。そうしないとだれて平べったい鏡餅になる。ずっと後には枠に入れてだれないようにしたものだが、当時はなく、またその必要もなかった。この出来が餅の形を左右する。さすが当時来てくれていた人達は皆ベテランだった。終戦後、全くの自前でやるようになったが、この時の経験が糧になった。鏡餅は下が白、上が赤、赤は若干小さく造った。延し餅は米粉を篩って、張り板に直接長方形になるように斗棒で延した。
餅搗きの合間に、餅に餡や黄粉を付けて食べたり、餡を餅でくるんで大福餅にしたり、また水餅にして大根下ろしで和えて食べたりした。2日後位になると延し餅は堅くなるので、両方に握りの付いた包丁で二寸角の大きさに切り分けた。こうして正月準備が整う。餅搗きにおいでてた女の方達は、正月料理の手伝いにもおいでてた。餅は向かいにあった分家にも届けていたようだった。
こんな餅搗きは、寒に入っては「かき餅」造りになった。10臼ばかり、中にはいろんなものが入った。色では、そのままの白、色粉の入った赤や黄、ほかには黒豆、切り昆布、胡麻などの入った餅が搗かれた。餅は細長い箱に入れられ、固まったら莚の上に置き、2日後位に一分程の厚さに切り、藁で十枚ほどずつ編み上げ、蔵の前に三段に簾状に吊るしたが、実に壮観だった。乾いてくると割れて落ちてくることがあるので、それを拾って食べるのも楽しみの一つだった。餅搗きは春秋のお祭りや御十夜(報恩講)にもされた。
● 年暮れの餅搗き(2) 戦後
終戦後、農地改革が進み、木村家は漸く一町歩の田を確保できた。ところが父は師団の戦後処理のうち、旧野村錬兵場の広い土地を元の持ち主に返還する事業の責任者として現地駐在ということになり、私達一家は金沢市十一屋町へ移った。ここには終戦翌々年の3月まで居た。この間、暮れの餅搗きはどうしていたのか、全く分からない。前に来てくれてた方々が義理立てして手伝いに来てくれていたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。ただ三番目の叔父が除隊して帰ってきていたから、叔父が中心になってやっていたかも知れない。でも父が野々市に帰ってからは、自前でしか餅搗きはしていない。
道具はそのまま残っていたので、同じように餅搗きをすることが出来た。幸い祖母も母も元気でしかも器用だったので、心配するようなことはなかった。ただ三番目の叔父が養子に出てからは、餅搗きは父一人で請け負った。私は小学校でも中学校でも背が低く、順ではずっと前から5番目で、とても大きな杵を持つなど思いもよらなかった。その頃は竈前と団扇扇ぎが関の山だった。背が伸び出したのは高校へ入ってからで、三年生になってやっと杵が持てるようになった。でも父はまだ50代後半、まだ主役だった。百姓になってからは、農家が皆そうしていたように、田圃一枚は糯米作りに当てていた。この頃はとても以前のように4斗は搗いていないが、でも2斗は搗いていた。そして四番叔父が所帯を持ってからは、そこへ正月のお餅を届けに行った。一番大変だったのは三八豪雪のときだった。前年の暮れ、吹雪と降雪で電車は動かず、リュックにお餅を詰めて、徒歩で横安江町近くの叔父の家までお餅を届けた。その折、やはり降雪と着雪で北陸線の架線が切れ、帰省客を乗せた列車が途中で動かなくなり、乗客は雪道の国道8号線を歩いて帰る破目に。長靴を履いている人はほとんどなく、中には靴下だけで歩いている人も見受けられた。大変な光景だった。
こうした餅搗きは、私が昭和40年に結婚した後も続けられ、石川県職員を退職する平成8年まで続いた。もっともその頃には田圃は全面委託していたし、餅搗きといっても1斗ほど、自家用のみとなっていた。そしてその後、米倉も納屋も旧宅も壊して新宅にしてからというもの、餅搗きをすることは全くなくなり、必要な分は菓子屋にお願いするというふうになった。もうあれから15年にもなる。
● 餅搗き外聞
(1)大釜の空焚き:私の後輩である金沢大学山岳部員が、冬山合宿に餅を持って行きたいが、市販の餅ではなく、自分たちで搗いた餅を持って行きたいという。誰に相談したのか、その話が私のところに回ってきた。糯米の量は5kgとのことなので2臼程度、いつも使っている大釜を用意した。餅搗きも無事終わり、餅はすべて丸餅にした。でもうっかり油断してしまって、大釜が空焚きになってしまい、ひびが入って大釜はお釈迦になってしまった。このトラブルで翌年からは新しく大きめの釜を使用することにし、それに合う竈を新設しなければならないことになった。昭和40年頃のことである。
(2)中村先生ご家族の餅搗き体験:金沢大学医学部微生物学教室の同門会でお会いした中村先生(現金大学長)から、子供たちに一度餅搗きを体験させてやりたいのでお願いできないかと相談を受けた。餅搗きの当日には奥さんもおいでて、2臼ばかり搗いた。先生も杵を持たれて搗いたし、奥さんや子供さんも餅を丸められたり、搗きたてを食べられたり、ご満悦のご様子で感謝された。昭和60年頃のことだったろうか。
(3)予防医学協会へ出張餅搗き:日本寄生虫予防会が主催した寄生虫病診断講習会には発展途上国数カ国から十数人の医師や検査技師が参加し、その一行が私が勤務する石川県予防医学協会にも寄られることになった。そのアトラクションに餅搗きをしようということになり、私に相談があった。臼と杵を提供し、屋根のある大きな駐車場で餅搗きをした。まあお祭りなので、搗く人も入れ代わり立ち代りで、外人の方は特に盛り上がっていた。平成10年頃だったろうか。
年暮れになると、どこの家でも、正月に飾る大小の紅白の鏡餅や、雑煮に用いる紅白の延し餅を搗くのが習いだった。だからこの季節になると、近所からはペッタンペッタンという音が伝わってきたものだ。私が生まれたのは昭和12年、だから私の戦前の餅搗きの記憶というと、あの皇紀二千六百年の祝いがあった昭和15年から終戦前年の昭和19年にかけてということになる。もっとも近くには造り菓子屋があって餅菓子も造っていたが、自家消費する餅を商売屋に頼む家はなく、わが家で食べる餅は皆自前で餅搗きしていた。
戦前の木村家は大地主だったので、祖父や父が餅搗きに加わることはなく、僅かに祖母(当時60歳前後)や母(当時30歳前後)が手伝う程度で、前日に行なう洗米から当日の蒸し、搗き、鏡餅造り、延し餅造りは、近くに住む大口の小作人のうち、いつも決まった顔ぶれの男手二人と女手二人が手伝いに来てくれていた。その皆さん方は当時40歳前後だったのではと思う。しかし手伝いとは言っても、四人の技量はまるで職人並みで、手際の良さには目を見張るものがあった。また搗く糯米の量は半端でなく、多いときは4斗(40升)、重さで言うと16貫、60kg にもなった。お米は精白するとかち減りするが、一晩水に浸けるとふやけて体積は元に戻る。通常は二升一臼なので、単純には20臼ということになる。
当時は道具蔵と米倉・納屋と母屋に囲まれた空間が、高い吹き抜けの広い土間になっていて、その場所は蔵や倉と同じ高さの瓦屋根で覆われていた。その片隅に直径二尺はあろうという鉄製の大きな竈を置き、それに架ける大きな釜、その上を覆う真ん中に穴の開いた厚い大きな鉄板を置き、その上に厚手のやはり真ん中に穴の開いた布を敷き、その上へ蒸篭を四段に積んで載せた。蒸篭と蒸篭の間にも穴の開いた厚い布が挟まれ、蒸気が漏れないようにしていた。
水に浸けてある米を笊に上げ、蒸篭に簾を敷き、その上に荒く編んだ目の布を敷き、そこへ上げた米を移す。溢れないようにほぼ一杯にすると、水量りで二升入る。真ん中に拳で窪みを作り、その蒸篭を積み重ねる。大体四段で餅搗きを支障なく回転させることができる。竈には薪を使う。納屋には沢山の割った薪が積まれていて、どんどん焚かれる。火力が衰えないように竈前は大事な仕事である。そして一番上、下から四段目の蒸篭から勢いよく蒸気が出てきたら、一番下段の蒸篭が蒸せた目安になるので、その最初の蒸篭を取り出し、お湯で温められた欅の大きな臼に、蒸篭の中の蒸し米を移す。よく蒸せていると布からの蒸し米の離れはよいが、そうでないと布に蒸し米がくっついて往生する。この最初の取り出し時に、蒸篭と鉄板を外し、釜にお湯を補充する。釜の空焚きは厳禁である。その後前と同じ順で蒸篭を積み重ねる。新しい蒸篭が最上段になるようにする。
餅搗きは最初の捏ねが大事で、この段階でほぼ餅の塊になる。この後搗きと返しを交互に繰り返す。このときは搗く人と返す人との呼吸が合っていなければならず、間合いが大事である。また返す人は、適宜餅に水を補給し、餅を返し、突いて凹みを付け、万遍なく均一な餅となるようにする。でも慣れた人は、阿吽の呼吸で、凡そ80回近く搗くと餅が搗き上がり、その後20回位軽く搗いて仕上げる。出来上がった餅は、大きさに応じて、そのまま、半分、適宜の大きさに臼の中で手で切り分け、盤台に米粉を篩った処に餅を置き、周囲から餅を摘まみ上げ、包むように結んで球にし、引っ繰り返して回転させながら風を送って冷やす。そうしないとだれて平べったい鏡餅になる。ずっと後には枠に入れてだれないようにしたものだが、当時はなく、またその必要もなかった。この出来が餅の形を左右する。さすが当時来てくれていた人達は皆ベテランだった。終戦後、全くの自前でやるようになったが、この時の経験が糧になった。鏡餅は下が白、上が赤、赤は若干小さく造った。延し餅は米粉を篩って、張り板に直接長方形になるように斗棒で延した。
餅搗きの合間に、餅に餡や黄粉を付けて食べたり、餡を餅でくるんで大福餅にしたり、また水餅にして大根下ろしで和えて食べたりした。2日後位になると延し餅は堅くなるので、両方に握りの付いた包丁で二寸角の大きさに切り分けた。こうして正月準備が整う。餅搗きにおいでてた女の方達は、正月料理の手伝いにもおいでてた。餅は向かいにあった分家にも届けていたようだった。
こんな餅搗きは、寒に入っては「かき餅」造りになった。10臼ばかり、中にはいろんなものが入った。色では、そのままの白、色粉の入った赤や黄、ほかには黒豆、切り昆布、胡麻などの入った餅が搗かれた。餅は細長い箱に入れられ、固まったら莚の上に置き、2日後位に一分程の厚さに切り、藁で十枚ほどずつ編み上げ、蔵の前に三段に簾状に吊るしたが、実に壮観だった。乾いてくると割れて落ちてくることがあるので、それを拾って食べるのも楽しみの一つだった。餅搗きは春秋のお祭りや御十夜(報恩講)にもされた。
● 年暮れの餅搗き(2) 戦後
終戦後、農地改革が進み、木村家は漸く一町歩の田を確保できた。ところが父は師団の戦後処理のうち、旧野村錬兵場の広い土地を元の持ち主に返還する事業の責任者として現地駐在ということになり、私達一家は金沢市十一屋町へ移った。ここには終戦翌々年の3月まで居た。この間、暮れの餅搗きはどうしていたのか、全く分からない。前に来てくれてた方々が義理立てして手伝いに来てくれていたかも知れないし、そうでなかったかも知れない。ただ三番目の叔父が除隊して帰ってきていたから、叔父が中心になってやっていたかも知れない。でも父が野々市に帰ってからは、自前でしか餅搗きはしていない。
道具はそのまま残っていたので、同じように餅搗きをすることが出来た。幸い祖母も母も元気でしかも器用だったので、心配するようなことはなかった。ただ三番目の叔父が養子に出てからは、餅搗きは父一人で請け負った。私は小学校でも中学校でも背が低く、順ではずっと前から5番目で、とても大きな杵を持つなど思いもよらなかった。その頃は竈前と団扇扇ぎが関の山だった。背が伸び出したのは高校へ入ってからで、三年生になってやっと杵が持てるようになった。でも父はまだ50代後半、まだ主役だった。百姓になってからは、農家が皆そうしていたように、田圃一枚は糯米作りに当てていた。この頃はとても以前のように4斗は搗いていないが、でも2斗は搗いていた。そして四番叔父が所帯を持ってからは、そこへ正月のお餅を届けに行った。一番大変だったのは三八豪雪のときだった。前年の暮れ、吹雪と降雪で電車は動かず、リュックにお餅を詰めて、徒歩で横安江町近くの叔父の家までお餅を届けた。その折、やはり降雪と着雪で北陸線の架線が切れ、帰省客を乗せた列車が途中で動かなくなり、乗客は雪道の国道8号線を歩いて帰る破目に。長靴を履いている人はほとんどなく、中には靴下だけで歩いている人も見受けられた。大変な光景だった。
こうした餅搗きは、私が昭和40年に結婚した後も続けられ、石川県職員を退職する平成8年まで続いた。もっともその頃には田圃は全面委託していたし、餅搗きといっても1斗ほど、自家用のみとなっていた。そしてその後、米倉も納屋も旧宅も壊して新宅にしてからというもの、餅搗きをすることは全くなくなり、必要な分は菓子屋にお願いするというふうになった。もうあれから15年にもなる。
● 餅搗き外聞
(1)大釜の空焚き:私の後輩である金沢大学山岳部員が、冬山合宿に餅を持って行きたいが、市販の餅ではなく、自分たちで搗いた餅を持って行きたいという。誰に相談したのか、その話が私のところに回ってきた。糯米の量は5kgとのことなので2臼程度、いつも使っている大釜を用意した。餅搗きも無事終わり、餅はすべて丸餅にした。でもうっかり油断してしまって、大釜が空焚きになってしまい、ひびが入って大釜はお釈迦になってしまった。このトラブルで翌年からは新しく大きめの釜を使用することにし、それに合う竈を新設しなければならないことになった。昭和40年頃のことである。
(2)中村先生ご家族の餅搗き体験:金沢大学医学部微生物学教室の同門会でお会いした中村先生(現金大学長)から、子供たちに一度餅搗きを体験させてやりたいのでお願いできないかと相談を受けた。餅搗きの当日には奥さんもおいでて、2臼ばかり搗いた。先生も杵を持たれて搗いたし、奥さんや子供さんも餅を丸められたり、搗きたてを食べられたり、ご満悦のご様子で感謝された。昭和60年頃のことだったろうか。
(3)予防医学協会へ出張餅搗き:日本寄生虫予防会が主催した寄生虫病診断講習会には発展途上国数カ国から十数人の医師や検査技師が参加し、その一行が私が勤務する石川県予防医学協会にも寄られることになった。そのアトラクションに餅搗きをしようということになり、私に相談があった。臼と杵を提供し、屋根のある大きな駐車場で餅搗きをした。まあお祭りなので、搗く人も入れ代わり立ち代りで、外人の方は特に盛り上がっていた。平成10年頃だったろうか。
2011年12月12日月曜日
名無草と金沢大学校歌
こう二つを並べて挙げると、何だろうと訝られそうだ。この二つに共通しているのは、両方とも歌であるということである。後者は校歌とあるから歌であることに間違いはない。でも前者の方は、先ず関係者の間でしか歌われていないから、先ず無関係の方には無縁の歌といえる。もう一つの共通点は、作詞が郷土の詩人室生犀星(1889-1962)によっているということである。ところで「名無草」とは何かというと、旧金沢薬専(金沢医科大学付属薬学専門部)の学生歌に類する歌といえばよいだろうか。
この名無草が作られたのは昭和4年(1929)で、現存する楽譜の原本には趣意書が付けられていて、その経緯を知ることができる。昭和3年(1927)、金沢薬専が広坂通りの第四高等学校(四高)の校舎から、小立野の金沢医科大学の敷地に移転したのを機会に、学園の面目を一新せんとし、当時の二年生らがそれに相応しい歌をという発案をし、彼等が卒業する翌年にそれを具体化すべく、一,二年生と相はかり、郷土の詩人室生犀星の門をたたき、ここに「名無草」なる一草を得たという。そして弘田龍太郎(1892ー1952)が曲を付け、この歌が完成した。こうして学生の熱意で作られたこの歌は、薬専生のみならず新制大学の薬学生にも受け継がれ愛唱されてきた。私も薬学部の学生になってこの歌の洗礼を受けた。同窓会でもコンパでも、薬学生の集いには、必ず自然発生的に歌いだ出される歌である。以下に歌詞を記す。
名 無 草
室生犀星 作詞
深雪(みゆき)のしたの 名無草(ななしぐさ)
けふは匂はむ はるは来ぬ
くろがねいろの とびらさえ
打ちくだかれむ 汝(なれ)が日に
汝(なれ)が日に はるのとびらよひらかれむ
さて、金沢大学校歌であるが、依頼されて出来上がった室生犀星の詞に、信時潔(1887-1965)が曲を付けて出来上がった。出来たのは恐らく新制大学ができた昭和24年(1949)前後じゃなかろうか。私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)であるが、入学の時にこの校歌を聴いたかどうかは定かではない。しかしこの歌を私が諳んじているということは、どこかで最初に接したはずなのだが、その覚えが全くない。かといって、何か大学の行事で歌ったという記憶もない。ところで今はどうなのだろうか。折角こんなに素晴らしい歌があるのに、学生がもっと誇りをもって歌えるように、大学は努力すべきじゃなかろうか。在学生、卒業生の皆さん、ぜひこの格調の高い校歌を歌いませんか。以下に歌詞を記す。
金沢大学校歌
室生犀星 作詞
天(あま)うつなみ けぶらひ
天(あま)そそる 白ねの
北方(ほくほう)のみやこに学府のありて
燦然(さん)たる燈(ともしび)をかかげたり。
人は人をつくるため
のろしをあげ
慧智(えいち)の時間(とき)を磨く
光栄(はえ)ある人間(ひと)をつくらむと
新風文化の扉(と)は 開かれ
あたらしの人 世代にあふれ
手はつながれ 才能(さい)は結ばれ
こぞりてわが学府につどへり。
こぞりてわが学府につどへり。
この名無草が作られたのは昭和4年(1929)で、現存する楽譜の原本には趣意書が付けられていて、その経緯を知ることができる。昭和3年(1927)、金沢薬専が広坂通りの第四高等学校(四高)の校舎から、小立野の金沢医科大学の敷地に移転したのを機会に、学園の面目を一新せんとし、当時の二年生らがそれに相応しい歌をという発案をし、彼等が卒業する翌年にそれを具体化すべく、一,二年生と相はかり、郷土の詩人室生犀星の門をたたき、ここに「名無草」なる一草を得たという。そして弘田龍太郎(1892ー1952)が曲を付け、この歌が完成した。こうして学生の熱意で作られたこの歌は、薬専生のみならず新制大学の薬学生にも受け継がれ愛唱されてきた。私も薬学部の学生になってこの歌の洗礼を受けた。同窓会でもコンパでも、薬学生の集いには、必ず自然発生的に歌いだ出される歌である。以下に歌詞を記す。
名 無 草
室生犀星 作詞
深雪(みゆき)のしたの 名無草(ななしぐさ)
けふは匂はむ はるは来ぬ
くろがねいろの とびらさえ
打ちくだかれむ 汝(なれ)が日に
汝(なれ)が日に はるのとびらよひらかれむ
さて、金沢大学校歌であるが、依頼されて出来上がった室生犀星の詞に、信時潔(1887-1965)が曲を付けて出来上がった。出来たのは恐らく新制大学ができた昭和24年(1949)前後じゃなかろうか。私が金沢大学へ入学したのは昭和30年(1955)であるが、入学の時にこの校歌を聴いたかどうかは定かではない。しかしこの歌を私が諳んじているということは、どこかで最初に接したはずなのだが、その覚えが全くない。かといって、何か大学の行事で歌ったという記憶もない。ところで今はどうなのだろうか。折角こんなに素晴らしい歌があるのに、学生がもっと誇りをもって歌えるように、大学は努力すべきじゃなかろうか。在学生、卒業生の皆さん、ぜひこの格調の高い校歌を歌いませんか。以下に歌詞を記す。
金沢大学校歌
室生犀星 作詞
天(あま)うつなみ けぶらひ
天(あま)そそる 白ねの
北方(ほくほう)のみやこに学府のありて
燦然(さん)たる燈(ともしび)をかかげたり。
人は人をつくるため
のろしをあげ
慧智(えいち)の時間(とき)を磨く
光栄(はえ)ある人間(ひと)をつくらむと
新風文化の扉(と)は 開かれ
あたらしの人 世代にあふれ
手はつながれ 才能(さい)は結ばれ
こぞりてわが学府につどへり。
こぞりてわが学府につどへり。
2011年12月8日木曜日
「シンリョウのジュッカイ」 (4)
● 学生時代に愛唱した歌
私が入った大学は地元の金沢大学である。大学へ入ってしまえばこちらのものという風潮があり、まだ未成年なのによく友達と酒を飲んだ。その頃は未成年だから酒を飲んではならぬと誰も言わず、飲めば歌を歌った。私はどちらかというと硬い方だったので、歌うのは旧制高校の寮歌が主だった。これを覚えたのは新制高校の時で、何故か類をもって集まったという連中と、酒を飲んでは寮歌をガナった。金沢には旧制の第四高等学校があったが、やはりそれに対する一種の憧れがあったからだろう。よく歌ったのは四高の寮歌や応援歌、追悼歌が主だが、一高、三高、五高、北大予科の寮歌などもよく歌った。大学へ入ってもこの傾向は変わらず、当時学内で台頭していた歌声運動には一顧だにしなかった。入学後、私は山岳部(当時は「山の会」といった)に入ったが、ここでは山の歌も一緒に歌ったが、私は寮歌にこだわりを持っていたから、それも披瀝した。また高校の同期で金大に入った連中の集まりでは、寮歌で蛮声をあげたものだ。
寮歌がメインだったが、そのうちデカンショ節が入ってきた。もっともこの歌、学生の間ではかなり敷衍していて歌われていたらしいが、それが次第に我々の持ち歌になった。元歌はもとより替え歌も面白く、出来るだけ蒐集した。今私の手元に当時のメモがあり、それを披瀝してみたいと思う。もっとも歌ったことがある方はご存知だろうし、即興もありだろうが、でもとにかく私たちが高吟した唄の文句を紹介することにする。
「デカンショ節」
[元 唄]
・デカンショデカンショで半年ァ暮らす(アヨイヨイ)
後の半年ァ寝て暮らす(ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ)
・丹波篠山 山家(やまが)の猿が 花のお江戸で 芝居する
・酒は飲め飲め 茶釜で湧かせ お神酒(みき)上らぬ 神はない
・丹波篠山 山奥なれど 霧の降る時ァ 海の底
・丹波篠山 鳳鳴(ほうめい)の熟で 文武鍛えし 美少年
・私ァ丹波の搗栗(かちぐり)育ち 中に甘味も渋もある
・明日は雪降り 積もらぬ先に 連れてお立ちよ 薄雪(うすゆき)に
掛け声の「デカンショ」については諸説があり、私たちがよく聞かされ知っているのは、デカルト(フランスの哲学者)、カント(ドイツの哲学者)、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)の略であるという説である。この根拠は、藩校の鳳鳴義塾での優秀な者は東京へ遊学したが、夏には千葉の八幡の浜で合宿し、その折に歌っていたのを一高生が聞き、共鳴して愛唱するようになり、学生歌として広まったというものである。折しも丹波篠山では、学生歌として高唱されていたデカンショ節が逆輸入されることになる。もっとも由来については、「デコンショ」という盆踊り唄からきたとか、「ドッコイショ」の転訛だとか、篠山方言の「デゴザンショ」や、或いは丹波杜氏の「出稼ぎしょ」の意味をもつとかの説もある。また旧味間村に古くから歌われている農婦の哀歌(糸紡ぎ唄)の「テコンショ」を鳳鳴義塾の学生が聞き、歌い出したとの説もある。でも、いずれにしても定説はない。
[替え歌] 順不同
・論語孟子を読んではみたが 酒を飲むなと書いてない
・酒を飲むなと書いてはないが 酒を飲めとも書いてない
・勉強する奴ァ頭が悪い 勉強せぬ奴ァ尚悪い
・昔ァ神童と言われたけれど 今じゃドイツ語で目を廻す
・ほんにドイツ語は夫婦の喧嘩 デルのダスのと喧しい
・飯は食いたし朝寝はしたし 飯と朝寝の板挟み
・仮病使って電報打てば 金の代わりに親父来る
・説教聞く時ァ頭が下がる 説教頭の上かする
・どうせやるならデカイことなされ 奈良の大仏 屁で飛ばせ
・どうせやるなら小チャイことなされ 蚤のキンタマ串で刺せ
・デカンショ踊ればポリ公が怒る 怒るポリ公の子が踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 俺が死んだら息子踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 息子死んだら孫踊る
・理科の奴等の頭を叩きァ サインコサインの音がする
・理科の奴等の夜見る夢は 四角三角円(まる)五角
・理科よ理科よと威張るな理科よ 末は土方か藪医者か
・文科文科と威張るな文科 末は心中か駆け落ちか
・文科の奴等の頭を叩きァ 文明開化の音がする
・教師教師と威張るな教師 教師生徒の成れの果て
・生徒生徒と威張るな生徒 生徒教師の一滴(ひとしずく)
・親爺親爺と威張るな親爺 親爺息子のひねたもの
・息子息子と威張るな息子 息子親爺の一滴
・息子頭にコウコを載せて 親父これみよ親孝行
・息子頭にコウコを載せて これがホントの親孝行
・俺が死んだら三途の川で 鬼を集めてデカンショ踊る
・ホンに美味いもんだよ親爺のスネは 齧(かじ)りゃ齧るほど味が出る
・親爺のスネを分析すれば シネマ メッチェン トリンケン
・ホームシックと馬鹿にするな 之(これ)が拡がりゃ愛国心
・大井川なら俺でも越すが 越すに越されぬ学期末
・地球抱えて太陽呑んで 星の世界で俺は寝る
・出来ることなら一年中を 夜と日曜にしてみたい
・俺のリーベは世界に二人 クレオパトラと楊貴姫
・頭禿げでも浮気は止めぬ 止めぬ筈だよ先がない
・電車の窓から小便(ションベン)すれば これが本当(ホント)の電車チン
・橋の上から小便すれば 下じゃドジョウの滝のぼり
・橋の上から大便すれば 下じゃドジョウの玉子とじ
・富士の山から小便すれば 流れながれて太平洋
・万里の長城から小便すれば ゴビの砂漠に虹がたつ
・エッフェル塔から小便すれば パリの空には虹がたつ
・朝の目覚まし一度は止めて 腹の時計で跳ね起きる
さまざまな歌詞が創作されて伝わっているが、要は都々逸と同じく、七・七・七・五の語呂にさえなれば、OKということになる。私が大学を卒業してから既に半世紀が過ぎた。今は時代も変わり、もう旧制高校の寮歌やデカンショ節を歌う学生はいまい。もっとも私だって歌う機会は滅多にない。そこでメモとして記載した。
私が入った大学は地元の金沢大学である。大学へ入ってしまえばこちらのものという風潮があり、まだ未成年なのによく友達と酒を飲んだ。その頃は未成年だから酒を飲んではならぬと誰も言わず、飲めば歌を歌った。私はどちらかというと硬い方だったので、歌うのは旧制高校の寮歌が主だった。これを覚えたのは新制高校の時で、何故か類をもって集まったという連中と、酒を飲んでは寮歌をガナった。金沢には旧制の第四高等学校があったが、やはりそれに対する一種の憧れがあったからだろう。よく歌ったのは四高の寮歌や応援歌、追悼歌が主だが、一高、三高、五高、北大予科の寮歌などもよく歌った。大学へ入ってもこの傾向は変わらず、当時学内で台頭していた歌声運動には一顧だにしなかった。入学後、私は山岳部(当時は「山の会」といった)に入ったが、ここでは山の歌も一緒に歌ったが、私は寮歌にこだわりを持っていたから、それも披瀝した。また高校の同期で金大に入った連中の集まりでは、寮歌で蛮声をあげたものだ。
寮歌がメインだったが、そのうちデカンショ節が入ってきた。もっともこの歌、学生の間ではかなり敷衍していて歌われていたらしいが、それが次第に我々の持ち歌になった。元歌はもとより替え歌も面白く、出来るだけ蒐集した。今私の手元に当時のメモがあり、それを披瀝してみたいと思う。もっとも歌ったことがある方はご存知だろうし、即興もありだろうが、でもとにかく私たちが高吟した唄の文句を紹介することにする。
「デカンショ節」
[元 唄]
・デカンショデカンショで半年ァ暮らす(アヨイヨイ)
後の半年ァ寝て暮らす(ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ)
・丹波篠山 山家(やまが)の猿が 花のお江戸で 芝居する
・酒は飲め飲め 茶釜で湧かせ お神酒(みき)上らぬ 神はない
・丹波篠山 山奥なれど 霧の降る時ァ 海の底
・丹波篠山 鳳鳴(ほうめい)の熟で 文武鍛えし 美少年
・私ァ丹波の搗栗(かちぐり)育ち 中に甘味も渋もある
・明日は雪降り 積もらぬ先に 連れてお立ちよ 薄雪(うすゆき)に
掛け声の「デカンショ」については諸説があり、私たちがよく聞かされ知っているのは、デカルト(フランスの哲学者)、カント(ドイツの哲学者)、ショーペンハウエル(ドイツの哲学者)の略であるという説である。この根拠は、藩校の鳳鳴義塾での優秀な者は東京へ遊学したが、夏には千葉の八幡の浜で合宿し、その折に歌っていたのを一高生が聞き、共鳴して愛唱するようになり、学生歌として広まったというものである。折しも丹波篠山では、学生歌として高唱されていたデカンショ節が逆輸入されることになる。もっとも由来については、「デコンショ」という盆踊り唄からきたとか、「ドッコイショ」の転訛だとか、篠山方言の「デゴザンショ」や、或いは丹波杜氏の「出稼ぎしょ」の意味をもつとかの説もある。また旧味間村に古くから歌われている農婦の哀歌(糸紡ぎ唄)の「テコンショ」を鳳鳴義塾の学生が聞き、歌い出したとの説もある。でも、いずれにしても定説はない。
[替え歌] 順不同
・論語孟子を読んではみたが 酒を飲むなと書いてない
・酒を飲むなと書いてはないが 酒を飲めとも書いてない
・勉強する奴ァ頭が悪い 勉強せぬ奴ァ尚悪い
・昔ァ神童と言われたけれど 今じゃドイツ語で目を廻す
・ほんにドイツ語は夫婦の喧嘩 デルのダスのと喧しい
・飯は食いたし朝寝はしたし 飯と朝寝の板挟み
・仮病使って電報打てば 金の代わりに親父来る
・説教聞く時ァ頭が下がる 説教頭の上かする
・どうせやるならデカイことなされ 奈良の大仏 屁で飛ばせ
・どうせやるなら小チャイことなされ 蚤のキンタマ串で刺せ
・デカンショ踊ればポリ公が怒る 怒るポリ公の子が踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 俺が死んだら息子踊る
・デカンショデカンショで死ぬまで踊れ 息子死んだら孫踊る
・理科の奴等の頭を叩きァ サインコサインの音がする
・理科の奴等の夜見る夢は 四角三角円(まる)五角
・理科よ理科よと威張るな理科よ 末は土方か藪医者か
・文科文科と威張るな文科 末は心中か駆け落ちか
・文科の奴等の頭を叩きァ 文明開化の音がする
・教師教師と威張るな教師 教師生徒の成れの果て
・生徒生徒と威張るな生徒 生徒教師の一滴(ひとしずく)
・親爺親爺と威張るな親爺 親爺息子のひねたもの
・息子息子と威張るな息子 息子親爺の一滴
・息子頭にコウコを載せて 親父これみよ親孝行
・息子頭にコウコを載せて これがホントの親孝行
・俺が死んだら三途の川で 鬼を集めてデカンショ踊る
・ホンに美味いもんだよ親爺のスネは 齧(かじ)りゃ齧るほど味が出る
・親爺のスネを分析すれば シネマ メッチェン トリンケン
・ホームシックと馬鹿にするな 之(これ)が拡がりゃ愛国心
・大井川なら俺でも越すが 越すに越されぬ学期末
・地球抱えて太陽呑んで 星の世界で俺は寝る
・出来ることなら一年中を 夜と日曜にしてみたい
・俺のリーベは世界に二人 クレオパトラと楊貴姫
・頭禿げでも浮気は止めぬ 止めぬ筈だよ先がない
・電車の窓から小便(ションベン)すれば これが本当(ホント)の電車チン
・橋の上から小便すれば 下じゃドジョウの滝のぼり
・橋の上から大便すれば 下じゃドジョウの玉子とじ
・富士の山から小便すれば 流れながれて太平洋
・万里の長城から小便すれば ゴビの砂漠に虹がたつ
・エッフェル塔から小便すれば パリの空には虹がたつ
・朝の目覚まし一度は止めて 腹の時計で跳ね起きる
さまざまな歌詞が創作されて伝わっているが、要は都々逸と同じく、七・七・七・五の語呂にさえなれば、OKということになる。私が大学を卒業してから既に半世紀が過ぎた。今は時代も変わり、もう旧制高校の寮歌やデカンショ節を歌う学生はいまい。もっとも私だって歌う機会は滅多にない。そこでメモとして記載した。
2011年12月6日火曜日
「シンリョウのジュッカイ」 (3)
●「坂の上の雲」を見て頭に去来した唄など
NHKのテレビドラマ「坂の上の雲」の第三部が始まった。これまでと同じように師走の日曜日の午後7時半から9時まで、ドラマは4回にわたって放送される。第一部と第二部の総集編も11月最後の土曜日と12月最初の土曜日に放映された。予告でも知らされていたが、第三部は日露戦争のハイライトである旅順攻略と日本海海戦がメインになるのだろう。すると主役は乃木希典と東郷平八郎、それに秋山好古と秋山真之ということになろうか。12月4日の日曜日はその第1回、この日の夕方には木村家の御十夜(浄土真宗でいう内報恩講)があり、次男と三男の家族が揃ったので、久しぶりの会食、飲みながら食べながら1時間半のドラマを見た。丁度この日は亡くなった三男の誕生日でもあった。この日のクライマックスは旅順要塞の奪取に非常に大きな犠牲を払った場面、真っ当な正面からの攻撃が全く通じないという悲壮感がリアル感をもって映し出されていた。だが同じ手法での作戦の繰り返しで、6万人もの死傷者を出したことに対し、司馬遼太郎は「名将」乃木を「愚将」として扱っている。でもそれはともかく、何よりもドラマに出てきた人たちや地名にすごく懐かしさを覚えた。人では、大山巌 満州軍総司令官、児玉源太郎 満州軍総参謀長、乃木希典 第三軍司令官、アレクセイ・クロパトキン ロシア軍総司令官、土地では、旅順、二〇三高地、遼陽などである。
クロパトキンと乃木の名を聞いて思い出したのが、次の尻取り唄である。
「ジャーマノシゴトハナンジャッタ タカシャッポ ポンヤーリ リクグンノ ノギサンガ ガイセンス スズメ メジロ ロシヤ ヤバンコク クロパトキン キンノタマ マケテニゲルハチャンチャンボウ ボウデタタクハインコロシ シンデモカマワンニッポンヘイ ヘイタイナランデトットコト トヤマノサンジュウゴーレンタイ タイホウイッパツドン ドンガナッタラヒルメシジャ」。 これを繰り返すのである。
これを区切りを入れないで唄う唄い方もある。この唄、こちらの方言も入っているし、富山の第35連隊も出てくるから、金沢辺りが起原の尻取り唄なのではなかろうか。当時は皆誰でも唄えるほど敷衍していた。
もう一つことのほか懐かしく思ったのは「遼陽」の地名である。この地名が出てきたのは児玉満州軍総参謀長が遼陽から第三軍の司令部へ寄った場面だった。乃木第三軍司令官が旅順要塞を攻めあぐね、徒に死傷者が続出しているのを見かねての出馬、作戦変更により4日間で二〇三高地を奪取し、ロシア軍は降伏した。私が諳んじていた懐かしい歌は「橘中佐」という歌で、旅順攻略の前年の遼陽会戦でのことで、テレビドラマにその場面があったかどうかは定かではない。ドラマを見ていたとき、遼陽という地名を聞くや、突如としてこの歌が、頭の中で繰り返し繰り返し鳴り響いた。そして口ずさんだのが次の歌詞の歌である。
一、 遼陽城頭(じょうとう)夜はたけて 有明月(ありあけつき)の影すごく
霧立ちこむる高梁(こうりょう)の 中なる塹壕(ざんごう)声絶えて
目ざめちがちなる敵兵の 胆(きも)驚かす秋の風
二、 我が精鋭の三軍を 邀撃(ようげき)せんと健気(けなげ)にも
思い定めて敵将が 集めし兵は二十万
防禦(ぼうぎょ)至らぬ隈(くま)もなく 決戦すとぞ聞こえたる
この闘いで橘少佐は戦死するが、その勇猛果敢ぶりが全軍を鼓舞し、この戦いを勝利に導いたとされている。陸軍では橘中佐、海軍では広瀬中佐が軍神として崇められた。この歌は全部で19節あり、橘大隊長が戦死するまでを物語風に綴っている。
NHKのテレビドラマ「坂の上の雲」の第三部が始まった。これまでと同じように師走の日曜日の午後7時半から9時まで、ドラマは4回にわたって放送される。第一部と第二部の総集編も11月最後の土曜日と12月最初の土曜日に放映された。予告でも知らされていたが、第三部は日露戦争のハイライトである旅順攻略と日本海海戦がメインになるのだろう。すると主役は乃木希典と東郷平八郎、それに秋山好古と秋山真之ということになろうか。12月4日の日曜日はその第1回、この日の夕方には木村家の御十夜(浄土真宗でいう内報恩講)があり、次男と三男の家族が揃ったので、久しぶりの会食、飲みながら食べながら1時間半のドラマを見た。丁度この日は亡くなった三男の誕生日でもあった。この日のクライマックスは旅順要塞の奪取に非常に大きな犠牲を払った場面、真っ当な正面からの攻撃が全く通じないという悲壮感がリアル感をもって映し出されていた。だが同じ手法での作戦の繰り返しで、6万人もの死傷者を出したことに対し、司馬遼太郎は「名将」乃木を「愚将」として扱っている。でもそれはともかく、何よりもドラマに出てきた人たちや地名にすごく懐かしさを覚えた。人では、大山巌 満州軍総司令官、児玉源太郎 満州軍総参謀長、乃木希典 第三軍司令官、アレクセイ・クロパトキン ロシア軍総司令官、土地では、旅順、二〇三高地、遼陽などである。
クロパトキンと乃木の名を聞いて思い出したのが、次の尻取り唄である。
「ジャーマノシゴトハナンジャッタ タカシャッポ ポンヤーリ リクグンノ ノギサンガ ガイセンス スズメ メジロ ロシヤ ヤバンコク クロパトキン キンノタマ マケテニゲルハチャンチャンボウ ボウデタタクハインコロシ シンデモカマワンニッポンヘイ ヘイタイナランデトットコト トヤマノサンジュウゴーレンタイ タイホウイッパツドン ドンガナッタラヒルメシジャ」。 これを繰り返すのである。
これを区切りを入れないで唄う唄い方もある。この唄、こちらの方言も入っているし、富山の第35連隊も出てくるから、金沢辺りが起原の尻取り唄なのではなかろうか。当時は皆誰でも唄えるほど敷衍していた。
もう一つことのほか懐かしく思ったのは「遼陽」の地名である。この地名が出てきたのは児玉満州軍総参謀長が遼陽から第三軍の司令部へ寄った場面だった。乃木第三軍司令官が旅順要塞を攻めあぐね、徒に死傷者が続出しているのを見かねての出馬、作戦変更により4日間で二〇三高地を奪取し、ロシア軍は降伏した。私が諳んじていた懐かしい歌は「橘中佐」という歌で、旅順攻略の前年の遼陽会戦でのことで、テレビドラマにその場面があったかどうかは定かではない。ドラマを見ていたとき、遼陽という地名を聞くや、突如としてこの歌が、頭の中で繰り返し繰り返し鳴り響いた。そして口ずさんだのが次の歌詞の歌である。
一、 遼陽城頭(じょうとう)夜はたけて 有明月(ありあけつき)の影すごく
霧立ちこむる高梁(こうりょう)の 中なる塹壕(ざんごう)声絶えて
目ざめちがちなる敵兵の 胆(きも)驚かす秋の風
二、 我が精鋭の三軍を 邀撃(ようげき)せんと健気(けなげ)にも
思い定めて敵将が 集めし兵は二十万
防禦(ぼうぎょ)至らぬ隈(くま)もなく 決戦すとぞ聞こえたる
この闘いで橘少佐は戦死するが、その勇猛果敢ぶりが全軍を鼓舞し、この戦いを勝利に導いたとされている。陸軍では橘中佐、海軍では広瀬中佐が軍神として崇められた。この歌は全部で19節あり、橘大隊長が戦死するまでを物語風に綴っている。
2011年12月2日金曜日
「シンリョウノジュッカイ」 (2)
● 母のこと(1) 奈井江から野々市へ嫁に
私の母好子は明治45年に北海道空知郡奈井江で、父細野生二・母しずの四女としてこの世に生を受けた。上に姉が三人、下に弟が一人と妹が四人、長女と八女とは歳に大きな隔たりがあり、一番末の妹は私の母がよく面倒を見たものだから、大きくなってからも、私の母が実の母だと思っていたと述懐していたのを聞いたことがある。当時細野生二は奈井江原野に開拓された広大な高島農場の管理人をしていた。生二は金沢の生まれで、若くして易に興味を持ち、横浜の高島嘉右衛門の内弟子になっていた。兄弟子は高島易断を継いだ高島呑象である。生二は嘉右衛門が奈井江に高島農場を開いた折に、そこの管理人として出向いた。私も小さい時に二、三度母と母の実家に寄ったことがあるが、町から遠くに見える山の際までが農場だと聞かされ、驚いたものだ。屋敷も広く、門から家まで百米もあったろうか、家は平屋だったが広くて、優に小作人が全員入れる広さがあった。
さて、私の父仁吉は大学を卒業した後、第九師団に主計少尉として任官していた。結婚適齢期になり、隣村の地主の長女を嫁に貰った。ところが気立ては好かったが身体が弱く、しかも肺病らしいということもあって、また相手の石高が小さかったこともあって、離縁となった。父は好いていたと私に話したことがあるが、病には勝てなかったようだ。そのうちどういう風の吹き回しか、仁吉の母の玉は、北海道にいる兄の生二には女の子が沢山いるから、そのうちの一人を嫁に貰ったらということになり、父と祖母は一度奈井江へ出かけたようだ。生二は生まれ故郷に娘を嫁にやるのも悪くはないと、話を進めることにしたという。ところが、厳しそうな姑とお坊ちゃん然とした婿さんに皆が尻込みし、しかも北海道を離れたくないと突っ張ったという。困った生二は、妹の世話をよくみた四女の好子に懇願することになる。母が話していたが、姉妹の中では一番色も黒く、他の姉や妹では、野々市ではとてもやって行けないと思ったようで、それで白羽の矢が私に来たのだろうと話していた。そして母はしぶしぶ承諾してしまうことに。その頃の木村家は素封家、輿入れの用意は全て野々市でするから、身体一つで来て貰えばよいとのこと、生二は妹玉のこの言葉を信じた。
昭和11年(1936)春、好子は父生二と二人きりで野々市に来た。途中鎌倉にいた兄の申三(号燕台)のところへ寄っている。母は初めてで終いの二人旅だったと話していた。母が北海道から持ってきたのは柳行李一つのみだったこと、結婚は父が二度目だったこと、北海道は敷居が高くないと値踏みされたこともあって、家での結婚式は簡素だった。仲人もおらず、もちろん結納もなく、身内の従兄妹添いとあって、母の方はオンブにダッコの筈だったが、これがまた苦労の初めとなる。
● 母のこと(2) 私の出生と父の出征、
私の父は長男で、妹が一人と弟が三人いた。妹は既に小立野の片岡家へ嫁いでいたが、片岡の姑も中々の人で、まあ苦労はされたらしい。しかしその反動もあって、野々市へ帰って来ると、お里ということもあって、存分に小姑ぶりを発揮したようだが、姑の玉は知らん振り、母に言わせると、父が居ないともう姐や扱いだったという。お金は一切持たせてもらえず、葉書を出すにも一々頭を下げて頼んだとか。父も内緒で少しは融通したのだろうけど、バレたら怖かったという。甘いものが食べたかったと話していた。母は妊娠して私を身籠ったが、朝から晩まで働きづめ、私が生まれる数日前までそうだったという。
丁度時を同じくして小姑の片岡繁も妊娠し、しょっちゅう実家へ来ていたという。そして小姑は産婆でなく、金沢一の内田病院に通っていた。臨月になり、小姑は内田病院に入院した。その頃病院で出産するなど、余程の素封家か産婆の手に負えないようでないと利用しないものなのだが。そして出産、時に昭和12年(1937)2月10日のことである。逆子で女の子だった。そしてその翌日の2月11日の朝、母も産気づき、近所の産婆さんに来てもらい取り上げてもらった。この日は紀元節で、しかも旧正月の元旦、そして男の子の誕生とあって、父も祖父も大喜びで祝盃を挙げていたというが、姑は実に機嫌が悪かったという。祖父は私に吾助という名前を付けたかったらしいが、さすがに母もこれだけは願い下げてもらったという。
しかしこの年の7月7日、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、父は出征することになる。そして母は孤立無援に、私が唯一の心の砦だったという。母は寝る前には必ず私の成長を日記につけ、一週間分をまとめて戦地の父に手紙として送っていたという。この手紙は父の生前に私に託され、今私の手元にある。まだ一度も開いたことはないが、いつかは開かねばならないだろう。
私の母好子は明治45年に北海道空知郡奈井江で、父細野生二・母しずの四女としてこの世に生を受けた。上に姉が三人、下に弟が一人と妹が四人、長女と八女とは歳に大きな隔たりがあり、一番末の妹は私の母がよく面倒を見たものだから、大きくなってからも、私の母が実の母だと思っていたと述懐していたのを聞いたことがある。当時細野生二は奈井江原野に開拓された広大な高島農場の管理人をしていた。生二は金沢の生まれで、若くして易に興味を持ち、横浜の高島嘉右衛門の内弟子になっていた。兄弟子は高島易断を継いだ高島呑象である。生二は嘉右衛門が奈井江に高島農場を開いた折に、そこの管理人として出向いた。私も小さい時に二、三度母と母の実家に寄ったことがあるが、町から遠くに見える山の際までが農場だと聞かされ、驚いたものだ。屋敷も広く、門から家まで百米もあったろうか、家は平屋だったが広くて、優に小作人が全員入れる広さがあった。
さて、私の父仁吉は大学を卒業した後、第九師団に主計少尉として任官していた。結婚適齢期になり、隣村の地主の長女を嫁に貰った。ところが気立ては好かったが身体が弱く、しかも肺病らしいということもあって、また相手の石高が小さかったこともあって、離縁となった。父は好いていたと私に話したことがあるが、病には勝てなかったようだ。そのうちどういう風の吹き回しか、仁吉の母の玉は、北海道にいる兄の生二には女の子が沢山いるから、そのうちの一人を嫁に貰ったらということになり、父と祖母は一度奈井江へ出かけたようだ。生二は生まれ故郷に娘を嫁にやるのも悪くはないと、話を進めることにしたという。ところが、厳しそうな姑とお坊ちゃん然とした婿さんに皆が尻込みし、しかも北海道を離れたくないと突っ張ったという。困った生二は、妹の世話をよくみた四女の好子に懇願することになる。母が話していたが、姉妹の中では一番色も黒く、他の姉や妹では、野々市ではとてもやって行けないと思ったようで、それで白羽の矢が私に来たのだろうと話していた。そして母はしぶしぶ承諾してしまうことに。その頃の木村家は素封家、輿入れの用意は全て野々市でするから、身体一つで来て貰えばよいとのこと、生二は妹玉のこの言葉を信じた。
昭和11年(1936)春、好子は父生二と二人きりで野々市に来た。途中鎌倉にいた兄の申三(号燕台)のところへ寄っている。母は初めてで終いの二人旅だったと話していた。母が北海道から持ってきたのは柳行李一つのみだったこと、結婚は父が二度目だったこと、北海道は敷居が高くないと値踏みされたこともあって、家での結婚式は簡素だった。仲人もおらず、もちろん結納もなく、身内の従兄妹添いとあって、母の方はオンブにダッコの筈だったが、これがまた苦労の初めとなる。
● 母のこと(2) 私の出生と父の出征、
私の父は長男で、妹が一人と弟が三人いた。妹は既に小立野の片岡家へ嫁いでいたが、片岡の姑も中々の人で、まあ苦労はされたらしい。しかしその反動もあって、野々市へ帰って来ると、お里ということもあって、存分に小姑ぶりを発揮したようだが、姑の玉は知らん振り、母に言わせると、父が居ないともう姐や扱いだったという。お金は一切持たせてもらえず、葉書を出すにも一々頭を下げて頼んだとか。父も内緒で少しは融通したのだろうけど、バレたら怖かったという。甘いものが食べたかったと話していた。母は妊娠して私を身籠ったが、朝から晩まで働きづめ、私が生まれる数日前までそうだったという。
丁度時を同じくして小姑の片岡繁も妊娠し、しょっちゅう実家へ来ていたという。そして小姑は産婆でなく、金沢一の内田病院に通っていた。臨月になり、小姑は内田病院に入院した。その頃病院で出産するなど、余程の素封家か産婆の手に負えないようでないと利用しないものなのだが。そして出産、時に昭和12年(1937)2月10日のことである。逆子で女の子だった。そしてその翌日の2月11日の朝、母も産気づき、近所の産婆さんに来てもらい取り上げてもらった。この日は紀元節で、しかも旧正月の元旦、そして男の子の誕生とあって、父も祖父も大喜びで祝盃を挙げていたというが、姑は実に機嫌が悪かったという。祖父は私に吾助という名前を付けたかったらしいが、さすがに母もこれだけは願い下げてもらったという。
しかしこの年の7月7日、盧溝橋事件を発端として支那事変が勃発、父は出征することになる。そして母は孤立無援に、私が唯一の心の砦だったという。母は寝る前には必ず私の成長を日記につけ、一週間分をまとめて戦地の父に手紙として送っていたという。この手紙は父の生前に私に託され、今私の手元にある。まだ一度も開いたことはないが、いつかは開かねばならないだろう。
2011年11月30日水曜日
「シンリョウのジュッカイ」(1)
永坂鉃夫先生の随筆集の「ドンキホーテシリーズ」の第四集である「ドンキホーテの述懐」を読んで、その読後感を書く予定にしていて、それには以前上梓された折に書いた感想文を参考にして「晋亮の呟き」に乗せようと思っていた。ところが以前書いたものを読んでみると、とても読後感とは言えず、挫折してしまった。ただその時、先生が回想なさっている部分を私に置き換えて書き残してはとフッと思いついた。ですから少し書き進んだところで、もう一度改めて読後感に取り掛かりたいと思っている。とは言っても、書く文章のレベルにはかなりの格差があり、人様に読んで頂く代物ではなく、私のメモのつもりでいる。でもそのタイトルは先生にあやかって「シンリョウのジュッカイ」とした。そしてそのテーマ選びやスタイルは、厚かましくも先生の「ドンキホーテの述懐」の項目にヒントを得たいと思っています。勝手な思い上がりですがお許し下さい。
ところで、私の述懐といっても、そのテーマは思い付きで、先生のように整然とはゆかず、全くアットランダムになりそうです。
● 木村家は野々市では旧家ではない
私、木村晋亮は初代から数えて五代目、元祖は五右衛門という。江戸時代には姓はなく、屋号は木屋で、読みはキイヤゴヨムサ、略して木五と言った。五右衛門の名からも判るようにうちは分家で、本家の五左衛門の方は吉田の姓を名乗っていて、どうも前田の殿様に伴って加賀へ来たらしい。吉田の墓が野々市にあることから、野々市に住んでいたらしく、町には吉田の姓がかなりあり、みな親戚まついである。ところで五右衛門は39歳で他界している。亡くなったのは安政5年(1858)10月2日、これは過去帳に記されている。とすると生まれたのは文政2年(1819)である。また五右衛門の妻は文政9年(1826)の生まれ、明治44年12月22日に亡くなった。享年85だった。丁度100年前にあたる。
木村の姓は屋号から来ていると思われるが、戦前四百戸といわれた野々市町で、木村という家は二軒あり、もう一軒は分家である。初代の墓は今の木村の墓地にあることから、亡くなった時は野々市に住んでいたようだ。野々市はその昔弘法大師様に水をお上げしたので、松任や三馬(旧野々市新といい、野々市の出村だったが、一町一村の制度で、野々市村が野々市町になった時に切り離され、三馬村の字になった)と違い水は豊富で、手取川の伏流水が地表数メートル下に流れていて、一軒ごとに井戸があったものだ。でも昨今は水位が下がってしまった。現在敷地は五百坪あるが、敷地内に井戸が三本あったことから、三軒分の屋敷を三代の仁太郎(祖父)の時に取得したと思われる。
仁太郎は田圃に使う消石灰を扱う肥料商をやっていて、菰包みの石灰を金石港から川舟で伏見川を遡って道番(現在の伏見橋辺り)まで運んで陸揚げし、後は荷車で遠くは鶴来まで運んだという。これで財をなしたが、農協組織ができると、この商売は成り立たなくなった。しかしこの財で近隣の土地を買い上げ、石川県では初めてと言われる区画整理をして、整然とした一区画250坪の田に整備した。また当時の火消しは手押しポンプであったが、祖父は石川県で第1号の消防車を野々市町に寄贈したという。また祖父は多額納税者で貴族院議員の選挙権があったと聞いた。
しかし終戦を境にして状況は一変する。農地改革が断行され、富奥村粟田・藤平田、野々市町にあった四百町歩、分家の二百町歩の田圃は小作人にただ同然でで払い下げられ、第九師団の主計大尉で在郷軍人会長だった父仁吉はレッドパージで公職につけず、一町歩百姓になった。金庫にごっそりあった戦時国債も紙屑に、母は百姓の傍ら、学生を下宿させ、昼は織物工場の検反に精を出した。でもこれが定年後厚生年金の受給で潤うことになる。一方父の方は、軍人恩給の受給資格年限が3ヶ月足りないばかりに支給されず、母は父が支那事変に出征し、除州作戦で迫撃砲の破片で大怪我をしたのに(「麦と兵隊」のモデル)傷痍軍人になることを潔しとせず辞退し、結局全く恩給は何も貰えず仕舞いなので、ずいぶんボヤいていた。百姓は終戦百姓で全くの素人、町に親戚はなく、マッカーサー様様の旧小作人からは意地悪され、ずいぶん苦労した。またその頃の肥料は糞尿、近くに貰える家はなく、浅野川の天神橋を渡った御徒町まで貰いに行った。私もよく手伝った。当時弟は小さくて虚弱、妹も小さくてしかも鼠けいヘルニア、それで田圃の手伝いはもっぱら私に回ってきた。今から思うと本当に隔世の感がある。
ところで、私の述懐といっても、そのテーマは思い付きで、先生のように整然とはゆかず、全くアットランダムになりそうです。
● 木村家は野々市では旧家ではない
私、木村晋亮は初代から数えて五代目、元祖は五右衛門という。江戸時代には姓はなく、屋号は木屋で、読みはキイヤゴヨムサ、略して木五と言った。五右衛門の名からも判るようにうちは分家で、本家の五左衛門の方は吉田の姓を名乗っていて、どうも前田の殿様に伴って加賀へ来たらしい。吉田の墓が野々市にあることから、野々市に住んでいたらしく、町には吉田の姓がかなりあり、みな親戚まついである。ところで五右衛門は39歳で他界している。亡くなったのは安政5年(1858)10月2日、これは過去帳に記されている。とすると生まれたのは文政2年(1819)である。また五右衛門の妻は文政9年(1826)の生まれ、明治44年12月22日に亡くなった。享年85だった。丁度100年前にあたる。
木村の姓は屋号から来ていると思われるが、戦前四百戸といわれた野々市町で、木村という家は二軒あり、もう一軒は分家である。初代の墓は今の木村の墓地にあることから、亡くなった時は野々市に住んでいたようだ。野々市はその昔弘法大師様に水をお上げしたので、松任や三馬(旧野々市新といい、野々市の出村だったが、一町一村の制度で、野々市村が野々市町になった時に切り離され、三馬村の字になった)と違い水は豊富で、手取川の伏流水が地表数メートル下に流れていて、一軒ごとに井戸があったものだ。でも昨今は水位が下がってしまった。現在敷地は五百坪あるが、敷地内に井戸が三本あったことから、三軒分の屋敷を三代の仁太郎(祖父)の時に取得したと思われる。
仁太郎は田圃に使う消石灰を扱う肥料商をやっていて、菰包みの石灰を金石港から川舟で伏見川を遡って道番(現在の伏見橋辺り)まで運んで陸揚げし、後は荷車で遠くは鶴来まで運んだという。これで財をなしたが、農協組織ができると、この商売は成り立たなくなった。しかしこの財で近隣の土地を買い上げ、石川県では初めてと言われる区画整理をして、整然とした一区画250坪の田に整備した。また当時の火消しは手押しポンプであったが、祖父は石川県で第1号の消防車を野々市町に寄贈したという。また祖父は多額納税者で貴族院議員の選挙権があったと聞いた。
しかし終戦を境にして状況は一変する。農地改革が断行され、富奥村粟田・藤平田、野々市町にあった四百町歩、分家の二百町歩の田圃は小作人にただ同然でで払い下げられ、第九師団の主計大尉で在郷軍人会長だった父仁吉はレッドパージで公職につけず、一町歩百姓になった。金庫にごっそりあった戦時国債も紙屑に、母は百姓の傍ら、学生を下宿させ、昼は織物工場の検反に精を出した。でもこれが定年後厚生年金の受給で潤うことになる。一方父の方は、軍人恩給の受給資格年限が3ヶ月足りないばかりに支給されず、母は父が支那事変に出征し、除州作戦で迫撃砲の破片で大怪我をしたのに(「麦と兵隊」のモデル)傷痍軍人になることを潔しとせず辞退し、結局全く恩給は何も貰えず仕舞いなので、ずいぶんボヤいていた。百姓は終戦百姓で全くの素人、町に親戚はなく、マッカーサー様様の旧小作人からは意地悪され、ずいぶん苦労した。またその頃の肥料は糞尿、近くに貰える家はなく、浅野川の天神橋を渡った御徒町まで貰いに行った。私もよく手伝った。当時弟は小さくて虚弱、妹も小さくてしかも鼠けいヘルニア、それで田圃の手伝いはもっぱら私に回ってきた。今から思うと本当に隔世の感がある。
2011年11月15日火曜日
宗祖法然上人800年大遠忌法要への参加(2)
3.知恩院
前夜の宿は、京都市東山区三条大橋東入ルにある団体専用の宿舎「日昇館尚心亭」で、修学旅行の宿舎よりはゆったりした感じがした。男性5人の相部屋で、話は弾んだ。中に羽咋の方がいたが、実は昔近所にいた方で、私の3歳年上、50年ぶりの再会だった。宿を8時40分に出て知恩院に向かう。
程なく三門前の駐車場に着き、グループごとにまとまって、女人坂経由で御影堂前の広場に向かう。足が不自由な人はシャトルバスで行く。広場では随行される僧から説明を受ける。私たちを担当された僧は大変博識で、実に丁寧な説明をされた。
[境内]:上段、中段、下段があり、上段には勢至堂や法然上人廟がある域で、開創当時の寺域である。中段には御影(みえい)堂(本堂)などの中心伽藍がある域、下段は三門や塔頭寺院がある域で、この中段と下段は、浄土宗門徒でもあった徳川家康によって慶長13年(1608)以降に寺域が拡大され、諸堂の造営が行なわれ、造営は二代将軍徳川秀忠に継がれて、元和7年(1621)には知恩院の伽藍の大部分が出来上がった。しかし寛永10年(1633)に火災があり、三門、経蔵、勢至堂を残してほぼ全焼したが、その後三代将軍徳川家光の下で再建が進められ、寛永18年(1641)までにはほぼ旧に復した。
{三門}:この三門は二階建てになっていて、高さ24m、間口50m,奥行12mあり、現存する日本の寺院の三門の中では最大で、国宝に指定されている。私たちは御影堂前広場から阿弥陀堂の脇を通り、三門二階へ直接入られるように特設された桟道を通って行く。ここは通常は非公開の場所である。上層内部は仏堂になっていて、釈迦如来像と脇侍像3駆(いずれも重文)と十六羅漢像(重文)が安置されている。また天井には狩野派による絢爛豪華な龍や天女が描かれている。
[集会(しゅうえ)堂〕:御影堂での念仏会日中法要のため、一旦集会堂に参集する。この建物は御影堂の北側にあり、南北15間の鶯張りの渡り廊下で御影堂と結ばれている。現在半解体修理が施されている。間口43m、奥行23m、高さ17mの入母屋造り本瓦葺きである。その後私たちは渡り廊下の両側に3列に並んで座り、法要に出席する夥しい数の僧侶を念仏を唱えて迎えることになる。この日の導師は石川教区の高野上人、脇導師は4人である。僧列が切れるまでかなりの時間を要した。その後歩廊を迂回して御影堂に入った。
[御影堂(本堂)]:寛永16年(1639)に徳川家光によって再建され、国宝に指定されている。南に向いて建てられていて、「大殿」とも呼ばれ、宗祖法然上人の木像が安置されていることから、「御影堂」と呼ばれる。入母屋造りの本瓦葺きで、間口45m、奥行35mで、周囲には幅3mの大外縁(歩廊)が巡らされている。堂内には木造阿弥陀如来立像(重文)と木像善導大師立像(重文)も安置されている。この建物は大遠忌の法要を終えると平成の大修理に入り、解体修理される。完成は平成31年(2019)の予定である。御堂に入ると、参加者と同じ数の木魚が置かれていて、順次座る。法要は既に始まっている。導師が表白を延べられている。その後開経され、唱経があり、元祖大師の御遷座と献香・献茶・献菓があり、念仏一会に入る。同唱で、堂内にいる人全員が一緒になって念仏のナヌアミダブを唱える。終りに近くなり中座して、歩廊で知恩院の七不思議の一つの「忘れ傘」の説明を受ける。左甚五郎ゆかりとか、白狐の化身の濡髪童子ゆかりとか、この後の解体では下へ下ろされることから、何か判るかも知れないとも。御影堂を出て坂を上り、大鐘楼へ行く。
[大鐘楼]:重要文化財で、延宝6年(1678)の建立である。ここにある梵鐘(重文)は寛永13年(1636)の鋳造で、梵鐘の重さは70t、この重い釣鐘を吊り下げるため、鐘楼には特別な工夫が施されているという。この鐘の音は年末の除夜の鐘では定番である。坂を下り、御影堂の東方に建つ経蔵(重文)の脇を通り、境内東側の長い坂を上って小高い場所にある唐門(重文)に至り、勢至堂に行く。
[勢至堂(本地堂)]:寺内の建物では最も古く、室町時代の享録4年(1530)の建立、当初は本堂/知恩教院として使われていて、知恩院発祥の地でもある。間口21m、奥行20mの入母屋造り本瓦葺きの建物で、重要文化財である。ご本尊はもとは法然上人のご尊像(御影)だったが、現在の御影堂が建立された折に移されたため、それ以降は勢至菩薩像(重文)がご本尊として安置されている。浄土宗では、法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしているが、これは法然の幼名が勢至丸ということに因んでいるのだろう。
[千姫の墓]:二代将軍徳川秀忠の長女、幼少7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪落城後、姫路城主本多忠政の子息忠刻と再婚、忠刻病没後、落飾して天樹院と称した。享年70.分骨した大きな墓が、勢至堂の北側に広がる墓地にある。
[濡髪大明神」:千姫の墓の奥に祠があり、知恩院を火災から守る濡髪童子が祀られている。濡髪童子に貸した傘が有名な御影堂の忘れ傘とも伝えられている。
[御廟」:境内の最上段にあり、法然上人のご遺骨が安置されている。御廟にお参りするときは、手前に建つ拝殿から参拝する。御廟、拝殿、唐門(重文)は大遠忌に当たって修理・修復された。
この後、遠影堂前広場に戻り、北門から出て、黒門から退出した。その後団体参加者専用の特設会場で遅い昼食をとり、午後3時に帰沢の途についた。
4.法然上人八百年大遠忌石川教区法要
知恩院での法然上人大遠忌に参加して3週後の11月6日の日曜日、浄土門主で総本山知恩院の第88世門跡の伊藤唯眞大僧正を迎えての石川地区での大遠忌法要が催されることになった。石川教区に浄土門主がおいでるのは極めて稀と聞き及んだものだから、ぜひ参加したいと思った。会場は金沢市文化ホール、時間は午後2時から4時半まで、どんなことをするのかという好奇心もあって参加した。沢山の人が集まるだろうと思い、受付が1時半からなので、15分位前に着くようにして出かけた。場所は大ホールと思いきや、大ホールの向かいにある建物の2階にある大集会室(400人収容)であった。まだ来場者は100人ばかり、最前列に座る。中央に基壇が設けられ、中央正面には真新しい木彫りの阿弥陀如来立像が安置されている。その前に三具足が供えられる。
何かお寺で行なわれる法要とは様子が異なる雰囲気を感ずる。10分ほどしてそれが現実となる。浄土宗の法要でご詠歌なるものを聞いたことがないこともあって、ご詠歌が八十八番もあると聞いたときは、異次元の世界に来たような気分になった。今まで一度でも経験していれば、慌てることもなかったろうに、しかもその中にある宗歌を法要の冒頭に皆で歌うので、これから歌えるようになるまで練習しますと言われたのにはたまげた。
浄土宗歌が「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ」という法然上人が詠まれた歌であるであることは知っているが、これに節を付けて歌うのは初めての経験だった。大正琴を弾いて合唱隊を指揮するのは、どこかのお寺の奥さんだろうか。もっとも20回も練習すれば、何とか付いて歌えるようにはなるが、違和感が残った。そういえば、読売ジャイアンツに元木という選手がいたが、彼は大阪の上宮高校の出身で、この高校の校歌がこの浄土宗歌であった。歌った節回しがその校歌と一緒かどうかは分からない。
法要が始まる時間が近づき、200人分用意された椅子は足りなくなり、さらに100人分増やしたようだった。時間になり、初めに法然上人御影の御分身が運び込まれ、次いで僧侶と伊藤御門跡が入場される。この間会場の信者は念仏のナムアミダブを木魚に合わせて唱える。導師が正面に、左右に脇導師が6人座られる。浄土宗歌が全員で詠唱奉納されて法要が始まる。導師によるお身拭いの後、開経げに続いて唱経が行なわれる。終わって導師が退出され、御分身のお身拭い式が出席者全員で順次行なわれる。きれいな布で、御分身の墨染めの衣を数回軽く拭う儀式だ。全員なのでかなり時間がかかる。この間僧侶による念仏が延々と続く。漸くお身拭いが終わって、御分身が遷座される。
再び伊藤御門跡が入場され、御親教(法話)があった。この地方教区における法要では、法然上人八百年大遠忌に当たり、法然上人が建暦2年(1212)正月25日に入寂された後、弟子の勢観房源智上人が法然上人への報恩に報いるために、わずか1年足らずの間に5万数千人もの結縁交名を成し遂げられた知恩報恩の心に習い、法然上人御影の御分身の巡錫と八百万人念仏結縁のために行なわれるもので、総本山知恩院の「おてつぎ運動」の一環でもあるとのことだった。法話では、法然上人が亡くなる2日前の正月23日に勢観房源智上人に請われてしたためられた「一枚起請文」の説く専修念仏と念仏結縁について説かれた。
私にとっては、法然上人八百年大遠忌出座も御門跡からの直々の法話聴聞も初めての経験だった。このような貴重な経験はもう私の生前には無かろう。合掌。
前夜の宿は、京都市東山区三条大橋東入ルにある団体専用の宿舎「日昇館尚心亭」で、修学旅行の宿舎よりはゆったりした感じがした。男性5人の相部屋で、話は弾んだ。中に羽咋の方がいたが、実は昔近所にいた方で、私の3歳年上、50年ぶりの再会だった。宿を8時40分に出て知恩院に向かう。
程なく三門前の駐車場に着き、グループごとにまとまって、女人坂経由で御影堂前の広場に向かう。足が不自由な人はシャトルバスで行く。広場では随行される僧から説明を受ける。私たちを担当された僧は大変博識で、実に丁寧な説明をされた。
[境内]:上段、中段、下段があり、上段には勢至堂や法然上人廟がある域で、開創当時の寺域である。中段には御影(みえい)堂(本堂)などの中心伽藍がある域、下段は三門や塔頭寺院がある域で、この中段と下段は、浄土宗門徒でもあった徳川家康によって慶長13年(1608)以降に寺域が拡大され、諸堂の造営が行なわれ、造営は二代将軍徳川秀忠に継がれて、元和7年(1621)には知恩院の伽藍の大部分が出来上がった。しかし寛永10年(1633)に火災があり、三門、経蔵、勢至堂を残してほぼ全焼したが、その後三代将軍徳川家光の下で再建が進められ、寛永18年(1641)までにはほぼ旧に復した。
{三門}:この三門は二階建てになっていて、高さ24m、間口50m,奥行12mあり、現存する日本の寺院の三門の中では最大で、国宝に指定されている。私たちは御影堂前広場から阿弥陀堂の脇を通り、三門二階へ直接入られるように特設された桟道を通って行く。ここは通常は非公開の場所である。上層内部は仏堂になっていて、釈迦如来像と脇侍像3駆(いずれも重文)と十六羅漢像(重文)が安置されている。また天井には狩野派による絢爛豪華な龍や天女が描かれている。
[集会(しゅうえ)堂〕:御影堂での念仏会日中法要のため、一旦集会堂に参集する。この建物は御影堂の北側にあり、南北15間の鶯張りの渡り廊下で御影堂と結ばれている。現在半解体修理が施されている。間口43m、奥行23m、高さ17mの入母屋造り本瓦葺きである。その後私たちは渡り廊下の両側に3列に並んで座り、法要に出席する夥しい数の僧侶を念仏を唱えて迎えることになる。この日の導師は石川教区の高野上人、脇導師は4人である。僧列が切れるまでかなりの時間を要した。その後歩廊を迂回して御影堂に入った。
[御影堂(本堂)]:寛永16年(1639)に徳川家光によって再建され、国宝に指定されている。南に向いて建てられていて、「大殿」とも呼ばれ、宗祖法然上人の木像が安置されていることから、「御影堂」と呼ばれる。入母屋造りの本瓦葺きで、間口45m、奥行35mで、周囲には幅3mの大外縁(歩廊)が巡らされている。堂内には木造阿弥陀如来立像(重文)と木像善導大師立像(重文)も安置されている。この建物は大遠忌の法要を終えると平成の大修理に入り、解体修理される。完成は平成31年(2019)の予定である。御堂に入ると、参加者と同じ数の木魚が置かれていて、順次座る。法要は既に始まっている。導師が表白を延べられている。その後開経され、唱経があり、元祖大師の御遷座と献香・献茶・献菓があり、念仏一会に入る。同唱で、堂内にいる人全員が一緒になって念仏のナヌアミダブを唱える。終りに近くなり中座して、歩廊で知恩院の七不思議の一つの「忘れ傘」の説明を受ける。左甚五郎ゆかりとか、白狐の化身の濡髪童子ゆかりとか、この後の解体では下へ下ろされることから、何か判るかも知れないとも。御影堂を出て坂を上り、大鐘楼へ行く。
[大鐘楼]:重要文化財で、延宝6年(1678)の建立である。ここにある梵鐘(重文)は寛永13年(1636)の鋳造で、梵鐘の重さは70t、この重い釣鐘を吊り下げるため、鐘楼には特別な工夫が施されているという。この鐘の音は年末の除夜の鐘では定番である。坂を下り、御影堂の東方に建つ経蔵(重文)の脇を通り、境内東側の長い坂を上って小高い場所にある唐門(重文)に至り、勢至堂に行く。
[勢至堂(本地堂)]:寺内の建物では最も古く、室町時代の享録4年(1530)の建立、当初は本堂/知恩教院として使われていて、知恩院発祥の地でもある。間口21m、奥行20mの入母屋造り本瓦葺きの建物で、重要文化財である。ご本尊はもとは法然上人のご尊像(御影)だったが、現在の御影堂が建立された折に移されたため、それ以降は勢至菩薩像(重文)がご本尊として安置されている。浄土宗では、法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしているが、これは法然の幼名が勢至丸ということに因んでいるのだろう。
[千姫の墓]:二代将軍徳川秀忠の長女、幼少7歳で豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪落城後、姫路城主本多忠政の子息忠刻と再婚、忠刻病没後、落飾して天樹院と称した。享年70.分骨した大きな墓が、勢至堂の北側に広がる墓地にある。
[濡髪大明神」:千姫の墓の奥に祠があり、知恩院を火災から守る濡髪童子が祀られている。濡髪童子に貸した傘が有名な御影堂の忘れ傘とも伝えられている。
[御廟」:境内の最上段にあり、法然上人のご遺骨が安置されている。御廟にお参りするときは、手前に建つ拝殿から参拝する。御廟、拝殿、唐門(重文)は大遠忌に当たって修理・修復された。
この後、遠影堂前広場に戻り、北門から出て、黒門から退出した。その後団体参加者専用の特設会場で遅い昼食をとり、午後3時に帰沢の途についた。
4.法然上人八百年大遠忌石川教区法要
知恩院での法然上人大遠忌に参加して3週後の11月6日の日曜日、浄土門主で総本山知恩院の第88世門跡の伊藤唯眞大僧正を迎えての石川地区での大遠忌法要が催されることになった。石川教区に浄土門主がおいでるのは極めて稀と聞き及んだものだから、ぜひ参加したいと思った。会場は金沢市文化ホール、時間は午後2時から4時半まで、どんなことをするのかという好奇心もあって参加した。沢山の人が集まるだろうと思い、受付が1時半からなので、15分位前に着くようにして出かけた。場所は大ホールと思いきや、大ホールの向かいにある建物の2階にある大集会室(400人収容)であった。まだ来場者は100人ばかり、最前列に座る。中央に基壇が設けられ、中央正面には真新しい木彫りの阿弥陀如来立像が安置されている。その前に三具足が供えられる。
何かお寺で行なわれる法要とは様子が異なる雰囲気を感ずる。10分ほどしてそれが現実となる。浄土宗の法要でご詠歌なるものを聞いたことがないこともあって、ご詠歌が八十八番もあると聞いたときは、異次元の世界に来たような気分になった。今まで一度でも経験していれば、慌てることもなかったろうに、しかもその中にある宗歌を法要の冒頭に皆で歌うので、これから歌えるようになるまで練習しますと言われたのにはたまげた。
浄土宗歌が「月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人のこころにぞすむ」という法然上人が詠まれた歌であるであることは知っているが、これに節を付けて歌うのは初めての経験だった。大正琴を弾いて合唱隊を指揮するのは、どこかのお寺の奥さんだろうか。もっとも20回も練習すれば、何とか付いて歌えるようにはなるが、違和感が残った。そういえば、読売ジャイアンツに元木という選手がいたが、彼は大阪の上宮高校の出身で、この高校の校歌がこの浄土宗歌であった。歌った節回しがその校歌と一緒かどうかは分からない。
法要が始まる時間が近づき、200人分用意された椅子は足りなくなり、さらに100人分増やしたようだった。時間になり、初めに法然上人御影の御分身が運び込まれ、次いで僧侶と伊藤御門跡が入場される。この間会場の信者は念仏のナムアミダブを木魚に合わせて唱える。導師が正面に、左右に脇導師が6人座られる。浄土宗歌が全員で詠唱奉納されて法要が始まる。導師によるお身拭いの後、開経げに続いて唱経が行なわれる。終わって導師が退出され、御分身のお身拭い式が出席者全員で順次行なわれる。きれいな布で、御分身の墨染めの衣を数回軽く拭う儀式だ。全員なのでかなり時間がかかる。この間僧侶による念仏が延々と続く。漸くお身拭いが終わって、御分身が遷座される。
再び伊藤御門跡が入場され、御親教(法話)があった。この地方教区における法要では、法然上人八百年大遠忌に当たり、法然上人が建暦2年(1212)正月25日に入寂された後、弟子の勢観房源智上人が法然上人への報恩に報いるために、わずか1年足らずの間に5万数千人もの結縁交名を成し遂げられた知恩報恩の心に習い、法然上人御影の御分身の巡錫と八百万人念仏結縁のために行なわれるもので、総本山知恩院の「おてつぎ運動」の一環でもあるとのことだった。法話では、法然上人が亡くなる2日前の正月23日に勢観房源智上人に請われてしたためられた「一枚起請文」の説く専修念仏と念仏結縁について説かれた。
私にとっては、法然上人八百年大遠忌出座も御門跡からの直々の法話聴聞も初めての経験だった。このような貴重な経験はもう私の生前には無かろう。合掌。
2011年11月11日金曜日
宗祖法然上人800年大遠忌法要への参加 (1)
浄土宗宗祖の法然上人が建暦2年(1212)に80歳で入寂されてから800年、今年平成23年(2011)がその法然上人800年大遠忌に当たる。この遠忌は50回忌以降50年おきに行なわれているもので、大きな転換点となったのは、資料によると、後柏原天皇の御世の大永4年(1524)に、天皇による「大永の御忌鳳詔」が出され、知恩院での法然上人の御忌を7日間にわたって勤めるように定められ、以降、毎年1月18日から25日までの7日間忌日法要が行われるようになった。その後ご入滅から486年を経た元禄10年(1697)になり、当時の東山天皇から「円光大師」の大師号を下賜された。そしてその14年後の宝永8年(1711)の500年遠忌には、時の中御門天皇より「東漸」の大師号が加賜され、それ以後、中日22日の法要をするとした50年周期の遠忌法要の法式が確立された。以後50年の遠忌ごとに、宮中からは大師号が加賜されてきた。なお、明治10年(1877)からは、それまで1月に行なわれてきた遠忌法要は4月に行なわれることになった。以後800年大遠忌まで、50年ごとに加賜された大師号は次のようである。
宝暦11年(1761) 550年遠忌 桃園天皇より「慧成大師」の号を賜る。
文化8年(1811) 600年遠忌 光格天皇より「弘覚大師」の号を賜る。
万延2年(1861) 650年遠忌 孝明天皇より「慈教大師」の号を賜る。
明治44年(1911) 700年大遠忌 明治天皇より「明照大師」の号を賜る。
昭和36年(1961) 750年御遠忌 昭和天皇より「和順大師」の号を賜る。
平成23年(2011) 800年大遠忌 今上天皇より「法爾大師」の号を賜る。
当初、知恩院での800年大法要は、第Ⅰ期の古式法要が3月27日から4月3日までの8日間、第Ⅱ期の記念法要が4月4日から17日までの14日間行なわれることになっていて、石川教区は第Ⅱ期の3日目(4月9日)の念仏会日中法要に組まれていた。ところがあの未曾有の東日本大震災により、法要は秋に延期になった。折しも浄土真宗でも、親鸞上人750年遠忌が今年執り行われることになっていて、東本願寺では予定通り、西本願寺では秋に延期となった。知恩院では、古式法要は10月2~9日の8日間、記念法要は9月28日と10月12~22日と24~25日の14日間、加えて10月11日に東日本大震災物故者追悼法要が行なわれることになった。石川教区の念仏会法要は10月15日の午前である。
今回の法要参加の旅は、法要の前日に奈良の興福寺と唐招提寺を拝観し、当日は午前の念仏会法要に参列し、帰沢するという予定で、主催は浄土宗石川教区・同壇信徒会である。
1.興福寺
10月14日の天気は雨とのことだったが、金沢では晴れていて、旅行日和の感があった。朝8時に金沢駅西口に集合、バスは1号車、全部で5台である。バスの座席は菩提寺ごとに仕分けされていて、私達夫婦は前の方だった。福井を過ぎる頃から雨模様になる。途中2回のトイレ休憩があり、車中昼食で午後1時には奈良市登大路の興福寺に着いた。小雨が間断なく降っている。興福寺は昨年が創建1300年、国宝館開館50周年とかである。
興福寺は南都六宗の一つ法相宗の大本山、創建は和銅3年(710)で、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、春日社の実権を手中にし、大和国を領するほどになり、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護は置かず、興福寺がその任に当たったという。また江戸時代には、21,000余石の朱印を与えられ保護されていたが、明治元年(1868)に出された神仏分離令・廃仏毀釈、明治4年(1871)の社寺上地令によって、子院はすべて廃止、寺領は没収、僧は春日社の神職となり、境内の塀は取り払われ、奈良公園の一部となり、寺は廃寺同然となったが、その後復興した。現在でも寺には塀がなく、公園の中に寺がある状態となっている。
興福寺は創建以来、7回もの焼失・再建を繰り返してきた。中金堂は文政2年(1219)に仮再建されたが、老朽化したため平成12年(2000)に解体された。現在境内整備が行なわれていて、第1期は中金堂及びその周辺の整備で、平成10年(1998)から平成35年(2023)の26年間が当てられている。これまで中金堂基壇、中門、回廊、前庭の発掘調査が終わり、平成22年(2010)の創建1300年には中金堂の立柱式が行なわれ、平成30年(2018)には復元される予定である。これには約60億円の費用が見込まれる。この伽藍復興に向けて、私も平瓦に記名し寄進した。中金堂の規模は、東西36.6m、南北20m、高さ21.2mだったという。
団体で国宝館に入った。今日は金曜日、中学生や高校生の団体も大勢来ていて、皆さん資料を持って学習していて、館内は芋の子を洗う状態。これだけ拝観者が多いと、ゆっくり鑑賞するというのは困難で、人の波に体を委ねての移動となる。まるでところてん式に押し出されて外へ。ここでの滞在時間は1時間、残りの時間、境内を散策する。東金堂、五重塔、北円堂、三重塔は国宝。南円堂、大湯屋は重要文化財。中金堂は再建中。西金堂、回廊、中門、南大門、鐘楼、経蔵は跡のみ。全体の再建はまだまだのようだ。現在拝観できるのは、国宝館と東金堂のみである。現在興福寺に収蔵されている仏像等の国宝は54点、重要文化財は44点と多く、奈良県指定文化財も3点ある。本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像(重文)、四天王像(重文)は、現在仮金堂に移安置されている。
2.唐招提寺
興福寺を出て、奈良市五条町の唐招提寺に移動する。
唐招提寺は南都六宗の一つ、律宗の総本山、開基は鑑真和上、本尊は慮舎那仏である。宗祖の鑑真和上は中国揚州の生まれ、21歳で授戒を受けた後、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽には並ぶ者がない律匠と称えられていた。54歳の折に日本からの熱心な招きに応じて渡日を決意されたが、遣唐使船での5回の渡海の試みのうち、3回は事前の密告で出国できず、2回は暴風雨で失敗、そして失明された。しかし渡日の意志は強く、六度目にして漸く琉球を経て天平勝宝5年(753)12月に薩摩に上陸、翌年4月に奈良へ着いた。66歳だった。この年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇、光明皇后はじめ四百余人に授戒された。その後東大寺で5年を過ごされ、天平宝字2年(758)には大和上の称号を賜り、併せて新田部親王の旧宅地を下賜され、翌3年(759)には戒律を学ぶ人達のために修行の道場を開き、「唐律招提」と称した。鑑真和上の私寺として発足した当初は、講堂と新田部親王の旧宅を改造した経蔵や宝蔵があるだけで、金堂が完成したのは弟子の如宝の尽力による。鑑真和上は日本で10年過ごされ、天平宝字7年(763)5月にその生涯を閉じられた。76歳だった。
寺の建造物では、金堂、講堂、鼓楼、経蔵、宝蔵が国宝、御影堂、礼堂・東室が重要文化財となっている。ほかには仏像6点と舎利容器1点が国宝、絵画4点、仏像30点、工芸品19点、古文書等12点が重要文化財である。金堂は平成12年(2000)から10年かけて大修理され、平成21年11月に落慶法要された。この平成大修理の際、江戸時代と明治時代にも大修理が行なわれていたことが判明した。
唐招提寺の前には広い駐車場があり、グループごとに境内へ入る。南大門から入り、参道の玉砂利を踏んで進むと、見慣れた金堂が正面に対峙することに、でも実物を見るのは初めてである。正面に並ぶ8本の円柱の吹き放ちは、正に天平様式、ギリシャの神殿建築様式が伝わってくるような印象を受ける。その簡素な美しさの中にも厳かさを感じる。内陣には慮舎那仏坐像(国宝)を中央に、左手東方には現世の苦悩を救済する薬師如来立像(国宝)が、右手西方には理想の未来へ導く十一面観世音菩薩立像(国宝)が見えている。本尊の脇には梵天・帝釈天の立像(国宝)、須弥壇の四隅には四天王像(国宝)が立つ。ここ独特の雰囲気、魅了される。
次いで鼓楼の脇を通り、講堂へ回る。ここでは中へ入る。この建物は平城宮唯一の宮殿建築の遺構で、中には、本来は菩薩像であるのだが、ここでは本尊弥勒如来坐像(重文)として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されている。ほかに持国・増長の二天(重文)も共に配されている。出て、境内の礼堂・東室を横に見て、地蔵堂に上がり、迂回して日本最古の校倉といわれる宝蔵・経蔵の前を通り、南大門に戻った。今回は鑑真和上座像(国宝)が納められている御影堂は、屋根しか見えなかったが、ここには東山魁夷画伯による障壁画が奉献されている。ここが公開されるのは、毎年6月6日の開山忌舎利会の際の前後3日間のみである。
宝暦11年(1761) 550年遠忌 桃園天皇より「慧成大師」の号を賜る。
文化8年(1811) 600年遠忌 光格天皇より「弘覚大師」の号を賜る。
万延2年(1861) 650年遠忌 孝明天皇より「慈教大師」の号を賜る。
明治44年(1911) 700年大遠忌 明治天皇より「明照大師」の号を賜る。
昭和36年(1961) 750年御遠忌 昭和天皇より「和順大師」の号を賜る。
平成23年(2011) 800年大遠忌 今上天皇より「法爾大師」の号を賜る。
当初、知恩院での800年大法要は、第Ⅰ期の古式法要が3月27日から4月3日までの8日間、第Ⅱ期の記念法要が4月4日から17日までの14日間行なわれることになっていて、石川教区は第Ⅱ期の3日目(4月9日)の念仏会日中法要に組まれていた。ところがあの未曾有の東日本大震災により、法要は秋に延期になった。折しも浄土真宗でも、親鸞上人750年遠忌が今年執り行われることになっていて、東本願寺では予定通り、西本願寺では秋に延期となった。知恩院では、古式法要は10月2~9日の8日間、記念法要は9月28日と10月12~22日と24~25日の14日間、加えて10月11日に東日本大震災物故者追悼法要が行なわれることになった。石川教区の念仏会法要は10月15日の午前である。
今回の法要参加の旅は、法要の前日に奈良の興福寺と唐招提寺を拝観し、当日は午前の念仏会法要に参列し、帰沢するという予定で、主催は浄土宗石川教区・同壇信徒会である。
1.興福寺
10月14日の天気は雨とのことだったが、金沢では晴れていて、旅行日和の感があった。朝8時に金沢駅西口に集合、バスは1号車、全部で5台である。バスの座席は菩提寺ごとに仕分けされていて、私達夫婦は前の方だった。福井を過ぎる頃から雨模様になる。途中2回のトイレ休憩があり、車中昼食で午後1時には奈良市登大路の興福寺に着いた。小雨が間断なく降っている。興福寺は昨年が創建1300年、国宝館開館50周年とかである。
興福寺は南都六宗の一つ法相宗の大本山、創建は和銅3年(710)で、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、春日社の実権を手中にし、大和国を領するほどになり、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護は置かず、興福寺がその任に当たったという。また江戸時代には、21,000余石の朱印を与えられ保護されていたが、明治元年(1868)に出された神仏分離令・廃仏毀釈、明治4年(1871)の社寺上地令によって、子院はすべて廃止、寺領は没収、僧は春日社の神職となり、境内の塀は取り払われ、奈良公園の一部となり、寺は廃寺同然となったが、その後復興した。現在でも寺には塀がなく、公園の中に寺がある状態となっている。
興福寺は創建以来、7回もの焼失・再建を繰り返してきた。中金堂は文政2年(1219)に仮再建されたが、老朽化したため平成12年(2000)に解体された。現在境内整備が行なわれていて、第1期は中金堂及びその周辺の整備で、平成10年(1998)から平成35年(2023)の26年間が当てられている。これまで中金堂基壇、中門、回廊、前庭の発掘調査が終わり、平成22年(2010)の創建1300年には中金堂の立柱式が行なわれ、平成30年(2018)には復元される予定である。これには約60億円の費用が見込まれる。この伽藍復興に向けて、私も平瓦に記名し寄進した。中金堂の規模は、東西36.6m、南北20m、高さ21.2mだったという。
団体で国宝館に入った。今日は金曜日、中学生や高校生の団体も大勢来ていて、皆さん資料を持って学習していて、館内は芋の子を洗う状態。これだけ拝観者が多いと、ゆっくり鑑賞するというのは困難で、人の波に体を委ねての移動となる。まるでところてん式に押し出されて外へ。ここでの滞在時間は1時間、残りの時間、境内を散策する。東金堂、五重塔、北円堂、三重塔は国宝。南円堂、大湯屋は重要文化財。中金堂は再建中。西金堂、回廊、中門、南大門、鐘楼、経蔵は跡のみ。全体の再建はまだまだのようだ。現在拝観できるのは、国宝館と東金堂のみである。現在興福寺に収蔵されている仏像等の国宝は54点、重要文化財は44点と多く、奈良県指定文化財も3点ある。本尊の釈迦如来像、薬王・薬上菩薩像(重文)、四天王像(重文)は、現在仮金堂に移安置されている。
2.唐招提寺
興福寺を出て、奈良市五条町の唐招提寺に移動する。
唐招提寺は南都六宗の一つ、律宗の総本山、開基は鑑真和上、本尊は慮舎那仏である。宗祖の鑑真和上は中国揚州の生まれ、21歳で授戒を受けた後、揚州大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽には並ぶ者がない律匠と称えられていた。54歳の折に日本からの熱心な招きに応じて渡日を決意されたが、遣唐使船での5回の渡海の試みのうち、3回は事前の密告で出国できず、2回は暴風雨で失敗、そして失明された。しかし渡日の意志は強く、六度目にして漸く琉球を経て天平勝宝5年(753)12月に薩摩に上陸、翌年4月に奈良へ着いた。66歳だった。この年和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武天皇、光明皇后はじめ四百余人に授戒された。その後東大寺で5年を過ごされ、天平宝字2年(758)には大和上の称号を賜り、併せて新田部親王の旧宅地を下賜され、翌3年(759)には戒律を学ぶ人達のために修行の道場を開き、「唐律招提」と称した。鑑真和上の私寺として発足した当初は、講堂と新田部親王の旧宅を改造した経蔵や宝蔵があるだけで、金堂が完成したのは弟子の如宝の尽力による。鑑真和上は日本で10年過ごされ、天平宝字7年(763)5月にその生涯を閉じられた。76歳だった。
寺の建造物では、金堂、講堂、鼓楼、経蔵、宝蔵が国宝、御影堂、礼堂・東室が重要文化財となっている。ほかには仏像6点と舎利容器1点が国宝、絵画4点、仏像30点、工芸品19点、古文書等12点が重要文化財である。金堂は平成12年(2000)から10年かけて大修理され、平成21年11月に落慶法要された。この平成大修理の際、江戸時代と明治時代にも大修理が行なわれていたことが判明した。
唐招提寺の前には広い駐車場があり、グループごとに境内へ入る。南大門から入り、参道の玉砂利を踏んで進むと、見慣れた金堂が正面に対峙することに、でも実物を見るのは初めてである。正面に並ぶ8本の円柱の吹き放ちは、正に天平様式、ギリシャの神殿建築様式が伝わってくるような印象を受ける。その簡素な美しさの中にも厳かさを感じる。内陣には慮舎那仏坐像(国宝)を中央に、左手東方には現世の苦悩を救済する薬師如来立像(国宝)が、右手西方には理想の未来へ導く十一面観世音菩薩立像(国宝)が見えている。本尊の脇には梵天・帝釈天の立像(国宝)、須弥壇の四隅には四天王像(国宝)が立つ。ここ独特の雰囲気、魅了される。
次いで鼓楼の脇を通り、講堂へ回る。ここでは中へ入る。この建物は平城宮唯一の宮殿建築の遺構で、中には、本来は菩薩像であるのだが、ここでは本尊弥勒如来坐像(重文)として表現され、金堂の三尊と合わせて顕教四仏となる古式で配列されている。ほかに持国・増長の二天(重文)も共に配されている。出て、境内の礼堂・東室を横に見て、地蔵堂に上がり、迂回して日本最古の校倉といわれる宝蔵・経蔵の前を通り、南大門に戻った。今回は鑑真和上座像(国宝)が納められている御影堂は、屋根しか見えなかったが、ここには東山魁夷画伯による障壁画が奉献されている。ここが公開されるのは、毎年6月6日の開山忌舎利会の際の前後3日間のみである。
2011年10月26日水曜日
信州探蕎 「かじか亭」と「職人館」 (2)
● 二日目の探蕎は望月の「職人館」 (佐久市望月春日 3250-3) 電話0267-52-2010
初日の宿の満山荘からの出しなに、草庵風の入り口で、宿の主人がカメラマンになってくれて、集合写真を撮ってもらう。また来ますと言って別れ、予定通り9時に出発する。取り敢えずは山を下りて、先ずは土産のリンゴを買うべくJA須高(須坂市と高山村合同のJA)管理の高山共選所へ寄る。地元高山産のいろんな品種のリンゴが格安の値で手に入る。私はリンゴワイン(発泡酒)を求めた。さて次は久保さんの所望で、昨晩の地酒「やまと」を求めて須坂市内を巡る。しかし地元のコンビニには置いてなく、それで蔵元へ、でもここには商品はなく、漸く探しあぐねて遠藤酒造直営の商店に辿り着けた。松川さんは以前来たことがあるとか。久保さん御執心の「やまと」という酒は、遠藤酒造の渓流純米吟醸の一商品、ラベルにはあの達磨大師が書いた?〇が書かれている。私も一本求め、更に今が旬の渓流ひやおろし純米酒も求めた。
これで土産は一段落、後は第二の探蕎の地、佐久望月の里へ一直線。もう10時半は過ぎていた。須坂長野東ICから上信越道に上がり、佐久ICへと急ぐ。佐久ICで下りて、久保さんはナビに従って走行されたとか、松川さんはひたすら久保車の後を追う。どこをどう通ったかは全く不明、何か中仙道の望月の近くで正午近くだった。その後どうやら山に近い田中の道を走るようになり、どうもお目当ての蕎麦屋が近いと肌で感じられるようになった。そして間もなく手打ちそば家という「職人館」に到着した。もっと遅れると思いきや、僅か四半刻ばかりの延であった。
この山近くの田園に囲まれて建つ古民家は、店主の北沢正和さんの祖父が暮らしていたという家屋、落ち着いた佇まいの建物である。入り口右手の梁には「職人館」の掲額、パンフレットによると、題字は信濃デッサン館の窪島誠一郎氏によるとあるが、この方が命名者でもある。あの戦没画学生慰霊美術館の「無言館」の館長でもある氏に、開店に際して店の名を依頼したところ、この名を頂いたとのこと、一風変わった癖のある店名という印象を受けていたが、これで納得がいく。
入り口は障子戸、上には注連飾りがあり、真ん中には「笑門」の札が。中へ入る。既に何組かの客が来ている。右手の板の間に置かれた細長い分厚い一枚板の座机に案内される。10人は座れよう。注文はランチサービスの『そばと何かほしい膳』ということに。メニューの名前からしてオリジナル、遊び心が伝わってくるが、はたしてどんな料理が登場するのだろうか。暫らく間があって、先ずお通しに「村の豆」が出た。これには白色で粗い塩の「味の決め手塩」という名のフィりピン・ソハモセリナ産の塩と、茶色でやや粗い「銀葉藻と塩」という名で、塩は新潟・村上産というのが付いてきた。銀葉藻(ぎんばそう)というのは、褐藻類ホンダワラ科の海藻で、和名をアカモクといい、佐渡などでは刻んで湯通しして食べるようで、モズクに似ている。また乾燥したものは商品化されていて、出ている塩は粉末にした銀葉藻を塩と混ぜたものだろう。
初めに「村のとうふ」が出る。地元御牧(みまき)村特産の丸大豆100%の豆腐、木綿豆腐位の堅さ、でもしっかりとした甘味と香りがする一品だ。次いで「季節の一品」、色鮮やかなサラダ、取り分けて食べる。トマト、キャベツ、パブリカ、リンゴ、レタス、ダイコン、ネギが、自家製の「天来醤油」で味付けされており、それにコスモスのピンクの花びらを散らしてあり、見た目には極彩色、実に楽しい盛り付けで面白い。花弁はもちろん食することができる。次に登場したのは「そばの実のリゾット」、丸抜きのそば粒の粥に、丸大豆、トマト、インゲン、カキが散らされている一品、これも取り分けて食べる。そろそろ「そば」かと思ったら、もう一皿「季節の野菜盛り」が出てきた。完熟した真っ赤なトマト、一人に丸ごと一個、包丁は入っている。それに食用ホオズキ、何とも言えない淡い甘さ、種はない。そして紫色の食用菊の花びら、それに香草のバジル、この皿はコース外のような気がする。そして次にお目当ての「十割そば」。丸皿に丸い竹簾を敷き、細打ちのそばがこんもりと盛られて出てきた。そばは近くの高原で昔から栽培されてきた村内産の玄そばを、石臼挽きした地粉100%の手打ちそばである。香りがあり、コシがあり、かつ喉越しが良い。正に絶品である。つゆは辛め、地元産の丸大豆を使った職人館オリジナルの「天来醤油」を用い、鰹節にもこだわり、化学調味料は一切使っていないという。そして最後には蕎麦湯が、大きな片口になみなみと、そばの茹で汁で、割ってもそのままでも美味しい。
ここで出される食材は、すべて無農薬・有機栽培で栽培された旬のものばかり、しかもこの地域で採れたものを頂くという地産地消にこだわり、その日の料理も材料を見てから考えるという。扱う食材は、自然が既に料理してくれているから、そのまま皿に盛るだけで充分なのだが、少し手を加えると更に美味しくなるとも。彼の料理に対する考え方は、健康は良い食べ物を食することによって作り出されるという「食養」という信念に基づいているからだという。
少し彼の言を引用しよう。「食養」のための食材は、(1)『身土不二』、(2)『一物全体食』、(3)『不飽常食』の三つに集約されるという。(1).人間も含めて地球上の生物は、土から育った植物を食べて生きているから、人間も動物も間接的には土を食べて生きていることになり、食養のためには、良い土壌に育った食材が必要である。野菜なら昔からの農法、無農薬・有機肥料で育てられた野菜本来の味を持つ食材、山菜のように自然に野山に自生している食材がそうである。(2).一つの生命がまるごと入っているもの、その全体を食べるのが健康のためには良い。穀物や蕎麦のように、土の中に種を蒔けば生命となるものが良い。牛などのように、まるごと食べられないものは除外される。(3).米などのように、毎日食べても飽きない食材をいう。
次にお品書きを一部紹介するが、何ともユニークでオリジナリティーの高い、遊び心が伝わってくるメニューである。( )内の数字は税抜きの価格である。
『山里の季節膳』:「炭にきけ膳」(4000)、「棟上げ膳」(5000)、「野にきけ膳」(6000)、「山にきけ膳」(7000)、「山里の恵み膳」(8000)。
『ランチサービス』:「そばと何かほしい膳」(2500)、「館主の野遊び膳」(3000)、「山里の彩り膳」(4000)。
『職人館の創作そば』:「そばの実と放し飼卵のリゾット風」(1500)、「山ぶどうドレッシングのそばサラダ」(1500)、「みまき豆腐の葛あんかけそば」(1500)、ほかに「岩魚そば」「どんぐりそば」。
『そば』:「職人そば」「みぞれそば」(850)、「十割石臼挽きそば」「山菜温そば」(1300)、「季節のかわりそば:更科かダッタン」(1500)。
『ちょっと一品』:「村の豆とうふ」(350)、「野菜・きのこのそば味噌炊き」(850)、「山野のお任せ盛り」(1500)。
『調味料・酒はオリジナル』:「味の決め手塩」「銀葉藻と塩」「天来味噌」「天来醤油」「職人館酒」「そば焼酎」ほか。
「季節の野菜盛り」は盛り沢山で食べられないので持ち帰りたいと言ったところ、お持ち帰りはできませんとのこと、諦めていたところ、帰り際に清算をしているとき、新しい野菜をお持ち帰り下さいと頂戴した。何とも嬉しい心遣いだった。玄関で集合写真を撮るのに、館主にシャッターを切ってもらった。その後しばらく話していたら、ここで開業する前の6年間、金沢と鶴来で修行したとのこと、驚いた。此処へ来てもう二十余年というから、かれこれ30年位前のことになる。帰りに注連飾りの下でポーズしてもらった。
遠いが、また訪れてみたい蕎麦の館である。
初日の宿の満山荘からの出しなに、草庵風の入り口で、宿の主人がカメラマンになってくれて、集合写真を撮ってもらう。また来ますと言って別れ、予定通り9時に出発する。取り敢えずは山を下りて、先ずは土産のリンゴを買うべくJA須高(須坂市と高山村合同のJA)管理の高山共選所へ寄る。地元高山産のいろんな品種のリンゴが格安の値で手に入る。私はリンゴワイン(発泡酒)を求めた。さて次は久保さんの所望で、昨晩の地酒「やまと」を求めて須坂市内を巡る。しかし地元のコンビニには置いてなく、それで蔵元へ、でもここには商品はなく、漸く探しあぐねて遠藤酒造直営の商店に辿り着けた。松川さんは以前来たことがあるとか。久保さん御執心の「やまと」という酒は、遠藤酒造の渓流純米吟醸の一商品、ラベルにはあの達磨大師が書いた?〇が書かれている。私も一本求め、更に今が旬の渓流ひやおろし純米酒も求めた。
これで土産は一段落、後は第二の探蕎の地、佐久望月の里へ一直線。もう10時半は過ぎていた。須坂長野東ICから上信越道に上がり、佐久ICへと急ぐ。佐久ICで下りて、久保さんはナビに従って走行されたとか、松川さんはひたすら久保車の後を追う。どこをどう通ったかは全く不明、何か中仙道の望月の近くで正午近くだった。その後どうやら山に近い田中の道を走るようになり、どうもお目当ての蕎麦屋が近いと肌で感じられるようになった。そして間もなく手打ちそば家という「職人館」に到着した。もっと遅れると思いきや、僅か四半刻ばかりの延であった。
この山近くの田園に囲まれて建つ古民家は、店主の北沢正和さんの祖父が暮らしていたという家屋、落ち着いた佇まいの建物である。入り口右手の梁には「職人館」の掲額、パンフレットによると、題字は信濃デッサン館の窪島誠一郎氏によるとあるが、この方が命名者でもある。あの戦没画学生慰霊美術館の「無言館」の館長でもある氏に、開店に際して店の名を依頼したところ、この名を頂いたとのこと、一風変わった癖のある店名という印象を受けていたが、これで納得がいく。
入り口は障子戸、上には注連飾りがあり、真ん中には「笑門」の札が。中へ入る。既に何組かの客が来ている。右手の板の間に置かれた細長い分厚い一枚板の座机に案内される。10人は座れよう。注文はランチサービスの『そばと何かほしい膳』ということに。メニューの名前からしてオリジナル、遊び心が伝わってくるが、はたしてどんな料理が登場するのだろうか。暫らく間があって、先ずお通しに「村の豆」が出た。これには白色で粗い塩の「味の決め手塩」という名のフィりピン・ソハモセリナ産の塩と、茶色でやや粗い「銀葉藻と塩」という名で、塩は新潟・村上産というのが付いてきた。銀葉藻(ぎんばそう)というのは、褐藻類ホンダワラ科の海藻で、和名をアカモクといい、佐渡などでは刻んで湯通しして食べるようで、モズクに似ている。また乾燥したものは商品化されていて、出ている塩は粉末にした銀葉藻を塩と混ぜたものだろう。
初めに「村のとうふ」が出る。地元御牧(みまき)村特産の丸大豆100%の豆腐、木綿豆腐位の堅さ、でもしっかりとした甘味と香りがする一品だ。次いで「季節の一品」、色鮮やかなサラダ、取り分けて食べる。トマト、キャベツ、パブリカ、リンゴ、レタス、ダイコン、ネギが、自家製の「天来醤油」で味付けされており、それにコスモスのピンクの花びらを散らしてあり、見た目には極彩色、実に楽しい盛り付けで面白い。花弁はもちろん食することができる。次に登場したのは「そばの実のリゾット」、丸抜きのそば粒の粥に、丸大豆、トマト、インゲン、カキが散らされている一品、これも取り分けて食べる。そろそろ「そば」かと思ったら、もう一皿「季節の野菜盛り」が出てきた。完熟した真っ赤なトマト、一人に丸ごと一個、包丁は入っている。それに食用ホオズキ、何とも言えない淡い甘さ、種はない。そして紫色の食用菊の花びら、それに香草のバジル、この皿はコース外のような気がする。そして次にお目当ての「十割そば」。丸皿に丸い竹簾を敷き、細打ちのそばがこんもりと盛られて出てきた。そばは近くの高原で昔から栽培されてきた村内産の玄そばを、石臼挽きした地粉100%の手打ちそばである。香りがあり、コシがあり、かつ喉越しが良い。正に絶品である。つゆは辛め、地元産の丸大豆を使った職人館オリジナルの「天来醤油」を用い、鰹節にもこだわり、化学調味料は一切使っていないという。そして最後には蕎麦湯が、大きな片口になみなみと、そばの茹で汁で、割ってもそのままでも美味しい。
ここで出される食材は、すべて無農薬・有機栽培で栽培された旬のものばかり、しかもこの地域で採れたものを頂くという地産地消にこだわり、その日の料理も材料を見てから考えるという。扱う食材は、自然が既に料理してくれているから、そのまま皿に盛るだけで充分なのだが、少し手を加えると更に美味しくなるとも。彼の料理に対する考え方は、健康は良い食べ物を食することによって作り出されるという「食養」という信念に基づいているからだという。
少し彼の言を引用しよう。「食養」のための食材は、(1)『身土不二』、(2)『一物全体食』、(3)『不飽常食』の三つに集約されるという。(1).人間も含めて地球上の生物は、土から育った植物を食べて生きているから、人間も動物も間接的には土を食べて生きていることになり、食養のためには、良い土壌に育った食材が必要である。野菜なら昔からの農法、無農薬・有機肥料で育てられた野菜本来の味を持つ食材、山菜のように自然に野山に自生している食材がそうである。(2).一つの生命がまるごと入っているもの、その全体を食べるのが健康のためには良い。穀物や蕎麦のように、土の中に種を蒔けば生命となるものが良い。牛などのように、まるごと食べられないものは除外される。(3).米などのように、毎日食べても飽きない食材をいう。
次にお品書きを一部紹介するが、何ともユニークでオリジナリティーの高い、遊び心が伝わってくるメニューである。( )内の数字は税抜きの価格である。
『山里の季節膳』:「炭にきけ膳」(4000)、「棟上げ膳」(5000)、「野にきけ膳」(6000)、「山にきけ膳」(7000)、「山里の恵み膳」(8000)。
『ランチサービス』:「そばと何かほしい膳」(2500)、「館主の野遊び膳」(3000)、「山里の彩り膳」(4000)。
『職人館の創作そば』:「そばの実と放し飼卵のリゾット風」(1500)、「山ぶどうドレッシングのそばサラダ」(1500)、「みまき豆腐の葛あんかけそば」(1500)、ほかに「岩魚そば」「どんぐりそば」。
『そば』:「職人そば」「みぞれそば」(850)、「十割石臼挽きそば」「山菜温そば」(1300)、「季節のかわりそば:更科かダッタン」(1500)。
『ちょっと一品』:「村の豆とうふ」(350)、「野菜・きのこのそば味噌炊き」(850)、「山野のお任せ盛り」(1500)。
『調味料・酒はオリジナル』:「味の決め手塩」「銀葉藻と塩」「天来味噌」「天来醤油」「職人館酒」「そば焼酎」ほか。
「季節の野菜盛り」は盛り沢山で食べられないので持ち帰りたいと言ったところ、お持ち帰りはできませんとのこと、諦めていたところ、帰り際に清算をしているとき、新しい野菜をお持ち帰り下さいと頂戴した。何とも嬉しい心遣いだった。玄関で集合写真を撮るのに、館主にシャッターを切ってもらった。その後しばらく話していたら、ここで開業する前の6年間、金沢と鶴来で修行したとのこと、驚いた。此処へ来てもう二十余年というから、かれこれ30年位前のことになる。帰りに注連飾りの下でポーズしてもらった。
遠いが、また訪れてみたい蕎麦の館である。
2011年10月25日火曜日
信州探蕎 「かじか亭」と「職人館」 (1)
探蕎会の平成23年後期の探蕎第二弾は既に信州方面と決まっていて、宿も奥山田温泉の満山荘なのだが、肝心の探蕎の方は、副会長で信州には造詣の深い久保さんに一任ということになっていた。ところで何処になるかは興味深々だったが、出発当日、久保さんから、初日は富倉の「かじか亭」、二日目は望月の「職人館」と発表があった。私にとっては、いずれの蕎麦店も初めてだと思っていたら、職人館は一度伺っていた。記録を見ると、探蕎会が設立された平成11年(1999)の10月23~24日に、戸隠・別所温泉の旅として、戸隠の「大久保西茶屋」、更埴市の「つる忠」、それに望月町の「職人館」へ行ったという記録があり、そういえば別所温泉の柏屋別荘も戸隠も更埴も思い出したものの、望月へ行ったという記憶がどうも定かではない。何故かは不明である。それはともかく、今年の信州探蕎は10月10日(月曜で体育の日で休日)と翌11日の火曜日、総勢7名での出発となった。
● 初日の探蕎は富倉の「かじか亭」 (飯山市富倉1769) 電話0269-67―2500
午前7時50分に予防医学協会の駐車場を予定を20分遅れて出発する。車は2台、久保車に4名、松川車に3名、近くの金沢西ICから北陸道に上がり、上越ICで下りて、国道18号線(北國街道)を南下し、新井市で左折して国道292号線(飯山街道)に入る。新潟と長野の県境の富倉峠を越え、飯山市富倉に至り、富倉中谷(ナカヤ)にある富倉ふるさとセンターの「かじか亭」に着いた。かじか亭は街道に面していて、前には広い駐車場がある。訊けば此処は小学校の跡地で、地元住民の共同出資でこのセンターをオープンしたとか、どうりで広いわけだ。車なら100台は停められよう。
ここの開店は10時と早く、着いた時にはもう先客がいた。三和土(タタキ)にはテーブルが、小上がりには座机が、50人は入れよう。宿泊も可能とかである。小上がりに上がり、富倉名物のオヤマボクチをつなぎに使った地粉100%の富倉そばとこれも富倉名物の笹寿しがセットになっている「手打ちそば定食」を注文する。このセットは、この富倉出身で中野市で開業している「郷土(ゴウド)食堂」でも味わうことができる。この店の主人は、幻の富倉そばをこの富倉の地で30年前に始めて営業レベルにまで発展させ、その後平成2年(1990)に中野へ移っている。現在富倉の地には他に3軒が富倉そばを提供している。またオヤマボクチをつなぎにしたそばは、木曽福島のあの「時香忘(ジコボウ)」ほか数軒でも出している。
蕎麦前にお酒を所望する。銘柄は不明だが地酒だろう。燗酒で小徳利で320円とか、何とも安い。ややあって注文のそば定食が届く。ざるそばは平打ちの十割、やや細切りで、コシは強いが喉越しは良い。おそらくこれはオヤマボクチのなせる業なのだろう。そして名物の笹寿しが2枚、鮮やかな緑色の笹の葉に酢めしが、その上に錦糸玉子、紅生姜、ゼンマイ、茸、クルミ、大根の味噌漬けが載っている。その昔、川中島の合戦に向かう上杉謙信勢に富倉の人達が提供した野戦食と伝えられていて、別名「謙信寿し」とも言われている。
[蕎麦屋情報]営業:10~18時.11~3月は10~17時.席:50.定休日:火曜.
● 初日の宿は奥山田温泉の「満山荘」 (上高井郡高山村奥山田温泉) 電話026-242―2527
富倉から飯山へ下り、中野を経由して小布施へ。この日は観光客でごった返す町を素通りして、松川渓谷沿いの道を上流へ、この渓谷には山田温泉、五色温泉、七味温泉があり、お湯が川に自噴しているとかで、魚は棲めないそうだ。七味温泉の分岐から山へ上る。奥山田温泉は山田牧場の一画、標高は1,500mを超え、更に進めば志賀高原に通じている。時に午後2時、一旦山田牧場まで行き、Uターンして満山荘へ、うっかり狭い砂利道へ誘導して松川さんに苦労をかけた。しかし牧場から来るとここが入り口のように見えて、後続の久保車も入り込んだとか、ほかにも数名、何か表示がほしいものだ。
案内を乞うと、どうぞと言われロビーへ、寛いで主人が入れてくれた蕎麦茶を頂く。部屋は観山(ミヤマ)館2階の続きの3室、「鹿島槍」「五竜」「唐松」、いずれも後立山の山々の名前だ。既に布団が敷かれていて、私達3人は「唐松」に入る。この部屋は囲炉裏付きの和室である。
お天気がよくて空気が澄んでいれば、窓から西に西穂高岳から小蓮華岳まで南北80kmに及ぶ北アルプスが一望できるはずなのだが、あいにくモヤっていて何も見えない。ただ近景の樹海は色づき始めていて、紅葉・黄葉が緑の針葉樹に混ざって彩を添えている。お神酒を入れて寛ぎ、解禁の午後3時になって風呂へ下りる。この時間帯、男性が入れるのは、宿の初代館主が作った岩風呂と露天風呂、内湯は熱いが外湯はまずまずの熱さ、これで展望がきけば最高なのだが。源泉の泉質は単純硫黄泉、源泉温度は96℃、全量かけ流しである。 このお湯は五色温泉と七味温泉の中間地点に300mボーリングして、それをここまで1650m押し上げているとか、窓の外には大きな茶色のタンクが見えている。パイプは厚さ30mmのビニール製とか、話すのは初代館主の堀江文四郎さん(84)である。これだけの高さを一気にポンプアップしているのは世界でも例を見ないと自慢されていた。温泉につぎ込んだ費用は延べ7億5千万円とも。談話室には自身で撮影された北アルプスの大パノラマ写真、実に見事である。氏は旧海軍士官だったとか、エピソードも多く、また話もバラエティーに富んでいる。数日前には転んで肋骨が折れているというのに、自分で車を運転して長野市にある日赤病院に通院しているとか。とかく話題の多い人だ。
夕食は午後6時から Food 風土という食事処で、地元の山菜や野菜、所謂旬の食材をふんだんに使った創作料理が10種以上も提供される。何とも楽しい。この食事もリピーターになる一因とか、さもあろう。アルコールは秘湯ビールと地酒を3銘柄、大町の白馬錦、須坂のやまと、飯山の水尾一味を頂いた。至福の時を過ごした。食後はそれぞれに寛ぐ。私はテレビで「日本人イヌイット北極圏に生きる」という番組があり、釘付けになった。彼らは狩をするが、それが食の糧であり、そして毛皮は彼らに経済的価値を生み出してきた。猟の期間や捕獲頭数はともかく、以前は年間通じて氷原だった北極圏の海が、近年は温暖化で夏季には氷が解けて海になり、アザラシ猟も夏には舟でという始末。また自然保護団体の圧力もあって、毛皮の売買もままならなくなり、経済的にも大きな岐路に立たされている。日本人家族がいるアッパリアスの部落も、彼が移住してきた頃には94人いたのに今は51人とか、でも彼は猟の技術を息子にも覚えさせるのに懸命で、今でも永住を決意している。独り神の河を飲みながら、このドキュメント番組を観た。
翌朝の朝食は午前8時、昨夜午後10時から朝食時までは入湯場所が男女逆になる。夜に風呂に入った人の言では、十五夜の月が煌々と輝いていて実に素晴らしかったとか。朝4時には起きていたのに、これはうっかりしていた。6時近くに昨日は女性用となっていた風呂に入る。一昨年4千万円をかけて改修したという風呂は実に素晴らしい。脱衣場も洗い場も贅が尽くされているという感じ、内湯は檜風呂、ゆったりとして大きい。また露天風呂は切り石で囲った長方形、湯温が適温で、これならいくらでも浸かっていられる。そして周りには回廊、石畳にはチェアも置いてあって、申し分のない風呂環境、正に秘湯である。これで遠望がきいて、パノラマ写真のような北アルプスを望見できれば、正に桃源郷だ。
朝食は昨晩の食事処の同じ席で、食事はバイキング方式、でも個々の品がこの宿に相応しい品々、こうなるとあれもこれもと、どうしても余計に取ってしまう。久保さんからは職人館へは11時半に入りたいので、宿を午前9時に出立するということに。
[温泉情報] 色:淡乳白色.泉質:単純硫黄泉.源泉温度:96℃.湧出量:40ℓ/分.pH7.8.
● 初日の探蕎は富倉の「かじか亭」 (飯山市富倉1769) 電話0269-67―2500
午前7時50分に予防医学協会の駐車場を予定を20分遅れて出発する。車は2台、久保車に4名、松川車に3名、近くの金沢西ICから北陸道に上がり、上越ICで下りて、国道18号線(北國街道)を南下し、新井市で左折して国道292号線(飯山街道)に入る。新潟と長野の県境の富倉峠を越え、飯山市富倉に至り、富倉中谷(ナカヤ)にある富倉ふるさとセンターの「かじか亭」に着いた。かじか亭は街道に面していて、前には広い駐車場がある。訊けば此処は小学校の跡地で、地元住民の共同出資でこのセンターをオープンしたとか、どうりで広いわけだ。車なら100台は停められよう。
ここの開店は10時と早く、着いた時にはもう先客がいた。三和土(タタキ)にはテーブルが、小上がりには座机が、50人は入れよう。宿泊も可能とかである。小上がりに上がり、富倉名物のオヤマボクチをつなぎに使った地粉100%の富倉そばとこれも富倉名物の笹寿しがセットになっている「手打ちそば定食」を注文する。このセットは、この富倉出身で中野市で開業している「郷土(ゴウド)食堂」でも味わうことができる。この店の主人は、幻の富倉そばをこの富倉の地で30年前に始めて営業レベルにまで発展させ、その後平成2年(1990)に中野へ移っている。現在富倉の地には他に3軒が富倉そばを提供している。またオヤマボクチをつなぎにしたそばは、木曽福島のあの「時香忘(ジコボウ)」ほか数軒でも出している。
蕎麦前にお酒を所望する。銘柄は不明だが地酒だろう。燗酒で小徳利で320円とか、何とも安い。ややあって注文のそば定食が届く。ざるそばは平打ちの十割、やや細切りで、コシは強いが喉越しは良い。おそらくこれはオヤマボクチのなせる業なのだろう。そして名物の笹寿しが2枚、鮮やかな緑色の笹の葉に酢めしが、その上に錦糸玉子、紅生姜、ゼンマイ、茸、クルミ、大根の味噌漬けが載っている。その昔、川中島の合戦に向かう上杉謙信勢に富倉の人達が提供した野戦食と伝えられていて、別名「謙信寿し」とも言われている。
[蕎麦屋情報]営業:10~18時.11~3月は10~17時.席:50.定休日:火曜.
● 初日の宿は奥山田温泉の「満山荘」 (上高井郡高山村奥山田温泉) 電話026-242―2527
富倉から飯山へ下り、中野を経由して小布施へ。この日は観光客でごった返す町を素通りして、松川渓谷沿いの道を上流へ、この渓谷には山田温泉、五色温泉、七味温泉があり、お湯が川に自噴しているとかで、魚は棲めないそうだ。七味温泉の分岐から山へ上る。奥山田温泉は山田牧場の一画、標高は1,500mを超え、更に進めば志賀高原に通じている。時に午後2時、一旦山田牧場まで行き、Uターンして満山荘へ、うっかり狭い砂利道へ誘導して松川さんに苦労をかけた。しかし牧場から来るとここが入り口のように見えて、後続の久保車も入り込んだとか、ほかにも数名、何か表示がほしいものだ。
案内を乞うと、どうぞと言われロビーへ、寛いで主人が入れてくれた蕎麦茶を頂く。部屋は観山(ミヤマ)館2階の続きの3室、「鹿島槍」「五竜」「唐松」、いずれも後立山の山々の名前だ。既に布団が敷かれていて、私達3人は「唐松」に入る。この部屋は囲炉裏付きの和室である。
お天気がよくて空気が澄んでいれば、窓から西に西穂高岳から小蓮華岳まで南北80kmに及ぶ北アルプスが一望できるはずなのだが、あいにくモヤっていて何も見えない。ただ近景の樹海は色づき始めていて、紅葉・黄葉が緑の針葉樹に混ざって彩を添えている。お神酒を入れて寛ぎ、解禁の午後3時になって風呂へ下りる。この時間帯、男性が入れるのは、宿の初代館主が作った岩風呂と露天風呂、内湯は熱いが外湯はまずまずの熱さ、これで展望がきけば最高なのだが。源泉の泉質は単純硫黄泉、源泉温度は96℃、全量かけ流しである。 このお湯は五色温泉と七味温泉の中間地点に300mボーリングして、それをここまで1650m押し上げているとか、窓の外には大きな茶色のタンクが見えている。パイプは厚さ30mmのビニール製とか、話すのは初代館主の堀江文四郎さん(84)である。これだけの高さを一気にポンプアップしているのは世界でも例を見ないと自慢されていた。温泉につぎ込んだ費用は延べ7億5千万円とも。談話室には自身で撮影された北アルプスの大パノラマ写真、実に見事である。氏は旧海軍士官だったとか、エピソードも多く、また話もバラエティーに富んでいる。数日前には転んで肋骨が折れているというのに、自分で車を運転して長野市にある日赤病院に通院しているとか。とかく話題の多い人だ。
夕食は午後6時から Food 風土という食事処で、地元の山菜や野菜、所謂旬の食材をふんだんに使った創作料理が10種以上も提供される。何とも楽しい。この食事もリピーターになる一因とか、さもあろう。アルコールは秘湯ビールと地酒を3銘柄、大町の白馬錦、須坂のやまと、飯山の水尾一味を頂いた。至福の時を過ごした。食後はそれぞれに寛ぐ。私はテレビで「日本人イヌイット北極圏に生きる」という番組があり、釘付けになった。彼らは狩をするが、それが食の糧であり、そして毛皮は彼らに経済的価値を生み出してきた。猟の期間や捕獲頭数はともかく、以前は年間通じて氷原だった北極圏の海が、近年は温暖化で夏季には氷が解けて海になり、アザラシ猟も夏には舟でという始末。また自然保護団体の圧力もあって、毛皮の売買もままならなくなり、経済的にも大きな岐路に立たされている。日本人家族がいるアッパリアスの部落も、彼が移住してきた頃には94人いたのに今は51人とか、でも彼は猟の技術を息子にも覚えさせるのに懸命で、今でも永住を決意している。独り神の河を飲みながら、このドキュメント番組を観た。
翌朝の朝食は午前8時、昨夜午後10時から朝食時までは入湯場所が男女逆になる。夜に風呂に入った人の言では、十五夜の月が煌々と輝いていて実に素晴らしかったとか。朝4時には起きていたのに、これはうっかりしていた。6時近くに昨日は女性用となっていた風呂に入る。一昨年4千万円をかけて改修したという風呂は実に素晴らしい。脱衣場も洗い場も贅が尽くされているという感じ、内湯は檜風呂、ゆったりとして大きい。また露天風呂は切り石で囲った長方形、湯温が適温で、これならいくらでも浸かっていられる。そして周りには回廊、石畳にはチェアも置いてあって、申し分のない風呂環境、正に秘湯である。これで遠望がきいて、パノラマ写真のような北アルプスを望見できれば、正に桃源郷だ。
朝食は昨晩の食事処の同じ席で、食事はバイキング方式、でも個々の品がこの宿に相応しい品々、こうなるとあれもこれもと、どうしても余計に取ってしまう。久保さんからは職人館へは11時半に入りたいので、宿を午前9時に出立するということに。
[温泉情報] 色:淡乳白色.泉質:単純硫黄泉.源泉温度:96℃.湧出量:40ℓ/分.pH7.8.
2011年10月13日木曜日
『ドンキホーテの誤解』を読んで
『随想 ドンキホーテの誤解』 永坂鉃夫著 前田書店 1,500円 (2004)
以前ご恵送いただいた『随想 ドンキホーテの誤解』の当時の読後感が手元に残っていて、読み返しますと、そこには、「大変面白く、先生の薫りが随所に匂う、素晴らしいエッセイ・主張・解説の数々、一気に読ませていただきました」とあります。この度もう一度通読させていただき、勝手な今なりの私のおもいも追記させていただきました。
1.「ドンキホーテの誤解」
どなたかがドン・キホーテではないかとの御託宣は正しいに違いないことです。でも先生は敢えて中点のないドンキホーテとして本物と区別する事にしたとは、何という開き直り、正に返し技一本です。大変小気味よい仕業です。ところで先生は「あえて自著ではドン・キホテとせず」とありますが、そこはドンキホテとせず日本語通読のドンキホーテとされたところが先生らしいですね。おそらく大方の日本人は書きなさいと言うと、中点など付けずに書くのではないでしょうか。
外国の人名・地名をカナ表記するのは大変です。中国のようにこう書くと決めて示せば別ですが、統一した表記は至難でしょう。
マニフェストのこと、私も語源は英語で manifest とばかり思っていたのですが、実は英語でも語尾に o が付くとは驚きました。確かにマニフェストなどと言って国民を煙に巻いている感がします。
箸の握りでは、機能的な握りであれば、どんな握りでも原則OKなんでしょうね。
さて、ダッタンソバの花の色のことですが、五弁花の花びらを比較しますと、ソバは大きくふっくらとしていて白色で、基部のみが淡緑色ですが、ダッタンのは小さくて細く、白色なのですが、基部からほぼ中央に沿って、ほぼ真ん中辺りまで淡緑色の部分があり、全体では淡緑白色に見えます。また花の付き方も、ソバは花が塊状に付き白色が強調されるのに対し、ダッタンは穂状に付くのと花が小さいのとで、花盛りでも淡緑白色はほとんど強調されません。それに早川先生の指摘にもありましたように、「ほう」のような小葉は淡緑色から花期には淡緑黄色になるので、眺めた場合はむしろこちらが強調されます。とは言っても、ダッタン蕎麦畑の花盛りの写真を見ると、葉の緑が最も強く、先端に点々と淡緑黄色と淡緑白色が伺えるという程度です。また葯の色はどちらも紅色なのですが、ダッタンの「おしべ」はソバよりも小さくて短く、紅色が目に入ることはありません。因みにソバは2倍体で虫媒か風媒、一方ダッタンは4倍体で自家受粉です。またダッタンの実には稜がなく小麦状です。
2.「粗忽者ドンキホーテ」
大杯の酒、先生の場合は、仲人で飲み干してはいけない酒を自発的に飲み干されてしまって周りを驚かせてしまったようですが、小生の場合は、家での結婚式の最後に、大杯になみなみと注がれた酒を飲むように催促され、飲むには飲んだのですが、新婚初夜は大変でした。後で聞けば、宿へのハイヤーは途中でパンクしたけれど、縁起もあって交換もできずそのまま走り、宿には4時間遅れの到着、早速用意しますのでと言われたことまでは覚えているのですが、そのまま夕食も食べずに朝までソファーでぐっすりという始末、縁がなくてもそれまででした。
また春山での遺体収容で、クレゾール石鹸液をコーヒーと間違えて飲んだ御仁もいました。
3.「わたくしの書評」
シャンソン「リラの花咲く頃」の元歌か原詩がドイツ語とは全く知りませんでした。シャンソンでは冒頭の小節で lilas blanc となっていますが、それはそれでよいのですが、これがブタクサとなると、日本ではあの花粉症の元凶ですから、どうでしょうか。
因みにライラック(リラ)には沢山の種類(種・亜種・変種・品種)がありますが、代表的な薄紫色の花を付けるのは、和名ではムラサキハシドイといい、北大の植物園には多くの株が収集されています。
豚の饅頭、どなたの命名か知りませんが、現物を観察するとなるほどと納得です。
仁木先生の「遊んで学べば一体どうなる」の言、実践するとどうなるんでしょうね。
4.「続・体温十二講」
今回も「そうですか」「そうでしたか」に終始しましたが、お終いの体温調節に関する3講には興味がそそられました。中でも冬眠についての項で、高僧や修行を積んだ雲水やヨガの練達者が座禅や瞑想を行っている時には心拍数や呼吸数、代謝が落ちて、冬眠に似たような状態が具現されているとか。ときに真剣に訓練しなくても、機器を使うもよし、薬物を使うもよし、催眠術のような術を使うもよし、望むときに冬眠できるようになれば素晴らしいですね。先生が仰るように、この方面の研究も進展してほしいものです。
5.「My Dear 王木会」
先生自身、この会の影響がすこぶる多大であったと述べておられますが、そうだと思います。毎年開くことだけでも大変でしょうに、会務報告あり、特別口演あり、分科会あり、出品あり、ツアーあり、すごい会ですね。でもそれには会をリードし、企画し、お世話する中核となる人がいないと持続させるのは至難でしょう。しかし読んでいて実に素晴らしい会、本当に羨ましい限りです。
6.「学会(界)の周辺」
話す時間のこと、正にその通りですね。約束ごとを無視し、人の迷惑も顧みずに延々と話す御仁に出くわすと、無性に腹が立ちます。
イグノーベル賞のこと、日本人でも受賞されている方ありますね。それはそうと、賢いカラスは正に好適なターゲットだと思います。以前酸性雨の被害状況調査で、合金別にいろんな条件で年余にわたる調査を行なったのですが、なぜかカラスの糞害に悩まされました。その時は、ビニール被覆線を40cm位に切り乱立させることで解決できました。それはカラスが羽を広げた時に、針金が羽に当たることを極端に嫌うというヒントからでした。 またゴミ袋の場合、ずっと以前の真っ黒な袋では被害がなかったわけで、中が見えないと敵は素通りのようです。しかし、人間様も見えないわけで、中に何がということで透明な袋に変わった経緯があります。ところで磁石はそれなりに有効なのでしょうが、そこそこ強力でないと駄目なのではないでしょうか。いつか朝日新聞に、ヒトとカラスでは視覚に差があることと、中身が分からない限りつつかないというカラスの習性に目をつけ、黄色を強調する顔料を塗った半透明のゴミ袋を試作したそうです。この色の濃さと光の透過率を調整すると、カラスには見えないがヒトは見えるというゴミ袋ができ、それだと全く荒らされなかったとのことでした。
7.「性懲りもなくまたドンキホーテの八つ当たり」
正に先生の言われる通りです。 その後「名古屋高速」は改善されたでしょうか。
ジパング倶楽部のこと、私は煩雑で辞めましたが、年寄りは「のぞみ」に乗るなとは、親切心なのでしょうかね。ただ代行については、ジパング倶楽部会員でないからか、全く支障がありません。
行田市教育委員会もとんでもない企画をしたものですね。悪い冗談だということ分からないのでしょうか。その後の消息知りたいものです。
会費制の謝恩会など、謝恩会じゃないでしょう。別名にすべきです。
減塩食の是非、沖縄では最長寿で摂取食塩量も多いとか、ただ天然塩でカリウムがふんだんに含まれているからOKなのでしょうか。最近得た知識では、食塩量を余り下げるとかえって腎機能によくないとか、どうなんでしょうか。
8.「手作りの本」
小冊子ならいざ知らず、少なくとも本となると、相当な技術と何か道具が要るのではないでしょうか。あるいはちょっと技術見習いに弟子入りするとか。でも先生は独学とか。手作り本(Ⅳ)表紙と本にありますから、少なくとも4冊は作成されたようですね。本当に驚きました。所謂「凝り性」なのですね。
いろいろと勉強させて頂き、有り難うございました。またいろいろ御教示下さい。
以前ご恵送いただいた『随想 ドンキホーテの誤解』の当時の読後感が手元に残っていて、読み返しますと、そこには、「大変面白く、先生の薫りが随所に匂う、素晴らしいエッセイ・主張・解説の数々、一気に読ませていただきました」とあります。この度もう一度通読させていただき、勝手な今なりの私のおもいも追記させていただきました。
1.「ドンキホーテの誤解」
どなたかがドン・キホーテではないかとの御託宣は正しいに違いないことです。でも先生は敢えて中点のないドンキホーテとして本物と区別する事にしたとは、何という開き直り、正に返し技一本です。大変小気味よい仕業です。ところで先生は「あえて自著ではドン・キホテとせず」とありますが、そこはドンキホテとせず日本語通読のドンキホーテとされたところが先生らしいですね。おそらく大方の日本人は書きなさいと言うと、中点など付けずに書くのではないでしょうか。
外国の人名・地名をカナ表記するのは大変です。中国のようにこう書くと決めて示せば別ですが、統一した表記は至難でしょう。
マニフェストのこと、私も語源は英語で manifest とばかり思っていたのですが、実は英語でも語尾に o が付くとは驚きました。確かにマニフェストなどと言って国民を煙に巻いている感がします。
箸の握りでは、機能的な握りであれば、どんな握りでも原則OKなんでしょうね。
さて、ダッタンソバの花の色のことですが、五弁花の花びらを比較しますと、ソバは大きくふっくらとしていて白色で、基部のみが淡緑色ですが、ダッタンのは小さくて細く、白色なのですが、基部からほぼ中央に沿って、ほぼ真ん中辺りまで淡緑色の部分があり、全体では淡緑白色に見えます。また花の付き方も、ソバは花が塊状に付き白色が強調されるのに対し、ダッタンは穂状に付くのと花が小さいのとで、花盛りでも淡緑白色はほとんど強調されません。それに早川先生の指摘にもありましたように、「ほう」のような小葉は淡緑色から花期には淡緑黄色になるので、眺めた場合はむしろこちらが強調されます。とは言っても、ダッタン蕎麦畑の花盛りの写真を見ると、葉の緑が最も強く、先端に点々と淡緑黄色と淡緑白色が伺えるという程度です。また葯の色はどちらも紅色なのですが、ダッタンの「おしべ」はソバよりも小さくて短く、紅色が目に入ることはありません。因みにソバは2倍体で虫媒か風媒、一方ダッタンは4倍体で自家受粉です。またダッタンの実には稜がなく小麦状です。
2.「粗忽者ドンキホーテ」
大杯の酒、先生の場合は、仲人で飲み干してはいけない酒を自発的に飲み干されてしまって周りを驚かせてしまったようですが、小生の場合は、家での結婚式の最後に、大杯になみなみと注がれた酒を飲むように催促され、飲むには飲んだのですが、新婚初夜は大変でした。後で聞けば、宿へのハイヤーは途中でパンクしたけれど、縁起もあって交換もできずそのまま走り、宿には4時間遅れの到着、早速用意しますのでと言われたことまでは覚えているのですが、そのまま夕食も食べずに朝までソファーでぐっすりという始末、縁がなくてもそれまででした。
また春山での遺体収容で、クレゾール石鹸液をコーヒーと間違えて飲んだ御仁もいました。
3.「わたくしの書評」
シャンソン「リラの花咲く頃」の元歌か原詩がドイツ語とは全く知りませんでした。シャンソンでは冒頭の小節で lilas blanc となっていますが、それはそれでよいのですが、これがブタクサとなると、日本ではあの花粉症の元凶ですから、どうでしょうか。
因みにライラック(リラ)には沢山の種類(種・亜種・変種・品種)がありますが、代表的な薄紫色の花を付けるのは、和名ではムラサキハシドイといい、北大の植物園には多くの株が収集されています。
豚の饅頭、どなたの命名か知りませんが、現物を観察するとなるほどと納得です。
仁木先生の「遊んで学べば一体どうなる」の言、実践するとどうなるんでしょうね。
4.「続・体温十二講」
今回も「そうですか」「そうでしたか」に終始しましたが、お終いの体温調節に関する3講には興味がそそられました。中でも冬眠についての項で、高僧や修行を積んだ雲水やヨガの練達者が座禅や瞑想を行っている時には心拍数や呼吸数、代謝が落ちて、冬眠に似たような状態が具現されているとか。ときに真剣に訓練しなくても、機器を使うもよし、薬物を使うもよし、催眠術のような術を使うもよし、望むときに冬眠できるようになれば素晴らしいですね。先生が仰るように、この方面の研究も進展してほしいものです。
5.「My Dear 王木会」
先生自身、この会の影響がすこぶる多大であったと述べておられますが、そうだと思います。毎年開くことだけでも大変でしょうに、会務報告あり、特別口演あり、分科会あり、出品あり、ツアーあり、すごい会ですね。でもそれには会をリードし、企画し、お世話する中核となる人がいないと持続させるのは至難でしょう。しかし読んでいて実に素晴らしい会、本当に羨ましい限りです。
6.「学会(界)の周辺」
話す時間のこと、正にその通りですね。約束ごとを無視し、人の迷惑も顧みずに延々と話す御仁に出くわすと、無性に腹が立ちます。
イグノーベル賞のこと、日本人でも受賞されている方ありますね。それはそうと、賢いカラスは正に好適なターゲットだと思います。以前酸性雨の被害状況調査で、合金別にいろんな条件で年余にわたる調査を行なったのですが、なぜかカラスの糞害に悩まされました。その時は、ビニール被覆線を40cm位に切り乱立させることで解決できました。それはカラスが羽を広げた時に、針金が羽に当たることを極端に嫌うというヒントからでした。 またゴミ袋の場合、ずっと以前の真っ黒な袋では被害がなかったわけで、中が見えないと敵は素通りのようです。しかし、人間様も見えないわけで、中に何がということで透明な袋に変わった経緯があります。ところで磁石はそれなりに有効なのでしょうが、そこそこ強力でないと駄目なのではないでしょうか。いつか朝日新聞に、ヒトとカラスでは視覚に差があることと、中身が分からない限りつつかないというカラスの習性に目をつけ、黄色を強調する顔料を塗った半透明のゴミ袋を試作したそうです。この色の濃さと光の透過率を調整すると、カラスには見えないがヒトは見えるというゴミ袋ができ、それだと全く荒らされなかったとのことでした。
7.「性懲りもなくまたドンキホーテの八つ当たり」
正に先生の言われる通りです。 その後「名古屋高速」は改善されたでしょうか。
ジパング倶楽部のこと、私は煩雑で辞めましたが、年寄りは「のぞみ」に乗るなとは、親切心なのでしょうかね。ただ代行については、ジパング倶楽部会員でないからか、全く支障がありません。
行田市教育委員会もとんでもない企画をしたものですね。悪い冗談だということ分からないのでしょうか。その後の消息知りたいものです。
会費制の謝恩会など、謝恩会じゃないでしょう。別名にすべきです。
減塩食の是非、沖縄では最長寿で摂取食塩量も多いとか、ただ天然塩でカリウムがふんだんに含まれているからOKなのでしょうか。最近得た知識では、食塩量を余り下げるとかえって腎機能によくないとか、どうなんでしょうか。
8.「手作りの本」
小冊子ならいざ知らず、少なくとも本となると、相当な技術と何か道具が要るのではないでしょうか。あるいはちょっと技術見習いに弟子入りするとか。でも先生は独学とか。手作り本(Ⅳ)表紙と本にありますから、少なくとも4冊は作成されたようですね。本当に驚きました。所謂「凝り性」なのですね。
いろいろと勉強させて頂き、有り難うございました。またいろいろ御教示下さい。
2011年10月4日火曜日
白山のコマクサ除去の受難ー掃討作戦開始ー
平成23年(2011)9月28日付けの朝日新聞石川版に、「白山のコマクサ除去へ、『高山植物の女王』を外来種と断定」という見出しで、生田大介記者による記事が登載された。
記事は次のようである。記事内容は「 」で示した。
「ピンク色の可憐な花をつけ、『高山植物の女王』と呼ばれるコマクサを、白山から除去する作業が27日、環境省や県によって始まった。他の地域では盗掘が問題になる人気植物だが、白山にはもともと存在しない外来種で、生態系への影響が懸念されるためだ。」
私がコマクサが除去されるかも知れないと初めて耳にしたのは、今年の8月21日の日曜日、南竜山荘の関係者からである。白山でのコマクサの生育地で、私が確認しているのは1箇所だけだが、それは見たところ明らかに植栽されたもので、私が知ってから10年位経過している。場所はコマクサにとっては好い?環境の礫地とは思うが、10年前と比較してもそんなに繁殖はしていない。ただ実生が幾株か見られるので、将来増えるのかなあとは思うものの、その速度は遅々としている。
「白山国立公園では、1992年に山頂付近で初めてコマクサが確認され、当初から人為的に持ち込まれた可能性が指摘されていた。」
私が白山にコマクサが生育していると知ったのは、平成12年(2000)7月19日付けの北國新聞の『北陸の自然発見』というシリーズで、宮誠而氏が前年の平成11年(1999)に撮影した『白山のコマクサと能登半島』という写真と、『人知れず咲いたコマクサ 魅惑のピンク がれ場に植えられ』というタイトルの一文である。そこには10株位の花を付けた株と、実生と思われる株も8株位写っている。撮影した日は台風一過で大気が澄み渡っていて、能登半島も遠望できたという。氏は順調に育っているコマクサを見た時、複雑な気持ちでしたと述懐している。そしてこれに関わった人は、コマクサの生育に精通していて、その場所がコマクサの生育に適した場所であることを見抜き植栽したのだろうと。そしてその場所は花壇でも造成するように石で囲ってあったと記している。私はその場所に遭遇したくて御前峰の西側で能登半島が見える場所にこだわり探したが、その場所は特定していない。しかし今年9月11日に、白山室堂に23年間勤務されていた鴛谷さんから直に伺った話だと、御前峰の東側だという。改めて宮誠而氏撮影の写真を見て、東面で能登半島が見えそうな場所となると特定できそうだ。でもそれは登山路からは入り込んだ場所だろう。ところで写真では慎ましく、高々20株程度が写っているに過ぎないが、朝日新聞の記事はこう続く。
「その後、個体数は増え続け、2009~2010年度の調査では約5900株にも及んだ。」と。
宮誠而氏の写真でも私が知っている場所でも、10年経過していたとしても、そんなに爆発的な増殖はしていないし、成長が旺盛な植物ではなく、根も地中深くに達することから、もしそんなに増えているとすれば、実生が育っているから、種子の散布による結果だろうか。しかしこのようにべらぼうな数の植栽は考えられず、この記事を見たとき、その数の多さに仰天した。早速今は石徹白に在住されている鴛谷さんに電話して伺ったところ、いやそれ位の株数はあるでしょうとのこと、どうしてそんなに増えたのですかと訊くと、種を蒔いたのでしょうと。ケシ科の植物の種子は細かく、卑近な例では芥子粒を思い浮かべて頂ければよい。鴛谷さんはその場所をご存知で、植栽は一部で、大部分は種子由来だろうと仰った。また種子散布があったのは、およそ20年位前のことだとも。
「これを受け、環境省は学識者らによる対策検討会を設置、1973年頃に乗鞍岳のコマクサを持ち込み移植したという登山愛好家の証言が正しいことを確認した。DNA解析の結果、実際に白山と乗鞍岳などのコマクサの遺伝子も一致。一方、1822年以降の主要文献を調べた結果、自生していた記録はなかったことから、外来種と断定した。」
1973年というと昭和48年、38年前、何方かは知らないが、植栽されたと自供されたのだろうか。私が知っている方は、もし存命ならば75か76歳、その方が20年位前に種子散布されたのだろうと鴛谷さんは話されていた。そしてその種子の採取場所は乗鞍岳だったとも。それにしても文献調査の最古が1822年というと江戸時代の文政5年、当時は何と称していたのだろうか。恐らく駒草と称してはいなかったのではないか。また当時の記載には草花の記載は極めて少なかったのではと思う。それにしても現行の国立公園法では、国立公園内での植物の採取は禁じているが、植栽してはいけないとの条文はなく、採取は法律に反しているのではと思うがどうなのだろう。また鴛谷さんでは、岐阜県内に成育しているものを石川県の職員が勝手に除去できるのかとも指摘されていた。この点について石川県自然保護センターへ問い合わせたところ、この事業(白山国立公園コマクサ対策事業)は環境省中部地方環境事務所の事業であって、事業遂行の最大の隘路は、地権者との調整だけで、県はこの決定の段階では関与していないとのことであった。この決定の発表は、中部地方環境事務所で9月26日に行なわれた。そこのHPには「白山では本来分布していなかったコマクサの種が持ち込まれ、一部が生育しているが、この外来種を除去するための白山国立公園コマクサ対策事業が実施されている。」とあった。
「白山のコマクサの生育地点には他に8種類の在来植物が生えており、生育場所や養分などの面で悪影響を受けている可能性があるため、環境省が今後も影響を調査するという。」
コマクサは礫地を好む、といっても礫地に直根を深く穿って生育する。だから他に8種類というのは何かは知らないが、それらの大部分は比較的根が浅く、コマクサと競合するとは考えにくい。しかも悪影響というのはどんなことを意味するのか。もっとも外来の植物の植栽を奨励するわけではないが、コマクサが可憐であり、かつ生育環境も厳しく、また生育場所が一般登山者の目に触れることが少ない場所ならば、現行法律に則って対処されるべきではないか。朝日新聞の記事に付載されている「白山国立公園に生育するコマクサ=環境省」の写真を見ると、宮誠而氏提供の過保護状態とは違って、のびのびと生育しているし、また1株に付いている花数も多く、逞しさが感じられる。掃討作戦が開始されたのが9月27日、恐らくその時期にはコマクサの種子は結実し、既に散布されてしまっているだろうから、根こそぎ絶やすためには、数年を要することになろう。白山自然保護センターの係員の話では、ここ10年ばかりで急に個体数が増え、それは種子散布もあるだろうが、それよりも株の分けつにより増えているとのことだった。
「コマクサはケシ科の多年草で、国内では北海道と東北、中部などに分布している。」
駒草は以前には腹痛に効く薬草として重宝され、乗鞍岳、御嶽山、燕岳、木曽駒ヶ岳ではほとんど採り尽くされてしまったという。でも木曽駒ヶ岳のほかは群生地として復活しているという。木曽駒ヶ岳では1960年以降、植栽による復旧に努めているという。
現在の日本でのコマクサの群生地は、北海道では、知床半島、雌阿寒岳、大雪山系、東北では、岩手山、秋田駒ヶ岳、蔵王連峰、北アルプスでは、白馬岳、蓮華岳、燕岳、乗鞍岳、ほかには、草津白根山、八ヶ岳、御嶽山、このうち私が見ているのは北アルプスの4山で、白馬岳ではその北に位置する雪倉岳が圧巻である。
古くは薬草として撮り尽くされた例もあることから、執念をもってすれば、絶滅させることは出来ようが、広い国立公園内のほんの狭い一画に生えるコマクサを除去するというのは、何ともしっくりこない。それよりオオバコこそ除去してほしいものだ。また外来種といえば他にもあるのに、そちらの対策はどうするのか、問題は残る。
[平成23年(2011)9月27日付け北國新聞での記事] を以下に記す。
『コマクサ除去開始 5900個体確認 白山の生態系回復 きょうから環境省』
環境省中部地方環境事務所は27日から、白山国立公園の高山帯で生育範囲を広げているコマクサの除去作業に乗り出す。生態系の維持回復に向けて、効果的な除去手法の確立に向けた調査も行い、将来的にコマクサがない状態を目指す。
コマクサはケシ科の多年草で、本州では岩手山や北アルプスなどに分布している。白山では1992年に生育が確認され、2009年度と昨年度の調査では、山頂部付近に約5900個体が確認された。人為的に持ち込まれたことがDNA解析で分かり、個体数も増加していることから、有識者を交えた検討会で、早急な対策が必要と判断された。
地表から10~20cm下にある成長点の上部のみ除去することで枯死させ、土壌への影響を最小限にする。個体数が多い地点では開花が予想される大きな個体を取り除くなど継続的に作業を進める。 コマクサの持ち帰りは自然公園法で禁じられているが、除去は生態系維持回復事業として行われる。
写真「白山国立公園に生育するコマクサ」は、環境省白山自然保護官事務所の提供。
記事は次のようである。記事内容は「 」で示した。
「ピンク色の可憐な花をつけ、『高山植物の女王』と呼ばれるコマクサを、白山から除去する作業が27日、環境省や県によって始まった。他の地域では盗掘が問題になる人気植物だが、白山にはもともと存在しない外来種で、生態系への影響が懸念されるためだ。」
私がコマクサが除去されるかも知れないと初めて耳にしたのは、今年の8月21日の日曜日、南竜山荘の関係者からである。白山でのコマクサの生育地で、私が確認しているのは1箇所だけだが、それは見たところ明らかに植栽されたもので、私が知ってから10年位経過している。場所はコマクサにとっては好い?環境の礫地とは思うが、10年前と比較してもそんなに繁殖はしていない。ただ実生が幾株か見られるので、将来増えるのかなあとは思うものの、その速度は遅々としている。
「白山国立公園では、1992年に山頂付近で初めてコマクサが確認され、当初から人為的に持ち込まれた可能性が指摘されていた。」
私が白山にコマクサが生育していると知ったのは、平成12年(2000)7月19日付けの北國新聞の『北陸の自然発見』というシリーズで、宮誠而氏が前年の平成11年(1999)に撮影した『白山のコマクサと能登半島』という写真と、『人知れず咲いたコマクサ 魅惑のピンク がれ場に植えられ』というタイトルの一文である。そこには10株位の花を付けた株と、実生と思われる株も8株位写っている。撮影した日は台風一過で大気が澄み渡っていて、能登半島も遠望できたという。氏は順調に育っているコマクサを見た時、複雑な気持ちでしたと述懐している。そしてこれに関わった人は、コマクサの生育に精通していて、その場所がコマクサの生育に適した場所であることを見抜き植栽したのだろうと。そしてその場所は花壇でも造成するように石で囲ってあったと記している。私はその場所に遭遇したくて御前峰の西側で能登半島が見える場所にこだわり探したが、その場所は特定していない。しかし今年9月11日に、白山室堂に23年間勤務されていた鴛谷さんから直に伺った話だと、御前峰の東側だという。改めて宮誠而氏撮影の写真を見て、東面で能登半島が見えそうな場所となると特定できそうだ。でもそれは登山路からは入り込んだ場所だろう。ところで写真では慎ましく、高々20株程度が写っているに過ぎないが、朝日新聞の記事はこう続く。
「その後、個体数は増え続け、2009~2010年度の調査では約5900株にも及んだ。」と。
宮誠而氏の写真でも私が知っている場所でも、10年経過していたとしても、そんなに爆発的な増殖はしていないし、成長が旺盛な植物ではなく、根も地中深くに達することから、もしそんなに増えているとすれば、実生が育っているから、種子の散布による結果だろうか。しかしこのようにべらぼうな数の植栽は考えられず、この記事を見たとき、その数の多さに仰天した。早速今は石徹白に在住されている鴛谷さんに電話して伺ったところ、いやそれ位の株数はあるでしょうとのこと、どうしてそんなに増えたのですかと訊くと、種を蒔いたのでしょうと。ケシ科の植物の種子は細かく、卑近な例では芥子粒を思い浮かべて頂ければよい。鴛谷さんはその場所をご存知で、植栽は一部で、大部分は種子由来だろうと仰った。また種子散布があったのは、およそ20年位前のことだとも。
「これを受け、環境省は学識者らによる対策検討会を設置、1973年頃に乗鞍岳のコマクサを持ち込み移植したという登山愛好家の証言が正しいことを確認した。DNA解析の結果、実際に白山と乗鞍岳などのコマクサの遺伝子も一致。一方、1822年以降の主要文献を調べた結果、自生していた記録はなかったことから、外来種と断定した。」
1973年というと昭和48年、38年前、何方かは知らないが、植栽されたと自供されたのだろうか。私が知っている方は、もし存命ならば75か76歳、その方が20年位前に種子散布されたのだろうと鴛谷さんは話されていた。そしてその種子の採取場所は乗鞍岳だったとも。それにしても文献調査の最古が1822年というと江戸時代の文政5年、当時は何と称していたのだろうか。恐らく駒草と称してはいなかったのではないか。また当時の記載には草花の記載は極めて少なかったのではと思う。それにしても現行の国立公園法では、国立公園内での植物の採取は禁じているが、植栽してはいけないとの条文はなく、採取は法律に反しているのではと思うがどうなのだろう。また鴛谷さんでは、岐阜県内に成育しているものを石川県の職員が勝手に除去できるのかとも指摘されていた。この点について石川県自然保護センターへ問い合わせたところ、この事業(白山国立公園コマクサ対策事業)は環境省中部地方環境事務所の事業であって、事業遂行の最大の隘路は、地権者との調整だけで、県はこの決定の段階では関与していないとのことであった。この決定の発表は、中部地方環境事務所で9月26日に行なわれた。そこのHPには「白山では本来分布していなかったコマクサの種が持ち込まれ、一部が生育しているが、この外来種を除去するための白山国立公園コマクサ対策事業が実施されている。」とあった。
「白山のコマクサの生育地点には他に8種類の在来植物が生えており、生育場所や養分などの面で悪影響を受けている可能性があるため、環境省が今後も影響を調査するという。」
コマクサは礫地を好む、といっても礫地に直根を深く穿って生育する。だから他に8種類というのは何かは知らないが、それらの大部分は比較的根が浅く、コマクサと競合するとは考えにくい。しかも悪影響というのはどんなことを意味するのか。もっとも外来の植物の植栽を奨励するわけではないが、コマクサが可憐であり、かつ生育環境も厳しく、また生育場所が一般登山者の目に触れることが少ない場所ならば、現行法律に則って対処されるべきではないか。朝日新聞の記事に付載されている「白山国立公園に生育するコマクサ=環境省」の写真を見ると、宮誠而氏提供の過保護状態とは違って、のびのびと生育しているし、また1株に付いている花数も多く、逞しさが感じられる。掃討作戦が開始されたのが9月27日、恐らくその時期にはコマクサの種子は結実し、既に散布されてしまっているだろうから、根こそぎ絶やすためには、数年を要することになろう。白山自然保護センターの係員の話では、ここ10年ばかりで急に個体数が増え、それは種子散布もあるだろうが、それよりも株の分けつにより増えているとのことだった。
「コマクサはケシ科の多年草で、国内では北海道と東北、中部などに分布している。」
駒草は以前には腹痛に効く薬草として重宝され、乗鞍岳、御嶽山、燕岳、木曽駒ヶ岳ではほとんど採り尽くされてしまったという。でも木曽駒ヶ岳のほかは群生地として復活しているという。木曽駒ヶ岳では1960年以降、植栽による復旧に努めているという。
現在の日本でのコマクサの群生地は、北海道では、知床半島、雌阿寒岳、大雪山系、東北では、岩手山、秋田駒ヶ岳、蔵王連峰、北アルプスでは、白馬岳、蓮華岳、燕岳、乗鞍岳、ほかには、草津白根山、八ヶ岳、御嶽山、このうち私が見ているのは北アルプスの4山で、白馬岳ではその北に位置する雪倉岳が圧巻である。
古くは薬草として撮り尽くされた例もあることから、執念をもってすれば、絶滅させることは出来ようが、広い国立公園内のほんの狭い一画に生えるコマクサを除去するというのは、何ともしっくりこない。それよりオオバコこそ除去してほしいものだ。また外来種といえば他にもあるのに、そちらの対策はどうするのか、問題は残る。
[平成23年(2011)9月27日付け北國新聞での記事] を以下に記す。
『コマクサ除去開始 5900個体確認 白山の生態系回復 きょうから環境省』
環境省中部地方環境事務所は27日から、白山国立公園の高山帯で生育範囲を広げているコマクサの除去作業に乗り出す。生態系の維持回復に向けて、効果的な除去手法の確立に向けた調査も行い、将来的にコマクサがない状態を目指す。
コマクサはケシ科の多年草で、本州では岩手山や北アルプスなどに分布している。白山では1992年に生育が確認され、2009年度と昨年度の調査では、山頂部付近に約5900個体が確認された。人為的に持ち込まれたことがDNA解析で分かり、個体数も増加していることから、有識者を交えた検討会で、早急な対策が必要と判断された。
地表から10~20cm下にある成長点の上部のみ除去することで枯死させ、土壌への影響を最小限にする。個体数が多い地点では開花が予想される大きな個体を取り除くなど継続的に作業を進める。 コマクサの持ち帰りは自然公園法で禁じられているが、除去は生態系維持回復事業として行われる。
写真「白山国立公園に生育するコマクサ」は、環境省白山自然保護官事務所の提供。
2011年9月28日水曜日
ふたたび下呂市の蕎麦料理「仲佐」へ
探蕎会の平成23年(2011)後期行事のトップは「仲佐」、探蕎会では結成2年目の平成11年(1999)11月に「飛騨そば探訪」として「仲佐」を訪れている。私はこのときは参加できず、噂では大変好評だったとか、特に蕎麦掻きが秀逸だったと聞いた。私はこれまで一度も訪ねたことはなく、その一因は何故か遠いという印象からだった。しかし家内に話すとぜひ行きたいとのこと、それではと今年の4月29日の祝日に長躯下呂温泉の「仲佐」へ出かけた。私は「蕎麦三昧」、家内は「天ざる」、二人で「蕎麦掻き」も食した。噂に違わず、全てに感動して帰ってきた。そしてこの度は、会でも二度目、私も二回目の訪問となった。
訪れたのは9月26日(月)、事務局では超有名店なので土日を外したとの配慮だった。高山まで高速道と専用自動車道で約1時間半、そこから下呂温泉まで国道41号線を1時間ばかり、開店は11時半、それまでには着いて下さいとのことだった。参加者は10名、和泉さんと前田さんの車に分乗して、金沢を午前8時半に出発した。天気は曇り、途中高速道の飛騨河合PAで休憩し、下呂へ向かう。途中41号線で長い片側交互通行があり、やきもきしたが、どうやら定刻5分位前に着くことができた。既に駐車場には3台の車がいた。
もう店の戸は開いていて、12名の畳の部屋は既に埋まっていた。私たちは小上がりの4人定員の座机2卓に5人ずつ座ることに。事務局に予約してもらって助かった。お客さんが次から次へと、今日は月曜なのにこの有様、待っている人を見ると若い女性の方が多い。この前来たときは、奥さんとほかに女性が二人だったが、今日は一人、てんてこ舞いである。
私達5人は「蕎麦三昧」を予定していたが、生憎付箋がしてあり、ではと「天ざる」を、それに10食限定の「蕎麦掻き」を二人に一つ、お酒は取り合えず天恩古酒を3本、それと酒のツマに「茸四種盛り」をお願いした。銚子とぐい飲みは黒の釉薬がかかった手捻りのセット、好い感じだ。付き出しには茄子の一夜漬け、中々酒に合う。そして茸盛り、訊ねると、カラスタケ、ムラサキアンズタケ、チチタケ、ショウゲンジ、聞いたことのない茸、でも飛騨ではよく見られる茸らしい。皆炊いて和え物に、若干味付けしてある。中でも烏茸は歯ごたえがあり、ヒジキやするめを噛んでいるようだった。時節もので珍しかった。次いで「蕎麦掻き」、二人で取り分けて食べる。粗挽きでホシが点々、香りも強く、温かいうちに召し上がって下さいとのこと。初めはそのまま、後は軽く醤油を付けて食べる。蕎麦の原点ともいうべき食べ方、堪能する。そして「天ざる」、天ぷらは車海老二尾にムラサキササゲに茄子、紫ささげの紫色は、お湯にくぐらしたり、油で揚げると鮮やかな緑色になることから、湯上り美人ともいうと教えられる。塩で頂く。「ざる」は二段になった鼓型の渋い濃い茶色の細い竹の編み笊、それに濃いホシのある透明感のある粗挽きの細打ちのそばがこんもりと、白い粒が見えているのは挽き割りか、こんな「そば」には中々お目にかかれないのでは。手繰ると蕎麦の香りと個性ある食感、そばつゆは辛いのでほんの少し浸して食する。こんな粗挽きで細打ちなのは、つなぎの威力なのだろう。店主は切れ切れのは「そば」じゃないと仰る御仁、だからこんな「そば」は此処以外ではお目にかかれないだろう。ここで扱っている蕎麦は、旧稲核(いねこき)村在来の「こそば」で、手刈り、天日干しにこだわり、自前目立ての大きな石臼での手挽き自家製粉、これ以上の「そば」は望めない。蕎麦湯は茹で汁、この方がナチュラルでよい。十分に堪能した。
どなたかの発案で、下呂市萩原上村の鮎の里にある観光ヤナへ向かう。国道41号線沿いで、下呂温泉から車で10分ばかり、帰り道にあたる。着いて観光ヤナに案内してもらう。飛騨川左岸寄りに設けられているが、設備は鉄製でしっかりしたものだが、先の台風12号と15号のダブルパンチの増水でヤナは水没、今は水は引いてはいるものの、ヤナには草や木の枝やゴミがかかったままになっていて、もちろん魚影はない。通常なら10月中旬まで行なうようだが、落ち鮎も予想を超える濁流で流され、ヤナ漁は見込めないとかだった。戻ると大場鰯大の鮎が串に、これから焼きに、頼んでからヤナへ行くのが正解だった。遠火で焼くので30~40分はかかるという。お酒と鮎の刺身をつなぎにして待つ。両面が焼けて塩焼きが完成、鮎は養殖だろうが、熱々は美味しい。
いつもの探蕎行だと、小矢部SAで総括を行なうのだが、今回は次に寄った高山市久々野町渚の道の駅「飛騨街道なぎさ」で流れ解散となった。帰着は午後5時だった。
訪れたのは9月26日(月)、事務局では超有名店なので土日を外したとの配慮だった。高山まで高速道と専用自動車道で約1時間半、そこから下呂温泉まで国道41号線を1時間ばかり、開店は11時半、それまでには着いて下さいとのことだった。参加者は10名、和泉さんと前田さんの車に分乗して、金沢を午前8時半に出発した。天気は曇り、途中高速道の飛騨河合PAで休憩し、下呂へ向かう。途中41号線で長い片側交互通行があり、やきもきしたが、どうやら定刻5分位前に着くことができた。既に駐車場には3台の車がいた。
もう店の戸は開いていて、12名の畳の部屋は既に埋まっていた。私たちは小上がりの4人定員の座机2卓に5人ずつ座ることに。事務局に予約してもらって助かった。お客さんが次から次へと、今日は月曜なのにこの有様、待っている人を見ると若い女性の方が多い。この前来たときは、奥さんとほかに女性が二人だったが、今日は一人、てんてこ舞いである。
私達5人は「蕎麦三昧」を予定していたが、生憎付箋がしてあり、ではと「天ざる」を、それに10食限定の「蕎麦掻き」を二人に一つ、お酒は取り合えず天恩古酒を3本、それと酒のツマに「茸四種盛り」をお願いした。銚子とぐい飲みは黒の釉薬がかかった手捻りのセット、好い感じだ。付き出しには茄子の一夜漬け、中々酒に合う。そして茸盛り、訊ねると、カラスタケ、ムラサキアンズタケ、チチタケ、ショウゲンジ、聞いたことのない茸、でも飛騨ではよく見られる茸らしい。皆炊いて和え物に、若干味付けしてある。中でも烏茸は歯ごたえがあり、ヒジキやするめを噛んでいるようだった。時節もので珍しかった。次いで「蕎麦掻き」、二人で取り分けて食べる。粗挽きでホシが点々、香りも強く、温かいうちに召し上がって下さいとのこと。初めはそのまま、後は軽く醤油を付けて食べる。蕎麦の原点ともいうべき食べ方、堪能する。そして「天ざる」、天ぷらは車海老二尾にムラサキササゲに茄子、紫ささげの紫色は、お湯にくぐらしたり、油で揚げると鮮やかな緑色になることから、湯上り美人ともいうと教えられる。塩で頂く。「ざる」は二段になった鼓型の渋い濃い茶色の細い竹の編み笊、それに濃いホシのある透明感のある粗挽きの細打ちのそばがこんもりと、白い粒が見えているのは挽き割りか、こんな「そば」には中々お目にかかれないのでは。手繰ると蕎麦の香りと個性ある食感、そばつゆは辛いのでほんの少し浸して食する。こんな粗挽きで細打ちなのは、つなぎの威力なのだろう。店主は切れ切れのは「そば」じゃないと仰る御仁、だからこんな「そば」は此処以外ではお目にかかれないだろう。ここで扱っている蕎麦は、旧稲核(いねこき)村在来の「こそば」で、手刈り、天日干しにこだわり、自前目立ての大きな石臼での手挽き自家製粉、これ以上の「そば」は望めない。蕎麦湯は茹で汁、この方がナチュラルでよい。十分に堪能した。
どなたかの発案で、下呂市萩原上村の鮎の里にある観光ヤナへ向かう。国道41号線沿いで、下呂温泉から車で10分ばかり、帰り道にあたる。着いて観光ヤナに案内してもらう。飛騨川左岸寄りに設けられているが、設備は鉄製でしっかりしたものだが、先の台風12号と15号のダブルパンチの増水でヤナは水没、今は水は引いてはいるものの、ヤナには草や木の枝やゴミがかかったままになっていて、もちろん魚影はない。通常なら10月中旬まで行なうようだが、落ち鮎も予想を超える濁流で流され、ヤナ漁は見込めないとかだった。戻ると大場鰯大の鮎が串に、これから焼きに、頼んでからヤナへ行くのが正解だった。遠火で焼くので30~40分はかかるという。お酒と鮎の刺身をつなぎにして待つ。両面が焼けて塩焼きが完成、鮎は養殖だろうが、熱々は美味しい。
いつもの探蕎行だと、小矢部SAで総括を行なうのだが、今回は次に寄った高山市久々野町渚の道の駅「飛騨街道なぎさ」で流れ解散となった。帰着は午後5時だった。
2011年9月22日木曜日
『ドンキホーテの後悔』を読んで
『随想 ドンキホーテの後悔』 永坂鉃夫著 前田書店 1,500円 (2003)
この本を手にしたときの感想には、先生のタフさに感心し、一方で何と好奇心旺盛な物好きな方なのだろうと、また寝ずに書いたわけでもないだろうに、よくぞそんな暇がおありになったものだと、またボリュームも半端じゃありませんし、これはとても常人ではできる業ではないと記しました。頂いた当日は、家内は会議で遅れるという連絡があり、そこで『ドンキホーテの後悔』を格好のツマにして、チビリチビリと酒を飲みながら、読み出した次第です。読み出すと、実に愉快で、気分爽快。とはいっても、1/4を占める「体温十二講」は一寸アカデミック過ぎて、消化できない部分もあったようです。また1/5を割いたワインの話、これは薀蓄のある1章でした。読んで、この随想は、お酒に例えれば大吟醸、しかも清涼味のある美味しい淡麗辛口の逸品でした。以下は雑感です。
とまあ、これが当時の印象なのですが、今一度読み返して、当時の雑感に加えるべきは加えて、読後感としたいと思います。初の書き起こしは平成15年(2003)5月22日です。
1.さらなる羊歯への思い
小生も羊歯に興味があった一時期があったこと前に書きましたが、先生は羊歯の分類に維管束を取り上げられたとは、やはり半端じゃありません。段が違います。それにしてもブルターニュには人の背丈もあるワラビが生い茂っているとのこと、日本にはありますかね。蕨餅、ひょっとして食べたことがあるかも知れませんが、本当の蕨由来かどうかは疑問です。こちらのワラビは根茎が貧弱ですから、本気でやるなら、フランスからそのお化けワラビの根茎を輸入するのも一つの手ですね。蕨粉や葛粉は当田舎で作っているのを見たことはありません。石川では唯一「宝達葛」が復活しているのみです。
2.世界の蕎麦その後
今でこそ日本国はソバブームで作付け面積も増え、それでも足りず、中国、カナダ、オーストラリアからの輸入量も莫大ですが、これもブームだからで、もしブームが去れば、もっと実入りの良いよい作物の方に移行するでしょう。とは言っても、いくら味の良いそばでも、三度々々食べるには抵抗があるのではないでしょうか。それにしても、仏蘭西で蕎麦のあの白い花の波に遭遇されたあの記述、先生のクシャクシャ顔とダブって、小生まで感激してしまいました。食べ方もいろいろですが、やはり大和魂が宿っているせいか、日本国でのそばの食し方が最高と言わざるを得ません。オー・スザンナはニアミスでしたね。
3.凡人の名前
先生の名前は「鉃夫」であって「鉄夫」でないのは当然です。断じて「鉄夫」であってはならないのです。現在の戸籍簿を見ると、現在は全く許容されていない字体でも、彼等が持っているアンチョコにはチャンと網羅されています。したがって、先生の名前が「鉄夫」となっていたら、間違いなので訂正させるべきです。今となっては親御さんの意図は不明ですが、とにかく戸籍での名は重大な不都合がなければ大事にすべきです。もし「鉃」の字が勝手に作られた字とすると、戸籍に登録されません。一方読み方はどう読もうと勝手であって、「テツ」と読もうが「マル」と読もうが、戸籍簿にはカナは振りません。ですから、もしテツオだったら鉄が妥当という御仁がいたら、下司の勘繰りもいいとこです。
話は跳びますが、私の恩師の波田野先生、金沢へ来られてからもずっと「波多野」の姓を名乗っておいででした。永平寺を訪れた折に、永平寺の執事が先生の先祖とかで、その名は代々「波田野」とか、そして先生の戸籍も「波田野」とか、何が悲しくて「波多野」とされているのですかと。その後、先生は事の重大さに気付かれてか、以降は「波田野」の鞘に戻られた経緯があります。
4.WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE
先生のワインに対する思い入れには凄い年季が入っているのにはびっくりしました。これは大関と褌担ぎ位の差に相当します。完全に参りました。御説ごもっとも、そうなんですか、そうだったんですか、一言半句口出しできません。この章だけでも、ワインの手引きとなる小冊子になります。項目を挙げておこう。項目の後の( )書きは、私の注書きである。・ワイン小史.・ブドウと酵母(ブドウの種類とワインの熟成期間).・ワインの醸造(ブレンドとブレンディング).・エチケットを読む(ラベル).・コルクと伝統.・お楽しみのはじまり(開栓).・お楽しみの最中(ワイングラス).・色香と味.・次のお楽しみのために(飲み残しの保存、グラスの管理).・ワインのマナー.の以上10項。これを読んだだけでマスターできるわけではありませんが、でも疑問だった一部の謎が解明でき、清々しい感じでした。感謝々々。
ところで小生も高松のブドウでブドウ酒なるものを、研究室でも自宅ででもよく造りました。とくに叔父貴のいた生薬学教室が場内の旅団司令部跡に引っ越していた頃は、よく大量に仕込んで、望楼でよく月見としゃれこんだものです。醗酵は試薬アルコールで止めてましたが、度数はかなりで、口当たりは良いのですが、余計飲むと必ず悪酔いしました。女性軍には格好でした。コツはブドウの野生酵母を落とさないように水洗いのみ、砂糖は10%以内に添加し、醗酵が進んで糖分が足りなくなれば足す、もうテンパイであれば純アルを加え、暫らく寝かす。これで出来上がりです。養命酒も造りましたが、極めて濃厚、薄めても薄めても濃いという代物、あれは儲かりますなぁ。
5.体温十二講
素晴らしい講義でした。一度も先生の御講義に接したことはないのですが、直接お聴きしているような錯覚で読ませて頂きました。私たちが遭遇する様々な現象に、何の不思議も感じないで過ごしているのが我々凡人ですが、実はその裏にはこんなことが起きているのだと、全部を咀嚼して消化することは全く無理ですが、あの学術的解説には、目から鱗でした。金玉のくだりなど、下世話もいいとこでした。話は替わって竹林のM、それかあらぬか良くなってきたように思います。
以下にこの章の項目を挙げる。:以下は私のメモである。
(1)体温:熱中症とは、暑熱障害のうち、高体温、発汗停止、意識障害から死に至ることの多い重篤なものをいう。(2)体温計:近代の体温計の原理はガリレオの体温計に基づいているが、ダビンチの体温計の豆球なるものが物質の特性(温度の変化で色が変わる等)を利用したものであったとすれば、初の考案者はダビンチということになる。(3)体温調節ー行動性と自立性ー:理解できました。メダカの実験は以外でした。でも悪寒はこの範疇外なのでしょうね。(4)頭部の汗:これは、これから脳が働かなくてはならないだろう場面を先取りして、機能を発動させるという合目的的な反応なのでは。(5)変わった汗ー半側発汗ー:片側の皮膚部位の圧迫により、反射的に同側の発汗の抑制が起きる。(6)動物の体温:測定方法の吟味が必要だ。(7)選択的脳冷却:体温と脳温に乖離ができるのは、体温が高くても脳温だけを低く保つメカニズムが働くからである。(8)対向流熱交換:流れの方向は反対だが並行して走る動静脈の間でおきる熱交換で、四肢や鰭ばかりでなく、ヒトや多くの哺乳動物の睾丸などにもその機能がある。(9)発熱と高体温:発熱は発熱物質が脳内の温度感受性ニューロンに働いてその特性を変え、体温のセットポイントが上昇したために起きる(調節された)高体温である。一方高温多湿の環境で熱放散が著しく阻害されたりしておきる体温の高い状態を高体温(鬱熱)といい、このうち最も重篤なのが熱中症で、高温のため脳機能が破壊され死に至る。解熱剤は全く無効である。(10)低体温と冬眠:低体温には、単に熱の産生と放散のバランスが崩れておきる受動的な低体温と、発熱の逆で何か低体温を惹き起こす物質などが中枢のセットポイントを変えておきる調節された低体温(アナパイレキシア)の2種類がある。冬眠は季節の気候変動や栄養状態の変化に対する種としての適応だといわれるが、その実態はいまだ明確ではない。(11)温泉と風呂:まだ日本では足湯なるものが普及していないときに、先生がデモまがいのことをされたのには驚きましたが、外国ではむしろこちらの方が普及していたのですね。近頃は日本でもそこここに普及していますが、確かに宣伝用でしょうね。先生のぬる湯好きはお聞きしていましたが、私は42℃にセットして入ります。この間テレビで40℃以上は身体によくないとのことで、家内がうるさく言います。(12)温度感覚:正常体温のとき、最も快適に感ずる皮膚温は33℃だそうですが、気温33℃では不快感の人が多いと思いますが、この点はどうなんでしょうか。
6.私の夢十夜
初めて先生の夢十夜を読んで寝た翌朝、カラーの夢を見ました。野々市の東田圃に健診車が停まっている。とそこへ、例えは悪いが、ピノキオに総太大根の上半分を双胸にくっつけたような超々ボインのおねぇちゃんが、素っ裸で小宅の庭を横切って健診車に向かって歩いて行く。ははん、近頃の若い娘はこうも大胆なのかと変に感心しているうちに目が覚めた。あんな夢、初めてだった。しかし夢なるもの、現実とどこかで接点があるのだろうか。吉の夢、凶の夢等々、学問的には全く検討に値しないものなのでしょうか。
臨死体験:小生も一度だけ体験しました。大出血して死にそびれたときです。これには空間遊泳と花園歩きがあるようですが、私のは後者で、途中で回れ右させられました。亡くなられた松原敏さんは二度体験され、両方体験されたとのことでした。
7.早飯・早〇、早仕度
先生の早飯の特技、生来のものなのでしょうか、それとも後天的に努力して獲得されたものなのでしょうか。いずれにしても、宴会の司会進行は先生にお任せしておけば、何の憂いもないことが明白になりました。凡人では可愛そうです。これは常人が努力して出来る技ではなく、先生は重要文化財保持者(探蕎会宝人)として登録されるべきです。
万力とビーカー、直しの万年筆の逸話は、正に真正なお笑いでした。
早糞は冬山では鉄則です。特に吹雪の時が大変で、生死に関わります。これにはとっておきの実体験があるのですが、今回は割愛します。
8.またまたドンキホーテの八つ当たり
2点以外は、全くその通り、小生身体全体が共鳴し、同感々々と震えました。
2点の内の1点は、「目線を合わせる」です。もうワープロでもすんなり出ますが、昨今、私の目とある女の子の目と合ったのは、正に目線が合ったとしか言いようがなく、とても視線が合ったでは収まりがつかないものでした。
もうい1点は英会話です。高校から大学教養まで英会話の授業はあったのですが、引っ込み思案で逃げ回っていました。今からすれば勿体なかったのですが、後の祭りです。日本人の英語ならまだしも、外人のは耳慣れしてないので、全くもって聞き取れません。筆談クラスです。実を言うと、新制中学では戦後間もなくで、英語の先生はいなくて専ら自習。ですから泉丘高校の入試では、特例で職業の農業を選択、英語の試験は免除でした。しかし2年後には中学校にも英語に堪能な先生が沢山復員して来られ、こんな制度はなくなりました。だから高校では大変でした。コンプレックスもいいとこです。
さて、すごく共鳴したのは、「じゃーないですか?」と「あげる」の乱発のくだりです。若い女の子が「じゃないですか」ならまだ可愛げもありますが、大の野郎がのたもうと反吐がでます。犬にあげる、植木にあげるなど、もってのほかです。お犬様にあげる、お植木様にあげるというならまだしも。よくぞ書かれました。
もう1点は某新聞社の乗っ取り暴君社長、糞喰らえ!です。全く同感。謝々謝々、謝々謝々。
本当に楽しい思いをさせていただきました。心身ともに爽快感漲る、実に素晴らしい近来稀な通読本です。今回こそは先生の偉大さが身にしみて実感できました。今までの横着さを正さなければと痛感しました。すべてに脱帽です。今時気付くとは癲癇持ちもいいとこですが、でも気が付かないよりはましと慰めています。こんな経験はこの歳になるまで初めてです。せめて20年若ければ弟子入りしたでしょうに。我が家では次のお迎えは小生です。今からどんどん若返られれば話は別ですが、でも、断念しましょう。ともあれ、今後ともどうか宜しく、ご指導。ご鞭撻下さい。
勝手にいろいろ書きましたが、これが手書きだと全く判読できない代物になる恐れがありますので、ワープロにしました。小生の家にはまだパソコンが鎮座していません。協会にはあるのですが、完全に消せないとなると勝手なメールでの送信は憚られます。
先生にはどうかご自愛専一になされて下さい。これからも末永いご交誼を賜ることを願って止みません。
[この項は、平成15年(2003)5月22日の記述です]
追記:本当に、このボリュームで誤字脱字がないのは、余程校閲がしっかりしているからでしょう。頼子嬢に負うところすこぶる大なのじゃないですか。ただ2箇所、ミスと思われる箇所がありました。
p 126 ⅴ の冒頭の NKH ⇒ NHK
p 138 ⅳ の5行目 対戦国の国家 ⇒ 対戦国の国歌
この本を手にしたときの感想には、先生のタフさに感心し、一方で何と好奇心旺盛な物好きな方なのだろうと、また寝ずに書いたわけでもないだろうに、よくぞそんな暇がおありになったものだと、またボリュームも半端じゃありませんし、これはとても常人ではできる業ではないと記しました。頂いた当日は、家内は会議で遅れるという連絡があり、そこで『ドンキホーテの後悔』を格好のツマにして、チビリチビリと酒を飲みながら、読み出した次第です。読み出すと、実に愉快で、気分爽快。とはいっても、1/4を占める「体温十二講」は一寸アカデミック過ぎて、消化できない部分もあったようです。また1/5を割いたワインの話、これは薀蓄のある1章でした。読んで、この随想は、お酒に例えれば大吟醸、しかも清涼味のある美味しい淡麗辛口の逸品でした。以下は雑感です。
とまあ、これが当時の印象なのですが、今一度読み返して、当時の雑感に加えるべきは加えて、読後感としたいと思います。初の書き起こしは平成15年(2003)5月22日です。
1.さらなる羊歯への思い
小生も羊歯に興味があった一時期があったこと前に書きましたが、先生は羊歯の分類に維管束を取り上げられたとは、やはり半端じゃありません。段が違います。それにしてもブルターニュには人の背丈もあるワラビが生い茂っているとのこと、日本にはありますかね。蕨餅、ひょっとして食べたことがあるかも知れませんが、本当の蕨由来かどうかは疑問です。こちらのワラビは根茎が貧弱ですから、本気でやるなら、フランスからそのお化けワラビの根茎を輸入するのも一つの手ですね。蕨粉や葛粉は当田舎で作っているのを見たことはありません。石川では唯一「宝達葛」が復活しているのみです。
2.世界の蕎麦その後
今でこそ日本国はソバブームで作付け面積も増え、それでも足りず、中国、カナダ、オーストラリアからの輸入量も莫大ですが、これもブームだからで、もしブームが去れば、もっと実入りの良いよい作物の方に移行するでしょう。とは言っても、いくら味の良いそばでも、三度々々食べるには抵抗があるのではないでしょうか。それにしても、仏蘭西で蕎麦のあの白い花の波に遭遇されたあの記述、先生のクシャクシャ顔とダブって、小生まで感激してしまいました。食べ方もいろいろですが、やはり大和魂が宿っているせいか、日本国でのそばの食し方が最高と言わざるを得ません。オー・スザンナはニアミスでしたね。
3.凡人の名前
先生の名前は「鉃夫」であって「鉄夫」でないのは当然です。断じて「鉄夫」であってはならないのです。現在の戸籍簿を見ると、現在は全く許容されていない字体でも、彼等が持っているアンチョコにはチャンと網羅されています。したがって、先生の名前が「鉄夫」となっていたら、間違いなので訂正させるべきです。今となっては親御さんの意図は不明ですが、とにかく戸籍での名は重大な不都合がなければ大事にすべきです。もし「鉃」の字が勝手に作られた字とすると、戸籍に登録されません。一方読み方はどう読もうと勝手であって、「テツ」と読もうが「マル」と読もうが、戸籍簿にはカナは振りません。ですから、もしテツオだったら鉄が妥当という御仁がいたら、下司の勘繰りもいいとこです。
話は跳びますが、私の恩師の波田野先生、金沢へ来られてからもずっと「波多野」の姓を名乗っておいででした。永平寺を訪れた折に、永平寺の執事が先生の先祖とかで、その名は代々「波田野」とか、そして先生の戸籍も「波田野」とか、何が悲しくて「波多野」とされているのですかと。その後、先生は事の重大さに気付かれてか、以降は「波田野」の鞘に戻られた経緯があります。
4.WINE OF THE PEOPLE, BY THE PEOPLE, FOR THE PEOPLE
先生のワインに対する思い入れには凄い年季が入っているのにはびっくりしました。これは大関と褌担ぎ位の差に相当します。完全に参りました。御説ごもっとも、そうなんですか、そうだったんですか、一言半句口出しできません。この章だけでも、ワインの手引きとなる小冊子になります。項目を挙げておこう。項目の後の( )書きは、私の注書きである。・ワイン小史.・ブドウと酵母(ブドウの種類とワインの熟成期間).・ワインの醸造(ブレンドとブレンディング).・エチケットを読む(ラベル).・コルクと伝統.・お楽しみのはじまり(開栓).・お楽しみの最中(ワイングラス).・色香と味.・次のお楽しみのために(飲み残しの保存、グラスの管理).・ワインのマナー.の以上10項。これを読んだだけでマスターできるわけではありませんが、でも疑問だった一部の謎が解明でき、清々しい感じでした。感謝々々。
ところで小生も高松のブドウでブドウ酒なるものを、研究室でも自宅ででもよく造りました。とくに叔父貴のいた生薬学教室が場内の旅団司令部跡に引っ越していた頃は、よく大量に仕込んで、望楼でよく月見としゃれこんだものです。醗酵は試薬アルコールで止めてましたが、度数はかなりで、口当たりは良いのですが、余計飲むと必ず悪酔いしました。女性軍には格好でした。コツはブドウの野生酵母を落とさないように水洗いのみ、砂糖は10%以内に添加し、醗酵が進んで糖分が足りなくなれば足す、もうテンパイであれば純アルを加え、暫らく寝かす。これで出来上がりです。養命酒も造りましたが、極めて濃厚、薄めても薄めても濃いという代物、あれは儲かりますなぁ。
5.体温十二講
素晴らしい講義でした。一度も先生の御講義に接したことはないのですが、直接お聴きしているような錯覚で読ませて頂きました。私たちが遭遇する様々な現象に、何の不思議も感じないで過ごしているのが我々凡人ですが、実はその裏にはこんなことが起きているのだと、全部を咀嚼して消化することは全く無理ですが、あの学術的解説には、目から鱗でした。金玉のくだりなど、下世話もいいとこでした。話は替わって竹林のM、それかあらぬか良くなってきたように思います。
以下にこの章の項目を挙げる。:以下は私のメモである。
(1)体温:熱中症とは、暑熱障害のうち、高体温、発汗停止、意識障害から死に至ることの多い重篤なものをいう。(2)体温計:近代の体温計の原理はガリレオの体温計に基づいているが、ダビンチの体温計の豆球なるものが物質の特性(温度の変化で色が変わる等)を利用したものであったとすれば、初の考案者はダビンチということになる。(3)体温調節ー行動性と自立性ー:理解できました。メダカの実験は以外でした。でも悪寒はこの範疇外なのでしょうね。(4)頭部の汗:これは、これから脳が働かなくてはならないだろう場面を先取りして、機能を発動させるという合目的的な反応なのでは。(5)変わった汗ー半側発汗ー:片側の皮膚部位の圧迫により、反射的に同側の発汗の抑制が起きる。(6)動物の体温:測定方法の吟味が必要だ。(7)選択的脳冷却:体温と脳温に乖離ができるのは、体温が高くても脳温だけを低く保つメカニズムが働くからである。(8)対向流熱交換:流れの方向は反対だが並行して走る動静脈の間でおきる熱交換で、四肢や鰭ばかりでなく、ヒトや多くの哺乳動物の睾丸などにもその機能がある。(9)発熱と高体温:発熱は発熱物質が脳内の温度感受性ニューロンに働いてその特性を変え、体温のセットポイントが上昇したために起きる(調節された)高体温である。一方高温多湿の環境で熱放散が著しく阻害されたりしておきる体温の高い状態を高体温(鬱熱)といい、このうち最も重篤なのが熱中症で、高温のため脳機能が破壊され死に至る。解熱剤は全く無効である。(10)低体温と冬眠:低体温には、単に熱の産生と放散のバランスが崩れておきる受動的な低体温と、発熱の逆で何か低体温を惹き起こす物質などが中枢のセットポイントを変えておきる調節された低体温(アナパイレキシア)の2種類がある。冬眠は季節の気候変動や栄養状態の変化に対する種としての適応だといわれるが、その実態はいまだ明確ではない。(11)温泉と風呂:まだ日本では足湯なるものが普及していないときに、先生がデモまがいのことをされたのには驚きましたが、外国ではむしろこちらの方が普及していたのですね。近頃は日本でもそこここに普及していますが、確かに宣伝用でしょうね。先生のぬる湯好きはお聞きしていましたが、私は42℃にセットして入ります。この間テレビで40℃以上は身体によくないとのことで、家内がうるさく言います。(12)温度感覚:正常体温のとき、最も快適に感ずる皮膚温は33℃だそうですが、気温33℃では不快感の人が多いと思いますが、この点はどうなんでしょうか。
6.私の夢十夜
初めて先生の夢十夜を読んで寝た翌朝、カラーの夢を見ました。野々市の東田圃に健診車が停まっている。とそこへ、例えは悪いが、ピノキオに総太大根の上半分を双胸にくっつけたような超々ボインのおねぇちゃんが、素っ裸で小宅の庭を横切って健診車に向かって歩いて行く。ははん、近頃の若い娘はこうも大胆なのかと変に感心しているうちに目が覚めた。あんな夢、初めてだった。しかし夢なるもの、現実とどこかで接点があるのだろうか。吉の夢、凶の夢等々、学問的には全く検討に値しないものなのでしょうか。
臨死体験:小生も一度だけ体験しました。大出血して死にそびれたときです。これには空間遊泳と花園歩きがあるようですが、私のは後者で、途中で回れ右させられました。亡くなられた松原敏さんは二度体験され、両方体験されたとのことでした。
7.早飯・早〇、早仕度
先生の早飯の特技、生来のものなのでしょうか、それとも後天的に努力して獲得されたものなのでしょうか。いずれにしても、宴会の司会進行は先生にお任せしておけば、何の憂いもないことが明白になりました。凡人では可愛そうです。これは常人が努力して出来る技ではなく、先生は重要文化財保持者(探蕎会宝人)として登録されるべきです。
万力とビーカー、直しの万年筆の逸話は、正に真正なお笑いでした。
早糞は冬山では鉄則です。特に吹雪の時が大変で、生死に関わります。これにはとっておきの実体験があるのですが、今回は割愛します。
8.またまたドンキホーテの八つ当たり
2点以外は、全くその通り、小生身体全体が共鳴し、同感々々と震えました。
2点の内の1点は、「目線を合わせる」です。もうワープロでもすんなり出ますが、昨今、私の目とある女の子の目と合ったのは、正に目線が合ったとしか言いようがなく、とても視線が合ったでは収まりがつかないものでした。
もうい1点は英会話です。高校から大学教養まで英会話の授業はあったのですが、引っ込み思案で逃げ回っていました。今からすれば勿体なかったのですが、後の祭りです。日本人の英語ならまだしも、外人のは耳慣れしてないので、全くもって聞き取れません。筆談クラスです。実を言うと、新制中学では戦後間もなくで、英語の先生はいなくて専ら自習。ですから泉丘高校の入試では、特例で職業の農業を選択、英語の試験は免除でした。しかし2年後には中学校にも英語に堪能な先生が沢山復員して来られ、こんな制度はなくなりました。だから高校では大変でした。コンプレックスもいいとこです。
さて、すごく共鳴したのは、「じゃーないですか?」と「あげる」の乱発のくだりです。若い女の子が「じゃないですか」ならまだ可愛げもありますが、大の野郎がのたもうと反吐がでます。犬にあげる、植木にあげるなど、もってのほかです。お犬様にあげる、お植木様にあげるというならまだしも。よくぞ書かれました。
もう1点は某新聞社の乗っ取り暴君社長、糞喰らえ!です。全く同感。謝々謝々、謝々謝々。
本当に楽しい思いをさせていただきました。心身ともに爽快感漲る、実に素晴らしい近来稀な通読本です。今回こそは先生の偉大さが身にしみて実感できました。今までの横着さを正さなければと痛感しました。すべてに脱帽です。今時気付くとは癲癇持ちもいいとこですが、でも気が付かないよりはましと慰めています。こんな経験はこの歳になるまで初めてです。せめて20年若ければ弟子入りしたでしょうに。我が家では次のお迎えは小生です。今からどんどん若返られれば話は別ですが、でも、断念しましょう。ともあれ、今後ともどうか宜しく、ご指導。ご鞭撻下さい。
勝手にいろいろ書きましたが、これが手書きだと全く判読できない代物になる恐れがありますので、ワープロにしました。小生の家にはまだパソコンが鎮座していません。協会にはあるのですが、完全に消せないとなると勝手なメールでの送信は憚られます。
先生にはどうかご自愛専一になされて下さい。これからも末永いご交誼を賜ることを願って止みません。
[この項は、平成15年(2003)5月22日の記述です]
追記:本当に、このボリュームで誤字脱字がないのは、余程校閲がしっかりしているからでしょう。頼子嬢に負うところすこぶる大なのじゃないですか。ただ2箇所、ミスと思われる箇所がありました。
p 126 ⅴ の冒頭の NKH ⇒ NHK
p 138 ⅳ の5行目 対戦国の国家 ⇒ 対戦国の国歌
2011年9月21日水曜日
槍見の湯は蒲田川の奥に槍の穂を望める秘湯の一軒宿
毎年秋の連休に、家内と家内の友人と私とで、どこかの温泉へ訪ねることにしているが、今年は新穂高温泉の大露天風呂のある宿にでもと思っていた。ところがその宿は部屋にトイレがないということで、元は槍見温泉と言われていた槍見館にした。折りよく一室のみ空いていた。この一帯は温泉が多く、大きく平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高とあるが、これら5温泉をまとめて、奥飛騨温泉郷と称している。そして新穂高温泉には、新穂高、中尾、蒲田の3つの源泉エリアがあり、新穂高エリアは最も奥に位置している。槍見館はこのエリアの中では最も南に位置し、しかも蒲田川の右岸にある。
9月の連休は18日(日)と19日(敬老の日)、朝9時に金沢を発つ。富山からは国道41号線で南下、神岡からは国道471号線を辿り、栃尾からは県道475号線で新穂高温泉へ向かう。天気予報では曇り時々雨、2日目は雨、しかし現況は時々晴れ、新穂高ロープウェイは明日の予定だったが、時間も正午前のこともあり、今日上ることにする。駐車場はほぼ満車、人も多い。第1ロープウェイ駅からは原則30分毎の発車、最後の5人に滑り込む。駅の標高は1,117m、鍋平抗原(1,305m)まで約4分、そこから第2ロープウェイ駅(しらかば平)まで歩き、次いで高度差848mを約7分で上る。西穂高口(2,156m)には沢山の人、笠ヶ岳が指呼の間、西穂山荘から西穂高岳まですっきり見えている。奥穂や槍は雲に隠れて見えない。晴れていれば白山も見えようものを、でもこんなに展望がきくとは僥倖だった。しかし次第にガスが湧いてきて、視界が悪くなってきた。早々に下りることに。鍋平で昼食し、新穂高ビジターセンターで双六小屋等のオーナーの小池潜さんの山の写真展を見たが、プロの目は鋭い。百号位の写真もあり、すごく魅せられた。
宿のチェックインは午後2時、2時半になったので宿に向かう。ナビを入れ損ねて栃尾まで下り、引き返す。今度は注意深く見ながら走ると、蒲田トンネルを抜けてすぐに槍見館の標識、左の山道に入る。一車線のため、対向車があると難儀する。この日は日曜で工事がなかったが、あると入るのも出るのも午前8時から午後5時までは、午前30分2回、午後も同様で、計2時間しか通れない。工事は崩れた路肩の復旧で、斜面が急なこともあって道幅の拡幅は困難なようだ。登山道に続いていることもあって、市道とか、ただ除雪は宿の自前とかだった。宿は年中無休である。
この湯は宿の人の説明では、大正時代に川辺に自噴しているのが見つかり、川の水を引いて湯船を造り、笠ヶ岳への登山者の宿や湯治場として開湯した。当時は林屋といった。しかし蒲田川は笠ヶ岳、抜戸岳、双六岳、槍ヶ岳、穂高連峰、焼ヶ岳を水源としている川で、梅雨時には降雨と雪解けでの増水で、湯槽は毎年流失した。その後豊富な水を利用して独自に水力発電を開発し、温泉を汲み上げて内湯を造り、一年を通じて営業できるようにした。現在は再ボーリングし、地下60mからポンプアップで毎分450ℓの51~60℃(季節により変動)の温泉水を汲み上げている。泉質は弱アルカリ性単純温泉、加水・加温はなく、かけ流しである。水は裏山から谷水を引き、温泉水で熱交換した水を温水として利用している。この場所からは、蒲田川の奥に、右から南岳、中岳、大喰岳、そしてその左に槍ヶ岳の穂が見えることから槍見温泉と名付けられた。川に近く露天風呂を配し、中でも「槍見の湯」や内風呂からはその槍の穂を見ることが出来る。また近景には新穂高第2ロープウェイの全貌も見える。周りの林にはイヌシデがまだ緑色の四出を下げている。
現在の槍見館は全15室、斜面に旧庄屋の建物を移築し、素朴で力強い印象が特徴だ。内湯は男女2湯とも今年1月に全部リニューアルされ、昼間は槍が見える北側と蒲田川側の東側の戸を全面開け放てる仕掛けにし、さながら露天風呂の様相である。もっとも混浴露天風呂「槍見の湯」「まんてんの湯」や女性専用の「岩見の湯」もあり、ほかに貸切露天風呂も4湯ある。この中で「まんてんの湯」はかなり大きく、湯への入り口が男女で異なるので混浴でも入りやすい。でも売りは「槍見の湯」、槍を見ながらの岩風呂は安らぐ。
チェックアウトは11時、それより道路の通行が10時半から30分のみ、対向車があり難渋する。朝は陽も射し天気は好かったが、次第に雲が多くなる。栃尾から平湯へ、そして国道158号線を高山へ向かう。市内へは入らず、枝道から国道41号線へ、そして飛騨市古川へ向かう。市役所の有料駐車場は何故か無料、案内のパンフレットを貰って、先ずはまつり会館へ、3D映像で祭りを体験し、展示の実物の屋台に感動し、本来なら32本もの糸で操るからくりがコンピューターで再現されるのに感心し、切り絵職人の手慰みとかだが、本物そっくりの精巧な彫りと塗りに驚嘆した。昼食はそば盛り、その後は瀬戸川と鯉と白壁土蔵を愛で、「蓬莱」醸造元を訪ね、古川を辞した。雨は時に強く、雨の中帰りを急いだ。
9月の連休は18日(日)と19日(敬老の日)、朝9時に金沢を発つ。富山からは国道41号線で南下、神岡からは国道471号線を辿り、栃尾からは県道475号線で新穂高温泉へ向かう。天気予報では曇り時々雨、2日目は雨、しかし現況は時々晴れ、新穂高ロープウェイは明日の予定だったが、時間も正午前のこともあり、今日上ることにする。駐車場はほぼ満車、人も多い。第1ロープウェイ駅からは原則30分毎の発車、最後の5人に滑り込む。駅の標高は1,117m、鍋平抗原(1,305m)まで約4分、そこから第2ロープウェイ駅(しらかば平)まで歩き、次いで高度差848mを約7分で上る。西穂高口(2,156m)には沢山の人、笠ヶ岳が指呼の間、西穂山荘から西穂高岳まですっきり見えている。奥穂や槍は雲に隠れて見えない。晴れていれば白山も見えようものを、でもこんなに展望がきくとは僥倖だった。しかし次第にガスが湧いてきて、視界が悪くなってきた。早々に下りることに。鍋平で昼食し、新穂高ビジターセンターで双六小屋等のオーナーの小池潜さんの山の写真展を見たが、プロの目は鋭い。百号位の写真もあり、すごく魅せられた。
宿のチェックインは午後2時、2時半になったので宿に向かう。ナビを入れ損ねて栃尾まで下り、引き返す。今度は注意深く見ながら走ると、蒲田トンネルを抜けてすぐに槍見館の標識、左の山道に入る。一車線のため、対向車があると難儀する。この日は日曜で工事がなかったが、あると入るのも出るのも午前8時から午後5時までは、午前30分2回、午後も同様で、計2時間しか通れない。工事は崩れた路肩の復旧で、斜面が急なこともあって道幅の拡幅は困難なようだ。登山道に続いていることもあって、市道とか、ただ除雪は宿の自前とかだった。宿は年中無休である。
この湯は宿の人の説明では、大正時代に川辺に自噴しているのが見つかり、川の水を引いて湯船を造り、笠ヶ岳への登山者の宿や湯治場として開湯した。当時は林屋といった。しかし蒲田川は笠ヶ岳、抜戸岳、双六岳、槍ヶ岳、穂高連峰、焼ヶ岳を水源としている川で、梅雨時には降雨と雪解けでの増水で、湯槽は毎年流失した。その後豊富な水を利用して独自に水力発電を開発し、温泉を汲み上げて内湯を造り、一年を通じて営業できるようにした。現在は再ボーリングし、地下60mからポンプアップで毎分450ℓの51~60℃(季節により変動)の温泉水を汲み上げている。泉質は弱アルカリ性単純温泉、加水・加温はなく、かけ流しである。水は裏山から谷水を引き、温泉水で熱交換した水を温水として利用している。この場所からは、蒲田川の奥に、右から南岳、中岳、大喰岳、そしてその左に槍ヶ岳の穂が見えることから槍見温泉と名付けられた。川に近く露天風呂を配し、中でも「槍見の湯」や内風呂からはその槍の穂を見ることが出来る。また近景には新穂高第2ロープウェイの全貌も見える。周りの林にはイヌシデがまだ緑色の四出を下げている。
現在の槍見館は全15室、斜面に旧庄屋の建物を移築し、素朴で力強い印象が特徴だ。内湯は男女2湯とも今年1月に全部リニューアルされ、昼間は槍が見える北側と蒲田川側の東側の戸を全面開け放てる仕掛けにし、さながら露天風呂の様相である。もっとも混浴露天風呂「槍見の湯」「まんてんの湯」や女性専用の「岩見の湯」もあり、ほかに貸切露天風呂も4湯ある。この中で「まんてんの湯」はかなり大きく、湯への入り口が男女で異なるので混浴でも入りやすい。でも売りは「槍見の湯」、槍を見ながらの岩風呂は安らぐ。
チェックアウトは11時、それより道路の通行が10時半から30分のみ、対向車があり難渋する。朝は陽も射し天気は好かったが、次第に雲が多くなる。栃尾から平湯へ、そして国道158号線を高山へ向かう。市内へは入らず、枝道から国道41号線へ、そして飛騨市古川へ向かう。市役所の有料駐車場は何故か無料、案内のパンフレットを貰って、先ずはまつり会館へ、3D映像で祭りを体験し、展示の実物の屋台に感動し、本来なら32本もの糸で操るからくりがコンピューターで再現されるのに感心し、切り絵職人の手慰みとかだが、本物そっくりの精巧な彫りと塗りに驚嘆した。昼食はそば盛り、その後は瀬戸川と鯉と白壁土蔵を愛で、「蓬莱」醸造元を訪ね、古川を辞した。雨は時に強く、雨の中帰りを急いだ。
2011年9月16日金曜日
石徹白への旅と話(続)
(承前)
『かつての修験道』:昔修験者が辿った修験道は一般の禅定道とは異なり、長滝白山神社からすぐ裏手の山に登り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て、神鳩社で一般参拝道と合流していた。長い尾根の途中には、神鳩社までに10の宿があったという。
『石徹白の室堂』:「民宿おしたに」の裏手からは、山の斜面の上の方に大師堂の基部が見えている。大師堂へは行かなかったが、その手前に倉庫のような建物があり、これは昔の白山の室堂を模して作られた宿舎だという説明を受けた。
『石徹白から市ノ瀬へ日帰り往復』:まだ旧の白山温泉があった頃、石徹白川で採れた岩魚や天魚(アマゴ)を、笠場峠を越えて白山温泉にまで日帰りで運んでいたという。三ツ谷へ出たというから、六本桧か杉峠越えをしたのだろうか。
『石徹白から室堂へ』:夏場なら、石徹白を朝5時に発てば、室堂には午後3時には着ける。
『室堂詰め』:室堂勤務初めの頃は、5月の春山に入って、秋山の11月まで山に居た。この間石徹白へ下りるのは3回程度。いつか11月に帰る時、ドカ雪で弥陀ヶ原で肩位のこともあった。困ったのは中飯場で車が埋まったことで、あの時はブル先導で下りた。その後鴛谷さんが居るときに、開設期間を現在の10月15日までと決めたそうだ。現在職員が室堂に入るのは、5月の連休と7月1日~10月15日である。
『奥宮の社殿焼失』:以前の奥宮社殿は落雷で全壊した。当時鴛谷さんは室堂に居て、灯油1缶を持って行き、檜の柱と銅版以外は全部社殿のあった場所で燃やしたという。檜の柱4本は後日白山比め神社へ届けたが、それは表札にされて氏子に配られたとかで、大変喜ばれた。現在の奥宮の社殿は、その後に再建されたものである。
『御前峰の方位盤』:以前あった方位盤は、山崎さんが一人で担ぎ上げ、それは語り草になっているが、その方位盤は落雷で無惨な姿になった。これは私も見ている。その後鴛谷さん達が中部電力と掛け合ったところ、再び方位盤を寄進して頂けることになり、出来上がった方位盤も中電のヘリで運んで頂けた。土台も新しく造り替えられた。
『森君のこと』:彼は金大山岳部の後輩で、3月に本隊の白山主脈縦走の激励に白山へ出向いたが、室堂手前の五葉坂で猛烈な吹雪に遭い、現役の一人と共に凍死した。5月になり、かの方位盤の山崎さんから遺体発見の連絡が入り、すぐに現役とOBとで隊を編成し収容した。遭難した場所には碑が置かれていて、鴛谷さんは折に触れてお参りしたと話されていた。坂に向かって右(東)に少し入った場所だったが、今は碑は撤去されて無い。
『コマクサ』:白山のコマクサは大汝峰のガレ場に植栽されているのは知っているが、鴛谷さんでは御前峰の転法輪岩屋下のガレ地にも植わっているという。これにはリキさんが噛んでいるが、鴛谷さんも協力したと言われ、これにはびっくりした。
『オオシラビソとクリ』:鴛谷さんの家の前庭には針葉樹があり、家内に何かと聞かれ、モミじゃないかと言っておいたが、後で鴛谷さんに聞くと、オオシラビソ(アオモリトドマツ)とのこと、52年前に白山から持ち帰った種子を蒔いたもので、ここが育つ限界の標高だとかだった。葉を揉むと、懐かしい独特の香りがした。またその近くにクリも植わっているが、実が熟する頃には、熊が栗の実を食べに来ると話されていた。
『野伏ヶ岳(300名山)』:この300名山には夏道がなく、残雪期にしか登れないので、3月4月は登山者が多い。スキー、ボード、スノーシュー、かんじき等、歩行具はいろいろだが、春の一日、私が案内してゆっくり往復できるので、喜ばれている。
『そのほか』:いろんな話が出たが、お酒の席の部分もあり、またメモしたわけでもないので、定かではない。翌朝も朝食が終わって、囲炉裏を囲んでいろんな話をした。沢山の人の名前が出たが、知っている人もあり、知らない人もあり、様々だ。家内に促されてようやく腰を上げた。帰り際に、奥さんから手製の精巧な可愛い草履のストラップを頂いた。
今日は月曜日、もう道路では工事が始まっていたが、なんとか通してもらった。それにしても、他家の駐車場を通らないと出入りできないというのは、何ともけったいな具合だ。
● 長滝白山神社・白山長瀧寺
昨日通った国道314号線を300m上って桧峠(960m)へ、さらに400m下って国道156号線に出る。そして少し南下すると、道の駅白鳥があり、ここからも歩いて行けるのだったが、知らずにもう少し走って、長良川鉄道はくさんながたき駅裏の駐車場に車を停める。参道を長滝白山神社へ向かう。両脇には、現存の三坊院や古の坊院跡がある。社務所で御朱印を貰い、隣の瀧宝殿を拝観する。ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像(中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩)、その両脇には、やはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造四天王立増(多聞天、広目天、持国天、増長天の四像)が置かれている。境内で往時の隆盛を偲ぶが、今は加賀馬場であった加賀一宮の白山比め神社の方が、はるかに活気がある。
● 白山やまぶどうわいん・白山ワイナリー
国道156号線を更に南下し、白鳥から国道158号線に入る。ここには中部縦貫自動車道が出来ていて、トンネルと高架ループで峠越えをしなくてよいことになっているが、あえて油坂峠(870m)へ向かう。そんな物好きはいないと見えて、会った車は1台のみ、往年の安房峠越えを想う。でも峠を越えると程なく新しい自動車道に合流した。九頭竜湖の湖岸沿いに走るが、ずっと追い越し禁止区間、昨日覗いた道の駅九頭竜には寄らずに走り続ける。日本百名山荒島岳の麓の勝原(かどはら)を過ぎて平野部にかかってからは、表示に従って走る。国道からは5分とあったが、そうは行かない。行き着いた先はこじんまりとした2階建て、その2階に商品が置いてあり、試飲もできるが、私も家内もパスした。折角来たのでやや辛口の白山ブランというのを求める。山ぶどうワインは甘口なのでやめた。
● あまごの宿
昼食はかねて行きたいと思っていた「あまごの宿」にする。初めは「あまごの里」と思っていたので、ナビでは検索できず、ドラッグストアで訊いたら宿と分かり、行き着くことができた。国道416号線に入り、行き止まり直前の横倉に目的の店はあった。広大な敷地、パノラマで見ると、32基もの八角形の養殖施設があり、山の際でもあり、常時清冽な谷水が供給されている。アマゴ(天魚)はサケ科サケ属の渓流魚、日本古来の在来種で、「渓流の女王」と呼ばれている。一方のイワナ(岩魚)はサケ科イワナ属の渓流魚、渓流の最上流に生息している日本古来の在来種で、「渓流の王様」と呼ばれている。
コース料理は6段階あるが、下から2番目の3千円にする。内容はアマゴの造り、塩焼き、天ぷら、甘露煮に、酢の物、山菜、吸い物、御飯で、飲み物は生中と一本義(勝山の酒)の「ひやおろし」にした。家内は川魚は得手でなく、山菜が主の野菜天と細麺の冷しかけにノンアルコール。中ではアマゴの造りが逸品だった。味もさることながら、淡い橙色が素晴らしかった。帰りに宿から3ℓもの美味しい水を土産にもらった。割り水にして下さいとのこと、有り難く頂戴した。
宿の女将では、神戸の人で、毎春一度はここで泊まり、越前甲へ登り、条件が良いと大日山まで行く人がいると話していた。私の美濃禅定道に付き合ってくれる宮川さんもこの間来たと話していた。登るにはここ以外にはない。
帰りは家内の運転、勝山までは戻らず、龍谷交差点を左折し、栃神谷で国道157号線に出て、白峰経由で家へ、途中額谷墓苑の三男の墓へ寄った。
『かつての修験道』:昔修験者が辿った修験道は一般の禅定道とは異なり、長滝白山神社からすぐ裏手の山に登り、西山、毘沙門岳、桧峠、大日ヶ岳、芦倉山、丸山と尾根筋を経て、神鳩社で一般参拝道と合流していた。長い尾根の途中には、神鳩社までに10の宿があったという。
『石徹白の室堂』:「民宿おしたに」の裏手からは、山の斜面の上の方に大師堂の基部が見えている。大師堂へは行かなかったが、その手前に倉庫のような建物があり、これは昔の白山の室堂を模して作られた宿舎だという説明を受けた。
『石徹白から市ノ瀬へ日帰り往復』:まだ旧の白山温泉があった頃、石徹白川で採れた岩魚や天魚(アマゴ)を、笠場峠を越えて白山温泉にまで日帰りで運んでいたという。三ツ谷へ出たというから、六本桧か杉峠越えをしたのだろうか。
『石徹白から室堂へ』:夏場なら、石徹白を朝5時に発てば、室堂には午後3時には着ける。
『室堂詰め』:室堂勤務初めの頃は、5月の春山に入って、秋山の11月まで山に居た。この間石徹白へ下りるのは3回程度。いつか11月に帰る時、ドカ雪で弥陀ヶ原で肩位のこともあった。困ったのは中飯場で車が埋まったことで、あの時はブル先導で下りた。その後鴛谷さんが居るときに、開設期間を現在の10月15日までと決めたそうだ。現在職員が室堂に入るのは、5月の連休と7月1日~10月15日である。
『奥宮の社殿焼失』:以前の奥宮社殿は落雷で全壊した。当時鴛谷さんは室堂に居て、灯油1缶を持って行き、檜の柱と銅版以外は全部社殿のあった場所で燃やしたという。檜の柱4本は後日白山比め神社へ届けたが、それは表札にされて氏子に配られたとかで、大変喜ばれた。現在の奥宮の社殿は、その後に再建されたものである。
『御前峰の方位盤』:以前あった方位盤は、山崎さんが一人で担ぎ上げ、それは語り草になっているが、その方位盤は落雷で無惨な姿になった。これは私も見ている。その後鴛谷さん達が中部電力と掛け合ったところ、再び方位盤を寄進して頂けることになり、出来上がった方位盤も中電のヘリで運んで頂けた。土台も新しく造り替えられた。
『森君のこと』:彼は金大山岳部の後輩で、3月に本隊の白山主脈縦走の激励に白山へ出向いたが、室堂手前の五葉坂で猛烈な吹雪に遭い、現役の一人と共に凍死した。5月になり、かの方位盤の山崎さんから遺体発見の連絡が入り、すぐに現役とOBとで隊を編成し収容した。遭難した場所には碑が置かれていて、鴛谷さんは折に触れてお参りしたと話されていた。坂に向かって右(東)に少し入った場所だったが、今は碑は撤去されて無い。
『コマクサ』:白山のコマクサは大汝峰のガレ場に植栽されているのは知っているが、鴛谷さんでは御前峰の転法輪岩屋下のガレ地にも植わっているという。これにはリキさんが噛んでいるが、鴛谷さんも協力したと言われ、これにはびっくりした。
『オオシラビソとクリ』:鴛谷さんの家の前庭には針葉樹があり、家内に何かと聞かれ、モミじゃないかと言っておいたが、後で鴛谷さんに聞くと、オオシラビソ(アオモリトドマツ)とのこと、52年前に白山から持ち帰った種子を蒔いたもので、ここが育つ限界の標高だとかだった。葉を揉むと、懐かしい独特の香りがした。またその近くにクリも植わっているが、実が熟する頃には、熊が栗の実を食べに来ると話されていた。
『野伏ヶ岳(300名山)』:この300名山には夏道がなく、残雪期にしか登れないので、3月4月は登山者が多い。スキー、ボード、スノーシュー、かんじき等、歩行具はいろいろだが、春の一日、私が案内してゆっくり往復できるので、喜ばれている。
『そのほか』:いろんな話が出たが、お酒の席の部分もあり、またメモしたわけでもないので、定かではない。翌朝も朝食が終わって、囲炉裏を囲んでいろんな話をした。沢山の人の名前が出たが、知っている人もあり、知らない人もあり、様々だ。家内に促されてようやく腰を上げた。帰り際に、奥さんから手製の精巧な可愛い草履のストラップを頂いた。
今日は月曜日、もう道路では工事が始まっていたが、なんとか通してもらった。それにしても、他家の駐車場を通らないと出入りできないというのは、何ともけったいな具合だ。
● 長滝白山神社・白山長瀧寺
昨日通った国道314号線を300m上って桧峠(960m)へ、さらに400m下って国道156号線に出る。そして少し南下すると、道の駅白鳥があり、ここからも歩いて行けるのだったが、知らずにもう少し走って、長良川鉄道はくさんながたき駅裏の駐車場に車を停める。参道を長滝白山神社へ向かう。両脇には、現存の三坊院や古の坊院跡がある。社務所で御朱印を貰い、隣の瀧宝殿を拝観する。ここには白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造釈迦三尊像(中央に釈迦如来、左に文殊菩薩、右に普賢菩薩)、その両脇には、やはり白山長瀧寺所蔵の国重要文化財の木造四天王立増(多聞天、広目天、持国天、増長天の四像)が置かれている。境内で往時の隆盛を偲ぶが、今は加賀馬場であった加賀一宮の白山比め神社の方が、はるかに活気がある。
● 白山やまぶどうわいん・白山ワイナリー
国道156号線を更に南下し、白鳥から国道158号線に入る。ここには中部縦貫自動車道が出来ていて、トンネルと高架ループで峠越えをしなくてよいことになっているが、あえて油坂峠(870m)へ向かう。そんな物好きはいないと見えて、会った車は1台のみ、往年の安房峠越えを想う。でも峠を越えると程なく新しい自動車道に合流した。九頭竜湖の湖岸沿いに走るが、ずっと追い越し禁止区間、昨日覗いた道の駅九頭竜には寄らずに走り続ける。日本百名山荒島岳の麓の勝原(かどはら)を過ぎて平野部にかかってからは、表示に従って走る。国道からは5分とあったが、そうは行かない。行き着いた先はこじんまりとした2階建て、その2階に商品が置いてあり、試飲もできるが、私も家内もパスした。折角来たのでやや辛口の白山ブランというのを求める。山ぶどうワインは甘口なのでやめた。
● あまごの宿
昼食はかねて行きたいと思っていた「あまごの宿」にする。初めは「あまごの里」と思っていたので、ナビでは検索できず、ドラッグストアで訊いたら宿と分かり、行き着くことができた。国道416号線に入り、行き止まり直前の横倉に目的の店はあった。広大な敷地、パノラマで見ると、32基もの八角形の養殖施設があり、山の際でもあり、常時清冽な谷水が供給されている。アマゴ(天魚)はサケ科サケ属の渓流魚、日本古来の在来種で、「渓流の女王」と呼ばれている。一方のイワナ(岩魚)はサケ科イワナ属の渓流魚、渓流の最上流に生息している日本古来の在来種で、「渓流の王様」と呼ばれている。
コース料理は6段階あるが、下から2番目の3千円にする。内容はアマゴの造り、塩焼き、天ぷら、甘露煮に、酢の物、山菜、吸い物、御飯で、飲み物は生中と一本義(勝山の酒)の「ひやおろし」にした。家内は川魚は得手でなく、山菜が主の野菜天と細麺の冷しかけにノンアルコール。中ではアマゴの造りが逸品だった。味もさることながら、淡い橙色が素晴らしかった。帰りに宿から3ℓもの美味しい水を土産にもらった。割り水にして下さいとのこと、有り難く頂戴した。
宿の女将では、神戸の人で、毎春一度はここで泊まり、越前甲へ登り、条件が良いと大日山まで行く人がいると話していた。私の美濃禅定道に付き合ってくれる宮川さんもこの間来たと話していた。登るにはここ以外にはない。
帰りは家内の運転、勝山までは戻らず、龍谷交差点を左折し、栃神谷で国道157号線に出て、白峰経由で家へ、途中額谷墓苑の三男の墓へ寄った。
2011年9月15日木曜日
石徹白への旅と話
未だ一度も通ったことのない美濃禅定道を、南竜山荘から下ろうと、7月と8月に挑戦したが、7月は台風6号による強風で、8月は停滞前線による濃霧と降雨で、石徹白へ下りることを断念した。下山した後は石徹白で宿泊することにして、民宿を白鳥観光協会にお願いしたところ、「民宿おしたに」を紹介してもらえた。この時の条件は、下山した際に登山口まで車で迎えに来てもらえることだった。これに対し鴛谷さんからは、①先ず前日の晩に一度連絡下さい。②下る日、別山か、三ノ峰か、最終的には銚子ヶ峰から携帯電話で連絡して下さい。そうすれば時間に合わせて迎えに行きますとのことだった。登山口へ下りてからは、電話は通じませんとも。朝5時に南竜を発てば、1時か2時には下りられるとのこと。ところでこれで二度もドタキャンしたので、一度お礼を兼ねて寄ろうということのなり、家内と9月11日に行くことにした。
● 石徹白へ
私はこれまで石徹白へ行ったことがない。金沢からは勝山回りで3時間ばかりとかで、朝9時に家を出た。白峰から谷峠を越えて勝山へ下り、九頭竜川を上流へ、ダム手前の旧和泉村役場から石徹白川に沿って、国道314号線を上流へ向かって進む。此処から石徹白下在所に至る途中にあった旧和泉村の3集落は廃村になり、石徹白まで部落はない。ただ旧村落の跡地は整備されてキャンプ場になっていた。途中から狭い峡谷沿いの一車線の道になる。かなり走って道路が広くなり、山間の峡谷から開けた明るい山地になり、家が点在してくると、そこが石徹白だった。石徹白は40年位前は福井県大野郡石徹白村だったが、昭和の大合併で岐阜県に越県合併し、現在は郡上市白鳥町石徹白となっている。
● 石徹白の大杉
朝は上天気だったのに、石徹白へ着いた頃には曇ってきて、雨もパラついてきた。今度も雨かと気が滅入ったが、とにかく石徹白道の登山口へ向かうことに。上在所の白山中居神社を過ぎると道は狭くなり一車線になる。ここから登山口までは6kmの道のり、途中10台位の車と交差する。登山口には、乗用車が10台位とマイクロバスが1台、車の人皆さん銚子ヶ峰まで行ったとか、バスには運転手と客が2人ばかり残っていて、皆が帰るまで待つとか。雨が降ってきたが、ここまで来たからには、大杉へは雨でも出かけようと、山スタイルに着替え、靴も山靴に履き替えた。石段は420段、段差20cmとすれば84mの高度差、10分程度の登り、この程度なら家内も行くというので一緒に登ることに。この登山口には休憩舎もトイレもあり、水場もある。また休憩舎の脇にはスキーのストックが沢山置いてあり、家内は運転手の方に勧められたとかで、ストックを2本持っていた。その方がよい。私は何時ものステッキである。かなり急な石段、石段は丸い石で組んであるので、雨で滑る。距離は340m、丁度10分で大杉に着いた。家内は歩くと浮腫が出るとかで全く歩いていないが、ここは時間も短く、本人は大丈夫と言っている。幹周り14.5m、樹高25m、樹齢1,800年といわれる国指定の特別天然記念物の大杉である。幹の半分は枯れて、白い樹肌を見せているが、残りでは葉が繁っている。ここは標高1,000mの小さな平になっていて大杉平というそうだ。ここには美濃禅定道の今清水社があった場所でもある。ここから銚子ヶ峰までは5km、ざっと900mの登り、上り3時間、下り2時間である。
● 白山中居神社
登山口から上在所に戻る。ここには20棟ばかりの家があるが、今は常住している人はいないと聞いたが、どうなのだろう。鳥居脇に駐車して参道を本殿へと向かう。大きな川石を組んだ段を下り、長瀧川を渡り、再び丸い川石を組んだ段を上ると拝殿に出る。八千余坪の境内は鬱蒼とした杉の老樹の森、中でも「浄安杉」は目通り12.1mで、この森とともに岐阜県の指定天然記念物になっている。そして一番高みには本殿があり、御祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神で、祀られたのは景行天皇12年(83)とのことである。その後元正天皇の養老年間(717-724)に、泰澄大師が白山開山の折に社殿を修復、社域を拡張し、神仏混交となった。そして江戸時代には、神職に関わる人は二百余戸にも達したという。その後明治になっての神仏分離では、仏像などは中在所に建立された「大師堂」に安置された。また鴛谷さんでは、神宮・神社の参道で、途中で川を渡るのは、日本広しと言えども、伊勢神宮とここ白山中居神社のみとかである。
● 満天の湯
今晩泊まる宿の主人は法事とかで、3時半過ぎにお出で下さいとのこと、神社を出たのが午後2時過ぎ、それで宿の主人も推奨の「満天の湯」へ向かうことにする。この天然温泉は国道314号線の桧峠近くにあり、標高は1,000mばかり、泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、源泉温度44.0℃、湧出量は134ℓ/分、本館には露天風呂、内風呂、サウナがあるほか、個室の露天風呂が10室ある。ここで1時間ばかり過ごす。土日祝日は午後9時まで営業しているので、夜は満天の星を見ながらの入浴も可能である。
● 民宿おしたに
午後4時に今宵の宿「民宿おしたに」へ向かう。鴛谷さんからは、水道工事をしているので迂回しなければならず、もし分からない時は連絡して下さいとのことだったが、日曜は工事をしてなくて、頂いた地図どおりに行くことができた。
主人の鴛谷さんは、白山室堂の厨房に33年間おいでたとのこと、沢山の方をご存知で家の前で初にお会いしたとき、木村先生には特に懇意にしてもらいましたという話が飛び出た。その木村さんは実は私の叔父ですと話したら、びっくりされていた。外での話しに花が咲いての立ち話、話題が次から次へと、奥さんに促されて漸く中へ入った。来週の土日は、恒例の室堂友の会の集まり(室堂職員と金大医学部の白山診療班で構成)がここでであるとか、20人ばかりがお集まり、私の知っている人も何人か入っている。
● 鴛谷さんから聞いた話
以下に聞いたことなどを、思いつくままに記してみる。
『美濃馬場』:平安時代の天長9年(832)に、白山には三つの馬場(加賀・越前・美濃)が開かれ、加賀馬場・白山中宮、越前馬場・平泉寺と並んで、美濃馬場・白山中宮長滝寺は、長滝から石徹白の白山中居神社を経て、白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。その後白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、石徹白の地も重要性を増し、最盛期には「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかし蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは失われつつあったが、それでも文政8年(1825)には再建後五百年を経た大講堂が改築され、盛大な上棟遷座法要が営まれた。だが、明治維新の際に発せられた神仏分離令により、それまでの白山中宮長滝寺は解体され、大御前・別山・大汝と他の末社は長滝白山神社に、大講堂と諸堂各坊は白山長瀧寺(ちょうりゅうじ)となった。ところが明治32年(1899)に近隣の民家から出た火災で、これら本殿や大講堂をはじめ大部分が灰燼に帰してしまった。そしてその後、長滝白山神社の本殿は大正8年(1919)に、白山長瀧寺は昭和11年(1936)に焼失した大講堂跡に規模を小さくして本堂が再建され、現在に至っている。
『大杉への参拝道近道』:現在の石徹白道の登山口へ行く林道が完成されたのは40年位前で、その折に石徹白の大杉までの420段の階段が新設された。それまでは白山中居神社の裏手から尾根通しに参拝道があり、最初に渡る谷の初河谷、次いで倉谷を渡り、大杉に至った。今この径は毎年7月半ば過ぎに、石徹白の有志により、刈り分けされている。
● 石徹白へ
私はこれまで石徹白へ行ったことがない。金沢からは勝山回りで3時間ばかりとかで、朝9時に家を出た。白峰から谷峠を越えて勝山へ下り、九頭竜川を上流へ、ダム手前の旧和泉村役場から石徹白川に沿って、国道314号線を上流へ向かって進む。此処から石徹白下在所に至る途中にあった旧和泉村の3集落は廃村になり、石徹白まで部落はない。ただ旧村落の跡地は整備されてキャンプ場になっていた。途中から狭い峡谷沿いの一車線の道になる。かなり走って道路が広くなり、山間の峡谷から開けた明るい山地になり、家が点在してくると、そこが石徹白だった。石徹白は40年位前は福井県大野郡石徹白村だったが、昭和の大合併で岐阜県に越県合併し、現在は郡上市白鳥町石徹白となっている。
● 石徹白の大杉
朝は上天気だったのに、石徹白へ着いた頃には曇ってきて、雨もパラついてきた。今度も雨かと気が滅入ったが、とにかく石徹白道の登山口へ向かうことに。上在所の白山中居神社を過ぎると道は狭くなり一車線になる。ここから登山口までは6kmの道のり、途中10台位の車と交差する。登山口には、乗用車が10台位とマイクロバスが1台、車の人皆さん銚子ヶ峰まで行ったとか、バスには運転手と客が2人ばかり残っていて、皆が帰るまで待つとか。雨が降ってきたが、ここまで来たからには、大杉へは雨でも出かけようと、山スタイルに着替え、靴も山靴に履き替えた。石段は420段、段差20cmとすれば84mの高度差、10分程度の登り、この程度なら家内も行くというので一緒に登ることに。この登山口には休憩舎もトイレもあり、水場もある。また休憩舎の脇にはスキーのストックが沢山置いてあり、家内は運転手の方に勧められたとかで、ストックを2本持っていた。その方がよい。私は何時ものステッキである。かなり急な石段、石段は丸い石で組んであるので、雨で滑る。距離は340m、丁度10分で大杉に着いた。家内は歩くと浮腫が出るとかで全く歩いていないが、ここは時間も短く、本人は大丈夫と言っている。幹周り14.5m、樹高25m、樹齢1,800年といわれる国指定の特別天然記念物の大杉である。幹の半分は枯れて、白い樹肌を見せているが、残りでは葉が繁っている。ここは標高1,000mの小さな平になっていて大杉平というそうだ。ここには美濃禅定道の今清水社があった場所でもある。ここから銚子ヶ峰までは5km、ざっと900mの登り、上り3時間、下り2時間である。
● 白山中居神社
登山口から上在所に戻る。ここには20棟ばかりの家があるが、今は常住している人はいないと聞いたが、どうなのだろう。鳥居脇に駐車して参道を本殿へと向かう。大きな川石を組んだ段を下り、長瀧川を渡り、再び丸い川石を組んだ段を上ると拝殿に出る。八千余坪の境内は鬱蒼とした杉の老樹の森、中でも「浄安杉」は目通り12.1mで、この森とともに岐阜県の指定天然記念物になっている。そして一番高みには本殿があり、御祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神で、祀られたのは景行天皇12年(83)とのことである。その後元正天皇の養老年間(717-724)に、泰澄大師が白山開山の折に社殿を修復、社域を拡張し、神仏混交となった。そして江戸時代には、神職に関わる人は二百余戸にも達したという。その後明治になっての神仏分離では、仏像などは中在所に建立された「大師堂」に安置された。また鴛谷さんでは、神宮・神社の参道で、途中で川を渡るのは、日本広しと言えども、伊勢神宮とここ白山中居神社のみとかである。
● 満天の湯
今晩泊まる宿の主人は法事とかで、3時半過ぎにお出で下さいとのこと、神社を出たのが午後2時過ぎ、それで宿の主人も推奨の「満天の湯」へ向かうことにする。この天然温泉は国道314号線の桧峠近くにあり、標高は1,000mばかり、泉質はナトリウムー炭酸水素塩温泉で、源泉温度44.0℃、湧出量は134ℓ/分、本館には露天風呂、内風呂、サウナがあるほか、個室の露天風呂が10室ある。ここで1時間ばかり過ごす。土日祝日は午後9時まで営業しているので、夜は満天の星を見ながらの入浴も可能である。
● 民宿おしたに
午後4時に今宵の宿「民宿おしたに」へ向かう。鴛谷さんからは、水道工事をしているので迂回しなければならず、もし分からない時は連絡して下さいとのことだったが、日曜は工事をしてなくて、頂いた地図どおりに行くことができた。
主人の鴛谷さんは、白山室堂の厨房に33年間おいでたとのこと、沢山の方をご存知で家の前で初にお会いしたとき、木村先生には特に懇意にしてもらいましたという話が飛び出た。その木村さんは実は私の叔父ですと話したら、びっくりされていた。外での話しに花が咲いての立ち話、話題が次から次へと、奥さんに促されて漸く中へ入った。来週の土日は、恒例の室堂友の会の集まり(室堂職員と金大医学部の白山診療班で構成)がここでであるとか、20人ばかりがお集まり、私の知っている人も何人か入っている。
● 鴛谷さんから聞いた話
以下に聞いたことなどを、思いつくままに記してみる。
『美濃馬場』:平安時代の天長9年(832)に、白山には三つの馬場(加賀・越前・美濃)が開かれ、加賀馬場・白山中宮、越前馬場・平泉寺と並んで、美濃馬場・白山中宮長滝寺は、長滝から石徹白の白山中居神社を経て、白山に登拝する美濃禅定道の拠点として発展した。その後白山信仰の隆盛とともに、美濃馬場は三馬場の内では最も栄え、石徹白の地も重要性を増し、最盛期には「上り千人・下り千人・宿に千人」と言われるほどの賑わいを見せた。しかし蓮如上人による浄土真宗の布教により、末寺の転宗が相次ぎ、往年の勢いは失われつつあったが、それでも文政8年(1825)には再建後五百年を経た大講堂が改築され、盛大な上棟遷座法要が営まれた。だが、明治維新の際に発せられた神仏分離令により、それまでの白山中宮長滝寺は解体され、大御前・別山・大汝と他の末社は長滝白山神社に、大講堂と諸堂各坊は白山長瀧寺(ちょうりゅうじ)となった。ところが明治32年(1899)に近隣の民家から出た火災で、これら本殿や大講堂をはじめ大部分が灰燼に帰してしまった。そしてその後、長滝白山神社の本殿は大正8年(1919)に、白山長瀧寺は昭和11年(1936)に焼失した大講堂跡に規模を小さくして本堂が再建され、現在に至っている。
『大杉への参拝道近道』:現在の石徹白道の登山口へ行く林道が完成されたのは40年位前で、その折に石徹白の大杉までの420段の階段が新設された。それまでは白山中居神社の裏手から尾根通しに参拝道があり、最初に渡る谷の初河谷、次いで倉谷を渡り、大杉に至った。今この径は毎年7月半ば過ぎに、石徹白の有志により、刈り分けされている。
2011年9月8日木曜日
大型ノロノロ台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会(その2)
● OEK第310回定期公演(ファンタジー・シリーズ)
本来この第310回定期公演は、11月3日にショパン作曲ダグラス編曲のバレー「レ・シルフィールド(風の精)」が予定されていたが、福島原発の事故の煽りで来日中止となり、この時期に来日予定だった「ウィーンの歌姫」こと中嶋彰子(ソプラノ)とマティアス・フレイ(テノール)とピアノ伴奏ニルス・ムースの演奏会に変更となった。特にこのバレエ公演は期待していて、ぜひ観たかったのだが、来日中止ともなれば、どうしようもない。原発事故は思わぬところにも重い影響をもたらしている。
さてこの日はニルス・ムースがOEKを指揮した。この指揮者の名を聞くのは初めてだが、彼はデンマーク王立音楽院、カリフォルニア州立大学で指揮を学び、1992~1999年まで、インスブルック・チロル歌劇場で第1指揮者を、1999~2003年まではウィーン・フォルクスオーパーの正指揮者を勤め、ベルリン交響楽団でも客演指揮をしている。
ソプラノの中嶋彰子は1990年の全豪オペラ・コンクールに優勝し、シドニーとメルボルンの両歌劇場と契約、その後1992年のヨーロッパ国際放送連合年間最優秀賞を受賞、1999年にはドイツ・オペルンベルト誌年間最優秀新人賞を受賞し、同年ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約している。これまでオペラ以外でも、メータ、マゼール、小澤征爾らの指揮で各国のオーケストラと共演している。
テノールのマティアス・フレイはミュンヘン工科大学で建築を学んだ後、ウィーン・コンセルトヴァトリウム私立音楽大学で声楽を学び、現在も研鑽を積んでいる若手である。
この日のプログラムはウィーンにまつわる楽しい音楽、冒頭はシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、太った体躯に似合わず軽やかに、しかもダイナミックな指揮をして楽しませてくれた。この後、中嶋さんのインタビューでは英語で会話、彼女の英語は実に流暢で、ネイティブそのもの、指揮者は今日の曲目はみな手の内、皆さんと共に大いに楽しみましょうと仰ってますと伝えてくれた。
次にテノールでモーツアルトの歌劇『コシ・ファン・テゥッテ』から「愛しい人の愛のそよ風は」が歌われたが、声は通るが、未だ歌い方は若いなあという印象を受けた。続いて中嶋彰子がモーツアルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』から「何というふしだらな~あの人でなしは私を欺き」を歌った。聴いて、これは凄いと思った。今、ヨーロッパを席捲しているウィーンの歌姫と言われているというが、これは掛け値なしで本当だと思った。イタリア語の綺麗な発音は勿論のこと、歌唱力、声量、声の艶、どれも卓越していて、実に素晴らしかった。久しぶりに感動した。そして小柄ながら妖艶、しかも演技力も抜群だという。
両名が歌っている間、指揮者は指揮をしながら歌を口ずさんでいるような仕草、やはりもうこれらは手の内なのだろう。だから余裕の指揮振りだ。次いでシュ-ベルトの歌劇『ロザムンデ』から間奏曲第3番アンダンティーノ、間奏曲の中では最もポピュラーな曲、楽しく聴けた。この後中嶋さんはマティアス・フレイにもインタビュー、今度はドイツ語でのやり取り、彼女は英語、ドイツ語、イタリア語に堪能とか、素敵な才女である。
次いでニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』から「さあ早くここへ、才気、陽気な移り気」、今度は歌詞はドイツ語、実に聴いていて楽しい歌い手だ。好色漢をやっつける場面が彷彿とする艶のある歌い方、さすがである。前半の最後はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番、3曲ある中では最もよく演奏される曲、指揮者が指揮を楽しんでいる様子が伝わってくる。
休憩を挟んでの後半はウィーンの音楽、冒頭はモーツアルトの歌劇「魔笛」の序曲、筋書きがハッピーエンドだと、序曲も明るく、楽しく聴ける。またスコアなしで指揮に専念できるということは、実に素晴らしいの一言に尽きる。
次いでテノールで、シュトラウスⅡ世の喜歌劇『ヴェネツィアの一夜』から「来たれ!ゴンドラ」、彼は3階の客席から歌っているのだが、声は音楽堂全体に響き渡って、すごく声量があるように聴こえた。音楽堂の構造によるものなのか、少なくとも舞台で歌っているのとは全く別人のような響きだった。そして済んだ後、あっという間に舞台まで下りてきたのは驚きで、この時の拍手は凄かった。
そして次はソプラノで、レハールの喜歌劇『メリー・ウィドウ』から、あの有名な「ヴィリアの歌」、情感が前面に出た歌いに、場面の情景が目に浮かび、目頭が熱くなってきて涙が落ちそうになった。こんなに心を込めて歌い上げるとは、大した歌手だ。終わって再び指揮者とお喋りをする。この日は聴衆の入りが8割くらいで、舞台から見ると櫛の歯が抜けたように見えるだろうに、来場者に謝意を表するなど、なかなかできることではない。ただ、彼女も日本へは公演の時くらいしか帰れなく、日本語とは疎遠になっているからなのだろうけれど、次に演奏される "Kaiserwalzer"の "Kaiser”は日本語では何というのと聴衆に聞いたのは、おとぼけに映った。これは後でシューベルトの歌曲集でも、同じような聞き方をされたが、本当なのかなと訝った。それは日本語訳では「美しき水車小屋の娘」として知られている歌曲集のことである。
そしてシュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」、シュトラウスのワルツの中でも大変よく演奏される曲だ。次いでデュエットで、ジーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」、やはり彼女がリードする。でも息の合った、踊りも交えての二重唱は、見ていて聴いていて楽しかった。終わって、彼は楽屋からシャンパンの中瓶を持ち出してきて、勢いよく栓を抜き、彼女が持つ盆のグラスに注ぎ、どうするのかと思ったら、客席へ下りて客に提供、7人が恩恵に浴していた。これは次に演奏されるロンビの「シャンパン・ギャロップ」の前座だった。
彼女の演目最後の曲は、レハールの喜歌劇『ロシアの皇太子』から「誰かが来るでしょう」、これも情感がこもった歌いだった。そしてオーケストラの酉は、シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と稲妻」、パーカッションの乗りがよく、実に凄い盛り上がりだった。今日の演奏曲目はすべて十八番なのだろうけれど、最後にこの曲を持ってきたのは、やはり意図してのことだったに違いない。楽しかっただけに、もう少し聴衆が多かったらと悔やまれる公演だった。
一通り公演が終わって、独唱者二人と指揮者が何回か挨拶に出た。聴衆はアンコールを期待してか、拍手は鳴り止まない。時間はもう30分近くもオーバーしている。すると彼女が、明後日にここの邦楽ホールで、指揮者のニルス・ムースのピアノ伴奏で、私達二人のデュオ・リサイタル「金沢歌曲の夕べ」をしますので、皆さん聴きに来て下さいと。そして彼女はアンコールに日本の唄を歌った。曲名は知らないが知っている歌で、「恋はやさし、野辺の花よ、」を歌った。ところが外国人が歌っているような、日本語としては違和感のある感じの歌い方になっているのには驚いた。日本語を喋っている分には全く違和感がないのに、こと歌になると違っていた。また指揮者も公演はすべてスコアなしだったのに、この歌ばかりはそうも行かないらしく、スコアを見ながらの指揮だった。終わってコンサートマスターが次のアンコールのパートを出したので、もう1曲あるのかなあと思ったが、時間がかなり超過していたこともあり、3回挨拶の後は、サヨナラをして公演は終わった。
[閑話休題]
こうして金沢では、9月3日は台風の影響も少なく、無事に過ぎたが、熊野川流域では、未曾有の降雨に伴う土砂災害と洪水とで、未曾有の甚大な被害が出た。また死者と行方不明者は近畿南部を中心に百名を超え、台風被害としては、平成に入っての最悪の状況となっているとか。死者・行方不明者の多くは、急峻な山間での深層崩壊や土石流による家屋の崩壊や流出、また土石流の河川への堆積による流路の変更による家屋の流出等で、特に奈良県十津川流域は、一本しかない道路の国道168号線が、何箇所も土砂堆積や決壊、橋梁の流出で、現地へ入ること自体難しく、かつ電気、通信も途絶している。現在水、食料は自衛隊ヘリによる供給に頼らざるを得ない状況とか、総力挙げての1日も早いライフラインの復旧が望まれる。
本来この第310回定期公演は、11月3日にショパン作曲ダグラス編曲のバレー「レ・シルフィールド(風の精)」が予定されていたが、福島原発の事故の煽りで来日中止となり、この時期に来日予定だった「ウィーンの歌姫」こと中嶋彰子(ソプラノ)とマティアス・フレイ(テノール)とピアノ伴奏ニルス・ムースの演奏会に変更となった。特にこのバレエ公演は期待していて、ぜひ観たかったのだが、来日中止ともなれば、どうしようもない。原発事故は思わぬところにも重い影響をもたらしている。
さてこの日はニルス・ムースがOEKを指揮した。この指揮者の名を聞くのは初めてだが、彼はデンマーク王立音楽院、カリフォルニア州立大学で指揮を学び、1992~1999年まで、インスブルック・チロル歌劇場で第1指揮者を、1999~2003年まではウィーン・フォルクスオーパーの正指揮者を勤め、ベルリン交響楽団でも客演指揮をしている。
ソプラノの中嶋彰子は1990年の全豪オペラ・コンクールに優勝し、シドニーとメルボルンの両歌劇場と契約、その後1992年のヨーロッパ国際放送連合年間最優秀賞を受賞、1999年にはドイツ・オペルンベルト誌年間最優秀新人賞を受賞し、同年ウィーン・フォルクスオーパーと専属契約している。これまでオペラ以外でも、メータ、マゼール、小澤征爾らの指揮で各国のオーケストラと共演している。
テノールのマティアス・フレイはミュンヘン工科大学で建築を学んだ後、ウィーン・コンセルトヴァトリウム私立音楽大学で声楽を学び、現在も研鑽を積んでいる若手である。
この日のプログラムはウィーンにまつわる楽しい音楽、冒頭はシュトラウスⅡ世の喜歌劇「こうもり」序曲、太った体躯に似合わず軽やかに、しかもダイナミックな指揮をして楽しませてくれた。この後、中嶋さんのインタビューでは英語で会話、彼女の英語は実に流暢で、ネイティブそのもの、指揮者は今日の曲目はみな手の内、皆さんと共に大いに楽しみましょうと仰ってますと伝えてくれた。
次にテノールでモーツアルトの歌劇『コシ・ファン・テゥッテ』から「愛しい人の愛のそよ風は」が歌われたが、声は通るが、未だ歌い方は若いなあという印象を受けた。続いて中嶋彰子がモーツアルトの歌劇『ドン・ジョバンニ』から「何というふしだらな~あの人でなしは私を欺き」を歌った。聴いて、これは凄いと思った。今、ヨーロッパを席捲しているウィーンの歌姫と言われているというが、これは掛け値なしで本当だと思った。イタリア語の綺麗な発音は勿論のこと、歌唱力、声量、声の艶、どれも卓越していて、実に素晴らしかった。久しぶりに感動した。そして小柄ながら妖艶、しかも演技力も抜群だという。
両名が歌っている間、指揮者は指揮をしながら歌を口ずさんでいるような仕草、やはりもうこれらは手の内なのだろう。だから余裕の指揮振りだ。次いでシュ-ベルトの歌劇『ロザムンデ』から間奏曲第3番アンダンティーノ、間奏曲の中では最もポピュラーな曲、楽しく聴けた。この後中嶋さんはマティアス・フレイにもインタビュー、今度はドイツ語でのやり取り、彼女は英語、ドイツ語、イタリア語に堪能とか、素敵な才女である。
次いでニコライの『ウィンザーの陽気な女房達』から「さあ早くここへ、才気、陽気な移り気」、今度は歌詞はドイツ語、実に聴いていて楽しい歌い手だ。好色漢をやっつける場面が彷彿とする艶のある歌い方、さすがである。前半の最後はベートーヴェンの序曲「レオノーレ」第3番、3曲ある中では最もよく演奏される曲、指揮者が指揮を楽しんでいる様子が伝わってくる。
休憩を挟んでの後半はウィーンの音楽、冒頭はモーツアルトの歌劇「魔笛」の序曲、筋書きがハッピーエンドだと、序曲も明るく、楽しく聴ける。またスコアなしで指揮に専念できるということは、実に素晴らしいの一言に尽きる。
次いでテノールで、シュトラウスⅡ世の喜歌劇『ヴェネツィアの一夜』から「来たれ!ゴンドラ」、彼は3階の客席から歌っているのだが、声は音楽堂全体に響き渡って、すごく声量があるように聴こえた。音楽堂の構造によるものなのか、少なくとも舞台で歌っているのとは全く別人のような響きだった。そして済んだ後、あっという間に舞台まで下りてきたのは驚きで、この時の拍手は凄かった。
そして次はソプラノで、レハールの喜歌劇『メリー・ウィドウ』から、あの有名な「ヴィリアの歌」、情感が前面に出た歌いに、場面の情景が目に浮かび、目頭が熱くなってきて涙が落ちそうになった。こんなに心を込めて歌い上げるとは、大した歌手だ。終わって再び指揮者とお喋りをする。この日は聴衆の入りが8割くらいで、舞台から見ると櫛の歯が抜けたように見えるだろうに、来場者に謝意を表するなど、なかなかできることではない。ただ、彼女も日本へは公演の時くらいしか帰れなく、日本語とは疎遠になっているからなのだろうけれど、次に演奏される "Kaiserwalzer"の "Kaiser”は日本語では何というのと聴衆に聞いたのは、おとぼけに映った。これは後でシューベルトの歌曲集でも、同じような聞き方をされたが、本当なのかなと訝った。それは日本語訳では「美しき水車小屋の娘」として知られている歌曲集のことである。
そしてシュトラウスⅡ世の「皇帝円舞曲」、シュトラウスのワルツの中でも大変よく演奏される曲だ。次いでデュエットで、ジーツィンスキーの「ウィーン、我が夢の街」、やはり彼女がリードする。でも息の合った、踊りも交えての二重唱は、見ていて聴いていて楽しかった。終わって、彼は楽屋からシャンパンの中瓶を持ち出してきて、勢いよく栓を抜き、彼女が持つ盆のグラスに注ぎ、どうするのかと思ったら、客席へ下りて客に提供、7人が恩恵に浴していた。これは次に演奏されるロンビの「シャンパン・ギャロップ」の前座だった。
彼女の演目最後の曲は、レハールの喜歌劇『ロシアの皇太子』から「誰かが来るでしょう」、これも情感がこもった歌いだった。そしてオーケストラの酉は、シュトラウスⅡ世のポルカ「雷鳴と稲妻」、パーカッションの乗りがよく、実に凄い盛り上がりだった。今日の演奏曲目はすべて十八番なのだろうけれど、最後にこの曲を持ってきたのは、やはり意図してのことだったに違いない。楽しかっただけに、もう少し聴衆が多かったらと悔やまれる公演だった。
一通り公演が終わって、独唱者二人と指揮者が何回か挨拶に出た。聴衆はアンコールを期待してか、拍手は鳴り止まない。時間はもう30分近くもオーバーしている。すると彼女が、明後日にここの邦楽ホールで、指揮者のニルス・ムースのピアノ伴奏で、私達二人のデュオ・リサイタル「金沢歌曲の夕べ」をしますので、皆さん聴きに来て下さいと。そして彼女はアンコールに日本の唄を歌った。曲名は知らないが知っている歌で、「恋はやさし、野辺の花よ、」を歌った。ところが外国人が歌っているような、日本語としては違和感のある感じの歌い方になっているのには驚いた。日本語を喋っている分には全く違和感がないのに、こと歌になると違っていた。また指揮者も公演はすべてスコアなしだったのに、この歌ばかりはそうも行かないらしく、スコアを見ながらの指揮だった。終わってコンサートマスターが次のアンコールのパートを出したので、もう1曲あるのかなあと思ったが、時間がかなり超過していたこともあり、3回挨拶の後は、サヨナラをして公演は終わった。
[閑話休題]
こうして金沢では、9月3日は台風の影響も少なく、無事に過ぎたが、熊野川流域では、未曾有の降雨に伴う土砂災害と洪水とで、未曾有の甚大な被害が出た。また死者と行方不明者は近畿南部を中心に百名を超え、台風被害としては、平成に入っての最悪の状況となっているとか。死者・行方不明者の多くは、急峻な山間での深層崩壊や土石流による家屋の崩壊や流出、また土石流の河川への堆積による流路の変更による家屋の流出等で、特に奈良県十津川流域は、一本しかない道路の国道168号線が、何箇所も土砂堆積や決壊、橋梁の流出で、現地へ入ること自体難しく、かつ電気、通信も途絶している。現在水、食料は自衛隊ヘリによる供給に頼らざるを得ない状況とか、総力挙げての1日も早いライフラインの復旧が望まれる。
2011年9月7日水曜日
ノロノロ大型台風来襲の日、展覧会とそばと音楽会と(その1)
● ノロノロ大型雨台風
平成23年(2011)8月下旬、フィリピン東方海上に台風11号、小笠原南方洋上に台風12号が発生していた。いずれも当初は西へ移動していて、一時は両台風が揃って日本へ訪れるのではという危惧があった。ところが11号は向きが北西に変わったものの、更に北寄りに進路を取ることなく、台湾から中国へと行き、熱低になった。一方の12号は大型に発達し、目の径も50kmとバカでかい台風に成長した。でも進路は相変わらず西もしくは西北西、しかしいつ北方向へ転向するかが問題だった。当初の予報では、石川県への影響は、2日には通り抜けて、3日には天気は回復するとのことだった。ところが後々の弁明では、北太平洋とモンゴルに高気圧があって、行く手を阻まれ、かつ偏西風の流れが悪くて北へ転向できず、四国南洋上でようやく北北西に向きを変えたと。でもこの時暴風域は径500km、強風域は径1,200kmもの大型台風に、中心気圧も960hPaに発達していた。しかも速度は10~15km/hと自転車並み、そのことでこの台風はとんでもない土産をもたらすことになった。
紀伊半島の中央に位置する紀伊山地のうち、奈良県南部を南北に大峰山脈が、それに平行して三重県との県境には台高山脈が走り、前者を源として十津川(上流は天ノ川)が、後者を源として北山川が流れ、いずれの谷も深く、谷筋にはダムが多い。十津川は奈良県から和歌山県へ入り新宮市宮井で、北山川は奈良県から三重・和歌山の県境から「トロ峡」を経て宮井で十津川と合流し、和歌山・三重県境を熊野川(旧名新宮川)となって太平洋の熊野灘に注ぐ。このうち台高山脈の盟主大台ヶ原山は、日本で最も降雨量が多い、世界でも有数の多雨地域として知られている場所である。
台風の四国への上陸は9月3日だったが、南洋上にあるときから進行方向東側に、南から反時計回りの大きな温かい流れがあり、かつ北太平洋の高気圧の縁からも同様に時計回りに吹き出す流れがあり、この二つがぶつかり合って、台高山脈を中心に史上空前の降雨量が記録された。大台ヶ原山の東に位置する三重県大台町(旧宮川村)と西側に位置する上北山村では特に顕著で、後者では年間降雨量2,700mmのうちの2/3にあたる1,800mmが5日間で降ったという。大台町でも1,600mm、十津川村でも1,200mmが降った。そのため山間部では降雨による土砂災害、下流の熊野川では堤防決壊による浸水被害が起きた。この台風の特徴は、大型で速度が遅く、風害よりも台風の進行方向東側の雨雲の異常な発達による猛烈な降雨、時に時間当たりにして100mmを超す降雨が長時間続いたことによる。そして、この降雨は台風が日本海へ抜けた4日にも更に続いたという。被害は近畿南部で特に甚大であった。
● 金沢賛歌!大滝由季生大作展 時空を見つめて大地に立つ
表記展覧会が9月3日(土)~8日(木)の6日間、北國新聞交流ホールで開催されるという案内を大滝さんから頂いた。丁度台風が石川県へ最接近するという情報があり、心配していたが、台風はこの日の未明に高知県へ上陸したとか、金沢の天気は曇り、でも降水確率は50%ということで雨靴を履き傘を持って家を出た。当初の計画では、11時に「やまぎし」へ行きそばを食い、歩いて北國新聞社へ行き、とってかえして音楽堂に戻り、午後3時から今シーズン初のOEK第310回定期公演を聴くことにしていた。バス停は我が家の前にあり、10:19の金沢駅行きに乗る予定をしていた。バスが来て乗ったものの、このバスは遅れてきた小立野行きだった。仕方なく香林坊で下りて、北國新聞社に向かうことに。
交流ホールは赤羽ホールの1階にあり、大滝さんほか20人ばかりの方々が見えていた。大滝さんは4年前に探蕎会で講演されたが、それによると、昭和40年(1965)に文化勲章を授与された田崎広助さんに師事され、薫陶を受けられた。大滝さんのその頃の絵の題材は「山」が多く、これは師の影響を受けてのことだったと思われる。ただ大滝さんの弁では、その絵の中には必ず生活の営みが見えることが大前提、だから純粋に山のみを描いた絵は大滝さんにはない。ずっと一水会に所属されていたが、会で大滝さんの絵を探すには山がターゲットだった。ところが師から、自分が最も愛している郷里の山河や風土を描くようにと言われ、アトリエが寺町のW坂上の高台にあることから、犀川を挟んで見える金沢の町並み、犀川上流に見える医王山や戸室山、そして金沢の街角など、金沢を題材とした作品に取り組まれるようになった。5年前にはそれまで描き続けてこられた「大作百二十点」が金沢21世紀美術館市民ギャラリーで開催されたが、今回は「金沢賛歌」と題して、金沢やその街角の風景を題材にした300号や200号の大作を中心とした絵の展示が主である。以下に展示された作品の名称と制作年をメモした。順は制作年順である。
交流ホールの入り口には薔薇をあしらった画が4点置いてあった。 (1)「薔薇」(2007)6号F. (2)「薔薇の饗宴」(2008)120号. (3)「窓辺の薔薇」(2008)10号F. (4)「白い壷のばら」(2009)8号F.
交流ホールの展示作品: (1)「鳥小屋のある露地」 (1965)50号F. (2)「屋台のある街角」 (1966)80号F. (3)「辰巳用水の雪」 (1967)50号F. (4)「ポスターの前」 (1967)100号F. (5)「犀川夕照」 (1987)100号P. (6)「桜坂の月」 (1989)50号F. (7)「けむる医王」 (1991)100号F. (8)「戸室への道」 (1997)100号F. (9)「五月の高台」 (2001)100号F. (10)「神苑」 (2002)50号F. (11)「浅野川の雪」 (2003)100号F. (12)「戸室山と街と」 (2005)150号F. (13)「県都悠久」 (2005)300号P. (14)「画室の桜」 (2008)50号F. (15)「街道筋の老舗」 (2006)60号F. (16)「初春の賑わい広場」 (2007)60号F. (17)「画室の窓」 (2008)50号F. (18)「杜の都」 (2008)300号P. (19)「いいね金沢」 (2009)60号F. (20)「森の都に虹」 (2009)200号P. (21)「坂の上のかざみどり」 (2010)60号F. (22)「六月の涼風」 (2011)60号F. (23)「卯辰山の華の宴」 (2011)300号P. 以上23点。
この展示には、半世紀近く前の初期の作品も出品されているが、当初はモノトーンであった画が、次第に色彩が華やかになり、300号という大作でも細部にわたって筆を入れられ、金沢のエッセンスが凝縮されているというような印象を受ける。そしてここ3年位前からは、絵の具を盛る技法を用いることにより、より立体的な感覚を持たせた豪華な作品に仕上がっている。最後の300号の作品は、ミレー友好協会展での受賞作である。
大滝さんは昭和4年(1929)生まれの81歳、これからも絵を描き続けると、そして特に変貌していく金沢の古き良さを画に残しておきたいと仰る。現在、石川県美術文化協会理事・日展会友・元一水会会員(平成20年退会)・ミレー友好協会委員である。
● 蕎麦「やまぎし」
開店は11時半なのだが、いつも11時に入るようにしている。この時間だとまだお客は来ておらず、確実にジッツできるからである。新聞社を出たのが11:10、すぐにバスに飛び乗って「やまぎし」へ、11:25だった。バスを降りたら前の駐車場は満タン、これは遅かったか、もし一杯なら諦めようと思って入ったら、私が最初だった。もっとも開店時間には席は埋まってしまった。久しぶりである。券売機には焼酎、お酒、ビール、ノンアルコールの表示もあるようになっていて、こんなオプションも付加できるのだなと感心する。焼酎(100ml)2杯と「粗挽き大盛り」を求めた。満席の皆さんも粗挽きばかりなのには驚いた。奥さんはこれまでは水曜のみのお出ましの筈なのにおいでるので聞くと、開店時からおいでた女の方が辞められ、代わりの方の応援だとか。この焼酎には粗挽きが実に似合う。お客さんは大概30分程で回転するが、私は45分位だ。待つ人もあり、出ることに。演奏会は15:00から、音楽堂のカフェテリアで時間をつぶそう。
平成23年(2011)8月下旬、フィリピン東方海上に台風11号、小笠原南方洋上に台風12号が発生していた。いずれも当初は西へ移動していて、一時は両台風が揃って日本へ訪れるのではという危惧があった。ところが11号は向きが北西に変わったものの、更に北寄りに進路を取ることなく、台湾から中国へと行き、熱低になった。一方の12号は大型に発達し、目の径も50kmとバカでかい台風に成長した。でも進路は相変わらず西もしくは西北西、しかしいつ北方向へ転向するかが問題だった。当初の予報では、石川県への影響は、2日には通り抜けて、3日には天気は回復するとのことだった。ところが後々の弁明では、北太平洋とモンゴルに高気圧があって、行く手を阻まれ、かつ偏西風の流れが悪くて北へ転向できず、四国南洋上でようやく北北西に向きを変えたと。でもこの時暴風域は径500km、強風域は径1,200kmもの大型台風に、中心気圧も960hPaに発達していた。しかも速度は10~15km/hと自転車並み、そのことでこの台風はとんでもない土産をもたらすことになった。
紀伊半島の中央に位置する紀伊山地のうち、奈良県南部を南北に大峰山脈が、それに平行して三重県との県境には台高山脈が走り、前者を源として十津川(上流は天ノ川)が、後者を源として北山川が流れ、いずれの谷も深く、谷筋にはダムが多い。十津川は奈良県から和歌山県へ入り新宮市宮井で、北山川は奈良県から三重・和歌山の県境から「トロ峡」を経て宮井で十津川と合流し、和歌山・三重県境を熊野川(旧名新宮川)となって太平洋の熊野灘に注ぐ。このうち台高山脈の盟主大台ヶ原山は、日本で最も降雨量が多い、世界でも有数の多雨地域として知られている場所である。
台風の四国への上陸は9月3日だったが、南洋上にあるときから進行方向東側に、南から反時計回りの大きな温かい流れがあり、かつ北太平洋の高気圧の縁からも同様に時計回りに吹き出す流れがあり、この二つがぶつかり合って、台高山脈を中心に史上空前の降雨量が記録された。大台ヶ原山の東に位置する三重県大台町(旧宮川村)と西側に位置する上北山村では特に顕著で、後者では年間降雨量2,700mmのうちの2/3にあたる1,800mmが5日間で降ったという。大台町でも1,600mm、十津川村でも1,200mmが降った。そのため山間部では降雨による土砂災害、下流の熊野川では堤防決壊による浸水被害が起きた。この台風の特徴は、大型で速度が遅く、風害よりも台風の進行方向東側の雨雲の異常な発達による猛烈な降雨、時に時間当たりにして100mmを超す降雨が長時間続いたことによる。そして、この降雨は台風が日本海へ抜けた4日にも更に続いたという。被害は近畿南部で特に甚大であった。
● 金沢賛歌!大滝由季生大作展 時空を見つめて大地に立つ
表記展覧会が9月3日(土)~8日(木)の6日間、北國新聞交流ホールで開催されるという案内を大滝さんから頂いた。丁度台風が石川県へ最接近するという情報があり、心配していたが、台風はこの日の未明に高知県へ上陸したとか、金沢の天気は曇り、でも降水確率は50%ということで雨靴を履き傘を持って家を出た。当初の計画では、11時に「やまぎし」へ行きそばを食い、歩いて北國新聞社へ行き、とってかえして音楽堂に戻り、午後3時から今シーズン初のOEK第310回定期公演を聴くことにしていた。バス停は我が家の前にあり、10:19の金沢駅行きに乗る予定をしていた。バスが来て乗ったものの、このバスは遅れてきた小立野行きだった。仕方なく香林坊で下りて、北國新聞社に向かうことに。
交流ホールは赤羽ホールの1階にあり、大滝さんほか20人ばかりの方々が見えていた。大滝さんは4年前に探蕎会で講演されたが、それによると、昭和40年(1965)に文化勲章を授与された田崎広助さんに師事され、薫陶を受けられた。大滝さんのその頃の絵の題材は「山」が多く、これは師の影響を受けてのことだったと思われる。ただ大滝さんの弁では、その絵の中には必ず生活の営みが見えることが大前提、だから純粋に山のみを描いた絵は大滝さんにはない。ずっと一水会に所属されていたが、会で大滝さんの絵を探すには山がターゲットだった。ところが師から、自分が最も愛している郷里の山河や風土を描くようにと言われ、アトリエが寺町のW坂上の高台にあることから、犀川を挟んで見える金沢の町並み、犀川上流に見える医王山や戸室山、そして金沢の街角など、金沢を題材とした作品に取り組まれるようになった。5年前にはそれまで描き続けてこられた「大作百二十点」が金沢21世紀美術館市民ギャラリーで開催されたが、今回は「金沢賛歌」と題して、金沢やその街角の風景を題材にした300号や200号の大作を中心とした絵の展示が主である。以下に展示された作品の名称と制作年をメモした。順は制作年順である。
交流ホールの入り口には薔薇をあしらった画が4点置いてあった。 (1)「薔薇」(2007)6号F. (2)「薔薇の饗宴」(2008)120号. (3)「窓辺の薔薇」(2008)10号F. (4)「白い壷のばら」(2009)8号F.
交流ホールの展示作品: (1)「鳥小屋のある露地」 (1965)50号F. (2)「屋台のある街角」 (1966)80号F. (3)「辰巳用水の雪」 (1967)50号F. (4)「ポスターの前」 (1967)100号F. (5)「犀川夕照」 (1987)100号P. (6)「桜坂の月」 (1989)50号F. (7)「けむる医王」 (1991)100号F. (8)「戸室への道」 (1997)100号F. (9)「五月の高台」 (2001)100号F. (10)「神苑」 (2002)50号F. (11)「浅野川の雪」 (2003)100号F. (12)「戸室山と街と」 (2005)150号F. (13)「県都悠久」 (2005)300号P. (14)「画室の桜」 (2008)50号F. (15)「街道筋の老舗」 (2006)60号F. (16)「初春の賑わい広場」 (2007)60号F. (17)「画室の窓」 (2008)50号F. (18)「杜の都」 (2008)300号P. (19)「いいね金沢」 (2009)60号F. (20)「森の都に虹」 (2009)200号P. (21)「坂の上のかざみどり」 (2010)60号F. (22)「六月の涼風」 (2011)60号F. (23)「卯辰山の華の宴」 (2011)300号P. 以上23点。
この展示には、半世紀近く前の初期の作品も出品されているが、当初はモノトーンであった画が、次第に色彩が華やかになり、300号という大作でも細部にわたって筆を入れられ、金沢のエッセンスが凝縮されているというような印象を受ける。そしてここ3年位前からは、絵の具を盛る技法を用いることにより、より立体的な感覚を持たせた豪華な作品に仕上がっている。最後の300号の作品は、ミレー友好協会展での受賞作である。
大滝さんは昭和4年(1929)生まれの81歳、これからも絵を描き続けると、そして特に変貌していく金沢の古き良さを画に残しておきたいと仰る。現在、石川県美術文化協会理事・日展会友・元一水会会員(平成20年退会)・ミレー友好協会委員である。
● 蕎麦「やまぎし」
開店は11時半なのだが、いつも11時に入るようにしている。この時間だとまだお客は来ておらず、確実にジッツできるからである。新聞社を出たのが11:10、すぐにバスに飛び乗って「やまぎし」へ、11:25だった。バスを降りたら前の駐車場は満タン、これは遅かったか、もし一杯なら諦めようと思って入ったら、私が最初だった。もっとも開店時間には席は埋まってしまった。久しぶりである。券売機には焼酎、お酒、ビール、ノンアルコールの表示もあるようになっていて、こんなオプションも付加できるのだなと感心する。焼酎(100ml)2杯と「粗挽き大盛り」を求めた。満席の皆さんも粗挽きばかりなのには驚いた。奥さんはこれまでは水曜のみのお出ましの筈なのにおいでるので聞くと、開店時からおいでた女の方が辞められ、代わりの方の応援だとか。この焼酎には粗挽きが実に似合う。お客さんは大概30分程で回転するが、私は45分位だ。待つ人もあり、出ることに。演奏会は15:00から、音楽堂のカフェテリアで時間をつぶそう。
2011年9月1日木曜日
『ドンキホーテの弁解』を読んで
『ドンキホーテの弁解』 One Word Too Many Again 永坂鉃夫著 前田書店 1,000円 (2002)
私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第2作から第4作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第1作の読後感が手元にない。そこで改めて第1作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から9年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。
以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。
1.羊歯への思い
先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。
コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。
春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。
ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。
先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。
2.世界の蕎麦
確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。
語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。
一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。
3.偉人の名前
先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「 」、古字は金偏に夷である。このように前者は金+矢、後者は金+失で、元は金+夷であり、成因が違うようです。
ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。
4.恩師の蔵書
先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で2期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子?達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。
さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。
本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。
5.修道士カドフェル
先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。
6.木ときのこ
この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も4割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。
毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。
木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。
7.ドンキホーテの八つ当たり
①マスコミのお言葉:NHKが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。 ②カタカナ語のアクセント:日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。 ③外国語の案内:交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。 ④たらいまわし:役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。 ⑤マナーと国際語:「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。 ⑥仕方がないは国を滅ぼす:老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。 ⑦医の倫理:医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。
私のワープロには、永坂先生の随想のドンキホーテ・シリーズの第2作から第4作の、いわゆる読後感を記したものが残っている。その読後感を「晋亮の呟き」に再録しようと思ったのだが、何故か第1作の読後感が手元にない。そこで改めて第1作の『ドンキホーテの弁解』を読み返して、読後感を書こうと思う。先生からご恵送頂いて御礼申し上げなかったことはないと思うのだが、何せ手元に残っていないこともあって、緊急に対応しようとした。ただ発行から9年を経ていて、あの時の印象と現在の印象とでは読後感に差が生じていると思われるが、それは止むを得ないのではと思っている。
以下の拙い読後感を、敬愛する永坂先生に捧げる。
1.羊歯への思い
先生が羊歯に一時大変熱中され、採集に営林署の許可を貰われて国立公園内で採集されたとあるのは、単なる収集でなく、学問的な裏付けのある実績がないと許可されない筈です。私の叔父も羊歯ではないのですが、同様の採集許可を貰って白山での植物調査に当たったことがあり、私も同行したことがありますが、やはり半端ではありませんでした。先生は夢中になられていたとありますが、もう一端の羊歯の権威にまで昇華されていたように思えます。私も一時羊歯に興味を持ち標本作りに励みましたが、とても横綱と褌担ぎ程の差があるようです。私も日本シダの会が編纂した東大出版会発行の本を持っていますが、十分な活用をしたわけではありません。先生が長崎の鳴滝で見られた珍しい羊歯がヨーロッパではごくありふれた種類とのこと、先生の推理は的を射てるかも知れません。
コケシノブは可愛い羊歯ですが、属名が Hymenophylum というのは、葉が一層で薄く、光を透過する様が、何とも初々しいからでしょうか。英名は filmy fern だそうです。あの浅い緑色はクジャクシダの淡い緑色に似てませんか。
春には先生お手摘みのクサソテツの若芽のコゴミをお届け下さり有り難うございます。大事にもっぱら天ぷらにして食べるのですが、何か保存方法があるのでしょうか。昔は裏の背戸にも生えていましたが、環境の変化からか、なくなってしまいました。そういえば、コンテリクラマゴケ rainbow fern も消えました。食用羊歯では古くからゼンマイは保存食でしたが、近頃はワラビも塩蔵して保存できるようです。羊歯の虫食いは余り見ませんが、先生は噛まれて何か薬用成分がと仰っていますが、薬学分野では余り興味を示す人がいないのは残念で、案外と盲点なのかも知れません。昔一時城内移転した生薬学教室の裏手にコタニワタリが生えていましたが、あのクルッとしたオオタニワタリの新葉を食べられたとか、うまいんでしょうね。でも内地ではできない相談です。
ヒカゲノカズラ、昔は詰め物によく使いましたが、あんなに沢山の量をどこから仕入れたのか不思議でした。山ではよく見かけますが、先生が言われるように、敷き詰めたように生えているのは見たことはありません。でも、あるところにはあるようですね。そしてあの黄色い花粉のような胞子、私たちも物理の実験で使いました。
先生のお母さんの実家、昔は竹薮や雑木林が広がる田舎だったとか、あっという間に竹薮や雑木林がなくなり、田圃が埋め立てられ、殺風景な街並みに変わってしまったようですね。核家族化がそれを助長しているのでは。ところで私が住む野々市町で竹薮のあるのは小生宅のみになりました。まだホウチャクソウやアオマムシグサが健在です。シケチシダ、ベニシダ、ゼンマイ、チャセンシダもいます。でも消えた植物も沢山あります。本文に出てくるドンドロベはジャノヒゲのことじゃないでしょうかね。
2.世界の蕎麦
確かに世界の蕎麦情報はかなり貧困で、産出量にしても蕎麦を輸出している国のデータしか出てきませんし、喫食状況にしても断片的な記載にしか接していません。先生が国内にある各国の大使館に質問状を出されたのは正に画期的なことですが、対応は実にお粗末ですね。おそらく温帯域であれば蕎麦は栽培されていると思われますが、マイナーな食物であれば、国としての把握がないことは十分考えられることです。食形態にしても、麺形態で食べるというのは恐らく少ないでしょうね。でも少なくとも蕎麦にまつわる言葉が現存していれば、蕎麦に野生はありませんから、栽培されていたということは十分考えられますね。一部でもその成果をお纏めになっては如何でしょうか。
語源的には、蕎麦の実がブナの実と似ているとするのが学名以外にもあるとすると、少なくともその地域に居住する人は、ブナの実を知っていなければならないことになりますね。だからブナ林がない地域では、ブナに因んだ名称が出てこないのは当然とも言えます。「〇〇の小麦」という言い回しは、それを物語っていると言えそうですね。日本でも「くろむぎ」と呼ばれ、源順の『倭名類衆抄』十七巻には「久呂無木」との訓読がみられ、漢名の俗称「烏麦」にも通じると新島繁の「蕎麦の事典」にあります。
一つ気になったことがあります。本文に、赤花、白花、黄花が互い違いに植えられていたりすると、眺めてどれほど美しい景色になるだろうとありますが、ダッタンそばは別として、白と赤は交配しますので、風媒花でもあり、一緒の作付けは多分出来ない相談と思います。
3.偉人の名前
先生の名前のテツヲのテツは金偏に矢と書く鉃ですが、この字は通常のパソコンでは出てこない字です。私のワープロでは合成できます。いま私の手元にある大修館の漢語新辞典という中辞典をを見ますと、金偏に矢と書く「鉃」は、漢音ではシ、呉音ではジ、ただ日本では鉄の俗字でテツとも読めるとあり、字義は、①やじり。とあります。一方「鉄」は、漢音ではテツ、呉音ではテチで、字義は、①てつ、くろがね。②武器、刃物。③かね、かなもの。④他の語の上につけて、堅い・強い・正しいなどの意を表す。とあり、旧字体は「 」、古字は金偏に夷である。このように前者は金+矢、後者は金+失で、元は金+夷であり、成因が違うようです。
ポンペ先生については、広辞苑では、先生が間違いとされる Jonnkeer Johannes Lydius Catharinus Pompe van Meerdervoort とありました。戸籍は外国では全くないのでしょうか。それにしても、称号や洗礼名や出身地などが付いたものが本名となるのは、往々にしてあることなのでしょうか。でもポンペがあだ名でなく本名に落ち着いたようですね。あの作曲家のメンデルスゾーンも本名は実に長ったらしいものでした。
4.恩師の蔵書
先生が恩師中の恩師と言われる高木健太郎先生、参議院議員で2期目の途中でお亡くなりになりましたね。献体法の制定に関わった方とありましたが、高木先生自身献体されたのではなかったでしょうか。私が知っているのはその程度ですが、研究者として教育者として、その発想が独創的なのは、高木先生の旺盛な好奇心のなせる業とか、弟子?達は戸惑うかも知れませんが、後になってみれば、それが大いなる財産になったことになるのでしょうね。門下生の方々は実に素晴らしい時空を持たれたものです。後に「やぶにらみの生理学」が出版されたのも、当然の帰結のような気がします。
さて、高木先生が残された膨大な蔵書のこと、先生が最後の整理をなさったとのことでしたが、ケリはついたのでしょうか。というのも、私の叔父は経営工学の草分けで、大学教授をしていて、その木村ゼミからは大学教授や国会議員、大会社の経営者などを多く輩出していて、争議には70人ばかりが来てくれました。沢山の蔵書があり、私は在籍していた大学に引き取って頂けないかと掛け合い、その時は快諾を得たのですが、後で組織としては困難ということになり、結果的には大部分がゴミとして処分されました。没後では、蔵書の処理というのは大変だということが分かりました。本というゴミは、通常のゴミより費用がずっと割高だとか、けったいなことなのですが、門外漢には本当にゴミなんでしょうね。
本の題名についた「やぶにらみ」という形容語、病名を表していないのは明白なのに、何をいちゃもんつけるのですかね。言葉そのものを抹殺するというのは正にファッショです。馬鹿の一つ覚えもいいとこです。でも病名は転換が多いですね。認知症という語を考えた人は自画自賛してるとのことですが、新しい差別語もどんどん作られているのに、これにもどんどん対応してほしいものです。先生の主張は的を射てます。「婦人」という語も差別語とか。ふざけています。
5.修道士カドフェル
先生は表題が主人公で、シュルスバリの修道院を主な舞台としたミステリー・シリーズに取りつかれ、日本で評判になる前から愛読され、実物に接されていないにもかかわらず、登場する事物が頭の中でリアルに描写されるまでになられました。こうなると、機会あれば訪ねてみたいという気持ちが募るのも、自然の成行きなのでしょう。でも本当に実現されたのには脱帽です。それで空想の世界と現実の世界とは異なっていたとしても、先生は訪ねなかった方が良かったかも知れないと仰っていますが、それは結果であって、一度は訪れないと気が済まなかったでしょうね。それにしても、舞台となった町がダーウィンの生まれた町だったとは、先生ご存知だったのでしょうか。
6.木ときのこ
この章を読むと、先生の博識と果てしない空想力に感心せずにはおれません。キノコはこちらでは通常コケと言ってますが、ミズゴケやスギゴケもコケです。ただコケ採りと言えば、対象はキノコです。私は採りに行く時は、必ず達人と行きます。採った茸も4割以上が毒か雑ですから、素人判断は禁物です。タマゴタケが味第一級とありますが、分かっていても採らないし食べないでしょう。それはベニテングタケが猛毒で、それに似ているからです。ムスカリンはその毒成分ですが、作用が拮抗するアトロピンはベラドンナや日本に自生するハシリドコロに含まれるアルカロイド、学生のときにはそのハシリドコロのノルヒヨスチアミンの精製に奮闘しました。しかし毒物を扱ったミステリーはあって当然でしょうし、現に事件としても起きてますね。
毒々しい色をした生物には触手が延びないのは人間様だけではないのですね。しかし警戒色である一方で、誘因色でもあるのではないでしょうか。落葉樹の芽鱗のほんのりとした紅色に合目的的な意味があったとは初めて知りました。
木に霊が宿るという念は私もそう思います。特に巨樹に出会うと、その樹には神が宿っているような気がします。巨樹の会には、発会したときの会長の里見先生とは懇意にして頂いていたこともあって、会員にはなっていますが、亡くなられてからは活動しない会員です。探蕎会でも寺田先生以下何人かが所属されているようです。今夏二度も国指定の特別天然記念物の石徹白の大杉への対面を逃してしまいましたが、せめて今年中には大杉だけにでも面会したいと願っています。仏師は樹の霊を信じ、そして魂を吹き込むと言いますが、敬虔になれば、万物に霊が宿ると思うようになるのではないでしょうか。
7.ドンキホーテの八つ当たり
①マスコミのお言葉:NHKが自局の番組のナレーターの話し方の暴走に物申せないとは、ならば話し方教室など止めてしまえと言いたいですね。しかし勇気ある先生の矛先をよくぞかわしましたね。 ②カタカナ語のアクセント:日本語のカナは便利で、どんな外国語もカナに変換できますが、どっこいアクセントは原語とは似ても似つかないものになっていますが、この矯正を教育の対象にするのは、難問ですね。 ③外国語の案内:交通法規ほか、規則が国によって違うことは、よく外国へ行かれる先生はよくご存知なのでしょうが、個人の判断で「良い」が「悪い」となると、頭が混乱します。金沢でも外国語の説明文や案内文があっても、採点が「可」ではね。 ④たらいまわし:役人というのはとかく責任の所在を曖昧にするのが本分、「たらいまわし」は日常茶飯事の常套手段です。役人は権力にはへいこらするが、一市民の申し出なぞ善処しますでお終いです。 ⑤マナーと国際語:「自分にされて嫌なことを他人にしない」というのは鉄則でしょうが、とかく外国語を喋られるようになると天狗になってしまい、私は偉いのだと勘違いし、とかくマナーは二の次になってしまう。 ⑥仕方がないは国を滅ぼす:老人や障害者に席を譲るのに出くわすと、何とも爽やかな気になる。でも中には老人優先席に座っていながら席を譲らない若者もいる。でもそれを注意するには大変な勇気が要る。 ⑦医の倫理:医の倫理などあってなきが如しでしょう。医師のあるべき姿が「安逸を思わず、名利を顧みず、唯己を捨て人を救わんことを希ふべし」だとしても、実践される方は少ないのではないでしょうか。
2011年8月25日木曜日
人と微生物との関わり
平成9年(1997)4月29日に金沢市で開催された石川県栄養士会の総会において、表記表題でもって特別講演を行なったが、以下はその時の講演要旨である。十数年を経て、若干違和感が無きにしも非ずだが、「晋亮の呟き」に再掲する。
微生物というと、黴菌、伝染病、食中毒という悪いイメージを連想することが多い。事実、微生物の仕業と分かる以前にも、人類は天然痘、ペスト、コレラ等の伝染病に悩まされ、その原因が未知だっただけに、神がかりなものとして極度に恐れられてきた。食中毒にしても、これは有史以前からあったに違いなく、微生物によるものばかりではなく、経験的に、どういうものが食べられ、どういう状態が安全であるのか、またどういうものが有毒で、どういう状態になると食べられなくなるのかを、長い年月をかけて会得してきた。
しかし一方で、これも微生物の仕業と分からなかったまでも、人はおろか猿までもが、酒を醸しだす技術を身に付けるようになったが、これは微生物の有用な利用の一方の旗頭として、我々人類にとってはなくてはならないものとなっている。
ところで、微生物学という学問は、伝染病の原因究明という大義名分のもと、病原微生物学として発展してきた。しかし、人にとって病原微生物といった場合、この一群の微生物は、とりもなおさず人の体温、すなわち37℃近辺を最も至適温度として増殖できることが最大の条件であり、大部分の病原微生物はこの範疇に入っている。しかしながら、このようないわゆる中温菌といわれる一群の菌群は、全体の微生物からすれば極めて少ない一握りでしかなく、大部分の微生物は自然界に広く分布している。そしてその生息する場所は極めて多様で、地中深くにも、気温が高い乾燥した砂漠にも、一年中氷で覆われている南極大陸にも、90℃を超える非常に高温な温泉の中にも、水深1万mを超す海底にも微生物は生息している。そしてこの自然界には、我々が未だ知らない微生物が、かなりの数存在しているであろうことは、十分予想されることである。
我々は微生物の洪水の中で生活をしていると言っても過言ではない。土の中、水の中、空気中等の環境、我々人体の表面、口、鼻、喉、消化管、生殖器等、外気と接しまたは通じている器官には、夥しい数の微生物が常在している。このような微生物の一群はノーマル・フローラ:正常細菌叢と呼ばれているが、平常は我々にとって不都合なことはほとんどなく、かえってこのようなフローラのない方の害の方が遥かに大きく、人の場合でも、大部分のノーマル・フローラは宿主である人と共存共栄、すなわち「共生」している。
我々にとって、食品や食材の腐敗は好ましいことでないばかりか、病気の一因となる。しかし、これら自然界に無数に存在する微生物は、自然界にとってはなくてはならない存在である。物質の輪廻を考えてみると、植物は無機体から有機体を形成するが、有機体を無機体にすることは出来ない。また動物は人も含め、有機体を利用し、有機体を排泄している。すなわち、動物も植物も有機体から構成されているが、有機体を無機体にする能力を持ち合わせてはいない。ということは、もしこの世の中に微生物、とりわけ有機物を利用する細菌が存在しなかったら、有機体のみが蓄積されることになり、地球上は夥しい量の動植物の屍骸と糞尿とで覆い尽くされてしまうことになる。人がもし有機体を無機体にしなければならないとしたら、燃焼以外に方法は見当たらない。このように微生物の環境浄化力は人智を遥かに超えている。
さて、我々の日常生活を見回してみても、微生物の恩恵に浴していることが如何に多いかに気付くはずである。発酵食品としての酒類(アルコール飲料)、味醂、食酢、大豆製品の味噌、醤油、納豆、水産加工品の鰹節、なれ寿し、くさや、塩辛、魚醤、乳製品としてのバター、チーズ、ヨーグルト、乳酸菌飲料、そのほかにも、パンや漬物、紅茶やウーロン茶等々、我々が口にするもので、微生物の恩恵に浴しているものは枚挙にいとまがない。また、酵素、ホルモン、ビタミン、抗生物質、ステロイドのほか、アルコール類、有機酸類、アミノ酸等も、その製造はまだまだ微生物に依存しているウェイトが高い。一方で、厄介ものの難分解性の合成洗剤、プラスチック、PCB,あるいはタンカーから流失した重油の後処理に、微生物による生分解が期待されていて、既に一部は実用化されている。このように、微生物は昼夜を分かたずに働き続けてくれ、もっと英知を傾ければ、我々人類はまだまだ微生物に頼れる部分が多くあるのではなかろうか。
さて、抗生物質やワクチンの普及、栄養や環境の改善、衛生思想の敷衍等によって、人類は伝染病の恐怖から解放され、もはや伝染病は過去のこととして我々の脳裏から忘れ去られようとしている。確かに、恐れられた天然痘(痘瘡)は、1980年には地球上から根絶されてしまったし、日本でも、戦前は多かったコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ジフテリア等の伝染病は、皆無かもしくは極端に減少してしまった。ところが一方で、日本では発生が見られなくなったトラホームは、中国や東南アジアでは未だ重要な疾患であり、これによる失明者もまだまだ数多い。また発展途上にある国々では、3人に1人は感染症で亡くなっていると言われており、WHOの統計でも、1995年の死亡者数は約1,700万人に達したと報じられている。
現代医学は感染症の制圧に成功したかのような錯覚を感じさせていた時、突如として、先進国でも今まで経験したことがなかったような感染症が人類に襲いかかってきた。1981年に忽然として現れたエイズ:後天性免疫不全症候群を初めとして、新しい感染症が次々と現れてきた。日本でも1996年に大流行した腸管出血性大腸菌O157については未だ記憶に新しい。このように新しく我々の目の前に出現した感染症をエマージング・ディシーズ:新興感染症と呼んでいる。何故このような新しい感染症に我々は遭遇したのだろうか。一説に、20世紀後半の世界人口の急激な増加は、食料増産のために未開の土地を開かざるを得ない状況を作り出し、それに伴う環境破壊によって、これまで人類が知らなかった未知の新しい病原体と遭遇したと予測する人もいる。ともあれ致死性の高い新型の感染症が人類を苦しめることとなる。特にアフリカ奥地、アマゾン流域は、生態系が多様なことで知られているが、一方で病原体が潜む絶好の場所でもある。致死性の高いエボラ出血熱、マールブルグ病、ベネズエラ出血熱等しかりである。このほかにも、英国で起きた狂牛病、その病原体はプリオンと言われているが、クロイツフェルト。ヤコブ病との関連も取り沙汰されていて、牛から人への感染とも相まって、恐怖感が払拭されないでいる。これら新しい感染症は確たる治療法が確立されているわけではなく、またその感染のメカニズムも解明されていないのが現状である。
さて一方で、古くて新しい感染症、リエマージング・ディシーズ:再興感染症も疎かにはできない。インフルエンザは毎年流行する身近なウイルス病であるが、その根絶は極めて困難である。人類にとって「最強最後の感染症」と言われる所以は、その変わり身の速さにある。変幻自在に変化し、免疫系の網を潜り抜け、生き残る逞しさには脱帽せざるを得ない。化学療法剤もワクチンも決め手を欠いている。また日本では制圧に成功したかのように見えた結核も、ここ数年は増加の傾向にある。WHO発表の1995年の感染症による死亡者1,700万人の内、結核による死亡者は約300万人と言われ、この数字は結核が世界的に大流行した1900年前後の年間推定死亡者数を大きく上回る史上最悪の数字と言われている。特に米国では、エイズ患者が結核を発病するケースが増えてきており、20~40歳台の患者の増加が問題視されている。1995年には、結核以外にも、世界中でコレラが前年の4倍を超える規模で流行した。新型のベンガル型コレラ菌O139によるものである。日本でもバリ島帰りのコレラ患者多発は未だ耳に新しい。
そのほか、日本では、24時間風呂でのレジオネラ菌による感染、クリプトスポリジウム原虫による大量水系感染、サルモネラ・エンテリティジスによる食中毒の大量発生、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)やVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)等の薬剤多剤耐性菌やセラチア菌等のいわゆる日和見菌による院内感染等々、抗生物質の開発は限界に近いと言われているだけに、不測の事態を起こしかねない状況にある。
地球温暖化も厄介である。病原体を運ぶ吸血昆虫が生息域を拡げ、熱帯域での風土病であったデング熱やマラリアや寄生虫病が、再び温帯域まで拡がってくる恐れもある。
しかし一方で、ワクチンの適切な投与により、今後根絶が期待できる感染症も少なくない。ポリオは1961年の生ワクチン投与以降、日本では患者の発生はほぼ皆無に等しくなったことはまだ記憶に新しい。現在このポリオ根絶作戦は、中国や東南アジアで、日本が主導して展開中である。またMMRワクチンが普及するようになれば、麻疹(はしか)や風疹、ムンプス(おたふく風邪)」の発生を激減させることが出来ようし、B型肝炎や成人T細胞白血病も、適切な対応とワクチン投与により、将来はなくなるであろう。エイズやC型肝炎にしても、例え感染しても、ヘルペスウイルスグループ感染の例のように、発病を抑えることが可能になり、ウイルスと共存して生きていけるようになるであろう。トラホームやらいについては、治療法が確立されたこともあって、日本では、その予防法の必要性はなくなり、既に廃止された。
これまで人類は英知でもって感染症に立ち向かい、困難を乗り越えてきた。これからも例え新型の感染症が出現したとしても、化学療法剤やワクチンを含む免疫学的、分子生物学的療法でもって、それを克服するに違いない。しかし、忘れてならないのは、病原体も生き物、人智をもってする数多くのバリアーを乗り越えて子孫を増やそうと策を弄するであろう。とすると、人と病原体との闘いは、長い目で見ると、どちらの勝利もない、いわばいたちごっこの、延々と際限なく続く、デスマッチと言えるかも知れない。
ところで微生物工業は、従来の醗酵工業から脱皮して、新しい世代に入ってきた。醗酵工業では、培地中に微生物の代謝産物を蓄積させ、それを単離して利用するのが一般的な常法であり、その収量を上げるために、自然界で自然に起きる突然変異株(細胞分裂100万回~100億回に1回起きるといわれている)の中に、より優れた株がないかをチェックしてきた。しかし、この「啼くまで待とう」式では、極めて効率が悪いうえ、時間を要した。そこでより突然変異株を効率よく作り出すため、人為的に変異原を用いて誘導する方法が考案された。それには、X線、γ線、紫外線を照射する物理的な方法と、変異原物質を用いる化学的な方法とがあるが、これらの方法は「啼かせて見せよう」式とも言える。その後の解明により、これらの変異は、遺伝子の傷、複製の間違い、組み換えや再編成、動く遺伝子の介入によっていることが判明し、DNA上では、塩基や塩基群の添加、欠損、置換、重複、転座、逆位等がみられた。
一方、細菌を用いた遺伝情報の伝達の研究から、細菌等の原核細胞には、体染色体のほかにプラスミドという伝達可能な遺伝子が存在すること、細菌ウイルスであるバクテリオファージの中には、その遺伝子を細菌の体染色体に取り込ませて組み換えを起こし、溶菌することなく細菌の増殖につれて増殖する溶原化現象を起こす株があることが分かり、プラスミドによる伝達(接合)やファージによる形質導入が可能になった。また、ある細菌から抽出したDNAを他の細菌に取り込ませる形質転換の方法も確立され、細菌間の遺伝情報の伝達に止まらず、外来遺伝子DNAを異種の細胞内に導入し、その形質を発現させるということが可能になった。
更に、ある細胞から抽出したDNAから、目的とする遺伝情報のみを、制限酵素というハサミで切り取る技術が開発され、この情報を運び屋である自己増殖性のある小型DNAのベクター(プラスミドか溶原ウイルス)に、同じ制限酵素で開裂させた箇所にノリの役目をするDNAリガーゼを用いて結合させ、この両種の雑種である組み換えDNA分子を形質転換の技術を応用して宿主の細胞に移し込む、遺伝子組み換え技術が開発された。この宿主の遺伝子工場には、大腸菌、枯草菌、酵母等が好んで用いられ、ヒトの生理活性物質の多くがこの方法で作られ、利用されている。その他、細胞融合やベクターDNAのみを増幅させる方法も考案され、微量生産物質の大量生産も可能になった。
微生物というと、黴菌、伝染病、食中毒という悪いイメージを連想することが多い。事実、微生物の仕業と分かる以前にも、人類は天然痘、ペスト、コレラ等の伝染病に悩まされ、その原因が未知だっただけに、神がかりなものとして極度に恐れられてきた。食中毒にしても、これは有史以前からあったに違いなく、微生物によるものばかりではなく、経験的に、どういうものが食べられ、どういう状態が安全であるのか、またどういうものが有毒で、どういう状態になると食べられなくなるのかを、長い年月をかけて会得してきた。
しかし一方で、これも微生物の仕業と分からなかったまでも、人はおろか猿までもが、酒を醸しだす技術を身に付けるようになったが、これは微生物の有用な利用の一方の旗頭として、我々人類にとってはなくてはならないものとなっている。
ところで、微生物学という学問は、伝染病の原因究明という大義名分のもと、病原微生物学として発展してきた。しかし、人にとって病原微生物といった場合、この一群の微生物は、とりもなおさず人の体温、すなわち37℃近辺を最も至適温度として増殖できることが最大の条件であり、大部分の病原微生物はこの範疇に入っている。しかしながら、このようないわゆる中温菌といわれる一群の菌群は、全体の微生物からすれば極めて少ない一握りでしかなく、大部分の微生物は自然界に広く分布している。そしてその生息する場所は極めて多様で、地中深くにも、気温が高い乾燥した砂漠にも、一年中氷で覆われている南極大陸にも、90℃を超える非常に高温な温泉の中にも、水深1万mを超す海底にも微生物は生息している。そしてこの自然界には、我々が未だ知らない微生物が、かなりの数存在しているであろうことは、十分予想されることである。
我々は微生物の洪水の中で生活をしていると言っても過言ではない。土の中、水の中、空気中等の環境、我々人体の表面、口、鼻、喉、消化管、生殖器等、外気と接しまたは通じている器官には、夥しい数の微生物が常在している。このような微生物の一群はノーマル・フローラ:正常細菌叢と呼ばれているが、平常は我々にとって不都合なことはほとんどなく、かえってこのようなフローラのない方の害の方が遥かに大きく、人の場合でも、大部分のノーマル・フローラは宿主である人と共存共栄、すなわち「共生」している。
我々にとって、食品や食材の腐敗は好ましいことでないばかりか、病気の一因となる。しかし、これら自然界に無数に存在する微生物は、自然界にとってはなくてはならない存在である。物質の輪廻を考えてみると、植物は無機体から有機体を形成するが、有機体を無機体にすることは出来ない。また動物は人も含め、有機体を利用し、有機体を排泄している。すなわち、動物も植物も有機体から構成されているが、有機体を無機体にする能力を持ち合わせてはいない。ということは、もしこの世の中に微生物、とりわけ有機物を利用する細菌が存在しなかったら、有機体のみが蓄積されることになり、地球上は夥しい量の動植物の屍骸と糞尿とで覆い尽くされてしまうことになる。人がもし有機体を無機体にしなければならないとしたら、燃焼以外に方法は見当たらない。このように微生物の環境浄化力は人智を遥かに超えている。
さて、我々の日常生活を見回してみても、微生物の恩恵に浴していることが如何に多いかに気付くはずである。発酵食品としての酒類(アルコール飲料)、味醂、食酢、大豆製品の味噌、醤油、納豆、水産加工品の鰹節、なれ寿し、くさや、塩辛、魚醤、乳製品としてのバター、チーズ、ヨーグルト、乳酸菌飲料、そのほかにも、パンや漬物、紅茶やウーロン茶等々、我々が口にするもので、微生物の恩恵に浴しているものは枚挙にいとまがない。また、酵素、ホルモン、ビタミン、抗生物質、ステロイドのほか、アルコール類、有機酸類、アミノ酸等も、その製造はまだまだ微生物に依存しているウェイトが高い。一方で、厄介ものの難分解性の合成洗剤、プラスチック、PCB,あるいはタンカーから流失した重油の後処理に、微生物による生分解が期待されていて、既に一部は実用化されている。このように、微生物は昼夜を分かたずに働き続けてくれ、もっと英知を傾ければ、我々人類はまだまだ微生物に頼れる部分が多くあるのではなかろうか。
さて、抗生物質やワクチンの普及、栄養や環境の改善、衛生思想の敷衍等によって、人類は伝染病の恐怖から解放され、もはや伝染病は過去のこととして我々の脳裏から忘れ去られようとしている。確かに、恐れられた天然痘(痘瘡)は、1980年には地球上から根絶されてしまったし、日本でも、戦前は多かったコレラ、赤痢、腸チフス、パラチフス、発疹チフス、ジフテリア等の伝染病は、皆無かもしくは極端に減少してしまった。ところが一方で、日本では発生が見られなくなったトラホームは、中国や東南アジアでは未だ重要な疾患であり、これによる失明者もまだまだ数多い。また発展途上にある国々では、3人に1人は感染症で亡くなっていると言われており、WHOの統計でも、1995年の死亡者数は約1,700万人に達したと報じられている。
現代医学は感染症の制圧に成功したかのような錯覚を感じさせていた時、突如として、先進国でも今まで経験したことがなかったような感染症が人類に襲いかかってきた。1981年に忽然として現れたエイズ:後天性免疫不全症候群を初めとして、新しい感染症が次々と現れてきた。日本でも1996年に大流行した腸管出血性大腸菌O157については未だ記憶に新しい。このように新しく我々の目の前に出現した感染症をエマージング・ディシーズ:新興感染症と呼んでいる。何故このような新しい感染症に我々は遭遇したのだろうか。一説に、20世紀後半の世界人口の急激な増加は、食料増産のために未開の土地を開かざるを得ない状況を作り出し、それに伴う環境破壊によって、これまで人類が知らなかった未知の新しい病原体と遭遇したと予測する人もいる。ともあれ致死性の高い新型の感染症が人類を苦しめることとなる。特にアフリカ奥地、アマゾン流域は、生態系が多様なことで知られているが、一方で病原体が潜む絶好の場所でもある。致死性の高いエボラ出血熱、マールブルグ病、ベネズエラ出血熱等しかりである。このほかにも、英国で起きた狂牛病、その病原体はプリオンと言われているが、クロイツフェルト。ヤコブ病との関連も取り沙汰されていて、牛から人への感染とも相まって、恐怖感が払拭されないでいる。これら新しい感染症は確たる治療法が確立されているわけではなく、またその感染のメカニズムも解明されていないのが現状である。
さて一方で、古くて新しい感染症、リエマージング・ディシーズ:再興感染症も疎かにはできない。インフルエンザは毎年流行する身近なウイルス病であるが、その根絶は極めて困難である。人類にとって「最強最後の感染症」と言われる所以は、その変わり身の速さにある。変幻自在に変化し、免疫系の網を潜り抜け、生き残る逞しさには脱帽せざるを得ない。化学療法剤もワクチンも決め手を欠いている。また日本では制圧に成功したかのように見えた結核も、ここ数年は増加の傾向にある。WHO発表の1995年の感染症による死亡者1,700万人の内、結核による死亡者は約300万人と言われ、この数字は結核が世界的に大流行した1900年前後の年間推定死亡者数を大きく上回る史上最悪の数字と言われている。特に米国では、エイズ患者が結核を発病するケースが増えてきており、20~40歳台の患者の増加が問題視されている。1995年には、結核以外にも、世界中でコレラが前年の4倍を超える規模で流行した。新型のベンガル型コレラ菌O139によるものである。日本でもバリ島帰りのコレラ患者多発は未だ耳に新しい。
そのほか、日本では、24時間風呂でのレジオネラ菌による感染、クリプトスポリジウム原虫による大量水系感染、サルモネラ・エンテリティジスによる食中毒の大量発生、MRSA(メシチリン耐性黄色ブドウ球菌)やVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)等の薬剤多剤耐性菌やセラチア菌等のいわゆる日和見菌による院内感染等々、抗生物質の開発は限界に近いと言われているだけに、不測の事態を起こしかねない状況にある。
地球温暖化も厄介である。病原体を運ぶ吸血昆虫が生息域を拡げ、熱帯域での風土病であったデング熱やマラリアや寄生虫病が、再び温帯域まで拡がってくる恐れもある。
しかし一方で、ワクチンの適切な投与により、今後根絶が期待できる感染症も少なくない。ポリオは1961年の生ワクチン投与以降、日本では患者の発生はほぼ皆無に等しくなったことはまだ記憶に新しい。現在このポリオ根絶作戦は、中国や東南アジアで、日本が主導して展開中である。またMMRワクチンが普及するようになれば、麻疹(はしか)や風疹、ムンプス(おたふく風邪)」の発生を激減させることが出来ようし、B型肝炎や成人T細胞白血病も、適切な対応とワクチン投与により、将来はなくなるであろう。エイズやC型肝炎にしても、例え感染しても、ヘルペスウイルスグループ感染の例のように、発病を抑えることが可能になり、ウイルスと共存して生きていけるようになるであろう。トラホームやらいについては、治療法が確立されたこともあって、日本では、その予防法の必要性はなくなり、既に廃止された。
これまで人類は英知でもって感染症に立ち向かい、困難を乗り越えてきた。これからも例え新型の感染症が出現したとしても、化学療法剤やワクチンを含む免疫学的、分子生物学的療法でもって、それを克服するに違いない。しかし、忘れてならないのは、病原体も生き物、人智をもってする数多くのバリアーを乗り越えて子孫を増やそうと策を弄するであろう。とすると、人と病原体との闘いは、長い目で見ると、どちらの勝利もない、いわばいたちごっこの、延々と際限なく続く、デスマッチと言えるかも知れない。
ところで微生物工業は、従来の醗酵工業から脱皮して、新しい世代に入ってきた。醗酵工業では、培地中に微生物の代謝産物を蓄積させ、それを単離して利用するのが一般的な常法であり、その収量を上げるために、自然界で自然に起きる突然変異株(細胞分裂100万回~100億回に1回起きるといわれている)の中に、より優れた株がないかをチェックしてきた。しかし、この「啼くまで待とう」式では、極めて効率が悪いうえ、時間を要した。そこでより突然変異株を効率よく作り出すため、人為的に変異原を用いて誘導する方法が考案された。それには、X線、γ線、紫外線を照射する物理的な方法と、変異原物質を用いる化学的な方法とがあるが、これらの方法は「啼かせて見せよう」式とも言える。その後の解明により、これらの変異は、遺伝子の傷、複製の間違い、組み換えや再編成、動く遺伝子の介入によっていることが判明し、DNA上では、塩基や塩基群の添加、欠損、置換、重複、転座、逆位等がみられた。
一方、細菌を用いた遺伝情報の伝達の研究から、細菌等の原核細胞には、体染色体のほかにプラスミドという伝達可能な遺伝子が存在すること、細菌ウイルスであるバクテリオファージの中には、その遺伝子を細菌の体染色体に取り込ませて組み換えを起こし、溶菌することなく細菌の増殖につれて増殖する溶原化現象を起こす株があることが分かり、プラスミドによる伝達(接合)やファージによる形質導入が可能になった。また、ある細菌から抽出したDNAを他の細菌に取り込ませる形質転換の方法も確立され、細菌間の遺伝情報の伝達に止まらず、外来遺伝子DNAを異種の細胞内に導入し、その形質を発現させるということが可能になった。
更に、ある細胞から抽出したDNAから、目的とする遺伝情報のみを、制限酵素というハサミで切り取る技術が開発され、この情報を運び屋である自己増殖性のある小型DNAのベクター(プラスミドか溶原ウイルス)に、同じ制限酵素で開裂させた箇所にノリの役目をするDNAリガーゼを用いて結合させ、この両種の雑種である組み換えDNA分子を形質転換の技術を応用して宿主の細胞に移し込む、遺伝子組み換え技術が開発された。この宿主の遺伝子工場には、大腸菌、枯草菌、酵母等が好んで用いられ、ヒトの生理活性物質の多くがこの方法で作られ、利用されている。その他、細胞融合やベクターDNAのみを増幅させる方法も考案され、微量生産物質の大量生産も可能になった。
2011年8月23日火曜日
濃霧・雨・風で再び石徹白への下りを断念
別山からさらに南へ延びる美濃禅定道(南縦走路)は一部を除いてまだ走破したことがなく、今年はどうしても踏破したいと願っていた。急いでいるのは一つは年齢の壁であり、年々体力とバランス感覚の衰えが進行しているように思えるからである。幸い宮川さんという一回りも若い助っ人を得、かつ前田さんの協力もあり、何とか成就できないかと願っている。今年の最初のチャレンジは7月18日、これは16・17日の土日は満員で宿泊できなかったからで、実は後の祭りになるのだが、今から思えば18日を15日にしておけば、台風6号の影響も受けずに、成就できたのではと思っている。それが判断ミスで18日としたものだから、台風の影響をもろに受けてしまった。天気予報では北陸への影響は20日以降とのことだったが、高山では2日前からも大きな影響が出ていた。こうして初回のチャレンジは特に風の影響でもって不首尾に終わった。
次いで計画したのが8月7~9日の日~火、結果的にこの期間は天気が安定していて申し分なかったのだが、石徹白はこの週全村挙げての体験ツアー受け入れがあり、宿泊は全く駄目とかで断念せざるを得なかった。お盆は空いているとは言われても、こちらも旧盆でいろいろ都合があり、リベンジは盆明けの土~月の8月20~22日を予定し、協力していただけるお二方の了解も得た。
当日4時半に家を出立、家内運転で1時間程で市ノ瀬へ、5時20分発のシャトルバスで別当出合へ、天気は曇り、でもガスで視界は悪い。天気図では、日本列島に停滞している秋雨前線が幾分北寄りだったのが南下したため、北陸も大きく影響を受けることになった。でも少々の悪化ならばリベンジには特に大きな障害とはならない。6時10分前に歩き出す。高度が上がるにつれガスは濃くなり、甚之助小屋辺りではもうミルキーホワイト、何にも見えない状態だった。ところが更に高度が上がると、このガス帯を抜け、別山の山並みがくっきりと見えるようになり、眼下にはミルキーホワイトの雲の層が広がっている状況に。しかし空には厚い高層雲があり、陽の光はない。
南竜山荘には8時過ぎに着く。何時もだと受付は午後からなのだが、山荘へはもう入れますとのことで、部屋に荷を置き御前峰へ向かうことに。今日は120名の宿泊とか、やはり土曜はほぼ満員のようだ。主任の方に聞くと、予報では午後には雨になるとか、昼食と雨具を持って出かける。出掛けに小母さんと話していると、植生されたコマクサを除去する話が持ち上がっているとか、どんどん繁殖するオオバコと同一視されては叶わないのだが。小母さんは植生した御仁も知っていた。また雷鳥の居場所は御前でなく大汝だという話を聞いたとか。私は御前のような気がするが、でもそれは単なる勘でしかない。小母さんは上馬さんに聞いて見ないととも言う。彼は雷鳥をビデオ撮りした当人だが、彼は現在県の白山自然保護センターの次長でもあり、彼は話すことはないだろう。ひとしきり話をして室堂へと向かう。トンビ岩コースを辿る。この前通ったときはこのコースにはかなりの残雪があったが、もう雪は全くない。雪が溶けるのが遅かった斜面には、コイワカガミやアオノツガザクラが丁度満開、ピンクとホワイトグリーンの絨毯を形成している。御前坂の上部ではもうベニバナイチゴが赤い熟れた実をつけている。ミヤマリンドウも青紫の花を咲かせている。
室堂前の広場で食事をする。何時もは登山者で一杯になる広場も、この日は半分程度の入り、旧盆が済んでピークが過ぎた印象を受ける。雨がポツリときた。ガスも少しだがかかり始めた。雨具を着け頂上へ向かう。今室堂平はハクサンフウロとイブキトラノオ、オンタデが丁度花盛り、特に濃いピンクのハクサンフウロは圧巻だ。頂上への径で、60ℓのピンクのザックカバーを付けた人が前を歩いている。こちらはほとんど空身、なのに中々追いつけない。とうとう頂上まで追いつけなかった。頂上でご対面したら小柄な女の子、これからどちらへと聞いたら南竜のテン場とか、その荷物を持ってまた下りるのですかと言うと、これはザックカバーだけなのですと、道理で追いつけなかったわけだ。ガスも次第に濃くなってきた。
予定どうり展望コースを下る。ガスで視界は全く利かず、ただ黙々と下るのみ。展望台からの下りで、子供を含めた中年男性の一団、室堂泊まりとか、お天気が好ければ素晴らしい展望が開けるが、この雨とガスでは余りお勧めできるコースではない。雨も次第に強くなる。4時間半余りの周遊、濡れたものを乾燥室で乾かす。一段落し、これから食堂で、この前のように一杯しようと思ったら、大勢の人数の弁当作りとかで2時には食堂はシャットアウトになり、部屋飲みになる。5時に夕食、気温の低下もあって、ビールでなく熱燗にする。ガスは次第に濃くなる。別棟ではギターのコンサートとか。お陰で8時消灯が8時半に、この間食堂でテレビを見ながらの飲み、主任と副とバイトの学生5人、お酒と焼酎をお相伴になる。話の中で主任はまだ独身とか、お客の8割方は女性というのに、勿論ペアあり、中高年ありだが、若い山ガールも結構多いというのに。アルバイトは古くは女子短大生だったが、ここ10年ばかりは金沢工大のスキー部員だとか。山荘に常駐は5人、バイトは土曜の午前に来て、日曜の午後に帰るパターン、速い人は山荘から中飯場まで下り30分とか、驚くべきタフさだ。そう言えば、新しい甚之助小屋の建設にあたって、あそこの現場主任は、中飯場から長靴履きで毎日30分で通う野々市の人だった。
コンサートは終わり、飲みも終了。窓には明かりを求めて沢山の白い翅の蛾が、主任では明日は雨は大したことはないと言う。雨になる日はこの蛾は来ないと言う。でもガスはますます濃くなったようだ。隣の小舎がもう見え難い。
夜中に起きてベランダに出ると、ガスは濃く、ホワイトアウトとまでは濃くはないものの、それに近い状態、小雨が降っている。風も混じってきて、時々ヒューという息が聞こえてくる。今日の夕方の雨とガス程度なら決行しようと、夕食後、前田さんにも、石徹白の民宿「おしたに」へも、家内へもその旨伝えたところだが、こう視界が悪いと、別山越えは難しいかも知れないと思うようになる。でもこんな状態の中、3時にペアが、3時半には6人のパーティーが出発していった、昨晩おしたにさんには別山まではよく通い慣れた径ですのでとは言ったのだが、こうも状態が悪いと断念しなければならないのではと思い直した。予定では5時の出立だが、もう1時間だけ様子を見ることにする。もう1晩泊まって様子をみようかとも思ったが、昨晩の気象衛星画像を見ると、前線の雲が日本列島をすっぽり覆っているようで、明日快方に向かうという保証はない。濃いガスと小雨、それに風も出てきて、終に断念することにした。6時に民宿「おしたに」へ電話、やはり無理でしょうとのことだった。家内にもその旨伝える。前田さんには明日のことなので、市ノ瀬へ下りてから宮川さんに伝言してもらうことにする。ほとんどの方が市ノ瀬へ下るようだ。私たちも7時に山荘を出た。
南竜分岐から標高が下がるにつれて、ガスの濃さは段々薄れてきたが、雨粒は大きくなり、本降りの様相になる。甚之助小屋に着くまでは余り上りの人とは会っていない。小屋では数人がシュラフに包まっていた。新しい小屋は実に快適、トイレもきれいで気持ちが良い。しかし小屋を過ぎた辺りから、この雨の中、続々と沢山の登山者が、そしてその8割近くが女性、妙齢の若い方も多い。何が彼女らを駆り立てるのか。天候が少しでも快方に向かうことを願わずにはおれない。40人近くの団体も2パーティー。上る人をやり過ごしたり、またお喋りもしたりで、ゆっくりと下る。以前だと旧盆を過ぎると登山者はぐっと少なくなったものだが、これもブームだからなのだろうか。私たちが2時間10分もかかって別当出合に着いてからも、登山者がシャトルバスで上がってくる。下ではガスは薄れているが、まだ雨は間断なく降っている。
シャトルバスは9時半に市ノ瀬へ、金沢駅行きのバスは、8月20日を過ぎると午後1時30分1本のみに、時間があるので、永井旅館の日本の秘湯にでも浸って疲れを癒すことに。この温泉は掛け流し、食塩・炭酸泉、源泉は48℃だが、掛け流しの方は加温なしなので、気温によって湯温が異なりますという断り書きがしてある。一方大きな浴槽は加温循環式なので熱い。我々がトップ、ゆっくり温泉に浸れた。旧の本館にあった浴槽は小さかったが、新館の浴槽は明るくてきれいで気持ちが良い。上がってお決まりのビール、まだバス出発まで2時間以上、カップラーメンで腹ごしらえをする。この頃から続々と入浴客が、女性も多い。浴場は芋の子を洗うが如き状態だろう。助っ人の宮川さんからは、昨晩に引き続いて山の話をいろいろ聞く。年に50日も山へ行っているとか、近場の山も、また積雪期にも、でも写真での記録はあるものの、それ以外の記録は極めて少ないのは勿体ない。私はどんな小さな山行でも記録を取るが、彼は一切しないようだ。また文章にも残していない。聞くと実に素晴らしい山行もあり、写真のみでなく、ほんの印象だけでも書き記すように勧めたのだが。でも写真は玄人はだしの作品もあるようで、コンテストに出さないかと言われているとか、本人も意欲はあるようだ。
別当出合を13:30に出た金沢駅行きバスは満員、市ノ瀬を10分遅れで出発した。このバスには生まれて初めての乗車。びっくりしたのは白峰車庫で5分間のトイレ休憩、その後白峰の街中の旧道を経由し、何故か尾口瀬女の道の駅へ立ち寄り、鶴来でも街中の旧道に入り鶴来駅へ、それから鶴来街道を野々市へ。金沢駅への急行バスとあったが、とんだ寄り道だらけの急行バスだった。
こうして石徹白へのリベンジはまたも敗退となった。
次いで計画したのが8月7~9日の日~火、結果的にこの期間は天気が安定していて申し分なかったのだが、石徹白はこの週全村挙げての体験ツアー受け入れがあり、宿泊は全く駄目とかで断念せざるを得なかった。お盆は空いているとは言われても、こちらも旧盆でいろいろ都合があり、リベンジは盆明けの土~月の8月20~22日を予定し、協力していただけるお二方の了解も得た。
当日4時半に家を出立、家内運転で1時間程で市ノ瀬へ、5時20分発のシャトルバスで別当出合へ、天気は曇り、でもガスで視界は悪い。天気図では、日本列島に停滞している秋雨前線が幾分北寄りだったのが南下したため、北陸も大きく影響を受けることになった。でも少々の悪化ならばリベンジには特に大きな障害とはならない。6時10分前に歩き出す。高度が上がるにつれガスは濃くなり、甚之助小屋辺りではもうミルキーホワイト、何にも見えない状態だった。ところが更に高度が上がると、このガス帯を抜け、別山の山並みがくっきりと見えるようになり、眼下にはミルキーホワイトの雲の層が広がっている状況に。しかし空には厚い高層雲があり、陽の光はない。
南竜山荘には8時過ぎに着く。何時もだと受付は午後からなのだが、山荘へはもう入れますとのことで、部屋に荷を置き御前峰へ向かうことに。今日は120名の宿泊とか、やはり土曜はほぼ満員のようだ。主任の方に聞くと、予報では午後には雨になるとか、昼食と雨具を持って出かける。出掛けに小母さんと話していると、植生されたコマクサを除去する話が持ち上がっているとか、どんどん繁殖するオオバコと同一視されては叶わないのだが。小母さんは植生した御仁も知っていた。また雷鳥の居場所は御前でなく大汝だという話を聞いたとか。私は御前のような気がするが、でもそれは単なる勘でしかない。小母さんは上馬さんに聞いて見ないととも言う。彼は雷鳥をビデオ撮りした当人だが、彼は現在県の白山自然保護センターの次長でもあり、彼は話すことはないだろう。ひとしきり話をして室堂へと向かう。トンビ岩コースを辿る。この前通ったときはこのコースにはかなりの残雪があったが、もう雪は全くない。雪が溶けるのが遅かった斜面には、コイワカガミやアオノツガザクラが丁度満開、ピンクとホワイトグリーンの絨毯を形成している。御前坂の上部ではもうベニバナイチゴが赤い熟れた実をつけている。ミヤマリンドウも青紫の花を咲かせている。
室堂前の広場で食事をする。何時もは登山者で一杯になる広場も、この日は半分程度の入り、旧盆が済んでピークが過ぎた印象を受ける。雨がポツリときた。ガスも少しだがかかり始めた。雨具を着け頂上へ向かう。今室堂平はハクサンフウロとイブキトラノオ、オンタデが丁度花盛り、特に濃いピンクのハクサンフウロは圧巻だ。頂上への径で、60ℓのピンクのザックカバーを付けた人が前を歩いている。こちらはほとんど空身、なのに中々追いつけない。とうとう頂上まで追いつけなかった。頂上でご対面したら小柄な女の子、これからどちらへと聞いたら南竜のテン場とか、その荷物を持ってまた下りるのですかと言うと、これはザックカバーだけなのですと、道理で追いつけなかったわけだ。ガスも次第に濃くなってきた。
予定どうり展望コースを下る。ガスで視界は全く利かず、ただ黙々と下るのみ。展望台からの下りで、子供を含めた中年男性の一団、室堂泊まりとか、お天気が好ければ素晴らしい展望が開けるが、この雨とガスでは余りお勧めできるコースではない。雨も次第に強くなる。4時間半余りの周遊、濡れたものを乾燥室で乾かす。一段落し、これから食堂で、この前のように一杯しようと思ったら、大勢の人数の弁当作りとかで2時には食堂はシャットアウトになり、部屋飲みになる。5時に夕食、気温の低下もあって、ビールでなく熱燗にする。ガスは次第に濃くなる。別棟ではギターのコンサートとか。お陰で8時消灯が8時半に、この間食堂でテレビを見ながらの飲み、主任と副とバイトの学生5人、お酒と焼酎をお相伴になる。話の中で主任はまだ独身とか、お客の8割方は女性というのに、勿論ペアあり、中高年ありだが、若い山ガールも結構多いというのに。アルバイトは古くは女子短大生だったが、ここ10年ばかりは金沢工大のスキー部員だとか。山荘に常駐は5人、バイトは土曜の午前に来て、日曜の午後に帰るパターン、速い人は山荘から中飯場まで下り30分とか、驚くべきタフさだ。そう言えば、新しい甚之助小屋の建設にあたって、あそこの現場主任は、中飯場から長靴履きで毎日30分で通う野々市の人だった。
コンサートは終わり、飲みも終了。窓には明かりを求めて沢山の白い翅の蛾が、主任では明日は雨は大したことはないと言う。雨になる日はこの蛾は来ないと言う。でもガスはますます濃くなったようだ。隣の小舎がもう見え難い。
夜中に起きてベランダに出ると、ガスは濃く、ホワイトアウトとまでは濃くはないものの、それに近い状態、小雨が降っている。風も混じってきて、時々ヒューという息が聞こえてくる。今日の夕方の雨とガス程度なら決行しようと、夕食後、前田さんにも、石徹白の民宿「おしたに」へも、家内へもその旨伝えたところだが、こう視界が悪いと、別山越えは難しいかも知れないと思うようになる。でもこんな状態の中、3時にペアが、3時半には6人のパーティーが出発していった、昨晩おしたにさんには別山まではよく通い慣れた径ですのでとは言ったのだが、こうも状態が悪いと断念しなければならないのではと思い直した。予定では5時の出立だが、もう1時間だけ様子を見ることにする。もう1晩泊まって様子をみようかとも思ったが、昨晩の気象衛星画像を見ると、前線の雲が日本列島をすっぽり覆っているようで、明日快方に向かうという保証はない。濃いガスと小雨、それに風も出てきて、終に断念することにした。6時に民宿「おしたに」へ電話、やはり無理でしょうとのことだった。家内にもその旨伝える。前田さんには明日のことなので、市ノ瀬へ下りてから宮川さんに伝言してもらうことにする。ほとんどの方が市ノ瀬へ下るようだ。私たちも7時に山荘を出た。
南竜分岐から標高が下がるにつれて、ガスの濃さは段々薄れてきたが、雨粒は大きくなり、本降りの様相になる。甚之助小屋に着くまでは余り上りの人とは会っていない。小屋では数人がシュラフに包まっていた。新しい小屋は実に快適、トイレもきれいで気持ちが良い。しかし小屋を過ぎた辺りから、この雨の中、続々と沢山の登山者が、そしてその8割近くが女性、妙齢の若い方も多い。何が彼女らを駆り立てるのか。天候が少しでも快方に向かうことを願わずにはおれない。40人近くの団体も2パーティー。上る人をやり過ごしたり、またお喋りもしたりで、ゆっくりと下る。以前だと旧盆を過ぎると登山者はぐっと少なくなったものだが、これもブームだからなのだろうか。私たちが2時間10分もかかって別当出合に着いてからも、登山者がシャトルバスで上がってくる。下ではガスは薄れているが、まだ雨は間断なく降っている。
シャトルバスは9時半に市ノ瀬へ、金沢駅行きのバスは、8月20日を過ぎると午後1時30分1本のみに、時間があるので、永井旅館の日本の秘湯にでも浸って疲れを癒すことに。この温泉は掛け流し、食塩・炭酸泉、源泉は48℃だが、掛け流しの方は加温なしなので、気温によって湯温が異なりますという断り書きがしてある。一方大きな浴槽は加温循環式なので熱い。我々がトップ、ゆっくり温泉に浸れた。旧の本館にあった浴槽は小さかったが、新館の浴槽は明るくてきれいで気持ちが良い。上がってお決まりのビール、まだバス出発まで2時間以上、カップラーメンで腹ごしらえをする。この頃から続々と入浴客が、女性も多い。浴場は芋の子を洗うが如き状態だろう。助っ人の宮川さんからは、昨晩に引き続いて山の話をいろいろ聞く。年に50日も山へ行っているとか、近場の山も、また積雪期にも、でも写真での記録はあるものの、それ以外の記録は極めて少ないのは勿体ない。私はどんな小さな山行でも記録を取るが、彼は一切しないようだ。また文章にも残していない。聞くと実に素晴らしい山行もあり、写真のみでなく、ほんの印象だけでも書き記すように勧めたのだが。でも写真は玄人はだしの作品もあるようで、コンテストに出さないかと言われているとか、本人も意欲はあるようだ。
別当出合を13:30に出た金沢駅行きバスは満員、市ノ瀬を10分遅れで出発した。このバスには生まれて初めての乗車。びっくりしたのは白峰車庫で5分間のトイレ休憩、その後白峰の街中の旧道を経由し、何故か尾口瀬女の道の駅へ立ち寄り、鶴来でも街中の旧道に入り鶴来駅へ、それから鶴来街道を野々市へ。金沢駅への急行バスとあったが、とんだ寄り道だらけの急行バスだった。
こうして石徹白へのリベンジはまたも敗退となった。
2011年8月19日金曜日
平成22年開催のゼレン会への近況報告
● まえがき
私は昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した。その同窓生の会の名称が「ゼレン会」である。この命名に当たっては、私は卒業時にかなり重度の胃潰瘍で入院していて参画できなかったが、経緯は卒業年を原子番号34にあやかっての命名と聴いている。元素記号はSeで、日本名はセレン、英名は Selenium 、ドイツ名はSelen で、命名はドイツ名の日本式ドイツ語読みによる(ドイツ語ではゼレーンと発音)。あの頃は薬学の分野ではまだドイツ語が幅を利かしていたものだ。ところで昨年(2010)は9月に同窓会があったが、その折幹事から同窓生各位に近況報告をと頼まれしたためたものを、「晋亮の呟き」に再録する。因みに今年(2011)は5月に宮城県で開催予定だったが、3月に未曾有の東日本大震災があり、中止になった。ゼレン会はこのところ毎年開催している。
● 近況報告
(1) 健 康
私は現在石川県予防医学協会という健診機関に勤務していることもあって、年に2回の健康診断を受けている。直近の検査は7月末、指摘があったのは、糖代謝と脂質代謝、前者は HbA1c が 6.2、後者は LDLコレステロールがやや高めである。糖尿病については薬物療法を行なっているが、それだけでは数字の改善は望めず、加えて食事療法と運動療法を行なっている。もっとも食事は完全な糖尿病食ではなく、心掛けているという程度。運動は毎朝6km1時間のウォーキングを行なっているが、これは皮下脂肪減少や糖代謝促進に対して若干の効果があるようだ。ただこれには筋トレ効果はない。
ほかにはペースメーカーを装着しているので、年に2回の健康診断と機器チェックがある。また消化器がん予防のため、年に1回、食道・胃・大腸の内視鏡検査を受けている。常用薬としては、糖尿病用薬、高脂血症用薬、緩下剤、消化性潰瘍治療薬、降圧薬を服用している。
飲酒は医師の指導もあり、1日酒換算4合から2合に減量、また酒は自主的に糖分の少ない蒸留酒をメインにしているが、どんな酒にでもそれぞれの個性があることから、酒の種類による好き嫌いは一切ない。健診の勧告では、酒は1日1合、週に2日の休肝日をというが、それは無理というか不可能な相談だ。ただ入院中の禁酒は厳守している。
(2)白 山
白山では絶滅したと思われていた雷鳥が、昨年(2008)の6月に雌1羽だけであるが、生息していることが確認された。その後昨年には越冬したことが確認されたものの、今年は8月まで未確認だったが、9月になって漸く居ることが確認され、これで2度越冬したことになる。昨年採取された抜け落ちた羽のDNA鑑定では、北アルプスにいるコロニーと同じであることが確認されている。北アルプスから来たとすれば、どうして来たのだろうか。
白山にコマクサは自生していないが、10年前に植生した人がいて、新聞でも紹介されたことがある。新聞紹介の場所は御前峰の北側だが、そこは私はまだ確認していない。3カ所位あるらしいが、私が毎年眺めに出かけているのは、大汝峰の頂上西方の礫地、成育場所としては申し分ない環境だが、そんなに増えているわけではない。ただ実生は育っている。日本のある町では、勝手に植生した駒草を除去したと報じられていたが、ここは国立公園なので、引っこ抜いて除去することはできない。私としてはこれからも見守っていきたい。
国立公園内でも、除去が歓迎されている植物がある。それはオオバコとスズメノカタビラである。道路周辺に多いということは、登山者の靴に付着して侵入してきたもので、毎年ボランティアを募り駆除している。でもその除去区域は山小屋周辺に限られている。中でも特に深刻なのはオオバコで、南竜周辺は以前はハクサンオオバコの群生地だったが、今は2つの種の中間雑種が跋扈していて、のっぴきならない事態になっている。
(3)そ ば
学生の頃も「そば」は好きだったが、当時の金沢には自家製のそば(そこは機械打ち)を出す店は1軒のみしかなかった。石川県自体が「うどん圏」だったからでもある。当時は東京23区内でも、蕎麦屋は百数十軒位ではなかったろうか。学生の頃は山に夢中だったから蕎麦まで気が回らなかったが、石川県に奉職してからというもの、出張時には、地図を片手に都内の蕎麦屋をほっつき歩いたものだ。でも今はそばブーム、東京には少なくとも3千軒以上の蕎麦屋があるだろう。私の師匠も「そば」が好きになり、それこそ全国の蕎麦屋巡りをした。高じて十数年前に金沢で「探蕎会」なるそば同好会を立ち上げ、会員は全国津々浦々へ出かけている。会でもツアーを組み、これまで北海道、四国、九州を除く各地に出かけ、単に「そば」を食うばかりでなく、その地の文化に接し、その地の酒を愛で、いわゆる「探蕎」を続けている。もし興味ある方は「探蕎会」で検索してみて下さい。
私は昭和34年3月に金沢大学薬学部を卒業した。その同窓生の会の名称が「ゼレン会」である。この命名に当たっては、私は卒業時にかなり重度の胃潰瘍で入院していて参画できなかったが、経緯は卒業年を原子番号34にあやかっての命名と聴いている。元素記号はSeで、日本名はセレン、英名は Selenium 、ドイツ名はSelen で、命名はドイツ名の日本式ドイツ語読みによる(ドイツ語ではゼレーンと発音)。あの頃は薬学の分野ではまだドイツ語が幅を利かしていたものだ。ところで昨年(2010)は9月に同窓会があったが、その折幹事から同窓生各位に近況報告をと頼まれしたためたものを、「晋亮の呟き」に再録する。因みに今年(2011)は5月に宮城県で開催予定だったが、3月に未曾有の東日本大震災があり、中止になった。ゼレン会はこのところ毎年開催している。
● 近況報告
(1) 健 康
私は現在石川県予防医学協会という健診機関に勤務していることもあって、年に2回の健康診断を受けている。直近の検査は7月末、指摘があったのは、糖代謝と脂質代謝、前者は HbA1c が 6.2、後者は LDLコレステロールがやや高めである。糖尿病については薬物療法を行なっているが、それだけでは数字の改善は望めず、加えて食事療法と運動療法を行なっている。もっとも食事は完全な糖尿病食ではなく、心掛けているという程度。運動は毎朝6km1時間のウォーキングを行なっているが、これは皮下脂肪減少や糖代謝促進に対して若干の効果があるようだ。ただこれには筋トレ効果はない。
ほかにはペースメーカーを装着しているので、年に2回の健康診断と機器チェックがある。また消化器がん予防のため、年に1回、食道・胃・大腸の内視鏡検査を受けている。常用薬としては、糖尿病用薬、高脂血症用薬、緩下剤、消化性潰瘍治療薬、降圧薬を服用している。
飲酒は医師の指導もあり、1日酒換算4合から2合に減量、また酒は自主的に糖分の少ない蒸留酒をメインにしているが、どんな酒にでもそれぞれの個性があることから、酒の種類による好き嫌いは一切ない。健診の勧告では、酒は1日1合、週に2日の休肝日をというが、それは無理というか不可能な相談だ。ただ入院中の禁酒は厳守している。
(2)白 山
白山では絶滅したと思われていた雷鳥が、昨年(2008)の6月に雌1羽だけであるが、生息していることが確認された。その後昨年には越冬したことが確認されたものの、今年は8月まで未確認だったが、9月になって漸く居ることが確認され、これで2度越冬したことになる。昨年採取された抜け落ちた羽のDNA鑑定では、北アルプスにいるコロニーと同じであることが確認されている。北アルプスから来たとすれば、どうして来たのだろうか。
白山にコマクサは自生していないが、10年前に植生した人がいて、新聞でも紹介されたことがある。新聞紹介の場所は御前峰の北側だが、そこは私はまだ確認していない。3カ所位あるらしいが、私が毎年眺めに出かけているのは、大汝峰の頂上西方の礫地、成育場所としては申し分ない環境だが、そんなに増えているわけではない。ただ実生は育っている。日本のある町では、勝手に植生した駒草を除去したと報じられていたが、ここは国立公園なので、引っこ抜いて除去することはできない。私としてはこれからも見守っていきたい。
国立公園内でも、除去が歓迎されている植物がある。それはオオバコとスズメノカタビラである。道路周辺に多いということは、登山者の靴に付着して侵入してきたもので、毎年ボランティアを募り駆除している。でもその除去区域は山小屋周辺に限られている。中でも特に深刻なのはオオバコで、南竜周辺は以前はハクサンオオバコの群生地だったが、今は2つの種の中間雑種が跋扈していて、のっぴきならない事態になっている。
(3)そ ば
学生の頃も「そば」は好きだったが、当時の金沢には自家製のそば(そこは機械打ち)を出す店は1軒のみしかなかった。石川県自体が「うどん圏」だったからでもある。当時は東京23区内でも、蕎麦屋は百数十軒位ではなかったろうか。学生の頃は山に夢中だったから蕎麦まで気が回らなかったが、石川県に奉職してからというもの、出張時には、地図を片手に都内の蕎麦屋をほっつき歩いたものだ。でも今はそばブーム、東京には少なくとも3千軒以上の蕎麦屋があるだろう。私の師匠も「そば」が好きになり、それこそ全国の蕎麦屋巡りをした。高じて十数年前に金沢で「探蕎会」なるそば同好会を立ち上げ、会員は全国津々浦々へ出かけている。会でもツアーを組み、これまで北海道、四国、九州を除く各地に出かけ、単に「そば」を食うばかりでなく、その地の文化に接し、その地の酒を愛で、いわゆる「探蕎」を続けている。もし興味ある方は「探蕎会」で検索してみて下さい。
2011年8月17日水曜日
探蕎会有志の面々、いざ、そば農園第二次農事作業へ
● まえがき
探蕎会の素地ができたのは、平成10年(1998)1月に、波田野先生宅で持たれた会合で、この寄り合いには、松原、北島、植松、塚野、前田の諸氏が参加したとある。そして3月8日には「末野倉」で探蕎会の第1回の行事としての発会式が行なわれ、会長波田野、副会長松原、他の4氏は世話人ということで会が発足した。この平成10年には12月の総会までに12回の行事が持たれ、このうちの4回をそば農園での種蒔き、除草・土寄せ、収穫、そば打ちに当てている。私が誘われて初めて会の行事に参加したのがこの種蒔きの時で、この年の第5回目の行事の時だった。
その当時はまだ会報はなく、行事の経緯や成行きは、会長指名の方が、後日A4もしくはB5のレポート用紙に感想を交えてレポートし、そのコピーが会員に配布されていた。会報が創刊されたのは翌年の平成11年(1999)12月であるからして、平成10年と11年の行事記録はこのようなレポート様式で報告されており、公式には現存していない。
ところで、そば農園での農事作業は計4回で、会の行事では、第5回、第6回、第7回、第9回がこれに該当する。この作業が行なわれた「そば農園」の場所は、長野県東筑摩郡朝日村大字古見の「もえぎ野」にある。以下に4回にわたり実施された農事作業の実施日、作業ツアー名、参加者(入会順)、指名報告者を掲げる。またツアー時に寄った蕎麦屋も記載した。
(1) 7月26日 そば農園種蒔きツアー(波田野、松原、北島、前田、木村、越浦、前田さんの娘さん)、
レポーター:北島健次、「もえぎ野」(朝日村)・「信州家」(松本)。
(2) 8月23日 そば農園除草・土寄せツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:木村晋亮、「ふじおか」(黒姫)・「ひらく」(穂高)。
(3) 10月9日 そば農園収穫ツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:塚野八平、「もとき」(松本)・「浅田」(松本)。
(4) 11月21日~22日 そば農園収穫そば打ち体験ツアー(波田野、松原、北島、塚野、木村、越浦)、
レポーター:松原 敏、「浅田」(松本)・「もえぎ野」(朝日村)。宿泊:「ホテル花月」(松本)。
以上が概略で、表記表題の初出は、平成10年(1998)8月23日に行なわれたそば農園第二次農事作業と探訪した蕎麦屋のレポートである。 「晋亮の呟き」に再録する。
● レポート
今日一日、晴れが保証のの8月23日(日)の朝、小生は今日の農事作業である草取り・土寄せに必要な鎌、鍬、長靴等を用意し、波多野会長の命により、先生宅へ午前8時にお寄りする。奥様お手注ぎのお茶を頂くも間もなく、出発の案内。出ればMr前田のOdyssey号には既にMr北島が鎮座されており、我々も乗り込む。道案内を自認する波田野会長は助手席に陣取る。その後、鈴見台で今一人の参加者Mr塚野を同道し、金沢を後にする。この日の作業が如何ばかりなのか全く見当が付かないが、各々方は各自それなりに周到な準備を怠りなくされているようにお見受けした。
金沢東ICへ入ったのが8時半、前回が5時なのに比べると一寸遅い感じだ。富山へ入ると、同乗の鮎釣師は、河川の水量、濁りを見極めんと鋭い眼差し、門外漢の小生には友釣りの醍醐味も分からず、ただ食するのみだが、でも素晴らしいレクチャーをして貰った。
Mr前田の運転は極めて快調、先ずは今日の第一のお目当て、黒姫山麓の「ふじおか」へ向かう。妙高高原スキー場への通い慣れたR18を一路南下、会長の名指示で信濃町野尻山桑へ達する。辺りにはペンションが乱立、このような所に名店があるのかと訝る。杉野沢への道を右折して間もなく、Mr塚野が「あった」と喜びの声、直進すれば妙高へ行ってしまうところだったが、寸でのところでうまく解決した。まだ11時、11時半が開店だが行こうと杉木立の林の中の一本道を辿る。幽山深谷とは異とするが、開けた明るい所からいきなり暗い所へだと、何となくそう感じても不思議ではない。道端にはノアザミの赤、ツユクサの青、ミズギボウシの紫が美しい。下り坂を400mばかり、左手に一見山小屋風の建物が見え、そこが「ふじおか」だった。誰かが言う。初めてお妾さんの家へ通う時のときめくあの気持ちだとか。経験はないが、このときめきがそうなのだろうか。
着くと、既に5台の乗用車、長岡が2台、富山、大阪、長野が各1台、空き地に駐車している。そして石川、30分前だが、待つ甲斐があると納得する。受付入店もやはり11時半、小生は信濃Breweryまでの山中を徘徊する。時間になり漸く開店。辛抱強く待った蕎気の男女が次々と中に消える。我々も後に続く。定員20名は既に了承済み、ぎりぎり何とかなるさは、極めて甘い観測だった。6組目の私達は、主人から午後1時半にお越し下さいとの丁重なお断り、本当に前の組とは真にタッチの差であっただけに、泣き言の一つも出ようというものだ。こうなっては2時間待ってもありつくぞと衆意一決する。たかが「そば」を食うのに2時間待ちとは、蕎変じて狂となる。その執念たるやである。それではと、北信濃の地ビールを製造している信濃町野尻上山桑にある信濃Breweryへと向かう。田中の畦道をそぞろ歩く。湿地にはガマの群生、太い茶色の穂が素晴らしい。また畦にはコウヤワラビが一面に、若々しい浅緑、清々しい。
着くとやはり他県ナンバーの車がやたらと多い。中へ入ると、4種の地ビール、Shinano, Mountain, Dragon の各エールと、Kurohime stout、思い思いに2杯位ずつ胃の腑へ流し込む。小生の飲み比べた印象では、芳醇な香りと適度な苦味の Dragon が良かった。この地ビールは全国へ宅配できるとか、一度ご賞味を。
再びぶらぶら、林へ入る。途中熟れたブルーベリーを少々口に含む。甘い。「そば」にありつけるまでにはまだ1時間余り。折りよく一茶記念館の標識が、聞けば車で10分とか。Mr前田は車を回してくれた。信濃町柏原にある記念館はそこそこの人出、こざっぱりした感じ。併設の民族資料館には思い出の農機具の数々、懐かしい。2時間の余得。感謝々々。
今度こそはご対面できると思うと心がときめく。取って返して蕎麦処へ。空き地には湘南ナンバーの車もある。午後1時半きっかり、我々5人が最初に入る。中は6人掛けと4人掛けのテーブルが各2脚、それで計20人、但し原則として相席はないとのこと、頑固そのものである。また10歳以下のお子様お断りもしかりである。紹介書には甘皮を残した蕎麦の実を挽いたという、微かに緑を宿すかに思える「せいろ」と「そばがき」が載せてある。「せいろ」5枚と越後大吟醸の「鄙願」を3本所望する。待つこと暫し、2時近くに、酒と蕎麦実・野山の幸が入った5人分の突き出し?がドンと出た。本番前にはかくあるのか、雑味払いか、酒は美味しい。ただ全くクセがない。吟醸香が極めて薄い。これで徳利1本1100円は高いのでは、一致した意見だった。また待つこと暫し、佐々木小次郎の胸中を察する。しかし終にご対面。甘皮を付けたまま挽いた蕎麦粉100%の「せいろ」、姿・形は本とそっくりである。そっと数本口に含む。微かな蕎麦の香り、久方振りに出会った名品。生山葵を含めた旨い淡味のつゆが花を添える。再び「せいろ」3枚と「そばがき」2鉢を追加する。待つこと暫し、「そばがき」が現れた。讃岐彫り様の木皿に、搗き立ての柔らかい餅と見紛う、ブナの新緑を思い起こさせる淡い若草色の「そばがき」が鎮座している。こんな印象はこの62年間にはない。絶品としか他に言いようが無い。「せいろ」よりも蕎麦の香りが良い。と同時にどうしてこんなに均一で滑らかなのか。粉に秘密があるのか、或いは掻き方によるのか、いずれにせよ大収穫であった。本日も振られた11時半と1時半の2回のみ。1日多くて40人。再び挑戦するとすれば、平日か。2,3回振られた人もいるとか、今日はもうお終いですとの声に去る組もあった。
余韻を後に、本日の主行事の蕎麦の草取り土寄せに朝日村へ向かう。信濃町ICから塩尻北ICへ高速道を辿り、1時間半後の4時半きっかりに朝日村古見のもえぎ野に着いた。途中に見えた農園の蕎麦は花盛り。私達のは畝や条の不揃いがあり、種蒔きの濃淡があり、どうなっているかとあれこれ心配したが、どうもそれは一見おいそ目には全く分からず、胸をなで下ろした。それで勇んで農場へ。道端に車を停め、身繕いして農園に入る。農園には我々以外には人影はなく、頃合いとすれば、日中よりはましである。さてと、手入れが終わった先人のをと見ると、かなり人為的倒伏が目立つ。蕎麦は肥料を施したせいもあって、思ったより大きく、しかもはちこっている。丈は50~60cmはあろうか、しかも茎はスカンポのように太く、けれど中空な茎は簡単に折れてしまう。本来ならば草丈30cm位の頃に土寄せしなければならないのに、蕎麦のはちこりで蕎麦が畝の両端からはみ出ていて、草取りが出来ず、草取りは省けたものの、土寄せ自体は難行を極めた。蕎麦の間に潜るので、新たな蕎麦の倒伏は先人の比ではなく、これでは収穫は半減するのではないかとさえ思え、いっそのことしないほうが良いのではという率直な意見が続出し、完全な土寄せは極めて困難との見通しから、作業を中断した。行なった部分的な惨状は会長が自ら記録に留めることにする。作業すること40分余り、滞在1時間で切り上げ、次の目的地の穂高町「上条」へ向かうことに。
運転は大吟醸を召したMr前田に代わってMr塚野が、車では前回小生の不覚で迷い込んだ立派な尻切れ農道の話が一頻り、しかし今回Mr塚野も危うく前車の轍を踏んで、あの袋小路の農道へ迷い込みそうになった。表示板が曖昧過ぎる。高速道を塩尻北ICから豊科ICへ、夕暮れの安曇野を北へ向かう。常念岳が残照に浮かぶ黄昏、会長の先導でご推薦の「上条」に着いた。この建物の外観は洋館、幟がなければ全く蕎麦屋には見えない。案内では8時までのはず、でも灯は落ちており、振られてしまった。
急遽、代役は同じ穂高町の「ひらく」、かの「ふじおか」と同じ紹介書に載っている銘店である。そして閉店間際?に到着。時刻は午後6時40分、早速「特製ざる」3枚、「そばがき」2鉢、つまみに花山葵、酒は冷燗の白馬錦を所望する。「ざる」は細打ち、「そばがき」は田舎風で量は豊か、つまみはセンナの醤油漬し、酒はいわゆる爽やかな本醸造、かれこれ40分ばかり居たろうか、7時半前には帰路についた。安房峠経由で金沢へ、Mr前田の滑らかな流れるような運転で夜をひた走り、11時に帰沢した。走行600kmに及んだ1日もどうやら無事終了した。
探蕎会の素地ができたのは、平成10年(1998)1月に、波田野先生宅で持たれた会合で、この寄り合いには、松原、北島、植松、塚野、前田の諸氏が参加したとある。そして3月8日には「末野倉」で探蕎会の第1回の行事としての発会式が行なわれ、会長波田野、副会長松原、他の4氏は世話人ということで会が発足した。この平成10年には12月の総会までに12回の行事が持たれ、このうちの4回をそば農園での種蒔き、除草・土寄せ、収穫、そば打ちに当てている。私が誘われて初めて会の行事に参加したのがこの種蒔きの時で、この年の第5回目の行事の時だった。
その当時はまだ会報はなく、行事の経緯や成行きは、会長指名の方が、後日A4もしくはB5のレポート用紙に感想を交えてレポートし、そのコピーが会員に配布されていた。会報が創刊されたのは翌年の平成11年(1999)12月であるからして、平成10年と11年の行事記録はこのようなレポート様式で報告されており、公式には現存していない。
ところで、そば農園での農事作業は計4回で、会の行事では、第5回、第6回、第7回、第9回がこれに該当する。この作業が行なわれた「そば農園」の場所は、長野県東筑摩郡朝日村大字古見の「もえぎ野」にある。以下に4回にわたり実施された農事作業の実施日、作業ツアー名、参加者(入会順)、指名報告者を掲げる。またツアー時に寄った蕎麦屋も記載した。
(1) 7月26日 そば農園種蒔きツアー(波田野、松原、北島、前田、木村、越浦、前田さんの娘さん)、
レポーター:北島健次、「もえぎ野」(朝日村)・「信州家」(松本)。
(2) 8月23日 そば農園除草・土寄せツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:木村晋亮、「ふじおか」(黒姫)・「ひらく」(穂高)。
(3) 10月9日 そば農園収穫ツアー(波田野、北島、塚野、前田、木村)、
レポーター:塚野八平、「もとき」(松本)・「浅田」(松本)。
(4) 11月21日~22日 そば農園収穫そば打ち体験ツアー(波田野、松原、北島、塚野、木村、越浦)、
レポーター:松原 敏、「浅田」(松本)・「もえぎ野」(朝日村)。宿泊:「ホテル花月」(松本)。
以上が概略で、表記表題の初出は、平成10年(1998)8月23日に行なわれたそば農園第二次農事作業と探訪した蕎麦屋のレポートである。 「晋亮の呟き」に再録する。
● レポート
今日一日、晴れが保証のの8月23日(日)の朝、小生は今日の農事作業である草取り・土寄せに必要な鎌、鍬、長靴等を用意し、波多野会長の命により、先生宅へ午前8時にお寄りする。奥様お手注ぎのお茶を頂くも間もなく、出発の案内。出ればMr前田のOdyssey号には既にMr北島が鎮座されており、我々も乗り込む。道案内を自認する波田野会長は助手席に陣取る。その後、鈴見台で今一人の参加者Mr塚野を同道し、金沢を後にする。この日の作業が如何ばかりなのか全く見当が付かないが、各々方は各自それなりに周到な準備を怠りなくされているようにお見受けした。
金沢東ICへ入ったのが8時半、前回が5時なのに比べると一寸遅い感じだ。富山へ入ると、同乗の鮎釣師は、河川の水量、濁りを見極めんと鋭い眼差し、門外漢の小生には友釣りの醍醐味も分からず、ただ食するのみだが、でも素晴らしいレクチャーをして貰った。
Mr前田の運転は極めて快調、先ずは今日の第一のお目当て、黒姫山麓の「ふじおか」へ向かう。妙高高原スキー場への通い慣れたR18を一路南下、会長の名指示で信濃町野尻山桑へ達する。辺りにはペンションが乱立、このような所に名店があるのかと訝る。杉野沢への道を右折して間もなく、Mr塚野が「あった」と喜びの声、直進すれば妙高へ行ってしまうところだったが、寸でのところでうまく解決した。まだ11時、11時半が開店だが行こうと杉木立の林の中の一本道を辿る。幽山深谷とは異とするが、開けた明るい所からいきなり暗い所へだと、何となくそう感じても不思議ではない。道端にはノアザミの赤、ツユクサの青、ミズギボウシの紫が美しい。下り坂を400mばかり、左手に一見山小屋風の建物が見え、そこが「ふじおか」だった。誰かが言う。初めてお妾さんの家へ通う時のときめくあの気持ちだとか。経験はないが、このときめきがそうなのだろうか。
着くと、既に5台の乗用車、長岡が2台、富山、大阪、長野が各1台、空き地に駐車している。そして石川、30分前だが、待つ甲斐があると納得する。受付入店もやはり11時半、小生は信濃Breweryまでの山中を徘徊する。時間になり漸く開店。辛抱強く待った蕎気の男女が次々と中に消える。我々も後に続く。定員20名は既に了承済み、ぎりぎり何とかなるさは、極めて甘い観測だった。6組目の私達は、主人から午後1時半にお越し下さいとの丁重なお断り、本当に前の組とは真にタッチの差であっただけに、泣き言の一つも出ようというものだ。こうなっては2時間待ってもありつくぞと衆意一決する。たかが「そば」を食うのに2時間待ちとは、蕎変じて狂となる。その執念たるやである。それではと、北信濃の地ビールを製造している信濃町野尻上山桑にある信濃Breweryへと向かう。田中の畦道をそぞろ歩く。湿地にはガマの群生、太い茶色の穂が素晴らしい。また畦にはコウヤワラビが一面に、若々しい浅緑、清々しい。
着くとやはり他県ナンバーの車がやたらと多い。中へ入ると、4種の地ビール、Shinano, Mountain, Dragon の各エールと、Kurohime stout、思い思いに2杯位ずつ胃の腑へ流し込む。小生の飲み比べた印象では、芳醇な香りと適度な苦味の Dragon が良かった。この地ビールは全国へ宅配できるとか、一度ご賞味を。
再びぶらぶら、林へ入る。途中熟れたブルーベリーを少々口に含む。甘い。「そば」にありつけるまでにはまだ1時間余り。折りよく一茶記念館の標識が、聞けば車で10分とか。Mr前田は車を回してくれた。信濃町柏原にある記念館はそこそこの人出、こざっぱりした感じ。併設の民族資料館には思い出の農機具の数々、懐かしい。2時間の余得。感謝々々。
今度こそはご対面できると思うと心がときめく。取って返して蕎麦処へ。空き地には湘南ナンバーの車もある。午後1時半きっかり、我々5人が最初に入る。中は6人掛けと4人掛けのテーブルが各2脚、それで計20人、但し原則として相席はないとのこと、頑固そのものである。また10歳以下のお子様お断りもしかりである。紹介書には甘皮を残した蕎麦の実を挽いたという、微かに緑を宿すかに思える「せいろ」と「そばがき」が載せてある。「せいろ」5枚と越後大吟醸の「鄙願」を3本所望する。待つこと暫し、2時近くに、酒と蕎麦実・野山の幸が入った5人分の突き出し?がドンと出た。本番前にはかくあるのか、雑味払いか、酒は美味しい。ただ全くクセがない。吟醸香が極めて薄い。これで徳利1本1100円は高いのでは、一致した意見だった。また待つこと暫し、佐々木小次郎の胸中を察する。しかし終にご対面。甘皮を付けたまま挽いた蕎麦粉100%の「せいろ」、姿・形は本とそっくりである。そっと数本口に含む。微かな蕎麦の香り、久方振りに出会った名品。生山葵を含めた旨い淡味のつゆが花を添える。再び「せいろ」3枚と「そばがき」2鉢を追加する。待つこと暫し、「そばがき」が現れた。讃岐彫り様の木皿に、搗き立ての柔らかい餅と見紛う、ブナの新緑を思い起こさせる淡い若草色の「そばがき」が鎮座している。こんな印象はこの62年間にはない。絶品としか他に言いようが無い。「せいろ」よりも蕎麦の香りが良い。と同時にどうしてこんなに均一で滑らかなのか。粉に秘密があるのか、或いは掻き方によるのか、いずれにせよ大収穫であった。本日も振られた11時半と1時半の2回のみ。1日多くて40人。再び挑戦するとすれば、平日か。2,3回振られた人もいるとか、今日はもうお終いですとの声に去る組もあった。
余韻を後に、本日の主行事の蕎麦の草取り土寄せに朝日村へ向かう。信濃町ICから塩尻北ICへ高速道を辿り、1時間半後の4時半きっかりに朝日村古見のもえぎ野に着いた。途中に見えた農園の蕎麦は花盛り。私達のは畝や条の不揃いがあり、種蒔きの濃淡があり、どうなっているかとあれこれ心配したが、どうもそれは一見おいそ目には全く分からず、胸をなで下ろした。それで勇んで農場へ。道端に車を停め、身繕いして農園に入る。農園には我々以外には人影はなく、頃合いとすれば、日中よりはましである。さてと、手入れが終わった先人のをと見ると、かなり人為的倒伏が目立つ。蕎麦は肥料を施したせいもあって、思ったより大きく、しかもはちこっている。丈は50~60cmはあろうか、しかも茎はスカンポのように太く、けれど中空な茎は簡単に折れてしまう。本来ならば草丈30cm位の頃に土寄せしなければならないのに、蕎麦のはちこりで蕎麦が畝の両端からはみ出ていて、草取りが出来ず、草取りは省けたものの、土寄せ自体は難行を極めた。蕎麦の間に潜るので、新たな蕎麦の倒伏は先人の比ではなく、これでは収穫は半減するのではないかとさえ思え、いっそのことしないほうが良いのではという率直な意見が続出し、完全な土寄せは極めて困難との見通しから、作業を中断した。行なった部分的な惨状は会長が自ら記録に留めることにする。作業すること40分余り、滞在1時間で切り上げ、次の目的地の穂高町「上条」へ向かうことに。
運転は大吟醸を召したMr前田に代わってMr塚野が、車では前回小生の不覚で迷い込んだ立派な尻切れ農道の話が一頻り、しかし今回Mr塚野も危うく前車の轍を踏んで、あの袋小路の農道へ迷い込みそうになった。表示板が曖昧過ぎる。高速道を塩尻北ICから豊科ICへ、夕暮れの安曇野を北へ向かう。常念岳が残照に浮かぶ黄昏、会長の先導でご推薦の「上条」に着いた。この建物の外観は洋館、幟がなければ全く蕎麦屋には見えない。案内では8時までのはず、でも灯は落ちており、振られてしまった。
急遽、代役は同じ穂高町の「ひらく」、かの「ふじおか」と同じ紹介書に載っている銘店である。そして閉店間際?に到着。時刻は午後6時40分、早速「特製ざる」3枚、「そばがき」2鉢、つまみに花山葵、酒は冷燗の白馬錦を所望する。「ざる」は細打ち、「そばがき」は田舎風で量は豊か、つまみはセンナの醤油漬し、酒はいわゆる爽やかな本醸造、かれこれ40分ばかり居たろうか、7時半前には帰路についた。安房峠経由で金沢へ、Mr前田の滑らかな流れるような運転で夜をひた走り、11時に帰沢した。走行600kmに及んだ1日もどうやら無事終了した。
2011年8月12日金曜日
奈良探蕎 : 玄(奈良市) と 稜(葛城市)
表記表題の初出は「探蕎」会報第41号(平成20年7月5日発行)で、訪れたのは平成20年(2008)の6月14日に「玄」、6月15日に「稜」である。 「晋亮の呟き」に再録する。
本年前半の行事のうち、探蕎小旅行は奈良・京都方面ということだったが、参加予定者が10名と少なかった上、いつも企画・立案・案内される久保さんが不参加ということで、旅行の実施自体が危ぶまれた。事務局の前田さんでは、会の行事として決めたので、団体でなくても個人でいいから探蕎してきてほしいとのこと、全く自信がなかった。5月25日に湯涌みどりの里で会員そば打ちがあり、会員多数が参加し、6月の旅行に参加を予定している人も8名出席だった。それで当初は団体での旅行の中止を伝えようと臨んだのだが、和泉さんご夫妻から8名だったら私の方で車を用意しましょうとの申し出があり、そこで方向転換、実施することで話を進めることになった。久保さんからは奈良市のそば屋を4店紹介して頂いた。しかし宿はコースが未定なこともあり、参加の皆さんにはアウトラインが決まってからお知らせすることにして、取り合えず帰りに前田書店へ相談に寄った。私はいつもなら蕎麦前を頂くのだが、前日に大腸ポリープを切除して禁酒 を命じられていたこともあって、車の運転は可能だった。
宿は前田さんでは「奈良ホテル」を推奨、電話ではツイン4室ありとのことだったが、仮押さえせずにネット申込みしたものだから、いざ申込みの時点では「空室なし」になっていた。帰宅してネットでいろいろ調べるが、当たったホテルはすべて満室、ただ当初の奈良ホテルに空きがあるようなサインが出たので、今一度前田さんにお願いした。結果として奈良ホテルはノーだったが、程近い「さるさわ池よしだや」をゲットして頂けた。一方、旅行スケジュールについては一切を寺田先生にお願いすることにした。そば屋は初日は奈良では最も古い「玄(げん)」に、2日目は當麻寺門前の仁王門「稜(そば)」とし、そば屋の交渉以外は一切先生に一任ということで旅行はゴーとなった。そば屋2店には、翌日に「石川県の金沢から食べにお伺いするので、何とか便宜を図ってもらえませんか」とお願いしたところ、「玄」では「せいろ」と「田舎」8人分を余分にお打ちしましょうと言って下さったし、「稜」でも確保して置きましょうと言って頂けた。寺田先生のコース取りも決まり、5月31日に事務局の前田さんから参加者全員に「奈良方面旅行のご案内」としてメールが発信された。こうして、和泉さん、寺田先生、前田さんのご尽力で、どうやら旅行が成立することになった。
● 玄(げん) (6月14日)
予約は開店時間の11時30分、白山市番匠を午前6時少し前に出発、寺田先生の水先案内よろしく、奈良には4時間で着いてしまった。開店にはたっぷりの時間があり、先に国立奈良博物館を訪れた。「玄」からは、近くへ来たら電話下さいとのことで、博物館から出るときに電話をした。「県庁の駐車場からだったら、天理街道を南下して、奈良ホテルが見えたら、次の大きな交差点の次の福智院町の交差点を右に折れ、少し進むと右に駐車場がありますから、そこの島崎と書いてある5~7番に車を停めて下さい」とのこと、了解して駐車場を出た。ところが右折禁止で銚子が狂って方角を間違え、天理街道へ戻ってからも交差点を見落として1km以上もオーバーラン、通行人に訊き漸く件の交差点に着いた。でも今度は駐車場の場所が不明、また電話したら、極々近くだった。興善寺の門前の通路には参詣者用の駐車場はあるものの、ここは駄目らしい。寺の門前を左に折れ、狭い路地を直進すると、突き当たりにお目当ての「玄」の暖簾が見えた。予定の10分遅れで着けた。由緒有りげな門と建物と思ったら、隣にある重要文化財「今西家書院」の離れだという。小さな庭は手入れが行き届いている。
上がると3列に座机、既に2組が陣取っていた。玄は久保さんのメモでは、春鹿酒造の後とあり、裏で続いていて隣のようなもの、当然玄でのお酒は「春鹿」のみ、純米吟醸生酒の「しぼりたて」を2合お願いした。実は春鹿酒造という醸造元はなく、正確には「今西清兵衛商店」という老舗の酒銘が「春鹿」、春は春日大社から、鹿は神の使いから、今も春日大社の御神酒を醸造しているという。お酒はギヤマン風の角瓶に入ってきた。値はしっかりと高いが、実に馥郁としていて美味しいお酒だ。
ややあって「せいろ」、2枚ずつ運ばれる。正方形の木枠に竹簾が敷かれ、鶯色のそばが薄盛りにされている。つなぎなしの十割の極細、初めての対面、毎日必要分だけを石臼挽きにするのだという。そばの量は多くない。これだけ細いと、茹で時間は瞬時だろう。これでコシもあり、喉越しも良いのだから、もしそばの香りを最も大事にするのだったら、つゆは水のみでもよいのではと思う。
次いで「田舎」、薄手のくすんだ陶製の浅い皿鉢の真ん中にこんもり鎮座した感じで出てきた。粗挽きで、色はそんなに黒くはない。これは石臼の加減だろう。「せいろ」より心持ち太いようだ。でも細い。ホシは細かい。そして香りはこちらの方がやや濃い感じだ。
最後に「そば団子」、これは前日にもう一度念のため電話した折に勧められたもので、4人前申し込んでおいた。これは予約分のみ当日の朝作るとか、木の盆に2個、練り上げた蕎麦粉の皮の上には黄粉がかかり、中には漉し餡が入っているとか。私は食するのをパスしたが、味の方は如何だったろうか。
これで此処での食は滞りなく終了した。帰りに店主のお見送りを受ける。門から出て狭い路地を歩いていると、やっと見つけたとガイドブックを手にした若いカップルに出会った。「玄」は奈良では最も古い店、とは言っても平成3年の創業、まだ17年、でも店主の島崎さんは関西そば界では、草分け的存在である。
・お品書(税別、単位百円):せいろ・いなか(10),山かけ・おろし・そばがき(12),そば団子(4),酒(春鹿)(15~25).
・住 所:奈良市福智院町 23-2, 電話:0742-27-6868.
・営業時間:(昼)11時半~1時半(入店1時迄),(夜)18時~21時(入店19時迄 蕎麦遊膳のみ).
・定休日:土(夜)と日・月曜日、乳幼児入店お断り.
● 稜(そば)(6月15日)
2日目のコース取りは寺田先生ならではのユニークなもの、宿を出て先ず信貴山朝護孫子寺へ、そして當痲寺と門前の仁王門「稜」へ。車にナビは付いてはいないものの、寺田先生の人間ナビの案内で「稜」へも開店前に到着できた。そして昨日と同じく、先に當痲寺を拝観した。その後開店の11時45分に「稜」へ入った。入ると、左手の小上がりに4人座れる座卓が3脚、右手には檜の自然木の大きなテーブル、店主の片岡さんからはお好きな場所へと言われ、全員一箇所にとテーブルに陣取ることに。我々が最初だった。ここでも蕎麦前を少々頂くことにして、奈良吉野の地酒「花巴」純米吟醸を2合、よく冷えたのが片口に入れられて出てきた。中々癖のない淡麗な酒だ。
程なくして、「せいろ」が伊万里の中皿の真ん中に置かれた円い曲げ物の中に入って出てきた。中細で端正なそばという感じ。手繰って食すると、コシも喉越しもそこそこだが、今少し物足りない。つなぎなしではない印象を受ける。つゆは濃い方だ。そばの量は若干多め。次いで「田舎」、四角な中皿に長方形の枡形が置かれ、そこにこれが田舎そばだという黒いそば切り、粗挽きを思わせる黒いホシが見えている。「せいろ」よりやや太め、やはりそばは綺麗に揃っていて中々端正だ。これは店主の人柄を表している。しかしこちらも強烈なインパクトが感じられない。ということは、自家製粉ではないのではと思ったりする。
量が多いからと、一人「田舎」を召し上がらない方が出た。予め頼み込んであった手前、どうしたものかと店主の片岡さんに相談すると、構いませんと言われた。それより金沢からわざわざお出でて、もしやまずかったのではと、そんな心配をして下さったのには、かえって恐縮した。開店して11年目ですと言われる。中々感じの好い店だった。
・お品書(税込.単位百円):せいろ・田舎・そばがき(10).山かけ・辛味大根(12),酒:花巴(10~20),越の鶴(10),稜特選(15).
・住 所:奈良県葛城市當痲 1256-2. 電話:0745-48-6810.
・営業時間:(昼)11:45~売り切れ迄,(夜)創作料理.
・定休日:火曜日.
本年前半の行事のうち、探蕎小旅行は奈良・京都方面ということだったが、参加予定者が10名と少なかった上、いつも企画・立案・案内される久保さんが不参加ということで、旅行の実施自体が危ぶまれた。事務局の前田さんでは、会の行事として決めたので、団体でなくても個人でいいから探蕎してきてほしいとのこと、全く自信がなかった。5月25日に湯涌みどりの里で会員そば打ちがあり、会員多数が参加し、6月の旅行に参加を予定している人も8名出席だった。それで当初は団体での旅行の中止を伝えようと臨んだのだが、和泉さんご夫妻から8名だったら私の方で車を用意しましょうとの申し出があり、そこで方向転換、実施することで話を進めることになった。久保さんからは奈良市のそば屋を4店紹介して頂いた。しかし宿はコースが未定なこともあり、参加の皆さんにはアウトラインが決まってからお知らせすることにして、取り合えず帰りに前田書店へ相談に寄った。私はいつもなら蕎麦前を頂くのだが、前日に大腸ポリープを切除して禁酒 を命じられていたこともあって、車の運転は可能だった。
宿は前田さんでは「奈良ホテル」を推奨、電話ではツイン4室ありとのことだったが、仮押さえせずにネット申込みしたものだから、いざ申込みの時点では「空室なし」になっていた。帰宅してネットでいろいろ調べるが、当たったホテルはすべて満室、ただ当初の奈良ホテルに空きがあるようなサインが出たので、今一度前田さんにお願いした。結果として奈良ホテルはノーだったが、程近い「さるさわ池よしだや」をゲットして頂けた。一方、旅行スケジュールについては一切を寺田先生にお願いすることにした。そば屋は初日は奈良では最も古い「玄(げん)」に、2日目は當麻寺門前の仁王門「稜(そば)」とし、そば屋の交渉以外は一切先生に一任ということで旅行はゴーとなった。そば屋2店には、翌日に「石川県の金沢から食べにお伺いするので、何とか便宜を図ってもらえませんか」とお願いしたところ、「玄」では「せいろ」と「田舎」8人分を余分にお打ちしましょうと言って下さったし、「稜」でも確保して置きましょうと言って頂けた。寺田先生のコース取りも決まり、5月31日に事務局の前田さんから参加者全員に「奈良方面旅行のご案内」としてメールが発信された。こうして、和泉さん、寺田先生、前田さんのご尽力で、どうやら旅行が成立することになった。
● 玄(げん) (6月14日)
予約は開店時間の11時30分、白山市番匠を午前6時少し前に出発、寺田先生の水先案内よろしく、奈良には4時間で着いてしまった。開店にはたっぷりの時間があり、先に国立奈良博物館を訪れた。「玄」からは、近くへ来たら電話下さいとのことで、博物館から出るときに電話をした。「県庁の駐車場からだったら、天理街道を南下して、奈良ホテルが見えたら、次の大きな交差点の次の福智院町の交差点を右に折れ、少し進むと右に駐車場がありますから、そこの島崎と書いてある5~7番に車を停めて下さい」とのこと、了解して駐車場を出た。ところが右折禁止で銚子が狂って方角を間違え、天理街道へ戻ってからも交差点を見落として1km以上もオーバーラン、通行人に訊き漸く件の交差点に着いた。でも今度は駐車場の場所が不明、また電話したら、極々近くだった。興善寺の門前の通路には参詣者用の駐車場はあるものの、ここは駄目らしい。寺の門前を左に折れ、狭い路地を直進すると、突き当たりにお目当ての「玄」の暖簾が見えた。予定の10分遅れで着けた。由緒有りげな門と建物と思ったら、隣にある重要文化財「今西家書院」の離れだという。小さな庭は手入れが行き届いている。
上がると3列に座机、既に2組が陣取っていた。玄は久保さんのメモでは、春鹿酒造の後とあり、裏で続いていて隣のようなもの、当然玄でのお酒は「春鹿」のみ、純米吟醸生酒の「しぼりたて」を2合お願いした。実は春鹿酒造という醸造元はなく、正確には「今西清兵衛商店」という老舗の酒銘が「春鹿」、春は春日大社から、鹿は神の使いから、今も春日大社の御神酒を醸造しているという。お酒はギヤマン風の角瓶に入ってきた。値はしっかりと高いが、実に馥郁としていて美味しいお酒だ。
ややあって「せいろ」、2枚ずつ運ばれる。正方形の木枠に竹簾が敷かれ、鶯色のそばが薄盛りにされている。つなぎなしの十割の極細、初めての対面、毎日必要分だけを石臼挽きにするのだという。そばの量は多くない。これだけ細いと、茹で時間は瞬時だろう。これでコシもあり、喉越しも良いのだから、もしそばの香りを最も大事にするのだったら、つゆは水のみでもよいのではと思う。
次いで「田舎」、薄手のくすんだ陶製の浅い皿鉢の真ん中にこんもり鎮座した感じで出てきた。粗挽きで、色はそんなに黒くはない。これは石臼の加減だろう。「せいろ」より心持ち太いようだ。でも細い。ホシは細かい。そして香りはこちらの方がやや濃い感じだ。
最後に「そば団子」、これは前日にもう一度念のため電話した折に勧められたもので、4人前申し込んでおいた。これは予約分のみ当日の朝作るとか、木の盆に2個、練り上げた蕎麦粉の皮の上には黄粉がかかり、中には漉し餡が入っているとか。私は食するのをパスしたが、味の方は如何だったろうか。
これで此処での食は滞りなく終了した。帰りに店主のお見送りを受ける。門から出て狭い路地を歩いていると、やっと見つけたとガイドブックを手にした若いカップルに出会った。「玄」は奈良では最も古い店、とは言っても平成3年の創業、まだ17年、でも店主の島崎さんは関西そば界では、草分け的存在である。
・お品書(税別、単位百円):せいろ・いなか(10),山かけ・おろし・そばがき(12),そば団子(4),酒(春鹿)(15~25).
・住 所:奈良市福智院町 23-2, 電話:0742-27-6868.
・営業時間:(昼)11時半~1時半(入店1時迄),(夜)18時~21時(入店19時迄 蕎麦遊膳のみ).
・定休日:土(夜)と日・月曜日、乳幼児入店お断り.
● 稜(そば)(6月15日)
2日目のコース取りは寺田先生ならではのユニークなもの、宿を出て先ず信貴山朝護孫子寺へ、そして當痲寺と門前の仁王門「稜」へ。車にナビは付いてはいないものの、寺田先生の人間ナビの案内で「稜」へも開店前に到着できた。そして昨日と同じく、先に當痲寺を拝観した。その後開店の11時45分に「稜」へ入った。入ると、左手の小上がりに4人座れる座卓が3脚、右手には檜の自然木の大きなテーブル、店主の片岡さんからはお好きな場所へと言われ、全員一箇所にとテーブルに陣取ることに。我々が最初だった。ここでも蕎麦前を少々頂くことにして、奈良吉野の地酒「花巴」純米吟醸を2合、よく冷えたのが片口に入れられて出てきた。中々癖のない淡麗な酒だ。
程なくして、「せいろ」が伊万里の中皿の真ん中に置かれた円い曲げ物の中に入って出てきた。中細で端正なそばという感じ。手繰って食すると、コシも喉越しもそこそこだが、今少し物足りない。つなぎなしではない印象を受ける。つゆは濃い方だ。そばの量は若干多め。次いで「田舎」、四角な中皿に長方形の枡形が置かれ、そこにこれが田舎そばだという黒いそば切り、粗挽きを思わせる黒いホシが見えている。「せいろ」よりやや太め、やはりそばは綺麗に揃っていて中々端正だ。これは店主の人柄を表している。しかしこちらも強烈なインパクトが感じられない。ということは、自家製粉ではないのではと思ったりする。
量が多いからと、一人「田舎」を召し上がらない方が出た。予め頼み込んであった手前、どうしたものかと店主の片岡さんに相談すると、構いませんと言われた。それより金沢からわざわざお出でて、もしやまずかったのではと、そんな心配をして下さったのには、かえって恐縮した。開店して11年目ですと言われる。中々感じの好い店だった。
・お品書(税込.単位百円):せいろ・田舎・そばがき(10).山かけ・辛味大根(12),酒:花巴(10~20),越の鶴(10),稜特選(15).
・住 所:奈良県葛城市當痲 1256-2. 電話:0745-48-6810.
・営業時間:(昼)11:45~売り切れ迄,(夜)創作料理.
・定休日:火曜日.
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